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1

 オフィスの窓ガラス越しに柔らかな夕陽の光が差し込み、辺りが黄昏色に染まる。金曜17時までの定例会議を終え、会議室からデスクに戻る途中、胸ポケットに入れていた社用の携帯電話が鳴った。

 

「西山さん、今日の会社説明会に学生が来てるんですが、その中の真木さんという学生が、西山さんにもしお時間があればお会いしたいと言っておられます。いかがしましょう?」

 

 人事部の岡田次長から仕事中に突然の電話だ。確かに新卒採用のパンフレットに自分が顔写真入りで紹介されているが、わざわざ対面で会いたいとはどういう魂胆なんだろう。

 

「なぜ私に?」

「大学の後輩にあたるそうです。研究室も同じで、無理を承知でと。礼儀正しい感じの好青年ですよ」

 

会社説明会に来たという青二才の青年。岡田によると、どうやら京華大学工学部環境工学科の後輩にあたるらしい。岡田の口調は「是が非でも会ってくれ」と懇願している感じだ。人事部的には長年確保できていない京華大学からの学生ということで、できる限りの対応をしたいといったところなのだろう。

 

「ウチの大学から当社へ、って珍しいですね。久々じゃないのかな? ちょっとロビーに待たせておいてください。すぐ行きますよ」

 

 西山はファイルと手帳をデスクに置くと、手洗いで髪の毛を整え、都市ゴミ焼却炉や水処理施設の模型や各種パネルを展示してあるロビーに向かった。ロビーの中にあるいくつかの円卓は社員の利用が禁じられている。業者との商談をしている感じの後輩社員が数名いたが、明らかに学生と分かる青年は一人しかおらず、西山にはすぐにそれが真木だと分かった。真木は慣れないネクタイをしきりに気にしながら、大先輩との出会いを前にうっすらと額に汗を浮かべていた。西山は笑みを浮かべてその青年に歩み寄った。

 

「真木くんだね。西山です。当社へようこそ。よろしく」

 

 西山が満面の笑顔で手を差し出すと、少し恐縮した面持ちで真木が握り返してきた。

 

「まあ、そう緊張しないで。おかけください。飲み物はホットコーヒーでいいかな?」

 

西山が務めるのは「東洋テクノロジー」という業界大手の環境エンジニアリング会社だ。廃棄物処理設備や上下水処理設備の設計・施工、土壌汚染浄化サービスなど幅広い環境事業を手掛けている。西山が部長を務める商品開発部はこれら全般の技術開発から実証、商品開発を担う。と言葉で言うと聞こえがいいが、泥臭い商売だ。廃棄物処理であればゴミにまみれ、下水処理であれば下水汚泥にまみれる。世間一般の衛生的な生活は昔風の言葉でいえば彼らの”3K”的な仕事ぶりに上に成り立っているといっても過言ではないだろう。西山も今でこそ内勤続きで現場を離れたが、若い頃は下水処理場で泥と格闘した口だ。社内での実験はともかく、現地試験での昼休みなどは汚れた作業着で定食屋に入っては好奇の目や憐みの目で見られることも多くあった。それが理由という訳でもないのだろうが、西山の後輩にあたる京華大学の学生はここ20年間入社していない。まあ同業他社には入社しているのだから他に理由があるのだろう。

 

西山はそんな本音トークを交えながら、大学生時代の思い出から現職にかける情熱まで熱く語った。

 

「まあ、私からの説明はざっと以上です。決して、楽な仕事ではないし、綺麗事では片付かない真剣勝負が君達を待っています。ただ、これだけは言える。遣り甲斐は抜群にある仕事だよ。単なるモノづくりに留まらない、地域課題、社会課題の解決に繋がる仕事をしているという自負は私だけでなく、おそらく全社員が共有していると思います」

 

 西山の説明を一通り聞き終えた真木は目を輝かせていた。

 

「なんか言葉を失っちゃいました。あまりに臨場感に溢れていて、西山部長のお顔も自信に満ち溢れていらして、こんなことを申しては失礼なのかもしれませんが、他社ではこんな感情の高ぶりは一切なかったです」

 

「まあウチは規模の割に地味な会社だし、期待していなかった分、予想外の新たな気付きや発見が多いのかもね。でも、業界最大手と比べて遥かに資本や人員規模の見劣りする会社が生き延びようとしたら、それなりの工夫をするものだよ。その魅力に気付く人が割と少ないというか、企業のブランドネームに引きずられる人が多い、というのが現実だと思うけどね。要は自分の価値観をどこに置くかだよ。名を取るか、実を取るか」

 

 コーヒーカップに手を伸ばしながら、西山はゆったりした口調でそう語りかけた。あくまで西山の持論でしかなかったが、この学生には本音を伝えたいと人事部の岡田次長さながら肩入れしたくなる自分に気付いていた。決してやる気に満ち溢れているようには見えないが、独特の空気感というか透明感が彼にはあった。そして『何か』をやりそうな秘めた闘志が彼の心の内奥にあるような気がしてならなかった。

 

「よかったらウチに来なよ。人事部には私から話しておくから」

 

 別れ際に西山は真木にそう告げると、「そうそう、これをあげようと思ってさっきデスクの引き出しから持ってきたんだ」

 

 そう言って西山はプラスチックケースに入ったネクタイピンを真木に渡した。

 

「記念に持って帰りなさい」

 

「いえ、そんな。大学の先輩に甘えに来た訳じゃないですから」

 

 真木がそう答えると西山はにやっと笑って、「これ何からできていると思う?」と真木に尋ねた。

 

「え、そうですね、御影石ですか?」

 

「ブブー。不正解。正解は『遊び心』だよ」

 

「遊び心?」

 

