閉じる


ウィトゲンシュタイン論

 

「世界の出来事を私の意志によって左右するのは不可能であり、私は完全に無力である。

 

私は出来事への影響を専ら断念することによって、自分を世界から独立させることができ、従って世界をある意味で支配しうるのである。」

                           (草稿1914ー1916)

 

 

                            写真:skyseeker

 

 

 


ウィトゲンシュタインと他者1

                       

 

 論理哲学論考の自分なりの解説はこれで終わりなのだが、他にも論じたい事があるので、論じていこう。最初に考えるのは他者の問題だ。

 

 ウィトゲンシュタインは独我論者だと言っても、それほど間違いはない。しかし、独我論というのは、「自分勝手」な感じがするらしく、哲学者にもあまり受けが良くないようである。日本のウィトゲンシュタイン研究者・哲学者の野矢茂樹は次のように書いている。

 

 「だが、いまや私は『論考』を他者の予感のもとに開きたいと考えている。(略)

  意味の他者はどのようにして私の前に姿を現しうるだろうか。(略)論理空間のこうした運動、その変容を促す力、これこそが他者にほかならない。」(『論理哲学論考』を読む)

 

 野矢茂樹は(僕の理解では)ウィトゲンシュタインの独我論では狭苦しいと考えたらしく、そこに他者を導入しようと試みている。そこで論理空間を変化させるものを他者だという事にしている。

 

 この点、もう一人の優れた日本の哲学者・永井均は全く逆の反応を示している。僕は永井均の方が正しいと思う。その箇所を例にあげてみよう。

 

 「しかし、注意せよ。ここで本質的な点は、私がそれを語る相手は、誰も私の言うことを理解できないのでなければならない、ということである。他人は『私が本当に言わんとすること』を理解できてはならない、という点が本質的なのである。」(青色本・ウィトゲンシュタイン著)

 

 「私が何より感動したのは、『他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない、という点が本質的なのである』という最後の一文である」 (ウィトゲンシュタイン入門・永井均著)

 

 さて、永井均という哲学者は、ウィトゲンシュタインの発言の最後の一文に感動したと言っている。これはどういう事だろうか。おそらく、野矢茂樹であればここに不満を持つだろう。(少なくとも、修正を試みようとする) 何故なら、他人が、私が言おうとする事を理解できてはならないというのは、他者排除の哲学と見えるからだ。

 

 僕はどちらかと言うと、永井均と同じ立場に立っている。ウィトゲンシュタインを読み、それを理解するとはどういう事か。それは青色本の「他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない、という点が本質的なのである」という一文に感動するか否か、という事にかかっている、と考える。暴論かもしれないが、ここでウィトゲンシュタインが何を言おうとしているかを直感する事がウィトゲンシュタインを読むという事であり、それに比べれば、論理学の細かい知識は些事であるとーーそうとさえ思っている。


ウィトゲンシュタインと他者2

                       

 

 先に書いたように、野矢茂樹はウィトゲンシュタインの哲学の内部に「他者」を導入しようとしているようだ。しかし、この問題を自分は全く逆に捉える。また、逆に捉えなければならない、と考える。それは論理的に正確か否か、というよりは、もっと大きな問題に通じる事柄だと考えている。

 

 野矢茂樹が間違っていると思うのは、ウィトゲンシュタインの独我論を、一般的に捉えてしまっているという点にある。例えば、独我論を語る相手が目の前にいるとする。この人物の名前が、「ウィトゲンシュタイン」だとする。すると、ウィトゲンシュタインの独我論を聞く人物は、ウィトゲンシュタインという男が「自分の世界が全て」と言っているように聞こえる。独我論が息苦しく、他者を欠いているように見えるのは、そういう見方がどこかで残存しているからだ。独我論だって? でも、他者はいるではないか、確かに、というわけだ。でも、その「確かに」は論理的に正確に表せない。

 

 ここで見方を変えてみよう。永井均の立場に勝手に立ってみる。ある人にとって「自分勝手」「引きこもりがち」「他者排除」と見えるような哲学に出会い、永井均は感動した、と言っている。「ウィトゲンシュタイン入門」によれば、それまで永井均は現象学や実在哲学の本を漁っても、そこに自分の知りたい事が書いていない事に失望していた。それらの哲学は永井にとっては、「かゆい足を靴の上から掻いているような物足りなさ」に過ぎなかった。そういう時に、永井均はウィトゲンシュタインの上記の文章に出会って感動したのだった。

 

 自分の理解では、この時、永井均はウィトゲンシュタインの言葉を正に『私の言葉』として聞いたのだった。この『私の言葉』というのが、自分の、野矢茂樹に対する批判ポイントであり、また同時に、永井均に共感するポイントである。永井均はウィトゲンシュタインの言葉を他者排除の言葉とは捉えなかった。それは永井均という一人の人間にとって(おそらくは)正に、彼自身の言葉、彼自身が発しなければならない言葉として響いたのだった。そしてこの事こそが、本当の意味での他者を存在させる言語なのである。つまり、あらゆる他者を排除する一つの言語があり、それは独我論と名付けられた。一般的に考えればそれは身勝手な、独りよがりの理屈に見えるが、これは一般的観点に立脚した見方に過ぎないのである。私とは何か、という問いの中には、「私」が社会的にも、一般的にも位置づけられない領域があり、その言葉としてウィトゲンシュタインの独我論は現れてくる。この言葉を、耳のある人間が聴けば、それは「私の言葉」と聞こえるのである。

 

 『他人は「私が本当に言わんとすること」を理解できてはならない、という点が本質的なのである』

 

