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  ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」という本は非常に難解な哲学書である。それにも関わらず、岩波文庫で手軽に手に入るという事もあって、人気は高い。

 

 以下の解説文は自分勝手な自己流のものなので、過ちも沢山含まれていると思う。ただ、自分がこういう解説を書く理由はウィトゲンシュタインは論理哲学論考によってどんな風景を見たのか、という話がしたいからだ。論理哲学論考にはどうやら深遠な哲学が語られているらしいが、どこから取り付けばいいのかわからない、どういう哲学書かイメージがわからない、そういう人に以下の文章は捧げられる。学術的に細かい話が聞きたければ、野矢茂樹の本などがあるので、そちらを読まれた方が良いと思う。(ヤフー知恵袋の哲学カテゴリで哲学にとてつもなく詳しい通称RSKという人がいるが、この人の解説は非常に役に立った)

 

 後半部は自分なりのウィトゲンシュタイン論になっている。こっちの方が自由にやっているので、こちらの方が面白いと思う人もいると思う。


 

 「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである」

 「限界づけられた全体として世界を感じること、ここに神秘がある」

 

                           (論理哲学論考)

 

                            写真:skyseeker

 


世界とは事実の総体である

                         

 「論理哲学論考」のはじめに、次のような言葉がある。

 

 一   世界は成立している事柄の総体である

 一・一 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。

 

 「論考」を最初に読んだ人なら、この箇所を読んだ時(ふーん、そうなんだ)と思うかもしれないし、または(よくわからないけど読み進めていこう)となるかもしれない。しかし、この最初の二行だけでも、言わなければならない事が沢山ある。ウィトゲンシュタインはそれを全部端折っているので、読むのが非常に難解になってしまう。

 

 そして実は、「論考」の一番大切な箇所はこの部分に集約されているーーと僕は見ている。「世界とは事実の総体である」 この事を厳密に考えぬく事から後の様々な結論が現れてくるのであり、論理学的な部分も意味を持ってくる。では、世界とは事実の総体だというのはどういう事だろうか。

 

 あんまり細かく解説していく気はないので、ここで話を転換させて、一気に論考の全体のイメージの話に移行しようと思う。「世界は事実の総体であり、それ以上の事は世界とは言えない」 とりあえず、これだけの事があれば大丈夫だろう。

 

 


論考に流れ込む一つ目のライン 論理学

  

  まず、論理哲学論考という書物には二つのラインが流れ込んでいると考えてもらいたい。(場合によっては、三つ目のラインが出るかもしれないが) ウィトゲンシュタインはその二つのラインを一つの形にはめ込む事によって論理哲学論考を書き上げた。そしてこの予備知識がない場合、ウィトゲンシュタインの言っている事はどうしてもちんぷんかんぷんになってしまう。

 

 一つはフレーゲ・ラッセルの記号論理学の知識だ。こちらは見えやすい。

 元々、論理学の発祥はアリストテレスにある。古代から論理学はほとんど発展しなかったのだが、フレーゲがそこに革命を引き起こした。論理学の基盤を「名辞」から「命題」へと変えた。

 今書いたのは光文社版の解説の引き写しである。さて、自分が論理学の領域で重視するのは次の箇所だ。(光文社版の解説より)

 

 「ただし、文といっても疑問文、感嘆文、命令文や仮定法の文などは含みません。論理学が扱うのは直説法の平叙文で、しかも真・偽が明確に決まるもの、すなわち『命題』に限られます。したがって『富士山は日本一高い山である』は真なる命題ですが、『富士山は日本一美しい山である』は命題とは見なされません」

 

 光文社版の解説者はここで、ウィトゲンシュタイン理解の上で重要なキーを投げてくれていた。本来、ウィトゲンシュタインが一般の読者を想定していれば、こういう事は説明しておくべきだったと思う。

 重要な事は『命題』というのは論理学における特殊な、純化された文だという事だ。更に大切な事は『命題』は真偽を取り扱う、という事だ。命題は、解説文にあるように、例えば、美の問題は取り扱わない。また、(後述するが)倫理の問題は取り扱わない。

 つまり、ここで一つの定式がはっきりとする。ウィトゲンシュタインが最初に「世界とは事実の総体」だという事は、命題という真偽はっきりする領域での話という事だ。「富士山は日本一高い山である」は事実についての文で、真偽が出る。一方、「富士山は日本一美しい山である」は事実に関する文ではなく、真偽が出ない。

 ここで、論理=事実=世界という定式がぼんやり見えてくる。この前提を踏まえず論理哲学論考をそのまま読むと、ウィトゲンシュタインという男が勝手な事を独断で言っているようにしか聞こえない。しかしそこにはまず、論理学が扱う事のできる領域が最初に想定されている、そういう前提がある。その領域とは事実の領域であり、それは命題として論理学においては扱われる。

 

 さて、論理学の話はこれぐらいにして、第二のラインを導入しよう。実は、こっちのラインの方が重大である。


二つ目のライン ヒューム・カント・ショーペンハウエル

               

 論理哲学論考に流れ込んでくる第二のラインは、ヒューム・カント・ショーペンハウエルという三人の哲学者の流れだ。これも解説すると膨大になるので絞り込む。

 

 第二のラインの三人は元々、「ヒューム→カント→ショーペンハウエル」というように影響を与えている。ウィトゲンシュタインが論考を書くまでに、きちんと読んだのはショーペンハウエルだけだったらしいが、ショーペンハウエルにはカントやヒュームの影響も流れ込んでいる。第二のラインはそういうものだ。

 

 さて、この第二のラインと前述の第一のラインはどこで結びつくのか。これも自分なりに極限的に絞ると、ヒュームの「ヒュームの法則」というのが浮かび上がる。これを中心に話す。

 

 ヒュームの法則というのは、事実判断からは直ちに価値判断は導き出されないというものだ。つまり、事実から倫理に簡単に飛躍する事はできない。この「できない」というのは不可能という意味ではなく、「そんなに簡単にすべきではない」という戒め的な意味が強いように自分は思う。

 

 具体的に見ていこう。例えば、「〇〇という儀式は千年間続いてきた」というのは事実に関する文である。これには真偽が出る。さて、この文に次の文が続いていると考えてみよう。「だから、この先もこの儀式を続けるべきである」。しかし、この結論部はそう簡単には言えない。(言ってはならないという事ではない) 何故なら、ここで前者の文から後者の文への飛躍は事実から倫理への飛躍であり「である」から「ねばならぬ」への飛躍だからだ。事実をいくら点検しても、そこに「ねばならぬ」を導き出せるものは見つからない。ヒュームはそう考えた。

 

 ここまで来れば、最初に言った第一のラインとの整合性が取れてくるだろう。つまり、事実判断から価値判断は見いだせない。事実は論理学における命題によって表される。そして命題以上の事ーー美や倫理は『語りえない』事である。世界は事実の総体である以上、言語は論理として事実を語る。しかしそれ以上の事は語りえない。



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