「そう、それはウチの部員が研究所の電気炉で下水汚泥を1450℃で溶融して生成したスラグを削ったものなんだ。とても人間の糞便からできているとは思えないだろう」

 

呆気にとられている真木をよそに西山はしたり顔だ。

 

「あー、もちろん臭いはないよ、有機物は完全に揮発して無機物が溶融固化している状態だから。成分を調整することでガラス質ではなく石材にすることも技術的には可能なんだ。そういう意味では、君の『御影石』という回答は誤りではないね」

 

 西山はさも愉快といった表情で、困惑している真木にまくし立てた。

 

「こういうところから新しい技術やサービスが生まれてくるんだよ。君もウチに入ればその感覚を掴むことができると思うよ」

 

 

 帰りの新幹線で真木は不思議な感覚に捕らわれていた。今回の上京で都合4社を廻ったが、東洋テクノロジー以外で聞いた通り一遍の説明会の内容は頭から完全に抜け落ちていた。

 

「段違いだな……」

 

 

 真木は各社からもらった資料を一通り読み通すと、東洋テクノロジー以外の書類を駅のホームでゴミ箱に捨てた。この時点で真木の就職活動は既に終了していた。


2

 真木は翌年の春、卒業式を終え、ボストンバッグ一個持って京都から一路東京に向かった。真木が採用試験を受けたのは結局東洋テクノロジー一社だけだった。万が一の不安がないといえば嘘になるが、西山の言葉を聞いて以来、他社のことは眼中になかった。もし就職浪人したらそのときだ、とまで腹を括っていた。郷里広島に住む両親には「東洋テクノロジーという環境エンジニアリング会社に入る。人事部とも密に連絡取ってるし、大丈夫だよ」と、他社も視野に入れて、という声を制止し続けた。果たして8月に内定通知が手元に届いたときには安堵の念以外の何も浮かばなかった。すぐさま、人事部に御礼の電話をし、その電話を西山にも転送してもらった。

 

 「ようこそ、我が社へ」と西山は電話越しに笑顔が伝わってくるような優しい声色で真木を迎え入れた。二人が実際に会ってから4箇月の月日が流れていた。就職に対する不安はまるでなかった。むしろ残り半年が早く経過することを願ってやまない自分があった。

 

そして今日325日、喜び勇んで上京した。日本経済の中心、人種のるつぼに飛び込む覚悟で颯爽と登場するはずだった。しかし、独身寮の最寄駅はJR京葉線、千葉県の市川塩浜駅。近所にAmazonの物流センターや様々な業種の工場があるとはいえ、隣駅の新浦安や東京ディズニーリゾートがある舞浜駅と比べると随分見劣りする。駅のロータリーにはタクシーも23台しか停まっておらず、一緒に降車した人数もごく少数だった。その数名もすぐに駅前から姿を消し、真木は駅のロータリーの前に一人取り残された。

 

「東京の会社に就職って、いきなり千葉か。それも寂れまくり……」

 

 そこへ、一台の白いセダンがロータリーに入ってきたかと思うとクラクションをピッ、ピッと2度鳴らし、窓越しに「待たせたね!」と坊主頭の(いか)ついおじさんが声を掛けて、急停車した。

 

「あ、あの寮長さんですか?」

 

「真木くんだろ、見りゃ分かるよ。色黒のガリガリ君って聞いてたけど、そのまんまだな。早く乗りな!」と言って、助手席に乗り込むよう促した。

 

「車だとほんの5分足らずなんだけど、歩くと結構かかるんでね。しかし軽装だな。もっと荷物が多いのかと思ってたよ」

 

 まるで人見知りという言葉を知らないような寮長に威圧されつつも、真木は「はい、大抵のものは処分するか、実家に送っておきましたので……」と当たり障りのない返事をしておいた。「まあ、あれこれたくさん持ってくるっていうのも何か女々しいよな。ほら、着いたぞ、ここ、ここ!」

 

 寮長は門扉の間に車を滑り込ませると、慣れた手付きで白線で囲ったセンターに車を一発で停めた。

 

「おし、一仕事終わりっと!」

 

そう言って車外に出て立ち上がった寮長は身長190cmはあるだろう大男だった。「まるで海坊主って感じだな……」と思いながら、送迎の礼を告げると、「着いてきな、案内するから」と真木を後ろに従わせた。随分と手厚い待遇だな、などと感じつつ、食堂、風呂、トイレ、洗濯室、調理場など生活に必要な場所を順次説明してもらった。一通りの説明が終わった後、「で、部屋は201号室。送ってきた荷物は全部入れてあるはずだから確認しておいてくれ。じゃ」と言って、鍵を渡された。ようやく一人になれた真木は2階の部屋を順番に眺めて行った。既にどの部屋も入居者の名前が書かれているが、これから入居する人の部屋なのか、先輩が既に入居しているのか分からない。果たして201号室は2階の一番端の非常階段に一番近い角部屋だった。「ほほう、ここか!」と胸躍らせながら、鍵を鍵穴に刺し、カチャッと開ける。恐る恐るドアノブを回すと思いの外ドアが重い。

 

「あれ? あれあれあれ!?」

 

 慌ててドアを閉めようとしたが時既に遅し、ドアの圧力に負け、真木は廊下に尻餅をついてしまった。布団袋がなだれて部屋の外の廊下まで転がってきている。

 

「あーあーあー」

 

 大きな物音に驚いて、寮長が1階から駆け上がってきた。

 

「やっぱり雪崩れたか。怪我はないか? 手伝おう。押し込むぞ」

 

 寮長に促されて布団袋の移動をしようと部屋の中を覗き込むと「せ、狭い……」。どうやらキャパオーバーで溢れ出したようだ。

 

「とりあえず今日の寝床をつくらないとな」

 

