閉じる


序章 

以下につづる物語は

半分は本当のことだ

吉田茂と白州次郎というひとは

実在の人で

それぞれ戦後首相と

大臣になった

どちらも立派な人だが

彼らとその周りの人たちが

昭和20年3月、

天皇にじかに迫り

戦争をとめようとした

名づけてヨハンセン(ヨシダ・ハンセン)グループ

といわれている

説得は失敗し

吉田は逮捕軟禁される

そういうことがあったのを

思い出す物語

はじまりはじまり・・・


第一章

白洲次郎は、固くなった腰を伸ばした。

「やれやれ。」

鷹のような鋭い目を上げると、山の向こうから、小さな車が走ってくる。

(おや、だれだろう?)

疎開先の村の畑で、朝から作業をしていて

気が付くともう午前も終わりそうだ。

 

(だれだろう?)

車は舗装していない砂利道を、

がたごと音をさせながら近づいてくる。

運転しているのは見知らぬ男だ。

その後ろにもう一人、

かなり年をとった、頭の禿げた人物が座っている。

次郎を見て軽く会釈をした。

(だれだ?)

車があぜ道の土手で止まり、中から運転していた男と、老人が下りてきた。

「あのー、白洲さん?」

運転手の男は、背が低くがっしりした体に黒いスーツをまとい、上等のフェルトの帽子をかぶっている。

白州は目をこらした。

そして笑いだした。その顔はまぎれもない、白州の呼び方では「おやじ」、

妻を亡くして以来大礒の別荘にひきこもっているはずの、旧友、吉田茂だった。

外務省上がりのエリートで顔が広い。

アメリカ、イギリスをよく知る人間として、留学帰りの白州と意気投合し、

深く信頼しあってきた。

もうひとりの老人は、見たことがない。

「おやじ、どうしたんだい。こんな遠いところまで」

吉田はちょっと複雑な笑顔で、土手を下りてきた。

「いやあ、とにかく、ひさしぶり」

二人は握手をした。老人は、土手の上から、二人を見ている。

「今日はかわった客を連れてきたぞ」

吉田は土手の老人を振り返った。

穏やかそうなまなざしの老人が、草を踏んで降りてきた。

「はじめまして、山下と申します」

老人が手を差し出し、白州と握手した。

「まあどうぞこちらへ」

白州はふたりを案内して、妻の正子と暮らす

屋根の大きな民家のほうに歩みはじめた。

 

田舎のあぜ道で、背の低い吉田と並んで

白州は近況について語り始めた。

田舎は空気がよく、食べ物がうまい。だが時折、東京から暗い話が聞こえてくる。

吉田は新しい情報を持ってきていた。

2・26事件で九死に一生を得た当時の首相、岡田啓介が、

ほかの重臣たちと画策し

東条内閣倒閣運動を行い、それで東条が辞職したこと。

しかし後任の小磯内閣は動きが遅く「木炭自動車」とあだ名され、

何も変えられず国民がいらだっていること。

東条の影響力をなくすため、石原莞爾らが暗殺を試み、失敗したこと。

さらにそれより以前の昭和18年、早稲田大学では、

中野正剛なるジャーナリストが、反戦の演説をぶち、

学生たちの校歌の合唱のなか、気勢を上げたが逮捕されてしまったこと。

芸術家のような妻とのん気に田舎にいて

何も知らない白州相手に、

そんな深刻な巷の話を伝えながら、

吉田はちらりと後ろの老人を振り返った。

 

築50年あまりの民家は

梁が太く広々として気持ちがいい。

庭の見える座敷に白州は二人を座らせ、自分でお茶を運んできた。

妻はまた東京に出て留守である。

「やあ、くつろいでくれ。いなかくさい饅頭しかないがな」

吉田は胡坐を組んだが、老人は背を伸ばして正座している。

「どうぞどうぞ、足を楽に」

白州も胡坐で座り込んだ。

そしてにっこり老人を見つめた。

「こんにちは。ごきげんいかがかな。」

「はあ、・・・」

吉田が眉をひそめて助け舟を出した。

「ちょっと複雑な話じゃ」

「なになに」白州は好奇心にあふれた目で老人を見つめた。

「いやあ、そのお・・・」

老人は口ごもっている。

「わたしは、・・・未来から来たのです・・・」

白州の目が曇った。

「未来から・・・」

 

