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最期のモーツァルト

 

 私の名はフランツと言う。私の名前など、取るに足らないものであるが、それはこれから何ほどかを意味する事になる。そしてそれが何かを意味するーーさせるようにするのは、今や世界に名の知らないものはいない、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトその人だ。私はモーツァルトの弟子だった。私は師とは似つかずに、こうして長生きをしてしまった。私がこれから語りたいのは、モーツァルトの生涯の最期の一時期だ。私はモーツァルトの晩年の弟子だった。もっとも彼はその頃、借金まみれであったから、私も随分とお世話をしたのだった。彼の生活能力の不足は私には驚くべきものに見えたが、モーツァルトその人にとっては、私のような凡才が、世界を彩る音楽的才なくとも、人生を渡って生きていけるという事の方が不思議だったろう。モーツァルトという人は、それほどまで彼の魂を音楽に食われていた。しかし(これから語るが)彼は単にそれだけの人ではなかったのだ。

 

  

 私がこれから語るモーツァルトの晩年は、断片的なものとなるので、まとまった叙述にはならないだろう。しかしそれでも、この悲劇の人について語る事は決して無意味とは思えないので…私は語る事にする。この不思議な天使が霊界から遣わされてきた事は、我々地上界にとってはありがたくも、もったいない事だった。しかしそれ故に、あの小さな体には苦痛が走ったのだ。その苦痛を思うと、私は泣くにも泣けなくなる。…いや、今、私は涙を殺そう。私は今、語らなければならないのだ。語るのに涙は、(そして当分は)感情は不要であろう。

 

        

                            ※

 

 私がモーツァルトと出会ったきっかけについて簡単に話そう。彼はビリヤードが好きで、ビリヤード場によく出入りしていた。私もビリヤードを好んでしていたので、週末はよく行っていた。私はそこではじめて、彼を見たのだった。

 彼は人づてに聞いた通り、背が小さく、猫背だった。彼の鼻は高く、目は大きかった。私はビリヤード場に入ってきた所で、彼はビリヤード台の側で椅子に座って休んでいた。彼は眼前で行われていたビリヤードをぼうっと見ていたが、彼の大きな目はとても眠そうだった。彼はまるで、目の前のビリヤードではなく、その奥にあるものをただぼんやりと見つめている、という風に見えた。私は「この人があの有名なモーツァルトではないか」と思い、近くの人に尋ねた。するとその人は「そう、あれがモーツァルトさ」と言った。私は彼に近づき、自分の姓名を告げた。私は彼の音楽の崇拝者である事、また私自身が駆け出しの作曲家である事も合わせて伝えた。彼は闊達な様子を見せてくれて、今度、家に来るように、と私を招いてくれた。私は喜んで承諾した。そこから私と彼との付き合いは始まった。

 

 モーツァルトの家は一軒家ではなかった。彼はある家の二階の一部を貸しきっていた。私は約束の刻限に彼の家を訪ねた。

 階段を昇って、彼の住居に向かう時、私はすでに非常に奇妙な感じがしていたのを今でも覚えている。あの偉大なるモーツァルトがどうしてこんなうらびれたボロ屋の二階に住まなければならないのだろう? 私はすでにその事を奇異に感じていた。私が登っていた階段は一足踏みしめるごとに、キイキイと甲高い音を鳴らせる、いかにも粗末な作りのものだった。

 ドアをノックすると、モーツァルトの妻ーーコンスタンツェが出てきた。彼女は、後に誹謗されるような「悪妻」などではなく、モーツァルトと同様、快活で心優しい人物だった。ただ、モーツァルトとは違う意味でどこか、人として生きていくには必要な何かが欠けていた人物だったと私は考えている。もっとも、それも、たまたま結婚した相手があの大天才だった為に、彼女の欠点が夫の威光によって過度に晒されたに過ぎない。コンスタンツェは後に言われるほどの悪人ではなかった。

 

 私はコンスタンツェに丁重な挨拶をしてから、彼女に促され、モーツァルトのいる部屋に入っていった。彼は、ピアノの前に座っていた。私が部屋に入ると、彼はこちらを見た。

 その時、すでにーー彼の目にある種の憂いがあった事を私は感じたのだった。私はその時、何かを直感したのだったが、その直感が何だったのかは彼との交流の中で明らかとなった。