 寮長は豪快に笑い飛ばしたが、真木は笑っていられる状況ではなかった。学生時代のワンルームマンションよりも一回りも二回りも狭い。これは由々しき問題だ。何か捨てるべきか。寮長と一緒に布団袋を担いで、とりあえず部屋の中に入れることには成功した。しかし、大量の段ボールと狭い部屋はあまりに不釣り合いだった。

 

「こりゃ、二人は入れないな。何しろ狭いからよ、とりあえずすぐ使うものだけ出して、後どうするかよく考えるんだな。困ったら呼んでくれ、1階の管理人室にいるから」

 

 そう言うと寮長はぷいっと元来たほうに戻って行った。

 

「親切なのか、不親切なのか分かったもんじゃないな……」

 

 真木は苦笑しながら、狭い部屋の中で堆く積まれた段ボール箱やテレビ等を見渡し、途方に暮れた。一見順調に見えた上京生活だったが、一転して波乱の幕開けとなった。

 

 

 新入社員の入寮生は真木が初めてだったが、同日に他3名を迎え、続々と入寮する者が翌日以降も続いた。真木は最初に案内されたからという理由で、寮長から皆へのオリエンテーション係を頼まれた。

 

「要は自分が楽してんじゃねーか」とも思いながら、同期の名前や顔もすぐ覚えることができ、真木はその役回りを楽しむようになっていた。3日間そんな日が続いて都合20名の新入寮生が出揃ったところで、先輩寮生に寮周辺の情報を教えてもらい、一斉に家電製品や食料等の調達に出向くなど、和気藹々とした寮生活が始まった。その週の土曜日夜には先輩が企画した歓迎会ということで、新入寮生の自己紹介から一発芸、飲み比べなど、朝まで浴びるほど酒を飲まされ、社会人生活の洗礼を受けた。

 

真木は元々そんなに皆の中心ではしゃぐ性格ではないが、そういう明るいノリは嫌いではなかったので、周囲のはしゃぎように合わせながら、学生時代の延長のような日々を楽しんでいた。

 

そうこうしている間に時は過ぎ、あっという間に4月に突入した。

 

 寮生活の新人20名で申し合わせて、44日の入社式に向かった。新入社員として初めて訪れる東洋テクノロジー社内は、男女合わせて総勢50名の新入社員を迎え、人事部、総務部を中心に殺気立っている。真木ら新入社員は、人事部の採用・育成担当の森田に今日の会場である80名程度収容可能な大会議室まで案内された。真木は一列目中央の席に通された。

 

「緊張するな」

 

 真木は後ろの席の近藤に話しかけた。近藤は「俺はお前の後ろで寝てるよ。いびきかかないようにしなきゃな」と言って笑った。準備で騒がしかった会場も開会5分前となり、皆所定の位置に付き静寂が訪れた。そして、中央の椅子と椅子の間の通路を社長と思しき黒縁眼鏡の男性、眼光鋭いヘアクリームを撫で付けオールバックに決めた長身の男性、柔和な顔つきが印象的で小柄な男性の三人が前方のステージに上がり、椅子に着座した。それぞれ黒田社長、宮津専務、辻内専務の社内TOP3だった。

 

「あれが噂の宮津さんか。一目見ただけで『切れ者』って分かるな」

 

 隣席の桜井が小声で真木に話しかけてきた。

 

「宮津さんってあの人? お前知ってるのか?」

 

「知らないのか? 業界じゃ有名人だぞ。よく新聞や雑誌にも顔写真入りで出てるだろ。当社の技術系トップだよ」

 

「じゃあ、俺達の大ボスという訳だ」

 

「では皆さん、これより平成20年東洋テクノロジー株式会社入社式を執り行います。はじめに黒田社長から一言いただきます」

 

 人事部長の小林が緊張した面持ちで第一声を放ったマイクから退き、黒田に場所を譲った。

 

「皆さん、入社おめでとうございます。社長の黒田です。この度は全国から選りすぐりの50名を迎え、当社の将来を担う人材がここに集結した瞬間を大変喜ばしく思っています。……」

 

 続いて、宮津、辻内からの挨拶が手短に終わり、新入社員を代表して真木が壇上に立った。

 

「黒田社長、宮津専務、辻内専務はじめご列席の皆様、本日は我々50名を皆様と共に社会という戦場で戦う一員として受け入れていただき、大変感謝しております。勉学やスポーツに打ち込んだ大学生活も終わり、我々も遂に社会人として自らの叡智を社会に還元していく段階になりました。しかし、我々にはまだまだその力は備わっておりません。この東洋テクノロジーで先輩社員の皆様のご指導、ご鞭撻を賜り、社会有為な人材になることをここに誓います。 平成二十年四月四日 新入社員代表 真木洋介」

 

 

 入社式の翌日からオリエンテーションが始まり、社内各部署の見学から工場・研究所見学、また自社製品納入先の工場見学など、社会科見学のような日々が一週間ほど続いた。その後は、座学を中心としたビジネスマナー研修やコミュニケーション基礎など様々なカリキュラムが本社の会議室を占有する形で行われた。真木が一番興味を持ったのは製図演習だった。この演習では、理系の新入社員向けに、品物の映像を平行光線で画面に投影する正投影法を機器設計部の先輩社員数名が指導する。真木らはJIS B 0001で規定された、第三角に品物を置いて投影する第三角法について三日間に亘って指導を受けた。

 

そうこうする間に初めての給料日を迎えた。

 

「皆さん、今日が給料日になりますが、これは皆さんへの投資と考えてください。今回の研修では一人当たり約10万円を投じています。これは従業員数1,000名以上の企業の平均値である約5万円と比較して遥かに高い投資額です。その上に、まだ配属も決まっていないいわば見習いの段階で給料をいただけることに感謝して大切に使ってください。と、私も新入社員当時に人事部の研修担当の方から言われました」