老人はいつも近所の商店街まで15分ほど散歩した。

アスファルトで舗装され電柱の並ぶ通りを歩いていると、ときおり時間の感覚がなくなった。

町並みは戦後なのに、感覚は昔に戻っている。

足元がふらつき、目の前に昭和30年代の街並みがよみがえってくる。

戦争も終わって日本が成長の時代をくぐりぬけ

繁栄を謳歌しはじめていた1982年の初春。

スーパーの店頭の、にぎやかな音楽に我に帰ると、

マンガ雑誌をわきに抱えた小学生たちが、こちらをのぞきこんでいる。

酒屋で缶ビールを買い、角の小さな公園に入り、

ビールを開けて飲みながらつぼみの膨らみ始めた桜を見上げた。

(桜は基地にもあった・・・)

帰り道に書店があり、表の雑誌棚に、「戦争特集」と題うった

週刊誌が並んでいた。

(戦争の記憶が薄れたな)

日本は見違えるような繁栄の中で、かつての暗さは微塵もない。

家に帰ると孫の長女が寝ころんでテレビゲームをしていたが、振り向いて平和な顔で言った。

「おじいちゃん、おかえり」

いつもの通り長男一家と会話しながら夕食を取り、東京郊外の家の、二階のたたみの間で、

早めに布団にはいった。 

息子たち家族は、まだ一階でざわざわと、テレビの歌番組を見ている。

華やかな声の若い女性が、明るく歌をうたっているのが聞こえた。

おじいさんは寝付けない布団の中で、5年前に亡くした、長く連れ添った妻のことを考えた。最愛の妻。

戦後、生きて戻ることのできた自分と、小さな料理店を開いて、雨の日も風の日も、二人三脚で歩いてきた妻。5年前、妻は病でなくなった。

戦争の始まる少し前、田舎の家で婚姻を取り結んだときの妻の顔を思い出した。

そのうち、思いは戦争の時代のことに思いが移っていった。

あのころ・・・多くの戦友たちが笑顔であらわれては消える・・・

・・・眠りは、映像の流れの中で訪れるものだ。

おじいさんの頭の中で、なぜか空軍の基地の光景がスライドのように浮かんでは消えた。

そうするうちに、

おじいさんは不意に眠りに吸い込まれた。

 

頭上を飛行機が轟音を立てて通過した。

青空の飛行場。いつか見たことのある景色だ。

おじいさんは体を起こした。みまわすと、見慣れた光景が、とびこんできた。

整備兵が金具を持って駆けてゆく。

ユウジだ。かつての友達だ。

「おい、ユウジ!」

おじいさんは芝の上で足を伸ばしたまま、声をかけた。

青年はあれっというように振り向いた。

そして不審げに、近寄ってきた。

「なにをしてるんですか、こんなところで」

おじいさんは自分の手足を見た。老人のままだ。

自分でもなんと答えていいか分からず、ぽかんとした顔で青年を見返した。

「こんなところにいちゃ叱られる。こっちへきなさい」

かつての友人ユウジに抱え起こされて

 

老人は格納庫のほうへ並んで歩き始めた。


第二章 (重臣グループなど大幅加筆)

頭上をいくつも轟音が通り過ぎた。

ユウジが明るい顔で尋ねた。

「じいさんは飛行機好きか」

おれは答えなかった。

正面に、若いころの、自分がいるのが見えたからだ。

格納庫の前で、

特攻隊訓練基地の責任者だった自分が、20代の若々しい姿で、軍服を着て立っていた。

ユウジの横にいる自分を、不審そうにに見つめている。

ユウジが声を出した。

「滑走路にいたんです。大丈夫です」

50年の時をはさんで、若い自分と向き合った。

科学的に言うと、これはどういうことになるのだろうか。奇妙な気持ちだ。抱きしめたくもある。

そしてこの若者が生き延びて、いまの自分になっているという驚きもある。

彼が戦争で死んでいれば、自分はいないからだ。

一方で彼は例外で、大勢の仲間が死んでいったことも、記憶にある。

春の気配のする時期で、あたりは冷たい風の中に、明るい日が差していた。

目の前で、まだ若い自分の肌が輝いていた。

 

