子供らと生きて。(4)
それから、また上って浜平の親元に行ってみたら、
そこも家が吹き飛ばされてしまっていて、
一旦、そこの防空壕におりました。
食事は大村辺りから握り飯が来たのをもらったり、
自分達で炊いて食べたりしていました。
握り飯はもう腐っていました。
飛行機がまだたくさん飛んでいて、
小さい子供らは「ほら、泣かすなよ!飛行機にきこえるから!」
ってよくまわりの人に言われてしまいました。
一度は子供をおんぶして、飽の浦まで行ったことがありました。
瀬崎の辺りでは、軒下に馬が馬車を引いたまま死んでいたり、
稲佐橋から死骸の付いた縄がぶらぶらしとったり、
カン詰め会社からは「ぽっぽっ」て缶詰が飛んできて危ないし、なかなか歩く事が出来ませんでした。
電信柱も上のほうまで、燃えよるしねー。
翌日か翌々日位だったでしょうか。
火は何日間かくすぶっていました。
死骸を焼く匂いが聖徳寺の所から、
ずうと上のほうまできよりましたと。
浜平の壕に何日かおりましたが、
物は何もなし、電気もなし、夜は真っ暗で、
子供が「もうどっか行こう」って言うもんですから、
熊本の姉の所へ行く事にしました。
電気の会社の人でしょうかね。
駅前に出張してきた人からお金をもらって、
長崎駅から乗りました。
もう満員で・・止まり、止まり行ったとですよ。
私のおった車輌にはあまり怪我人がおらんやったです。
佐賀駅で止まって、蚊が多かったのを覚えています。
とにかくたくさん乗っ取ったとね。
熊本の下益城郡の姉のところには18日位おりました。
すると・・。
アメリカ兵が来るから、皆んな避難せろっ!
て言うですもんね。
姉も「自分達は避難するから、あんた達もどこかへ逃げんね」
って言うとですよ。
それでまた熊本と鹿児島の県境の免田という所まで
汽車でいきました。
子供らと生きて。(5)
免田には伯父さんの家がそこにあって、
妹が疎開していっとったとです。
人吉で乗り換えて行ったんですが、
そんな時も、もう普通には電車に乗らずに、
みんな窓から乗り込んだんですよ。
窓の外には下駄や履物が散々です。
私も裸足だったんだと思います。
後から思えば、よく子供一人も迷子にせず、
連れて来れたもんだと思います。
次男に大きい荷物を背負わせて、
一人一人残った鍋釜の道具や親戚からもらった敷物を
小さくむすんでも持たせてですね。
もう、哀れな格好やったとですよ。
やっと、免田で降りました。
汽車の中で「ほら、免田はあそこよ」って教えてくれた人が
いたから助かったとです。
駅を出て、皆でぞろぞろ、後に戻っていきましたとよ。
きれいな月夜で、道にカンカン照って、
遠くに明かりが見えるのに、
行っても行っても辿り着かないんですよね。
大きい子供は「母ちゃん、狐にだまされとっと、
もうここら辺に座っておろうや」って言うし、
小さい子供は「もう歩かない」って言うし、
それを騙し騙しなだめて、ようやく人家に辿りついたとですよ。
そこは、クラブ(公民館)で、
丁度、妹達の所に訪ねていく人がおりましたと。
それで、「一緒に来んですか」って、
言うてくれて助かったとです。
妹達と会うと、喜んでくれてね。
妹の主人は、三菱電機の技師で、
疎開の時に一時、西坂の家に置いてあげた事があったとです。
それで、もしもの時はいつでも来いて言うとったですけんね。
それでも・・・大勢で行って向こうもびっくりしたでしょう。
子供らと生きて。(6)
1ヶ月もおりましたかね。
お金はあったので、1里も先まで買い物にいってました。
米、味噌、果物なんかをね。
塩の切れたときは駅を二つも三つも行った長浜って所まで行って、1升も頑張って買ってきよりました。
そこの主人は学歴がありましたから、
出征しても戦地には行かず、
東京の何とかいう学校に行ったとですが復員して、
帰って着とりました。
風呂は本家で頂いていましたが、
