目次
現代から新たなモーツァルトは生まれるか
小説志望者の為の小説論
混迷錯雑した小説論
ミシェルウェルベック『素粒子』書評
人間の本質を露呈させるものとしての文学
自己解剖の文学  ~太宰治と小林秀雄に関して~
技術の高い人間と天才との違いついて
モーツァルトの天才と、凡人たる我々の関係
サリンジャーとドストエフスキー   
シェイクスピアとドストエフスキーにおける自我の分裂について
「手回しオルガン弾き」論  〈『フォルム』の探求者〉
音楽の歩む先
形式を越える音楽  ー神聖かまってちゃんとD猫殿下ー
生活と作品の間の距離について (夏目漱石を中心に)
漱石とシェイクスピアの言語表現ーー「像」について
「一般文学批判」 
「小説空間」についての試論1
「小説空間」についての試論2
岡崎京子小論
「日常の言葉」と「文学の言葉」の違い
どこかの誰かを主人公とした作品は「私」の作品ではない
私とは何か
現代のクラシック音楽と純文学への疑念
ドストエフスキーとインターネット空間
悲劇の構造 (ドストエフスキー、サリンジャー、チェホフ、シェイクスピア、夏目漱石)
ウィトゲンシュタインとドストエフスキーの見た風景
 物語空間について ートルストイ・ドストエフスキー・シェイクスピアー
神聖かまってちゃん 一つの時代の終わり
良い芸術作品とはどういうものか
崇高さや偉大さを目指す事
空は何故青いのか? (カント哲学について)
生きる意味、生きる価値についての答え
アンネ・フランクの非凡な知性
北野武「ソナチネ」感想
歴史における一回限りの現象としての「ベートーヴェン」
悠木碧論
 作家の見る夢と現実
 「才能」を越えて
音楽の根拠の無さ
文章を書く難しさ
幸福は自らの内にあり、外側にはない、という事 
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現代から新たなモーツァルトは生まれるか

芸術は形式であるか、内容であるか、というような議論は昔から行われていた。今またその問題を個人的に蒸し返してみたい。

 

例えば、モーツァルトという作曲家がいる。この作曲家は世界中で賞賛されている天才であり、またその才能には疑いようのないものがある。だとすると、僕はこのモーツァルトの形式を丹念に学び、そして、そのような曲を造る事ができれば、僕はやはりモーツァルトのように世界中から賞賛される天才へと昇華できるだろうか?。・・・・・その答えはおそらくノーだろう。

 

僕は思うのだが、芸術に携わる人間が最初に必ず犯す間違い、そしてその最大の誤ちというのは、「芸術は永遠なり」というものだ。僕達はモーツァルトやベートーヴェンをYOUTUBEなど聴いて、その楽曲に感嘆する事ができる。僕がゲーテを読んで涙を流す事は当然ありうる。たが、誤解と誤ちの原因は多分、そこにある。そして、僕はこれまでずっと、そういう誤ちを犯してきたらしい。できれば、今から話す事を十代の自分にタイムマシンで帰って聞かせてやりたいものだが、十代の僕がそれを理解できるかどうかは、かなり怪しい。

 

「芸術は永遠なり」。この公式から出発して、芸術をただの形式と見る事は可能だ。そして、半端な学者連やディレッタントなどは昔からそう見てきた。そして、その形式論から始めて、例えば「ドストエフスキーっぽい」作品を造る事は可能だ。あるいは、今のライトノベルの応募作などを見れば、そのような「っぽい」作品で溢れているのではないか、と思う。そしてそういう作品では毎回毎回、義理の兄に妹が擦り寄ってくるのかもしれない。だが、そういう作品を書いている人は次のように僕に抗弁するだろう。

 「だってそういう作品が売れているじゃないか?。だから、僕もそういう作品を書いたのだ。それの何が悪いのか」と。

 それに対して、僕はビジネス的な用語で返す事にしよう。

 「大切な事はマーケティングして、それに見合う製品を提供する事ではない。そうではなく、市場そのものを開拓する事にある」と。優秀な経営者というのはこのように、大抵、市場自体を、消費そのものを生産によって生み出す事を自分の中の目的としているが、しかし、その方法論は不明である。だが、人々から見ればその方法論が不明だという事が不服だろう。受験勉強にはノウハウがある。何故ならそこには正解がすでにあるから。そして、受験の最大のノウハウは予め、その答えを知っている事である。・・・僕はふざけて言っているのではない。既に決定されている答えを解く事など、そう大した事ではないと言いたいのだ。大切な事は、ない答えの中に問いそのものを設定する事にある。そして、適切に問う事ができれば、その答えも適切に違いない。問題は前人未到の地を行く事だ。そして前人未到の地は常に無限に広がっているが、整備された道しか知らない者にはこの地はただの荒れ地に過ぎない。一部の人間にとってピンチはチャンスだが、人々にとってはピンチは文字通りピンチと映る。要は考え方次第ーーーしかし、考えた後には一歩前に進まなければならないだろう。

 

 確かに、芸術は形式に過ぎないし、モーツァルトにはそれ固有の形式性がある。そして、それが天才性の証だという事も確かだ。だが、僕らが忘れてはいけないのは、それがモーツァルトという固有の人間が作った事、そしてその作った時の社会環境は今とは全く異なる、という事にある。例えば、モーツァルトは現代のピアノのような精巧なピアノは持っていなかった。(吉田秀和のエッセイに載っていた。)それに、モーツァルトの時代は、我々の社会のように、こんな様々な雑音には満ちていなかったであろうし、また、音楽が『BGM』として使われた事もなかっただろう。我々はモーツァルトをモーツァルトとして聴くが、しかしモーツァルトにとっては、それが彼の社会環境という檻から出る唯一の脱出方法だった。モーツァルトは音楽によって、世界の彼方に飛び立った。・・・だが、その場合の『世界』というのはあくまでもその当時の『世界』であり、今の『世界』とは全然違うものだ。だから、今私達がこの世界を足蹴にして、自分の世界を作りたければ、それは当然、モーツァルトとは違った形式の楽曲を作らねばならない、という事になるだろう。(そもそも『楽曲』でいいのか。映像もつけた方がいいのか、なども考えなければならないだろうが。)そして、その場合、現在の楽器その他のテクノロジーも問題になってくる。僕は、芸術とはあるもの何でも使って良いものだと理解しているし、芸術家はありとあらゆる道具、観念に通暁して損はない。もちろん、全部を使う必要はないのだが、しかし、道具に精神が縛られるのは不具である。仮にも芸術家であるなら、精神が道具を支配しなくてはならない。だから、エレキギターを使っていたら音楽ではないとか、あるいはボーカルの音程を処理してたら、真の音楽ではないとか、電子書籍は本当の本ではない、などという議論は根本的にナンセンスである。それらは、芸術とは関係のないノスタルジックな議論に過ぎない。芸術は精神に憑かれた物のいいである。どうして、物の形が全てだと勝手に思い込むのか。そういう事を言う人間は、芸術を擁護しているようで、実は芸術を冒涜している。・・・とはいえ、それは芸術が精神の産物である限りにおいての事であり、もしかしたら、彼らの頭の中では芸術は何かの製品と同列に考えられているのかもしれない。だとしたら、特にかける言葉はない。

 

芸術とは確かに形式性に過ぎない。だがしかし、それが再び芸術としてよみがえるのは、僕達がその中に内容ーーーつまり、精神を読み込むからである。オーディオオタクにはわかりにくい事だろうが、僕らに必要な最大のプレイヤーは僕ら自身の心である。千年前の作品に涙を流す為には、僕達の心に、千年の時を遡り、そしてそこに一つの純粋な精神を読み込み、再生できる上質なプレイヤーがなければならない。いくら音が良くても、心という名のプレイヤーのできが悪ければ、それは何の意味もないのだ。そして、この心というプレイヤーは磨く事ができる。成長する事ができる。これは物を扱う事、物を磨く以上に楽しい事であるが、そこにはもちろん、物の助けがいる。物は、あくまでも僕らの味方であり、目的ではない。

 

