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幸せは努力の先にある

 

 私はその日を楽しみにしていた。

 

 好きな相手に恋人がいることを知ってしまった日、理不尽なことで上司に怒られた日、カップ麺を作っている途中に来客があり、なかなか帰ってくれないためにびよんびよんに伸びてしまったラーメンを食べることになった日も、私はその日がやってくることを糧にして乗り切った。

 

 何度くじけそうになっただろう。何度泣きそうになっただろう。何度会社を辞めてやろうと思っただろう。でも、私はそれら全てに打ち勝ったのだ。耐えたのだ。

 

 たった一つのことを思い、信じ、今ようやくそれを手に入れようとしている。長い長い日々も、今思えばこの日のための前菜だったんだ。これで心置きなくメインディッシュが味わえるというもの。

 

 もはやそれが肉であろうと魚であろうと、はたまた昆布であろうとも構わない。きっとそれがどんなものであっても、今の私の舌は私にとっての最高の料理人となってくれる。

 

 私は大量のよだれ、もとい期待をうちに秘めながら最後の一時間を過ごしている。

 

 現在の時刻は午後430分。私の会社の帰社時間は530分である。あと一時間、仕事をしている風を装いデスクに座ってさえいれば、私は最高のメインディッシュにありつけるのだ。

 

あまりに感情が高まりすぎて、思わず笑ってしまいそうになる。

 

 というか、笑ってしまった。

 

 私の前の席に座っている。林が怪訝な顔でコチラを見ている。

 

 私は別に林とコミュニケーションをとりたくて笑ったわけではないので、「なに見てんだよ」的な顔をしてその視線をかわす。

 

 

 

 

 

 

 時計を見ると時刻は435分。あれからまだ5分しか経っていない。

 

 おかしい。私の腹時計を見るともう30分以上が経過している。

 

 この会社は、従業員により多くの仕事をしてもらうため530分までの最後の1時間は時間がゆっくり進むタイプの時計を採用しているのだろうか。

 

 そんな時計がこの世に存在しているかどうかはわからないが、きっとA○azonかどこかで買ってきたのだろう。現代はネット環境があればどんなものだって買えてしまうのだ。

 

 会社のこういうところが好きになれない。何のために労働基準法があると思っているんだろうか。

 

というか、労働基準法ってものを知らないのではないか。それなら私が社長室に行って教えてあげよう。

 

 いや、とりあえず今日のところは530分になったら、すぐさま帰る用意をして会社を出るのだ。

 

今の私の頭は、明日のことを考えることで忙しい。

 

 私は、仕事をしているように見えるよう、パソコンで適当なことを検索し少し強めにエンターキーを押す。と、後ろから声をかけられた。

 

「斎藤さん、また仕事サボってるんだね?」

 

 ニヤニヤしながら声をかけてきたのは同期入社の佐々木である。

 

 2年前、この会社に入社してからというもの、佐々木はいつも私にべったりくっついて離れようとしない。2年経った今でも一日に一回は声をかけてくるどうしようもないやつである。

 

「これがサボっているように見える?目が悪いんじゃない?眼科に行った方がいいよ。」私は高圧的な態度でそう答える。「いいや、眼科に行っても手遅れだろうからいっそ新しい目を買ったらどう?そうね、A○azonあたりで売ってるんじゃないかしら。」

 

 私が冗談を交えながらそう言うと「ずいぶん美味しそうな仕事だね」と佐々木が意地悪を言う時の顔をして答える。

 

 パソコンの画面を見ると、いろんな色をしたマカロンが売られているページが表示されていた。しかも他のタブには『スイーツ』や『人気 お菓子』などのページがある。

 

「まぁ、金曜のこの時間だからテンションも上がってるんだろうけど、上司に見つからないようにね」と言って、佐々木はその場を去っていった。

 

 上司でもないくせに、他人の仕事にケチをつけるどうしようもないやつである。

 

 

 

 

 530分まであと30分。佐々木とろくでもない会話をしていたおかげで少し暇を潰すことができた。もはや、『暇』という表現をしてしまうほど仕事に戻ろうとは思えなくなっているらしい。

 

 まぁでも、実際やることがないのだ。

 

