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                              Ⅰ

 

 過去のある時期に、アルチュール・ランボーと名付けられた男がいた。彼は現在(西暦2016年)では詩人ランボーの名で知られているが、それは彼の愛読者や研究者がそのように彼を定義したに過ぎない。彼はある種の孤独な魂であり、それが時と場合により(人生には時と場合以外は存在しない)、アルチュール・ランボーとか、詩人ランボーとか、商人ランボーとか名づけられたにすぎない。人間の魂は何にも拘束されずに生きる事ができる、という事を、人間の生み出したものではもっとも拘束性の少ない、言語という様式を通じて表現した男がこのアルチュール・ランボーという魂であった。この男は詩を捨てた後、自ら、人生という最大の拘束の只中に入っていくのである。彼は彼の詩が語るように、不幸が神だったのである。彼は不幸の中で死んだが、それが彼の神だった。この不思議なアイロニーは、幸福を自らの神とする平凡な(無論、僕も含む)人々にはわかりにくい事に違いない。

 

 人間がこの人生を生き、何を感じ、味わい、何を想うか。普通、人は成長しつつ学ぶように感じる。しかし、それは嘘だ。時間は本来、逆倒していなければならない。時間は逆さまに流れ、滝は地上から上空へと打ち上げられる。生活は二重の足音で持って、詩人の身を包んだ。詩人ランボーには人々の装いは正に装いとしか見えなかった。それが、ランボーにとっての最大の不幸だった。

 

 「ああ、蠢いているすべての人間達が、あれには奇怪な気違いの玩具に見えたひと頃もあったのです」

 

 「俺は架空のオペラとなった」

 

 「俺は、それぞれの存在が、様々な別の生活を借りているような気がした」       (小林秀雄訳 「地獄の季節」)

 

 ランボーの語る所は明瞭である。そしてこの語る所が明瞭でないと感じる精神とは正に、ランボーの千里眼によって、底の底まで明瞭にされた存在である、と言う事ができる。人が詩を、詩人を笑う時、極点の詩人はその笑いの意味を、当人以上に知り抜いている。この知り抜いているという事実は、笑う者達に語る事はできない。彼らの精神機能にはある欠損があり、それを理解できない。彼らは己自身が何を理解できないのかを理解できない。だから、詩人は微笑する他ない。この世界を捨て、もう一つの世界に行く他ない。

 

 ランボーにとって、人々を、宇宙を二重化する事と、己自身が二重に見えるという現象は全く同一の事態だった。問題は彼が、そんな見方をする他なかったという悲劇の宿命にある。

 

 普通、人は世界を一重に見ている。文学というものに通暁している、自分はよく文学というものを理解していると考える者も、考えない者も、大抵は、世界を一重に見る。世界を二重に見るのは詩人の特権ではなく、世界を二重に見る、知性の業である。しかし、知性は世界を見る己自身を見るのか。ここに、孤独の極限がやってくる。自己は分裂し、お互いに語り始め、ついにそれは衝突し、消滅するに至る。この劇は、自身の内部で演じられる。「俺は架空のオペラとなった」。

 

 「イリュミナシオン」に「小話」という詩がある。これはあらゆる自由、暴虐を許された「王子」がある日、どこからか現れた「天才」と刺し違えるという話である。この詩の最後では「王子」と「天才」とは同一人物だった事が明らかにされる。この詩はランボーの精神構造を明瞭に物語っている。「王子」には常に「天才」がおり、「天才」には常に「王子」がいる。この対話的構造、二重的構造は「イリュミナシオン」「地獄の季節」を貫く主調音である。(「錯乱Ⅰ」という詩では夫とその妻の物語が詩となっている。(妻の方からの独白) これなどもランボーの詩の構造を明瞭に示している)

 

 しかし、この二重構造は単に、ランボーの詩の形式構造を語るものに過ぎない。僕はこんな事を鬼の首でも取ったかのように喚き散らしたくはない。隠されたものを発見して喜ぶ時期はもう過ぎた。そもそも、アルチュール・ランボー自身が自分の詩から決別しているではないか。文学というものを後生大事にするのは、それに神聖を見ている信仰者と、それで商売をしている人間らに限っている。文学などのただの言葉に過ぎないーーこう考えた時に、見過ごされたものと、見えてくるものが二つあり、この二つを共に、取り落とす事なく、掬い上げなければならない。

 

