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マスオ、イナムラ伝

 二十世紀も、あと数年で終わろうとしていた。増夫は、金魚鉢の工場に勤めて十年になる。そこは、金魚鉢の生産では老舗だった。が、最近、水族館ふうの、デザインも機能も素晴らしい新進の金魚鉢メーカーの製品が出て、その会社がそれで特許も取ったので、老舗の、昔ながらのまるーい金魚鉢は押され気味だった。まるーい、てっぺんが波形になった金魚鉢は、押されるいっぽうだった。

 その日も人手不足ながら懸命に働いて、増夫は下宿に帰った。三十七歳で独身の四畳半でテレビをつけると、ニュースをやっていた。

「つぎのニュースです。けさ六時半頃、生駒山の上空を奇妙な光る物体が飛んでいると、地元の警察に連絡がありました。発見者の会社員、下川透さんは、朝の散歩の途中、それを発見し、急いで家に帰りビデオカメラで撮影しました」

 テレビ画面は、その未確認飛行物体を映し出した。

「当時、生駒山上空にヘリコプター、飛行機などが飛んでいたという記録はなく、地元の警察では正体の確認を急いでいます。また、このもようを◯△市に住む自営業、田島虎蔵さんも目撃し、次のように語っています」

「そうですなあ、大きさはこれぐらいで、そうなあ、生駒山の上空をしばらく、旋回しとってなあ」

 パチン、

 増夫はテレビを消した。

『アナウンサーの顔も、ちょっと興奮気味だったな。でもUFOだろうとなんだろうと、俺には関係ない。さて、缶ビールでも飲んで、休憩しよ』

 彼の家からも生駒山は見える。だが登ったことも、関心もない。彼はコンビニで買ってきた焼きそばを食って、缶ビールを二本飲むと、畳にぐたっと寝てしまった。

 どの位眠っただろうか。ふと目を覚ますと、すりガラスの向こうは真っ暗である。時計を見ると夜中の二時を過ぎている。たいていは、このあとふとんを押し入れから出して、もういちど、朝まで寝るのだった。彼自身、仕事と、それが終わって下宿に帰り、ビールを二缶飲んで夜中までうたた寝し、また起きてふとんを敷いて寝るという日常には、不安があった。

 下宿代払って、ビールを飲んでめしを食って、あとはうだうだ過ごして、それでお金はほとんど残らないのだった。

 ふと、もういちど壁の時計を見た。午前二時過ぎである。いつもの彼の体内時計では三時頃に目が覚めるのだったが、今夜に限って二時だ。これはなぜか? なぜ一時間早く、目が覚めたのか。答はすぐ分かった。こんな真夜中に、とんとん、と下宿の部屋の扉を叩く音がするのである。この音で起きたのに間違いない。

『なんだこんな真夜中に? 下宿代このまえ払ったぞ。管理人のおばはんやないとすれば、誰だろう?』

「もしもし」

 と、外からしわがれた男性の声。

「どなたですか」

「すみません、こんな真夜中に。ちょうど起きておられると思ったので。稲村増夫さんですよね。三十七歳、独身。金魚鉢の工場に勤めておられる」

……、どなたですか?」

「怪しい者ではありません」

「怪しい者ではないっちゅうて、こんな夜中に、いきなり見知らぬ人に言われても」

「どうかお願いです。ほんのちょっと、お話ししませんかね。扉あけてくれませんか」

 かなわんなあと思いつつ、増夫は扉を開けた。しわがれた声から想像していたとおりの、風采の上がらない小太りの初老の男性である。

「いやあー、感激です。世界のイナムラの、それも生前のお宅におじゃまし、しかも、生前のイナムラさんに、お会いできるなんて!」 

 抱きつこうとしたので、慌ててよけた。

「な、何を言ってるんですかあ? 世界のイナムラとかなんとか」

 その男性は事情を語った。じつは、彼は二十三世紀から来たのだという。今朝、未確認飛行物体が目撃されたというニュースがあったが、あれに乗って来たようなのである。増夫には難しい話だったが、早い話アインシュタインの相対性理論と、ハイゼンベルク、シュレディンガー等の量子力学を統一した『超、大統一理論』が確立され、遂に人類は、時間と空間を自由に行き来することが可能になったのだという。

