目次
遥の花
遥の花 一話
遥の花 二話
遥の花 三話
遥の花 四話
遥の花 五話
遥の花 六話
遥の花 七話
遥の花 八話
遥の花 十話
遥の花 流堰迷子は天へと落ちていく
遥の花 流堰迷子は天へと落ちていく 一話
遥の花 流堰迷子は天へと落ちていく 二話 2-1
遥の花 流堰迷子は天へと落ちていく 二話 2-2
遥の花 流堰迷子は天へと落ちていく 三話
遥の花 流堰迷子は天へと落ちていく 四話
遥の花 雨夜閑話
遥の花 雨夜閑話 一話
遥の花 雨夜閑話 二話
遥の花 雨夜閑話 三話
遥の花 雨夜閑話 四話
遥の花 月の竹眠るモノ
遥の花 月の竹眠るモノ 一話
遥の花 月の竹眠るモノ 二話
遥の花 月の竹眠るモノ 三話
遥の花 月の竹眠るモノ 四話
遥の花 撃
遥の花 撃 一話
遥の花 撃 二話
遥の花 漣
遥の花 漣 一話
遥の花 漣 竹林にて
遥の花 漣 二話
遥の花 漣 三話
遥の花 漣 四話
遥の花 漣 五話
遥の花 漣 かぬか びびる
遥の花 月の糸
遥の花 月の糸 一話
遥の花 月の糸 二話
遥の花 月の糸 三話
遥の花 月の糸 あかね
遥の花 月の糸 四話
遥の花 月の糸 蛇足 佳奈のこと
遥の花 藍の天蓋
遥の花 藍の天蓋 一話
遥の花 藍の天蓋 二話
遥の花 藍の天蓋 蛇足 神の剣
遥の花 藍の天蓋 蛇足 白受難
遥の花 藍の天蓋 蛇足 遊歩風無
遥の花 藍の天蓋 蛇足 御茶会

閉じる


遥の花 一話

深夜の街を一人の男を背負った、裸の女が歩く。
雨が降りしきる人通りの絶えた街。
よろよろと倒れそうになりながらも歩き続ける。柔らかな部屋の中でしか歩いたことのなかった女の足は既に血だらけとなり、それでも、歯を食いしばり耐え続ける。
濡れた髪が女の顔を隠す、しかし、微かに覗くその口元には荒れる息と共に笑みがあった。

息が出来ない、心臓がどくどくする。
あぁ、私は生きているんだ。
私に生命を分けてくれた人、この恩、いま返します、これが私の約束。

「この部屋か・・・」
男はマンションのとある部屋の前で立ち止まった。
表札はない、本来、このマンションは入り口で居住者の部屋番号を押し、中からドアの鍵を解除してもらわねば入ることができない。居住者だろう、暗証番号を押して入るのをそのまま続いて入ったのだ。
人の世の無関心はありがたい。
背広の下、腰に隠した小刀を服の上から押える。
なんとかなるか。
三世代、父、祖父と、長い年月をかけ、一つの仕事を成し遂げようとしてきた。
それが男の代で成し終える、男の表情にはそんな緊張感があった。

ブザーはない。軽くドアを叩いてみる。
ひとりでに、ドアが開きだした。
「どうぞ、入ってくださーい」
女の声、いや、子供の声にも思える。
廊下、贅をこらした金細工、壁、天井、床下まで、臙脂色のカーペットが敷き詰められ、時代的なシャンデリアの光りになにやらアラビア風の金文字が鈍く輝いている。
意味があるのか、それとも装飾的なものなのか。廊下の先は薄く朱を差した薄絹で隠され、その向こうは見えない。
声はその薄絹の向こうからした。
「靴はどうしたらいいのかな」
「そのままで大丈夫ですよ、どうぞ」
典型的庶民の男には、カーペットの上を土足で歩くことをためらわれたが、さぼど、靴底が汚れていないのを確認し、奥の部屋へ向かう。
薄絹の前へ立ち、もう一度、立ち止まった。
「いいですか」
「どうぞ、お入りください」
薄絹をたくしあげ、部屋の中に入る。二十畳は充分ある。臙脂が部屋全体を包み込み、天井にはきらびやかなシャンデリア、贅をこらしたマホガニーの調度品の中央にダブルベッドが設えられ、上半身をベッドから起こした女性が笑みを浮かべていた。
胸を掛け布で隠しているが肩の線、肌が白く見えている。
十代か、大人になりきっていない顔。

「ようこそ。桜倶楽部へ」
くすぐったそうに、笑顔を浮かべ言う。
男は戸惑ったように、ど、どうもと口の中で答えた。
「どうぞ、靴を脱いでベッドに入ってくださいな。お服は斉女(ときめ)が脱がしてあげますね」
「あ、いっ、いや、その・・・」
男はベッドの隣りにある木製の椅子を見つけると、その椅子を引き寄せた。
「おじさんね、ちょっと、そういうの、得意じゃなくてね、椅子でもいいかな」
「おじさま、なんだか、可愛い」
男は恥ずかしそうに笑うと、椅子に腰を降ろした。

「おじさまは桜倶楽部のシステムはご存じ」
「癒しの空間、そう聞いて来ただけ」
女はにっと笑顔を浮かべると、男に顔を寄せた。
「おじさまはお疲れ」
「え、あ、うん」
「そんな、おじさまを癒すのが斉女(ときめ)のお役目」
「それって」
「援助交際や愛人なんかとは違うんだよ、お金は目的じゃない」
「それはお金儲けではなく、本当に男性を癒すことが目的っていうこと」
女はその姿勢のまま頷いた。
「たくさんの疲れた人達がいる、そんな人達が少しでも心癒されればそれでいい、足つぼマッサージとかあるでしょう、私的にはそんな感じの発展形かな」
女は姿勢を戻すと、男を静かに見つめた。
男は少し戸惑いながらも椅子を少しベッドに寄せ女を見つめた。
「君をどうこうしようというのは、おじさんの道徳観がどうしても許さない。それに多分、おじさんは君と話が出来れば、君みたいな素敵な娘と少し会話とでもいうのかな、そんなやり取りが出来ればとても楽しい、だから、しばらくの間、話し相手になってくれるかな」
「おじさま、良い人だね」
女は少し小首をかしげ、笑みを浮かべた。
「おじさんに、ここを紹介してくれたお爺さんは、とってもお金持ちで、とっても権力を持っていて、その二つを足しても補えない孤独な人だった。十日前に来た、お爺さんのこと、覚えてないかな」
「良く覚えている、心に一杯傷を持っていた人」
男は頷くと所在無げに両手を組み、そしてまた、手を離した。
「二日前に亡くなった。不思議な亡くなり方だった、君は・・・」
女は笑顔を浮かべたまま、涙を流していた。
「どうしてかなぁ」
女が囁く。
「おじさまみたいにとても紳士な人で思いやりのある人だった、最初は恐かったけど、本当はとっても優しい人だった」
女は膝に顔を埋め泣き出した。透き通る白い背中、細いうなじ、肩が震える。男は意を決したように、手を伸ばし、少しぎこちない手つきで、女の頭をなでる。
「本当に泣いたのは君だけだろう、きっと、喜んでいるよ」
男は手を戻し、話し続けた。
「ただ、変な亡くなり方をしたんだ、おっちゃんも、直接見たわけではないけど、お手伝いさんや家族が何人も居る中でそれが起こったんだ、お爺さんが氷が溶けるようにして消えたんだ、人がまるで溶けるように」
涙の跡を残したまま、きょとんと男を見た。
「溶けるように」
「そう、話によると、氷が溶けるようにして消えてしまって、骨一つ、残らなかったらしい。おじさんは何があったのか、はっきりさせたくて、この一カ月分のお爺さんの足取りを追っている。それで、いつだったか、こういうところがあるらしい、君も行ってみるかって、桜倶楽部のことだけれど、聞かされていたのを思い出したんだ、そして、調べると、どうやら、十日前に実際にお爺さんが行ったらしいということがわかってね、今日、ここへ来たんだ」
「ここでは名前を聞かない、聞けばその人が気掛かりになって、私の心が保てません、だから、本当のことを言うと、たくさんの人達のこと、あまり覚えていない。でも、あのお爺さんはおじさまと同じように椅子に座っていろんな話を聞かせてくれました。私はそのお話を聞いているだけで、時々、ちょっと相槌を打つだけだったんだけど、それでも、とても嬉しそうに笑ってくれていた」
女は膝に顔をうずめた。
「家の人達は大変、なんせ、消えてしまったわけだから、亡くなったことを証明できない。遺産相続にもめている、何というのかな、本当に嘆いてくれる人が一人でもいてくれたこと、友人として嬉しい」
男はそう言うと女の頭をなでる、それが男の精一杯の表現だった。
「お願い、手を握っていてくれませんか」
女が右手を差し出す、男は少し戸惑いながらも、その手を握った。柔らかい手だった。
「ごめんなさい、そうじゃないと、私、何処かに流れてしまいそうなの」
女は口をつぐみ、少し顔を上げ天井を見上げる。男は本当にそのままベッドが舟になって女が黒い海をあてどなく流れ出して行くような気がした、両手でしっかりと女の手を握る。
「自分を見失ってはいけません」
男は女の耳元へ顔を寄せ、囁いた。
「この両手はどんな闇に君が流されて行ったとしても放すことはありません、君が現世(うつしよ)に戻るための道筋となるでしょう」
女はほっと息をつくと、男に向き直った。
「闇の中、おじさまの声、聞こえた。ありがとう」
男は少し笑顔を浮かべると手を放しかけたが、くっと女が男の左手を握り返した。
「約束です」
女はにっと笑みを浮かべた。
「おじさまは普通の人じゃない気がする」
「普通の人ですよ、零細個人自営業者 税理士です、他人のお金を計算をしています」
「本当にそれだけ」
「あとは休みの日に人探しをやっていたり」
「探偵さん」
男は顔を横に振り、少し困ったように笑った。
手を重ねたまま、男は背もたれに背中を預けると、一つ、小さく吐息をついた。
「たいして面白くもない話ですが、聴いてくれますか」
「喜んで」

「おっちゃんのおじいさんは呪い師でした、占いや行方不明の人を見つけることで生計をたてていた。特に行方不明の人を見つけることに関しては一番の得意、明治初めの頃の、価値観が急激に変わった時代、社会も大きく変化して行く。そんな時代には人がいなくなってしまうというのは特に珍しいものではなかった」
「おじさまは、映画や小説に出てくる陰陽師という人達なの」
女は不思議な笑みを浮かべた。
「やっていることは似たようなもの、全くの別系統だけどね」
「おじいさんは唯一、一人の行方不明者を除いて全ての人達を見つけだした。もちろん、それは生きて見つかった場合もあればそうでなかったこともある、ただ、とにかく三日と開けず捜し当てた。問題はその見つからなかった一人」
「唯一の汚点ということ」
「汚点というか、心残りだったんだろうね、家族にその人を返せなかったことが。それで、長男だった、おっちゃんの父親に残した遺言が、お前がその一人を見つけだしてくれということ。ただ、父親も見つけられなくてね、話がおっちゃんに回ってきたわけ。ただ、仕事もあるからね、休みの日に探しに回っているだけだけど」
「あの」
「ん」
「明治時代からなら充分に百年以上経っていると思うけど」
「普通に考えれば既に生きているわけはないってこと」
女は男の言葉に頷いた
「普通ならね。ただ、親子三代かけて探そうというのは彼女がまだ生きているから」
「彼女、女の人」
「そう、例えば、君とか。陰陽師、辺りから少し君の気配が変わってきていた」
「私、そんな齢じゃないですよ」
女がくすぐったそうに笑う。
「祖父、父と、時代を経るごとに、この身にある呪の力は弱まってしまったけど、今のおっちゃんなら、まだ、君を救い出すことができる、どうする」

