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中心の心臓1

 一

 僕は今ここにいて、全身に(ほとばし)るエネルギーを感じている。これは中心の心臓から送り出されたもので、僕は特別な細い血管によってそれに(つな)がれている。このエネルギーは(ほか)とは替え難いものだ。(ほか)のどんなものも、中心の心臓のようなエネルギーを生み出すことはできない。それはまさに特別なエネルギーなのだ。

 この国において、中心の心臓はまさにものごとの根幹に置かれている。それはあらゆるものの原動力となり、また目的となっている。人々はこのエネルギーを得るために生きている。

 

 僕の仕事は中心の心臓から縦横無尽に張り巡らされた血管の内部を掃除することである。血管とは生き物であって、人工的なパイプとは違う。だから色んなところで詰まりや淀みが生じることになる。僕は問題を発見し、逐一それを取り除く。

 実を言えばこの仕事は誰もが就ける仕事というわけではない。中心の心臓から送り出される血液は、言わば特別な血液であって、ある種の耐性がないとそれに触れることはできない。耐性のない人が触れてしまうと、あまりにも多量のエネルギーが体内に流れ込むため、その人の身体はオーバーヒートしてしまう。検査してくれた医師によれば、僕の場合その耐性が生まれつき他人の数倍備わっていたということだ。

 

 僕はウェットスーツを着用し、酸素ボンベを背中に背負って太い血管の中を泳いで行く。今日は二か所淀みが見つかった。こういうのはまあよくあることだ。血管の壁に汚れが付着し、全体的な流れが(とどこお)る。でも今日のはちらも小さい淀みだったから、問題はすぐに解決した。その日の仕事を終えると、僕は梯子を登り、血管の天井に取り付けられた出入り口から外に出た。出た先は簡単な更衣室になっている。僕はそこでスーツに着いた血液を洗い流し、元の服に着替える。そして隣の部屋に移動した。そこは研究所の一室になっていて、白衣を着た女性の研究員がモニターを睨んでいる。

「簡単な作業でしたよ」と僕は言う。

「早いうちに発見できてよかった」と彼女は答える。彼女は眼鏡をかけた三十歳くらいの女性で、血管内部の監視を任せられている。

「今日も少し本体を眺めていっていいですか?」と僕は聞く。

「まあ少しだけならね」と彼女は言う。

 本体とはつまり中心の心臓本体のことだ。モニタールームからドア一つ隔てた隣の部屋に入ると、そこの正面はガラス張りになっていて、赤く輝く中心の心臓を間近に見ることができる。中心の心臓はいつ見ても美しい。それは今は赤色の光を放ち、薄暗い室内を明るく照らし出している。その高さは七、八メートル、横幅は五、六メートルだろうか。ドクン、ドクンという音を立てながら、収縮と拡張を繰り返している。太い血管が何本か伸び、その血管が先の方でさらに枝分かれしている。そしてその細い血管が各家庭へと伸び広がっているのだ。

 僕は我を忘れてしばらくの間その心臓に魅入っている。一体どのような自然の摂理がこのように美しいものを生み出したのだろう?今我々に判明しているのは、この心臓は僕らが生まれる遥か以前から存在していて、そのときにもまた今と同じように世界に向けて血液を送り届けていたということだ。僕はもう少しだけそれを眺めてから、その部屋を出た。

 そこではまださっきの女性の研究員が難しい顔をしてモニターを睨んでいた。

「ねえ」と突然彼女は僕に向き直って言った。「血管の中を泳ぐのってどんな感じなの?」

「そうだな」と僕は答える。「基本的には海を泳ぐのと変わらない。違いがあるとすれば、この血管の中はとても温かいということだと思う。そしてこの中にいる限り、自分は何かに守られているんだ、という感じがする」

「何か」と彼女は言う。

「それが何なのかはよく分からないのだけど」と僕は言った。

 

 僕は彼女に別れを告げると、研究所を出て、家に帰った。僕はこの街が好きだ。街の至る所に街灯が設置されていて、世界に明るい光を届けている。もちろんこの光の(みなもと)もあの中心の心臓である

 この街の空はいつでも真っ暗だ。かつては太陽というものが存在していた、と学校で習ったのだが、今では太陽は空に昇るのを()めてしまった。だからここには「夜」しかない、ということになる。でも我々は生まれてから一度も「昼」というものを見たことがないので、「夜」ということの意味も実は良く分からないままでいる。

 もっとも街ではいつもあの心臓が送り出すエネルギーによって街灯が(とも)されているし、街外れの高台には大きな灯台があり、そこに設置された巨大なライトがいつも街全体を明るく照らし出している。ただその色はいつも同じというわけではない。心臓のエネルギーにはある種の周期があって、一定の時間が経つとその明りは黄色からオレンジ、赤、そして(あわ)い青色に変わる。光が青くなると、僕らはベッドに入り、すやすやと眠りに着く。

 そのときはそろそろ街灯が青く変わる時間帯だった。僕は街の大通りをゆっくりと歩きながら家に帰った。何台かの車が静かな音を立てて僕のすぐ脇を通り過ぎた。この車のエネルギーもまたあの心臓から送り出されたものだ。僕は通りにあるパン屋に寄り、夕食用にクロワッサンをいくつか買った。

 僕はこの街の中心部にある集合住宅の一室で一人暮らしをしている。両親は街の外れに家を持ち、そこで暮らしている。実を言うと僕はこんな街の中心に暮らすのは嫌だったのだが、仕事の関係上どうしてもあの心臓のそばにいる必要があった。夕食後、僕は台所のテーブルでコーヒーを飲みながら、図書館で借りて来たある本を読んでいた。僕は大体いつもこんな風に本を読んで時間をつぶしている。その日読んでいたのは昔の外国人が書いた小説で、題名は『神々の通訳』というものだった。

 

 主人公はまだ若い青年だ。彼はあるコミュニティにおいて神々の通訳として働いている。彼には生まれつき特殊な能力が備わっていたようで、普通の人には聞こえない神々の声を聞くことができる。彼はその声を普通の人にも分かるような言葉に翻訳し、伝える。神々の言葉は時に人々を恐れさせ、時に人々を救った。彼はそのようにしてそのコミュニティにとって欠かせない人物となった。しかしその本の描写から察するに、彼は特に「宗教的な預言者」というわけではないみたいだった。つまり彼の役職には「神の言葉を預かる者」という神聖な意味合いはほとんどなく、ごく実務的に通訳の業務をこなしているだけのようだった。

 そんなとき事件が起こる。彼はふとした折に神々の秘密を聞き知ってしまう。それは本来人間が聞いてはいけないものごとだった。彼の方にも本当はそんなことを聞く気はなかったのだが、神々のうちの一人が青年の存在に気付かず、うっかり口をすべらせてしまったのだ。彼は急いでその場を去ったが(幸い秘密を聞いたことは誰にもばれなかった)、その秘密は彼の心にずしりと重くのしかかった。

彼は次第にその秘密を自分の身の内に抱えていることに非常な困難を覚えるようになった。その秘密は彼の中でどんどん膨らみ、徐々にに彼の心を圧迫するようになった。彼の頭は、その秘密で一杯になってしまった。これではいけない、と彼は思った。このままでは俺の頭はおかしくなってしまうだろう。なんとかしてこれを外に吐き出さなければならない。彼はぎりぎりのところまで我慢していたのだが、結局我慢しきれずに一番親しい友人にその秘密の一端を話してしまう。「なあ、実はこの間こんな話を聞いたんだ・・・」と彼は切り出す。でも友人は全くわけが分からないという顔をして彼をじっと見つめる。「それが一体どうしたんだ?」と友人は尋ねる。「どうしたって、これはすごく重要な秘密じゃないか」と青年は言う。でも友人は何も理解せず、すぐに話題を変えてしまった。

その後も青年は何人かの知り合いにその秘密についてそっと話してみたのだが、誰一人として彼の真意を理解してくれた人はいなかった。これは一体どうしたというのだろう、と彼は思った。なぜ彼らはこのことを聞いても何の反応も示さないのだろう。俺はこんなに心を揺すぶられているというのに。

結局誰にも理解されなかったことで、彼の中のその秘密は行き場を失い、さらに膨張を続けることになった。青年はそれがいずれ自分を突き破って破裂してしまうのではないかと恐れた。でもいくら他人にしゃべったところで、誰も何も理解してくれないのであれば話す意味なんてどこにもない。でもこれ以上自分の中にこれほど重要な事実を留めておくことはできそうになかった。俺は一体どうしたらいいのだろう、と彼は思った。このままでは、俺は本当に死んでしまうかもしれない。そんなとき彼は折り良く――あるいは折悪しくと言うべきか――一人の悪魔に出会った。

 

悪魔はごく普通の格好をした男で、彼は最初それが悪魔だとは気付かなかった。悪魔とはもっと邪悪な雰囲気を持ったものだと思っていたからだ。その悪魔は彼に向かって言った。

「なあ、お兄さん。あんたは神々に追われているんだぜ。そのことは知っていたかい?」

「神々が僕を追っている?」と青年は驚いて言った。

「そうだ」と悪魔は言った。「だって自分たちの大事な秘密を言いふらしているんだからな。そんな奴を放っておくわけにはいくまい。捕まったらただじゃおかないだろうな」

 それを聞くと青年はぞっとして、背筋にひどい寒気を感じた。自分は今までずっと神々の忠実な通訳だったのに、今では彼らに敵対するものになってしまったのだろうか?