 

「ちなみに森田さんは初めての給料、何に使ったんですか?」

 

 にやけた表情で加藤が尋ねた。森田は笑いながら「親に仕送りを、と言いたいところですが、同期と飲みに行きましたよ。随分派手にね」と返した。

 

「皆さんがこうして一堂に会する機会も研修が終わればグッと減りますからね。その辺も頭に入れてこの研修期間を大切に過ごしてください」

 

 森田はちゃんと〆の言葉も忘れなかった。確かに毎日同じメンツで朝から晩まで過ごして学校の延長みたいだと思っていたが、こんな日もそう長くは続かない。

 

「今日飲めるヤツはみんな集まって飲もうぜ!」

 

 同期の中で『ホスト顔』と評されている近藤が声を上げると、女性陣から「私も行く」、「連れてって!」と同調する声が出て、自然と男性陣もそれに続いた。和気藹々とした社会人生活のスタート。金曜日なのをいいことに、その日は3軒ハシゴして、寮生は寮の多目的室で朝まで飲み明かした。


3

 2箇月間の新人研修も無事終わり、真木は計ったかのように西山が部長を務める商品開発部に配属された。部の歓迎会で「期待の新人」と紹介され、「そんなこと言われても右も左も分からない新人なのに……」などと思いながら、周囲の好奇の視線に耐える日々が続いた。

 

真木が最初に担当したのは下水汚泥のメタン発酵技術だ。メタン発酵自体は古くから確立された技術だが、東洋テクノロジーが目論むのは従来技術よりも消化率を格段に向上させてバイオガス発生量を増やし、汚泥の減量化と回収エネルギー量の増加を図るための技術開発だ。西山は真木の指導役として入社10年目の門田をつけた。門田は消化促進技術の一切合財を任されており、その当面のサポート役として真木があてがわれた格好だ。

 

研究所の実験室には容量5リットルの三角フラスコをメタン発酵槽に見立てた実験装置が5セット組んである。真木が門田に案内されて初めて見たときには実験開始後2週間、下水汚泥の滞留日数を30日とすると約半分が経過したところだ。門田の地道な実験で、消化促進のための前処理技術の候補はある程度絞られていた。下水汚泥の生物処理で生じる微生物の死骸である余剰汚泥は一般的に難分解性で消化率が低い。このため、何らかの前処理を施すことが効果的とされており、消化促進技術としてボールミルを利用した物理的破砕、オートクレーブ処理等による熱処理、酸・アルカリやオゾン等による化学的処理などが代表的な技術とされる。物理的破砕は文字通り汚泥を摩砕して細胞壁もろとも破壊するというもの、熱処理は汚泥を熱の力で変性させるというもの、化学的処理は加熱処理や酸・アルカリ、オゾン等の添加により細胞壁を破壊するというものだ。いずれも投入エネルギーやコストの問題から実用化段階に至らないという状況が長年続いている。

 

この状況を打破するために門田が当時着目していたのは磁気―フェライト処理による汚泥の可溶化技術だ。当時、東洋テクノロジーでは都市ゴミ焼却飛灰のフェライト化による重金属固定化技術の開発に取り組んでいた。フェライトとは酸化鉄を主成分とするセラミックスの総称で、一般に強磁性を示し、磁性材料として広く用いられている。この廃材からのフェライト化物を余剰返送汚泥ラインに組み込み、フェライト粒子に交流磁場をかけることでモーションを制御し、マイクロオーダーでのボールミル効果すなわち、汚泥の可溶化、ひいては消化促進が可能になるという原理である。時期を同じくして磁気―フェライト処理の研究に取り組んでいた帝都大学理工学部の研究グループとは既に共同研究体制を敷いており、東洋は相互の技術協力に関して既にMOU(研究協力覚書)を交わしている。ただし、磁気処理一般で見た場合には水処理等への応用で科学界、産業界からも懐疑的な見方も多く、また技術的にも未解明なものが多かった。しかし、実機ベースでの展開を考えた場合には初期投資が大きく、高い維持管理費や投入エネルギーを要する摩砕装置やオゾン発生器の導入は特に汚泥処理においては考えにくい。廃材からのフェライト利用を可能とし、磁気処理の効果が確かであれば、磁気―フェライト反応槽の初期設置費用プラスアルファで相応の効果が得られるかもしれないという一種の賭けであった。

 

実験室の試験装置は、無処理系(コントロール)、物理的破砕系、酸・アルカリ添加系、オゾン処理系、磁気―フェライト処理系の5種類としている。長丁場の試験のため、実験条件をある程度限定せざるを得ず、なかなか磁気―フェライト処理系が他の系を上回るような効果を得られていないのが門田の目下の悩みだ。そのため、真木には帝都大学や社内のフェライト化研究グループとの連携により、磁気フェライト処理系の最適条件を見出すことを指示した。

 

真木は、実験の合間を見ながら、既存の文献や特許を知財戦略部と協同して調査し、「特許請求の範囲」、「発明の概要」、「産業上の利用可能性」等の必要事項のドラフトを書き、弁理士事務所へ日参した。実験に明け暮れる日々の中、特許請求の可能性が開けてきてようやく、「エンジニア」になった実感が徐々に湧いてきていた。

 

