3 阿武隈での生活が始まる
テロリストと呼ばれて
●テロリストと呼ばれて
カエルをはじめ、野良猫や野生のテンなどと毎日顔を合わせながら2007年が過ぎていった。
2008年、ようやくNTTの光回線が村にやってきた。これでいちいち川崎の仕事場に戻らなくても仕事ができるようになった。
また、この年から、お隣の家で飼われていた犬のジョンと毎日散歩をするようになった。
ジョンはお隣のご主人・けんちゃんが友人から押しつけられて飼うようになったのだが、子犬のときから散歩をさせてもらえず、つながれっぱなしだった。散歩させてもらえていないのに気づいて、お散歩係を申し出た。田舎暮らしは車での移動ばかりで運動不足になるので、ちょうどよかった。
ジョンはおばかで、誰にでも尻尾を振って飛びつく。最初に散歩に連れ出したときは狂喜乱舞でグイグイ引っ張り、手に負えなかった。いくら躾けようとしてももう時機を逸しているようで、散歩は毎回大変だった。1年かけてなんとか「止まれ」と「待て」だけは教え込んだが、もういいかなと思ってリードを外した途端、ぴゅ~~っと風のようにすっ飛んでいき、帰ってこない。そのまま数日行方不明なんてこともよくあった。
丈夫なのが取り柄で、真冬、零下10度以下の吹きさらしの戸外で、背中に雪を積もらせたまま寝ていたりする。
▲お隣のジョンと散歩するようになった(2009/02/12)
ジョンを連れて散歩するようになってからは、近所の人たちと顔を合わせることも増えた。
狭い村のこと、この頃には「四区にたくきという変な男がいる」という噂はずいぶん広まっていたようだ。
役場の中では評判は真っ二つに分かれていたそうだ。すばらしい人物が村に来たと喜んでいる職員もいれば、「危険人物」として警戒している職員もいるという。
散歩しているときに挨拶を交わしているうちに、笑顔で立ち話できる人たちが徐々に増えていったが、中には挨拶しても無視する人もいた。
村には村長を含めて数十名が参加しているメーリングリストがあった。当初はまだ高速回線が来ていなくて、ISDNでさえ回線が足りずに加入できない家もあったから、インターネットを通じてのコミュニケーションは文字だけのやりとりが中心だった。それでもこのメーリングリストのおかげで、越後時代とは比較にならないほど多くの人たちと短期間で知り合うことができた。
私は書くことが仕事なので、そのメーリングリストの中でもかなり頻繁に長文を書き込んでいたが、ある日、話題が原発のことになっていって、私が原発の問題点……というよりは、日本のエネルギー政策の問題点について少し書き始めたところ、メーリングリストのシスオペ(システムオペレーター=まとめ役)をしていた人が突然「この話題はここまで」と止めに入った。
その人は同年代で、私たちよりずっと前にこの村に移住してきたいわば「先輩」だったが、その件でわだかまりが残ることを恐れたのか、一家全員でうちまで遊びに来た。
一緒にお茶を飲みながら雑談した中で、「あれはたくきさんには申し訳なかったけれど、原発で働いている人もメンバーにいるわけだから……」とシスオペ氏は言った。彼の奥さんはその隣で笑いながら「たくきさんはテロリストだから」とも言った。もちろん冗談で言ったのだが、原発や環境問題の核心を語るだけでこの村では「テロリスト」にされるのだろうかと、内心相当驚いた。
村での生活が長くなるにつれ、ここに住む人たちの精神性や意識の違いについても、徐々に分かってきた。
村には同じ名字がやたらと多い。猪狩、遠藤、佐藤、三瓶……名字で読んでも誰だか特定できないから下の名前で呼ぶ。それだけ血縁が濃いのだ。
村には「さわや」と「わたや」という2軒の商店があり、さわやはガソリンスタンドや雑貨店を、わたやは金物とプロパンなどを扱っていた。これがロミオとジュリエットよろしく、村を二分する派閥を形成していて、村長選挙ではいつもさわや派とわたや派の一騎打ちになっていたという。
現村長(私と同い年)はわたやの惣領で、その前はさわや、その前はわたやの先代が村長だった。