芸術とは精神に彩られた形式であり、これを社会学的に、あるいは生物学的に考える事はできるが、しかし、結局の所、芸術的に見なければ見えてこないものだという事を忘れてはならない。僕達はその中に一つの精神を、魂を読み込む。そして、その魂というのはいつも真っ白に輝いて見えるだろう。そして、そういう経験をたくさんするからこそ、僕らは芸術は永遠なるものと見誤ってしまう。これは厄介な事だが、本当だ。もう少し言うなら、作るのと見るのとでは大違い、という事だろう。僕らは見ている時は、「こうやればいいんだろう」ぐらいに思っているが、実際取り掛かると今までそんな風に考えていた事が全部嘘だった事が明らかになる。これは何かを製作しようとした(芸術に限らず)人には通有の体験であるように見える。傍観者にはそんな経験はないので、だから彼らは相変わらず好きな事ばかり言う。

 

実際、何かを作るというのは大変であると同時に奇妙なことである。例えば、僕がモーツァルトになるにはどうしたらいいか。僕はモーツァルトを徹底的に探求すればいいだろうか。あるいはクラシックを学ぶ為に、音大に入って、作曲家になる事を目指せばいいだろうか。・・・だが、僕の答えは全く逆だ。僕は今ならば、パソコンの作曲ソフトの使い方を徹底的に学ぶだろう。そしてシンセサイザーによる音の合成の方法を学び、そして現代の最新の、かつ最上の音楽を徹底的に探し、そしてそれから学ぶだろう。もちろん、モーツァルトを学ぶ事は大切だろうが、しかし、その事と、現代のモーツァルトを目指すという事は根本的に異なった事実である、という事を僕らは了解しなくてはならない。モーツァルトとは歴史の中の一回限りの現象である。そして、それを繰り返そうとしても、もうその実験場であるところのこの世界そのものが代わってしまっている。だから今、モーツァルトそっくりの音楽を創りだそうとする事は、モーツァルトを目指すというその目的と逆の方向に走ってしまう、という事になる。僕らは現代という時代から逃れる事はどうしてもできない。それは不可能な相談であり、逃れようとすれば、途端に僕達の観念がそれに異論を唱える。通信手段がこれだけ整っているのに、いまさら、『君の声が聴きたいけど、聴けない』みたいな甘い歌詞のラブソングを作ったら、違和感を覚えるだろう。僕らはどうしてもこの現代という檻から逃げる事はできない。そして、現代という時代から、新たなモーツァルトが生まれる可能性は実際低いかもしれない。しかし、その場合でも、僕らは今のこの時代を不服だと言ってはならない。何故なら、モーツァルトその人こそが、自分の生まれた時代、そして楽器や貧困などの様々な環境に対して不服を唱えなかった人物だからだ。天才というの常に、その時代のあるがままの手段を借用する。そして、不服を唱えるのは常に自分自身に対してである。自分に対して不服だから、彼らは成長するのだ。成長できない人間はそれを周りのせいにする。まさにその為に、彼らは成長する事ができない。彼らの自己欺瞞は全身を浸している。だから、彼らはいつも自分自身を正当化し、そして世界を非難する。だが、彼らの気に合う世界などこの世のどこにもない。僕は、つまらない人間がこぞって「ああ、宝くじが当たればなあ」という嘆きを吐くのを聞いた。だが、彼らに宝くじがあたったところで、彼らはその金をすぐに使い果たし、そしてまた「ああ、宝くじが・・・」と嘆くだろう。金を持てばそれを失う事をおそれ、そして金がなければそれを嘆く人間にはどこにも安息の地などない。自分の中に安息がない人間は地球の果てに行こうと、安息はないのだ。

 

現代において、モーツァルトになるという事はおそらく、モーツァルトとは似ても似つかぬ姿になるということである。そして、その似ても似つかぬ姿とは、そのアーティストの魂を掘り出した、その形であるに違いない。例えば、ドストエフスキーとシェイクスピアは非常によく似ている、と僕は思う。だが、具体的にシェイクスピアとドストエフスキーのどこが似ているかと言えば、それは非常に抽象的な議論に傾かざるを得ない。あるいはパスカルとニーチェは非常に似ているが、しかしその具体的な形はぜんぜん違う。これはどういう事か。これを僕は次のように考える。もし、現代にモーツァルトそのものの魂が再び生まれたとしよう。と、すると彼はどのような音楽を作るか。彼はきっと、モーツァルトとは似ても似つかぬ曲を作り、そしてモーツァルトという名で呼ばれる事もないだろう。似ているのはただひとつ、その音楽の雄大さ、そしてその天才性の発露、それだけである。そして、その他の事は全て、時代の必然性に拘束されているだろう。現代のモーツァルトがシンセサイザーを扱い、そしてDAWを自由自在に使いこなしても、僕は少しも驚かない。そして、その現代のモーツァルトがモーツァルト評論家に批判されても、これもまた何の不思議もない。天才とは常に、自由を求める魂そのもであるのだが、これは当然、時代という名の拘束と格闘する事になる。そしてその際に、この魂は無限の苦痛を覚えるのだが、しかし、彼がその魂により、物ーー時代の必然性を支配していくと共に、その苦痛は一種の快楽へと変わっていく。そういう過程で、この敵は彼の味方へと変貌していく。そして、その時には、モーツァルトという名やその音楽の形式から開放され、彼はまた一つの魂の自由へと還っていく。だが、僕達はそれを形式から遡らざるを得ないからこそ、形式に足をすくわれ、そして見誤るのだ。魂を得るには形式を支配しなければならない。これは僕達の世界の掟だが、形式主義者にはさぞわかりにくい事であろう。・・・現在、我々ができるのは我々のいる時代と格闘することであり、それ以外に道はない。芸術とは常に、時代との際限ない格闘のその結果である。そして、その結果が永遠として残るのだが、我々にはそんな永遠を考えている余裕などない。我々は常に、最も『現代』たりえなければならない。そして、その結果が他人にとって永遠だとしても、それは我々の仕事の甘い褒美であり、その真の報酬は常に、その仕事自体である。我々はまず徹底的に現代であらなければならない。そして、過去や未来に想いを馳せるのは、クリエイターではない、別の誰か、他人の仕事なのだ。

 

 

 

 

 


小説志望者の為の小説論

                             一

 

 

 その昔、小林秀雄が当時の新人小説家達に向かって次のように罵倒していた。「諸君はどういう事を思って小説などというものをこねくり回しているのだ。私は知っている。私の評論は難しい。だが、バルザックの小説は私の評論より百倍難しいのだ」。大体、以上のような事を言っていた。今の小説家(プロでも素人でも)がこの小林の評論を読んではっとして襟を正す、という事は多分全然ないのだろう。だが、依然として小林秀雄が言った問題は続いていると僕は考えている。「どいつもこいつも通俗小説しか書いてねえじゃねえか」とも小林秀雄は言っていた。それは今でもそうであり、芥川賞を取った作品も直木賞を取った作品も、また今ある小説の大半が通俗小説だと言う事は可能だろう。彼らは人生を知り、そして「小説の書き方」を知っている。だが、彼らは人間を知らず、自分を知らない。バルザックの目に映ったのは当時のフランスの現状だろうし、ドストエフスキーがその言葉の世界で闘争したのは当時の社会現実だった。闘争?。だが、闘争という言葉は今の小説とは全然程遠いように思える。例えば、最近の綿矢りさに世界とのどのような闘争が見られるだろうか。僕は中村航という作家の「ぐるぐるまわるすべり台」という作品が好きだったが、彼はやがて通常の通俗的な物語を描くようになった。多分、彼は作家としての腕は伸びていると思っているのだろうが、僕はそれとは逆の事を考えている。クオリティや技術などというものは今は大抵、枠にとらえられた考え方である。ドストエフスキーの作品の進歩はその思想の進歩と共にあった。それは彼の、深い社会洞察と自己洞察の賜物だった。だが、僕達は当時のロシアの現実を忘れてドストエフスキーの作品を楽しむ。そして書く段になると、その外面的なプロットやら「文体」やらを真似るが、そうやってできた作品はドストエフスキーとは似ても似つかない。ただ単に主人公に人を殺させて、そしてその主人公を懊悩させて最後に警察署に出頭させたとしても、それは「罪と罰」とは全然似ていない。もしそういう事がしたければ、僕らは「何故、ラスコーリニコフは人を殺さざるを得なかったか?」という問いを発しなければならない。そしてこの問いの答えは容易には見つかりそうにないし、これに対する確定した答えを見出した人間は未だいないと言ってもいいのかもしれない。小説の問題の根というのはどこでも極めて深いものだが、これを浅い所で切り取るのも、深くまで沈潜するのも人の勝手である。そして当然浅い所にとどまるほうが断然楽だ。

