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婦系図[前編](おんなけいず ぜんぺん) 現代語訳

 

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鯛、比目魚

        一

 素顔に塗った口紅が美しいから、その色から発するように思われるけれども、可愛かわいは、唇が鳴るのではない。おつたは、きれいな白い歯に酸漿ほおずきを含んでいるのである。…
早瀬はやせ細君レコはちょうど(二十はたち)と見えるけれど、実は二十三だとサ。その年で酸漿を鳴らすんだもの、どういうおんなかだいたい素性すじょうも知れるというもんだ、」とまわり近所は官吏かんり役人やくにんの多い、屋敷町やしきまち奥様おくさま連中がうわさをする。
 実際昨夜ゆうべも、神楽坂かぐらざか縁日えんにちで、桜草さくらそうを買ったついでに、いいのを選んで、黒繻子くろじゅすに白の裏を付けた昼夜帯ちゅうやおびの間にはさんで帰った酸漿を、となりの娘―女学生に、『一ツあげましょう、』と言って、『そんな野蛮やばんなものはらないわ!』と拒絶きょぜつされて、『生意気なまいきな、』とおつた口惜くやしがった。
 それに対する仕返し、面当つらあてというわけでもないだろうが、ちょうどその隣の娘の部屋と、垣根かきね一ツへだてたこの台所の、腰障子こししょうじの横に、ふところに手を入れたたずんで、何だか退屈そうに、しきりに酸漿を鳴らしていたが、ふとびんのほつれた銀杏返いちょうがえしを傾けて、目をぱっちりとけて何かを聞き澄ます様子ようすをした。
 コロコロコロコロ、クウクウコロコロと声がする。おつたが酸漿を鳴らすにつれて。
 ちょいと吹くのをめると、すぐに寂寞しんとして、その声が止まって、ぼッと腰障子へ暖かく春の日は当たるが、のきつたう猫もいないし、雀の姿も見えない。
『鼠かしら、』と思ったらしく、お蔦は斜めにたなの上を見遣みやったが、鍋も重箱じゅうばこもかたりともいわず、また古新聞もがさりともしない。
 あたりを見ながら、うっかり酸漿に歯がれる。とそのかすかなにもただちに応じて、コロコロ。その出所でどころに少し見当けんとうが付いて、続けざまに吹いてみると、すぐさまクウクウと、調子を合わせる。
 これをはっきりと聞いて、
「おや、」と言って、一段、下の流しの板敷いたじきへ下りると、おげんという女中が、今さっき、玄関へ来たお客を取り次ぐため、いてここから駆け出した草履ぞうりが一ツ、乱雑に黒い裏を見せて引っくり返っている。それを、白い指でちょいと直し、素足に引っ掛け、がたりと腰障子を左へ開けると、十時過ぎの太陽が、向こうの井戸端いどばたの、やなぎの上から斜めに、台所へすみずみまでし込んで、まないたの上にそろえた、ほうれん草の根を、くれないに照らしているだけ。
『たぶんあれだろう、口真似くちまねをするのは、』と見当けんとうをつけた御用聞きの酒屋の小僧は、どこにも隠れてはいなかった。
 お蔦は怪訝けげんそうに眉をひそめながら、そのくせうっとりした、くつろいだ顔つきで、今度は口ずさむというよりもわざとためしにククと舌の先で音を出す。するとまたその響きに応じて、コロコロと来たが、こっちは一吹きで止めたのに、向こうは調子づいたとみえて、コロコロコロ。
 これを聞いて、お蔦はかがんで、ゆかれている半纏はんてんすそを引き上げ、着物の前合わせをひざに挟んで、そッと腰障子から身を乗り出すようにして、すぐ目の前の、下水のまりに目を向けた。
 もちろん、溝板どぶいたふたがあるから、その姿は見えないけれども、やさしい連弾つれびきはまさしくその中から聞こえてくる。
 お蔦がみを浮かべて、クウクウと吹き鳴らすと、コロコロと拍子ひょうしそろえて、さっきより近づいただけ音が高く、調子もえてカタカタカタ!
「蛙だね。」
 とにっこりして、その唇を染めたべにのように、酸漿を指に取って、襟元えりもとを軽く打ちながら、
「かわいいね。お源や……」
『来て御覧ごらん、』と呼ぼうとして、声が出たのを、お蔦はおさえて酸漿をまた吸った。
 ククと吹く、とカタカタ、ククと吹く、とカタカタ、まるで蝶々ちょうちょうの羽で三味線さみせんの胴をうつように思われて、静かに高くなる春のが、お蔦のそでに二三すんした。
 その時、「おうッ、」といきなり遠くから、長く引いた威勢いせいのいい声。
 来たのは江戸前の魚屋で。


