| 作者 | それ池 | 状態 | 完成 | ||
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| カテゴリー | 小説・ノンフィクション (ノンフィクション) | 価格 | 無料 | ページ数 | 13ページ (Web閲覧) 26ページ (PDF) |
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ボケ防止用にとブログを書きはじめてアップしていたものです。
祖母のコテコテの長崎弁と伯母の初めてのキーボード操作のため、
普通には読めませんので、加筆、修正しております。
一部、原本にはよくわからない名称もあったりして、勝手に解釈してる部分もあります。
読みぐるしい点もございますがお許し下さい。
子供らと生きて。(1)
主人は三菱電機の鋳物士で岩川町の工場におりました。
子供は7人おりましたが、病気やらなにやらで亡くなって、
今は5人です。
原爆の時は西坂の本連寺の裏手に住んでいました。
娘が4人男の子が2人おりました。
丁度1ヶ月前の7月7日、青年学校に行っていた長男が
肺炎で亡くなったばかりでした。
残った子は上が国民学校を卒業して、
徴用で長工醤油に勤めていました。
1番下の子は2歳の子でした。
原爆が落ちた時は奥の8畳の間で末の子を寝かしつけていました。他の子供達もそばにおりました。
爆音が鳴ったのですが、非難は解除になっているから、
遊軍機なんだろうと、そのまま気にもしていませんでした。
パーッとしたでしょうか?
後の石屋さんの石垣にパーッと青い火が差し込みました。
そして、その辺の物が飛んで、布団でも何でも
細長い家を通って表にほおり出されてしもうたとです。
「母ちゃん、母ちゃん」って言うもんですから、
よくよくみてみると、畳みごと子供らが床下に落ちていました。
床下に落ちた子を引っ張りあげて、
ほかの子供たちと一緒に外に逃げ出したとです。
お金や預金通帳を入れていたカバンが、
いくら探しても見当たらないので、そのまま逃げたとです。
皆が「後はよかけん逃げんねっ」て、
言うもんですから、とにかく山手に逃げました。
上から見たときは、大黒町辺りから煙が出ていましたが、
まさかここまで燃えるとは思いませんでした。
山の方の五社神社というお稲荷さんまで逃げました。
その間に、次男は鍋や釜を取り出して水槽のなかに沈めたり、
フスマまで墓地に持ち込んだりしていました。
子供らと生きて。(2)
浜平(西坂の上)に主人の親里があったので、
そこに行こうとどんどん山を登ったとです。
そして向こうから来る人に浜平の様子聞くと、
「もう浜平は燃えていて、家もなんにもないよ」って、
言うじゃないですか。
「浜平さん行っても駄目ばいね」って思いました。
金毘羅山からおりてくる兵隊さんに合ったので、
「どっちに逃げたらよかでしょうか?」って聞くと
「左手は駄目だから右の方へ行きなさい」って言われました。
行くと、神社の近くに顔も手もひどく焼けただれた、
15、6の男の子が座っていて
「おばさん、おばさん、水の欲しか~~」
って言うじゃないですか。
水を持っていなかったので、「ちょっと待ってね」といって、
五社神社へ行って水を持ってきて、その子供に飲ませました。
「お母さんたちも上がってくるから、あんたも動かずに腰掛けときなさい。」っていいました。
顔も何も誰やら見分けもつかないぐらいに焼けてしまって・・
動員で働きよったとでしょうね。
上へ行く間、あちこち怪我人がいっぱいで、
どこへ行けばよかろうかって思いましたが、
とにかく木の影の溝のある場所に一旦落ち着きました。
ひとり座布団を抱えていたので、
それを敷いて皆を座らせてそのまま夜までおりました。
その時長女が、「母ちゃん、母ちゃん。」と言って、
あのカバンを出してくれました。
「あんたが持ってきとったとね。よかった!」
と言うて喜びましたとよ。
本当に助かりましたとよ。
自分の学校の本はほっといて・・・・。
皆、怪我はせずよかったです。
その時はまだ下は燃えていませんでしたが、
夕方頃、上がってくる人に「西坂辺りはどうねっ?」
って聞いたら「もう燃えてしまいよる」って
言うじゃありませんか。
ああ、もう何もかもなくなるのかと思って、
もうなんとも感じずに、頭が馬鹿みたいになりましたとよ。
子供らと生きて。 (3)
昼過ぎ頃、ボツボツ雨が降りだしました。
ひどくはありませんでした。
「あら、雨たいね」っていうくらいですね。
上からみればもう、街中が燃えていました。
4時、5時頃には、私の家も燃えていたんでしょうね。
夕方になるとお父さん達が上ってきて、
「誰とかやー、誰とかやー」
って名を呼んで探し回りはじめました。
あんなに気の利いたうちの主人がなんで来ないんだろうか?
