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     一

 

 どうしてこんな事になってしまったんだろう……あれほど何度も心の中で、書かなきゃいけない書かなきゃいけないと、死ぬような思いで強く強く誓って来たはずなのに……なのに俺はまたしても今までと同じように、何度も何度も後悔に後悔を、反省に反省を、自己嫌悪に自己嫌悪を重ねた挙句、やろうやろうと深く決意しつつも結局は締め切りの数日前までただ怠惰に怠惰を、無為に無為を、放蕩に放蕩を重ね、書く姿勢すらろくに取らぬままひたすら非生産的で不毛な毎日を送り、一行たりともまともに進行せずに虚しく月日は流れ、そうして遂には締め切りの三日前まで追い込まれ、そこでようやく原稿としっかり面と向かい合い始め、何とか締め切りまでに間に合わせようと残り少ない時間必死で足掻きに足掻き続けたものの、しかし時すでに遅しその時点でもうどう喚こうが間に合うはずはなく全ては無駄な抵抗に終わり、結果愚かにも全くの未完成の状態で締め切りを過ぎてしまったのである……。

 

いつもそうだ、いつもそうなのだ……今回だけじゃない、前回もそうだし、前々回だってそうだった……俺はまたしても以前と寸分違わぬ全く同じ過ちを性懲りもなく繰り返してしまったのだ……どうしてだろう、どうして本気になろうとしないんだろう……もう後には引けず、これ以外に道は無く、他にやるべき事は何一つ無いというのに……もうこれ以上絶対に引き延ばせない……書かなきゃ……何が何でも書かなきゃ……今度こそは必ず、どんな苦難に見舞われようと、どんな障壁を前にしようと、命を懸けてでも、絶対に、絶対に書かなければ……。

 

 

 

……そう誓った……確かに俺はそう誓った……何度も何度も、そう誓った……しかし、無駄だった……何度決意しようと、幾ら深く誓おうと、同じ事だった……いや、違う、本当は、最初から分かっていたのだ……心の奥の奥の方では、端から目標を完遂させる気などさらさら無かったのだ……今さっき繰り広げたような、一見熱く、深く、固く、必死に見える決意も、実の所これまで何十回、何百回、何千回と数限りなく延々と繰り返し繰り返し胸の中で誓って来ており、そうしてその決意が増えていくのに比例して、挫折の回数もまた同等に数を重ねていくのだ……それは結局、本当の決意では無く、ただ自分を納得させる為だけの、誤魔化しの、まやかしの、自己満足の、形だけの決意……空虚な決意……決意なき決意……。

 

 

 

本当に、何度繰り返せば気が済むんだ俺は……「何度繰り返せば気が済むんだ」という反省を、何度繰り返せば気が済むんだ俺は……同じ過ち、同じ失敗、同じ反省、同じ後悔を、何度も、何度も、何度も、何度も、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し……。

 

ああ、本当に、どうしてこんな事になってしまったんだろう……一体いつ頃から、何を切っ掛けとして歯車が狂い出してしまったんだろう……俺が実家を離れてこの街へとやって来るまでは、まだこんな悲惨な状況では無かったはずだ……何の変哲もない極普通の人間、極普通の人生だったはずだ……何かがおかしくなり始めたのは、あれは確か、そう、俺が大学に通うためにこの街で一人暮らしを始めた、その直後の事だった……思い返してみれば、その頃から既にこの腐敗し切った今現在の俺へと至る兆候が表れ、この凄惨な現状へと向かう軌道に乗り始めてしまっていたのだ……人生の転落の始まり……それは結局の所、故郷を出て一番初めに自分を悩み煩わせた、ある一つの強烈なコンプレックスへと集約されていた……。

 

それはつまり、自身が田舎者であるという事……。

 


 

  

 見渡す限り田畑に覆われ、ビルや百貨店なんて一つも見当たらず、電車さえ十分に走っておらず、近所を歩く人もまばらで、住民同士誰もが互いを知り尽くしてしまってる程の、そんな絵に描いたような典型的なド田舎で育った自分にとって、この街はまるで別世界――それまで自分が見てきたものとは百八十度違い、とにかく目に入るもの全てが新しく、華々しく、鮮やかで、壮大で、まるで異国の地に降り立ったかのような不思議な気分で、街を練り歩く度に驚きや興奮に駆られ、色んな期待が次々に湧き起こり、何処へ行っても何をしても飽きる事が無いと、初めはそんな調子だったが、しかしまたそれは典型的な田舎出の俺にとって、一つの夢であると共に、ある種の脅威でもあった……。

 