「要らぬこと」
低く軋みのような声が女の口から漏れる。
「噂には聞いたことがある。呪文を唱えぬ呪い師がいること」
掛け布に隠れた女の下半身が足の形から膨らみだし、一抱えもありそうな丸太のように膨れ上がる。
男は右手で掛布を捲り上げた。
まるで肉食動物の舌のようだ、男は声に出せず、口の中で呟いた。
ベッドはまるで分厚い肉感のある赤黒い舌に変じ、女の上半身がその中から生えていた。
「なるほど、女性を餌として、そして、自身の発声器官として利用しているわけですか」
「脂ぎった男は堅いが旨い、噛めば噛むほど味が出る、年寄りはしゃぶって精気だけ吸い取り帰してやるがな」

床に壁、天井までが蠢き出した。
「なるほど、既に口の中か」
「我らの存在を知る者は、いずれ阻害要因となる、骨も残さず食ろうてやろう」
女の手が放れ、これは蛇の舌、舌先がちょろちょろ動くように女の体そのものが上へ下へと動き出す。
「しかし、まぁ、現実に、こういう事態に自分自身が在るというのは驚き」
女は宙に浮いたまま男の前に顔を寄せた。
「お前の落ち着いた顔には反吐が出る」
「いけません、女の子がそんな言葉遣いをしては」
男は笑みを浮かべると、とんと女の額に人差し指で触れた。
女の顔が元の表情に戻り、自我を取り戻した。
「おじさま、ごめんなさい」
「早く逃げて、入り口へ・・・」
男は瞬間、身を伏せると、腰から短刀を抜き、女の足先をかき切った。
落ちてくる女を抱きとめる。抱きとめたまま、ドアへ向かって駆け抜ける。蠕動する壁を天井をかき切り、ドアを蹴破った。
振り返る、半開きになったドアの向こうで赤黒い肉の塊が所狭しと動いていた。
ドアが閉まっていく。女の足に絡み付いていた肉の塊も消えてしまった。
「ここを去ったということか」
男は女を抱え直すと、仰向けにし、胸に耳を当てた。
心臓の音はしない。
「ごめんなさい、私はすでに人ではありません」
女は少し疲れたように笑みを浮かべた。
「ほら、指先も」
女の指先の色が薄れていく。
まるで消えて行くようだ。
「君はこのまま消えて行くのか」
「はい。罪を償うこともなしに」
「君に罪はない」
「いいえ、あのおじいさんを始め、たくさんの人達の顔が浮かびます、たくさんの人生を狂わせてしまいました」
「君がそれを言うなら、俺の命、半分やろう。生きて、しっかり考えなさい」
いきなり、男は自分の左手小指を小刀で切り落とした。
男の顔に一瞬、苦痛が走る。しかし、すぐに笑みを浮かべると小指を女の臍の上に載せ、流れる血をその上に垂らした。
「小指は約束の指、君に生命を与えましょう。そして、おっちゃんの血と肉と元気(がんき)を受け入れなさい。生きることを選びなさい」
男の小指が女のへその上で溶け、血と共に女の体に溶け込んでいく。
女は痛みにくっと唇を噛んだ。
「熱いですか、痛いですか」
「いいえ・・・」
「これから君の体の内部で、全ての細胞が人の体の細胞に入れ替わっていきます。それは体を燃やす痛みと熱さを上回るでしょう。歯を食いしばって我慢しなさい。苦痛を乗り越え、こちら側へ帰ってきなさい。おじさんは君を待っていますよ」

情けないことに俺は意識を失い、三日間寝込んだらしい。それは元気(がんき)を減らしたせいかも知れない。
男は左手を、小指のない左手を見た。これでもかと包帯を巻き付けてある、あの娘が泣きながら震える指先で巻いてくれていた。
指を切る、こんなに痛いものだったと初めて知った。
男は布団から立ち上がり、テーブルにつく。少しふらつくがすぐ元に戻るだろう。
「しかし、記憶までとは」
男の記憶の一部が血と共に女に入り、家への道筋を女に教えた。女は男を背負って、よろよろと家まで帰り着いたのだった。
「夜とはいえ・・・。そうだな、これは、逆に助けて貰ったのかも知れない」

「おとうさん、まだ寝ている方がいいよ」
女が男のシャツを着、テーブルの横に立っていた。心配そうに男の顔をのぞき込む。
一緒に暮らすなら、年齢的にも父娘でいいでしょうと、男が提案したのだった。
「もう大丈夫ですよ、少し動くくらいの方がいい。それに」
「え」
男は笑みを浮かべた。
「服を買いに行こう、その服装はさすがにね、ちょっと、あれだ」
女も笑みを浮かべた。
「ありがと、おとうさん」


遥の花 二話


異形二話

「うわぁぁっ、お父さん、お父さん、お父さん」
女の悲鳴に男が駆けつけた。男の税理士事務所兼自宅の一室での出来事だった。
女はぶるぶると震え、部屋の片隅にうずくまっていた。
「大丈夫、もう大丈夫」
男は女を抱き締めた。
「お父さん、お父さん、お父さん、どこ」
「ここにいる、ここにいるよ」
女の荒い息が少しずつ収まり、震えが止まる。泣き濡れた眼差しで男を見上げた。
「ごめんなさい、また、私、おかしくなってしまって・・・」
「大丈夫、安心しなさい」
あれから、一カ月が経った。記憶の一部が流れ込んだせいもあるだろう、日常生活に当たり前のように対応する、いや、仕事まで手伝うことができるのだから、それは驚くほどだ。しかし、これで三度目だろうか、急に叫びだし、うずくまる。
百年以上の心の傷が、一カ月やそこらで癒えるはずはない、いや、完全に無くなることはないかもしれない、日曜日の朝に限ってこうなるのは、平日の人の出入りの慌ただしさに必死に自分を抑え込んで耐えているのかもしれない。
男は床に座ると女に笑い掛けた。
「ここは君の家です。ほら、ここからでいい、窓の外を眺めてごらん。秋、今日は少し暖かな小春日和。窓を開ければ、梢を通り抜けた穏やかな風が流れ込んでくる。これは、今までも、今も、これから先も、君のもの。ゆっくりと受け入れていきなさい、これを自分自身の宝物と認めていきなさい」
「お父さん、私なんかが、そんなに幸せになってもいいのかな」
「君は幸せになっていいんだ、そして、君が幸せになることが父さんの一番嬉しいことなんだからね」
男は女を仰向けにだきかかえ立ち上がった。女がぎゅっと男の首にしがみつく。
「お父さんと一緒にいると嬉しい」
「それは光栄なこと」
男はそのまま、窓により、外を見る、青い空、秋の遠い空だ。
「窓を開けてごらん」
女が、そっと手を伸ばし、窓を開ける。途端、やわらかな風が流れ込んできた。
「今日は暖かそうだね」
女がすうぅっと息を吸い込んだ。そして、ゆっくりと吐く。
「少し甘い」
「これは老梅の香りだな。時ずらしの結界の所為で少し花の時期が狂ってしまうんだ」
男は少し笑うと、抱きかかえたまま、台所へ。女をテーブルにつかせると、冷蔵庫から牛乳を取り出した。

「マグカップ、二つ、戸棚から出してくれます」
「う、うん」
女が立ち上がり戸棚を開けている間に、小さな片手鍋を男は取り出した。
「これに牛乳、マグカップ二杯分とちょっとを入れて、火に掛けてくれる」
「わかった」
女がいそいそと小鍋に牛乳を入れ火に掛ける間に、男は紅茶の缶と砂糖とシナモンを取り出した。

テーブルに二人つき、チャイを飲む。日曜の朝一番、ほっと一息。
女は両手でマグカップを持ち、少し啜る。
「お父さん、こんな私のこと、嫌いにならない」
「ん、そんなことない、好きですよ」
「私もお父さんのこと大好き」
女はにっと笑顔を浮かべると、少し恥ずかしげに俯いた。
男はこういう状況になるとは想像していなかったが、生命を分けたあの瞬間、自分はこの子を守り続ける責任が生じたのかもしれないと考えた。これは親という者の気持ちに近いのかもしれない。長く一人で生きて来たこともあり、戸惑うこともあるが、確かに楽しい。しかしと男は考えた。
自分が何かで死んだ時、この子は一人で生きて行かねばならない。金銭的に困らせるようなことはしない、ただ、ああいった魔物は大勢いる、いつかは自分自身で対処して行く必要があるだろう。
「今日は出掛けましょう」
「うん、何処へ」
「今までのこと、お墓へ報告に。それで、ひとつ、けじめをつけましょう。それから、君に武術と呪術を教えていきましょう」
「武術と呪術」
女は表情を引き締めた、男の思いが伝わったのだろう。
「今度は私がお父さんを守りたい」
男は少し笑うと、女の頭をなでる。
「良い子に育ちました」

山の中程にある集落、その外れにある墓地、最初に出かけた墓は、女の両親や先祖の眠る墓だった、女は桶に入れた水を柄杓に取り、墓石に流しかける。そして小さなタワシで洗い始めた。
山の斜面に作られたこの墓地は、今の時間、ちょうど日差しが差して暖かい。見下ろせば遠くに町が見える。
明治の頃なら、本当にここは山奥の村だったのだろう。ここで君はどんな風景を見ていたんだ、そう心の中で問うてみる。それはなんて、罪な問いかけだろうか。
「足りるかな、水を汲んで来ましょうか」
「ううん、大丈夫」
女は振り返り、笑顔を浮かべた。
「それに一人になるのが怖い」
「そうだね」
掃除を済ませると、女は黙ったまま手を合わせる。
どれほどの思いが込められているのだろう、身じろぎひとつせず、両手を合わせている。
男も女の後ろで手を合わせた。
「お父さん」
女が振り向く。
「どうしました」
「教えて欲しいことがある」
「どんなこと」
「本当のこというと、私、何も思い出せない、誰も思い出せない。なんて、私、酷い奴なんだろう」
「君は」
「両親のことも兄妹のことも友達のことも何も思い出せないよ・・・」
女の手が震えていた。ぎゅっと唇をかみしめ涙の流れるのを抑え込もうと俯く。
男は女を抱き締めた。
「君が悪いわけじゃない、辛くて、哀しいことだけれど、それは決して君が悪いことではない。自分を責めないで」
男は女を座らせると、その横に座る、墓を背にし、青い空の下、遠く町並みが見える。
「思い出せないのは君の中で君自身が思い出させないようにしているからだろう」
「どうして」
「心が壊れてしまわないため」
男は女の手をしっかり握った。
「その時のこと、両親のこと、思い出せば君は正気を保てない」
「どうしてそう言い切れるの」
「それは父さんがその情景を見て、経験して苦しんだから」
「え・・・」
「あのとき、君の中に父さんの記憶が少し流れ込んだろう」
「うん」
「あれは予想外のことだったけど、血の継承で記憶をね、引き継ぐことができる。祖父が自分の代では君を見つけることができないと観念した時、父にね、君に関する記憶すべてを継承させた、そして、父さんはさ、父からその記憶を継承した、それはまさしく、自分自身が体験するようなものだった」
「お願い、教えて欲しい」
「今は無理、教えられない、君が一人の人間として自立できるようになるまで待って欲しい」
「お父さん、泣いているの」
男は唇をかみしめ、その眼から涙が流れだしていた。
「まさか、この齢になって泣いてしまうとはね、情けないな」
「ごめんなさい。私、自分のことばかり」
女は呟くと、努めて笑顔を浮かべた。
「私にはこうしてさ、大事なお父さんがいてくれるから、もうそれ以上は何もいらないよ」
男はそっと女を抱き締めた。
君は真実を知った時、本当に正気を保つことができるだろうか、もう一度、笑顔でこの地にやって来ることができるだろうか。

