閉じる


いまごろわたしの蝶は(1)

 朝、起き抜けにカーテンの裾をめくり、生まれたての秋空を眺めていたら、無性にどこかへ出かけたくなってしまった。

 だから、会社を休むことにした。

 ベッドに寝転んだままスマホを手に取り、電話に出た社長に「頭痛がひどいから休ませてほしい」と伝える。ずる休みもこれで三回目、そろそろ手慣れてきた。

 自分に嘘をつくことが減るのに比例して、他人に嘘をつくことが得意になっていく。それでいいのかどうかはわからないけれど、これまでの生き方よりもずっと気に入っている。

 電話の向こうの社長は、体調管理がどうのこうのと憤慨した様子だったけれど、適当に謝罪の言葉を並べてやり過ごした。

 本人が仕事に人生を賭けてくれるのはかまわないけれど、こちらにまで同じだけの熱量を求められても困る。

 社員の中には社長のストイックさを尊敬している人もいるけれど、わたしはむしろ軽蔑しているくらいだった。そのために、これまでどれほど自分や家族、その他の大切な人たちを犠牲にしてきたのだろうかと。

 電話の切り際に、「明日までには治してこいよ」と乱暴に言いつけられたとき、ちょっとだけスマホを握る手に力が入った。

 心の中に広がった細波を静めるために、「怒鳴られることから逃げていたら、いつまでも怒鳴る人たちの支配下から逃れられない」と、自分自身に言い聞かせる。

 人生は一炊の夢のごとし。幸せになることを先延ばしにしていたら、たくさんの「いつか」を残したまま骨になってしまう。社長に責められることよりも、会社をクビになるよりも、そっちの方が何万倍も怖ろしい。

 ベッドから起き上がる勢いで余計なものを振り払い、そのまま洗顔と歯磨きを済ませた。

 そのあと、クローゼットの前で散々悩んだ末に、マーガレットがプリントされた紺地のスカートと白のシルクブラウス、蜂蜜色のカーディガンを選び出した。それからさらに、ピアス、ブレスレット、バッグ、香水、靴と、身にまとうもののひとつひとつを真剣に選んでいたら、それだけで時計の長針が半周してしまった。

 気まぐれに仕事をさぼるようになってから、わたしはお金をかけない贅沢をたくさん覚えた。「好きなことに好きなだけ時間をかける」というのも、そのうちのひとつだ。

 洗面台の鏡に自分の顔を映し、ドロップ型のピアスを穴に通しているとき、耳の形が蝶の翅に似ていることに気がついた。付け根の部分から外側に向かって広がる形状や、生え際の角度がなんとなくそれっぽい。

 自分の身体の一部分をこんなふうにまじまじと見つめたのは学生以来かもしれない。仕事のことで頭がいっぱいだったときは、意味のあることだけで時間が埋まってしまっていた。

 ピアスをつけ終えたあと、小さめのショルダーバッグを肩にかけて部屋を出た。

 行き先は隣県の美術館と決めてある。さっき全身鏡の前に立ったときに、今日のファッションの雰囲気がそれにぴったりだと感じたから。


いまごろわたしの蝶は(2)

 電車を乗り継いで一時間もかけてやって来たのに、美術館についてみると、ちょうど特別展の入れ替え期間とやらで常設展しか開催されていなかった。

 受付のお姉さんが見せてくれたチラシには、『昆虫をモチーフにした作品が大集合!』というポップ体と虫のイラストが数点印刷されていた。

 あまり興味はないけれど、他に行く先も思い浮かばなかったので、五百円玉と引き換えにチケットを受け取った。

 気を取り直して会場に足を踏み入れてみると、いくつかわたしの感性を揺さぶってくる作品が、壁際に並んだ油絵や水彩画に紛れていた。

 たとえば、最初に目に入ったのは、画用紙に鉛筆の細い線だけで表現された子どもの落書きのようなナナフシの絵。これを描いたスイスの作家は抽象画の巨匠と呼ばれており、没後何十年経ったいまでもあちこちの美術館で特別展が開催されるほどの人気ぶりだ。

 彼の絵がすべて単純なわけではないけれど、ここにこのナナフシが存在するということは、特別な技術を用いずとも、感性次第で世界に通用する芸術を生み出せるという証のように感じられた。そのことが、何の特技も才能も持たないわたしを励ましてくれた。

 次に視線を奪われたのは、奥の壁一面に飾られた巨大なモザイクアートだ。それは遠くから眺めると、曇りガラス越しに置かれたコーヒーセットみたいなのだが、近くで見ると、何種類もの小さな蛾や蝶の標本が巧みに組み合わさっていた。

