目次
序・「あぶくま」の神性
1 越後から阿武隈へ
越後で学んだこと
「桃源郷」の意味
侵略者を神と崇める
2 阿武隈梁山泊人物録
登場人物の紹介
生まれて初めて家を建てた
モリアオガエル同棲計画
3 阿武隈での生活が始まる
テロリストと呼ばれて
村と東京電力との関係
イモリの代弁者になる
4 巨大風力発電施設計画の悪夢
母の死
井戸掘り
巨大風車建設計画
風力発電の不都合な真実
5 山が破壊される
村長は知らなかった
村を二分する対立が再び
平気で嘘をつく人たち
6 ウィンドファーム建設阻止に奔走する
福島県に要望書を提出
秋山豊寛さんと会う
顔も見せなかった県の責任者
7 裏山は守られたが……
水俣市長と話す
加藤登紀子さんと経産省を訪ねる
村長がついに受け入れ拒否を表明
8 それぞれの田舎暮らし
それぞれの「田舎暮らし」
きのこ里山の会とカエル神社プロジェクト
亜鉛閣と蝉鳴寮
仕事ができる大人が移住してくることが不可欠
9 過疎地での文化活動
過疎地でアーティスト活動はできるのか
阿武隈の狛犬たちを全国に紹介
タニシ倶楽部と阿武隈アートトイレプロジェクト
まずは自ら楽しむ
10 原発爆発
巨大風車に囲まれて
そして3・11
原発爆発
神宮寺で一泊
川崎へ避難
11 情報錯綜の中で
放射線量計を買う
完全に情報孤児となっていた周辺自治体
ネットだけが頼りだった
20km、30kmで区切られたことによる混乱
一時帰宅
12 全村避難中の村に戻る決意をする
あのとき誰がどう行動したか
20km、30km境界線をめぐる混乱
阿武隈に戻る決意を固める
13 「緊急時避難準備区域」での生活
全村避難直前の飯舘村に行く
「出世した」ジョンと取り残された犬猫たち
賠償金バブルが始まる
帰村派と避難継続希望派の対立
14 村が変わっていく
村の空気が変わった
復活の米の顛末
「避難者」も事情がいろいろ
移住先を探す
15 阿武隈を去る決意
引っ越し
モリアオガエル
福島は「フクシマ」を忘れたいのか?
二つの映画
16 梁山泊の果て
梁山泊の行く末
さらばタヌパック阿武隈
「フクシマ」の問題とは何だったのか
「フクシマ」の中で生き抜くために
奥付

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序・「あぶくま」の神性

阿武隈梁山泊外伝

                              たくき よしみつ

 

 

序・「あぶくま」の神性

 

 私は戦後10年経った昭和30年に福島市で生まれ、6歳まで福島市内で過ごした。

 家はトイレのない長屋で、冬は外にある共同便所に行くのが辛かった。

 家から歩いて行ける距離に阿武隈川が流れていて、両岸をつないだワイヤーロープを人力でたぐりながら行き来する渡し船を、川岸に座って何時間も眺めていたものだ。

「あぶくま」という名称が持つ響きに心が共振するようになったのは、あの頃からだったと思う。

 私が4歳の時、両親が離婚。母に引き取られた私は、小学校に進むと同時に、母、そして新しい父親と一緒に上京した。

 母に、「東北に戻りたいと思ったことはないか」と訊いたことがある。母はすぐに「全然!」と否定した。そしてこう続けた。

「自然が豊かなのはいいけれど、田舎の人はずるいから」

 私にはその意味が長いこと分からなかった。

 田舎が嫌いだという母も、自然は好きで、建て売り住宅の狭い庭には常に草木があった。それも園芸種ではなく、山野草の類。

 若い頃の私はそれが邪魔で仕方がなかった。コンクリートを打ってカーポートにすべきだ、と言って争ったりもした。

 そんな私が、都会の生活、というよりは都会的な人生成功競争に敗れ、30代以降、田舎暮らしを強く志向するようになっていったのだから、皮肉ではある。

 あちこちの田舎物件を見て回った末、30代半ばで念願の家を手に入れた。越後の豪雪地帯、山奥のどん詰まりにある小高(こたか)という二十数戸で形成する集落。そこの450坪ほどの土地に建つボロボロの木造二階建て。それを280万円で購入し、12年かけて修繕し続けた。

 サッシはおろか、網戸も入っていなかったその家は、隙間だらけで、虫どころか、ヘビが家の中に出没した(ちなみに私はヘビは大の苦手)。

 それでも、山の中での暮らしは楽しかった。ゆくゆくはこの山村に引っ込んで、終の棲家とするつもりだった。

 その家が2004年10月の中越地震で見事につぶれてしまった。

 12年かけて自らの手で修繕した家を物理的に失ったことよりも、「将来」に対する精神的拠り所を失うことに恐怖を感じた。

 このままでは気持ちが萎えたまま、立ち直れなくなるのではないか……。

 なんとか新天地を見つけてから年を越したいと思い、必死に探し回った末に見つけたのが、福島県の山村、川内村というところにあった小さな家だった。

 建物はなんの風情もない、住宅メーカーの安っぽい規格もの。6畳が3部屋つながっている平屋建て。東北電力の社員が別荘として建てて、後に愛人?と二人で本格的に住み始めたが、癌で亡くなり、遺族もこんな山奥の小さな家などなんの興味もないということで売りに出されたのだった。

 この物件を仲介した不動産屋のF氏は、一人で田舎物件を斡旋しているやり手だった。彼は川内村を「阿武隈の桃源郷」と説明した。

「滝根から山越えして川内村に入る道があるんですが、その峠から見た村の風景が私はいちばん好きなんですよ。ぽっかりそこだけが周囲と隔離されたような感覚がなんとも言えずいいんですよね」