消化促進試験の説明を受けた2週間後に、門田と真木で設計し、業者に製作依頼していた新しい試験機が到着した。コンパクトかつ複数のパラメーターを触れるようにSUS製の中空直方体を十二分し、それぞれを容量3リットルの12連発酵槽に見立てる。この側面と下部はウォータージャケットで保護し、温浴層として発酵槽を一定温度に保持することができる。発酵槽上面は開口し、アクリル板で蓋をして隙間をチューブ状シリコンで完全密閉する。このアクリル板の中央部には攪拌機とガス捕集孔を設置している。生成したバイオガスはシリコンチューブを通じて上部に設置したアクリル製水槽底面に空けた穴を通り、プラスチック製のパイプを伝って、市販のプラスチック製1リットルシリンダーで捕集される。要は発酵槽からバイオガスが発生するとシリンダーがアクリル製水槽の水面に浮かぶので、その昇った高さでガス発生量を把握できるという訳だ。

 

基礎実験の結果が明らかになり、エネルギーバランス的に磁気処理系のいくつかの条件で他の系との有意な差が見られた。そのため新しい試験装置を用いて、4系列を磁気処理系、残る4系列を無処理系、熱化学的処理系、オゾン処理系、磁気フェライト処理系とし、ベンチスケール試験第2弾を実施することとした。今までは会社の研究所から程近く、汚泥譲渡の融通が利く勝鬨下水処理場の汚泥を使用してきたが、まだ試験段階にも関わらず営業マンの提案に食い付いてきた福岡県の那珂川下水処理場の汚泥をポリタンク数十缶で搬送してもらった汚泥を使っての本格的な実験だ。これでパラメーターフィッティングを行い、これまでと同等の試験結果を得られれば現地でのパイロット試験に乗り出す。

 

「いつまでも泥遊びしてんじゃねーぞ! 結果出せ、結果!」

 

データ整理や実験レポートの作成で本社にいると、容赦なく西山の叱咤激励が飛んでくる。事実、西山は結果を出し続けて今の地位に上り詰めた。西山の功績は計り知れない。欧州のアンドレア社と共同開発したベルトプレス脱水機に始まり、自社独自開発の超高効率遠心脱水機まで。まさに技術開発の申し子とも言うべき存在だ。直接指導を受ける真木は西山に追い付けると感じたことはない。それくらい圧倒的な存在だった。

西山は真木を愛情の裏返しのごとく、しごきにしごいた、一人前の社会人にするために。


4

「温度よし、攪拌機よし、ガスのリークなし。異常なし!」

 

プレハブの鍵を開け、試験装置の異常がないことを点呼確認しながら、朝のラジオ体操に向かう。ここは福岡県の那珂川下水処理場だ。真木は福岡駅前のホテルから毎日バスで当地に通っている。消化促進パイロットプラントの建設が先月終了した。下水処理場の脱水機棟の横の更地に建てた34間サイズのプレハブには容量1㎥のポリエチレン樹脂製タンクをメタン発酵槽に見立て3槽設置した。それぞれに処理場の余剰返送汚泥がポンプで圧送される。汚泥が発酵槽に入る前に配管を挟み込むように磁石を3箇所設置した磁気処理の系列、コスト的な問題はありながらもベンチスケール試験では磁気処理同等の消化促進効果が得られていたオゾン処理系列、無処理系の3系列としている。

 

「森沢監督、おはようございます!」

 

 真木が勤める東洋テクノロジーグループの工事会社から脱水機の建設工事の監督に入っている森沢が同じくラジオ体操をしに、下請け連中を引き連れ外に出てきた。この朝の体操模様は本社・研究所勤務では体感できない。他社も何も関係なく、同じ処理場内で工事に携わる人間達がお互いの無事を祈りながら挨拶し合うのだ。会社としてはライバル同士なのかもしれないが、当人達にとっては同じ時間を同じ場所で過ごす戦友のようなものなのだ。

 

「おっす、真木くん。今日も爽やかだなぁ!」

 

 森沢が鼻筋に蓄えた白髭を手で弄びながら、真木を冷やかす。一週間前に門田とともに初現地入りし、森沢のプレハブを訪ねたときには強面の森沢にどっきりした真木だったが、今や門田も東京に帰ってしまい、頼りになるのは森沢程度という状況の真木にとっては誰よりも頼もしい先輩だった。

 

「実験とやらは順調かい?」

 

「えぇ、おかげさまで。結果が出るまでは時間がかかりますが、計器類の異常は今のところなさそうです」

 

「そうか、そりゃあよかった」

 

 安全靴の底にこびりついた泥を落としながら、森沢はグルグルと身体を回した。

 

「まあ、俺には実験とか何とかよく分からんが、怪我だけはするなよな。現場経験もないことだし、油断してると何が起きるかわからんからな」

 

 森沢の忠告を真摯に受け止めながら、音楽に合わせて足腰を伸ばし、ほぐしていく。こうして、仕事のスイッチが入ってくる。

 

 ラジオ体操が終わり、プレハブに一人戻ると、今日の予定を確認し、各槽内の汚泥温度やガス発生量の経時的変化を記録する。そうこうしているうちに、普段は処理場の維持管理に入っている那珂川テクノメンテからバイトに入ってくれた3人のうち、最年少の植田が「おはようございます」と張りのある声でプレハブに入ってきた。バイトの彼らは三者三様だ。ギャンブル好きの青二才もいれば無類の女好きもいる。かたや、真っ当に家庭を築いている不惑過ぎの男もいる。最初に会ったときには自分がバイトとして使いこなせるのかやや不安だった真木だが、ここ数日で信頼関係が出来上がり、お互いにお互いを認め合いながら一緒の方向を目指す仲間だ。

 