「もし俺にその秘密を教えてくれたら」と悪魔は続けた。「俺たちはあんたを守ってやれるんだがね。というか実際のところ、あんたがこれから生き延びて行く方法はそれしかないと俺は思うね」

「でもあなたは悪魔でしょう」と青年は言った。「悪魔に秘密を話すなんて・・・」

「でもあんたはこれ以上その秘密を抱えたまま生きて行くことはできないはずだ」と悪魔は言った。「それはあんたの心を(むしば)み、いずれあんた自身のというものを焼き切ってしまうだろう」

「僕の核?」

「そうだ」と悪魔は言った。「そうなると生きている意味そのものがなくなってしまう。そんな状態で生きるんだとしたら、俺はむしろ死を選ぶね」

 青年は少し考え込んだ。僕の核?そして言った。

「でもあなたは悪魔なんでしょう。あなたたちはその秘密を悪用するのでは・・・」

「悪とは一体なんなんだ?」とそこで悪魔は聞いた。「あんたにそれが答えられるか?」

「それは・・・」と青年は口ごもった。

「いいか」と悪魔は言った。「悪とは結局は相対的なものなんだ。今俺はたまたま神々と反対の側にいる。それで『悪魔』という名前で呼ばれている。ただそれだけのことなんだ。善をなすか、悪をなすのかは結局はそれぞれの人間次第なんだ」

 青年は完全に納得したというわけではなかったが、それでもなぜかこの悪魔の言うことには強い説得力を感じた。悪魔の言葉には一つ一つ確かな重みがあるように感じられた。それに、と彼は思った。確かにこれ以上この秘密を一人で抱え込んでいるわけにはいかない。

「どこか人のいないところに行きましょう」と青年は言った。

 

 悪魔は自分の住む薄暗い地下室に青年を連れて行った。青年はそこで神々の秘密について語った。彼は差し出された堅いイスに座り、テーブルを挟んだ反対側で悪魔がその話を聞いた。その秘密というのは、実のところひとことで言い表せるようなしろものではなかった。神々の言葉でならひとことで言い表せるのだが、人間の言葉で語るとなるとそれはものすごく長いものになってしまうのだ。彼は結局一晩かけてその秘密を語った。語りながら青年は、自分の中で膨張し続けていたものが少しずつ外に抜け出て行くのが分かった。悪魔は細かいところを逐一聞き返しながら、一晩中集中して青年の話を聞いていた。

秘密を話し終わったとき、青年は自分が空っぽになっていることに気付いた。

 

 彼の身体は今や半透明になっていた。足元を見ると、さっきまであったはずの影がなくなっていることに気付いた。一体なんでこんなことが起きるのだろう、と彼は思った。俺はただ、あの秘密を人間の言葉に移し替えただけなのに。

「あんたはあの秘密と一緒に自分の中の大事なものを俺に明け渡してしまったんだ」とそのとき悪魔が言った。「でもあんたはそれを誰かに話さないわけにはいかなかった。それを話さなければ、あんたは本当のなんでもなしになっていただろう」

「僕はこれからどうすればいいんだろう」と青年は言った。

「俺たちと一緒に来たら良い」と悪魔は言った。

 

 悪魔は彼を部屋の裏にある階段に連れて行き、そこから下の階に降りた。彼が扉を開けると、そこは――青年はそれを見てとても驚いたのだが――一軒の酒場になっていた。中は暗い影を持った人々でごった返していた。

「ここは悪魔のための酒場なんだ」と悪魔は言った。「君にはここで働いてもらうことになる」

 

 そのようにしてかつて「神々の通訳」であった青年は、「悪魔のためのバーテンダー」に転職することになった。

 

 

 僕はそこで本から顔を上げた。なんだかひどく眠い。いつもならまだ眠くなるような時間ではないのだが、(まぶた)とても重い。僕は手早く歯を磨くと、そのままの格好でベッドに潜りこんだ。

 


中心の心臓2

 二 

 翌朝目を覚ますと、身体が妙に重かった。もしかすると昨日読んだ本のせいかもしれない。あの本には何か奇妙な重みがあったから。一体どこまで読んだんだっけ?そうだ、主人公の青年が悪魔の酒場のバーテンダーになるところだ。しかしわけのわからない話だったな。一体なぜ青年はバーテンダーなんかにならなければならないのか。なぜ悪魔の酒場にいれば神々の追跡を逃れることができるのか。そもそもその秘密とは一体何だったのか。まあそれでも、と僕は思った、わけが分からないなりに面白い本ではある。

 その日も仕事があったから、本の続きはまた別のときに読むことにして、僕はいつも通り研究所へと向かった。今では通りにある街灯は黄色く光っている。街の人々はすでに起き出し、元気にそれぞれの活動を始めている。

「やあ、こんちは」と肉屋のおじさんが声をかけてくる。

「どうも」と僕は言う。

「最近血管はどうだね」

「さほどの問題はないみたいです」

「それは良いことなんだろうね」

「もちろん」

 

 愛想の良い警備員が入口を守っている研究所の中に入り(こんにちは、どうです調子は?――いやあ、まあまあですよ)、あの女性の研究員がいるモニタールームに入る。彼女は僕が部屋に入ってもしばらくの間気付かずに画面を睨み続けている。

「こんにちは。何か問題でもありましたか?」と僕は声をかける。

「ああ、あなただったの」と彼女は言い、僕にモニターの一つを見せてくれる。

「ちょっとここを見て」と言って彼女はある動脈の隅にある黒い斑点を指差す。「これは何だと思う?」

「うーん」と言って、僕は腕組みをする。「この映像だけでは詳しいことは分かりませんね。多分血管の壁面がちょっと傷ついているだけだと思うんですが・・・」

「でもこの黒い部分がさっきちょっと動いたような気がしたのよ」と彼女は言う。

「動いた?」

「ええ。まるで何かの生き物みたいに」

 僕はじっと画面を見つめる。でも今のところそれは血管の壁面に付着したただの斑点であって、なんの動きも見せない。

「私の目の錯覚だったのかしら」

「血液が流れ続けているわけですからね。ときに動いて見えることもあります」と僕は言った。

「本当に錯覚だったら良いんだけど・・・」と彼女は言った。

 

 そのあと彼女はその日僕が取り除くべき淀みと汚れのリストを手渡してくれた。いつもと同じように、それほど多くはない。

「この(よど)みを取り除いたら、さっきの斑点のところに行ってみますよ」と僕は言った。「一体何があるのか確かめてみます」

「そうしてくれるとありがたいわ」と彼女は言った。

 

 僕は更衣室でウェットスーツに着替え、酸素ボンベを背負う。そして一度モニタールームに戻り、彼女に出発の挨拶をする。

「それじゃあ行って来ます」と僕は言う。

「気をつけてね」と彼女は言う。

 

 僕はまず、ある個所の淀みを取り除きに行った。これはまあそれほど大した淀みというわけでもない。このまま放っておいても自然に消え去ってしまうようなものだ。しかしこれが(のち)に、何かもっと大きな問題に発展する可能性が全くないというわけではない。だからこういう淀みを発見すると――それがどんなに小さなものであれ――僕はそれを律儀に取り除くことになる。僕は酸素ボンベの脇に取りつけられた小さな器具で、その淀みの元となっている汚れを取り除く。それはまあ掃除機のような器具で、淀みの原因となる汚れを吸い取ってくれる。しかし今日の汚れは血管の壁にぴたりと張り付いていて、なかなか簡単には取れてくれない。僕はヘラを使ってなんとかそれをはがし取り、器具を使って吸い取る。そしてそのあとで血管に消毒液を塗る。これで一連の作業は終わりだ。

 僕はその後もう一か所似たような淀みを取り除き、血管に消毒液を塗って作業を終えた。いつもならこれで一日の仕事は終わりなのだが、今日はそのあとで彼女が発見したあの黒い斑点のところに向かう。血管の天井には自分の位置を把握するためのプレートが取り付けてあって、今は「A―350」となっている。これは大動脈Aの、中心の心臓から350メートルの地点にいるという意味だ。あの黒い斑点は「C―500」のプレートの近くにあった。

 僕は大動脈同士を繋ぐ細い血管を通り、大動脈Cに入り込んだ。そしてしばらく流れに乗って泳いだあと、ようやく「C―500」のプレートの近くにやって来た。僕はそこであの黒い斑点を探し始めたのだが、なぜかどこにもそれは見つからなかった。場所を間違えたのかもしれないと思い、もう一度プレートを確かめてみたのだが、そこには確かに「C―500」とあった。変だな、と思って、もう一度壁面を見まわす。でもそこにはなんの異常もない。どのような汚れも、どのような淀みもない。まったく綺麗なものである。まあ異常がないのであればそれに越したことはない、と思い、僕は研究所に帰った。

 

 黒い斑点は見つからなかった、と言うと彼女は不審そうな顔をした。そしてモニターを切り替えて(そのときは別の部分を映していた)、さっきまで黒い斑点があったところをもう一度確認した。するとそこには確かに黒い影のようなものがあった。

「ここにあるじゃない」と彼女は言った。

「変だな」と僕は言った。「実際にあそこにいるときは何も見えなかったんだけど・・・」

「これはきちんと調べる必要があるみたいね」と彼女は言った。

 

 その日はそれで帰った。その黒い斑点のことは気にかかったが、今のところそれは血管には何の害も及ぼしてはいない。詳しく調べるのはまた後日にまわしても大丈夫だろう。

僕は家に帰ると簡単な夕食を食べ、昨日の本の続きを読んだ。『神々の通訳』という本だ。確か主人公の青年が悪魔のためのバーテンダーになったところからだ。

 

青年は悪魔のためのバーテンダーとして働くことになった。店の実質的なオーナーは彼が秘密を語って聞かせたあの悪魔であるようだった。それでもその悪魔は青年に簡単に仕事を教えると、あとは引きさがって彼に仕事のほとんどを任せるようになった。青年はシェイカーを振ってカクテルを作り、次々にやって来る悪魔の客たちにそれを提供した。

店には実に様々な種類の悪魔の客がやって来た。くたびれ果てた者、まだ若い健康そうな者、いかにもいわくありげな者。ここは彼らにとっての憩いの場として機能しているみたいだった。店の古いジュークボックスからは、青年が聞いたこともない古い時代のロックンロールが流れていた。彼は酒を提供しながら客の様々な話を聞いた。そしてすぐに、自分はこの仕事に向いているのかもしれないと思い始めた。というのも彼自身はあの秘密を語ったせいで空っぽになっていたのだが、そのおかげで他人の話をきちんと聞くことのできる能力を授かっていたからだ。世の中に自分の事を話したがる人間は多いが、他人の話を熱心に聞く人間は少ない。その店に来るのは人間ではなかったのだが、その能力は悪魔に対しても有効に発揮された。

悪魔たちはその半透明になった影のない青年を――もはや完全な人間でもなければ完全な悪魔でもないその青年を――最初は胡散臭そうな目つきで眺めていたのだが、やがて彼が他人の話をきちんと聞くことのできる人物だと知って、次第に彼に打ちとけるようになっていった。最初に彼と親しくなったのはあるくたびれきった中年の悪魔だった。

「あんた人間かい?」とその悪魔は聞いた。

「かつてはそうでした」と青年は言った。「通訳をやっていたんです。でも今では自分がちゃんとした『人間』と言えるのかどうか、あまり自信は持てませんね」

 青年は自分にはもう影がないのだと説明した。それでここで働いているのだと。

「ふうん。あんたも苦労したんだ」と中年の悪魔は言った。そしてウイスキーのオンザロックを注文した。青年はアイスピックで氷を割り、注文された飲み物を作った。中年の悪魔はそれを一口すすり、やがて自分についての話を語り始めた。

