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まえがき

本書は過去3年にわたるブログ記事および10冊の著作から、抽象度の高いパラグラフのみを抽出し哲学テクストとして編纂したものである。なお僕の言う抽象度とは本質の抉り出し、すなわち論理の切れ味だと理解して頂きたい。

とりあえず8章の単位で分割したものの主題的な括りはなく、また各々の文節も前後のそれと殆ど脈絡がなく、断章群がまったく独立的に分析を提示した形式である。これはべメルクンク(ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」における最小単位テクスト)から着想を得たものなのだが、要は彼と同じく「おそらく理解できる者は100名にも満たないだろう」という諦観(洞窟に石ころを投げ込むに等しい無為になる覚悟)に立脚しているのだ。

直近二作品の執筆にあたっては、政治や経済あるいは社会学などに全く無縁な人々でも感覚的に理解できる「親切な表現」に努めたのだが、これによって哲学者(そんな大層な者ではないが)に課せられた「平易な言葉で語る義務」と「公開論争する義務」を果たしたと自負する次第だ。そして今回はその反命題として「今時代の現実を凝視する覚醒者がさらに思考の明澄を図るツールとしての哲学体系」を編纂したのであり、これはすなわち止揚的営み(対立的要素を統合し思潮を発展させること)なのである。

ちなみに僕は全ての論文において「抽象を具象で担保すること」を絶対の原則としている。つまりひとつの観念に対し、常にひとつかそれ以上の具体的事実を添えることにより、曖昧さを回避すると同時に挙証責任を果たすことを格律(自身に課すルール)としているのだが、今回は具象を排除し抽象に徹したことを申し上げておきたい。

繰り返すが本書は今社会における諸現象とその構造・力学を理解している者、つまり具象(≒基礎的事実)を把持している者だけを対象とした「極めて不親切」なものであり、広く一般的に読まれることを前提としないどころか、それを真っ向から拒絶する挑戦的むしろ挑発的な試みなのである。


そしてあまりにも僭越なのだが、自身はこれをもって自身の思索が数百年の時空を超えなおかつ有効であること、すなわち自身の言語的営みが普遍となることを中心テーマとした次第だ。すなわちプラトンの「国家篇」における洞察性が、2000年以上を経た現在もなお斬新である如くの不朽を目指したのだ。

考えてみれば我々の眼前にある構造的暴力や政治的錯乱はこの時代特有の現象ではなく、おおよそ文明の発祥以来どのような体系においても生じ、そしてこの先も生じるであろう人類的病理なのである。それはすなわち法則や定理の抽出可能性を示唆するのであり、だとすれば自身の洞察もまた普遍の科学言語として遺すことも可能であり、そのような仮説から今的な具象(消耗性の高い情報)を極力排除した次第である。

もっとも僕は学識者でもなく、何らかの権威でもなく、そのような出自すら不明な者の言説に拒絶感を持たれる方も多いだろうが、そもそも自身は私論を振りかざす者ではなく、数多の哲学遺産からその都度に適切な知見を取り出し、ひとつの仮説のもとで編纂する立場に止まる者である。

つまるところ拙論とはアーレント、ハイデッガー、デカルト、フーコー、アルチュセール、ヘーゲル、ストロース、クライン、ボードリヤール、チョムスキー、ニーチェ、フッサール、オーウェルなど<巨人>たちの思惟をモザイク状に切り貼りした「創発の営み」なのであり、その圧倒的凝縮性においては全く無比であると断言する次第だ。

なお本書タイトルはロバート・ノージックの「アナーキー、国家、ユートピア」のエピゴーネン(文芸的に模倣したもの)であると同時に、今なお激しく闘争するロック界の重鎮・藤沼伸一氏(exアナーキー)へのオマージュであると明記しておく。


                               2016年7月15日 響堂雪乃


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私の言語の境界が私の世界の境界である

301) つまり”アノミー”とは「上の連中も周りの連中も皆腐っているのだからオレ達も腐っていいのだ」という”居直りの連鎖”であり、前景の狂気とは”ソドミー(道徳的頽廃)によるアノミー(無規範状態)”と言えるでしょう。