 「よく来たね」

 モーツァルトは言った。彼の手はピアノの上を離れなかった。

 「よく来てくれたよ。…こんなところまで。君の事は気にかかっていた。君が僕に挨拶をしてくれた時から。さあ、そこに掛けてくれたまえ。もう少しで妻がお茶を持ってくるから」

 モーツァルトはそう言って、やっとピアノから手を離し、こちらを向いた。その時、丁度コンスタンツェが紅茶を持ってきて、小さなテーブルの上に置いた。私はカップを取り上げ、少し飲んだ。コンスタンツェはすぐに部屋から出て行った。

 「あの時、僕は君とあそこで話して愉快だったんだよ。ほんとさ。君は僕が作った曲を隅々まで覚えていてくれたね。私にはその事がとても嬉しかった。…ほんとうにね」

 私は、そう言うモーツァルトの言葉…いや、その体の動き、ちょっとした手つきに何か病的なものを見た。それは精神的なものではなく、純粋に身体的なものだった。よく見ると、モーツァルトの右手はかすかに震えているのだった。モーツァルトは、私がその事を発見したのに、すぐに気がついたみたいだった。

 「最近、体が悪くてね」

 彼は言った。

 「どうも、体が痺れたり、腹の具合が悪かったりするのだよ。厄介な事にね。ついこの前までは、サリエリが僕に毒をもったんじゃないかって思っていたんだが、もちろん、彼はそんな事をする人じゃない。冗談さ。多分、僕の不摂生がたたったんだろうね。…しかし、僕の才能を妬んでいる連中が沢山いるのも確かな事だね。僕の肉体を殺しても……音楽は殺せない。連中にはその事がわからないのだろうけどね」

 モーツァルトはふわりふわりとした感じでそんな事を言った。私は一つ一つの言葉を頭に刻みこむように彼の話を聞いていた。

 「ああ、ところで、君が送ってくれた曲…なかなかに良かったよ。君にはなかなか、凡庸じゃない所がある。しかしね、君にはまだ自分の独自性というものが見当たらない。君はそれを努力して、探さなきゃいけない。これからね。僕の……僕の話をしようか、少し」

 モーツァルトはふいに天上を見た。彼は何かを私に話したがっているみたいだった。

 「僕はこれまで…こんな風に自分を語るという事はしなかった。僕はいつだって…快活だったさ。明るくて、天真爛漫だった。僕は自分がそういられたという事を神さまに感謝している。僕は他人に対していつだって、暗い様子を見せた事はなかった。それはね、僕の音楽だってそうなんだ。僕の音楽は『天国的だ』なんて言われる。だから、奴さんは僕の事も本当に天使だなんて思い違いするのさ。こんな天使がいるかね? …ほうぼうに借金を頼み、体を病んでいる天使が」

 モーツァルトはそう言うと苦笑してみせた。私はその笑顔に、何か痛切なものを見た。

 「僕はこれまで自分の運命を嘆いた事はなかった。…いいや、一度もなかったね。僕はこれまでずっと快活で、前向きだったさ。僕はいつも悲しみを置き去りにしてきた。悲しみは僕の背後にあって旋風を起こす。しかし、その時、僕はもう一歩先へ行っていた。この間、ウィーンの外れで、ある楽団が僕の作った曲を演奏しているのを聞いたよ。指揮者がなかなか男前でね。君も名前を知っている有名な奴さ。だけど、そいつは何でも小奇麗にして演奏してしまうから、僕は好きじゃない。奴とは喧嘩した事もあった。音楽界は狭いからね。あいつは、なんでも綺麗で平坦な音楽にしてしまう。それで僕が丹精込めた交響曲も、そんな風に演奏されていた。僕は腹を立てたね。芸術なんてそんなものじゃないんだよ。でも、その方が大衆受けする事は確かだ。『大衆受け』! …僕はね、こいつの為に身を滅ぼしたも同然だ。しかし、大衆よりも、宮廷つきの音楽家の方がマシだってわけじゃない。奴隷になるのに、犬の奴隷になるか猿の奴隷になるか、それぐらいの違いしかありゃしない。馬鹿げた話だ。だから僕は…こんなに困窮しているってわけだ」

