閉じる


目次

はじめに

 

第一章 永遠に残れ、滅びないものを求めよ 〜 醍醐寺

  第一節    弥勒菩薩

  第二節    快慶の個人主義 〜重源との関わりから

  第三節    醍醐寺とともに永遠に残る

 

第二章 進化し続け、新しいものを取り入れよ 〜 浄土寺

  第一節      阿弥陀三尊像

  第二節      阿弥陀信仰者としての快慶

  第三節      浄土教、宋様という新しきもの

 

第三章 オールマイティーな存在であれ 〜 金剛峯寺

  第一節      快慶の密教仏

  第二節      どんな仏も彫る仏師であれ

  第三節    修行場でもある金剛峯寺で密教仏を鍛える

 

第四章 時代を代表する存在であれ 〜 東大寺

  第一節      東大寺における快慶仏の数々

  第二節      運慶と時代を築き上げる喜び

  第三節      官立の寺院で活躍することの意味

 

第五章 さらに世界を広げる 〜 安倍文殊院

  第一節      渡海文殊

  第二節      運慶との仕事後、静寂を破った快慶

  第三節  重源の最後の贈り物と、その後の言葉のある世界へ

 

第六章 後世に伝える 〜 大報恩寺

  第一節      十大弟子像

  第二節      弟子は少ないが、満足した人生

  第三節      快慶の声

 

あとがき

 

参考文献など

 

 


はじめに

快慶ミュージアム

 

 

 

はじめに

 

 

 日々読書する中で、「ああ。こんな本を書いてみたい」と思わされる本に出会うことがある。書かれている内容が魅力的なのはもちろん、本全体の構成や伏線の張られ方、タイトルの選び方などを自分も真似してみたくなるのだ。

 そんな魅力的な本に出会えた時は、本当に嬉しい。

 

 それら「書きたくなるような本」の一つは、故・丸谷才一さんの『輝く日の宮』だった。紫式部が綴った源氏物語には、実は後で削除された帖がある、との学説がある。スポンサーである藤原道長が紫式部に対して削除させたというこの説を、丸谷さん独特の恋愛小説に絡めながら紹介している長編小説が、『輝く日の宮』だ。

 学説の謎解きや、ロマンスの行方にもハラハラさせられるが、各章の成り立ちが面白い。主人公が以前書いたという作文の章に始まり、通常の小説文体、年表を書き並べたような章、学会会場でのやり取りを台本風に紹介した章など、とにかく読み飽きない文体が揃えられている。

 私は、『輝く日の宮』を真似て、ふるさと紹介の『安心院(あじむ)まんだら』を書いた。もちろん、丸谷さんのような立派な作品はできないが、単なる紹介文にならぬよう、構成を換骨奪胎させてもらった。

 

 そしてもう一つ、こういう風に書きたいと思わされた本は、福岡伸一さんの『光の王国』。

 福岡伸一さん、通称、「福岡ハカセ」。分子生物学を用いて生命科学を研究する大学教授で、『生物と無生物のあいだ』や『動的平衡』などの著書で、生物学の注目すべきエッセンスを一般人にも分かり易く語ってくれている。また、週刊誌などに数々のエッセイもお書きになっており、その文章が実に美しい。ユーモアを交えながら、文系人間も舌を巻く見事な文で綴られている。

 『光の王国』は、福岡さんが大好きな画家フェルメールの全作品を、世界各地に追った紀行文だ。全日空の機内誌『翼の王国』に連載されたものがまとめられた本で、オランダ王国で活躍したフェルメールが、光のつぶを追い求めながら絵をかいていたという大きなテーマに貫かれて書かれている。

 

 内容の重厚性が、またすごい。

 まず、生物学者の福岡さんらしく、各章では、フェルメールに関わったと推測される科学者を一人ずつ取り上げて、フェルメールの作品とともに紹介されている。顕微鏡の父と呼ばれるオランダのレーウェンフック然り、ニューヨークに活躍の地を求めた野口英世然り、フランスの天才数学者ガロア然り。

 それだけではない。訪れた土地の様子や歴史が的確に捉えられ、そこの美術館で保存されているフェルメールの作品の特徴と絡めて、実に印象的に描写されている。

 そして、その章のサブタイトルは、各章で述べられた科学者、土地の特徴とフェルメール作品すべてを象徴させたものとなっているのだ。

 

                                                                       

 

 この『光の王国』のような本を書きたいと思いながらも、何について書けばよいのか、ずっと思い浮かばずにいた。

 対象が見つかったのが、2014年の夏。鎌倉時代の仏師・快慶に、私は心を奪われてしまった。

 元々仏像鑑賞マニアの私であるが、以前、別の仏像拝観目的で訪れた京都のお寺で、どうしようもなく惹き付けられたのが快慶晩年作の仏像だった。以来、気になる存在となり、2014年、彼の初期の仏像を見て、その完璧な美しさ・高貴さに、ノックアウトされてしまったのだ。

 快慶について調べて何か発信したいと思い立ち、すぐに思い出したのが、『光の王国』をモデルとすること。

 

 改めて『光の王国』を読み直してみると、著者、福岡伸一さんは、紀行を書くにあたって、自己ルールを作っていらっしゃった。すなわち、現存するフェルメール作品を、保管されている現地で見ること。だから、例えば「◯◯展」のような特別展示で日本国内で鑑賞することができても、それは取材対象としないということ。

