閉じる


試し読みできます

あれを排除しなければ・・・・・・

桜の花びらが山口隆三の顔を撫でて、はらはらと線路の方に落ちて行った。数日前まで満開だった南側の桜は、もう葉桜になりつつあるのだろうかと山口隆三は想像しながら、横を歩く青年の存在に少し緊張していた。息子なのに、いつからかその顔や声や無精ひげに、小さな嫌悪感のようなものや違和感を持っている自分がいた。その理由は心の奥の扉の陰に隠れていた。本当の理由、それは会社の同僚や知人、そして今も深く愛している妻の智子にも言えないことだった。もしその理由を示す単語を言ってしまったら、たぶん自分は子供じみた馬鹿者と蔑まれ笑われるに違いない。だから、今はもやもやしている心をただ見守るしかなかった。

横で一緒に階段を上る息子の桃李は、自分よりセンチほど背が高く、眼鏡をかけているが、それがよく似合っている。明治大学の3年になったばかりで、今日は駿河台での授業が始まったというのである。

できれば、東中山の駅のホームでは出会いたくはなかったが、何か吸い寄せられるように2人は鉢合わせしてしまったのである。

 山口隆三はそんな負の気持ちを、表には出したくなかったが、やはり声は冷たく響くようだ。

「大学はどうだ?今日はずいぶん遅いじゃないか?」

 桃李はやはり何か後ろめたさがあるのか、そっけなく返事をした。

「ゼミの打ち合わせで遅くなっただけだよ・・・・・・

 それっきり、改札を出て、東中山の駅に向かって小高い土地の上に屹立するリーベスト東中山というマンションの階の部屋に入るまで、2人の会話は途絶えた。

 

 山口隆三は現在43歳だ。京成本線で押上にある上場企業に通勤している、ごく普通のサラリーマンである。今年の月から課長に昇進したということで、妻には誇らしげに報告した。妻はにこにこして言った。

「パパがんばりましたね。これで桃李の学費も少し楽になるかしら。あ、それからマンションのローンも」

 山口隆三は何故かその智子の言葉が持つ現実的な響きに、小さなプライドが傷つけられているような気がした。もっと違う言葉、そう桃李のことなどどうでも良い。

「苦労して偉くなったね。隆三ちゃん偉い」

と単純に言って欲しかった。隆三はただ妻の智子に尊敬され愛されていればそれだけで良かった。息子の桃李のことなど言って欲しくなかった。

そう思うような隆三の繊細な心に反して、その顔立ちは、日に焼けた浅黒い肌をした四角張った形をしていたので、初対面の人には、割と鈍感で精神的にも強そうなイメージを持たれることが多かった。体育会系で背は低いが、がっしりした体つきもそのイメージに拍車をかけていた。

隆三の会社での仕事は営業職である。顧客であるゼネコンの担当者にアポを取り、車で現場へ向かい、工事に関する様々な工法の提案を行う。製品知識がないと難しい仕事である。入社して最初の仕事が取れるまで、年近くかかったが、その後は担当者とのやり取りのコツが判ったのか、営業成績は少しずつ上がり始めた。今では部下を数人持つ課長として腕を振るようになった。出世はこの企業での平均的なスピードより速い方である。

しかしこの立場になるまでの日々は本当に苦労の連続だった。先輩とのやり取りや叱咤激励に負けず、修羅場を何度も乗り越えて来た。建設業の世界で営業してものになるまでには、まさに古い体質との格闘であった。やっと部下が何人か持てるようになって、隆三は妻の智子に掛け値なしに褒めてもらいたかったのである。

 

桃李は山口家の一人っ子である。勉強のし過ぎで小学校から眼鏡をかけ始めている。実際は携帯電話の見すぎなのであるが、確かに勉強もできたから、そういう言い訳も通用していた。

