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トランボ ハリウッドに最も嫌われた男

トランボ ハリウッドに最も嫌われた男

2016年8月26日鑑賞

 

トランボさん、これもあなたが書いたの?!

 

「ローマの休日」という作品が、もし存在しなかったら、映画の歴史は書き換わったに違いない。

オードリー・ヘップバーンは、グレゴリー・ペックとローマの街をスクーターで駆け抜けていただろうか?

二人のラブストーリーをスクリーンで観る。その感動と楽しみを、僕たちは永遠に失ったかもしれない。その危険は十分にあった。

なぜなら、この脚本を実際に書いたのは「ダルトン・トランボ」という共産主義者だったからだ。

脚本は公開当時、別人の名前が使われた。

やがてオードリー・ヘップバーンは、この作品でアカデミー賞に輝き「世界の恋人」とまで賞賛される大スターとなる。

しかし、彼女を受賞に導いた、当の脚本家の名前は永く秘密にされたのだ。

お話は、1950年代のアメリカ。

いわゆるマッカーシズム、赤狩りが始まったころ。

すでに脚本家として成功を収めていたトランボ。

彼も赤狩りの標的にされてしまった。

その迫害は家族にまで及ぶ。

難を逃れるため、自宅を売却し、移り住んだ先でも「アカ」への偏見、いやがらせは厳しい。

議会に証人喚問され、証言を拒否すると「議会侮辱罪」に問われる。

ハリウッドの第一線で活躍していた、著名な脚本家は、共産主義者というだけで、その活動の場を奪われ、監獄送りとなる。

監獄に入るシーンは印象的だ。

素っ裸で尻の穴まで看守に「検閲」されるのである。

これが、つい60年前まで、本当にアメリカで行われていた実態なのだ。

ただ、このシーンで一つの救いは、トランボを罪人に仕立て上げた人物も、のちに脱税で告発され、ちゃんと監獄送りになる、という点である。

悪い事をしたやつには容赦しない。

どんな地位と名誉を持った人物でもブタ箱に放り込む。

そういう「正義」を実現しようとする姿勢がアメリカにはある。

 

ちなみにアメリカという「国家」は「自由」と「正義」を旗印に掲げたとき、それ以上の価値観が存在しない、ある種の「全体主義国家」になると僕は見ている。

これは極めて注目すべき特性である。

「自由と正義」は「人の命より重い」ことを容認するのである。

結果として、それがどれほどの人命を奪おうとも、アメリカは何度でも間違いを繰り返す。歴史を見る限り、アメリカはそういう国家である、と僕は思う。

本作を観る前、予告編では、ずいぶん、テンポよく進むストーリーなのかな、と思っていたが、意外にも重厚で、緻密な構成を持つ作品に仕上がっている。

この辺りは監督の演出のさじ加減なのだろう。

共産党員たちを目の敵にする、コラムニストの意地悪おばさん役にヘレン・ミレン。

アカデミー賞女優として、深みと味わいのある、惚れ惚れするほどの「悪役」の演技をみせている。

主人公トランボを演じたブライアン・クランストンのウィットに富んだ演技スタイル、その人物造形は見事だ。

ときに気難しくなる脚本家を支える、奥さん役のダイアン・レインがこれまたいいなぁ~。

トランボは一人で闘っていたのではなかった。

迫害への痛みに耐え、なんとか仕事を廻そうとする脚本家仲間たち。

そしてなにより、トランボには愛すべき家族がいた。

仕事中毒とも言えるトランボと、年頃の娘との、ぎくしゃくしたやりとりも、映画の中では微笑ましいエピソードに思える。

なお、アクの強い映画製作者、フランク・キングを演じるのがジョン・グッドマン。

このキャスティングは絶妙!

デンゼル・ワシントン主演の「フライト」でも、クスリの密売人を実に怪しく演じきった。

映画製作者フランクにとって、何より大事なのは、ずばり「金儲け」なのだ。

仕事ができる環境を求めていたトランボと脚本家仲間たち。

超一流の脚本家が、いまなら破格の安値で雇える!