 ランボーの詩には、常に遠い所からの声が聞こえてくる。これは先に言った二重構造の変形版と考えられる。あるいはこちらが、ランボーにとって本質的な構造だったと言っても良い。これは此岸ーー彼岸のような形を取る。また、それは遠い所からの声でもある。

 

 「俺は夏の夜明けを抱いた(略)

 

 道を登り詰めて、月桂樹の木立の近くまで来た時、とうとう俺は、かき集めてきた面伯《かずき》を彼女に纏いつけた。俺は彼女の途方もなく大きな肉体を、仄かに感じた。夜明けと子供とは、木立の下に落ちた。

 

 目を覚ませ、もう真昼だ」     (面伯《かずき》の伯の方の漢字が出なかったので、正式には岩波文庫辺りを見てほしい)

 

 これは「イリュミナシオン」の中の「夜明け」という詩の抜粋だ。この詩はランボーの詩の中でも最も美しい詩句に数えられるだろう。しかしここでも、ランボーの資質と、構造は明白にあらわれている。

 

 ランボーには常に、遠い所からの一つの声が聞こえていた。「目を覚ませ、もう真昼だ」と語る声は正にそうした声に違いない。これは、「夜明け」という詩の中で、美しい宝玉を散々ばらまいた男に聞こえる声である。

 

 「夜明け」という詩で、主人公の男ーーおそらく詩人自身は、ある未知の空間に入る。それは詩の内部にしか現れない空間であり、ボードレールやマラルメの構築した空間とも違うある場所である。この男は「水は死んでいた。其処此処に屯した影は、森の道を離れてはいなかった」というような、不可思議な夢の空間に入る。そこにはランボーの孤独がある。世界と本当の意味で隔離された人間にしか見えないある幻影、そんな詩空間の中を、孤独な男は輪舞するように運動する。その中で男は「女神」を発見する。「女神」と、ランボーによって溶化された自然との間で美しい戯れを広げた後、この男には一つの声が聴こえる。「目を覚ませ、もう真昼だ」と。これは言うまでもなく現実からの声であり、詩空間を消滅させる、詩人の最後の魔法である。この魔法の後ではどんな詩も存在できない。美しいものは消滅しなければならない。何故か。その答えにランボーは詩では答えない。彼は、身を持って答えた。これが詩人ランボーが我々に残した最大の謎だろう。もっとも、この問いに答える事は意味がない。いずれにせよ、答えは言葉にできない。自身の生を言葉に託し、それでどうしようというのか。ある詩人が比類ない美しい詩を残した。それでどうしようというのか。それが人々の慰みとなり、詩人の現実的財産となり、詩人の名を世界に知らしめる原因となり……それで? あらゆる問いが消失した世界にはもはや答えは存在しない。人間は答えがなくなった場所を生きる事ができるのだろうか? それとも、あらゆる答えが存在しないのが、現実に生きるという事の意味なのだろうか。


                             Ⅱ

 

 人間には自由を求める精神というものがある。自由は放埒とは違う。放埒とは、自身の欲望に憑かれたものの事にすぎない。

 

 声高に社会改革を叫び、そこに大きな(芸術とは違う)現実性を見ている者も、それは結局、己自身の欲望の変化したものに過ぎないと悟る日は来るのだろうか。ある哲学者の言うように、仮に全ての人間が、自分が餓死する事を許せば、あるゆる社会問題は立ちどころに消失する。もちろん、こんな問題設定は理不尽だろう。しかし、現実性云々を喚いている人々は、現実性と名付けられものが、我々の精神が手なづけそこねたものの影である事だとは考えない。考えない事に問題があるのであり、本物の現実性に問題があるわけではない。真に現実的な人間の方から、精神は現実的な物の影にすぎないという言葉が聞かれても、僕は何も言い返す事はできない。我々はこの世界のあるがままの事実を右から見るか左から見るか、その選択を迫られているにすぎないのだ。

 

 ランボーという詩人は何よりも自由を希った存在だった。彼の詩は、彼の意識の自由を証明して余りある。あらゆる思想、絶望、光景、哲学が詩の中では許されている。それらは彼の詩の溶鉱炉の中で煮詰められ、常に(小林秀雄の言うように)金として濾過されて出てきた。しかしそれが金である事、財宝である事が詩人の歩みを止める事はできなかった。美とは優れた人間が、ある現実からもう一つの現実に入っていく時に一瞬現れる流星に過ぎないのだろうか。人が生誕から死の間まで生きるにせよ、通常、我々は何も考えない。いや、我々は知ったり、見たり、考え、行動するが、それはランボーの持つ溶鉱炉の中の一素材を満たすだけである。にも関わらず、我々にはこの不思議な詩人が理解できない。彼が我々の上を駆ける流星であって、我々は上を見上げる術を持たないから理解できない。