それから、二人は男の父親と祖父の眠る墓へと向かう。男はようやく女を見つけたこと、そして、彼女を娘にしたことを伝えるつもりだった。

二つの墓を回り、その帰り、街のオープンテラスのレストランで早目の昼食をとる。たくさんの行き交う人達、賑やかなひとときだ。
「お父さん、あのね」
「どうしました」
「私の名前だけど」
あ、と男は気づいた。男はいつも、女を「君」と呼んでいた。何やら、気恥ずかしく、どうしても、「君」と呼んでしまっているのだった。
「お父さん、私に名前を付けてほしい」
「名前を」
「私はまだ情けないくらい不安定だ。お父さんといる今も、こうしている今も、ひょっとして夢なんじゃないか、私はまだあそこにいて・・・、そう思うと胸の奥がきゅっと痛くなる、そして、息が出来なくなる」
「そうか・・・、気づいてやれずにごめんね」
「違う、違うよ。お父さんは悪くない、私が私が・・・。ごめんなさい」
「今日一日、ごめんなさいは禁止。いい」
「うん」
男は笑顔を浮かべると、一口、珈琲を飲む。
名前を付けるのは難しい、特に呪術の世界に片足突っ込んでいる人間にとって、名前を付ける、名前を告げるは危険と隣り合わせだ。しかし、名前を付けること、それは存在する証しともなり得るものだ。彼女には今、彼女自身が安寧でいるためにも名前を必要としているのかもしれない。
「わかりました。二つの名前をあげましょう」
「二つの」
「そう、一つは本当の名前、もう一つは普段の名前。こっちにおいで」
女は立ち上がると男の前に立った。男は椅子に座ったまま、女を見上げる。
「両手をこちらに」
男も両手を出すと、女の手首をしっかりと握った。
「少しかがんで、額を出して」
男は女の額に自分の額を重ねた。
「私達の技は呪を唱えません。ただ、強く意念を用いるのみ」
男が息を吐く、瞬間、女の体が吹き飛ばされるように浮かんだ。男が手を握っていなければ女は確実に飛ばされていただろう。
「いま、君の心の奥底に本当の名前を刻印した、わかるかな」
「うん、わかる、不思議な名前、名前そのものがなにか力を持っているような気がする」
「もちろん、持っていますよ。ただ、この名前は口にしてはいけません、これは絶対の約束、いいかな」
「約束する」
男は手を放し、ほっとしたように女に笑い掛けた。
「さてと。何か希望はあるかな、普段の名前」
「お父さんの付けてくれる名前が私の希望の名前だよ」
「ええっと、それは責任重大だ。うーん」
男は女を見上げ、呟くように言った。
「一番の願いは君が幸せであること、今様のかっこいい名前もいいのかしれないけれど、名前に、幸せであれと、この願いを託したい」
「お父さん」
「幸福の幸の字をいただいて幸子、ゆきこ。でいいかな。さちこって呼ぶとなんだか演歌の人みたいだし」
女が男に抱き着く。男の両手が戸惑ったように空を掴んだ。
「ありがとう、お父さん」
女は男の耳に口を寄せ囁いた。
「名前を付けてもらったこと、これでね、今日は、私が生まれた日になったんだと思う」
「そういう考え方も楽しいね」
「うん」
女は体をずらすと、自然なそぶりで男に口づけをした。
そして、口づけをしたまま、男をしっかりと抱き締めた。男はいきなりのことに戸惑いを隠せずにいたが、観念したように、目を閉じた。
「お父さんの唇、少し苦かった、珈琲、ブラック。私の唇はどんな味がした」
「甘い・・・」
「それはショートケーキだ、苺の」
女がくすぐったそうに笑った。
少々というか、いや、多々、回りの視線が突き刺さる。
女は男の横に椅子を据え、隣りに座った。
「私、お父さんと同じ時代に生きている、そして、同じ方向を見ている、それがとても嬉しい」
「そうだね、そう思うと普段の風景も違うように見えて来る」
「ね、お昼から用事あるの」
「特にはないよ」
「それじゃ、夕方まで、散歩しよう。同じものを見て回ろう」
「そういうのも面白いかもしれないね。財布渡すから、レジで会計してくれる、ちょっとね、レジへ行く勇気ない」
「なんだか、私、お父さんに頼まれたら元気百倍、なんでもできそうな気がする」
女は男の財布を受け取ってレジへ向かった。
ここがオープン・テラスで良かった、男は一人呟くと立ち上がった。世間体を気にするほどではないが、といってあまり人前で、いや、人前でなくても父娘では。
「お父さん、おいしそうなサンドイッチがあったからテイクアウト、お腹が減ったら一緒に公園で食べよう」
ふっと女は真顔になり男の目を見つめた。
「私はお父さんにとって必要な存在になれるかな」
男はそっと囁いた。
「自分を認めてくれる人の存在はとても大切。それは生きる理由と同義だ。幸が父さんをそう認めてくれているのはとても嬉しいし、父さんが生きている理由でもある。ありがとう」
女は男の胸に顔を埋め、静かに、静かに泣きだした。
「もっと肩の力を抜いていいよ。そして泣きなさい」
男は不思議に感じた。会って一カ月、それなのに、まるでこの子が生まれた時からずっと一緒に暮らして来たように思えてくる。
そして、そんな気持ちを正直に受け入れてしまおうと自然に思うことができる。
小指は約束の証。一生に一度だけの約束。
男はもう一度囁いた。   
「ありがとう」


遥の花 三話


異形三話

「お父さん、もう寝た」
そっと呟く。
枕を抱え、幸はそうろと、男の部屋の襖を開けた。もう一緒の部屋に寝るのは卒業しなさいと男は幸に隣りの部屋をあてがったのだった。
男は心配していた。幸は既に呪術についても、武術についても男の能力を超えていた。
男はそれを素直に喜んだのだが、一つの問題が残ったのだ。幸は変わらず、極度に父親への依存を残していた。慕ってくれる娘はとても可愛い、だが、考えるの は、あの魔物は幸を拘束し、自らの道具として扱った。自分自身はどうなのだ、幸を独立し自我を確立させた一人の人間として育てるべきではないか。今のまま では、俺はあの魔物と対して変わらぬ扱いを幸に為しているのではないか。

幸は男の布団に忍び寄ると、男の顔をそっとのぞき込んだ。さらさらと流れる髪を男の顔にかからぬようたくしあげる。
「お父さんが私のこと、しっかり一人でも生きて行くことができるようにと思ってくれているのはとっても嬉しい。でも、私、お父さんのこと、大好きだもの、 いつも、一緒にいたいんだもの」
女は寝間着を脱ぐと、下着も外し、男の布団にもぐりこんだ。男の左に横になり、両腕で男の左腕でを抱き抱えた。
「私はお父さんの左手の小指だよ、だから、ここが一番、私だけの場所なんだ」

朝方、男はいつもより早くに目覚めた。窓のカーテンを閉めたつもりだったが開いている、部屋の明るさに目覚めたようだ。男は上半身を布団から起こすと、時 計を見る。もう一寝入りするか、いや、それとも朝刊でも。
あぁ、左腕だ。いつ頃からだろうか、どうも朝、起きると左腕が重い。まさか、これが四十とか五十とかの名が付く肩こり。年齢を単に数として数えなきゃなら ないのは仕方がない、しかし、体の状態としてそれが現れるのは厳しい。

「お父さん、お父さん、朝だよ」
幸はばんっと襖を開けると、男の太ももの上にどんっと乗っかった。
「おはよう、お父さん」
幸は男の両肩に手をやり、男に口づけをする。そして、幸の両腕に力が入った。
男は瞬間、数センチ、下に擦り抜け、位置を替えると、幸の両太ももから体を抜き出し、跳ね起きた。
「朝から、運動させないように」
「ちょっとした、お目覚めのキスだよ」
「舌を入れるな」
「これは流れっていうか、勢いみたいものだね」
えへへっと幸は笑うと、ぱんぱんと布団を叩く。
「もう一度、ここ座って。お願い」
男は呆れたように、ひとつ、溜息をつくと、幸の前に座った。
「はい、チラシです。今日のカニ食いまくり一泊バスツアー、ついでに、ちょっとした観光もありますが、目的はカニです。カニ様ですっ」
「ええっと、今日は土曜日お仕事です、平日です」
「仕事は昨日のうちにすべて済ましておきました、月曜日、書類をそのまま鞄に入れてクライアントに持って行くことができます」
「どうして・・・」
「忘れたの、今日はお父さんの誕生日だよ。お祝いのカニ旅行さ」
そう言えばと、男は幸に誕生日を問われたことを思い出した。男は自分の誕生日を知らない、だから、あの日を誕生日代わりに答えていた。それで、印象が薄 かったのだろう。
「覚えていてくれたのか」
「忘れるわけないもの」
男はそっと右手で幸の頬を触れた。
「ありがとう、幸」
「・・・お父さん」
幸が微かに俯き、そして、瞳を閉ざしたまま、少し、顔を上げる。
「ありがとね」
男は立ち上がると押し入れを開けた。
「布団をしまわなきゃ」
「もぉっ、お父さん。言葉だけじゃだめ」
「お父さんは恥ずかしがり屋さんです、ていう以前に父娘でござんす。でも」
「え・・・」
「幸の表情や言葉、とても豊かになったね。それがとても嬉しい」
「あ、ありがと・・・、私が片付けるよ。お父さん、顔洗って来て」