ある晩、私が風呂に入っていた時に・・
其の主人が伯母さんと
話しているのが聞こえたとです。
「兄弟がいるからって頼ってこられても・・・・」
・・みたいな事を言っていました。
それを聞いて私は、
この夫婦が私たちのせいで喧嘩をしてしまってはたまらない。
早く帰らなきゃと思いました。
家は無くても、何とかなるだろうと思って
また長崎に帰ったとです。
結局、2ヶ月とはいなかったですね。
長崎駅に下りたら、
もうきれいに焼け野原になっていて、
さて何処に行こうかと思いましたが、
まず、浜平に上がってみました。
主人の妹夫婦がいて、一緒にしばらく暮らしました。
山の上にいたので、下の方では
防空壕の片付けの音がしていました。
まだ働きに出るどころではなく、
まずは住む家をなんとかしなくてはいけませんでした。
子供らと生きて。(7)
深堀に行くと言っていた
そこの主人の兄弟たちも帰ってくるので、
早く家を見つけておくように言われていましたが、
子供はおるし、なかなか家が見つからずにいました。
ある晩、とうとう妹の主人がやって来て、
「まだどこにも行かずにいるのか」って言うて怒り、
「たった今出てくれろっ」て、言うとですたい。
妹は「今夜はまだよかさ」って言ってくれたんですが、
晩御飯も食べかけだったんですが、
そのまま荷物をまとめて出たとです。
悲しかったですばってん、
そんな事言われて、いるわけにはおれず・・・・
其の晩は本連寺の墓場で子供と寝たとです。
そしたら翌朝、昔の知り合いがやってきて、自分達が集めとった疎開の材木を寄せて、元の家の上の段の崖に立てかけて、
住めるだけの小屋を立ててくれたとですよ。
その小屋で貰っていた毛布で暮らしました。
仕事よりも食べ物の買い出しが大変でした。
これまで主人ばっかりあてにしていましたが、
どうしても自分でしなくちゃなりませんでした。
17の息子を連れて、
その子のお母さんになる人を田結まで訪ねていって、
「ジャガイモ」とか「かぼちゃ」とか売ってもらって、
お昼ご飯をご馳走になって帰ってきよりました。
そのいもご飯のおいしかったこと。
矢上の上の方ですよ。
下の子供をおんぶして歩いて行きよりますた。
その遠いこと。
矢上の東望の浜を通り越して、
またずうとむこうへ行きよりますとよ。
まだ若かったですけんねえ、
何か売ってもらえればそれが楽しみで。
夕方遅くに帰りよりました。
子供らと生きて。(8)
毎日、小さい子供達がお腹を空かして待っていました。
とにかく食べるとに一生懸命でした。
朝から駅に出て、なにか分けて貰う人を探して、
あっちこっちのヤミ市にもよく行きました。
田舎に知り合いもなし、熊本は遠いし・・・。
もう食べ物買いばかりしよりました。
だんだんお金もなくなってきました。
近所の男の子に「ことぼし(小さい石油ランプ)を
買うてきてやるけん」っていわれて、
1500円も騙されて取られたこともありました。
進駐軍が、娘のいる所にはずうと遊びに来て、
チョコレートとか何とかあげていました。
しかし、うちはみんな小さいし、
大きい子達は男ばかりなので、おかしくてね。
あのころは4000円で家が建ったですもんね。
まだお金はあったし、市役所に頼んで大黒町辺りにあった、
材木を拾ってきて、畳なんかも取りにいって建てたとですよ。
元の家の上の段に土地を借りて、三畳と四畳半でしたかね。
地開きも自分達でしましたと。
そのころ熊本の姉から、また出て来んねって言われたとですよ。家のお金を払ってしまえばお金も無くなってしまうし、
仕事を世話して貰う当てもないし・・・。
私もブラブラしとったですけんね。
思い切って、それからまた熊本に行ったとですよ。
何か仕事もあるだろうと思うてね。
それが悪かったとですね。
長崎におればよかったですばってんね。
再び子供らと熊本へ。

それ池