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「ラス・メニーナス」

 

 

 

 

 

 

 

 

「アラクネの寓話」

 

 

 


はじめに・扇型の空間

              はじめに

 

 

 ベラスケスの「ラス・メニーナス」の批評をやってみようと思う。絵画に対してはあまり詳しくないのだが、自分の論理がどこまで通用するか試す感じでやってみる。(時代背景考えず、抽象的にやる) もとより、余技としての批評ではある。

 

 さて、「ラス・メニーナス」を見てみよう。この絵画をじっと見ていると、不思議な感覚に打たれる。きっとこの絵画の批評を書いた人は自分の中のこの不思議な感覚をなんとか言語化しようと試みたに違いない。まずそんな考えが頭に浮かぶ。

 

 ラス・メニーナスは室内画である。しかし、室内画なのに、不思議にこの空間は手前側と向こう側の二つの空間に開かれている。室内画であるのに、この絵は非常に豊かな重層性を感じさせる。この重層性は画家ベラスケスの論理的な精神を感じさせる。

 

             扇型の空間

 

 まず、目を付けるべき一番大切なポイントは左手にいる画家だろう。この画家ーーベラスケス自身はこちらを向いて絵筆を持っている。目の前には大きなキャンバスがありキャンバスはこちらに背を向けていて、見えないようになっている。

 

 元々、絵を見るとはどういう事か。そこから掘り起こして見よう。自分のウィトゲンシュタイン論から引用してみる。

 

 「一枚の風景画を想像して欲しい。山の絵でも川でもなんでもよい。その時、我々はそこに語られず(描かれず)示されているものを想像する事ができる。それは画家の視点である。画家の視点は、絵画から逆算して想起する事ができる。しかし絵画の内に、画家の視点、そして画家自身は描かれない。たとえ、この風景画に絵を描いている画家自体を描いたとしても、その絵を描いている画家自体は描く事はできない。つまり、描く「手」は描かれるものとは違うものである。」

 

 上記の引用で、僕は「主体」を明らかにしようとしていた。つまり、主体とは語られず示される。主体とは絵画においては、作品内部に現れずに、それを描く画家の事である。画家の存在は絵を通じて、描かれず、示されるのである。この事は、ベラスケスのように、メタなポジションを取っても変わらない。描かれた画家を描く画家(ベラスケス本人)を描く事は、やはりできないのである。

 

 もう一度、絵を見てみよう。左手にいるベラスケスはこちらを見ている。こちらを「描いている」。しかし、彼を描いた当のベラスケスは、一体どこにいるのか。絵の中のベラスケスを描いたベラスケスは、絵画の「こちらがわ」にいる。この時、私達は「こちらがわ」のポジションに立って、絵を見る。すると、すでに不思議な事が起こっている事に気付くだろう。つまり、私達は見る存在であると同時に見られる存在ーー描く存在であると同時に描かれる存在だという事になる。これは散々指摘されただろうが、考えると非常に不思議な点だ。

 

 しかし、それだけでは、この絵画の不思議さは説明できない。上記の説明だけだと、画家がこちらを向いて絵を描いているという構図だけで十分だろう。ラス・メニーナスにはまだまだ不思議が眠っている。

 

 画家ベラスケスは僕らから見て左手にいる。中央にいるのは王女であり、その位に応じて、中央の一番光が当たる位置にいる。王女は鑑賞者の視線が最も集まるポジションにいる。王女の側には二人の侍女がいる。右側には小人が二人いて、足元には犬がいる。この時、ベラスケスは見えない主体(鑑賞者)を中心にして、扇型の空間を作っている事に注意しよう。図にしてみよう。

 

        扉・男

    鏡・夫妻     

              

             男、男2

 画家 女官 王女 女官 小人 小人

キャンバス         犬

   \          /     

     \       /

       (鑑賞者)  

 

 後で使うので、後ろの男も書き込んでおいた。さて、この時、見えない主体をぐるりと囲むように、扇型の空間が現れている。この扇型の空間の支点に当たる所に鑑賞者がいて、鑑賞者は見えない。絵の外部にいて、なおかつ絵に対して決定的に重大なポジションを占めている。

 