 本当に嬉しそうにそう言っていたので、嘘ではなかっただろう。しかし、村の事情についてあれこれ質問していくと、こうも言った。

「それは後々のお楽しみということで。こんなに面白い村はないですよ。一筋縄ではいかないことは確かです。私が経験済みですから」

 実は、彼はかつて大手デベロッパーの先兵隊長としてこの村に乗り込み、ゴルフ場建設を中心に据えたリゾート開発を指揮していた人物だった。

 その計画はバブル崩壊であっけなく消えたのだが、彼は会社が危ういことを察知して早々と会社を辞め、一人で不動産屋を始めたのだった。

 ゴルフ場建設を巡っては、村民が歓迎派と反対派に二分して争い、ひどいことになった。その騒動を後から村の人たちからいろいろな形で聞かされたが、それがどれだけ根深い問題なのか十分には理解できていなかった。

 不動産屋のF氏はまた、こうも言った。

「原発が近いから嫌だと言う人もいますけど、私は原発、気にならないタチなんで……」

 隣の富岡町に福島第二原発があることは知っていた。その少し北には福島第一原発もある。

 地図に定規をあててみると、その家はどちらの原発からも20数キロ離れていた。

 どの程度を「近い」というのかにもよるが、越後の小高集落も、車で1時間走れば柏崎刈羽原発があったし、そもそもチェルノブイリ級の事故が起きたときは、日本列島のどこにいても安全などない。

 原発が未来永劫に事故を起こさないなどありえないし、出し続けている核廃物を処理できずに、いつかはとんでもないことになることも分かっている。しかし、それはおそらく自分が死んだ後のことだろうと思っていた。いや、そのときはそう思いこもうとしていた。

 見えない原発よりも、目の前にある素晴らしい自然環境に、私たちは魅了されていた。

 建物は狭かったが、土地がすばらしい。敷地は約1400坪。両側は雑木林と唐松林の国有林。しかも沢が流れている。それまで多くの田舎不動産物件を見てきただけに、これだけ理想的な自然環境に包まれた物件がそうそうないことは分かっていた。

 これを逃したら、もう一生こんな環境に住むことはできないかもしれない。

 地震で家を失った直後で経済的に苦しかったが、結局、無理をして購入した。

 年末には引っ越しもして、この小さな家で新年を迎えた。

 こうして私たち夫婦の阿武隈生活が始まったのだった。

  

 この家を手に入れたときから、私は「阿武隈」という言葉を好んで使った。

 abukumaというドメイン名の空きを調べて、未登録だったabukuma.biz、abukuma.us、abukuma.in という3つのドメインを取得した。それほど「阿武隈」という言葉には感じるものがあった。

 阿武隈が自分の死に場所だったのだ、という運命的なものも感じた。

 越後でできなかったことを、阿武隈ではできるかもしれない。いや、生きているうちに完成しないとしても、ここで暮らすことで、生きる方向性が見え、それに沿って暮らしていけるのではないか。

 F氏が言った「桃源郷」という言葉は嘘臭いが、自分の意志と力で、そしてこれから出逢うであろう人たちと一緒に、小さな梁山泊を築くことは可能かもしれない──そんな淡い夢も抱き始めていた。

 様々な気持ちがこもった「阿武隈」に7年暮らしたとき、福島第一原発があっけなく壊れ、大量の放射性物質がばらまかれた。

 阿武隈の自然が壊されていくのを見つめ、最後にとどめを刺されるまでのこと、そして、その後の予想もしなかった展開についてこれから書いていこうと思う。

 おそらく、恨み節的な記述が多くなるだろうが、最初にひとつだけ言っておきたい。

 私は今でも、死ぬときは阿武隈の山の中で、と思っている。

 私の中で「阿武隈」という言葉の神性はまだ消えてはいない。

 これから書く文章がどれだけ毒気を含んでいようとも、あるいは屈折していようとも、それは私の「阿武隈」に対する憧れや畏敬の念の裏返しだと理解してほしい。

 そう断らないと書き始められないくらい、複雑で、タブーに満ちたテーマなのだ。

 

  ▲滝根小白井ウィンドファーム (2016/01/06)

 


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最終更新日 : 2016-09-26 22:14:30

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越後で学んだこと

越後で学んだこと

 

 2004年年末、私たちは越後から阿武隈への引っ越しを決行し、新しい家で新年を迎えた。

 家を修繕しながら12年過ごした越後の山村から、さらに交通の便が悪い阿武隈山中に移ってきて、改めて越後時代に何を学んだのかを振り返ってみた。

 越後の12年でいちばん違和感を覚えたのは、意味のない公共事業が平気で行われていたことだった。

 小高集落は家が二十数軒しかなく、そこから先には人家がないどん詰まりの場所だったが、そんな集落にも、最初から水道と都市ガス(!)が引かれていた。

 水道はまだしも、都市ガスは理解に苦しんだ。プロパンでいいではないか。長い距離、ガス管を引っ張ってくる意味があるのか。

 さらに呆れたのは、家を購入した翌年、本下水道工事が始まったことだった。

 山奥だから土地はいくらでもある。合併浄化槽を入れて自分の土地に放流してもいいし、土壌浄化という方法もある。

 実は、引っ越してすぐにやったことは、溜め込み式の便所を水洗化することだった。そのために、『エントロピー読本』という本に紹介されていた土壌浄化層というものを作り、自分の土地の中で汚水処理を完結させた。

 人間の排泄物は毒物ではない。土に接触する時間を確保してやれば、土壌バクテリアやミミズがきちんと分解してくれる。排水を工夫して、地表から浸みだしてこないようにすれば臭気も出ない。

 この方法で、何の問題もなく水洗トイレにすることができていたので、本下水が来ても接続しなかった。接続はしなくても、集落の人たちや行政との軋轢を避けるため、本下水の接続枡だけは設置した。なんの意味もない下水枡を設置するための費用は20万円だったが、下水処理場からこの山奥の下水枡にまで延々とパイプを敷設するために一体どれだけの税金が使われたのか。

