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 ドアが開かれる瞬間、俺は無意識に息を止めていた――

 そして、恐る恐る、少しだけその部屋の空気を吸った。
 鼻腔から入り込んで来たのが、膏薬の微かな匂いだったことに、ほっと安堵の息を漏らす。こういう場に立ち会うのは、どれだけ場数を踏んでも慣れない。そんな俺の気配を察したのか、管理人が誰にという訳でもなく、独り言のように言った。

「この時期、そう気温も高くないですしね…何しろ今回は、発見が早かったですから、そんなに酷いことにはなっていないですよ…」
 その言葉を聞きながら、部屋の奥に目を向けると、そこに、この部屋の住人と思しき人間の体が横たわっていた。

 

 何の躊躇いもなく、さっさと部屋に上がり込んでいく先輩を慌てて追って、俺はその傍らに立ち、それ…遺体を見下ろした。

――自然死だろう。
 見た瞬間にそう思い、手を合わせて数秒間黙とうをする。

 八十代半ばの老女だと聞いた。この団地の大半は、そんな高齢の老人ばかりだから、こういう通報もそう珍しいことではない。

 俺たちの後に続いて部屋に入って来た管理人も、こんなことには慣れてしまっているのだろう。たいして取り乱すでもなく、少し離れた場所に立ち、神妙な顔をして手を合わせている。

「ええと、名前は佐倉さんでしたか?佐倉ソメさん?」

 先輩がメモを書き込んだ手帳を広げながら、管理人に確認するように言う。ちょうど屈んで遺体の顔を確認していた時に、その名前が俺の耳に入った。

――佐倉…さん?

「身寄りは?」
「…はあ。恐らくないと思います。結婚とかもされたことはなかったようですし。ここに住んでいる方は皆、そんな事情の方が多いですからねえ」

 名前を聞いた後で、改めてその顔を見ると、その面差しには覚えがあった。
「佐倉のおばあちゃん…」
「何だ?知り合いか?」
「知り合いというか、この先の四辻の交番に勤務していた頃に、よく差し入れを持って来て頂いて…」

 

 あのおばあちゃんだ。本部に異動になってからは疎遠になってしまっていたが、俺があの交番にいた頃は、よくお茶菓子持参で遊びに来ていた。品の良い感じで、しゃきしゃきとしていたから、そんなに年だとは思っていなかった。

――ああ、でも。

 数えてみれば、それももう、十年近く前になる。

――そうか、もうそんな年だったのか。

 一度ぐらい、顔を見に来てやれば良かった。ふと、そんな後悔が胸に浮かぶ。


「まあ、遺体に不審な点もないし、部屋を荒らされているでもないし、老衰ってことで決まりか」
 この仕事を早く終わらせたがっている様な先輩の台詞を聞きながら、俺はおばあちゃんが倒れた時に一緒に倒れたのだろうと思われる椅子を元の位置に戻す。それから、恐らくその椅子の上から落ちたのだろう座布団…それが、倒れた彼女の右手の上に被さる様にして乗っていたのを、拾い上げた。

 と――
 そこで俺の視界に、思いがけないものが飛び込んできた。

――え。

 その下から現れたモノに、俺は思わず息を飲んでいた。

 その場所には、小さな血だまりの痕があった。すでに黒ずんだ染みになっているが、それは紛れもなく、血の痕で、その染みの上に置かれた手には、小指の第二関節から先が無かった…。

 

 傷口は、刃物で切り落としたという様なものではなく、何かに噛みちぎられたような様子であり、この辺りでは、狸や クマの類は珍しくはないから、恐らくそういったものの仕業だろうと思われた。

 そういえば発見時、窓が少し開いていたという、管理人の証言も、それを裏付ける形で、事件の可能性は低いと思われた。

 それでも、念のため、周辺の聞き込みをしておくべきだという俺の主張に、先輩はあまり乗り気でない風だったが、医師による検死結果が出るまでという条件付きで、その許可が出た。

 本音を言えば、事件の捜査というよりも、俺は何となく、佐倉のおばあちゃんの生前の様子が知りたくなったのだ。それは多分、さっき胸に浮かんだ小さな後悔のせいだったのだろう。それに、そうすることで、少しでもおばあちゃんの供養になればと、そんな風にも思っていた。

 

 

 


1
最終更新日 : 2010-10-06 13:48:47

 団地で聞き込みを始めると、玄関口に応対に出て来るのは、呆れるばかりに年寄りばかりで、互いにそう深い付き合いはしていなかった様だが、皆一様に、佐倉のおばあちゃんとは顔馴染みで、断片的ではあったが、様々にその暮らしぶりを語ってくれた。

 

「…やっぱり、亡くなってたんだってねえ。この所、あんまり猫がうるさく鳴くもんだから、おかしいと思ってさぁ…それで、管理人さんに様子を見に行って貰ったんだよ…はぁ、全く堪らないねぇ」

