閉じる


第一話 見知らぬ町

それは暑い夏の朝だった。まだ鳴き始めたばかりであろう煩い蝉の鳴き声に、僕は目覚める。

 

「ここは・・・・・・?」

 

朦朧とする意識の中で、僕が辺りを見回すと、そこは微かに潮の香りがする田舎町の駅で、そして誰もいない待合室にて僕は存在していた。

 

「どうして・・・・・・僕は、こんな場所に・・・・・・?」

 

思わず疑問を口にしてしまう僕。いや、それ以前に漠然とした疑問が僕自身を支配した。

 

「僕は誰だ・・・・・・?」

 

思い出せない。いくら考えていても思い出せないのだ。自分の名前が・・・・・・

 

「ここに来る前は何をしていた・・・・・・?」

 

着ている薄汚れた学生シャツに黒いズボン。服装から、僕が学生であることを思わせるのだが、どこの学校に通っていたのかも思い出せない。

焦りながらも、僕は自分の所持品を調べるのだが。

 

「あ・・・・・・」

 

見つけた所持品はたったの一つ。それは折り畳みの随分と軽い財布だった。一応中身を確認してみるが、所持金はなかった。

 

「僕はどうしてしまったんだ? それにここはどこだ?」

 

この見知らぬ町の駅へとたどり着いた概要を思い出そうとするのだが。

 

「うう・・・・・・!?」

 

記憶を探ろうとすると、酷い頭の痛みが僕を襲うのだった。まるで思い出すなといわんばかりに・・・・・・

今にも気を失いそうなくらいに痛む頭痛を堪えながら、誰もしない駅の待合室を後にし、見知らぬ町をあてもなく歩き出す僕。暑い炎天下のせいもあり、酷く喉が渇き。頭痛が原因しているのか? 額からは冷や汗が止まらない。

 

「・・・・・・だ、誰か探さないと・・・・・・」

 

朦朧としながらも、僕は見知らぬ町にて人を探そうとする。誰かに見つけてもらい、病院か診療所に運び込まれるのが懸命に思えたからだ。

しかし、歩いても、歩いても、どういうわけか誰とも出くわさない。

 

「助けてくれ・・・・・・誰か・・・・・・」

 

 助けを呼ぶのだが。誰かが駆けつけてくれる様子など微塵も感じられない。いや、それどころか、不思議なことにこの田舎町には、人の気配がまるで感じられなかった。

 過去の記憶もなく、僕はどこかのゴーストタウンにでも迷い込んでしまったのだろうか?

そう心の中で不安が膨れ上がりそうになったときだった。

 

「え・・・・・・?」

 

それは、その人は、いつのまにか僕のすぐ目の前にいた。

 

「また、会えたね」

 

その人、少女は一度小首を傾げて微笑むと、僕に近づいてくる。

助かったと、僕の心は安堵した。この短いピンク色の髪をし、眼鏡を掛けている少女が僕を助けてくれるはずだと。

 

「頭がとても痛いんだ・・・・・・今にも倒れそうで・・・・・・それに、自分の名前が思い出せない・・・・・・この町にどうやって来たのかも・・・・・・」

 

僕が助けを請うと、見知らぬ少女は再び微笑んで見せた。少女のピンク色の髪が、夏の風に少しだけなびく。

 

「木下優。それがあなたの名前」

 

そうだ。僕の名前だ。木下優。僕は木下優だ・・・・・・

名前を思い出した瞬間。僕の視界は不思議と青空を向いてしまう。地面に仰向けに倒れたと、すぐにわかった。

 

「さぁ、楽しい夏を過ごそう・・・・・・この夏町と過去の夏で・・・・・・」

 

 少女のその言葉を最後に、僕の視界は暗闇に閉ざされるのだった・・・・・・

 

 

 どれだけ気を失っていたのだろうか? 僕が目覚めた場所。そこはあの見知らぬ町などではない。どこかの建物。それも微かに見覚えのある場所だ

 

 「確か・・・・・・?」

 

 僕が少し考え込んだとき次の瞬間には、ああ、そうか。という答えが頭の中で導き出される。

 

 「学校だ」

 

 そこは学校の廊下だった。その証拠にいくつもある教室の扉上にある札には、クラス番号が書かれていた。

 

 「それにしても、どうして・・・・・・?」

 

 一番の疑問を考え込まずにはいられない僕。それは、どうして学校の廊下で目を覚ましたのかだ。あの酷い頭痛は消え、それどころか、薄汚れていたはずの僕が着ている学校の制服は、すっかり綺麗になっていた。

 

 「一体何が・・・・・・?」

 

僕が今現在の状況が理解できずに、半ば混乱しかけたとき。

 

 「どうして・・・・・・? どうして・・・・・・?」

 

 誰かのすすり泣く声が聞こえた。非常に悲しそうで、その泣き声を耳にしている僕も、気が変になりそうだった。しかし、それでも僕の足は自然と泣き声のする方向へと向かっていく。まるでそれが当然といわんばかりに僕の足取りは堂々としていた。

 

 「ここか? いや、確かにここだ・・・・・・そう、ここだった・・・・・・」

 

 僕が足を止めた場所。そこは、この学校の図書室の前。

 

 「やめてよ・・・・・・」

 

 悲痛な少女の声。確かにこの図書室からする。僕が図書室の扉を開けると・・・・・・

 

 「木下君?」

 

 そこにはあの少女がいた。眼鏡を掛けたピンクの髪の少女だ。夏服であろう白いセーラー服がよく似合い。最初にあったときには気づかなかったが、色白でとても可愛らしい顔をしている。

 

 「珍しいね・・・・・・普段は図書室には来ないでしょ?」

 

 何故か? 少女は僕をその髪と同じピンク色の瞳で、不安げに見つめているのだった。

 

 「あの日も、私はこんな風に木下君を見つめていた・・・・・・」

 

 この少女は自らの、その不安げな瞳のことを言っているのだろうか。あの日もということは、僕はこの少女と知り合いなのだろうか?

 

 「き、き、君は、ぼ、僕を・・・・・・あ、あ・・・・・・」

 

 君は僕を知っているのか? 僕はそう言葉にしたかったのだが。どういうわけか、これ以上口が動かず、言葉が発せられない。しかも、自分の体がまるで金縛りにあったかのように動かず、僕はただ、この少女のピンク色の瞳をまっすぐに見つめているだけだった。

 

 「あ、そうだったね」

 

 少女は不安げな表情から、すぐに目を細めて、僕に笑みを見せる。人形のように動けない僕は、この少女を見ているしかない。

 

 「今の木下君は、私を知らないんだよね?」

 

 そうだ。僕は君を知らない。だから教えてほしいのだ。

 僕は心の中で、最早そう思うしかない。

 

 「名前は新城神楽。おとなしくて、友達の少ない女の子。生きていれば普通の人生だったかもしれないけど・・・・・・」

 

 新城神楽。それは僕にとって、聞き覚えのない名前だった。そう、ただの名前だ。誰かの。

 僕は、空虚な人形を演じるのだった。何も思い出したくない一心が、気が付けば僕を支配していた。

 

 「命の終わりは、こうだった・・・・・・」

 

 新城神楽の両目と口から、血が夥しく流れ落ちる・・・・・・

 

 

 「ねぇ、君・・・・・・! 大丈夫・・・・・・!」

 

 こんな僕を、心配する声が聞こえた。薄目を開けると、そこには眩しい太陽の光がある。

 

 「・・・・・・み、水を・・・・・・」

 

 そう言葉にするしかない僕。このまるで突き刺さるような炎天下。僕はあの学校の図書室から、この見知らぬ町へと戻ったようだ。

 

 「待ってて」

 

 薄目の中でも理解できた。金色の長い髪をした少女が、水の入ったペットボトルの蓋を開ける仕草が。

 

 「さぁ、飲んで」

 

 差し出されたペットボトルの中に入った水。僕は無我夢中で、その水を飲み干すのだった。

 

 「あ、ありがとう・・・・・・」

 

 助けてもらった金色の長い髪の少女に、僕は一言だけお礼の言葉を告げる。徐々に意識がはっきりとしてくる。あの得体の知れない頭痛も、少しは痛みが和らいでいた。

 

 「お礼なんかいいよ。それよりも本当に大丈夫? この近くに診療所があるから、診てもらおうよ」

 

 その蒼く綺麗な瞳で、僕の顔を心配そうに覗きこむ金色の髪の少女。

 

 「大丈夫。心配ないよ。そうだ・・・・・・僕は大丈夫なのか・・・・・・?」

 

 自分の名前以外の記憶もなく。あの図書室での悪夢のような光景。新城神楽。僕の中での恐怖と不安が、今にも破裂しそうな勢いで大きくなっていく。

 

 「大丈夫じゃない。僕は、大丈夫じゃないんだ・・・・・・」

 

 心が、あっという間に支配された。まるで悪魔のような存在が僕の中に存在しているかのように。

 

 「新城神楽・・・・・・あの子は一体誰だ・・・・・・? どうして僕の前に現れたんだ・・・・・・?」

 

 僕は気が狂ったかのように立ち上がると、呆然と歩き出す。目の前には、ただ寂れた田舎町が見える。

 

 「ね、ねぇ、診療所に行こう。私が案内する。きっと力になれるから」

 

 半ば動揺している少女の声。それが耳障りに思えた。眠っていた記憶が目を覚ます。

 

 「お前を酷い目にあわせたのは、僕だけじゃないだろ?!」

 

 「あ、あの、ごめんね」

 

 その刹那。僕の視界には、強く握られた握りこぶしが見える。それは本日二度目となる気絶だった。

 

 

 「それで殴って気絶させたの?」

 

 「普通じゃなかったら・・・・・・あの眼の色。普通じゃなかった・・・・・・」

 

 「普通じゃなかったとは?」

 

 「・・・・・・この世の者に思えなかった・・・・・・」

 

 「あのね・・・・・・ここは精神病院じゃないんだよ・・・・・・」

 

 「その言葉、嫌いです・・・・・・」

 

 「嫌い? 一体なにが?」

 

 「精神病院」

 

 あの金色の髪の少女と、聞き覚えのない男の人の声が嫌でも耳に聞こえてくる。当然だ。僕は目覚めたのだから。微かな消毒液の匂いがする。そして寝かされているベッド。横を向けば貧相な薬品庫が存在していた。

 

 「あ! 目が覚めた?!」

 

 すぐ前に、心配そうな少女の顔。そして僕の頬に、強烈な痛みが襲う。

 

 「うう?!」

 

 だらしない声を出す僕。当然だ。気が狂った瞬間だけは鮮明に覚えていた。この心配そうな表情を浮かべている少女に殴られたことを。

 

 「ごめんね。ああするしかなかったから」

 

 彼女のああするとは、僕の頬を女の子とはとても思えない力で、殴りつけることであろう。それにしても殴られた頬は酷い痛みを放っていた。

 

 「これでも君を助けようとしたんだよ? ねぇ、わかってくれるでしょ?」

 

 両手に手を合わせ、少女は謝罪の姿勢。しかもその表情は困った笑みで、反省の色など微塵も感じられない。

 

 「気がついてよかった」

 

 白衣を着た男が僕に歩み寄る。

 

 「ここは診療所で僕はここの医師。君は彼女に殴られて、ここに運ばれたんだよ」

 

 今の僕には説明されなくても理解できる事実。痛む頬が証拠だ。

 

 「それで早速なんだが。君の着ている学校の夏服だけど、随分と汚れてボロボロなのは何故かな?」

 

 この医師の質問に僕は正直に答えるべきだったのだが。

 

 「それは・・・・・・彼女に殴られた拍子に転んだから・・・・・・」

 

 自分でもどうしてこんな嘘を吐くのか理解できなかった。僕は恐らく記憶喪失で、今にも助けが必要な状況だというのに。そして僕の嘘に反応したかのように、医師と金色の髪の少女は不思議そうに顔を見合わせた。

 

 「彼女から聞いている。最初からボロボロの状態だったって・・・・・・」

 

 落ち着いた表情の男性医師。

 

 「場合によっては警察に報告しなくちゃならない。わかるよね?」

 

 「そ、それは・・・・・・」

 

 今すぐに自分に起きている事情を話すべきだった僕。しかし、どうしてもこれ以上口が開かない。

 

 「話してみたら、以外とすっきりするもんだよ」

 

 後押ししたのは、金色の髪の少女。それも溢れんばかりの笑みで僕を見ている。不思議と僕は、その笑みに少しだけ勇気づけられた。

 

 「ぼ、僕は・・・・・・木下優・・・・・・」

 

 「名前は木下優君だね。それで出身は? それにどこの学生なのかな?」

 

 出身もどこの学生なのかも思い出せないというのに、僕はそんな医師の質問に対し、不安感を感じてしまう。

 

 「すいません・・・・・・それだけです・・・・・・」

 

 「君・・・・・・? 何か答えられない理由でも・・・・・・?」

 

 僕の曖昧な答えに医師は一気に疑念の表情を見せる。

 

 「あ、あの、僕はもうこれで・・・・・・」

 

 僕はベッドから起き上がると、診療所から逃げ出すようにその出口へと向かう。

 

 「あ、こら、君、待ちなさい!」

 

 医師の制止を振り切り、僕は診療所の外に出た。相変わらずの夏日の外へ。

 

 「待って!」

 

 僕の次に診療所から出てきた人物。あの金色の髪の少女だ。

 

 「きっと大丈夫だよ。だから怖がらないで・・・・・・」

 

 僕を安心させるためだろうか? 少女は慈悲深く人を安心させる笑みで、僕に静かに歩み寄るのだが。

 

 『そう、怖くない。だから思い出して大丈夫なんだよ』

 

 僕は一気に腰を抜かし、無様にアスファルトの地面へと尻餅をつく。

 

 「ねぇ、どうしたの?」

 

 尻餅をついた僕に、金色の髪の少女は不思議そうに小首を傾げていた。驚くのも無理はない。僕の目には、一瞬この少女が新城神楽に見えたのだ。

 

 「もしかして、またおかしくなりそう? なら、診療所に戻ろう。私も一緒にいるから・・・・・・」

 

 少女の笑みは優しい。だが。その蒼い瞳は決して笑ってはいない。僕には気が狂ったように思えて仕方ないのだ。

 

 「私も同じかも・・・・・・君と一緒で普通の人間を演じているだけなのかもしれない・・・・・・」

 

 僕は立ち上がると、恐怖のあまり走り出していた。金色の髪をした少女の突き刺さるかのような視線を、背中越しで感じながら・・・・・・

 

 

 気づけば白い砂浜に一人僕はいた。いや、正確にはもう一人いる。少女が無限を錯覚させる水平線を見つめているのだ。

 

 「この夏町が海沿いにあるのは知らなかった? 木ノ下君?」

 

 新城神楽だった。

 

 「・・・・・・」

 

 無視する僕。しばらくすれば消えると、そう心の中で願っていた。

 

 「木下君は私と同じ学校に通っていたんだよ。私たち二人は、互いに面識もなくて・・・・・・学校ではいつも浮いた存在だった・・・・・・」

 

 「黙ってくれ・・・・・・もう黙れ・・・・・・頼むよ・・・・・・」

 

 堪らず僕は悲痛な声を出してしまう。僕に過去を思い出させようとする神楽の存在が苦痛でたまらない。

 

 「あの金色の髪の子。可愛い子だったよね? もしかして・・・・・・一目惚れなんかしないよね?」

 

 僕は神楽にゆっくりと視線を合わせる。眼鏡を掛けている彼女のピンクの瞳は、狂気に溢れたものに思えた。

 

 「木下君には私がいる・・・・・・あの日、恋人にはなれなかったけど・・・・・・」

 

 「黙れ! もう黙れ!」

 

 僕は思わず声を荒げてしまう。

 

 「こいつは幻覚だ・・・・・・! 存在しないんだ・・・・・・!」

 

 そう自分に言い聞かせても

 

 「私は木下君といる。あの日、自分でそう決めた。だからここにいるんだよ」

 

 狂気に溢れ、嬉しそうな神楽が目の前に存在するのだ。

 

 「消えてくれ・・・・・・」

 

 「消えない。木下君が私の全て・・・・・・」

 

 「ただの幻覚だ・・・・・・!」

 

 「幻覚じゃない」

 

 今にも気が狂いそうな僕に、神楽はただ妖しい笑みを浮かべるのだった。

 

 「触ってみれば分かるよ。私の体好きなところ触っていいよ・・・・・・」

 

 妖しい神楽におかしくなりそうな僕。その刹那だ。

 

 「来たよ・・・・・・誰にでも股を開く女が・・・・・・」

 

 神楽の憎悪めいた声。それを最後に神楽はようやく消えてくれた。まるで最初から存在しないように。彼女が消滅したかのような錯覚を僕に思わせるのだが。

 

 「さっきの誰・・・・・・? 君は、女の子と二人でいたよね・・・・・・?」

 

 背後から聞こえた声に僕が後ろを売り向くと、あの金色の髪の少女が不思議そうな面持ちで僕を見ているのだった。

 

 「あの子・・・・・・一体何なの・・・・・・? 私と目が合うと消えたけど・・・・・・」

 

 「幻覚だ・・・・・・そう、ただの幻覚・・・・・・」

 

 半ば混乱状態の僕は誤魔化す。神楽は、ただの幻覚だと。

 

 「幻覚? そっか・・・・・・やっぱり病気なのかな・・・・・・」

 

 どこか悲しそうに笑みを零す少女。

 

 「病気・・・・・・? どんな・・・・・・?」

 

 落ち着いた態度を演じる僕。実際には、頭の中は最早パニック寸前で、ほんの少しの勢いだけで今にもこの少女の細い首を締め上げそうだった。

 

 「体は大丈夫。でも、心が駄目なんだな・・・・・・ついていけないんだよ、自分自身に・・・・・・」

 

 少女は自身の胸に手を当てるだけだったのだが。

 

 「それにしても、君を探すのに苦労したんだよ。この夏町を一生分歩いた気分だよ」

 

 次の瞬間には、安心しきった様子でこの子は笑っていた。

 

 「どうして僕なんかを・・・・・・?」

 

 「そんなの決まってるじゃない。私は君のことが心配なんだよ」

 

 僕の疑問に対し、少女は当然のことと言わんばかりにそう言葉にするのだった。

 

 「今は、ただそれだけでいいでしょ?」

 

 溢れんばかりの笑みで、少女は小首を傾げていた。僕も不思議と落ち着きを取り戻していく。

 

 「名前は木下優君でいいんだよね?」

 

 「あ、ああ・・・・・・そうだよ・・・・・・」

 

 「私は水上涼葉。よろしくね」

 

 水上涼葉。それがこの金色の長い髪をした少女の名前のようだ。白いワンピースがよく似合う綺麗な色白の容姿をした子だった。

 

 「ほら、握手、握手」

 

 嬉しそうにそう口にしながら、水上涼葉は僕に向かって右手を差し伸べる。

 

 「こちらこそ・・・・・・水上さん・・・・・・」

 

 「もう、涼葉でいいよ」

 

 涼葉と握手する僕。

 

 「ようこそ、夏町へ」

 

 

 得体の知れない僕を、涼葉はこの夏町へ歓迎してくれた。

 

 「それで、優君は今夜泊まれる場所があるのかなー? もしかして何の当てもない家出少年とか?」

 

 悪戯っぽく笑う涼葉に、僕は彼女の柔らかい手を握ったまま、静かに苦笑してしまう。

 

 「優君? 私・・・・・・言っちゃいけないこと、言っちゃったかな・・・・・・?」

 

 涼葉は申し訳なさそうに、握手したままの僕の手を離した。

 

 「違う・・・・・・違うんだ・・・・・・」

 

 否定する僕。脳裏には、新城神楽の微笑む表情が一瞬だけ浮かんでいた。

 

 「記憶がない・・・・・・思い出せないんだ・・・・・・どこの学生で、どんな家族がいて、どうしてこの町に来たのかも・・・・・・」

 

 僕は、涼葉に記憶喪失である現状を伝えた。あの診療所の医師にも言えなかった現状を、どういう訳か涼葉には言えることができたのだ。

 

 「それならお互いに似たもの同士。何も悲しそうにする必要ないよ」

 

 涼葉は、再び僕の手を握る。彼女の綺麗な青い瞳がすぐそばに存在していた。

 

 「ずっと思い出せなくても、私と一緒に存在していればいいから・・・・・・」

 

 涼葉の甘い息が僕の鼻に当たる。

 

 「・・・・・・君は、私と生きよう・・・・・・そう・・・・・・今、私がそう決めたんだよ・・・・・・」

 

 僕は涼葉に握られた手を離すことができなかった。それは、誰でもいいから助けてくれる人が僕にとって必要だったのかもしれない。

 

 「あはは。優君。君は素直だね・・・・・・」

 

 僕には、ただ涼葉の笑い声だけが聞こえていた・・・・・・

 

 

 涼葉につれられる僕。ただ、夏町を二人で歩いていた。

 

 「人気のない町でしょ? これでも数年前まで観光地だったらしいよ」

 

 「らしいよって、この町の人じゃないの?」

 

 「違うよ。生れはもっと都会な町」

 

 はっきりと答える涼葉。僕はてっきり彼女がこの夏町の住人だと思い込んでいた。

 

 「それなら、両親の仕事の理由か何かで・・・・・・?」

 

 僕は、彼女がそんな理由でこの町に越してきたものだと考えた。これは、どうでもいい単なる世間話のつもりだったのだが。

 

