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ユートピアとリアリティとの相克

 先日、公立中学の教師であったという方から話かけられました。

 私が、私学の教師であったことをどこかで知り、声をかけてくれたのです。

 

 「先生の学校に、随分と生徒を送りましたよ。」と、その方が声をかけてきました。

 私も生徒募集をしていましたので、「それはそれは、ありがとうございます。」と、声を返しました。

 

 「先生は、途中で、学校を移ったんだって。」

 その方は、私学の教師が他の私学に移ることの不自然さを訝りながら、声を発しました。

 

 「そうなんですよ。いろいろあってね。」

 

 人が組織にいると、いろいろな出来事が起きて、いろいろな体験がなされるものです。

 私の場合も、そうした渦中に置かれ、さまざまな素晴らしい出来事を体験させてもらったのです。

 

 しかし、生徒を指導する立場のものが集まる学校という社会で、人と人とによるいがみ合いで、いろいろな出来事が起こるのは困ったのものであると、今更のように思います。

 

 私学は、「理想」を掲げて教育活動を行います。

 それが、その私学の教育目標であり、教育理念となるのです。

 ですから、私学にはその「理想」をめぐって、時に、ユートピアとリアリティとの相克が垣間見られるのです。

 もうちょっと、下衆な言い方をすれば、経営のあり方をめぐっての権力闘争がなされるということです。

 

 こんな小さな組織でも、あれこれあるのですから、国単位ではもっと大きな反応といろいろな出来事があるに違いありません。

 

 2016年6月23日、イギリスのEUからの脱退が、国民投票における51.9%の多数決で決まりました。

 

 ヨーロッパの理想は、第二次大戦中、ポーランド亡命政府のシコルスキによって、戦後ヨーロッパの再建を意図して提案された幾つかの項目が端緒となり、具現化されていきました。

 その後、紆余曲折を経て、1967年欧州共同体(EC)として発足しました。

 

 ヨーロッパでの戦いを永遠に終わらせようとの理想がそこにはありました。

 

 そうした理想に対して、一線を画していたのがイギリスでした。

 しかし、戦後の復興はダイナミックでした。

 まず、フランスのドゴール大統領が主導する自由貿易市場は活況を呈し、侮れなくなりました。

 そして、戦争の破壊をまったく受けなかったアメリカの台頭です。経済ばかりではなく、軍事でも、その力は圧倒的な威力を持って、イギリスに迫ってきたのです。

 加えて、かつてのイギリス連邦諸国の独立が、イギリスの経済を逼迫していきます。

 

 大英帝国としての理想を捨てて、現実に目を向け、ヨーロッパ共同体に参加せざるをないと判断するイギリスでしたが、そこに立ちはだかったのは、ヨーロッパの理想を軽視するイギリスに厳しく対応してきたドゴール大統領でした。

 

 イギリスの参加は、彼によって二度も拒否されたのです。

 イギリスがECに加盟できたのは、ドゴール大統領辞任後の1973年になってからのことです。

 

 その後、東西冷戦も終了し、ヨーロッパは新たな時代を迎えます。

 1993年、ついに、マーストリヒト条約発効によって、ヨーロッパ連合(EU)が誕生するのです。

 かつて、戈を交えた国々がともに同じテーブルについて、言葉を交わし、理想のあり方を追求するのです。 

 

 これは、人類史において特筆すべきことだと思います。

 戦争によらず、問題を解決する方法を見つけ出したのですから、至極当然です。

 

 ヨーロッパの秩序を保つためには、そこに健全な政治志向がなくてはなりません。健全な政治志向が存在するためには、ユートピアとリアリティが共存していなくてはなりません。

 

 ユートピアだけでは、物事は瓦解します。

 リアリティだけでは、各個のエゴが吹き出します。

 

 ユートピア志向が、あるべき姿を追い求めるアクションを促します。

 しかし、それを現実化する力、経済や安全保障がなければ、すなわち、リアリティが欠如していれば、それは単なる夢でしかないのです。

 

 イギリスの脱退で、EUは、新たな試練を迎えます。

 しかし、人類史上かつてない、ユートピアを掲げ、それをリアリステイックに運用するという画期的な行動には注目をしていく必要があります。

 