 私の場合は、これは厳しすぎるルールとなる。快慶の作品は、関西地方を中心として存在するが、仕事の都合上、私が福岡を離れられるのは、年に数回で各回24時間のみ。効率よく鑑賞するために、特別展の展示も対象とさせてもらった。

 また、これまで快慶作と判明している作品は、合計40以上あるが、期間限定の拝観しかできないものもあり、私はすべての作品を訪れることは不可能であった。よって、代表的な、拝観チャンスを得られたもののみについて記すことにした。

 

 紹介した内容は、保管されている寺院別に、快慶代表作の年代順を基本とした。快慶の人生を追う意味も込めて。また、掲載した仏像写真は、各寺院や特別展で購入した絵葉書を中心に使用している。

 

 快慶に対する愛を感じていただければ、幸いだ。


永遠に残れ、滅びないものを求めよ 〜 醍醐寺

第一章                              永遠に残れ、滅びないものを求めよ 〜 醍醐寺[1]    

 

 

第一節    弥勒菩薩[2]

 

 

 京都市にある醍醐寺。「はじめに」に書いた、私がノックアウトされた仏像である快慶作、三宝院[3]の弥勒菩薩坐像がある寺だ。

 

 この弥勒菩薩は、私が仏像に興味を持ち始めた頃から、一度は見たいと思っていた作品である。仏像紹介本などでも必ず取り上げられる美仏でもある。

 しかし、醍醐寺は京都市中心部から離れた場所にあり、アクセスもやや不便な面がある。学生時代に訪ねた記憶があるが、その際に弥勒菩薩を見たか定かではない。仏像ファンになって、「今度見に行こう」と思った時には、すでに遅し、弥勒は非公開仏となってしまっていた。

 その弥勒菩薩が、『醍醐寺のすべて』という特別展で展示されるという知らせに、私は迷わず前売り券を購入した。奈良国立博物館を訪ねたのは夏休みのことで、ちょうど台風が近くを通過しており、行くのが危ぶまれるほどであったが、無事に入館できて本当に良かった。私の人生を変えるくらいの衝撃を受けたのだから。

 

 「はじめに」に、この像が「完璧に美しく、高貴」だと書いた。とにかく、私の筆では語り尽くせないとしか言えない。

 これは、他の快慶ファンも同様のようで、それでも絶妙に語られているブログ『バッハ・カンタータ日記』から引かせていただく。

 

それにしても、思わず息をのむような美しさ。 どんなポスターや図録を観ても、写真ではその神髄は絶対に表現しきれていない。

妖しく微かに発光しているような、いやあたかも光そのものでできているような質感、 はじめから世界に存在している「仏」という超然とした存在そのものを表しているとしか言いようの無い、どの方向から観ても一点のスキもない表情、造形。 さらに、特別すごいのがその瞳。どこから観てもうるうる。 澄み切っていて、あふれるような思いをたたえ、深山のさびしい湖のよう。 玉眼のせいだと理屈の上ではわかるのだが、もはや魂が宿っているとしか思えない。

 あまりにも完璧すぎる美。  芸術作品の場合、完璧すぎると面白くない、というようなこともよく言われるが、 そんな我儘な常套句などどこかに吹き飛ばされてしまうほどに完璧な美。

 

        (中略)

 

無条件に従うしかない絶対的な美というものが存在するのだ。 それがこの像。

 

 おそらくは、博物館という、ライティングも自在に工夫できる空間での展示だったためもあるだろう。その後、どんな写真や図録を見ても、実際に見た時の感動は得られない。                               

 一度だけ、ブログか何かで、実物を見た時と同じ視線の写真を見たことがあるから、展示会では、弥勒が最も美しく見える高さで置かれていたのだろう。ポスターなどでよくある写真は、いずれも真正面から撮られていて、仏を「拝む」高さでは撮られていないので、実物に劣るのかと感じる。

 現在もご活躍の仏師や彫刻家たちが、「やはり快慶より運慶[4]の方が上手い、運慶の方が好きだ」と評していたが、この弥勒菩薩だけは誰もが褒めちぎっている。

 運慶の作った興福寺[5]北円堂[6]の無著・世親[7]像は、イタリアルネサンス[8]をも凌ぐ、日本の肖像彫刻の最高傑作といわれており、私も確かにそう思う。それでも、快慶びいきの私に言わせるならば、無著・世親像は実物を見た時に、写真で紹介されている通りの素晴らしさだと思った。醍醐寺の弥勒菩薩は、写真で予想していた以上のものを感じさせる像だった。

 

 さらに、私のバイブル『見仏記』からも、引かせていただこう。

 

 精神がぴたっと平静であり、はるか遠くまで意識を乱すことなく見通している顔付き。五輪塔を両手で支え、丈の高い宝冠をかぶり、切れ長の目と厚めの唇で人間への親近性をあらわす。

 

                                                                       

 

 醍醐寺三宝院護摩堂[9]の本尊として安置されるこの弥勒菩薩坐像、現在では、国の重要文化財に指定されている。

 醍醐寺の座主[10]勝賢を願主[11]として、快慶が建久3年(1192年)8月につくりはじめ、11月に供養された。後白河法王[12]が同年3月に没しており、本像は後白河法王の供養のために造立されたと考えられている。

 

 弥勒菩薩というと、有名な京都・広隆寺や、奈良・中宮寺の像のように、半跏思惟[13]像を思い浮かべることが多い。が、これは飛鳥・奈良時代が主で、平安・鎌倉時代になると立像や坐像として表されることが多くなる。

