2 阿武隈梁山泊人物録
登場人物の紹介
●阿武隈梁山泊人物録
本書のタイトルは「阿武隈梁山泊外伝」としたが、梁山泊というからには、そう呼ぶにふさわしい人物が集まらなくてはならない。
話を分かりやすくするために、ここで、私が阿武隈で出会ったアウトロー、いや、英傑と呼ぶべき人たちを紹介していこうと思う。
小説を書くのと違って、実在の人たち、しかもまだ生きている人たちを紹介するのだから、いろいろ悩むところがある。昨今は個人情報の保護云々というのがうるさいし。
しかし、3・11以後、「フクシマ」の問題はプライベートな問題を超えてこの国全体の将来を考える上で避けて通れない課題になっている。私を含めて、「フクシマ」を目の前で体験した人たちの生の記録という意味あいを重視しながら、この梁山泊人物録を記してみたい。
本名の場合は、なんとなくふわっと記したいので仮名表記にした。みな実在の人物だが、物語の登場人物のような感じでとらえていただければ、と思う。
※なお、私は福島第一原発から大量の放射性物質が拡散した事件を「事故」と呼ぶことに抵抗がある。そのため、ここから先、今私たちが直面しているひどい結果も、それを引き起こした要因も全部含めて「フクシマ」と表現していく。これは場所としての福島のことではない。
οでとさん夫妻
彼らは私たち夫婦より少し前に、前回登場の不動産屋のF氏の仲介で川内村の土地を2か所購入し、すでに家を建て始めていた。
夫はほとんど笑顔を見せない。故・大島渚監督のような感じ。本人は笑っているつもりでも表情がこわばったままなので、それが分かるまで、こちらもちょっと緊張したものだ。
行政批判や辛口の人物評が炸裂を始めると止まらない。これは後にみんなから「でと節」と呼ばれるようになった。
妻のまさこさんはそんな夫のことを「でとさん」と呼ぶ。私は彼女のことを夫の「でとさん」と区別するため、名前を一字つけて「でとま」と呼んでいる。
でとまは精力的な女性で、無農薬・有機農業やパン作りなどを通じて、土と水に根ざした持続可能な地域社会、地域経済の構築といったテーマに取り組んでいた。半分放棄された山の中の田んぼを借りて「もえの里」と名付け、都会の人たちなども呼んで無農薬農業体験の場を作ったりもしていた。
私は川内村で暮らし始めてから、カエルに興味を持ち、写真を撮り、生態を観察し続けていたが、でとまが中心になって企画した「げえる探検隊」と名づけられたカエルの観察会では講師役を務めた。
▲「げえる探検隊」での子供たち(2009/06/08)
οこづかさん夫妻
こづかさん夫妻も、でとさん夫妻と相前後して川内村に引っ越してきた。
しかし、こづかさんの場合は不動産屋のF氏とは関係なく、自分で何年もかけて村の中をくまなく土地探しをして、ここだ! という理想の場所を見つけ、時間をかけて地主と交渉し、農地も所有するために農業者としての登録もして……と、苦労を重ねて田舎暮らしをスタートさせていた。
こづかさんはかつて住宅・都市整備公団の管理職だった55歳のときに関連会社に天下り。そのまま65歳までいられたのを5年残して退職し、農業に転身する余生を選んだ。あと5年いれば手に入った数千万円を捨て、退職金を注ぎ込んで山ひとつと農地を買い、家を建てて田舎暮らしを始めたことで、周囲からは「あいつは何か悪いことでもやって逃げたのか」と噂されたそうだ。
こづかさんとでとさんは行動を共にすることが多く、一緒に「きのこ里山の会」という、土と水との共生をテーマにした活動も始めていた。
▲毎日新聞社の取材を受けるこづかさん夫妻(2011/04/28)
οマサイ・ボケ夫妻
川内村でいちばん人が集まるイベントに「満月祭」というのがある。これは日本全国どころか、世界中からヒッピー然とした人たちが集まり、8月の満月の晩を中心に、数日間、歌ったり踊ったり太鼓を叩いたりといったお祭りを楽しむというもの。日本版のウッドストックみたいなものといえば分かりやすいだろうか。3・11前のピーク時には、延べ2000人くらいが集まってきていた。
この満月祭の会場となっているのが「獏原人村」で、川内村の外れ、通称「獏林道」と呼ばれる、地図にも載っていない作業道を数キロ入っていった果てにある。