小学校の時には科学クラブの部長をしていた。熱心な理科の先生に好かれていたせいか、前のめりで色んなことをその先生から吸収しようと勉強したこともあった。

その頃である。人体の構造について図書館で調べているうちに、男性と女性の結合で子供ができることをはじめて知ったのであった。その時の衝撃は天地がひっくり返るような驚きであった。パパの隆三が、あの美しいやさしいママの智子とセックスをして、この桃李という男が存在するということは、にわかには信じられなかった。少なくともいかつい顔をしたパパの隆三が、ママの上にまたがっている姿など想像できなかったのである。何か違う方法で卵のようなものができて、自分が生まれたと淡い想像をしていたのである。その淡い想像は、美人のママであるがゆえに信じられたが、結合という汚らしい行為をして生まれてきた自分を思うと、情けなくて泣きそうになった。

『結局、人間はただの動物ではないのか?』

 と桃李は実感したのであった。その日から桃李は綺麗なママの智子の姿を見つけると、パパの隆三との絡み合う不潔なメスにしか見えなくなることもあった。

桃李が成長して中学生になると、そのピュアな感情はむしろママに対する欲望のようなものに変質していった。

それでもそれは心の扉の奥にいつも隠していた。隠しながらも美しいママへの愛欲を醸成していったのである。

 

「ただいま!」

 隆三が先に玄関に入って靴を脱ぎながら言うと、ピンク色のフェミニンなアンゴラニットに、白いニットスカートがよく似合う智子が出てきた。

「あら、一緒だったの。珍しいわね。二人ともお帰りなさい!桃李君遅かったね。心配したわ」

 智子は恋人に逢ったように嬉しそうな眼差しを桃李に照射している。隆三から見ると、そのコケットリーとも言えるような仕草に、胸の中の基底部がジンジンと熱くなって、嫉妬心の炎が燃え盛ろうとしているような気がした。

 隆三は智子のその目を追いながら、『自分にも声を掛けてくれよう、智子。お前は俺の妻なんだから・・・・・・』という言葉が浮かんで来て、情けない気持ちになった。それでも表情を変えるわけではない。一家の柱たる自分が動揺してなるものか、という感情も湧いてくる。

 

智子は42歳という年齢にも関わらず、若いころのスタイルが崩れることもなく、均整のとれた体つきをしていた。張り切った胸、くびれた腰、そして引き締まった臀部、それらはジムで鍛えている成果の表れであったとも言えるが、メンタルな部分での強さや教養が見事に相乗効果をあげて、華麗で美しく生気に満ちていた。隆三はそんな智子が自慢であった。今でも見せびらかしたいほど惚れ込んでいた。マンションの中の顔見知り、会社の同僚、親戚たちにことあるごとに連れ歩いてひけらかしていた。隆三は世間一般の男性のように、結婚という契約によって、智子を自分の所有物のように思い込んでいたのかもしれない。しかし、智子の心の中はどんな感情が渦巻き、どんな欲望に満ちているのかなどは、ほとんど理解できないでいたのも事実である。それでも、家庭の中では智子は良妻のように振る舞っていた。いいや実は女優として、妻でありママであることを見事に演じ切っていたのかもしれない。すべては闇の中だ。

 

 隆三のマンションは70㎡ぐらいの広さがあり、3人で暮らすには手ごろであった。玄関から入ると手前の左手の部屋は桃李の部屋であった。7畳の部屋である。

 それに比べて隆三の部屋は5畳もない。この部屋割りについても、桃李が静かに勉強できるようにと、北側の部屋に決めたのは智子である。隆三にしてみれば自分が稼いで買ったマンションなのだから、自分が一番大きい部屋を書斎にしたかったが、智子に勉強第一と押し切られてしまった。それに、夜の生活もあるから、南の寝室からできるだけ遠い方が良いからと言われると、納得せざるを得なかった。その小さな不満も、桃李への『嫉妬心』の火種になっているのであろうか。

 桃李と隆三の部屋の入り口を通り過ぎるとドアがある。それを開けると夫婦の寝室である和室の6畳と、11畳ぐらいのリビングがある。そして大きめのバルコニーがあり、バルコニーに立つと東中山の駅が一望できた。

 

 隆三は自分の部屋で普段着に着替えると、リビングの窓の所まで出てきて、東中山の駅のホームを見ていた。後ろでは食卓の準備をしている智子の軽やかに動く物音がしている。愛おしくて、大好きで恋しい女である。ただ、自分の妻でありながら、その心はヘリウムガスの入った風船の行方のように定かでなく、掴むこともできないような歯がゆさを持っている。寂しさと悲しさがこみ上げてくるのだ。そうだ、あれを排除しなければ・・・・・・。そう思う自分にも嫌気がさしている。


試し読みできます

お嬢さん大丈夫ですか?