「俺もかつては腕利きの悪魔だったんだ」と彼は言った。「その辺にいる若い奴らなんかとは比べ物にならなかった。実に様々なことをやったものだよ。殺人から、強盗から、放火。安い中毒症状への誘惑。なんだってやった。でもね、そういうことをやっていると、なんというか――すごく空虚になってくるんだ。こんなことをやっていて一体何になるんだってね」

 青年はただ頷いた。

「でもね」と中年の悪魔は続けた。「やめようにもやめられないんだよ。俺たちはね、言わば刺激するものに過ぎないんだ。実際に行動するのは個々の人間さ。悪を犯す人間の心には往々にして穴が空いている。大きな穴だ。我々はそれを見ると否が応にも引き寄せられてしまう。そして変わり映えのしない誘惑の言葉をささやくんだ。おい、今こいつを殺せば後に素晴らしい未来が待っている。おい、今この金を取れば後に素晴らしい未来が待っている。

 彼らはその穴を直視することができないのさ。だから我々がやって来て、代わりにそれを埋めるんだよ」

「僕にも穴が空いています」と青年は言った。

「その通りだ」と悪魔は言った。「あんたにも穴が空いている。まあでも多かれ少なかれ誰にだって穴は空いているんだ。しかしあんたはそのことを知っている。そこが(ほか)の奴らと違うところだ。それを知っている人間の穴には悪魔はなかなか入り込めないんだよ。あんまり居心地が良くないんだ」

 その中年の悪魔はその後続けて何杯かのカクテルを飲み、やがて重い腰を上げた。

「あんたと話しているとなんだか落ち着くよ」と彼は静かに言った。「また今度な」

 青年はグラスを拭きながら黙って頷いた。

 

 彼はそのようにして実に様々な種類の悪魔の話を聞いた。その多くは彼らがかつて人間に犯させた悪事の数々だった。おぞましい話があり、悲しい話があり、滑稽な話があった。しかしそれらの話を聞いても、青年はなぜか全く嫌けを感じなかった。以前の自分だったら違ったはずだ、と彼は思った。きっと人間にそんな行為を犯させる悪魔に対して大きな怒りを感じたに違いない。でも今では彼はそれらの行為をある種の自然災害として受け取っていた。つまり、ないに越したことはないが、あればあったで仕方のないもの、という風に。だから店に来る悪魔たちの顔を見ても、彼は何の嫌悪感も感じなかった。

 

そんなとき一人の不思議な客がやって来た。物静かな若い男で、年は青年と同じくらいに見えた。ごく普通のチェック柄のシャツに、青いジーンズをはいている。彼はウィスキーを頼んだのだが、少しだけすすって、後は一切手をつけなかった。その後その客は終始何も言わず、ただ青年の顔をじっと見つめていた。

 青年はしばらくの間何も気付かない振りをして作業を続けていたのだが、その男の視線が気になって、だんだん仕事も手につかなくなってしまった。それくらいその若い男はじっと彼を見つめていたのだ。青年はその客に声をかけた。

「何かお飲み物に問題でもありましたか?」

 でも客は何も言わなかった。彼はただ青年を見つめているだけだった。彼の目は不思議な澄み方をしていた。恐ろしく透明でありながら、底というものが見えないのだ。そのとき青年は初めてその男が自分を見ているのではないことに気付いた。その男は、青年の中にあるうつろな空洞を見つめていたのだ。青年は仕事の手を休め、その客の澄んだ目を見返した。間違いない、と彼は思った。その客の視線は青年の見かけなんかはすっ飛ばし、その本質を――つまり本質なんかないという本質を――見つめていたのだ。それに気付くと、青年はしばらくその場に釘づけになってしまった。

 二人の間には奇妙な沈黙が居座っていた。二人ともしばらくの間何一つ言わなかった。やがて青年は自分の身の内に何かが湧き上がってきたことに気付いた。それは彼の中にあるうつろな空洞からこんこんと湧き出していた。こんな感覚を味わったのは生まれて初めてのことだった。気付くと彼はしゃべり出していた。その客に向かって、自分の身の内に湧き出してきたもの全てを言葉に変えて、淀みなくしゃべり出していた。それは悪魔に語ったあの秘密に極めて近いものだったが、細部が少しずつ違っていた。彼はかつて通訳であった頃の技術を総動員し、それを適切な言葉に置き換えていった。それはずいぶん手間のかかる作業だったが、彼は一切話を止めることなくしゃべり続けた。その間店には次々に別の客たちがやって来た。でも彼はそれを完全に無視した。客たちはぶつぶつと文句を言い、やがてあきらめて帰って行った。今や青年はその若い客に向かって、自分の中にある何もかもを吐き出そうとしていた。どれだけしゃべっても、しゃべるべきことは次から次へと湧いて出てきた。今までほとんど何もないと思えていた彼自身の内部に、今や確かな重みを持つ何かが生まれてきていた。その客は飽きもせず、真剣な表情で一晩中青年の話をじっと聞き続けていた。

 全てを語り終わったとき、青年は自分が何かを回復したことに気付いた。それは重みを持つ何かだった。彼はそこでふと自分の足元を見た。するとそこにはこれまで失われていたはずの影があった。彼は自分がもう半透明ではないことを知った。俺はまたきちんとした人間に戻れたんだ、と彼は思った。

 話を全て聞き終わると、その客は立ち上がって、青年を手招きした。どこに連れて行く気だろう、と思いながら青年が付いて行くと、その客はバーの奥にある壁の方に向かった。そこにはひとつのドアが取り付けられていた。

 

 ドア?と青年は思った。確かそんなところにドアなんかなかったはずだ。彼はもうずいぶん長くこのバーで働いていたし、そんなものがあればすぐに気付いたはずだった。でもその客は黙ったまま彼の手を取って、まっすぐそのドアに向かって行った。

 客がドアを開けるとそこには真っ暗な空間が広がっていた。まるで宇宙空間みたいに広く、暗い。青年はそこに足を踏み入れ、茫然として辺りを見まわしていた。一体いつからこんな部屋は存在していたんだろう?そもそも誰がこんなものをつくったんだろう?青年がぼおっとしている間に、その無口な客は黙ってドアを閉めた。

 ドアが閉まってしまうと、あたりを完全な暗闇が包んだ。目を開けているのか閉じているのか、それすらも分からないくらいの暗闇だ。青年は不安になって声をかけた。

「どうしてドアを閉めちゃったんです?」

 でも客は何も答えず、代わりに再び青年の手を取った。そしてどこかに向けて歩き出した。青年は黙ったまま彼に従った。なぜかは分からないが、この男に従っても悪いことにはなるまい、という思いが青年の中に生まれてきていた。実際その客は人を落ち着かせる独特な雰囲気を持っていた。彼の手からは、何か深いエネルギーのようなものを感じることができた。しかし――これは暗闇のせいばかりではないような気もしたのだが――そこには十分な量のリアリティーが欠けていた。

 二人はずいぶん長く歩き続けた。その客は迷いなくどこかに向けて歩いていたのだが、それがどこなのか青年には全く見当がつかなかった。それでも相変わらずその客に逆らおうという気は全く起きなかった。

 やがて前方に淡い光が見えてきた。それは光ってはまた暗くなり、光ってはまた暗くなる、というのを繰り返していた。近づくと、それが青白い心臓であることが分かった。

 

 

 心臓?と僕は一度本から顔を上げて思った。これはあの中心の心臓と同じものなのだろうか?この本が書かれたのはずいぶん昔のことだ。その頃にもあの心臓は存在したのだろうか?それともこれは、この作者の想像の産物に過ぎないのだろうか?でもどれだけ考えたところで(こたえ)は出ない。それで僕はまた続きを読み始めた。

 

 青年とその無口な客は二人でその心臓に近づいた。心臓は収縮と拡張を繰り返しながら、まるで蛍のように淡く光っていた。近くに寄ってみて初めて気付いたのだが、光っているのは、どうやら心臓が送り出している何かの液体であるようだった。

 それが単純な血液でないことは一目見ただけで分かった。それは青白く光り、心臓から細く伸び広がった血管を伝って、どこかに向けて流れ去って行った。近くで見るとその心臓はかなり大きいことが分かった。それは一人の人間の背丈と同じくらいの大きさをしていた。青年と客は並んだままただじっとその心臓を見つめていた。

 

 どれくらい長くその心臓を眺めていたのかは分からない。でもそのうち青年は、自分の心臓が目の前の大きな心臓に合わせて大きく鼓動を打ち始めたことに気付いた。それはこれまでにないくらい大きな鼓動だった。彼の全身に血液が勢いよく行き渡った。青年は自分の体温がどんどん上昇してきたことに気付いた。一体俺の身に何が起こっているのだろう、と彼は思った。

すると隣にいた無口な客がふと手を伸ばし、そっと青年の胸を触った。彼の手は青年の心臓が発する熱を(じか)に感じ取っているようだった。一体この男は俺に何を期待しているのだろう、と青年は思った。彼が人間でも悪魔でもない、何か特別な存在であるというのは今では彼にも理解できた。こんな世界に入り込むというのは、尋常の人間には(あるいは尋常の悪魔には)できないことだ。しかしなぜ彼は一言もしゃべらないのだろう?彼は俺をこんなところに連れて来て、一体何をしたいのだろう?でもその客は、彼の胸に手を当てたままじっとして相変わらず一言もしゃべらなかった。

 そのとき青年はふと腕を伸ばし、その客の胸に手を触れた。ちょうど心臓があるあたりだ。お返し、というわけでもなかったのだが、なぜかバランスを取るためにそうすべきであるような気がしたのだ。今彼はごく自然な衝動に従って行動を取っていた。頭ではほとんど何も考えていなかった。でも彼が手を伸ばして触れた部分には心臓はなかった。その客の胸には、ただ虚ろなへこみがあるだけだった。

 そこで青年は悟った。この男は俺なんかよりもさらに深い空洞を抱えていたのだと。俺は自分が空っぽであると思っていた。しかしこの男はさらに深く広い穴を自分の中に抱え込んでいたのだ。彼の手はその客の胸にあって何一つ感じることはできなかった。何一つだ。そこにあったのは、本来あるべきはずの温もりの欠如とでも言うべきものだった。彼はどうしてこんな空洞を抱えながら生きていられるのだろう、と青年は思った。これがもし俺だったら、きっとその空虚さに呑み込まれてすぐに死んでしまうに違いない。その客は、それくらい深い闇を身の内に抱えていた。