 この言葉をもう一度見てみよう。ここで言われている「他人」とは誰なのか、「私」とは誰なのか。この事を真剣に考えてみよう。この時、これを言っているのはウィトゲンシュタインという過去に実在した一人の男である。おそらくは。では、この「他人」というのはウィトゲンシュタイン以外の人間なのだろうか? 野矢茂樹の言う通り、論理空間(自分の世界)を変化させるのが他者なのだろうか? 僕には答えは全く、逆に思える。他者と呼ばれる存在はあくまでも、「私」の世界における一事実に過ぎない。

 

 「歴史が私にどんな関係があるというのか。私の世界が最初の、そして唯一の世界なのだ。」(草稿)

 

 この言葉も同様である。普通、この言葉を人は「歴史軽視」「歴史無視」という風に受け取るだろう。これはウィトゲンシュタインの独我論を「他者軽視」と受け取るのと全く同じ観点に立っている。しかし、本当にウィトゲンシュタインが問題にしている事はそうではない。過去に、ウィトゲンシュタインという一人の男がおり、その男が語った真理は独我論であった。ここに、二様の見方が成立する事ができる。一つは、その真理はウィトゲンシュタインという男(あるいは一般的な一人の人間)に当てはまるという見方。もう一つは、その真理は正に「私の真理なのだ」と見る見方。そしてウィトゲンシュタインという男が真に偉大なのは、後者の方の言語を最初に語ったのがたまたまウィトゲンシュタインという男だったからにすぎないと、彼自身知っていたからである。我々はウィトゲンシュタインの言語を読む時、それを正に『私の言葉』として聞く。この時、我々の内部で、ウィトゲンシュタインとか、ヤマダヒフミとか、永井均とか、その他、様々な固有名詞が消失する。その消失により、この言語は本当の意味で、他人の論理空間に現れる事になる。しかしそれは依然、語りえない類の真実なのである。


実存主義とウィトゲンシュタイン

                      

 

 こうした、ウィトゲンシュタインの「私」への言及法を僕は永井均の解説を通して、自分なりに理解した。その理解を延長して考えると、ウィトゲンシュタインの特殊な独我論は、実存主義を一歩越えるものではないかという考えが浮かぶようになった。

 

 ただ、実存主義という言葉自体は、かなりいい加減かつ曖昧なものだ。僕はとりあえず、実存主義を一般的かつ、曖昧な基準のままに想定する事にする。実存主義という事で僕がイメージするのは、パスカル、ニーチェ、キルケゴール、ドストエフスキーなどだ。実存主義は、世界の本質、規則、理性に対して、自己の実際的な生を優先させるものだ、ととりあえず学校の勉強的に定義しておこう。

 

 さて、この時、ドストエフスキーやキルケゴールなどの実存主義的なものは、明らかに世界に対して、自分というものを対立させて考えている。パスカルも同様である。ドストエフスキーの小説に出てくる登場人物は、互いに、それぞれによる定義に対して反抗しようとする。他者の理解を食い破ろうとするために、彼らは彼らが意向している事の真逆の事をしてしまう。「罪と罰」の主人公、ラスコーリニコフは、自分に対する定義の当てはめ、定式化に対して我慢できない。ドストエフスキーの小説には心理学全般に対する憎悪がかいま見える。ドストエフスキーの登場人物は、人間をそのように公式に当てはめるのは不可能だという真理を体現しようともがいて生きている。

 

 パスカル、キルケゴールの例について考えてもいいのだが、長くなるので省こう。いずれにしろ、実存主義というのは、世界に対して自己を、あるいは真理、規則に対して己の主体的な生を対立させている。そのように考えてもそれほど不自然ではないだろう。この場合、主体的なものが、真理に抗して重大である、という公式が見える。もちろん、主体なるものを一度公式化してしまえば、それはまた実存主義でもなんでもないものになってしまう。実存主義は実は、こうした極めて危険な場所に立たされている。それが公式化されるのを拒否して、主体的な生を肯定している以上、その生自体を公式化する事は正に、実存主義に反する事になってしまう。(もっとも、これが主義の名を与えられた瞬間、それは実存でもなんでもないものだと見るのは正当な見方だろうが)

 

 では、これに対してウィトゲンシュタインの独我論はどうだろう。ウィトゲンシュタインの独我論は実存主義以上の実存主義とも言える。後期に至れば、ますますそういう観点が増大してくるように思える。しかしウィトゲンシュタインは明らかに実存主義者ではない。彼には対立するものが存在しないため、実存主義という感じがしない。

 

 ウィトゲンシュタインの独我論にはどうして対立するものがないのだろうか。ウィトゲンシュタインの観点からすれば、実存主義は何かを誤解している。つまり、そこで実存主義がいかに主体的な生を肯定していようとも、それは三人称的立場に立った観点を外れていない。つまり

 

 実在   →    本質       /     主体    →    真理

   

 のように、大抵は何かと何かを対立的に捉えてしまっている。しかし、ウィトゲンシュタインの独我論は、そうではない。ウィトゲンシュタインの立場からすれば、そういう対立を可能にするものこそが「私」の存在なのだ。そして私とは、存在と言う事はできない、一つの視野である。つまり、無理矢理、図に書くと

 

   〈 A    ⇔    B 〉

          ↑

          ↑

       (語りえない私)

 