 この時、扇型の空間の「外部」に後ろの人間はいる。特徴的なのは、扇の背後の、鏡に映った王夫妻であり、扉をあけている男だ。後で詳しく述べるが、この二つのポジションは扇型の空間の「外部」にいる。扇を形成している人はこちらを向いているか、横を向いているかで、背後の人には気づいていない。だから、背後の存在(特に、扉を開けている男)の、空間の異質性は強調される。扉を開ける男は周囲が暗いのに一人だけ光を受けている。この男の存在を知っているのは、扇型の空間の支点の鑑賞者(私)だけであり、扇を形成している少女達は彼を知らない。だから、男の異空間性はいやでも強調される事になる。

 

 この扇型の空間を形成する方法を、ベラスケスは他の絵でもやっている。ベラスケスに「アラクネの寓話」という絵がある。ここで、ベラスケスはいわば、ラス・メニーナスに到達する寸前の段階の手法を僕達に開示している。「アラクネの寓話」でも同じように手前に、鑑賞者を支点とした扇型の空間を形成している。扇の弧の部分には糸を紡ぐ女達がいて、その奥にはまた別の人達ーー別の空間があるーーという方法である。

 

 「アラクネの寓話」は、後ろの空間に光を当てて、背後の空間の異質性が強調され、手前の扇型の空間との違いが示されている。これは「ラス・メニーナス」と共通している。しかし、「ラス・メニーナス」にあって「アラクネの寓話」にないものはこちらを見て絵を描いている画家であり、また、明暗の使い分けだ。こちらを向いている画家がいるからこそ、ラス・メニーナスには「アラクネ」にはない空間の二重性ーー描かれるものと描くものとのーーが現れている。また、ラス・メニーナスでは明暗をくっきりと強調させる事により、特に最後方の男の扉を開ける光が強調されている。この最後方の男が開けている扉は、前面の様々な効果が前提されているおかげで、強烈な効果を生んでいる。表面的には、真ん中の王女が一番スポットライトを浴びているのだが、実はもっとも重大なポジションを占めているのは背後の扉の男ではないかと僕は考える。

 

 伝記的な詳しい事は知らないが、ベラスケスは宮廷画家であり、官史でもあったから、王女を一番目立つ所に置かなくてはならないという事情があったのもかしれない。しかし、ラス・メニーナスにおいて真ん中の王女は傀儡であり、この絵は見るものに不思議な空白感を生んでいる。ベラスケスの描く肖像画は皆こちらを向いて、非常に透徹とした視線を見せている。この視線はまるで、現実を乗り越えてもう一つの世界を見ているようなーーもう一つの宇宙を見ているような、そんな錯覚を起こさせる。おそらく、ベラスケスの内部にあった空白の宇宙は、「ラス・メニーナス」という大画によって始めて完成された、閉じた円環を持ったのだろう。中央の少女は傀儡であり、ベラスケスが本当に描き出そうとしているものはそれとは違うものに見える。もう少し、詳しく見ていこう。


夫妻の鏡面、ミシェル・フーコー

                     

 

 言葉は不器用だから、一つずつ要素を潰していこう。まだほとんど言及していないポジションで、鏡に映った左手の王夫妻がある。これは、調べた所、王夫妻の視線は鑑賞者の視線と一致するらしい。つまり、絵の中のベラスケスが見ている鑑賞者は、王夫妻という存在として、鏡面に写り込んでいる。簡単に言えば鑑賞者=王夫妻という事になるらしい。

 

 美術批評の世界がどうなっているのか全く知らないが、この辺り、僕は自分勝手に考えたい。僕は、王夫妻と鑑賞者をイコールとは考えたくない。何故かと言うと、そうなると、不在、空白としてもっとも謎めいた存在である鑑賞者(主体)にわずかに実体の影が射してしまうからだ。不在としての鑑賞者こそが最も重要なポジションを占めるというこの絵の不可思議さを考えると、鑑賞者にこうして実体がわずかでも与えられると、この絵の神秘性は損なわれてしまうように感じる。そういうわけで、美術批評の事を考えず、(あくまでも個人的に)王夫妻と鑑賞者は違うものとして考えてみたい。ただ、鏡面に映った王夫妻は、手前の扇型の空間とは違う、別の空間を告知するものとしては、隣の、扉を開けている男と同じように、空間の多重性を形成する事に役立っている。王夫妻はこちら側を見つめており、それはこちらを見ている王女、画家、小人、扉の男と共に、不在の鑑賞者を指し示している。こちらを見ている人間は絵画の左右にきっちり配置されており、その為に我々は「見られている」という感じを強くする。この時、三つの異なった空間があり、①扇の弧の部分の三人 ②鏡面の王夫妻 ③ 扉の男 である。このように多重的空間がこちらを指示しており、それが絵の複雑さを増している。王夫妻の鏡面はその空間の一つを占めている。