 そのとき目の前の大きな心臓がこれまでになく明るく光った。青年はそちらに目をやり、そこでようやくある事実に気付いた。そうか、と彼は思った。おそらくこの心臓は彼の心臓なのだ。今目の前にあるこの大きな心臓が、だ。だからこそ彼はこんなに深い空洞を身の内に抱えながらも生きていられるのだ。俺よりもさらに空っぽでありながら、このように落ち着いて、穏やかに生きていられるのだ。

 

 そのうちその客の手から何かが彼の胸に流れ込んできた。それはとても大きな何かだった。そのとき青年は気付いたのだが、それはあの(物語の冒頭で彼が偶然聞いてしまった)神々の秘密の全貌だった。あのとき彼が聞いたのは神々の秘密のうちのごく一部に過ぎなかったのだ。彼は今それを悟った。この男は、それを伝えるために俺をここに連れて来たのだ。

 とすると、と青年は思った。この客は神々のうちの一人なのだろうか。おそらくそうだろう。でも今目の前にいる痩せた無口な男は、彼の目にむしろもっと自分に近い存在として映った。もっと生身の人間に近いものだ。今その男は青年の胸に手を当てて、彼にその秘密の全貌を送り届けていた。青年はそれが自分の内部を――彼の空っぽな内的世界を――満たしていくのが分かった。そこには確かに深いエネルギーのようなものがあった。でもそれは、決して前向きな要素だけで成り立っているわけではなかった。そのエネルギーの裏には、想像を絶するほどの深い暗闇が存在していた。彼はその存在をひしひしと感じることができた。そこでは憎しみや、悲しみや、孤独なんかがいっしょくたに混ざり合い、どす黒い混合物となって大きく渦を巻いていた。もし彼がその秘密の全貌を受けれたいと思うのなら、その深い闇をもまた同時に受け入れなければならない。

 俺にそんなことができるのだろうか?と青年は思った。だってあの秘密の一部でさえ、俺を内側から圧迫し、破裂寸前のところまで追いこんでいったのだ。あのときは悪魔にそれを語ることができたからなんとか助かった。でも今回のこれはそれよりもさらに大きなものだった。果たして俺はこんなものを身の内に抱えて生きて行くことができるのだろうか?

 そのとき目の前にある大きな心臓が再び明るく光った。それは、これまでにないくらい明るい光だった。それはまるでこう言っているみたいだった。

いいか、君にはそれができる。だからこそここまでやって来れたんじゃないか。

その心臓の静かな励ましは、言わば言語以前の根源的な温もりとして、彼の全身を温かく包み込んだ。

 彼はなんとかしてその秘密を飲み込もうとした。ここにはおそらく自分の人生にとって非常に大事な何かが含まれているに違いない、という思いが彼の中に湧いてきていた。俺は悪魔の世界に降りることによって自分が空っぽであることを知った。そして今その空っぽさを埋めるべき何かがここにあるのだ。それはおそらく、生きるという行為に価値を与え得る唯一のものだ。

 でもその裏にある暗闇には底というものがなかった。それは彼に茫漠と広がる――広がり続ける――真っ暗な宇宙空間を思い起こさせた。何しろ果てというものがないのだ。どこまでもどこまでも、何もない闇だけが広がっている。その恐ろしく冷たい暗闇は、容赦なく青年を自らの内部に組み込もうとしていた。

 

 そのときふと彼の頭にあのくたびれきった中年の悪魔の姿が浮かんだ。自分が何のために生きているのかも、何のために行動しているのかも分からない一人の悪魔だ。彼は人々の心の穴に吸い寄せられ、誘惑の言葉をささやく。しかし自分がなぜそんなことをしなければならないのかは分からない。彼には自由というものがないのだ。本能のままに行動し、本能のままに疲弊する。そしてその不毛な仕事が一段落すると、酒場に行って安酒を飲み、バーテンダーに愚痴をこぼす。そして元いた暗闇へと帰って行くのだ。

 青年の中には、なぜか彼ら悪魔のために何かをしなければならない、という思いが湧き出してきていた。そもそも彼らが救われたがっているのかどうかも分からなかったし、どのように救えばいいのかも分からなかったのだが、それでも青年は自分のできる範囲で彼らのために何かをしてやりたいと強く思った。そして――これもなぜかは分からないのだが――この秘密の全貌を全的に受け入れることが、彼らの救いの糸口になるような気がしていた。

 青年はもう一度その秘密と――秘密の全貌と――向き合った。ここが正念場だ、と彼は思った。今ここで逃げてしまったりしたら、俺は一生空っぽのままだろう。悪魔たちを救うことだってできないし、それどころか自分自身を救うことだってできないだろう。青年はその客の手から伝わってくる秘密をそのままのかたちで飲み込んでいった。そこに込められた深い悲しみや、憎しみや、孤独をも含めて。そしてその奥には確かに何かがあった。人間の魂を底の方から温めてくれる何かだ。彼は今その根幹に触れようとしていた。その秘密の根幹に触れようとしていた。

 目の前にある大きな心臓の光はさらに強さを増していた。その光のおかげで、彼はその秘密の根幹をほんの一瞬ではあるが垣間見ることができた。それはこういうものだった。

 

俺もまた神々の一員なのだ。

 

実を言うと彼はそれを――漠然とではあるが――初めから感じ取っていた。しかしそれを言葉の形にする勇気を持っていなかったのだ。でも今では、目の前にある大きな心臓の光が彼を温かく励ましてくれていた。彼は今や、その事実に面と向かって直面しなくてはならなかった。

 

俺もまた神々の一員なのだ。

 

心臓がまた大きく光り、その若い無口な客が、彼に向けて少しだけ微笑んだ――ように見えた。

 

気付くと彼はバーのあった地下室に一人で仰向けに寝そべっていた。彼の視線の先には茶色く変色した地下室の天井が広がっていた。彼は自分の身体の中にあの秘密が満ちていることに気付いた。それは、その裏にある暗闇と込みになって、彼の中で大きく渦を巻いていた。

俺はこれをおはなしとして語ろう、とそのとき彼は思った。それしかその秘密を人々に伝える方法はないように思えたからだ。それはきっと長いおはなしになるだろう、と彼は思った。でも俺はそれを語らなくてはならない。人々のために。自分自身のために俺は神々の一員であり、また、神々の通訳でもあるのだから。

 

 

本はそこで終わっていた。ずいぶん奇妙な本だった。最後の方は文章がずいぶん混乱している。でも一気に最後まで読んでしまった。僕が惹かれたのはあの大きな心臓が出てくるあたりだった。この本が書かれた時代には、社会はまだ今のような形態を取ってはいなかったはずだ。そして今僕がメンテナンスを任されている中心の心臓もまた存在していなかったはずだ。しかしその本に出てくる心臓と現実の中心の心臓とは奇妙に似通っていたし、その役割もほとんど同じもののように思えた。この本の著者が想像でこれを書いたにせよ――おそらくそうだろう――「心臓」というものには何か共通して人間の想像力を刺激するものがあるのかもしれない、と僕は思った。

 

 


中心の心臓3

 三

翌朝起きてみると、街の街灯がいつもより暗いことに気付いた。普段なら街はすでに明るい黄色で満たされているはずの時間なのだが、今日はまだ街灯は青いままだし、高台にある灯台も青い光を放っている。時計が狂っているのだろうか、と思って調べてみたが、針は順調にチクタクと動き続けている。時計ではない別の何かが狂っている。僕は身支度を整え、急いで研究所へと向かった。

道中通りでは人々が困惑したように外の様子を窺っていた。

「一体どうしちゃったんでしょうねえ」と肉屋の主人が僕を見ると聞いてきた。

「そうですね」と僕は言った。

「心臓に何か問題が起きたんでしょうかねえ」

「そうかもしれません。いずれにせよ、今から調べてきますよ」と僕は言った。

 

 研究所では何人かの研究員がバタバタと速足で歩きまわっていた。あの女性の研究員は渋い顔をして画面を睨んでいる。

「一体どうしちゃったんです」と僕は聞いた。

「心臓が青いままなのよ」と彼女は言った。「こんなことって今まで一度もなかったんだけど・・・」

「血管に何か問題が?」

「血管じゃないの」と彼女は言った。「問題があるのは本体みたいなの」

 そこで僕らはガラス越しに本体を見られる隣の部屋に移った。そこでは、神秘的な青色を放ちながら中心の心臓が鼓動を打ち続けていた。色は淡い青のままだが、少なくとも鼓動を止めたわけではないと知って僕は少し安心した。

「どうして色が変わらないんだろう」と僕は言った。

「私には分からない」と彼女は言った。

 その時一番太い動脈のところに何か黒いものが見えたような気がした。

「ねえ、今の見ました?」と僕は言った。

「何のこと?」

「あそこです。動脈Aの付け根のところです」

 でもその黒いものはもうどこかに消え去ってしまっていた。

「なんにも見えないけど・・・」と彼女は言った。

「もしかすると」と僕は言った。「昨日見た黒い斑点と同じものかもしれない」

 

 僕は更衣室に行ってウェットスーツに着替え、背中に酸素ボンベを背負った。そして一度モニタールームに戻った。

「気をつけてね」と彼女は言う。「何が起きているか私たちも全然把握できていないのよ」

「気をつけます」と僕は言う。そして再び更衣室に戻り、床に取りつけられた重いハッチを開け、血管の内部に入り込む。

 

 血液は淡い青色をしている。普段血がこの色のときは内部に入らないため、なんだか新鮮な感じがする。いつもは黄色かオレンジ、あるいは赤色の時しか中にいない。

 青い血液は心持ひんやりしているように感じられた。そこにはいつもの包み込むような温かみはない。(ほとばし)るようなエネルギーも感じられない。今そこにあるものと言えば、心臓が発する静的な呼吸のようなものだけである。

 僕はその静かで流れも遅くなった血管の中を泳いで行く。透明なマスク越しに血管を見渡すが、あたりがあまりに静かで血液が青色のままだという以外には何の問題もない。僕は全体の様子を見ながらさっき黒い斑点が見えた動脈Aの付け根のところを目指す。泳いで行く途中僕はなぜか昨日読んだ本『神々の通訳』のことを考えている。あの青年はあの後どうなったのだろう、と僕は思う。彼は神々の秘密を――つまりその全貌を――自分の言葉に移し替えることができたのだろうか。その裏には深い闇があると彼は言っていた。もし秘密の全貌を語ろうとすれば、その闇をもまた正確な言葉に移し替えなくてはならない。彼には何を訳し、何を訳さないかを選ぶ自由はない。有能な通訳として、彼はそこにあるものの全てを、有効な言葉に移し替えなければならないのだ。