 この醍醐寺の弥勒菩薩坐像は、密教や宋式の影響を受け、定印[14]上に宝塔を乗せるという作像になっている。

 

 寄木造[15]で玉眼[16]を嵌入、金泥を塗り、截金[17]文様が施されていることにより、写実的な要素を持ちながら、この世のものとは思えない美しさも感じる。

 金泥塗りの現存最古の作品としても重要とされている。

 金泥塗りとは、まず金箔をたたいて、すりつぶし、金粉をつくる。それを膠[18]で練って、どろどろにしたのが、金泥。それを仏像の表面に塗るのが金泥塗りである。宋代美術から受容したとみられる仏像の仕上げ法だ。

 金泥塗りは一粒ひとつぶの金を仏像の表面にびっしりと並べた感じ。一粒ひとつぶの金は、光を受けるとそれぞれがそれぞれに光るから、柔らかみもあって、明るいところから暗いところまで、だんだん変化する調子がついている。全部が光り輝く漆箔塗り[19]と異なる、まわりから浮かない美しさが表現される。

 快慶が用いて以後、仏像肉身の金色表現の主流になった。玉眼と同じく仏像を生身のように見せる重要な技法である。

 

(図1)弥勒菩薩坐像

 

第二節    快慶の個人主義 〜重源[20]との関わりから

 

 

 年記のわかる快慶の現存作品の中で、醍醐寺の弥勒菩薩は、彼の称号「アン(梵字)阿弥陀仏」を記す最初の作品でもある。「阿弥陀仏」号は、彼が、南無阿弥陀仏と号した重源に帰依して、念仏衆[21]となったことを示している。

 以後快慶は、自身の作に「巧匠アン阿弥陀仏」の署名をする例が増えるが、この「巧匠」の名のりに、快慶の強烈な自負と、強い個性を感じる。

 当時、作品に銘を入れることは稀だった時代に、「巧匠」の二文字も加えて記したこと。運慶とちがって仏師の血縁に生まれた訳ではなく、一説によると醍醐寺にたどり着いた孤児であったともされる快慶。己の実力で名を残さねばならないという切迫感と、自分には名を残す価値があるという自信と。

 快慶の最初の遺品であるボストン美術館蔵の弥勒菩薩立像は自らの発願による作品であったが、醍醐寺の弥勒菩薩は、そうではない。醍醐寺座主という、れっきとした有力者からの依頼仏なのだ。それを完璧に仕上げてみせた証としての銘記である。

 

                                                                       

 

 さて、ボストン美術館の弥勒菩薩の銘は「仏師快慶」であり、醍醐寺のものは「アン阿弥陀仏」であることから、この間に快慶は重源と出会っていたものと思われる。

 「阿弥陀仏」の号からわかるように、快慶は重源の説く浄土の教えを深く信仰していた訳だが、快慶が重源から学んだものは、信仰だけではないような気がする。

 齢60を超えてから、一介の無名僧であった重源が、官営の東大寺修復への大勧進職に任命されたという事実。そして、その仕事をみごとに実行にうつしていった重源のエネルギー。

 重源は、才能があふれながらも運慶のように血縁の後ろ盾を持たない快慶に対して、仏師として実力で生きて行きよと諭したにちがいない。そのためには、「快慶」の名を残すよう、作品に銘を残すことも指導したかもしれない。

 

 そして、メンター重源から快慶が言われたのは、銘を入れることだけではなかったと思う。後世に残るには、名前だけではだめで、やはり「何を残したか」ということが重要になる。重源の場合は、もちろん東大寺修復のための、日本全国にわたる大勧進の業績である。

 快慶は何を残せるのか。

 仏像そのものであることは当然であるが、見ただけで快慶作とわかる仏像をつくることである。つまり、仏像製作における作風を完成させることだ。

 結果として、快慶は「安阿弥様[22]」を残したが、当初から安阿弥様、なかでも三尺阿弥陀を自身のテーマとしていた訳ではないだろう。数々の仏像をつくり、熱心な阿弥陀信仰者として生きる中で、生み出された作風であったに違いない。

 それでも、己のライフワークを見つけるべきであることは、重源によって最初から指導されてきたことだと思われる。

 

 

                第三節    醍醐寺とともに永遠に残る

 

 

 永遠に残るもの、という点では、醍醐寺そのものも結果としてそうなったようだ。

 現在、国宝69,419点、重要文化財6.522点を保有する大寺院として発展してきた醍醐寺。明治時代の廃仏毀釈[23]運動を乗り越えてここまでくるには、相当の努力があったものと推測される。恐らくは、醍醐寺が僧侶だけではなく、歴代の天皇家や貴族、あるいは武家や民衆からも強い支持を受けていたことが要因であったろう。

 

 余談であるが、醍醐寺におさめられている快慶の不動明王[24]も、一見の価値ありだ。

 私は当初、この不動明王の存在を知らなかったのだが、『醍醐寺のすべて』展で、ものすごく怖い形相の不動明王に目を奪われた。見た瞬間に「怖い」と思わされた不動明王は、私の中で最強だったかもしれない。「怖い」が、とてもわかりやすいのだ。

 それは割に小ぶりの坐像で、横の説明書きを見ると、快慶作とある。弥勒菩薩坐像を見て快慶にノックアウトされていた私は、快慶の魅力の広さにも恐れ入った。

 

(図2)不動明王坐像

 

 