獏原人村には今でも電気が来ていない。ケータイも圏外。かつては今の獏林道もなかったから、ここにたどり着くには山の中の道なき道を分け入っていくしかなかった。だから、70年代終わりに都会から流れてきたヒッピーたちがそこに住み着いてコミューンを作ったときも、地主でさえ1年以上気がつかなかったという。
当初は何人もの若者が半裸で暮らしていたそうだが、やがて一人抜け二人抜けして、最後はリーダー格だったマサイさんと妻のボケさん夫妻だけが残っていた。二人にはお子さんもいるが、みんな大人になって原人村は離れている。
電気の来ない土地だから、どうしても電気が必要なときは自家発電。水は山から沢水をパイプを通して引いている。自家消費の農産物を作る以外は、鶏500羽を地飼いしてその卵を1個40円で売って現金収入を得る、という生活。
マサイ&ボケ夫妻は川内村の住民でありながら、川内村の外でのほうが有名だった。テレビのバラエティ番組に「原人ビンボーさん」として登場したこともある。
「人間は自由なんだ。誰にも支配されたりしない」がマサイさんの口癖。
過激な人というわけではなく、普段はものすごくおっとりしていて、見知らぬ人がふらっと訪ねていってもニコニコ受け入れ、時間があるときは一緒にお茶飲み話をする。
私たちが初めて訪ねていったときもそうだった。
「あら、ど~も~」と、まるで旧知の友人であるかのように出迎えてくれた。
「まあ、理想郷を求めてここに来たわけだけど、『理想』って言っちゃった時点でもう何かしら自分の中で決められた形やルールを作っているわけだよね。それは俺の理想とは違うわけ」
「草むらに、人が歩きやすいように石を置いて、ここを歩きなさいって道を造るとするでしょ。それはもう自由な生き方じゃないわけよ。何にも決められてないのに、そこを通りたい人がいて、勝手に歩いているうちに自然に道ができる、というほうがいいわけ」
そんな「名言」の数々を、説教臭さゼロで、さらっと自然体で言ってのける。
▲満月祭(2008/08/14)
▲満月祭でのマサイさん(2008/08/14)
ο大工の愛ちゃんと夫のしょうかんさん
その獏原人村に、2000年、一人の若い女性が自転車に乗ってやってきた。
愛という名前のその女性は岡山の出身。阪神淡路大震災のときのボランティア体験で人生観がちょっと変わり、その後、岡山市の社会教育課の資金援助を得てネパールに渡り、教育環境視察。それが終了してからもインド旅行。帰国後はお遍路さん、さらには福島県の川俣町にある「やまなみ農場」というところで農業体験などなどを経て、この獏原人村の話を聞いてやってきたのだった。
愛ちゃんは原人村の自然に魅了されて、「ここに住みたい!」と思った。
マサイさんに許可をもらって、自力で3畳大の掘っ立て小屋を作り、犬(すぐ人を噛む)と一緒に電気もガスも水道もない生活を始めた。そのうち、村の大工・よりみち棟梁に弟子入りして大工修行に入る。
これが後に川内村でマサイさんと並んで超有名人になる「大工の愛ちゃん」だ。
▲獏原人村で自宅の構造材用に木を伐る大工の愛ちゃん(2008/06/13)
その愛ちゃんと、とある建築関連の研修会で出会って結婚してしまうのが、横浜に事務所を構えていた一級建築士の大塚しょうかんさん。
私はでとさん夫妻のできあがったばかりの家でしょうかんさんと知り合い、我が家に離れを造ってもらうことになった。
大塚夫妻の間には男の子と女の子が生まれ、原人村に自分たちで家を新築して生活をしていた。
私たちは川内村の中ではほとんど隠遁生活で、普段ほとんど人に会わない生活をしていたが、その中でいちばん頻繁に会っていたのは大塚一家だったかもしれない。
▲大塚家の稲刈り 左端がしょうかんさん。前列右端がよりみち棟梁夫妻(2008/10/26)
ο関守夫妻
「せきもり」というのは私が勝手に付けた呼び名。
夫のまもるさんはかつて獏原人村に住んでいた時期がある。その後、獏林道の入り口にあたる土地を購入して獏工房という木工アート家具の工房を構えた。
私たちが知り合ったときはすでに上の二人のお子さんは独立し、妻のじゅんこさん、まだ中学生の次男の3人で暮らしていた。