302)国策としてプレカリアート(新貧困層)を増産したのだから消費不足によって経済が縮小するのは必然であり、換言するならば国家は投資グループに社会資本を傾斜配分するため確信的に「有効需要」を破壊し「景気循環の輪」を閉じたのであり、それはすなわちエスタブリッシュメントによる緩慢なテロリズムなのだ。

303)社会統合策としてヒンズー世界の身分制度に倣う階級分化が強化されるのであり、かつての中間層はアンダー・カースト(下層の隷民)さらにアウト・カースト(不可触賤民)へ転落するだけでなく、本来的に企業が支払うべき社会コストすらも負担を強いられるのである。

304)我々は「脱植民地化(Decolonization)」も「脱植民地後社会 (Post Colonialism)」も構想できないのであり、やがて「マタイ効果(富める者はさらに富み貧しい者はさらに貧しくなる)」の呪いどおりに滅びるのであり、もはや個々という実存はプランテーション風景に明滅する点描に等しいのだ。

305)「構造的暴力(structural violence)」とは”制度や慣習、政治や法律などによる不可避的な暴力であり、有責者が匿名的かつ不特定であるため、反社会性、残虐性、犯罪性が知覚されない行為”である。

306)かくして今や民衆は意味盲人(情報を与えられても規則性や意味を見出すことができない者)であると同時に、相貌盲人(概念図を与えられても構造や仕組みを理解することができない者)なのだと思う。

307)被治者が「インフォームド・コンセント(十分な情報が与えられた上での同意)」を喪失すれば、民主主義が機能しないどころか国家が崩壊するのだ。

308)つまるところマスメディアとはホッブズが省察した「自発的奴隷の連鎖」なのであり、「リヴァイアサン」の表紙に描かれた狂王のグロテスクな甲冑なのであり、略奪のギミック(仕組)を隠蔽する支配のガジェット(装置)なのであり、我々の文化的コンピテンス(能力)を破壊し、「構造的暴力」の過激化を助長する醜悪なのである。

309)残酷ボケした世間は全く気付いていませんが、すでにネットを除く全メディアがセメントアップ(権力によって征圧)されているとおり、この国ではモルジブなどの人治国家に匹敵する言論統制が亢進しているのです。

310)換言するならば、人権社会における観念のいっさいから自由になった国家悪の原始性が氾濫しているのであり、我々は日々ごとに人間理性を喪失し、動物化するカフカ的恐怖に対峙しているのかもしれません。だからこそ自身を日常の定点から外し、異物に衝突させる試みが求められるのです。

311)つまり生命は資本に翻弄され続けるのか? この疑問節は自著の副題であり、立論のテーゼであり、皆様方への詰問であるのだが、もはや論駁されることのない真理であり、そのような問いかけ自体が欺瞞なのかもしれない。つまり生命は資本に翻弄され続けるのだ。

312)この国は右翼化しているのではなく幼児化しているのだ。

313)あらためて我々はイデオロギーの抽象が求められているのだと思う。この様式を新世代のファシズムと捉える向きもあるのだが、そもそもファシズムとは資本や国家による搾取を排除し、労働組合を主体に厚生社会を構想するという「サンディカリズム」を原像とするのであり、我々の体系に席巻するイズム(超搾取的資本主義)とは根本的に異質である。

314)換言するならば二ホン社会はファシズムを構造化するほどにも成熟していないのであり、ハイデガーが「輝ける闇」と洞察したとおり、我々は何かを見ているようで、実際には何も見通せていないのだ。今時代におけるアナキスト(反逆者)は徹底したリアリスト(探究者)でありアナリスト(分析者)でなくてはならないのである。

315)ナチス労働党も自由民主党も「資本を頂点とする専制政治と戦争国家を構想した」ことに違いはないのだが、それらを混同してはならない。なぜならその相違とは前者が国益と民族主義を掲げたのに対し、後者は売国と衆愚主義を掲げたことなのであり、本質として二ホン国の思潮はファシズムの崇高な理念を満たし得ないのである。