 

 全体の構成については簡単に触れられたので、「ラス・メニーナス」という作品のイデー自体に迫ってみよう。つまり、この絵を見た時に鑑賞者が感じるだろう「不可思議な感覚」に自分なりの言葉を当てはめてみたい。

 

 叩き台に、フランスの哲学者ミシェル・フーコーの「ラス・メニーナス」論を使ってみたい。フーコーの批評は例によってわかりにくく、まどろっこしいのだが、どっちにしてもフーコーが自分の歴史哲学を象徴させるものとしてベラスケスの絵画を使っている事は明白である。

 フーコーは「ラス・メニーナス」という絵画を時代の「継ぎ目」を象徴していると考えている。彼はそう本気で信じているというよりは、「歴史断層」という自分の哲学を代表させる為に、ラス・メニーナスという絵画を引用している。

 

 フーコーの「知の考古学」「エピステーメー」という基本的な歴史哲学のスタイルは反ヘーゲルとして生まれたものだと思う。元々、フーコーは共産党にいて、後、共産党やマルクス主義にうんざりしたのだった。ソ連やマルクス主義にうんざりしたという所から、それらの哲学を知的に中和しよう、修正しようという意向が生まれ、ドゥルーズやフーコーのような抽象的な概念を利用する哲学が生まれた。つまり、哲学と政治とを再び分離させようとする、しかし、哲学と政治とは互いに緊密な対面状態にあって、それらはマルクス主義のように合流して一つにさせたくはない、という微妙なポイントをフーコーらは狙っていたように思う。

 

 ここではフーコーには深入りしないが、フーコーの哲学がサルトルらとの権力争い、フランスの高度なインテリの知的闘争であった事は容易に想像できる。そこからフーコーの、歴史を空間的に区切っていく哲学が生まれ、その哲学に過去のあらゆる表現、哲学、政治は埋め込まれる事になった。

 

 フーコーがヘーゲルとは違う歴史観を持ち、それを展開したにせよ、彼がヘーゲルやマルクスと同様、歴史を一様に「展望」できる視点に立ったという事は確かだ。フーコーは「主体の消失」を証明する事により、ある権力意識に抵抗しようとしているが、彼が歴史そのものを一望できると前提している事がすでに、ある知的地盤(エピステーメー)に立っているように僕には見える。僕はあらゆる地盤を踏み抜こうとする、デカルト、パスカル、ウィトゲンシュタイン、ヒュームらのようなオーソドックスな哲学者により好感を持っている。

 

 これはミシェル・フーコー論ではないのでフーコーの事はこれぐらいにしよう。フーコーはベラスケスの絵画「ラス・メニーナス」を歴史的文脈の中に埋め込もうとしている。僕はこれを逆さに振って考えてみたい。つまり、歴史が「ラス・メニーナス」を見るのではなく、「ラス・メニーナス」が歴史を見るのだ、という風に。

 

 何故、僕はそう考えるか。「ラス・メニーナス」の最大のポイント、不在の鑑賞者のポジションは様々に変更可能である。ここは(フーコーの言うように)、鑑賞者が自在に変化する事ができる。「ラス・メニーナス」が描かれ、ベラスケスが死んで百年、二百年経った後も、鑑賞者のポジションに現れる人物は次々に変化する。今、僕は二千十六年に存在する一人の日本人ーー男性だが、こんな人間が「ラス・メニーナス」を見るとはベラスケスは想像もしなかっただろう。しかしきっと、最初にラス・メニーナスを見た人間が感じたと同じような不思議な感覚が、現在の日本人ーー「僕」にもやはり訪れるのである。この時、我々がラス・メニーナスを見ているのではなく、ラス・メニーナスが我々を見ているのだ。ラス・メニーナスはフーコーの考えるように歴史的文脈に埋め込まれていると共に、その透徹した視線で鑑賞者の我々を見ている。我々人間の集団が歴史を形作るものだと考えると、ラス・メニーナスが我々(歴史)を見ているのだと考えてもそう間違いではないだろう。


通路を伝って

                          

 左手の画家はこちらを向いて絵筆を持っている。キャンバスは裏向きになっていて、そこに何が描かれているかは分からない。しかし、画家はこちらを向いて、描いているわけだから、「私達」「私」を描いているのだろう。

 