これは自分だけじゃないかも知れないが、育ちに強い劣等感を覚えてこの街へと出て来た俺は、どんな場所に来ようが、どんなものを目にしようが、またどんな体験をしようが、決して驚くような反応も興奮するような素振りも見せず、いつ何処で何をしていようと、まるで既にもう飽きるほど見慣れていて、とうの昔から経験済みで、この街がずっと前から馴染みの場所で、もはや全体を知り尽くしてしまってるとでも言いたげな、そんな至って平然とした表情、淡々とした面持ち、冷静な態度を常時装い、己が元々相当な田舎者である事を周囲の人々に悟られまいと必死になっていた……。

 

 この怪物みたいに巨大な都市に出てきた当初、俺は街で見掛けるありとあらゆる人々が、この街についての全てを知り尽くし、この街に昔から住んでおり、この街と上手く溶け合っていて、この街を行き来する資格があり、そんな中自分一人だけが何も知らず、自分だけが余所者で、自分だけが場違いで、自分だけが浮いてしまってるような感覚に襲われ、そうしてそれと共に、道行く人々が皆自分を監視し、自分を疎み、自分を蔑み、自分を見下し、自分を嘲笑ってるかのような酷い被害妄想に囚われ、もしもその際俺がほんの少しでも何か自分が田舎者である事を証明してしまうような失態を晒しでもすれば、その瞬間に周りを歩く全ての人間がいきなり俺を睨み付け、俺を取り囲み、俺に襲い掛かり、俺をリンチし、果てはこの街から追い出されるんじゃないかと、病気のように本気で恐怖するのだった……。

 

何があっても本性は晒すまいと、道を歩く時は可能な限り目を泳がせずに真っ直ぐ前だけを見て歩き、街の雰囲気も造りも道筋も全て完璧に頭に入ってるかの如き堂々とした態度を保ち、たとえ道が分からなくともその場に立ち止まって地図を広げるなんて考えられず(きっと心の中で田舎者と笑われるに違いない、せめてトイレの個室の中に入ってこっそり確認する)、案内図の描かれた看板の前で立ち止まるのさえ耐えられず、その結果道に迷ってしまったとしても、それでも心中の動揺を懸命に押し隠して些かも迷っていないかのような平然とした表情を貫き、ばれてはならぬと虚栄を張ってそのまま振り返らずに少しも歩を緩める事なく淡々と前へ進み続け、その結果さらに訳の分からぬまるで見当のつかない方向へと迷い込んでしまい、最終的に今来た道を戻らざるを得なくなると、それでも俺はただで振り返るような事はせず、何か大事な用件を思い出したとか、携帯を取り出して急用が入ったとか、そんな風に何か特別な理由があるかの如くおもむろに踵を返し、道に迷った訳ではないのだと最後の最後まで見栄を張って少しも恥を掻くまいと奮闘し、結局多大な時間と労力を思い切り無駄にする羽目になってしまうのである(その上どうやら俺は物凄い方向音痴のようで、自分ではちゃんと目的地に向かって真っ直ぐ進んでると思ってるのに、気が付けばいつも全然見覚えの無い未知の場所へと迷い込んでしまっており、そうしてさらに面倒な事に、俺は自分が方向音痴であるのを分かってるくせに、何だか今来た道をそのまま戻るのが心理的に面倒臭くて、鬱陶しくて、癪で、情けなくて、やりきれない感じがして、何故だかそこで意地を張って、無駄なチャレンジ精神を発揮して、このまま目的地に着こうとどんどんどんどん奥へ進み入って、遂にはどうにもならぬ状況へと追い込まれてしまうのである……)。

 

そしてまた、何より困った事に、俺は決して人に道を尋ねる事の出来ない人間なのである……自分が相手に声を掛ける瞬間や、それに対する向こうの反応を思い浮かべると、それだけでもう嫌で嫌でたまらなくなる……怪しがられやしないだろうか、笑われやしないだろうか、迷惑がられやしないだろうか……何だか自分が凄く小さくて愚かで情けなくて惨めな存在に思えて仕方が無い……だから何とか自力で目的地に辿り着こうと、子供のように意地張って悪あがきする(逆に人から道を尋ねられた時も――何故だか俺は人に道を尋ねられやすい、特に外国人――話し掛けられた瞬間にパニックに陥って思考が定まらず、頭が真っ白になり、あやふやな言葉しか出て来ず、そんな不甲斐ない様子を見てか、相手が呆れるような表情を見せ、こっちが言い終わる前に足早に立ち去られてしまう事が多く、たとえ言い終わって礼を告げられても、ちゃんと教えられただろうか、本当にあれで合ってただろうか、間違った事を言っていやしないだろうか、そうやって深く悩み込んでしまう……あの情けなさ、あの惨めさ、あの恥ずかしさ……人にまともに道を教える事さえ出来ないなんて……)。