 中でも、銀翅を持つマエキツトガを三百匹使ったというスプーンの造形がうつくしく、しばしその場で見惚れてしまった。

 平日の昼前ということもあってか、わたし以外に客はほとんどいない。同じ部屋には、絵画の前で手をつなぎ感想をささやき合っている老夫婦と、途方に暮れたように黒い筒の中をのぞき込んでいる中年男性がいるきりだ。

 男性が立ち去ったあと、わたしも筒の中をのぞいてみた。奥の方に下からライトで照らされたまるいスクリーンが張られていて、そこにトンボの翅でできた花模様が浮かんでいる。手元の説明書きによると、大きさの違う二種類のイトトンボの翅で作ったガーベラらしい。

 最後の部屋の中央には、この展示会の目玉と思われる、蝶の立体作品が飾られていた。

 それは、発泡スチロールから削りだした型にカラフルな砂で着色を施した立体砂絵アートというものだった。モチーフになっているのは、底光りする青い翅を持つオオルリアゲハだ。

 わたしはひと目でそれに心を奪われた。

 砂はスポットライトの光を反射してシャリシャリと輝き、特に翅の部分は、月夜に浮かび上がる青いバラの花びらみたいに妖艶だった。

 作品を囲っているガラスケースのぎりぎりまで顔を近づけると、砂が鱗粉に覆われた翅の質感を忠実に再現していることに気づかされ、芸の細かさに思わずため息が洩れた。

 本物と見紛うほどリアル、というわけではないのだけれど、そのオオルリアゲハには、いまにも鱗粉を散らしながら羽ばたき出しそうな迫力が備わっていた。


いまごろわたしの蝶は(3)

 しばらく間近で観察したあと、足が疲れてきたので近くに置かれた休憩用のソファに腰かけた。 隣のソファでは、若い男女が二人で一冊の図録をめくりながら小声で談笑している。学生のように見えるけれど、二人のあいだには恋人というよりも夫婦のような落ち着いた空気が流れていた。

 ふいに、高校時代からたまに連絡を取り合っている男友だちのことを思い出した。彼は、恋愛対象として意識せずに安心して一緒に過ごせる貴重な存在だった。

 今週末、久しぶりに食事にでも誘ってみようかと考えながら、手元の図録に目を通したり、正面のオオルリアゲハを眺めたりして時間をつぶした。

 十分ほど経過したころだろうか。展示会場を出る前に、オオルリアゲハの姿をしかと目に焼きつけておこうと、再びガラスケースの前に立っていたら、

「うっとりするほどキレイな蝶ですね」

 とつぜん背後から話しかけられた。

 振り返ると、スーツを着こんだ三十代くらいの男性がこっちを見つめていた。

「そうですね」

 相手の視線が、自分の顏の脇あたりに固定されていることを不思議に感じながら、愛想笑いで返した。

「よかったら、このあとお茶でもいかがですか」

「いえ、用事があるので。すみません」

 見たところ清潔で悪い感じはしなかったけれど、そよとも揺れ動かないその瞳が怖くてとっさに断ってしまった。

「それなら仕方ありませんね。私、こういうものです。気が向いたらいつでも連絡を下さい」

 しつこくする気はないらしく、男はそう言って名刺を差し出した。気は進まなかったけれど、もらうだけでいいのならとしぶしぶ受け取った。

 男は満足そうにうなずくと、あっさり会場から出て行った。手元に残された名刺の左肩には、会社名ではなく「昆虫標愛好家」という文字が印刷されていた。 

「標本が好きだなんて、ますます不気味」と思いながら、それを財布のポケットにしまい込む。それから、先に行った男に追いつかないように数分ほど時間をずらして、わたしもその場を後にした。


いまごろわたしの蝶は(4)

 翌週の月曜日は朝から社長の機嫌が悪く、社内の空気はいつもより張りつめていた。

みんなは社長の逆鱗に触れまいと気を配っていたけれど、わたしは、このところ会社帰りに立ち寄った雑貨店やスーパーで視界の端をちらつくようになった男のことが気がかりで、それどころではなかった。

 初めは、こんなところに大人の男ひとりでいるのは珍しいな、くらいのもので、まさか毎回同じ人物に遭遇しているとは思っていなかった。だけどそのうち、相手の背格好やスーツに寄ったシワの癖が同じだということに気がついてしまった。

 なぜかいつも顔を確かめることができないのだけれど、美術館で声をかけてきた男になんとなく雰囲気が似ていた。

「念のため、警察に届け出ておいたら?」

 おとつい一緒にお弁当を食べているときに先輩に相談してみたら、そんな答えが返ってきた。だけど、偶然で片付けようと思えばそうできる程度の違和感だったし、警察というのは大げさすぎる気がする。