 という事になる。

 この場合、もちろん、この図自体も、図という定式化を犯してしまっているので本当は間違っている。僕はこれまでこの論の中で、何度か主体という言葉を使ったが、それは視野としての、語りえないものとしての(主体)であるから、普通の実存主義の主体とは違うものである。サルトルは「実存は本質に先立つ」と言ったそうだが、これを言う時、この言葉自体が公式となってしまっているかどうかにサルトルが気づいていたかどうかという事が、ウィトゲンシュタイン的には重大な問題だと言える。何故なら、実存が本質に先立とうが、本質が実存に先立とうが、そういう言葉自体が、新たな公式、新たな「本質」として僕らの前に現れざるを得ない事は確かだからだ。ウィトゲンシュタインが独我論は語りえず示される、と言う時、彼は、独我論は語られれば嘘になるタイプの真実だと明白に認識していた。一方で実存主義はつい、己の真実を『語って』しまう。ウィトゲンシュタインと実存主義の間には、このように微妙かつ、重大な差があるように僕には見える。それは、実存主義は未だ二次元の平面に浮かんでいるが、ウィトゲンシュタインは三次元の立体的な構造の中にいるようなものだ。しかし、人はその根底的な構造から世界を『二次元的』にしか捉えられない。だからこそ、ウィトゲンシュタインは『語りえない』という形で、彼の立体的な構造の哲学の最後の柱を構築する。それは見えず、語りえず、示されるものという形でこの建築を支えている。この不思議な構造の自覚こそが、ウィトゲンシュタインが過去の哲学者の中で一段と奇妙で、優れた哲学者である理由であるように僕には思われる。


ウィトゲンシュタインと他者 3

                    

 

 一つ戻って、もう一度他者の問題を考えてみよう。ウィトゲンシュタインの哲学において仮に、他者の問題を位置づけるとしたら一体、どこに位置づければいいのか。他人に心がある、という僕らが普段当たり前に考えている事を、どう考えていけばいいのだろうか。

 

 野矢茂樹のように、ウィトゲンシュタインの哲学の体系内にそれを導入するとおかしな事になると自分は言った。それでは、どうすればいいのか。自分が想起するのは、カント哲学における『実践理性批判』の領域である。カントは、純粋理性批判では神の存在や魂の不死という問題は論理から追い出したが、その後、「要請」という形でそれを取り戻した。「要請」というのは、理屈から考えると、そういうものがあると考えるのはおかしいが、自分達が生きていてく上で便宜的にそう考えましょう、要請しましょう、というほどの意味である。他者の問題をウィトゲンシュタインと合致させるには、そのように考える他ないように思う。

 

 「神の存在を確信をもって信じることができるなら、他人の心の存在も信じることができるのではないか」(反哲学的断章)

 

 他人の心を信じる事は神の存在を信じる事のように、論理を越えた場所にある。仮に、ウィトゲンシュタインが彼の『実践理性批判』を書いたとしたら、彼はそこで他者の問題を論じただろうが、ウィトゲンシュタインは「語りえない事」については頑固に沈黙を守った。その事は別に、それを否定したわけではない。彼はカントとは違い、語りえない事については沈黙する事を選んだ。

 

 だが、そもそも独我論を正しいとする『論理哲学論考』という本が何故、出版されたのか? という事自体が、この問いに対する見えない答えだと考える事ができるだろう。ウィトゲンシュタインは、語りえないものに区分した他者に向かって、他者の理解に向かって、『論理哲学論考』という本を出版している。少なくとも、彼はその本が出版され、他人に読まれる事を希望した。その場合、彼は他人の論理空間というものを信じていたと見る事できるし、そう想定しなければ、そもそもこのように体系的な書物が書かれる事すらなかったはずだ。つまり、『論理哲学論考』という書物が『我々』の目の前にあるという基本的な事実こそが、論考にとっての他者だと見る事ができる。だがもちろん、本はそれを読むものについて語る事はできない。本は読むものに対してただ開かれているばかりだ。そして我々がこれを読み、共感し、理解するという事実に、哲学の内部に組み込まれなかった出来事が語りえず、示されている。もちろん、論理哲学論考の著者はその事を知っていた。知っていたからこそ、彼は出版を意図した。彼はカフカのように、書物を灰にしようとはしなかったのだ。


ウィトゲンシュタインと仏教

                     

 

 ちょっと視点を変えてみよう。ウィトゲンシュタインは、仏教と比較される事があるようだ。ネットで調べると、いくつか出てくる。ウィトゲンシュタインが仏教的というのは、自分で読んでいても感じる所だ。では、それはどのような論理的な同一性があるのだろうか。

 

 「ありうるすべての科学的な問いに解答が得られたとしても、人生の問題はまったく手つかずに残る、とわれわれは感じる。もちろんそのとき、もはやどんな問いも残されてはいない。まさにそのことが解答なのである」

 

 「人生の問題の解決は、その問題の消滅という仕方で見出される」

 

 こうした見方は仏教的だと自分は感じる。道元は悟りと修行は同一だと言ったそうだが、過程それ自体を目的とする事によって、絶えず目的をーーつまり、答えを見出そうとする問いを消滅させるという方法は、仏道の方法論に近いと自分は感じる。(仏教というのは膨大なので、あくまでも自分が知っている仏教の知識と関連させて話している。自分は仏教を宗教というより、哲学として取り扱っている)

 

 仏教とウィトゲンシュタインの近似性は何より、主体(私)のあり方によって世界全体の問いや疑問を解消させようとする根源的な方法論にあるだろう。仏教における「悟り」とは、自分の調べた感じでは、一般に思われるようないわゆる「悟り澄ました」心境、何事も心を動かさない超人的心境にあるのではない。仏教における悟りとは思考によって徹底的に現実と己を認識し、世界は『空』であると理性的に認識する事にある。また、心をみだりに動かさないという事は、日常における実践的なものとして使用されている。

 

 主体のあり方によって世界の見え方が変わる事、その事によって世界内の問題を主体的に解消してしまう事、この事は仏教哲学とウィトゲンシュタイン哲学に共通の事のように感じる。ただ、その結果、それらの領域においては、「いかに経済・社会・政治をよくしていくのか」という問題が除外されたように感じる。(日蓮は逆に考えたらしいが) 別にウィトゲンシュタインや仏教哲学は経済や社会の問題を軽視しているわけではないが、それらの問題を良くする事により幸福が得られるのではなく、幸福は自己の、主体的な視野のあり方によって決定されると考えられているから、必然的にそれらの問題はどこか遠くへやられるという事になってしまう。そして社会や経済に目を向ける人間はそれによって幸福が得られると夢想しているのだから、これらの哲学とは相反するとも考えられる。