 

 

                             二

 

 

 小説というものは一般に登場人物がいて、そして物語があると考えられている。人はまずプロットから書くかもしれない。あるいは登場人物を想像する事から始めるかもしれない。そして書き始めの人間は、小説などというものは自由自在に書く事ができるような気がする。なぜなら小説は言葉でできているし、音楽のような専門的知識もいらない(ように見える)し、それにその言葉は僕らが普段使っている言葉であるから、既知のものに感じるだからだ。こうしてこの人物は小説を書き始めるが、しかし、事はそうはうまくいかない。…あるいは、事はうまくいくのかもしれないが、うまくいった所で同じ事だと思っている。僕が面白くない、というよりほとんど全く読む事ができない小説というのは登場人物がぺらぺらした紙のような人物で、そしてそこに一切の内面が存在しない小説である。だが、そういう小説でもヒット作とかベストセラーになる事は可能なので、話はややこしくなる。登場人物がぺらぺらなのに何故ベストセラーになるかというと、その紙のような登場人物の作者の動かし方が巧いから、だと言えるかもしれない。そしてこの事実はおそらく、僕ら自身が薄っぺらい人物だという事と対応している。こんな事を言うと怒られるかもしれないが、しかし、人間の内面の複雑さというのは、一つの穴のようなものである。ある人の言葉の響きが二重の響きを持つのは、その人間の内面と外面が分裂しているからといえる。ところで、ドストエフスキーとシェイクスピアは両者異なったやり方で登場人物を二重の、矛盾した存在にした。彼らの登場人物はそれぞれ、外面と内面に完全に分裂していて、それは普通の人間にはありえない事だが、しかし普通の人間の「奥底」にあるものである。そして彼ら二人の天才作家は、人間の自然さをも蹴りだして人間の真実を追求する事に腐心した。その結果があのような登場人物のスタイルになったのだと僕は理解している。ドストエフスキーは自分を写実派だと言っていた。この言葉の意味がわかる人はそれほど多くはないだろう。

 

 では逆に芥川賞系の、純文学はどうかというと、これによく見られるのは作者と主人公の情念が同一化しているという事にある。これは吉本隆明が指摘していたと思う。例えば、ある女主人公が旦那の不倫に悩み、復讐する、という作品があるとしよう。するとこの場合、この書き手が優れた書き手でないと、この女主人公と作者の感じ方、考え方が同一のものになってしまう。こういう作品では、主人公が痛みを感じる場面で作者も痛みを感じ、そして主人公が喜ぶ場面で作者も喜ぶ。それは全ての小説がそうではないか、と言われるかもしれないが、そうではない。例えば太宰治の「人間失格」という作品を見てみればいい。ここでは、作者=葉蔵、と考える事も可能だし、またそう思わせる事が作者の目的のようにも見える。だが、この作品の最後ではこの主人公の葉蔵を知るバーのマダムが次のように言う。

 

 「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」

 

 この最後の一言は印象的である。いわばこの最後の一言で作者は葉蔵を救っているのだが、しかしそれは単に作者が救いたいからそう書いたのではない。この最後の台詞は、作品内で語られた葉蔵の自己認識とは真反対の言葉である。この言葉は葉蔵自身の自分に対する見方とは全く逆の言葉である。しかも、バーのマダムは葉蔵をよく知っている人物であり、彼に迷惑をかけられた人物でもある。この時、実は作者は知っていたのだった。つまり葉蔵は自分で自分を見る時、そこに堕落した人物を見ていたのだが、その自分が堕落していると感じているその視線を見るもう一つの視線(マダム)は、葉蔵の事を「神様みたいないい子」だと認識しているという事を。ここでは自己認識に対してもう一つ、他者認識がかぶさってきて複雑な色合いを持っている。こういう事を作者が書けたのは彼が自己を客観視していたからだった。「自己の客観視など自分もできている!」という声もあるかもしれない。だが、僕が言いたいのは、自己の客観視とは他人の視線を気にしているという事ではない。それは自分で自分を見るのとはもう一つ違った視線が、自分の視線と並列に存在しているという事を知る事なのだ。あなたは自分を認識しはするだろう。そしてあなたは他人を認識するだろう。だが、あなたはあなたを認識する他人を認識はしないだろうし、あなた自身を認識しているその自分を認識する他人を想像する事ができないだろう。太宰治のような優れた作家にとってはある意味では、他人も自分と同一の次元にいたと考える事ができる。彼が自分の事ばかり書き、私小説の延長のような作家に思われていたとしても、彼はその自己をいつも二重に客観化していたのだった。彼は自分をまずフィクション化してから、自分を書き始めたのだ。だが、今小説家志望者が自分を書くと、そのまま書いてしまうだろう。というより、今の賞を取った作家なども、その大半がそのように書いているように僕には思われる。そこで実際と変わっているのは単に、年齢、性別、地位などの外面的な装飾のみで、その内面性に変更なはい。ところでバルザックは人間を自由奔放に書いてしかもなお自分を失わなかった。では、彼はどのような人物だったのか?。この問いはおそらく、極めて難解で深いものであり、そしてこの問いは小説というのは自由に自分の手の平で登場人物を転がす遊戯だと考えている人間の思考からは一番遠いものなのだ。僕はそう思う。

 

 

                              三

 

 エンターテイメント系の小説と純文学系の小説について簡単に触れてみたが、この二つの問題を今自分なりにまとめてみよう。僕はこの二つの小説の系列で起こっている事は結局同じ事だと思っている。そして、どちらの系統にせよ、優れた書き手だけがその系統とは独立している。優れた書き手はその系統の色を帯びながら、しかしなおかつ独立している。しかし、僕はこの二つで起こっている事が何なのかについて書いてみよう。優れた書き手についてはまた別の機会に個別に書いた方が良いだろう。

 この二つをまとめると僕は言ったが、結局、この二つで起こっている事は僕には同一の現象のように見える。そしてそれは二つの事実に分裂する。つまり①登場人物が薄っぺらでその関係だけが複雑なエンターテイメント小説、②作者と主人公が内面的に合致してしまっている単次元的な純文学小説。そしてこの二つの事実は一つの真理に還元する事ができそうだ。それはつまり、作者が自分の感情や情念を客観視できていない、という事である。普通、良い小説では登場人物が生き生きとして、それらは皆固有の内面を持っているように見えるが、彼らに自由な言動や行動を許すには、作者は一つの視線であり、一つの理性であらなければならない。登場人物達が自由にその内面を発露させる為には、その間は作者自身は自分の内面を封じなければならないが、これは簡単なようでいて簡単ではない。小説の登場人物が自由に自分を発現できるのは、いわば作者が自分自身を虚無として、そしてそこにイタコ的に他人の姿を降臨させるからだとも言える。この時、作者は自分を空にしなければならない。そして、この時、作者自身は無に近い存在なのだが、しかしその無は様々な登場人物という有を包含できる無なのだ。普通の小説では登場人物が沢山出てきても、それらは単一の内面と単一の言動しか行わない。この人物が「そこの醤油とって」と言ったら、それは文字通り「醤油をとってほしい」という意味であり、それ以上ではない。主人公が恋人を失って涙を流すとする。するとこの涙は一次元的なものであり、複雑な主人公の内面を経てきたものではない。ドストエフスキーの作品では、登場人物達は全て二重に存在していて、彼らは外面的なものと内面的なものを取り違え、矛盾し、過ちを犯すのだが、それ故に彼らは生きている。彼らは、僕らの世界の現実の人物よりも遥かに生き生きと自分を生き抜いているのだ。だが、作者の感情=主人公の感情のような純文学作品ではもうむしろ、登場人物は存在しない。それは事実上、よくできたエッセイであり、それ以上ではない。太宰の作品もまるでエッセイのように見える小説があるが、彼の場合、むしろエッセイさえも小説だったという方が的確だろう。彼の自身のフィクション化はそこまで進んでいた。これは厄介な問題だ。