 こんなことを続けていていいはずがない。私は地元の人たちとお茶を飲むたびにそう主張した。

 越後の人たちはみんな穏やかで、私の話を「本当にそうだ。おかしい」と頷いて聴いてくれたが、それで何が変わるわけでもなかった。

 また、時間が経つにつれ、周囲の環境が少しも「自然豊か」ではないことに気がついた。

 家の周囲は田畑と杉林なのだが、杉林は荒れ果てて陽光を遮り、野生生物の生活環境も奪っていた。

 都会人は森の緑を見て「自然」というが、人工林の山は自然ではない。田畑と同じで「工作物」だ。

 杉林の場合、通常、1ヘクタールあたり3000本の苗木を植えるが、これを最終的には500~600本にまで間伐しながら育てる。最初から「適正数」で植えると木はのびのびと育ち、均一な太さにならない。木にとっては、枝を奔放に張り、幹は下が太く上に行くにしたがって細くなる育ちかたがいちばん健康で倒れにくい。しかし、材木にするためにはそれではまずいから、わざと密に植えて、自然樹形に育たないようにするわけだ。

 これは、ブロイラーや肉牛、乳牛の飼育と同じで、生物学的には奇形に近いものを人工的に「生産」しているのであり、「自然」ではない。

 戦前戦後を通じて、日本中で天然林(雑木林)が皆伐され、スギ、マツ、ヒノキなどの材木用の針葉樹に植え替えられた。しかし、それらの人工林が材木を産出する前に、海外から安い材木が輸入されるようになって、日本の人工林は間伐もされないまま放置された。

 人間の営みも「自然」の一部なのだとすれば、極めて短い間に日本列島から天然林がほぼ消滅し、売り物にならない人工林だらけになったことも「自然」のうちということになる。

 しかし、知恵を使い、合理性を重視すれば避けられる過ちを続けることは「愚行」と呼ぶべきだろう。

 2004年10月23日、越後の我が家を震度7の激震が襲い、二十数戸の小高集落は、道路が寸断されて孤立した。

 水道、都市ガス、本下水といったインフラはすべて壊滅状態。これがもし、井戸、プロパンガス、浄化槽であれば、生活はすぐに立て直せただろうが、過疎地に合わないインフラだったために、復旧は絶望的だった。

 町(当時は北魚沼郡川口町)は集落に対して「インフラを回復させないでよければ、道路はすぐに復旧させる。しかし、元通りに都市ガスや本下水を敷き直すなら、当面手をつけられない」と通告した。

 道が通れないままではどうにもならないから、集落としてはその条件をすぐに呑んだ。

 その後「元の土地に家を建てない、そこに住まない、という条件であれば、移転用の代替地を町が用意して提供する」という提案も受け入れ、集落は早々と集団移転を決めた。

 住民票を移していなかった私たちは「別荘の人」という扱いで、単に家と土地を失っただけだった。

 中越地震ではあちこちで土砂崩れが起きて道路が寸断されたが、崩れた山はほとんどが荒れた杉林だった。スギは根を深く張らないから、地盤が弱く、保水力もなくなる。もともとの雑木林ならば崩れなかった山はたくさんあったのではないか。

 さらには、木の実など、野生生物にとっての食物も生産しないので、野生生物が食べ物を求めて里へ下りてきて人間と衝突する。

 中越地震で身を持って学んだことは「理念や合理性のない公共事業は必ずしっぺ返しを食う」ということだった。

 中越地震から10年が経ったが、今でも越後の人たちとの交流は続いている。先日も、越後の家の元家主・Oさんから魚沼コシヒカリが送られてきたので、お礼の電話をかけたところ、誰もいなくなった小高集落周辺では、目的の分からない公共工事が続々と行われているという話が出た。必要だからやるのではなく、金を使うことが目的の工事。お金が落ちて幾ばくかの利益を得る現地の人たちでさえ「でたらめだ」と呆れる「公共」事業が、今も日本中で行われている。

 東日本大震災後、政府は「復興予算」として19兆円という途方もない金額を計上し、各省庁はそれを奪い合った。内訳を見ると、東北支援、東北復興とは何の関係もなさそうなものがぞろぞろ出てくる。

 例えば、文部科学省は国立競技場の補修に3億円を計上。農林水産省は調査捕鯨での反捕鯨団体の対策費用に22億円。経済産業省は「国内立地補助金」として3000億円を割り振られたが、実際に使われた事業総数510件のうち被災3県(岩手・宮城・福島)の事業はわずか30件だった。

 コンタクトレンズメーカー(メニコン)岐阜工場の製造ライン増設への補助金にも「復興予算」が使われたが、理由は「売上げが伸びれば被災地である仙台の販売店で人を雇用できる」というものだった。

 要するになんでもあり。その金は、言うまでもなくすべて税金である。

 こういうでたらめは、昨日今日、急に通用するようになったわけではない。今まで長い間、日本中で通用してきたからこそ、税金を扱う者たちの感覚がここまでおかしくなってしまったのだ。

 

  ▲中越地震で完成したばかりの本下水道はすべて使えなくなった

 

  ▲中越地震後の越後の我が家

 

 

  ▼翌年の春、雪の重みで完全につぶれてしまった我が家


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最終更新日 : 2016-09-26 22:15:36

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「桃源郷」の意味

「桃源郷」の意味

 

 越後から川内村に移ってきたとき、最初に感動したのは山の美しさだった。

 荒れた杉林だらけの越後の風景とは違って、川内村に入ると、雑木林があちこちにあり、その風情に心打たれた。

 初めて物件を見に行ったとき、川内村に入った途端に周囲の風景が変わったことを感じた。

 それまでは、日本中どこにでもある杉林の風景だったのが、紅葉の雑木林が右に左にと現れる。その下を縫うように流れる沢がまた素晴らしい。思わず「きれいだね~」と声を上げたものだ。

 越後の家の周囲と何が違うのだろうと考えてみると、要するに雑木林が残っているかどうかという違いだと気がついた。

「潜在自然植生」という言葉がある。人間が手を加えずに放置した土地では最終的にどのような植生になるか。その道の研究では第一人者である宮脇昭氏(現在は地球環境戦略研究機関国際生態学センター長)の調査によれば、阿武隈山系は概ね主木(上層)はブナで、下層はスズタケ(笹の一種)らしい。

 しかし、F氏が桃源郷と呼んだ川内村にもブナを中心とした天然林はほぼ残っていない。アカマツ、カラマツ、スギなどが植えられた人工林と、皆伐~自然回復を繰り返している雑木林が混在している。