 

 この事については次章で検討していこうかと思う。政治や社会の問題は、『世界の中の私』というあり方に収斂され、ウィトゲンシュタインや仏教などの、哲学・芸術・倫理などの部門は『私の中の世界』というあり方に収斂される。ウィトゲンシュタインは外的な事実の変化ではなく、主体(私)のあり方によって世界を救おうとしていた。それはどんな事なのだろうか。


独我論の厳しさ

                        

 

 仏教と同様、ウィトゲンシュタイン哲学においては、主体のあり方によって、世界そのものを(自己の部分として)救済しようとしている。そのあり方がウィトゲンシュタイン独特の独我論となって現れている。

 

 永井均がウィトゲンシュタインを批評する上でかなり卓抜な比喩を案出しているので、今それを使って考えてみよう。

 

 「(略)映画の比喩でいえば、私はたんなる登場人物の一人でもあるのに画面自体を兼ねそなえているからである」(ウィトゲンシュタインの誤診・永井均)

 

 永井均の比喩の意味はーー、人間というものを映画に例えると、映画の登場人物であると同時に、映画の画面そのものだという事である。この比喩は非常に優れた比喩だと僕は思っている。

 

 説明しよう。人間というものが映画の中の一登場人物だというのはほとんど、説明が必要ないだろう。この世界に何十億人の人間がいると、われわれはこの中の一人の人物だと考える事ができる。これは普段我々が自分について考える一般的な思考だ。我々が全体の中でトップであるかビリであるかと考えたり、他人とは目鼻立ちが違うなどと考える考え方は全てこの、「映画の中の登場人物の一人」という考え方として収斂させる事ができる。

 

 さて、ではもう一方の考え方はどうか。実はこちらの方が重大である。こちらーーつまり、人間…いや、『私』が、映画の画面そのものだという事は、ウィトゲンシュタインの独我論とぴったり重なる考え方である。ややこしい事を抜きにすれば、僕達は認識によって世界を形作っている。世界と呼ばれる現象(この場合、映画)は、実は『私』の認識によって形作られている。カントはこれを一般的な人間に当てはめたわけだが、ウィトゲンシュタインはそれを個別的に『私の世界』へと判断を切り替えた。つまり、『私の世界』と『他人の世界』とは比較不可能である。我々ができるゲームは、映画の中の登場人物としてのゲームに限るのであり、画面そのものを構成している我々は決して画面の中に現れる事ができない。われわれは、映画の中で他の登場人物ーー他者を見る事ができる。しかし、他者がどんなスクリーンを持っているか、他者がどんな風に世界を認識し、これを構成しているかというのはわからないのである。他者と自分が比較できないというのは大体そのような意味だ。

 

 この考え方はウィトゲンシュタインの独我論の考え方である。私の世界、というこの時の「私」というのは一般的な世界に立ち現れる私ではない。一般的な世界と呼ばれるものの存在を可能にしている、認識者、視点としての「私」である。ここから僕は、自分の考えについて多少述べようかと思う。

 

 『論理哲学論考』の時点の独我論においては、私=視野であり、その場合その視野に世界が映し出されるから、世界=私であった。これは映画のスクリーンが『私』であるという永井均の比喩に相当する。

 

 この場合、『私』の世界が、世界と呼ばれうるものの全てであり、その外側は語りえないものに分類されているとしても間違いではないだろう。しかし、僕が思うのは、この『私』は、世界の方のあり方によって、その存在を担保されているのではないか、という事だ。

 

 映画の比喩で言えば、『私』は映画のスクリーンであると共に、映画の中の登場人物の一人でもある。しかし、映画の登場人物が誰かに殺されてしまえば、その場合、ただ、僕達が映画を見ている時のように、登場人物の内の一人が死ぬという事では済まされない。その場合、『私』のスクリーンの方も消失してしまう。『私』は映画を構成する者だが、登場人物の『私』が死ねば、映画それ自体も上映不可能になってしまう。

 

 もちろん、この事はウィトゲンシュタインも知っている。だから彼は「死は人生のできごとではない」と言っている。つまり、僕達は自分が死んでしまった姿を見る事はできない。だから、自らの死は、論理空間の外側に位置する。ここに論理の破綻はない。

 

 僕がこの時、問いたいのは論理の破綻や論理の整合性の問題ではない。僕が問いたいのはもっとーー倫理的な、あるビジョンのあり方についての話である。

 

 世界の中に起こる事は全て事実であり、それらに意味付けをするのは『私』という主体である。そしてこの主体のあり方により、幸福な世界か不幸な世界が決定される。しかし、論理が語りえない事は、その『私』の存在自体は、世界の偶然というあり方によって決定されているという事である。私が生きているという事実から論理を進めていき、世界を私の中にーーウィトゲンシュタインが言ったようにーー収める事ができる。世界の中の事実はただそれとしてあり、主体はその世界を生きる。主体ーー『私』が幸福であるならば、死をも恐れない。しかし、それはウィトゲンシュタイン自身の相貌に似て、あまりに倫理的に厳しい自己への要請ではないか。主体の元にあらゆる世界を包含し、どんな苦境の中にも幸福な世界を見出すというのは、自己への極限を越えた倫理的な要請ではないのか。この限界を越えた倫理的要求こそが、僕がウィトゲンシュタインに魅惑される理由であり、同時にそこから離れたいと思う源である。


パスカルとウィトゲンシュタイン、それぞれの『私』

                 

 

 パスカルとウィトゲンシュタインの『私』の取り上げ方を対比したい。実存主義を問題にした時に似ているが、僕は、ウィトゲンシュタインの『私』はパスカルの『私』よりも一歩先に進んだと理解している。パスカルの方から見ていこう。

 