 現行の小説は実に多岐に渡っている。それらは無数の分野があり、無数の書き手があり、そして無数の技巧があるだろう。だが、その本質を、作者の内心の深さとその客観化という事実に還元して考えれば、それは単一の事象として考える事が可能だろう。今の小説の様々な色合いというのはどれも、あくまでもバラエティーの違いであり、扇形に広がっているその横軸の違いであって、その縦軸ーーー深さの問題ではない。深さというのは、我々がもう一つの内面を有するという事であり、いわば、この現実に生活している自分とは違うもう一人の自分を持つという事なのだ。そうでなければ自分を客観化できないし、自分が客観化出来なければ他人が客観化できるわけがない。客観とは他人を外面的に描く事ではなく、他者の内面と自分の内面を並置して考える事である。そしてこの事は難しい。誰だって我が身は可愛いし、他人の内面を自分のそれとは同一に考えたくないからだ。しかし、この事を考えられなければ(少なくとも感じなければ)、僕らが本当に優れた小説を書ける日は永遠にやってこないだろう。今、人々の耳目を騒がしている小説というのは大抵薄っぺらだが、それは僕達自身が薄っぺらだからそれで満足するという事情があると僕は考えている。人は褒めたりけなしたりするが、その実、そんなものに大した興味はないのだ。だから一ヶ月もすればすぐその事を忘れる。そして自分の人生も、世界にとってはそのように興味のないものとして忘れ去られていくとどうして言えないわけがあるだろう?。小説の問題は現実の問題とつながり、そして自分自身の内面と外面の問題につながる。それは僕にとっては当たり前だが、しかし世間では「努力」や「才能」などのいい加減な用語がうろついている。だが、小説において一番重要なのは、自己認識と他者認識が同一になる点を発見する事である。そしてその点が発見できれば、その点から逆に登場人物を自由に生み出す事ができ、なおかつその登場人物は薄っぺらでもなく、作者とイコールでもないだろう。僕が重要だと思うのはそういうことだ。そしてそれには人間的努力を要する。重要なのは小手先の技術ではなく、人としてのあり方であり、また自己認識、自己意識、あるいは自己否定と他者肯定(あるいはその逆)なのだ。少なくとも、僕はそう考えている。

 今の小説というの多岐に渡り、その振り幅は怖ろしく広いので、自分なりに小説というものをまとめる為に以上のような文を書いた。もしこれが僕以外の誰かに役に立てば幸いである。

 


混迷錯雑した小説論

 

                              1

 

 

 

 一般的には、小説の方が詩よりは読むのは簡単である。また、批評よりも小説を読む方が簡単だ。そして、出版量で考えても、詩や批評より小説の方が圧倒的に多いだろう。

 

 

 だが、書く側からすれば事情は異なる。僕は小説というのが言語芸術においては一番むずかしいと思っている。だが、先に言ったように、読む方においては、小説が一番楽だ。そしてこの関係というのが、おそらく僕達に対して様々な誤解を生んでいるように思う。少なくとも、僕にとってはそうだった。例えば、僕達は夏目漱石やドストエフスキーは普通に読む事ができる。それらは、文学の専門家だけが手にとるような本ではなく、もはや一般化された一つの古典である。だが実は、漱石やドストエフスキーは文芸理論的には一番難解で、なおかつ迂遠である。彼らに比べれば、アルチュール・ランボーの方がはるかに直接的でなおかつシンプルな形体である。だが、人が手に取るのは、漱石やドストエフスキーの方だ。

 

 

 この違いが何故出てくるのか、と考えてみよう。するとその答えは次のようなものになる。『作者の情熱、意志、感情、自己表出性、そういうものが『意味』として外部に現れるのに直接的に現れるのが詩であり、そして極めて間接的、迂遠に現れるのが小説である』。そして批評はその二つの中間的なものである。小説が僕らのお気に入りなのは、それが僕らの普段の生活の延長線で理解できるからである。僕らは隣に友人がいるように、小説の登場人物がいると考える事ができる。しかし、実際はそうではない。それは言語によって織りなされた一つの像なのである。そして一人の人間を言語の像を使って立体的に生み出すのは、実はとてもむずかしい事だ。それに比べると詩は、言葉の直接的な機能を使っている。詩において、言葉は像を織り成さなくてよい。

 

 

 例えば、次のような行がある。

 

 「痛みがなければ

  生命感覚に溢れた余白は生まれないのだろうか」

 

 これは田村隆一の詩の一節だが、見事な詩句だと僕は思う。ここでは、痛み=生命感覚に溢れた余白、という暗喩がそのまま詩人の心象の表出となっている。そしてこの詩は、戦争という痛みある時代を生き、そして『痛みなき』戦後の、その時代というものに疑問を抱いている詩人の人生そのものが凝縮されていると言っていい。ここで詩人は痛み=生命感覚に溢れた余白、というシンプルな暗喩を使っている。先に僕は詩における言葉は像を作らなくて良いと言ったが、ここでは小説とは違う像の使い方が現れているのだ。つまり、ここでは「痛み」という実在的なものと「生命感覚に溢れた余白」という抽象的なものとが二つに結び合わされている。そしてこの暗喩を理解しなければ、詩を理解した事にならない。そして、この言葉の使い方は独特である。普通、こういう言葉の使い方はしない。だが、これは気の利いた言葉の使い方、おしゃれな言葉の使い方ではなく、詩人が自身の心象を、直接、言葉そのものの体験によって示そうとする、そのような行為であると言える。…もっと言うと、小説においても、こういう比喩はあるのだが、それは登場人物による会話や地の文の中で使われる。そして文学そのものに理解力が乏しい人間は、この『詩的』である言葉の使い方を読み飛ばす。そしてこの詩性、ポエジーを読み飛ばしても、小説というものは成り立つので、この人間は小説をそのまま読んでいく。だが、詩的な表現というのは、言葉の表現の中核にあると言ってもよい。なぜなら、それは『言葉でしか出来ない』表現の中核にあるのだから。

 

                              2

 

 自分で書いていても、結構あやふやで、自分の理論に自信が持てなくなってきた。おそらくは、小説ーー批評ーー詩の間にはっきりとした分け目を作るのは不可能なのだろう。それらは互いの中に入り込みながらも、しかもそれぞれに遠く離れている。まあ、今度は少し別の角度から考えてみよう。

 

 

 書き手からすれば、小説というものが一番難しい。僕達は漱石やドストエフスキーを普通に読むが、彼らが自分の確信ある作品に到達したのは四十歳過ぎてからである。彼らが自分に確信を抱いたのは四十過ぎてから。だが、彼らもそれまで別に遊んでいたわけではない。特に、ドストエフスキーなどはそのキャリアの初期より、明らかに晩期の方が読んでいて面白いと感じるだろう。だが彼は僕らを面白がらせる為に、四十年間地獄のような体験を積んだわけではないのだ。次にその事を考えてみよう。

 

 

 小説というものは普通には、登場人物が現れ、そして会話したり、行動したりする。「小説家になろう!」というサイトで人気のある小説を見ると、そこでは登場人物は極限まで単純化されている。そしてその言動も一元的であり、難解な部分は特にない。あの手の作品をどういう人が読んでいるのかはよく分からないが、多分、中学生ぐらいの世代が読んでいるのではないだろうか。そういう気がするが、どうだろうか

 

  

 「小説家になろう!」の「異世界迷宮で奴隷ハーレムを」もみたいな作品も小説だし、また「罪と罰」も小説である。どちらも小説だが、この二つは全く違う。当たり前の事だがこの二つは全然違う事実である。では、どう違うのだろうか。