「何をしていたんだ」若い自分に尋ねられた。 

「わかりません」おじいさんは正直に言った。わからないからだ。

「こっちへ来い」相手は警戒心が強く、

自分ながら(若くてかたい・・・)と苦笑せざるを得ない。

年をとった自分が、若いおのれをまじまじと見るのは、不思議な気持ちである。

自分の子供を見るような気分・・・知っているという気持ち、いたわりたい気持ち、そして叱咤激励したい気持ち、そういうものが複雑に入り乱れる。

 

=================== 

 

星が見えた。

吉田は大礒の別荘の縁側に横になり、肌寒いのも我慢して、

さっきからずっと夜空を見ていた。

星を見ると、すこし前の時代のことを、思い出すのである。

吉田はこの時代の、留学経験のある多くの日本人同様、開かれた考えを持っていた。

 

中国にいたころは、自分は対中強硬派として、仲間を叱咤していた。

しかしあの状況で、強大なアメリカに刃向ってまで、満州の統治に固執するつもりはなかった。

その後帰国し、米国駐日大使のジョセフ・グルー夫妻と、家族同然に親しくさせてもらった。夜になると集まり、ウィスキーやワインを酌み交わした。メンバーの一人、最愛の妻でありクリスチャンでもあった雪子が、開戦前の10月、乳がんでこの世を去ってしまった時は、全員が悲しみの涙にくれたのである。

グルーは、雲行きが怪しくなり始めても、日米が友好的であることを期待し続けた。彼は日本人が、普段の場面では、非常に礼儀正しく、温かく、冷静でまともな人たちであることを、知っていたからである。日本人を彼は高く評価してくれていた。しかし、関東軍にリードされた世相は、彼を裏切り続けた。

(いまじゃあ・・・)互いに敵味方に分かれ、日々殺しあうありさまだ。

(網本少将はどうしているだろうか)

網本浅吉元陸軍少将は、吉田の一年年下の、一番仲がよかった士官だ。

(あいつは骨のあるやつだった)

アメリカに対し開戦するか否かの決断に際し、網本は首相東条英機に直接、強く戦争回避を求めた。その責任を問われてその場で免職され、その後どうしたか知らない。

(東条も、陛下が戦争反対と聞いて、しばらくは回避に真剣に動いていた。廊下を歩きながら、「御意は和平にあられるぞ」と怒鳴り続けたのだ。だが、アメリカと日本を仲違いさせたい蒋介石とチャーチルの陰謀に阻まれ、取り付くしまのない、ハルノートを返されて・・・)

(松谷誠はどうしただろうか・・・)

作戦将校でひとり、変わり種がいたのである。

この松谷という参謀は、ドイツ寄りの軍部の中で、英米の力を正確に評価し、甘い見通しの作戦を変えさせようとした。そして左遷されたのだ。(しかし後日、この松谷が、近衛が天皇に、近衛上奏文を提出するとき、陸軍の共産化という、あまりに偏った内容の文章を推敲したという話がある。歴史の皮肉だ。)

 吉田のほかにも反戦に動いている人間は複数いた。その一人に、226事件のときに首相を務め、間一髪暗殺を免れた、岡田啓介がいる。

 とぼけた言動から吉田から、「狸」とあだ名されていた。海軍では厳しさで知られる水雷艇に乗っていた。その経験から試練に強く、首相時代の度重なる苦難に耐えた。226事件では自分に姿の似ていた義弟松尾伝蔵が、「自分が岡田だ」と身代りになって殺されたおかげで生き延びた。この事件では盟友高橋是清をも失い、失意の中で総辞職したのである。

 

 開戦前、なんども分かれ道があった。米国との緊張が高まり、近衛文麿が政権を放り出した時、次の総理をだれにするか、重臣全員が戸惑った。皇室の人間ではだめ、陸軍を抑えられないものではだめ、マイナス思考が空気を重苦しいものにした。そして結局、一見最悪のカードと思われた陸軍強硬派の東条英樹に白羽の矢が立った。彼ならば、かえって軍を抑え込めるのではないかという奇策を、華族出身のフィクサー、木戸幸一と近衛が思いついたのである。そうして総理に指名された東条は、その後しばらく、天皇の意思に忠実に、開戦回避につとめ、中国撤兵の妥協案を真剣に練った。しかしアメリカにあっさり拒否され、「やむを得ず、道理に従って」真珠湾奇襲の道を選んだのである。

 

