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洋画部門

男と女 -デジタルリマスター版-

男と女 ーデジタルリマスター版ー

2016年10月31日鑑賞

 

昔はこんな映画に酔ってたんだね

 

たとえば、チャップリンの

「キッド」(1921年製作)

「街の灯」(1931年製作)

を観てみよう。

そこには、人間が生きることの根源的な悲しさ。そして時に「愛」は、残酷な一面をみせることも描かれる。

しかしチャップリンは、作品の中で「人生を生き抜くこと」の素晴らしさも同時に伝えようとしている。

これらの作品は大昔に作られている。

一年前、テレビで大流行りだった芸人のギャグは、今はもう、誰も笑わない。

そういう21世紀の日本でも、90年前のチャップリン映画は十分面白く、ときに「ワッハッハ」と笑えてしまうのである。

そこにはつまり、人間であればここはこう思う。人間であればここは悲しく思う。

人間であればこのツボを突けば笑う。

というある種の真理。

どんな時代であれ、人間の普遍性というものは変わらないことに気づかされる。

愛は崇高なものだ。

人間は音楽を愛し、笑いを愛し、そして異性に惹かれる。

愛は時に人間を盲目にさえする。

その逆転パターンがチャップリンの「街の灯」だ。

盲目の貧しい花売り娘は、浮浪者チャーリーを大富豪だと思い込んだ。

チャーリーは彼女に一目惚れし、一念発起、彼女のためにひたすら働く。

その献身的な働きの末、盲目の少女は手術を受けて眼が見えるようになる。

ラストシーン。

彼女の目の前に現れたのは、みすぼらしい浮浪者のチャーリー。

浮浪者は彼女に尋ねる。

「もう、見えるの?」

「ええ、見えます」

一輪の花を手に持ち、彼女の声に、ただ微笑む、浮浪者チャーリー。

映画はここで終わる。

愛はなんと残酷なのだろう。

「眼が開かれる」「現実を見る」ということはなんと残酷なのだろう。

そして愛は、やはり人間が持つ、最も崇高で美しい特質なのだ。

「キッド」や「街の灯」はサイレント映画である。

セリフすらないのだ。

しかし、21世紀の今観ても、やはり「名作」であり、映画芸術の「傑作」であり続ける。

さて前置きが長くなった。

本作「男と女」

公開50年を記念して、デジタルリマスター版での再上映である。

これを観てみたいと思ったのは、五木寛之氏の短編小説集「雨の日には車をみがいて」(僕はこの初版本を未だに大切に持っている)が大好きだったからだ。

この短編集の最初の方に、映画「男と女」のモチーフが引用されている。

五木氏のファンならご存知だろうが、駆け出しのライターである主人公が、愛すべき車に数々出会い、そこにまた、さまざまな女性が絡んでくるという、お洒落で小粋な作品集である。

男は女を愛する。しかし、男の中には、女以上に「クルマ」を愛する人種がいるのである。

本作「男と女」の主人公とヒロインは、カーレーサーと女性脚本家、という設定。

二人は、過去に結婚していて子供までいる。

ただお互いに伴侶を失ってしまった。

やがて二人は恋に落ちる。

この設定からして、まさに絵に描いたような「特権階級」の夢物語映画である。

この作品が作られたのは1966年。

日本公開も同年の10月である。

当時の日本の世情を見てみよう。

テレビでは「ウルトラQ」が放送開始

「サッポロ一番しょうゆ味」が発売開始

そしてビートルズが初来日した年だ。

ちなみに、カーレースでは前年の1965年、日本のホンダがメキシコグランプリで記念すべきF1初優勝を果たしている。

当時のカーレースは、いわば情熱とロマンをエンジンにぶち込んで走っていたようにおもう。

本作でもフォーミュラーカーと一般のスポーツカーが、ごちゃまぜで描かれている。

人々のモータースポーツに対する知識、関心はこの程度のものだったのだろう。

本作の劇中テーマ曲はあまりにも有名だ。

さらには、映画の手法として、ぶつ切りの編集。

手持ちカメラの多用。

二人が愛を語り合うシーンでは、あえてモノクロ映像にしている。

色彩のない明暗だけの映像を使うことにより、二人の燃え上がる愛が、どのような色彩を持つのか?