 まず、それは小説が現そうとするテーマが根底的には違う。それは全然違う。そしてそれに伴い、登場人物の複雑さ、また文体の有無なども全く違う。そして文体のない作品の方が、一般的に読むのは簡単であり受け入れられやすい。だが、それらの小説が古典として残る事はおそらくはないだろう。何故かと言うと、簡単に言うと、ある一つの作品に表出された巨大な精神というの常に、複雑な登場人物の言動やその帰結、あるいはその特異な文体として表されるしかないからだ。だが、人がいつも巨大な精神を、その現れを求めているとは限らない。人が好むのは極めて簡素化された登場人物であり、またその単純な物語である。何故そういう事があるかと言うと、まあ単純に芸術というものへの理解力の不足に帰してもいいのだが、それだけでは足りない問題も含んでいる。それはつまり、生活している人間、現実に生きている人間というのは生きている内に、現実の人間の複雑さを常に感じている。そしてその事にうんざりした精神が、フィクションの中には単純で簡素な物語を好む。ネットで今溢れている単純なストーリー…例えば、様々な陰謀論や、日本が悪くなったのは〇〇が悪い…こういうものは正に、通俗小説のように流行っている。人々が好むのは人間の複雑さではなく、人間のシンプルさである。複雑なものを理解するには、こちらにも複雑な精神機構を必要とするが、しかしそれは人間にとって、あまり簡単な命題ではないらしい。そこで世界にはシンプルな物語が溢れる事になる。難解なもの、重たいものを厭う精神が、そのような物語を世界に表す事になる。しかし、それは単純さ故に世界の上をすべるように流れていく事となる。

 

 

 別の事を考えてみよう。君が小説を書くとして、君がある人間を書くとはどういう事か。君は、ある人間の言動を描く。君はその人間の姿形を描写する。だが、それは一体、どういう事だろうか。

 過去の自然主義文学においては、ある人間の言動やその容姿を描く事と、その人間の存在とが釣り合っていた。つまり、「人間の存在=人間の言動」という事だ。これはバランスある描写の仕方だったが、社会が高度に発展し、人間が観念化するにつれ、そういう事がはっきりとは言えなくなってきた。つまり、ある人間の生活している姿が、その人間の存在とイコールで結びつけるのが困難となってきた。何故かというと、その人間の自己意識というものが、社会の発展に合わせて肥大してきたからだ。そしてこの新しい社会に適応した描写を発明したのがドストエフスキーだった。(プルーストやジョイスも部分的にそう。)

 

 

 ドストエフスキーにおいては、彼の描く人間はそれまでの人物とは全く異なっている。例えば、「罪と罰」のラスコーリニコフがレストランに入って食事する場面を描くとしよう。だが、この時、ラスコーリニコフはすぐに、自分自身との問答を始めてしまう。そして、例えば作者は、ラスコーリニコフがレストランに入り、食事を頼む所までは通常に描くかもしれないが、すぐにラスコーリニコフ自身の自己意識、その肥大した意識の中での自分との応答が大きくなり、そしてそれによって通常の描写ーーーつまり、レストランとかウエイターと目の前の料理とか、そういう具体的なものが消えてしまう。そして、例えそういう具体的なものが捉えられるにしても、それはラスコーリニコフの自己意識を一度かいくぐったものとして僕達に明示されるのだ。だから、全てはラスコーリニコフという人間の自己意識の中をくぐって展開される。「罪と罰」のヒロインでソーニャという女性がいるが、この女性の存在というのは、実は『ラスコーリニコフの創作』である、と小林秀雄がうまい事言っている。つまり、ソーニャという人物は本来、そのような人物ではないのだが、ラスコーリニコフの存在が彼女を、あの作品の中の「ソーニャ」という人物へと変えてしまう。つまりこの場合、レストランの食事がラスコーリニコフの自意識をくぐって始めて意味があるのと同様に、ソーニャという人物もまた、ラスコーリニコフの自意識をくぐって始めて意味あるものであるという事だ。だが、問題はもっと広く展開される。つまり、「罪と罰」の中の世界そのものが、主人公ラスコーリニコフの自意識をくぐって始めて意味があるのだ、という風に。だから、これは全く新しい物語であり、前代未聞の文学作品であると共に、新しい、現代的な社会に適合した一つの特異な小説の描写方法なのだ。

 

 

 この方法に普遍性があるかどうかは他の作品を見てみればいい。例えば、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」。サリンジャーがドストエフスキーから直接影響を受けたとは考えにくいが、しかし、ここにドストエフスキー風の問題ーーつまり、自意識の問題ははっきりと現れている。「ライ麦畑でつかまえて」の世界が意味を持つのは、主人公のホールデン君の自意識を通しての事である。そこではどんな些細な事でも、彼の意識を通して意味が現れてくる。つまり逆に言えば、この世界のあらゆるものというものは、こうした自己意識を通さなければ意味がないものである。そしてこの事はおそらく、小説というものに重大な帰結を生む。

 

 

 小説というものは、誰でも書けると思われている節がある。言葉を知っていて、そして現実を知っていれば小説は書けるのだと。SFであろうと官能小説であろうとどのような作品も、こちらの脳髄一つで書けるような気がする。それは実際、そうかもしれない。今は皆、『小説の書き方』を知ってしまっている。だが、僕達がまず、生み出さなければならないのは、上記のように、世界に意味を与える為の一つの自意識ではないのか。僕は今、そういう風に考えている。もちろん、このやり方は絶対的な方法論ではないだろう。だが、例えば村上春樹の作品に意味があるのは、主人公の「僕」の現実に対する否定的意識のおかげなのではないか。そして、このような主人公の自己意識を作者が生み出すという行為は、小説というものを手先だけでこねくり回すだけの、そのような動作で生まれるのではない。この時、作者は現実の中に揉まれ、そしてその現実そのものを超越的に見下ろすそのような視点を自分の中に持たなければならない。なぜなら、この視点こそがその自意識の別名なのだから。現実を否定するには、現実を知らなければならない。もちろん、現実を肯定している作者というものを考えても差し支えない。いや、差し支えないように見える。だが、実際はそうではない。主人公の意識が周囲の現実から抜け出す為には、主人公の自己意識が周囲を一旦否定しなければならないからである。こうして、主人公の自己意識はまず最初にこの世界から切り離される事になる。彼は独自性を求める。よって、世界から離れる。だが、この主人公はやがて自分の独自性を悟り、そしてまたこの世界の中に戻っていくのかもしれない。そしてそれが、この世界のもっとも根本的な物語ーー悲劇ーー大小説ーーの主なプロットとなる。だがこのプロットは真似して得られるものではない。これは作者が現実と葛藤して始めて生まれる物語なのだから。だが今、「文学」というものは形式化してしまっているので、誰しもがこれに『似た』小説を書く事はできる。だが、本物と偽物は全く違う。それは月とすっぽんなどという比喩では言い切れないくらい、全然別物である。

 

 

 かなり錯綜した文学論になってしまったが、とりあえずここで筆を置く事にする。僕自身文学というものはまだ未知のものに留まっている。僕がこういう文学論を書くのは純粋に自分のためだが、それが他人のためになっていれば、幸いである。それでは。

 

 


ミシェルウェルベック『素粒子』書評

 この本を読み終わった人間は必ずや、辛い苦い思いを味わう事だろう。作者のミシェルウェルベックは、まるで、現実の僕達の醜い部分を僕達に無理やり見せようとしているかのようだ。僕達はこの書物を読んだら、沈黙しなければならない。そして、現代人がいかに愚かで滑稽で、悲しく情けない生き物かという事を心底痛感するはめになる。『セカチュウ』で涙を流した人がこの書物を読んだら、どう感じるだろうか。多分、本当の書物ーーいや、本当の悲しみというのは僕らに涙すら許さない辛いものだという事を痛感するに違いない。まあ、セカチュウの読者はこの本を読まないだろうが。

 

 