 「両親なんてもうずいぶん前から会ってないよ。君と同じで私も一人ぼっちだよ」

 

 このとき、涼葉の綺麗な横顔が悲しげだったことに、僕は気づかずにはいられなかった。

 

 「でも、今は君と二人だよ。私たち、きっといい友達になれるよ」

 

 目を細めた涼葉の横顔の笑顔。僕は彼女の触れてはいけない部分に触れてしまったのかもしれない。

 

 「大丈夫だよ。住む場所ならちゃんとあるし、優君の部屋だってちゃんと用意できるから」

 

 「あ、ああ、それは、助かるよ。ありがとう」

 

 涼葉はあの海で、僕を家出少年だと冗談半分に言っていた。しかし、僕からしてみれば、家出しているのは涼葉のほうではないのかと思わせるのだった。

 

 「さぁ、私の住処まで後少し。今夜は歓迎会だよ。二人でパーティーしよう」

 

 楽しそうな涼葉。夏の季節が似合う随分と明るい少女だと僕に思わせた。僕は涼葉に案内されるがまま、舗装も行き届いていない田舎道を歩かされる。

 そして、しばらく歩いた先に、その建物は存在していた。

 

 「あ、あの、ここって・・・・・・」

 

 僕はその建物に入るのを躊躇してしまう。

 

 「え? 大丈夫だよ。随分前に潰れたホテルだから」

 

 何の迷いもなく涼葉は答えるのだが。僕にとって、そういう問題ではない。

 

 「私は普通に住んでるよ」

 

 恐らく潮風によって色あせたであろう廃ホテル。あろうことか、涼葉はここの住人で、しかも勝手に住み着いている様子だ。

 

 「住んでるって・・・・・・それって違法・・・・・・」

 

 「もう、心配しなくていいよ。電気も水道も、まだちゃんときてるし」

 

 僕が心配しているのは、そんな事ではない。彼女の行動が違法だと、僕はそう声にしたかった。げんなりとしてしまう僕。随分と厚かましいが、僕はもっとちゃんとした一軒家か何かに案内されるものだと思っていた。

 

 「嫌ならいいんだよー。 街灯も殆どないこの夏町の夜は、とても真っ暗で、暗闇の中にありもしないものが見えたりするんだよー」

 

 涼葉の面白半分な冗談は理解できた。

 

 「それでも君は野宿しますかー・・・・・・」

 

 まるで霊的な者をイメージさせるワザとらしい涼葉の薄ら笑い。夏町。こんな見知らぬ海沿いの田舎町で野宿。夜は街灯が殆どない暗闇。僕の選択肢は決まっていた。

 

 「あの、野宿は嫌です・・・・・・」

 

 「もっと正直に。それから丁寧にお願いします」

 

 「ここに住みます。僕をあなたの下へ受け入れてください」

 

 藁にもすがる思いで下手に出た僕。涼葉は、まるで勝ち誇ったかのような笑みを見せる。

 

 「うん、大変によろしい。君をこの場に受け入れましょう」

 

 「感謝します・・・・・・」

 

 苦笑いを見せる僕。その一言によって、僕が目の前に聳え立つ廃ホテルの住人になることが決定した。涼葉に連れられるがまま、僕は廃ホテルの中へと案内されるのだった。

 

 

 多少埃臭くはあったが、廃ホテルの内部は荒らされた様子もなく、当時のままの姿から若干古くなった程度だと僕に思わせる。恐らく数年前まで普通に営業されていたのだろう。

 

 「優君はどっちにする?」

 

 「どっちって、何が?」

 

 「あれ? 敬語はどうしたの?!」

 

 涼葉は随分とワザとらしく驚いて見せる。

 

 「はい・・・・・・すいません・・・・・・いえ、申し訳ございません・・・・・・」

 

 この廃ホテルにいると決定した限り、僕は涼葉にちゃんとした丁寧な謝罪の言葉を口にするしかない。とにかく彼女の気分を害さないことを心に決めるが。

 

 「もう、冗談だよ。記憶が戻らなくても、戻っても、優君が好きな時にここを出ればいいんだよ」

 

 涼葉は、ただ笑う。これが冗談であったことに、僕は静かに安堵した。

 

 「それで、どっちにするの? 和式か洋室か?」

 

 そういうことか。この廃ホテルには和式と洋室の部屋がそれぞれ存在するようだ。

 

 「まさか、私と一緒のお部屋とか?」

 

 僕の体の中の血液が、まるで一瞬のうちに沸騰しそうだった。これも涼葉の冗談だと、半ば混乱する思考の中で思うのだが。涼葉の蒼く綺麗な瞳は妖しそうに笑っているのだ。

 

 「ど、どっちでもいい!」

 

 声を荒げてしまう僕。涼葉もそんな僕を驚いた様子で見ていたのだが。

 

 「そう。部屋の鍵なら全部開けてあるから、好きな部屋を選んでね・・・・・・」

 

 どういうわけか。涼葉はその蒼い瞳で空虚に僕を見ながら、廃ホテルの廊下を歩き去っていくのだった。

まさか怒ったのか? 僕が声を荒げたのがいけなかったのか? 彼女の後を追おうとしたその刹那。

 

 「あの子は一人・・・・・・そして、私も一人・・・・・・」

 

 すぐ背後から聞こえた声に、僕の背筋は凍りつく。ここは廃ホテル。霊的な類が出ても不思議ではないと、今さらながら僕に思わせる。

 

 「自分自身を欺きながら今を生きるしかない、哀れな子」

 

 その声には聞き覚えがあった。僕がゆっくりと後ろを振り向くと、彼女はいつの間にか存在していた。恐らく霊的な類なのかもしれないが、それは知った顔だった。

 

 「木下君に最初から馴れ馴れしい・・・・・・」

 

 僕に寂しそうな視線を送る新城神楽だった。

 

 「あの子のこと、少しだけ知ればいい。そうしたら私に恋するはずだから・・・・・・」

 

 神楽が僕に向かって手を伸ばした瞬間。まるで走馬灯のような幻覚が僕の目と、頭の中に流れ込んできた。ベッド以外何もない部屋で、一人存在するパジャマを着た涼葉の姿だ。

 

 「・・・・・・触られる・・・・・・犯される・・・・・・殺される・・・・・・」

 

 まるで気が狂ったかのような涼葉。その三つの言葉を、ただ呟き続けていた。

 

 「もう、汚れたくないのに・・・・・・どうしてかな・・・・・・?」

 

 涼葉は一人笑っていた。目を細め、純粋そうに・・・・・・

 

 「優君? どうしたの?」

 

 走馬灯のような幻覚は消え、気が付くとそこには神楽の姿はない。ただ不思議そうな面持ちで僕を見る涼葉がいた。

 

 「何でもない・・・・・・少し、ボーとして・・・・・・」

 

 僕の言い訳。幻覚の中、涼葉を見たなどと口にすれば、間違いなく気味悪がられることだろう。

 

 「そうなんだ」

 

 ありがたいことに、涼葉は僕の言い訳に納得してくれる。

 

 「さっきはごめんね。素っ気ない態度になっちゃって・・・・・・」

 

 謝罪する涼葉。どうやら怒ってはいないようだ。

 

 「それよりこれ、渡しておくね。忘れ物って書いてある棚に入っていたものだけど」

 

 涼葉が僕に渡した物。それはジーンズとワイシャツ。それにバスタオルまである。衣服は助かる。僕が身に着けている夏服の学生服はボロボロだったからだ。それにバスタオルも。

 

 「まずはお風呂に入って疲れを落としてくださいね。私は腕によりをかけた食事の支度をしますので」

 

 小首を傾げ笑う涼葉は、どこか自身気に去っていく。しかも丁寧な敬語まで使ってだ。僕にとって食事は楽しみだった。その理由は思い出せないが、ここ何日かろくな物しか食べていない気がする。それは塵を無我夢中で漁るような感覚・・・・・・

 

 「そうだ・・・・・・なかった・・・・・・僕は塵なんて漁っていないし、あの子にも何も・・・・・・」

 

 呆然と自分にそう言い聞かせていた。理解できない記憶をつぶし、次は当然のことのように今現在することを選ぶ。それはこの廃ホテルの部屋選び。

 

 「僕は・・・・・・洋室がいい・・・・・・」

 

 すぐ近くにある。無人であろう客室の扉を掛ける僕。しかし、そこには畳特有の匂いがする和室。洋室ではなかった。

選択を間違えた僕は、嫌悪感に襲われる。それと同時に抑えきれない怒りが、僕の中で爆発しそうになるが。

 

 「落ち着け、落ち着け・・・・・・他の部屋を探すんだ・・・・・・」

 

 自らにそう言い聞かせ、大きく深呼吸を繰り返し、用のない和室を後にすると、僕はすぐ向かい側の部屋のノブを回し、中へと入る。そこはカーペットが敷かれた部屋。ソファにベッド。壁にはどこかの草原の絵画が飾られている。僕の探していた洋室だ。今にも一休みしたい気分だったが、体の汚れを落とすのが先決に思えた。ボロボロの学生服の様子からして、何日も風呂はおろかシャワーすら浴びていないようだった。僕は迷うことなく洋室の片隅にある浴室へと向かうと、シャワーを浴びた。泥だらけのぬるま湯が、排水溝へと落ちていく・・・・・・

 シャワーを浴び終えると、僕は涼葉に渡された服に着替える。サッパリしたせいか、随分と心地いい気分だ。そのままソファに腰掛ける僕。そのとき、誰かが部屋の扉を開けた。

 

 「優君? この部屋にいるの?」

 

 ノックもせずに涼葉が入って来る。

 

 「ああ、やっと見つけたよ」

 

 どこか気疲れしている涼葉。どうやら、僕がいる部屋を探すのに随分と苦労した様子だ。それもそのはず、腐っても廃ホテル。一人の人間を探すにしても、そこには無数の客室が存在する。恐らく何部屋もの客室を回ったはずだ。

 

 「腕によりをかけた私の食事。電子レンジには苦労させられたよ」

 

 目を細め笑う涼葉。電子レンジ。つまり冷凍商品の類が今日のこんだてだろう。

 

 「私の部屋で食べよう。ねぇ、それがいいでしょ? 誰かと食事するのなんて、本当に久しぶりだよ」

 

 涼葉は半ば強引に僕の手を強く引っ張り、自分の部屋へと案内しようとしていた。僕の手を握り締める彼女。

 

 「ふふ・・・・・・」

 

 気のせいだろうか? ほんの一瞬だけ、涼葉が不敵に笑った気がした。

 

 「ごはん、冷めちゃうよ。ねぇ」

 

 少しだけ微笑んだ素の表情を見せる涼葉。違法に住み着いているとはいえ、女の子の部屋に変わりなかったが、僕の空腹と疲労はすでに限界だった。

 

 「わかった。行こう・・・・・・」

 

 食事を終えたら、ここに帰ってすぐにベッドで休もう。僕はそう考えた。

 

 「さぁ、行こう」

 

 僕は涼葉に手を引っ張られながら、彼女の部屋へと足を運ぶ。

 

 涼葉の部屋。そこは木製の少し大きなテーブルと、恐らくきちんと涼葉が掃除したであろう清潔な畳が敷かれていた和室だった。

 

 「さぁ、さぁ、座って、座って」

 

 涼葉は僕を急かし、畳の上に座らせる。目の前のテーブルには、皿に盛りつけられた料理がある。メニューは、ハンバーグにコロッケ。それとマカロニサラダと茶碗に盛られたライス。恐らくこのほとんどが冷凍食品なのだが、空腹すぎる僕にしてみればそれはちゃんとしたご馳走だ。

 

 「はい、それじゃあ」

 

 嬉しそうに両手を合わせる涼葉。

 

 「いただきます」

 

 「え? あ、いただきます・・・・・・」

 

 まるで使い慣れた言葉のように涼葉は丁寧に瞳を閉じながら言う。僕にとっては随分と久しぶりの言葉のように思えた。

 

 「さぁ、食べて」

 

 涼葉がそう言葉すると、僕は箸を使っておそらく冷凍食品であるハンバーグを一口食べる。口に広がる安物のデミグラスソースの味。その途端。僕は涼葉が用意した料理を夢中で食べ始めていた。

 

 「もう、そんな食べ方したら喉に詰まるよ」

 

 事実。次にコロッケを口にした瞬間。僕の喉は詰まる。息苦しい中。涼葉は僕にコップに入れたウーロン茶を渡す。僕は必死でそれを飲み干した。

 

 「ねぇ、もっと落ち着いて食べて大丈夫だから。誰も優君の食べ物を取ったりしないよ」

 

 僕をなだめる涼葉。

 

 「そうだ。ゆっくりテレビでも観ながら食べようよ。うん。それがいい。きっと落ち着くと思うし」

 

 涼葉は、床に置いてあるテレビのリモコンのスイッチを入れる。液晶のテレビ画面には、お笑い芸人が何やら芸をやっている姿が見てとれた。

 

「あはは、これ、面白いよね?」

 

随分とおかしそうに笑う涼葉。

 

 「ああ、面白い・・・・・・」

 

 僕にとって、そのお笑い芸人たちの芸は何ら面白おかしくもない。ただ心が渇いたかのように空虚なだけだ。早くこのくだらない番組が終わって、静かに食事を再開し、空腹を満たしたいと心から願った時だ。

 

 「ここで番組を中断し、臨時ニュースをお伝えします」

 

 くだらない芸人は液晶の画面から消え、代わりに堅物そうなニュースキャスターがテレビ画面に映る。

 

 「もう、いいとこなのに」

 

 涼葉は、ライスが盛られた茶碗片手に不満そうだ。

 

 「南利生町で立て続けに起きた連続無差別猟奇殺人事件についての速報です。この事件の犯人として逮捕された新城正也被告に今日の午後、死刑判決が下りました。速報です。連続無差別猟奇殺人事件の犯人。新城正也被告に死刑判決です」

 

 どこか重苦しい雰囲気のニュースキャスター。過去の記憶がない僕。しかし、新城という名字には聞き覚えがある。あの神楽と同じ名字。それだけで、僕はテレビの中のニュース速報をどういう理由か見入ってしまう。

 

 「この事件ウンザリ・・・・・・朝のニュースで毎回同じようなことやってるし。無期懲役じゃなくて、死刑が妥当だって・・・・・・でも、本当にそうなったみたいだね」

 

 涼葉がチャンネルを変えようとした刹那。

 

 「いいから、これを見せてくれ!」

 

 どういう理由か、僕は涼葉に声を荒げる。

 

 「そ、その、ごめん・・・・・・この番組を見させてほしい・・・・・・それだけだ・・・・・・」

 

 「ああ、う、うん。そんなに見たいなら・・・・・・」

 

 少し驚きながらも、涼葉はリモコンをテーブルの上に置いてくれる。僕はただ、テレビ画面を呆然と見つめていた。

 

 「裁判所前に、この裁判を傍聴したリポーターの三上が飛んでいます。三上さん」

 

 堅物そうなニュースキャスターがそう呼びかけると、テレビに映されている画面は、どこか優所正しき建物の映像へと切り替わる。その映像の中で、手にマイクを持った若い男性。リポーターの姿が確認できた。

 

 「はい、こちらは裁判所前の三上です。今日の午後。新城被告四十二歳に死刑判決が下りました。冒頭陳述の中で新城被告は、人を苦しませて殺すことが楽しくて仕方がなかった。どうしても自分を抑えられなかったと、供述していました。裁判官は、被告人には社会的な地位も名誉もあり、責任能力が十分に備わっており、尚且つ、これほどの猟奇殺人事件を起こした被告人に同情の余地はないとし・・・・・・」

 

 突然にリポーターが口を閉じ、テレビの画面はカメラのフラッシュの嵐に塗れた。

 

 「俺はいいから、映して、映して!」

 

 画面が一人の白いシャツを着た男を映し出す。随分と血色の悪い顔色の男性だ。両脇を制服に身を包んだ刑務官に抱きかかえられ、今にも護送車に乗せられようとしていた。

 

 「新城被告! いえ、新城死刑囚です! 今にも裁判所を後にし、拘置所に・・・・・・! おい、何だよ?!」

 

 驚きのあまり声を荒げるリポーター。それもそのはず。僕が見ているテレビ画面には、刃物を手に持った数名の男女が、報道陣規制用の柵を飛び越え、一気に新城死刑囚に飛び掛かったのだ。途端に新城正也死刑囚は、地面に崩れ落ち、辺りには血の海が一気に広がった。

 

 「嘘だろ?! 刺されたよ?!」

 

 「いいから続けて! 三上さん! カメラ回ってるから! リポート続けて! リポート!」

 

 「え? ああ・・・・・・」

 

 恐らくカメラマンであろう男に強い声を掛けられた三上というリポーターは手が震えながらも、マイクを片手に持ったまま半ば放心状態だった。

 

 「み、見せないでください。小さなお子様。または未成年者のお子さんがいる家庭の皆さまは、テレビを消すか・・・・・・ええ、そうですね・・・・・・他局にチャンネルを変えてください! 今すぐテレビを消すか、他局にチャンネルを変えてください!」 

 

 自らの焦りと動揺を、このテレビの中のリポーターは伝える。

 

 「ほら、この人もこう言っているし」

 

 涼葉は笑顔で置いてあったテレビのリモコンを握りしめる。僕は新城死刑囚。一人の人間がテレビ画面で死んでいくさまに、ガタガタと体が自然に震えたのだが。

 

 「ほら、チャンネル変えるよ。確かこの時間は面白いバラエティ番組がやっているよ」

 

 あれだけの惨状をテレビ越しでありながら目撃したはずの涼葉。しかし彼女は何の動揺も見せることなく、ただチャンネルを変えるのだが・・・・・・

 

 「えー、犯人グループが取り押さえられています。新城死刑囚を刺した犯人グループが、裁判所の刑務官によって取り押さえられております!」

 

 涼葉のいう本来ならバラエティ番組のやっているチャンネル。どうやらそこでも新城死刑囚の臨時ニュースが流されていたようだ。テレビ画面には焦りを隠せない女性リポーターが映されている。

 

 「連続無差別猟奇殺人事件の犯人! 新城正也死刑囚が・・・・・・」

 

 慌てふためく女性リポーターの顔を最後に、涼葉はテレビの電源を消すのだった。

 

 「決めた。今日は、静かに食事しよう。公開殺人なんか見てもつまらないし」

 

 冷凍食品であるハンバーグとコロッケを口に運ぶ涼葉。

 

 「この後やることもあるし・・・・・・栄養つけなくちゃね・・・・・・」

 

 一瞬だけ、涼葉が妖しい笑みを零す。僕は、あの刺された新城という男がどうなったのか、無性に気になって仕方がない。

 

 「あ、あの、テレビを・・・・・・」

 

 もう一度テレビを点けて、あの惨状をこの目で確認したい僕だったのだが。

 

 「ほら、冷めちゃうよ。食事の続きをしよう・・・・・・」

 

 「あ、ああ・・・・・・」

 

 僕が涼葉にもう一度テレビを点けてくれと頼んだところで、彼女が承諾してくれるようには思えなかった。僕が黙って食事を再開すると

 

 「・・・・・・いい子・・・・・・」

 

 涼葉は一言僕にそう告げるのだった・・・・・・

 

 

 食事を終え、自分の部屋へと戻った僕は、真っ先にテレビの電源を入れた。公開殺人が行われたのだ。当然のことながら、テレビではニュース速報が流れていた。

 

 「死亡が確認されました! 新城正也元死刑囚の死亡が、搬送先の病院で確認されました! 死因は、体の複数個所を刺されたことによる出血性ショック死だと・・・・・・」

 

 気が付けば、僕は無言のまま、テレビの電源を切っていた。

 

 「死んだか・・・・・・そうか・・・・・・死んだんだな・・・・・・」

 

 僕の中で、静かな空虚さが芽生える。それはどこか安心感に似た静けさを僕に思わせるのだった。僕はただ、ベッドの上へと横になると、自然と目蓋が重くなる。これは疲れているせいなのか、それとも空腹が満たされたことによるものなのか、僕にはわからない。ただ、強烈な睡魔に身を任せるのだった・・・・・・

 

 「あ・・・・・・優君・・・・・・? もしかして寝てる・・・・・・?」

 

 朦朧とする暗闇の意識の中で、僕は涼葉の声を聞いた気がする・・・・・・

 

 「しばらくしたら帰るから・・・・・・おやすみなさい・・・・・・」

 

 気のせいだろうか? 僕の頬に冷たく柔らかい感触が残った・・・・・・

 

 

 目覚めると、部屋の中は重苦しいくらいに薄暗かった。

 

 「夕暮れか・・・・・・?」

 

 眠気まなこで僕が部屋の窓から外を見ると、すでに日の光は山の向こうに沈み始めていた。

 

 「ねぇ、知ってた?」

 

 その刹那。背後から聞こえた声に、僕の眠気は何処かへと消えていく。慌てて後ろを向くと、そこには椅子に座り、微笑みを崩さない神楽の姿があった。

 

 「知ってた? 知らないよね・・・・・・木下君にはわからない・・・・・・あの金色の髪の子がどんな女なのか・・・・・・哀れな木下君にはわからないよね・・・・・・?」

 

 軽い笑い声を上げる神楽。僕が笑われることなどどうでもいい。そんなことより気になることが僕にはあるのだ。

 

 「新城正也って、知ってるか?」

 

 僕が神楽に質問すると、彼女はこくりと頷く。

 