 「闇」というところで僕の意識はまたあの黒い斑点のところへ戻った。あれは確かに何かの影のように見えた。それは―――とても黒い影だった

 

 ようやく動脈Aの付け根のところに辿り着いた。モニターで黒い斑点が見えたあたりだ。僕はそこを重点的に調べ上げたのだが、どこにも異常は見当たらなかった。あの黒いものはとっくにどこかに去ってしまったみたいだった。

 そこで僕は試しにぎりぎりのところまで本体に近寄ってみることにした。それは青く輝き、静かに鼓動を打ちながら世界に向けて青い血液を送り出している。本体の内部に入ることは許されていない。それは僕にとっても危険なことだからだし(あまりにも多量のエネルギーがそこには存在している)、また、本体そのものを傷つける恐れもあるからだ。すぐ近くで見てみたが、それは今のところ、青いままという以外には何の問題もないように思えた。

 するとそのとき僕のすぐ脇を何かが通り過ぎて行った。それは黒い何かだった。僕はとっさに腕を伸ばしたのだが、それは僕の手をいとも簡単にかいくぐって行った。まるで小さな動物みたいにすばしっこい。そのときクスクスという笑い声が聞こえたような気がした。あるいはそれは僕の気のせいだったのかもしれない。でも確かに人の笑い声のような音は聞こえた。それは静かな――本当に静かな――青い血液の中では、奇妙に場違いに響いた。僕が茫然としている間に、その黒い何かはあっという間に本体の内部に入り込んでしまった。僕はすぐに無線でモニタールームと連絡を取った。

「今の見ました?」と僕は聞いた。

「今のって何のこと?」と彼女がすぐに答えた。

「今の黒いものです。今僕の横をすり抜けて行ったんです」

「何も見えなかった」

「本体の内部に入って行きました」

 すると彼女は少し黙り込んだ。そして「少しその場で待機していて」と言った。

 

 僕はその場に待機しながら本体をじっと眺めていた。一体さっきのあれは何だったんだろう?笑い声のように聞こえたのは、気のせいだったのだろうか。僕はもう一度その声を自分の中で再現してみた。うん。確かに子どもの声だ、と僕は思った。でもなんでこんなところに子どもがいるんだ?そしてもしそれが子どもだったとして、一体何に対して笑っていたのだろう?でもいずれにせよ、その子どもの声は僕にほとんど不吉な印象しか与えなかった。思い出しただけで背筋に寒気が走った。あれが本体に悪い影響を与えなければ良いが、と僕は思った。そうこうしているうち、青かった本体が急に黄色く光りだした。

 ようやく黄色に変わったか、と思って見ていると、それはあっという間にオレンジ色に変わり、次に燃えるような赤色になった。かと思うと、すぐにまた冷たい青色に戻ってしまった。心臓に合わせて血液もまた次々にその色を変えていった。それは異常なサイクルだった。こんな風にころころと色が変わったことは――少なくとも僕の経験上――今までにはない。今本体に何か異常なことが起きているのは明らかだった。これはなんとかしなければならない。

「きっとあれのせいです」と僕は言った。「さっき見たあの小さい奴のせいです」

 無線を通して誰かがモニタールームを走るバタバタという音が聞こえてきた。そのうち彼女がまた応答した。

「何か異常なことが起きているみたい」と彼女は言った。「とりあえず今はそのままそこで・・・」

 そこで通信が途切れた。

 

 僕の目の前では中心の心臓本体が次々に色を変えていった。青から黄色、オレンジ、燃えるような赤。そしてまた青に戻る。その混乱した光は、僕の意識の平静をもまた掻き乱そうとしていた。僕はなんだか頭が痛くなってきて、ぎゅっと強く目を閉じた。本体からはこれまでにないくらいのエネルギーが発散されていた。(そのときの僕は知らなかったのだが、地上では多くの人々が気を失って倒れていた。彼らは心臓が発した巨大なエネルギーに耐えきれなかったのだ。研究所内部でもほとんどの人が失神していた)

 僕は自分の心臓が音高く鳴り始めたことに気付いた。それは目の前にある大きな心臓のエネルギーに呼応して、自らも負けじと大きく鼓動を打っていた。僕は自分の体温が徐々に上がりつつあるのに気付いた。僕は堅く目を閉じたまま、そんな自分の心臓の鼓動に耳を澄ませていた。自分自身の心臓の音を聞くのはずいぶん久しぶりのことだった。長い間中心の心臓に(たずさ)わっていたせいで、自分にも心臓が付いていることをすっかり忘れていたのだ。それはまるで、今まで忘れられていたことの鬱憤を晴らすかのようにドクドクと勢いよく血を送り出していた。僕は全身に(ほとばし)ようなエネルギーを感じた。しかし今度のエネルギーは、中心の心臓から送り出されたエネルギーというわけではなかった。それは僕自身の心臓が、僕自身のために生み出したエネルギーだった。

 目を開けると、本体は大きく肥大化していた。

 

それは優にいつもの五倍くらいの大きさにはなっていたと思う。めまぐるしい色の変化は止まり、今や心臓は黒く変色していた。黒い心臓?と僕は思った。黒い色が僕に想起させるものと言えば、それは「死」でしかない。

血液もまた黒く変色していた。それは今までのようなカラフルな生命の色を失い、不気味な暗さを身に(まと)っていた。果たして心臓は――我々のエネルギーの源である中心の心臓は――死んでしまったのだろうか、と僕は思い、じっとそれを見つめた。今やほとんど明りもなかったため、それに気付くのに少し時間がかかったのだが、案の定心臓はその鼓動を止めてしまっていた。

この心臓が止まってしまったら、と僕は思った、この国は一体どうなってしまうのだろう。何しろこの国の人々ときたらこのエネルギーを得るために生きていると言っても過言ではないのだ(もちろん僕もその一人だ)。この心臓は我々にとって、それくらい重要なものだったのだ。

しかし中心の心臓が止まってしまった今でも、なぜか僕はそのまま動きを止めないでいることができた。それはおそらく、自前の心臓がちゃんと機能しているからだ。でもほかの人たちはどうなんだろう、と僕は思った。彼らは今地上で無事に生きているのだろうか。彼らの自前の心臓は、きちんと鼓動を打っているのだろうか(実はそのとき地上にいる人々のほとんどが失神して地面に倒れ込んでいた)。そのとき本体の内部から、小さな子供の顔がひょっこりと現れ、僕の方を見た。それは確かに、さっき見失ったあの黒い何かだった。

 

それは小さな女の子だった。

彼女は動脈Aの付け根にある弁から顔を出すと、こちらを見てクスクス笑った。そしてまたすぐに顔を引っ込めてしまった。まるで僕を本体の中へ誘っているみたいに。

一体どうしたらいいのだろう、と僕は思った。本体に入り込むことは規則によって堅く禁じられている。でも今はこんな状態なのだ。今や心臓は鼓動を止めていて、黒く肥大化している。おそらくエネルギーの発散も止まっているはずだ。この状態でなら大量のエネルギーが流れ込んで僕自身の身に危険が及ぶこともないだろう。心臓自体を傷つける恐れもあったが、このままここでぐずぐずしていてもきっと問題は何も解決しまい。解決の糸口は、明らかにあの少女にあるように思えた。

僕は意を決して本体の内部に入り込むことにした。

 

動脈Aを伝って行った先は狭い通路のようなものになっていた。さっき少女がいた弁のところにはもう誰もいなかった。僕はどんどん細くなっていくその血管を、中心に向けて泳いで行った。

通路は所々で複雑に曲がりくねり、通り抜けるのがやっとという場所もあった。それでも僕はなんとかそこを通り抜け、中心の心臓のさらに中心とも言える部分に辿り着いた。

そこはぽっかりと空いた広い空間だった。そこに入った途端、あたりの暗さが一挙に増したように感じられた。それは恐ろしく濃い闇だった。通路にいる間はかろうじてまわりの状況を見分けられたのだが、ここではもう何も見えない。目を閉じているのか、開けているのか、それすらも分からない。僕は途方に暮れてあたりを見回した。

 

するとそこで誰かがそっと僕の右手を触った。そしてさっき聞こえたクスクスという笑い声もまた同時に聞こえてきた。それはどうやらさっきの少女であるようだった。

「君は一体誰なんだい?」と僕はマスク越しに聞いた。そして言ってしまってから、きっとこれじゃあ聞こえないだろうと思った。でも彼女はなぜかちゃんと返事を返してきた。

「私はあなた」と彼女は言った。その声ははっきりと――あまりにもはっきりと――僕の意識に響いた。僕は耳ではないどこか別の部分でその音を知覚した。

「君が僕だって?」と僕は言った。全くわけが分からなかった。「それはどういうこと?」

「私はあなた」と彼女は繰り返した。そして僕の手を引っ張ってどこかに連れて行こうとした。

「どこに行くの?」と僕は聞いたが、彼女はそれには返事をしなかった。

 

 彼女は暗闇の中をどこかに向けて泳いで行った。どんどん遠くに泳いで行った。変だな、と僕は思った。いくらなんでもこれは広すぎる。だってここはあの心臓の内部なのだ。いくら肥大化したとはいえ、ここまで広いはずがない。でも彼女は泳ぐスピードを緩めなかった。

「君がこの心臓を()めてしまったの?」と僕は聞いた。

 彼女はしばらくの間ただ黙って泳いでいたのだが、やがて口を開いた。「あなたが止めた」

「僕が止めた?」と僕は聞いた。ますますわけが分からなくなってきた。どうして僕がこの心臓を――人々にとってとても重要なこの心臓を――止めなければならないのか。なぜ彼女はこんな暗示的なしゃべり方をするのか。そもそも彼女は何者なのか?考えているうちに頭が痛くなってきたので、僕はできるだけ具体的な質問をすることにした。

「君は今いくつなの?」

 彼女はそこで僕をじっと見つめた(ような気配を感じた)。そして言った。「生まれたばかり」

 

 次第に前方に何かが見えてきた。それは淡い青色に光る何かだった。始めそれはごく小なものでしかなかったのだが、僕には遠くから見ただけでそれが何なのかすぐに分かった。それは青い心臓だった。心臓の中に心臓がある。でも僕はなぜかこれを見ても大して驚きを感じなかった。むしろこれ以外ここにあるべきものはほかにないだろうという気がした。

 我々はその青い心臓に向けて泳いで行った。その心臓は今我々が入り込んでいる中心の心臓に比べるとずいぶん小ぶりなものだった。しかしそれでもバレーボールくらいの大きさはある。その心臓の青い光を受けて、僕は初めて少女の姿を間近で眺めることができた。