 

 「ああ、季節よ、城よ、

  無疵なこころが何処にある。

 

  俺の手懸けた幸福の

  魔法を誰が逃れよう。

 

  ゴールの鶏の鳴くごとに、

  幸福にはお辞儀をしろ。

 

  俺はもう何事も希うまい、

  命は幸福を食い過ぎた。

 

  身も魂も奪われて

  何もする根はなくなった。」

 

  こうしたランボーの嘆きは、一見叙情詩に見えるかもしれないが、そうではない。これはあらゆる叙情詩を廃したからこそ起こる心の運動であり、この心の運動はおそらく、空前絶後であったのだろう。人間があらゆる事を知り、あらゆる事に心を動かさない、もう見知った事ばかりーーーしかし、何故、彼は生きていかねばならないのだろうか?

 

 人間にとって全てを知る、とはどのような事だろうか。あらゆる人生を知り、あらゆるものを見聞きする。人間が「行為」に走るのは何らかの未知のものがあるからだ、と考える事ができる。我々にとって希望も絶望も未知のものからやってくる。我々が希望を持って生きる事ができるのは未来はわからないという事への信頼からであるし、我々が絶望できるのは、まだ絶望できる暗淵があるからだ。しかしランボーの、異常に急速に発達した自意識には絶望も希望も、信仰も居場所がなかった。パスカルが信仰に飛び込み、ニーチェが発狂する。ランボーには信仰も縁なく、発狂にも縁がなかった。彼は驚くほど冷静に世界を見た。宇宙を見た。すると、その映像としての宇宙には最後に己自身の姿が映った。それが彼自身である事を了解する事は簡単だ。彼は、最後にこれを描いた。すると、これを描いている存在は正に、遠くから見ている自分に描かれている存在ではないか。そういう問いが起こった時に、この自分との戯れは消失する。詩は、美しい宝玉は消える。


                           Ⅲ

 

 ある個人的、個性的な魂が表現した所を指して、それを歴史的作品と考える。これは我々の思考に通例の事だ。この作品を仮に「地獄の季節」と名付け、この作者をアルチュール・ランボーと名付ける。

 

 文学を目指すもの、文学が手段ではなく目的である矮小な我々にとっては、ランボーは一つの趣味として存在している。ランボーの詩句を読む事は一種の高雅な趣味とされる。あるいは単なるファッションとしても読まれたりする。人はこの詩集を読んで、面白いとか面白くないとか、良いとか悪いとかいう風に考える。あるいは単に歴史的古典として取る。こんな取り方をするのはきっと、アルチュール・ランボーと名付けられた個人ーーその詩集ーーにはもっとも不適切な取り扱い方であるに違いない。だから、この批評自体も当然、間違った取り扱い方をしている。

 

 我々はある客観的な座にいて、自分達の耳目を潤してくれる何事かを探している。絶えず、目的は自分自身に設定され、その為の手段としてあらゆるものがある。神が死んだ後、我々は自分達を神とした事によって、互いが己の幸福を思い、その為に他人に食って掛かる、そんな時代になったのではないか。人間達は皆、傍観者として目の前の揺れ動く映像を見ている。人が小説や詩を(その他様々なもの)こねくり回すのは、人に読まれるためであったり、自分が社会で突出する為だったりする。二つの基準があり、それは自分と他人という形を取る。この二つの基準は同じものであって、他人に認められる事と自分がのし上がる事は同じ事を意味している。そしてこの二つの基準に挟まれ、個性的な芸術作品というものは消失する。芸術というもの、つまり己と他者を止揚しようとする努力は、己と他者という二つの基準に挟まれ、消える。

 