 モーツァルトはとめどなく話し始めていた。私はただじっと聞いていた。

 「君も伝え聞いているかもしれないが、僕は十七歳の頃に一線を越えた。僕は過去の大音楽家達から様々なものを吸収し、そこからオリジナルなものを作る事を覚えた。二十歳の頃にはもう自在となっていた。…随分早いものだ。自分でもそう思うね。でも、それによって損した事だってあるんだよ。人は、神童だった頃のイメージを、二十歳を過ぎた僕にも重ねてみせた。『あれは霊感に捉えられて天才的な音楽を作る変人だ。子供の頃から神童だった』 そんな言葉を至る所で聞いたよ。しかし、神童である事と、作曲家として偉大であるという事は全く別なんだ。この事が世間ではわかっちゃいない。目隠しをしてピアノを弾くなんて事は、子供の頃からやればできるさ。しかし作曲は、本当の音楽というものはそういう曲芸の延長線にあるものではない。本当の音楽はバッハのように、人間的偉大さと、努力と、訓練と、研究の果てに得られるものだ。しかし、人は僕の場合、そうは見ない。要は連中は僕を嫉妬しているんだ。そうでなければ、単に僕を『天才ぼっちゃん』というカテゴリーに押し詰めようとしているのだ。なんて馬鹿げた事だろう! 僕は努力したのだよ! 誰よりも。過去を、自然を研究した!」

 モーツァルトは感に堪えない、という風にそんな事を言った。彼はそのまま少し咳込んだ。私は心配したが、彼の咳はすぐ止んだ。

 「…いい、大丈夫さ。しかしね……最後まで言わせてくれ……。確かに、僕の方に落ち度があった事も確かだ。僕は始終、卑猥な冗談ばかり言っていたからね、ハハハ。僕はいっつもふざけていた。それで人が本当にあいつはふざけている奴だ、なんて思ったって、まあ仕方ないさ。だけどね、その間でも僕はいつだって真剣だった。不思議な言い方かもしれないけれどね。僕の頭には常に音楽が流れていて、僕はそいつと共に生きていたのさ。そしてそれを『作品』という形に落とし込める事に抵抗を感じた事もあった。だって、音楽は僕と共に生きているじゃないか! この痩せこけた体と共に! …しかし、それももう終わりだ。僕は今、レクイエムを書いている」

 「体がそんなに悪いのですか?」

 「僕はもう…死ぬよ。多分、あと一年も持たない。この間、鼠色の服を着た男がやってきてね、僕にレクイエムを一つ注文した。僕はそれを運命と感じたよ。半分先に金をもらい、完成したらもう半分もらう。期日は決まっていない。しかしね、期日なんてものが一体なんだろう? 僕は時間というものを不思議に感じる。皆は時間というものが流れていると思っているかもしれない。しかし、そんなものは流れてやしない。これは哲学じゃなく、感覚なんだ。流れているのは時間じゃない。僕さ、僕が流れているんだ。この生命の河をね。僕はね、音楽をやっている。君も知っての通り。すると、ある霊感に打たれて、自分が自分でないように感じる一瞬というものが訪れる。そういう時があるんだ。その時、時間は止まっている。全ての時は停止して、僕だけがここにいる。そして僕は……しかしね、僕だって運命に抵抗するわけにはいかない。僕は死の前に、レクイエムを完成しなければならない。こればかりはね…しかし、『鎮魂曲』が死を前にした最後の男の望みだと思うと…なんと馬鹿げた、滑稽な事だろうか!」