飾らない性格で、訥々と喋る人柄にいつもほっとさせられる。獏原人村の入り口、関所のようなところに住んでいるので「関守だね」と私が言ったときも「好きに呼んでくれ」と答えただけ。実際には本人がいないところでは(彼のほうが年上なのだが)親しみを込めて「まもちゃん」と呼んでいる。
▲獏工房で家具を製作中の関守(2008/06/26)
οみれっとファームのよーすけ・けーこさん夫妻
獏工房は川内村といわき市を結ぶ国道399号線沿いにあるが、そのくねくねと曲がった国道らしからぬ道を少し南下したところ、いわき市小川町戸渡(とわだ)というところに、無添加、砂糖不使用のお菓子やパンを作っているみれっとファームがある。
店主のよーすけさんは私と同い年で同じAB型。口数が少なく、笑わない人だが、別に怖い人ではないし人付き合いが悪いわけでもない。各地のマラソンレースに年何回も参加し続けるストイックな面も持っている。
妻のけーこさんは廃校になった戸渡分校を地域の文化交流の場にしたいと、精力的に活動していた。そのへん、でとまに似ている。
οブッチ夫妻
ブッチ夫妻も原人村の人たちとはつきあいが深い。
ブッチさんといえば家の美しさに触れないわけにはいかない。彼に限らず、原人村ゆかりの人たちはみな、自分の家は自分で建てるのがあたりまえで、マサイさんも関守もよーすけさんも自分の手で立派な家を造っていたが、ブッチさんの家は別格だった。プロの大工も舌を巻くほどの出来映えで、壁を曲面に処理するなんてことも普通にやっていた。家を造るのは彼の趣味で、納屋には電動鋸だけでも数台ずらっと並んでいたりした。「一生かけて造るから、終わりがない」とのこと。私も越後時代には自分で電動鋸や玄翁を使ってリフォームに精を出していたから、その気持ちはよく分かる。
妻のりくさんは陶芸をやっていて、自宅の庭に「ことりこ工房」という窯を構えていた。
▲満月祭で店を出して作品を売っているりくさん(2008/08/14)
οスーパーマン
彼も原人村の出身で、関守の獏工房から少し離れた山の中で完全な隠遁生活をしていた。
別棟に立派なオーディオルームがあり、一度その音を聞かせてもらいにお邪魔したことがある。口数が少なく、一見取っつきにくい印象だが、怖い人というわけではない。
これまた彼に限らず、原人村ゆかりの男たちはみんな音楽好きで、自分で建てた家にすごいオーディオセットを持っていて、ギターを弾いて歌うのはごく普通のことのようだった。
οDaGOさん夫妻
DaGOさんは川内村の西隣に位置する田村市の山奥に引っ越して来て住んでいた。カリンバという民族楽器を製作・演奏していて、一緒に即興セッションをしたこともある。
原人村とは直接関係はないのだが、生活ぶりはマサイさん以上に原人っぽくて、井戸を掘っても電気で汲み上げるのは嫌だと、わざわざ手でギコギコ動かすポンプをつけていた。
お子さんが生まれたときも自宅出産。その様子をテレビが取材に来て番組を作ったりもしていた。
自宅出産といえば、愛ちゃんも二人目は原人村の自宅で出産した。「昔はみんなこうだったんだから、なんてことないわよ」ということらしい。
▲カリンバを演奏するDaGOさん(左)と筆者(2008/09/07)
οニシマキさんとミホさん
ニシマキさんは「自然山通信」というトライアルバイク専門誌の編集者兼ライター兼カメラマン。私たちより少し遅れて川内村にやってきた。村の牧草地を使ってバイクのイベントをやったことがきっかけだったようだ。そのまま川内村が気に入って住み着いた。
最初は廃校になった旧第三小学校を借りて一人で住んでいたのだが、そのうち空いていた古い教員用住宅を借りて、ミホさんという女性と一緒に暮らすようになった。バツイチ同士という話だが、同棲するようになったいきさつについてはよく知らない。もしかしたらすでに結婚しているのかもしれないが、確かめたこともない。
軽い筆致、美しい写真、フットワークのよい取材能力。学ぶべき点がたくさんある。
▲愛兎と戯れるニシマキさん(2011/04/28)
……と、ここまでは全員移住者。