 彼は科学者であると同時に、歴史評論家でもあるという。生前不遇で、仕事が認められずに一生を終えた偉人を自分の時代に呼んで、その労をねぎらい、かつ、思う存分その才能に二十三世紀で花開いてもらおうと思っている、というのだった。二十三世紀の科学者の格好をしたまま二十世紀にやって来ては不審がられるので、こうして、二十世紀の人間に身をやつして来ているのだそうだ。

「私がウソをついてないことを証明するために、納得の出来る説明をしましょう。タイムマシンは可能か、ということの説明です。

 宇宙には物質と反物質とがあるのです。物質は時間を過去から未来へと流れます。が、反物質は、時間を未来から過去へと流れるのです。反物質は、物質に比べて数が非常に少ないため、日常ではそれがあることに誰も気づかないほどです。が、二十三世紀の科学は、反物質を大量に採取する方法を編み出しました。光速に近い速度で宇宙旅行をすると、たった一日で何百年も遠い未来へ行くことが出来る。地上では何百年も経っているのに、光速に近いスピードの宇宙船のなかでは一日しか経っていない。これは、宇宙船のなかの時計が遅れるからなんです。これを『ウラシマ効果』といい、」

「わ、わかりましたわかりました。ビールもう一缶飲も」

 部屋の隅に置いてある缶ビールの入った段ボール箱から、一缶取り出す。

「へえー、二十世紀末のビールって、どんな味なんですかあ?」

 夜中にいきなりやって来た闖入者にあげるビールなんか、あるかいなと、増夫は一人でビールを飲んだ。冷蔵庫がないので、全然冷えていなかった。が、コンビニでバラで買うよりも、いく分かは安上がりなのだった。

「それでね」

「えっ、まだ続くんですかあ? 説明」

「もうちょっとだけ、もうちょっとだけです。でも、夜中だというのに暑いですねえ。あ、ちょっと、窓枠についているのは、一九九〇年代の、窓枠クーラーですね」

 増夫はなぜか、意地でもクーラーはつけまいと思っていた。汗が出て来たが、その自称未来人科学者は、もっと汗をかいていて、首に巻いたタオルをとって、一生懸命首すじを拭いている。

「それで、続きですけどね、光速に近い速度で物質が、遠く未来へ行けるのならば、反物質で出来た宇宙船が、反人間を乗せて光速に近いはやさで飛べばどうなるか。当然、過去へ行けますよね」

‥‥‥

「ところが、反物質は存在しても、反人間は存在しない。で、どうするか。そこで人間が、反人間にならねばならない。ここが、二十三世紀の科学のすごいところです。私も、二百数十年の時間を遡るときには、内臓やらなんやら、体の中身を外に、目や鼻や口やら、皮膚は内側に反転させて、まる一日宇宙飛行してたんですよ。いやあ苦しかった」

「さぞかしそのときのお宅の姿は、かっこ良かったでしょうね」

「いや、そんなことないですよ」

 と真顔で言い、

「で、地球に再び、この二十世紀末の地上に着陸するときには、宇宙船は反物質から物質へ、私のからだも元どおり反転し、ここまでやって来れたのです。どうですか? 完璧でしょう!」

‥‥‥

「わかりませんか? だいぶう、分かりやすく言ったつもりなんだがなあ。よし、じゃあトポロジーを応用して、えーと、紙に書いて説明しま」

「もういいですよ。どうせ分からへんから」

「そうですか。じゃあつぎに、もっと稲村さんが納得出来るものを、見せてあげましょう」

 そう言って、彼はジャンパーのポケットに手を突っ込んだ。何か、探しているようである。 

「おたく暑い暑いって思うんなら、なんでジャンパーなんか着てるんですか。俺みたいに、ランニングシャツのほうが、涼しいですよ」

「いや、それはそうですが、なにしろ、失くすといけないものを、入れてるんですよ」

 と言いながら、右手でタオルを持って首筋をふきつつ、左手でポケットをごそごそしたあと、

「あった、ありました!」

 自称未来人科学者の男性は、畳の上にポケットから出した写真を置いた。西洋人らしき髭もじゃの男が、たくさんのマイクを前に、何か喋っている写真だった。

「インタビューでも受けてるんですか」

「よおーく見て下さいこの人を」

 写真を手にとり、顔を近づけてみた。

「わかりません」

「分かりませんか? ヴァン、ゴッホですよ。炎の画家、ひまわりの絵。あの、生きているときには不遇だった天才の、典型です。

 この写真でも分かるように、彼は報道陣のインタビューに答えて、そりゃ嬉しそうでしたよう。わしに対する、感謝の言葉をなんべんも言ってくれてねえ、へっへっ。おや、お疲れのようですね。……、たしか、午前二時はイナムラさんが宵寝から覚めて、ちょいといっぷくする時刻でしょ。それからふとんを敷いて、お休みになられる」