 太平洋戦争が始まり、マリアナ沖海戦での大敗北で配色が強まる昭和19年夏に、岡田啓介ら重臣たちは、ふたたび終戦講和の画策を始めた。同じく和平主義者の若槻禮次郎、宇垣一成らと重臣グループを結成し、陸軍を中心にした東条内閣の倒閣運動を始めたのである。東条に直接会って辞任を求め、脅されても引かなかった。

 

 その結果東条内閣は 7月18日に退総辞職するが、そのあとできた小磯内閣は、陸軍

の影響下で何も変えられず、9月には東条英機暗殺まで計画され、未遂に終わる。

 木戸や重臣たち、そして吉田らの画策は続くが、結局次の総理鈴木重太郎の下での

終戦まで、一年以上もかかったのである。

 

 なぜそこまでしても、陸軍の動きをとめることができなかったのか。

 武力を、それも身内に向けても強い威力を発揮する武器をてにした集団は、言葉の

力で制止することは、極めて困難になる。だから世界各地で、軍事政権や、軍による

クーデターが頻発するのであり、いかに国防上重要でも、軍を持つことが自国にとっ

ても危険が大きい理由なのである。人は効果的な道具を得ると、それを使ってみたく

なる。機械が、心をのっとってしまうのだ。

 

(とにかくいまおれがやることは、はっきりしている)吉田は眉をひそめた。

天皇陛下がこの2月、複数の人間から、戦争の継続についての意見を聞く機会を求められている。

戦況は悪化の一途をたどっていた。冷静な頭脳をもった人間で、いまや日本が勝てると思う人間はいない。

(一刻も早く、停戦に持ち込む。それには、このチャンスを逃す手はない。)元首相で友人のの近衛文麿も、陛下に進言するメンバーのひとりであり、吉田から影響を与えることはできる。

近衛と会いたい。

(あとは白州を呼ぼうか・・・)

きかん坊の白州は、さっさと田舎に疎開してしまっていた。

白州の考えが聞きたい。明日会いに行こうか。

そこまで考えが及んだとき、玄関のほうで物音がした。

 

「お前はなんで滑走路にいた」私が問う。

古い私が答える。「いや、気がついたらあそこに」

若い私は顔をしかめる。(短気なやつだ)我ながら苦笑する。

「おい、ボケたこのじいさんを、家までおくってやれ」

あっさり下士官に言い渡した私を見て、私は思う。

(決断が早い)なにか話したい衝動をこらえて、じっと相手の目を見る。

若い私は、なんの感慨もなく、いらだちを抑えて、こっちを見ている。

ユウジがわたしを立ち上がらせる。

「家がどっちかわかりますか」

ぼおっとしている私を、車のほうに引っ張ってゆく。

「地図をみせましょう」

若い私を振り返りながら、なんと声をかけるか迷う。

「おい、お前。・・・死なせるな。

 若者を、・・・できるだけ、死なせるなよ」

やっとそれだけ言った。

相手は不審そうな目で聞いていた。しかし何もなかったかのようにすぐ背を向け、机の上の図面に目を下ろした。

 

