目次
はじめに
はじめに
第一章 湾生回家
湾生回家
引き揚げ体験記
望郷の念にかられて
「拝啓106歳先生 台湾より」  
映画「KANO」
台湾に里帰りした高木先生
第二章 台湾で知り合えた人たち
日本政府から叙勲された何瑞藤教授
台湾ラジオ放送界の重鎮の周進升さん
楊素秋さんの秘めたる日本への思い
台湾歌壇の三宅教子さん
台中校のお母さんこと中野栄子先生
趣味を生かす渡辺光章さん
第三章 台湾あれこれ
台湾での留学生活          伊藤亜美
台湾の介護事情
私と台湾            重松 均
台南県知事官邸
私の台中訪問記         菊池裕幸 
台湾の戦後70年と日本に残された宿題
ある重度障害者の成功物語 (台湾版五体不満足)
很値得看的真人真事
閑題  松島~福浦橋
第四章 日本と台湾の絆
(その1) 高座会
盛況だった台中でのコンサート 
コンサートのボランティアをして     藤倉聡子
(その2)山岡先生の記念碑
紙芝居~山岡栄物語 
交流の架け橋          遠藤 貢治
第五章 日本人のしたこと
獅頭山勧化堂に祀られた廣枝警部
祖父母大和宗吉・松恵と梅屋敷  
台湾最南端にある日本語図書館・池上文庫
台湾近代化の父「後藤新平」 
李登輝元総統のスピ-チ~日本人のしたこと
第六章 台湾は日本の植民地だったのか
台湾は日本の植民地だったのか
詩「笑顔で振り返られる人生を」
詩「笑顔で振り返られる人生を」
表紙説明
表紙説明~東河橋
奥付
奥付

閉じる


はじめに

ぼくが高校生の時習った歴史教科書に出てくる台湾に関する記述は「日清戦争の結果台湾は日本に割譲された。」と一行のみだったような気がします。中国と国交を結んでからは「台湾は中国の一部だ」と思っている人が多いのも事実です。でも、東日本大震災で台湾からの多額の義捐金が送られ、また今年の総統選挙で初の女性総統が誕生したりして、俄然台湾が注目され、関心を持つ人が増えたことは非常に喜ばしいことだと思います。

 

メルマガ「遥かなり台湾」は20128月から開始し、日台双方の多くの人たちに購読されています。文章を「です、ます体」で書いているのは台湾における日本語学習者の便宜のためでもあり、「だ、である体」の言わば普通体から受ける硬さでなく平易で語り口の柔らかさが好評をうけているようです。

 

ぼくがメルマガを配信しようと思ったのは台湾のために何か出来ることがないかと考え、その当時発刊した本が品切れになったのを機にその本の内容をメルマガで紹介し始めたのです。その後日台双方に関わりのある人たちの話を通して、台湾で見たこと、聞いたこと、知ったことなど台湾のことを正しく伝えたく記事にして配信している次第です。

 

ところで、本書は冊子『遥かなり台湾6』で紹介した2013年より2年間あまりのメルマガ記事の内容に最近まで配信した記事を含めて再編集し前作『日台の架け橋』の続編としてまとめたつもりです。

 

本文はまず台湾映画特に日本人になじみのある映画に関連した話を第一章とし、第二章では台湾で知り合った人たちで日台の架け橋として活躍している6名の方に登場してもらっています。日台の架け橋として活躍している人は他にも数多くおりますが、その方々については次の機会に紹介させていただくことにします。

 

第三章の最後に掲載したある重度身障者の成功物語は「台湾版五体不満足」とも言える話で原文を添えました。中でも新車を買った際に工具と部品を使い自分用に改造して新車を運転して帰ったシーンは目に浮かぶようです。そして五体満足のぼくたちはもっとしっかりしなければと思いさせられました。

 

第六章では台湾生まれの評論家である黄文雄氏の著書『台湾は日本人が作った』の中の「台湾は日本の植民地だったのか」の文章でメルマガまぐまぐに六月中旬に掲載され、反響を呼んだものです。氏の文章を読めばなるほどと納得させられます。

 

そして末尾に紹介した詩「笑顔で振り返られる人生」は戦前日本語教育を受けられた方で同窓会誌に掲載されていたもので作者不詳ですが、あまりにも素晴らしい詩なので中国語翻訳文を入れ再度載せた次第です。

 

 

本書が名実とともに日台の架け橋となり、皆様方の日本と台湾の絆を知る上でお役に立てたら望外の喜びです。なお本文の中には、メルマガで紹介した記事を編集の都合上、一部割愛または加筆、修正した箇所がありますのでご了承ください。最後に寄稿いただいた皆様方に改めて厚く御礼を申し上げます。