 モーツァルトは陶然として、天上を見た。そこには汚い染みがあるばかりだった。

 「なあ、フランツ、よく聞くんだ。僕はこれまで自分の運命に従ってきた。父は僕を音楽的天才に作り上げた。その後、父は何かと僕に指示をして、僕はそれに従ってきた。僕の音楽は大抵、自発的に作られたものではなく、注文されて作られたものだった。僕は随分と仕事をしたさ。随分と沢山の曲を作り、それは結局は人々のためになると信じて、仕事をしてきた。僕の音楽は人々に膾炙し、僕は『天才』と呼ばれた。しかしね、今や僕は死のうとしている。不思議だね。こんな事があっていいだろうか? 僕はほうぼうに借金して、今日も借金依頼の手紙を二通書いた。でも僕は自分の運命を恥じてはいない。僕は自分の人生を振り返ってーーとても奇妙な気がするんだよ。なあ、フランツ。僕は今まで僕がしてきた事がまるでガラクタだったし、それは壊れやすい、脆いガラスの道だったという感じがする。今やそれは壊れようとしている。橋が壊れて落っこちるのは、モーツァルトという道化人さ。背が低くて鼻が高くて、冗談が好きで快活な僕ーー皆は僕の事を天才だと言ってくれた。随分と嫉妬も受けた。でも、それだけだ。一体、これはなんだろう? …いや、フランツ、僕は死ぬのを嫌がっているわけじゃない。死は随分と前から僕に身近だったのだ。僕は体が強くなかったし、そもそも自分にある才能が欠けているのを感じていた。つまり、生活能力の不足さ」

 モーツァルトは背もたれに体重を思い切り預けていた。彼は話す事で、体力を失っているようだった。私は心配だったが、彼は話し続けた。

 「二十五の時、僕はパトロンだった大司教と大げんかをした。巾着持ちのアルコ伯爵に部屋から追い出されたんだよ。蹴り飛ばされてね。ハハハハ。あの頃から、僕はもう駄目だった。大司教は悪い人じゃなかったけれどね。しかし、権力意識が強すぎた。僕みたいなろくでもない人間からすれば、権力者なんていうのはいつも権力に引きずり回されていて、自由じゃないんだ。世の中の人々だってそうだ。自分では自由なつもりでいて、自分の欲望や立場にぶんぶん振り回されているに過ぎない。僕は自由でありたかった。音楽的にね。僕はでも、自分の音楽なんてどうだっていいんだと思っていたよ、一方ではね。でも、僕には耳と手がある。例えばね、作曲する時、僕はこう考えるんだ。『今度こそ、宮廷や大衆に受けるような、ありきたりの普通の作品を書こう。いつものモーツァルトじゃいけないぞ、今度は自分を抑えるんだ』って。あの、天真爛漫なモーツァルトがそんな事を思うなんて滑稽だろう? ハハ。でもね、どうにもならないんだ。そんな風にして作った曲というのは、僕にはやっぱり不満なんだよ。不満なんだ。僕の頭は許しても、僕の耳は許さない。大司教にくっついていれば生活はまだ楽だったと、僕も知ってたさ。でも、どうにもならない。僕の耳と手が僕を引っ張って、このどうしようもな下宿に引っ張りこんだんだ。僕は音楽だよ、音楽そのものだ。そしてこれくらい惨めな事はない」

 モーツァルトはしゃべり続けた。

 「僕はね、失敗したよ。失敗なんだ。もう何をやってもどこへ行っても、何も感じない。まるで自分が透明な亡霊みたいなんだ。…いや、それは幼い頃からそうだったのかもしれない。赤ん坊に近い時から親父に引っ張られて、チェンバロの前に座らされた。僕は弾いた、弾いたさ。僕には才能があって、色々な事ができた。親父は僕をうまい事ーーつまり、この天才をうまい事利用しようとした。でも、それはうまくいかなかった。天才なんて、そんな簡単なものじゃないさ。世間はこの天才をーーつまり、僕の事を、心の底では疎ましく思っている。本当だよ、これは、本当の事だ。僕は人々の喝采の底に、密かに隠された憎悪がある事にふと気づいた。ある時期に。彼らは、自分達に理解できないものを排除しようとする。彼らが好きなのは、自分達の所まで『降りてくきてくれる』ものなのだ。僕は…そうじゃないからね。一度、楽譜屋に『もっと通俗的に書いてくれ』と頼まれた事があるけど、一も二もなく断ったね。それでは、僕は僕じゃなくなる。あるいは、僕は許しても、僕の耳や手は許さない。僕はね…こう思うんだ。世界には高貴なものがある、と。しかし、それは高貴であるが故に同時に、世界から憎まれもするのだと。そして愛されもする……まあ、僕はこんな窮状だけれどね」