 

また、電車を利用する際も、路線マップを見ても目的の駅に向かうルートが良く理解出来ず、広い駅だとどこに何線がありどこから入りまたどこから出ればいいのかもさっぱり分からずおどおどしてしまい、さらには電車に乗る際の田舎と都会との仕組みや決まり事などの微妙な違いを把握するのにも時間が掛かり、また地元の駅では電車の本数が一時間に一本あるかないかくらいの非常に稀な頻度だったため、高校の時なんか定時の車両を逃すとその時点で遅刻確定で、電車を利用する際は必ず時刻表をチェックしてから駅に向っていたのに、都会ではたとえ電車に乗り遅れても次から次へと別の車両が到着する事に驚き、わざわざホームで時刻表を眺めてるのが自分だけだったので非常に恥ずかしい思いをした事がある……。

 

 

 

田舎と都会とのギャップは、無論外を歩く時だけで無く、身近な人間関係にも深い影響を及ぼす事となった……。

 

田舎から出て来て大学に通い、より多くの様々なタイプの人と知り合う内、俺は自分が如何に他人と比べて世間知らずで、常識が欠けていて、人生経験に乏しいかを思い知らされた……この年齢なら当然知っているべき事を知らず、出来るべき事が出来ず、経験しているべき事を経験せず、持っているべきものを持たず……そもそも、田舎育ちの人間と都会育ちの人間じゃ経験とそれに伴う知識の差がありすぎて、俺が田舎から出てきた時点で既に大いにおくれを取ってしまっており、彼らは三つも四つも自分の先を行っている……俺が何もかも分からないのに彼らは何もかも分かっていて、俺が知らない世界も彼らは余裕で知っていて、俺が戸惑っていても彼らは涼しい顔をしていて……俺にとって都会育ちの人間は異星人であり、彼らを前にする度に強い劣等感や羞恥心、或いは恐怖を感じずにはいられない……まるで彼らが巨人で自分が小人のようだ、常に上から力強く見下ろされてるような圧迫感を覚えて仕方がない……彼らには何をしても決して適わないだろうと思わせるそんな威圧感、敗北感を感じ取ってしまう……。

 

大学に入って初めてちゃんと会話を交わした同年齢の学生が、最近アルバイトで忙しいという話をし始め、それに対し自分は今まで一度もアルバイトをした事が無いと返すと、彼はまるであり得ないとでも言うような感じで驚き、何だか笑われ、見下され、馬鹿にされるような反応をされ、自分がまるで何にも知らないお子様であるかのような感覚を植え付けられ、表面には出さなかったものの、内心激しいショックと、羞恥と、憤りと、恐怖を感じていた……どんな時であれ、自分の無知が暴露された時の、人間のあの表情、あの言葉、あの態度、あの反応が俺にはたまらない……知らない事を知らないと正直に言えば恥を掻く事になり、知らない事を知っていると言えばそれはそれで後戻り出来ない状況に追い込まれてしまう……俺は相手が何とも思ってないような小さな事でも一々深く気にし過ぎてしまい、そうやって毎日毎日幾つもの葛藤が降り積もって行ったのだった……。

 

人並みに根気を備えた人間なら、たとえ俺のように世間におくれを取っていても、何とか彼らに追い着こうと積極的に他人と交わり、新しい色々な経験に関与し、笑われてもめげず、失敗しても挫けず、恥を掻いても気にせず、努力に努力を重ねて、必死で世間に追い着こうと奮闘するはずなのに、俺はといえば、馬鹿にされる事への臆病な気持ちから少しも前には踏み出そうとせず、むしろ全く逆の発想を取り、そもそも他人と関わらなければ劣等感にも羞恥心にも襲われる事は無いじゃないか、とその様に考え、本質的な問題からは目を逸らし、最も安易で愚かな方向を選び取り、そのまま一直線に逃げてしまったのである……つまり、俺はあまりに馬鹿げた事に、今後の計画もまともに立てぬまま、ただ他人と接するのを恐れる気持ちから、たったの数ヶ月で、大学を辞める、というあまりに飛躍した大胆な行動に出てしまったのである……。

 

怖かった、俺はとにかく怖かった……離れたかったのだ――着実に社会が近づいて来るのを感じるのが恐ろしかった……他の学生と話していても、自分の知らない用語、言葉がどんどん出てきて何を言ってるのか分からず、話に入ろうとしてもどう入れば良いか分からず、下手に話に入ってもただ無知を晒すだけだと考え、むしろ話し掛けられないように壁を作ってしまう……結局、大学を辞めて引きこもった理由は、他人と接する事によって己の無知無能が暴露されるのを恐れる臆病な気持ちからなのだ……しかし、そうやって社会との交わりを怠れば怠るほど、世間との差は広まり、無知は深まり、経験は浅くなり、泥沼に嵌まっていつしか取り返しの付かぬ最悪の状況に陥ってしまう……。