                              2016年 大暑


湾生回家

今月16日に封切りになった「湾生回家」の映画を25日(日)見に行ってきました。湾生とは日本統治時代に台湾で生まれ育った日本人のことで、回家とは家に帰ること、里帰りのことです。とてもいい映画で「ふるさと」の歌を綺麗な声で歌っている最後のシーンはとても印象的で、上映が終了した時に観客席から何と拍手が鳴り響いたのには正直びっくりさせられました。

監督の田中實加さんの著書(映画と同じ題名)には、冒頭に湾生の歴史的背景が書かれてあり、それから著者のおばあちゃんの田中桜代さんを含め20人に及ぶ湾生の記録が書かれており、また花蓮特攻隊のことも書かれて多くの写真と資料などがあり戦前のことを知りたいぼくにとって宝の本です。映画にはそんなにたくさんの人たちは登場していませんが、その中の家倉多恵子さんとは面識があり、映画では彼女を含めて一人一人の物語が丁寧に描かれていました。田中さんのFBを見ると、記録を始めて12年、撮影に3年かかった;幾多の困難にもめげず、前に進めない時にはいつも自分にこう言い聞かせてきた:「たった一人でも信じている人がいる限りあきらめることはできない・・・たとえその一人が自分自身であったとしても。」このような思いで作った映画だから、その思いが観客にも伝わって拍手となったのでしょう。

 

まだ元気でいる湾生の為にも日本でも上映されることを、また『湾生回家』の日本語版が出版されることを望んでいます。

まだご覧になってない方には是非お勧めします。

映画では東部台湾(花蓮)に住んでいた人たちの話を中心にまとめられていましたが、この映画を見ていて2年前に出した『日台の架け橋』の中で紹介した「台湾東部の日本人移民村」の文章が映像化されたような気がしてきました。豊田村のことが取り上げられて出演者は喜んで撮影に協力したことでしょう。ぼく自身はまだ豊田村に行ったことがなく、あの文章は台湾光華雑誌に掲載されたものを転載したのですが、是非機会を作って豊田村を訪れてみようと思いました。

ぼくが台中に住み始めた翌年1989年(平成元年)はちょうど台中市百周年で、この時に湾生の人たちが百名ほど台湾に里帰りにやって来たのです。正に「湾生回家」だったのです。このとき初めて湾生という言葉を知ったのです。そして、湾生の集まりである台中会の存在を知ったのでした。戦前の中部台湾は台中市、旧台中県(現在は台中市に併合)、彰化県、南投県は台中州と呼ばれていました。この台中州で生まれ育った湾生の人たちがそれぞれの学校単位の同窓会、職域団体の集合体として台中会が昭和47年に誕生したのです。(それで、地元台中にもいつか日台交流グループ「台中会」を結成しようと思っていたのです。それが今日の台日会なのです。)知人の紹介で一緒に祝賀会に参加し、この時湾生の人たちが「故郷」の歌を合唱している光景は忘れることができません。それは「故郷台湾に帰って来たぞ。」と言う万感の思いが込められた合唱だったからです。

2008年2月に湾生の人たちの書いたものを集めて『故郷台湾』と言う冊子本を作りました。その中である湾生のおばあさんは次のように記していました。

私の故郷は台湾です。

「うさぎ追いし かの山 小ぶな釣りし かの川

        夢はいまもめぐりて  忘れがたき故郷」

この歌を歌うと。いつも生まれ故郷の台中郊外を思い出します。男の子も女の子もなかよく一緒に遊んだことを。山登りの競争をしました。きれいな水が滔々と流れる広い川岸にある大きな石にあがったり、深い水の中にもぐったり泳いだりして楽しかった夏が思い出されます。

また、ある時、湾生の方から台湾に来る時に奥さんと喧嘩したという話を聞きました。「なぜケンカしたんですか?」と聞いたら、妻に「お父さん、また台湾に行くの?」と言われたので「バカ野郎! 俺は台湾に行くんじゃない、帰るんだ。自分のふるさとに帰ることが悪いか。」と言って喧嘩して出て来たんだと本人は笑って答えていました。

 

湾生の人たちにとって台湾は幼少時代を過ごした土地で、一生忘れられない思い出の所、時代が変わろうとも国が変わろうとも終生変わらぬ故郷なのです。

湾生の中でも特に親しかった島崎先生は「27歳で引き揚げ半世紀が過ぎたが、私の唯一の故郷である埔里の水源地に骨の一部を流してもらうように台湾の教え子に依頼している。母と過ご

した故郷埔里、今日も南の空を見つめ追憶に耽っている。」と生前記しておりました。

 