 試験プラント建設工事の終盤から現地入りして一週間。実験が始動したのが2日前。当初の設定条件通りに立ち上がったため、メタン発酵の滞留日数を30日とすると、結果が出るのが概ねその3倍の3箇月後だ。ただし、傾向は概ね30日程度で見定めるものとし、実験条件の変更等がある場合にはそのタイミングで行う必要がある。また、何らかのトラブルが発生すれば否応なしに実験期間は延長される。顧客の敷地、汚泥、ユーティリティ(水・電気等)を拝借しての試験ということもあり、そう簡単に失敗は許されない。しかし、脱水や乾燥と異なり、メタン発酵というそもそも結果が出るまで長丁場の試験だ。早く結果を出そうという焦りが失敗を産むはずだ。初めてのパイロット試験とはいえ、研究所でのベンチスケールテストの結果を再現しさえすれば何の問題もない。ここは努めて冷静に振る舞うべきだ。

 

 那珂川下水処理場の雰囲気にも慣れ、あっという間に1箇月の月日が流れた。処理場に建設工事で入っている他社の現場監督や下請け業者の方々とも顔見知りになり、まだ若手ということで、どこに行っても可愛がってもらった。しかし、肝心の実験のほうは順調とは言えない状況だった。オゾン処理系の消化ガス発生量が著しく大きいのに比べ、磁気―フェライト系の消化ガス発生量は無処理系と比較して10%増に届くか届かないかという程度だ。研究所で記録したガス発生量80%増と比べると物足りないどころか、別物としか思えない状況だ。

  

   何が悪いんだろう。確かにスケールアップ規模としては大きいが、ここまでの違いが出るとも思えないのだが……

 

  実験開始から1箇月ということで、東京本社から門田がやってきた。門田は実験状況を見るなり真木に怒鳴った。

 

「一体どうなっているんだ! 消化促進効果が全然出てないじゃないか!!」

 

 門田の怒声がプレハブ内に響き渡る。現地実験開始から2箇月が経過するが、状況が芳しくないのだ。オゾン処理系列は無処理系と比べ、十分な消化促進効果を示しているが、磁気―フェライト系は無処理とほぼ変わらない状況だ。

 

「想定される各種原因は一通り当たったのですが……。ベンチスケールと比べ、磁気フェライト槽の容量が大きい分、汚泥とフェライト粒子との衝突頻度が少なく汚泥全体への効果が乏しいのではないかと……。それで一時的に磁気フェライト化槽への送泥量を絞り、滞留時間を2倍、3倍にしてみたのですが効果は乏しいようです。次に、磁気フェライト槽のスケールダウンを考え、ベンチスケール試験の規模に近付けるべく20リットルタンクを5基配列し、それぞれに磁石を取り付けたのですが、それでも目立った効果が出ません……」

 

「ベンチ試験機を持ちこめ」

 

「はい?」

 

「こうなったら研究所での実験結果自体を疑うしかない。磁気―フェライト処理がダメならダメで、とことんその原因を突き止めろ。可能性があるならとことん追究するんだ。幸い、オゾン処理のほうは効果が出ている。採算面で実機にはなり得ないが、本共同研究においてはオゾン処理と無処理系との比較試験をしたという形に収め、下水道公社と交渉してみる余地はある。不本意だがこの状況では最悪の事態を考えざるを得ない」

 

 門田が試験装置をひとあたり見ている間に、真木は研究所にあるベンチ試験機発送の手当てをし、額の汗を拭った。

 

「君の耳にも入っているだろう。水処理でもその効果に懐疑的な見方をされている磁気処理が汚泥処理に使えるとしたら画期的だ。しかし、そんなはずはないという見立ての人間が社内外問わず五万といる。こんな結果が万が一にも漏れたら、あっという間にこの実験は打ち切りになる。実験結果を捻じ曲げている訳ではないんだ。何とか数箇月前の成功要因をもう一度見出すんだ」

 

  焦る真木を現地に残して、門田は本社に戻った。数日後、研究所からベンチスケール試験機が到着し、その立ち上げを開始した。果たして結果は無処理系と磁気―フェライト処理系との間で有意な差は見られなかった。真木は、まさかとは考えつつ、同社のフェライト化研究グループから送られている飛灰からのフェライト化物ではなく、市販フェライトを取り寄せて試験してみた。その結果、磁気―フェライト処理の効果が久しぶりに確認された。この予感は実は薄々あった。廃材フェライトの磁性を真木のほうでも確認していたが、やはりは廃材由来ということもあってか送られてくるフェライト化物が完全に磁性を帯びているという訳ではないようだった。磁性の強弱もあれば、まったく磁性を示さないものも多い。しかし、磁気―フェライト処理技術がオゾン処理に対して優位性を持つにはフェライトの調達コストを圧倒的に抑える必要がある。そのためには廃材フェライトを用いるしか、この研究の出口はない。意を決して真木は西山に電話をした。

  

「そうか、原因はフェライトか。確かにあれは研究途上だからな。原料となる飛灰や廃水の性状が一定でない以上、フェライト化物の磁性にバラつきがある程度あっても仕方がない。その変動を磁気処理で吸収することができないという訳だな」

 

「はい、そもそも磁性の乏しいフェライト化物を磁石でモーションさせようとしても汚泥の粒子を可溶化するほどのエネルギーを持たせることは難しいです。市販フェライトでは十分な可溶化効果が得られているので、ネックになっているのは明らかにフェライト化物の品質です」

 

「磁石はどの程度の磁力のものを使っているんだ?」

 

0.5テスラのネオジム磁石です」

 

「廃材フェライトの磁性が弱いというのなら、より磁気の強い磁石を使う可能性は考えられないのか。磁石の初期投資がある程度上がっても、フェライト調達のランニングコストが増すよりはマシだ。その点は検証したのか?」

 

 真木は思わず絶句した。原因がフェライトにあると決めつけていた真木は磁石の性能向上のほうに目が向いていなかった。

 

「いえ。磁石については特段パラメータを変えることはしていません」

 