 


 

  

愚にもつかぬ理由で大学を辞めたものの、無論それを両親に告げる事など出来るはずがない――家族一丸となって受験に協力し、大学へ進学し通学する為に要した諸々の費用だって馬鹿にならないというのに、もしも俺が正当な理由も無く一方的に退学したという事が知れ渡れば、一体どんな酷い目に遭うか分かったもんじゃない……本当に、嘘でも誇張でもなく、殺されるんじゃないか、と心底思う……。

 

大学を辞めたあと一番初めに取った行動は、取り敢えずバイトを見つけるという事だった――大学に通っていないなら、せめて自分一人で生活できるくらいの資金源を確保しておかないと、いざばれた時、両親の怒りは永遠に静まらない事だろう……そんな訳で、俺はこんな駄目な自分でも出来そうな仕事が無いか探し始めたのだが、偶然自宅からそう遠くないあるレンタルビデオ店で店員募集の張り紙をしているのが目に入り、これでいいやと適当な気持ちで安易に電話を掛け、バイトの募集を見たと告げると、相手から年齢や今の身分について尋ねられ、俺は無職と言うのも何だから取り敢えず大学生という事で通すと、それから面接の日時を告げられ、そこで電話でのやり取りは終了し、そうして、当日……店へと出向き、そこにいた店員に面接の事を告げると、すると奥から責任者らしき、いかつい顔をした、如何にも人に厳しそうな、むさ苦しいおっさんが出て来て、その人に挨拶を交わすと、その瞬間である――自分のその一連の様子を見て、先方から怒濤の如く、態度が悪い、服装が乱れてる、言葉遣いがなってない、しゃきっとしろ、とか何とか、かなりきつい言い方で、相当でかい声で怒鳴られ、俺は思いっきり出鼻を挫かれたようになり、もうその時点で大分気持ちが萎えてしまっており、そうして本格的な面接が始まると、もう何というか、合格するしない以前の、もはや面接とは言えないくらいの、それはそれは散々なもので、相手から今までバイト経験はあるかと問われた時、そこで無いと正直に答えると印象が悪くなりそうな気がしたので、簡単な軽作業をしてたとか何とか適当に嘘をつくと、接客の仕事はしたことあるのかと問われ、それは無いとありのままに答えると、向こうは、はあ、と、まるで「使えねぇなぁ」とでも言いたげな、思いっきり馬鹿にされたような、呆れるような反応をされ、俺はそれで激しいショックを、羞恥を、憤りを覚え、もうこの時点で終わったのだと確信し、これ以上いても馬鹿にされるだけだと思い、早くこいつの前から去りたくて去りたくて仕方なかったが、それ以後も、もはや人格否定とまで言える程のものの言い方でくどくどくどくどくどくどくどくど……まるで愚痴を聞かされるためにこの場に来たかのようになめられっぱなしで、結局最初から最後まで、ずっと上から見下されるような感じで終わり、採用の合否は後日連絡すると言われたが絶対に通るわけないし、たとえ通ったとしても、徹底的に意気地のない俺はただこの様な社会の極一般的な常識を目の当たりにしただけで心が折れてしまい、どちらにしろ絶対に行かないとその場で誓ってしまったのである……。

 

