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     一

 

Kはとにかく働かない男である……Kは子供の頃から何に対してもひたすら無気力で、怠惰で、散漫で、適当で、覇気がなく、集中力、忍耐力がことごとく欠乏しており、如何なる際もやる気なくダラダラと面倒臭そうに取り掛かり、将来の夢や大きな目標を真面目に考えたことさえ一度もなく、彼はただ如何に楽をし、如何に労力を温存し、如何に怠けると共に日々の雑事をやり過ごすかを第一とし、小、中、高、いずれの学校においても何か熱中する対象を見つけたことはなく、家に帰ってもゴロゴロと適当に漫画やゲームをして人生の貴重な時間を浪費するだけで、生産的、建設的、有効的な時間を過ごそうという気持ちさえ端からなく、そもそも彼にとって「有意義」とは、出来るだけ労力を要しない怠惰な時間を過ごすことにすぎないのである……彼が何か一つの事柄を長期間にわたって継続出来たことがあっただろうか――断じて否……彼の辞書には努力、忍耐、精進などというような向上心あふれる言葉は一つとして収録されておらぬ――勉強もスポーツも、家事も労働も、とにかくほんのちょっとでも疲労や苦痛の伴うような行動は何もかも全部大嫌いである……。

 

しかしまた、Kは他人と比べて諸々の能力が必ずしも引け劣ってるというわけではない……というより、結果や成績として表れる数字の部分だけを見てみれば、Kはむしろ平均をかなり上回っており、普段は見るからに怠け者、些細なことですぐに音を上げる根性なしにもかかわらず、ここ一番という状況においては、なぜかしら平生では考えられない程の物凄い実力を発揮することがある……日頃は自分から体を動かすことなどまるでないにもかかわらず、マラソン大会の日には校内でもトップクラスの結果を出し、授業も聞かず宿題もろくにやってこないにもかかわらず、試験ではクラスでも一二を争う成績を残すことがある……日頃の酷いダメ人間ぶりと種々の競争の中で見せる優秀な結果との隔たりに誰もが驚きを隠し得ず、時には何か不正を行ってるのではと真面目に疑われることさえある程である……とはいっても、無論テストに関していえば何もこれっぽちとさえ準備をしてないというわけではない――例えば高校時代を振り返ってみれば、彼は確かに日常的に課題をこなさず忘れ物も多く、授業中の居眠りもしょっちゅうで、毎日のように怒鳴られたり立たされたり、クラスメートからは道化のように捉えられたりと、授業態度は散々だが、にもかかわらず試験の結果だけはことごとく優秀である……が、その勉強法というのもまた、決して褒めたり推奨したり出来るような類のものではない――一ヶ月程前から既に試験勉強に取り掛かっている生徒はざらだというのに、Kは一週間ほど前になってようやく試験というものを少しずつ少しずつ意識し始め、といってもそれは飽くまでただ心理的な照準を当日へ向けて合わせていくというだけで実質的な勉強にはまだ踏み出さず、むしろそれは残された僅かな時間を如何に効率的に怠け、如何に有意義に休憩し、如何に円滑に遊ぶかを綿密に算出するための怠け心から来る姿勢であって(彼はたとえどんなに困難と思える問題が目の前に佇もうと、限界ぎりぎりまで追い込まれない限り決して体の動かない人間で、すぐに立ち向かうことはあり得ず出来るだけそこから目を逸らそうとするばかりで、しかしまたそれが如何にただ怠けているだけのように見えても、実際のところ彼の中ではその難題の解決へと向けて着実に充電し、徐々に気分を高め、知らぬ間に時間を調整し、最短ルートを模索し、彼なりに精一杯、懸命に、必死で怠けているのだ……)、実際的に試験勉強へと向かうのは本番およそ三日前まで追われてからであり、それは一定の水準を超える成績を残すにはあまりに遅すぎると思われるが、しかし、Kは勉強期間に突入したその瞬間、勉強の鬼と化す……普段は何事に向けても集中力など欠片も見られないのに、その約三日間だけは異常な集中力を発揮し、朝も、登校時も、授業中も、休憩時間も、昼も、放課後も、下校時も、夜になってからも、誰の声も耳に入らぬ程に教科書にかじり付き、彼の脳みそは種々雑多な語句や数式で満ち溢れ、他の何事にも一切興味を示さず、今の彼はもはや勉強を目的として作られた一つの機械である……そうして当日、彼はテストを受けてる最中も全神経全集中力を総動員して取り掛かり、一旦書き終えても答案用紙を隅々までチェックし、どんな小さなミスも逃すまいと目を大きく見開きながら用紙を貪り尽くす……そうして、最後のテスト、その終了のチャイムが鳴り響いた、その瞬間、Kはまるで電源を切られたかのようにバタンと机にひれ伏し、灰のように真っ白になり、しばらくの間肉体が機能しなくなり、それからおよそ一週間に掛けて、この勉強期間に放出し尽くした気力、体力、集中力を取り戻さんとするばかりに、まるで魂の抜けたように、もぬけの殻のように、木偶の坊のように、阿呆のように床にひれ伏し、ベッドにひれ伏し、机にひれ伏し、正にナマケモノのようにぴくりとも動かず、最大限に無気力な生活を送るのである……。

 

彼は時間的な努力の度合いとそこから発揮される結果に最もギャップのある内の一人だろう……ぎりぎりまで追い詰められ、ぎりぎりの努力をし、ぎりぎりの結果を残す……こうして彼は幾つもの人生の難所をぎりぎりで乗り越えてきたのである……。

 

 

 