ユウジの運転する車の中から、私は昔の日本の風景を見る。「ここはどのあたりだ」

「え、ここ。ここは伊豆だよ」

このあたりは焼かれていない。農家がちらほら見える。ふと私は思いついた。

「ちょっと訊きたいだが、大礒は近いか」

「ああ大礒。そんなに遠くないよ」

「行きたいところがある。寄ってもらいたい」

私はその男に会ったことはない。現代の本で読んだだけだ。

だがその人物の別荘が、大礒にあったと書いてあった。

「だれだい?親戚?」

「うむ、、、村まで着いたら教えてほしい」

ユウジは変な顔をした。「へえ~。なんか、じいさん、わけありだね」

私の心の中で、ある計画が、生まれつつあった。

なんとしてもそれを、実現しなければならない。

トラックの揺れに合わせて体が揺れるなかで、

年老いていたはずの私の頭は、猛スピードで、考えをめぐらせていた。

「じいさん、着いたよ」すこしうとうとしてしまったらしい。

気がつくと、横からユウジが覗き込んでいた。見ると海辺の村の入り口である。

「ちょっと歩こう」二人はトラックから降りて、乾いた砂ぼこりの舞う道に出た。

一件目の農家の引き戸を開けて声をかけると、ほおっかむりをした女が出てきた。

「私は、いま伊豆から来たもんだが、そのお、人を探しているので」

「はあ、どうぞ、どなたをお探し?」

「それが、元外交官の、・・・吉田茂さんを・・・」

女の顔があかるく輝いた。

「はあ、吉田さん。お屋敷の!・・・それだったら、すぐそこだけども」

私は無視した。「どうしても、会いたいんだけれども、いま、いらっしゃいますか」

女はためらった。「さあ、どうだろ。でも最近は、ずっと、うちにこもりっぱなしっていう噂だけれども」

そして奥の家人に「ちょっと人案内してくるわ」と告げて、

「そしたらそこまで行きますか」と二人を連れて、表に出た。

村の中の道を歩いて、海岸のほうに降りてゆく。二月の終わりで、田圃にはもう、準備をする人が出ている。

「やあ、精がでるなあ」女が声をかけ、相手が手を挙げる。

村の中心のひろばを過ぎると、大きな家が見える。(あれかあ)

吉田の別荘は、広い庭の奥の、いい普請の立派な建物だ。

立派な、いかめしい茅葺の門をくぐり、庭の中まではいる。いくつも石が池の周りにおかれ、京都の庭のようだ。(いい暮らししていやがる)

すると庭番に出くわした。

「あのお、吉田さんは?」

「ああ、いま、山のほうに散歩に出られて・・・なんの御用?」

 

 しばらく待ったが吉田は戻ってこず、戻ったら呼びに来てもらうことにして、一同は最初の農家に帰った。ユウジが戻らないといけないというので、おじいさんはその労をねぎらった。

「じいさんこそ、達者でな。妙な縁だったな」

立ち去ろうとするユウジに、おじいさんはなにか渡すものはないかと、ポケットを探った。

すると1982年の、キーホルダーがひとつ出てきた。トヨタのエンブレムがデザインされている。それを渡すと、ユウジは不思議そうに眺め、お返しにといって、首から下げた、糸のすり切れたお守りをくれた。

「気をつけてな」「達者でな」

 性格のいいユウジは、笑顔でトラックをターンさせると、砂ぼこりをあげて走り去った。

 それから農家の嫁と、しばらく戦争について話をしていたが、眠くなって、おじいさんは昼寝をとらせてもらうことになった。

 

目が覚めるともう日が暮れていた。女が横から覗き込む。「お疲れのようだね」

がばっと起き上がると、驚いたように、「吉田さんは屋敷にお戻りになりました」と教えてくれる。

あわてて身支度を整え、丁重に礼をいう。「本当に世話になりました」

「いえいえ、事情は存じませんが、御無事で、お仕事がうまく運びますよう」

女は暖かい地方の穏やかな人間の物腰で、優しく応対する。

わたしは最後にお辞儀をして、丁寧に引き戸を閉めた。

 


第三章

夜道に月が出ている。

 