観光を終え、やっとホテルの部屋にたどり着いた。
「ええっ、一緒じゃないんですか」
「はぁ、男湯は十一階、女湯は地下一階となっております」
幸は仲居の言葉に、そのまま宿のテーブルにうつ伏せた。
「お嬢様、大丈夫ですよ」
「え」
「お時間で男湯と女湯を交替致します、ですから両方の御風呂をお楽しみいただけますよ」
「そうじゃなくて、あっ、それじゃ、この家族風呂はどうですか」
「こちらはご予約制でございまして、フロントにてお承りいたしますが、ただ、ご家族の場合でもお子様は小学生までとさせていただいておりまして」
「え、あっ、私、妻です。ねぇ、あなた、そうでしょう。せっかくだし、一緒にお風呂入りましょうよ。背中、流してあげるわよ」
「娘が何か申してますけど、また、分からないことがありましたら、フロントに問い合わせしますので」
「そ、それでは」
そそくさと、ホテルの仲居が部屋を出て行った。
「ええっ、どうして。テレビの旅番組、混浴だったよ」
「そういうのは珍しい、普通は別々」
「そうだったんだ」
幸が溜息をつく。男はおかしくて笑った。
「幸、必死だった」
「だって」
男は湯飲みにお茶を入れると、幸に差し出した。
「だってさ」
男は少し笑うと、自分の湯飲みにお茶を注ぐ。
「幸はこんなおっさんを大切に思ってくれる、それは嬉しい」
「こんなじゃないもの、お父さん、世界で一番かっこいいよ」
「それは極々少数意見だな、多分、幸くらいだろう、そう思ってくれるのは。ありがとう」
「さて」
男は立ち上がるとホテルのタオルを取り出した。
「夕食まで御風呂入ってくるよ。幸もせっかくだ、御風呂に入って来なさい」
「うぅっ、うーん」
「さぁ、立って準備して」
「お父さん」
「ん」
「浮気しちゃだめだよ、絶対」
「男湯で浮気は困難だ。それに、父さん、幸のこと、大好きだから、浮気はしないよ」

ガラス戸を開ける、幸はこんな広い大浴場に入るのは初めてだった。
掛け湯をして入る、そして、タオルは頭の上、タオルで髪をまとめてみる。
うん、これで御風呂の作法は良いはずだ。
見渡してみる、大浴場、ドアの向こうは岩風呂らしいけれど、そこまで行くのは、なんだか恥ずかしい。
ここにいるのは十人くらいかなと何気なしに数えてみる。
小さな女の子が、母親にだろう、頭を洗ってもらっている、でも、あまり女の子は得意ではないようだ、ちょっと痛そうな顔をしている。
女の子は幸が自分を見ているのに気づき、にっと笑う。幸も少し手を振り、笑い返した。
ゆっくりと母親が女の子の頭からお湯を掛ける。
幸はなんて幸せな情景なのだろうと思った。
「子供か・・・。いいな、こういうの」
とにかく、と幸は考えた。
父娘というのは便宜上のものというか、見た目がそうだからってだけだ。幼な妻なんて言葉もある。お父さんは、とっても奥手なわけで、生真面目なわけで、私 がしっかり誘導してあげれば、きっとお父さんだって。
「幸、本当にいいのかい」
「うん、だって私・・・、お父さんのこと、愛しているもの」
「うわぁ、愛している。きゃー」
幸は妄想が声に出ているのに気づき、あたふた、お湯の中へ潜り込んでしまった。
恥ずかしい、誰かに聞かれたろうか、少し顔を出し辺りを眺めたがこちらを見ている人はいなかった。
そうだ、とにかく、夕食はビールを注いで、ほろ酔い気分にさせよう。
もう、しょうがないなぁ、飲み過ぎだよぉ、私が肩貸してあげるよ
えっと、そうなると私がお父さんの左側にこう立つわけだから、そうだ、ちょっとよろけて、すぐにたち直すんだけど、その時、お父さんの左手が私の胸に触れ て、私が小さく、「あっ」って叫んで、そうしたら、お父さんがごめんて言うから、ううん、お父さんなら、いいの、だって、私・・・、って言いながら、少し 顔を赤らめて見上げる。
よし、今日はしっかり体を洗って、私、頑張る。
湯船から幸が立ち上がった瞬間、幸は手を伸ばし、何か黒いものを掴んでいた。
すうっと鋭い目付きでそれを見る。それは小さな鼠だった。
なんでこんなところにいるんだ。
顔を寄せ、じっくりと鼠を見つめる。
この鼠、人の眼をしている、なんなんだ、これは。そうか、術者だ、術者が心をこいつに入れて偵察しているんだ。
幸はふっと鼠に息を吹きかけた。
「あんた、この鼠が死ぬまで、その中で鼠として暮らしな」
幸は鋭いまなざしのまま笑うと、鼠を軽く放り投げた、着地する前に鼠は消えてしまった。
でも、と幸は考えた。
どうしてこんなのがいるんだ、術者なんて数も少ないし、それが偵察をして何かをしようとしている。
まさか、お父さんを。そうだ、お父さん言っていた、呪文を唱えないこうした呪法は外法とさげすまされ忌み嫌われている、だから、普段は術者としての気配は 消しておきなさいって。
まさか、お父さんが危ない。ううん、大丈夫だ、お父さん、強いもの。どんな奴が束になって襲ってきても、お父さんならふふんって鼻歌唄いながら、けちらし てしまうもの。
でも・・・、お父さん、左腕がおかしいって言ってた、あれ、私のせいだ。毎晩、私が抱いていたせいだ。もしも、お父さんが怪我をしたら、私のせいだ。ごめ んなさい、ごめんなさい、お父さん。
お父さん、今、助けに行く。
幸の右手に刀が現れた、長物、ゆうに2メートルはある。
それを軽々と片手に持つ。
幸は体の後ろに刀を隠すよう構えると、入り口の扉を睨みつけた。弾かれたように扉が開く。
大丈夫だよ、お父さん。いま、行く。

「お風呂直すかなぁ」
男はつぶやき、悠々と足を伸ばす。なんといっても、足を伸ばしきれるのがいい。
思い切って、お風呂を大きく直そうか、しかし、財布の紐をしっかり幸に握られているいま、贅沢だと叱られるかもしれないな、まっ、こういうのも、たまにだ からいいのかもしれない。

・・・お父さん・・・
幸の声がしたような気がした、その瞬間、ばんっと扉が開き、怒涛の風が流れ込んだ、湯が洪水のように弾け飛ぶ。
「お父さん、大丈夫」
「あぁ、1秒前まではね」
男は回りを見渡す。桶が散乱しているのはもちろんのこと、辺りは水浸し、5人、倒れている、一人足りないな、逃げたか。
「みんな、意識を失っているだけだ、お父さんは大丈夫だよ」
幸はこの惨状に初めて気づき狼狽えた。
「お父さん、これ、どうしよう」
「まずは刀を消してくれる」
「は、はい」
かき消すように刀が消えた。
「何があったか、訊くのは後回しだな。脱衣所、入り口一番近くのかご、十一番が父さんの使っていたかごだから、浴衣と帯をして、女湯に戻りなさいな。その 間、誰にも会わないよう、誘導してあげるよ」
「ごめんなさい、お父さん。後で浴衣と帯を返すからね」
「それ、早く行け」
「はいっ」
幸が男湯を飛び出した。
男は目を瞑り、小さく小さく呟く。
「立派なモノをお持ちですな、羨ましい」
男が薄目を開ける、太った老人が男の前にいた。一人、足りないと男が判断した老人だった、まるで、大きな酒樽のような姿だ。
男は、かまわず、そのままの表情で呟き続ける、やがて、幸が女湯に辿り着いたのだろう。男は老人の目を睨め付けた。
「申しわけありませんが、下(しも)のお話は得意ではありませんので」
「いやいや、先ほどの人形(ひとがた)、護法童子のことです。あれほどのモノを作られるとは名のある術師とお見受けいたしましたが」
「あれは私の娘です。娘をモノに喩えられるのは不快です。次は命がありませんよ、後ろの方にも、そのようによろしくお伝えくださいな」
「何もかもお見通しのようで、あな恐ろしい」
老人は奇妙な笑い方をするとそのまま立ち去った。
まずは、気絶した人達を起こすか・・・。

「あぁ、もう最悪だよぉ」
テーブル式の宴会場、幸にとっては今回の最大の目的、カニ食べ放題の会場だった。
テーブル、幸は男の前の椅子に座り、皿一杯のカニを前にしても、ぶつぶつと繰り言を呟いていた。
「ごめんね、お父さん。変なツアーになってしまって」
「ん・・・、父さんは嬉しいけどね、だって、幸が計画してくれた旅行だからさ。どうしたら、父さんが喜ぶか、考えてくれたんだろう」
「うん、そうだけど」
「なら、こんな嬉しいことはないよ。良い娘を持ちました、たまに暴走するけどね」
「だって、あれは・・・」
「鼠を使う奴らは、そうだな、たまにはいる。確かに何かあるかもしれない。とにかく、判断材料が少ない今、考えても仕方がない。なら、喰いましょう、カニ 様を」
「私、食欲ないよ」
「ん、幸はカニは初めてだったかな」
男は器用に蟹の身を取ると幸のお皿に載せた。
「まずは、ささっ、喰うてみなさい」
「いいけど・・・」
渋々といったふうに幸は自分の口に蟹の身を運ぶ、そっと食べる。
「うわっ、美味しい。ええっ、どうして」
「それはカニさまだからです」
男は笑って、次々と蟹の身を取り出すと幸のお皿に載せていった。
「お父さんも、お父さんも食べて」
「こういうところで食べるカニは、スーパーとは違うな」
「お父さん、私、機嫌直った」
「それは良かった。カニ鍋に焼きカニ、豪勢なものだな」
「幸、その小さな七輪、網にカニの足を載せなさいな」
「うん、わっ、香ばしい匂いだ」

「御同席お願いできませんかな」
男の前、幸の後に風呂場での老人とその妻だろうか、品の良い女性が立っていた。
「他に席がないのでしたら、どうぞと申し上げますが、まだ、いくつも空いたテーブルがあります、そちらにお願いできませんか。親子団欒の最中ですので」
「もう、あなたったら。失礼ですわよ」
後の婦人に促され、二人は一つ置いたテーブルについた。
「お父さん」
幸は声をひそめ、男に話しかけた。
「背中が冷たかった」
「そうだろうな、あれ、空洞だからな」
「どういうこと」
「うーん、幸は間違いなく、お父さんよりも呪術も武術も上回ったけど、経験はもう少しだな。世の中、遍くいろんな存在がある。でも、あとでね、カニを食べ なきゃ」
ふと、幸はビールのことを思いだした。
「ね、ね、お父さん、たまにはビールとか、た、頼んだらどうかな。折角の旅行なんだし」
「どうしたの、いきなり。父さん、あまり、アルコールとか得意じゃないし」
「だだ、大丈夫だよ。少しくらい」
「なら、一本だけもらおうかな」
「それじゃ、私、もらってくる」
幸は立ち上がると、ウエイターに声を掛けに行った。