「なんでそんなこと、いちいち知っているんですか」

「いや、だから言ったでしょ。私は二十三世紀から来ているので、つまり、イナムラさんの伝記やら記録を、色々調べたのですよ。イナムラさんは仕事から帰ると、ラーメンなどを食べ、ビールを二缶飲んですぐ寝てしまわれる。だからお話するには、ちょうど午前二時しかないと、思ったんだがなあ」

「それを言うなら三時ですよ。一時間間違っていますよ」

「いや、それは失礼! なにしろ、二百数十年も前のことだから」

 科学者はそう言って頭をぼりぼりとかいたら、フケがいっぱい畳に落ちた。増夫は、畳に置かれたゴッホなる人物の写真を見て、言った。

「このゴッホの喋っているマイクが、いやに二十世紀的ですねえ」

「えっ!?」

 いやに慌てている。

「二十三世紀のマイクも、こんな二十世紀の、よくテレビで見るようなのを使ってるんですか。ものすごく科学が発達してるのとちがいますのんか?」

「それはあ」

「それに、言っちゃ悪いがおたく、いかにも二十世紀の、しがないおっさん風ですよ。いや、終戦直後のルンペンに毛の生えたっちゅうかんじでっせ。時代考証まちがえたんか? なんや怪しいな」

「これはイナムラさんを安心させる為に身をやつしているのだと、さっきも」

「そんじゃこのマイクは」

「これも、二十三世紀のマイクの写真おたくに見せても分からんだろうから、わざと」

「やらせですか。ほな、このゴッホさんも誰かが化けとんのやな、はい」

 そう言うと、増夫は畳の上の写真を取って、おっさんに放り投げた。日頃のしがない日々と将来に対する不安が、増夫を欲求不満にさせていた。そのため、無意識のうちにこういうおっさんには八つ当たりをしたくなるのだった。それに、せっかくもうひと寝入りするべきときに、一方的に押しかけられたのだから、少々腹もたつだろう。もっとも、若い美人がやって来たのなら、話はべつだが。そんなことはまったくあり得ないことだった。

 彼はさっさとふとんを敷き姶めた。押し入れからどさんとふとんを畳に落とすと、埃がたった。埃っぽい部屋なのだ。おっさんは、そばで大人しく座っている。

「いやね、まあ一方的に押しかけてきたわしも悪かった。しかしまあ、これにはひと言で言えん、大きなわけがあり。

 じつは、時間旅行には重大な制約がある。時間旅行をすると時空に虫喰い穴(ワームホール)が出来る。つまり時間旅行者(タイムトラベラー)を芋虫に、そして時空をりんごに譬えると、時間旅行者は時空を喰っているんですな。それで、いっぺんあいた虫喰い穴にはもう、りんごの実は詰まってないんで、それぞれの時間旅行はいちどきりしかできないんじゃ。そのため時間旅行は資格のある、ごく限られた者にしか開かれていないんですよ。そのうえ、旅程表を政府と科学技術庁に提出し、許可を受けねばならない。だからこそ、このわしと、あんたとの出会いは一期一会のものなんだ。あんたは今は知らんだろうが、じきにすごい、げほっ、なんですかあ?」

 ふとんを敷き終わって、増夫は煙草を吸っていたのだった。

「ごほっ、げほっ、や、止めなさい、それ、タバコでしょ!」

「いいでしょ、自分の家で何をしようが」

「止めなさい、タバコは。二十一世紀の中ごろには、ごほっごほっ、もう消えてなくなっているんですよ。タバコって、こんなものだったのかあ! ごほごほっ」

「オーバーな人ですねえ。そんなら出ていけば」

 タバコの煙を思いっきりおっさんに吹きかけると、おっさんは大咳きをしまくって扉を開け、一目散に逃げていった。そのとき、彼の尻のポケットから、一枚の紙切れがひらひらと落ちてきた。

「おーい、忘れもんですよう」

 もう、科学者の姿はなかった。

 

 なにか変な夢でも見たのだろうと思いながら、増夫はいつものように、仕事をしていた。変な夢だったな、とかなんとか考え事をしていると、仕事がどんどん溜まってくる。下が丸くて上が波形の金魚鉢の山が、彼の前でどんどんふくらんでゆく。はやく段ボール箱詰めしないといかんのだ。彼のところはベルトコンベアの終点である。そこから滑り台のように、金魚鉢が一個ずつ彼の足下の床に下りてくるようになっている。