吉田の屋敷の影が、大きく前にそびえている。

門をくぐり庭の戸をあけて、玄関の戸も手で引いてみた。

開くので中を覗き込むと、真っ暗である。

なにか台に当たって、音をたてた。「ごめんくださーい」

奥のほうから声がした。男の、太い声だ。

「誰だい」

おそらく吉田だと思い、背筋を伸ばした。

「夜分遅くすいません。昼間伺ったもので、伝言をお聞きかと」

「ああ、待っておりました。どうぞおあがりください。」

廊下を歩く音がして、電灯がつき、背の低い男が現れた。

「ようこそ。吉田茂です。」男は気さくに頭を下げた。

背は低いががっしりとして、体全体に気迫がある。

おもわず一歩引くように、気圧される迫力があった。

私は靴を脱いで、玄関を上がった。

吉田はにこにこして、そのまま奥へ先導してゆく。

「今家族は疎開させておりましてな。昼間は女中がいるんだが」

そう言って奥の座敷に通された。小奇麗に片付いている。

「さあ、この座布団に、おすわんなさい」

吉田は無造作に、重ねてあった座布団のうちの二枚を畳の上に放り投げ、

そのうちの一枚に腰を下ろした。

「さあ、遠慮なく」

私は辞儀をして腰を下ろした。

吉田はポケットからウイスキーの小瓶を取り出し、そのまま私にすすめようとしたが、途中で思いなおし、立ち上がって奥に下がると、小さなグラスを二つ持って帰ってきた。

「ささ、これでまず乾杯」

グラスに注がれたうまいウイスキーを、遠慮なく飲み干すと、私は正面から彼を見つめた。

「お願いしたいことがあり、お訪ねしたのです」

吉田は好奇心できらきらした目をして、こちらを見ている。

「単刀直入に申しますと、」

吉田がうなずく。

「今すぐ、この戦争を、止めてもらいたいのです」

吉田がごくりと、つばをのんだ。

「この、大東亜、戦争を、・・」

眉がひそめられ、愁いの表情が、その厳しい小顔に浮かんだ。

「はい。その理由はと申しますと・・・」

吉田はそこで咳払いをして大きなそぶりで立ち上がってしまった。

「いわなくてもいい。わかっている」

私は沈黙して見上げた。

「もう大敗北を喫することは、去年の時点で分かっている」

 

「それは我々にはわかっている。常識のある、正気のものには。・・・だがどうしても、いくら戦況を分析しても、頭ではわかっても、心で分かろうとしないやつが、・・・・

大勢いるんだ・・・・」最後の言葉は、深いため息とともに、吐き出すように、言いつくされた。

わたしは、彼の中にある、長い年月の間に蓄積し続けた、欝憤と、怨念と、悔しさに、気圧された。

吉田の眉間の間に稲妻が走った。

「わしと白州は、少し前から、そのことを、考え続けているのだよ」

ようやく吉田に、温和な表情が戻った。彼は力が抜けたように、座った。

暗い20畳ほどの座敷に、薄く廊下から光が差し込んでいる。

わたしは吉田の顔が、急に十も老けたように感じた。

重苦しさの中で、私は切り出した。

「なぜ、やめられないのですか。負けるのがわかっているのに。」

「それが、この国の、さだめなのかも、しれん」吉田が重い口を、開いた。

「一度始めた戦いは、どんなことがあっても・・・」

私は言葉を遮った。「あなたは知らないんだ!・・・」

私は、国というものの大きさと、ひとりひとりの国民を想った・・・

吉田は訊いた。「なにを?」

私は考えていた。吉田は私の口元を見ていた。

国とはなんだろうか。国がなければ、生きてゆけない。

我々は、国から多くのものを、受けている。そして国を、守ろうとしている。

しかし同時に、今この国のありかたに、その進み方に、疑問を抱いている。

国は我々であるのに、我々は国を左右する力がない。

若い兵士に、前に進めと命ずるものは、何者なのか。

いずれにせよ、我々が国であるならば、我々も、声を上げなければならない。

我々なりの、国の在り方に、少しでも、近付くために。

そのことを教えたくて、おれはタイムスリップしてきたのだ。おれはそう思った。

おれは黙っていたのに、

吉田はいかにもすべて言いたいことは分かっているというように、言った。

「そうさ。国なんて、人が暮らすために、自分でこしらえたものにすぎん。そんなもののために、すでに大勢が、命を投げ出している。・・・いずれにせよ、この国はもうすぐ終わる」

一呼吸があった。

 

「そのあとの事を、考えておかねばならない」

彼の思慮の重さに、わたしは沈黙をした。


第四章 (様々な具体的事実、歴史的分析)

 その夜遅くまで二人は飲んだ。

今の日本のこと、古い日本、そして新しく作る日本のこと。

もう吉田の頭の中にははっきりとした見取り図があることに、おじいさんは驚いた。

吉田は近代的な憲法と制度で、合理的に運営されているアメリカを、しっかり見てきていた。古い考えに支配されていて、精神論や情緒ばかりに重きが置かれる日本において、そうした議論をするのは、白州や近衛のような、開かれた心をもったわずかな友人相手を除いては、不可能だった。

実は開戦直前、アメリカ時代の古い友人から、次のような忠告を受けてもいた。それは、「日本はこの戦争で、かならず大きな、取り返しがつかないようなダメージを受ける。しかしそのことをマイナスには受け取らず、日本を新しい国にするための、チャンスととらえてほしい」と。

その言葉は吉田の頭の中に、ずっとあった。戦局が悪化してゆくのは、最初から予想していた通りで、それを眺めながら、吉田はすこしづつ、戦争後の構想を、描き始めた。

吉田の友人近衛文麿は、プレイボーイとして有名で、人の話をじっくりと聞く、思慮のある大人の人物であった。貴族の家柄だったことから国民の人望も厚く、大胆な考えにも慌てなかった。