 「その人は、私の最低な父親だよ」

 

 眼鏡越しに見える神楽の渇いたピンク色の瞳。そこに感情はなかった。

 

 「いつもイライラしていて、気に入らないことがあれば、すぐに手を上げる人だった。ある二人の人物に・・・・・・自分の妻と、実の娘に・・・・・・」

 

 つまりは神楽自信と、彼女の母親に、あの故人。元死刑囚は手を上げていた。

 

 「私がまだ小さかった頃だよ。ようやく物心がつき始めた頃・・・・・・私もお母さんも酷く殴られた・・・・・・何の理由もなくに・・・・・・そう、あれから・・・・・・私が見えるものは、ぼやけ初めて・・・・・・眼鏡を掛けないと、日常の生活なんて送れなかった・・・・・・」

 

 彼女が眼鏡を掛けている理由は、元死刑囚である父からの暴力が原因だった。どうやらそのせいで、視力が低下したらしい。暗い笑みを、神楽は零し続ける。

 

 「それよりも、あの金色の髪の子が、今何をしていると思う・・・・・・・?」

 

 暗い笑みを崩さない神楽。あそらく彼女は涼葉のことを言っているようだ。

 

 「部屋にいるだろう。多分・・・・・・」

 

 自信なさげに答えてしまう僕。不思議と僕は自らの頬に冷たい感触を覚えるのだった。

 

 「本当にそう思うの? それなら少しだけ考え方を変えよう。あの子はどうしてこの廃ホテルに住んでいるの? あの冷凍食品だけの食事。買えるお金があるのはどうして?」

 

 「・・・・・・」

 

 神楽の涼葉に対する疑念にも似た言葉に、僕は何も答えられなかった。事実、僕は涼葉に対して、ただの家出少女ではなく。もしくはそれ以上の理由で、この廃ホテルに住んでいるのではないのかと考えてしまっていた。

 

 「さぁ、答えを探す時間だよ。私と一緒に現実を見に行こう・・・・・・」

 

 椅子から立ち上がる神楽は、僕に向かって手を差し伸べる。僕は彼女の手を迷うことなく握る。神楽の手は全身に悪寒が走るほどに冷たいものだった。

 

 「・・・・・・妙に素直だね・・・・・・? だから偽善者なの・・・・・・?」

 

 神楽が発した言葉。それは偽善者。一瞬、激しい頭痛が僕の頭に走るが、すぐに消える。

 

 「ほら、行こう。あの金髪の女。涼葉の姿を・・・・・・」

 

 僕は神楽に手を引っ張られる。

 

 

昼間とは打って変わり、薄暗く不気味な田舎道を歩く僕と神楽の二人。廃ホテルをどんどんと遠ざかり、僕は見知らぬ浜辺へと神楽に案内された。薄暗い海の姿に、僕の中には妙な恐怖心が湧いていく。

 

 「ほらあそこ・・・・・・」

 

 ある方向を指差す神楽。そこは廃業したであろう海の家だった。その証拠に店の前には、穴の開いたボートや、浮き輪。いくつものガラクタが散乱している。

 

 「息を殺して中を覗くといい・・・・・・次の瞬間には、きっと私が好きになるはずだから・・・・・・」

 

 怖いくらいに純粋すぎる笑みを浮かべながら、神楽は消えていく。まるで幻覚のようだった。一人、薄暗い浜辺に残された僕。静かな波の音だけが、耳に聞こえていた。僕は、一人浜辺を歩き、すぐそこにある廃業したであろう海の家へと向かうしかない。微かだが、海の家には鈍い灯りがもれていた。それに人の声もした。

 

 「・・・・・・こんなに可愛い子と・・・・・・」

 

 それは男の声だ。それも声色からして、僕と同年代くらいだろうか。

 

 僕は鈍い灯りがもれている穴から、息を殺して海の家の中を覗いた。それは神楽の言われるがままの行動・・・・・・

 

 「他の二人はともかく、君とは初めてだね」

 

 そこには笑顔の涼葉がいた。そして彼女の目の前には、どこか緊張している一人の少年と、薄ら笑いを浮かべている二人の少年がいる。

 

 「緊張してるね? 女の子は初めて?」

 

 涼葉は緊張している少年の手を取った。

 

 「震えてる。どう? 女の子の手は柔らかいでしょ?」

 

 「は、はい・・・・・・」

 

 緊張している少年。どうして緊張しているのかは、僕には理解できない。ただ涼葉に手を握られているだけだというのに。

 

 「それなら、キスからしてみよう・・・・・・」

 

 涼葉は、自身の蒼い瞳をうっとりとさせながら、一人の少年に向かって口づけする。そして情熱的なキスが終われば

 

 「さぁ、服を脱がせて・・・・・・それからは、私を好きなだけ触っていいから・・・・・・」

 

 涼葉の言葉と共に、三人の少年は無我夢中で涼葉を裸にした・・・・・・

 

 

 涼葉は胸を何度も触られ、何度も股を舐められていた。同年代であろう三人の少年に・・・・・・

 僕は覗くのをやめ、一人、すっかりと暗くなった浜辺を後にしようとする。

 

 「・・・・・・いいよ・・・・・・」

 

 

 薄暗い浜辺の海の家。そこからは、涼葉の歪んだ声だけが聞こえていた・・・・・・


第二話 神の楽しみ

 明くる日の朝。僕は廃ホテルのベッドの上で目覚める。深く眠りについた感覚はあるのだが、嫌でも昨夜のことが頭の中に浮かぶ。涼葉が三人の少年と行っていた行為を・・・・・・

 

 「優君。おはよう」

 

 「・・・・・・」

 

 ノックもせずに部屋の中へと入って来る涼葉に、僕は無言でいた。涼葉は無言である僕の態度がおかしいと思ったらしく。一瞬だけ目を丸くし、不思議そうに僕を見たのだった。

 

 「朝食。用意したから、私の部屋までおいでよ」

 

 しかし、次の瞬間には明るい笑顔がよく似合う涼葉に戻っていた。

 

 「あ、ああ、すぐ行くよ・・・・・・ありがとう・・・・・・」

 

 すぐ態度に出してしまう。どうやらこれが僕の性格らしい。

 

 「嫌な夢でも見た?」

 

 「み、見てない・・・・・・僕は大丈夫だ」

 

 僕はそう答えるしかない。涼葉は不思議そうに小首を傾げるだけ。

 

 「ふーん、それならいいけど」

 

 納得してくれる涼葉。

 

 「とにかく顔を洗って、歯を磨いたら私の部屋にきてね」

 

 今は僕の部屋となっている廃ホテルの一室を後にする涼葉。

 

 「いつも、男に体を許しているのか・・・・・・?」

 

 僕は一人、涼葉に言いたかったことを口にするのだった。

 

 

 顔を洗い、歯を磨き終えた僕は、涼葉の部屋にて朝食を口にしていた。メニューはトーストとスクランブルエッグ。それにミルクだ。僕はフォークを使い、バターと塩で味付けされたスクランブルエッグを無言で口に運んでいたのだが。どうしてもトーストを何食わぬ表情で食べている涼葉が気になってしまう。チラチラと、何度も彼女の顔を見てしまうのだ。

 

 「どうしたの?」

 

 当然のことながら、僕の仕草に涼葉は気づいていた。

 

 「あ、いや、何も・・・・・・」

 

 咄嗟に僕はグラスに注がれたミルクを飲み、その場を誤魔化そうとするのだが。

 

「もしかして、私が気になるとか? それは仕方ないよね。こんなにも可愛い涼葉ちゃんと一緒に生活しているんだから」

 

 どこか悪戯な笑みを見せる涼葉。彼女はふざけて見せたつもりだろうが、僕にはどうしても笑うことができなかった。昨夜の彼女の淫らな姿が嫌でも頭の中に浮かんでしまう。

 

 「優君・・・・・・?」

 

 不安げな涼葉。きっと僕が笑わないことに不安を感じ取ったに違いない。

 

 「ごめんね・・・・・・少し冗談が過ぎた・・・・・・ごめんなさい・・・・・・」

 

 謝罪する涼葉。僕は謝る必要などないと言葉にしたかったのだが。

 

 「よし、朝食が食べ終わったら、気分転換にお散歩しよう。この夏町を、優君に案内するよ」

 

 次の瞬間には明るい涼葉に戻っていた。

 

 「夏町が知りたいでしょ? 是非、知りたいでしょ?」

 

 小首を傾げ、半ば強引に僕に問う涼葉。

 

 「あ、ああ、知りたい・・・・・・」

 

 僕はそう答えるしかない。それでもこの見知らぬ夏町を知るいい機会に恵まれたと思う。

 

 「決まりだね」

 

 涼葉は笑顔だった・・・・・・それは、とても明るい笑顔・・・・・・

 

 

朝食を済ませた僕と涼葉は、廃ホテルを後にし、暑い田舎町を歩いている。照りつける太陽に雲一つない青空。この道を歩いているだけで、僕は汗だくで、今にも水風呂に入りたい気分になる。

 

「ほら、優君。もっと元気出して」

 

 暑さに参った僕を見かねたのか。涼葉は僕の手を取り、小走りに僕の手を引っ張る。

 

 「商店街で、買い物でもしようよ・・・・・・」

 

 振り向く涼葉の横顔。その顔は僕と同じく汗だくだ。その証拠に白いワンピースからは、汗のせいで彼女の下着が透けて見え、僕はただ単に、見つめてしまう・・・・・・

 

 

 寂れた商店街へとたどり着いた僕たち。そこに人気はない。ほとんどの店のシャッターは閉められ、営業しているのはほんの数えるだけの数店舗だけだった。

 

 「それにしても今日は一段と暑いねー、近くに駄菓子屋があるから、そこでアイスでも食べよう」

 

 確かに今日は暑い日だった。その証拠に蝉の鳴き声が一段と元気に思える。

 

「あそこのラムネ味のアイス。とても冷たくて、暑さなんて忘れるくらいに甘いんだよ。優君はどんなアイスが好き?」

 

「・・・・・・」

 

 涼葉の質問に、僕は何も答えなかった。彼女の明るい声に、どういうわけか嫌悪感が湧いてしまうのだ。

 

 「カップ入りのバニラアイスだってあるよ」

 

 ゆっくりと涼葉の横顔に目をやる僕。彼女の横顔は、心から楽しそうに笑っているように思えた。

 

 「夏の楽しい想い出、二人だけで沢山つくろう」

 

 明るい涼葉。僕は思わず考えてしまう。どうしてこんないい子が、知りもしない相手に体を売るのかと。

 

 「・・・・・・平気で体を売る汚い女のくせに・・・・・・」

 

 「え・・・・・・?」

 

 足を止める涼葉。ただ驚きを隠せずに僕を見ている。その瞬間、酷い吐き気と頭痛が僕を襲う。まるで走馬灯のように、昨夜の涼葉の淫らな姿が頭から浮かんで消えていく。堪らず、その場に蹲ってしまう僕。

 

 「もしかして・・・・・・どこかで見ていた・・・・・・?」

 

 それはまるで感情など感じさせない涼葉の冷たい声だった。僕がゆっくりと顔を上に上げると、涼葉の蒼い瞳は氷のように冷たいものへと変わっていた。

 

 「そう、見てたんだね・・・・・・」

 

 耐え難い頭痛と吐き気に襲われる僕。涼葉はそんな僕を気遣う様子一つ見せずにいた。

 

 「少し胸を触らせてあげただけで、あの子たちはすごく興奮して私にお金をくれたんだよ・・・・・・」

 

 涼葉はそう言葉にする。一瞬だけ屈折した笑みを零しながら。

 

 「その次には、キスしてあげた・・・・・・そして次には・・・・・・」

 

 涼葉は、自分のお腹から、若干下の部分へと自らの手を添えた。

 

 「これは生きるためだよ・・・・・・そのためなら、どれだけ汚されても構わない・・・・・・」

 

 それが涼葉の本性なのか。彼女の言葉に嘘偽りは感じられない。

 

 「それがその女の正体だよ」

 

 笑う神楽が僕のすぐそばに現れる。近くにいた涼葉も驚いた様子で、目を丸くしていた。それもそのはずだ。見ず知らずの少女が、まるで幽霊のように突然に姿を現したのだ。

 

 「あなたの担任の先生は、結局体目的だった・・・・・・無理矢理犯されるのが、愛だとあなたは信じていた・・・・・・」

 

 神楽は涼葉をあざ笑う。

 

 「愛してるよ涼葉。好きだよ涼葉。柔らかいね涼葉。いい匂いだよ涼葉・・・・・・」

 

 「やめて・・・・・・!」

 

 神楽の言葉に、涼葉は両耳を手で覆う。

 

 「やめないよ・・・・・・スケベな女にはもう一度辛い思いを・・・・・・」

 

 それは、神楽が一瞬笑った瞬間だった。今にも気を失いそうな僕の視界が真っ白に染まっていく・・・・・・

 

 「さぁ、薬の時間だよ・・・・・・涼葉・・・・・・」

 

 最後に聞こえたのは、まるで狂ったかのような神楽の言葉だった・・・・・・

 

 

 「さぁ、薬を飲んで」

 

 気が付いた先は、見知らぬ白い部屋。薬臭い病室だった。一人の白衣を着た医師が、小さい紙コップに入ったカプセルと錠剤を差し出している。僕の自らの意思はまるで言うことを聞かず。ただ見知らぬ医師に言われるがまま薬を飲んだ。訳の分からないカプセルと、錠剤が僕の体に入る。

 

 「そうだ。それでいい。しばらくすると症状は落ち着くよ」

 

 それはどんな症状なのかと、僕は医師に聞きたかったのだが。白衣を着た医師は、まるで興味がない様子で病室を立ち去る。見知らぬ病室に一人取り残される僕。いてもたってもいられずに、僕はこの病室を後にしようとするにだが・・・・・・

 

 「何だ・・・・・・? どうしたんだ・・・・・・?」

 

 立ち上がった瞬間。僕の体は急に力が入らなくなる。フラフラと歩くのがやっとで、今すぐにも意識が遠のきそうな感覚に陥る。これは飲んでしまった薬のせいなのだろうか?

 

 「で、出ないと・・・・・・ここから出ないと・・・・・・」

 

 半ば発狂した状態で僕は病室を後にする。消毒液の匂いが微かにする廊下を朦朧と歩く僕。たどり着いた先は、どうやら娯楽室のようだった。数人の入院服を着た患者が、黒皮のソファーに腰掛け、中央にあるテレビ画面を空虚に見つめていた。

 

 「し、新城正也元死刑囚刺殺事件による、そ、速報です」

 

 新城正也。神楽の父親であることは、朦朧としながらも理解できたが。女性ニュースキャスターが映し出されているテレビ画面は酷く乱れ、今にもテレビ画面が自然と黒色に変わりそうだった。

 

 「は、犯人グループは、い、いづれも被害者遺族の会の会員であり、は、犯行動機は、殺された被害者の痛みを思い知らせたかった。・・・・・・逮捕された・・・・・・は、犯人、全員が・・・・・・そう供述していると・・・・・・」

 

 テレビ画面が消え、暗くなる。その瞬間。娯楽室は狂った笑い声に包まれる。

 

 「絞首刑より苦しかったろうに」

 

 「そうだ。普通に死んだほうがまだマシさ」

 

 「元死刑囚か・・・・・・あはは・・・・・・」

 

 「あたしも死刑囚になりたい・・・・・・!」

 

 狂った笑い声。その中で唯一笑わない僕に、彼らはすぐに反応する。

 

 「あんたどうして笑わないの?」

 

 病院服を着た一人の茶髪の少女。歳は僕と同じくらいだ。

 

 「頭が馬鹿になった殺人鬼が無残に殺されたんだよ? 可笑しくて当然でしょ?」

 

 僕に詰め寄る茶髪の少女。その黒々とした瞳が壊れていることなど、薬の飲んで朦朧とする僕にだって理解できた。

 

 「あ、ああ、可笑しいね・・・・・・あはは・・・・・・」

 

 僕の作り笑いに、少女も同じく笑う。それも酷く壊れた笑みを僕に向けるのだった。

 

 「それは、嘘の笑顔」

 

 茶髪の少女は、笑いながら言う。僕は少女の瞳から、言い知れぬ不安感を感じた。

 

 「さぁ、こいつは嘘つきだから、みんなで痛めつけよう!」

 

 少女が狂った大きな声を出した瞬間、僕は娯楽室を早歩きで後にしようとする。新城元死刑囚の死をあざ笑う患者たちは立ち上がり、薬が効いているせいで体が半ばいうことを聞かない僕。今にも入院患者たちが僕に向かって襲いかかりそうだ。事実、彼ら、そして彼女らは、鎖の外れた獣のように襲いかかろうとする。逃げる僕。飲んでしまった薬のせいだろうか? 僕の体には力がほとんど入らず、逃げる途中で無様に転んでしまう。

 

 「く、来るな・・・・・・」

 

 立ち上がる力もなく、恐怖におののきながら僕は床を這いながら前に進む。何人かの患者たちは、そんな僕の姿に歪みきった笑い声を上げていた。必死で床を這う僕。すぐ目の前にドアが開けっ放しの病室が見える。後ほんの少し、この消毒液の匂いがする床を這えば、あの病室に辿りつけそうだった。僕は最後の力を振り絞る。無様に床を這いながら、病室の中へと入ることができた。そして、震えが止まらない手で、開かれていた病室のドアを閉めるのだが。病室だけあって、内側から鍵がかけられない仕掛けになっていた。万事休す。僕が絶望の中で、狂った入院患者たちに痛めつけられるのを覚悟したときだ。

 

 「馬鹿なガキだ!」

 

 「そうだ! あの死刑囚と同じくらいに頭がおかしい!」

 

 「その病室には、呪われた女がいるんだよ! 誰にでも体を許す呪われた女が!」

 

 僕が閉めたドアの向こう側から、罵りあざ笑う患者たちの声が聞こえたが、その声はすぐに消える。どうやら僕がこの病室に入ったことにより、痛めつけることに興味を失ったようだった。

 

 「い、一体、何なんだよ・・・・・・?」

 

 恐怖から一応解放され、次には酷い疲労感が僕を襲ったときだ。

 

 「どうして・・・・・・どうしてまたここに・・・・・・?」

 

 それは聞き覚えのある少女の声だった。僕は病室を見回す。すると、病室の隅に蹲る涼葉の姿があった。

 

 「す、涼葉・・・・・・・? 無事でよかった・・・・・・」

 

 この得体の知れない場所にて、知っている人物と出会えたことが唯一僕を安堵させてくれる。しかし・・・・・・

 

 「薬は嫌、薬は嫌・・・・・・怖くなる、怖くなる・・・・・・壊れるから・・・・・・」

 

 涼葉は狂ったかのように、その言葉を繰り返していた。彼女の蒼い瞳は、何かに怯えきっており、あきらかに正気を失っているようだった。

 

 「涼葉、大丈夫・・・・・・きっと助かる・・・・・・」

 

 床に崩れながらも、僕は涼葉を落ち着かせようとするのだが。内心では、どうやったらこの場から逃げ出せるのかと考えていた。この病室を涼葉と一緒に出たところで、あの患者たちが黙っているはずがない。男の僕はともかく、女の涼葉は・・・・・・

 

 「また薬漬けにさせる・・・・・・」

 

 涼葉は自らの金色の髪をかきむしり始めた。かなり危険な精神状態のようだ。それをやめさせようと、僕は無様に病室の床を這いながら、涼葉の下へと行く。

 

 「優君・・・・・・? ここの患者なの・・・・・・?」

 

 それは少なくとも違うと僕は思いたい。涼葉はようやくこの病室にいる僕の存在に気づいてくれたようだ。

 

 「そうだよね・・・・・・君をこの病院で見たことないし・・・・・・」

 

 涼葉は笑みを零す。それも酷く無理をした笑みだということは、僕も理解できた。そしてどうやら涼葉は、この病院の患者であったらしい。

 

 「ねぇ、もっと寄り添ってよ・・・・・・怖くて死にそうだから・・・・・・」

 

 言われるがまま、僕は涼葉に寄り添う。怖くて死にそうなのは僕も同じだった。とにかく人肌を感じたかったのだ。

 

 「ここを逃げられないか?」

 

 僕は涼葉に聞く。彼女は俯きながら、どこか暗い笑みを零した。それはまるで諦めにも似たものだった。

 

 「この病室から出た途端に、君はここの患者達に殺されるよ。そんなの見たくないよ・・・・・・」

 

 「どうして・・・・・・?」

 

 僕にとって、それは安易な質問にすぎなかった。涼葉はどこか暗い笑みを零す。

 

 「優君が私の友達だから・・・・・・そう、友達・・・・・・殺されるところを見たくない・・・・・・」

 

 僕に寄り添う涼葉は、僕の顔を見て、笑みを零しながら一粒の涙を零すのだった。

 

 「・・・・・・ここで、私と一緒にいて・・・・・・お願い・・・・・・一人ぼっちは怖いから・・・・・・!」

 

 病室の外では、狂気の患者たちが騒いでいる。震える涼葉の手を僕は強く握った。

 

 「まさか、そんな女が好きになったの・・・・・・?」

 

 病室に神楽が現れた。

 

 「嘘つきだね・・・・・・あなたは、私を愛していた・・・・・・そんな女はどうでもいいでしょ・・・・・・?」

 

 笑みを零しながらも、異常なまでに神楽は動揺していた。僕が握る涼葉の手の震え、そして恐怖が伝わってくる。

 