『どうせ、俺が一生懸命ダンボールに詰めても、八割がた返品やないか。見ろ、あの返品の山を』

 むこうの壁際には、増夫が二、三日前にダンボール詰めして発送した金魚鉢が、封も解かれず返品となって山積みされている。

『どうせ、新進のメーカーに食われているんだ。こんなことやってて、なんになるねん? あー、きのうは変な夢見たし、なんや気分が乗らんな』

 そのうち、金魚鉢の山が滑り台の下のところでだんごになってきた。そうして、たしか三か月まえにもやって、上司にしこたま怒られてしまったことが、また起こった。

 がらがらがっしゃーん、ぱりーん!

 だんごのてっぺんにあった金魚鉢が数個、床に落ちて割れてしまったのである。慌てて係長がすっとんで来た。

「何してるねーん!」

 

 日もとっぷり暮れた頃、彼は近所の大衆食堂にいた。家でカップヌードルなんかを食う食生活だったが、たまに、給料日の夜などは、ここを利用する。今日は給料日ではなかったが、飲まずにはおれなかったのだ。

 ビールを飲むと、係長の怒鳴り声が蘇ってくる。

(おまえ、前もやったとこやんけーっ! おまえが風邪で休んだ日、バイトの川崎君におまえんとこやってもらったことがある。川崎君、全然溜めへんかったぞ金魚鉢! おまえ溜めんの好きやな。金もよう溜まるやろ)

『昔はもっと、この会社はなごやかやったんや。景気が悪くなってから、どうもとげとげしくなってきている。係長には焼き鳥おごってもらったこともあるが、あーもうええ、おれ、会社辞めよかな。

 おれはほかの人が片手に一個ずつ金魚鉢を持って、二個ダンボールにいれるところを、いつも両手で一個持つからどうしても遅れるんだ。そやけど、返品減らす工夫もせんと、上も、文句いうなーっ!』

「す、すんません、もう一本」

 ビールをぐびぐび飲み、きんぴらごぼうと、かしわをつつく。

 食堂を出ると、夏の星空である。酔い覚ましにファミリーレストランに入る。そうして、おかわりし放題のコーヒーで、ねばった。まわりを見回すと、アベックと家族連れがほとんどで、あと、たまにネクタイを締めた男性どうしが向かい合わせに座って、仕事の打ち合わせなどをしているようだ。

「こんな夜遅くまで仕事の打ち合わせとは、御苦労なこった。もっともっとやってくれ、ヘヘっ。俺はここで優雅に、おかわり自由のコーヒー飲めるんや。うらやましいやろ。あれ、あそこのアベック、男はあんなぶさいくやのにええ女連れやがって腹たつ。そや、俺にはもっとええ女がおるんやった、電話しよっ。どやっ、うらやましいやろ」

 一人言を言った増夫は、ファミリーレストラン内の電話ボックスヘと歩いて行った。「十年前の記憶やが、まだ忘れてへんぞ。えーと」

 ダイヤルを廻した。酔いが、ここの薄いコーヒーぐらいでは、覚めていないのだった。

 

 夜の十二時をまわった頃、増夫はいつもの四畳半で、冷蔵庫に入っていた、ペットボトルのサイダーの残りを飲んでいた。炭酸の気が抜けて、砂糖水みたいになっている。

『結婚して、もう家を出て行ったとは驚いたな』

 十年前に中学の同窓会で顔を合わせたきりだった憧れの彼女は、もう結婚して子供もいた。今はアパート住まいであるという。そう彼女の母親が、教えてくれたのだった。

 会社では、今日に始まったことではないが、怒られるわ、憧れの人は子持ちだわ、増夫は、自分だけが浦島太郎のようにとり残されていくのを、感じていた。

 と、部屋の隅に紙切れが落ちている。拾うと、それにはボールペンで、簡単な地図が描かれてあった。今は誰も住んでいない、元繊維会社の寮だったところが、黒く、四角く塗りつぶされており、矢印がしてあって「ココ」と書かれていた。増夫は、ゆうべ見た不思議な夢のことを思い出した。タバコの煙を吹きかけると、一目散に逃げていったおっさんのポケットから、紙切れが落ちた夢を。