吉田は長年の友人である白州次郎とともに、近衛にどう働きかけるか、その作戦を練った。

天皇に、早期降伏と勇気ある講和を目指すための直訴状を差し出す役割は、近衛をおいてほかにない。だがその文面には、一筋縄ではいかない工夫が要りそうだった。

昭和天皇はもともと争いの嫌いな人で、開戦にも渋い顔をし続けていた。だが一人の上品な人間でしかなく、5.15事件、2・26事件のような暴力的な事件のあと、陸軍の火の出るような論陣にむかって、強くいさめるような気力をくじかれてしまっていた。

戦争の経過にも絶えず注意を払い、不安な面持ちを隠さなかった。

 1944年の九月に、木戸に対して、講和の話をしている。相手を最後の力を振り絞って一撃し、ややひるませて講和を有利に進めよう、という話で、まだその頃は一撃の反撃を夢見ることは可能だったことがわかる。

 

==============

 

おじいさんと吉田は、車で出かけた。

白州の暮らす田舎まで、戦火で疲弊した、村々を抜けて行った。

そしてこの小説の、冒頭の場面になったのである。

白州は実直な気性から、策を巡らせるのでなく、ただひたすら、陛下の心を打つような言葉を、連ねるべきだと訴えた。しかし外交畑出身の吉田には、それはあまりにナイーブな方法に思えた。

三人は思い切って、東京まで使いをやり、近衛を呼んだ。そして近衛が来るまで、庭で木の実を採り、田舎の景色を眺め、あれやこれや話をしながら、手持無沙汰で過ごした。三人の後ろで、別荘の書生がせっせと家事仕事を済ませていた。しかしこの男が、のちに有名になる、いわゆる吉田邸の「スパイ」であって、吉田達の画策がすべて陸軍側に漏れており、そのために上奏文は功を奏せず、吉田は四月に逮捕されることになるのである。

ちょびひげで面長の、やさしそうな風貌の男、近衛は、終戦講和の実現のため、吉田のグループ、さらには岡田の重臣グループの双方に接近し、策を練りながら日々を過ごしていた。なによりもまず、自らがそのきっかけを作った、東条内閣の打倒に向けて画策していた。

 ところで日本を戦争に突入させた最大の責任者の一人として、やはり気の毒ではあるが、近衛の名は挙げなければならない。そのハンサムな風貌、名門貴族の家柄、さらには若い頃にはマルクス主義さえ学んだ革新的で大胆な言動から国民に人気のあった彼は、途中から人気のゆえに、国民の視線を気にしながらの自意識過剰な決断が多くなった。国家総動員体制、一丸となった日本という演出に力を入れ、中国の英雄汪兆銘の大胆な和平策をも成就させることができず、はからずも日中戦争を拡大させてしまった。決定的な時期に、日中会談が予定されたが、直前になって、なぜか近衛はキャンセルをさせたのである。(満州事変の首謀者でありながら反戦に転じた石原莞爾から、優柔不断というそしりを受けている。)結果として予想もしなかったアメリカの不興を買い、いざアメリカと本当に戦争をするのかという段階になって、怖くなり、無責任にも政権を放り出し、その後を東条に任せてしまった責任は大きい。

 その反省、後悔の念からであろう、戦中の彼は、奇妙なまでに打倒東条内閣と、早期終戦のために活動するのである。

彼は彼は当時、内務省で左翼陣営の取締りをしていた三田村という代議士とよく会っていた。そして彼から、日本の陸軍が共産主義に呑み込まれる可能性を指摘され、信じてしまった。近衛自身、マルクスの本を読んだり戦前にマルクス主義について研究をしていたこともあって、その発想に染まりやすかった。

これはやや飛躍のある、空想的な推察だが、近衛のお坊ちゃん的な性質を、よく物語っている。

吉田からの手紙を読み返しながら、大礒に向かう車の中で、近衛はこの可能性を天皇説得の切り札にできるのではないかと考えていた。われわれが感じるのと同様に、この意見は天皇陛下にも突然かつ奇異に思われたらしく、議論は陸軍の人事刷新の話に収斂してしまっている。ソ連が当時どう出るか、軍部でも見方が分かれており、日本の中にはいまだに根強く、ソ連が日本を味方につけるために、アメリカとの調停役として「優しく」ふるまってくれると信じている向きがあったからである。