 「あなたは私と一緒にいようよ。ねぇ、そうしようよ。そんな女に未来なんてないよ・・・・・・」

 

 神楽は涼葉をあざ笑う。そのピンク色の瞳は、狂気で溢れていた。しかし、僕は涼葉のそばを離れない。それは彼女をこの場所に一人にしておけなかったからだ。

 

 「そう・・・・・・それなら見せてあげるよ・・・・・・」

 

 神楽がそう言葉を告げた瞬間。僕の視界は真っ白に染まる。

 

 「・・・・・・これが汚い女の過去だよ・・・・・・」

 

 最後に聞こえたのは、神楽の妖しい言葉だった・・・・・・

 

 

 「僕には妻も子供もいます。生徒と教師ですよ? そんなことするわけがない」

 

 そこは、見覚えのない学校の教室のようだった。丁寧な背広を着た男が見える。それは随分と真面目そうな男。どうやら学校の教師のようだ。

 

 「とても考えられない。この子と関係を持つだなんて・・・・・・!」

 

 真面目そうな男。教師は怒りを露わにしているようだった。

 

 「せ、先生は、私がいい匂いだって言ってくれた・・・・・・」

 

 そこには、どこかの学校の制服を着た涼葉がいた。僕は、ただその光景を傍観しているだけだ。

 

 「私がいい匂いだって耳元で言ってくれたでしょ?!」

 

 涼葉の蒼く綺麗な瞳からは、透明な涙が止まらない。

 

 「前から気になってはいたんですが・・・・・・この子にはどこか・・・・・・妄想を抱く癖があると僕には思うんです」

 

 深刻そうに男はある二人の人物に告げる。それは涼葉の両親だった。嫌悪感を露わにした目で互いに自らの娘を見つめていた。娘の涙など気にもせずに。

 

 「どこかの病院に入院させるべきは・・・・・・?」

 

 それは教師の提案。しかしその真面目そうな顔が、一瞬だけ涙する涼葉をあざ笑ったのを僕は見逃さなかった。

 

 「ええ、先生がそうご提案されるのなら、そうします・・・・・・」

 

 「この子の内申書は?! 精神的な病だと書くんですか?!」

 

 涼葉の父親は、ただこの教師の言うとおりにするだけで、その母親ときたら、涼葉の内申書を心配していた。すぐ近くで、どこか悔しそうに涙する自分の娘のことなど、まるで見えていないかのようだった。

 

 「怪我による休学として、処理します。だからご安心ください。それより、娘さんと二人だけで話させてくれますか? 教師して、今の娘さん、いや、一人の生徒が心配なんです・・・・・・」

 

 涼葉の両親はいとも簡単に承諾し、教室の外へと出て行く。

 

 「水上・・・・・・」

 

 泣いている涼葉に対し、教師は一度だけ哀れみの表情を浮かべたのだが。それはすぐに壊れる仮面にすぎなかった。

 

 「何で、喋った・・・・・・?!」

 

 教師は涼葉の耳元にその口を近づけ、悪魔のような怒りを露わにする。

 

 「お前は、体だけ自由にさせているだけでよかったんだよ・・・・・・!」

 

 悪魔のような教師の姿。涼葉の涙は止まり、怯えきった表情で体をガタガタと震わせる。

 

 「もし精神科医に洗いざらい喋ったら・・・・・・散々犯した後で、お前を殺してやるからな・・・・・・!」

 

 意識が戻った僕。まるで遠い場所を見ていた気分で、脳が焼けるような感覚に陥る。

 

 「優君・・・・・・? 優君・・・・・・?!」

 

 すぐ耳元で涼葉の声が聞こえるのだが、僕は両手で自らの頭を抱え込んでいた。涼葉の悪夢のような暗い過去を神楽に見せられた僕。今にも発狂しそうで、理性を失いそうだった。

 

 「ねぇ、その女は汚れているでしょ? だから私を選んでほしい・・・・・・」

 

 微笑みを浮かべ、小首を傾げる神楽。神楽か涼葉か? 明るくとも影がある涼葉か? おとなしそうで、どこか影が存在する神楽か? 涼しい葉か、神の楽しさか・・・・・・?

 

 「わぁぁぁー・・・・・・!! 違う! あれは僕じゃない・・・・・・!」

 

 僕は発狂した。自分の理性が保てず、隣にいる涼葉の手を取り、薬が効いていながらも立ち上がり、フラフラと歩き出す。

 

 「へぇー、そんなに大事な人ですか・・・・・・」

 

 半ば呆れた神楽の声が耳に入る。

 

 「羨ましいな・・・・・・涼葉・・・・・・」

 

 神楽。彼女は初めて涼葉の名を口にする。その刹那。僕は病室の床に倒れ込む。頭の中身が壊れそうな感覚。気が狂い、意識が遠のくまで奇声を上げ続けるのであった・・・・・・

 

 

 気が付いた先は、薄汚れた廊下。その一部分には、血だまりが見えた。

 

 「ここは・・・・・・どこ・・・・・・」

 

 涼葉が言う。僕は正常に戻り、まだ涼葉の手を握ったままだ。

 

 「ごめん・・・・・・」

 

 僕は手を離す。離す瞬間。柔らかい涼葉の手からは、微かに震えを感じ取れた。

 

 「私たち、さっきまで病室にいたのに・・・・・・? どうして・・・・・・?」

 

 動揺を隠せない涼葉。僕も正常に戻ったとはいえ、この薄汚れた異様な雰囲気の廊下に恐怖していた。すると・・・・・・

 

 「た、助けて・・・・・・! お願い殺さないで・・・・・・!」

 

 血だまりが見える廊下の奥から、誰かが助けを呼んでいた。その声色からして、女性だということだけが理解できた。

 

 「殺されそうになってる・・・・・・助けないと・・・・・・」

 

 「涼葉、駄目だ!」

 

 涼葉は呆然と廊下を歩き出す。僕は慌てて涼葉の手首を掴み静止させるのだが。

 

 「助けにいかないと! 誰かが殺されそうになっている!」

 

 涼葉は言う。動揺しきった表情を隠せずに。

 

 「助けて・・・・・・! 痛い、痛い・・・・・・!」

 

 悲痛な女性の悲鳴にも似た声。僕にはこれが神楽の罠に思えて仕方がない。

 

 「行かないと・・・・・・! 誰かが死んじゃう!」

 

 涼葉は僕の手を振り払い、暗い廊下を走っていく。

 

 「涼葉!」

 

 僕は彼女の名を叫ぶが。戻ってくる気配などない。とにかく涼葉の後を追うしかない僕。暗い廊下を歩き始める。

薄暗くてもそれは理解できた。誰かの沢山の血だまりと、また誰かの返り血が、床と壁に溢れ、こびりついていることを。

 

 『母さんが、お前を妊娠したのが間違いだ! きっと相手は他の男に決まってる・・・・・・! お前の本当の父親は母親の浮気相手なんだよ・・・・・・!』

 

 歩き出したとき、頭の中で憎しみめいた男の声が響く。その声は歩き続けるたびに聞こえるのだ。

 

 『あなたは、幸せですか・・・・・・? ちゃんとした夫と子供がいて幸せですか・・・・・・?』

 

 『つまりお前は、親の金を食いつぶして生きているんだろ・・・・・・? 残忍に殺してやるよ・・・・・・!』

 

 頭の中で響く男の声。男の声が僕に、例えようのない痛みの頭痛を生み出す。僕は片手で頭を押さえながら、廊下を進む。涼葉を追う為に・・・・・・

 

 『そんなに恋人が好きか・・・・・・? 名前ばかり叫びやがって・・・・・・!』

 

 『知ってるぞ・・・・・・お前の彼氏は麻薬中毒らしいな・・・・・・? それでも愛し合って生きているなんて信じられない・・・・・・』

 

 『父親は、顔も知らない誰かだぞ! それでも俺は浮気して子供ができた妻と、その汚れた子を養わなきゃいけないんだ! これがどんな屈辱かお前に理解できるか?!』

 

 廊下を進むごとに、僕の頭痛は酷くなる。

 

 『死刑判決ですか? 絞首刑を待つくらいなら、この傍聴人たちに、俺をなぶり殺しにしろと命じればいいでしょ? どうせ猟奇殺人オタクが、傍聴席を獲得したいばかりに徹夜で並んだのだから』

 

 なぶり殺し。僕にはそれが刺殺に思えた。あのテレビ画面で見た新城正也の。

 

 『・・・・・・俺を殺しても、お前らの家族や恋人は戻らないんだ・・・・・・』

 

 酷い頭痛は、頭が割れそうな偏頭痛へと変わっていた。僕はそれでも薄汚れた廊下を歩き続ける。すると、開けられたままの鉄製のドアがそこにはあった。このドアを開けた張本人は涼葉に違いないと確信し、僕はすでに開かれているドアの向こうへと足を運んだ。

 

 「何だ・・・・・・? ここは・・・・・・?」

 

 神楽に連れてこられたようなもののこの世界。あの病院も異様なら、当然ここも異様だった。周りには鉄製の檻のある牢屋。その中に閉じ込められた者達は一応人間だったらしいが、その面影は無いに等しい。

 

 「私を刺し殺した! 優しいふりして刺し殺した!」

 

 ある牢屋に閉じ込められている見知らぬ女性の腹からは、夥しい血が流れ落ちていた。

 

 「ぼ、ぼ、僕は、く、首を絞められた・・・・・・き、き、気が付けば・・・・・・こ、ここに・・・・・・」

 

 「私も、首を絞められた・・・・・・いつまでもゆっくりと・・・・・・」

 

「俺は・・・・・・! 体をバラバラにされた・・・・・・! この場所で目覚めても、殺された時の痛みが残っている・・・・・・!」

 

 またある者達は、首に強い痣を残した者達や、体中から血を流し、もがき苦しんでいる者もいた。この牢獄を見渡せば、牢屋に閉じ込められている全員が、異様なまでに酷く苦しんでいるように思えた・・・・・・

 

 「大丈夫・・・・・・君はもう休んでいいんだよ・・・・・・こんな苦しみに向き合う必要はない・・・・・・」

 

 「だけど苦しい・・・・・・! あの男にされたことが・・・・・・」

 

 この地獄のような牢獄の中で、僕は涼葉の声と、聞き覚えのない少女の声を耳にする。痛む頭痛に耐えながら、僕は涼葉の声を辿った。

 

 「私は、無理矢理犯されて・・・・・・終わった後・・・・・・刃物で滅多刺しにされた・・・・・・」

 

 「私は担任の先生だった・・・・・・無理矢理裸にされて、襲われた・・・・・・耳元で、いい匂いだって興奮しながら言われた・・・・・・」

 

 確かな涼葉の声。僕がこの牢獄を見渡すと、涼葉は一番奥にある他と比べ随分と狭い牢屋の前にいた。

 

 「涼葉・・・・・・? 涼葉!」

 

 頭痛を堪え、僕は涼葉の下へと駆け寄るが。

 

 「最初を奪われた日・・・・・・私はシャワーを浴びて、必死で触られた感覚を消そうとしたけど・・・・・・無駄だった・・・・・・」

 

 遠い目で、涼葉は牢屋の中にいるかつては人間だった者に、話しかけていた。その人間だった者は、全身が血だらけの女性のようで、苦しそうに見るも無残に、夥しく出血していた。

 

 「だから、自分に錯覚させようとした・・・・・・先生に恋していたんだって・・・・・・触られて幸せだったんだって・・・・・・愛してもいないのに、自分に錯覚させた・・・・・・」

 

 この地獄のような光景を目の当たりにしたせいだろうか? 涼葉は放心状態で、理性を失っているようだ。

 

 「す、涼葉、ここから出よう・・・・・・! とにかく、逃げないと・・・・・・」

 

 僕は狭い牢屋の前に立つ涼葉の手を取り、今にもこの地獄のような監獄を後にしたかったのだが。頭が割れるような頭痛のせいで、その場に崩れ落ち、身動きがとれなくなる。

 

 「駄目だ・・・・・・! 思い出して堪るか・・・・・・! 僕は、忘れたままでいいんだ・・・・・・!」

 

 頭痛の中。何故か、僕は自分にそう言い聞かせていた。そしてまた何故か、苦しそうに涙する神楽の顔が痛む頭の中で浮かぶのだった・・・・・・

 

 「どうした? 苦しいのか?」

 

 それは一人の男性の声。僕が顔を上げると、そこにはあの連続猟奇殺人鬼。新城正也が立っていた。

 

 「立てるか?」

 

 新城正也は、僕に向かって手を差し伸べる。決して信用などできる相手ではないのだが。僕はその手を掴むしかない。僕を立ち上がらせる新城正也。

 

 「その女の子のほうは駄目だな・・・・・・俺の役には立てない・・・・・・」

 

 溜め息交じりに涼葉を見つめながら、新城正也はそう口にする。

 

 「こいつらうるさいだろ? 全員殺してやったのに、まだ人間の言葉を口にしやがる」

 

 無感情に、それも冷徹に新城正也は言葉を吐き捨てる。この牢獄に閉じ込められているのは、連続猟奇殺人事件の被害者たちだと僕に認識させた。

 

 「あ、あんたも殺された・・・・・・被害者遺族に・・・・・・裁判所の前で刺された・・・・・・」

 

 僕は新城正也元死刑囚本人に、彼自身の死を告げるのだが。

 

 「知ってるよ。ああやって死ねて本望だった・・・・・・」

 

 どこか遠い眼差しで、牢屋に閉じ込められている被害者たちを新城正也は見回していた。自らが無残に殺めたであろう者達を、どこか蔑んだ目で見ていた。

 

 「だけど俺の死後はこんな惨めな世界じゃない・・・・・・」

 

 「じゃあ、どんな世界・・・・・・」

 

 僕は新城正也に聞く。この極悪の犯罪者が、一体どんな世界に行きたかったのか。それは地獄か天国か、僕は気になってしまう。

 

 「そこは暗闇だけの世界だ・・・・・・天国も地獄も存在しない世界・・・・・・何も考えられず、感じることのない世界・・・・・・俺はそこにいたいだけだ。浮気癖のある妻や、血のつながらない娘と食卓を囲む必要なんてない世界へ行きたい。だから手伝ってくれ・・・・・・」

 

 新城正也は歩き出す。どういうわけか僕は、その背中についていく。まるで一瞬にして気が狂った気分だ・・・・・・

 

 「優君・・・・・・やっぱり狂った人なんだね・・・・・・」

 

 背後から、涼葉の冷たい声が聞こえた。僕は何となく後ろを振り向くと、そこに正気を失った涼葉の姿はない。神楽によってまた別の世界に飛ばされたのか? 僕は一度だけそう考えるが、すぐに気にもならなくなる。僕は新城正也を追った。彼が、扉の空いた牢屋に入るのが見えた。僕もその牢獄の中へと入ったとき、妙に湿った独特の臭いがした。コンクリート製の床の上に溜まっている水。臭いの原因はその水のようだったのだが。それがすぐに水ではないと認識できた。

 

 「灯油・・・・・・?」

 

 僕が言葉にすると、新城正也は顔色一つ変えずに頷くのだった。湿った独特の匂いの水。正体は灯油だ。

 

 「ほら」

 

 新城正也は、僕にある物を投げ捨てる。それは白いマッチ箱だった。僕は、ただそのマッチ箱を空虚に拾う。

 

 「自分じゃ何度やろうとしても無駄だった・・・・・・だから代わりになってくれ・・・・・・」

 

 新城正也の言葉に、僕はマッチ箱の中身を空けると、迷うことなくマッチを擦る。火が灯されたマッチに向かって、僕は狂った眼差しを浮かべていた。頭の中で、神楽を知る者が一人消えることに、どういう理由か安堵しているのだ。

 

 「・・・・・・苦しんで死んでくれ・・・・・・今度こそ・・・・・・」

 

 火の点いたマッチを、僕は牢屋の中に投げ入れる。酷いことをしたという感覚はなく。犯罪者で元死刑囚を殺した感覚すら僕にはなかった。新城正也に殺された人々が閉じ込められた独房。赤い火が、一つの独房を覆う。僕はその光景を無意識に見つめている。

 

 『いいぞ、死ね!』

 

 『私の恋人がどんなに苦しんでいると思う?!』

 

 「火傷の痛みを味わえ・・・・・・!」

 

 「お前は、焼かれろ・・・・・・!」

 

 「失った・・・・・・あの子との現実を返してくれ・・・・・・」

 

 「よくやったぞ! 小僧!」

 

 灯油により燃える大罪人新城正也。しかし、燃え盛る炎の中。彼は生きている。普通の人間ならば、悶え苦しむ痛みの中で彼は生きていた。新城正也に殺された人々が次々と興奮し、皆が一つの独房に燃え盛る炎を見て狂った歓声を上げていた。

 

 「受け入れない・・・・・・浮気癖ある妻は、毎晩付き合う男を変えていた・・・・・・それに血のつながらない娘は、学校でイジメられ・・・・・・俺は、この二人を養う為に、気が狂いそうに働きずめの毎日を送っていた・・・・・・」

 

 僕の点けた燃え盛る炎の中で、新城正也は自らの苦しい思いを語った。

 

 「こんな屈辱の毎日だぞ?! 見知らぬ誰かを殺すのも当然だろ?!」

 

 炎に包まれる新城正也は、壊れた笑い声を上げる。灯油によって燃え盛る炎の中。元死刑囚は笑い声を上げる。それはようやく自分の人生が終わったことに安堵しているようだった。

 

 「・・・・・・終わった・・・・・・やっと終わった・・・・・・」

 

 その言葉と共に、新城正也は、燃え盛る炎の中で倒れ込み。ジリジリと燃え盛る炎の中で崩れ落ちる。新城正也の言葉は無くなる・・・・・・それは消滅したから・・・・・・

 

 「ああ・・・・・・終われてよかった・・・・・・」

 

 僕は一つの笑みを零すと、自らの頭を両手で押さえる。

 

 「終わってくれ・・・・・・こんな世界・・・・・・沢山だ・・・・・・」

 

 新城正也が燃える炎だけを、僕は見つめていた・・・・・・

 

 

 「・・・・・・私にも、恋ができそう・・・・・・」

 

 二人だけの図書室。頬を赤らめる神楽の笑みが、あの頃の僕の目に映っていた・・・・・・

 

 

 暑い日差しの中。僕は目覚める。立ち上がると、そこには涼葉がいた。

 

 「帰ろう・・・・・・私と一緒に・・・・・・」

 

 涼葉は僕に手を差し伸べていた。まるで握れと言わんばかりに。悪夢のような世界を垣間見た僕は、半ば放心状態だった。

 

 「いい子そうな神楽って子が気になる? それとも・・・・・・」

 

 涼葉のその問い。そしてその次の問いも僕にはわかった。

 

 「精神病院から、逃げてきた私が気になる・・・・・・?」

 

 涼葉は僕に向かって目を細め微笑む。そこに感情など存在していなかった。

 涼葉。微笑む彼女は精神病院を逃げ出して、この人気のない夏町へとやってきたらしい。

 

 「僕は神楽が気になる・・・・・・どうしても気になるんだ・・・・・・」

 

 僕はそう言いながらも、涼葉の手を取る・・・・・・

 

 「あの子は気にしないで、私と二人でいよう・・・・・・お願い、一人が苦しくて、もう生きていくのが嫌なの・・・・・・」

 

 涼葉は自らの孤独を打ち明けながらも微笑んでいた。しかし、その両目からは大粒の涙が零れ落ち始めている。

 

 「わかった・・・・・・もう帰ろう・・・・・・」

 

 僕たちが廃ホテルに戻った頃には、空は夏の夕焼けに支配されていた。夕食の時間が近づいているにも関わらず、僕は食事がしたい気分ではなかった。神楽による悪夢の世界。そこにいた僕。それに無関係な涼葉。思い出すだけで心が恐怖に支配されそうだった。今すぐにでも一人になって落ち着きたい気分だったのだが。

 

 「一人にしないで・・・・・・先生を思い出すし、神楽って子のことも・・・・・・」

 

 無理矢理涼葉を犯したであろう担任の教師。それに正体不明である神楽。涼葉は思い出と現在に恐怖し、僕に抱き着く。

 

 「怖いことを忘れたい・・・・・・それともまさか、汚れている私が嫌・・・・・・?」

 

 涼葉の柔らかい体の感触。その体からは氷以上に冷たい何かを僕は感じてしまう。それは、酷い悲しさに思えて僕は仕方がない。

 

 「君の部屋で私と・・・・・・」

 

 「そうしよう・・・・・」

 

 僕は、涼葉の柔らかい肌に触れたかった。

涼葉は、僕が勝手に住処にしている洋室の部屋へと足を運ぶと、僕の承諾もなしにベッドの上の布団に包まる。

 

 「さぁ、おいでよ・・・・・・」

 

 涼葉は布団の中から僕に手を差し伸べる。僕は、迷わずその白い手を握るしかない。

 

 「女の子は初めてなの・・・・・・?」

 

 「わからない・・・・・・」

 

 涼葉の言葉について、僕はそう答えるしかない。記憶を失っている僕。顔や容姿も思い出せない女の人を抱いたことが、はたして過去にあるのだろうか・・・・・・?