 よく見られるコナラやクヌギなどが主体の雑木林は、潜在自然植生を形成するごくごく幼年期にすぎない。宮脇氏に言わせれば、壮年期になる前に皆伐を繰り返し、永久に幼年期のままの雑木林はまだまだ人工林の一種ということらしい。それでも、雑木林は野生生物に食物を提供するし、数十年経過すれば保水力や地盤の保持力も杉林などよりはるかに優れる。

 購入した小さな家は、両側を国有林に挟まれていた。沢が流れている南東側はカラマツ林、道を隔てた北西側は若い雑木林。カラマツは落葉するので、引っ越したときはどちらの林も木々は葉を落としていたが、落葉した林というのも美しかった。

 年末、雪が降って、30センチ以上積もった。

 越後の雪に比べれば全然大したことはない量だが、いつまで待っても除雪車がやってこないことに気がついた。越後では、一晩で1メートル積もっても、翌朝10時までには除雪車が来て完全除雪してくれたのだが、どうやらこの村には公共での除雪というのはないらしいと知った。

 それでも、雪に閉ざされた小さな家の中で、私たちは幸せを噛みしめていた。

 無理をしてもここを買ってよかった。ここで死ねるならいい人生だ。

 

  ▲引っ越してすぐに大雪に見舞われた

 

  ▲車庫からぶら下がる雪

 

  ▲雪を珍しそうに見ている愛兎・ゴロ

 

 ところが、そんな幸福は数日で終わった。

 まだ松も取れない正月3日。後ろにチェンソーを何台も積んだ四輪駆動車が数台やってきた。

 雑木林を皆伐するのだという。

 この雑木林に惹かれて無理をしてこの家を買った私たちとしては、まさに青天の霹靂だった。

「伐ってどうするんです?」

「そんなことは知らん。俺たちは仕事だから、あそこを伐れと言われたところに出向いて伐るだけだ」

 この人たちと話をしても意味がない。すぐに営林事務所にメールした。

 数日後、営林署の担当者が二人でやってきた。

 林の伐採権はすでに業者に落札されているので、どうしようもないという。

「こんなすぐそばに家があるとは知らなかったんですよ。伐採しないと決めることは簡単なので、家があると知っていればやめていたのに」

 気の毒そうな顔でそう言う職員に、「伐ってどうするのか」と訊いてみた。

 雑木だから材木にはならない。細かく砕いてチップにするという。つまり、燃やすわけだ。

 今の世の中、木質燃料が必要なわけでもないし、それで儲かるわけでもない。でも「そう決められているから」やるのだという。雑木林は他にいくらでもあるから、別にここを伐らなければならないわけではない。でも、もう売ってしまったので、今からではどうにもならない──そう説明された。

 このとき、F氏が言っていた「川内村は桃源郷」の意味が、少し分かった気がした。要するに、川内村は広くて人がいないから、手つかずの場所が他に比べて多い、ということにすぎないのだ。

 川内村の面積は千代田区の17倍ある。関西の人には、西宮市の2倍と言ったほうが分かりやすいかもしれない。その面積のほとんどが山で、住人は3000人足らず、家は1000戸に満たない。

 山をひとつ丸裸にしても、人も車も通らない無意味な道を造っても、全体が広いから目立たない。たまたま手をつけていない場所を見ている限りは、自然がいっぱいだね、きれいだね、ここだけは他とは違う別天地のようだね……と思う。それだけのことだったのだ。

 

  ▲チェーンソーを積んだ車がやってきた(2005/01/03)

 

  ▲この雑木林を皆伐するという

 

 

 両側が国有林だということで、私たちは安心していた。国有林なら簡単に売り飛ばされたり伐られたりすることはないだろう、と。その認識がいかに甘かったか、いきなり思い知らされたわけだが、目の前の雑木林を、そうやすやすと丸裸にされてはたまらない。

 考えた末に、一休さんのような頓知で対抗することにした。

「分かりました。では、木が伐られることには何も言いません。でも、伐った木を運び出すのに、我が家の前の道は使わせません。この道は私道で、うちの所有地ですから、そう言う権利はありますよね?」

 結局、雑木林は伐られずに済んだ。

 うちの土地を通さずに木を運び出すとなると、新たに迂回路を切り拓かなければならない。雑木を伐ってチップにしたところで、もともとほとんど儲けなど出ない。そこまでしてやる意味がない、ということで、業者が落札の白紙撤回を申し出たのだ。

 妻は、残った雑木林の木、一本一本に抱きついて喜んだ。

 阿武隈に移り住んでいきなり経験したこの事件を通じて、田舎に住むことは、自然を相手にするよりも、人間を相手にした闘いの連続なのだということを学んだ。

 

 そのことは、3・11後にはさらにはっきりと思い知らされることになる。

 例えば、2011年、原発人災で汚染された村として一気に有名になった飯舘村に「除染部隊」の先遣隊長役で乗り込んできた田中俊一氏(原子力委員会委員長代理、日本原子力学会長、日本原子力研究開発機構特別顧問などを歴任した後、2012年に原子力規制委員会の委員長に就任)は、汚染度合が高い長泥地区の区長の家に乗り込み、困惑顔の区長にこう言った。

「産廃場みたいなものを作って……ね……。除染すると、多分、飯舘だけで考えても(放射性物質が濃縮された土やゴミが)何百万トンって出るんですよ。そうすると谷ひとつくらいは埋まっちゃうんだよ、フフフ(薄笑い)。でも、これだけ広いんだから、どっかの谷を……あの……村で確保してもらえれば……。全部こういうの(放射性ゴミ)集めて、どこかにまとめて処分できるようにしないといけない。今のまま何もしなければ、帰って来れないんですよ、本当に」(『NHKスペシャル 飯舘村~人間と放射能の記録』)

 手つかずの自然が残っている過疎地は、ある種の人たちの目には「金さえ出せば迷惑施設候補地として利用できる」と映る。「桃源郷」にはそうした危険が常に迫っているということを、今ははっきりと認識できる。

 

 


3
最終更新日 : 2016-09-26 22:21:32

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侵略者を神と崇める

●侵略者を神と崇める

 

 人間を相手にした闘いがやっかいなのは、自分もまたその人間の一人であり、人間社会の中で生きていかなければならない、という点だろう。

 田舎暮らしを経験した都会人の多くは、田舎の人たちの精神性を理解することの難しさを口にする。

「田舎の人は訪問者にはものすごく親切だけれど、そこに移住して住み始めた途端に、掌を返したように冷たくなる」

 そう語る人もいた。母がよく口にしていた「田舎の人たちはずるい」という言葉にも、そういう意味合いが含まれていたのかもしれない。

 もちろん、田舎の人たちは自分たちが「ずるい」生き方をしているとは思っていないだろうし、実際に、みな親切で「いい人」たちだ。

 私たちにとって最初の田舎暮らしは越後での生活だったが、越後時代には人間関係において嫌な体験はまったくと言っていいほどしなかった。これは越後の人たちの気質が素直なこともあったが、私たちが最後まで「別荘の人」、つまり、移住者ではなく訪問者の範疇で扱われていたからかもしれない。

 川内村という新天地ではどうなのか?