多くの生徒が卒業後の進路について真面目に思案してる中、Kの頭の中には自身の将来像なんてこれっぽっちとさえ見えやしない、というより、単純に、興味がない……おかしな話だが、自分の将来であるにもかかわらず、自分では少しも関心がない、気にならない、どうでもいい――それは決して夢が持てないとか人生の目標を見出せないとかそんな悲観的な人生観に基づくものではなく、逆に今を生きるだとかどうにかなるだとかそんな楽観的な人生観に基づくものでもなく、本当に、ただ単純に、生まれ持った性格として、興味がないのだ……悲観的でも楽観的でもなく、ただただ何も考えないという希有な虚無主義……Kの未来に関心があるのは、K本人ではなくKの周りの人間――自分では何も考えないのだからただ周囲の人間の言葉を鵜呑みにするしかなく、結局彼は両親の言葉をまるで他人事のように聞き入れ、それに素直に従い、これまで試験の際に用いてきた勉強法を長期的に応用して受験勉強に臨み、結果、またしてもKはぎりぎりで大学に合格することが出来たのである……。

 

ここまではまだ許容範囲内であろう、如何に彼が日頃怠け者で、ずぼらで、意志薄弱で、無気力であろうと、最も集中しなければならない真に重要な場面においては、その過程がどうあれ超えるべき最低条件はしっかりとクリアしているのだから、結果的には何も問題はないはずである……問題はこれからである……。

 

 

 

熾烈な受験戦争を勝ち抜け、無事大学に合格し、実家を離れて一人暮らしを始め、いよいよ大学生活が幕を開けんとし、一見何事も問題はなく未来は明るいように見えたKだが、しかし、実はこの時点で既に、これまで特に支障なく順調に進んできたKの人生に、早くも転落の兆しが表れ始めていたのである……というのも、彼は今回のこの大学受験という今までにない壮大な試練を乗り越えたことによって、彼の体内に貯蓄されていた数少ない気力、体力、集中力、忍耐力、ありとあらゆる精神力を消費し尽くし、もはや回復不可能なまでに完全燃焼し切ってしまい、遂にはこれ以上一切前進することの出来ない程の、全く使いものにならないぼろぼろのポンコツへと成り果ててしまっていたのである……。

 

講義が始まっても彼はろくに出席せず、だからといって若者らしく色々と遊び回ってるわけでもなく、ほとんど部屋から出ずに一日中床の上をゴロゴロと寝転んだり、気の抜け切った表情で何もせずただぼーっとしたり、全く以て無意義な時間を過ごしているばかりで――これまで彼が呼吸をするように付き合ってきた「怠惰」は、何も全く意義のない「怠惰」なわけではなく、例えばそれは体を休めるための怠惰であり、集中力を高めるための怠惰であり、本番に向けての怠惰であり、つまりは必要悪としての、高い目標を達成させるための避けられぬ怠惰であったが、しかし、今回の怠惰に至っては、何の進歩も有効性もない、ただの怠惰、無用の怠惰、後ろ向きの怠惰、正真正銘の怠惰、怠惰の為の怠惰……詰まるところ、今の彼は、ただの「駄目人間」である……。

 

身の回りのことは全て人任せにしてきたKにとって、料理やら洗濯やら掃除やら、自分の生活を全て自分でこなさなきゃいけないという状況はあまりに過酷であり、自分が一人の大学生としてやらなければならない諸々の問題を考えると、ただそれだけでもう何もかも投げ出したいような自暴自棄な気持ちになってくる……さてどうしたものか……結局、彼が出した結論は、こうである……「大学を辞める」……彼はあろうことか、後先考えず、場当たり的に、衝動的に、完全なる独断によって、退学届けを出してしまったのである……あれほどの苦労をしたことを惜しがる様子もなく、ただ単に大変だからとか自分には無理とかいう小学生みたいな動機から、あっさりと大学生活に見切りを付けてしまった……という訳で、彼は今ただの無職である……何も知らない実家からは当然定期的に電話が掛かってき、その度に彼はありもしない嘘を並べ立て、必死で誤魔化そうと試みる……それも何度か続けてる内に、いくら阿呆のKといえども、このままじゃ流石にまずいと多少なりとも危機感を覚え始め、そうして取り敢えず学校を辞めた罪への緩和剤の一つとして、アルバイトなるものを始めてみようと思い立つ……が、それは家事の手伝いさえろくにしたことのないKにとっては、全く以て未知の領域であった――何をやっても、どこに行っても、ことごとく失態を晒す、毎秒のように怒鳴られる、何でもないことですぐにくたびれる、そうして内外ともにへとへとになって家路に就く……散々な目に遭った挙げ句、それと引き替えに得るのは小遣い程度のちゃちな金……こりゃあ割に合わない、こんなにきついなんて聞いてない、働くということ自体自分には向いてないんだ、ということで、案の定三日ももたずにまたあっさりと辞めてしまったのである……。

 

両親に対しずっと誤魔化し続けてきたKだったが、しかしいつかはばれる日が来るのだし、このまま嘘をつき続けるのもしんどいし、どうせばれるんだったら自分が言いたいときに言った方が良いだろうと、何だかもう好い加減な、投げやりな気持ちになってきて、遂には打ち明けることにした……その夜、母から電話が掛かってくる……いつもと何も変わらぬ調子で、学校の方はどうなのと聞かれると、それに対しKは、何の躊躇いも悪そびれる様子もなく、ただ淡々と、素っ気なく、ありのままに一言……「辞めた」……「え……?」……「学校辞めた」……意味が分からぬ、全く以て意味が分からぬ、一種の思考停止である、脈絡を無視したKの不意の発言に母の思考回路が追い付かぬ、「辞めたって、どういうこと?」、「学校、辞めちゃった」、「え、は、何、え、なんで?」、「いや、何か、行く意味が感じれないというか、まあ、何となく……」以下略。

 

母は激怒した、激怒して、呆れた、呆れて、落ち込んだ、落ち込んで、後悔した、やっぱりあの子を一人にさせたのが間違いだったと、そう後悔した……しかし、もうやってしまったものはどうしようもない、このままKを放っておくわけにもいかない、ただ家賃やら光熱費やら食費やら無駄に取られるだけ、取りあえず今住んでる部屋を解約し今すぐ実家へと帰らせ、それからじっくり話を聞いてみっちり絞り上げることとしよう……Kのニート生活の始まりである……。

 


 

     二

 