「猫、というのは?」
「ああ。あの人はね、猫が好きだったから。野良猫にね、餌をやってたの」
「野良猫…」

「きっと、餌欲しさに、佐倉さんを呼んでいたんだろうけどさ。まあ、それで倒れてるの見つけて貰えた訳だから、施しはしておくもんだよねぇ…」

 そんな話を聞いてから辺りを見回すと、植え込みの陰や塀の上に、成程、野良と思しき猫が数匹、ひなたぼっこをしているのが目に入った。


「そういや、何日か前にさ、桜の木の下に何か植えてたっけね。あの人、花とかも好きだったから、苗なんかを買ってきちゃ、その辺に植えてたんだけど…そんな木の下じゃ、日当たり悪いんじゃないのって、そう言ったら、これはここでいいんだって、笑ってて。思えば、それが最後になったんだわねぇ…」

 その時の情景を思い浮かべているのか、そのおばあさんはしんみりとした様子になって涙ぐんだ。
「どうもありがとうございました」
 それ以上の話は、哀しみを余計に膨らませてしまう様な気がして、俺はそこで話を打ち切った。

 

――桜か。

 

 そう言えば昔、佐倉のおばあちゃんは、桜の花が一番好きだと言っていた。

「たまたま名前が同じだからっていうんじゃないんだよ。それはとても大切な思い出の花だからさぁ」
 まるで年頃の娘みたいに少しはにかんで、そう言ったおばあちゃんの様子は、何だか微笑ましくて。いつか、その理由を聞いてみたいと思いながら、結局、その機会はなかった。

 


 団地の中央には、小さな公園があり、そこにはブランコとすべり台ぐらいしかなかったが、代わりに見事な桜の木があった。

 時期になると、団地の外からもその桜を見に来る人が大勢いて、その時ばかりは、日頃閑散としている団地の中に、人の賑わいが戻る。賑やかなことが好きな人だったから、きっと、そんな空気も好きだったことだろう。

「…丁度、咲いている頃か」
 おばあちゃんは、今年の桜を見ていけたのだろうか。そんなことを考えながら、俺は公園へ足を向けた。

 

 桜は、満開を少しすぎたぐらいで、ちらちらと花弁を散らし始めていた。
――数日前なら、間に合ったか。

 その事に、何となくほっとする。
 最後に好きな花を見てから逝けたのなら、少しは救われた気がする。
 薄いピンク色に染まる梢を見上げながら、桜の木の下に立つ。
「佐倉のおばあちゃん…俺、遅くなってゴメン」
 俺の事なんて、もう覚えていないかなと思いながらも、口をついてそんな詫びの言葉が出た。

 

 すると足元で、
「ニャァ」
 という鳴き声がして、足に何か柔らかいものが絡み付く感触がした。

――猫っ。…って、
「何だよ、脅かすなよ」

 動物相手に、無意味に文句を垂れる。毛の色艶からすれば、野良だろうに、それにしては人に慣れている。そう思う間にも、俺の足の間をするりするりと行ったり来たりしながら、何かをねだる様にそこに背中を擦りつけていく。

「お前か…佐倉のおばあちゃんに餌を貰っていたっていうのは…」
「ニャーン」
 それが肯定の返事なのかどうかは分からない。
 やがて猫は、ねだっても、餌が出て来る気配がしないと分かると、すいっと離れて行く。
「現金な奴だな…」

 苦笑しながら猫を見送って視線を戻すと、桜の根の傍らに、土を掘り返した跡を見つけた。

――ああ、これか。何かを植えたっていう…

 確かに、植物が育つには、いい環境とは言えない。こんな所では、花見に来る人に踏まれてしまう恐れだってあるだろうに、一体何を植えたのだろう。

 そう思って、ふと気付く。

 

 


2
最終更新日 : 2010-10-06 13:55:07

 おばあちゃんは花を育てるのが好きだった。
 それは勿論、育てるのが上手いという意味でもあるのだろう。

 そのおばあちゃんが、わざわざこんな場所を選んで植えたという事に、どこか違和感を覚えた。

 

――もしかして、植えたのではなくて、埋めた?

 

 思わず屈んで、柔らかくなっているその部分の土を、そっと掻き分ける。穴は思ったより深かったが、掘り返したばかりだったから、その場所は素手でも簡単に掘る事ができた。

 夢中で土を掬い、脇へ寄せる。すると、思った通り、そこには四角いお煎餅の空き缶が埋められていた。穴の中から、そっとそれを取り出してから、そこで我に返って思う。

 これは、俺が開けてもいいものなのか、と。

 その状態で、しばらく逡巡した後で、それでも好奇心の方が勝って、俺はその蓋に手を掛けた。

 

 中に入っていたのは、ビニール袋で幾重にも包まれて、更に厳重にガムテープをぐるぐる巻きにされた物体だった。
これが、おばあちゃんにとって、大切なものであるのは間違いがない。そう思った俺は、公園の水道で泥だらけの手をきれいに洗ってから、その包みを慎重に開け始めた。

 