マサイさんやまもちゃんたちは移住者と言っても阿武隈に来てから40年近く住んでいるわけで、私たちやでとさん、こづかさんなどの新しい移住者とは年季が違うのだが、村では何十年住み続けようが「外から来た人」という認識は厳然とある。
次に、地元の人たちも何人か紹介しておきたい。
οよりみち棟梁一家
愛ちゃんの大工の師匠であるよりみちさんの家族とも交流があった。棟梁は口数が少なく、静かな人。妻のきくこさんは面倒見がいい肝っ玉母さんタイプ。川内村のよさを体現しているような一家だった。
οこーちょーとりほこ先生
第二原発(通称2F=ニエフ)のある富岡町に家があったが、川内村の第三小学校の校長をしていた時期があったので、私は「こーちょー」と呼んでいる。
定年の日を指折り数えながら心待ちにしていて、私たちが知り合ったときは、川内村の毛戸(もうど)という高原地域に建てた立派な別荘で木工や音楽三昧の余生を送り始めていた。
遊木館(ゆうぼくかん)と名づけられたその別荘では、子供たちを集めて、同じく教師だった妻のりほこ先生と一緒に自然教室を開催したり、地元のバンド仲間を集めてコンサートをやったり、理想的な老後生活を満喫していた。
サックス吹きで、基本はブラスバンドなど、譜面のある演奏だったが、私の影響でジャズのアドリブに目覚めたようだった。
▲遊木館の前に演奏会用のステージを建設中のこーちょー(2006/08/25)
οしげるさん
村の中では「しげるさん」と呼ばれていたが、うちではもっぱら「小松屋さん」と呼んでいた。川内村の中心部で小松屋という旅館を経営していて、村会議員、商工会長、観光協会会長などを務めていた。
οよしたかさん
川内村では珍しく専業農家(ほとんどの農家は兼業)。有機農業にこだわり続け、うまい米を作るための土作りを特に重視していた。2007年には、福島県を代表して天皇家に米を献上する「献上米」農家にも指名された、言わば村の名士。
2011年、第一原発から30キロ圏だということで川内村のすべての水田が作付け禁止になったとき、よしたかさんは「一斉に田んぼを放棄したらデータもとれない。俺は自分の田んぼ一枚だけ作付けし、自分で残留放射能の検査をしてもらう」と言って、県や村からの再三の説得をはねつけて作付けを決行した。これは新聞やテレビでも報道されたので一躍有名になった。私たちは「復活の米」と呼んで応援していたが、結局、最後は自らの検査も禁じられ、収穫した米は全部田んぼに廃棄させられた。(この事件は後に詳しく書く)
▲天皇家への献上米を植える「お田植え祭」でのよしたかさん(2007/05/27)
ο村長
実は、村に来て最初に知己を得たのは村長だった。
家の前の雑木林を皆伐するという事件が起きて、すぐに村長に相談のメールを出した。
村長とその後初めて生で会ったのは、伐採が回避できた後、我が家を訪ねてきたときだったが、そのとき私は村長に二つ質問をしたのを覚えている。
一つは水の問題。川内村は水道がない村で、住民は井戸か沢水を自前、自己責任で使っているが、村による水質検査などは定期的に行っているのか、という質問。
もう一つは、原発が至近距離にあるが、村にはガイガーカウンターなどが備え付けてあるのか、万が一のときの放射能漏れ検出体制はあるのか、という質問。
確か、水に関しては毎年定点調査しているということだった。ガイガーカウンターについても、据え付け型の定点モニタリングポストがあるというので、それならまあ大丈夫でしょうね、というように答えた記憶がある。
しかし、これが甘かったということは7年後に分かる。
▲村長(右)としげるさん(2011/05/10 小松屋にて)
生まれて初めて家を建てた
●生まれて初めて家を建てた
私たちの阿武隈生活は2004年の年越しから始まる。いきなり目の前の雑木林(国有林)皆伐の危機に遭遇し、それを一休さんの頓知もどきの戦術で回避したことはすでに書いた。
その後、2005年からのことを振り返ってみたい。
2005年は、年間の半分も川内村の家にはいなかった。というのも、当時はまだインターネット環境が整っていなくて、仕事が立て込むと高速回線の来ていない川内村では仕事が捗らず、川崎市麻生区にある仕事場(木造の6軒長屋の一角)に戻っていたからだ。
さらには川内村の家は狭い平屋で、執筆活動はできたが、音楽制作などはできなかった。