時代の問題なのかどうかは分からぬが、少なくともKの家庭においては男よりも女が強い――家庭内の実権を握るのは父でなく母である……経済面でも教育面でも先導するのは母であり、家庭のルールを規定するのも子供を厳しく叱り付けるのも母であり、夫婦の性格を比較してみると、妻は気が強く、男勝りで、屈強で、行動的で、しっかり者の性格で、それとは対照的に夫は昔から気が弱く、女々しく、大人しく、神経質且つだらしない性格であり、ある意味ここまでバランスの取れた夫婦も珍しいと思われる……父権主義が凋落した現代を象徴する新たな夫婦像と言えなくもない――そうはいったって、父だって一度くらいは主導権を得てみたい、亭主関白を味わってみたい、父としての威厳を見せ付けてみたい、そう思って何度も奮起し、思い切って自分の言い分をぶちまけ、主君然とした態度に出てみようとするものの、妻だけでなく子供にさえまともに相手にされず、いつもつまらない冗談みたいに軽く受け流されてしまう……びしっと子供に言って聞かせようと思っても、根が穏和な性格なので子供をきつく叱ることが出来ず、それどころか怖い声を出すことすら出来ず、さらには、悪気があるわけじゃないのに怒られて泣いている子供を見ると可哀想で可哀想で仕方がなく、結果、ちょっとしたことですぐに甘やかしてしまう、一緒に遊んでしまう、だから子供は父の言うことなんて聞かない、父の注意は上手い具合にずる賢くきれいに丸く収められてしまう、もはや彼は従来の父としての機能を些かも果たしていない……しかしまぁ、その代わり子供は母より父になつくのだが……。

 

今回の問題に関しても、やはり深く気に掛けるのは父でなく母の方である……Kの帰郷が一段落ついた後、母はKを目の前に正座させ、厳しい口調を以て改めて問いただす、

 

何で学校を辞めたの?

 

 いくらこの子だって、何も単なる怠け心から学校を辞めた訳じゃないだろう、そんな馬鹿な理由でこんなことしでかす訳がない、何か他にもっと重大な、止むに止まれぬ事情があったはずだ……しかし、Kは母の問い掛けに対し、膝を崩さんばかりにうなだれたまま、何か酷く落ち込んでるような面持ちで、まるで何も聞いていないかの如く黙ってるばかりである……母は畳み掛けるように厳しくKを問責する――一体何考えてんの? この後どうするの? 一生フリーターでもやるつもり? ねぇ何とか言いなさいよ……Kは答えるどころかさらに小さくなるばかりで、苛立った母がKの体をパシパシと叩いても、Kはただ両手で覆って身を守ろうとするだけで、一向に話し合いは進展しない……結局、そのまま最後まで有益な結論には辿り着かず、母の怒りは静まらぬままに取り調べを一旦終えた……まぁ、良いんじゃないか、まだ若いんだし、ちょっとの間そっとしておいたら、色々あるんだろ、夫がそう言い終わるか終わらないかの間際、母は大声で怒濤の如く、そんな呑気なこと言わないで頂戴、どれだけ大変なことか分かってるの? 大体あんたがしっかりしてないからいけないんでしょ、親としての自覚はないの? 父は見る見る内に萎縮し、弱まり、引っ込んでいき、父としての威厳など見る影もない……ああ、本当に、何でこんな不出来な大人になってしまったんだか……この子は子供の頃からまるで成長していやしない……決して甘やかして来たつもりじゃないのに……夫のせい……? やっぱり父親がしっかりしてないと子供は駄目になるの……? でも、確かに夫も男としては頼りなく情けない軟弱な人間だったけど、それでも社会人としての最低限の義務はこなしていたし、ダメな自分を認めて少しでも成長しようと一生懸命努力していた、なのに、その息子に至っては、このままじゃ駄目だという危機感、自立した社会人になろうという向上心さえ持とうとしない……息子は夫の駄目さ加減が格段にレベルアップしてしまってる……ああ、もしかして、逆に厳しく接し過ぎたんだろうか……この子はわたしが叱ってもまるで恐がらなくなってる……わたしが小さいことでも一々一々細かくきつく叱り過ぎてきたのか、いつの間にかわたしという存在に免疫が付き、もう何を言われようが応えなくなってしまってるんだろうか……反省する振りして反省せず、聞いてる振りして聞いておらず、分かってる振りして分かっておらず、わたしが何を言っても阿呆みたいな表情でただ、はあ、はあ、とやる気のない適当な返事を繰り返すだけで、結局昔から何も変わっていやしない……ああ、本当に、何でこんな子に育ってしまったんだか……。

 

Kを知る人間は誰もが言うであろう、

 

まるで子供だ

 

彼の取り柄を何とか搾り出そうと思えばただ一つ、

 

犯罪をしない

 

そんなもんである……。

 

 

 

本当に、どうしようもない奴だ、迷惑を掛けるばかりで何も産み出さない、こんな駄目人間を好く奴なんているわけがない、誰もが苛立ちを隠し得ず、甘えるな、しっかりしろと激しい叱咤を浴びせ掛けるに違いない――そう考えるのが一般常識というものであって、まさか彼を養護する人間など現れるはずがないのだが、しかし、世の中分からぬものだ、何をどう勘違いしたのだろう、こんな駄目人間に恋心を抱く女が、どうやら一人だけいたようである……。

 

 Y、とでも言っておこう……。

 