お互いの利害が合致し、フランクとトランボたちは、こっそり手を結ぶ。

「アカの連中」が書いた脚本でも、映画がヒットして銭がバカスカ儲かりゃ「それでOK」と開き直るフランク。

「アメリカの理想を守るための映画同盟」(いかにも、うっとおしい名前ですな)は、「アカたち」を弾圧するのが三度の飯より大好き。

情報網を駆使して、彼らが活動しそうなところを見つけ出してゆく。

強欲の映画製作者、フランクの元にも捜査の手が伸びる。

「彼ら”アカたち”と取引すると、あなたの会社もどうなるか知りませんよ」と脅しをかける。

しかし、脅した相手が悪かった。

金儲けのためなら人殺しでも構わない、というぐらい肝っ玉の据わった人物に、挑発をかけてしまったのだ。

「てめぇ~、誰に向かってモノを言ってる! 舐めんじゃねぇ~!」

このフランクの怒りに暴れ狂うシーンは、むしろ本作において痛快である。

観ているこっちも「赤狩り同盟、ざまあみろ」という心境になる。

本作はかつて、自由と正義を守る国を標榜する、アメリカという国家が、映画界や映画人たちに、どのような迫害を加えてきたかを明らかにする。

もちろんご承知のように、チャップリンでさえ、赤狩りの対象となり、石を投げつけられるように、国外追放されてしまった。

アメリカという不思議な国家の振る舞いや、その闇の部分については、もっと掘り下げ、問題提起することもできるだろう。

本作では、その辺り、映画の終盤、ソフトランディングさせているような印象を受ける。

ただ、自身の名前を伏せてまで、映画脚本を書き続けた、ダルトン・トランボという人物がいたこと。その事実と生き様を知るだけでも本作を観る価値はある。

トランボの脚本家としての桁外れの才能と、映画への熱情に改めて脱帽せざるをえない。

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天見谷行人の独断と偏見による評価(各項目☆5点満点です)

物語 ☆☆☆

配役 ☆☆☆☆

演出 ☆☆☆

美術 ☆☆☆☆

音楽 ☆☆☆

総合評価 ☆☆☆

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作品データ

監督   ジョイ・ローチ

主演   ブライアン・クランストン、ダイアン・レイン、ヘレン・ミレン

製作   2015年 アメリカ

上映時間 124分

「トランボ」予告編映像


リップヴァンウィンクルの花嫁

リップヴァンウィンクルの花嫁

2016年8月6日鑑賞

 

岩井監督が仕掛けた3時間の罠

 

多分、文学少女の気質を持ったまま、大人になってしまった人たちが、岩井俊二監督作品に引き込まれて行くんだろうなぁ~、と思う。

「花とアリス」でもそうだったけど、美しい女性をより美しく、幻想的に映し取る。女優さんにしてみれば、岩井監督作品は一度は出演してみたい、妖しい魅力を放っているのではなかろうか?

本作は主役に、若手の注目株である黒木華、そして相手役はなんと、綾野剛なのだ。以前僕はこの二人の共演作「シャニダールの花」を鑑賞した。

比較的シンプルなSF物というイメージのある作品だが、ガラスを透かして見るような透明感のある美しい映像が、大変印象に残っている。

その人気俳優二人が「岩井俊二ブランド」の作品に登場するのである。

いやがうえにも期待値は高まるではないか!