316)理性の射程は語彙の範囲にしか及ばないのであり、知識の多寡によって異なる現実に生きているのであり、認識されないことは存在しないことと同義なのであり、解釈の限界は常識の限界に一致するのであり、すなわち常識とは愚者の形而上学なのであり、おそらく皆様方の眼には彼らがポッド(繭状容器)で培養されるMATRIXのバッテリー人間のように映っているのではないかと思う。

317)家族や友人を必死で説得したところで、理性や論理よりも世界観の整合性を求めるという心理的障壁は強固であり、つまり既存の知識体系や社会認識の解体行為は彼らにとって自殺に等しいのだ。R・ノージックは「体験機械(Experience Machine)」という思考実験を提唱し、「苦しみが多いとしても現実世界に対峙して生きるのか?それとも理想世界をプログラムしたマシーンに脳を接続しヴァーチャル・リアリティに生きるのか?」と問いかけたのだが、おそらくこの国の民衆は後者の択なのだろう。

318)前景のオブジェクトは実体群の営みではなく、「シミュラークラ(起源やオリジナルをもたない情報の劣化コピーの累積)」なのであり、「現実がモデルを模倣し、モデルが現実に先行し、モデルが現実を決定づける」のであり、すなわち「モデルによって産出された世界(ハイパーリアル)」なのであり、もはや「シミュレーション(報道コンテンツ)の背後に現実は存在しない」のであり、それが「現実の記号による代理の問題」なのであり、「リアル(現実)であると同時にリール(映画)である」というヴィジョンなのだ。

319)シミュレーション・プログラムに接続された人間群は、プログラムを介することでしか文化や現実を認識できないのだが、そのように「シミュラークラが先行する状態」とはまさにプラトンが提起した「洞窟の比喩(Allegory of the Cave)」の現代テクストなのである。

320)人類の知的進化は総体としてイノベーションの領域に留まるのであり、支配者と被支配者の知的位階差は埋められないのであり、我々は壁面に投射されたフィギア(影絵像)を実存だと信じる奴隷世界の蒙昧から未だ逃走できないのである。

321)白亜紀の巨大爬虫類が気候変動によって絶滅したように、アレキサンドリア図書館がカエサル率いるローマ軍によって焼失したように、アステカやインカなど南米文明がピサロとコルテスの軍団によって滅亡したように、ニュージーランドのモア鳥が白人の入植によって絶滅したように、その進化と形成に何千年あるいは何千万年を要した営為も存在も、僅か一撃によって粉砕されるのである。

322)彼らは言語が破壊されていることも、認知が操作されていることも、意識が収奪されていることも全く無自覚なのであり、観念のすべてが借り物なのであり、そしてそれこそがイリュージョニズム(上層権力が意匠した虚構世界)が成立する基本的与件であると同時に、「我々は生まれたときから精神の牢獄に捕囚されている」というプラトン的世界像の証明なのです。

323)「市場原理主義はナショナリズムを利用する」という定理のとおり、保守論壇もこぞってグローバル企業による国富収奪をバックアップしているわけですから救いようがありません。

324)本来的に啓蒙を担うべき知識層が真逆に人間を退行せしめる装置としてビルトインされているのですから、この体系に席巻する「自明性の喪失」(当たり前の道理が全く通じない)という狂気は「民族的精神疾患症候群」とも言うべき人為的シンドロームなのです。

325)「専制は民主主義においても共産主義においても、人間が作るすべての体制において発生する」のであり、さらには開票システムが政権関係者によってプログラミングされていることが半公然のとおり、抵抗は二重三重に抑止されているのであり、もはや我々は選挙という民主的手続きによって社会変革することなど全く不可能なのです。

326)不思議の国でアリスが出会った「論理的狂気」とは、我々がこの国で目撃するパラドックス(反転した錯乱)そのものであり、「食べて応援!」などという矛盾語法はオーウェルが意匠したNew Speakの具現なのである。このようにイカれたレトリックはメディアという権威に下支えされながら民衆心理に深く浸透し、正気と狂気の分水嶺を破壊するのであり、やがてはWonderland(ウサギ穴の宇宙)のごとく壮大な発狂世界を現出させるのだ。