彼女は、Kの近所でスーパーを経営している両親の娘で、Kとは幼稚園の頃からの幼馴染みの関係にあり、家が近く、幼稚園が同じで、Kの両親がそのお店を頻繁に利用していたことから、二人は次第に仲良くなり、一緒に遊ぶことが多くなった……小学校、中学校と同じ学校に通い、飽くまで仲の良い友達として接していたYだったが、しかし、いつ頃からだろう、次第に彼女の心の中で、Kに対するある特別な感情が芽生え出す……Kはその不出来さゆえ、共に時間を共有する人間は否応なく保護者的対応を迫られざるを得なくなり、それに加えY自身も元々世話好きな所があるため、仕方なく家の外では母親のようにKを庇護していたが、次第にそれは不可避的なものから、己の意志や欲望によってその関係を保っていたい、自ら彼の身を守ってあげたい、彼のそばに寄り添ってあげたい、そんな漠然たる感覚へと変化し出す……Kに対して持ち続けていた、単なる性別の違う仲の良い友達という意識の中に、少しずつ少しずつ、Kを一人の異性として捉える視点が生まれてゆき、それと共に、知らぬ間にKを見詰める時間が多くなり、Kの姿が自然と想像の中に登場する回数が増え、Kのそばにいると、緊張や、興奮や、恥じらいのような複雑な感情に駆られることがある……しかし、Y本人としては、本来幼馴染みという間柄であるという事実によって、何となくその感情が不道徳で、不謹慎で、不真面目な感じがし、何だかこれまでの和やかな関係が壊れてしまうような漠然たる不安の為に、無意識にその感情に目を背けていたが、しかし、それは理性によって抑えられるようなちっぽけなものではない、遂には彼女はKに対する異性愛を否応なく自覚せざるを得なくなった……すると彼女は、Kにより近付こうとするのでなく、逆にKという存在から距離を取り始め、Kの問い掛けに対する反応は素っ気ないものとなっていく……言い出せないのではない、端から言い出そうという気がないのだ、自分の感情を告げたところで一体何になろう、Kはわたしのことなんて何とも思っていない、どうせただ微妙な気まずい空気になるのがオチだ、ただ想うだけでいい、それが今のわたしに許された唯一の安らぎなんだ……いいや、嘘だ、本当は、いつもそばにいたい、Kとより近い存在になりたい、でも、怖い、何だか大切なものを失いそうで怖い、彼に近づこうとすればする程、彼が遠のいてしまいそうな気がして怖い……このままわたしが黙っていれば、この親しい関係が崩れることはない、彼を好きだからこそ、彼とこれ以上近付いてはいけない……。

 

結局、Yはそのまま胸の内を明かずことなく、高校を卒業し、二人は離ればなれとなる……。

 

 

 

卒業後、YもまたKと同じように、大学へ通うために実家を遠く離れ、都会へと出て一人暮らしを始めたが、田舎の厳格な家庭で箱入り娘的に育てられてきた彼女にとって、都会という空間はそう簡単に調和出来るものではなかった……田舎にはない都会の広さ、自由さ、大胆さ、過激さ、または彼女を取り囲む、進歩的な、開放的な、屈強な、行動的な人々と上手くやっていく自信がなかった……彼女はこの巨大な都市の中一人ぼっちでいるように感じ、次第に壁を作り出し、人目を避け始め、行動は小さくなり、生活に慣れるどころか徐々に不安は募り、次第にその不安は恐怖となり、その恐怖は身体的な病状として現われ、遂には体調を崩し、引きこもり、最終的には泣きながら実家へと帰ってきて、そうして結局、Kとはまた違う理由によって大学生活に挫折したYは、店のお手伝いをしながらゆっくりと自分のやりたいことを探すこととなった……。

 

そんな折、傷心した彼女の下にある転機が訪れる……Kである……。

 

Yがいつも通りレジのお手伝いをしていると、買い物をしてる客の中に、何だかどこかで見掛けたような人の姿が目に入る……あれはもしや……いや、そんなはずはない、だってあの人は今ここにはいないはず……頭の中で否定しながらもよーく目に意識を集中させてじっくり見てみる……あの顔、あの体型、あの動き、あの雰囲気……Yは確信する、やっぱりそうだ、あれは、昔よく遊んだ、幼馴染みの、あのKだ……Yは突然のことに少々ドギマギしながらも、彼女自身の現在の立場上何となく恥ずかしい気持ちになって、思わずKの視界から隠れてしまった……。

 

どうしてKがここにいるの……? そう思い、仕事を終えた後、昼間の出来事を両親に告げてみると、どうやらYの両親は既にKの母から大凡の事情を聞かされていたらしく、Kの一連の問題を知ってる分だけ話して聞かせた……それを聞いたYは、何だかどこかほっとするような、落ち着くような、和むようなそんな安心感を覚えた……高校を卒業して以来、ずっと一人ぼっちの気持ちで過ごしていた中、昔からの知り合いが自分と似たような境遇の中すぐ近くで生活している……そう思うだけで大分楽になった……。

 

ある日のこと、またYはお店でKの姿を見掛けた、するとKがYのレジへと近づき、そのまま列に加わった、彼女はドキドキする、客への対応も上の空、手つきも覚束ない、彼女はいまKを前にしてどんな風に振る舞おうか頭の中で何度も練習を重ねている、しかしKは四六時中ぼけっとしているためYの存在に気が付かない、遂にKが目の前に来る、Yは至って平然とした態度を装い作業を続ける、するとKがふとした拍子に顔を上げる、その瞬間、遂に二人は顔を見合わせる……Kは少し驚いた様子……Y「……久しぶり(微笑)」K「……うん(こちらも微笑)」Y「……帰ってきたの?」K「いや、まぁ、ちょっと……そっちは?」Y「あたしも……ちょっと」。

 

これが高校を卒業して以来最初の対面である……。

 

その後、二人は頻繁に店で顔を合わせるようになり、最初はどこかよそよそしさが残っていたものの、徐々に元の幼馴染み同士の親密な仲に打ち解け、何気ない会話を軽く交わすようになった……Kの方はYと言葉を交わすことを何とも思っていないが、ただYの方は積極的である……Yは自分の仕事が終わるのを待ってもらい、店先で立ったままお互いの近況や何てことない話題を交わし合うのが日課となった……彼女はただ単に、話し相手が欲しかった……壁を作らずに気楽に接することが出来る相手、自分の言葉を素直に受け止めてくれる相手、何も言わずただ一緒にいてくれる相手……ただ何気なく言葉を交わし、共に笑い合うだけで、寂しい気持ち、不安な気持ち、戸惑う気持ち、焦る気持ちが和らぎ、薄れてゆく……。