 醍醐寺の数多ある寺宝の中でも、永遠に愛され慕われる存在となっている快慶の弥勒菩薩坐像。その理由の一つには、後白河法王の法要のためにつくられたという歴史的裏付けがあるだろう。法要供養仏となれば、後の世代になっても大切に受け継がれるに違いない。

 あるいは、重源はそこまで見越した上で、快慶に造仏を命じたのかもしれない。自身の業績を永遠に生き残らせるために、永遠に残るであろう仏をつくらせる。

 重源の真摯なもくろみが、快慶によって現実のものとなった。

 



[1]醍醐寺(だいごじ)

京都市伏見区にある、真言宗醍醐派総本山(一派を統轄する寺)の寺院。古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。伏見区東方に広がる醍醐山に200万坪以上の広大な境内をもつ寺院で、豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られている。

               

[2]弥勒菩薩(みろくぼさつ)

仏教において、現在仏である釈迦の次にブッダ最高の位の悟りを開いた人)となることが約束された菩薩(修行者)で、釈迦の死後567千万年後の未来にこの世界に現れ、多くの人々を救済するとされる。現在の弥勒はまだ菩薩だが、遠い未来の姿を先取りして、如来(修行完成者)形の仏像も作られている。

 

[3]三宝院(さんぽういん)

醍醐寺の子院。安土桃山時代豊臣秀吉の信頼が厚かったため、同院を中心に「醍醐の花見」が開かれた。

 

[4]運慶(うんけい)

平安時代末期、鎌倉時代初期に活動した仏師。奈良仏師・康慶の子。

 

[5]興福寺(こうふくじ)

奈良市にある、法相宗大本山の寺院。南都七大寺の一つ。藤原氏ゆかりの寺院で、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。「古都奈良の文化財」の一部として、世界遺産に登録されている。

 

[6]北円堂(ほくえんどう)

                興福寺に現存している中で最も古い建物で国宝。

 

[7]無著・世親(むちゃく・せしん)

                無著・世親の兄弟は、5世紀頃のインドで活動した学僧。

 

[8]ルネサンス

                文芸復興。古代ギリシアローマの文化を復興しようとする文化運動であり、

      14世紀にイタリアで始まり、やがて西欧各国に広まった。

 

[9]護摩堂(ごまどう)

三宝院の本堂。

 

[10]座主(ざす)

                住職最上位。

 

[11]願主(がんしゅ)

                神仏に願をかけた当人。

 

[12]後白河法王(ごしらかわほうおう)

後白河天皇平安時代末期の第77天皇。出家後、法王となった。その治世は戦乱が相次ぎ、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるが、そのたびに復権を果たした。政治的にはその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築した。寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。

 

[13]半跏思惟(はんかし(ゆ)い)

台座に腰掛けて左足を下げ、右足先を左大腿部にのせて足を組み(半跏)、折り曲げた右膝頭の上に右肘をつき、右手の指先を軽く右頰にふれて思索する(思惟)姿。

               

[14]定印(じょういん)

坐像で、両手の掌を上にして腹前(膝上)で上下に重ね合わせた形。 

 

 

[15]寄木造(よせぎづくり)

仏像制作上、いくつかの木材をはぎ合せて仕上げる方法。定朝により一定の法則が完成された。一木造には大木が必要であるが、寄木造では小木で巨像を造ることができ、また仏像の需要が増したことにより、1体の像を同時に多数の仏師で能率的に制作することができる。平安時代中期頃から始まった。

 

[16]玉眼(ぎょくがん)

                仏像をより本物らしくみせるために水晶の板をはめ込む技法。

 

[17]截金(きりかね)

金箔を数枚焼き合わせ細く直線状に切ったものを、筆と接着剤を用いて貼ることによって文様を表現する伝統技法である。日本においては特に仏像仏画の衣や装身具を荘厳するために発達してきた。

 

[18]膠(にかわ)

                動物の骨からとれたものを溶かした液体。

 

[19]漆箔塗り(しっぱくぬり、うるしはくぬり)

                金箔を貼ったもの。

 

[20]重源(ちょうげん)

平安時代末期から鎌倉時代日本。東大寺大勧進(仏教僧侶寺院仏像などの新造あるいは修復・再建のために浄財の寄付を求めること)職として、源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たした。

 

[21]念仏衆(ねんぶつしゅう)

                浄土宗・浄土真宗・時宗の信徒。(快慶の場合、浄土宗)

 

[22]安阿弥様(あんなみよう)

快慶の理知的、絵画的で繊細な作風。快慶様とも。三尺前後の阿弥陀如来像の作例が多い。

 

[23]廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)

仏教寺院・仏像・経巻を破毀し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃すること。日本においては一般に、神仏分離を押し進める、明治維新後に発生した一連の動きを指す。

 

[24]不動明王(ふどうみょうおう)

密教特有の尊格である明王の一尊。真言宗をはじめ、天台宗禅宗日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で幅広く信仰されている。

 

進化し続け、新しいものを取り入れよ 〜 浄土寺

第二章              進化し続け、新しいものを取り入れよ 〜 浄土寺[1]    

 

 

第一節      阿弥陀三尊[2]

 

 

 兵庫県小野市にある浄土寺。福岡からここを訪ねるのは、かなり大変だ。

 新幹線を姫路駅で降り、JR在来線を乗り継ぎながら、加古川を通って、粟生駅へ。そこからは私鉄電車に乗り換えて、小野駅まで。路線バスの本数は少ないので、タクシーで浄土寺まで行くことになったが、帰りのタクシーを呼んで待つのに結構時間がかかった。