 彼女はごく普通の少女に見えた。透き通るような長い髪の毛をしていて、肌は白い。目は大きく、愛嬌がある。僕が見つめていると彼女はまたクスクス笑った。

「どうしてそんなに見るの?」と彼女は僕に聞いた。

「分からない」と僕は言った。「ただなんとなく見つめちゃったんだよ」

 彼女はまたクスクス笑っていたのだが、やがて僕の腕から手を離し、今度はその小さな手を僕の胸の上に置いた。そして言った。

「空っぽ」

 空っぽ?僕は彼女の手の上から自分の胸を触ってみた。ウェットスーツ越しでもそれは明らかだった。そこにあるのはただの虚ろなへこみだったのだ。

 

 僕は茫然としてしまった。ついさっきまではここで心臓が――僕の自前の心臓が――音高く鼓動を打っていた。一体どうしてここになんにもないなんてことが起こり得るのだろう。

 そのとき少女が僕のウェットスーツのおなかのところを引っ張り、目の前の青い心臓に注意を向けさせた。そうか、と僕は思った。おそらくこれが僕の心臓なのだ。その心臓は――なぜか僕の胸の中から離れ、暗闇に浮かんでいるその心臓は――青く、静かに光り輝いていた。それは穏やかで、どこまでも優しい光だった。我々二人はしばらくの間、黙ったままじっとその光に見入っていた。

 

 その光を見つめながら、僕は遠い日の記憶を思い出していた。おそらく小さな子どもの頃の記憶であるように感じたのだが、はっきりしたところは分からない。僕は小さな丘の上にいて、緑色のクローバーの上に寝そべっている。空はどこまでも青く、頭上には太陽が輝いている。気持ちの良い風が吹いて、僕の肌に優しくぶつかる。どこかで犬が鳴いている。僕は自分が完全に自由で、世界に祝福されていると感じている。僕はなんだか嬉しくなってしまって、そのまま斜面を転げ落ちる。コロコロコロコロと・・・。

 そこで僕は気付いた。今僕らがいる街にはクローバーなんかないし、太陽も昇らない。犬だっていない。だからこの記憶は僕のものではないということになる。でもそれは他人の記憶であるにしてはあまりにも親密であるような気がした。ということは、やはりこれは僕自身の記憶なのだろうか。実際には経験したことのない記憶・・・。

 僕は目の前の光景に何か違和感を感じ、急いで意識を現実に引き戻した。

 

 


中心の心臓4

見ると目の前の青い心臓がもぞもぞと動き出していた。それは伸びたり縮んだりしながら、次第に人の姿を取っていった。僕はぼんやりしていて、始めのうち何が起きているのか良く分からない。暗闇の中で青く光る心臓が――僕の心臓だ――ごにょごにょと動きながら人の形に変わっていく。一体なんでそんなことが起こるのだろう、と僕は思う。でも僕の疑問になんかお構いなしに心臓はどんどん変形していく。そしてそれはやがて一人の若い男になった。一度も見たことのない男だ。でもなぜか見覚えがあるような気がする。なぜだろう、と僕は思ったのだが、すぐにその理由に気が付いた。彼はあの客の男だったのだ。つまり『神々の通訳』に出てきた客の男だ。彼は僕がその本を読みながら想像していた、まさにその通りの姿をしていた。服装まで同じだ。チェック柄のシャツに、青いジーンズをはいている。彼は本の中でと同じように何もしゃべらず、その静かな眼差しでただじっと僕を見つめていた。その口元に微笑みが浮かんでいるようにも見えたが、あるいは僕の気のせいかもしれない。

 少女は彼を見ると僕のもとを離れ、うれしそうに彼の脚にしがみついた。彼は腕を伸ばし、少しだけ彼女の髪を撫でたが、表情は一切変えなかった。その目は相変わらずただじっと僕の目を見つめていた。

 彼(ここで彼のことを便宜的に『X』と名付けることにする)は僕に何かを求めているように見えた。一体彼は何を求めているのだろう?俺は一体何をすればいいんだろう

 そのときXはほんの少しだけ表情を変えた。それは顔の筋肉の本当に(わず)かな動きでしかなかったのだが、僕にはなぜか彼の言いたいことがはっきりと読み取れた。「ウェットスーツを脱いでください」と彼(の顔)は言っていた。ウェットスーツを脱ぐ?と僕は思った。このスーツは単なるスーツというわけではない。これは時に危険にもなり得る血液から身を守るためのものなのだ。中心の心臓を流れる血液には特殊なエネルギーが含まれている。それは場合によっては致死的なものにもなり得る。もちろん僕の場合他人よりも強い耐性が備わっているということもある。しかしここで裸になってしまって、本当に大丈夫なのだろうか。

「大丈夫です」とそのとき彼がまた表情を変えて(ほんの少し顔の端を動かしただけなのだが)僕にメッセージを伝えてきた。「ここで裸になっても血液はあなたに何の害も与えません」

 でも一体なぜそんなことをする必要があるのか、と僕は聞こうとしたのだが、彼はまた表情を変えて僕の質問を(さえぎ)った。

「大丈夫」と彼の顔は繰り返し言っていた。「私の言うとおりにしてください」と。

 なぜか僕はXに従っても良いような気持ちになっていた。彼の(まと)っている非常に静かな空気が、僕を自然にどこかに導いていこうとしていた。それは、とても穏やかな感覚だった。しかしそこで僕は気付いたのが、スーツを完全に脱ぐためには背中に背負っている酸素ボンベを外し、今顔に付けているマスクを外さなければならない。僕はもう一度彼の顔を見た。

「大丈夫」とまたしても彼は言っていた。「マスクなんていらないから」と。

 

 僕は思い切って全てを脱ぐことにした。考えてみれば今目の前にいるこの男も、そして少女もマスクなんて着けてはいないのだ。酸素ボンベだってない。僕だってきっと大丈夫だろう。それでも実際にマスクを外すときにはずいぶん勇気が要った。でも僕の中にはなぜかこれが――すべてを脱ぎ捨てて完全な裸になることが――今の自分にとってどうしても必要なのだ、という認識があった。それにXの穏やかな目も終始僕を励ましてくれていた。

 

 マスクを外しても呼吸は苦しくならなかった。何度か無理に息を(といっても周りには血液しかないのだが)吸い込もうとしてむせかえったあとで僕は気付いた。そもそも僕は今呼吸をしたいのだろうか?ほんとうに空気が必要なのだろうか?そう思って呼吸を止めてみると、案の定苦しくなるポイントはいつまで経ってもやって来なかった。

 そういえば自分は心臓を失ってしまったのだ、とそのとき僕は思い出した。今や僕の胸には虚ろなへこみしかない。心臓を失った者は、もはや呼吸をする必要もないのかもしれない。

 

 マスクと酸素ボンベを外してしまうと、僕は今度は苦労しながらウエットスーツを脱ぎ、全くの裸になった。少女もXも僕の裸を見ても特に何の反応も示さなかった。彼らはただじっと僕を見つめていた。裸になると、冷やりとした冷たい血液が僕の全身を包み込んだ。黒い血液だ。それはあまりにもぴたりと僕の肌を包み込んだので、僕は一瞬自分が血液になり、血液が自分になったかのような感覚を味わった。僕が血液で、血液が僕になっている。僕は少女とXを見つめた。その変な感覚の中で、僕はまた彼らとも一体になっていた。彼らが僕になり、僕が彼らになっている。僕はそこでぎゅっと堅く目を閉じた。

 目を閉じると僕は自分がばらばらの分子になって暗闇に飛散して行くような感覚を味わった。僕は暗闇を構成する一粒一粒の粒子となり、世界全体を覆っていた。暗闇は世界の至るところに存在し、ものごとにしかるべき影を与える。僕は至る所に存在し、ものごとにしかるべき影を与える。そして僕は世界の一部になる。

 僕はそうやって長い間目をつぶっていたのだが、やがて身体に無視できない違和感を感じて目を開けた。ずっと目を閉じていたせいでXの発する青い光がとても眩しく感じられた。僕はもう一度目を閉じようとした。でもそれはできなかった。なぜなら僕にはもう目がなかったからだ。

 

 僕には目がなかった。ではどのようにして今この状況を眺めていられるのだろう、と僕は思った。それでもなぜか僕は全体の状況をきちんと把握することができた。僕は今一つの黒い心臓に姿を変えていた。

 僕は今ずんぐりとした黒い心臓に変わっていた。大きさは普通の心臓と同じくらいだ。しかし鼓動は打っていない。それは死んでしまっている。死んでしまっている?それはつまり僕自身が死んでしまっているということなのだろうか?僕には分からない。僕にはもう何も分からない。それに今さら何をしようにも、もはや身動き一つ取れなかった。

 でも僕には身動きをする必要はなかった。Xが代わりに動いたからだ。彼は今までずっと動きを止めていたのだが、おもむろにこちらに近づくと、僕に向かって両手を伸ばした。彼の青く光る(てのひら)が僕を優しく包み込むのが分かった。彼の手は温かくもなく、冷たくもなかった。それはただそのものとしてそこにあった。

 彼はしばらくじっと僕を――黒い心臓になった僕を――眺めていたのだが、やがて片方の手を離し、その手でシャツの胸のボタンを外しはじめた。彼はその中に何も着ていなかったため、ボタンを外すと青白い肌がむき出しになった。そして――僕はそのときになってようやく気付いたのだが――彼の胸の本来心臓のあるべきところには、ただ虚ろなへこみがあるだけだった。

 そういえばあの本の中でも彼は心臓を持っていなかったな、と僕は思いだした。でも、彼はそもそもここにあった青い心臓が変化して人の姿を取ったんじゃないか。彼は自らが心臓でありながら、自らの心臓を持たない?しかし今度は僕が一つの心臓になっていた。まだ鼓動は打っていないが、それでも心臓は心臓だった。一体何が起こっているんだ?