と、いう訳で、俺はきっと人間関係に気を遣わないといけないような仕事は無理なんだろう、その様に考え、出来れば客を相手とせず且つその場で仕事仲間とも縁の切れるような、そんな仕事が望ましいと考えた結果、それはもう日雇い派遣のバイトくらいしかないと感じ、登録する為に近くの派遣事務所へと足を運び、ドアを開き、すみません、と声を掛けると、そこで出て来たのが……もう、何と言うか、どこのヤンキーだよと思うような、金髪、色黒、ピアスと、三拍子揃った、小汚い、腐ったマグロみたいな目をした、薬でもやってそうな若い女で、さらに周りを見渡せば、他の従業員もまた同じような種族の方々ばかりで、ここは一体どんな基準で雇いまたどんな教育を施させてるのだろうと、いきなり先制攻撃を食らった感じだったが、その後、何も説明されぬまま取り敢えず椅子に座らされ、目の前のスクリーンに仕事内容やシステムなどがえらく漠然と描かれた物凄く完成度の低いちゃちなビデオを見させられ、それ以外まともな説明も何一つ受けぬまま、え、これだけで良いの? と思うくらいささっと簡単に帰され、結局最後まで自分への対応は酷く、粗雑で、適当で、散漫なままであった……そうしてそれから二、三日後、夜中に仕事の連絡が入り、翌日、昨夜告げられた集合場所へと向かうと、まだそこには誰もおらず、早く来すぎたのかと思い、適当に辺りをふらふらさまよっていると、すると知らず知らずの内に案の定道に迷ってしまっており、一応何とか元の場所へと戻ったのは良いもののやはり誰もおらず、おかしいと思って確認の電話を入れてみると、そもそも俺が根本的に集合場所を勘違いしてたようで、結果一番気を付けて一番早く行動していたはずの自分が、バイト初日でいきなり遅刻という形になってしまい(俺は遅刻して怒られるのが嫌なため、予定が入ってる場合は非常に神経質に、慎重になって必ず事前に道を地図でチェックし、何度も何度も確認を取って出来る限り早めに起きて家を出るのに、なぜか道に迷ったり、急に色んな問題が出て来たり、早く着きすぎたと思ってモタモタしたりで、結局目的地に着くのは誰よりも最後になってしまうのである……余談だが、中学校の入学式の日、やはり早めに到着したにもかかわらず、その辺をうろちょろしてたら遅刻という形になってしまった)……肝心の作業の方はというと、何分初めてという事で、何処に行けばいいか、何をすれば良いか、何も分からず右往左往し、ぜぇぜぇ言いながら倉庫の中を駆け回り、周りはがたいの良い人ばかりで、自分だけ始終注意を受けてばっかで、クタクタに疲れ果てたものの、それでもこれといって重大なミスを犯したり、激しく怒鳴られたりする事もなく一応無事に終え、体力的にも何とかやって行けそうな気がし、働いた事への満足感や充実感が残った……が、しかし、それから数日後……。

 

朝、目を覚ますと、事務所から唐突に連絡が入り、今から指定する場所へ行って欲しいとかなり無茶な指令が下され、気の弱い自分は断る事が出来ず、急いで言われた通りに支度をして現場へと向かうと、そこには同じ仕事のメンバーと思われる人が何人かいて、その数分後、依頼を出したと思われる業者の車が到着し、何も説明されぬまま車内に乗せられ仕事場へと連れて行かれたのだが……どうやらそれは引っ越しのバイトらしく、自分は今朝になっていきなりここに呼ばれたばかりにもかかわらず、作業に関する方法も知識もアドバイスも何の説明も無いまま、唐突に作業は開始されたのである……これが、ホントにきつかった……尋常じゃない苦しさだった……本当に、気絶するんじゃないかと思った……人生でも一二を争う過酷さだった……次から次へと、誰かと競争でもしてるのかと言いたい位に、ほんの一瞬でも手を休める事は許されずに、持ち上げるのがやっとの重い荷物を凄まじいペースで気が遠くなる程に延々と運び、そうしてまた何より厄介な事に、引越し業者側の若い二人の男が、これまたどこのヤンキーだよと思わせるような、あまりに柄の悪い、目つきの悪い、言葉の汚い、人使いの荒い、もう見るからに学生時代いじめとかカツアゲとかしてたような、そんなチンピラ風の奴等で、彼らにとっては、こっちの体力の有無あるいは経験の有無などそんな事情は知ったこっちゃないのだろう――やり方が分からずほんの少しモタついてただけで、一人の男がいきなり俺の胸倉を乱暴に掴んで引き寄せ、額を擦り付けてグッと睨み付けながら、お前ふざけてんのか、モタモタしてんじゃねぇよ、ちゃんとやれ、ぶっ殺すぞ、と凄みを利かせて脅し掛かってきて、もはや引っ越し屋さんでも何でもなく完全に単なるヤクザで、それからも事あるごとに冷酷な罵倒を浴びせられ、奴隷のように扱われ、俺はあまりの作業の激しさに、呼吸は上手く出来ず、吐き気を催し、目眩に襲われ、筋肉が痙攣し、その場に倒れそうになり、もう死んでしまうんじゃないかと本気で思った……あまりにも作業が過酷で、気分も悪く、自分らへの態度が酷いため、いっそこのまま逆切れしてずらかってしまおうかと何度も真剣に考えた……移動のトラックの中でも、相手を自分より下等な種族の人間と決めつけて掛かるように、滅茶苦茶偉そうな、横柄な、見下した態度を取られ、さらにはまた、こっちがあまりに気分が悪く途中で倒れてしまうのではと思い、念の為その事を伝えてみると、二人は心配するどころか、むしろ俺が苦しんでるのを楽しむかの如く悪魔のような笑みをニヤニヤ浮かべながら笑い合っていたのである……しかしまた、彼らは自分の前では鬼のような表情で罵詈雑言を浴びせてばかりのくせに、そこに顧客の姿が現れるや否や、一瞬にして表情が和らぎ、腰は低くなり、声は穏やかになり、まるで礼儀の正しいさわやかな好青年といった感じに変貌し、にこやかな、朗らかな、自分にはとっては酷く嘘臭い態度で挨拶を交わしており、自分はそのあまりの急激な変わりように心から驚き、何だか気味悪く、恐ろしく、不可解に思った……どうしてそんなに抵抗なくすんなりと自分自身を瞬時に切り替える事が出来るんだろう……たとえどんな状況に追い込まれようとあそこまで極端に変身する事は出来ないような気がする……何だかある種社会の本質を目にしたような気分になる……ああやって対する相手によって器用に態度を入れ替える事が社会人としての常識的な身振りだとすれば、それが出来ない自分は社会に出る資格は無いという事になる……何だか絶望的な気分である……。