        二

 そこへ、台所と居間のへだてを開け、茶菓子を運んで、二階から下りて来た、お源という、ちッと感じのいい島田髷しまだまげの女中が、逆上のぼせたような顔つきで、
「奥様、魚屋がまいりました。」
 するとお蔦は、
「大きな声を出しちゃいけないよ。」
 振り向いてそう小声こごえで軽くしかり、お源がうしろを通れるように、身をひらきながら、
「二階に聞こえるじゃないか。」
 と目配めくばせをすると、お源はにっこりしてうつむいたが、ほんのりあかくしたその顔を、勝手口から外へ出して路地の方へ目を向ける。
奥様おくさんは?」
 とその顔へ、ぶつけるように掛かる声。これがまた先ほどの『おうッ、』の調子で響いたので、お源があわてて、手を振って押しとどめたところへ、盤台はんだいを肩にかついでぬいと立った魚屋は、渾名あだなを『(め)組』という、この辺りでは有名なしばッ子。
 着ている半纏はんてんは薄汚れて、腹掛はらがけは色がせ、三尺帯さんじゃくおびじくれて、股引ももひきちぢんでいる、が、魚を入れた盤台は美しい。
 いつもは鉢巻はちまきひたいの前で結んでいるが、ここ四五日陽気がほかほかするので、今日はひしゃげた帽子を斜めにかぶっている。けれどもちっとも涼しそうには見えぬ。例によって朝から御酒ごしゅを召し上がった、赤ら顔の、とろんとした目で、お蔦がそこにいるのを見て、
「いらっしゃい、奥様おくさん、へへへへへ。」
「おしってば、嫌味いやみじゃないか。お源もそうだよ、」
 と指の先で、びんをちょいときながら、袖を女中の肩に当てて、
「お前もやっぱりそう言うんだもの。半纏はんてんを着た奥様おくさんが、江戸にあるものかね。」
「だって、ねえ、(め)のさん。」
 とお源はお蔦の袖をすり抜けて、まないたの前へしゃがむ。
「それじゃ御新造ごしんぞと言やいいのかね。」
「そんなおあしはありゃしないわ。」
「じゃ、おかみさん。」
「あいよ。」
「へヘッ、」
 と魚屋は一ツ胸を揺すって笑いながら、盤台を下ろして、天秤てんびんを立て掛ける時、ほうれん草を揃えている、お源の背中を上から見て、
「相変わらず大きな尻だぜ、台所だいどこいっぱいだ。まったく信じられねえ。目方めかたはかったら、いったいどのくれえあるだろう。」
「お前さんの図々ずうずうしさくらいありますのさ。」
「あんなこと言いやがる。はははは、奥さんのお仕込みだろう。」
「(め)の字、」
「へい、」
「二階にお客さまがいるじゃないか。奥様おくさんはおよしと言うのに。」
「おっと、そうか、」
 魚屋はぺろぺろと舌を出して、
「どうしてまた、日陰者ひかげものにしておくんだろう。こんな情け深い、気前のいい…」
「今日は値切らないよ、」
「ほんとによ、所帯しょたいのやりくりの上手うまねえさんを。まったく物わかりの悪い旦那だんなじゃねえか。」
「いいんだよ。わたしが納得なっとくしているんだから、」
 と切れ長の目をせ、お蔦はえりおとがいをつけたが、それが実につつましく、しおらしく、かつ湿しめやかに見えたので、(め)組もおとなしくうなずいた。
 そこへお源が横から口を出して、
「今日は何があるの。」
「へ、野暮やぼな事を聞きなさんな。いつも通りうめえものを食わしてやるのよ。黙って入れ物を出しねえな。」
「はい、はい、どうせ無料ただ頂戴ちょうだいいたしますものでございます。(め)のさんのお魚は、現金でも月末つきずえにまとめてでも、これまで一度も、お代をお取りなさったことはございませんからね。」
「皮肉を言いやがるぜ。どっちにしろ、おめえはどうせただで頂くんじゃねえか。」
「大きなお世話だよ。はいはい、私は御主人様から頂きます。」
「あれ、見ろや。奥様が島田を揺すぶって笑ってら。」
「ちょいと、二人仲良くそんなにいがみあっていないでさ。お源や、お客様に御飯ごはんをお出しした方がいいかねえ。」
「さあ、どうでございますか。婦人おんなの方ですから、そんなに、お話は長くかからないでございましょう。」


        三

「だってお前、すぐには帰りそうもないじゃないか。」
 とお蔦が言って、(め)組がふたはずした盤台をそッとのぞくと、たいつややかな色が輝いて、歌川広重うたがわひろしげの絵を見る風情ふぜい。そこに柳の影はうつってはいないが、河岸かしの朝の月影は、まだそのうろこから消え去ってはいないのである。
 (め)組がそこにまないたをポンと渡し掛けたかと思うと、目から尾まで一尺の鮮紅からくれないが、りを打ってひらりと乗る。
 とろんと酒でにごった目には似ず、手にキラリと出刃包丁を真魚箸まなばしのように構えて、
「刺身かい。」
「そうねえ、」
 とお蔦は、半纏のそでを合わせて、ちょっと首を傾ける。
「焼きにしようかねえ。昨日も刺身だったから…」
 これを聞くと同時に(め)組は仕事に取り掛かり、腕のえに、さッと包丁の風が吹いて、鱗がぱらぱら。
「ついでに少々焼き餅やきもちをお焼きなさいますのなども、また、へへへへへ、およろしゅうございましょう。おいでになっているのは御婦人のお客で、お二階じゃずいぶんお話が長くなるようでございますから。」
「おあいにくさま。お客は旦那様のお友達の母様おっかさんでございます。」
『(め)の字が鯛をおろす姿は、いつ見ても本当にいい、』とその評判の手つきに見惚みとれながら、お源が横から口を入れる。
 魚屋はえらを一突き、ぐいと放して、
「そいつはがっかり。いつかの新切れじゃねえけれど、この(め)の公、塩が回り過ぎてしょぼしょぼだい。」
「そう言や、(め)の字、」
 とお蔦は片手を懐に、するりとなめらかな黒繻子くろじゅすの襟を引いて、
「この前『行っておくれ、』ッて頼んだ、河野こうのさんとこへ、そののち回ってくれないッていうじゃないか。どうしてだい?」
「むむ、河野ッて、何かい、あの南町のお屋敷やしきかい。」
「ああ。『なぜか、魚屋が来ない、』ッて、昨日も河野さんがうちへ来て、旦那にそう言っていなすったよ。行かないのかい、」
「行かねえ。」
「ほんとうに?」
「行きませんとも!」
「なぜさ、」
「なぜッて、おめえ、あのけだものめが、」
 お源があわただしく、
「(め)のさん、」
「何だ。」
「ちょいと(め)のさん。お前さん、今お二階に来ていらっしゃるのはその河野さんの母様おっかさんじゃないか。気をつけなさいよ。」
 魚屋は帽子をすっぽりかぶって亀の子のようにすくみ、
「オットいけねえ。へえ、あすこにいるなあ隠居いんきょだけかと思ったが…」
「いいえね、つい一昨日おとといあたり、故郷おくにの静岡からおいでなすったんですとさ。私がお取り次ぎに出たら『河野の母でございます、』とおっしゃったわ。」
「だから、『母様がみえたのに、おいしいものがない』ッて、河野さんが言っていなすったのさ、お前、」
「おいしいものが聞いてあきれら。へえ、そして静岡だってね。」
「ああ、」
「静岡と言やあ、御維新ごいしん以来、江戸ッ子の親分の、徳川慶喜とくがわよしのぶ様が行っていたとこだ。それにく申すこの(め)の公も、江戸城を明け渡して、落人おちうどになった時分、二年ばかしいたことがありますぜ。
 馬鹿にするなッてんだ。大親分がいて、それからわっしがいた土地だ。そこのやつらも大概てえげい江戸ッ子になってよさそうなもんだのに、またどうして、あんなけだものがいるんだろう。
 聞いてくんねえ。
 こないだもね、おめえ、ほんとのことを言うとお前、他のうちから一軒かけ離れた、あすこへくのは苦労なんだけれども、ちとあったかくもなったし、『いいうおがなくッて困るッて言いなさるから、行ってお上げ、』とお前さんが言うから、『チョッ、蔦ちゃんのお頼みだ、義理もあるから回ってやるか、』と二三度行ったのよ。で、何だ、ある時おめえ、『おう、先公、いるかい、』ッて、景気よく呼んだと思いねえ。」
 お蔦はにっこりして、
「『せんこう』ッて誰のことだい。」
「もちろんここの旦那の、お友達よ。河野さんは、学士だか、学者だか、先生だとか言うこッたから、一ツうやまってそう呼んだのよ。」
 と話しながら、鯛のひれをばっさり。