そこまで持ち上げておいて、意地悪オヤジである僕は、あえて本作の揚げ足をとるのである。

実は、脚本の意図がいまいちよくわからないのだ。

 

主人公の女性、皆川七海(黒木華)は、結婚式を控えている。

しかし、新婦である七海側の出席者は二人しか見つからない。おまけに両親は離婚しており、結納の席で新郎側には知られないよう、仮面夫婦として出席している。

そんな折、七海はネットで「代理出席サービス」があることを知る。結婚式の披露宴などで、親族を装って出席してくれる、というのである。

そのサービスを提供し、窓口となっているのが「安室」という男なのだ。

普段は便利屋と自称する素性の知れない、この男を演じるのが綾野剛だ。

まあ「安室」も本名であるかはわからない。仕事内容に応じて臨機応変に名前を変えている様子なのだ。

七海はそのサービスを利用した。それは七海の「うそ」と「弱み」をまんまと安室に提供してしまう形となった。

結婚したばかりの七海はホテルに誘い出され、浮気現場と誤解されるような罠にはまった。

その現場に、隠しカメラを仕込み回収する、怪しげな男こそ安室だったのだ。

やがて七海は、これらの巧妙な仕掛けにより、夫側から一方的に離婚を言い渡されてしまう。

住む家を追い出され、抱えきれるだけの荷物を持ち、どこへ帰っていいのかも分からない。街を彷徨う七海。

この時の彼女の哀れさ。その描写は見事である。

僕は青春時代に聴いたフォークシンガー、加川良さんの「鎮静剤」という歌詞を思い出していた。

「悲しい女よりもっとあわれなのは、不幸な女です

(中略)

 寄る辺ない女より、もっと哀れなのは追われた女です」

 

この「石を投げつけられるように追われた」哀れな七海に、絶妙なタイミングで救いの手を差し伸べるのが、やはり安室なのである。

かれは七海に住むところとアルバイト先を提供する。

安室に紹介されて七海がたどり着いたのは、豪奢な中世のお城を思わせる大邸宅であった。

主人は旅行中であるという。

留守中にこの邸宅に住み込み、掃除や部屋の管理をしておいて欲しいというのである。

「バイト料は月100万円です。ではよろしく」と言い残し、安室は超高級車のベントレーに乗って帰ってしまう。

実はこの邸宅のメイドは、もう一人いる。

それが自称「女優」の里中真白。

この女もまた、安室の代理出席サービスで偽の親族を演じていたのだった……。

 

さて、安室が七海を離婚にまで陥れたのは、実はある「依頼主」の要望なのである。

その依頼主は「友達が欲しい」という。

依頼主はある病にかかり、余命いくばくもない。できるなら一緒に死んでくれる人物を探していたらしい……という事は、作品の終盤になって分かってくる。

では、七海という女性だけを、わざわざ手の込んだ仕掛けで離婚に追い込み、自分の元に引き寄せる、その「強烈な動機」が必要になってくるはずだ。

つまり「七海」でなければ「イヤだ」という、依頼人の強烈な「こだわり」と「ワガママ」さが、観客に提示されなければならない。

それには依頼主と安室が直接、間接的に接触をもち「七海」というターゲットを設定し、合意するシーンが必要だろう。

ところが本作にはそういったシーンがないのである。

僕が感じた違和感はここにある。

どうしても「七海」でなければならない理由はなにか?

もっとも、中盤過ぎ、邸宅の庭でホースでの水遊びに興じる里中さんと七海のシーンで、僕はトイレ休憩のため中座したので、そのシーンのあと、何かあったのかもしれない。

そうなのだ。本作は、上映時間なんと180分なのである。

超大作の上映時間に匹敵するのだ。

まるまる3時間も、観客を座席に釘付けにするだけの魅力が、本作にあるだろうか?

本作の中盤までは、七海を陥れるための数々の巧妙な仕掛けがなされている。僕はこれは、岩井監督が仕組んだ、とてつもないミステリーではないかと思った。

もしかすると、今まで登場した脇役、全てにいたるまで、精緻なパズルのように仕組まれていて、観客全員をペテンにかけているのではないか?