「そこが安直なんだ。磁石の磁気は実験室で掴んだ経験則だけなんだろう。はっきりした数式で決まらないものなのだから、試験パラメータを現場で掴むしかない。磁石の磁気強度を変化させて、それでも安定的な効果が得られないというのならもう一度連絡してこい。開発者だろ、お前。諦めが早すぎるぞ」

 

 真木は西山の電話口での剣幕に圧倒されながらも、自らの不甲斐なさに肩を落とした。

 

   フェライトが不安定な分、磁石でカバーか。確かに、磁石は市販品、フェライトは廃材由来。考えれば誰でも気付くことだ……

 

 真木は研究所から送られてきたフェライト化物の袋に磁石を突っ込んでみた。磁石に張り付いてくる粒子はごく一部だ。研究所でのベンチスケール実験の際はフェライト化物の量は知れていた。磁石にもほとんどのフェライト化粒子が張り付いてきた記憶がある。今回のパイロット試験ではフェライトの量がざっと100倍は必要になる。専用の窯を持たないフェライト化研究グループが電子炉で毎日少量製作して積み上げてきた量だ。フェライト化研究グループを疑う気持ちはないが、フェライト化物の品質がベンチスケール実験当初から格段に落ちていることは疑いの余地がない。数日後、より磁界強度の高い磁石が真木の手元に届いたが、磁石に付着するフェライト化物の量がそれほど増えた印象はない。

 

 ― やっぱり、これはそもそも無理なんじゃないのか……?

 

 気を緩めると、フェライト化物に疑いの目を向けてしまう。それではダメだと、磁気フェライト槽の磁石をより強磁性の磁石に置き換え、実験を再開してみたが結果はほぼ同じだった。この頃から徐々に真木の顔から生気が失われていった。

 

「真木さん、元気っすか? おーい!」

 

 プレハブの二階のパイプ椅子で疲れて仮眠している真木の耳元でバイトの植田が声をかける。

 

「そんな寝方してたら腰痛めますよ。それよか、今日もつ鍋食いに行きません? 俺うまい店知ってますから。なんなら知り合いの女の子に声掛けときますよ」

 

「いやあ、会社に顔向けできない結果ばかりで、実験費から出張費まで浪費しまくってるから遊んでいる訳には……」

 

「真木さんらしいなぁ。そんなんじゃ精神病んじゃいますよ。別に真木さんが悪い訳でもないし、給料が変わる訳でもなんでもないんだし。俺、真木さんのこと見てますから。結局あれが悪いんでしょ、フェライト」

 

植田が袋に密閉して湿気を含まないようにプレハブ内に保管しているフェライトを指差して言った。

 

「植田くん、どうしてそれを!?」

 

「ボクみたいな馬鹿にも見てりゃ分かりますよ。だってあれ磁石に引っ付かないじゃないですか。あんなのフェライト槽に入れて磁気かけても攪拌機でただかき混ぜてるだけでしょ。小学生でも分かりますよ」

 

 西山や門田に聞かせてやりたかった。現場に居さえすれば誰にでも分かることなのだ。誰の努力が足りない訳でもないのだ。結論は詰まる所フェライトの製品品質なのだ。市販フェライトで試したとおり、磁気―フェライト処理による消化促進効果には疑いの余地はない。ただし、今の廃材フェライトは使えない。しかし、市販フェライトではコスト的に見合わない。フェライトの純度を高めるしかこの技術を科学的にも経済的にも成り立たせる術はないのだ。

 

「植田くん、ごめん。やっぱりもつ鍋は今度にして。試験装置全部止めるから手伝って」

 

「どうしたんすか、急に。ボクの知り合いの女の子じゃアテにならないっすか?」

 

「いや、今日の最終便で一旦東京に帰ることにしたんだ」

 

「まさか会社に喧嘩吹っ掛けに行くとか?」

 

「まあそんなところ」

 

「いいじゃないっすか、その意気! でもまた絶対に博多に帰ってきてくださいね!」

 

 真木は植田とともに、機械を全停止して、試験を一旦休止した。門田に「試験を一旦停止し、明日相談させてほしい」と電話で伝え、那珂川下水処理場の業務主任にしばらく外す旨の挨拶と報告をして、ホテルをチェックアウトし、福岡空港に向かった。


5

「これが現地に送られてきたフェライトです。これは市販のかなり強磁性の磁石です。研究所でのベンチスケール試験ではこんな磁石を使わなくてもハリネズミの針毛が逆立つかのようにフェライトがピンと張り付いてきました。が、今はこうです」

 

 真木はフェライトが薄く張り付いた強磁性の磁石を取り出した。

 

「これでは余剰汚泥を物理的に衝突・破砕するようなフェライトのモーションが生まれません。この数箇月間、可溶化効果が僅かしか得られなかったのはここに原因があるとしか考えられません」

 

 新人の真木に詰め寄られて、フェライト化研究グループの梅田リーダーは顔をしかめた。

 

「と、ウチの真木はこう申すのですが、梅田さんの見解はいかがですか?」

 

 戦闘モードの真木を制するように、門田が物腰穏やかに梅田に問いかける。梅田は視線を逸らしながら、「ベンチスケール試験のときは『フェライトがほしい』とおっしゃったじゃないですか。だから、確実に磁性を確認できるものをお渡ししたまでです」

 

「じゃあ、今回は!?」

 

 真木が声を荒げて尋ねる。

 

「このパイロットテストを通過したら実機になる可能性がある訳でしょう。そうなるとフェライト化物の歩留まりも考えて行かねばならない。単なる原理的解明であればパイロットスケールまで拡大しなくてもパイロットスケールのテストで十分でしょう。今回は商業ベースを見込んだ上での歩留まりも考慮した上で、焼却飛灰からのフェライト化物を提供したまでです」

 