さわや時代にはゴルフ場建設を中心に据えたリゾート開発計画が、その前の先代わたや時代には産業廃棄物処分場建設計画が持ち込まれ、いずれも誘致派と反対派で村を二分する騒動になった。このときは親戚同士がいがみ合って絶交宣言したり、誘致派の人物が監督をしている少年野球チームで反対派のリーダー格の息子が監督からいじめにあったり、村民の心に大きな傷跡を残したという。
私たちはそんなことを知る前に村でいちばん目立つガソリンスタンドにプロパンガスの契約を頼んでいたが、それがまさにさわやさんで、後日若奥さんに「さわやvsわたや」の話をふったら、笑いながら「そうなんですよ。私らは今は冬の時代を耐えてます」と言っていた。
原人村関係の移住者たちは産廃のときもゴルフ場のときも反対して、東京の本社まで抗議をしにいったらしい。
結局、産廃もゴルフ場もできなかったが、それは反対運動のためというわけではない。ゴルフ場に関しては、単純にバブルがはじけて撤退しただけの話だ。
不動産屋のF氏はゴルフ場中心のリゾート開発計画を進めた大手企業の先兵隊長として村に乗り込んできていたので、獏工房の関守のことなどは「あいつは挨拶のときに持っていった菓子折を後で突っ返してきた」と言って苦い顔をしていた。後日、その話を関守にしたら、「ああ、そんなこともあったかな」と苦笑していた。
F氏はそのときに村の誘致派有力者たちとのパイプを作っていて、火災保険などは頼みもしないのに誘致派だったさわや派の保険屋さんに電話をして話をつけていた。
村のそうしたどろどろした歴史については、F氏がうちに寄るたびにちょっとずつ話してくれたり、ジョンの散歩の途中で立ち話をするようになった近所の人たちから聞いたり、仲よくなった先輩移住者たちからも聞いて少しずつ知るようになった。
でもまあ、田舎にはよくある話だし、知れば知るほどその手のことには深入りしたくないという気持ちが強くなっていった。
我が家にいちばん近い田んぼの所有者はしまおさん(仮名=拙著『裸のフクシマ』にも登場)だが、彼はゴルフ場誘致のときに山の上にある自分の土地を売り損ねたことを悔しがっていた。
「反対していた連中は筵(むしろ)旗持って東京まで抗議に行くんだから普通じゃねえ」と。
しかし私も正直なので、「でも、今になって考えてみれば、ゴルフ場なんてできなくてよかったと思いませんか?」と言ったら、数秒考えた後、ため息をつくように「まあ、そうだな」と答えた。「だけど、どうせなら土地が売れてからつぶれてくれればよかった」とも言っていた。
ゴルフ場なんかないほうがいいが、二束三文の土地が高く売れるならゴルフ場だろうが何だろうができたってかまわない……これは、しまおさんだけでなく、村に代々住む人たちの代表的な思考構造のようだ。
F氏の話では、ゴルフ場計画のとき、会社はすでに高額で村有地を買い取っていて、計画がつぶれた後、村はその土地を安く買い戻したから、村は何もしないで儲かったのだという。
どこまで本当かいまひとつ分からないが、要するに山を売ることで大金が入るという話は田舎にはつきものなのだ。
うちの周辺の山は荒れた松林、杉林になっているが、ある日、ジョンとの散歩の途中で立ち話をした近所に住む90歳近いおばあさんが自嘲的な笑みを浮かべながら言った。
「その山もあの山も昔はブナ林だったんだよ。でも、みんな食っちまった」
つまり、ブナの原生林を皆伐し、松林、杉林にすることで金に替えてしまったというのだ。
日本中から雑木林があっという間に消えたのは、ほんのここ数十年のことだったのだということを改めて教えられた。
▲道路拡張計画で美しかった雑木林や川がこんな姿になった(2010/09/26)
村と東京電力との関係
●村と東京電力との関係
その荒れた松林、杉林には、高圧電線を通す鉄塔が何本も立っている。
そこだけでなく、川内村には大小たくさんの高圧線鉄塔が建っている。いちばん大きなものは東京電力のもので、これを通して原発から首都圏に送電している。