 

 それでも訪問する価値のあるお寺と仏像である。

 巨大な阿弥陀三尊が、雲に乗って来迎[3]するさまが神々しい。自分の寿命のお迎えまでに、一度はお参りしておいて良かったと思える。

 三尊の背後から浄土堂に射し込む夕陽が、本尊の後光となるように演出されており、建築を担当した重源と、造像した快慶の見事さというほかない。また、晴れた日の夕刻には、西日により堂内全体が朱赤に深く輝くように染まり、三尊もより浮かび上がるように見えるとのこと。

 スケジュールの都合で、福岡から日帰りで訪ねた身には、夕方まで待つ訳にはいかなかった。いつか機会があえば、真っ赤に染まる阿弥陀三尊を見たい。

 

                                                                       

 

 浄土寺。重源が、東大寺再興造営のために東大寺以外の各地に営んだ別所[4]の一つ、播磨別所のことである。

 快慶は、ここの造像にも起用された。重源の同行衆[5]として抜擢されたと考えられている。

 

 この寺の浄土堂の阿弥陀三尊立像は、建久6年(1195年)の造像であるが、東大寺大仏殿の造像と並行して行われた。現在、浄土堂とともに国宝に指定されている。

 

 浄土堂の本尊であるこの阿弥陀三尊像。いずれも木造で、中尊は丈六[6]、観音菩薩と勢至菩薩[7]の両脇侍はそれぞれ一丈という大きさだ。 

 

(図3)阿弥陀三尊像

 

 阿弥陀如来像は、一般的な来迎の印相[8]とは左右逆に、左手の掌を上に向けて上げ、右手を下げる。左脇侍の観音菩薩は、両手とも胸の高さに上げ、左手には水瓶をとる。右脇侍の勢至菩薩は、蓮華をとる。

 これらは、当時、重源が所持していた宋画の阿弥陀三尊を立体化したものとして知られ、特異な形式はそれに由来する。浄土寺の像の四角張った長い顔、先のとがった長い爪なども、当時最先端の宋風スタイルによったものである。

 

 なお、快慶が作成した浄土寺のもう一つの像、阿弥陀如来立像(裸形)は、現在では奈良国立博物館のなら仏像館に展示されている。いわゆる「センター」でだ。

 

 浄土堂そのものも、当時の建物として現存するという意味で価値の高いものだ。私は建築について詳しくないが、「大仏様」と呼ばれる、やはり宋から取り入れた最新建築様式でつくられている。

 

 

第二節      阿弥陀信仰者としての快慶

 

 

 さて、ここでは、阿弥陀信仰者としての快慶について考えてみたい。

 

 のちに、「安阿弥様」として三尺[9]の阿弥陀如来立像をつくることをライフワークとした快慶は、造像を指示された重源の影響だけでなく、自らも深い阿弥陀信仰を持っていたと考えられる。

 阿弥陀信仰」とは、「浄土信仰」とも言われ、快慶は時代的に、法然が確立した浄土宗の信仰者であった。重源を通して、直接、法然とも交流があったかもしれない。

 法然の提唱した「専修念仏」とは、「南無阿弥陀仏」と称えることで、貴賎や男女の区別なく西方極楽浄土へ往生することができるとするものであり、往生は臨終の際に決定されるとした。

 

 阿弥陀信仰が、造仏以外で快慶に与えた影響は何かあっただろうか。彼の生き方を左右するような場面で、信仰はどう働いたのだろうか。

 後世からみて、快慶に最も苦悩を与えたといえば、やはり法橋[10]の地位を、運慶の息子である湛慶[11]に譲った一件だろう。

 戦火に焼け落ちた東大寺[12]を重源が再興するなかで、快慶は中門の多聞天[13](現存せず)をつくりあげた。この造仏に対して、快慶に法橋位が与えられるであろうことは誰もが予想したことであったが、承久6年(1195年)、その賞は湛慶に譲られ、快慶は無位のままとなった。

 すでに法橋位にあった運慶が、その父、康慶から賞を譲られて法眼となったのとは、まるで対照的な出来事であった。運慶はこの時期、東国にいて、東大寺再建への貢献はほとんどなかったにもかかわらず、だ。

 

 この法橋譲りについては、数々の快慶研究者たちが解釈を加えている。重源でさえ、快慶の法橋位を確信していたが、政治的な理由からそれがかなわず、快慶に謝ったという説もある。快慶が小説として描かれたものでは、信仰者である快慶は、この時におよんでも乱れることなく、じっと耐えたと描かれている。

 当時の一流仏師のうちで、快慶ほど信仰に徹した者はいないと考えられている。「その身浄行なり」と評される中、やはり快慶は、法橋譲りに内心うろたえながらも、一途に念仏を唱え造仏に励む日々を送るよう努めたのだろうか。血統に恵まれずに苦境をなめなければならない身を恨みつつも、いつか報われる日が来ることを信じて、造仏に向かったのだろうか。その姿を見て、重源はどう慰めたのだろうか。

 

 スキャンダルを乗り越えて、最終的に法眼までのぼり、名実ともに栄誉を残した快慶。揺るがぬ信仰があったから、そこまで頑張ることができたのだと解釈すべきなのだろうか。

 

 

第三節      浄土教、宋様という新しきもの

 

 

 快慶が熱心に入り込んだ阿弥陀信仰、すなわち浄土教は、今でこそ鎌倉仏教などと呼ばれるが、当時としては新興宗教の類であった。浄土宗の祖、法然はそれ故、迫害されたりもしている。