 「僕はもう三十五だ。死が近い。この年で死んでしまうんだ。でもまあ、僕はそれなりに頑張ったよ。色々な事を経験し、色々な曲を作った。僕は絶えず、現実生活に追われながら、音楽を作り続けた。僕が音楽の上で走って行くと、現実っていう奴がまるで影のように僕を追ってくるのだな。そしてとうとういつか、影は僕にぴったりと重なる。…それが『死』というものだよ。僕はもう駄目だ。僕はもう死ぬんだ。その事は自分でも感じている。僕は…一昨年あたりから、もう何にも期待しないようになった。音楽を作っても、金も、喝采も気にしないようになった。僕はこの三十五年であまりにも、運命の暴風雨に激しく傷ついてしまった。僕は絶えず、期待と望みを抱いたが、その度に、それは現実という真っ黒い壁に跳ね返された。僕は運命に無残にもやられてしまった。体中、ぼろぼろさ。運命に傷ついた僕は、音楽によって得られるものをもはや何も期待しなくなった。僕は一曲作る毎にこう思ったよ。(この曲だって大して金にならない。だけど、別にいいんだ。僕はこれを作るのが楽しかった。この曲に対する報酬はこれで十分だ)ってね。それで、十分なんだ。それ以上はないんだ」

 「ああ! 僕はあまりにも運命に八つ裂きにされてしまった。もう駄目なんだ、駄目なんだよ! 僕は。僕は死ぬんだ。ああ、そう死ぬ。僕はその事を嘆いているわけじゃない。ただ、自分の人生を手のひらの上に置いてじっと眺めてみる…そんな気持ちなんだ。滑稽な男さ、この背が低く鼻が高い男は。僕はあらゆる所で、僕自身の音楽が鳴るのを聞いた。僕の魂の中ではいつも音楽が小さく鳴っていて、僕はそいつを拡大する事に務めた。それが僕の人生……恋愛……結婚……子供……? あのね、君に言っておくが、人生というものは君達が考えているようなものじゃない。断じてそんなものではない! 人生というのはもっと、つまらなく退屈で、だからこそ、時々美しいものを必要とする、そういうものなんだ。大抵の奴は、人生というチェスゲームに勝とうとする。つまり、何らかのノウハウを収集して、こいつに勝つ方法があると考えるんだな。ゲームだからね、努力してればいつかは勝てるって寸法さ。しかし、そんなものは嘘っぱちだね! 絶対に嘘だ! 人生というのは、絶対に敗北する事が確定していて、なおも神様から駒を動かす事を強要されている、そういうゲームに過ぎないんだ。そういうものさ、この人生というのは。勝つ方法なんてありゃしない。この世の果てまで行っても絶対にそんなものはどこにもない! 何千年経とうが、科学がどれだけ進歩しようが、このゲームに勝つ方法なんて絶対にない! それは全く、断言できるね。僕は三十五年の人生でそれを学んだ。…くだらない事だけれどね。僕は努力し…音楽の霊になった。ハハハ、笑うかい? …いや、失礼。僕は馬鹿なのだよ。もう馬鹿になっているのだよ」

 「しかし、人生というのがそんな風に負けが決まったゲームだからこそ、僕達はその合間に、美しいものや高貴なものを知らなくてはならない。そうだ、その為に音楽はある。音楽は、人生が必敗の事業だと悟った人間の、窮地に追い込まれた最後の調べなんだ。そうだよ、僕のレクイエムは少なくとも、そうだ。僕はバッハに出会い、その深みに感動した。僕は軽薄な人間だがね、音楽においてはそうではない。人生には勝てない。だからこそ、人は歌わなければならない。どうしてもね」