男は、一つ吐息をもらすと、辺りを見渡した。いくつか、そう、いくつかの人外ものがいる、密度が濃すぎる。これは縁というものなのか、しかし、幸には、こ んなのじゃなくて、本当に普通の、何処にでもあるような平凡な生活を送らせてやりたい。あの子はもっと幸せになるべきだ。
呪術を教えたことは間違いだったか、いや、特別な力がなければ、自身を守ることは出来ない、なんてことだろうな、矛盾した話だ。一度、足を踏み込んでしま うと、もう、抜け出せないのだろうか。
「お、お父さん、どうぞ」
幸は男の横に立ち、ビール瓶を差し出した。
「それじゃ、ちょっとだけ。半分、注いでくれればいいよ」
「は、はい」
「どうしたの、妙に緊張している」
「そ、そうかなぁ」
男は幸にビールを注いでもらうと、美味しそうに一口飲んだ。
「幸も、さぁ、食べなさい、残したらもったいない」
「そうだよね、もととらなきゃ」
「太り過ぎない程度にどうぞ」
「私は太らないよ、だって、お父さん、細身の女性が好きなんだもの」
「別にそういうわけでもないのだけど」
「ね、横に座ってもいいかな」
「どうぞ」
幸は男の横に座り、今度はカニ雑炊を食べ始めたが、ふと向こうのテーブルに気づいた。
「お父さん、あの女の子だ」
それは、幸が風呂場で手を振った女の子だった。
「バスは3台出ていたから他のバスに乗っていたんだろうな」
「お父さん、なんだか、おかしい。女の子、じっと座っているだけだ」
男は女の子の両親だろう、お互い視線を虚ろにしたままカニを食べている夫婦の姿に疑念を抱いた、どこかに操る奴がいる。
「おせっかいしますか」
「うん、気になる、何か悪いことが起こりそうな気がする」
男は自分の髪の毛を一本抜くと、女の子に向けてふっと吹き飛ばした。瞬間、幸の姿が薄くなったかと思うと、女の子を自分の膝に乗せていた。そして、女の子 は変わらず向こうのテーブルにもいた。
「髪の毛、一本だけど如才なく対応するでしょう」
男は呟くと、女の子を見つめた。
「ちょっとだけ時間いいかな、カニ、お姉ちゃんが一緒に食べようって」
女の子は驚いたふうに目を見張っていた、一瞬にして、知らない女性の膝に自分が座っているのだ。しかし、幸の自分を見つめるまなざしに、不思議なほどの安 堵感を覚えた。
「だめなの、あたし、水しか飲んじゃいけないの」
「それは、おっちゃんもお姉ちゃんもとっても哀しい」
「お母さんにそう言われたのかな」
幸は、そっと女の子に頬を寄せ語りかけた。
「今日は神様になる日だから」
「神様って・・・」
男は笑顔でそっと囁いた。
「そっか、でもね、お腹減ってたら、動けないし、哀しいし、そんな君を見たら、お母さんも哀しいかもしれない」
「お母さんが」
「そうだよ。ね、君の名前は」
幸が言葉を継ぐ。
「あかね」
「あかねちゃん、良い名前だね。お姉ちゃんは幸っていうの」
「幸お姉ちゃん」
「うん、そうだよ。今晩、あかねちゃんはとっても困ったり、哀しかったり、怖かったりするかもしれない。その時は幸お姉ちゃんの名前呼んでくれる」
「うん」
「お姉ちゃんは、ほんとはとっても凄い魔法使いなんだ。だから、呼んでくれたらすぐに助けにいくからね」
初めてその女の子は笑顔を浮かべた。いったい、どれほどの苦悩をその身に隠していたのだろう。
「ね、カニを食べよう」
「ううん、我慢する」
「そっか。それじゃ、お守りをあげよう」
幸は髪を一本抜くと、女の子の手首に括った。すぐに髪は手首の中に消えてしまった。
「幸お姉ちゃん」
「ん・・・」
「また、お母さんやお父さん、笑ってくれるかな」
「大丈夫だよ」
女の子が笑顔を浮かべた。
幸の姿が一瞬消え、再び現した時、膝に女の子の姿は見えず、一本の髪の毛だけを持っていた。
「幸、人はどうして学習しないんだろうな、また、愚かなことを繰り返そうとしている」
「お父さん、神様って」
「言葉どおりのことだよ、外神という異なる次元に住む神、邪悪な力の集合体だ」
「世代が代わり、不安定な時代が来ると、決まってあんなのにすがろうという奴らが現れる」

食事の後、二人はお土産コーナーを覗く、ある意味、どこにでもあるまんじゅうだとか、ちょっとした特産品が並ぶ。
「お父さん、羊羹の詰め合わせがあるよ、おいしそう、買っていいかな」
「そうだね」
男は少し沈んだように答えた。幸は、心配げに男の顔を見つめていたが、男の腕にしがみつくようにして、見上げた。
「部屋に戻ろう、ね、お父さん」

部屋に戻ると男は椅子に腰掛け、窓から夜の海を眺める、十階からの眺望だ、眼下には温泉街、車のヘッドライトだろうか、賑やかに明滅している。
そんな男を気にして、幸はぼぉっとテレビのニュースをつけたまま、俯いている。
男はひとつ吐息を漏らすと、ゆっくりと立ち上がった。
「テレビ、消してくれる」
「う、うん」
幸がテレビを消すと、男は入り口の横にある室内灯のスイッチを消した。
外からの明かりが辛うじて二人の姿を映す。
男が部屋の中央に座る、幸は自然と男の前に座った。
「あまり顔が見えないね」
「うん、うっすらとお父さんの顔が見えるだけ」
「父さんも幸の顔、はっきりと見えないな。でも、この方が話しやすい」
闇の中、男は見えない笑顔を浮かべた。
「幸、父さんは新米だ。何十年もお父さんをやっているわけじゃない。でも、幸のこと、一番大事に思っている、それだけは自信ある」
「ありがとう、お父さん、私もお父さんのこと、一番大事だよ」
「ありがとう。ただ、父さんはわからないんだ、幸には幸せになってほしい、でも、父さんは幸せというものが分からない。平凡に生きて欲しい、普通の、どこ にでもいる女の子のように生きて欲しいと思うこともある。いや、それが一番いいんだと信じたい。でも、父さんは術師であり、その血と肉と骨を幸に与えて、 幸まで、父さんと同じ世界に引き入れてしまった」
「違うよ、お父さん。私は普通の女の子じゃなかった、お父さんに会うまでからさ。だから、心を入れ替えました、これから普通に生きて行きますなんてなるわ けないよ」
幸はそっと笑顔を浮かべ、男に囁いた。
「ね、お父さん、本当は私、とても悪い人間なんだ、心も体も汚れていて、人の命くらい平気で奪うことができるんだ。でも、お父さんといると、お父さんのこ と考えていると、良い娘になりたい、優しくて思いやりのある、そんな、お父さんに好かれる娘になりたい、そう思えるんだ」
「ね、お父さん、お願いだよ。幸を良い娘のままいさせてよ、お父さん」
男は黙って幸を抱き締めた。
「愛している、お父さん」
「お父さんも幸を愛しているよ」
「お父さん、私の浴衣の帯を解いて。もっと、お父さんの近くに行きたい」
男は黙って幸の帯を解く、そして、幸の両肩に手を触れ、ゆっくりと浴衣を脱がした。
「お父さん、恥ずかしいよ」
そっと俯く。
「恥ずかしくなんかないよ、幸はとっても綺麗だ」
「・・・お父さん」
男はそっと幸の胸の膨らみに触れた。
「とってもやわらかい」
「なんだか恥ずかしいけど、嬉しい」
一瞬、幸の体が硬直した。
「うわぁぁぁっ、お父さん、体中が痛いよ、体がちぎれてしまいそうだよ」
闇の中、男は素早く幸を仰向けに寝かせ付け、幸の体に両手をかざした。
「幸、目を瞑ってなさい」
幸がぎゅっと唇を噛み、目を瞑る。
男の両手が薄青く光り出し、幸の体を照らし出した。
体中が乾いた土塊のようにひび割れだし、そのひび割れから血が滲みだしていた。少し押せばもろく崩れてしまいそうだ。
男はぐっとにらみつけると無言のまま、両掌を天へとかざし、手を下ろすと右手を幸の臍に置き、左手をその上に重ね、強く息を吐いた。
幸の体に清水が染み渡るように拡がり、ひび割れは消え、柔らかな体に戻る。
「目を開けてごらん、まだ、何処か痛いか」
「痛くない。お父さん、ありがとう・・・」
「どういたしまして」
男は笑顔を浮かべると、幸の背中を支え、体を起こした。
「浴衣、着なさいな」

・・・お姉ちゃん、幸お姉ちゃん・・・

「あかねちゃんだ・・・」

「幸、浴衣やめて服を着なさい」
男が鋭く言った。
「はい」
室内灯が点く、一瞬で二人は浴衣を脱ぎ、着替える、そして、男は腰の後ろに小刀を差した。
「幸は覚えていないだろう、幸もあかねちゃんと同じだったんだ、祖父は幸を助け切れなかった」
「ええっ、そ、そんなの聞いていないよ」
「父さん、いま、初めて言った」
「行くぞ、幸」
「は、はい、行きます」
部屋のドアを開け、二人は駆け出した。
「幸、位置を特定できるか」
二人、加速し、まるで、階段を落ちていくように駆け抜ける。
「この距離だと地下のお風呂場です」
「水を媒体にしたか」
階下に降りるほど、ホテルはまるで廃墟の様子を呈しだしていた。
「時間をずらして壁を作ろうとしている、新手だな」
「お父さん、地下への階段がない」
空気を劈き、二人も停止する。目の前、階段があるはずの場所は鉛の色をした壁になっていた。
「幸、刀を出しなさい」
「はい」
幸の右手に2メートルはあろう長刀が現れた。
「まやかしの呪符がある、中央を切り裂け」
「はいっ」
袈裟懸けにいっせん、溶けるように壁が消え、地下への階段が現れた。