そして、ラストでの大ドンデン返しがあるのでは? と連想した。

というのも、以前、ジュゼッペ・トルナトーレ監督の「鑑定士と顔のない依頼人」という傑作を観たからである。

あのラストには唖然とした。いい意味で見事に観客全員をペテンにかけたのだ。

また、本作で描かれるのは、女性の「結婚」や「死」といった「女の一生」とでもいえるものだ。それを複数の女性を登場させ、役割分担して描いている。

それは以前劇場で鑑賞した、ギリシャの巨匠、アンゲロプロス監督の「エレニの旅」のような、女の一代記、年代記のようでもある。

そうなると、当然のように長編にならざるをえないのか……。とふと僕はため息をついてしまうのだ。

本作においては岩井監督独自の美意識か、本編のストーリーとは、さして関係のない、プロモーションビデオ風のシーンも幾つか挿入されている。

それらは女優を確かに美しく、幻想的に撮ってはいる。

だがしかし、それだけに、3時間という物理的な時間を、もっと有効に使う手はなかったであろうか? という疑問も出てくる。

2時間分のドラマの内容を、3時間に引き延ばす事はできるだろう。

反対に6時間分の内容を、これ以上そぎ落とせないと「涙を飲んで」カットし、編集した結果「3時間」になってしまったのなら、それは大変濃密な3時間であるだろう。それなら僕も許せるのだ。

岩井監督は何を目指していたのだろう?

その意図が今もってわからない。

分からないから、気になって仕方がない。

この作品から離れられない。

岩井監督が仕掛けた罠に引っかかったのだ。

だから、もう一度この作品を見直すことになるのだろうか?

そのために観客の一人である僕は、また3時間もの間、拘束を強いられるのであろうか? 

その罠にはまることこそ、本作の最大のミステリーなのかもしれない。

 

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天見谷行人の独断と偏見による評価(各項目☆5点満点です)

物語 ☆☆☆

配役 ☆☆☆☆

演出 ☆☆☆

美術 ☆☆☆☆

音楽 ☆☆☆☆

総合評価 ☆☆☆

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作品データ

監督   岩井俊二

主演   黒木華、綾野剛、Cocco

製作   2016年 

上映時間 180分

リップヴァンウィンクルの花嫁」予告編映像


シン・ゴジラ

シン・ゴジラ

2016年8月23日鑑賞

 

ゴジラ映画は3:11を背負えるのか?

 

3:11という「想定外」の出来事が起こって以降、映画に限らず、日本の表現者たちは、もがき苦しんでいるように思える。

僕は何度も、あの津波の映像を見た。

現実離れした、しかし、まぎれもない現実の風景は、浅はかな人間たちの、すべての創作物を飲み込んでゆくようであった。

もちろん「ゲ・ン・パ・ツ」もまた「安全神話」という虚構が生み出した、人間の創作物にほかならない。

あの光景は、表現を志す者にとっても、今まで築き上げてきた、あらゆる虚構・フィクションの世界が「何の価値もない」と自然界から「バッサリ」断罪されたかのようだった。

その圧倒的な現実の前に、人間の表現行為など何の役に立つのだろうか? というニヒリズムに陥る。

あの宮崎駿監督も「風立ちぬ」制作中に、スタッフから「津波や地震の絵は描きたくない」という意見も寄せられたという。

本作の総監督は庵野秀明氏である。

庵野氏も、師匠の宮崎監督同様、並外れた時代のセンサーを持っている人だと思う。

本作「シン・ゴジラ」のHPを見ると、庵野氏自身、一時うつ状態となっていたことを告白している。

その人が、あの3:11をどのように自分の中で消化し、映画作品に反映させるのか?

映画会社に請われるまま、なんでもいいから「ゴジラ」を登場させるのだろうか?

怪獣に傍若無人な振る舞いをさせて、都市を破壊し、人々を恐怖に陥れ、人間どもに自然破壊への反省を促す。

そんな安直でステレオタイプな映画を、庵野秀明が作るわけがなかろう!