 この書物は現代人の『悲惨と滑稽』を描いていると僕は言った。それを少しばかり説明する必要があるだろう。まず、主人公はミシェルという優秀な生物学者と、そしてブリュノという、通俗的な快楽主義者の兄弟二人である。そして兄のブリュノはただ、自分の性的快楽=幸福を求めて突っ走っていくのだが、彼はただ、幸福にも不幸になれずに、ただただ、女の尻を追いかける事しかできない、滑稽で悲惨な生き物である。彼は四十を越えて、『四十代の危機』に突入しつつある。四十代の危機とは、男が四十過ぎると、何かもう闇雲に、とにかく闇雲に若い女の尻を追いかけるようになる事を指す。そしてブリュノは自分の快楽の為に、ただもう突っ走っていくのだが、彼のこの冒険はことごとく悲惨で、滑稽で情けないものに終わる。なぜなら快楽というのは結局はあくまでも一時的な夢であり、覚めなければならない甘美な夢であり、そしてはっと目を覚ませば、すぐにこの人物は自分の滑稽さ、愚かさを自覚せねばならないからである。このブリュノの描写は、僕達にとても辛い経験を強いる。思えば僕達は『恋愛』などというものに過剰な価値を与えすぎていた。僕達は恋愛と性的快楽に、資本主義の強いる価値観とあいまって、これらに異様な価値を置き、そしてそこでこそ僕達は幸せになれると信じて走ってきた。そして、それは現代の唯物論と見事に合致している。『恋空』という恋愛小説があるそうだが、そういうものを考えると、僕らは恋愛を求めて動物的に突っ走り、そして彼氏ーー彼女がいるという事は一種のヒエラルキーのようになっているが、しかし、結局、恋愛は僕達に何も与えなかった。若いころは喜びにむせび、そして年を取れば、若者から疎外され、ただもう惨めな気持ちに陥る。この本の中に、「これまでの時代の中で、これほどまでに人が年齢というものを意識した時代はなかった」という文章があるが、この一行は僕達にものすごく辛い思いをさせる。僕達がこの本を読んで、辛い思いを感じないとしたら、正にその人間はこれからの人生で、一生をかけて、その辛い思いを味わわされる事になるだろう。真綿で首を絞められるように、ゆっくりと。そしてそれはほとんど避けがたい事なのだ。

 

 

 そして一方の、弟のミシェルは分子生物学者であり、彼はただ、学術の研究のみに自分の生涯を捧げた男である。だが、このミシェルもまた、ブリュノよりも幸福な人生を送ったという事も全然ない。彼は人を愛する能力に欠けていて、アナベルという本来生涯の伴侶になるような女性と運命的なめぐり合わせをするのだが、しかしミシェルの方に人を愛する能力が欠けている為に、ミシェルはアナベルを突き放す。そしてアナベルはミシェルの手から離れ、様々な男の元を巡るが、この男たちはどれも動物的な、獣的な人間ばかりで、アナベルもまた人生の悲惨さと滑稽さの中に突入していく事になる。アナベルに、「私はもう程度のいい家畜のように扱われる事には我慢ならないの」、というような台詞がある。これはまた辛い言葉だ。アナベルというのは恐ろしいくらいの美貌の持ち主であり、この社会では非常に輝いた存在であるのだが、実はそれは本人からすれば、(あるいは客観的に見れば)『程度のいい家畜』でしかないという事が明かされる。結局の所、僕達の中にある情欲ーーーないし、恋愛に関する観念にした所で、このアナベルの言葉以上のものを僕達が持っているとは言明しがたい。恋愛、結婚、幸福。だが、他人から幸福にされる事を望んでいる人間というのは、まるで、『一番程度のいい家畜』として扱われる事を望んでいるのではないのか。人間としてではなく。人として自立するつもりはなく、僕達はただもう、自分達を幸福にしてくれる誰かを探し求めている。そしてその幸福というのは、結局、金とか性とか、その程度の観念しかないのだ。僕達は昔に宗教を捨て去ったが、今僕たちにやってきた資本主義=唯物論の流れは、過去の宗教よりも優れていると本当に言う事はできるのだろうか。…そういう事はこれから、それぞれの人生を通じて僕達が試されるのだろう。おそらくは僕達の悲惨と滑稽を通じて。

 

 

 ミシェルとアナベルは、別れの後に、また再びーーー中年になって出会う事になる。(最初の出会いはまだ若い、学生時。)だが、その出会いも幸福で満ちたりたものとは言いがたい。ここでのウェルベックの描写法も、僕達を物凄く辛い気持ちにさせる。それに関しては本書を読んで確かめて欲しい。

 

 

 この書物はそんな風に、全編、人間に対する、あまりに皮相で、そして徹底的に冷たい(だがそれと共に愛に富んだ)描写で満ち溢れているのだが、しかし、ウェルベックがほんのわずかに、熱を上げて描いている重要な場面があるので、それを取り上げてこの書評を終わりにしたい。それはミシェルの祖母が死ぬ時の描写である。ウェルベックはこの箇所だけ、この祖母に対して熱意あふれる、真面目な描写をしている。このミシェルの祖母というのは実に凡庸な人物であり、育児放棄したミシェルの母親にかわってミシェルを愛し、そしてミシェルを育て上げたのだった。(ミシェルの母親も自由主義の元、自分が幸福になる事を求めて子供を捨てて、結局の所は不幸な人生に終わった。)この祖母は、おそらくフランスの古風な女性であり、短い青春時代の後、ただ生活の労苦にまみれて生活した人間だった。彼女は人生の中で懸命に働き、そして子供達をとにかくも育て上げた。この祖母の人生は正に周囲の為に捧げられたものだった。

 

 

 「(略)そして愛情。こうしたいっさいを、この女性は一生を通じてなしとげたのだ。人類についていくらかなりと網羅的に検証しようというのであれば、必ずやこの種の現象にも注意を向けなければならない。歴史上、こうした人間もまた確かに存在した。一生のあいだ、自分の身を捨てて愛情だけのために働きづめに働いた人たち。献身と愛の精神から、文字どおり他人にわが命を捧げ、それにもかかわらず自分を犠牲にしたとなどとも思わず、実際のところ献身と愛の精神ゆえに他人にわが命を捧げる以外の生き方を考えたこともない人たち。現実には、そうした人たちは女性であるのが普通だった。」

 

 

 言っておくが、この祖母というのは極めて凡庸な人物である。そして、この凡庸な祖母は病室で死ぬ。この祖母の人生は、だがしかし、懸命に周囲の為に捧げられたものだった。それは絶え間ない労苦と、他人の為に捧げられた瞬間の連続だった。だが、人は今や、このように凡庸だがーーーしかし、大切な人物を見捨てようとしている。ウェルベックはその事を告発しているように見える。実際、この小説の登場人物達はそれぞれが自分の事を考えているので、この祖母の死に対して、それほどの注意を払ってはいない。もちろん、そこには肉親に対する普通の悲しみはあるのだが、しかし、この祖母をこのように注視しているのは、ただ作家ウェルベック一人だけなのだ。ウェルベックはここで、僕達に向かって告発している。何故、僕達はこのような凡庸だがーーーしかし、同時に非凡で重要な人物を見捨てようとしているのか、と。ヨーロッパに様々な哲学があり、それこそヘーゲルの歴史哲学から、フーコーの構造主義的な歴史の見方まで様々な見方がある。現代はインテリ達の時代であり、彼らの優れた脳髄により、この現代は様々に切り裁かれる。そして、僕達個人は、各々が自分が幸福になる事しか考えていないので、このような人物に対して、ほとんど注意を払わない。このように、歴史の陰に隠れて、周囲に愛情を与えて生きた人物をほとんど見てもいない。僕達は自分が幸せになる事しか考えていない。今の『国家の為』などと言っているイデオロギスト達も結局は自分が幸せになれない事に憤って八つ当たりしているだけだ。だが、ウェルベックはこの人物に注目を向けさせる。何故、僕達はこの人物を忘れていたのだろう。何故だろうか?。…だが、その問いは長くは続かない。なぜなら、このような人物はあくまでも平凡な人物であり、僕達は自分が幸福になる為に運動する事に忙しいからだ。だが、僕達は幸福を過度に求めるという理由により、決して幸福になれずに、不幸に陥る。そしてその事をウェルベックはこの書物で冷酷に描いている。