        四

「いいじゃねえか、おめえ、先公だから先公ッて呼んだのよ。何も野郎とか兄弟きょうでえとか言ったわけじゃねえや。」
 と魚屋は庖丁の先を危なっかしくすべらして、鼻の下を引っこすって、
「すると何だ。肥満ふとっちょ下女おさんどんが、ぶっちょうづらをしゃあがって、『旦那様とか、先生とかお言いなさい。御近所へ聞こえます、』とかしやがるじゃねえか。
 ええイ、そんなにおべっかを使われたけりゃ三太夫さんだゆうでもかかえればいい。言うことにいちいち注文を付けられるくらいなら、はばかりながらわっしあ酒もくらわねえし魚も売らねえ。お源ちゃんのめえだけれどもよ。おっとそう思ったら、お尻の方だ。」
「そんなにお邪魔なら退けますよ。」
 お源が俎を直して向き直る。と顔を見合わせて、
「はははははは、今日こんちわあ、」
「何かい、それで腹を立ててかないのかい。」
「いや、そん時はお前さんに免じて癇癪かんしゃくの虫をおさえつけた。で、翌日あくるひも回ったがね、今度は言いぐさがなお気に食わねえ。
『今日はもうおかずができたかららないよ、』だとサ。それを聞いて『さようでございますか、』なんぞと言えやしねえじゃねえか。わっしあきなう魚だって、人により、品によっちゃ好ききれえのあるのは当たりめえだ。だからものを見てよ、その上で欲しくなきゃせばいいんだ。食いたくもねえものを勿体もったいねえ、お付き合いに買うにゃおよばねえ。食い過ぎてげっぷしながら、はしで突ッつき回された日にゃ、だいいちうお可哀相かわいそうだ。
 こっちはおめえ河岸かしで一番に見つけるつもりで、いいものを仕入れてよ、そいつを一ツおいしく食わせてやろうと、汗だくになって駆け付けるんだ。醜女すべた情人いろを探してるわけじゃあるめえし、『もうできたからいいよ、』で断られちゃ、まったくわりに合わねえ。な、そうだろう、蔦ちゃんの前だけれど、」
「今度はわたしが後ろを向こうか。」
 とお蔦は、下にしゃがんでいる女中の上から、向こうの棚へ手を伸ばして、摺鉢すりばちせた目のあらざるを取る。
「そらよ、こっちが旦那の分。こりゃお源坊のだ。奥様おくさんは(あら)がいい、醤油しょうゆなり塩なりで煮て、頭をかじって、目玉めだまをつるりと吸うんだ。」
「わたしは頭を噛るのかい。」
 お蔦はにっこりして、(め)組にその笊を持たせながら、指の先で、きよらかな鯛の目をちょいとさわる。
「何だねえ、まるでワンワンに言うようだわ。失礼な。」
 とお源は柄杓ひしゃくで、がたりと手桶ておけの底から水をむ。
田舎者いなかものめ、そんなことを言うやつあ河野の屋敷へ移りやがれ。朝飯にぎゅうを食う犬はあっても、てえの目を食った犬は昔から江戸にゃいねえんだ。」
「はい、はい、どうも失礼いたしました、」
 とお源は手桶を引っつかみ、腰を伸ばして、外へ出て、溝板どぶいた下駄げたで鳴らす。
「あれ、乱暴に踏むんじゃないよ。その下にわたしの情人いろがいるんだから。」
「情人がかい。」
「へい、」
 とだけ言って、『こっちは忙がしいんですよ、』という顔つきで、女中はお蔦の言葉を聞きてにして、井戸端いどばたへかたかたと行く。
みぞの中に、はてな、何がいるんだい。」
 魚屋は印半纏しるしばんてんの腰を落として、溝板どぶいたあたりを指さしながら、ひしゃげた帽子をくるりと回して、
「変わった情人だね。」
「見せようか。」
是非ぜひお目にかかりてえね。」
「ちょいとお待ち、」
 とお蔦はざるを流しへ。そうして立ち直って腰障子へ手をかけ、どぶの上に背伸びをして、今度は心の準備をして勿体もったいぶって酸漿ほおずきをクウと鳴らすと、言い合わせたようにコロコロコロ。
「ね、可愛かわいいだろう。」
 カタカタカタ!
けえろだ、蛙だ。はははは、こいつアいい。なるほど蔦ちゃんの情人かも知れねえ。」
朧月夜おぼろづきよう情人なんだよ。」
 得意そうにました顔は、柳に対して華やかである。
「畜生め、その憎らしい顔をおがんでやれ。」
 と物好きにしゃがみ込んで、溝板をけようとする、その(め)組の手つきは手品てじな玉手箱たまてばこふたを開けるようである。
「お止しよ、逃げるから、」
 と言うところへ、しとやかに、階子段はしごだんを下りる音。それと同時に井戸端いどばたで、ざあと鳴ったのは、柳の枝が風になびいたのではない、お源が長閑のどか釣瓶桶つるべおけかえしたのである。