 ランボーの詩は小林の言うように、無人の場所に撒き散らされた美しい宝玉だった。我々がこの詩をどのように取り扱い、どのように真似しようと、依然、そこは無人である。ランボーにとって詩など、全くどうでもいい事に過ぎなかった。だからこそ、彼は詩を捨てた。それにも関わらず、詩人の誰よりも、彼の魂が詩に食われていた事は明白だ。彼の存在そのものが詩であるという端的な事実から、ランボーの無類の詩は生まれてくる。我々が彼を「文学」として読む時、その事は忘れられている。「文学」というものをありがっている人間には、ランボーの肉体は忘れられている。彼の肉体が彼の詩であった、という端的な事実を、アルチュール・ランボーその人もどうする事もできない。だからこそ、彼が詩を捨てアフリカで商人になったという事は、更にその異様さを物語る事になる。


                           Ⅳ

 

 ランボーはアフリカに去った。そして永久に帰ってこなかった。…そう書いても、不思議ではないだろう。

 ヴェルレーヌの紹介から、ランボーの名はフランスの詩壇でも有名になりはじめていたらしいが、ランボーはそんな事にも頓着しなかった。彼は本当に詩を捨てたのだった。

 

 詩というものが、人間の奥底の魂を言語化した「歌」だとすると、ランボーはもう歌わなくなった。現今の詩人は、歌おうとして歌う。つまり、現今の詩人の大半は、彼の肉声が歌になっておらず、ペン先やキーボードで作られた歌である、と言える。しかし、そんな事は言ってみても仕方ない事だ。そもそも、人間の魂は世界を拒絶するほどの孤独の中でしか発見できない、詩人達があまりにも文学的であるという理由によって彼らの詩は歌とはならない。したがって文学とはならない。キリストとキリスト教、孔子と儒教、あるいはマルクスとマルクス主義との間に密かに、真理と教義との対決が隠されているのであれば、文学と文学的との間にも対決が隠されている。自ら文学である者達は大抵、自らが文学的である事に嫌悪を感じたが、この嫌悪は後には忘れ去られる。人は逆に、これらの天才達を、彼らが嫌ったものによって飾り立てるようになる。ランボーもまた飾り立てられたのだろうか。彼の無私の詩も、エゴイズムの発露、青春の一時期の迷いごとと切り捨てられたのだろうか。社会慣習に肩までゆっくりつかっている人間が、文学を否定するのはたやすい。その事は、文学的な人間が文学を否定するのがたやすいという事と全く同じだ。彼らは自分が何を相手にしているか知らず、だからこそ否定できる。彼らに共通なのは……しかし、もうやめよう。

 

 「ーーさて、俺一人の身を考えてみても、まずこの世に未練はない。仕合せな事には、俺はもう苦しまないで済むのだ。ただ、俺の生活というものが、優しい愚行のつながりであった事を悲しむ」

 

 このランボーと名付けられた男に、そもそも生活というのもがあったのだろうか。僕はその事に疑問を感じる。世界を二重化する男の眼ーー詩人は一つの視点であった。しかしそんな男にも「優しい愚行のつながり」の生活があった。「地獄の季節」の「妻」は「あれ(夫)の優しさもやっぱり私には死ぬ思いです」と語っている。詩人の生活は絶えず二重化され、人々は何か分からない踊りを踊っていた。人々は昔も今も、そのような踊りを踊っている。例えば、朝の通勤ラッシュをふと見渡すと、何故、人々がそんなに急いでいるのか、全く合点できないある瞬間というのがある。ランボーは常にこのような眼を持っていた。世界は常に二重であり、ランボーという男は世界の「裏」にいた。彼の架空のオペラが演じられたのは彼自身の内部だが、その劇は世界の裏、途方も無く孤独である、ある極点において行われた。

 

 世界の裏側にいる男には、生活の乱脈、怠惰、恋愛、放蕩、飲酒、あるいは優しさ、慈愛も全て許されている。しかし、これらランボーが身にまとった衣装を信用するのであれば、それはランボーを単なる生活人に帰す事しか意味しない。事実を重んじる人間は事実を探るという態度によって知らず知らず、事実から跳躍した詩人の存在を忘れる。ランボーはアフリカに旅立つ前からこの世にいなかった。彼は世界の裏側にいて、世界を支配するある視点そのものだった。この男にアルチュール・ランボーという名が付けられたのは単なる偶然と考えて良い。というより、ランボーという男が自分自身を、そう言わざるを得ないような局所まで引っ張っていったのだ。


                             Ⅴ

 

 ウィトゲンシュタインの哲学に「独我論」というのがある。これを今、詳しく紹介している暇はないが、必要あるので、少し説明する。

 