 

 

 この書評は以上で終わる事にする。僕はこの書物を読んで、非常に辛い気持ちを味わわされた。そしてそれが真実であるだけに一層辛い。僕はこの書物を読んだ後、この作家の他の本も買おうと、アマゾンのページに飛んでいったが、しかし買うのは控えた。真実というのも、それが過度であると、あまりに辛いからだ。この書物の帯には「多量の毒 注意」とでも書いておいた方がいいかもしれない。そして、それよりもっと大切な事は、この書物の毒が全身に回らない人は、正にそれと同量かそれ以上の毒を、その人生そのものによって全身にくまなく輸液されるという事だ。そしてこの事は避けようがない。…この書物のクライマックスとは、かなり壮大な終わり方になっているが、これをどう取るかは人それぞれだろう。だが、それよりもこの書で語られた真実は二十一世紀初頭に生きる僕達にはあまりにも辛い事実だ。僕達がこの毒をどう取るかは人それぞれだが、しかし、この書から目を背けるというのが、もっとも簡単な方法だろう。だが、この書はそういう事を容易には許さない。人は辛い気持ちを味わいながら、本書を読み終えるだろう。そして読み終えた時、この世界がそれまでとはほんの少し違う色付けになっている事に気づくだろう。それはそれ以前より、少しばかりブルーがかっているかもしれない。そういう気がする。この毒を抜く方法はまだ世界のどこにも発見されていない。僕達は依然、『素粒子』の世界のただ中にいるのだ。そしてそれからどうやって抜け出ればいいのか、その方法はまだ誰にもわかっていない。


人間の本質を露呈させるものとしての文学

 小説というのは科学の一種ではないか、という事を以前に書いた。今、もう少しその事を詳しく説明しておきたい。

 

 

 小説というのが科学の一種というのは、別にふざけて言っているわけではない。小説というのは、人間に関する科学の一つである。科学においては基本的に数量、あるいは形式のみが内容になるが、小説ーーあるいは文学、芸術に関してはその内在性、内面が問題になる。そしてその場合、その内在性は外在性(つまり形式)と一致する事を目的としている。わかりやすく言うと、「悲しい」という感情が自分の中にあると、それは詩の場合、言語の厳正な並びと完全に対応しなくてはならないという事だ。そして、この「悲しい」という自分の感情と、「悲しい」という言葉の意味とが必ずしも合致しないという事に芸術の難しさ、ないしは詩の存在理由があると言って良い。これはわかりにくいので、もう少し説明しよう。

 

 

 僕が言おうとしているのは、つまり簡単な事である。例えば、「私は悲しい」と僕のノートに書きつけたとする。だが、それは僕の「悲しい」という心を『表現』してはいない。それは単に事実を伝えただけで、それは僕の悲しみを『表現』してはいない。そして、この『表現』というものが芸術の生命である。トルストイが、「あなたはアンナ・カレーニナで何を伝えたかったのですか?」と聞かれて、トルストイがそれに答えて、「それを言おうとするなら、私はもう一度アンナ・カレーニナを最初から書かねばならない」と言ったという話がある。トルストイの言う所は正に正確に、芸術というものの本性を突いている。トルストイが言いたかったのは、つまりアンナ・カレーニナという作品の内在性はその全体の文体、その形式=つまり肉体と一致しているという事である。ここでは肉体の形と内面の形はぴったり一致している。だから、形を無視して、内面のみを抜き出したり、その逆をしようとしたりする事は不可能である。トルストイの伝えたい事は、アンナ・カレーニナという作品の全文章とぴったり一致している。だからこそ、トルストイはアンナ・カレーニナを書いたのである。これは芸術家からすれば当然の事だが、しかし、「この作品の著者の意図は何でしょう?」みたいな受験勉強にありがちなインチキ質問に当たり前のように回答している僕らはわかりにくいことである。著者の意図は、その作品の全文章である。もし、そうでないなら、何故、トルストイはアンナ・カレーニナを書いたのだろうか?。伝える、という事は肉を持つという事である。そして肉体を持つという事は文体を持つという事である。そしてそれにより始めて伝わるのだが、それを、『事実』として、意味として、例えば『作者は〇〇を伝えたかった』みたいな文章に簡略化すると、それは途端に嘘になってしまう。それは途端に伝わらなくなってしまう。だから、芸術家はその作品にあんなにも生命を込めて、それを描き出そうとする。なぜなら、それはその肉体そのものが内面と一致しているからである。これは芸術というものにとっては当然の事だが、読者から見れば、どのようにも軽く見る事ができる。そこで、色々な齟齬が起こる。それは例えば、『作品の解釈』などである。作品の解釈をするのは勝手だが、もし作者がそのように隠された意味を伝えたかったのなら、何故、それを最初から芸術として表現しなかったのか?という問題が残る。作品の背後に何か隠れたものを見ようとするのは、利口ぶった愚か者のする事だと僕は思っている。真の批評家は作品の肉体から、本質へとたどって昇っていく。しかし、それは隠された意味を発見する『解釈』とは似て非なるものである。解釈とは元々、知的な満足感を得たいある種の人々の身勝手な創作に過ぎない。

 

 

 芸術においては形式=内面である、みたいな事は実はもうとっくに言われ尽くしたことで、今更僕が言うことでもないが、しかし芸術というものを考えると、どうしてもそういう事を言う必要が出てくる。芸術は科学の一種だと僕は最初に言ったが、その意味をここでもう少し考えるなら、それは、内面に忠実であろうとする外在性の正確な配置とでも言えばいいだろうか。例えば、僕が月を見るとしよう。そしてこの時、僕は物凄く落ち込んで、辛い気持ちだったので、月が醜く歪んだ誰かの笑顔に見えたとしよう。すると、その時、僕は次のように書かなくてはならない。

 

 「僕が月を見上げると、それはまるで誰かの醜く歪んだ笑顔のようだった。僕は『クソッ』とつぶやいて、地面にツバを吐いてから、また歩き出した。」

 

 これがいい文章かどうかとはともかく、しかし、芸術とはこのように描かなくてはならない。描かなくてはならない、というのは、別に表現自体はなんでもいいのだが、しかし、それは徹底的に内面に忠実でなければならないという事だ。客観的に考えるなら、月は誰かの醜く歪んだ笑顔であるわけはない。科学においてはそれは間違いである。科学というのは感覚の学問であり、それは芸術とは持っている物指しが違う。それらは違う種類の物指しである。しかし、どっちがいい物指しという事もないのだ。もし月が緑に見えたら、君は「月は緑色だった」と書かなくてはならない。例え、君が誰かに「そんなわけあるか。月は黄色にきまっている」と言われたとしても、君はその自分の見たものを信じなければならない。そして、その時、君が見たものは君の内面を忠実に表しているはずである。だから、君がそういう描写をうまくする事ができれば、君の描写は芸術表現となるはずである。君はまず、その事を信じ無くてはならない。

 

 

 以上のような芸術論というのは、実はもう散々言われた事で、正直言ってパクリであるし、特に目新しくない。でも、まあ続けてみる事にしよう。芸術というのは基本的にこのようなものだと僕は思っている。一言で言うと、芸術とは内面の表現である。そしてそこに、肉体=(文体、あるいは絵画における色彩、彫刻における線、形などなど)が現れる事になる。芸術とは内面に忠実な科学的表現である。科学は僕達の主観を揺さぶり、客観妥当性をひたすら追求していくが、芸術はひたすらに僕らの主観性をはるかに押し広げて、そしてそれに肉、あるいは形を与えていく。二つは違うように見えるが、どちらも人間の持っている可能性の発露である事に代わりはない。

 

 

                        

                           ※※※

 

 最初、詩について少しだけ触れてみたが、今、小説という形式に触れてみよう。この形式は読む側からすると、詩よりも簡単だが、実は構造としては詩よりも難しい問題が眠っている。

 

 