 暮らし始めたときは、やはり緊張した。

 幸い、我が家は山の中で、近所と言えるのは奥に住む老夫婦と、反対側の家の2軒だけ。どちらもとてもいい人たちで、最初から仲よくおつきあいさせてもらった。

 しかし、村全体、あるいは東北の田舎という大きなくくりでの人間社会を俯瞰したとき、そうそう簡単な図式ではないことは次第に分かってくる。

 これは実に複雑な、かつデリケートなテーマなので、時間をかけて書いていきたいが、まずはその入り口として、シンボリックなことをひとつだけ取り上げてみたい。

 不思議なことに、「阿武隈山地」「阿武隈川」という名称はあるのに、阿武隈を名乗る市町村はない。

 川内村の西隣りは田村市だが、田村市は2005年に、大越町・滝根町・常葉町・船引町・都路村5町村が合併してできた。それまでは、この5町村と小野町、三春町の7町村が「田村郡」を形成していた(小野町と三春町は今でも田村郡)。

 地理的にはまさに阿武隈山地の中心部を形成しているのが「田村郡」だったわけだ。

 私は狛犬が好きで、よく神社を巡るのだが、東北には「田村神社」という神社もある(よく知られているものは仙台市に1社、郡山市に2社)。主祭神は坂上田村麻呂だ。

 田村麻呂といえば、説明するまでもなく、大和朝廷が東北を征服したときの最高司令官。東北の先住民たちにとっての征服者が、阿武隈山系の中心部に位置する市や郡の名前になり、神として神社に祀られているのだ。

 これはどういうことなのか?

 東京なら、千代田区が「マッカーサー区」と名づけられ、靖国神社にマッカーサーを祀っているようなものではないのか?

 私はこの話をよくするのだが、同調するのは東北とは縁のない都会人ばかりで、東北に住む人たちの多くは曖昧な笑みを浮かべて聞いているだけだ。

 田村麻呂が率いる大和朝廷軍と戦った蝦夷(この呼称も屈辱的なので使いたくはないのだが)のリーダー、アテルイやモレは日本史から消され、テレビの歴史ドラマの主人公になることもまずない。(これを書いた後でNHKがBSで『アテルイ伝』というドラマを放送したが、地上波ではやらずじまいだった)

 アテルイは朝廷軍と話し合うために向かったところを騙し討ちされて首をはねられたと伝えられている。そんな歴史を「なかったこと」のようにして、征服者の先遣隊長の名前をありがたくいただいて地名や神社の祭神にしている東北という地はどうなっているのか?

 母は「田舎の人たちはずるい」と言っていたが、その人たちを利用し、懐柔する術を身につけている者たちはさらに「ずるい」、いや、凶悪と言ってもいいのではないか?

 阿武隈に移り住んだ当初から、私の頭の中にはそんな思いが巡っていた。

 原発人災後の今、目の前で展開されている光景を目の当たりにして、その思いはさらに強まり、かつ混乱させられている。

 

 最近、川崎市にあった旧仕事場を処分するために荷物を整理していたのだが、天井裏から、若い頃に書いた小説原稿がいくつか出てきた。(↓)

 

 

 その中に『鐸の音(ね)流るる丘に』という100枚の作品があった。

 これは第6回小説新潮新人賞に応募した作品で、原稿と一緒に応募する際の「梗概」も添えられていた。ここにそっくりそのまま抜き出してみる。

 

//

 縄文時代末期、西日本のある場所に、タクの村という不思議な村があった。その村の丘の上には、「タク」と呼ばれる奇妙な生命体が鎮座しており、精神波のようなもので村人たちに語りかけたり、気ままに音楽を奏でたりしていた。

 このタクの音に呼び寄せられ、世界中から集まって来た人々は、他の部族よりもはるかに長生きで、頭もよかった。

 しかし、大陸から進入してきた「利口の民」(天孫族)が、列島の武力統一を図り、次第に勢力を東に伸ばすのに追われ、タクの村人たちは、タクと共に東ヘ逃れた。

 タクの村の隣に住むクズ族の少年コロタは、タクの村人の一人タイジとクズ族の女の間に生まれた混血児である。コロタはタクの村人たちが去った後、クズ族をまとめ、「タクの教え」を説くための旅に出る。やがて、コロタの布教に応えて、タクの姿に似せた銅鐸を祀る村が増えたが、平和主義のそれらの村は、利口の民の騎馬軍団の前に、いとも簡単に攻め落とされた。コロタは失意のまま故郷に戻った。

 利口の民が、ついにコロタの故郷にも攻めて来た。対決するコロタ。そこに、百年前、姿を消したタクが戻って来た――。

 //

 

 内容をすっかり忘れていたが、読み返してみるとなかなか面白かった。

 小説の最後、長老となったコロタに村人が問いかけるシーンがある。

 

//

「タクは一体おらたちに何を伝えたかったんじゃろか?」

 コロタは、またしばらく考えてから、こう答えた。

「海の心かなァ」

「海の心?」

「んじゃ。海は大地の偉大な濾過装置じゃ。河がどんなに汚れても、海は何も言わずその流れを受け止めて、清めて、また雨に戻してくれるべ。わしらの心の中にも、そんな海みたいな濾過装置が必要なんじゃ。利口の民のように、すべてを支配したいという欲を、どこかで受け止めて鎮め、濾過する『心の海』じゃな。そういうもんがなければ、わしらはいつかこの世界から孤立して、濁った水たまりみたいになっちまうんじゃねえがなあ」