 そんなことを考えると、私が体験したユートピアとリアリティの、何と狭あいで、せせこましいことかと今更のように思うのです。

 


富は一体どこにある

 ウクライナにおけるロシアの振る舞い、南シナ海及び東シナ海での中国の振る舞い、これらは、かつて、そして、今、社会主義を標榜する国家が、おのれに有利な解釈で起こしている振る舞いであることは確かです。

 

 ヨーロッパも日米も、一方で、国家ぐるみのドーピング違反に対して、厳しい制裁を課して、オリンピックから締め出し、一方で、根拠のない九段線設置とそれに基づく埋め立て、また、それに伴う環境破壊に対して、全面的な否定の判決を仲裁裁判所から得て、溜飲を下げるだけにすぎないのです。

 

 彼らは、社会主義特有の計画経済を推進するかのように、「計画的政治決着」を着々と、今進めているのです。

 広大な国土と人口を持ち、当然、そこには豊かな天然資源があり、そして、優秀な人材を選抜し教育し、特権的な待遇を与え、さらに、先端的な科学技術を、軍事に、宇宙進出に使っているのです。

 

 いつの日か、ヨーロッパも日本も、アメリカも、ロシアと中国の支配下に組み込まれる事態が現実に起こっても不思議ではないくらいです。

 

 ヨーロッパ・日本・アメリカを支えている体制は、つまり、社会主義に対する資本主義は以前のように強大な力を維持し得るのでしょうか。

 それとも、人類の歴史から過去の遺物として、消え去っていってしまうのでしょうか。

 

 かつて、ヨーロッパは、閉塞の空気を孕んだ時、船を大海原に出し、それを一気に打開する手を打ち出しました。  

 即ち、大航海時代の到来です。

 彼らは、アメリカ大陸を発見し、オーストラリアやニュージーランドに人を送り込み、一気に時代を好転させました。

 

 作物を作ることのできない不毛の大地で貧しく暮らす生活を送っていた彼らからすれば、豊かな実りをもたらす豊穣の大地を、無償で手に入れることに成功したのです。

 そればかりではありません。

 明らかに、文化の未熟な、それゆえに、弱い、そこに住む人々を奴隷化し、その地で栽培されている物産を独占し、大きな富を手に入れたのです。

 

 狭いヨーロッパが世界の中心となり、彼らが新たに勢力下に置いた広大な土地から、ありとあらゆる富が手に入るようになったのです。

 その富の分配は、かつてのように、一部の貴族に独占されることはありませんでした。

 力を蓄え、意思を持った市民と呼ばれる新たな階級にも、応分の分配がなされたのです。

 

 市民たちは、自分たちの国家を整え、軍備を増強し、国としての意識を高め、より強固な形でさらなる富を追い求めていきました。

 その強固な形こそが、民主主義であり、資本主義であり、自由主義であったのです。

 

 その流れに乗れず、旧態依然とした体制の中で、広大な開発を寄せ付けない大地を持つ国が、ロシアと中国でした。彼らは、ヨーロッパとは違った方法で、より強固な体制を作り出そうとしました。

 

 今、その二つの大きな体制が、それぞれのやり方で、残り少なくなった富の奪い合いをしているのです。

 

 未開の、豊かな富を内包した地は、もはやこの地球上にはありません。あるとしたら、それは宇宙空間か、地球の表面の7割を覆う海の上であり、海の中なのです。

 もっとミクロに見つめていくと、あるのは、見落としてしまいそうな小さな島であり、大海原に通じる港なのです。

 しかし、今は小さくても、この島や港は、敵対する勢力の、豊かな富へと通じる要所なのです。ゆめゆめ、おろそかにしてはいけないものなのです。

 

 しかし、一方の勢力は、中心に富をもたらす術を失ったことで、八方塞がりの閉塞感に苛まれているだけで、敵対する彼らの一直線で、なりふり構わない行動と方便に、右往左往するばかりです。

 

 かつて、容赦ない仕打ちで、富を簒奪してきた悪心は、なりを潜め、広い心と穏やかなスタイルで物事を収めようと必死になるだけなのです。

 