 そんな新しいものを人生に取り入れた快慶であるが、彼の作品においても、新しいものに取り組むという気概は顕著に表れている。先に説明した浄土寺の阿弥陀三尊像に見られる宋様しかり、醍醐寺の弥勒菩薩をはじめとする金泥塗りも宋から伝わったものとされている。

 それまでの日本の伝統様式から逸脱した仏像をつくった背景には、もちろん重源の指導もあるが、それを自分の中で充分に消化した快慶の意欲も必要条件だったと思われる。

 あるいは、銘に梵字アンを使用したことも、新しい世界を求めた快慶の独自性を示している。当時の仏師のなかで、署名に梵字を用いたものは他にいないからだ。

 慶派の中で、血統を持たない快慶にとって、失うものは何もなかった。新しいものに挑戦して失敗しても、誰に迷惑をかけるでもない。己だけが責任をとればいいだけの話だ。

 快慶が後世に名を残す仕事ができたのは、伝統的仏像制作だけでなく、宋様のような新しいものに常に挑戦し続けた結果でもあろう。

 

 ただ、この挑戦の多くは、やはり重源の影響が大きいといわざるを得ない。

 密教僧として醍醐寺で修行をつんだ重源が、危険視されていた浄土宗を利用し、民衆の心をとらえながら東大寺の勧進を進めるという大胆な計画。

 浄土寺の建築そのものにしても、大仏様といわれる様式で建てた浄土堂は、現在では非常に貴重なものとして国宝指定がなされている。

 ここでも、重源の先見の明に驚嘆するほかない。

 



[1]浄土寺(じょうどじ)

兵庫県小野市にある高野山真言宗寺院。開山は重源で、多数の文化財を所有する古刹として知られる。大仏様建築の浄土堂と快慶の大作「阿弥陀三尊像」は特に著名である。

       

[2]阿弥陀三尊(あみださんぞん)

仏教における仏像安置形式の一つである。阿弥陀如来(大乗仏教如来の一つで、西方にある極楽浄土という仏国土を持つ)を中尊(中央に位置し、信仰の中心となるほとけ)とし、左脇侍(中尊の左右に控え、中尊の教化を補佐する役割をもつとされる)の観音菩薩と、右脇侍勢至菩薩を配する三尊形式である。

 

[3]来迎(らいごう)

浄土教において、紫雲に乗った阿弥陀如来が、臨終に際した往生者を極楽浄土に迎える為に、観音菩薩勢至菩薩を脇侍に従え、諸菩薩や天人を引き連れてやってくること。

 

[4]別所(べっしょ)

                仏教寺院の本拠地を離れたところに営まれた宗教施設。

 

[5]同行衆(どうぎょうしゅう)

                阿弥陀信仰で結ばれたグループ。

 

[6]丈六(じょうろく)

仏像の背丈の一基準。仏は身長が16 ( 4.85m) あるといわれることから仏像も丈六を基準とし,その5倍,10倍,また2分の1などに造像された。なお、は、中国や日本の伝統的な長さ単位で、1丈は約3メートルである。

 

[7]観音菩薩と勢至菩薩(かんのんぼさつ、せいしぼさつ)

観音菩薩は阿弥陀如来の「慈悲」をあらわす化身とされ、勢至菩薩は「智慧」をあらわす化身とされる。観音菩薩は、頭上の髻の正面に阿弥陀の化仏を表し、勢至菩薩は同じ位置に水瓶を表す。

 

[8]印相(いんそう)

ヒンドゥー教及び仏教の用語で、両手で示すジェスチャーによって、ある意味を象徴的に表現するもの。

       

[9]尺(しゃく)

尺貫法における長さ単位。日本では、明治時代1=(10/33)メートル = 30.3cmと定義された。

 

[10]法橋(ほっきょう)

僧位僧侶に対し与えられた位階)の一つ。僧位は、平安時代後期以降、定朝(第三章脚注18を参照のこと)が叙されたのを皮切りに、仏師絵仏師連歌師などにも与えられるようになった。僧位として、法印大和尚位(略して法印ともいう)、法眼和上位(同、法眼)、法橋上人位(同、法橋)がある。

 

[11]湛慶(たんけい)

運慶の嫡男。快慶とも多くの仕事をした。作風は、運慶の力動感溢れる存在感と、快慶の絵画的な写実を調和した穏健な様式を作り上げたと評される。代表作として、妙法院・三十三間堂の本尊、千手観音坐像。

 

[12]東大寺(とうだいじ)

                第四章を参照のこと。

 

[13]多聞天(たもんてん)

仏教における天部神で、持国天増長天広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神である。四天王としてだけでなく、独尊としても信仰の対象となっており、毘沙門天などの呼び方がある。


オールマイティーな存在であれ 〜 金剛峯寺

第三章                    オールマイティーな存在であれ 〜 金剛峯寺[1]    

 

 

第一節      快慶の密教[2]

 

 

 金剛峯寺には、快慶の密教仏が多くある。

 珍しい造形としての孔雀明王[3]像。現存しない東大寺[4]大仏殿の四天王[5]像の雛型ともいわれる四天王像。そして、執金剛神[6]立像と深沙大将[7]像はペアで語られることが多い。

 いずれも、国の重要文化財に指定されている。

 