 

最初はただ安息を求めてKと接してきた彼女だが、次第にそれとは別のある感情が湧き上がってくる……それはあの時と似たような感じだった……Kの姿を目にする度、胸が熱く、きつく、激しく、苦しくなる……Kのそばにずっと寄り添っていたいという願望、Kを自分だけのものにしてしまいたいという欲求、長い間忘れかけていた、懐かしさを感じさせる、あの胸のときめき……寝ても覚めてもKのことで頭が一杯になり、仕事に手が着かなくなる……Kと話をしていても、Kが帰ろうとするような素振りを見せると、急に寂しくなって、無理に話を引き延ばして出来るだけ時間を稼ごうとする……目的もなくわざとKの家の前を通り過ぎてみたり、小さい頃によく遊びに行ったKの部屋を見上げてみる……。

 

Kは何も変わっていやしない……いつ見てもどこか怠そうにしてるとこ、ヨレヨレでみっともない服装、子供みたいな可愛らしいしゃべり方、いつもぼーっとしてばかりいるのどかさ、その仕草も、雰囲気も、我がままなとこも、怠け者のとこも、ダメなとこも、全部愛らしい……まるで大きな赤ん坊みたいだ、怠けた大型犬のように可愛い……Kは子供の頃のまんまだ、何も変わってない、何も……。

 

彼女は思う――わたしの初恋の相手が、わたしと同じ時期に、わたしと同じような経過を辿って、わたしと同じ場所に戻ってくるなんて、これはもう運命としか言い様がない、神様からの合図なんだ……きっとKもわたしと同じように苦しい思いをしてるはず、なら、わたしがKを救ってやらなきゃ、わたしがKのそばにいてあげなきゃ……わたしの目指すべき場所が見つかった、それは、Kと一緒になることだ……彼をさらってしまおう、彼を部屋へ連れ込んで、少し大きめのペットを飼うかのように、彼の世話をして、二人きりで暮らそう……。

 

わたしは、恋のために生きる……。

 

 

 

何がここまでYの心を駆り立てるのか……それはYの一種特殊な恋愛観、異性観を紐解く必要がある……第一に、Yが異性に求める魅力は、一般の女性のそれとは些か質を異にしてると思われる……Yが欲するのは、断じて男らしさや、力強さや、たくましさや、屈強さではない……彼女が焦がれるのは、飽くまで純粋さ、素朴さ、幼さ、弱さ、優しさである……彼女は格好良い人に惹かれるのではなく、可愛い人に惹かれる傾向にある……可愛らしい男性、子供っぽい男性、女性的な男性、男性的でない男性、繊細な人、人を傷つけない人、大らかな人、飾らない人、自然体な人……髪を派手に染めてる人や、アクセサリーをちゃらちゃら着けてる人や、今時の格好をしてる人や、肉体美を誇る人などは苦手で、勉強が出来る人にも、スポーツが出来る人にも、仕事が出来る人にも興味がない……偉そうな人にも、体育会系の人にも、生理的な嫌悪感がある……そうしてまた、Yは母性本能の非常に強い人間であり、彼女は自分が守ってやりたいとか、保護してあげたいとか、自分がいなきゃ駄目とか、そういう風に思わせるような母性本能をくすぐる人に惹きつけられてしまう……彼女は非常に子供好きな女であって、昔は幼稚園の先生になりたいと思ってたこともあり、例えば街中で小さな可愛らしい男の子を見かけたりすると、些か行きすぎだとは思われるが、思わず抱きしめて、そのまま連れ去って、自分の部屋で飼っていたいという衝動に駆られたりする……自分だけに甘え、自分だけを頼り、自分だけを愛して欲しいと、この子が何も変わらず純朴なまま大人になって欲しいと、自分の手で育てて自分の思う通りの男性に仕立て上げたいと企む……どうも彼女にはどこか児童性愛的傾向があると見受けられる……。

 

また、Yは飛びっ切りのロマンチストである……Yは運命の愛を信じている……いつか理想の人と出会うことを信じている……しかしまた、Yは男性に対する激しい憧れを持ちながらも、それと同じくらい男性に対する深い不信の感情を持っている……それも結局は男女の性の問題に帰着するのかも知れぬ……厳格且つ過保護に育てられ、猥雑なものとは全く無縁の人生を生きてきたYにとって、性という問題はそう簡単に受け入れられるものではなかった……彼女は性の世界を見たり聞いたりする度に強い反発や嫌悪感を覚えずにはいられなかった……友達が集まって卑猥な話を繰り広げていると、聞いてて嫌になる、吐き気がする、その場から離れたくなる……大学に通ってた頃、一見真面目で優しそうな好青年に見えるある男子が自分のことで卑猥な話を繰り広げてるのを偶然聞いて、非常に嫌な感じ、怖い感じがした……するとテレビに映る爽やかな男性アイドルや俳優やミュージシャンも全て嘘だと考えるようになる……男は何に関しても性欲が原動力であるかのように見えてくる……常に性的な視線をもって見つめられてるように錯覚する……Yは恋愛において大人に成りきれていないとこがあり、Yは異性からの強い愛情を求めながらも、その根源にある性の問題からは目を逸らそうとする……性欲なんてなければいい、男の人に変なものが付いてなければいい……するとYの視線は次第に大人ではなく無邪気な子供の方に向かうようになる……世の男性に対する不信、性に対して感ずるおぞましさが、Yの子供好きを助長させているのかも知れぬ……それは救いを求める悲しい祈りのようなものである……。

 

Yにとって性的行為は気味が悪くて仕方がないが、しかし、好きな男性であれば、本当に心からどうしようもなく好きな男性であれば、その様子を想像すると、何か異様に胸が熱くなり、ふわふわとした不思議な、緊張の混じった、ある種の恍惚に似た感覚を覚えるような気持ちになる……が、それ以上のより具体的な行為に想像が及ぶと、やはり嫌悪と抵抗の感覚を得ずにはいられない……途轍もなく寂しがり屋のYは、ただ男性の暖かな温もりが欲しいだけなのである……。

