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終わりに

                           

 

 自分のウィトゲンシュタイン論はこれで終わりとしたい。ウィトゲンシュタインに関して言えば、僕が最も興味を引いたのは彼の独我論のあり方だった。問題は「自己は他人に知られてはならない」という、論理の突き進め方だった。こういう論理の進め方は当然、それ自体の矛盾を生じさせる。しかしウィトゲンシュタインにはあるビジョンがあった為、その矛盾を少しも恐れなかった。この事は仏教哲学とも共通している。真理が己の運動を突き進めると、ついにそれは真理である事をやめて、ねじれて壊れてしまう。余人はこれを不思議とか間違いとか見るかもしれないが、真理の方から見れば、真理というものをそんな風に固定化して見てしまう我々の方が間違っているのだ。真理は自身を極めようとして、ついに壊れてしまう。我々がそこに見るのは教義と化した、〇〇主義、〇〇派という名札のついた真理ではない。我々がそこに見るのは、軌跡としての、運動としての真理であり、それが運動である以上、始点と終点で矛盾していても何の問題もないという事になるだろう。

 

 ウィトゲンシュタインの独我論にとっての最大の矛盾は、それを語った事にあるのだろう、と僕は見ている。ウィトゲンシュタイン自身、沈黙を重視していたし、彼は余計な人間が彼の哲学体系に入ってこないように鍵をかけていた。後に残された人間である僕達は、彼の秘密の日記さえ白日の下に晒して、彼の哲学の内部に入り込もうとしている。しかしそんなやり方では、彼の哲学に突っ返されてしまうだけだ。ウィトゲンシュタインの独我論は他者を排除するものではない。それは他者を承認するものではない。そんなものなどありえないのだと「我々」が知る時、ウィトゲンシュタインの独我論にとって、我々の存在こそが最初の他者なのだ。我々は他者を承認する事により、孤独を癒やすのではない。それは全く、逆である。いや、我々にとっては「孤独」と言う事でさえ、あまりに他者の存在を意識した、妥協的な言葉に過ぎない。我々にはもはや比較する他人がいない。他人は私の意識に現れる事物の一つに過ぎず、歴史も私の世界を支える一支点に過ぎない。かつて、ウィトゲンシュタインと名のついた男がそんな風に考えた。しかし、ここで一つの問いが起こるだろう。では、この私(ヤマダヒフミ)あるいは、これを読んでいるあなたは、どうしてその事を知り得たのだろう? 我々とは全然関係ないし、会ったこともないし、気にしなければ気にしないで済む、ウィトゲンシュタインという赤の他人がそう言ったという事を、何故我々は我々の論理空間の中で知らなければならないのだろう?

 

 ある過去の時期に、ウィーンで生まれたウィトゲンシュタインという一人の男がいた。それは歴史的人物であり、哲学史に名前の残る人物なのかもしれない。その人間は独特の哲学を作った。それは歴史の中の一つの哲学として、私達の目には見える。一般の人には興味がないのだろうし、研究者はそれを理解する事を仕事にするのかもしれない。しかし、そんな一般的視点というものが一体、何なのか。「私」というのっぴきならない存在があるのに、何故、赤の他人、どこの誰だか知らないウィトゲンシュタインなどという男の言った事を問題にしなければならないのか。

 ウィトゲンシュタインという男が語ったことは正に「そういう事」であったのだ。もう一度、パスカルとくらべてみよう。

 

 「空間によっては、宇宙は私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私が宇宙をつつむ」(パンセ)

 

 パスカルの思考は確かに宇宙を包み込み、飲み込むだろう。しかし、どうして思考する事によって、そんなものを包み込まなければならないのだろうか。我々は我々の生によって、我々の独我論的世界によって、この宇宙を存在させてしまっている。そしてその事は語る事ができない。我々は宇宙の、星空について議論する事ができる。でも、その星空が「私の星空」だという事は語りえない。それは語りえない真実である。そしてこれが語りえないと知る事は、もう宇宙と私との対立に悩む必要はないという事だ。パスカルは恐ろしく孤独だった。しかし彼は未だ、自身を孤独だと感じられる程には、他人との比較の世界に存在していた。そんなものなどない、他人は私が存在させている事物の一つに過ぎないと人が知れば、もうこの世界に孤独はなくなる。比較する対象がなくなる時、(ウィトゲンシュタインに反して言うが)人には幸福も不幸もなくなる。「生きる」とはそういう事だ。他者はその世界に復帰してくる事だろう。論理ではないものを通じて、独我論者は自分以外の他人を、他人を許容しようとする哲学以上にはるかに豊かに、力強く承認するだろう。だが、その事は語りえない。語りえないという事だけが独我論にとっては真実である。人はこの余白を、自身の存在によって(自分の論理空間によって)肯定しなければならない。人が孤独でないのは、論理ではない部分においてである。これは、僕の信仰である。

 

 「神の存在を確信をもって信じることができるなら、他人の心の存在も信じることができるのではないか」(ウィトゲンシュタイン)

 

 さて、もう自分がウィトゲンシュタインについて言いたい事はあらかた言い尽くしてしまった。しかし、最後に、この論を書いていて自分が気づいた事について述べる。それは簡単な事だ。それはーー僕がこうしてウィトゲンシュタインという人物、その哲学について言及するという事が、ウィトゲンシュタインとその哲学に対する背反だという事だ。僕はこうしてウィトゲンシュタインについて述べた。その事によって、ウィトゲンシュタインの語った真実から離れてしまった。もし本当に彼の語った真理を理解したのなら、彼について述べる事など不要なはずだ。彼の哲学を本当に心から理解する事は、僕という個人が、ヤマダヒフミと名のついた人間の生を、満身の力で持って生きる事にならなければならない。また、それは己の見たものを語る事であるはずだ。ウィトゲンシュタインなど、赤の他人であり、単に歴史的人物に過ぎない。その事を僕に教えてくれたのが、仮にウィトゲンシュタインという名前のついた、過去のある人物だった。

 

 だから、この評論を読み終えた人物ーーつまり、あなたは、僕のこの評論などなにものでもないと思うようにならなければならない。また、ウィトゲンシュタインなど過去の一人物に過ぎない事を理解しなければならない。おそらく、そのようにある時、僕らはウィトゲンシュタインを正しく理解したという事になるだろう。そういう訳で、(自己否定になるが)この評論文は誤った評論文である。しかし誤謬にもいくらかの価値があるとすれば、自分の言った事もそう無駄ではないという事になるだろう。


奥付



「論理哲学論考」の風景


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著者 : ヤマダヒフミ
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