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 「神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである」

 「限界づけられた全体として世界を感じること、ここに神秘がある」

 

                           (論理哲学論考)

 

                            写真:skyseeker

 


世界とは事実の総体である

                         

 「論理哲学論考」のはじめに、次のような言葉がある。

 

 一   世界は成立している事柄の総体である

 一・一 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。

 

 「論考」を最初に読んだ人なら、この箇所を読んだ時(ふーん、そうなんだ)と思うかもしれないし、または(よくわからないけど読み進めていこう)となるかもしれない。しかし、この最初の二行だけでも、言わなければならない事が沢山ある。ウィトゲンシュタインはそれを全部端折っているので、読むのが非常に難解になってしまう。

 

 そして実は、「論考」の一番大切な箇所はこの部分に集約されているーーと僕は見ている。「世界とは事実の総体である」 この事を厳密に考えぬく事から後の様々な結論が現れてくるのであり、論理学的な部分も意味を持ってくる。では、世界とは事実の総体だというのはどういう事だろうか。

 

 あんまり細かく解説していく気はないので、ここで話を転換させて、一気に論考の全体のイメージの話に移行しようと思う。「世界は事実の総体であり、それ以上の事は世界とは言えない」 とりあえず、これだけの事があれば大丈夫だろう。

 

 


論考に流れ込む一つ目のライン 論理学

  

  まず、論理哲学論考という書物には二つのラインが流れ込んでいると考えてもらいたい。(場合によっては、三つ目のラインが出るかもしれないが) ウィトゲンシュタインはその二つのラインを一つの形にはめ込む事によって論理哲学論考を書き上げた。そしてこの予備知識がない場合、ウィトゲンシュタインの言っている事はどうしてもちんぷんかんぷんになってしまう。

 

 一つはフレーゲ・ラッセルの記号論理学の知識だ。こちらは見えやすい。

 元々、論理学の発祥はアリストテレスにある。古代から論理学はほとんど発展しなかったのだが、フレーゲがそこに革命を引き起こした。論理学の基盤を「名辞」から「命題」へと変えた。

 今書いたのは光文社版の解説の引き写しである。さて、自分が論理学の領域で重視するのは次の箇所だ。(光文社版の解説より)

 

 「ただし、文といっても疑問文、感嘆文、命令文や仮定法の文などは含みません。論理学が扱うのは直説法の平叙文で、しかも真・偽が明確に決まるもの、すなわち『命題』に限られます。したがって『富士山は日本一高い山である』は真なる命題ですが、『富士山は日本一美しい山である』は命題とは見なされません」

 

 光文社版の解説者はここで、ウィトゲンシュタイン理解の上で重要なキーを投げてくれていた。本来、ウィトゲンシュタインが一般の読者を想定していれば、こういう事は説明しておくべきだったと思う。

 重要な事は『命題』というのは論理学における特殊な、純化された文だという事だ。更に大切な事は『命題』は真偽を取り扱う、という事だ。命題は、解説文にあるように、例えば、美の問題は取り扱わない。また、(後述するが)倫理の問題は取り扱わない。

 つまり、ここで一つの定式がはっきりとする。ウィトゲンシュタインが最初に「世界とは事実の総体」だという事は、命題という真偽はっきりする領域での話という事だ。「富士山は日本一高い山である」は事実についての文で、真偽が出る。一方、「富士山は日本一美しい山である」は事実に関する文ではなく、真偽が出ない。

 ここで、論理=事実=世界という定式がぼんやり見えてくる。この前提を踏まえず論理哲学論考をそのまま読むと、ウィトゲンシュタインという男が勝手な事を独断で言っているようにしか聞こえない。しかしそこにはまず、論理学が扱う事のできる領域が最初に想定されている、そういう前提がある。その領域とは事実の領域であり、それは命題として論理学においては扱われる。

 

 さて、論理学の話はこれぐらいにして、第二のラインを導入しよう。実は、こっちのラインの方が重大である。


二つ目のライン ヒューム・カント・ショーペンハウエル

               

 論理哲学論考に流れ込んでくる第二のラインは、ヒューム・カント・ショーペンハウエルという三人の哲学者の流れだ。これも解説すると膨大になるので絞り込む。

 

 第二のラインの三人は元々、「ヒューム→カント→ショーペンハウエル」というように影響を与えている。ウィトゲンシュタインが論考を書くまでに、きちんと読んだのはショーペンハウエルだけだったらしいが、ショーペンハウエルにはカントやヒュームの影響も流れ込んでいる。第二のラインはそういうものだ。

 

 さて、この第二のラインと前述の第一のラインはどこで結びつくのか。これも自分なりに極限的に絞ると、ヒュームの「ヒュームの法則」というのが浮かび上がる。これを中心に話す。

 

 ヒュームの法則というのは、事実判断からは直ちに価値判断は導き出されないというものだ。つまり、事実から倫理に簡単に飛躍する事はできない。この「できない」というのは不可能という意味ではなく、「そんなに簡単にすべきではない」という戒め的な意味が強いように自分は思う。

 