 

では、Kの方はといえば、そもそも彼は異性に対する関心が通常の男性に比べ格段に低く恋愛にはひたすら疎い人間で、無論Yに対してそのような感情を抱いたことはないし、思春期になっても女子と距離を取るという一般的な男子の習性を身に付けず、Yに抵抗なく接するため、何だか逆に彼女の方が周りの視線を気にして恥ずかしく感ずると共に、いつまで経っても無邪気なKのことを可愛くも思うのだった……。

 

 

 

Kとの同棲を決意したYだが、計画を実行するには、まず二人で暮らすための必要最低限の資金を貯めなくてはならない……恋に燃ゆる女は強いもので、取りあえず両親には部屋を借りるからとだけ告げといて、平日も休日も関係なく開店から閉店まで休まず働き続け、すぐに同棲生活の為の出発金を整えた……しかし、最も肝心な問題はそこではない、いくら経済的に準備が整おうと、そもそもこの計画の第一条件として、相手方に――Kに自分の意志を告げ、そうしてそれを承諾してもらわなくてはならないという、そのハードルをクリアしない限り何も始まらない、全ては水の泡である……とはいっても、Yは何もKに対してずっと想い続けてきた胸の内を告白するわけではない、そんなことすると余計ややこしくなるだけだ、故にYはこのように切り出そうと考えた――お互いにいつまでも親の下で生活してるわけにはいかない、いつかはここを離れて自立しなければならない、でもいきなり一人で投げ出されるのは不安、そこで提案なんだけど、Kとあたしとで二人で部屋を借りて、お互いに助け合いながら少しずつ少しずつ慣れていけば良いんじゃないかな……即ち、Yは引きこもりからの社会復帰を口実に、Kと一緒になろうと企んだのである――いくら幼馴染みとはいえ、そんなことを言われたらこれはもう愛の告白と受け取ってもおかしくないと考えるものだが、諸君、Kの鈍感さを見くびってはならぬ、彼は幼馴染みからのただの純粋な自立支援だと、それ以上の深い意味を読み取る洞察力はない……それを聞いたKは、半分笑みをこぼしながら、いくらか冗談を聞いてるような、とぼけたような反応を示す、それを見てYは、お願い、人助けと思って、と深刻さを演出してみせる、そこまで本気で言ってるとは思わなかったから、KはYの真剣振りに少々驚いた……。

 

それからもYはKに会う度に、考えてくれた? 決まった? と何度も訴えるように尋ね、Kの気持ちを揺さぶっていく……するとKはまるで暗示に掛けられるように、少しずつ少しずつYの提案を本気で受け入れ始めるようになる……いくらずぼらな自分だって、親元を離れて自分で稼がなきゃならない状況に陥れば、きっとやる気になって働くに違いない、そう思えてくる……。

 

 

 

そんな時、Kの前にある一人の人物が現れる……Kの姉である……Kの姉は、長女というだけあって(駄目な弟の姉だけあって)、Kとは打って変わって非常に優秀で、勤勉で、真面目で、仕事の出来る才女であり、その秀でた能力は母の血に多くを負い、その柔和な性格は父に多くを負っていると思われ、社会生活を営む上で何一つ問題なく、むしろ模範的とも言える立派な社会人であるが、しかし、たった一つ、彼女には人とは違う少々特異な点が見られる……ブラコンであるということ……。

 

姉は昔から弟に対し偏執的な愛情を抱いており、それは一家族に対する一般的な愛情を些か超越したもの、どこかしら近親相姦的な匂いさえ感じさせる、ストーカーチックなねじ曲がった愛情である……姉は子供の頃から異様にKを可愛がり、まるで自分のペットのように扱い、Kが母に部屋を片付けなさいと言われ、実際に片付けるのは姉であり、宿題を片付けなさいと言われ、実際に片付けるのはやはり姉であり、本来は自分一人でやるべきことの多くを姉が勝手に片付けてしまう……普通ならこのままじゃいけないと拒否反応をいずれ起こすものだが、Kに至ってそんな真面目な考えを持つはずがなく、相手がやりたくてやってるのだからと、甘えてるどころかむしろ親切をしているつもりになる阿呆である……また思春期にもなれば姉に反発し距離を取ってもいいはずだが、Kはやはりそういう微妙で繊細な感受性に欠け、幾つになっても姉の為すがままであり、姉は姉でまたいつまで経っても弟を子供扱いし可愛がろうとする……姉の執拗な干渉が次第に弟を駄目にしたといっても嘘ではない……Kが故郷を離れて一人暮らしを始めると決まったときにも姉は猛然と反対した――弟が自分の下を離れてまともにやっていけるわけがない……Kにはいつだってあたしが必要なんだ……結果的には姉の考えた通り、Kは自立することに失敗したものの、それは何も姉の存在の有無に起因したものでなく単純に本人の体質に問題があるのだが、しかしあまりに弟のことを考え過ぎる姉の方は、自分の下を離れたからこんなことになったのだと思い込む……やっぱり弟はあたしがいなきゃ駄目なんだわ……あたしのそばから離れちゃいけないんだわ……そうして彼女はKを自分の住まいへと来させ、一緒に生活しようと計画するが、そんな時、Kが頻繁にある一人の人物と密かに何度も会ってるということに気付く……Yである……。

 