 私は、深沙大将像を除くこれらの仏像たちを、高野山開創1200年に合わせて行われた『高野山のすべて』展で見ることができた。学会ついでに立ち寄った東京のサントリー美術館に加えて、大阪のあべのハルカス美術館にも見に行った。

 運慶の八大童子[8]像も素晴らしかったが、快慶の仏像たちも、決して負けてはいない。

 

      *     *

 

 作成順に見ていこう。

 まず、四天王立像。

 建久7年(1196年)頃につくられ、木造。重要文化財に指定されている。

 東大寺大仏殿像と同形の「大仏殿様四天王像」最古の遺品であるが、大仏殿像の雛型そのものであった可能性が高いとされる。中でも、広目天像には快慶の銘があり、大仏殿像でも快慶が広目天を担当したことと関係がありそうだ。

 金剛峯寺の広目天像は、135cmほどの大きさであるが、相当にかっこいい。現存しない大仏殿広目天像は、巨大なものだったから、その迫力や、いかほどであったろうか。

 大仏殿様四天王像については、他に大仏殿の原像に近いものとして海住山寺[9]の四天王(現在は奈良国立博物館に寄託されている)が挙げられるが、広目天に関する限り、金剛峯寺の快慶作の方が圧倒的に重量感がある。

 大仏殿様四天王像というのは、当然、大仏殿四天王像の雛型として作られた訳だが、これらが実際の巨大像として完成された時のことを考えてみよう。海住山寺の像が、脚長でプロポーションが良すぎるあまり、下から仰ぎ見た時の像全体は、おそらく不釣り合いなものだと想像される。片や快慶の広目天に至っては、ずっしりした構図が、いかにも上から睨み付けれられるのにちょうど良い。

 

(図4)四天王立像

 

(図5)広目天像

 

 執金剛神立像と深沙大将立像について。

 12世紀末につくられたとされ、木造、いずれも重要文化財だ。

 この2体は、本当に「怖い」としか言いようがない。髪を逆立て、執金剛神は右足をあげて激しく下方の我々をにらんでいる。深沙大将は、同様に髪を逆立て、口を大きく開けて歯をむき出している。膝には象面、蛇を身体に巻きつけ、首周りに髑髏。おどろおどろしい。

 快慶は、この特異な組み合わせの像をもう一組つくっている。京都・金剛院[10]に現存するが、こちらの執金剛神は、東大寺法華堂[11]の奈良時代の塑像[12]の模倣である。金剛院の深沙大将の形姿は、密教の諸尊法,経法に関する図像集に描かれている図像に近い。つまり、金剛院の二像は、いずれも古典の忠実な再現といえよう。

 

(図6)執金剛神立像

 

(図7)深沙大将立像

 

 孔雀明王坐像。

 正治2年(1200年)につくられ、木造。光背[13]・台座[14]・持物[15]は後補とされているが、重要文化財に指定されている。

 四臂が巧みに配置されいて違和感がなく、さすが快慶の上手さだと思わされる。

 

(図8)孔雀明王坐像

 

 

第二節      どんな仏も彫る仏師であれ

 

 

 金剛峯寺の執金剛神立像と深沙大将立像は、長らく製作者が判明せず、快慶作とわかって重要文化財に指定されたのは、近年のことである。このような憤怒像を快慶がつくったとは、皆もあまり考えていなかったこともあるだろう。

 確かに、快慶の生涯で見ると、いわゆる「安阿弥様」のように穏やかで美しい仏像を多く作成してはいる。しかし、金剛峯寺に存在するような密教仏も少なからず彫っており、その完成度も素晴らしい。第一章で述べた醍醐寺の弥勒菩薩も、密教仕様だ。

 

 快慶が密教界の仏像製作にも携わっていたことは、重源が醍醐寺という真言宗の寺出身であることに加えて、彼らの阿弥陀信仰が密教的理解の上に経つものであったことが影響しているだろう。時は平安時代末期から鎌倉時代へ移る頃。密教が日本中に広まっていた中、浄土宗がようやく世間で認知され始めた時代である。

 快慶の銘が、「アン阿弥陀仏」と梵字を使用し、かつ阿弥陀の名を有していることは、彼らの密教的土台に基づく阿弥陀信仰を象徴するものと考えられる。

 

 しかし、快慶が密教仏をつくったのは、時代の要請だけではなく、重源の戦略もあったかも知れない。将来的に名を残す仏師となるには、己の得意分野の仏像のみを彫っているだけでは駄目だ。あらゆる依頼先からの作像に応えるには、あらゆる仏像を彫る技を有しておかねばならない。それにより、広く長く、人口に膾炙する存在になれるのだ。そう考えた重源は、高野新別所としての金剛峯寺で、多くの仏像製作を快慶に任せたのだろう。

 さらに、戦略的な重源のことだ。本来の目的である東大寺復興の青写真を頭に、大仏の脇侍のモデルとなる四天王をまず作らせ、東大寺法華堂も意識してか執金剛神の作成も命じた。実際に東大寺の作像において、快慶を重要なポストに布陣させるための実績を残すためだ。

 

 同時に深沙大将まで彫り上げたのは、以前、金剛院でつくった二体を思い出したこともあろうが、「これでどうだ」と重源の期待以上の仕事をしようとした快慶の自負に思われる。

 あらゆる種類の仏像を彫る経験は、後日、東大寺の僧形八幡神[16]にも及んだ。これは重源の指示のよるものではないとされている。この像を見た重源は、おそらく、神仏習合[17]にまで広くなり、かつ深い快慶の守備範囲に、舌を巻いたことだろう。