 体制を維持し、より発展させる富は一体どこにあるのかとただただ中空を見つめるだけなのです。

 せいぜい、狂信的なテロ行為に対して、口角泡を飛ばして非難するのが精一杯です。

 選挙という支配体制に参画させる活動で、不満のはけ口を与え、目先のちょっとした豊かさでごまかそうとしているだけなのです。

 

 かつて、富を求めて、大海原に出て行ったように、新たな富を見つけ出さないといけない時代が今なのです。

 今、富をめぐって、世界は二つの勢力が拮抗しているのです。

 ありとあらゆる手段を使って、それに勝たねばならないのです。

 綺麗事を並べていては、負けてしまうのです。

 

  あげくに、その支配下で辛酸を舐めることになるのです。

 


本当の「民衆の力」

 マカラニアン宮殿の高い門をよじ登り、雪崩を打って押し寄せるフィリピンの民衆の姿を見たのは、1986年の春浅き頃でした。

 民衆の怒りは、マルコス大統領の20年余にわたる支配を終わらせたのです。

 

 1989年11月10日、私はカナダのヴァンクーバーから9時間余りの飛行を終えて、小牧空港に降り立ちました。そして、新幹線で東京に帰るために、名古屋駅に向かいました。新幹線のホームのキヨスクで、私は夕刊の大きな見出しを目にしました。

 

 そこには、あのベルリンの壁が崩壊したことを封じる大きな活字がありました。

  壁の上には、民衆がいて、壁を叩き割っている写真がありました。

 

 ヨーロッパでも、ソ連邦及び東ヨーロッパの社会主義国の民衆が立ち上がったのです。壁をたたき打つ民衆の姿は、時代の変化を伝えて余りあるものがありました。

 

 2010年12月17日、チュニジアのシディブジドという町で、当局の執拗な取り締まりに対して、自由を求める青果商の青年モハメド・ブアジジさんが、抗議の焼身自殺をしました。

 

 これを契機に、民衆がこぞって抗議のデモを行い、その様子をアルジャジーラやネットが広く伝えました

 いわゆる、「アラブの春」あるいは「ジャスミン革命」というものです。

 

 これにより、チュニジアのベンアリ大統領、エジプトのムバラク大統領、リビアのカダフィ大佐ら、20数年に渡って、独裁的支配をしていた政権が打ち倒されたのです。

 

 しかし、今回のトルコでのクーデターはちょっと様相を異にしていました。

 それは、民衆を使ったのが、政権を打倒しようとする軍ではなく、政権のトップにいるエルドアン大統領であったということです。

 

 エルドアン大統領は、深夜、スマホを使って、国民に訴えたことは、街に出て、デモをせよということでした。

 民衆は、命の危険も顧みず、軍に向かって行きました。

 このことで、およそ100人を超える民衆の死者が出たということです。

  そして、軍の一部が起こしたクーデターはあっけなく潰えたのです。

 

 これらは、歴史の教科書で学んだものではなく、私自身が、報道を通して、目にし、確認できた、同時代の爆発的な民衆の力の姿でした。

 

 そうそう、忘れていました。

 1989年6月4日のことです。

 

 早稲田の同級で、中国文学を研究している友人が北京大学に留学していました。ずいぶんと心配をしましたが、無事でいることがわかり大いに安堵しました。なんでも、あの事件の起こる前に帰国していたということで、本人は、北京の学友や下宿先の家族のことを心配してました。

 

 あの事件では、人民解放軍が学生らを射撃し、戦車のキャタピラで轢き殺したと言います。学生側も、戦車に火を放ち、兵士を縛りつけ焼き殺したと言います。

 

 同国民が血で血を洗う戦いをするなどもってのほかのことです。

 

 私は、中国が、民衆を使って、政治的機運を盛り上げ、圧力をかけたり、政争の具に使うことを知っています。それ以上に、中国政府自体が、その歴史から、民衆が持つ、爆発的な力の恐ろしさを知っていると思っています。

 