 「『私』とはなにか。

  一人の男が通行人を見るために窓に向かう。もし私がそこを通りがかったならば、彼が私を見るためにそこに向かったといえるだろうか。いな。なぜなら、彼は特に私について考えているのではないからである」

 

 「そして、もし人が私の判断、私の記憶ゆえに私を愛しているなら、その人はこの『私』を愛しているのだろうか。いな。なぜなら、私はこれらの性質を、私自身を失わないでも、失いうるからである」

 

 パスカルの『私』についての定義はこれ以上ないくらいに明白である。つまり、『私』にとって『私』は必然的かつ絶対的だが、『私』にとっての他者は、偶然的な存在だという事だ。

 これについてはそれほど説明はいらないだろう。私が他者を愛するのは、その偶然的性質、その人の外側に位置する性質、容姿、地位、言動などであり、私が他者を愛する(憎む)のはその人の魂についてではない。魂と呼ばれるものは、各々が自分の中に所有しているだけなのである。

 

 これは、『他者との関わりは一つのゲームである』という考え方を通せばわかりやすいかもしれない。他者の言動は、そのゲームの中では、『そういうもの』として現れてくる。他者が何を考え、本当は何を意図していたか、よりも、その他者がどのような言動を行ったかという事しか、ゲームの内には現れてこない。他者の内面は、いくら頑張っても私には開示されない。開示されたと信じる時、私は自分の内面から他人の内面を類推しているに過ぎない。他者の言動や容姿などは、私の独我論的世界に立ち現われてくる。しかし、他者の内面(魂)は私の世界には決して現れてこない。

 

 パスカルの『私』の定義の仕方は、パスカル自身の孤独な哲学の相貌を暗示している。パスカルの哲学を延長すれば、個々の人間はそれぞれ独立であり、宇宙の中にただ一人孤立している。そのような実存主義的な個人の姿が「パンセ」からは透けて見える。では、ウィトゲンシュタインはどうか。

 

 「しかし注意せよ。ここで本質的な点は、私がそれを語る相手は、誰も私の言うことを理解できないのでなければならない、ということである。他人は「『私』が本当に言わんとすること」を理解できてはならない、という点が本質的なのである」(青色本・ウィトゲンシュタイン)

 

 さて、ここで注意して考えてみよう。ウィトゲンシュタインは要するに『私』とは「他人に理解できてはならないものだ」と言っている。これ対して、パスカルは『私』は他人に理解されないし、『私』は他人を理解できない、という事を述べている。

 

 この差は、極めて重大な差である。「他人を理解できない事」と、「理解できてはならないのが他人(私)だ」と言う事の間には、薄いようだが、非常に重大な差異がある。これについて、次章はもっと丁寧に見ていく事にする。


パスカルとウィトゲンシュタイン2

                   

 

 パスカルの哲学において実存主義的な個人が現れてきた。その極限の言語は次のようなものになる。

 

 「空間によっては、宇宙は私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私が宇宙をつつむ」(パンセ)

 

 この時、例え思考が宇宙を包み込むにしても、依然、宇宙と思考(私の存在)は別物だという事が肝要な点だ。ウィトゲンシュタインやカント哲学においては、私こそが宇宙そのものなのである。それらはもはや分離する術は必要ない。そしてウィトゲンシュタイン的観点からすれば、パスカルの哲学は未だに、三人称的領域にとどまっている。つまり、彼はまだ「私」と「宇宙」、「私」と「世界」を分離し、それを突き放したり、整合させたりする事に苦心している。他者との関係もそうだ。「私」と「他者」とは違うものだという前提がパスカルにおいてはまだ破られていない。パスカルはその哲学においては沢山の壁を破ってきたが、ウィトゲンシュタインが越えた壁を越えはしなかった。

 

 ウィトゲンシュタインの独我論からすれば、他者はその哲学の体系に組み込む事ができない。これは哲学の後退ではなく、進歩だと僕は信じる。しかし、自分の中のある前提を破壊しなければ、これは進歩ではなく、後退に見えるはずだ。

 

 他者はウィトゲンシュタインの体系では「理解する事ができない」ではなく、「理解されてはならないもの」である。この場合、独我論の内部に他者は位置づける事はできない。他人の魂を理解する事ができない、のではなく、理解されてはならないのである。ここに極めて重要な転調が起こる。では、ウィトゲンシュタインという男は一体、それを何故、そのように語ったのか? 「私の言葉を、私以外の人間は理解できてはならない」と、何故、ウィトゲンシュタインという男は語ったのだろう? いわば、その哲学において、その言葉を語るという事自体が、哲学体系に対して最大の矛盾であるはずである。「語る」という事はいずれにしろ、他人の理解を願ってなされるものだから。

 

 僕の理解では、正に、そうした「理解されない」という言語が、「理解されない」という形式で理解されるという事こそが、ウィトゲンシュタイン独我論における他者の存在なのである。だから、ウィトゲンシュタインは語った。しかし、ウィトゲンシュタインはこの「語る」という事自体を語る事はできないし、他人の理解について語る事はできない。その言語、一般的な真実は、一般的ではない形で世界に対して開かれている。そしてその「世界に対して開かれている」とは本来、そんな風に言えない問題だ。

 

 パスカル哲学において他人が理解できないものなのは、彼の哲学の体系内に他者が位置しているためである。一方、ウィトゲンシュタイン哲学は厳密さを極めている為、他者は独我論の内部に位置できない。位置できない事をウィトゲンシュタインが知っていながら、見えない他者に語るという事に、パスカルが越えられなかった壁を越えたという、行為そのものが存在する。だが、再三言うように、そうしてウィトゲンシュタインが壁を越えている様は、見る事はできない。あえて言うなら、「私(ヤマダヒフミ)」がウィトゲンシュタインという人物の「私とは理解されてはならない性質のものだ」と言う言葉を見て、それを理解したと感じる時、パスカルが感じていた世界との間の溝は越えられたという事になる。この溝は越えようとして越えられるものではなく、越えられないという事を認識する事によって越えられるタイプの壁なのだ。ウィトゲンシュタインはこのように、僕の理解では、パスカルより一つ大きな認識次元を有していた。