 「そうだ、どうしても歌わなければならない。しかし、僕はもう疲れたよ。僕はもう年だ。まだ若いのにね。僕の天才は才能は…燃え尽きってしまったロウソクの芯のようなものだ。心の中には何かが残っている。だけど、それを発露する機会はもう訪れない。そんな気がするんだよ。僕には…もっと沢山の可能性があった。僕にはもっと沢山の人生があった。なのに、僕はそれを十分の一も実現できず、知る事もできずに死んでいくんだね。不思議な事だよ、全く…。でも、きっと、僕が死ねば人は、僕がどんな人物だったか思い出すに違いない。僕はその事を死後に楽しみにしている。思えば、イエス様や、哲学者のソクラテスなんて人も、生きている間は処刑されてしまったけれど、死後には違う輝きを与えられた。僕は借金まみれの愚かな音楽家として死ぬけれど、その後の話はまた違うさ。僕は…断言しておくよ。まだ口が聞けるうちにね。僕の死後、人々は僕を見直すようになる。『あいつはただの馬鹿じゃなかった』 人はその事を思い出すだろうよ。僕はもう…もう……」

 モーツァルトはそこまで言うと、ぐったりとして黙りこんでしまった。彼は椅子の背もたれに体を預け、足をだらんと前に放り出していた。それは自分の肉体に全く気を使っていないかのような所作だった。

 私はすぐにモーツァルトの側に駆け寄った。彼は私をじっと見ていた。私はその透明な瞳をーー人の底の底まで射抜いてしまうような瞳を生涯を忘れる事ができない。彼は、自分に何が訪れているか分かっていた。他人が自分をどんな罠にかけ、人々がどんな利己的な心でかの天才に接しているのか、そのことも十分理解していた。しかし、彼はそれを知って尚、天真爛漫に、わざと、あえて無邪気に振る舞ったのだった。私は一瞬でその事を理解した。

 私はモーツァルトを促し…彼を近くのベッドに横にさせた。彼は逆らわなかった。私は水を持ってこようと思い、コンスタンツェのいる部屋に行こうと思った。しかし、モーツァルトは私を呼び止めた。

 「待ってくれ」

 それは凛とした、張りのある声だった。まだ彼にも体力は残されているようだった。

 「どうする気だい?」

 「水を…あなたの為に、水を…」

 「そんなものはいらない。大丈夫だ。僕はまだ大丈夫……それより、ここに座ってくれ。側に、さあ……」

 モーツァルトはそう言うと、手近の小さな椅子を指差した。私は躊躇したが、とにかくモーツァルトの言う事に従った。私は椅子に座った。私は彼を見た。

 「いいかい…大丈夫だ…僕はまだ大丈夫だ…まだ、やれるさ、僕は……。そうだ、僕は……。君はまだ若いのだし、これからがある。僕と違ってね。君には才能がある。君には。僕にはね、僕にはね…もう時間がないんだ。僕にとっての希望はレクイエムを書き上げる事だ。これに命を懸けてもいい。…いや、命が途切れる事を知っているから、作るんだ。逆だな、順番が。僕は人というのは、命が途切れる事を知っているから何かをするのだ、しようと思うのだと、そう思っているよ。僕自身そうだしな。僕の中の死がいつも、僕の中の音楽を見つめていた。闇の中から光が生まれて、僕の音楽の背後には悲しみがあった。あえて、見えないようにしていたけれど。しかし死の前にそれは…まあいい。僕は天真爛漫なモーツァルトとして生まれ、天真爛漫なモーツァルトとして死ぬよ。でも、まあ時間はまだある。大丈夫だ、フランツ、大丈夫だ、僕にはもう少し時間はあるよ。レクイエムを書き上げなければ、なんとしてもね。君は…さあ、行くんだ。コンスタンツェに一言挨拶していってくれ。それから、毛布と水を持ってくるようにね。頼むよ、頼んだよ…」

 モーツァルトはそれだけ言うと、疲れきったように目を瞑りました。私は彼がそのまま死んでしまうのではないかと怖くなりましたが、彼の指先が僅かに動いていたのを見て(まだこの人は死なない)と思いました。私は言われた通り、元来た部屋に戻り、コンスタンツェに毛布と水を頼み、モーツァルトの具合が悪い事を伝えました。コンスタンツェは、私が彼の体力を消耗させたのではないかと疑惑の目を私に向けました。私は一瞬のその眼差しを見逃しませんでしたが、コンスタンツェはそれ以上、追及はしませんでした。彼は愛する夫の部屋に入ってきました。