『あれは、夢じゃなかったんやろうか。そうや、あれは現実やったんや。あれは夢というには、いやに現実感があった。行ってみよう』

 夜中の一時を過ぎた頃、増夫は、電柱の裸電球もまばらな、ゴーストタウンのような元繊維会社の寮の立ち並ぶあたりを歩いていた。そして、地図のとおり、ある一棟の寮の前に行き着いた。

 三階建てのその寮の、右端の窓から明かりが漏れている。ほかの窓のどこにも、そしてまわりの建物のどこにも明かりはついていなかった。もう何年もこのあたりは、空家の筈だった。

「やっぱりあそこにあのおっさん、いや、未来人がおるんや!」

 建物の鉄のドアを押すと、ぎいーと軋む音がした。真っ暗な、学校の校舎みたいなところを三階まで上がる。廊下を歩いてそこだけ明かりのついている、一部屋の扉をたたいた。

「どなたですか」

「ぼ、ぼくです。稲村増夫です」

 中に入ると、果たしてあのおっさんである。後ろを向いて、何やら等身大くらいの、潜水艦みたいなものをいじくっている。

「ま、まさか、ほんものの科学者だったとは。‥‥、すいません、先日は。本物とは思わず、つい、日ごろのストレス溜まっていたものでえ」

「ふんふん」

「それであんな言いかたをー」

「ふんふん」

 何も気にしていない様子である。

「ああ、ちょっとそこに座って待っていなさい」

 このあいだ会ったときの、怪しいおっさん、という感じではなく、いかにも学者か先生、といった口調になっている。

 十五分くらい経ったろうか。ようやくその「先生」は、こちらに向き直った。

「やれやれ、やっと終わったよ。出発の前の、点検をしていたんだ」

「え?」

「君は本当に、わしを信じるかね」

「は、はい勿論。それでえ、ちょっと教えてもらいたいことが、あるんですけど。ぼ、ぼくが『世界のイナムラ』と先生言うてはりましたが、あれどういう意味なんですか?」

「それはだな」

 先生は、少し笑ってから続けた。

「君は、偉い絵描きになるんだ。しかし、歴史の本によると、君は生きてるうちは、あまり恵まれなかったことになっておる。

 そこでわしは、あのヴァン、ゴッホ同様、君に、わしの時代に来てもらい、労をねぎらおうと思った。しかしよく考えると、きみはまだ、ろくに絵を描いとらんじゃろ? ということは君はまだ、この時代に仕事を残しとらんのじゃ。来る時代が、早すぎたのかもしれん。あと数年後に、わしは来るべきじゃった。でないと、いま、君を二十三世紀に連れていくと、歴史上に君の絵が存在しなかったことになってしまう。じゃからわしはもう、帰ることにしたんじゃ。悪く思わんでくれ」

「待って下さい! 俺はもう、今どうやったらいいか、皆目わからんのです」

「タイムマシンに関することは、じつはまだ、よく分かっていないんじゃ。反物質は現実に存在するので、こうやって過去に来ることは出来たが、じっさいに過去へ行って昔の出来事をいじくると、未来がどうなるのか、まだタイムマシンの運行は、わしら一部の者が数回しか試しとらんので、よく分からんのじゃ云々かんぬん」

「そんなこと言わずに、お願いしますっ。連れていって下さい」     

「うーん、それに、君が本当に世界のイナムラなのかどうかも分からんし云々かんぬん」

「えーっ!?」

「よし、分かった。わしは未来の歴史教科書がどうなろうとも、君を助けよう。じつは、きっかり三分後に、このタイムマシンは出発するようにセットしてある。さ、さ、早く乗りなさい」

 先生は、等身大の潜水艦の上部ハッチを開け、先にそこから乗り込んだ。

「さ、さ、早く!」

 ウィーン、という振動音が起こった。

 急にそのとき、増夫には、実家の年とった両親のことが頭に浮かんだ。それから、ごく少数の親しい友人のことも。

 ハッチの中から、おっさん先生の声が聞こえる。振動はますます激しくなってきた。ブーン、といって、潜水艦は床から少し浮き上がった。

「は、早く! あと一分で出発だよ。ハッチを閉めなくちゃならない。早く、来なさい!」

 増夫は気が動転していた。なかから、また声が聞こえた。

「いかんっ、もう時間じゃ。このときを逃すと、わしも二十三世紀へ帰れなくなる。じゃ、健闘を祈る。さようならーっ」

 パチン、とハッチは閉まり、潜水艦は周囲の空気をも震わすほど振動すると、大きくあけ放してあった窓から、空へと飛び出した。そうして、あっという間に空の彼方へと飛び去り、見えなくなった。