そもそも姉とYの間柄には昔からある因縁がある……Kが生まれた時から母親以上に弟のことを世話し、可愛がっていた姉にとって、突然の別の女の登場は苦々しいものでしかなかった……今までずっとあたしと一緒に遊んでいたのに、あいつが現れてから弟はあたしから少しずつ離れるようになった、家の外でもあたしが世話をしていたのに、それを必要としなくなった……許せない……彼女は自分の所有物を無理矢理奪われたような気持ちになった――姉は本来柔和な性格で、他人との衝突を好まず、Yの人間性そのものにも嫌悪感を抱くはずはないのだが、何せあまりに弟を構い過ぎるが為にKに近づく女全てを敵と認識してしまい、無意識の内に相手の人物像を歪曲し、危険人物と見なしてしまうのである……弟に近づこうとする女を徹底的に警戒し敵視する彼女は、如何にあの女が下劣で、浅ましくて、愚鈍で、軽薄であるかをKに吹き込み、あんな悪い女と付き合ってはいけないと言い聞かせ、少しでもYから引き離そうと試みる……弟をたぶらかそうったってそうはいかない、なんせ弟は、あたしの弟なんだから……。

 

Yと出会っているのを知った姉はKに、彼女と何度も密会して一体何を話し込んでいるのかを問い詰めると、Kは素直に彼女との同居計画について打ち明ける……姉は怒り心頭だった――またあの女だ、いつもあいつが邪魔をする、あの女がKを追い込んでいる……Kの姉はこの計画を止めさすよう母に密告し、そうして母の伝達によって遂にはYの両親にまで二人の計画が知れ渡った――Yの母の方はまだしも、父の方は猛反対する、それは勿論異性と同居するという点での反対もあるにしろ、それ以上にKという人物が昔から個人的に好いてなかった……Yの父は、頑固で、図太くて、古くて、家父長的人間であり、彼が重んじるのは力強さであり、男らしさであり、屈強さであり、健康さであり、働くということを日本人最大の美徳と捉え、怠惰で無気力な若者が何より許せないのであった……人間というものは、労働によって自らの暮らしを立ててこそ初めて人間と呼ぶに値するものだ、働きもしないのに衣食住を与えられるなど、ほとんど犯罪者と変わらんではないか、そんな者に選挙権も公的サービスも与えてはならん……働かないなどというのは、単純に本人のやる気のなさ、根性の弱さ、甘え、怠けに過ぎず、そのような輩にはただ厳しく、きつく、力強く接し、性根を一から鍛え直し、自衛隊にでも送り込んで訓練でも何でも受けさせりゃあいいというのに、やれ社会の責任だとか大人が悪いとか、学校の教育に問題があるとか何とか宣って責任転嫁し、働かない若者を擁護、正当化せんとする輩まで現れる始末……その上こんな若者が最近急増してるらしい……この国ももう終わりだ……。

 

Yと彼女の父はまるで対極に位置する人間で、彼女は昔から父親を嫌っており、今でもまるで思春期の女の子のように反発を覚え、顔も見たくない、同じ空間にいるのも嫌だと思っている……Y本人はあまり自覚していないにしろ、Kとのこの大胆な同居計画の中には、密かに両親から離れたいという思いが強く後押ししていた……この世で最も重要なことは、本当に働くことなんだろうか……労働意欲を持つことよりも、もっと他に人として持たなくてはいけないものがあるんじゃないだろうか……いくら勤勉で、優秀で、働き者でも、人使いが荒かったり、優しさがなかったり、他人を蹴落としたりしていれば、これっぽっちも尊敬出来ないし、むしろ軽蔑する……社会に適応出来ない人間は負け犬とされるけど、そもそも社会という所はそんなに立派な世界なんだろうか……社会なんて、汚くて、卑しくて、狡くて、自分勝手な人ばかりじゃないか……醜い争いや、妬みや、憎しみや、悲しみや、暴力で溢れかえってるじゃないか……そんな所に適応出来る人達を、どうして立派だと思えるんだろう……社会からはじかれた人々の方が、むしろよっぽど人間的なような気がする……そう、思いやりがあればいい、優しさがあればいい、人を傷付けなければいい、純粋であればいい……Kは凄く人間臭くて、正直で、大らかで、優しくて、子供のように純粋な人間だ……誰一人として彼を非難する権利などないんだ……あたしは永遠に彼の味方だ……。

 

斯くの如く、Kを取り巻く周囲の人間はKの堕落により右往左往しているというのに、K本人だけはその状況を些か飲み込めていないようである……。

 

 

 

結局、二人ともアルバイト先を事前に見つけることを条件に、互いの両親は渋々納得し、唯一最後まで断固反対の姿勢を貫いたKの姉も、今回ばかりはYの熱い想いを断ち切ることが出来なかった……。

 

そうして頭到、二人の同棲生活――いや、共同生活が始まった……。

 

初めは何も問題なく、順調に事は進み、Kもその出来こそ問題あれどちゃんとバイト先に通うだけ通っていた……ただ一つ難点を挙げるとすれば、家事を一切しないということだったが、しかしY自身はその事を何とも思っておらず、いやむしろそれを望んでさえいる――自分が世話をしてる、自分が支えてるという感覚を得れば得る程それがそのまま幸福感へと繋がる……。

 

二人暮らしが始まって一ヶ月ほど経ったある日、Yが家に帰って来ると、Kが正座をしたままやたらうなだれて、どこか神妙な雰囲気で帰りを待っており、如何にも何か話さなければならないことがあるといった感じで、Yはその様子を一目見てすぐに何があったか察知した――「どうかしたの……?」「……」「怒らないから話して」「……辞めちゃった……」「え……?」「アルバイト、辞めちゃった……」「……そう……仕方ないね……大丈夫、あたしが何とかするから……」、そもそもYはKの経済力を端から当てにしてはいない――初めから自分一人で二人分の生活を養うつもりだった……実はこれこそY自身が真に望んでいた男女の関係だった……自分が一生懸命働いて彼の分まで養うという状況に、彼女は一つの憧れを、一つの恍惚を、一つの美学を感じ取っていた……だって、Kはペットなんだもの、ペットが自分の生活費を稼ぐなんて聞いたことがない、ペットの役割は、ご主人を癒すこと、安心感を与えること、可愛くあり続けることだ……だから、Kが働かなきゃいけない理由なんてどこにもないんだ……ただ、あたしのそばにいてくれれば、それだけで良い……それだけで……。

 

 

 