昭和47年(1972)に結成された台中会は、最も多い時は会員数が八千名を超え、全国から年一回の総会に集まり、旧友と再会し、昔の思い出話に花を咲かせ、ある年は約500名参加したこともあるとか。あれから二十幾星霜。せっかく知り合った湾生(台中会会員)の人たちも多くの人は帰らぬ人となってしまいました。会員の高齢化が進み、湾生たちの母校の同窓会も次々と解散し、かつ昨年5月には台中会もなくなってしまいましたが、湾生の存在は歴史の事実としていつまでも消えることはないのです。また湾生の人たちのことを風化させないためにも「記録」として残していこうと思っています。

 

 


引き揚げ体験記

「逆さ歌」で有名な中田芳子さんとは梅屋敷がきっかけで知りあいました。彼女は11人兄弟姉妹でした。14歳のとき、非常に厳しい体験をしています。昭和6年に台湾で生まれ、終戦を迎える昭和20年まで台北で暮らしていたのです。

悪化の一途を辿る日本の戦況。そんななか当時14歳の中田さんは、心の奥底に決して忘れることのできない深い心の傷を負ったのでした。そのころは特攻隊員が、近くの料亭に20人ばかり寝泊りしていました。それは何故かというと、命令は下りているのですが、乗る飛行機がないからでした。飛行機が内地から届くのを、待っていたのです。今にして思えば、どんなに辛い日々だったでしょう。

その20人から、中田さん三姉妹に遊びにきて欲しいという話がありました。死を覚悟した20人の少年飛行兵達。若者の中には中田さんが想いを寄せる青年もいました。静かで優しい人でしたと言います。二人きりになったあるとき、「死なないで」といったら、「よっちゃん。俺たちは【端末】なんだよ」と、可哀想な顔をしてこたえたのでした。

昭和207月、彼は出撃基地に向かう列車に乗りました。そのとき、見送りは中田さん一人でした。汽笛とともに、列車がゴトンゴトンと走り出したけど、彼は私の手を握って放しません。汽車はスピードを上げて走り出す。中田さんも涙を流しながら走る・・・・・・。汽車消えるまで、千切れるほどに手を振りました。昭和20713日のことでした。中田さんが想いをよせた青年は、南の空に散ったのです。あの時、その場にいた20人の飛行兵の想いが、全部私の中に入ったと、中田さんは思っています。
 

 「台湾引き揚げ」というリセット体験、ましてそれが青春の入口だっただけに、その後の私の人生にさまざまな影をおとしました。想像してみてください、みなさんそれぞれの現在の生活を。・・・それがある日突然リュックひとつになる、という事態を想像できますか? それまで、何不自由なく過ごしていた日々が、一瞬にして過去の夢と化したショック!

まして私達の場合、15歳という、最も多感な年頃です。それは潜在意識として根深く残ったに違いありません。このことは後々まで人生に影を落とすこととなりました。
台湾人として初めて日本の文学博士となった林 茂生氏(1887-1947)が詠んだ詩があります。

日僑今や天地巡りて国に去る
天を恨まず地に嘆かず
黙々として整々と去る
日本人 恐るべし

林 茂生の詩は、台湾から引き揚げた日本人なら誰でも知っている詩です。

これは、私が乗った駅の隣の駅の出来事です。
盲目の台湾人チンドンヤさんが、チンドンチンドンと駅にやってきたので、駅にいた日本人引揚者はムッとしたそうです。と、その時、チンドンヤさんが日本語でいいました。
「皆さん。本当に長いことお世話になりました。私達は日本の恩を忘れません。日本の人に教育して貰わなかったら、私達は食べることも出来なかったでしょう」
チンドンヤさんは、賛美歌の≪また会う日まで≫を朗々と歌うと、引き揚げ列車に乗り込んだ日本人と、大合唱となったのでした。


私達は、アメリカの輸送船リバティ号の船倉に3000人も詰め込まれました。基隆(キールン)港から出港して一週間ほどして、時ならぬ台風に見舞われたのです。大人も子供も皆船酔いになりました。そのとき、あるお母さんが、「灯りをつけま雪洞に~」と子供さんのために歌いだしたのです。そうだ、今日は33日、桃の節句の日ではありませんか。気を取り直して、船倉は「灯りをつけましょ」の大合唱となりました。おじいちゃん、おばあちゃん。おとうさん。おかあさん。ぼっちゃん。おじょうちゃん・・・・・みんなで雛祭りの歌を歌いました。
船は沖縄の近くまで来ていたようでした。


私の姉は気丈な人で、船倉の中でもしっかりしていました。私を揺り起こして、
「よっちゃん。いま沖縄よ。あなたの好きだった人が、眠っているのよ」
私は船倉から、縄梯子を伝って看板に上がりました。夕方ですが周りは暗い海。船は依然として大揺れでした。私は甲板に立って、空に向かって手を振りました。いつまでも。いつまでも。このような思い出がたくさんあります。

 

中田さんに続いて次は同じ湾生で、今は熊本県に住んでいる106歳のおばあちゃんの話です。

 