・・・幸おねぇちゃん・・・

「聞こえる、あかねちゃんの声だ」
男は地下へと一気に飛び込んだ。
地下の大浴場、だった、はずだ。湖、鉛かと見まごうような凪いだ湖が広がる。バス3台分の人間達、浅瀬だろう、膝辺りまでびちゃびちゃと音を立て無表情に 踊っている。
「あれか」
緑色の小さな光球が空中に浮かび、二人の人間が光に捧げるようあかねを高く差し出していた。
よく見れば、光球の表面が時折脈動している、外神の本体が出現しようとしている。
「じいさん、あの時と同じだ。今度は失敗しないよ、憑依させてたまるか」
「呪は唱えない、この身この心、既に呪と化したモノ、強く意念を用いれば、それ、すなわち、呪なり」
「いやだー」
あかねの声が空気を切り裂いた、瞬間、男の姿が消え、あかねを抱いたまま、足下の人間を蹴り飛ばした。水面を駆け、陸地へ戻る。
「ああっ、おねえちゃんが」
男が振り返る、幸が光球を見つめ茫然と立ちつくしていた。
「うわぁぁぁっ」
幸の叫び声が空気を震わせる。
「みんな死んでしまえ、どうして、あたしだけが、あたしだけが」
2メートルもの長刀が空気を切り裂き、刃の殻と化す、
「死んでしまえ、なにもかも、消えてなくなれ」
「おっと、これは参ったな。思いだしてしまったか・・・」
男は茫然としていたが、あかねを地面に降ろし、幸と緑の光球を交互に見る。
「言霊にすらなり得ない喚き声には力はない、しかし、外神、押し返すの手伝って貰らうつもりだったけれど、これでは無理だ」
幸に近づこうとするあかねを男は押しとどめた。
「おねえちゃんに近づいたらだめ。遠くから見守ってやって」
男はそっと語りかけると、光球を見つめた。憑依する体を無くして、制限が効かなくなったのだろう、じわじわと大きくなっていく。
「個人零細自営業者、人を雇いたくても給料払えませんってやつでね、一人でなんとかしなきゃならない」
男は腰から小刀を抜くと、光球に対して半身に構え、刃先を光球に構えた。
「帰れ、闇の空間へ、光なき遠き宇宙へ」
男が静かに息を吐き出す、男の足が地面に食い込みだした。男と光球の間、空気が重く密度を増す、まるで鋼のように空気は固まり、じりじりと光球が後退しだ した。
男が呟く。
「親父、俺がまだ小さな頃、さらって来たんだってな、必ずしも実子が才能を受け継ぐとは限らない、才能があるとかで、俺にとっては、そんな勝手な理由で、 さらってきたんだったな。俺はその運命を受け入れた、小さな子供がどうやって、逃げ出すことが出来る。その反感か、俺はこの力を俺の代で終わらせるつもり だった。親父、爺さん、良かったな。間に合ったよ。しかし、次にこいつが来たときは知らないぜ。今日は俺がさらわれた記念日だ」
「闇に帰れ」
光球の後がじわりじわりと消えだした。半球となる、あがなおうとするのか、表面の脈動は大きくなり、それがまるで触手のように動き出す。
「帰れ」
光球がふっと消えた。
男は刀を構えたまま、消えたその先を睨み続けた。
踊っていた人間がばたばたと倒れていく、操り糸が切れてしまったように。
「まだ、一つ仕事が残っている、こっちの方がやっかいで、俺にとっては大切な仕事だ」
そっと振り返る。
状況は変わらず、いや、より酷くなっている。刀が見えない、目で追える動きを越えたということか。
「うわぁぁ、何もかも死んでしまえ」
男はほっと溜息を漏らし、小刀を腰に戻した。
「あかねちゃん、お姉ちゃんはね、友達がいなくてね、寂しがり屋なんだ。お姉ちゃんが正気に戻ったらさ、いい子にするよう言い聞かせるから、友達になって やってくれないかな」
「お姉ちゃんが優しいこと、私もう知っている、友達だよ」
「ありがと」
男はあかねの頭を軽くなでると、手を離し、幸に近づいた。
幸の動きにはまだ癖が多い。見えない以上、運を天に任し、感でと経験で動くしかないか。
男は呟くと、何事もないよう、普通に歩き出した。男の足跡が消えていく。体の重さが消える。
風を読め。
男はふわっと幸の後に現れると反転し、右腕で背中を押さえ、体を落とした。幸の体が地面に落ちる。長刀が柄の辺りまで地面を貫いていた。
「みんな死ね、消えてなくなれ」
涙を流しながら、幸は呻いた。
「あの頃の幸のこと、知っているよ。沢山の人に裏切られたこと、傷つけられたこと。人身御供にされたこともね」
「なら、どうして、どうして」
「許すのは無理だろう、ただ、幸、お父さんは本当に幸のこと、愛している。大切に思っている」
男は手を離すと、幸を抱き起こし、しっかりと抱きしめた。
「まずはお父さんを斬ってくれないか。お父さん、幸の怖い顔、見たくないんだ、怒った顔、見たくないんだ。だから、最初に殺してくれないか」
「いやだよぉ、お父さん、お父さん。うわぁぁっ、私、良い娘になるよ」
幸は男にしがみつくと、静かに静かに泣きだした。

踊っていた人間達を元の世界に戻し、正気を取り戻させることくらい、幸には容易いことだった。彼らを脱衣所に仰向けに寝かせ付ける。
「あかねちゃん、恥ずかしいとこ、見せちゃったね」
「でも、お姉ちゃん、来てくれた、嬉しかった」
「役に立たなかったけどね」
幸は恥ずかしそうに笑うと、男の後に隠れた。
「すぐに、みんな意識を取り戻すよ。あかねちゃんのお父さんもお母さんもね」
男は笑顔を浮かべるとあかねに話しかけた。
「みんな、2、3日、記憶を失っている。どうして、こんなところにいるんだと驚くと思う。あかねちゃんも同じように、わからないって言うこと。いいかな」
あかねは肯くと、両親の横に座った。
「幸お姉ちゃん、また、会えるかな」
「きっとね」
幸はあかねに笑いかけ、男と二人、脱衣所を出た。

「幸」
「え・・・」
「魔法使いは大変だ、守らなきゃならない人、一人出来てしまったな」
「二人守らなきゃ、お父さんも守らなきゃだし」
「そうだな、お父さん、へとへとだ。でもね、もう一つ、仕事が残っていた。ホテルの外」
「お父さん、私が片づけておくよ」
「ん・・・、お父さんが行く、幸、手加減できないからね」
「返す言葉ない」
男は笑うと、ホテルの一階に戻る。深夜のごく普通のホテルに戻っていた。位相をずらした奴らが外にいる。
男と幸は外に出た。
一歩出ると、外は薄闇の荒野と変わり果てていた。振り返るとホテルはない。

「残念でしたね、でも、外神などと付き合わない方が良い、喰われてしまいますよ」
あの酒樽のような男が薄闇の中から溶け出すように現れた。その婦人が、一歩、退いて控えている。
「他にもたくさんの人達がいらっしゃるようですね」
男の声に呼応するかのように、顔を隠したたくさんの男達が二人を囲んだ。
酒樽が言う。
「折角の外神、この腹に入れて世界を変える力を得るつもりだったのですが、とんだことでしたな。残念です」
「いや、その程度の防壁では無理です」
男がぎっとにらみつける。酒樽が粉々に弾け飛んだ。
「あらあら、また、作りなおさなきゃ」
酒樽の後にいた女が平気な顔をして呟いた。
「こういう人形を創りだすとは、かなり大きな組織のようで」
「いささか」
女は笑顔を浮かべたまま、一歩、踏み出した。
「労せず、外神を横から奪い去ろうという計画だったのでしょうね、たくさんの人達が迷惑を被った」
「あとでお詫び申し上げておきますわ」
男はふんと笑みを浮かべる。
「提案です。この件から手を引き、ここはひとつ、素直にお帰り願えませんか」
「で、こちらの益は」
「あなた方の命ということで。無事にお帰りいただけますよ、いまなら」
「夫が潰されたいま、しょうがございませんね。お暇いたします、では、これにて」
女の姿がかき消えた、同じく覆面の男達が次々と消えていく。
「あいつ、腹で何考えているかわからない奴だ」
「だろうな、正体すら見せようとしない。ただ、実はお父さん、立っているのがいっぱいでね。ホテル、帰って、一寝入りするよ」
幸は男をしっかりと支えた。
「ごめんなさい、お父さん」
「どういたしまして」

老女の仮面を剥ぎ取った女が、部下を怒鳴りつけていた。
「おい、あの規格外の奴らはいったい何者なんだ」
「不明です、ただ・・・」
「ただ、なんだ」
「本部から・・・」
「はっきり言え」
「あの二人には一切触れるべからず。直ちに帰投せよとの厳命です」
「何言っている、本部の腑抜け連中が。外神(そとかみ)を手中に出来なかったのは残念だが、その外神を追い返してしまうほどの術者がいるんだぞ。捕獲しな いでどうする」
女は周囲にいる部下の無事を確認すると、唇をゆがめ、笑った。
「楽しいなぁ、おい、わくわくしてこないか」

「そんなに楽しいかなぁ」
俯いた幸が肩が触れるほど女の横に体を寄せる。そして、落とした腕には長刀が握られており、その刃が女の首元に触れていた。
「ね、そこのおじさん、動くとあんたの上司の首、落ちてしまうよ。他の人達にもさ、動かないよう指示してくれないかな」
「わ、わかった。待機、待機せよ」
ざわついた空気が沈黙に変わる。
「ありがとね、おじさま」
つうぅっと刃先から赤い血が滴り落ちた。
「お姉さん。首、動かしちゃいけないぜ。ほら、浅く切れちゃったじゃないか」
「いったい、お前達は何者なんだ」
悲鳴にも似た叫び声を女が上げた。
「それは秘密さ。ただね、さっき約束したろう、帰るってさ。あれ、嘘だったのかい。ね、嘘じゃないだろう、本当だろう。本当だと言ってくれよ」
「ああ、本当だ。一切関わらない、約束する」
女は震える声で答えた
「あたしとお父さんはさ、普通に、平凡にさ、暮らしたいんだよ。わかるかい、つまんないさ、退屈な平和ってのを続けていきたいのさ、そういうの、わからな いかなぁ。ね、そこのおじさんはどう思う」
「こういう、斬ったはったは好きかい。こんな寒い夜中に突っ立っているよりさ、夜はさ、暖かい布団の中、寝てはいたくないかい」
じろっと睨む幸の眼差しに、引きつった笑いを浮かべながらこくこくと肯いた。
「よくわかってるじゃないか。ね、おじさん、あんたの上司は、そこんとこさ、ちゃんとわかっていると思うかい」
「わ、わかっている、わかっている」
「本当かなぁ、わかってんのかなぁ。あたしはか弱い女の子だから人を斬ったりなんて出来ないけどさ、それを承知でいい加減なこと言っているだけじゃないか なぁ」
「ね、お姉さん、ちょっと俯いてさ、あたしの顔を見てみなよ、な、そんな乱暴するような女の子じゃないだろう」
おそるおそる俯き、女と幸と目が合う、鋭い目付きで、口元だけが笑う幸がいた。
「うわぁぁっ」
女が悲鳴を上げる、逃げだそうとするが、体が固まってしまったように動けずにいる。
「なんだよ、人の顔見て悲鳴上げるなよ。自分で言うのもなんだけどさ、あたし、かなり美人のはずだぜ」
「ねぇ、お姉さん、あたし、美人だろう、可愛いだろう、な、そう言ってくれよ」
「助けてくれ、もう、あんた達には一切関わらない」
「なんだよ、可愛いって言ってくれないのかい、ショックだなぁ」
幸はにいぃっと嗤う、そして、すうっと長刀が消えた。
刀が消えた瞬間、男達が幸を襲おうとした。
「動くなよ、な」
呟く幸の声に、男達は凍り付いたようにその場に固まってしまった。
幸は、動けずにいる女の目をじっと見つめた。
「瞳って名前か。綺麗な名前だね、夫がいて、幼稚園の男の子がいる、おい、あんた、小さな子供がいるくせに、こんなやくざな仕事してるのかよ」
「どうして、それを」
「あんたの目から記憶を読んだ、それだけ」
慌てて、女が目を瞑る。
「夫の名前は直行さん、息子は、隆君か、良い名前じゃないか。こういうのを二重生活っていうんだっけ。そうだ、思いついた、あたし、今度、瞳さんのお宅に お邪魔するよ、ご主人と隆君のいるときにさ、次の日曜日なんかどうだい、ホームパーティしよう、楽しいぜ」
「お願い、許して」
「どういう意味だよ。あたし、素敵なお姉さんやってやるよ。隆君の好きなさ、プリンをお土産に持っていってあげるよ。そして、可愛いって隆君の頭なでてや るよ。でもさ、私、子供の頭ってなでたことがないから大丈夫かなぁ、緊張してさ、ちょっと力入れすぎて、ぽきって折れたらどうしよう。子供って、ぼきって 首が折れたら死ぬのかい」
「勘弁してください、お願いです」
「ふうん、良い提案だと思ったんだけどなぁ、お互い、守りたい家庭があるってことだ。しょうがない、それじゃあ、帰るよ。あんた、約束忘れるなよ」
ついっと幸の姿が消えた。

「一切触れるべからず」
女が喘ぎながら呟いた。
「なんて奴だ」
女が呟いた瞬間、怒号が轟いた。
女の目の前、幸の持っていた長刀が投げつけたように地面に突き刺さっていた。
突き立った刀の上に幸がふわりと舞い降りる。
「夜中だぜ、早く帰りなよ。徹夜は、お肌の大敵だ」
声を上げて幸は嗤うと、刀と共にその姿を消した。
「帰る、今すぐ帰ります」
女は怯えてそう呟いた。