327)「知的テクノロジー」とは情報を分析したり、考えを分節化したり定式化したり、ノウハウや知識を共有したり、計測したり計算したり、記憶を増強したりするのに用いられるモノの総称なのですが、それに対しネットは「退行的テクノロジー」なのかもしれません。

328)本の書き言葉は人間を内省的にし、寡黙な思考者たらしめ、自己意識の変容(トランスフォメーション)すら可能とするのですが、ネットや新聞の記事は思考を断片化させ、個が自立的に考える機会や意識覚醒の機会を奪います。”浅い読み”はそのまま”Shallow Reading”と訳されますが、新聞ネットの特有言語が文字通り人間を”Shallow"にしているわけですね。

329)新聞などは本質として人間精神の鋳型であり、語彙も意識も一切を規格化するわけです。にもかかわらず国民はいまだ自分たちがそのような装置によって「タブララサ(無人格状態)」にされていることすら気づいていません。

330)この国はナチス労働党の宣伝理論を援用しているのですが、もともと宣伝相ゲッベルスはイギリスの貴族政治をモデルとしていました。大衆紙などを駆使した認知操作により搾取構造を隠蔽するという方法論はヴィクトリア朝が起源とされるとおり、レッセフェール(過激資本主義)がメディアと共謀する現代二ホンという体系は、数百万の労働者が餓死線上で蠢いた「産業革命世界の再興」と言えるでしょう。

331)「統治」と「報道」は200年以上にわたり一対のDNA交換を続けているのであり、そのようなインセスト(近親相姦的営み)が近代世界の核心なのです。つまるところ我々の”危機”とは資本暴力と宣伝組織が癒着した始原期への回帰に他ならないのですが、これにより二ホン国文明が消滅するにもかかわらず、我々は全く対抗手段をもたないのです。換言するならば産業革命から3世紀が経過する現在においても、支配層と被支配層の知的位階差は埋められないのであり、家産化(家畜化)した民衆は資本によって翻弄され続けるしかないのです。

 

332)我々の眼前に横たわる地獄とは、原発事故による汚染や多国籍企業による圧政やITを駆使したユビキタス(生活・社会全面)的監視など、まさに空想科学小説で描かれたアンチ・ユートピアそのものでしょう。しかし破局事実があまりにも壮大であるため、アクチュアリティ(現実感)が極めて希薄なのだと思います。公共教育的なパラダイムは、世界が民主的に進歩しているような錯覚をもたらしますが、人類社会の総体としては着実に全体主義が亢進しているのであり、そのような暗黒性はオーウェルが予見したディストピアを凌駕しています。

333)すでに我々の言論トラフィックすべてが捕捉され、諸々の個人情報とともに一元管理されているのですから、やがて国家は叛乱分子をシステマティックに粛清するのであり、秘密保護法の関連法案が続々と整備される昨今の様相は極めて徴候的です。このような前提において、我々はサイバー言論の始点と終点に跨り自由思想を夢想したに過ぎないのであり、弾圧のモデルケース(先行事例)を呈するだけの存在なのかもしれません。

334)「ヒトはどのような環境にも慣れる生き物」と定義されるのだが、我々の不感症はおおよそ極限に達しているのだろう。

335)このように個々は脱人格化された身体資源として眼差されながら、「生命の一回性」という概念すら持ち得ないのであり、すでに存在そのものが漠とした洞(うろ)なのである。

336)公務員は非人道的行為を主導しながら一方ではよき市民であり隣人であるというアスペクト(人格の断面)をもつのだけれど、それはナチスドイツの官吏たちがホロコーストを粛々と実践する一方で家庭人として妻子を慈しみ、焼却炉の臭気が立ち込めるアウシュビッツの食堂で人灰堆肥から収穫されたジャガイモを頬張りながらワーグナーを鑑賞した位相と全く同じだろう。

337)それはつまり理知と狂気の相反併存であり、「ダブリング(人格の二面同期)」というナチ的異常精神の再現であり、”平凡な市民がある条件下においては権威に従い残虐行為を平然と行う”という「ミルグラム効果(アイヒマン理論)」の証明なのである。

338)だとすれば我々はすでに道徳的価値とは全く無縁の宇宙に存しているのであり、もはや物理の他に神の事跡を見ることなど不可能なのだろうか?