もう桜の花びらも跡形なく消えて、暖かい日差しが降りそそいだり、強めの雨や風が大地を覆ったりして月日はゆっくりと過ぎて行った。そんな4月の中旬のある日、押上から電車に乗って帰宅していた隆三は、いつもの特急のいつもの吊革につかまっていた。40歳を過ぎてからは動くのが面倒なのか、なるべく同じ時間の電車の同じ号車に乗るようにしているのだ。

今日は幸運なのか、目の前にはショートカットの丸顔の優しそうな可愛い女性が座っていた。染めた茶色の髪が肌の色に良く合っていた。隆三の好きなタイプに属す女性だ。しかしあまりじろじろ見るわけにはいかない。痴漢と間違われてはたまらないからだ。だから、電車の中の広告を見たり、ドアの上の液晶の画面を見たりして、目の前の女性に関心がないような振りをしている。こういう動作は、本人は上手く演じていると思っているが、案外相手は私に関心があると動物的な感性ですぐ判るものである。隆三はそういう女性の第六感を知らない。ただ、時間をおいてはチラリとその顔を盗み見ているのである。

その女性は花柄のワンピースに長めのベージュのカーディガンを着ている。その春らしい装いに、隆三は真綿のように心が軽くなるような気がした。こんなに若くて可憐で可愛らしい女性と話が出来たら、幸せだなと隆三は思った。その瞬間、自分は相当なおじんだと気づいて、苦笑いしそうになった。

しかし、その女性に何か得体のしれないものが取り付いたのか、顔が歪み始めたのを見て、隆三は胸騒ぎがした。

江戸川を渡る時の、川面に反射する電車の車輪の音がカタンカタンと聞こえてくる頃、その女性は苦しそうな顔をして、隆三の膝につきそうに前に屈んだ。隆三は思わず叫んでいた。

「お嬢さん大丈夫ですか?もしもし?どこが苦しいのですか?次の駅で降りますか?」

 矢継ぎ早に隆三は聞いている。最近、会社で受けた救命講習を思い出している。その呼びかけに対して、その女性はかなりはっきりした声で答えている。

「大丈夫です。貧血のようです。気持ちが悪いだけです。すみません。次の駅で降ろしていただけますか?」

 その声を聞いて少し安堵した隆三は、

「判りました。それでは次の八幡で降りましょう。私がサポートします」

「すみません」

 隆三の周りにいる若い男性や脂ぎった中年の男性達が、自分も加勢したいというような表情で見ている。実際に若いサラリーマン風の男性は、自分も一緒に降りましょうかと言ってきた。するとその丸顔の女性は歪んだ顔を少し微笑させて言った。

「この方に付き添ってもらえれば大丈夫だと思います。たくさんの方にご迷惑をかけては申し訳ないので」

 隆三はくたびれた中年の自分に頼られたことに、何か不思議な運命的な出逢いのような思いが過った。過ったけれども期待はしてはいけないと自分を戒めている。

 やがて、電車は八幡駅に滑りこんで行った。高校生やサラリーマンや主婦や老人が、行列を作って並んでいるのが見える。

「腕を貸します。立ち上がれますか?」

「何とか立てそうです。お願いします」

 青葉のような香りが隆三の鼻をくすぐったような気がした。その女性はしっかりと隆三の左腕につかまって立ち上がった。電車のドアが大きな音を立てて開くと、ホームにいた乗客たちは、邪魔にならないように道を開けてくれたが、強い好奇心の視線の矢のようなものが2人を覆っている。20代の女性が43歳の男の腕につかまっているのである。風俗関係のお客とホステス?不倫同士?それとも親子?いろんな憶測が一瞬のうちに彼ら彼女たちの頭の中を行き来したが、再びドアが閉まって船橋駅に向かって走り出すと、この2人の仕草や年恰好やその後の顛末など、もうすっかり忘れてしまうのである。