「そして、誰も海を支配することはできんっちゅうことでっしゃろか?」

 コロタはその質問を頭の中で反芻していたが、答えられなかった。

 利口の民の巨大な槍は、いつか偉大なる海をも殺してしまうかもしれない。そんな気がしていた。

 //

 

 この小説を書いたのは1988年。およそ4半世紀前。私はまだ30代前半だった。

 自分が将来、阿武隈の地へ移住することも、そこで原発人災に巻き込まれることも予想できなかった30代の私だが、縄文文化への共感や、東北の地で死ぬことへの予感のようなものを抱いていたらしいことが分かる。

 事実は小説よりも奇なりとはよく言ったもので、私は今、この手の小説を書く気になれない。目の前の現実のほうが、フィクションよりもはるかにとんでもないことになっているからだ。「利口の民」──支配者層の「巨大な槍」は暴走をやめない。偉大なる海をも殺そうとしている。それがいかに無益で虚しいことか、誰もが心の奥では理解しているだろうに。

 

 自分が今生きている現実という生の物語には、どんな結末が待っているのだろうか。

 

 

 

 


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最終更新日 : 2016-09-26 22:21:51

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登場人物の紹介

阿武隈梁山泊人物録

 

 本書のタイトルは「阿武隈梁山泊外伝」としたが、梁山泊というからには、そう呼ぶにふさわしい人物が集まらなくてはならない。

 話を分かりやすくするために、ここで、私が阿武隈で出会ったアウトロー、いや、英傑と呼ぶべき人たちを紹介していこうと思う。

 小説を書くのと違って、実在の人たち、しかもまだ生きている人たちを紹介するのだから、いろいろ悩むところがある。昨今は個人情報の保護云々というのがうるさいし。

 しかし、3・11以後、「フクシマ」の問題はプライベートな問題を超えてこの国全体の将来を考える上で避けて通れない課題になっている。私を含めて、「フクシマ」を目の前で体験した人たちの生の記録という意味あいを重視しながら、この梁山泊人物録を記してみたい。

 本名の場合は、なんとなくふわっと記したいので仮名表記にした。みな実在の人物だが、物語の登場人物のような感じでとらえていただければ、と思う。

 

※なお、私は福島第一原発から大量の放射性物質が拡散した事件を「事故」と呼ぶことに抵抗がある。そのため、ここから先、今私たちが直面しているひどい結果も、それを引き起こした要因も全部含めて「フクシマ」と表現していく。これは場所としての福島のことではない。

 

οでとさん夫妻

 彼らは私たち夫婦より少し前に、前回登場の不動産屋のF氏の仲介で川内村の土地を2か所購入し、すでに家を建て始めていた。

 夫はほとんど笑顔を見せない。故・大島渚監督のような感じ。本人は笑っているつもりでも表情がこわばったままなので、それが分かるまで、こちらもちょっと緊張したものだ。

 行政批判や辛口の人物評が炸裂を始めると止まらない。これは後にみんなから「でと節」と呼ばれるようになった。

 妻のまさこさんはそんな夫のことを「でとさん」と呼ぶ。私は彼女のことを夫の「でとさん」と区別するため、名前を一字つけて「でとま」と呼んでいる。

 でとまは精力的な女性で、無農薬・有機農業やパン作りなどを通じて、土と水に根ざした持続可能な地域社会、地域経済の構築といったテーマに取り組んでいた。半分放棄された山の中の田んぼを借りて「もえの里」と名付け、都会の人たちなども呼んで無農薬農業体験の場を作ったりもしていた。

 私は川内村で暮らし始めてから、カエルに興味を持ち、写真を撮り、生態を観察し続けていたが、でとまが中心になって企画した「げえる探検隊」と名づけられたカエルの観察会では講師役を務めた。

  ▲「げえる探検隊」での子供たち(2009/06/08)

 

 

οこづかさん夫妻

 こづかさん夫妻も、でとさん夫妻と相前後して川内村に引っ越してきた。

 しかし、こづかさんの場合は不動産屋のF氏とは関係なく、自分で何年もかけて村の中をくまなく土地探しをして、ここだ! という理想の場所を見つけ、時間をかけて地主と交渉し、農地も所有するために農業者としての登録もして……と、苦労を重ねて田舎暮らしをスタートさせていた。

 こづかさんはかつて住宅・都市整備公団の管理職だった55歳のときに関連会社に天下り。そのまま65歳までいられたのを5年残して退職し、農業に転身する余生を選んだ。あと5年いれば手に入った数千万円を捨て、退職金を注ぎ込んで山ひとつと農地を買い、家を建てて田舎暮らしを始めたことで、周囲からは「あいつは何か悪いことでもやって逃げたのか」と噂されたそうだ。

 こづかさんとでとさんは行動を共にすることが多く、一緒に「きのこ里山の会」という、土と水との共生をテーマにした活動も始めていた。

 

  ▲毎日新聞社の取材を受けるこづかさん夫妻(2011/04/28) 

 

 

οマサイ・ボケ夫妻

 川内村でいちばん人が集まるイベントに「満月祭」というのがある。これは日本全国どころか、世界中からヒッピー然とした人たちが集まり、8月の満月の晩を中心に、数日間、歌ったり踊ったり太鼓を叩いたりといったお祭りを楽しむというもの。日本版のウッドストックみたいなものといえば分かりやすいだろうか。3・11前のピーク時には、延べ2000人くらいが集まってきていた。

 この満月祭の会場となっているのが「獏原人村」で、川内村の外れ、通称「獏林道」と呼ばれる、地図にも載っていない作業道を数キロ入っていった果てにある。

 獏原人村には今でも電気が来ていない。ケータイも圏外。かつては今の獏林道もなかったから、ここにたどり着くには山の中の道なき道を分け入っていくしかなかった。だから、70年代終わりに都会から流れてきたヒッピーたちがそこに住み着いてコミューンを作ったときも、地主でさえ1年以上気がつかなかったという。