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見知越

        五

 続いてドンドンと荒っぽく下りたのは、名を主税ちからという、当家とうけ早瀬はやせの主人で、そのあとすぐに玄関から声が聞こえる。
「では失礼、河野さんに…また…お遊びに。さようなら。…」
 格子戸こうしどの音がしたのは、客が外へ出たのである。その時、お蔦の止めるのも聞かないで、どぶの中の連弾つれびきを見届けようと、いきなりその蓋を取り払った(め)組は、お蔦がすっと身を退いて、腰障子の陰へ立ったまま隠れたので、『ああ、落人おちうどでもないのに気の毒だ、』と思って、蛙の姿も見届けないで、『客はどんな人間だろう』と、格子からいま出たところをかして見る。トそこで一度腰をかがめて、立ち直った束髪そくはつは、さっきからうわさされていた、河野の母親という女性にょしょう
 黒の紋織もんお羽二重はぶたえ紋付羽織もんつきばおり、ちとたけの長いのを襟を詰めて着た後ろ姿。せがれが学士だ先生だということからもだいたい知れる、その年は隠せず、髪は薄いが、くしにてらてらとつやが見えた。
 背は高くて、小肥こぶとりにふとった肩がややいかっているのは、妙齢としごろの娘には欠点だけれども、この位の年配で、身なりがいいと威厳いげんそなわる。その肩にげ茶色の肩掛ショオルをしているのは、今日あたりの陽気にはいささか邪魔だろうと思われるが、これも近頃は身嗜みだしなみの一ツで、貴婦人の皆様方は、菖蒲あやめの時季が過ぎてもおしになるものである。
 そのお姿ですぐにお帰りになるかと思うと、さらにそれから両手へ手袋をめたが、それを念入りに片方ずつ手首の方へぐッとしごいた時、襦袢じゅばんの裏のあかいのがチラリとかえる。
 大体だいたいの年齢を心の中で見積もった(め)組は、そのちらちらを一目見ると、ややッ、まるで火の粉が飛んだように、へッと首をすくめた。そこへお蔦が小さな声で、
「まだ、花道はなみちにいなさるのかい?」
付け際つけぎわ々々つけぎわ、舞台のそばさ、」
 ともう一度(め)組が首をすくめた時、先方さきは格子戸に立てかけた蝙蝠傘こうもりがさを手に取って、ご丁寧ていねいにまたもや会釈えしゃくがある。
「まったく芝居みてえな顔つきだ。いようッ!」
 と言って魚屋はあわてて口をふさいだ。声はもちろん聞こえないだろうが、こちらに人のいることは気付かれたろう。
 実際、客はこちらを振り返って、ひたいの広い、鼻筋の通った顔で、きッと見た。その目が光って、そのまま悠々ゆうゆうと路地を町の方へ。―もちろん勝手口かってぐちは通らないのである。(め)組はつかつかと二歩か三歩踏み出して、
「おやおやおや、」
 調子はずれな声を放って、手を広げてぼうッとなる。
「どうしたの。」
 とお蔦が聞くと、
「おかしいぜ。」
 と急に威勢いせいよく引ッ返して、
「あれが、今のが、その、河野ッてえのの母親おふくろかね。それで故郷くにあ、静岡だって?」
「ああ。」
うち医者いしゃじゃねえかな。違うかな。」
「どうした、(め)組。」
 とその時無造作むぞうさに台所へ現われた、二十七八のこざっぱりした男は主税ちからである。
「へへへへへ、」
 満面にみを浮かべて、(め)組は斜めに被った帽子の中から、夕焼けのような顔色がんしょく
「お早うござい。」
「何が早いものか。もう午飯おひるだろう、何だい今日の御馳走ごちそうは、」
 とのぞき込んで、
「ははあ、てえだな。」
たいとおっしゃいよ、みッともない。」
 とお蔦が笑う。
「他の魚屋の商うのはたいさ。けれど(め)組のだけはてえよ。なあ、めい公。」
ちげえねえ。」
「だって、貴郎あなたはそんながらじゃないわ。旦那様は上品に鯛魚たいとととおっしゃるもんです。ねえ、(め)のさん。」
「違えねえ。」
 主税は色気のない大きなめ息をついて、
「どっちでもいいが、ああ、腹がいたぜ。」
「そりゃそうでしょうよ。寝坊をして、まだ朝御飯をおあがりじゃないんだもの。」
「間違いねえ、確かにアリャ、」
 と、(め)組は路地口の方へ伸び上がる。


        六

「だいぶ御執心ごしゅうしん、お気に召したようだが、どうした。」
 と、主税は(め)組のその素振そぶりに目をつけて、き腹だというのに戯れ言ざれごとを続ける。…
「後ろ姿にれたのかい。おい、もう相当そうとうなお婆さんだぜ。」
「だって貴郎あなたにゃお婆さんでも、(め)組には似合いな年ごろだわ。ねえ、ちょいと、」
「へへへ、違えねえ。」
「よく、『違えねえ、』と言う人だね。」
「そりゃ、『確かだ、間違いねえ、』と思うからでさ。」
 と(め)組はつぶやいてひとりで納得し、仰向あおむいて天秤棒を手に取りながら、
「旦那、」
「俺は御免ごめんだ。」と主税は懐に手を入れて一ツ肩を揺する。
「え、何を。」
「『恋文こいぶみでも届けてくれ、』って言うんじゃないか。」
御冗談ごじょうだんを。いえね、冗談はして、今のお客はすぐに南町のうちへ帰りそうな様子でしたかね。」
「うむ、まっすぐ帰ると言ったっけ。」
「そいつはありがてえ、」
 と(め)組はひたいをびっしゃり。
「『おお、それなら後をしたって、』とれよ。」
くのかい、河野さんとこへ。」
「ちょいとね、」
「じゃいいけれど。貴郎あなた、」
 とお蔦は主税を見てにっこりして、
「めい公がね、また我儘わがままを言って困ってたんですよ。『お屋敷かぜを吹かしたり、上物じょうものの魚をお惣菜並みに扱うから、河野さんへはもう行かない、』ッて。貴郎が折角せっかくお頼まれなすったのに、それじゃ困るだろうと思って、これから意見をしてやろうと思ってたとこだったのよ。」
「そうか。」
 となぜか、主税は気のない返事をする。
「ところが、御覧なさい。そう思ってたら急にあの通り。ほんとうによく気が変わるったらありゃしない。まるで猫の目ね。」
「違えねえ、猫の目をした犬の子だ。おっとどっこい、こんなことしてる場合じゃねえ、ああ忙がしい、」
 と魚屋が荷を上げようとするのを見て、主税は、
「待て、待て、」
「もう十分じゅうぶんよ。貴郎の分は三切れあるわ。それにまだ昨日のも残ってるじゃありませんか。(め)のさん、行っていいんだよ。この人にね、お前の盤台を覗かせると、みんな欲しがるンだから…」
「おいおい、」
 旦那様はにがい顔で、
「通りの近くで何を言うんだい。まるで野良猫みたいに扱いやがって。」
「だっ…て、」
「(め)組も黙って笑ってる事はない、何か言え。こいつは営業の邪魔じゃまをするおんなだぞ。」
「何を言われたって聞かないよ。(め)の字、もう魚はらないんだから、」
「まあ、お前、」
「いいえ、要りません。大事な所帯しょたい、お金は大切にするんです。」
「いやはや驚きますな。」
「わたし、もう障子を閉めますよ。」
「(め)組、このありさまだ。」
「へへへ、こいつばかりゃ犬も食わねえ。それじゃ、あのてえ四寸しすんずつおあがりなさいまし。」
「おい、待てと言うのに。」
「さッさとお行きよ、ぐずぐずして魚屋らしくもない。」
「いや、こいつはまいったね。」
 と天秤棒を中心にして、(め)組は一ツくるりと回る。
「おかずをもっと欲しがるわけじゃないんだよ。」
 と主税は笑いながらお蔦をにらんで、
「なあ、(め)組。」
「へえ、」
「これから河野へくんだろう。」
「三枚目みてえに駆け付けまさあ。」
「それについてだ、ちょいと、お前に話がある。」