それは観客の自由な想像に任される。

いわば観客は「愛の色彩」を脳内補完するわけである。

 

フランス映画なので、登場する車は当然フランス車だと僕は思っていたが、

なんと無骨なフォードのムスタングなのである。

正直これには興ざめした。

ちなみに五木氏の小説「雨の日には車をみがいて」に最初に登場するのは

“たそがれ色”に変色してしまったオンボロ中古車の「シムカ」というフランス車である。別名「走る弁当箱」

1966年当時、駆け出しの放送ライターがマイカーを持つ、ということだけでも奇跡的なことだ。しかも外見はともかく「フランス車」なのだ。

「恋人と愛を語るには最高の演出だ」と五木氏も作中で語っている。

そして作中の「僕」は、1話目のラストシーンで「男と女」を三回続けて観るのだ。

それほどまでに当時、この作品はある種「時代のアイコン」でもあったのだ。

本作を初めてスクリーンで観て、僕がまず思ったのは、

「ああ、古い」

という印象である。

これはあくまで僕の個人的な主観であることを前もってお断りしておきたい。

映画手法としての

モノクロ映像とカラー映像の対比

手持ちカメラ

ぶつ切り編集

車載カメラ

登場人物のモノローグ

セリフと映像の不一致。

これらの手法は、1966年公開当時、まさに「流行」の最先端。

新しい波「ヌーヴァルヴァーグ」が、フランスから日本に押し寄せた!

と若い観客たちを熱狂させたのだろう。

しかし映画技法が単なる「ファッション」にしか過ぎなかった、という

極めて残念なことが、公開50年を迎えて、改めて僕には感じられたのである。

50年前のファッション作品は恐ろしく古臭く感じる。

しかし、90年前のチャップリン作品には、今なお観る人の心を響かせる、普遍性がある。

わずか数年で賞味期限が切れるような映画作品が、数多く製作される現代、21世紀。

流行という酔いが冷めたとき、22世紀にも鑑賞できる、芸術としての映画作品であるかどうか?

それが、ようやくわかるのではないだろうか?

**************

天見谷行人の独断と偏見による評価(各項目☆5点満点です)

物語 ☆☆☆

配役 ☆☆☆☆

演出 ☆☆☆

美術 ☆☆☆☆

音楽 ☆☆☆

総合評価 ☆☆☆

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作品データ

監督   クロード・ルルーシュ

主演   ジャン=ルイ・トランティニャン、アヌーク・エーメ

製作   1966年 フランス

上映時間 104分

「男と女」予告編映像


シーモアさんと、大人のための人生入門

シーモアさんと、大人のための人生入門

2016年11月4日鑑賞

 

芸術と人生、その「聖性」と「魔力」

 