とあなたが思うように、僕もそう思う。

メイキング映像を見てみる。

庵野秀明総監督が「とにかく面白い日本映画にしましょう」とスタッフに檄を飛ばしている姿が印象的だ。その姿勢に僕は共感し拍手を送りたい。

やはり、映画の第一条件は「面白い事」に尽きるのだ。

圧倒的なスケール感と、造りこみがなされたゴジラの尻尾。

「ぶぉ~ん」と一振りしただけで

「こんな怪獣来たら、もう助かるわけがない!」

と我々観客に思わせる、そのキャメラアングルの巧みさ。

「ゴジラ」というフォルムとアイデンティティーを特徴付ける、ギザギザの背びれ。その緻密な描写は見事だ。

その体の奥底から肌の色が明るくなったり、黒ずんだりする。

心臓の拍動、あるいは呼吸に合わせるかのように、一定のリズムで収縮する、動物としての表皮。

以前のゴジラファンなら、これらのシーンで拍手喝采しただろう。

しかし、運河を氾濫させ、数々の車を押し流し、都市を壊滅させてゆく「ダークヒーロー」である「ゴジラ」

その姿は、リアルであればあるほどに、その嫌悪感もリアルなのだ。

素直に「怪獣映画」「娯楽映画」と割り切って楽しめないのである。

だって我々は、あの日の出来事を、直接間接的に体験しているからだ。

普段は穏やかな「自然」は、時に人間の想像を超える「暴力的な」素顔を見せる。

本作の主役である「新しい」「真の」ゴジラも、自然の暴力的事象から発生した生物なのだ。 

本作において、ゴジラという未知の生命体について対応を迫られる政府関係者たち。

その曖昧な態度は、なるべく責任を回避しようという意図が見て取れる。

そこへアメリカから圧力がかけられる。

「日本政府はゴジラに対応できる能力はあるのか?」

アメリカは疑う。

その米大統領特使として、石原さとみがクールな役どころを演じている。

福島原発事故の際、実際アメリカからの圧力があったようである。

その象徴的な例が、あの自衛隊ヘリコプターによる海水の空中散布である。

高い被曝線量の危険性がある至近距離から、海水を原子炉めがけて落下させるというミッション。

あれは文字どおり決死隊である。

アメリカ側は「英雄的な犠牲」を求めていたという。死ぬかもしれない任務について、命令と人選を行う、現場指揮官の苦悩は容易に想像がつく。

危機的状況にあって、欲しい情報は入らず、混乱する政府および対策本部。

本作では「未知の巨大生命体」が襲ってきた、という「想定外の事象」の場合、政府のどの機関がどのように動くのか? 

その会議のシーンがおよそ三分の一以上を占めているのである。

しかしこれが退屈なシーンとはならない。

緻密な取材をもとに書かれたシナリオは、通常の映画の二倍の分量になったという。

それは、専門用語を駆使し、早口で議論を闘わせる官僚たちの会議を「群像劇」として描くために必要だったのだ。

政府のエリート官僚に長谷川博巳や竹野内豊をキャスティングしたのは、ちょっと意外だったがすぐに納得がいった。

彼ら官僚は主役として出しゃばらない。政府の顔として世間に出るのは、あくまで「大臣」なのである。

エリート官僚たちは大臣を陰で支え、必要に応じて影響力を行使する。まさに切れ味鋭い、カミソリのような知的「影武者」なのだ。

その役どころとして長谷川博巳、竹野内豊、両氏の起用は的を得ている。

また、注目すべきは本作の上映時間である。

119分。台本は通常作品の二倍の厚みがある。

しかし、完成作品は2時間より、1分だけ短いのである。

この「1分だけ短い」という事に、僕は庵野監督および、樋口監督の「プロとしての意地」を感じる。

「ゴジラ映画」なら、途中休憩も入れて3時間以上の大作にする方法だって許されるだろう。

かつての渡辺謙主演「沈まぬ太陽」のように、3時間を超え、休憩時間を設けること自体が話題を呼んだ、という既成事実がある。

本作でもその手法で観客動員は見込めるのではないか?

しかし、映画のプロとして、上映時間と、1日の上映回数といった興行面への配慮がもちろんあったのだろう。

庵野、樋口両監督はこの作品をあえて119分に仕上げた。

本作においてゴジラは紛れもなく、3:11の津波に象徴される「自然界から人間界への警告の象徴」として現れている。

未曾有の自然災害で失われた、ひとりひとりの命。肉体だけではなく、その人の背負ってきた人生という膨大な記憶の遺産、そして「あるはずだった」その人の将来や未来さえ、奪っていった。それを「数」という記号でしかカウントできない、悔しさ。命の「質量」手触りや「重み」

それを背負って、クリエイターたちは、今後、何をどう表現し続けていくのだろうか?