ウィトゲンシュタインとトルストイ1

                  

 

 パスカルとウィトゲンシュタインの関係については見る事できたので、今度はトルストイとウィトゲンシュタインの関係を見てみたい。ウィトゲンシュタインはトルストイの愛読者だった。ウィトゲンシュタインとトルストイ文学の間にどのような同一性があるのか、この章では見ていく。

 

 トルストイとウィトゲンシュタインの同一性として真っ先に思いつくのは、「生の肯定」という事だ。どちらも、生を肯定する事、そこに辿り着くために、超人のような力を発揮している。

 具体的に見ていくと、両者とも、戦争を経験し、そこから帰還したという事があるので、それが共鳴しているのかもしれないが、そういう歴史的事実に関してはこの論では触れない。形而上的に見ていく。

 トルストイの「戦争と平和」に次のような箇所がある。

 

 (主人公ピエールは、フランス兵に捕まり危うく死ぬ所だったが、命からがらロシアに還ってくる)

 「匂いのいいスープをのせて、さっぱりと準備されたテーブルがそばちかくによせられた時、夜やわらかい清潔な寝床に身を横たえた時、もう妻もフランス人もいないのだと思い出した時、彼はこうひとりごつのであった。『ああ、実にいい。実にすてきだ!』

 それから、彼は昔の癖で自問した。『ところで、それからどうなるのだ? 俺はこれから何をするんだ?』けれども、彼はすぐに自答するのであった。『なんでもない。ただ生きるだけだ。ああ、実にすてきだなあ!』」

 

 「彼は理知の望遠鏡をかまえこんで、はるかな遠いところを眺めていた。そこでは浅薄俗悪なものが、模糊たる遠景の中で没して、いかにも偉大で無限なもののように思われた。(略)これまで人々の頭ごしに眺めていた望遠鏡をすてて、自分の周囲でたえず変化していく、永久に偉大な、補足しがたい無限の生活を、悦びをもって観照するようになった。」 

 

 主人公、ピエール・ペズーホフは戦争に行き、フランス兵に捕まり、死刑になるのだが、あるきっかけで助かる。そこでピエールは、神を信じている老人の話を聞き、そこから彼の魂の再生が始まる。ピエールはこれまで世界全体にどことなく不満を感じており、そこに浅はかなものを絶えず見つけていた。それに呼応するように彼自身、不幸な人間だった。しかしそれは死に接近するという極限の経験を契機として、反転する。彼は突然、生全体が輝き渡っている事を理解する。彼は望遠鏡を捨てて、自分の目で世界を眺め始める。彼の『生活』がここから始まる。

 

 「戦争と平和」はスケールの大きい大河小説だと言われる事があるが、それだけとは思わない。「戦争と平和」は「論理哲学論考」と同じく、作者が自身の魂を引っ張りあげ、それを救う為の渾身の力技だったのだと僕は理解する。「戦争と平和」は大きなスケールの一般的小説を書こうと意図されたものではない。それは著者のトルストイがのっぴきならない己の宿命と対峙した時に生まれた作品だった。僕はそう解する。この事は、ウィトゲンシュタインとも共通するだろう。

 

 「戦争と平和」のピエールは苛烈な経験をして現実に帰ってくる。ピエールにとってかつて現実とは、凡庸で俗悪なものだった。しかし今やそれが全く違う観点の元、彼の目にさらけ出される。現実と呼ばれるものはこれまでのように凡庸で退屈なものではなく、まったく当たり前であり、平明であり、自由であり、美しいものである。トルストイの小説の根底にはこのような声が絶えず響き渡っている。(これは批評家シェストフから学んだ事だ)

 

 「何という単純で明白なことだろう」

 

 生は難解でもなんでもなかった。生とは単純で明白なものだった。トルストイは「イワン・イリイチの死」の最後でもこの叫びを主人公に叫ばせている。「何と簡単なのだろう。何と楽なのだろう」 「イワン・イリイチの死」は、主人公のイワン・イリイチが病気にかかり、苦しみ抜いて死ぬというただそれだけの物語だ。しかし、主人公は苦しみ抜いて死ぬ間際に全てが全く平明であり、簡単で、率直である事を理解する。「戦争と平和」と「イワン・イリイチの死」の間には二十年近い歳月が流れている。その間、作者トルストイの思想も変わった。にも関わらず、トルストイの文学の底に流れる『最後の声』はあくまでも、生を肯定しようとして、絶望、死、犯罪、痛み、苦しみをねじ伏せようとするのである。


ウィトゲンシュタインとトルストイ2

                  

 

 ウィトゲンシュタインは哲学を学説ではなく、活動だと捉えていた。これは仏教哲学と同一の態度と考えても良いだろう。哲学を学説としたり、固定化した真理だとする事は、時にその真理そのものに対して矛盾してしまう。マルクスの「学説」を教義化すれば、その固定化により、マルクスの生き生きした真理は変形して、スターリンの独裁主義にまで到達する。真理はそれを不変のものとする事により、正に真理である事をやめてしまう。真理を活動として捉える事は、驚くべき事に、「自身が真理ではない」と言明する事も、その真理自身の内に含む。「論理哲学論考」が、仏教書の「維摩経」が、自己破壊的な性格を備えているのは、それらの真実への究明があまりに激しいからである。「論理哲学論考」や「維摩経」を学説と見るならば、それは真理として正しくはないのだが、それらの書は逆に、真理を固定的なものとして見る事を非難しているのである。哲学は学説ではなく活動であるから、生き生きした実体であるのをやめる事はできない。「論理哲学論考」を書き終わり、十年の間、生活者の一人として生きたウィトゲンシュタインの姿は正に、凝結した真理そのものの姿であった。