 

挙げ句の果てに、帰りには土埃まみれのトラックの荷台に汚い荷物と一緒に無理矢理押し込まれ、どこだか見当の付かぬ全く見知らぬ場所で一方的に強引に降ろされ、結局最後の最後までまるで人間扱いされず仕舞いであった……近くの駅まで疲労困憊の体でとぼとぼ歩いて帰り、家に着いた頃にはもう真夜中で、腕が全く上がらない程に疲れ切り、メシもろくに入らず、すぐにその場に倒れ、翌日には酷い筋肉痛に襲われ、一日通して本当に最悪の出来事だった……。

 

今でもあの時を思い出すと心から嫌な気分になる……あの二人を死んで欲しいと思うくらい心底憎らしく感ずる……しかしまた、徹底的に俺を犬のように扱った奴らを憎らしく思うと共に、奴らがあんな過酷な肉体労働を毎日のように平気でこなしているのかと思うと、己の余りの無力さに絶望的な思いがし、自分自身をもまた憎らしく思った……引っ越しの時にもう一人いた、一見ひ弱な感じのする派遣側の青年は、俺と同じように怒鳴られる事はあったものの、基本的には始終平然とした様子で作業を続け、俺のように気分が悪くなったり、弱音を吐いたり、愚痴を言ったりする事も無く、自分が例の二人について聞いても、まぁそんなもんだよと、こんな扱いが当たり前であるという風に素っ気なく返された……。

 

俺は昔から、自分が人より根性のある側の人間だと思い込んでいた……すぐに弱音を吐く他人を見て情けないと感じていた……不真面目な人間、怠惰な人間、働かない人間を軽蔑していた……実家に住んでいた頃はむしろ、それまで労働社会との接触を持った事が無く一度も自分でお金を稼いだ事が無い事実への劣等感もあって、労働に対して憧れのような気持ちを抱え、とにかく早く自立したいと思い、肉体労働なんて難なくこなせると軽く考えていた……しかし実際はまるで逆――他の労働者の迅速さ、的確さ、力強さに驚き、如何に自分に体力が無く、根気が無いのかを思い知らされるだけだった……俺みたいなドジ野郎は、たとえ単純な作業を淡々と繰り返すだけの簡単な労働でも、とにかく集中力が全くないから、幾ら気を付けようとしてもふとした瞬間に気を抜き、別の事を考えてしまい必ずどこかでミスを犯すに決まってるし、もしもそのミスによって何らかの大きな問題へと発展してしまうかもしれないと思うと、もうとにかく怖くて怖くて不安で不安で働くなんて出来やしない……そりゃあ誰だって初めは失敗に失敗を繰り返し、何度も上司や客に怒鳴られながら少しずつ少しずつ成長していくものなのかも知れないけども、俺みたいに極度に臆病で神経質な弱虫は、たった一回でもミスによって人から怒鳴られたり笑われたりする事に耐えられないのである……他人からほんの少しでも怒られたりしただけで、果てのない谷底へと突き落とされたように、もう取り返しは付かないんじゃないかと思ってしまう程に、激しく落ち込んでしまう……人にとってはどんなに簡単に思える仕事でも、俺は作業にも人間関係にも常人の何倍も何十倍も気を遣わなくては人並みにやっていけず、ただ単に社会に出て働くという行為自体が無限の苦痛に感じてしまい、自分自身の欠陥だらけの性格によって押し潰されてしまいそうになる……。

 

結局、仕事に必要な諸々の道具や作業着やらを自費で買わされた挙げ句、働いた報酬からも何だか不透明な諸費用を差し引かれて、過酷な労力に対して支払われる賃金があまりに分が合わず、本当は俺みたいに集中力も腕力もコミュニケーション能力もない人間は、出来ればティッシュ配りだとか看板持ちだとかそういう肉体的にも精神的にも楽な仕事が良かったのだが、そういう簡単な仕事はどうやら野郎共よりか弱い女の子の方が優先されるらしく(女子め!)、結局根性の欠片もない俺は、その経験を境にもうアルバイトをする気力を一切失ってしまったのである……その結果、俺のアルバイト人生は一週間も持たぬ間に終了の合図を告げてしまったのだ……。

