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森の紫陽花(もりのあじさい) 現代語訳

 

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森の紫陽花_現代語訳[1]

 千駄木せんだぎの森の夏は昼でも暗い。ここの森は必ずしも深いというわけではないが、周囲をぐるりと樹林きばやしに取り巻かれているため、不動坂ふどうざか団子坂だんござか巣鴨すがもなどに縱横たてよこに通っている蜘蛛くもあしのようなみちは、ちょうど夕暮れ時に辿たど木深こぶか山路やまじのようである。もっとも、小石川こいしかわ白山はくさんの上、追分おいわけのあたりより、一帯いったい高台たかだいとなるが、差しる日の光はうすいので小雨こさめあとでもみちは乾かない。この奧に住む人の使っている女中が、青物市場あおものいちばに野菜を買いに出るのに、いつも歯の高い足駄あしだを履いて、それでもぬかるみで爪先つまさきが汚れてしまい、特に『水溜みずたまりには、ひるも泳いでいるのではないか、』と思うほど気味が悪いのに、ただ一重ひとえ森を出れば、吹き通る風が砂をき上げ、雪駄せったをちゃらちゃら軽く鳴らして人が通っている。いっぽうこちらは着物のすそ端折はしょって、しかも履物はきものは泥だらけ。『の字ではない、山奥まいのしるし足跡あしあとを、白昼の道にぺたぺたすのが恥ずかしい、』などと愚痴ぐちをこぼす。
 以前、雨の降るに、私がその人の家をして我が家わがやへ帰る際、そもそも親もおらず、情人いろ提灯ちょうちんは持たぬの気楽さで、やぶの前、ほこらのうしろ、右も左も畑の中を拾い選んで、じゃの目のからかさを背中に斜めに引ッかついで歩いたのはよかったが、どうかすると、でこぼこみちのぬかるみのねに冷やりとして、ただでさえ頼りない不安な気持ちなのに、やがて追分おいわけかたに出ようとして、森の下に入ったところ、ややッ、御先おさきはもちろん左右も真っ暗、黒白あやめもわからぬ。それまでは、『春雨はるさめにしょぼとれたもよいものよ、夏は一層いっそう、』と、はらはらはらと降りかかる春雨を、われながら恥ずかしいが、ちッと色事いろごとの情趣を知ってるような顔でそでにうけて、しゃくしゃくと余裕があったものの、急にからかさと一緒に肩をすぼめて、泳ぐような格好かっこうで、右手めてさぐり動かすと、竹垣たけがきれたのが、するすると手にさはる。左手ゆんでは、持った傘のさぐりながら、顔だけを前に出せば、この時、風も木々にさえぎられてはげしくは当たらない空から、蜘蛛くもの巣がほほにかかったのもわびしく感じた。それほど降っているとも思えなかったが、やっとのことで木立を出ると、町のかた車軸しゃじくを流すような大雨であった。
 蚊遣かやりのけむり古井戸ふるいどのあたりにこもる、友の家の縁側えんがわはしにやって来て、地切ぢぎりの強い煙草たばこかす植木屋は、『自分は長年この森に住んでいる、』と言って、『初冬はつふゆにもなれば、汽車の音のとどろきの絶え間たえまこがらしの吹きむトタン、時雨しぐれの来るその時その時に、きつねたぬきが今もく、』と話すのである。実際そのとおりに違いない。ただ、狸の声は、この老夫おやぢの耳にはどのように聞こえるのであろうか。


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