 鑑賞者である「私」は見えないポジションに立っている。しかし、絵の中の人物の何人かはこちらを注視している。私達は「自分」が見られている事を知る。この時、「自分」は相互に交換可能だという事を私達は観念としては知っている。しかし、それにも関わらず、私達はこの絵の前に立っている時、他でもない「私」が見られているという感覚を味わうのである。

 

 フーコーに足りないのはこの観点だった。フーコーは一般的な、抽象的な概念としての鑑賞者を絵の前に立たせる。しかし、彼、フーコー自身は巧妙に一歩引いた場所にいて、鑑賞者と絵を交互に見ている。しかしそれでは「絵」は見えないのではないか。まず、フーコー自身が絵の前に立たなければならない。そしてフーコー自身が絵の前に立ち、「ラス・メニーナス」を見た時、「ミシェル・フーコー」という固有名詞は消え去るのである。彼はもはや「鑑賞者」という一般的概念でもなく、ただ絵を見て、絵に見られている一つの存在になるのである。ここで私達は、絵の前で始めて「自分」に還ってくる事となる。

 

 「私」がこの絵を見る。この時、「私」と名付けられる存在を「ミシェル・フーコー」と呼ぼうと「ヤマダヒフミ」と呼ぼうとそれは関係ない。絵の前で固有名詞は消失している。フーコーが絵の前に立てば、彼はキャンバスに描かれているのはフーコー自身だと考える。僕が絵の前に立てば、キャンバスに描かれているのは僕だろうと考える。そしてこれは一般的な概念としての、他者としてのミシェル・フーコーやヤマダヒフミではないのだ。

 

 絵の中の画家はこちらを見て、キャンバスに絵を描いている。扇型の空間は、こちらと関連性を持っている。私達はおそらく王女を知っている。小人も犬も、右後ろの辺りの男も一応は知っている。「私」はきっと、この扇の中心となれるような関係の存在であるに違いない。こう考えると、ここから歴史的、社会的研究を始める事ができるだろう。この人物は〇〇王朝の〇〇何世である、という風に。しかし、そうではないのではないか。私はこの絵を見ている時、本当にこれらの人と知り合いであり、扇の中心に位置しているのだ。「私」はふと気づくと、絵の中にいる。私はーー現在、二千十六年に生きている日本人なのに、それとは全く違う一つの空間の中にいる。この時、鑑賞者は自分自身を二重化させている。この存在の二重性こそが、ラス・メニーナスを見た時に感じる不思議さの正体ではないのか。そう気づいた時、私達は絵の中から現実の自分を見ているのではないか。現実の自分が絵を見ているのではなく、絵の中の私が、現実の私を眺めているのではないのか。段々、そんな気がしてくる。

 

 しかし、絵はそこで終わっていない。それだけであれば、扇型の空間、画家、キャンバスがあれば事足りる。可視的な物の中では最も重大なポジションーー扉の男がいる。この男は暗闇の中で、鑑賞者ーー「私」にしか見えないような場所で扉を開け、光を内部に入れている。これによって、「私」ーーー「絵画」の絶えず相互に影響しあう空間に、もう一つの「道」をベラスケスは取り入れている。扉の男は、絵画と鑑賞者の間の絶えず戯れ続ける空間に一つの通路を導き入れている。ベラスケスはまるで、「これで終わりではない」と言っているかのようだ。絵画と「私」は相互に向き合い、気がつけば私は絵画の中にいて、もう一人の私を見ている。私は見られていると共に、見ている不思議な存在である。しかし、この対面的な二つの空間、その整合性に描き手としてのベラスケスは最後の明るい道を取り入れている。ここで終わりではない、絵画は絵画内部の通路を伝って別の世界に出て行く事ができるのだ。私達は自分を絵の中で形象化した後、扉の男の通路を伝って、これまでとは違う世界へと出て行く。一体どこへ? 答えはない。しかし、ここで終わりではないのだ。絵画と「私」の閉じた、完璧な閉鎖性とは違う通路をベラスケスは開けてくれているのだ。これが彼が構図上、扉の男を必要とした理由ではないか。世界の完璧性と閉鎖性だけではなく、まだ先があるが、それは『本当に』画家に描けないものである。絵画は絵画を通じて、絵画でない世界へと通じている。そしてこの通路を伝って運動していくのは、歴史、空間によって変化していく様々な鑑賞者である。形象化された鑑賞者はそのように、「ラス・メニーナス」という空間の通路を運動していくのである。

 


奥付



ベラスケス 「ラス・メニーナス」


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著者 : ヤマダヒフミ
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