 しかし次に起こるべきことは明白だった。Xは僕を――黒い心臓になった僕を――自分の胸のへこみに嵌め込んだ。そのへこみはまさにそのためにつくられたかのように僕の大きさにぴったりだった。僕はそこにいて、自分が今いるべきところにいるのだと感じていた。僕は本来ここにいるべきだったのだ。でもまだ鼓動は打っていない。僕は今いるべきところにいるのに、動きを止めてしまっている。心臓が人の胸の中にいて鼓動を打たないなんて、そんなのはおかしい話だ。そう思って僕はなんとか鼓動を打とうとした。Xの身体に血液を――あるいは血液に似た何かを――送り出そうと努めた。でも身体は動かなかった。エネルギーが枯れてしまっているのだ。

 

 そのとき今までじっと様子を見守っていた少女がこちらに来て、僕に顔を近づけた。彼女はもうクスクス笑っていたりなんかしなかった。彼女は真剣な目をして僕を――つまりXの胸の中に収まっている黒い心臓としての僕を――見つめていた。

 そのとき初めて気付いたのだが、彼女はすごく透き通った目をしていた。それは明らかに普通の人間の目とは違うものだった。その目は、目の前にある映像を通り越して、その奥にある何かもっと別なものを見つめていた。僕は彼女の目を見返した。彼女の目には黒い心臓としての僕の姿がくっきりと映し出されていた。そこに映った僕の像は、彼女の黒い瞳孔とぴたりと重なり合っていた。でも僕は彼女が本当は僕のことなんか見ていないことを知っていた。彼女は僕の奥にある何かを見つめているのだ。

 彼女の黒い瞳は本当に僅かなだけぴくぴくと震えていた。そしてそれに合わせて彼女の眼に映った僕の像もまたぴくぴくと震えた。それは、生命のもたらす震えだった。でもいずれにせよ、彼女はやはり僕の姿なんか全然見てはいなかった。彼女が見ていたのは僕の中心の、もっとずっと奥の方にある何か形をもたないものだった。

 やがておもむろに少女が動き、その小さな唇で僕にそっと口づけをした。つまり彼女はXの胸に口づけをしたわけだ。それは静かな口づけだった。おそらく世界で一番静かな口づけだ。そしてそこに込められた感情もまた静かなものだった。でもそのすべてとは対照的に、僕の身体はまるで火に焼かれた石みたいに熱く火照り出していた。

 少女は心臓としての僕に口づけをすると、そのままXにしがみつき、僕に(つまりXの胸に)頬を当てたまま目を閉じた。彼女はさっきの口づけによって僕の中に何かを送り込んだようだった。いや、正確に言えばそれは何かを送り込んだと言うよりは、その透明な眼差しによって揺すぶった僕の中の何かに、口づけによって承認を与えたという方が近かったのかもしれない。いずれにせよ僕の中の何かは、その行為によってようやく長い眠りから目を覚ましたようだった。

 

 僕は鼓動を打ち始めた。始めはごく小さな、ゆっくりとした動きでしかなかったのだが、それは次第に堅実なリズムを形成し始めた。ドクン、ドクン。ドクン、ドクン。僕は自分の中のなにかよく分からない力に促されて、全力を上げて鼓動を打っていた。力を込め、力を抜く。また力を込め、力を抜く。僕はそのようにして収縮と拡張を繰り返しながら、Xの全身に新たな血液を送り出していた。僕はもう自分が黒い心臓ではなくなっているのに気付いた。今は鼓動を打つのに忙しくて、自分が何色であるのかは分からなかったのだが、黒でないことだけは確かだった。でもそのときの僕にはもう自分の色なんてどうでもよくなってしまっていた。僕の頭にあるのは、とにかく鼓動を打ち続けるということ、ただそれだけだった。ほかには何も考えなかった。僕はとにかく必死に鼓動を打ち続け、世界にしかるべきリズムを与えた。ドクン、ドクン。ドクン、ドクン。まるで堅実なドラマーみたいに。ドクン、ドクン。ドクン、ドクン。これは重要な仕事だ。なぜならもしそこにリズムがなければ、世界は前進することを()めてしまうからだ。ドクン、ドクン。ドクン、ドクン。僕の送り出した熱い血液を受けて、Xが少しだけ身体を動かした。少女がさらに強く彼にしがみついた。ドクン、ドクン。ドクン、ドクン。Xは彼女の髪を撫で、次に小さな声で何かを言った。少なくともそう僕には見えた。彼が言葉を発するのを見たのはこれが初めてだった。でも僕は自分の仕事が忙しくて彼が一体何を言ったのかまでは分からなかった。でもきっと何か優しい言葉だろう、という予想はついた。

 

 僕が鼓動を打ち続けると、次第に(今僕らが中に入り込んでいる)中心の心臓もまた鼓動を打ち始めた。黒く変わっていた中心の心臓は少しずつ淡い青に変化し、僕よりもさらに低く大きな音で鼓動を打った。ド、ド。とそれは鳴った。ド、ド。ド、ド。世界はようやくリズムを取り戻したのだ。

 僕は相変わらず何も考えずにXの胸の中で鼓動を打ち続けていた。僕は自分が今しかるべきところにいて、しかるべき動きをしているのだと思った。人生とは、このようにあるべきなのだと思った。でもあとはなんにも考えず、ただひたすら鼓動を打ち続けていた。それだけが僕に与えられた役割だった。

 

 

 目を覚ますと、僕は酸素ボンベを背負い、ウェットスーツを着たままモニタールームの床に横になっていた。モニターには黄色く光る中心の心臓が映し出されていた。それは元の大きさに戻り、まるで何事もなかったかのように順調に鼓動を打ち続けていた。モニタールームには何人かの研究者が倒れていたが、やがて彼らもよろよろと立ち上がりだした。彼らは心臓が元に戻っているのを見て、皆一様にほっとした様子を見せていた。

 そのうち彼女がこちらに近づいて来た。

「あなたがあれを助けたのね」と彼女は言った。

 

 僕はそれについて何かを言おうとしたのだが、なぜか言葉は出てこなかった。僕はただその場にじっとして、自分の心臓の鼓動に耳を澄ませていた。

 

http://beginnerslife.com/ 『ビギナーズライフ』)

 


七つの心臓を持つ男

「俺はかつて七つの心臓を持っている男を知っていた」とJは言った。

「七つの心臓?」と僕は聞いた。

「そうだ」と言ってJは頷いた。「彼は言っていた。自分は七つの心臓を持っている。だから六回までなら死んでも大丈夫なのだと。どうやら彼の中では『命』という観念と物理的な『心臓』というものがイコールで結ばれていたようだった。そう言うとなんだか幼い子どもみたいだが、あいつは、まあつまりそういう奴だったんだよ」

「それで、その人はまだ生きているんですか?」と僕は少し興味をそそられて聞いた。

「いや、死んだよ」とJは言った。「死んだとき心臓は七つとも健康そのものだった。七つとも、だ。彼は肝臓ガンで死んだんだよ。そもそも奴は酒を飲み過ぎたんだ」

「それで、あなたはその人と友達だったんですね」

「いや、友達と言うほどじゃないな。奴に友達なんてものがいたのかどうかは怪しい。あんまり一緒にいて愉快な奴というわけでもなかったしな」

「でもあなたの記憶には残っている」

「だって心臓が七つもありながら肝臓ガンで死んだんだ。まだ四十代の始めだった。覚えていないわけがないだろう」

「彼はどんな人生を送ったんです」と僕は聞いた。

「それを今から話そうと思っていたんだ」

 

 

『七つの心臓を持つ男の生涯』

 

彼は両手両足にそれぞれ一つずつ(これで四つ)、頭に一つ、腹に一つ、そして我々普通の人間と同じように胸に一つ、計七つの心臓を持っていた。それはどうやら生まれつきのものだったらしい。こんな赤ん坊が生まれて両親はきっと心配しただろうが(しないわけがない)、幸いその余分な心臓は彼の生育に特に害は与えなかったみたいだ。

 彼はすくすくと育ち、ろくでもない思春期を経て、まあ普通の青年になった。それまでの人生において心臓が七つあるということは、彼にとって特にメリットにもならなかったし、かといってデメリットにもならなかった。そんなことはほとんど忘れかけていたくらいだ。

 でも二十一歳のときに(大学の三年生だった)彼は精神的な苦悩に悩まされた。自分が将来一体何をやりたいのか、それが分からなかったんだよ。彼は悩みに悩み、ついには死を考えるところまで行ってしまった。周りと同じようにごく普通に大学を卒業して、ごく普通に会社に勤めるなんて嫌だった。でもかといってその代わりに何をやったらいいのかは、どれだけ考えてもさっぱり分からなかった。

 俺が彼に会ったのはその頃だ。俺は同じ大学の別の学科に属していた。正確に言えば前にも奴の顔くらいは見たことがあったはずなんだが、それまでは特に気にも留めなかった。最初に声をかけてきたのは奴の方だった。

 俺はそのとき図書館のロビーで『カラマーゾフの兄弟』を読んでいた。すると奴が後ろから本の中身を覗いているのが見えたんだ。俺がさっと振り向くと奴は恥ずかしそうに言った。

「それ面白いかい?」

「まあ結構面白いよ」と俺は言った。

「どの辺が?」

「人が生きていて、物語が動いているという感じがする。現実の人間として見るにはみんな強烈すぎるけどね」

「僕も読んだけど良く理解できなかったな」

「これは理解するとかしないとかっていう本じゃないんだと俺は思うね。面白ければそれでいいんだ。楽しんだ者勝ちさ」

 すると彼は不思議な目で俺を見つめた。とても真剣な目付きだった。誰かにそんな目で見られたのは初めてのことだった。

「一緒に飯でも食わないか」と突然彼は言った。

「もう食ったよ」と俺は言ったが、結局奴に付き合ってやることにした。

 

 奴が自分は七つの心臓を持っているという話をしたのはそのときだった。俺は最初冗談だと思ったんだが、その話をする彼の目は真剣そのものだった。

「僕はね、時々自分が七つのばらばらな部分に分断されたように感じるんだ。それぞれが別々のことを考えていて、全然統一感というものがないんだよ。それでひどく混乱してしまうことになる」

「でも脳はひとつだ」と俺は言った。

「確かにね」と彼は言った。「でも人間というのは脳だけで身体をコントロールしているわけじゃないんだ。本当に身体をコントロールするには、なんというか、全体的な調和が必要になる」

「全体的な調和」と俺は言った。

「まあね」と彼は言った。

 

 もっとあとになって奴に聞いてみたことがある。君はかつて一度でもその全体的な調和とやらを感じたことはあったのか、と。

「一度だけある」と奴は言った。「あれはまだ子どもの頃だった。僕は原っぱに寝転がって青空を見上げていた。あれは五月くらいだったかな。僕は十一か十二くらいで、その日は学校は休みだった。空にはほとんど雲もなくて、風は温かく、どこまでも優しかった。僕はそこでふと気付いたんだよ。今自分は完全に調和している、と。七つの心臓が分断されたものではなく、統一されたものとしてそこにある、と。そのとき抑えきれないほどの幸福感が僕の身を包み込んだ。僕は青空と一体になり、原っぱと一体になっていた。風とも一体になっていた。僕は僕でありながら、僕ではなかった。七つの心臓が全く同じタイミングで鼓動を打っていた。ドクン、ドクン、とそれは鳴っていた。僕は寝転がって、ただその音に耳を澄ませていた。耳を澄ませてさえいれば良かったんだ。太陽が上空でまぶしく輝いていた。でも僕は目をつぶらなかった。そのとき僕は太陽とも一体化していたからだよ。僕はそこにいて、世界そのものと一体化していた」