339)おおよそ一つの近代国家を制圧するには対イラク戦のとおり百万トン規模の空爆や精密誘導ミサイルを要し、さらには数十万の地上軍を投入し市街戦を展開しなくてはならないのだけれど、彼らはそれに替えメディアを手段とする我々の愚民化によって、つまりハード(武力行使)ではなくソフト(意識操作)によって達成したのであり、一連の成果は”相手国の精神解体がもっとも有効なストラテジーである”という「ボーフル理論」を実証したのだ。

340)すでに日常そのものがシミュラクラ(起源やオリジナルのないモデルが現実を産出する世界)なのだろう。報道のマトリックスが認知を操作し、再現し、再提示し、民主社会というファンタジーを供給するのであり、「知覚されることが現実である」という理説どおり、もはや大衆はシミュレーションと実存の分別など叶わないのだ。つまりメディアの疑似像が五感に先立って現実を規定するのであり、それがボードリヤールの言う「シミュラクラの先行」なのである。

341)この体系で進行していることは人類史上最悪の「構造的暴力(行政と資本が共謀して人権を蹂躙すること)」であり、それは本質としてメディアを中心手段とする「未必の故意(特定個人を狙うものではないが、誰かが死ぬであろうことを確信して行為すること)」なのだ。しかし何らかの権威がそれを平易な言葉で概念化してやらなければ家禽化した大衆は全く理解不能なのであり、様相は「イナーシア(知性の無重力)」という民族的症候群なのである。

342)すべては下部構造である民衆が政治という上部構造を決定づける「形式性」の所産であり、つまるところ彼らは暴政によるのではなく無知により奴隷化するのだ。

343)繰り返すが、我々は自律的でなく他律的な群像なのであり、このような視点からすれば<国家>という現象そのものが巨大なシミュラクラ(模造の営み)なのである。

344)植民地行政において国家議会とは「劇場」に過ぎず、形式的な認証機関に過ぎないのであり、与党も野党も保守も革新も左派も右派も存在しないのであり、対立構造そのものがフェイクなのであり、政権交代などパペット(操り人形)のすげ替えに過ぎないのであり、社会調整機能はおろか、個々の生命すら外国資本の掌上に委ねられているのだ。

345)眼前のカタストロフィとは言わば未来からの審問であるわけですが、この時代の知性はもはやそれに答申することはおろか、制度資本の全面が崩壊していることすら理解できないのです。

346)政治世界の頽廃とは思想世界の鏡像的反射なのであり、マルクスの省察どおり「下部構造が上部構造を決定する」のであり、我々の敗北とはすなわち文化の敗北なのです。

347)新聞やテレビなど公共言論の領域でグローバリズムや原発事故に触れることはタブーなわけですね。むしろそのような問題の核心を上手く曖昧化しつつ、マスコミによる権力監視が機能しているかのように錯覚させる者達が重宝されるわけです。

348)この国における「権威」とは知見や業績に裏付けされるのではなく、メディアの露出度によって裁定されるわけです。つまり逆説的に「権威」であり続けるためには常にマスコミと共同しなくてはなりません。

349)経済学者G・ベイトソンは”中毒者は立ち直れない”という「悪循環の理論」を提唱しましたが、要するに一回マスコミと共謀する旨みを覚えると元の人格には戻れないということなのでしょう。もっとも自分がそのような立場なら、同じようなことをするのだと思いますが。

350)オピニオン・リーダーを体制側に取り込み民衆の意識操作をする「仲介者の利用」という宣伝工作の典型が実践されているのであり、それは”教養のある者のほうが活字に触れる機会が多いのだから、教養のある者を対象にするほうが宣伝効果が高い”というN・チョムスキー理論の実践と言えるでしょう。


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