 

 「怖い世界をお互いに見たんだよ・・・・・・だから、今は一緒に肌を感じあおう・・・・・・」

 

 涼葉は、僕の手を握りながら言う。

 

 「私の体、どこでもいい・・・・・・」

 

 僕は、差し伸べられた涼葉の手に従い、布団の中に入る。少しだけ汗ばんだ彼女の体。その感覚が僕に伝わる。

 

 「まずはキスしよう・・・・・・」

 

 蒸し暑い布団の中で、涼葉は告げる。一人の美少女が僕と同じ布団の中にいる。すごく近くにいて、僕とのキスを望んでいるのだが。僕には、彼女にキスする勇気が出せなかった。

 

 「そう・・・・・・それなら私からするね・・・・・・? いい・・・・・・?」

 

 「・・・・・・」

 

 僕は何も答えられずに、ただ涼葉の手だけを握りしめる。彼女の甘い吐息を感じたとき・・・・・・涼葉の柔らかい唇が、僕の唇に触れた・・・・・・

 

 「触っていいよ・・・・・・私の体・・・・・・どこでもいいから・・・・・・」

 

 僕は涼葉の柔らかい胸。脇腹や太もも。それに下着越しではあったが、彼女が商売道具にしている股の下にも手を触れていた。涼葉の吐息はすぐに荒くなり、僕に何度もキスを繰り返していた。あの狂った患者たちが占領している抑止力の存在しない病院。そして、新城正也元死刑囚によって殺された人々が、閉じ込められている悪夢のような牢獄。僕たちをそんな世界へと誘った神楽の存在。思い出すだけで、僕は恐怖し、発狂しそうになるのだが。

 

 「こうしていると・・・・・・怖いことなんて忘れられるよね・・・・・・」

 

僕は涼葉の柔らかい感触により、今、癒されている・・・・・・

神楽によって見せられた恐怖を少しでも無くすために、僕たちはキスを繰り返し、お互いの体を触りあうのだった・・・・・・


第三話 夏祭り

 気温が少し低いだけの朝。僕は目覚める。僕の隣には、スヤスヤとまだ眠る涼葉の姿がある。彼女がほんの少し寝息を立てるだけで、その白い素肌と、ピンク色の乳頭が、布団の中から見え隠れする。

 

 「すぐだったね・・・・・・」

 

 昨日の、夏の夕闇に照らされた涼葉の微笑む顔が浮かぶ。

 

 「・・・・・・ごめん・・・・・・」

 

 情けなく謝罪する僕。

 

 「いいよ・・・・・・本当に好きな人に抱かれたかもしれないから・・・・・・」

 

 昨日のあの日、涼葉が幸せそうな笑みを零したのは、僕の気のせいなのだろうか・・・・・・?

 

 『・・・・・・新城神楽でしょ・・・・・・?』

 

 『・・・・・・頭がおかしくなった父親が殺人鬼だって・・・・・・』

 

 『・・・・・・私、あの子、嫌い・・・・・・根暗だし・・・・・・』

 

 『・・・・・・可愛いのに・・・・・・父親が殺人鬼って・・・・・・』

 

 それらはまるで幻聴のように聞こえた。僕には聞き覚えのない男女の声。それにどれも神楽に関するものに思えた。その幻聴を聞いた途端。僕には誰かに恋をされることはおろか、誰かを愛する資格や人格すらないような感覚に陥る・・・・・・

 

 「優君・・・・・・? 先に起きてたんだ・・・・・・」

 

 目覚める涼葉。その目には、まだ眠気が残っているようで、若干に薄目だったのだが。

 

 「昨日の続きをしたい? 私は別に嫌じゃないよ・・・・・・?」

 

 涼葉は寝ぼけ眼に告げる。途端に僕は狼狽えてしまい、答えなど出せなく優柔不断に陥る。

 

 「うふふ・・・・・・今度は君の好きな時でいいよ・・・・・・」

 

 涼葉は僕に向かってキスすると、僕と一緒にいるベッドの中を後にし、自らが床に脱ぎ捨てた下着を身に着け、そして夏の普段着である白いワンピースへと着替えた。

 

 「・・・・・・やっぱり・・・・・・先生と同じ朝を向かえたキスとは違う・・・・・・君には初恋を教えてもらったよ・・・・・・」

 

 涼葉は嬉恥ずかしそうに、自らの両手で口元を覆った。

 

 「確か、冷蔵庫にパンと卵がまだ少し残っているから、何か作ってみるね」

 

 涼葉は一夜を共にした僕の部屋を後にする。一人になった僕は、昨夜ベッドの下へと脱ぎ捨てた服へと着替える。僕の心の空虚さが支配する中。部屋の隅の影から、神楽が姿を現す。

 

 「あの子・・・・・・涼葉のキスが平気なんだ・・・・・・」

 

 「平気だよ。お前と違って、明るい性格だしな」

 

 あの悪夢のような世界を僕に見せた恐怖の対象神楽に、攻撃的な態度を、僕はどういう訳か見せていた。普通なら恐れているはずなのに・・・・・・

 

 「私とはもうキスができない・・・・・・? あの蒸し暑い日。あの夕暮れの夏のように・・・・・・」

 

 神楽の言葉によって、僕の頭の中で、血管の中の血が、まるで沸騰するような感覚に陥る。僕にもまるで抑えが利かない。

 

 「これ以上僕に付きまとうな! お前の狂った人生なんて僕には関係ない!」

 

 「それでもいい。私は木下君に魅かれているから・・・・・・」

 

 「いいから消えろ! 僕は涼葉と、この夏を過ごしたいんだ!」

 

 僕の中の神楽への恐怖は、無為意識のあまり、激しく醜い怒りへと変わる。神楽は、表情一つ変えず、狼狽えることもなく、無垢に微笑みを浮かべながら、僕を見つめていた。

 

 「図書室で読んだ本の中で、木下君を見た気がする・・・・・・あなたはスキツォフレニア(統合失調症)・・・・・・? それともサイコパス(精神病質者)・・・・・・?」

 

 神楽の言葉。どれも精神疾患だった・・・・・・

 

 「ねぇ、涼葉のことは忘れてほしい・・・・・・お願いだから、私と一緒に・・・・・・」

 

 神楽は僕に向かって手を伸ばす。小さな勇気を振り絞り、僕は神楽の手を取るのだった。

 

 「いいか? 一回だけだぞ? お前みたいに弱い女なんかどうでもいいんだ・・・・・・!」

 

 「いいよ・・・・・・」

 

 神楽の右目から一粒の赤い涙が零れ落ちた瞬間。僕はどこかの学校の図書室にいた。これは僕の記憶の中なのだろうか・・・・・・? 朦朧とした過去を見ている気がした・・・・・・

 

 『ほ、本ばかり読んでる・・・・・・』

 

 僕は一人の少女に話しかけていた。眼鏡を掛けたピンク色のショートヘアの少女。最初は僕の言葉を無視し、ある本だけを熱心に読んでいた。それもどこか怯えた様子で。

 

 『一人にして・・・・・・誰も話しかけないで・・・・・・お願い・・・・・・』

 

 それは怯えきった神楽の姿だった・・・・・・

 

 僕は、まるで水の中にて、溺れる感覚に陥る。今にも息が苦しく・・・・・・溺れ行く自分を感じるのだった・・・・・・

 

 「優君!」

 

 その刹那。涼葉が僕の部屋へと当然に入って来る。

 

 「私の部屋に来て見てよ! 生まれて初めて目玉焼きに成功したんだから」

 

 涼葉は嬉しそうで、どこか満足気だ。僕がこの部屋の隅に目をやれば、神楽の存在は消えていた。まるで、最初から存在しなかったように・・・・・・

 

 「卵料理。それも目玉焼きなんて、いつも焦がしてばかりだったんだよ・・・・・・」

 

 涼葉は言葉を続ける。

 

 「それなのに、今朝は成功した。優君のおかげかな?」

 

 「それは、どうして・・・・・・?」

 

 「だって、先生や、あの性欲に飢えた子たちより・・・・・・君と私は愛し合えたからじゃない?」

 

 涼葉は、その白い肌を少し赤らめ、うっとりと答える。

 

 「君に触れられたとき、全然嫌じゃなかったもん」

 

 お互い体を許しあった仲。それでも僕の失われたはずの記憶半分が、涼葉との恋を邪魔する。

 

 『・・・・・・好きな男の子とのキスは、夢だよね・・・・・・うふふ・・・・・・』

 

 それは嬉しそうな神楽の声。

 

 『・・・・・・本当に愛されたい・・・・・愛されたい・・・・・・でも、誰にも愛されない・・・・・・』

 

 まるで愛情に飢えた彼女の言葉。最後は沈んでいるように思えた・・・・・・

 

 「今が嬉しい。愛しているって言葉がつかえそうだから・・・・・・」

 

 暗い神楽の幻聴とは裏腹に、涼葉は明るく、とても嬉しそうだった。

 

 「・・・・・・僕は、いい人間じゃない・・・・・・」

 

 自然とその言葉は、僕の口から漏れる。勿論、とても嬉しそうな涼葉には聞こえない声だった。自分でも、どうしてそんなことを口から漏らしたのか理解できない。

 

 「そうだ。朝食を済ませたら、商店街へ行こう」

 

 嬉しそうに提案する涼葉。この夏町の商店街。そこは神楽によって、狂った悪夢のような世界を見せられた場所だ。

 

 「昼食と夕食は、豪華にしよう。それにあの商店街には、前から足を運びたかった古着屋があるんだよ」

 

 涼葉。おそらくどこかの精神病院を抜け出し、この夏町へとたどり着いたに違いなかった。それは、あの悪夢が証明している。

 

 「家に帰らなくていいのか・・・・・・? この寂れた町で暮らしているのが幸せか・・・・・・?」

 

「幸せだよ」

 

涼葉は顔色一つ変えず、答える。しかもその綺麗な顔は、笑いかけるような錯覚を僕にさせる。

 

「神楽に・・・・・・もう一度あんな悪夢のような世界を見せられたら・・・・・・」

 

 僕も人の事はいえないが、きっと彼女の正気は、永遠に失われることであろう。

 

 「黙って・・・・・・」

 

 涼葉は、二本の指を僕の唇に押し付ける。それも真剣な表情で。

 

 「あの子の名前は口にしないで・・・・・・それに私はどこもおかしくない・・・・・・無理矢理壊れたことにされただけ・・・・・・」

 

 涼葉の暗い過去。彼女を犯して手なずけたであろう男性教諭の顔が、嫌でも頭の中で浮かんでしまう。ただ許せないという感情だけが、僕の中で小さく湧き上がるのだった。

 

 「いい? 私は正常・・・・・・」

 

 僕の唇に二本の指をあてたまま、涼葉は小首を傾げて微笑む。僕が静かに頷くと、二本の指をようやく退けてくれた。

 

 「じゃあ、食事にしよう」

 

 涼葉は落ち着いた笑みを浮かべ、僕を食事に誘ってくれるのだった。こんな僕なんかを・・・・・・

 

 『・・・・・・あいつ・・・・・・木下優・・・・・・』

 

 『・・・・・・私、あいつ嫌い・・・・・・』

 

 

 どうしてだろうか? 涼葉が傍にいるというのに、僕は劣等感と孤独に襲われる。まるでずっと一人だった気分だ。

 

 「ほら、目玉焼きが覚めちゃうよ」

 

 孤独な僕の手を気が付けば、涼葉が握ってくれていた。

 

 「寂しそうだね? どうかしたの?」

 

 溢れんばかりの涼葉の可愛らしい笑顔。どういうわけか、その笑顔に僕は安心感を取り戻す。過去の記憶を失ったことなど忘れて、涼葉の笑顔を見つめてしまう。

 

 「また、キスでもしたい?」

 

 涼葉は目を細め、常に笑顔だ。

 

 「しょ、食事がしたい・・・・・・!」

 

 思わず声が裏返る僕。

 

 「もう、いつでもしてあげるのに、君には欲がないなー・・・・・・」

 

 残念そうであり、尚且つ不満そうな涼葉。このとき、僕の中である一つの疑問が浮かんでしまう。それは頭の中で、何かが息を吹き返したかのような感覚だ。僕と涼葉は恋人なのか? 僕に、人を愛せる資格があるとでも・・・・・・?

 

 (・・・・・・あるはずないだろ・・・・・・)

 

 僕の疑問に頭の中の誰かが、蔑んだ声で答えを出してくれていた。

 

 「君、またボーっとしてるよ」

 

 涼葉の声に僕は我に返る。彼女の表情は、どこか呆れ顔で僕を見ていた。

 

 「ご、ごめん・・・・・・」

 

 僕が謝罪すると、涼葉は軽い溜め息を吐く。一瞬僕は彼女を怒らせたのではないのかと、不安になるのだが。

 

 「いいよ。それより目玉焼きが冷めちゃうよ」

 

 涼葉はいつもの笑顔を見せ、快く僕を朝食に誘ってくれるのだった。

 

 朝食を終えると、僕たちはまだ明け方の涼しさが残る田舎道を歩いていた。辺りからは、徐々に蝉の鳴き声が聞こえ始めている。

 

 「それにしても料理っていいよねー、とくに調理しているときが、私にとって一番の幸せかな?」

 

 涼葉は自らの失態を、偽りの自信で覆い隠していた。

 

「美味しいとかは関係ないの。大事なのは食べてもらう人に贈る気持ちだよ」

 

 その気持ちを贈られた僕は、涼葉が目玉焼きにかけ過ぎた塩によって、何杯もの水を飲み干していた。廃ホテルを後にしている今でも、まだ喉がヒリヒリと痛む。

 

 「の、喉が・・・・・・」

 

 「古着屋にいい服あるかな? アクセサリーとかも、売っていたら嬉しいな」

 

 彼女の料理によって被害をこうむった僕。涼葉はそんなことなど気にも留めず、悠々と田舎道を歩き、あの寂れた商店街を目指すのだった。

 

 

 「相変わらず人気ないな・・・・・・」

 

 喉の痛みも少しは和らぎ、僕は寂れた商店街の印象を口にしていた。

 

 「夏町はいつもそうだよ。ただ少しの店があるだけ」

 

 一人、夏町の商店街を歩き出す涼葉。

 

 「涼葉!」

 

 僕は思わず涼葉を呼び止めていた。彼女は後ろを振り向き、不思議そうな面持ちで僕を見る。

 また神楽が姿を現したらどうする? 僕はそのことが不安で、それでいて恐怖で仕方がない。

 

 「あの子は関係ない。もう大丈夫だから。私は君と二人で、この夏町での日々を過ごしたい」

 

 涼葉は僕の不安と恐怖を察していた。

 

 「またあの悪夢の世界につれて行かれても、私は君の事だけを思うから、平気だよ・・・・・・」

 

 その色白の頬を赤らめる涼葉。しかし、その体には、すでに夏を感じさせる光が辺りを支配させているというのに、小刻みに震えているのを僕は見逃さなかった。

 

 「だから、もう行こうよ」

 

 涼葉は僕に向かって手を差し伸べる。その小刻みに震えた手を・・・・・・

 

 

 古着屋へと到着した僕と涼葉。僕は辺りを見渡し、神楽の姿はないことに安堵した。その刹那・・・・・・

 

 「・・・・・・自分自身に気づく夜になるよ・・・・・・きっと・・・・・・そして今もその兆候がある・・・・・・」

 

 寂れた向こう側の商店街。そこで神楽の笑う姿が僕には見えた。

 

 「さぁ、入ろう古着屋へ!」

 

 喜ぶ涼葉に手を引っ張られる僕。どういう訳か、僕の背筋には悪寒が走り嫌悪感が湧く。そして許せない怒りが心の中で溜まっていくのだ。

 

 (・・・・・・僕に優しくしやがって・・・・・・!)

 

 涼葉。ただ彼女への殺意が僕の中で強い気持ちで湧き出ていた。

 

 「あ、ああ、似合う服があるといい・・・・・・」

 

 僕は自然な言葉を涼葉に口にしながら、心の中では彼女をこの手で殺してやりたいと思った。そして今すぐに死んでほしいと・・・・・・心から願った・・・・・・純粋に・・・・・・

 

 「この白いシャツ。ジーンズといい相性かも」

 

 涼葉にとって前から足を運びたかった古着屋。彼女は子供のように喜びながら、ほんの小さな古着屋の店内を見て回っていた。

 

 「この白いスカート、大人の女性に見えるかな?」

 

 僕に向かって涼葉は問いかける。

 

 「ねぇ? どうかな?」

 

 涼葉は小首を傾げ笑みを浮かべながら、僕の答えを待っているようだ。手に持つ白いスカートが似合うか似合わないかの。

 

 「・・・・・・してやる・・・・・・」

 

 「え?」

 

 不思議そうな面持ちで僕を見る涼葉。僕は、今にも声に出しそうな言葉を、必死で堪えるのだが。その声は、心の中で叫び始める。まるで僕にしか聞こえない幻聴のように。

 

 (・・・・・・馴れ馴れしい、この女・・・・・・! 殺してやる・・・・・・! とても酷く苦しませながら・・・・・・!)

 

 僕の心の中で、醜い化け物。モンスターが、涼葉への殺意を露わにし、狂気していた。今にも、このモンスターが僕の体を乗っ取り、目の前の彼女を殺そうと先走るのが、どういうわけか理解できた。

 

 「あ!」

 

 そんな僕の気を知らず、涼葉は店の奥へと駆け寄っていく。

 

 「・・・・・・涼葉、どうした・・・・・・? 戻ってこいよ・・・・・・」

 

 僕は、フラフラと彼女の後を追う。

 

 (・・・・・・そうだ・・・・・・首を絞めればこいつは息ができない・・・・・・)

 

 モンスターは、心の中で呟く。

涼葉は、何やらこの古着屋の壁に貼られたポスターを、夢見る普通の少女のように眺めていた。

 

 (チャンスだ・・・・・・殺そう・・・・・・殺すんだ・・・・・・)

 

モンスターの異様な笑い声だけが僕の心の中で響く。

 

 「・・・・・・涼葉を殺したい・・・・・・」

 

 この古着屋の店内で、誰にも聞こえないモンスターの声。僕は今にも涼葉の細い首を、後ろから、絞めたい・・・・・・

 

 「・・・・・。殺せない・・・・・・」

 

 それは記憶を失っているもう一人の僕の声だった。

 

 「お祭りだって」

 

 涼葉は僕に向かって振り向き、その蒼い瞳をワクワクさせているようだった。

 

 「祭り?」

 

 僕は何食わぬ顔で聞き返す。どういうわけか、涼葉への殺意は平然と消えていた。

 

 「この夏町の夏祭り、それも今夜だよ。それに、打ち上げ花火もあるらしいよ」

 

 僕は涼葉が見ていたポスターに目をやる。そのポスターは、背景が夜で、ただ紫の打ち上げ花火が写しだされた非常にシンプルな物だった。ポスターの片隅には、恐らく今日の日付と、時刻が記されていた。

 

 「これで決まったね!」

 

 とても楽しそうな涼葉の笑顔。その笑顔は、僕にとって強引なもの思えるのは気のせいか?

 

 「浴衣を買おう。女用と男用。両方買おう」

 

 涼葉の提案。

 

 「すいません! 浴衣はありますか?!」

 

 涼葉はレジに立っている女性に向かって、大声を出す。

 レジの女性は、隅にある棚を無表情に指差すだけだった。愛想のないレジの女性に、何の嫌悪感もない様子で、涼葉は古着の浴衣がある。棚へと向かっていく。

 

 「わー。優君。いっぱいあるよ!」

 

 涼葉はその蒼い瞳を輝かせながら、棚に並べられた一枚の白い浴衣を両手に取った。その白い浴衣の柄は、鮮やかなアサガオで、とても古着には思えない新品同様の代物だった。

 

 「へぇー・・・・・・古着なのにどうして・・・・・・?」

 

 不思議と僕も黒い浴衣を手に取ってみた。これも新品同様で、かつて誰かが着ていたとは思えない古着。浴衣だった。

 

 「これ、気に入った。これにしよう」

 

 涼葉は結局、最初に両手に取ったアサガオの浴衣を選ぶ。

 

 「優君は? どれにする?」

 

 「これでいい・・・・・・」

 

 僕は既に手に取っていた黒い浴衣を選ぶ。するとそのとき、浴衣に貼られた値札に目が行く。

 

 「げ・・・・・・」

 

 それは学生が、もしくは身元も定かじゃない少年が手を出すべき値段ではなかった。

 

 「やったね、優君! これで借金がまた増えたね!」

 

 そんな僕の様子を察したのか、涼葉はとても嬉しそうな笑顔を見せる。それにどこか余裕も感じさせた。

 

 「えっと、宿代に、食事代に、あとはこの浴衣の支払い」

 

 現時点で僕は無一文。この浴衣の支払いはいつか返せる日があったとしても・・・・・・

宿代とはあの不法に住み着いている廃ホテルのことで。食事代とは、涼葉が用意したレトルト食品か、もしくは彼女が失敗した今朝の目玉焼きのことであろう。

 

 「冗談だよ。ねぇ?」

 

 笑みを浮かべながら僕に笑いかける涼葉。そうだ、レトルトの料理とあの失敗した目玉焼き。そんなものに金を請求されて堪るか。

 

 「とにかく支払をすませよう」

 

 涼葉は自らが選んだアサガオの浴衣を持って、レジへと向かい。僕もその後ろについていく。自分が選んだ黒い浴衣を持って。

 

 「はい、二着の浴衣ですね・・・・・・」

 

 レジの女性は、非常に愛想などまったく見せない態度で、僕と涼葉が選んだ浴衣を、紙袋に詰める。

 

 「はい、これ」

 

 涼葉が浴衣の代金を払うと、レジの女性は、僕達を半ば呆れた笑みで見つめるのだった。

 

 「あなた達、夏祭りに行くんでしょ?」

 

 言い当てる女性。浴衣を購入したことで、僕達が夏祭りに行くのを推測したのであろうか?