どんな形であれ彼女は自分がずっと想い続けてた人と一緒に暮らしているのだから、平常心でいられるはずがない――お風呂に入って、パジャマに着替えて、お布団に入って、電気を消す度に、ドキドキする……彼があたしのすぐそばで寝ている……彼の息づかい、彼の匂い、彼の存在を近くに感じるだけで、安心や、緊張や、恥じらいや、興奮や、幸福を覚える……。

 

しかし、幼い頃からの馴染みとはいっても一応血の繋がりのない一人の男と一人の女なのだから、何かが起きてもおかしくはないはずなのだが、二人の間に単なる同居人以上の関係に進展する気配は些かも見られない……でも、分かってる……Kの方はわたしのことなんて何とも思ってないんだろう……身内の女性と寝泊まりしてる位の意識しか持ってないんだろう……それがやるせない、悲しい、悔しい……子供の頃から想い続けてた人がこんなに近くにいるのに、心の距離は少しも近づいてない……涙が出そうになる……わたしだって一応大人の女なのに、若い女の子なのに……Yは思い切ってKの布団に潜り込んで少しでも気を引き付けようとするが、Kはただ単に子供が親に甘えるように彼女が布団に入ってきたとしか捉えない……あれほど性を忌み嫌っていた彼女の中に、ある矛盾する感情が湧き上がる……いやらしい目でしか見られないのは嫌だけど、いやらしい目で全く見られてないのもまた嫌だ……変に体を触られるのは嫌だけど、全く触られないのもまた嫌だ……彼女は暗に己が一つの肉体であることを容認しようとする……恋愛感情の奥に潜む動物的性を受け入れようとする……ロマンチックな恋愛を夢想する女と、恋愛自体にさして関心のない男……性欲に美的観念を要求する女と、性欲自体を機械的なものとしか認識していない男……。

 

 

 

初めは大きな問題もなく割合順調に事を進めていた二人だったが、やはり決して体力の強いとは言えないYにとって二人分の生活費を稼ぐことはそう容易いことではなく、同棲生活というロマンチシズムの中に次第に貧困という根深い現実的問題が襲い掛かってくる……しかし、それでもやはりKは一向に働く気配はなく、家事さえまともにやろうとしない……自分は何もしなくていいのだと完全に思い込んでいる……例の如く一日中ゴロゴロしたり、ゲームセンターに行って少ないお小遣いを費やしたり、そこら辺を適当にほっつき歩いて無駄に時間を潰したり、お菓子を買ってバクバク食べたりしている……そんなKの姿を初めはただただ一つの魅力として受け取っていたYだったが、ここへ来てその解釈に幾らか変化の兆しを見せ始める……Kを見ていると、何だか胸がドキドキするどころかむしろムカムカし、思わず溜息が出そうになってくる……実際のところKはYの予想を遙かに上回るダメ人間振りで、そもそもKのようなダメ男に魅力を感じてしまう世話好きな彼女でさえ呆れるのだから、Kの堕落っぷりは常軌を逸してると言わざるを得ない……。

 

彼女は自分のKに対する恋心に疑義を抱くようになる――本当にわたしはKのことが好きで一緒になりたいと感じたんだろうか、本当にKは私が抱く理想の男性像と一致しているんだろうか、私自身が置かれていた状況が一種特殊な立場にあったから、何か勘違いをしてKという存在を誤認してしまってたんじゃないだろうか、わたしが精神的に打ちひしがれていた時期に偶然現れた身近な異性に、こちらが勝手に過剰な欲求のはけ口を見出してただけなんじゃないだろうか、つまりKという人間の個性がわたしの心を惹いたんじゃなく、わたしの中の寂しさがたまたま同じような境遇にいたKという存在に個性を与え、恋の対象として認識しただけなんじゃないだろうか……。

 

彼女にとってのKの魅力が、ここへ来て頭到欠点へと変化した……こうなったらもはやKはただの邪魔者、余計者、穀潰し、寄生虫……ロマンスに浸っていたことや自分から誘ったことへの責任から、Yは自分がKに対し苛立ちを感じ始めていることに目を瞑ってきたが、次第にKの行動に対しあからさまに不機嫌な様子を見せ始める……怠けたKの姿を前にする度に、大きな溜息を吐いたり、分かりやすい舌打ちをしたり、話し掛けられても反応が冷たかったり、一つ一つの動作や仕草に尖ったものを感じる……流石にKも何かがおかしいことに気づく……KはYに対し恐る恐る接し、隠れるように生活せざるを得なくなる……。

 

もはや時間の問題である……亀裂の入ったこの陳腐な建築物はもう修復の施しようがない……崩壊は目に見えている……。

 

審判の日は訪れた――如何に鈍感で、間抜けで、マイペースなKといえども、流石にこの空気、この圧迫、この息苦しさには耐えられず、遂にはこう切り出さざるを得なかった……。

 

出て行きます……。

 

この一言によって、幼馴染み同士の奇妙な共同生活に終止符が打たれた……ロマンと現実との戦いに決着が付いた――現実はロマンに打ち勝ち、ロマンは現実に敗北した……。

 

そうして、結局Kは自立計画に挫折し、またしてもノコノコと実家へと戻ってき、それに対し母は、これまで幾度となく投げ掛けてきた質問を再度ぶつけてみる、

 

どうするつもり……?

 

このような状況に追い込まれた場合、いつもならどうしようもなくまごつくばかりのKだったが、しかし、今回のこの一連の騒動によって、自分にとって「働く」ということがもはや物理的な精確さを以て不可能であることを悟った彼は、遂には開き直り、大声で言い放った……

 

俺は働かない……俺は働かないんだ……!

 

その瞬間、Kのこの好い加減で身勝手な言葉を耳にした母は、その怒りが頂点に達し、募っていた不満が爆発し、我も忘れてKに飛び掛かり、そうして彼は為す術もなく、完膚なきまでに叩きのめされたということである……。

 

 

その後の彼の動向など、私の知ったことか……。

 

 

   完

 


この本の内容は以上です。


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