 

現実には、原発事故の後始末は、あと何十年かかるのか? 目処も立っていない。

残留放射能はどこにどれだけホットスポットがあるのか?

それも曖昧なままだ。

そんな現実が足元にありながら、僕らは今のところ、ごく平穏に日常生活を送っている。

「想定外」だから「シ・カ・タ・ガ・ナ・イ」

みんな、自分を納得させ、諦めているのだろうか?

そのうえ「原発事故は人災ではない」と黙認してしまうのか?

この世の中には、辛いことを忘れさせるための、楽しいことが山ほどある。

それらにより、幾重にも巧みにヴェールで隠された、日常生活の現実はホラー映画以上の恐ろしさだ。

そういう「公然の秘密」という地下水脈が走る日本列島で、僕たちは新しいゴジラ映画を体験するのである。

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天見谷行人の独断と偏見による評価(各項目☆5点満点です)

物語 ☆☆☆☆

配役 ☆☆☆☆

演出 ☆☆☆☆☆

美術 ☆☆☆☆☆

音楽 ☆☆☆☆

総合評価 ☆☆☆☆

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作品データ

総監督      庵野秀明

監督・特技監督  樋口真嗣

主演       長谷川博巳、竹野内豊、石原さとみ、大杉漣

製作       2016年 

上映時間     119分

「シン・ゴジラ」予告編映像


後妻業の女

後妻業の女

2016年9月1日鑑賞

大竹しのぶは演技怪獣ゴジラだった。

 

「生きるのに必要なのは欲望だ」とチャップリンは「ライムライト」の中で言っている。

ということは「スケベ」と「金」が大好きな人は、人間という動物としてむしろ健全なのかもしれない。

本作は結婚相談所の所長の目を通して、人間のあられもない、むき出しの欲望を描いてゆく。

物語はテンポ良く進むし、観客を飽きさせない工夫がなされている。良くできた脚本であると思う。

そして何よりキャスティングがいい。

結婚相談所の所長であり、やり手の青年実業家、柏木亨に豊川悦司。

そして彼の古くからのビジネスパートナー、竹内小夜子に大竹しのぶ。

この二人が狙うのは老人である。条件がある。

①資産を持っていること

②独り身であること

③病気持ちで余命が永くないこと。

結婚相談所の柏木は、熟年向けの婚活パーティーをひらいている。

この席にはもちろん小夜子も「仕込み」として出席している。

ふたりはここで、上記3項目に当てはまりそうな相手を見つけ出す。

このようにして小夜子は、いままで8人の男の妻となり、柏木とともに遺産をまんまと手に入れてきた。

 今また9人目のターゲットが目の前にいる。

 元女子短大教授の中瀬(津川雅彦)である。小夜子は首尾よく中瀬の「後妻」の座に就き、筋書き通り夫は間も無く病に倒れる。中瀬の遺産は、今回も小夜子と柏木の手中に転がり込むはずだった。

しかし、ここで中瀬の次女、朋美が立ちはだかる。気の強い一級建築士、朋美は友人の弁護士、守屋に、今回の遺産相続の件を相談した。

弁護士守屋は小夜子の正体を見抜く。

「これはプロの手口だ。『後妻業』だよ」

こうして後妻業のプロフェッショナル、小夜子・柏木チームと、朋美たちとの、遺産を巡る闘いが始まるのである。

この時、小夜子たちが朋美の前に、誇らしげにかざして見せるのが「公正証書遺言」である。

僕の知人の行政書士さんは「終活」講座を開いている。今、大流行りである。その席で、必ず受講者に勧めるのが「公正証書遺言」を作っておくこと。

講師の彼の話では、遺産相続を巡り、骨肉の争いになるのは、意外にも少額の遺産の場合が多いそうである。なかには相続の話し合いの場で、包丁を持ち出して大荒れになったケースもあったそうだ。