辻井伸行さんが優勝した、ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール。

ご存知でしょうか? あの時、優勝者は二人でした。

辻井さんともう一人、中国の若きピアニスト。ハオツェン・チャン。

彼がファイナルステージで弾いたピアノ協奏曲。

その選曲に僕は大いに驚きました。

彼が選んだのはモーツァルトのピアノ協奏曲第20番K.466だったのです。

楽曲を聴いてすぐ分かりますね。

音の数が圧倒的に少ない。

それにモーツァルトが活躍した時代、そもそも現代とおなじピアノはまだ現れていなかったのです。

モーツァルトは61鍵のピアノを使っていたそうです。

現代のピアノはご承知の通り88鍵。7オクターブの音域が自由に選べます。

しかしモーツァルト時代のピアノは5オクターブしかカバーできません。

表現の幅がそれだけ限られるのです。

にもかかわらず、ハオツェン・チャンは、この表現の制約がある、モーツァルトのピアノコンチェルトで「勝負」にでたのです。

なんという大胆さ。

なんという勇気。

僕が思うに、かれは自分が表現できるピアノの「音色」に圧倒的な自信があったのでしょうね。

第二楽章の冒頭のメロディー。

もう一度聴いてみてください。

こんなに易しく、シンプルなメロディー。

おそらく、ピアノを習い始めた小学生でも弾けるでしょう。

それを彼は世界的コンクールという大舞台で「挑戦的」に弾きおおせたのです。

そして彼は辻井さんとともに世界へ羽ばたく切符を手にしました。

音楽におけるまさに劇的なサクセスストーリー。

 

ここで一つ問題提起しましょう。

音楽での成功とはなんでしょうか?

コンサートのチケットが売れること? 

音楽ビジネスとして成り立ち、金持ちになること?

それとも芸術性の頂点を目指すこと?

これは両立するのでしょうか。

本作はピアノそのものが大好き、また、ピアノ曲が大好きという方には、大変豊かな体験をもたらしてくれるドキュメンタリー作品です。

ただ、邦題の「人生入門」については、やや疑問符があります。

本作はピアニスト、そして音楽芸術を極めてゆく過程において、芸術家が直面するジレンマについて、シーモアさんが語り部となって、自分の歩んできた人生を振り返り、洞察するというもの。

ピアノという楽器や、その演奏手法についてもかなり突っ込んだ解説がなされます。

したがって、音楽に全く興味のない方、ピアノが好きではない方には、退屈で仕方のない作品に思えてしまうでしょうね。

本作を作ったのは俳優イーサン・ホーク。

すでに俳優としてのキャリアは評価されていました。

しかし彼の言葉を借りれば「実にくだらない演技」を大衆は好み、喜んだのです。

そこに彼は「演じること」その芸術性を極めたい、という欲求が、体の中から湧き出てきたのでしょう。

彼のなかのモヤモヤは頂点に達しました。

やがて彼は、演劇の舞台に立つことに、極度の不安を覚えることになります。

そんな時に出会ったのが、ピアノ教師シーモア・バーンスタインさんでした。

彼は稀有な才能を持ったピアニストであり、賞賛と名声を得ていました。

にもかかわらず、自らステージを去り、一介のピアノ教師という生き方を選びます。

イーサン・ホークは、このシーモア・バーンスタインという人物、その人生に尽きぬ興味と尊敬の念を覚え、記録にとどめたいと、このドキュメンタリー作品を自ら監督します。

イーサン・ホークにとって、シーモアさんは、まさに「人生の師匠」とでも言える人だったのです。

僕も「心の師匠」と勝手に思い込んでいる人物がいます。

小澤征爾さんです。

小澤さんのボストン交響楽団時代のドキュメンタリー「OZAWA」は僕のバイブルとなりました。

心が疲れている時にこのドキュメンタリーはあまりに”眩しい”ものです。

「うつ病」を抱えている僕にとっては、やや調子のいい時に、このドキュメンタリーを見ることにしています。

それは人間と音楽の関わりが「こんなに楽しいもの」であることを感じさせてくれるのです。

 

「クラシック音楽は敷居が高くってね……」

と敬遠される方も多いでしょう。

小澤さんが生み出す音楽は本当に良い意味で敷居が低いのです。

たしか1980年代に、小澤さんの特集番組が民放で放送されたことがあります。

その中で、実に心憎い演出がありました。

当時デビューして間もないアイドル、野村義男君と、小澤さんが、屋台のおでん屋で、音楽について語り合う、というシーン。

これは小澤さんの音楽を理解する上で、実に的を得た演出でした。

こんなに「屋台の似合う」クラシック音楽の指揮者がいるでしょうか?

世界を探してもそれは小澤さんだけでしょう。

その小澤さんが、世界の頂点に君臨するオーケストラ

ベルリンフィルを率いて演奏したチャイコフスキーの「くるみ割り人形」

そのなかの「花のワルツ」

なんという愛らしさ。美しさ。クラシック音楽が決して限られた特権階級の音楽ではないことを示してくれます。

本作はいろんな問題提起を僕たち観客に投げかけてきます。

芸術とは何か?