て思っていたんですよ。
それが・・・皆んなやられてしまってたんですよね。
主人が居た岩川町の三菱電機の鋳物分工場は、全滅やったとです。
8月1日の空襲の時は主人は助かって、死んだ人の葬式をしたりしたとですよ。「助かった、助かった」っていっていましたね。
あとで兄弟達が、鋳物分工場へ行って見てくれたんですが、
「もう何もなか、骨もなかった」ていうてきました。
私も子供がいるものですから、身動きならず、とうとうそのままです。
その晩は山の上に寝ました。
下のほうは燃えつづけて、真っ赤になっとりました。
小さい子供達は怖がって、皆んな山の脇のくぼ地に入りこんで、一緒に寝ました。
夜通し街は燃えて、飛行機が上をずっと飛んでいました。
朝起きて、浜平に行こうかどうかと悩みましたが、
とにかく家を見てこなきゃと、またぞろぞろ下りたとです。
もう、きれいに焼けてしまっていて、
あちこちにタンスの引き手が散らばって残っていただけでした。
そこに残って火を消した他の人の家は残っていたのですが、
うちのはもう何もなかったです。
焼けたり盗られたりしたとでしょうね。
水槽に入れていたお釜でもなんでも沈んでいたけど、
木のフタは上に浮かんで焼け焦げていました。
子供らと生きて。(4)
それから、また上って浜平の親元に行ってみたら、
そこも家が吹き飛ばされてしまっていて、
一旦、そこの防空壕におりました。
食事は大村辺りから握り飯が来たのをもらったり、
自分達で炊いて食べたりしていました。
握り飯はもう腐っていました。
飛行機がまだたくさん飛んでいて、
小さい子供らは「ほら、泣かすなよ!飛行機にきこえるから!」
ってよくまわりの人に言われてしまいました。
一度は子供をおんぶして、飽の浦まで行ったことがありました。
瀬崎の辺りでは、軒下に馬が馬車を引いたまま死んでいたり、
稲佐橋から死骸の付いた縄がぶらぶらしとったり、
カン詰め会社からは「ぽっぽっ」て缶詰が飛んできて危ないし、なかなか歩く事が出来ませんでした。
電信柱も上のほうまで、燃えよるしねー。
翌日か翌々日位だったでしょうか。
火は何日間かくすぶっていました。
死骸を焼く匂いが聖徳寺の所から、
ずうと上のほうまできよりましたと。
浜平の壕に何日かおりましたが、
物は何もなし、電気もなし、夜は真っ暗で、
子供が「もうどっか行こう」って言うもんですから、
熊本の姉の所へ行く事にしました。
電気の会社の人でしょうかね。
駅前に出張してきた人からお金をもらって、
長崎駅から乗りました。
もう満員で・・止まり、止まり行ったとですよ。
私のおった車輌にはあまり怪我人がおらんやったです。
佐賀駅で止まって、蚊が多かったのを覚えています。
とにかくたくさん乗っ取ったとね。
熊本の下益城郡の姉のところには18日位おりました。
すると・・。
アメリカ兵が来るから、皆んな避難せろっ!
て言うですもんね。
姉も「自分達は避難するから、あんた達もどこかへ逃げんね」
って言うとですよ。
それでまた熊本と鹿児島の県境の免田という所まで
汽車でいきました。
子供らと生きて。(5)
免田には伯父さんの家がそこにあって、
妹が疎開していっとったとです。
人吉で乗り換えて行ったんですが、
そんな時も、もう普通には電車に乗らずに、
みんな窓から乗り込んだんですよ。
窓の外には下駄や履物が散々です。
私も裸足だったんだと思います。
後から思えば、よく子供一人も迷子にせず、
連れて来れたもんだと思います。
次男に大きい荷物を背負わせて、
一人一人残った鍋釜の道具や親戚からもらった敷物を
小さくむすんでも持たせてですね。
もう、哀れな格好やったとですよ。
やっと、免田で降りました。
汽車の中で「ほら、免田はあそこよ」って教えてくれた人が
いたから助かったとです。
駅を出て、皆でぞろぞろ、後に戻っていきましたとよ。
きれいな月夜で、道にカンカン照って、
遠くに明かりが見えるのに、
行っても行っても辿り着かないんですよね。
大きい子供は「母ちゃん、狐にだまされとっと、
もうここら辺に座っておろうや」って言うし、
小さい子供は「もう歩かない」って言うし、
それを騙し騙しなだめて、ようやく人家に辿りついたとですよ。
そこは、クラブ(公民館)で、
丁度、妹達の所に訪ねていく人がおりましたと。
それで、「一緒に来んですか」って、
言うてくれて助かったとです。
妹達と会うと、喜んでくれてね。
妹の主人は、三菱電機の技師で、
疎開の時に一時、西坂の家に置いてあげた事があったとです。
それで、もしもの時はいつでも来いて言うとったですけんね。
それでも・・・大勢で行って向こうもびっくりしたでしょう。