「お父さん」
「幸、何処に行っていたの」
座椅子に座ったまま、男は振り向いて幸に声を掛けた。幸は後から男に抱きつくと、くすぐったそうに笑った。
「秘密。乙女にはさ、殿方には秘密にしなきゃならないこと、百はあるのさ」
「ああ、トイレか」
「違うよ、もぉ」
男は微かに笑うと、少し掠れた声で話しかけた。
「幸、隣に座ってくれないか」
「え、うん」
幸は男の左隣りに座ると、男の顔を覗き込んだ。
男は目を瞑っていた。
「父さんの手、握ってくれないか」
幸は心配そうに男の手を両手で包み込む。
「お父さん、疲れたの。ゆっくりするといいよ」
「ちょとね、ばてたかな。でも、幸に手を握ってもらっていると、不思議だ。こんな小さくてきゃしゃな手なのに、柔らかくて暖かくて安心する」
「幸は可愛いなぁ。父さん、一人で生きて来たけど、今はもう、幸がいてくれないと、だめだな」
「お父さん、どうしたの、そんな急に」
ふと、幸は男の手が少しづつ冷えて来ていることに気づいた。
「そんな・・・。そんなのってないよ。お父さん」
「お父さん、嫌だよ、そんなの、嫌だ」
幸が叫んだ。
「暴走娘がいるのに、まだ、死ねないよ」
男は少し目を開け笑った。
「消耗が激しいからさ、呼吸法で仮死状態に入る。幸が手を握っていてくれるなら、安心だ。朝には起きるさ」
幸が震える声で答える、
「絶対の、絶対だよ」
「あぁ、絶対だ」
男の体温が少しずつ下がり、心臓の鼓動が鈍くなる。

お父さん、明日は、ツアーやめてさ、二人っきりで歩こう。あちこち、食べ歩きしよう。腕組んでさ、歩きながら食べよう。きっと、楽しいぜ、ねぇ、お父さ ん、お父さんったら・・・
幸はぎゅっと男の手を握り締めた。
愛しているよ、お父さん・・・。


遥の花 四話

異形四話

闇の中、男は頭を抱え悩んでいた。
一体なんてことを、俺はしたのか。
それは旅行の夜だった、自分の前に幸を座らせ、その幸の浴衣を脱がしてしまった、滑らかな肌、その時の甘い感触が指に残る、もちろん、父親としてそれは許 される行為ではない、ましてや、幸がいてくれないと生きていけないなどと、幸の心を縛ってしまうようなことを言ってしまった。そうだ、もしも、幸に異変が 起こらなければ、間違いなく、幸を最後まで・・・。
心が不安定だった、それは確かだ、しかし、それは醜い言い訳だ。
幸はどれほど傷ついただろう、幻滅したろう。

「おーい、お父さん、一緒に晩御飯作ろぉ」
襖が開き、幸が男の部屋を覗き込んだ。
「お父さん、部屋が暗いよ、どうしたの」
男は慌てて表情を隠し、普段通りに返事をする。
「ん、いや、そうだね、少し考えごと。晩御飯、作ろうか」
「うん」
幸はにっと笑うと、男の手を両手で引っ張った。

二人して流しの前に立つ。
「お父さんは白色のエプロンです、真ん中にキリンさんがいます。幸のは赤と白のストライプ。赤一色は随分と色が濃かったので、ストライプ、真ん中にはウサ ギさんです」
「買ってきたの」
「えへへ、晩御飯の用意と一緒に買ってきた」
幸はにっと笑い、ジャガイモやタマネギを取り出した。
「今晩は美味しい美味しいミネストローネです。お父さんはジャガイモの皮剥きをしてください。」
「美味しいを強調しましたね、それは先日のトマト風味ジャガイモの煮っころがしからの反省でしょうか」
「その通りです」
幸は笑うと袋から人参やベーコンも取り出した。
「幸はひとつ賢くなったよ」
「と、いうと」
「ひたすらレシピに忠実であること。素人が工夫をしてはいけない。これとっても大事」
男は器用にジャガイモを包丁で剥きながら笑った。
「工夫はもっとうまくなってからか・・・。でも、ジャガイモの煮っ転がし、幸が作ってくれたから美味しかったな」
「そう言ってくれるお父さん、大好き。なんかね、そう言われるとさ、今度はもっと頑張らなきゃ、って思うんだ。そう思えることって嬉しいよ、とっても」
幸がタマネギを切りながら答える、タマネギを八等分したものをボールに入れ、あぁそうだと、トマトとハーブも取り出した。
「お父さん」
「ん」
「ハーブって不思議だね、こんなのただの葉っぱだよ、ローリエとか特にそうだよ。でも、入れるとお肉の臭みがなくなったり、これって凄いよ」
「そうだね。ん・・・、暖かくなったら、庭にハーブを植えてみるのもいいかな」
「それいいなぁ、藤のバスケット片手にね、ハーブを摘んでお茶にしたり。そうだ、緩やかな白のワンピースに幅広の白い帽子もいるな」
「なんか、映画で見たような情景だけど、着替えるほどご大層な庭ではございません」
「楽しむための雰囲気作りさ、二昔前の御令嬢。お父さんが執事でね、お嬢様、お茶のご用意ができましたって言う。そうすると、幸はふっと指先を止めて振り 返る、ありがとう、セバスチャン」
「セバスチャンですか」
「そうだよ、そして、お嬢様、お手をと言ってお父さんが手を差し出して、幸は言うの、今日は素敵なティーパーティなりそうだわって」
「お嬢様、お手を」
男の言葉に一瞬、幸は戸惑ったが、
「えっ、あ・・・人参かぁ」
幸に人参を男から受け取り、四つ切りにしたジャガイモをボールに入れた。
「お父さん」
「ん」
「畑も作ろう、野菜、高くなってた」
「色々と野菜を植えてみるかな」
「種を買ってきてさ、植えよう。そういえば、大根の種って袋に入っているやつ、いっぱい入っているよ、全部、植えたら、そこいらじゅう大根だらけだ」
「全部は育たないよ」
「そっか・・・。大根も生存競争、大変だ」
「まぁね。さてと、焼いて煮込むのは幸がやりますか」
「うん、幸がやるよ」
幸が空の鍋を火にかけ、油を敷く。
「火の通りにくいジャガイモから炒めていきます。ね、お父さん、やっぱり晩ご飯は二人で作るのが良いね」
「そっか、最初は交代で作っていたもんな」
「そうだよ、あれはだめだ。一人で作るのは寂しいし、一人でご飯が出来るのを待っているのはもっと寂しい。お父さんとお喋りしながら作るのが一番だよ」
「二人で作っている割には時間かかるけどね」
「それは仕方ない、父娘の大切なコミュニケーションの時間が入っているからさ」
不意に幸は男の背中に頭をごしごし擦りつけた。
「どうしたの」
「コミュニケーション。お父さんに幸の匂いを付けてる、お父さんは幸のなわばりだから、誰も手を出すなってこと」
「ちょっと。お父さん、包丁持っているんだから危ない」
幸は笑うと、後ろから男を抱き締めた。
「いっぱい付いたよ」
男は包丁を離し、鍋のジャガイモを菜箸でひっくり返す。幸い、焦げずにすんだ。
「誰も寄って来ないよ、お父さんを好きだって言ってくれる女性は幸だけだから」
男は、切ったタマネギ、人参、ベーコンを入れ軽く炒める。
「それが不思議だ、こんなに素敵なのに」
「お父さんは自分の何処が素敵なのか全然分からないな」
「なら、幸が一日たっぷりかけて教えてあげるよ」
「幸が素敵だと言ってくれるなら、それで充分、それ以上は必要ないよ。さてと、この辺で水を入れれば良いのかな」
「はい、水とハーブを入れてください。後はじっくり煮込んでいくのですよ。よろしいですね」
「わかりました」
男が少し笑って答えた。


堀炬燵の横に鍋と炊いたばかりの御飯が入ったおひつを置く。幸は、炬燵の上にお皿やお箸を並べた、ふと、幸は大きな窓から外を眺めた。すっかり闇に閉ざさ れており、虚空に細い月が浮かんでいた。
「どうしました」
男が後ろから声をかけた。
「夜の空を見上げても、泣かなくてすむようになったなぁって」
硝子窓に写る幸の表情はとても穏やかに虚空を眺めている、男は少し笑みを浮かべると、寒そうに炬燵にもぐりこんだ。
「お父さんも夜の空を睨みつけなくてすむようになったよ」
幸は、男の横に座ると足を延ばす。
「堀炬燵は足が延ばせていいね」
「だけど、隣に座らなくていいよ、三方、残ってるんだから」
「微妙にお父さんの顔が見えにくいのが難題だ」
幸は一度立ち上がると、左に男が見えるよう炬燵に入り直した。
「これならお父さんの顔も見れるし、お父さんと同じ方向を見ることができるよ」
「窓の外、真っ暗な天蓋に細長い月」
男は答えると、おひつから、御飯をお茶碗によそい出した。
「だめだよ。幸がやる、ほとんど、お父さんが料理を作ったんだから、あとは幸がやるよぉ」
男は少し笑うと、幸にしゃもじを渡した。

「美味しいね」
「そうだね、幸の美味しそうに食べる顔を見てるとなんかな、楽しい」
「そう言ってくれると、幸はとても嬉しい」
幸はくすぐったそうに笑う、ふと、思い出したように葉書を取り出した
「そうだ、これ」
「葉書・・・」
幸が取り出した葉書を、男が受け取る。
「あかねちゃんか。そういえば、次の日、住所を訊いていたね、表書きはお父さんかお母さんが書いてくれたんだな」
「ありがとうって」
幸がくすぐったそうに笑った。
「幸には初めての手紙かな」
「うん、でも、お父さん、いいのかな」
「いいのかって」
「あかねちゃんに迷惑かからないかな。私と縁が出来て、なにか危険なことに巻き込まれたりしないかな」
「難しいところだな、ただね、あかねちゃんが外神の依代に選ばれたのは、先天的にああいったのを受け入れる感受性が高かったからだよ。今後、新手に巻き込 まれることもあり得るから、いくらかね、縁は繋いでおく方が良いかもしれない」
「それじゃ、返事を書こう。あ、この住所、電車で一時間くらいかな。会ったりもできるね」
「初めての友達だ」
「なんだか、『初めてのお使い』みたいで緊張するな」
「私さ、また、会おうねって書くよ」
「それがいいだろうね」
男が葉書を返すと、幸は大事そうにポケットの中にし舞い込んだ。