 そう言う彼の顔は今にも感動で泣きださんばかりだった。

「でもそれもすぐに終わってしまった」と彼は言った。声のトーンが急にがくっと落ちてしまった。「急にふっと途切れてしまったんだ。それは右手の心臓が少しだけ早く鼓動を打ってしまったからかもしれないし、空を一羽のカラスが横切ったからかもしれない。いずれにせよ、その圧倒的な調和は僕の中に二度と戻ってはこなかった」

 我々の間には沈黙が降りた(そのとき俺たちは彼の部屋にいたんだ)。それは奇妙に重い沈黙だった。窓の外でカラスが鳴く声がした。

「それを意図的に追い求めることはできないのか」とやがて俺は言った。

「意図的に?」と彼は言った。

「そう。君がそのときに感じた調和は、言わば偶然もたらされたものだった。でもそれを自分から求められるようになれば、君が今陥っている精神的な袋小路から抜け出せるんじゃないかな」

「君は分かってないんだ」とそのとき彼は言った。珍しく強い口調になっていた。「あれは人間の意図なんてものを遥かに超えたものだった。それはもっと――宇宙的なものだったんだよ」

「俺はただ思いついたことを言ってみただけだよ」と俺は言った。

「そうだな、悪かった」と彼は言った。

 

 それでも俺の言ったことは彼の心にずっと残っていたみたいだった。あるとき奴はこう言った。

「君と会ってから僕は前よりも精神的に安定してきたみたいだ。これは良き影響だ。君はなんというか、きちんとした自分というものを持っているしね」

「そういう振りをしているだけさ」と俺は言った。

「いや、君はほかの人とは違う。それは一目見れば分かる。彼らはいつだってふらふらして、何かにしがみつこうとしている。でも君は違うんだよ。君はこの世界にしっかりと直立している。僕ももっと君を見習う必要があるな」

 

 奴は七つの心臓を調和させる訓練を始めた、と言った。

「どうやってそんなことやるんだ?」と俺は聞いた。

「ただじっとして自分に意識を集中するんだ」と彼は言った。「少しでも狂ってはいけない。右手の心臓が少し早くても駄目だし、左足の心臓が少し遅れても駄目なんだ。七つの心臓すべてをまったく同じリズムで動かさなければならない」

「それで成功したかい?」

「いや、まだまだだよ」と彼は言った。

 

彼はそんな状態のまま大学を卒業した。相変わらず何をやりたいのかは分からなかったみたいだが、それでもあの訓練は続けているようだった。奴は結局いくつかのアルバイトを経て、最終的に探偵になった。

 

 

「探偵?」とそこで僕は聞いた。「どうして探偵なんかに?」

「なにも小説やドラマなんかに出てくるような探偵じゃない。浮気調査とか、人探しとかその程度のもんだ。でもそのときには彼は自分が七つに分断されていることを上手く利用できるようになっていた。彼は一人で七つの人格を操っていたんだ。彼の変装がばれたことは一度もなかった」

 

 

 探偵としての奴の評判は上々で、そのうち政治家の汚職とか、企業の不正とかも暴くようになった。正義のヒーローとして祭り上げられたりもした。でもその一方で同時に七人の女性と交際していたりもした。まあ傍目(はため)には派手な生活を送っていたわけだが、俺は実は奴のことをずっと心配していたんだ。

 

 あれは我々が三十歳くらいのときだったと思う。俺たちは久しぶりに会って一緒に酒を飲んだ。奴は前に見たときよりもずっとやつれていた。

「なあ、まだあの訓練は続けているのか?」と俺は聞いた。

「続けているよ」と奴は言った。「なんというか、それだけが今の俺の人生の希望なんだ。あの調和だけが俺の人生の目標なんだよ」

「でも今の君はより分断を深めているようにしか見えないんだが」と俺は正直に言った。

 彼はウィスキーを一口すすり、言った。「まあ君にはそう見えるかもしれない。でも俺としてはだね、自分が七つの心臓を持っていること、そしてそれによって七つに分断されていることを、一種のアドバンテージとして生かしてやろうと思っているんだよ。結局それによって仕事は上手く行ったし、高い収入を得ることもできた」

 でもそう言っている彼の顔は、俺にはずいぶん寂しげに見えた。

「七つも人格を持っていると、どれが本当の自分か分からなくならないか?」と俺は聞いた。

「本当の自分なんていないんだ」とそのとき奴は言った。「俺は空っぽなんだよ」

 

 その後彼とは会う機会がなくなってしまった。無理して会おうとすれば会えないこともなかったんだが、俺の方がそういう気をなくしてしまったんだ。奴の顔を見ていると、なんだか気が重たくなってしまった。結局は奴の人生なんだ、と俺は思おうとした。奴を救えるのは、奴本人でしかないんだと。

 

 最後に会ったのはもう奴が病床に臥せっているときだった。もうほとんど余命が残されていないのは明らかだった。彼はあのとき自分で俺に電話をかけてきたんだ。今病気で入院しているんだが、なんとか会えないかってな。俺はもちろん急いで病院に駆け付けた。奴はずいぶんやせ細っていて、前に見たときの面影は全然残っていなかった。でもその目には、今までにはなかった光が浮かんでいるようにも見えた。

「やあ、来てくれてうれしいよ」と奴は言った。

「もっと早く連絡をくれればよかったのに」と俺は言った。

「いや、あの訓練が上手くいくまでは君には連絡を取るまいと決めていたのさ」と奴は言った。

「それじゃあ、上手く心臓を調和させることができたのかい?」

「それがね、もうちょっとなんだ」と彼は言った。「あとほんの少しなんだ。それでも俺は今自分がその大事なものに近づいているという感覚を強く持っている。それは今までには感じられなかったことだ。なあ、俺は今ようやく空っぽじゃなくなってきているんだよ」

 確かに彼は人生にこれまでにないくらいの充実感を感じているように見えた。それは彼の目を見れば明らかだった。

「ねえ」と彼は続けた。「俺はもう少しで死ぬだろう。そのことは自分でも分かっているんだ。でも死ぬことは恐くない。全然怖くないんだ。なぜなら俺は自分が死ぬ寸前にあの完全な調和を手に入れるだろうと知っているからだ。俺は若い頃君に言われてからずっとその訓練を続けてきた。もちろん時々中断することはあったけれど、結局はそこに戻ってきた。それしかすることは――するべき価値のあることは――俺には存在しなかったからだよ。だから俺は君に感謝するべきなんだろう」

「努力したのは君じゃないか」と俺は言った。

「まあそうだな。それは事実だ。でもね」と彼は言った。「俺は仕事柄、これまでに実に様々な種類の人間に会ってきた。比較的まともな人々から、明らかにまともとは言い難い人々まで。でも、こういうことを理解できる人間は君しかいなかった。君一人だ。俺が今まで腐らずに生きてこられたのも君のおかげなんだ。俺はずっと自分に言い聞かせてきたんだよ。世の中には君みたいな人間だっているんだ、だから俺も頑張ろうじゃないかってね」

 俺はもう何も言うことができなかった。

「君とまた会えてうれしいよ」と彼は続けた。「そうは見えないかもしれないけど、すごくうれしい。君という存在は俺の中の大事な何かと結びついていたんだ」。彼はそこで一度話すのを止め、天井を見上げた。その目には涙が光っているようにも見えた。でもそのあとすぐ奴は口調を変えて言った。「俺はきっと最後の最後に完全な調和を手に入れて、世界と一体化するだろう。そして宇宙を構成する粒子の一粒一粒になるんだ。そうなったら君のところに行こう。俺は君の世界の構成要素になるんだよ」

 俺には彼の言っている意味が良く分からなかったが、それでも奴が本気でそれを信じていることは分かった。俺は奴のやせ細った手を握った。

「まだ死ぬって決まったわけじゃないだろう」と俺は言った。

「いや、俺は死ぬのさ」と奴は言った。「他人の七倍素晴らしい人生だったとは言えないにせよ、まあ人並みに悪くない人生だった。でもまだやるべきことがある。君も自分の場所に帰って、自分のやるべきことをやるんだ。俺は俺のやるべきことをやる。今日は来てくれてありがとう。会えてとてもうれしかった」

 我々は最後にまた握手をして別れた。帰る前に病室の入り口で振り返ってみたんだが、そのときにはもう奴は目をつぶって深く意識を集中させていた。きっと調和のための訓練をしていたのだと思う。

 

 その数日後に彼は死んだ。でも俺はその知らせを受け取る前にすでにその事実を知っていたんだ。奴が死んだのは真夜中だったんだが、その時間に俺はふと目を覚ました。部屋は暗く、視線の先には天井が見えていた。いつもの自分の部屋であるにもかかわらず、そのときだけはなんだかそこが自分の部屋に見えなかったことを覚えている。俺は身体を動かそうとしたが、なぜかぴくりとも動かなかった。でもかろうじて呼吸だけはできたから、ただそのままじっとして天井を見上げていた。

 

 すると天井にいくつかの光が見えることに気付いたんだ。それはまるで夜空に浮かぶ星のように小さく光っていた。それほど強い光ではないんだが、それでも光は光だ。数えてみるとそれは七つあった。俺はそれをじっと見つめていたんだが、次第にその七つの光は一か所に集まっていった。一か所に集まると光は七倍の明るさになって、だんだんと天井から下に降りはじめた。俺はまだ身動きができなかったから、ベッドに横になってただじっとそれを見つめていた。その光はゆっくりと俺に向かって降りて来ていた。やがてその光は俺の額のあたりにぶつかり、そのまま俺の中へと入り込んだ。俺の中に入り込むと、それは無数の粒子となってはじけ飛び、俺の内部の隅々にまで行き渡った。ああ、これは奴なんだな、とそのとき俺は思った。奴が七つの心臓を調和させることに成功して、最後の最後に俺の元にやって来たのだと。俺は堅く目をつぶった。そのときには目だけは動くようになっていたんだ。そしてその(まぶた)に覆われた暗闇の中で、奴が俺の世界の構成要素となっていく様を、ただじっと眺めていたんだ。

 

 

http://beginnerslife.com/ 『ビギナーズライフ』)

 



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