 

そうしてその後、一応こんな自分でもまだ出来そうな仕事を探してはみたものの、どうも見つかりそうには無く、結局、腕力も器用さも人間関係力も必要とせず、家に引き籠もりながらでも出来るような職業を考えた結果、俺はある一つの結論へと至った……。

 

小説家……。

 


 

    四

 

かようにして、あまりに馬鹿げた経路を辿った挙げ句、俺の作家志望生活が始まりを告げたわけだ……作家志望、と言えば聞こえは良いかもしれないが、それは詰まる所、ただ単に、ニートである……ただのニート……いいや、ただのニートではない――ニートでありながらも、ニートである事を家族を含め誰一人にも打ち明けず、学費と称して送ってもらった金をそのまま生活費にあて、周囲を騙しながら姑息に生活するという、ニートの中でも最悪のニート、底辺の中の最底辺、クズの中のクズである……結局のところ作家志望なんていうのは、俺のようなニートの、引きこもりの、社会不適応者の、体の良い隠れ家、自分の置かれた立場を正当化しようとする狡猾な手段、言い訳、現実逃避、最後の逃げ道に過ぎないのだ……せめてちゃんと自分で働いてお金を稼いだ上で時間を見つけながら執筆活動をするならまだしも、自分では全然働かずにただ親の金を騙し取ってメシを繋ぎ、就活という名の非現実的な執筆生活を送る日々……作家としての資質以前に、人間としての資質に欠けているではないか……。

 

大体、お前が今まで一遍の小説を最後までまともに読み通した事があったか……? 読んだ事のある小説と言えば、学校の教科書に載ってるものと、読書感想文の題材、それだけ……書店に立ち寄って小説に手を伸ばす事なんてまずあり得ず、どんな小説がありどんな作家がいるかなんてまるで知らない……小説なんて自分には全く関係のないものと思ってた……たとえ読もうと思って手に取ってみても、ページを開いて冒頭の部分に目をやった瞬間に、何だか妙に胸の辺りがムカムカして来て、頭が割れそうな程に痛くなって来て、手がぶるぶる震えて来て、本を破り捨てたいくらい苛々して、そうして三秒も持たぬ内にすぐに手元から放り投げてしまうのがお決まりである……結局本編は早々に投げ出して一気に結末や解説の部分まで飛び、そこに軽く目を通しただけでもう読んだ気になってやがる……。

 

そもそも俺は文字を追うという行為自体が昔から物凄く苦手だ……エッセイとか伝記物とかだったらまだしも、文字を追う事によって架空の物語を理解するという事が子供の頃から極度に苦手で、何度読み返しても全く頭に入って来ないのである……集中力が無い為に、本を読んでる内にいつも関係の無い別の事を考え始めていて、たとえ文章を目が追っていてもそれはただ文字の表面を視線が空しく流れていってるだけで、そこに描かれてる内容は頭の中に少しも入っておらず、結果一つの箇所を二度も三度も読み返し、一冊読み終えるのに物凄く時間が掛かってしまい、課題で出された本を読み終えるのはいつも自分が最後だった……一読者にさえまともになれぬお前が、ましてどうして書き手に回るなどという無謀な考えに至ってしまったのか……。

 

ああ、こんな事になるのなら、要らない決断力を発揮せず、素直に大学に通い続けてれば良かったのだ……本当に、何て下らない理由で学校を辞めてしまった事だろう……実家から電話が掛かってくる度に、ばれたのではないか、ばれたのではないかと酷く怯え、実家に帰省する度に、大学を辞めたのが暴露されぬように事前に頭の中で幾つもの有りもしない嘘を考え出し、こう切り出されたらこう返す、こう問われたらこう答えると、周到に用意しておき、実家へ帰ってから自宅へと戻るまでの数日間、常に最大限の緊張と不安の中で過ごすのである……。

 


 

 

今までの人生を思い返してみると、自分がこうしてニートという身分に陥ったのも一つの必然のような気がして来る……。

 