吉田は、将校の頭の中には、体系だった考えは何もないと思っていた。しかし近衛から話を聞いた時、陛下、さらにはその向こうにいる戦争推進派を説得するためには、おもしろい論法になるかもと思い、近衛のまじめな顔につい説得されてしまった。しかし後で、天皇に意見を具申する重大なチャンスに、もう少しよい論法がなかったかと、そのとき押し切られた自分を後悔した。天皇はずっと、戦争終結を望んでおられたのだから、陸軍を説得するうまい理屈があれば、一気に流れは終戦に、傾いたかもしれなかったからである。

未来から来たおじいさんは、思いもかけず重大な場面に立ち会い、政治家たちの横で、複雑な成り行きを、口をつぐんで見守っていた。

近衛はこうして、近衛上奏文といわれる、奇妙な内容の、原稿用紙3枚分の分量の、上奏文を書き上げた。そして2月14日、天皇陛下に渡された。

この時期天皇は、7人の重臣に、戦争継続か否かについての意見書を提出させていた。その順番は以下のとおりである。

2月7日 - 平沼騏一郎、2月9日 - 広田弘毅、2月14日 - 近衛文麿、2月19日 - 若槻禮次郎、同日 - 牧野伸顕 (元内大臣)、2月23日 - 岡田啓介、2月26日 - 東條英機

そして苦心の末書き上げられた、近衛の上奏文は、ほかの重臣の意見の中に埋もれ、強い注意を喚起することはなく、その意図も実現することはなかった。天皇にはその突飛さゆえに、理解が及ばなかったのである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この文章はその後歴史の表舞台に出ることはなく、難解さ、内容の荒唐無稽さから戦争末期の珍エピソードとしてたまに取り上げられるだけになったが、そこに込められた願いは、今でも振り返るだけの重さがある。

1945年2月に迅速に本気で講和に動いていたならば、どれだけの被害が回避できたかわからない。

 右派、積極強硬派というのは、いつの時代にも、やや明るい、楽観的な予想を描くものなのである。それは彼らのそれまでの人生が、比較的恵まれたものであり、あれこれと幸運から物事がうまくいった経験があり、それに影響されて強気な、ともすれば能天気で無責任にも近い、そうした予想、ものの見方をしてしまう。そこから導き出される政策は、強気であるばかりでなく、根拠に乏しい、自分にばかり都合のいい絵に描いたもちのようなものであることが往々にしてあるのだ。(このことは、反戦側である、「近衛上奏文」にもあてはまる。どうしてもうすこし現実味のある、リアリスティックな分析ができなかったのだろうかと、批判を受けても仕方がないのである。)

1945年6月にまだ陸軍が、ソ連がアメリカとの戦略上、日本を大事に守ってくれるなどという、あまりにも楽観的な期待に重きを置いて、ソ連と交渉をしていたなどという話を聞くと、やや暗澹たる思いにとらわれる。周知のように、その後ソ連は、予想とは逆に、満州や北方領土に攻め込んでくるのである。

 戦後の世界のことを考えると、この吉田、白州、岡田、近衛、その他無数の反戦活動家がいたことで、どれだけ日本が救われたかわからない。近衛は東京裁判で戦争犯罪者に指定され、天皇の戦争責任についての追求を逸らすため、その夜自らは服毒自殺する。しかし彼が終戦のために働いてくれたことは事実であり、そのことを我々はいまでも感謝しなくてはならない。

 

===========

 

 吉田、岡田、近衛、そして水面下で敗戦後の憲法を研究していた7人の民間人による「憲法調査会」、GHQのケーディス、ベアト女史、これらの優秀な面々のおかげで、日本は実にスムーズに、それこそ奇跡的に、よい戦後を歩むことになった。憲法は当時もっともすぐれた理想的な条文に書き換えられ、女性参政権や生存権などの民主的な条項がいくつも加えられた。吉田や白洲の巧みな駆け引きの結果、1953年には形の上での講和と独立を果たすことができ、吉田は首相として、白州は東北電力の社長として、戦後の政治の表舞台をけん引してゆくことになるのである。



読者登録

葉影稔さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について