 当初は何人もの若者が半裸で暮らしていたそうだが、やがて一人抜け二人抜けして、最後はリーダー格だったマサイさんと妻のボケさん夫妻だけが残っていた。二人にはお子さんもいるが、みんな大人になって原人村は離れている。

 電気の来ない土地だから、どうしても電気が必要なときは自家発電。水は山から沢水をパイプを通して引いている。自家消費の農産物を作る以外は、鶏500羽を地飼いしてその卵を1個40円で売って現金収入を得る、という生活。

 マサイ&ボケ夫妻は川内村の住民でありながら、川内村の外でのほうが有名だった。テレビのバラエティ番組に「原人ビンボーさん」として登場したこともある。

「人間は自由なんだ。誰にも支配されたりしない」がマサイさんの口癖。

 過激な人というわけではなく、普段はものすごくおっとりしていて、見知らぬ人がふらっと訪ねていってもニコニコ受け入れ、時間があるときは一緒にお茶飲み話をする。

 私たちが初めて訪ねていったときもそうだった。

「あら、ど~も~」と、まるで旧知の友人であるかのように出迎えてくれた。

「まあ、理想郷を求めてここに来たわけだけど、『理想』って言っちゃった時点でもう何かしら自分の中で決められた形やルールを作っているわけだよね。それは俺の理想とは違うわけ」

「草むらに、人が歩きやすいように石を置いて、ここを歩きなさいって道を造るとするでしょ。それはもう自由な生き方じゃないわけよ。何にも決められてないのに、そこを通りたい人がいて、勝手に歩いているうちに自然に道ができる、というほうがいいわけ」

 そんな「名言」の数々を、説教臭さゼロで、さらっと自然体で言ってのける。

 

  ▲満月祭(2008/08/14)

 

  ▲満月祭でのマサイさん(2008/08/14)

 

ο大工の愛ちゃんと夫のしょうかんさん

 その獏原人村に、2000年、一人の若い女性が自転車に乗ってやってきた。

 愛という名前のその女性は岡山の出身。阪神淡路大震災のときのボランティア体験で人生観がちょっと変わり、その後、岡山市の社会教育課の資金援助を得てネパールに渡り、教育環境視察。それが終了してからもインド旅行。帰国後はお遍路さん、さらには福島県の川俣町にある「やまなみ農場」というところで農業体験などなどを経て、この獏原人村の話を聞いてやってきたのだった。

 愛ちゃんは原人村の自然に魅了されて、「ここに住みたい!」と思った。

 マサイさんに許可をもらって、自力で3畳大の掘っ立て小屋を作り、犬(すぐ人を噛む)と一緒に電気もガスも水道もない生活を始めた。そのうち、村の大工・よりみち棟梁に弟子入りして大工修行に入る。

 これが後に川内村でマサイさんと並んで超有名人になる「大工の愛ちゃん」だ。

 

▲獏原人村で自宅の構造材用に木を伐る大工の愛ちゃん(2008/06/13)

 

 その愛ちゃんと、とある建築関連の研修会で出会って結婚してしまうのが、横浜に事務所を構えていた一級建築士の大塚しょうかんさん。

 私はでとさん夫妻のできあがったばかりの家でしょうかんさんと知り合い、我が家に離れを造ってもらうことになった。

 大塚夫妻の間には男の子と女の子が生まれ、原人村に自分たちで家を新築して生活をしていた。

 私たちは川内村の中ではほとんど隠遁生活で、普段ほとんど人に会わない生活をしていたが、その中でいちばん頻繁に会っていたのは大塚一家だったかもしれない。

 

  ▲大塚家の稲刈り 左端がしょうかんさん。前列右端がよりみち棟梁夫妻(2008/10/26)

 

ο関守夫妻

「せきもり」というのは私が勝手に付けた呼び名。

 夫のまもるさんはかつて獏原人村に住んでいた時期がある。その後、獏林道の入り口にあたる土地を購入して獏工房という木工アート家具の工房を構えた。

 私たちが知り合ったときはすでに上の二人のお子さんは独立し、妻のじゅんこさん、まだ中学生の次男の3人で暮らしていた。

 飾らない性格で、訥々と喋る人柄にいつもほっとさせられる。獏原人村の入り口、関所のようなところに住んでいるので「関守だね」と私が言ったときも「好きに呼んでくれ」と答えただけ。実際には本人がいないところでは(彼のほうが年上なのだが)親しみを込めて「まもちゃん」と呼んでいる。

 

  ▲獏工房で家具を製作中の関守(2008/06/26)

 

 

οみれっとファームのよーすけ・けーこさん夫妻

 獏工房は川内村といわき市を結ぶ国道399号線沿いにあるが、そのくねくねと曲がった国道らしからぬ道を少し南下したところ、いわき市小川町戸渡(とわだ)というところに、無添加、砂糖不使用のお菓子やパンを作っているみれっとファームがある。

 店主のよーすけさんは私と同い年で同じAB型。口数が少なく、笑わない人だが、別に怖い人ではないし人付き合いが悪いわけでもない。各地のマラソンレースに年何回も参加し続けるストイックな面も持っている。

 妻のけーこさんは廃校になった戸渡分校を地域の文化交流の場にしたいと、精力的に活動していた。そのへん、でとまに似ている。

 

οブッチ夫妻

 ブッチ夫妻も原人村の人たちとはつきあいが深い。

 ブッチさんといえば家の美しさに触れないわけにはいかない。彼に限らず、原人村ゆかりの人たちはみな、自分の家は自分で建てるのがあたりまえで、マサイさんも関守もよーすけさんも自分の手で立派な家を造っていたが、ブッチさんの家は別格だった。プロの大工も舌を巻くほどの出来映えで、壁を曲面に処理するなんてことも普通にやっていた。家を造るのは彼の趣味で、納屋には電動鋸だけでも数台ずらっと並んでいたりした。「一生かけて造るから、終わりがない」とのこと。私も越後時代には自分で電動鋸や玄翁を使ってリフォームに精を出していたから、その気持ちはよく分かる。

 妻のりくさんは陶芸をやっていて、自宅の庭に「ことりこ工房」という窯を構えていた。

 