 


望郷の念にかられて

今甲子園では選抜高校野球大会が行われていますが、テレビ中継に夢中になっている人も多いかと思います。熊本に住んでいる今年106歳になる高木波恵さん(以下おばあちゃんと呼びます)もその一人で、おばあちゃんは大の高校野球ファン。熊本で先月21日に「KANO」の映画が公開される前日に全国紙の県内版におばあちゃんのことが紹介されました。彼女は、戦前台湾で暮らしていて嘉義農林の準決勝戦をラジオ放送で聞いていたと言いますから、高校野球はもう一世紀に及ぶファンなのです。そしておばあちゃんが若かりしき頃、今の台中市内にある烏日公学校(現烏日国民小学校)の教諭として台湾の子供たちに約10年間教えていたのです。

 

日本で新聞記事になった5日後の25日、烏日郵便局に日本から一通の手紙が寄せられました。そして今月23日にこの手紙のことが台湾でも新聞に大きく載ったのです。

以下現地の新聞によってその内容を記しましょう

106歳の高齢の日本人高木波恵先生が映画「KANO」に関する報道を読んでいるうちに76年前烏日で教壇に立っていた時の思い出がよみがえり、教え子のみんながまだ元気かどうか知りたくて、娘さんに代筆してもらって教え子の楊漢宗さん(89歳)あてに手紙を出したのでした。

でも封筒に書かれた宛先は古い住所だったために、今は昔の住居表示と変わっており郵便屋さんは届けることが出来ずにいました。(このあたりは海角7号の映画とそっくりです)郵便配達の郭柏村さんは同僚の廖さん、李さん、陳さんらと相談して差出人に返すかどうか検討していると、陳さんは「この手紙は厚くてかつ毛筆で書かれているのできっと大事な手紙に違いない」と判断し、みんなで協力し合って受取人に何とか届けようとなったそうです。その後役場などに行って問い合わせるも、個人情報保護法に阻まれ教えてもらえず、結局時間がかかっても一軒一軒あたって聞くほかになく、郵便屋さんの苦労が報われたのは38日のことでした。それは、烏日区栄泉里のもと里長だった楊本容さんの父親が受取人の楊さんだということが分かったからです。

 

配達員の郭さんが楊さん宅を訪れた時

「ごめん下さい。お母さん、こんにちは。ちょっと伺いますが、こちらに楊漢宗さんと

言う方いらっしゃいますか?」と、聞いたら

「いますよ。」との返事。

この瞬間、郭さんは「ああよかった。やったあ!」と思ったことでしょう。

この辺の気持ちを、郭さんは「何度も探したけど、この住所は現存しない古い住所だったので、探し当てるまでの過程が海角7号と同じストーリーで、自分でも何か妙な感じがしていた。」と言っていました。

 それにしても台湾の郵便屋さんはすごいですよね。後日のネットの書き込みにも「彼らは本物のプロだ。」とありましたが。全くそのとおりだと思います。

 

受取人の楊さんは病気のため療養中で、応対に出た息子さんは「高木先生は2,3年生の時の担任の先生で、ぼくの親父は当時級長だったので、先生は特に印象に残っていたのかも。それで親父に連絡してきたんじゃないかな。」と語っていました。

 

この手紙は、2枚の便せんに毛筆で書かれてあり、ラジオで嘉義農林の決勝戦を聞いたことなどの思い出や先生が教え子を思う心が溢れており、烏日公学校卒業写真2枚も同封されていて、楊さんを通じて他の教え子さんたちの消息も知りたいと記されておりました。

病の父親に代わって楊本容さんは手紙の中に書いてあるリストから8名のクラスメートと連絡がとれ、先生に手紙を出すようにお願いしたそうです。お父さんの同級生だった蔡さんも楊さん宅を訪れ高木先生は美人でまじめな先生だったと思い出を語り「必ず手紙を出しますよ」と言ったそうです。

 

時あたかも桜の季節に、教え子さんから近日中に手紙が届くことでしょう。おばあちゃん、いや高木先生にとって今年の春は最良の春になるようです。どうか健康に留意して日本一いや世界一を目指して長生きされることを心から望んでいます。


「拝啓106歳先生 台湾より」  

 「拝啓106歳先生 台湾より」       

 こんな見出しで始まる新聞の切り抜き記事が、昨日日本からメールで送られてきました。送ってくれたのは西日本新聞社の以前の台北支局長です。
熊本の高木波恵さんのその後の経過を気にしていた所、「今日新聞に掲載されたよ。」と言って送ってくれたのでした。
これまで約30通届き、国際電話でかっての教え子と日本語と台湾語の会話を楽しんだとか。台湾語も思い出し、ますます元気だと最後は結ばれていました。めでたし、めでたしですね。



読者登録

喜早天海さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について