本格的に阿武隈に住環境を移すためには音楽制作(録音)ができるスタジオや、来客があったときに宿泊してもらう部屋が必要だった。しかし、この家と土地を購入するためにすでに貯金を一千万円使っており、金銭的な余裕はない。
6畳を3つつないだだけの平屋を増改築するのは相当な金がかかる。それよりは小さな別棟を建てたほうが安くつく。土地はあるのだから、そうしよう。
それでも金がないことに変わりはない。当初考えていた予算の上限は200万円だった。200万円でなんとか家が建たないだろうか……と。
当然、普通に建てたら無理なので、ログハウスのセルフビルドキットなどを検討していた。
しかし、キット価格は百数十万円くらいでも、業者に見積もりを依頼したら、水回りやら基礎工事やらを入れて500万円以上の額を出してきた。そんな金はない。
悩んだ末に、やはりログハウスを自分で建てるよりも、在来工法で建てるほうが安上がりではないかという結論に達した。200万円の範囲内で基礎工事と構造材組み立て、屋根までをやってもらって、壁や床などは自分で時間をかけて工事すればなんとかなるのではないかと考えたのだ。
ちょうどその頃、一足先に村に移住してきていたでとさん夫妻も立派なゲストハウスを建てようとしていて、その設計・施工を、獏原人村に暮らしていた「大工の愛ちゃん」と結婚したばかりだった一級建築士の大塚しょうかんさんに依頼していた。
でとさんを通じてしょうかんさんを知り、まさかの展開で最後はしょうかんさんに設計・施工を依頼することになった。
床面積6坪(12畳分)の木造。風呂場とトイレ、寝室用のロフトもつける。当初の予定よりずいぶん贅沢な内容になった。
自分でも工事に参加し、水回りの備品や照明などはネットオークションで安く揃えた。浴槽は越後のつぶれた家から必死で運び出した浴槽を使った。コストをかけないためにずいぶん頑張ったのだが、最終的には400万円ほどかかってしまった。
2005年年末、連日マイナス10度以下という極寒の中「タヌパック阿武隈」と名づけた6坪の建物が完成した。私にとって生涯で初めて「新築」した家だった。
▲建築中のタヌパック阿武隈(2005/12/15)
モリアオガエル同棲計画
●モリアオガエル同棲計画
タヌパック阿武隈が完成したことで、私たちは完全にこの地で一生を終える決心をしていた。それでも、住民票はまだ移せないでいた。
最大の理由はインターネットの高速回線(光ファイバー)がなかったことだ。
実は、村に光回線を引くチャンスはあったのに、あろうことか村議会が「時期尚早だ。そんな金があるなら道路工事や箱ものなどの公共事業に引っ張ってこい」と拒否していたということも後になって知った。交通の便が悪い田舎にこそネットインフラが必要だということを理解できない人たちが議員をやっていたのだ。
そのため、仕事が立て込むと川崎市の仕事場にこもらなければならなかったし、ネット関連の仕事の住所を川崎市から移すのは難しかった。
それと、やはりまだ村の風習、因習の中に身を置く覚悟ができていなかった。
不動産屋のF氏も言っていた。
「よそ者が田舎で快適に暮らすコツは、最初から田舎にべったり入り込まないことですよ。『別荘の人』という認識を持ってもらっているほうが楽ですから」
これはそうだろうなと思っていた。
そんなこんなで2006年はなんとなく過ぎていった。
変化といえばカエルに興味を持ったことだろうか。
川内村には平伏沼という小さな沼があり、モリアオガエル繁殖地として国の特別天然記念物指定を受けている。
この年の6月、その平伏沼で生まれて初めてモリアオガエルの卵を生で見た。映像では何度も見たことがあった。樹上に白い泡のような卵を産みつけて、その泡の中からオタマジャクシが真下の水面にぽたぽたと落ちていく。しかし、生で見るモリアオガエルの卵は、思っていたよりずっと大きく(大きめの肉まんくらい)、また感触も「泡」というよりは肉まんの皮のようだった。
こんなものがあるのだと感激し、モリアオガエルだけでなく、カエル全般に興味を持った。
▲変態直後でまだ尾が残っているモリアオガエル(2008/08/18)