  ▲満月祭で店を出して作品を売っているりくさん(2008/08/14)

 

οスーパーマン

 彼も原人村の出身で、関守の獏工房から少し離れた山の中で完全な隠遁生活をしていた。

 別棟に立派なオーディオルームがあり、一度その音を聞かせてもらいにお邪魔したことがある。口数が少なく、一見取っつきにくい印象だが、怖い人というわけではない。

 これまた彼に限らず、原人村ゆかりの男たちはみんな音楽好きで、自分で建てた家にすごいオーディオセットを持っていて、ギターを弾いて歌うのはごく普通のことのようだった。

 

οDaGOさん夫妻

 DaGOさんは川内村の西隣に位置する田村市の山奥に引っ越して来て住んでいた。カリンバという民族楽器を製作・演奏していて、一緒に即興セッションをしたこともある。

 原人村とは直接関係はないのだが、生活ぶりはマサイさん以上に原人っぽくて、井戸を掘っても電気で汲み上げるのは嫌だと、わざわざ手でギコギコ動かすポンプをつけていた。

 お子さんが生まれたときも自宅出産。その様子をテレビが取材に来て番組を作ったりもしていた。

 自宅出産といえば、愛ちゃんも二人目は原人村の自宅で出産した。「昔はみんなこうだったんだから、なんてことないわよ」ということらしい。

 

  ▲カリンバを演奏するDaGOさん(左)と筆者(2008/09/07) 

 

οニシマキさんとミホさん

 ニシマキさんは「自然山通信」というトライアルバイク専門誌の編集者兼ライター兼カメラマン。私たちより少し遅れて川内村にやってきた。村の牧草地を使ってバイクのイベントをやったことがきっかけだったようだ。そのまま川内村が気に入って住み着いた。

 最初は廃校になった旧第三小学校を借りて一人で住んでいたのだが、そのうち空いていた古い教員用住宅を借りて、ミホさんという女性と一緒に暮らすようになった。バツイチ同士という話だが、同棲するようになったいきさつについてはよく知らない。もしかしたらすでに結婚しているのかもしれないが、確かめたこともない。

 軽い筆致、美しい写真、フットワークのよい取材能力。学ぶべき点がたくさんある。

 

  ▲愛兎と戯れるニシマキさん(2011/04/28)

 

 ……と、ここまでは全員移住者。

 マサイさんやまもちゃんたちは移住者と言っても阿武隈に来てから40年近く住んでいるわけで、私たちやでとさん、こづかさんなどの新しい移住者とは年季が違うのだが、村では何十年住み続けようが「外から来た人」という認識は厳然とある。

 次に、地元の人たちも何人か紹介しておきたい。

 

οよりみち棟梁一家

 愛ちゃんの大工の師匠であるよりみちさんの家族とも交流があった。棟梁は口数が少なく、静かな人。妻のきくこさんは面倒見がいい肝っ玉母さんタイプ。川内村のよさを体現しているような一家だった。

 

οこーちょーとりほこ先生

 第二原発(通称2F=ニエフ)のある富岡町に家があったが、川内村の第三小学校の校長をしていた時期があったので、私は「こーちょー」と呼んでいる。

 定年の日を指折り数えながら心待ちにしていて、私たちが知り合ったときは、川内村の毛戸(もうど)という高原地域に建てた立派な別荘で木工や音楽三昧の余生を送り始めていた。

 遊木館(ゆうぼくかん)と名づけられたその別荘では、子供たちを集めて、同じく教師だった妻のりほこ先生と一緒に自然教室を開催したり、地元のバンド仲間を集めてコンサートをやったり、理想的な老後生活を満喫していた。

 サックス吹きで、基本はブラスバンドなど、譜面のある演奏だったが、私の影響でジャズのアドリブに目覚めたようだった。

 

  ▲遊木館の前に演奏会用のステージを建設中のこーちょー(2006/08/25)

 

 

οしげるさん

 村の中では「しげるさん」と呼ばれていたが、うちではもっぱら「小松屋さん」と呼んでいた。川内村の中心部で小松屋という旅館を経営していて、村会議員、商工会長、観光協会会長などを務めていた。

 

οよしたかさん

 川内村では珍しく専業農家(ほとんどの農家は兼業)。有機農業にこだわり続け、うまい米を作るための土作りを特に重視していた。2007年には、福島県を代表して天皇家に米を献上する「献上米」農家にも指名された、言わば村の名士。

 2011年、第一原発から30キロ圏だということで川内村のすべての水田が作付け禁止になったとき、よしたかさんは「一斉に田んぼを放棄したらデータもとれない。俺は自分の田んぼ一枚だけ作付けし、自分で残留放射能の検査をしてもらう」と言って、県や村からの再三の説得をはねつけて作付けを決行した。これは新聞やテレビでも報道されたので一躍有名になった。私たちは「復活の米」と呼んで応援していたが、結局、最後は自らの検査も禁じられ、収穫した米は全部田んぼに廃棄させられた。(この事件は後に詳しく書く)

 

  ▲天皇家への献上米を植える「お田植え祭」でのよしたかさん(2007/05/27) 

 

 

ο村長

 実は、村に来て最初に知己を得たのは村長だった。

 家の前の雑木林を皆伐するという事件が起きて、すぐに村長に相談のメールを出した。

 村長とその後初めて生で会ったのは、伐採が回避できた後、我が家を訪ねてきたときだったが、そのとき私は村長に二つ質問をしたのを覚えている。

 一つは水の問題。川内村は水道がない村で、住民は井戸か沢水を自前、自己責任で使っているが、村による水質検査などは定期的に行っているのか、という質問。

 もう一つは、原発が至近距離にあるが、村にはガイガーカウンターなどが備え付けてあるのか、万が一のときの放射能漏れ検出体制はあるのか、という質問。

 確か、水に関しては毎年定点調査しているということだった。ガイガーカウンターについても、据え付け型の定点モニタリングポストがあるというので、それならまあ大丈夫でしょうね、というように答えた記憶がある。

 しかし、これが甘かったということは7年後に分かる。

 

  ▲村長(右)としげるさん(2011/05/10 小松屋にて)


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最終更新日 : 2016-09-26 22:22:10


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