「目障りなもの」をたくさん建てる見返りとして、東電は村にいろいろな贈り物をした。我が家の進入路は広くてまっすぐな県道につながっているが、その広い道も東京電力が作ったという。我が家のテレビは村の中心部から長いアンテナケーブルを引っ張ってきただけの簡易ケーブルテレビだが、これも東電が提供したもので、利用料金は無料だ。
村のお祭りやさまざまなイベントが行われる際にも、東電はいろいろな形でご祝儀を出す。
村には専業農家は極めて少ない。ほとんどが兼業農家だが、一家の主は海側(村の人たちは「浜」と呼ぶ)の富岡町や楢葉町、双葉町、大熊町に勤めに出ていることが多く、なんだかんだで東電、つまり原発関連の仕事をしている。
「フクシマ」以降、原発で働く労働者たちの多重下請け構造や過酷な労働環境が表面化したが、原発に送り込む下請け作業員を集める仕事は「人夫出し」と呼ばれ、昔からこのへんでは有力な「地場産業」のひとつになっている。土建業や地方議員など地元の有力者が人夫出しに関わっていることが多い。
いわゆる原発マネーは原発がある大熊町、双葉町、富岡町、楢葉町に集中し、それに隣接する川内村や浪江町は原発立地4町のおこぼれにあずかるような形になる。だから、浜の人たちは川内村から働きに来る人に「店もないし、あんな寒いところによく住めるね」と小馬鹿にし、川内村の人たちも浜の人たちを羨ましがるという精神構造ができあがっていたようだ。
川内村は東京電力ではなく東北電力管内だから、我が家も電気は東北電力と契約したわけだが、ある月、銀行口座に「ゲンシリョクキュウフキン」という名目で東北電力から6300円の振り込みがあるのを見つけて驚いた。
これはなんだろう? 原子力給付金? 村に原発があるわけでもないのに? しかも原発を持っている東京電力ではなくて東北電力から?
通帳には「ゲンシリョクキュウフキン」と記されていたが、正確には「原子力立地給付金」といって「原子力関連施設の立地自治体やその周辺自治体の住民や企業の電気料金を事実上割り引く趣旨で、銀行振り込みや郵便為替で直接現金を支給する。家庭向けの対象は103万件で、金額は原発の発電能力などで決まる。2011年度実績では契約1件あたり年間3万6000~2172円が支払われた」(2013年1月3日朝日新聞の記事より)というものらしい。契約者の所在地が原子力関連施設からどのくらい離れているかとか、そこでどのくらいの電気料金を支払っているかで金額に差が出るようだ。
村に住民票もまだ移していない私たちのような家庭にも、こうした形で確実に「原発からの贈り物」は届くわけだ。
しかし、原発関連の仕事が発生することと原発の存在の是非とは別のことだ。
ある日、メーリングリストで知り合ったたつるさん(仮名)という同い年の男性の家に遊びに行った。モリアオガエルが毎年産卵する池があるというので見せてもらうためだ。
池をはじめ鶏小屋や畑など、自宅敷地内を一通りていねいに案内してもらった後、家に招き入れられ、お茶をごちそうになった。
そのとき、話の流れで「たつるさん、お仕事は何をしているんですか?」と訊いた途端、彼の表情がこわばった。
「し、仕事は……原発関係ですよ」
つっけんどんにそう答えた。彼はすでに私がメーリングリスト内で原発の存在そのものを否定する発言をしていることを知っていた。
「そうですか。じゃあしっかりお仕事していただかないと。事故でも起きた日には日本がおしまいになりかねませんからね。頑張ってくださいね」
私は笑顔でそう応じた。
帰り際、たつるさんは「あ、ちょっと待ってて」と言って鶏小屋に行き、産みたての卵をお土産に持たせてくれた。
数日後、家の周りを動き回っている人影に気づいた。たつるさんだった。
「あれ? たつるさん。こんにちは。来てくれたんですか?」
呼びかけられて彼は一瞬ぎょっとしたような顔をしたが、そのまま、今度は私が自宅敷地内を案内した。
「ここの沢から水を分岐させて、池を造ろうかと思っているんですよ。モリアオガエルが産卵しやすいように」