 民衆を使って、反日デモを繰り広げ、略奪と破壊を繰り返したその様子を、テレビカメラの映像でしっかりと見ました。

 また、漁業従事者を使って、大船団を繰り出して、威嚇する様もしっかりと見ることになりました。

 北京の街角で、インタビューをすると、政府の行動を、圧倒的に支持する声が中国国民から聞かれました。

 これらすべて、私には恐ろしい姿として映ります。

 

 しかし、ふと思うのです。

 彼らは、果たして、本当の「民衆」だろうかと。

 

 政府から手当てを受け取り、暴行をする人間、威嚇をする漁船員を「民衆」とは言いません。

 あの国の街角で、不用意に、政府を批判することなどできましょうか。

 

 中国各所には、習近平政権が恐れる本当の民衆たちが息を潜めていると私は思うのです。

 あの巨大な国は、本当の「民衆」が立ち上がり、時の政権を打ち倒し、新たな政権を打ち立ててきた国なのです。

 

 中国の本当の「民衆」が決起するには、もうすこし時間が必要です。

 

 国際社会は、慌てず、じっくりと「見続ける」だけでいいのです。

 


「法」を生かす、今考えられる、唯一の策

 石原慎太郎さんが都知事であった時、衆議院に設置された「国会等の移転に関する特別委員会」に対して、『首都とは何か。首都の定義を示されたい。』と、4項目にわたって、文書で質問状を出しました。

 

 これに対して、同委員会から、首都とは、

  天皇の住む都市

  国民主権の立場から、国会が置かれている都市

  行政・司法・国会等の機関が置かれ政治経済の中心となる都市

  中央政府のある都市

   と、言われているがはっきりとした定義はない、というまことに珍妙な回答が返ってきました。

 

  面白いことに、

  今でも、京都の人たちの中には、日本の首都は京都であると信じて疑わない人々がいるというのです。

  天皇さんのご本宅は京都御所、東京にある皇居は仮御所くらいに考えているというのです

 

 それまでの住まいであった京都御所をご出立なされた明治天皇は、1869(明治2)年3月28日、前年7月17日に江戸から東京と名を改め、それまで江戸城と言われていたその城にお入りになられました。

 以後、その城は、将軍の住まう城から、天皇がお住まいになる「皇城」と改められました。

 その後、「宮城」、今は、「皇居」と、その呼称は変わりました。

 

 京都人の言い分の根拠は、まさにこの時点にあるのです。

 すなわち、天皇さんはこの時、「遷都の詔勅」を発してはおらない、つまり、都は、794(延暦13)年に桓武天皇が発した平安遷都の詔勅のままであるというのです。

 

 正式な手続きを経ていない「東京遷都」である以上、京都人はそれを認めないと言っているのです。

 

 しかも、明治天皇は、京都を旅立つ時、お側に仕えていた人々に対して、「ちょっと行ってくる」と仰られて出かけたと言われています。

 それをもって、京都人は、明治天皇の東京行きは、「遷都」ではなく、「行幸」であると考えているのです。

 

 あれから150年近く経ってもそう考えているというのですから、実に面白いことです。

 

 

 衆議院設置の委員会から都知事にあてた回答にも、明確な定義はないとありましたが、内閣法制局長官もまた、後日、今度は参議院での答弁で「東京が日本の首都であるというそういう確信は、これは日本国民だれもが疑いなくそう信じていることであろうと存じます。」と述べています。

 

 つまり、日本には、首都として東京を定めるという法律がないのです。

 

 今、日本政府は、世界に向かって、「法の支配」と「力による現状変更は認めない」ことを声高に訴えています。

 

 京都人が、政府の言う「法の支配」を言い立てて、延暦の昔より、都は京都なりと強弁するとは思えませんし、ましてや、力づくで現状変更するとも思えませんが、広い世界の中には、強弁と武力にものを言わせて法を踏みにじる国もあります。

 

 法は、人の作ったルールに過ぎません。

  ですから、いかようにも解釈が可能なのです。

 

 「基本的人権」を一方で明示し、同時に、「公共の福祉」で個人の権利を制するのが法なのです。

 

 しかし、思想や体制の違い、また、文化や習慣の異なる者同士が、折り合いをつけて、ことを進めていくには、ある一定の決まりごとが必要です。

 とりわけ、世界は二度の大戦を経て、戦争で物事を解決するのではなく、「法」で戦争を回避することを国際社会のルールとして確立しようと努めてきました。

 そのために、「法」の重視を叫んでいるのです。

 