 

 ウィトゲンシュタインはこのように、哲学を学説ではなく活動だと見ていた。ウィトゲンシュタインの目は転回し、無用な哲学的おしゃべりを消失させる。では、消失した先に何があったのか。そこには、「生」そのものがあった。しかし、ウィトゲンシュタインにおいて「生」は語られるものではなく、現に生きられるものだった。その点はトルストイとは違う。トルストイは、「戦争と平和」においても「アンナ・カレーニナ」においても、基本となる哲学を変えていない。トルストイの主人公は絶えず、己を発見し、新たに生活を始めようとする。様々な事があり、主人公は自らの魂を新たに発見する。悪は斥けられ、明確な善が発見される。確かに自分には愚鈍な所も間違っている所もあるのだが、しかし、世界全体に対して「然り」と肯定の言葉を唱えられる、そんな瞬間が最後にやってくる。それは「イワン・イリイチの死」でも変わっていない。イリイチにとっては、それが死の間際にやってくるというだけの事で、相変わらず、トルストイの「然り」という肯定命題は変わっていない。

 

 ウィトゲンシュタインが追い求めていた生は、トルストイが追い求めていた「生」とそれほど大差ないように思う。世界全体の断面がある瞬間、ほんの一瞬、人生のある場所から見ると輝き渡る、そういう場所がある。ウィトゲンシュタインは己の哲学によってそういう場所を発見しようともがいていた。論理はその為に生まれた舗装路に過ぎなかった。人は論理を通じて、論理でない場所に出てしまう。トルストイ文学においても、あらゆる悪、犯罪、狂気、死が斥けられ、生の歓喜が立ち現れる瞬間というものがやってくる。世界に意味があり、自分が生きる事に完全なる充足が得られる一瞬がある。トルストイは文学においてそうした瞬間を追い求め、ウィトゲンシュタインは哲学においてそうした領域を追い求めていた。

 

 ウィトゲンシュタインとトルストイの類似点として考えられる事は他にもある。それは神、信仰の問題である。

 

 「生はいっさいである。生は神である。生を愛するのは、すなわち神を愛することである。生のあるかぎり、神性自身の歓びがある。生を愛するのは、すなわち神を愛することである」(「戦争と平和」)

 

 「神を信じるとは、生の事実によって問題が片付く訳ではないことを見てとることである。

  神を信じるとは、生が意義を持つことをみてとることである。」(草稿・ウィトゲンシュタイン)

 

 先に言っておくと、ウィトゲンシュタインは別に神を信じていたわけではない。ウィトゲンシュタインが絶えず、宗教、神に惹かれていた事は確かだろうが、彼が本気に神を信じた事はないと思う。一方で、トルストイの方は神を信じようと祈願していたように思う。しかしトルストイが『本気に』神を信じていたかどうかは難しい。

 

 さて、両者にとって神の問題は上記のように立ち現われてきた。この時、両者にとって『神』は、人生全体をある観点から照らし出す「視点」のようなものだった。トルストイにおいては神を信じるという事が世界に意味を見出す方法として、「その通りに」信じられようとしている。ウィトゲンシュタインもそれに近いのだが、彼はトルストイに比べれば一歩引いて、神の問題を冷静に考えている。

 

 ウィトゲンシュタインは若い頃に、ある芝居を見て感動した事があった。その芝居自体は大したものではなかったが、芝居の中の台詞である人物が「私は神を信じているからなにものも恐れない!」と叫んだという。ウィトゲンシュタインはその台詞に非常に感動としたという逸話がある。

 

 この時、ウィトゲンシュタインをとらえた問題は、神が実在するか否かという問題ではなく「そう信じているから…」という、いわば信仰の有効性の問題だった。「神がいるかどうかはわからない、しかしそれを信じる事は我々には意味がある」という発想をカントは「実践理性批判」で取った。これと同様の問題はトルストイにも、ウィトゲンシュタインにも現れていた。ただ、ウィトゲンシュタインはカントやトルストイのように本気で神を信じようとしていたわけではない。彼は神を信じる事の意義を感じていたのであり、神を信じたわけではない。ウィトゲンシュタインにとって必要だったのは神そのものではなく、「なにもの恐れない」ようになる、世界的観点だった。トルストイはこの観点に、長大な物語を行使してやっとたどり着き、ウィトゲンシュタインは難解な論理を駆使して辿り着いた。この辿り着いた場所を神と呼ぼうが、生と呼ぼうが、「物自体」と呼ぼうが、それは各々の思想家に自由な事だとしか言えないだろう。ウィトゲンシュタインが影響を受けたのは、トルストイやドストエフスキーのように、絶えず世界全体を問題とする思想家だった。ウィトゲンシュタインが語らなかったのは、この思想・倫理の領域であり、秘密主義者である彼は、己がもっとも重大だと考えている事だけは、自分の哲学で吐露しようとはしなかった。おそらく、ウィトゲンシュタインはそれを語らないという事実によって、その重大さを少しも損なわずに済んだのだ。


終わりに

                           

 

 自分のウィトゲンシュタイン論はこれで終わりとしたい。ウィトゲンシュタインに関して言えば、僕が最も興味を引いたのは彼の独我論のあり方だった。問題は「自己は他人に知られてはならない」という、論理の突き進め方だった。こういう論理の進め方は当然、それ自体の矛盾を生じさせる。しかしウィトゲンシュタインにはあるビジョンがあった為、その矛盾を少しも恐れなかった。この事は仏教哲学とも共通している。真理が己の運動を突き進めると、ついにそれは真理である事をやめて、ねじれて壊れてしまう。余人はこれを不思議とか間違いとか見るかもしれないが、真理の方から見れば、真理というものをそんな風に固定化して見てしまう我々の方が間違っているのだ。真理は自身を極めようとして、ついに壊れてしまう。我々がそこに見るのは教義と化した、〇〇主義、〇〇派という名札のついた真理ではない。我々がそこに見るのは、軌跡としての、運動としての真理であり、それが運動である以上、始点と終点で矛盾していても何の問題もないという事になるだろう。