そんな不毛な争いを一発で解決するのが「公正証書遺言」なのである。

本作の小夜子と、所長の柏木は、この書面の効力が、いかに絶大なのか、をよく知っているのである。

本作での見所は、もちろん、大竹しのぶと豊川悦司の切れ味のいい演技の「饗宴」だろう。

大竹しのぶ、という女優。

今までどれだけの称賛を浴びてきたことか。

本作を見て改めて

「ああ、この人は怪物だな」とおもう。

というより「演技怪獣だ」と思った。

表面上は大竹しのぶという「着ぐるみ」を着ているが、中身はじつは「演技怪獣ゴジラ」なのではないか? とさえ思える。

本作では、狙った獲物である資産家の老人たち、その人生や親族までをも、まさにゴジラさながら、破壊しまくってゆくのである。

小夜子にはやがて、朋美という強敵が現れる。

演じるのは尾野真千子である。

実際、この二人は焼肉店のシーンで、人目もはばからず、取っ組み合い、殴り合いの大立ち回りを演じる。

「そして父になる」で共演した真木よう子に言わせると

「私よりオッさん」という尾野真千子。

根っからそういうキャラだからこそ、怪物女優大竹しのぶのほっぺたに、遠慮なく平手打ちを食わせることができるのだろう。

結婚相談所所長役の豊川悦司の演技も良かった。

一言で言えば彼の役どころはインテリヤクザなのだ。

銭と法律に関する知識と経験。人を操る人心掌握術。ヤバイ状況に追い込まれてもとっさに機転を利かせ、危機を紙一重ですり抜けてゆく男。

やはり才能がある。

一流の「ワル」になるためには、もちろん、それなりの努力も必要だ。

どういうシナリオでお宝を手にするのか? その企画力と見識、さらに、こまめに動くフットワークの軽さ。何より働き者でなければならない。

金が持つ魔力に取り憑かれた、人物たちを描いた傑作として、伊丹十三監督の「マルサの女」

「マルサの女2」がある。

見事なまでの巧妙で精緻な脱税の手口。描かれる人物像を見ていていつも思う。

金のため、脱税のため、それだけの努力ができるのであれば、どんな職業についてもそれなりに成功を収めるだろう。では、なぜ合法的な経営をしないのか? 疑問は残るが、本来まっとうな人間の感覚さえ、麻痺させてしまうのが「お金」の魔力ということなのだろう。

 

なお、本作においての笑福亭鶴瓶氏の演技は、まあ悪く言ってしまえば「客寄せパンダ的」である。

この人ほど、映画やドラマで「演じる」ということに関して「魂の入り方」がすぐわかってしまう人も珍しい。今スイッチはオンなのかオフなのか、素人にでもわかるのである。

本作ではもちろんオフの状態の演技なのだが、それでも完成版でOKを出したのは監督である。

本作において、この人物抜きにしても、ストーリーの流れとしては全く影響はない。笑福亭鶴瓶氏の、役者として最高の演技を引き出したのは、西川美和監督である。「ディア・ドクター」をみれば、バラエティ番組などで稀有な才能をみせてくれる、上方落語家が、一旦役者のスイッチが入った時、その潜在的能力のすごさに圧倒されるだろう。

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天見谷行人の独断と偏見による評価(各項目☆5点満点です)

物語 ☆☆☆☆

配役 ☆☆☆☆

演出 ☆☆☆☆

美術 ☆☆☆

音楽 ☆☆☆

総合評価 ☆☆☆☆

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作品データ

監督   鶴橋康夫

主演   大竹しのぶ、豊川悦司、尾野真千子、笑福亭鶴瓶

製作   2016年 

上映時間 128分

後妻業の女」予告編映像


奥付



2016・9月号 映画に宛てたラブレター


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著者 : 天見谷行人
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/mussesow/profile


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