 その「法」が効力を発揮しないというのであれば、さて、どうしたらいいのかということです。

 

 東京には、遷都の詔が出ていないが、誰もが疑いもなくそれを信じることで「法」と同じ効力、いや、むしろ「法」を超越した効力を持って、今に至っていますが、強弁と武力にものを言わせてくる中国やロシアに対して、国際社会が、それと同じ効力を与えていい訳がありません。

 

 国際社会は、「法」をもって、中国の主張に対して、「NO」を突きつけました。

 しかし、中国はそれを無視し、その他の当該国も自国の説を曲げることはしないようです。つまり、「法」が示されても、現状は何も変わらないのです。

 

 「法」は、国際社会が平和で安心した世界を作るためのルールです。その「法」を生かすために、たった一つの方法があります。

 

 それは、こちらからは一切の『実力行使』をしないということです。

  言葉を換えていうならば、じっと彼らを『見続ける』のです。

 

 かの国の漁民が大挙して押し寄せてきたら、その非を問いただし、かの国の企業が石油を掘削すれば、その不正を訴え、軍事的動きを見せたら、それをさせないように先手を打って報道をし、国際社会がブーイングで対応するのです。

 

 相手が、なし崩し的に我がものとするならば、こちらは永久にそうはさせないという根気の長い戦いを挑むのです。

 

 それが、人の作った「法」を生かす唯一の道なのです。

 


人と人とは「対等」である意識の芽生えが見える

 1978年8月、私は人生で初めての海外旅行に出かけました。

 行き先は、国交を回復したばかりの中国です。

 香港から広州に入りました。

 その広州のデパートで、この人生初の海外旅行の記念にしようと二胡という楽器を購入しました。

 その時、広州のデパートの、人民服を着て、ズボンを履いた若い女性の、ちょっと目元のきつい、それでも十分可愛いらしい店員が、こともあろうに、客の私に向かって、お釣りを投げてよこしたのです。

 お世辞にも綺麗とは言えないショーケースの上を転がるコインとお札を、私は唖然としつつ、動揺を隠しきれずに、あたふたと受け止めたのです。

 

 女店員は、そんな私の姿に頓着もせず、壁に寄りかかって、手持ちぶたさげに、いつ来るとも知れぬ客を待つかのように立っていました。

 

 ちょっとしたカルチャーショックを私は感じました。

 

 その広州のホテルで、私は、いらなくなった幾つかのものをゴミ箱に丁寧に捨てました。

 いくら捨てるものだと言っても、ゴミ箱に雑に入れることをはばかったのです。あの店員のような無礼を、この中国でしてはならない。

 日本人の誇りのためにも、捨てるものさえもこうして捨てる、という意気込みでした。

 

 その後、鄭州、開封、洛陽を経て、最後の訪問地の北京に到着すると、私の部屋には、広州で捨てたはずの幾つかのものが丁寧に包まれて送られてきていたのです。

 

 今度は、ちょっとどころではないカルチャーショックを私は感じました。

 

 これも何年も前のことですが、ウルルからアリススプリングスのコンドミニアムに戻ってきたときのことです。

 ウルルにできるだけ長く居たいという思いから、帰りが随分と遅くなってしまいました。

 その時、私は、管理人はいてくれるかな、いなかったら、どうしようと少々不安を抱えながらバスに揺られていました。

 

 案の定、オフィスには灯りがついていません。

 ところが、窓のところに、大きく私の「名」が綴られている封筒がテープで貼ってあるではないですか。

 中には、「ウルルは楽しまれましたか。こんばんはゆっくりとお休みください。」という文言とファーストネームでの私への呼びかけが書いてありました。

 

 まず、大切な部屋のキーをガラス窓に貼り付けておくこと、そして、客である私のファーストネームを使っていることに、これもカルチャーショックを受けたことを覚えています。

 

 ところ変われば品変わるで、随分と印象深いことがあるものだと思ったものです。

 