        七

「その、河野へ行くことについてだが、」
 主税はなぜか、口籠くちごも
「何は、」
 とお蔦に目配めくばせして、
「茶はないのか。」
「お茶ですッて?もちろんありますわ。ほほほほ、まあ、人に小言こごとを言うくせに、貴郎あなたこそ通りのそばでみッともないじゃありませんか。―ありますわ、―だから、さあ、あっちへいきましょう。」
 と上がろうとする台所に、主税が立ちふさがっているので、お蔦はその袖のはしをちょいと突いて、
「さあ、」
 ここで(め)組は威勢よく、
「へい、ではまた明晩みょうばん…じゃねえ、明日あしたの朝だ。」
「待ちなッてば、」
「行っていいよ、(め)のさん。」
「はて、わっしあどうすりゃいいんだ、」と魚屋は首を振る。
「まったくお前たちは、」
 と主税はあきれた表情でからからと笑って、
「お蔦はずいぶんと気がかないのに、すぐわかったつもりになるから話がこんがらがってしょうがない。(め)組もまた、さんざん無駄話をしたくせに、急にそわそわせんでもいいだろう。まあ、待て、俺に話があると言うんだから。
 そこでだ、…お茶と申すのは、冷たくて…」
 と口へ指をつけて、飲む真似。
「とやる一品いっぴんのことだ。」
「(め)組にですか…」
「いやもう結構けっこう、結構だ。わっしなら、」
 と声だけは結構と聞こえるが、急に魚屋ははちの腰、竜の口たつのくち、『げ、飲もう、』の構えになる。
「いけません、もう飲んでるんだもの。この上あおらして御覧なさい。またいつかのように、『ちょいと盤台をあずかってくんねえ、』とか何とか言って、」
 お蔦は半纏の袖を投げて、色っぽく酔ッぱらいの様子を、拳固げんこで表して、
「それッきり、五日のあいだ行方ゆくえ知れずになっちまう。」
「旦那、こうなると頂きてえね、人間は依怙地いこじなもんだ。」
「いいから、俺がそう言うんだから、」
「じゃ、(め)組に付き合って、これから遊びにでも何でもおいでなさい。お腹が空いたって、もうわたし、知らないから。さあ、そこを退いて頂戴ちょうだいよ、通れやしないじゃないの。」
「ああ、もしもし、」
 主税は身をかわしてお蔦を通しながら、
御立腹ごりっぷくのところ、まったくもって恐縮でございますが、おついでに、手前にも一杯、同じく冷たいのを、」
「知りませんよ。」
 とお蔦はつッと入る。
「旦那も、ゆすり方は素人しろうとじゃねえな。なかなか慣れてら、」
 もう飲み始めたような言い方で、魚屋は腰障子から首を突ッ込み、
「今度八丁堀はっちょうぼりわっしうちへ遊びに来ておくんなせえ。ひとつ私がね、嚊々左衛門かかあざえもんに酒を強請ねだるコツというのをお目にかけまさ。」
女房かみさんが寄せつけやしまい。だいいちびっくりするだろう、俺なんぞが飛び込んじゃ。山の手からいのししが来たみたいに。(所かわれば品かわる)だ、なあ、(め)組。」
 と外の流しに足を下ろし、台所の板のへ、主税は腰を掛け込んで、
「ところで、ちと言いにくいんだが、今の河野の一件だ。」
「何です、旦那、」
 と魚屋がびっくりするほど主税は真剣な顔。
「おめえさんや、奥様おくさんが、わっしに言い難いなんて事はありゃしねえ。また私がうけたまわって困るって事もねえじゃねえか。
 まさか『お前の女房を貸せ、』と言いなさったりしねえだろうし。何、私でお役に立つんでしたら一働ひとはたらきいたします。」
「ぶッちゃけた話がこうだ。南町はちと君には遠回りのところ、『ぜひ来てもらいたい、』と向こうで言うもんだから、うちで頼んでお前はくようになったというのに、ここがちと言い難いのだが、今さっきお前も話してたように、それ、お互い肌合いが合わないだろう。
 今来た、あの母親おふくろも、何のかのって言っているからな、もうあすこへは行かない方がいいぜ。気分を悪くしてくれちゃ困るよ。また何だ、その内に一杯おごるから。」
 と主税は誠実に言う。


        八

 それを終わりまで聞かず、(め)組はりきんで、
「誰が、誰があんなとこへ。わっしア今も、だからそう言ってたんで、『頼まれたッて行きゃしねえ、』ッてね。」
「けれど、また何だか気が変わったように、『三枚目みてえに駆け付ける、』などと言うからよ。」
「そりゃ、何でさ。ええ、ちょいとそんな気になることはなッたがね。商いになんか行くもんか。『あの母親おふくろッてやつを冷やかしに出かけるか、』ッて考えただけでさ。」
「そういう良くない考えだから、お前、南町出入り禁止になるんだわ。」
 と盆の上に茶呑茶碗ちゃのみぢゃわん…しぶしぶと二人ににん分…焼き海苔のりと切り干し大根のはりはり漬けをえてあるのはいき心遣こころづかいだが、その態度はまったくもって礼儀正しくない。押っ付けもののように投げやりに持って、お蔦が台所へ現れて、
「さっきのお客様は、(め)組の事で、何かあなたに文句を言ったんですか。」
「文句はこっちにあるんだけれど、言いたいことは向こうにあったのよ。」
 と主税は盆を受け取って魚屋の前に押し出して、
「さあ、茶を一ツ飲みたまえ。ところで、お茶菓子にも言いたいことがあるね。もうちッと何か腹に溜まりそうなものはないかい。」
貴郎あなたのように意地汚いじきたなくありません。(め)組は何にも食べやしないのよ。」
「食べやしねえだけじゃありませんや。時々、このせいで御飯おまんまが食べられなくなるくれえだ。へへへ、」
 と帽子を上へ抜き上げると、元気よくひたいしわを伸ばして、魚屋はがぶりと一口。鶺鴒せきれいの尾のように、左の人指し指をひょいとね、ぐいと首をえて、ぺろぺろと舌なめずりする。
 主税はむしゃりと海苔を頬張ほおばり、
「(め)組はいいが問題は俺の方さ。まったくもって大空腹の場合だから。」
「ですから御飯になさいよ。色んな事を言って、最後には『握り飯を作れ、』って言いかねやしないんだわ。」
「実は…」と主税はにこにこして、
「その気がないわけでもないんだよ。」
「いい加減になさいまし、(め)組は商売があるんですよ。早くお話しなさいな。」
「そう、そう。いや、いい気なもんだ。」
 と茶碗の底を一つでて、
「その向こう様の言いたいことというのは、こうだ。『どうも、あの魚屋はなかなかいいのですが、門の外から(おう、)と怒鳴り込んで、(先公いるか、)は困ります。この間も御隠居ごいんきょをつかまえて、(こいつあ婆さんに食わしてやれ、)はあんまり乱暴すぎます。まるで私どもにはならずものの知り合いがいるようで、まことにご近所にきまりが悪い。それに、聞けばあの魚屋は、芸者屋や待合まちあいなんぞへ、主に出入りをする者だそうですから、娘たちのためにも良くないし、だいいち家庭の乱れの元です。またうわさによると、あの、魚屋の出入りをするうちは、どこも家計が苦しいという事なので、せっかくいろいろと、お世話していただいたそうですが、もう来ていただかなくて結構ですと、どうぞよろしく、貴郎あなたから、…』とずざっとこうよ。」
 これを聞くと、(め)組より、お蔦があきれた顔をして、
「わざわざその断りに来なすったの。」
「それだけじゃなかったが、まあ、それも一ツの用件ではあった。」
大袈裟おおげさだわねえ。」
「ちと大袈裟なようだけれど、お屋敷付き合いしている家のお勝手口へ、この男が飛び込んだら、小火ぼやぐらいにはびっくりしただろうよ。実際、慣れないうちは、時々火事かと思うような声で怒鳴り込むからな。こりゃ世話をした俺が悪かった。(め)組、怒っちゃいけないぜ。」
「わかった…」
 と魚屋はだしぬけに膝を叩いて、
「旦那、確かにそうだ。だから、わっしアさっき『違えねえ、』ッて言ったんだ。あいつ、前科者ぜんかものだぜ。」
「ええッ?―」
 どうしたのか、主税の、茶碗酒をふらりと持っていた手が、キチンと固まる。
「前科者だって?」とお蔦も袖を抱いたのである。
 (め)組は、どこか当てもなしににらむように目を据えて、
「それを、わっしア、私アそれをね、ウイ、ちゃんと知ってるんだ。知ってるもんだから、だもんだから。…」