 小説というものを一般に作るに際しては、例えばプロットとか登場人物とかが問題になる。では、文学とは何かというと、それがどのようなものかは未だによく分からない。どうやって芥川賞を取ればいいのか、そのノウハウもよくわからないし、何故、村上春樹がノーベル賞候補で、村上龍がそうじゃないのか、と言った事もその理由はよくはわからない。

 

 

 もちろん、そういう事は別に本質的な事ではないし、どうでもいいのだが。小説というものを僕はここ二ヶ月くらい考えあぐねているのだが、別にこれに明確な答えを与えたいわけではない。とにかく、様々視点からこれを見たり、切り裁いたり、また中を割って除いてみたり、そういう事ができればとりあえずはそれでいい。その内、僕も長大な『言語にとって美とは何か』みたいな文学論を書くかもしれないが、その予定は今の所なさそうだ。

 

 

 小説というもが科学の一種だと考えるなら、このようにも言う事ができる。つまりそれは、『人間の本質を発見する為に、人間に悲劇という一つの『門』をくぐらせる行為である』と。もちろん、これは象徴的な言い方なので、説明を要するだろう。

 

 

 昨日に書評を書いたミシェルウェルベックの『素粒子』でもいいが、そこでウェルベックは、ミシェル、ブリュノ、あるいはアナベルといった現代風の登場人物達に、徹底的な瞬間、彼らの本質が露出するその瞬間を導き出すために、彼らに様々な苦難を味わわせているようにも見える。そしてこの予測はそれほど的を外れていないだろう。例えば、ブリュノという登場人物の本質=根底が露出する、ある瞬間というのはある。それはブリュノがやっと巡りあった、真に愛する事のできる女性、クリスチヤーヌが病気により、下半身不随で車椅子姿になってしまう箇所にある。クリスチヤーヌがそのような状況になった時、ブリュノは『家に来いよ。これからは世話してあげるから』と男らしく誘ってやる。だが、しかしブリュノはその台詞を吐く時に、ほんの数十秒、ためらってしまったのだった。ブリュノは、それを言うのをほんのすこしばかり、ためらってしまったのだった。何故ためらうのかと言うと、当然、車椅子の女性の面倒を見るという事は、ブリュノにとって生涯の重みでもあるし、またそれは、散々性的快楽を求める事しかできなかったブリュノの『自由』を阻害する事でもある。著者がこのブリュノに、たった数十秒ためらわせる、これは怖ろしくむごたらしい行為だ。だが、それによって、快楽を、自分の幸福を求める現代人の醜さが一瞬だけ、閃光のように露わになる。そして、クリスチヤーヌは、この数十秒のためらいに、ブリュノの抱えている問題、そして自分自身が他人の重荷でしかないという事を察知する。そしてクリスチヤーヌは自殺してしまう。ブリュノは悲嘆にくれる。だが、もう全ては遅かったのだ。ほんの少しのためらいが全てを運命づけてしまった。

 

 

 ウェルベックが、登場人物をこのような悲劇にくぐらせる手つきというのは、真に恐ろしいものであるという事が少しは伝わったのではないかと思う。そして、人間がその本質=実存的なものが露出させるのは、その人間が悲劇をくぐった時に限る。そして、この人間はその悲劇をくぐる事により、その『意味』が明らかになる。例えば、シェイクスピアのロミオとジュリエットで、二人の愛を決定的に高める為に、シェイクスピアはわざと二人の家柄をライバル同士にさせる。こうして二人の愛は、制限を課されたものとなり、従ってこの二人の愛はより高められた事となる。僕がこういう事をあげつらって言いたいのは、つまるところ、小説家とうのは、単に物語を作ったり、面白おかしいお話を作ったりする人ではないという事である。また、それは形だけ『文学っぽい』、中身のない話を書く人ではない。例えば、中村文則みたいな作家は表面的には深刻だが、それはあくまでも、これまでの文学の形を踏襲しているだけで、僕には彼が人間の本質にその作品で触れられているとは思わない。だが、ウェルベックは触れている。ミシェルウェルベックはその作品で、人間を徹底的に拷問にかける事により、その存在=実存を露出させている。そういう意味で、彼の作品は成功している。しかし、これは小説家の『腕』云々という事ではなく、それよりももっと大切なのは、人間の本質、根本を理解しているか否か、という問題なのだ。そして今、どの分野でも、小手先の、技術だけのアーティストが多く、本質的なアーティストがほとんどいないように見えるのは、つまり、まず、作品というジグソーパズルを作るには、まずその絵柄が見えていなくてはならないという事に由来している。ジグソーパズルを作るには、まず全体の絵柄を知っていなければならない。そうでなければ、各種のピースには意味が無い。そしてこの一つ一つのピースは、それぞれの分野の技術的些事だったりする。例えば雑誌には、『他人と差をつけるギターテクニック』みたいなのがある。そして、それを一生懸命勉強して、実際差をつけても、それはただそれだけの事である。芸術家は、自分が何を表現しなければならないのか、その根底を知っていなければならない。それがジグソーパズルの全体の絵柄に匹敵している。だが、今は各種のピースについては人が教えてくれても、この全体の絵柄については誰も教えてくれないので、だから、芸術というのは今、どこか小器用でありながら同時に迷走しているように見えるのだ。そしてそれはプロとか素人とかの区別もない。ミシェルウェルベックのような作家は常に少数派だ。

 

 

 小説というのはだから、人間というのを、悲劇という名の遠心分離器にかけて、そしてその人間の本質、実存を露出させる技とも言える。通常、小説を書こうとする人間は、プロットの作り方とか登場人物の描き方などを考えるだろうが、実は、重要なのはそこではない。まず、作家は人間にたいするある種の観念、ある種の哲学的本質、真理、そのようなものを持っていなければならない。夏目漱石の『それから』で、代助が親友の妻と不倫し、そして社会から捨てられるのは、それがこの日本において、旧来の道徳を打ち破り、新しい人間となろうとする事がどうしても悲劇ならざるを得ない、その事を描こうとしたからだ、と言う事もできる。この時、漱石は単に、面白い話を書こうとしたのでもなければ、作家としての技量が優れていたのでもない。(優れてはいただろうが。)問題はそういう事ではなく、漱石とか、ドストエフスキーの作品の裏には、彼らの、社会や自分自身に対する徹底的な哲学的、あるいは社会的な認識があったという事だ。それが脈々と流れていたという事だ。今、小説を書く人間が他人の小説しか読んでいないとしたら、僕にはそれは滑稽な事に思える。一人の人間の真理の中にはあらゆるものが含まれている。そしてこの真理を探し出すには、その人間の生活の運動だけでは足りない。その時代の傾向、経済、歴史、物理、数学など、そういった様々なものに頼らなければならない。そして何よりもまず、自分自身の人生から学ばなければならない。人間がいかに愚かで惨めであるか、あるいはいかに崇高で美しいか、そういう事を人は生活の中で知らなければならない。そしてこんな事は当然、ノウハウとしては伝える事はできない。だが、そういうものがなければ、本当の意味で豊かな小説を書く事はできない。従って、ある傑作小説というのは常に、その作品を通じて世界に対して広がっている。それはそれを形作ったものを通し、あるいはその作品を構成した、その世界全体に対して開かれている。そしてつまらない作品は、文学という内部に閉じている。以上のような事は今、小説というものを考える上では大切な問題だと僕は思っている。だから、小説の書き方というのは基本的に誰かに教える事はできそうにないし、他人から教えられる事もできそうにない。またその具体的ノウハウはいくらでも転がっているし、それはいくらでも使用すればいい。だが、重要なのはそこではない。文学は世界に対して開かれているが、しかし、それを閉ざすのは一群の文学者やその愛好者であるとも言える。世界は広がっている。だからこそ、文学も広がっている。全てはまだ始まったばかりであり、そして文学も世界に対してまだ、一歩を踏み出したばかりなのだ。そういう気がする。

 

 

 とりあえずこの文学ーー芸術論はここで終わる事にする。またこの先、何か思いついたらこの手の事を書くかもしれない。が、とりあえずこれはここで終わる事にする。それでは。



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