 

 「それなら、この町の住人じゃないね・・・・・・何も知らない観光客はいつもそう・・・・・・明くる日には、買った浴衣を売りに来る・・・・・・商売の迷惑で最低な観光客がほとんど・・・・・・」

 

 軽く嫌味を浴びせられた気分の僕。涼葉は

 

 「どうもありがとう。さぁ、優君、行きましょう・・・・・・」

 

 持ち前の溢れんばかりの笑みで、僕の手を握り、古着屋を後にした。

 

 「嫌な気分!」

 

 まだ古着屋の店先だというのに、涼葉は自らの怒りを口にした。

 

 「お、おい・・・・・・!」

 

 僕は一気に不安になり、後ろを振り向くと、ガラス越しに古着屋のレジに立つ女性店員が、涼葉の後ろ姿を睨み付けていた。

 

 「あーあ、いい店だと思ったのに、嫌な気分だなー!」

 

 涼葉はあきらかに、店先でもあの店員に聞こえる声で叫ぶ。

 

 「よ、よせ!」

 

 僕は涼葉の手を引っ張り、古着屋の店先から遠ざかろうとするのだが。

 

 「嫌い! とても嫌い!」

 

 涼葉の悪あがきのような暴挙は、最後まで続いた。

 

 古着屋から遠ざかった僕達。涼葉は不満そうに商店街の奥に見える蜃気楼を見つめていた。

 

 「田舎の夏祭りが珍しいだけじゃない・・・・・・だから、浴衣を買ったのに・・・・・・」

 

 涼葉の奥底の怒りは、静かに続き、収まる気配がない。

 

 「帰って休まないか・・・・・・? 今日はとても暑いし、涼んだほうが・・・・・・」

 

 涼葉をなだめる僕。

 

 「今から帰っても冷蔵庫は空だよ」

 

 静かに怒りながら涼葉は告げる。

 

 「それに忘れたの? 昼食と夕飯はとびきり豪華にするから」

 

 古着屋を経て、再び買い物のスタート。次は食材。

 

 「はい、荷物持ちは優君だからね」

 

 

 涼葉は浴衣の入った紙袋を、無理矢理僕に持たせると、一人商店街の奥へと進む。

 

 「あ、涼葉・・・・・・」

 

 僕は彼女の名を呼びながら、後を追うのだが。涼葉が僕に向かって振り返ってくれることはなかった。どうやら古着屋での出来事が相当頭にきているようだった。

 

 「す、涼葉・・・・・・」

 

 僕は涼葉に追いつく。

 

 「怒ってる・・・・・・?」

 

 「・・・・・・」

 

 僕が聞くと、涼葉は無言の笑みを零し、商店街の奥にあるスーパーへと入っていく。

 

 寂れたスーパーの内部。この時間の客は僕ら二人だけのようだ。

 

 「そうだねー・・・・・・昼食はナポリタンにして、夕食はサラダとカレーにしよう」

 

 ナポリタン。そしてサラダにカレー。涼葉は決して料理上手ではない。彼女にそんな料理が果たして作れるのか、僕には疑問なのだが。

 

 「た、楽しみだなー・・・・・・涼葉の料理が・・・・・・」

 

 それは疑いに塗れた僕の言葉。涼葉は、どこか冷めた表情で僕を見つめる。

 

 「本当? 本当に楽しみ?」

 

 そう聞いてくる涼葉の目、それは不機嫌そのものだった。

 

 「あ、ああ・・・・・・今すぐにでも空腹になりたい・・・・・・」

 

 僕が答えると、涼葉はようやく明るい笑みを零してくれた。

 

 「もう、君は仕方ない人だねー」

 

 涼葉は古着屋での怒りを忘れ、非常に元気よく、スーパーでの買い物を始めた。

 

 「頼む・・・・・・お願いだ・・・・・・」

 

 嬉しそうに買い物する涼葉に、向かって僕は願う。

 

 「優君。ナポリタンはやっぱり辛口だよね?」

 

 どうせなら、ちゃんとした料理を食べさせてくれと・・・・・・

 

 

 商店街でも買い出しを終えた僕たちは、廃ホテルへの帰路についていた。二人分の浴衣が入った紙袋に、沢山の食材が詰められたスーパーの袋。荷物持ちは当然僕で、額からは大粒の汗が流れ落ちている。

 

 「え? まさか重いとか言うつもりじゃ・・・・・・?」

 

 涼葉は口元に手をやり、随分とワザとらしい態度を見せる。

 

 「嫌な思いをしてまで買った浴衣は随分な値段だったんだよ?」

 

 「はい、わかってます・・・・・・」

 

 僕がもう折れているにも関わらず、涼葉はそのワザとらしく驚いている様子をやめない。

 

 「食材選びも大変だったんだよ? 昼食のナポリタンに、カレーの材料。それから調味料も随分悩んで選んだのに・・・・・・」

 

 その悩んで選んだ調味料の入ったスーパーの袋が、僕を苦しめているのだが。

 

 「はい、涼葉さんにはちゃんと感謝しています・・・・・・」

 

 汗だくで無一文の僕は彼女に服従するしかない。

 

 「そうだよねー。それなら歩くしかないよねー」

 

 手ぶらな涼葉は悠々自適に歩き出すのだが、僕は気合を入れて、この暑い夏の日差しの中、重い荷物を両手に持たされて、歩くしかない・・・・・・

 

 廃ホテルにたどり着くと、僕はぐったりとして、かつてはロビーとして使われていたソファの上へと倒れ込んでいた。

 

 「すぐに昼食の支度をするから休んでいて」

 

 涼葉は僕が重そうに持っていたスーパーの袋を、軽々と持ち、廃ホテルの奥へと消える。最初に出会った頃、僕を殴って気絶させたのも頷ける。

 

「か、体を・・・・・・バラバラにしてやる・・・・・・」

 

 僕の口から漏れた言葉。僕は、その人物。もう一人の自分に必死で抗う。そばには古着屋で涼葉が、買った浴衣が紙袋からはみ出ていた。 

 

「・・・・・・夏祭り・・・・・・そうだ・・・・・・夏祭りが僕は楽しみなんだ・・・・・・」

 

 これは歪んだもう一人の僕だろうか? まるで感情の抑えが利かず、この廃ホテルに住む一人の人間を殺しそうだった・・・・・・凶器はないが、両手ならある・・・・・・

 

 「やめろ! あの子には何もするな!」

 

 ソファから立ち上がり堪らず僕は叫んだ。それはもう一人の自分に向かってであろうか? もとから静まり返っているロビーを見渡す僕。叫んだ声を涼葉に聞かれた形跡もなく、誰に対しての殺意も湧かない。大丈夫、僕は正常だ。

 

 「・・・・・・大丈夫だ・・・・・・誰も傷つけたりしない・・・・・・」

 

 僕は一人、ソファの上に静かに座り込んだ・・・・・・

 

 

 「優君?」

 

 僕の名を呼ぶ涼葉の声に、我に返る。

 

 「え・・・・・・?」

 

 僕が顔を上げると、涼葉は不思議そうな面持ちで僕を見つめていた。

 

 「ずっとここにいたの・・・・・・?」

 

 ずっとここにいた? 僕はただ座って落ち着いていただけだ。

 

 「さっきまで一緒にいただろう?」

 

 どこかぎこちない笑みを浮かべながら僕はそう言う。

 

 「さっきまで? もうすぐ夕方だよ・・・・・・?」

 

 涼葉の言葉に僕は我が耳を疑う。僕と涼葉は、午前中にはこの廃ホテルに帰っていたはずだ。きっとまた涼葉のワザとらしい悪ふざけに違いないと、僕が窓の外に目をやると、外は夏の夕日に照らされていた。

 

 「あの子に、また狂った世界を見せられた・・・・・・?」

 

 その形跡は、僕自身にはない。神楽が僕に狂った世界を見せていたら、強烈な記憶として残っているはずだ。しかし、それがない。

 

 「僕は、座っていただけだ・・・・・・そうだ・・・・・・座って・・・・・・」

 

 『・・・・・・まずはあの綺麗な蒼い両目・・・・・・潰してやる・・・・・・俺の姿を映しやがって・・・・・・』

 

 このソファに静かに座った後の記憶が微かに蘇る。

 

 『・・・・・・い、命乞いした後に、こ、殺してやる・・・・・・惨忍に・・・・・・』

 

 空白の現実。僕が正常でないことを思い知る。まるで突然に、違う誰かが僕の体を乗っ取ったかのようだ。

 

 「もしかして気分でも悪いの・・・・・・?」

 

 心配そうな涼葉の問いかけに

 

 「大丈夫・・・・・・僕は平気だ・・・・・・」

 

 意気消沈しながらも僕は嘘を吐き、弱々しく彼女に向かって微笑んで見せた。

 

「平気なんだ・・・・・・」

 

本音は今すぐ一人してほしかった。ベッドの上で横になり、いつまでも眠りたい気分だ。

 

 「お昼のナポリタン・・・・・・冷蔵庫に入れておくね・・・・・・」

 

 涼葉は僕の気を察したとばかり思った。しかし

 

 「完成させるのに夕方まで掛かっちゃった・・・・・・あはは・・・・・・」

 

 妙な照れ笑いだけを僕に浮かべ、決してその場を去る気配がない。

 

 「一人にしてくれ・・・・・・」

 

 我慢できず。僕は涼葉に向かって言ってしまう。

 

 「しないよ」

 

 素の表所に戻った涼葉は、僕にそう一言口にするのだった。

 

 「一人にしてくれ・・・・・・僕は神楽が怖いし・・・・・・今じゃ自分まで怖くなっている・・・・・・」

 

 僕は、同じ歳くらいの少女に弱さをさらけ出す。

 

 「駄目だよ。私は君に恋してる。だから、君も私に恋をして・・・・・・」

 

 ただ愛されたい。これが涼葉の本性に思えた。

 

 「もし君が、先生と同じで未成年の未発達な柔らかい体が目当てなら、私は君を許さない・・・・・・」

 

 涼葉の蒼い瞳を僕は見つめた。そこには、孤独と悲しさ、そして神楽ほどではない異常さが、垣間見られた気がする。

 

 「さて、今日はいい夕日だね・・・・・・自分が汚れたことなんて忘れてしまうぐらいに綺麗な夕日だよ・・・・・・」

 

 涼葉は窓の外へと、どこか空虚に外の夕日を見つめた。

 

 「先生との最初の日も、こんな夏の夕日だった・・・・・・泣き叫んだよ。それはもうとても痛くて・・・・・・」

 

 それは涼葉の身に起こった過去の悪夢。その一部にすぎないであろう。

 

 「よせ! やめろ!」

 

 僕は堪らず涼葉に向かって大声を出す。彼女はその口を閉じ、無表情に僕を見つめていたのが。

 

 「うふふ・・・・・・冗談だよ」

 

 随分と柔らかな笑みを浮かべる涼葉。僕には冗談には思えない。

 

 「さぁ、もう夜になるよ。浴衣ぐらいが心地いい涼しい夜になるといいね」

 

 「夏祭り・・・・・・行くつもりか・・・・・・?」

 

 「勿論。優君との最初のデートだもん」

 

 楽しそうな涼葉。僕は何かに疲れ切った様子で彼女を見ていた。

 

 「着替えよう。せっかく買った浴衣に」

 

 

 自分の部屋に戻った僕は、浴衣へと着替える。洗面台で顔を洗い、気を落ち着かせようとする。ふと、洗面台の鏡に映る自分に目が行く。

 

 「僕は誰だ・・・・・・? 過去に何があった? 両親は? 友達は? 神楽は僕とどういう関係なんだ・・・・・・?」

 

 自らの疑問を鏡の僕へとぶつける。すると、どういうわけか。頭の中で、幻聴のような声が意思とは関係なく聞こえ始めてきた。

 

 『・・・・・・あいつ、また停学だって・・・・・・』

 

 『・・・・・・この前、少し話しかけただけで私、睨まれた・・・・・・』

 

 『・・・・・・どうせ頭の病気だろ・・・・・・?』

 

 『・・・・・・あの新城神楽を見ていた・・・・・・危なそうな目で・・・・・・』

 

 頭の中の声。僕は少しだけ本来の自分が理解できた気がした。

 

 「本当に僕なのか・・・・・・?」

 

 鏡の中の自分に問いかけるも、答えなど幻聴以外には、返って来なかった・・・・・・

 

 『・・・・・・そ、そう怯えるなよ・・・・・・神楽・・・・・・』

 

 『・・・・・・下の名前で呼ばないで・・・・・・!』

 

 神楽のまるで悲鳴のような声。僕は思わず両耳を手で覆うが。

 

 「そうだ。今夜は夏祭りだ」

 

 次の瞬間には、僕は正常に戻っていた。

 

 

 間もなく夜になろうとしている廃ホテルの外。そこにはアサガオの浴衣を着た涼葉が、僕を待っていた。

 

 「に、似合う・・・・・・? ゆ、浴衣を着たのは、初めてなんだ・・・・・・」

 

 恥ずかしそうな涼葉に僕は

 

 「似合う。とても綺麗だ・・・・・・」

 

 そう答える。こんな言葉を使える自分。僕はそれだけで幸せだ。

 

 「君も素敵だよ・・・・・・だから手を繋いでほしい・・・・・・」

 

 涼葉が差し伸べる手を、僕が握った途端。彼女はその白い肌を赤らめ、安心に満ちた笑みを零す。

 

 「夏祭りの会場に付いた頃には、夜になっている。夏の打ち上げ花火が、綺麗に見えるよ・・・・・・」

 

 

 夏祭りの会場。そこは寂れた広い神社だった。出ている夜店は、たったの二件。かき氷屋と、くじ屋。一つの店の店主は、退屈そうにしている。そのもう一方は欠伸をし、退屈そうに新聞を読んでいた。

 

 「真っ黒だ・・・・・・それでも少し明るい・・・・・・」

 

 僕が夜の空を見上げると、そこには月の光が微かに届く明るさで、暗い曇った雲が、今にも微かに明るい月を覆い隠しそうだった。

 

 「あはは・・・・・・みんなが古着屋に浴衣を売る意味がわかるね・・・・・・」

 

 この夏祭りに訪れた観光客達は、きっとおろしたての浴衣を着ていたのだろう。それは本当の恋人同士。それか、体目当ての男か女の男女に貢いだのであろう。

 

 「かき氷食べる・・・・・・? それともくじ屋で遊ぶ・・・・・・?」

 

 かき氷、くじ屋。そのどちらも僕の興味を引かない。見たところ、この夏祭りの会場に訪れたのは、僕と涼葉の二人だけのようだった。

 

 「こうなったら、花火だね・・・・・・あはは・・・・・・」

 

 ぎこちなく笑う涼葉。まさか夏町の夏祭りが、これほどまで寂れているとは夢にも思わなかったのであろう。

 

 「もう帰ろう・・・・・・」

 

 僕は提案するのだが。涼葉はとても楽しげに、後ろを向き、僕を見た。

 

 「きっと綺麗に咲くよ。夏の暗い空を照らしてくれる」

 

 涼葉は一瞬だけ目を細め、すぐに神社の奥へと消えていく。

 

 「お、おい、涼葉・・・・・・!」

 

 僕は彼女の後を追う。空は暗く夜に姿を変えていた。もしここで神楽に襲われたらと、僕は強い不安と恐怖に駆られた。

 

 神社の奥。そこは柵の一つもない高台だった。その下には、暗い海が広がっている。

 

 「ここなら、花火がよく見えそうだよ。優君もこっちに来てごらんよ」

 

 能天気な涼葉は暗がりの中で、僕に向かって手招きしているのがわかった。

 

 「僕が・・・・・・神楽に見つかったらどうする・・・・・・? この女・・・・・・」

 

 僕は涼葉へと歩み寄り、静かな怒りを露わにする。対する彼女には、まるで聞こえていないようで、ただ花火が上がるであろう夜空だけを気にしていた。

 

 「・・・・・・殺そう・・・・・・」

 

 僕は静かにその言葉を口にする。僕の両手に力が入る。涼葉の首を絞め、この高台の下にある暗い海へと落とすくらい平気だった。

 

 「どうしたの? 早くおいでよ」

 

 僕はその言葉に従った。

 

 「キスする? それとも抱き合う?」

 

 暗がりの中で、涼葉が楽しく笑ったのが見えた。

 

 (・・・・・・僕に向かって、笑うな・・・・・・)

 

 激しく静かな怒りが、僕の中で息を吹き返す。

 

 『・・・・・・あいつ、絶対に変だ・・・・・・』

 

 『・・・・・・相手にしちゃ駄目だよ・・・・・・』

 

 聞こえてくる幻聴。その幻聴は僕を不快にさせ、怒りを込み上がらせるのに十分だった。

 

 「私は抱き合うよ・・・・・・キスは気の向いたときでいい・・・・・・」

 

 気づいたときには、涼葉は僕に抱き着いていた。柔らかい女の子の感触。どういうわけか、僕の怒りは収まっていく。涼しくても夏の夜のせいだろうか? 涼葉の体は火照り、とても温かい印象が僕に伝わる。

 

 「好きだよ、優君。愛している・・・・・・私がやっと、この言葉をつかえた人・・・・・・」

 

 「・・・・・・」

 

 愛を伝える涼葉に、僕は無言で、ただ暗い海の向こうだけを空虚に見つめていた。

 

 「嫌いでもいい・・・・・・私は好きだから・・・・・・」

 

 涼葉がそう告白したとき、大きな音と共に、暗い夜空に光が浮かぶ。それは七色の光。

 

 「綺麗だね・・・・・・うふふ・・・・・・」

 

 花火が、海の向こうで上がった。涼葉は僕に抱き着いたまま、打ち上がられる花火を見ていた。

 僕も、この花火の光を心から綺麗だと思いたいのだが、僕の中にいる誰かが邪魔していた。頭の中で、彼は醜く狂った怒声を上げる。

 

 (・・・・・・殺せ・・・・・・! 今すぐに殺せ・・・・・・! 俺はそいつの死ぬ瞬間が見たいんだ・・・・・・!)