「ここなら絶対来ますよ。頑張って造ってください」
たつるさんはお茶も飲まずにそそくさと帰っていったが、私は彼との交友関係はこれでちゃんと築けたのではないかと感じた。
もっとも、その後、彼と会うことはなかった。
イモリの代弁者になる
●イモリの代弁者になる
2008年にNTTの光高速回線が開通してからは、仕事上での不便もほぼなくなり、1年のほとんどを川内村で過ごすようになった。
川崎市の仕事場はほとんど倉庫兼録音スタジオ兼東京で仕事があったときの宿泊場所のようになっていた。
生活の主体が完全に川内村になった以上、住民票も移して、ネット商売の拠点・住所も変更しなければならないだろう。しかし、その準備が大変だった。
私はこれを機に、川内村の家を所在地にした株式会社を設立しようと考えていた。
すでにabukuma.biz、abukuma.in、abukuma.us といったドメインを取得していたので、それを使って、近隣の個人商店などをWEB上で紹介するポータルサイトのようなものも作り始めていた。もちろん無料でだ。ネットを利用することは地域ビジネスを育てるためには必須だが、それを教えている時間はない。勝手に受け皿を作っておこうという考えからだった。
会社の名前も考えていた。株式会社タヌパックが有力だったが、あぶくまという名称を使うことも捨てがたい。会社設立のためには何が必要で、どういう順番で準備をしていけばいいのか……。しかし、仕事が立て込んでくると手が回らず、準備はなかなか進まなかった。
一方、川内村でべったり生活するようになってからは、ある種のストレスが急速に増えていった。
それは「目の前で自然が壊されていくことを見続けなければならない」ストレスだ。
引っ越したときに感動した光景がどんどん壊されていく。しかも、明解な理由もなく、単に壊すことが目的であるかのような破壊。
例えば、我が家への進入路の先は山奥に続く林道に接続されているが、その林道を数年かけて最後まで拡幅・舗装する工事が始まった。
県道から続くその林道の脇にも先にも人家はない。ぐるっと一周する形でまた県道に戻るルートがあるが、反対側の道はすでに舗装されている。その反対側の道の先には数軒の家があるが、その人たちは当然そっちの道を使う。山を越えて行くにしても、そっちの舗装された広い道を上ればいいだけのことなので、狭くてくねくねしているこっち側の林道にわざわざ入って来る人はいないのだ。
ジョンと散歩をしていても、車や人とすれ違うことはまずない。狩猟シーズンになってハンターたちが入ってきたり、森林の保守点検のために営林署のジープがたまに入ってくることがある程度だ。そんな道を舗装してどうするのだろうか。
村役場の職員が工事の挨拶に来たときに訊いた。
「あんな道をなぜ大金を使って舗装するんですか?」
「近隣の村民のみなさんの要望にお応えする形で……」
「だって近隣の住民って、うちと奥のきよこさんちくらいしかいないじゃないですか。きよこさんだって、なんでそんなことするんだ? って言っていましたよ」
「いや、未舗装のままだとしょっちゅう路肩が崩れるので、その度に補修工事するより舗装してしまったほうが長い目で見れば安上がりなんです」
まあ、そう言われたら仕方がない。それ以上は突っ込まなかった。
しかし、工事車両が出入りするようになってからは砂煙が巻き起こり、ジョンとの散歩も快適ではなくなった。
工事の人たちが平気でゴミを捨てるのにも閉口した。
いちばんがっくりきたのは、第一期工事で舗装が完成した入り口部分で、縁石に沿ってイモリの子の死骸が累々と続いているのを見たときだ。
舗装された道の両側は10センチほどの縁石が築かれ、途中、水を逃がす切れ目なども入れずに何十メートルも続いている。変態したばかりのアカハライモリの子がその道に落ちると、わずか10センチの壁であっても登れず、そこで干上がってしまうのだ。