 お釣りを投げるという動作は、日本企業の進出で、今は少なくなったとは思いますが、当時は、共産国らしく、店は国営、客に売ってやるからありがたく思えくらいの感覚だったのでしょう。

 だから、愛想笑いを浮かべる必要も当然ないのです。

 

 一方、国交回復したかつての敵国から来た客の、あまりに丁寧な捨て方に、これはきっと何かの間違いでゴミ箱に入れられたものではないか。日中友好のために、これは捨てるわけにはいかない。何とかしてこの訪中団のルートを調べ、最終目的地へ送ってやろうという会議がホテル側と訪中団として受け入れた中国共産党組織で催されたかどうかは知りませんが、その気持ちの清々しさが伺えて面白く感じたものです。

 

 オーストラリアの一件では、中国ほどではないのですが、ファーストネームで呼ばれること、また、そう呼ばれることに、無礼であるという気持ちが優先して、中国での体験以上に、相当の違和感があったのは事実です。

 

 ロビーで休んでいて、従業員と目が合うと微笑みを返すくらいならわかりますが、客に対して、慣れ慣れすぎはしないかと感じてしまったのですが、彼の地を一ヶ月も旅をしていると、その方がいいと思うようになったから不思議なものです。

 

 それは、客である以前に、私とあなたは人間として「対等」ですよ。

 その上で、適正な奉仕をします。

 私たちも、あなたと同じ生活者です。ですから、休みは取らないといけません。自分を犠牲にして、奉仕することは、度を超えた奉仕で、時代錯誤も甚だしいことですから。

 

 こういうあり方こそ最もレベルの高い応対ではないかと思われてきたからです。

 

 オーストラリア人特有の親しみやすさで、あの独特の英語と発音で、対せられることに自然な形の清々しさを見て取ることができたのです。

 

 思えば、私たち日本人というのは、「対等」であるということを、当たり前のように受け止めているような気がします。

 

 江戸時代には「士農工商」という身分制度があり、明治になっても、華族・士族・平民と戸籍に記載され、「対等」という意識が確立するのは戦後のことで、まだ70年くらいしか経っていないのです。

 しかも、自分たちの気持ちの底から、本当の「対等」関係を作り上げていこうというのではなく、アメリカから押し付けられた感じで、それを受け取ったのです。

 

 いうならば、戦勝国アメリカから半ば強制的に与えられた「対等」意識なのです。

 

 ですから、上司への接しかた、客への敬語のあり方、目上の人への対しかたなど、まだまだ厳しい枷があるのです。

 それはまだしも、客として、度を越したクレームまでつける輩が多いことは、私たち日本人が真に「対等」意識をものにしていない証だと思うのです。

 

 欧米では、政治状況はもちろん、いろいろな人々が移動してきて暮らすのですから、「対等」であることを確固とするために、相当のエネルギーが使われてきました。

 時には、戦いを経て、それを獲得してきたのです。

 

 アメリカの公民権運動を見ればよくわかります。

 相当のエネルギーを使っても、まだ、「対等」とは言えない環境がそこらじゅうにあるのです。そして、アメリカ社会を揺るがす争いもそこには発生してくるのです。

 

 しかし、まずは、ファーストネームで呼びかけ合うというスタイルが確立したことで、「対等」である関係を構築する土台が作られているのは事実だと思います。

 

 人は、役職や性別、人種や国で、ましてや肌の色で、判断するのではない。

 人は、その人で判断するのだ。

 

 日本では、まだまだ、この感覚をものにすることができていないのです。

 日本人同士で「対等」の存在として、相手を見ていくことは、長い歴史の重石で、おそらく困難であるにちがいないと思います。

 

 日本には日本の文化があるのですから、それを捻じ曲げても欧米化していこうとするのは明らかに間違いです。それでも、日本人は日本人らしく、相手を役職とか、財産で判断をせず、人として判断できる優れた「対等」意識を身につけていく必要があると思うのです。

 

 ベンチャーで、若い人が新しい会社を立ち上げています。

 服装も自由。勤務時間や働く場所も自由。

 そういうところから、日本の新しい「対等」意識が生まれてくると思うのです。若い世代のこうした動きの中にこそ、新しい日本の「対等」意識の芽生えが見えてくるのです。 

 

 



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