 具体的に見ていこう。例えば、「〇〇という儀式は千年間続いてきた」というのは事実に関する文である。これには真偽が出る。さて、この文に次の文が続いていると考えてみよう。「だから、この先もこの儀式を続けるべきである」。しかし、この結論部はそう簡単には言えない。(言ってはならないという事ではない) 何故なら、ここで前者の文から後者の文への飛躍は事実から倫理への飛躍であり「である」から「ねばならぬ」への飛躍だからだ。事実をいくら点検しても、そこに「ねばならぬ」を導き出せるものは見つからない。ヒュームはそう考えた。

 

 ここまで来れば、最初に言った第一のラインとの整合性が取れてくるだろう。つまり、事実判断から価値判断は見いだせない。事実は論理学における命題によって表される。そして命題以上の事ーー美や倫理は『語りえない』事である。世界は事実の総体である以上、言語は論理として事実を語る。しかしそれ以上の事は語りえない。


独我論

 

 

 ウィトゲンシュタインが純粋な論理学者ならここで話は終わっただろう。しかしウィトゲンシュタインは話を続ける。論考の最後の部分では、論理学ではない事が語られる。

 

 この部分は余計な部分として見る事もできるが、論理哲学論考という本を哲学書として読む者にとってはこちらの方が魅力的だろう。この箇所に関しては僕にとっても、不明の所が多いので、「勘」で書く。

 

 これまで見たように、世界とは事実の総体であるという事が分かった。事実は命題と一致する。命題は真偽が出る。命題とは論理である。論理・論理学・命題・事実・真偽がぐるぐると回りそこから意志・美・倫理などは弾かれる。それらは命題では語る事ができない。しかしウィトゲンシュタインは弾かれたものについても語っている。ウィトゲンシュタインが何故、それらについて語っているのかは僕にはわからない。そんな言葉はありえないという事がこれまでの論理の帰結ではなかったのか。しかし、ウィトゲンシュタインはそれについて(なぜだか)語り出す。

 

 ウィトゲンシュタインはこの世界ーーつまり、事実・命題による世界を作り出すものについて語り出す。それは「主体」である。主体は独我論的に現れる。

 

 独我論とは哲学で言われる一つの学説だ。要約すると、「この世界に実在するのは私一人であり、ほかはすべて私の意識内容に過ぎない、とする考え方」(光文社版の解説より)である。ウィトゲンシュタインは独我論を基本的に肯定する。しかし、ウィトゲンシュタインはこれにただ肯定するわけではない。独我論とは語られると嘘になる類の真実である。つまり、独我論は沈黙している限りではそれ自体真理であるようなタイプの真理なのである。

 

 何故、そういう事になるのだろうか。世界があり、これは論理によって語る事ができる。世界を形作る主体、世界を形成しているのは「私」である。これはすぐに想像できるだろう。今、この文章を読んでいるあなたにとって、あなたの世界は、あなたなしには存在できないものであろう。そしてその時、私(ヤマダヒフミという人)の存在はあなたの意識内容として、あなたの世界に現れているに過ぎない。私の世界ーーつまり、私が私の世界を形作っているのは、あなたの世界に現れはしないのだ。同様に、私の世界にあなたの世界を形作るあなた、は現れない。現れるのはそれぞれ、偶然的な「ヤマダヒフミ」であったり「あなた」であったりするだけだ。

 

 独我論は語られると嘘になる。何故か。例えば、今、ヤマダヒフミという人(僕)が独我論を語ってみよう。

「実在するのは私だけだ。その他は私の意識内容に過ぎない」 

 さて、こうして僕が独我論を語ると、当然、あなたは反発するだろう。何故なら、あなたはかっこの中の「私」を「ヤマダヒフミ」と読み替えるからだ。つまり、あなたは「」の文章を読んで、こう考えるだろう。(ヤマダヒフミという奴はなんて身勝手な奴だ。ヤマダヒフミの世界がただ一つの世界だと言うなんて。そんな事はありえない。私には私の世界がある) しかし、この時、独我論に反発するあなたは実はヤマダヒフミが語っているのと同じ事を語ってしまっているのである。何故なら、あなたの世界にとって、ヤマダヒフミは単にあなたの世界の中の一事物に過ぎないからだ。

 

 独我論はこのようにして語りえないものである。では、それはどのように示されるのか。それは丁度、画家の視点と絵画の対比のように現れる。この事を考えてみよう。

 

 一枚の風景画を想像して欲しい。山の絵でも川でもなんでもよい。その時、我々はそこに語られず(描かれず)示されているものを想像する事ができる。それは画家の視点である。画家の視点は、絵画から逆算して想起する事ができる。しかし絵画の内に、画家の視点、そして画家自身は描かれない。たとえ、この風景画に絵を描いている画家自体を描いたとしても、その絵を描いている画家自体は描く事はできない。つまり、描く「手」は描かれるものとは違うものである。

 

 独我論における主体と私はこのようなものである。ウィトゲンシュタインはこう言っている。

 「独我論を徹底すると純粋な実在論と一致することが見てとられる」

 この場合、独我論とは画家の視点であり、実在論とは絵画それ自体と考えられる。主体は語られず示される。独我論は語りえない。絵画は存在する。実在論における世界も存在する。しかし、その存在を成り立たせている主体は語りえない。



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