我が家の周囲にはさまざまな種類のカエルがいた。カエル図鑑を買い、ネットでも調べながら同定していくと、なんと、福島県内に棲息しているとされる日本固有種のカエル10種がすべて村の中、ごく身近な場所に生息していることが分かった。
ヤマアカガエル、ニホンアカガエル、ニホンアマガエル、タゴガエル、アズマヒキガエル、シュレーゲルアオガエル、モリアオガエル、ツチガエル、トウキョウダルマガエル、そしてカジカガエルの10種だ。
このうちカジカガエルを除く9種はすべて写真に収めた。カジカガエルは付近の沢で声だけ聞いたことがあるが、ついに写真に撮ることはできなかった。
我が家の周辺では、モリアオガエルとトウキョウダルマガエルだけはなかなか見ることができなかった。モリアオガエルは平伏沼だけではなく、村内のあちこちに棲息しているのだが、我が家の周囲だけはエアポケットのようにいない。理由は簡単で、棲息に適した沼や池がないからだ。かつてはあったのだろうが、圃場整備や道路の拡幅・舗装工事などでことごとくつぶされてしまったのだ。
この年から、私は村の中のあちこちに出かけては、カエルの棲息地を探し続けた。
と同時に、家の敷地内にカエルの産卵のために池を造り始めた。毎年ひとつ、ふたつと増やしていき、最後は5つの池ができた。それぞれ「山葵池」「マツモ池」「雨池」「土手池」「弁天池」と名前もつけた。
それらの池にはアカガエルやシュレーゲルアオガエル、アズマヒキガエルなどがやってきて産卵した。ある日池の中にきらきら光る産みたての卵を見つける。その卵から小さなオタマジャクシが孵り、夏には小さなカエルになって散って行く。その様子を毎日見ているのはまさに至福の時だった。
しかし、モリアオガエルだけは間近に見ることができない。村中を走り回り、名もない小さな沼や水たまりを探し、それぞれモリアオガエルが産卵するかどうかを確かめた。
私たちの家は村の中では「四区」と呼ばれる地域にあったが、モリアオガエルは四区では見ることができず、平伏沼とは反対側、下川内地区まで行くといることが分かった。
しかし、下川内地区でも国道399号線の整備などに伴って、点在していた池沼がなくなり、モリアオガエルは産卵する場所を失っていた。
雨が降る夕方、周囲に水たまりさえない場所で、大きなメスのモリアオガエルが産卵場所を探すかのように道路の上をさまよっているのに遭遇したこともある。
獏原人村の大塚家では、2007年から突然田んぼの縁にモリアオガエルが産卵するようになった。産卵に適した木がないので、やむなく田んぼの縁に生えた草に絡ませて産みつける。別の農家でも、その頃から突然田んぼの縁にモリアオガエルが産卵するようになったそうで、それも確認しに行った。下川内地区で産卵場所を失ったモリアオガエルたちが新たな産卵場所を求めて移動していき、最後は「仕方なく」田んぼの縁の草に産みつけるようになったのだろう。
▲獏原人村、大塚家の田んぼの縁に産みつけられたモリアオガエルの卵(2008/06/13)
田んぼでも、きれいに草刈りをしている田んぼでは産めない。また、最近は夏になると「中干し」といって水を抜く田んぼが多いので、カエルに変態する前にオタマジャクシごと干上がってしまうことも多い。
こうして、どんどん行き場所を失ったモリアオガエルの中には、自暴自棄になるやつも出てくる。あろうことか、国道脇の木の枝に産んでいるのを見つけたこともある。その下には浅いU字溝が走っているが、普段水はないから、オタマジャクシが落下すればそのまま死ぬだけだ。
そんな風に、明らかに水のない場所に産みつけられた卵や、強風で飛ばされて枝ごと地面に落ちた卵などを「救出」する「モリアオパトロール」も始めた。
救出した卵は我が家に持ち帰って池で孵化させ、カエルになるまで見守る。我が家の池でカエルになったモリアオガエルは、3年から4年経つと産卵できるくらいまでに成熟し、池に戻ってくるはずだ。それをいつ見られるか……。私はこれを「モリアオガエル同棲計画」と名づけた。
こうして、川内村での生活におけるうち1年の半分ほどはカエルとのつきあいが中心となっていった。
▲国道399号線脇の木の枝に産みつけられた卵塊を救出(2008/06/26)