 ビニールを一枚ずつ丁寧に剥いでいく。
 そうして、やがてその中から出て来たのは、一冊の日記だった。

 

 それは、年始めに新しくしたばかりの今年の日記で、まだ1/4程しか使われていなかった。パラパラとページを繰っていくと、間に栞のように写真が挟まれていた箇所でそれが止まる。

 日付は数日前。
 それは多分、これを埋めた日に書かれた最後のページだと思われた。

 


――今日、新聞の訃報欄に、あの人の名前を見つけた。

 


 日記はそんな書き出しで始まっていた。

 地方新聞には、ごく当たり前のようにその地域の住民の結婚、出産、葬儀の情報が掲載される。

 これは田舎ならではなのだろうが、どこそこの誰さんが、結婚したとか、子供が生まれたとかそういう情報を皆で共有して、共に喜んだり、それが訃報の場合には、哀しんだりということをするのだ。


――病弱だった私よりも、あの人の方が先に逝くなんてねえ。人生なんて本当に分からないものだと思う。 

 私だって、もういつお迎えが来たって可笑しくない歳。身の周りの整理はしてある積りだけれど、私には身寄りがないから、死んだらここにある何もかも、きっときれいに片付けられて処分されてしまう事だろうね。

 去年亡くなった鈴木さんは、亡くなってから発見されるまでに、時間が掛かったらしくて、おまけにあれは夏のことだったから、後始末が随分と大変だった様で…

 仲良くして貰っていたから、形見分けに何かと思ったけれど、結局、臭いが酷くて、何も貰えなくて。哀しかったね。   最後は、片付け屋さんに頼んで、一切合財、ゴミとして処分するしかなかった様で。

 

 夏に死ぬのは嫌だねえ。皆に迷惑掛けちゃうから。
 出来れば、春が…そう今頃の、桜の頃がいい。

 

 捨てられてしまっても、惜しいものなんて、もう何も持っちゃいないと思っていたけれど、一つだけ、ゴミとして捨てられてしまうのは忍びないものがあると、さっき気付いた。

――それは、あの人の写真。

 出来れば、お棺に一緒に入れて貰いたい所だけれど、お葬式なんてして貰える身分じゃないから…

 


 ああ、そうだ。

 今、窓から、桜を眺めていて思い付いたよ。

 あの木の下に埋めたらどうかしらって。

 


 


3
最終更新日 : 2010-10-06 14:00:18

 昔、あの人が教えてくれた――

 

 ああして、見事に花を付ける桜は、ソメイヨシノと言って、人々を喜ばせる為に、ただ、美しい花を咲かせるという目的の為だけに、人の手によって作り出されて生まれて来た。

 だから、自分では子孫を残すことは出来ないけれど、それでも、彼女の美しさに魅了された人々の手によって、たった一つの苗木から、挿し木を繰り返し、いつしか日本中にその花を咲かせる様になったのだと。

 それは、間違いなく人の手による業(わざ)なのだけれど、そんな話は、私にはどこか神がかっている様に思えたの。


 自由奔放に枝を広げて、誇る様に花を咲かせる桜。そこには、まるで何かの意志が籠っている様で…


 その桜の花びらの舞う下で、
 私はあの人と、
 ただ一度の口づけを交わした。


 もし、桜に宿る神様がいるのだとしたら…ああ、きっとそれは美しいお姫様だろう。そんな事を思い描きながら―


 私は、体が弱かったから、結局あの人とは結ばれることはなくて、この世に子孫を残して行くことも出来なかったけど、あの桜の下に埋めればこの思いは、そんな不思議な力にあやかって、いつか誰かに届くかも知れない。

 

 

――そんな願いを込めて。
 私の大切な宝物をあなたの下に埋めます。

――だから、桜姫様。どうか、私のこの願いを聞き届けて下さい。

 

 

「ニャア」
 その鳴き声に、俺は不意に現実に引き戻された。

 いつの間にか又、猫が足元に来ていた。
「……もしかして、お前も…桜の下に何か埋めたのか?」
「ニャーン」
 それが肯定の返事なのかどうかは、やはり分からない。

 それでも――

「確かに届きましたよ、佐倉のおばあちゃん」
 見上げた桜は、風に煽られて、見事な花吹雪を見せた。

 そして、足元にじゃれつく猫を見る。
「お前の名前、当ててやろうか」
 そう言うと、猫が不思議そうに首を傾げて俺を見る。

「佐倉ヒメ、だろ?」

「ニャーン」
 それは、多分、肯定の答えだろうと思う。
「よ~し、ご褒美に、ネコ缶を買ってやろう」
 そう言って抱きあげると、ヒメはしたばたともがく。それを丸めて懐に押し込むと、俺は公園を後にした。

 

 

 その日記と写真は後日、おばあちゃんと一緒に煙になって、天に昇って行った。

 そして気付けば、俺の部屋にはいつの間にか、小さな同居人が増えていた。

 

 

 

【 桜姫 完 】


 

 


4
最終更新日 : 2010-10-06 14:02:30

この本の内容は以上です。


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