 私は不安でしたが、それ以上どうする事もできなかったので、後をコンスタンツェにまかせて(彼女は私に帰って欲しそうにしていました)仕方なく帰路につきました。私の心の中はざわざわとざわめき、真っ暗なもので占められていました。月が、恐ろしいほどに赤々と照っていました。私にはそれは赤ん坊の生き血を吸った吸血鬼のように思えました。私は暗い気持ちで帰路をたどりました。

 私は道々、考えました。もちろん、モーツァルトの事をです。(彼は三ヶ月と持たないだろう! あの調子では!) 私の頭の中にそんな予感がありました。彼は…死ぬのです。私のような凡才とは違い、彼にはどんな可能性があったのだろう。彼にはどんな苦悩や悲しみや、また軽薄さや愉しさがあったのだろう。様々なものを抱えて、モーツァルトは死ぬ。神は無情であるが、彼に音楽をする時間を与えたという意味では、温情を持っていたのだろうか? 私はそんな事を道々、考えました。心の中は暗く、どうにもならない気持ちでいっぱいでした。

 私が自宅に着くと、一緒に住んでいた恋人が私の側にやってきました。彼女は言いました。

 「あら、遅かったわね。……どうしたの? そんなに暗い顔をして」

 私はモーツァルトの事を、彼の容体、彼の語った事、彼の天才の事を彼女に語ろうかと思いましたが、それは結局語りきれないものだと感じて、口をつぐみました。私は言いました。

 「なんでもない。ちょっと…一人にさせてくれ」

 私はそう言うと、自室に入りました。彼女は心配そうにしていましたが、私はどうしても一人になりたかったのです。

 

 私はベッドに仰向けになって、天井の染みをじっと見つめました。心の中が沸き立つのを感じました。(ああ、神は!) 私は考えました。(どうしてあの人を殺すのだ!) 私はまた思いました。(あの人は、あの偉大な天才はもう死んでしまう! なんて事だ! どうして神はあの人を見捨てたのだ! 世間は、世の中はあの人を一体どう扱っただろう? 『あれは天才だ』『子供の頃から天才だった』 そんな言葉をいくつ聞いただろう。しかし、あの人は『天才』という名の木偶の坊ではない! 断じて違う! 人が色々なものを、その形でしか見ていないにしても、あの人は一人の人間として自分の人生を生きているのだ! だからこそ、あの人の音楽も生きているのだ! 一体、生きるとはどういう事だろう? 生きるとは…こんなに生き生き《・・・・》としている事ではないか? 血潮がリズムのように流れて、体は常に変転し、細胞は入れ替わっている。あの人はただの『天才』という名の人形じゃない。人間というのは、人が人をどんな風な一般的理解に貶め、そこに流しこんだとしても、それとは違うものとして生きているのだ! それがあの人の『天才』じゃないか! あの人の音楽ではないか!)

 私はそんな事を、熱い思いのままに考えました。その日、私は朝まで眠れませんでした。私はこれからは、できるかぎりモーツァルトの自宅を尋ねようと決意しました。彼の最期の手助けになりたいと私は思ったのです。

 

                         

                            ※

 

 私がモーツァルトと本格的に話をしたのはその日が始めてでした。私はその日から、モーツァルトの家に足繁く通い、出来る限り彼の助けになるように気をつけました。金銭面でも、彼の手助けをしました。彼は、寒い日に部屋を暖かくする薪を買う金もなかったのです。

 しかし、そんなある日にーーーモーツァルトは死にました。彼と話してから、一ヶ月ほど経った時の事でした。その日、私は仕事に出ていました。モーツァルトが亡くなったと聞いたのは、家に帰ってからの事です。私の恋人から訃報を聞きました。

 私はすぐにモーツァルトの家に行きました。モーツァルトの部屋には、親族や友人などが詰めかけていました。遺骸の顔には白い布が掛けられていました。私は人の合間を縫って、モーツァルトの側まで行きました。すぐ側にコンスタンツェがいましたので、彼女に死に顔を見てもいいか尋ねました。彼女は静かに肯きました。