 

 これが忘れた記憶を思い出すということなのだろうか・・・・・・? 僕は酷い頭痛に襲われ、今にも意識が狂気的な彼と入れ替わりそうだった・・・・・・

 

 「お、女の子と、こうして観られる花火は・・・・・・幸せだ・・・・・・」

 

 僕のその言葉。それは彼に抵抗を見せたものに違いない。その証拠に、暗い海に打ち上げられる花火は、僕にとって、何の美しさも感じさせない。ただ、花火の上がる音が、僕の頭痛を酷くさせているだけだ・・・・・・

 

 「そうだね・・・・・・君がこの町にきてくれてよかった・・・・・・君と出会えてよかった・・・・・・」

 

 僕に抱き着いたまま、涼葉はうっとりと口にする。僕の頭痛のことなど、感づいた様子もない。

 

 「好きな人が、そばにいてくれて、本当に幸せ・・・・・・薬漬けの日々なんか、一瞬で忘れられそう・・・・・・」

 

 それは精神病院へと無理矢理入院させられた涼葉の嘆きだろう。

 

 「私をもっと助けて・・・・・・先生を忘れられるまで・・・・・・」

 

 涼葉は僕を強く抱き締める。自らが愛した先生に捨てられ、悲しく精神病院送りにされた涼葉。だから彼女は次がほしかったのだ。次に愛してくれる人が・・・・・・

 

 「木ノ下君は駄目・・・・・・」

 

 「それはどうして駄目? 可愛いお嬢さん?」

 

 暗い空の下。そこには神楽がいた。

 

 「私は優君と恋して、一緒にいたい・・・・・・このまま一生を・・・・・・過ごしたい・・・・・・」

 

 「私は木ノ下君と、向こうの世界で生き続けたいな・・・・・・」

 

 涼葉の願いと、神楽の願い。

 

 「ぼ、僕は・・・・・・」

 

 神楽の存在に恐怖しながらも、僕は答えようとしていた。涼葉と神楽。そのどちらかに決めようとしていたのだが。

 

 「答える必要なんて君にはない・・・・・・どうか、あの子に惑わされないで・・・・・・」

 

 それは何も知らない涼葉だった。ただ僕の手を引っ張り、未だに花火が上がり続けている高台を後にしようとしていた。

 

 「木ノ下君。まだ間に合うよ・・・・・・私とおいで・・・・・・」

 

 背後から聞こえる神楽の声。僕の背筋は恐怖とはどこか違う感覚に震えあがる。

 

 「気にしちゃ駄目・・・・・・」

 

 涼葉は僕の手を強く握った。

 

 「まだ生きている私と過ごし続けるほうが、ずっと幸せだよ・・・・・・」

 

 それが涼葉らしい正論なのであろうか? 僕には、彼女が一人でいたくない。孤独は嫌だという感情だけが感じ取れたのであった・・・・・・

 

 「その子は・・・・・・木ノ下君に後悔しかさせないよ・・・・・・」

 

 

 僕は涼葉に手を引っ張られながら、寂しげな夜店が二件だけある神社へと戻っていた。

 

 「もう帰る・・・・・・? 綺麗な花火も見れたことだし・・・・・・」

 

 苦笑する涼葉。どこか申し訳なさそうだ。

 

 「ごめんなさい・・・・・・神楽のこと、もう少し気にするべきだった・・・・・・」

 

 彼女の後悔。その今さらの後悔に僕は、ただ強い怒りを覚えるのだったのだが。

 

 「涼葉だ・・・・・・」

 

 「あ、本当だ・・・・・・」

 

 涼葉はその蒼い瞳の瞳孔を開けていた。

 

 「お前ら・・・・・・」

 

 僕は彼らを知っていた。それは涼葉の資金源。涼葉が自らの体の自由にさせていた数人の男子達だ。

 

 「こ、今夜もいいだろ・・・・・・?」

 

 一人の男子は半ばヨダレを垂らし、涼葉を欲望に駆られた狂った瞳で見ていた・・・・・・

 

 「ご、ごめんね・・・・・・今夜は彼氏と一緒だから・・・・・・」

 

 彼女が言う彼氏とは僕のことだ。一瞬にして、彼らは僕に邪魔者扱いの視線を向ける。

 

 「帰ろう・・・・・・」

 

 ばつが悪そうに、涼葉は僕の手を引き、帰路につこうとしたその刹那。

 僕の後頭部に強い衝撃が走る。地面に崩れ落ちる瞬間。誰かに背後から殴られたことが理解できた。強い痛みの中、その誰かはすぐに見当がつく。

 

 「優君!」

 

 暗闇の中で僕を心配する涼葉の声が聞こえるのだが。

 

 「何するの・・・・・・?! 放して・・・・・・!」

 

 涼葉の声は、一気に悲痛そうなものへと変わる。

 

 「浴衣も色っぽいな・・・・・・涼葉・・・・・・」

 

 「石鹸のいい匂いがする・・・・・・」

 

 痛みの中で、朦朧と立ち上がる僕。殴られた後頭部にそっと手をやると、生温かい液体が流れ出ていることが理解できた。手のひらを見ると、真っ赤な血が付着していた。僕の血だ。石か鈍器のような物で殴られたのだと僕は思う。そして目の前には、自らが着ていた浴衣を今にも脱がされそうで、すぐにも犯されそうな涼葉がいた。

 

 「やめて・・・・・・見られたくない・・・・・・」

 

 そう言って、涙目の涼葉は僕と一瞬だけ目が合うと、すぐにその瞳を強く閉じるのだった。犯される覚悟でも決めたのだろうか? 十分に汚れているくせに。

 

 「・・・・・・痛いじゃないか・・・・・・」

 

 僕は一言静かにそう口にする。犯されそうな涼葉などどうでもよかった。

 

 「・・・・・・誰が僕を殴った・・・・・・?」

 

 胸の中で、殺意にも似た怒りが暗く大きくなっていくのがわかった。僕は涼葉の体を欲している一人に飛び掛かり、一緒に倒れた拍子を見逃さず、すぐにその首を強く締める。力いっぱいに・・・・・・

 

 「う・・・・・・ぐ・・・・・・」

 

 僕と歳の近い名も知らぬ少年は、泡を吹き、苦しそうに気絶するのだが。僕は暗い怒りにまかせ、少年の顔を何度も殴っていた。僕は楽しいのか? 気が狂ったように笑みを零している。

 

 「お、おい、何だ・・・・・・?! こいつ・・・・・・?!」

 

 少年たちは、そんな僕の姿に怯えた様子で、涼葉から手を離し、一目散に逃げ出していく。殴るのをやめ、僕が息を荒げながら立ち上がると、地面には顔中血だらけの少年が、気絶して息苦しそうに呼吸しているのがわかる。僕がやった。当然だ。

 

 「優君・・・・・・? 本当に君なの・・・・・・?」

 

 乱れている浴衣を直そうともせずに、涼葉は呆然と僕を見つめている。

 

 「あ、ああ、僕だ・・・・・・僕なんだ・・・・・・」

 

 血に汚れた手のひらを空虚に見る僕。

 

 「きっと疲れているんだよ・・・・・・帰って休もう・・・・・・ねぇ、そうしよう・・・・・・」

 

 彼女は僕を言い聞かせようと? いや、なだめようとしているのか?

 

 「うるさい!」

 

 咄嗟に出た僕の大声に、涼葉は怯えた様子を見せる。

 

 「あのまま犯されていても、どうせ平気だったんだろ?」

 

 罵りあざ笑う僕。涼葉が悲しそうに俯いたとき、僕の中で後悔の思いが一気に溢れ出す。まるで、ハっと我に返ったかのようだ。

 

 「ごめん・・・・・・確かに疲れている・・・・・・もう帰ろう・・・・・・」

 

 僕が涼葉の手を取ろうとしたとき、彼女はすぐさま両手を後ろに隠す。僕を受け入れがたい存在と思えているのだろうか? 涼葉は小刻みに震え、今にも泣き出しそうだ。

 

 「本心じゃない」

 

 僕は涼葉に歩み寄るのだが。

 

 「自分でも安い女だと思ってる・・・・・・汚されてもすぐに平気になれる・・・・・・自分でも知っている・・・・・・」

 

 

 涙を我慢する涼葉。しかし、その甲斐もなく、片目からは弱々しい涙が零れ落ちるのであった。涼しげな夏祭りの終わりだ・・・・・・


最終話 罪悪へ

 「本当に、本当に好きでいてくれる?」

 

 僕が瞳を開けると、そこにはどこかオロオロとした神楽が、夏の夕焼けに照らされた図書室で僕を見ていた。僕はたったの一度こう言葉にしたのを思い出す。

 

 「・・・・・・愛している・・・・・・」

 

 自分でも嘘をついていると、それは認識できる言葉だった・・・・・・

 

 「・・・・・・よかった・・・・・・」

 

 嘘とも知らずに神楽は僕に向かって安心しきった笑みを浮かべる・・・・・・

 

 「酷い父親の娘だもん・・・・・・それでも好きになってくれる人ができてよかった・・・・・・」

 

笑みを浮かべながら神楽は大粒の涙を零す。新城正也の娘であることが、苦しかったに違いない。

 

 「・・・・・・毎日が寂しいの・・・・・・だからお願い・・・・・・」

 

 新城神楽は、僕に向かって両手を伸ばした。僕は彼女の両手に従い、神楽を抱き締めるのだった・・・・・・

 

 

 廃ホテルの自室にて僕は目覚める。別に悪夢を見たわけでもないのに、僕は酷い寝汗を掻き、今にも気が狂いそうな体の震えに襲われていた。

 

 「・・・・・・何かの間違いだ・・・・・・僕は酷い人間じゃない・・・・・・」

 

 自らに言い聞かせる僕。そうでもしないと、頭の中が本当におかしくなりそうだった。フラフラと僕は浴室へと向かい、酷い寝汗を洗い流すためシャワーを浴びる。

 

 『・・・・・・どうせ殺人鬼の子供だろ・・・・・・?!』

 

 冷水のシャワーを浴びながら聞こえたのは、過去の幻聴。それは醜く開き直った僕の声だった・・・・・・

 

 「やめろ・・・・・・消えろ、消えろ・・・・・・・」

 

 僕は失った記憶を取り戻しつつある。しかし、もし全てを思い出せば、悪夢のような現実が僕を襲う気がした。それは昨夜の出来事が物語っている。半殺しにした少年。涼葉に浴びせた酷い言葉だ・・・・・・

 

 「そうだ・・・・・・ちゃんと謝らないとな・・・・・・」

 

 涼葉への謝罪。それは僕が選んだ現実逃避だった・・・・・・僕は何も思い出したくない・・・・・・

 

 

 僕は涼葉のいる部屋へと向かっていた。その廃ホテルの廊下で、彼女に出くわす。

 

 「起きてたんだ・・・・・・」

 

 涼葉だった。それも体調が悪そうな。

 

 「気にしないで・・・・・・今は楽な気持ちだから・・・・・・」

 

 一瞬だけ笑みを浮かべる涼葉。僕からすれば、彼女はとても壊れて屈折しているように思えた。

 

 「・・・・・・持っていた薬・・・・・・全部飲んだ・・・・・・だから楽な気持ち・・・・・・わかるでしょ・・・・・・?」

 

 持っていた薬。恐らく精神病院で処方された薬を持ち歩いていたに違いない。涼葉は笑い声を上げる。そんな彼女の姿を僕は呆然と見ていた。こうなったのも僕のせい・・・・・・ただ空虚に罪悪感が襲う・・・・・・

 

 「涼葉・・・・・・昨日の夜のこと・・・・・・謝りたいんだ・・・・・・」

 

 「いいよ、謝らなくて・・・・・・私はボーっとしているだけで、何もかもどうでもよくなれる・・・・・・」

 

 彼女に最早、僕の謝罪は通用しない。薬を飲んだ涼葉は壊れていた。

 

 「最初に・・・・・・先生が私から、処女を奪ったとき、とても痛かったけど、今は思い出すだけで、あれは気持ちがよかったのかな・・・・・・?」

 

 涼葉は僕に抱き着き、とても大きく震えていた。

 

 「・・・・・・どうしよう・・・・・・? 急に怖くなってきた・・・・・・」

 

 それは涼葉が飲んでしまった薬のせいなのだろうか? 彼女は急に怯えだし、僕を強く抱き締める。

 

 「・・・・・・怖い、怖い・・・・・・! 駄目だ・・・・・・落ち着かない・・・・・・!」

 

 僕に抱き着く手を離し、涼葉はその両手を自らの頭に当て、ガタガタと一人震えだす。

 

 「涼葉、大丈夫・・・・・・少しだけ休んだら治るはずだ・・・・・・」

 

 僕はとにかく涼葉を正常な状態にしたい。そして、ちゃんとした謝罪の言葉を口にしたかったのだが。

 

 「治らない・・・・・・! 私は壊れていないのに、壊れたことにされた・・・・・・!」

 

 塞ぎ込む涼葉。それは薬のせいに違いない。その刹那。自分への違和感に包まれる。

 

 「違和感の正体が知りたい?」

 

 それは涼葉の背後に立つ神楽だった。空気と一体化するように、突然に姿を出現させたかのようだ。僕の違和感を見透かしたかのように、笑っていた。

 

 「僕は誰だ?! お前は知っているんだろ?!」

 

 ほんの僅かな勇気を振り絞り、僕は神楽に向かって怒りを露わにするのだが。

 

 「知ってるよ・・・・・・本当はどんな人間か・・・・・・」

 

 神楽は妖しく笑い、混乱状態の涼葉を後ろから抱き締める。

 

 「・・・・・・冷たい・・・・・・」

 

 その一言と共に、涼葉は神楽に身をゆだねるのであった。

 

 「ほら、涼葉・・・・・・私と一緒なら、もう怖くないでしょ・・・・・・」

 

 誘惑的な神楽の言葉に、涼葉は弱々しく安心しきった笑みで、小さく頷いて見せた。

 

 「おい、何してる?! 涼葉を放せ!」

 

 そのとき、自分でも抑えきれない怒りが僕を襲った。涼葉を手懐ける神楽が許せない存在に思えて仕方がなかった。

 

 「あなたが涼葉のために怒りを露わにする資格なんてない・・・・・・だから、手助けしてあげる・・・・・・」

 

 また神楽の力なのだろうか? 目の前が白く染まる。あの悪夢のような世界に飛ばされるのかと思うと、僕の心は恐怖と後悔に押しつぶされそうになるのであった・・・・・・

 

 

 僕が目覚めた場所・・・・・・そこは荒れ果てた部屋の一室だった。無造作に布団がめくられたベッド。教科書やノートが散乱しているデスク。僕が立っているフローリングの床には、沢山のゴミが捨てられている。

 呆然としながら、僕はまず教科書やノートが散乱しているデスクへと向かう。そこにあった一つの学生証。僕はそれをただ手に取る。まるで生気のない少年の写真が貼られた学生証。書かれた名前は、木下優。

 

 「優・・・・・・病院へ行く時間よ・・・・・・約束したでしょ・・・・・・? 治すって・・・・・・」

 

 部屋のドア越しから、それは聞き慣れた女性の声。誰かの暴力にいつも怯えている母の声。

 

 「早く支度しなさい・・・・・・入院が決まったんだ・・・・・・」

 

 聞き慣れた男性の声。誰かを今すぐにでも頭から消したい父の声だ。

 

 「ああ・・・・・・わかったよ・・・・・・」

 

 そう返事する僕。視界が酷く歪んだ・・・・・・

 

 次に意識がはっきりし始めたとき、一人の白衣を着た男。医師が、僕を見ていた。そこは薬臭いどこかの病院の診察室。

 

 「学校でも暴力沙汰。自宅では家庭内暴力。精神鑑定の結果からも、君には精神病質者の傾向が十分に見受けられる。それに、重度の人格障害も・・・・・・」

 

 医師の説明。それはもう何度も聞いた診断結果だった。

 

 「僕なら君の力になれる。だから病気を治そう」

 

 それも何度も聞いた言葉だ。ここに入院させられてから・・・・・・何度も・・・・・・

 

 気づけば僕は、厳重に鍵の絞められた病室に一人いた。処方された薬を飲んだせいか、僕の思考は呆然とし、空虚だ・・・・・・

 

 「あなたはどうしてここにいるの・・・・・・?」

 

 頭の中で、神楽の声がした・・・・・・

 

 「入院している・・・・・・」

 

 僕は答える。ごく単純な答えを。神楽の質問は続く。

 

 「どうして入院しているの・・・・・・?」

 

 「すぐに誰かを酷く傷つけるからだ・・・・・・」

 

 「誰かを傷つける理由は何・・・・・・?」

 

 その答えを今の僕なら答えられる。今、呆然とした過去を再び生きる僕になら・・・・・・

 

 「僕を相手にもしないで、不快にするからだ・・・・・・」

 

 理由はそれだけだった・・・・・・もう神楽の声は聞こえない。

 

 また、視界が酷く歪んだ・・・・・・

 

「頭のおかしい僕を、誰も相手にしない・・・・・・でも、今度は大丈夫・・・・・・ここから出たい・・・・・・」

 

 僕が突然喋った言葉の先、そこはあの薬臭い診察室。当然、目の前にはマニュアルに沿ってでしか患者を診察できない医師が一人。

 

 「どうしてここから出たい?」

 

 この病院に入院してから、もう何度もこの医師の診察を受けているはずだ。だから、見破れない嘘を吐くのも容易だったはず。

 

 「家族に謝りたい・・・・・・僕にだって、誰かを大切にできると証明したいんだ・・・・・・何もかも一からやり直したいんです・・・・・・」

 

 嘘八百である僕の言葉。この病院での入院生活に、ただ嫌悪していたことを思い出し始める。不味い病院食に、毎日飲まされる夥しい数の薬。そして、ここの患者達だ。支離滅裂なことを叫び続ける者もいれば、空虚でまるで人形のような者までいる。いくつもの鏡に何人もの自分が映しだされているようで、毎日が嫌な気分だった・・・・・・

 

 「本当に謝れる? 週に一回だけここで診察を受けて、処方された薬を取りにこられるかい?」

 

 騙され、折れ始める医師に僕は

 

 「はい、約束できます」

 

 前向きな言葉で返す。約束など到底守る気はなかったというのに・・・・・・

 

 「わかった。今回は仮退院にしよう」

 

 騙された医師。あの日の診察室で、僕は腹の中から込み上げてくる笑いを必死で押さえ込んでいた・・・・・・

 

 

 「やめろ! 僕を外に出すな!」

 

 僕は医師に向かって叫ぶのだが。そこは最早、薬臭い診察室ではなかった。何者かに酷く荒らされたどこかの家のリビングだった。目の前には二人の人間が、苦しそうに血だらけになって倒れていた。僕の両親だ。

 

 「ど、どうして・・・・・・?」

 

 半ば錯乱状態の僕。

 

 「君がしたことだよ・・・・・・」

 

 聞き慣れた声に後ろを振り向くと、そこには悲しそうに微笑みを浮かべる涼葉がいた。

 

 「それが君の本性だったんだね・・・・・・」

 

 背後から聞こえる涼葉の言葉の意味。僕はその言葉の意味にすぐ気づくことができた。

 

 「これは違う。神楽が僕達に見せているんだ」

 

 冷静に判断した僕。しかし、右手には血で汚れた包丁が握られていた。

 

 「違う! 僕じゃない!」

 

 僕の否定の怒声に、涼葉は怯えた表情を見せた。

 

 「どうして怯えているんだ?!」

 

 怒りに身を任せ、気が付けば血で汚れた包丁を涼葉に向かって突き立てていた。

 

 「これは違う。全部神楽が悪いんだ・・・・・・」

 

 僕は血で汚れた包丁を床に捨てる。そうでもしないと、今にも頭の中と心が壊れそうになりそうだ。僕が否定した過去を涼葉に知られたくない。それだけだ・・・・・・

 

 「私も両親を恨んでいるけど・・・・・・君のように殺したいと思ったことは・・・・・・」

 

 涼葉は恐らく僕に包丁で刺された僕の両親を、悲しそうに見ていた。

 

 「・・・・・・新城正也・・・・・・君はあの人と同じで・・・・・・私の先生と変わらない・・・・・・猟奇的で飢えている・・・・・・それが本当の君・・・・・・?」

 

 涼葉は怯えながら僕に言う。

 

 「ち、違う・・・・・・! 」

 

 僕は涼葉に反論しようとする。両親を刺したのは僕ではないと。元死刑囚の新城正也と、涼葉の担任だった教師。僕の人格は彼らとは別人だと、怒声を上げて伝えたかったのだが・・・・・・気が付いた頃には、視界は真っ白に染まる・・・・・・

 

 「ここは・・・・・・?」

 

 まるで一瞬だけ気を失ったかのようだった。気が付き、目の前に見えるのは、一つの巨大な洋館のような建物に。まもなく夏に色を染めようとしている雲一つない澄んだ青空だった。

 

 「学校・・・・・・?」

 

 その巨大な洋館。西洋風の校舎には嫌でも記憶の隅に残っていた・・・・・・陰口に無視。僕が思い出すのはそれだけだ・・・・・・

 

 「もしかして優君の通っていた学校・・・・・・? 綺麗だね・・・・・・」

 

 隣には涼葉が当然のように立っている。それも弱々しい笑みを浮かべながら。この進学だけを自慢に宣伝している高校に、僕には彼女が不釣り合いに思えて仕方ない。

 

 「羨ましいなー・・・・・・私は滑り止めの学校だったから・・・・・・」

 

 「それなら案内するよ」

 

 僕がほんの一つの瞬きを終えた頃だった。神楽が涼葉の手を握り、校舎へと入っていくのだ。

 

 「図書室。私の好きだった場所を涼葉に案内してあげる」

 

 この学校の図書室。神楽は全てを当然知っていておかしくない。校舎の中へと入る二人の後ろ姿を、僕は呆然と見つめていた。

 

 「駄目だ・・・・・・もう逃げられない・・・・・・どうして僕は・・・・・・?」

 

 失った記憶・・・・・・いや、無理矢理忘れようとした記憶の大半を思い出した僕。誰でも平気で傷つけるはずなのに、僕の中では償いようのない罪の意識に苛まれる。

 

 「か、神楽は、嘘つきだ・・・・・・! ぼ、僕だけが本当のことを、し、知っている・・・・・・!」

 

 悪あがきか・・・・・・? 僕の両足は震えあがり、覚束ない足取りで神楽と涼葉の後を追う。

 

 「涼葉・・・・・・! 僕と帰るんだ・・・・・・!」

 

 夏の校舎の中で、僕は恐怖を堪えながら叫ぶが。涼葉はおろか、誰一人の返事もなかった。思えばこの校舎で、大声で叫んだことすらない・・・・・・いつも口数が少なく、頭の中で暴力的な妄想ばかり広げていた・・・・・・

 

 「だから私だったの?」

 

 廊下に立つ神楽は、小首を傾げ笑っていた。まるで僕の思いを見透かしたかのような、笑みを浮かべていた。

 

 「うふふ・・・・・・あなたの好きな涼葉は・・・・・・」

 

 神楽は奥の廊下だけを指差す。

 

 「私に恋するだけでいいのに、あなたは涼葉が好きなんだ・・・・・・!」

 

 神楽の言葉など耳に入れず、僕はただ彼女が指差した方向へと走り出す。すれ違いざまに、神楽の微かな笑い声が聞こえた気がした・・・・・・

 

 

 少しだけ意識が遠のいた感覚の中で、僕はその場にいた。この私立の学園で、誰も寄り付かない古い図書室。僕はそこに立っていた。思い出すは神楽と消えた涼葉。

 

 「す、涼葉・・・・・・! いるのか・・・・・・!」

 

 この古い本だけが並べられた古い図書室にて、僕は半ば狼狽えながら、涼葉を探していた。

 

 「僕と帰るんだ・・・・・・! 僕の罪なんて知る必要ないだろ!」

 

 図書室で声を荒げる僕。それだけで僕の額からは、夥しい汗が零れ落ちていく。

 

 「僕じゃない! 神楽の罠だ! 君を利用しているんだ! 僕を信じろ! さもないと、酷い目にあわせるぞ!」

 

 僕は涼葉を殺すつもりだ。理由は自らの過去を知られたくない、ただそれだけだ。古い図書室を徘徊する僕。すると奥の本棚で、血だらけの誰かを必死で抱き起そうとする涼葉がいた。

 

 「涼葉! 帰るぞ! そんなのほっとけ!」

 