芸術と一般大衆との乖離について。

芸術と芸術家はどう生きるべきか?

さらには、芸術は人間を本当に幸せにするのか?

これは、大変シリアスな問題ですね。

たとえば「最高の音楽を目指そう」というアーティストは、世界中にゴロゴロいます。

それはクラシックに限りません。

大衆音楽でもそうです。

その代表格は今は亡き、マイケル・ジャクソンでしょう。

映画「THIS IS IT 」

を見れば分かります。

彼は「キング・オブ・ポップス」と呼ばれました。

まさに王者として、つねに頂点に、居続けなければならない。

そのプレッシャーと戦う姿は、ある種痛ましささえ感じられるのです。

その結果、彼の生涯は悲劇的な結末を迎えました。

音楽が彼を死に追いやった、とさえ言えるのかもしれません。

本作でも語られるように

あまりに音楽の芸術性を追求するあまり、グレン・グールドのように、自分の殻に閉じこもるように、神秘的な存在になってしまった人もいます。

彼は後年、人前でリサイタルをすることをやめてしまいました。

以前テレビで彼のインタビューを目にしました。

「私が人前で演奏しないのは、すべての人に、私の音楽が”等しく”聴かれることを願っているからです」

グールドは、コンサートでは人々は座る席によって、音の響きが違ってくる「それが嫌だから演奏しない」というのです。

しかし、いくらレコードでグールドが奏でる音楽を「共通体験」しようと試みたとしても「再生装置」である、オーディオ機器は、各家庭において違いがあります。

数万円のものから、マニアが購入する数百万円のものまで。

当然音質も変わってきます。

それを考慮すると、グールドの主張はどうにも”あやふや”です。

本作でのシーモアさんは、グールドのこともよく知っていました。

「いい演奏をしたいと願うアーティストは例外なく、客の前で緊張します。グールドは極度の緊張に耐えきれなかったのです」

さて、こんな芸術と人間との関わり。

芸術は人間が生み出した美しい側面ではあります。

しかし「美の探求」という側面もあります。

それは物理学や数学の法則が、それを学ぶ者にとっては「とてつもなく美しい」と感じることと同じです。

「E=mc2」というアインシュタインの方程式は、シンプルで素人目にも調和と美しさを感じます。

しかし、この美しさを持った方程式を利用すれば、おそるべきエネルギーを持った兵器を作ることも可能です。

「永遠の真理」は地球を木っ端微塵に破壊する可能性さえ内包する、冷酷さを持ち合わせています。

「永遠の美や真理」は人間にはしょせん「扱いきれない」もの、なのかもしれません。

だから人間はいつまでも「美や真理」の前では子供なのでしょう。

間違った使い方をしても愚かなままで、何も学ぼうとしません。

そして過ちを繰り返す。

失敗を再生産してゆく。

本作は、見る人により、様々な印象、感想を持つことでしょう。

自分の人生をよりよく生きること。

自分の生を全うすること。

人生においての成功、現世においての成功と、芸術性の成功は両立するのか?

ジャンルは違いますが、一つの分野において頂点を極めようとする人たちのドキュメンタリーとして

「二郎は鮨の夢を見る」

 

「鬼に訊け 宮大工 西岡常一の遺言」

などもご参考までに上げておきましょう。

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天見谷行人の独断と偏見による評価(各項目☆5点満点です)

物語 ☆☆☆

配役 ☆☆☆☆☆

演出 ☆☆☆☆

美術 ☆☆☆

音楽 ☆☆☆☆☆

総合評価 ☆☆☆☆

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作品データ

監督   イーサン・ホーク

主演   シーモア・バーンスタイン、イーサン・ホーク

製作   2014年 アメリカ

上映時間 81分

「シーモアさんと大人のための人生入門」予告編

 


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