 私はモーツァルトの顔を見ました。彼は非常に安らかな顔をしていました。私はその表情に、彼がまだ生きているのではないか、すぐに目を開けて話しだすのではないかと思いました。しかし、そんな事はありません。私はじっと悲しみの視線を彼の顔に注ぎかけていました。

 彼の顔には、彼の奥底にあったはずの苦悩は現れていませんでした。死後の人の顔がこんなに綺麗だなんて、私にはとても不思議な事に思えました。モーツァルトはすぐに目を開けて、何かを話しだすのではないか、そんな気もしました。

 モーツァルトの病状については、モーツァルトの家に尋ねる度、コンスタンツェから詳しく聞いていたので、だいたい分かっていました。とはいえ、病理学的にわかっていたという事ではありません。ただ、彼の体は思わしくなく、彼の生はもうそれほど長くないだろう、という事をその都度、思い知らされただけの事です。

 だから、モーツァルトが死ぬ事について、私はもう予期しており、そのための心の準備をしていたつもりでしたが、いざ本当にその時が来ると、ショックで何も言えない気持ちになりました。今目の前にしている、彼の抜け殻も、それが本当の死ではないようなーーそんな気持ちがしました。きっと、死というものは人間にとって永遠に未知の現象に位置づけられるのでしょう。

 私はモーツァルトの顔を眺めながら、深い悲しみを感じていました。彼の死ーー死とは何だろうーー特に、この偉大な天才が死んだという事はーーそんな問が私の頭の中をよぎっていました。

 

 私は白い布を顔に被せました。コンスタンツェに一礼をして、葬式の日取り、これからの事などを簡単に聞きました。ですが、その時には私はもう頭が真っ白でしたから、何を話したのかほとんど覚えていません。

 葬儀を始めとした色々な事柄は主にコンスタンツェの家族が取り計らうとの事で、私の出番はあまりない感じでした。あるいはできる事はあったのでしょうが、私は無性に一人になりたい気持ちでした。私は一人で悲しみを感じたかったのです。

 私はモーツァルトの家を出ました。足任せに、ウィーンの街を歩きました。途中、ボール遊びをしている少年が楽しそうに私の側を駆けて行きましたが、私は(この世に何をそんなに愉しい事があるのだろう?)と不思議な気持ちになりました。私には、ウィーンの街自体が本来、喪に服していなければならないという、そんな気持ちになっていました。全世界は暗く、全ての人間は黒い服をまとって悲しい感情を持たなければならない。私はそんな茫漠とした事を思っていました。もちろん、世界はモーツァルトの死後も何一つ変わっていませんでした。世界はこれまで何一つ変わらず、これからも何一つ変わらないのです。ただ、その合間、ある種の天才が美しいものを残して、それがほんの少しの間、人々の耳目を潤す……ただそれだけの事に過ぎないのです。

 私は歩きました。どこまでもどこまでも歩いて行きました。私は遠くの街まで、田舎まで、あるいは海の見えるところまで生きたいと思っていました。しかしそんな遠くへ行けるわけはありません。それでも、私はそうしたかった。私の悲しみは他に表しようがなかったから。

 私は全てが終わったような気がしました。これからこの世界はどうなるのだろう?と思いました。…いいや、まだこの世には優れた天才は沢山いる、優れた人間は沢山いる。その事を私は知っていました。しかし、そんな事が今の私にはどうだったでしょう? 私はただ打ちひしがれた気持ちでいました。

 私は歩き疲れると、広場の真ん中にあった木製の粗末なベンチに腰掛けました。私は、不思議な気持ちでした。世界は終わったのに、まだこの世はこのまま存在している…。私は空を見上げました。そこには昔ながらの空が昔ながらにありました。

 なんと、滑稽な事だろう。なんて悲しい事だろう。どうして涙が出ないんだろう。

 そう考えた時、ふいに私の目から涙が溢れました。それは頬を伝って、胸の辺りに落ちました。私はその時、改めてモーツァルトが現実に、本当に死んだ事を感じました。彼はもう還らぬ人になったのだ、私はその事を想いました。私はしばらくの間ーーあるいは永遠の間ーーベンチに磔になったように座り、涙を流しました。

 


奥付



最期のモーツァルト


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著者 : ヤマダヒフミ
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