 パソコンに向かいながら、気を散らしてはせっせと連れ戻す、ということを繰り返していたら、それが社長の気に障ったらしい。十時を過ぎたあたりで険のある声が飛んできた。

「おい、見積書はまだか?」

 つい十分ほど前に頼まれた見積書はほぼ完成していたが、まだ渡せる状態ではない。

「あと見直しだけです」

「遅い。もう見直しはいいからそのままこっちに送って」

 でも、と反論しかけたけれど、そんなことをしても無駄だということを思い出して飲み込んだ。

 不安なままデータを送ってしばらくしたころ、また社長から名前を呼ばれた。

「なんでしょうか」

 呼ばれたらすぐに駆けつける、というルールに従って社長のテーブルまで小走りで移動する。

「この見積書、原価の部分の数字が一桁まちがってるぞ」

「すみません」

 だから最後に見直そうと思っていたのに、と言い返したい。でも、それがさらなる責め句を誘引することがわかっていたので、ぐっとこらえた。

「おれが気づいたからよかったものの、このまま先方に提出していたら大問題になってたぞ」

「申しわけございませんでした」

 便宜上、殊勝に頷いて見せたものの、内心では、「問題にならなかったのならそれでいいじゃない」と思っている。今後ミスしないための策を考えるなら別だけれど、もしこのまま提出していたら、という永遠に起こらない未来について謝り続けることに何の意味があるというのだろう。

「いいか、仕事は速く、正確に。それができないやつは……」

 社長の言葉は水彩絵の具みたいなもので、描かれた側から、わたしの内側に流れ続ける水に溶けて滲んで形を失っていく。

 そんな調子で小言を聞き流し始めたところで、耳のあたりがなんだかわさわさしてきた。くすぐったさに耐えきれず、思わず左手でその部分を払ったら、指先に薄いベルベットのような手触りを感じた。


いまごろわたしの蝶は(5)

  ――と、その刹那、わたしの目前を二匹の蝶が舞った。

「あ、青い蝶だ」

 すぐさま近くにいた社員たちが反応する。その視線を一身に浴び、戯れ合いながら窓の方を目指して飛んでゆくそれは、先週美術館で観たオオルリアゲハに違いなかった。

 蝶が遠ざかってゆくに連れて、わたしの耳に届くフロア内のざわめきはすこしずつ小さくなっていった。それと同時に、自分を取り囲む世界が大きくねじれて歪んでいくような感覚に襲われる。

 倒れそうになって、近くにあったテーブルに手をついた。社長が口をパクパクさせて顔をのぞき込んできたけれど、声はまったく聞こえない。代わりに、車のエンジン音や誰か知らない人たちの雑談の声が耳元に響いている。

 不安になって顔の横のあたりに手をやると、そこにはちゃんとわたしの耳がついていた。

 どうやら、聴覚だけが蝶になって飛んでいってしまったらしい。あたりを見回すと、例の二匹の姿はすでに見えなくなっていた。きっと、開いていた窓から外へ出てしまったのだろう。

 事情を知らない社長は、厳めしい顔つきでまだ説教を続けている……ように見える。だけど、消音効果のおかげであまり怒られている実感が湧かない。まるで、水族館の水槽に使われている、厚さが何十センチもあるアクリルガラス越しに話しかけられているみたいだ。

 わたしがぼんやりと社長の顔を眺めているあいだも、蝶たちは次々と外界の音を拾って、わたしの耳に届けてくれる。

 幼い子どもたちのはしゃぎ声、自転車のベルの音、携帯電話の着信音、青信号を報せるハトの音楽、踏切の警報、救急車のサイレン、電車の車輪がレールの継ぎ目を乗り越える音、鳥が羽ばたくような音……。

 蝶たちの移動速度に合わせて、音の構成はゆっくりと移り変わっていった。

 わたしの蝶は、いま、どのあたりを飛び回ってしいるのだろう。

 蝶たちの行方を探ろうと、聞こえてくる音に集中していたら、ふいに目の前で手のひらが翻った。はっと我に返ると、社長がめずらしく心配そうな視線をこちらに向けていた。

「おい、大丈夫か?」

 たぶん、そんな言葉を口にしているのだろうけど、むろんわたしの耳には入らない。

 社長を前にリラックスしている自分に気づいて、わたしはうれしくなった。他人からの影響を受けないということは、こんなにも気楽なものなのか。

 社長だけじゃない。周りの人たちもみんな存在が希薄に感じられる。姿が見えなくなったというわけではないのに、なぜか自分が幽霊になったみたいに感じられた。

 日ごろ、それだけ人の言葉に縛られていたということか。

 わたしは社長が周りに声をかけて――たぶん、わたしの様子がおかしいということを伝えているのだろう――いる隙に、その場を離れて外へと続く扉の方へ向かった。

 去り際に一度だけうしろを振り返ると、社長が中途半端に腰を浮かせてわたしの方に手を伸ばし、唇を動かして何かを伝えようとしていた。



読者登録

水流苑まちさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について