俺は幼い頃から通常の子供が持つそれとは比べものにならない位に甘えん坊で、怠け者で、我が儘で、自分勝手なクソガキだった……末っ子である事の特権を遺憾なく発揮し、面倒な事は全て兄と姉に押し付け、自分は甘くて美味しい部分だけ狡賢く頂き、その事に感謝の気持ちや申し訳ない気持ちを些かも持たず、それどころかむしろ自分の方が正しい、自分の方が被害者であるかのように振る舞い、ちょっとでも気に入らない事があるとすぐに癇癪を起こし、滅茶苦茶に泣き喚いて己の主張を強引に押し通そうとする――まるで自分が世界の中心かの如く振る舞い、正に小さな暴君であった……本当に俺は、聞けば引いてしまう程の酷い甘えん坊だったような気がする……甘えて、甘えて、怠けて、怠けて、遊んで、遊んで、家事の手伝いなんて一切やらず、そんなもの自分以外の人間がやるのが当たり前だと思っていた……。

 

自分の事なのに自分では何も考えず何もやらず、ただ周りが勝手に動いてくれるのを待ち、与えられたものをそのまま受け取る癖が身に付き、何事にも受動的なあり方に慣れてしまっている……人に言われない限り自分からは決して何もしない……本人がやる必要の無いものは全て親任せ、他人任せ……大学に進学する際だって、俺は自分では特に何も考えず、全て親の判断に任せっきりで、確かに俺は一応まともな大学に進学する事は出来たものの、それは決して自ら積極的に志願した訳では無いし、努力の賜物という訳でも無く、ただ両親や教師や友人など周囲からのプレッシャーや彼らへの見栄だけで、つまりは自身の将来について真剣に考えずただ世間の基本的な流れに乗っかっただけで、その重要性や意義も深く考えず漠然と何となく勉強したために、試験に合格してからは受験勉強で覚えた事なんて全て忘れちゃったし、もう勉強なんてこれっぽっちもする気になれない……。

 

合格してからも、大学に通う為の手続きや一人暮らしを始める上での諸々の手配も全部面倒くさいし鬱陶しいしややこしいから、やはり何もかも全て親任せにし、俺はただただ怠けて何も考えず、ひたすら親の指示に適当に従うばかりだった……部屋探しでさえもやはり俺はほとんど関与せず、ただ親が探してきた物件に対し返事をするだけで(住めればどこでも構わなかったしあまり興味も無かった)、不動産屋、管理人の仔細な説明も何を言ってるのかよく分からずボケーっとしており、全て親が受け答えをし、そこでも俺ははぁはぁと適当に頷くだけで、ただ親に言われた事をその意味も考えずに事務的にこなすだけだった……引越しの際、俺があまりにやる気を見せずだらだらと動き適当な返事をよこすばかりだから、到頭親父がキレて頭をパコンとぶん殴られてしまった……こんな人間が親元を離れれば、こんな事態に陥るのは分かり切った事だったのだ……。

 

 

 

俺がこんな典型的な生活無能力者に成り果てたのは、父の厳しさと母の甘さが絶妙なバランスを保ってしまったからなのだろう――独断的な父は俺の意向を無視して何でもかんでも一人で勝手に決めてしまうし、過保護な母は普通なら子供一人でやらせるべき問題を勝手に片付けてしまうし、どちらにしろ両親は俺一人に何かを任せようとはしなかった……厳格な父の存在によって俺はこんなにも臆病で、こんなにも神経質で、こんなにも女々しく、こんなにも引っ込み思案な大人に成り果ててしまい、また過保護な母の存在によって俺はこんなにも怠惰で、こんなにも世間知らずで、こんなにも幼稚で、こんなにも出来の悪い無能者へと成り果ててしまった……。

 

自分はまだ二十歳だ……二十歳……! 俺は自分の年齢を確認する度に一々驚きを覚えずにはいられない……こんなにも無気力で、こんなにも覇気が無く、こんなにも活力が無く、こんなにも幼稚で、こんなにも愚かな二十歳など他にいるのだろうか……俺は知らず知らずの内に自分の年齢を詐称しており、自分が成人である事の自覚が無く、未だ中学生であるかのような意識で生活している……テレビに映る人の年齢を聞いて、最初は何も気付かずにいたけども、自分と同じ年齢だと気付き、自分とその人間の内外におけるあまりの隔絶に驚愕し、彼らが自分より遙か年上で、自分が遙か子供に思えてならない……しかしまた、俺は自分自身が分別のない小さな子供のように見えると共に、逆に人生のほとんどを終えた枯れ切った老人のようにも思える……ある部分においては物凄く幼いけども、またある部分においては物凄く老いてしまっている……ずぼらな自分は見た目や雰囲気が妙に老けてしまってるように見えるだろうから、自分の年齢を人に伝える際にいちいち強い抵抗を覚えてしまうし、きっと相手は俺を三十四十くらいに思ってるに違いない、俺の本当の年齢を伝えれば、絶対に一瞬驚くような反応を見せるだろうし、心の中ではどうせ笑われてるんだろう……。

 



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