 僕の口から言葉出たそんなのとは

 

 「一人で死なせないで・・・・・・お願い・・・・・・」

 

 誰かに胸を一突きされたであろう神楽だった。酷く出血し、それは医者でない僕にも理解できた。もう助からないように、誰かに刺されたと・・・・・・

 

 「大丈夫。君を一人にしない・・・・・・最後まで一緒にいるから・・・・・・」

 

 死ぬ寸前の神楽に、涼葉は優しい言葉をかけていた。

 

 「・・・・・・温かい・・・・・・ありがとう・・・・・・」

 

 無残に死んだ神楽。その股からは・・・・・・

 

 「誰がこんなことしたの・・・・・・?」

 

 僕へと訴える涼葉の悲しげな蒼い瞳。僕が知っていることだけを告げるしかなかった。逃げ場はない・・・・・・

 

 「僕が犯した・・・・・・そして殺したんだ・・・・・・」

 

 真実を僕が語る中で、涼葉は死んでしまった神楽を強く抱き締める。

 

 「・・・・・・間違いだよ・・・・・・そうでなきゃ、この子が苦しすぎるよ・・・・・・」

 

 あの酷い悪夢を見せた神楽に、同情する涼葉。次の瞬間には悲しそうに僕を見ていた。疑いの真実の中に、彼女が存在していると悟ったとき、僕の頭が割れそうに痛くなる。悲鳴を上げたくなるほどの激痛だというのに、僕は静かにその激痛を受け入れるしかなかった・・・・・・ただ、静かに両手で自分の頭を押さえる・・・・・・

 

 

 「・・・・・・木下だ・・・・・・」

 

 「・・・・・・あいつ、入院していたはずだろ・・・・・・?」

 

 「・・・・・・危ない人しかいない病院だよ・・・・・・退院だなんて・・・・・・?」

 

 それは僕が両親を刺した明くる日だ。久しぶりに学校へと登校した僕に、クラスメイト達は冷ややかな視線を送り、皆が僕を嫌悪しているかのようだった。別に気にはならない僕。それは病院から出された薬を飲んで学校に登校したせいかもしれない。あの日は確かに、どこかボーとしていた。しかしそれは理由ではなかった。クラスメイトに一人、生贄がいたのだ。心の底から、不快にならなくてよかったという気持ちが、不気味なくらいに溢れ上がった。

 

 「・・・・・・新城・・・・・・新城神楽・・・・・・」

 

 ボーとしながらも、僕はどこか陰湿に聞こえた女子の声に目をやる。窓際から三席ほど離れた席に神楽は、怯えながら座り、そのピンク色の瞳孔は恐怖のあまり開ききっていた。

 

 「今朝のニュースで・・・・・・あんたの父親・・・・・・捕まったって・・・・・・」

 

 「きっと、死刑だよ・・・・・・うふふ・・・・・・死刑・・・・・・」

 

 「仕方ないよね・・・・・・何人も殺したんだから・・・・・・」

 

 「あなたも死ねばいい・・・・・・権利はある・・・・・・優等生は私だけでいいんだから・・・・・・」

 

 数人の女子生徒に、神楽は囲まれている。中でも目つきの鋭い黒髪の女子は、神楽をまるであざ笑うのを堪えるかのように、嬉しさを隠すかの如く、小刻みに震えていた。

 

 「死にたくない・・・・・・それに一度だけでも恋がしたい・・・・・・」

 

 恐怖に怯えながらも、神楽は女子生徒たちに言い返す。

 

 「無理だよね」

 

 空しい一言と共に、女子生徒たちは一斉に神楽を笑った。あの新城正也の娘だ。この先の人生に希望など持てるはずがない。

 

 「あなたには・・・・・・このまま自殺して死んでほしい・・・・・・どうか、お願い・・・・・・」

 

 黒髪の女子は告げる。そのとき、教室のチャイムが鳴り始めると、神楽を陰湿にいじめた女子達は、各々自分の席へと戻っていく。朝のホームルーム。皆が担任の教師のどうでもいい話を聞く中、僕だけは神楽の横顔を見つめていた。

 あのとき、神楽が一人机に向かい、ブツブツと呟いていたのを思い出す。薬のせいで頭がぼやける中で、涼葉が一人、神楽の孤独な手を握っていた。

 

 「違う恋に巡りあわないで・・・・・・私が犠牲の一人だから・・・・・・」

 

 クラスメイトは幻想の涼葉の姿に気づく様子もない。当然だ。どうやら僕にしか、彼女の姿が見えていないらしい。

 

 「助けてあげたいの・・・・・・絶望しないで・・・・・・」

 

 涙声の涼葉。ゆっくりと僕に向かって振り向くと、確かにその蒼い瞳からは、大粒の涙が零れ落ちていた。

 

 「・・・・・・やめてあげて・・・・・・お願いだから・・・・・・」

 

 これから起こるであろう僕の許されない行い。涼葉は悲痛そうに、僕へと望んだ。

 

 「・・・・・・女の子か・・・・・・」

 

 涼葉の声は僕には届かなかった。ただ恋愛や、女の子の柔肌も知らないあの頃の僕。狂った心の中で、神楽は絶好の獲物に思えた。

 

 「病気なんて関係ないよ・・・・・・お互いに最低だね・・・・・・」

 

 最後に聞こえたのは、悲しそうに自らと僕を蔑んだ涼葉の声。視界が真っ黒に染まったかと思うと、次の瞬間には夏服を引き裂かれ、静かに泣き始める神楽がいた。ここは、夏の夕日が照らす図書室。僕は両親を刺した包丁を握りしめていた。

 

 「子供ができたらどうする・・・・・・? 木下君は、その子の父親になれる・・・・・・?」

 

 神楽は静かに涙しながら、僕に問う。その答えは最低なものだった・・・・・・

 

 「女の子が知りたかっただけだ・・・・・・」

 

 たったそれだけの理由を答えると、僕は何のためらいもなく、神楽の胸を包丁で一突きした。図書室の床の上に崩れ落ちる神楽。息苦しそうな呼吸を何度も繰り返し、胸から流れ出る赤い血は、止まる気配などなかった。

 

 「・・・・・・どうせ・・・・・・あなたがやったことは・・・・・・すぐにわかる・・・・・・」

 

 今にも途切れそうな呼吸の中で、神楽は僕に告げる。

 

 「・・・・・・最後まで・・・・・・呪われて生きるといい・・・・・・」

 

 瀕死の重傷を負わせた神楽を、僕は一人残し、図書室を後にする。夏の夕焼けに照らされた廊下を歩く僕。酷いことをしたという感情はなく。自然と、当然のような独り言を呟いていた。

 

 「このまま家に帰るか・・・・・・?」

 

駄目だ。刺した両親がそのままだ。僕の前にまだ警察が現れないということは、二人はまだあの家で血を流している。それに死んでいても厄介だ。夏は死体がすぐに腐るであろう。異臭の放つ家で暮らすのはごめんだ。まだ薬漬けの病院生活のほうがましに思える。

 

「それとも、自首でもするか・・・・・・!」

 

 その独り言に、僕は腹が痛くなるまで一人笑う。下校の時間を過ぎたこの廊下には、生徒は一人もいない。教員のいる職員室ははるか遠くにある。犯された神楽が叫んでも無駄なはずだ。

 

 「で、でも、いずれはバレるぞ・・・・・・!」

 

 込み上げる笑いを堪えながら、僕は自分自身を落ち着かせる。このまま自分の罪を認める気にはならない。

 

 「もっと自由に・・・・・・」

 

 僕は廊下を歩き続ける。

 

 「人格を少しだけ・・・・・・少しだけ・・・・・・変えてみよう・・・・・・それに記憶だって・・・・・・」

 

 その独り言と共に、僕には走馬灯のように、夏町に訪れる前の記憶が蘇る。

 最初の一日。僕は星一つ見当たらない夏の暗い夜空を見上げた。そこは見知らぬ空き家の窓。鍵を壊して入ったのを覚えている。

 

 「明日は雨・・・・・・?」

 

 僕が言うと、当然誰の言葉も返って来ない。

 

 「いいぞ・・・・・・もう少しだな・・・・・・人格が壊れるぞ・・・・・・」

 

 僕は空き家の床に寝転がり、眠ろうとするのだが、興奮のあまり寝られない。ただ瞳だけを開け、暗い夜空だけを見上げた。人格が壊れる瞬間を待っていた。過去の記憶を偽る瞬間を・・・・・・

 

 二日目の朝。僕はまた歩き続けていた。見知らぬ長い道路。真っ黒な雲が空一面を覆う大雨の中で。車など一台も通過しない道路を歩き続ける。

 

 「・・・・・・一人ぼっち・・・・・・」

 

 雨音が耳を支配する中で、僕は一人の少女の声を聞いた気がした。

 

 「幻聴だろ・・・・・・? ろくに眠ってもいないからだ・・・・・・」

 

 すんなりと自らに言い聞かせることができた。

 

 三日目の夜。人気のない暗闇の中。僕は街灯一つないバス停のベンチに座っていた。目の前に見えるのは、ただ漆黒の闇だけ。その闇の向こうで、誰かが笑っている気がしてならない。

 

 四日目の昼。空腹と眠気の中で、何も感じられなくなっていた。

 

 五日目の夜。見知らぬトンネル。そこには年齢がバラバラのホームレスの一団が生活していた。流石に未成年は僕だけのようだったが。彼らが気にする気配はなかった。体はクタクタで、開いているダンボールの上で、久しぶりに眠ることにした。

 

 「あなたはどこから来たの・・・・・・?」

 

 そこは夢の中。沢山の本棚がある部屋。窓から差し込む夏の夕日に照らされた一人の少女が、僕に問いかけていた。

 

 「知らない」

 

 当然の回答を僕は口にしたつもりだ。すると見知らぬ少女の口元は微笑んだ。

 

 「あなたは誰・・・・・・?」

 

 少女の質問は続く。

 

 「知らないんだ・・・・・・!」

 

 夢の中だというのに、僕は酷い頭痛に襲われた。

 

 「ここに来る前のこと・・・・・・思い出したらあなたはどうなるかな・・・・・・?」

 

 笑みを浮かべる少女。しかしその笑みはどこかあざ笑っているように思える。

 

 「きっと、壊れて死んでくれる・・・・・・楽しみだな・・・・・・」

 

 薄汚れたダンボールの上で、僕はハッと目を覚ます。トンネルの外はまだ暗い。眠りについてから、さほど時間が経っていないことを思わせる。冷や汗に近い酷い寝汗を掻いていた。僕がその汗を拭うと、フラフラになりながらも立ち上がり、何かから逃げるようにトンネルを後にしようとしたときだ。

 

 「お前に居場所はない・・・・・・居場所なんてないんだ・・・・・・」

 

 このトンネルで暮らすホームレスの男が、不意に話しかけてきた。痩せ細った男。瞳の瞳孔は開ききって、小さな黒い点だけが僕を見ていた。

 

 「お前の悪夢が少しだけ見えた・・・・・・! 逃げられないぞ・・・・・・! あの子はいつだってお前を待っているんだから・・・・・・! 最後には裁かれる運命だ・・・・・・!」

 

 男の歪みきった笑い声が、トンネルの中を支配する。近くにいたホームレスたちは、呆然と笑われる僕を見ていた。

 

 「駄目だ・・・・・・裁かれて堪るか・・・・・・! 逃げないと・・・・・・逃げないと・・・・・・」

 

 その一心で、僕はトンネルを後にすると、どこに続くかもわからない夜の闇へと消える。この闇のどこかで、人ではない存在が僕を見ていると思うと、心が恐怖でもっと無残に壊れそうだった・・・・・・

 

 六日目の朝。公園で子犬を散歩させていた女性を、僕は気絶するまで殴り続けた。どこか息苦しそうに呼吸を繰り返す女性のジーンズのポケットから、僕は財布を抜き取ると、数枚の紙幣を奪いその場から逃げ去る。子犬は僕の後ろ姿めがけて鳴いているようだった。

 

 「・・・・・・僕が逃げるためだ・・・・・・あれに捕まるよりかは・・・・・・」

 

 六日目の昼。手に入れた紙幣をすべて使い僕は電車に乗った。海沿いの町。夏町へと向かう電車の車内だ。汚れた僕の学生服。電車の車内にて、乗客たちは蔑んだ目で僕を見ていた。

 

 「・・・・・・あの男の子、おかしくないか・・・・・・?」

 

 「・・・・・・ああ、この時間はまだ学校のはずだ・・・・・・」

 

 汚れた学生服を着ている僕は、虚ろな目で流れては消える外の風景を見ている。電車内の人々が僕を不審がるのも無理はない。

 

 「ここに座るけど・・・・・・いいよね・・・・・・?」

 

 僕が座る座席の隣に座った人物。ピンクの髪をした少女。同じくピンクの瞳をした眼鏡越しで、僕の横顔を見ているようだった。

 

 「今からどこへ向かうの・・・・・・?」

 

 「・・・・・・」

 

 その声、神楽の問いかけは、確かに僕の耳に届いていたのだが。僕は何も答えず無言でいた。

 

 「忘れ物はない・・・・・・? あなたが置いてきたものは・・・・・・?」

 

 「・・・・・・」

 

 無言でいる理由。全てを忘れるためだった。神楽を幻覚扱いにし、その声を幻聴にすれば、自分のやった行いの数々が、頭の中から自然と消えていった。自分が誰なのかさえ、考えずにもすんだ・・・・・・

 

 「そう・・・・・・無視するの・・・・・・それなら・・・・・・」

 

 神楽は僕の耳元に口をやり、そして囁く。

 

 「・・・・・・苦痛だらけにしてあげる・・・・・・」

 

 それは狂った静かな笑い声とともに、囁かれるのだった・・・・・・

 

 

 歪みきり、狂った過去を思い出した僕。廃ホテルに人格が戻された僕は、その場に倒れこみ、

 

 「うわぁぁぁー!!」

 

 怪物の奇声を上げた。その光景を目の当たりにした涼葉は、涙しながら壊れたように笑っていた。

 

 「き、君が死んでも誰も泣いてくれない・・・・・・! 私と同じで、一人だけの世界に住んでいる・・・・・・!」

 

 自分が狂っていることを認識できない涼葉と、怪物の僕。僕たち二人の一日はこうして終わりを向かえた。

 

 あくる日。僕は久しぶりに熟睡した気分だった。起き上がると身なりを整え、洋室の部屋を後にしていた。廃ホテルから出ると、空は雲一つない朝の青空に包まれている。そこは涼しい朝の夏だった。歩き出す僕。ふと後ろを振り向くと、涼葉が軽く手を振っていた。どこか寂しそうな表情で・・・・・・

 

 「ありがとう、涼葉」

 

 怪物でありながら、初めて誰かに感謝できたと思う。僕は歩き続けた。電車など乗る金もなく何日も、来た道に向かって・・・・・・その途中、ホームレスたちが生活するトンネルを通る。

 

 「怪物が通るぞー!」

 

 その掛け声とともに、何人もののホームレスたちは、皆が蔑んだ目で僕を見ていた。

 

 「普通じゃない・・・・・・」

 

 「壊れきった人の末路さ・・・・・・」

 

 そう。僕は壊れている。だからこそやるべきことがある。歩き続けた足の痛みなどどうでもよく、僕は歩き続ける。何日も、何日も・・・・・・

 

 あの日と同じ夕暮れの中、忌まわしい場所にたどり着いた僕。そこは友人など誰もいなかった場所。学校だ。

 

 「・・・・・・償って・・・・・・」

 

 「涼葉・・・・・・? ついてきていた・・・・・・?」

 

 背後から聞こえた声。確かにそれは涼葉の声だった。しかし、嬉しさのあまり後ろを振り向いてもそこには誰もいない。僕は一人だと改めて認識させられる。

 

 「償ってこの世界に来てほしい・・・・・・」

 

 それは神楽の声。前を見ると神楽は学校の校舎の中へと消える。

 

 「ああ、準備だけさせてくれ・・・・・・」

 

 歩き続けボロボロになった足で校舎の中へと入る僕。履いていた靴はボロボロで、右足には感覚はなく、左足には微かに痛みが走っていた。

 夕暮れの光に照らされた校舎の中。時期は夏休みで、生徒や教員の姿はない。神楽を犯した同じ静けさを僕に感じさせる。

準備のため、僕は職員室へと入る。無我夢中で室内を荒らす。ある目的のためだけに。

 

 「頼む・・・・・・もう、楽になりたいんだ!」

 

 楽になりたい。ただそれだけで、僕は職員室を荒らすのだが。出てくるのはテスト用紙や訳のわからない書類ばかり。半ば絶望していた。そして、いいようのない恐怖が僕を支配する。職員室の隅へと逃げ、ただ怯え続けた。

 

 「・・・・・・助かる。だから、もう、怯えないで・・・・・・」

 

 幻聴のような涼葉の声が聞こえた気がする。

 

 「・・・・・・ゆっくりと休んで・・・・・・お願い・・・・・・」

 

 震える足で立ち上がり、怯えながら、涼葉の幻聴が聞こえた場所へと歩み寄る。そこはまるで使われた形跡のない教員用のデスクだったのだが。そのデスクの上には、古そうな一箱のマッチ箱が置かれていた。僕は無我夢中でマッチ箱を手に取る。古いが湿気ってはいない数本のマッチ。

 

 「よかった・・・・・・これで本当によかったんだ・・・・・・」

 

 安堵し、納得する僕は用済みの職員室を後にし、神楽を刺した場所へと向かっていた。

 夕暮れの図書室。なぜか異常なまでに消毒液の匂いがした。恐らく神楽の血を洗い流すのに、消毒剤が大量に使われたに違いない。そうまでして学校内の殺人を風化させたかったのだろうか? 自らレイプと殺人を犯しておきながら、僕の中を歪んだ空しさが支配する。

 

 「もう・・・・・・終わらせよう・・・・・・これ以上・・・・・・生きるわけにはいかない・・・・・・」

 

 僕は手当たり次第に図書室にある本を、室内の中央に集める。そこは神楽が死んだであろう本当の場所。消毒され、痕跡など残ってはいなかったが。僕は覚えていた。

 気が付けば、夕暮れは終わり、外からは薄暗い夕闇の光が弱く図書室の中を照らしている。

 

 「・・・・・・行こう・・・・・・」

 

 僕が図書室の中央に集めた大量の本。その前に立つと、僕は職員室で手に入れた数本のマッチに火をつけ、集めた本の中へと投げ入れる。すると、薄暗い夕闇の光を遮るかのように、図書室の中は一気に炎の光で照らされた。

 

 「神楽・・・・・・許してくれ・・・・・・とても疲れた・・・・・・ずっと暗闇で瞳を閉じていたいんだ・・・・・・」

 

 燃える大量の本の中に、僕は身をゆだねる。不思議と痛みや熱さはなく、不気味なくらいに落ち着いて、僕は瞳を閉じるのだった・・・・・・そして、自分の命が終わるときを待つ・・・・・・

 

 

 命が終わり目覚めた場所。そこは見覚えのある薄暗い牢屋の中だった。状況を把握しようと、僕は立ち上がろうとするのだが。体がまるで反応せず、ただ牢屋の床に横たわっているしかない。

 

 「・・・・・・新しい犠牲者・・・・・・」

 

 「・・・・・・ここにいるしかない・・・・・・」

 

 「・・・・・・もう自由は訪れない・・・・・・」

 

 「・・・・・・黒焦げのまま、苦しむだけだ・・・・・・」

 

 横たわっていても、僕と同じく監獄の牢屋に閉じ込められている人々の姿が目に入る。

 

 「あ、ああ・・・・・・あ・・・・・・」

 

 そのとき、僕はある言葉を口にしたかったのだが。自分がもはや、言葉すら発することのできない体であることに気付く。唯一動く瞳で、僕が自身の体の一部を目にしたとき、体が黒く歪んで見えた。恐らく、全身が黒焦げで覆われているのであろう。

 

 「ああ・・・・・・」

 

 絶望にて涙する僕。死んで異常な自分を終わらせたかったのだが。待っていたのは僕が新城正也を焼き殺した牢獄だった。

 

 「泣いているの?」

 

 鉄格子の前に立つ少女。一瞬その姿は涼葉に見えたのだが

 

 「木下君が泣くなんて、とても苦しい証拠だね」

 

 それは涼葉ではなく、神楽だった。

 

 「あ・・・・・・あ・・・・・・」

 

 言葉を発せない口で僕は神楽に助けを求めるのだが。彼女は鉄格子の前で、笑うだけだった。

 

 「苦しい?」

 

 神楽は笑って小首を傾げる。

 

 「私も苦しかった・・・・・・心臓が止まったのに誰にも見つけられず・・・・・・気が付いたら、暗闇を歩き続けていた・・・・・・」

 

 その言葉を終えた後、神楽は俯きながら壊れた笑い声を上げる。

 

 「・・・・・・二度と歩きたくない暗闇・・・・・・だから、嘘でも愛してくれた人を選ぶ・・・・・・」

 

 笑うことをやめた神楽は、持っていた鍵で僕のいる牢屋の鍵を開けた。彼女は薄暗い牢屋の中へと入ってくる。

 

 「あなたが好きだよ・・・・・・だから、ここで・・・・・・」

 

 言葉を発しながら神楽は、黒焦げになった僕を抱き上げる。

 

 「・・・・・・愛してあげる・・・・・・いつまでも・・・・・・」


この本の内容は以上です。


読者登録

天倉永久さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について