        九

「ウイ、だからわっしが出入りをしちゃ、どんな事でそれが暴露ばれるかも知れねえと心配しんぺえなんだ。こっちあ顔を出すのは台所でえどこまでだから、ちっとも気がつかなかったが、向こうじゃきっと奥から私のことを見かけたんだね。『一昨日おととい頃静岡から出て来た、』って、さっき蔦ちゃんが言ったが。
 ざまあ見やがれ、ほんとはもっと前から来ていたんだ。家風に合わねえも、近所の外聞がいぶんもあるもんか、笑わしゃあがら。」
 と(め)組は大いにいさみ立つ。
「何だ、何だ、その前科とは。」
「あの、河野さんの母様おっかさんがかい。」
 と主税とともにお蔦も真顔でいぶかった。
「あれの他に、前科者が、誰がいるもんか、」
「ほほほ、貴郎あなた真面目まじめに聞くことはないんだわ。(め)組の言う前科者なら、せいぜい、『あの令夫人おくさんはああ見えて、実はひそかに大福餅だいふくもちがお好きなんでさ、』ぐらいなもんですよ。『お彼岸ひがんにおはぎをこしらえやがった、』ッて、自分の女房かみさんかたきのように言う人だもの。ねえ、そうだろう、(め)の字。あの令夫人は何か甘いものが好きなんだろう。」
「いずれにせよ、何か隠し食いするんだろうさ。酒も甘い物も両方好きなら、俺と味方同士みかたどうしだ。」
「へへ、その通り。隠し食いにゃ違えねえが、その食ったものというのがね、」
「何だ、」
「馬でさ。」
「馬だと…」
旅役者たびやくしゃかい。」
「いんや、馬丁べっとう貞造さだぞうっていう…馬丁でね。わっしが静岡に落ちてた時分の飲み友達でさ。そいつのことを、旦那が戦争に行った留守に、ちょろりとめたら、みつきになって、げっぷの出るほど食ったんだ。」
 主税は思わず身を乗り出して、酒の勢いもあったが元気よく、
「ほんとうか、(め)組、そいつはほんとうかい。」
 と醜聞しゅうぶんを面白がるような聞き方をする。
「嘘よ、貴郎、あの方たちに、そんなことがあるわけないじゃありませんか。(め)の字、滅多めったなことは言うもんじゃありません。他の事とは違うよ、お前、」
「いや、冗談じゃねえ。これが嘘なら、わっしてえ本場ほんばのもんじゃねえ。ねえ、旦那、河野の本家ほんけは静岡で、医者だろう。そら、見ねえ、河野ッてえから気がつかなかったが、門に大きなえのきがあって、榎屋敷と言やあ、おめえ興津おきつ江尻えじりまで知られたもんだね。
 それが、さっきちょいと見りゃ、ここを出てった客てえのは、その榎屋敷の奥様おくさんで、その馬丁べっとう情婦いろおんなだ。
 だからわっしア、冷やかしに行ってやろうと思ったんだ。嘘にもほんとうにも、子があらあ、子が。ああ、」
 ここで(め)組はまた一口がぶりとって、はりはり漬けをんだ歯をすすって、
「ねえ、あの人には大勢おおぜい子どもがあるでしょう。」
「南町の学士先生もその一人だ。確かに子どもは大勢ある、八九人いるかも知れないよ。いや、それが本当なら驚いたな。」
「おっと、待ちねえ、その先生は何歳いくつだね。」
「六か、七だ。」
二十はたちとだね、するとその上か、それとも下かな。どっちにしろその人じゃねえ。何でも馬丁の因果のたねは婦人おんななんだ。きっと嫁に行っちゃいるだろうが、これほど確かな事はねえ。わっしア特別に気を付けてたから覚えてるんで、他には誰も知っちゃいますめえよ。『知らぬは亭主ばかりなり』とか言うが、そうじゃなくって、『御存じは魚屋惣助そうすけ(この魚屋の本名)ばかりなり』だ。
 はははは、私みてえな下郎げろうは口が悪くてしょうがねえ。」
 (め)組はぐいと唇をでた手で、ポカリと茶碗にふたをした。
「危ねえ、危ねえ、冷やかしに行くなんざとんでもねえ。河豚汁てっぽうとこいつだけは、わっしあ命がけでもやめられねえんだから、のこのこ出かけたらあの人のお酌でも頂きねねえ。軍医の奥さんにゃお得意の、毒を一服いっぷくられちゃ大変てえへんだ。だが、何だよ、旦那も今の話は知らねえ顔でいておくんねえ。とかく町内は静かな方がいいからね。」
「ああ、お前ももう行くんじゃないよ。」
「行くもんか、行けったッてお断りだ。そう、お断り、へへへ、お断り、」
 と(め)組は茶碗をひねくる。
いやな人だよ。しょうがないね。さあ、茶碗をお出しな。」
「おお、そうだ、」
 と何か考え込んでいた、主税が急に顔を上げて、
「もうちっとくわしくその話を聞かせちゃくれないか。」
 その時、井戸端から、糸が切れた婦人おんなたこのように、お源が一直線に飛び込んで来た。
「だ、旦那様、あの、何が、あの、あのあの、」