 隆三はその彼女をプラスチック製のパイプで繋がった椅子の一つに座らせると、側にあった自動販売機から温かい紅茶のペットボトルを買い手渡した。そして彼女の隣に腰かけ話しかけながら、体を締め付けるものとなっているようなカーディガンのボタンを外したり、ベルトを緩めた。その作業をする時、隆三は彼女の若々しい肉体にできるだけ触れないように気を付けたが、やはり彼女の温かい肌の感触が伝わってきた。

彼女はすまなさそうに何度も頭を下げる仕草をした。その仕草が隆三の心の琴線に触れる。彼女は温かいペットボトルを手で包み、手先を温めながらゆっくりと呼吸をしていた。呼吸を整えることによって徐々に回復していくように隆三には見えた。体を温めるために飲めるようにキャップを開けてあげると、薄くて愛らしい唇をペットボトルの口に何回かつけて飲み込んでいた。隆三は救命講習で貧血の場合の対処で、『体の血流を良くして、とにかく体を温める』という応急処置が良いということを知っていたので、落ち着いてリード出来た。そのおかげなのだろうか、少しずつ彼女の顔から苦しみの表情が消えていく。10分も経たないうちに症状はすっかり良くなった。

隆三はもう彼女は大丈夫だろうと踏んで、側に居ては邪魔だと思ったので、そのまま立ち去ろうとすると、彼女は意外なことを言ってきた。

「心細いのでもう少し側に居てもらえますか?」

「私は特に構わないけれど、こんな中年のおじさんが側にいたら嫌でしょう?」

 するとその丸い顔の彼女が、赤みがかった表情になってくすくす笑い出した。その仕草がとてもキュートで隆三は心が擽られた。

「そんなこと思うわけありません。感謝しています。でもまだちょっと不安なんです。見ず知らずの方に甘えてすみません。もう少し気持ちが落ち着くまでいていただいてよろしいですか?さっきまでは本当に頭の中がパニックだったんですもの・・・・・・

  隆三はこの若い可愛いらしい女性に自分の名前を聞かれたら恥ずかしいし、中年男性が好かれるわけもないから気後れするし、第一何か起きるとは思わないが、あらぬ方向へ巻き込まれていくのも面倒だと思う気持ちもあった。それでもよくよく考えると、それはやはり無慈悲であると思った。確かに他にも何か下心があるのではと下衆の勘繰りをされるのも嫌であるし、世の中できるだけ他人にかかわらないという風潮でもあると思ったが、最終的には彼女が要望していることに応えるのが一番だと考えた。体裁が良く思われることより、苦しんでいる人に寄り添うことが大事だと考え、隆三はしばらく座ることにした。

「電車の中で皆さんにご迷惑をかけたのは本当に初めてなんです。極力鉄分は取っているんですけれど。体質かな?」

 女性はまたクスクス笑っている。かなり自分で気持ちを奮い立たせようと、無理に笑っているようにも見える。

「俺も聞いたことがあるよ。女性は男性の10倍ぐらい貧血の人がいるらしいね。女性特有のものだと思うけど、男性は案外そんなことに無頓着だから、嫌な思いをしたことあるんじゃない?気遣いできる人は周りにいますか?」

 隆三はそんなことを聞いて、しまったと思った。女性のプライベートの世界に入り込もうとしている自分がいた。それでも、女性は全く嫌な顔一つしない。

「あんまりいませんですね。若い人はなんかせっかちで、大人の人と比べると、やっぱりエゴイステックなのかしら?」

「そうでもないよ。こんなおじさんでも、子供みたいに嫉妬心なんか特に強いから、あんまり年代は関係ないかもしれません」

「えっ!本当にそうですか?指輪をされているから結婚していることはすぐ判りましたが、長く生きていらっしゃるし、そんな風には一切見えません。包容力のある方だと思いました」

 隆三は手を大げさに振って、

「買い被りもいいところです。妻に対していつも嫉妬をしてますから。はっはっはっ」

 隆三は初対面の女性に、私生活の恥ずかしい部分を自然に喋っている自分に吃驚した。それほど気持ちをオープンにさせてくれる女性なのであろうかと、顔をじっくりと見てしまった。