 

 快慶の安阿弥様は、奈良様の写実性を基に、定朝[18]に代表される藤原様をもって完成している。が、快慶の守備範囲は、第二章で述べた宋風に加え、密教様にも及んでいるのだ。そして、諸要素を完全に自分のものに消化して、個性ある高次の独立様式へ昇華しているのは、本当に素晴らしい。

 

 

第三節    修行場でもある金剛峯寺で密教仏を鍛える

 

 

  どちらかといえば優雅な、いわゆる「安阿弥様」で知られる快慶が、金剛峯寺でこれほどまでに憤怒像を彫り続けたのは、オールマイティー仏師としての修行の面もあったかもしれない。東大寺の完全復興に向けて、南大門の仁王像についても、重源は当然考えていたであろうし、それらの製作を快慶に成功させるためにも、ここ金剛峯寺で練習させたのであろう。

 

 密教僧の修験の場として知られる金剛峯寺で、快慶もまた、修行したのだ。



[1]金剛峯寺(こんごうぶじ)

和歌山県にある高野山真言宗総本山の寺院。高野山は、標高約800mの平坦地に位置し、100ヶ寺以上の寺院が密集する宗教都市である。京都の東寺と共に、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)が宗教活動の拠点とした寺であり、真言密教の聖地、また、弘法大師信仰の山として、21世紀の今日も多くの参詣者を集めている。「金剛峯寺」という寺号は、明治期以降は1つの寺院の名称になっているが、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義であった。

 

[2]密教(みっきょう)

密教とは「秘密の教え」を意味する。一般の大乗仏教(顕教)が民衆に向かって広く教義を言葉や文字で説くのに対して、密教は極めて神秘主義的・象徴主義的な教義を教団内部の師資相承によって伝持する点に特徴がある。本格的に日本で紹介されることになるのは、唐において本格的に修学した空海806年に日本に帰国してからであるとされる。日本の伝統的な宗派としては、空海が真言密教として体系付けた真言宗(東密)と、最澄によって創始された日本天台宗(台密)がある。日本の密教は霊山を神聖視する在来の山岳信仰とも結びつき、修験道など後の「神仏習合」の主体ともなった。

 

[3]孔雀明王(くじゃくみょうおう)

密教特有の尊格である明王1つ。憤怒の相が特徴である明王のなかで唯一、慈悲を表した菩薩形をもつ。孔雀の上に乗り、一面四臂(腕)の姿で表されることが多い。孔雀は害虫コブラなどの毒蛇を食べることから孔雀明王は「人々の災厄や苦痛を取り除く功徳」があるとされ信仰の対象となった。

 

[4]東大寺(とうだいじ)

                第四章を参照のこと。

               

[5]四天王(してんのう)

仏教における、4人の守護神をいう。須弥山(仏教の世界観で中心にそびえる聖なる山)の四方を守護し、持国天は東を、増長天は南を、広目天は西を、多聞天は北を守護する。たいてい邪鬼を踏みしめて立つ。第二章の脚注13も参照のこと。

 

[6]執金剛神(しゅこんごうしん、しゅうこんごうしん、しつこんごうしん)

仏教の護法善神である。金剛杵(仏の智慧が煩悩を打破する武器)を執って仏法を守護するため、この名がある。金剛力士と同じだが、金剛力士は2人の裸形姿であるのに対し、執金剛神は1人の武将姿として造形安置されるのが一般的である。

 

[7]深沙大将(じんじゃたいしょう、じんじゃだいしょう)

仏教守護神の一人。玄奘三蔵インドへ行く途中、砂の中から現れ、玄奘を守護したと伝えられる。姿は、一面二臂で髑髏瓔珞菩薩以下の仏像に用いられている首飾り、胸飾り)をつけ、象革の袴を履き、(古くから中国に存在する武器)を持つものがある。

 

[8]八大童子(はちだいどうじ)

不動明王に随従する8種の尊像を童子形に造形化したもの。

 

[9]海住山寺(かいじゅうせんじ)

                京都府木津川市にある真言宗の寺院。

 

[10]金剛院(こんごういん)

京都府舞鶴市にある真言宗の寺院三島由紀夫の小説「金閣寺」の舞台の一つ。

               

[11]法華堂(ほっけどう)

東大寺にある8世紀建立の仏堂。一般に三月堂として知られ、国宝。東大寺に現存する数少ない奈良時代建築の1つであり、堂内に安置する仏像も奈良時代の作である。

 

[12]塑像(そぞう)

塑造(粘土油土などで彫刻原型造ること)によって作成した彫像などの立体造形のこと。

 

[13]光背(こうはい)

仏像仏画をはじめキリスト教の聖人などで体から発せられる後光をあらわしたもの。

 

[14]台座(だいざ)

仏像や肖像彫刻などを安置する台。特に仏像においては、仏を神聖化するために種々の形式がある。

 

[15]持物(じもつ)

仏像が手に持っている物。仏像の性格を示す標識と考えられ,仏像の名称の決定に重要な役割をもつ。

 

[16]僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)

第四章を参照のこと。

 

[17]神仏習合(しんぶつしゅうごう)

日本土着の神祇信仰仏教信仰が混じり、一つの信仰体系として再構成された宗教現象。

 

[18]定朝(じょうちょう)

平安時代後期に活躍した仏師寄木造技法の完成者とされる。代表作は平等院京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院)本尊の木造阿弥陀如来坐像(国宝)。



読者登録

小池楓生子さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について