 

 ウィトゲンシュタインの独我論にとっての最大の矛盾は、それを語った事にあるのだろう、と僕は見ている。ウィトゲンシュタイン自身、沈黙を重視していたし、彼は余計な人間が彼の哲学体系に入ってこないように鍵をかけていた。後に残された人間である僕達は、彼の秘密の日記さえ白日の下に晒して、彼の哲学の内部に入り込もうとしている。しかしそんなやり方では、彼の哲学に突っ返されてしまうだけだ。ウィトゲンシュタインの独我論は他者を排除するものではない。それは他者を承認するものではない。そんなものなどありえないのだと「我々」が知る時、ウィトゲンシュタインの独我論にとって、我々の存在こそが最初の他者なのだ。我々は他者を承認する事により、孤独を癒やすのではない。それは全く、逆である。いや、我々にとっては「孤独」と言う事でさえ、あまりに他者の存在を意識した、妥協的な言葉に過ぎない。我々にはもはや比較する他人がいない。他人は私の意識に現れる事物の一つに過ぎず、歴史も私の世界を支える一支点に過ぎない。かつて、ウィトゲンシュタインと名のついた男がそんな風に考えた。しかし、ここで一つの問いが起こるだろう。では、この私(ヤマダヒフミ)あるいは、これを読んでいるあなたは、どうしてその事を知り得たのだろう? 我々とは全然関係ないし、会ったこともないし、気にしなければ気にしないで済む、ウィトゲンシュタインという赤の他人がそう言ったという事を、何故我々は我々の論理空間の中で知らなければならないのだろう?

 

 ある過去の時期に、ウィーンで生まれたウィトゲンシュタインという一人の男がいた。それは歴史的人物であり、哲学史に名前の残る人物なのかもしれない。その人間は独特の哲学を作った。それは歴史の中の一つの哲学として、私達の目には見える。一般の人には興味がないのだろうし、研究者はそれを理解する事を仕事にするのかもしれない。しかし、そんな一般的視点というものが一体、何なのか。「私」というのっぴきならない存在があるのに、何故、赤の他人、どこの誰だか知らないウィトゲンシュタインなどという男の言った事を問題にしなければならないのか。

 ウィトゲンシュタインという男が語ったことは正に「そういう事」であったのだ。もう一度、パスカルとくらべてみよう。

 

 「空間によっては、宇宙は私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私が宇宙をつつむ」(パンセ)

 

 パスカルの思考は確かに宇宙を包み込み、飲み込むだろう。しかし、どうして思考する事によって、そんなものを包み込まなければならないのだろうか。我々は我々の生によって、我々の独我論的世界によって、この宇宙を存在させてしまっている。そしてその事は語る事ができない。我々は宇宙の、星空について議論する事ができる。でも、その星空が「私の星空」だという事は語りえない。それは語りえない真実である。そしてこれが語りえないと知る事は、もう宇宙と私との対立に悩む必要はないという事だ。パスカルは恐ろしく孤独だった。しかし彼は未だ、自身を孤独だと感じられる程には、他人との比較の世界に存在していた。そんなものなどない、他人は私が存在させている事物の一つに過ぎないと人が知れば、もうこの世界に孤独はなくなる。比較する対象がなくなる時、(ウィトゲンシュタインに反して言うが)人には幸福も不幸もなくなる。「生きる」とはそういう事だ。他者はその世界に復帰してくる事だろう。論理ではないものを通じて、独我論者は自分以外の他人を、他人を許容しようとする哲学以上にはるかに豊かに、力強く承認するだろう。だが、その事は語りえない。語りえないという事だけが独我論にとっては真実である。人はこの余白を、自身の存在によって(自分の論理空間によって)肯定しなければならない。人が孤独でないのは、論理ではない部分においてである。これは、僕の信仰である。

 

 「神の存在を確信をもって信じることができるなら、他人の心の存在も信じることができるのではないか」(ウィトゲンシュタイン)

 

 さて、もう自分がウィトゲンシュタインについて言いたい事はあらかた言い尽くしてしまった。しかし、最後に、この論を書いていて自分が気づいた事について述べる。それは簡単な事だ。それはーー僕がこうしてウィトゲンシュタインという人物、その哲学について言及するという事が、ウィトゲンシュタインとその哲学に対する背反だという事だ。僕はこうしてウィトゲンシュタインについて述べた。その事によって、ウィトゲンシュタインの語った真実から離れてしまった。もし本当に彼の語った真理を理解したのなら、彼について述べる事など不要なはずだ。彼の哲学を本当に心から理解する事は、僕という個人が、ヤマダヒフミと名のついた人間の生を、満身の力で持って生きる事にならなければならない。また、それは己の見たものを語る事であるはずだ。ウィトゲンシュタインなど、赤の他人であり、単に歴史的人物に過ぎない。その事を僕に教えてくれたのが、仮にウィトゲンシュタインという名前のついた、過去のある人物だった。

 

 だから、この評論を読み終えた人物ーーつまり、あなたは、僕のこの評論などなにものでもないと思うようにならなければならない。また、ウィトゲンシュタインなど過去の一人物に過ぎない事を理解しなければならない。おそらく、そのようにある時、僕らはウィトゲンシュタインを正しく理解したという事になるだろう。そういう訳で、(自己否定になるが)この評論文は誤った評論文である。しかし誤謬にもいくらかの価値があるとすれば、自分の言った事もそう無駄ではないという事になるだろう。