 確かに笑った顔はまるでお月様が微笑んでいるような趣がある。目は大きくはなく細い方である。細いがためにいつも笑っているようなイメージを与えているのかもしれない。隆三は今まで出会った女性にはない何か相手に安心感を与えるその表情に、つい見とれてしまいそうになった。

「どこの駅で降りられるのですか?」

「私はあと三つほど先の東中山です」

「よろしかったら、お名前を教えていただけませんか?」

「いやそれは良いですよ。行きずりの出逢いで大丈夫です。お礼も何もいりませんから」

「それは駄目です。母に叱られます。親切にしてくださった方には、必ず恩を返しなさいと言うのが母の口癖ですから、ぜひ教えてください」

 隆三は困ったなと思った。目の前にいる可憐な女性ともう少し話はしてみたいが、あらぬ方向にはまりそうなリスクもある。面倒だなとまた感じた。しかし、目の前にいる若い女性は、汚れのない素直な感謝の気持ちを、全身から発しているように見えた。まあ、お礼をされるのも忙しくない時だったらと、隆三は咳払いをして答えた。

「私の名は山口隆三です。よろしく」

「私は木村かすみと言います。今日は本当にありがとうございます。もうすっかり良くなったようです。それじゃ、今度お礼にお食事でも一緒に如何ですか?」

 隆三は手を振って結構ですと言う仕草をした。すると、木村かすみは哀願するように手を合わせながら、

「そうおっしゃらずに。私はこの八幡駅の側ですから、周辺ならどうですか?」

「木村さんは不思議な人ですね。私なんか何もしていないのに、貴女こそ私なんかよりよっぽど良い人ですね」

 隆三は何故か笑い出してしまった。冷たい人間関係が当たり前な世の中なのに、忠実な犬のように優しく絡みついてくるような気がした。

「あ、判った。次回と言うと山口さんに断られそうだから、今日でも行きましょう。ご飯食べました?」

「いやまだ」

「それじゃ行きましょう。貧血が治ったら急にお腹が空きました」

 隆三はまた困った顔をした。

「ああ、そうですよね。お家に帰ったら食事がありますよね?ごめんなさい。気づかなくて」

「いや、今日は大学生の息子と妻が仲良く映画を見に行っているから、帰って自分で簡単なものを作って一杯飲もうと思っていたよ」

 隆三は不快な気持ちがさしはさむ気もしたが、木村かすみに何でもオープンにしてしまう自分にまた驚いた。

「じゃ丁度良かった。失礼ですが私がお礼のごちそうをしますから行きましょう。美味しいものを食べましょう」 


試し読みできます

嫉妬するのが楽しい?

 降って湧いたような電車の中の出来事、そして貧血だった丸い顔をした可憐な木村かすみに強引に誘われるなど、会社を出るまでは想像もしなかったことが起きるものである。これも人生。こんなことは二度とないかもしれぬ。運命の悪戯かもしれない。ひょっとしたら全部が騙されているのかもしれない。それでも人生は面白いものだと隆三は思った時、行ってみるかという気持ちにやっとなったのである。営業ではバリバリ飛び込むのに慣れているのに、こと女性に関しては弱気になる隆三であった。

「少し歩きますけどJRの南口のすぐ側です」

 と言うと木村かすみはもう京成八幡の改札に向かって歩き出していた。隆三は積極的にリードする若いかすみに対して、嫌いになれない魅力を感じた。後姿も妙に人を引き付ける軽やかさがある。

 

 ビルの中にあって、ピザ用石焼釜も完備しているイタリアンのハーレーパークという名の店に2人は入って行った。窓際の席が空いているので、ステップを踏むようにしてかすみはその席にたどり着いてメニューを見始めた。さっきの貧血はどこへ行ったのだろうかと隆三は苦笑しながら、ゆっくりとかすみの綺麗に揃えられた少し茶色に染めたショートカットの髪形や、丸顔の中に配置された各パーツの絶妙のバランスに見とれてしまった。一言で言ってしまえば猫タイプの顔なのかなと隆三は思った。そしてかすみの魅力は、恐らく周りの人間の心のぎすぎすしたものを、一瞬にして調和させてしまうような、たおやかさに満ちているからなのだろうかと考えた。かすみという名は雲が美しく彩られるという意味だが、周りを美しくするという意味で納得するものであった。