 ただ、やることがないからといって家に帰ることができないのが会社というところ。社会というどこの誰が作った概念かもわからないものを尊重するのが、我々社会人というものなのだ。

 

 残り30分となったところで私はトイレに行くことにした。これで5分間は暇を潰すことができる。

 

 個室に入りスマートフォンを取り出す。誰からも電話もメールも来ていない。少し寂しい気持ちになりつつ、意味もなく画面をスクロールする。と、何人かトイレに入ってくる。

 

 どうやら他の個室も埋まっていて、どこかの個室が空くのを待っているようだ。帰社時間まで残り30分をきっているというのに、この人達は仕事もせずにトイレなんかに来るなんて、何を考えているのだろうか。みんな仕事を早く終わらせることに必死になっているというのに。

 

 仕方がないのでトイレを出ることにする。3分しか潰せなかった。

 

 しかし、良い考えが浮かんだ。のどが渇いたことにして別館の自動販売機まで飲み物を買いに行くのだ。我ながらナイスなアイデアである。

 

 ただし、それだけで27分潰すことはできないから、別館までの道のりをゆっくり歩きながら他の作戦も考える。と、そんなに時間を使うことなく別館の自販機に着いてしまった。

 

 それはそうだ。別館といっても、本館のすぐ隣に建った建物なのだから。それでも、なるべく時間を潰すため、別館の最上階である5階にある自販機に行くことにする。しかも階段で。

 

 ふぅ、ちょっと疲れた。5階の自販機に着いたとき、時刻は513分。なかなか良い感じだ。

 

 あとはここで、何を買おうか迷いながらジュースを買い、階段を手すりにつかまりながらゆっくり降り、本館2階にある自分のデスクに戻れば520分くらいになるだろう。

 

 

 

 

 

 デスクに戻ったとき、私は自分の目を疑った。そこには何枚か綴りになった資料が置かれている。

 

何度も確認したが、間違いなく私の机だ。その机のパソコンにはカラフルなマカロンのページが表示されている。

 

 この50分間、何も仕事がなかったのに、帰る10分前になって仕事が目の前にやってきた。しかも、よく見るとパソコンの画面右側に貼られた付箋に『サボってないで仕事しろ』と書いてある。仕事を頼んできたのはどうやら私の上司らしい。

 

 私は心の中でこう叫んだ。

 

「ふざけるなよクソ上司。なに金曜日の帰社時間10分前に仕事頼んでんだ?空気読めや。」

 

 声に出ていた。

 

 前の席に座っている林がこちらを怪訝な顔で私を見ている。私はお前と話すつもりはないと冷たい表情でそう訴えかける。

 

 いや、こんなやつに構っている暇はない。とにかく早く目の前の仕事を片付けて家に帰りたい。

 

 私はデスクに置かれた資料を手に取ると、目を見開き頭をフル回転させ10枚ほどの資料を一気に読み進める。どれもこれもエクセルを用いてまとめなければならない資料のようだ。

 

 私は上司を睨み付けながらパソコンに向かい仕事を片付けていく。さっきまで、時間の進むスピードはカメが歩く如く遅かったというのに、今は隕石が落下するように早い。

 

 あっという間に530分が過ぎ、545分になってしまった。それでも、10枚の資料のうち1枚しか片づけられていない。

 

 もう無理だ。全部終わらせるためには2時間は残業しなければならない。そんなのは耐えられない。

 

というか、上司の思うように動いてやりたくない。

 

 私は、机の上に重なっておいてある資料をクリップで束ねるとそれを引出しに入れ、林に「お先でーす。」と声をかけ、その場を去る。

 

 上司が「仕事終わったのか?」と言いたげにこちらを見ているが、気付いてないふりをしてそそくさと帰ることにする。

 

 こうして私は毎月一度の楽しみを、今月も無事に手に入れることができた。そう、今週は3連休。

 

 今日は3連休の前の金曜日。この日を楽しみに今日まで様々な苦労を堪え忍んできた。周りからのプレッシャー、嫉妬、いじめにも近いひそひそ話、このすべてに私は打ち勝ったのだ。

 

 私の心はようやく落ち着くことができる。こうして私は3連休への期待を高めながら夜のバーへと足を運ぶのであった。

 


この本の内容は以上です。


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