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矢車草

        十

 お源のそのあわただしさはただごとでない。駆けて来た息づかいと、早口にき込んだのとで真っになりながら、すぐに台所から居間を突ッ切って、取り次ぎに出る前にたすきはずそうとする様子が、まるで着物を脱ごうと身悶みもだえするよう。
真砂町まさごちょうの、」
「や、先生か。」
 真砂町と聞いただけで、主税はまっすぐに突ッ立ち上がる。お蔦はさッと身をかわして、ひらりと壁にくッついた。
「いえ、お嬢様でございます。」
「嬢様、おたえさんか。」
 と言うと同時に、まだ酒の残っている茶碗のった塗り盆を、飛び上がった足で蹴返けかえして、羽織のひもを引ッつかんで、横飛びに台所へ消えようとして、
「赤いか、」
 お蔦を振り向いて顔をでると、彼女は涼しい瞳で、『それ見なさい、』という目つきで、
「誰が見ても…」と、ぐッと落ち着く。
「弱った。」と主税はつむりを押さえる。
朝湯あさゆ々々、」とお蔦はにっこり笑う。
「何という素晴すばらしい軍師だ、まるで諸葛孔明しょかつこうめい。」といいてて、主税がばたばたどんと出て行ったのは、お譲さんを玄関に迎えるためである。
 ふらふらとした目をえて、まだ未練たらしく茶碗を離さなかった、(め)組の惣助が、満面の笑みに崩れた、とろんとした目で、
「いよう、天人てんにん。」と台所の向こうをのぞく。
「いけないよ、」
 と言う、お蔦の声が真にきつく、きッとしていたので、きょとんとして魚屋が立つと、その横合よこあいからお源の手が、ちょろりとその御執心ごしゅうしんの茶碗をさらって、
「失礼だわ。」
 としかりつける。天下泰平たいへいならぬ天下大変、魚屋はびっくりして、黙って天秤てんびんの下へもぐると、ひょいと盤台の真ん中へ。そうして向こうの板塀いたべいに肩を寄せたのは、遠くから路へ出ようというつもり。実際、するするとこれも出てく。
 もうそろそろ、玄関の、格子がきそうなものだと思うが、音もしなければ、声もせぬので、お蔦が、
「ちょいと見て御覧、」と目配めくばせする。
のぞくのは失礼、』と控えていたお源が、逃げ腰で水のみ入れ口から目だけを出したかと思うと、すぐにり返るように引ッ込んで、
「大変でございます。お台所口へいらっしゃいます。」
「えッ、こちらへ、」
 とお蔦はすそさばくと、何を思ったか空を見上げ、破風はふから出ようとするごとく、引窓ひきまどつなをきりりと手繰たぐって、カタリと閉めた。
「あれ、奥様。」
「お前、そのお盆なんぞ、早くお仕舞しまい。」と釣鐘つりがねにでも隠れたそうに、肩から居間へひらりと飛び込む。
 驚いたのはお源坊。ぼうッとなって、ただくるくると動かす目に、『何かがきらりと輝いた、』と一目見ただけで、意気地いくじなくぺたぺたと座り込んで、ただひたすら恐れ入ってお辞儀をする。
御免ごめんなさいよ。」
 とやさしい声、はッと花の降るようなかおりに、お源がうっとりとして顔を上げると、おびも、たもとも、えりも、扱帯しごきも、色々な花いっぱいの立ち姿。まあ!紫と、薄い浅黄あさぎと、白とくれないに咲きかさなった、矢車草やぐるまそう片袖かたそでに抱いたその面影おもかげは、月夜に孔雀くじゃくを見るようである。
 (め)組が魚の汁をね飛ばした溝溜どぶだまりもこのために水が澄んで、かすみのかかった蒼空あおぞらが、底に美しく映るほど。先祖せんぞ乙姫おとひめ恋歌こいうたを送った罪で、このようなところへ流刑るけいとなった、蛙の子よ、さあ今こそ、柳のしなやかな枝に似た、姫君ひめぎみの袖にすがるがよい。
 ここに現れた妙子は、有名な独逸ドイツ文学者、なにがし大学の教授、文学士酒井俊蔵さかいしゅんぞう愛娘まなむすめである。
 その父様とうさんは、このの主人、早瀬主税にとっては、先生であり大恩人、かつご主人様に当たる。それゆえに、『お嬢様じょうさん、』と聞くと同時に、朝から台所で魚屋と茶碗を合わせ、冷酒ひやざけのぐい飲みという、その魔物のような挙動ふるまいが、たちどころに影をひそめたのである。
 そして、さらにそれ以上に内緒ないしょなのは、引窓を閉めたため、暗くなった台所にいる…その…誰かさんのこと。