かすみは隆三に注文のメニューを聞いてきたが、お任せすると言うと、パスタ、ピザ、ラザニヤ、サラダなどを注文した。隆三はそれに付け加えて生ビールも注文した。

かすみはいかにも呑兵衛風な注文の仕方に笑ってしまった。

「私はまだ学生ですけど、今日の食事は本当に私が持ちます」

「いいよ。お礼なんかしてもらわなくても。木村さんのような人と食事が出来ただけで、私に対するちゃんとしたお礼になっていますから。でも、失礼ですが結構ゆとりがありそうだけど、ご両親のお仕事は何ですか?」

「ママが市議会議員で、パパが小さな会社をやっています」

「嗚呼、そうか。だから余裕があるんだね。理解できました」

店の中のテーブルの間隔は程良くあいていたので、隣の客をあまり気にせず話やすい感じなので、隆三もいつしかかすみに負けずにテンションが上がって行った。

照明のほのかな光が2人を照らしているのだが、本当にイタリアンなのか疑ってしまうほどムードがあるので、目の前の丸い顔の優しいかすみが、新しい恋人のように思える瞬間があった。バックグラウンドミュージックは天井からかすかに聞こえてくるようだ。

 隆三はハートランドの生ビールを飲みながら、かすみと年齢差を感じない話題ができることに不思議な感慨を持った。やはり生い立ちなのであろうか。家庭環境だろうか。ママが議員だから自ずとそうなったのかもしれないと思いつつピザを頬張った。トマトソースやパン生地がしっかりしているので、美味しいと隆三はかすみに呟く。

パスタは生パスタで、小エビと大葉のパスタだった。やがてデザートが出てきた頃には、すっかり2人は打ち解けたようになっていた。

隆三は気持ちが良くなったのか、グラスワインも注文した。

「山口さん。聞きたいことがありますが、先ほどホームで嫉妬心が強くて奥様に対していつも嫉妬していらっしゃるとおっしゃいましたが、本当ですか?」

 隆三は変なこと言わなければ良かったと、後悔する気持ちが湧いたが、アルコールの勢いで、もうどうでも良くなっている自分がいた。

「あるよ。今は息子に対して妻が余りにも優しいから焼いているんだ。はっはっはっ」

 笑ってはいるが聞かれたくないことを聞かれて、思い出して深刻になっている隆三だ。いっそのことこの若い木村かすみに全部喋ってしまいたい誘惑に駆られた。

「でも、そういう話は私も良く聞きます。息子さんが母を愛するエディプスコンプレックスですか。でも現代の日本じゃなくなりつつあるような話も聞いております」

「木村さん、そんなこと良く知っていますね?」

「大学で社会心理学を突っ込んで勉強しておりますので。でも山口さんはそんな包容力の無い人には見えませんが?」

「それが、重症かもしれない」

「大丈夫ですか?息子さんが憎いとかあるんですか?」

「無い、と言ったら嘘になる」

「へぇー、信じられない。普通でしたら時間が経過することによって、解決して行くんですけどね。それほど執着できないというか」

「いや、私はこう言っちゃ恥ずかしいけど好きで堪らない。色んな家庭を見ていると、夫源病や妻源病で離婚とかが多いのにね。私は困ったことに妻に物凄く執着がある。だから息子はある意味敵のように感ずることもある」

「あらあら、しっかりしてくださいね、山口さん。あ、ちょっと上から目線で言ってしまいました。ごめんなさい。でも、ちょっとだけ私の考えを言っても良いですか?」

「全然構わないよ」

「嫉妬というものは恋人同士、夫婦などで必ずあると思います。でも私から見たら嫉妬するのって本当に楽しそうに見えるんですが。私も嫉妬したいし、嫉妬できるのって良いことだって感じます」

「失礼だけど、それは君が好きになった人がいないからじゃないの?嫉妬するのが楽しいなんて初めて聞いたよ」

「私はまだそれほど人生が長いわけではありませんけれど、好きな人はたくさんいます。その好きな人が、自分より他の人の方が好きでも私は構わないのです。それで大いに嫉妬していると楽しいんです」