両側が縁石だから、大雨が降ると道全体が滑り台のようになって山の上から雨水がまとまって流れ落ちてくる。その雨水が運んできた土砂でお隣の庭は泥だらけになり、山肌はさらに崩れた。
あまりに馬鹿げているので、工事が再開されたとき、現場監督に訊いた。
「この先、山の上までずっと舗装するんですよね? 両側に縁石を造るんですか? そうするとイモリの子が壁を登れなくて大量死するんですよ」
現場監督は少し考えてから答えた。
「いえ、大丈夫です。縁石は片側だけになりますんで」
縁石に工夫をしないと変態した直後のイモリが死んでしまうという件は、知り合いの村議会議員にも話した。縁石に何メートルかおきに切れ目を入れるとか、小動物が這い上がれるスロープのついたブロックを混ぜるとか、なんとかできないものでしょうかね、と。
「イモリの代弁をするような人間は僕くらいでしょうから、お願いしますよ」
と言うと、彼は「確かにそんな人はたくきさんしかいない」と大笑いしていたが、結局、工事が進むと、道の両側にはしっかり縁石が築かれていた。
道の拡幅で削られた山の斜面には、外国種の草の種が吹き付けられる。生育が早く、すぐに根を張って斜面の土留めの役割を果たすということになっているが、生育が早い外国種の草を植えつけて山の植生が変わってしまうことには無頓着なようだ。
アカガエルが産卵していた小さな水たまりも工事が終わるとコンクリートで固められ、消えていた。
沢の出口にはパイプがつなげられて、舗装路の下を潜らせて谷に通す。その谷の沢筋もコンクリートで水路が造られて風景が一変した。
しばらくすると、舗装された道路の脇の林では、松や杉が大量に倒れていた。あまりに数が多いので伐採したのかと思ったがそうではなかった。幹の途中からバキッと折れている。斜面を削って風がもろに当たるようになったために倒れたのだそうだ。そうした倒木が電線を切る事故のせいで停電も増えた。
「ふるさと林道整備事業」と名づけられたその工事で、結局得をしたのは誰だったのか。
ジョンとの散歩にスコップを持参し、変わってしまった林の中に入り、わずかに残っている湧き水や沢を見つけては、カエルが産卵しやすいような水たまりができるように細工したりもしてみた。
そんな虚しい努力を続けていたが、重機が入る工事で一気に風景が変貌するのを見続けていると、無力感しか残らない。
▲「ふるさと林道」が舗装された。ジョンと散歩していても誰一人ともすれ違うことはない(2009/09/28)
▲舗装された道の両端には隙間のない縁石が続き、イモリの子が壁を乗り越えられず何匹も死んでいった。(2009/09/28)
これは珍しいことでもなんでもなく、日本中の山村で起きていることだ。
私たち都会に住んでいた人間はそれを目にすることがなかっただけで、戦後ずっと、この国ではこうした「公共工事」が続いている。
その結果、高速道路ができて日本を縦貫する大動脈が完成するというようなことであれば、ああ、それは必要だったんだろうな、と思える。しかし、そうではない、誰のためにもなっていない、単に金を注ぎ込むことだけが目的のような工事がいっぱい行われている。
そうした理不尽さ、馬鹿馬鹿しさを目の前で見せられることが辛かった。
この村に初めて来たときに感激した県道脇の美しい風景も、道の拡幅工事が始まり、山が削られ、川がコンクリートや石で固められて一変してしまった。近所のひとり暮らしのまさときさんも「ああ、あそこはイワナやヤマメがいっぱいとれたが、これでもうダメになったな」と呟いた。前年に旦那さんに先立たれ、奥にひとりで住んでいるきよこばあさんも、小野町の病院に通うため、医療バスでそこを通るたびに風景が壊されていくことに腹を立てていた。
しかし、工事で壊されていく山の風景を嘆く人は少数派であり、多くの人たちは道が広くなって車が走りやすくなることを歓迎する。
近所の老人たちとはこういう話題を話せても、働き盛りの男たちの前で話すとたちまち警戒される。ただでさえ危険人物と見られているわけで、こちらからそういう話題をふることは控えるようになっていた。