「じゃあ、フェライト化されていない粒子が混じっていても当然という訳ですか!?」

 

「そうです、もちろん現段階でフェライト化率が最も高い条件で焼成したフェライト化物を提供しています。しかし、現時点でそれ以上のものは考えられません。でもまさか、そこから磁石に引っ付くものだけを選択的に集めて送る訳にもいかないでしょう。それじゃあ商品にはならないですからね。最高レベルのフェライト化処理とそちらの磁性処理の組み合わせで効果が得られるかどうかがポイントでしょう。それを知った上でのパイロット試験ではなかったのでは?」

 

「それが分かっていれば、ベンチスケール試験でも同条件で実験していたのに……」

 

 真木が唇を噛みながら言葉を詰まらせる。そんな真木の表情を見ながら門田が梅田に問い質す。

 

「では、当社の技術ではこれ以上のフェライト化物は調整できないとそういう訳ですね」

 

「いや、ですからここから実験に耐えうる磁性物だけを選り分ければいいでしょう。絶対量が不足する分にはこちらが処理量を上げる必要がありますけどね。それでコスト的にペイするかどうか。もちろんフェライト化率の向上に関しては日夜研究を重ねています。ただ原料が飛灰や廃水ですからね。保証値というのは出せないのが実態です」

 

 門田が真木のほうを向いて尋ねた。

 

「今送ってきてもらっているサンプルのうち、磁性物と言えるフェライト化物はどの程度の割合だ?」

 

「ざっと1割未満ですね、感覚的にですが……」

 

「そうするとフェライト化パートで10倍スケールですか。下水汚泥処理はフェライト化物の有望な利用先ではありますが、フェライト化のコストと見合うかどうか何ともいえませんね」

 

 門田がホワイトボードにマジックでフロー図を描きながら説明した。

 

「要は、今はここに磁選プロセスがない状態で実験してきた訳ですね。ベンチスケール試験では梅田さん達に磁選していただいていたと。磁選抜きでは効果が上がらない以上はフェライト化処理量を増やして、磁選プロセスを加えるしかないですね。梅田さん、お願いできますか?」

 

 梅田はしばし黙考した後、「何とかしましょう。ただ市販のフェライトでも試されたそうですから、それと相応の結果が出るだけだと思いますよ。それよりもコストが気になりますね。先ほどの真木くんの見立てが当たっていればフェライト化工程で10倍のコストアップです。プロセス全体として採算が取れますかね」とやや懐疑的な表情で回答した。

 

「うーん、確かに。廃材利用ということで、コスト試算の中ではフェライト化物の調達費用を抑えていますからね。ここが上がるようだと消化促進効果はともかく、コスト的に成立するかどうかがポイントになってきます」

 

「場合によっては市販フェライトを購入したほうが安くつくかもしれませんよ。あちらは純度の高い原料から大規模に生産していますから。品質も安定していますし。そもそも廃材利用という前提で多少品質が悪くてもOKというスタンスでいてもらわないと我々としては困る訳です」

 

「おっしゃる通りです。とにもかくにも、当社の技術で一旦成功の結果を得ましょう。その上で、事業戦略会議の前に、今回の反省点も踏まえた担当者打合せをしましょう。真木くん、という訳でもう1回いくぞ!」

 

「はい」

 

真木は何とも合点の行かない表情で頷いた。今回の結末は担当者レベルではそれぞれに分かっていたはずだ。なぜ、こういう結果を招くまでコミュニケーションをうまく図れなかったのか、そもそも自分に落ち度があったのか釈然としない思いが心の中を占めていた。

 

 

その夜、真木は西山、門田に連れられて築地にある寿司屋に出向いた。

 

「入社一年目からの長期出張だ。久々の東京の夜をまあ楽しめ」

 

 西山はそう言って真木を労った。真木は「はい」と一言答えたが、威勢のいい言葉は何ひとつ出てこなかった。

 

「なんか、うまく行かないんですよね。研究所で門田さんと万全に準備してこの結果じゃ誰にも顔向けできません」

 

「まあ、技術開発なんてそういうもんだよ。そう何でもかんでもうまく行くわけじゃない。どこに落とし穴があるか、すべてを予見できる人間なんてこの世の中にはいない」

 

 門田がすかさずフォローを入れる。

 

「とはいえ、ここでこけたら宮津さんに何言われるかわかったもんじゃないな」

 

「あー、アレですか。『泥はなくならないんだよ』」

 

 そう言って西山と門田は顔を見合わせて笑った。

 

「なんですか、それ?」

 

「いや、専務取締役CTOの宮津さんの口癖だよ。汚泥が減らないから、当社の主力製品の焼却炉や溶融炉、乾燥機が未来永劫売れ続ける、という理屈だ。私はちょっと違うと思っているがね」

 

「今回の磁気―フェライト処理だってコスト面に目を瞑れば泥の可溶化は現時点でも可能です。そうすれば有機分がメタン発酵槽で消化ガスに変換する割合も増え、消化汚泥の量は減少するはずです。そうすれば、いわゆる焼却、溶融といったエネルギー消費型の処理プラントへの依存度は低下させられるはずです」

 

「真木くん、君の言うことはもっともだが、社内での発言には気を付けるように。仮にもフェライト化の歩留まり、コストというネックを抱えた状況だ。我々の足元をすくおうとすればいとも簡単にこんな研究はストップをかけられる。今が耐え時だ。残された時間はそう長くない。まだ経営陣がこの技術開発を続けさせてくれている間に何らかの活路を見出そう」

 

 そう言うと、西山は門田と真木のお猪口に酌をした。

「本音を言えば、私が最前線に飛び出て陣頭指揮を執りたいところだが、なかなかそうも行かない。ここは門田くん、真木くんに何とかしてもらわないと!」



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