 「独我論」とは端的に言って、「自分以外の存在は全て自分の意識内容に過ぎない」というものだ。そこで明らかな事は「私」の心だけであって、他人に心があるかどうかは分からない。他人が実は、心があるかのように見えるロボットだとしても、独我論はその事に関知しない。独我論をたどると、自分が知る事ができるのは自分だけであり、他人が世界をどう見ていて、感じているのか、分からないという事になる。

 

 こう言うと、人はおそらく、「私」の問題を「一般的自我」の問題と捉え、それを一般的問題としてしまうだろう。ウィトゲンシュタインはそこから更に一歩進んだ。つまり、そのように一般的理解(一般的な見方としての独我論)そのものが不可能であるという事が真の独我論だという事を言った。つまり、ウィトゲンシュタインの独我論にとって真なのは、ウィトゲンシュタイン本人だけなのだが、それはウィトゲンシュタイン以外には語りえない。ここにおいて、語りえない個人ーーウィトゲンシュタインという人物が現れてくるが、それを、語りえない当の相手(つまり我々)に、哲学という形で語っているのは何故か、という問題が次に現れてくる。ウィトゲンシュタインはこれには答えてはいない。しかし、このウィトゲンシュタインの独我論を我々が受け取る時、我々は他者不在の哲学が伝達したという事を知り(我々はロボットでもゾンビでもなかった)、そこで我々の孤独は癒やされるのである。つまり、孤独というのが極限を越え、他者不在の極点にまで辿り着いた時、「では何故その哲学を我々はウィトゲンシュタインという他者から受け取ったのか」という疑問が現れ、そこでやっと我々の孤独は解決する。つまり、我々はそれぞれに、自分以外の人間を、内面がないゾンビやロボットかもしれないと思う権利がある、という事を知る。そしてその事は(それぞれの人間が)他人には言えない、という事も合わせて知る事によって、完全に孤立したそれぞれの内面宇宙が孤立したままによって(孤立する事によって)肯定される。ウィトゲンシュタインはそのような哲学を生み出した。僕はそのように理解している。

 (おそらくこの説明では理解し難いと思うので、詳しく知りたい人は自分のウィトゲンシュタイン論を読んで欲しい。パスカルからウィトゲンシュタインへの変化を取り扱った章あたりで詳しく述べている)

 

 さて、ここからランボーの詩句を考える事はできるだろうか。ランボーの「イリュミナシオン」はランボーの詩論「見者」を代表したものと見る事ができる。ランボーの詩空間は常に宙に浮いている。おそらくは他の象徴派詩人にも全く真似する事のできない詩空間だろう。もちろん、字面で真似した人間は沢山いるだろうが、ランボーの作り出した美しさには常にその背後に、彼の血と肉が漂っている。ランボーの運命がその表面に、ほんのいくつかの言語を描き出す。描き出された言語を彼の詩の全てと考えるのは我々の勝手だが、詩の歴史の中で彼の詩が一つ、永久的に感じられるのは我々がその背後に、そういう詩を書く他なかった運命を感じさせるからだろう。そうでなければ詩に何の意味があるのか。詩など、単なる言葉の集積ではないか。

 

 フランス語は全くできないので勘で言うが、ランボーの詩空間はマラルメやボードレールとも違っている。ボードレールは社会と対峙しつつも、自分を最後の極点まで追い込む事はしない。彼は自分が病根である事を知っている病人だが、自分の病根を愛する事を止めはしない。マラルメは更にわかりにくいが、ボードレール以上に難解な詩となっている。マラルメは完全性、極致の詩を追い求めるあまり、一つの沈黙に至ろうとするが、ランボーには沈黙はない。にも関わらず、ランボーの饒舌は、彼自身の断絶を背後にはらんでいた。彼は彼自身に躍りかかる刃物であり、自分を切り刻む事にも何の躊躇もしない。これは例えば、パスカルとモンテーニュの比喩に求められるだろう。パスカルはランボーのように、自分自身をも自身の懐疑論で壊滅させる事ができるが、モンテーニュはあくまでも賢者的な態度を止めはしない。モンテーニュはどこまでも正常であり、賢者であり、だからこそ、パスカルの破壊力を持たない。ただ、パスカルには最後に信仰がやってきた。信仰無きランボーには、今さらキリスト教に帰る事はできなかった。「主よ、俺は阿呆だ」 彼はアフリカに行く他なかった。



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