        十一

 妙子の手は、矢車の花の色よりいっそうあざやかに、しなやかな葉の中で、枝をちょいと持ち替えながら、
「こんなものを持っていますから、こちらから、」
 とまごつくお源に気の毒そうに、ふっくりと優しく微笑ほほえみ、
「お邪魔をしましたの。」
「どういたしまして。もうすっかり汚くしてございまして、」とお源が雑巾ぞうきんを引ッつかんで、
「あれ、お着物が、」
 と言うその声のもと、妙子が吾妻下駄あずまげたを可愛く並べ、薄い白足袋しろたびの覗く、ふじ色のすそさばいて、濃い緑をびたあい色のに、浅黄と赤で、撫子なでしこと水をり出したおびの腰を、向こうへかがめて水瓶みずがめへ、矢車草をし込むと、花菫はなすみれかんざしと、リボンの色が、蝶々の翼のように薄黄色に、ちらちらとまず水に映って、五色ごしきつゆは一段と美しく見える。
「ここに置かして頂戴ちょうだいよ。まあ、お酒のにおいがしますねえ、」と手を離すと、そのかおりが染み込んだだけなのに、ゆらゆらと揺れる矢車草より、玉のような妙子のかんばせに、酔って桃に似た色が浮かんだ。
「御覧なさい、矢車が酔ってふらふらするわ。」と無邪気むじゃきににっこりする。
 お源はどぎまぎ、
「ええ、酒屋の小僧が、乱暴なものでございますから。」
「ちょいと、こぼしたの。やっぱり悪戯いたずらな小僧さん?犬ばっかりからかうんでしょう、わたしンとこのもおんなじよ。」
 ちょいとした社会観をくような、そんな口ぶりで言いながら、妙子は上に上がって、片手にそれまで持っていた、紫の風呂敷包み、真四角なのをそッと置いた。
「お着物がよごれますわ、お嬢様。」
「いいえ、いいのよ、」
 とすそは上げたが、そでは板の間にくのであった。
「あの、これをお惣菜になすって下さい。」
「どうも恐れ入ります。」
「けれど、美味おいしくはありませんよ。どうせ、わたしのお手製なんですから。」
 少し話が途切とぎれて、
「おうちですか。」
「はい、」
「主税さんは…あの、旦那様は、」
 と言いかけて、急に気がついたように、
「まあ、どうしたの、暗いのねえ。」
 確かに、そこまでは水の汲み入れ口から射す明かりが届いていたが、家の奥へ行く道は暗かった。
「もう、しょうがないのでございますよ、ほんとうに。あら、どうしましょう。」
 とお源は飛び上がって、慌てて引き窓を、くるり、かたりと開ける。トさッと明るくにじまぼろしが、娘の肩から矢車草に。
 その時台所へ落ち着いたふりして顔を出した、主人あるじの主税と、妙子はおもてを見合わせた。
おどかして上げましょうと思ったんだけれども。」と、主税は笑って冗談を言いながら、かめした花と背丈せたけそろえて、そこに娘がひざまずいているので、彼はつつしんで板に片手をついたのである。
「驚かしちゃ、わたし、いやですよ。」
「じゃ、なぜそんな所からなんぞお入りなさるのです。私がちゃんと玄関へお出迎えをしているじゃありませんか。」
「ですけれどね、」
 とお妙は可愛らしく首を傾け、
「お惣菜なんか持ち込むのに、お玄関からじゃ大袈裟おおげさですもの。それに、あの、花にも水をりたかったの。」
「綺麗ですな。まあ、お源、どうだ、綺麗じゃないか。」
「ほんとうにお綺麗でございますこと。」と、これは花ではなく妙子に見惚みとれている。
「この花もお惣菜と同じく頂戴ちょうだいできるんですか?」
「どうしようかしら。お茶をあがるんならいいけれど、お酒を飲むおうちじゃ、可哀相かわいそうだわ。」
「え、酒なんぞ。」
「おほほ、嫌な主税さん、やっぱり飲んでるのね。」
「はは、はは、さ、まあ、二階へ。」
 と逃げ出すような主税のあとへ、するするときぬの音。ト階子段はしごだんの下あたりで、主税が思い出したように、
「なるほど、そういえば今日は日曜ですな。」
「どうせ、そうよ、(日曜)が遊びに来たのよ。」


        十二

 二階の六畳の書斎しょさいへ入ると、『お嬢さんを机の向こうへ引き付けるのは失礼だ、』と思ったらしく、主税は火鉢を部屋の真ん中へ持って出て、床の間とこのまの前に座蒲団ざぶとんを置く。
「どうぞ、お敷きなさいまし。」
 ここであらたまって、慇懃いんぎんに手をついて、
「まあ、よくいらっしゃいました。」
 それに対して妙子はただ「はい、」とだけ。主税は長年同じ家にいた書生である。そのかんずいぶん、妙子は我儘わがままも言ったし、甘えたし、勉強の邪魔もしたし、悪口も言ったし、喧嘩けんかもした。そんな帽子と花簪はなかんざしの仲であった。が、さて今こうして差し向かいになると、気持ちは以前と同じでも、兵子帯へこおび扱帯しごきくらい遠慮が生じる。そこで主税がかしこまった態度を取ると、お嬢さんもちと恥ずかしそうに、顔の色と同じような、毛巾ハンケチたよりにして、姿と一緒にひらひらと動かすと、畳に陽炎かげろうが燃えるようである。
御無沙汰ごぶさたいたしましてみません。奥様おくさんもお変わりがございませんようで、結構でございます。先生は相変わらず…御酒あれを召し上がりますか。」
「ええ、誰かさん、とおんなじように…やっぱり…」と妙子はにっこり。落ち着かない座り方をしているので、火鉢のかどへ、力を入れて手を掛けながら、床の間の掛軸かけじくに目をそらす。
 主税は額に手を当てて、
「いや、恐縮きょうしゅく。ですが今日のは、こりゃ逆上のぼせてるんですよ。さっき朝湯に参りまして。」
「うちの父様とうさんもね、やっぱり朝湯に酔うんですよ。不思議だわね。」
 主税は胸がちぢんだように、両膝にぴたりと手を置き、
「どうか、奥様おくさんには御内緒ごないしょに。また貴女あなた、『早瀬が朝湯に酔っていた、』などと、お話をなすってはいけませんよ。」
「ほんとうに貴郎あなたの半分でも、父様が母様の言うことをいてくれるといいんだけれど。学校でもみんながあれこれ言うんですもの。意地悪いじわるな人なんかはね、わたしの事を『おしゃくさん、』なんて冷やかすわ。」
「結構じゃありませんか。」
「嫌だわ、わたしは。」
「だって、貴女あなた、先生がお嬢さんのお酌でこころよく御酒を召し上がれば、それに越した事はありません。そのうちにおかみから御褒美ごほうびが出ますよ。養老の滝でも何でも、昔から孝行な人物の親は、大概たいがい酒を飲みますものです。貴女を『お酌さん、』などと言うやつは、親のために焼き芋を手に入れたり、牡丹餅おはぎを買ったり…そんなふざけた孝女だ。」
 と主税が大いに茶化ちゃかして笑うと、妙子はうらめしそうな目で、可愛らしくその顔を見ただけ。
「わたしは、もう帰ります。」
「御冗談をおっしゃってはいけません。これからその焼き芋だの、牡丹餅おはぎだのを。」
「ええ、どうせわたしはふざけた孝女ですから。」
「まあそう言わずに。いま御褒美ごほうびを差し上げましょう。」
 と主税が引き寄せる茶道具の、その辺りを眺めて、
「お客様があったのね。わたし、お邪魔をしたのじゃありませんか。」
「いいえ、もう帰った後です。」
「嫌な人ね?」
 と妙子はだしぬけに澄まして言う。
「見たんですか。」
「見やしませんけれど。御覧なさいな、お茶台に茶碗がせてあるじゃありませんか。貴郎、お嫌いな人の時には、お茶台に茶碗を伏せるんだもの。父様もね。」
「いや見事な御鑑定ごかんてい本阿弥光悦ほんあみこうえつのようでいらっしゃる。」と主税は急須きゅうすの残りをあける。
「どなたなの?」
「あなたの御存じない者です。河野という私の友達…来ていたのはその母親ですよ。」
「河野ね?主税さん。」と妙子はふっくりした前髪をちッと傾け、
「学士のかたじゃなくって?」
「知っていらっしゃるんですか。」と主税は茶筒ちゃづつにかけた手を止めた。
「その母様おっかさんというのは、四十くらいの、あの、若作りで、ちょいとお化粧なんぞして、細面ほそおもての、鼻筋の通った、何だかツンとした感じの、…違って?」
「まったくその通り。どうして貴女、」
「わたしの学校へ、参観にいらしたの。」


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