 

 翌朝、増夫は眠い目をこすりながら食パンをかじり、朝のテレビニュースを見ていた。

「そうやね、わしが昨晩遅く、会社の同僚と梅田で一杯飲んで、終電で帰るとな、もう十二時をとっくにまわっとったんですわ。ほいでえ、屋台のラーメン食うてやな、タクシーで家、帰りましてん。そいで煙草買いにやな、近くの販売機まで行ったときや。ほら、あっちの空のほうにな、ユーフォーいうんでっか? そいつがな」

『どこにでも人はおるんやな。そやから、こんなおっさんがたまたま見つけたりするんや。そやけど、このおっさん今朝は会社行かんでええんかいな? こんな、住宅街で朝っぱらから、テレビのカメラ相手に喋ってるひまあるんか?』

 そそくさとパンを食べ、インスタントコーヒーを飲んで、会社へ。

 50CCのバイクでいつもの道を走る。世の中はなにも変っていなかった。UFOのニュースが流れたことくらいだった。

 朝礼が終わり、仕事を始めると、さっそく金魚鉢が滑り台の下に溜まりだした。寝不足なのと気分が乗らないのとで、とくにその日の彼は動きが悪かった。

 

 夕方、帰り道にあるハンバーガー屋で夕食をとった。

『おまえ、配置転換しよか。そのほうがおまえの為にもなる。ほかの部署に行くのも視野が広がるし、これは親身になって言うてるんやぞ』

 上司の声が、彼の頭のなかで渦巻いていた。そのため、好物のハンバーガーも、味がよく分からないほどだった。いつもなら大型のと小型のとを一個ずつ食べたあと、更にもう一個大型のを食べたりするのだが、今の彼は、一個、小型のを半分食べたあと、ぼおっとしていた。

 そんなことがあったが、それから彼は持ち直し、なんとか仕事を続けて、半年が経った。

 突然、彼は会社を辞めてしまった。無断欠勤したのだ。その日の工場は、困った。是非いてもらわなくては困るというような、有能な社員ではないのだが、頭数が減ったので、人数ぎりぎりしか雇っていないため、やはり困ったのである。上司も同僚も、ぶうぶう言いながら、夜遅くまで働いた。

『よし、俺はあのとき、未来人科学者が言ったように、絵描きになる。日本の、いや世界のイナムラになるんやー!』

 フリーターになって、ときどきバイトをするが、元来がどんくさいたちなので、仕事をするのは骨が折れた。が、彼は頑張った。そして、それまで握ったこともなかった絵筆をとって、それこそヴァン、ゴッホのように描きまくった。

 ちっとも上手くないのである。風景にしろ人物にしろ、下手くそだった。それで当然、展覧会にも落ちるし、画廊も、実績のない彼を相手にしてはくれなかった。しまいにはバイトもしなくなったので、九十万円あった貯金はO円になり、下宿にもおれなくなってきた。

 彼は、半ばやけくそで描いた。そうして、やっぱりその絵は下手くそなのだった。彼の絵の特徴は、なぐり描きといったものになった。彼はとうとう絵は諦めて、小さな町工場に入れてもらった。60才になったある日、妙におなかが張るので、仕事帰り、近所の内科に診てもらったところ、すぐ入院しなさいと言われ入院し、帰らぬ人となった。2018年の夏のことだった。

 

 

 ここは二十三世紀。東京で大阪で、そして名もない地方の町でも、稲村増夫の美しい画集は手にすることが出来る。それどころか、今年2258年はマスオ、イナムラ生誕三百年で、世界各地でマスオ、イナムラ展の催しが、企画されていた。

 イナムラの出身地大阪でも勿論、大規模な展覧会が催されていた。今日がその初日で、その主催者は、科学者兼歴史評論家兼なんでも屋の、例のあのおっさんだった。  

 

「思ったとおりの画家やったんや。たぶん」

おっさん先生は、マスオ、イナムラ展初日の賑わいの余韻をかみしめながら、家で洋酒を飲んでいた。そうして、増夫の家でタバコ騒動があったとき、どさくさでズボンのポケットに入って、ここ23世紀まで持ってきてしまった一本のタバコを、しみじみと眺め続けていた。                                 (終)

 

 


奥付



マスオ、イナムラ伝


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著者 : まるど88
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