「そんな馬鹿な、信じられない」

「まあ、落ち着いてこういう考え方もあるんだって聞いていてください。私の尊敬する女性が言っています。喜怒哀楽って嗜好品として楽しむものだから嫉妬も楽しみたいって。私はもろ同感です。嫉妬は高級な嗜好品という考え方にも。実は私にもちゃんと恋人がいます。彼はすごく嫉妬したい人です。でもこの頃はやっと嫉妬するのが楽しいってことが判って来たみたいです。彼の大好きな私という存在は、けっして彼の独占物ではありません。自分の独占物ではないけれど私が好きだというようになって来ました。それに彼は、私がいろんな方に愛されることを最近は望んでいるんです。普通の社会通念だったら、私が何股もかけている最低女になりそうですけど、周りの好きになった人が漏れなく幸せになって欲しいと考えてきたら、このスタイルになってしまいました」

「でもね、その彼が最初木村さんだけを愛する人であったと思うけど、それが一般的な価値観だよね?間違いないよね?その彼が木村さんではない別の人を愛するようになって、木村さんへの気持ちを失って別れ、新しい女性と恋人になることがあるかも知れない。それでも嫉妬は楽しいって言うの?」

「そう思います。彼が他の人と恋人になっても、私は彼を愛しているから何の問題もありません。それに、そうはならないと思っています」

「もし他に恋人ができたら、今付き合っている人と別れようと思いますよね?普通はそうなんじゃないのかな?」

 隆三は狐につままれたような顔をしてかすみを見つめていたが、少し怒りの感情が出てきたような気もした。

「聞いてください。そこが違うのです。私の場合、付き合うとか別れるとかいうのがむしろ理解できません。だから恋人と別れるなんて考えは持ったことがありません。今まで大好きになった彼ら全員が、愛おしく感じられるのです。全員が現在進行中なんです。言っている意味判りますか?」

「判らない。判らないというより、俺たちの頭の中は、大事だと思う1人の人以外は愛してはいけないという概念しか持っていないからね。だから、お互い他に目が行くと激しく嫉妬するんだよ。木村さんが言う付き合ったり別れたりすることがないというのは、全く理解できない世界だよ」

「付き合ったり別れたりしないですね。全員を愛していて逢います。でも私の場合は、みんな普通の考え方を持っていますから、私を理解できないとか、ついていけないとか言われることも多いです。だから結局別れたという結果になっていると思います。でも別れたといっても、その人たちにまた逢うと、恋人だった時の接し方に戻ります。ですので、別れるという概念、付き合うという概念は私にはないのです。ですから嫉妬も楽しめるわけです」

「木村さんの言うことは全く理解できない。ただ理屈として色々な人間がいるから、あり得るかもしれないが・・・・・・

 隆三の心の中に不快感が充満したのか、それから少し沈黙が続いた。木村は相変わらず目を細め微笑んでいる。その微笑みは、もしかすると悪女の微笑みかも知れないと隆三は思った。

 レストランの店長が挨拶に来たので、その話はそれっきりになり、やがて別の話で盛り上がった。

 かすみが最後にまた感謝の言葉を隆三に伝えると、2人は店を後にすることにした。かすみは本八幡駅の南口からすぐ側の自宅に向かって帰り、隆三はまた京成線の方に引き返した。

 

『嫉妬するのが楽しい』

  

 その言葉が酔った隆三の頭の中でぐるぐる回っていた。


試し読みできます

奥付


嫉妬


http://p.booklog.jp/book/109764


著者 : 三輪たかし
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/161890/profile


感想はこちらのコメントへ
http://p.booklog.jp/book/109764

ブクログ本棚へ入れる
http://booklog.jp/item/3/109764



電子書籍プラットフォーム : ブクログのパブー(http://p.booklog.jp/
運営会社:株式会社ブクログ



試し読みはここまでです。続きは購入後にお読みいただけます。

この本は有料です。閲覧するには購入する必要があります。
購入するにはしてください。
有料本の購入に関しては、こちらのマニュアルをご確認ください。
販売価格190円(税込)

読者登録

三輪たかしさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について