「お父さん、幸は満腹です。お行儀悪いけど少しだけ横になっても良いですか」
「どうぞ」
幸はにっと笑うと駆け出して、掛布をとって返し、男の膝を枕に寝転がってしまった。
「な、なるほど、そういうことか・・・」
「特等席だ」
「幸はいろんなこと、考えるなぁ」
幸はくすぐったそうに笑うと、右手で男の顎に触れた。
「お髭、きちんと剃っているね、お父さんに髭は似合わない。だって、キスする時、幸の唇が痛くなってしまうもの」
「前後二つの文が繋がらない」
「いいのさ、だってキスするの邪魔だからお髭はやめてって言いにくいもの。お父さん、あのね」
幸はにっと笑うと、ふっと右手、人差し指で男の唇に触れた。
「ん」
「幸はお父さんのこと、ずっと考えている、思っている、幸はお父さんの専門家だからね。お父さんのことなんでもわかるよ。お父さん、幸のことで悩んでいる でしょう」
「幸」
男はかすれた声で呟いた。
「あれは幸がお願いしたことだし、幸は百年以上、汚く生きてきたんだ、心も体も、すっかり汚れてしまっているよ、どんなに洗ったって落ちやしない。だか ら、今更いいんだ」
「それは絶対に良くない、お父さんは幸がどんなふうに生きてきたか、全てを知る由はないけれど、幸はね、お父さんが幸のこと、とっても大切に思っているこ とわかるだろう」
「うん・・・」
「それは、幸がお父さんにとって、とっても綺麗な女の子で、とっても綺麗な体で、とっても綺麗な心を持っていて、そしてなにより、お父さんのこと、大切に 思ってくれているからだよ。幸、もっと自分自身を認めてあげなさいな」
「なんだか、幸は幸せすぎるよ」
幸は目を瞑り、唇をかんだ。

声がした。

・・・我が主より文有りき、御届け候・・・

地響きのような低い声だ。

「ああ、どうしてこういう時に限ってなんだろう。お父さん」
「いつかさ、二人っきりで旅をしよう。そうしたら、嫌なのが寄ってきても逃げだせる」
「愛の逃避行だね」
「安っぽいドラマの見過ぎだよ、それは」

・・・我が主より文有りき、御届け候・・・

先程よりも低く声が響く、炬燵の上で食器がかたかたと揺れた。
「音で結界を破ろうとしている、この重い力は鬼だな。父さん、行ってくるよ」
男は起き上がると、幸を炬燵に座らせた。
「幸はここから離れないこと、いいかな」
「でも」
「大丈夫、お父さん、強いからね。それに、外は寒い、幸が風邪をひいたら大変だ」
男はそっと幸の唇に人差し指で触れると、少し笑った。
「本当に、父さんは幸が大切だよ」
「お父さん」
男は幸を残して玄関口へ向かった。

戸を開け、門の前まで出る。男は門の前で見上げた。まるで怪獣映画だ。日本画から抜け出したような鬼が仁王立ちに立っていた。
男の背丈は鬼の膝ほどにしかないだろう。
「無茶なことを」
男が呟く。どれほどの犠牲を供物に鬼などを呼び出したのか。
「主殿か」
「私がこの家の主です」
「文を言付かって来た」
「それは読みたくありません」
「何ゆえ」
予想をしていなかった男の返答に鬼は目を剥き唸った。
「私はこの地で静かな日常を営む者、日々の暮らしの中で笑ったり泣いたりしながら、今の生活を楽しみ生きています。その文を読み、拘わりを持てば私の大切 とする生活が適わなくなるでしょう。ですから、読みたくありません。そのこと、貴方の使役者にお伝えいただき、このまま、お帰りください」
鬼は男を瞬きせず睨んでいたが、不意にじわりと笑みを浮かべた。
「もう一つ、この旨、受けいられぬ時は、殺してしまえと仰せつかった」
鬼は一気に右手を振り落とし、男をその巨大な爪でまっふたつに切り裂いた。声をあげる暇もなく、男は両断され地面に倒れて行った。
「なんとひ弱な主殿よのう」

「うおぉぉぉっ」
一瞬の雄叫びとともに光が走る、鬼の片腕が地面に落ち、虚空には長刀を手に髪を振り乱した幸が浮かんでいた。
「お前、何をした」
幸が目を真ん丸に見開き、歯を震わせ鬼に声をあげた。
鬼は絶句した。いきなりの状況に判断がつかずにいた。
「お前、あたしのお父さんを殺したな、殺したんだな、あははっ、ようし、お前を一寸刻みに切り刻んでやろう」
幸の眼からは涙が溢れ、狂ったように笑う口元からは涎が垂れ流れていた。
「お父さん、こいつを潰したらあたしも行くよ」

「幸、待ちなさい」
男が叫んだ、男は何事もなかったように門の前に立っていた。
「今のはただの幻術だ」
「あ、あ・・・。見ちゃやだぁっ」
幸は両手で顔を隠すと、地面へと落ちて行く、男は駆け出すと、すんでのところで幸を受け止めた。
既に鬼は逃げだし、その腕だけが丸太のように横たわっていた。
「お願い、幸の汚い顔、見ないで」
男は幸を抱きかかえたまま、家に戻ると、そのまま器用にタンスからやわらかなタオルを取り出し、幸を炬燵に座らせた。
「さぁ、顔から手を離しなさいな」
「やだやだ、お父さんにあんな顔を見られてしまったよ」
「気を静めなさい、肩の力を抜きなさいな。お父さんは幸のこと、とっても大切なんだからさ」
幸が目を瞑ったまま、そっと両手を顔から離した。
「ほら、涙に鼻水、涎。これは大変だ」
男は笑うと、タオルでそっと幸の涙を拭った。
「鼻、ちーんとしな」
んーっと幸がタオルに鼻を付ける、男はタオルを二つに折ると、幸の涎を拭いた。
「ほら、美人に戻ったよ。さっ、お風呂沸かそう、温まってきなさいな」

幸をお風呂に入れた後、男は窓から外をじっと睨んでいた。月は消え、茫漠たる闇が、硝子窓の外に広がっていた。
どんな、闇の中でも、たとえ、自分の身を犠牲にしても、守りたくて仕方のないものがある。
「お、お父さん・・・」
幸の声に、男は笑みを浮かべ振り返った。
「暖まりましたか」
「うん。ね、お父さん、本当にごめんなさい」
「え・・・、あぁ、そうか。お父さんこそ、幸に心配かけてしまったな、ごめんね。そしてさ、助けてくれてありがとう」
男はそっと笑みを浮かべた。
「お父さんね、疲れた。片づけは明日にして、もう寝よう」
「ね、お父さん」
「どうしました」
「幸、お父さんのお部屋で寝たい」
「なんだか、幸、子供に戻ってしまったな。今日はしょうがない、布団、運んであげるよ」
男は笑うと、優しく、幸の頭をなでた。

男は暗がりの中、幸の寝息を確かめると、そっと布団から起きだし、部屋を出た。静かに襖を閉める。
手早く、普段着に着替え、腰の後、小刀を差した。
奴らは俺を敵対するものと見なしただろう、ならば、潰しておかなければ禍となる。
「お父さんってのは大変だな」
男が呟く、
「大丈夫さ、幸がついているよ」
振り返ると、幸も寝間着から普段着に着替え、「必勝」と書いた鉢巻きを締めていた。
「ああぁっと・・・、ええっと、うーん。参ったな」
男はどう言いつくろったものかと考え倦ねたが、ふと、瞬きもせず、自分を見つめる幸の眼を見て何も言えなくなってしまった。
「お父さん、幸はとっても幸せだ。幸せすぎるくらいだよ。幸はさ、自分自身でこの幸せを守ることでさ、この幸せに値するようになるんだ」
男は幸の決意に驚いた。もう、立派な大人だ。
「怪我するなよ、気合い入れていけ」
「大丈夫、幸、かなり気合い入っているからさ、とっても強いよ」
「必勝・・・、なんだか、受験生みたいだ」
男はくすぐったそうに笑うと、幸の頭をなでた。
「行くぜ、幸」
「あぁ、お父さん」


遥の花 五話


異形五話

ふぅっっ、深呼吸をする。
笑顔、笑顔、口元、そう、頬の上辺りを引き上げるようにして、そうすれば極上の笑みになる。
さぁ、行くぞ。
商店街の入り口、幸はぐっと握り拳を作ると商店街の中へと向かった。

「ええっ、スーパーの方が良いよ、買いやすいもの」
「だめ、幸はね、一人ででも色んな人と会ってお喋りしたり、自分の意志を伝えたり、そういう訓練しなきゃね、いつまでも、お父さんの後に隠れて買い物するわけにもいかないでしょう」
「でも、商店街っていちいち声を掛けなきゃならないし、スーパーなら何も喋らずに買い物ができるし」
「つまりはお喋りしなさいってこと、いいね」

男に言い含められ、幸は初めて一人で買い物にでかけたのだった。
幸はポケットからメモを取り出すと、じっと見つめた。
魚屋さん、八百屋さん、服屋さんに寄って、帰りがけに、たこ焼きを買って帰る、以上だ。大丈夫、なんてことない、よし


男は落ち着かず部屋の中をうろうろとしていた。一人で買い物を行かせたのはいいが、時間が経つほどに気掛かりなっていくのだ。うずくまってしまっていないか、いや、逆に何かしでかしていないか。
幸は内弁慶なところがあり、外へ買い物に行くと少し俯いて男の上着の裾を千切れるかと握り締める、よほど緊張しているのだろう。それを思い出すほどに男は不安になるのだ。
男は溜息を大きく一つつくと電話に向かった。


「ひやぁ・・・、お父さん、ごめんなさい、幸にはまだ無理ですよぉ・・・」
幸は魚屋の前でしゃがみこんでしまった。
人通りの中、いらしゃい、いらしゃいという亭主の大声、店の前で品定めをする女達、げらげらと大きな笑い声。
店女の二つなら負けとくよ、というかん高い声が響き渡った。
「ごめんなさい。これは上級者用です、幸は落第でいいです。人が声を張り上げていて恐いです、入っていけません」
狭い通路をたくさんの買い物客たちが通り過ぎる。店の人達もそんな客たちを引き留めようと大声を張り上げる。

「幸ちゃん、幸ちゃんだろう」
幸が自分を呼ぶ声に顔をあげると、先程の店の女がにかっと笑って幸の前に立っていた。
「うひゃあ、美人さんだねぇ。いま、センセイから電話があったよ、娘は買い物に来たでしょうかってね」
「お父さんが」
女は笑顔を浮かべ頷いた。
「さあ、そんなとこでしゃがんでないで立ちな」
幸がよろよろと立ち上がると、女はぱんっと幸のお尻をたたく。
「しっかりしなよ」
「は、はい」
「何年も病院に入院していてさ、やっとこさ、家に帰れたんだ、これからはその分を取りもどさなきゃね」
「そ、そうですよね」
お父さん、そういう設定は始めに幸に言ってくれよと思いながらも、なんだかほっとしたのだろう、幸は安心して笑みを浮かべた。

女は幸を店の前まで連れて来た。
「何がいるんだい」
「あの、えっと・・・」
「おおっ、何処のお嬢さんだい」
店主が気づき、女に声をかけた。
「税理士のセンセイとこのさ、お嬢さんだよ」
「ほぉー、女優さんみたいだ。センセイにこんな別嬪の娘さんがいたとはなぁ。こりゃ、センセイも心配だ。俺だったら、絶対に一人で買い物になんぞやんねぇ、虫がついたら大変だ、一日中見張ってるぞ」
「いらないこと言ってないで、ほら、お客さん、待っているじやないか」
女は店主を向こうに押しやると、幸に笑いかけた。
「だめな亭主でさ」
幸も笑顔を浮かべ、メモを取り出した。
「あの、お姉さん、鮭の切り身を、ください」
「え、お姉さんか、うん、そりゃお姉さんだ」
「なら、俺はお兄さんだな」
「何言ってんだよ、おっさんが。女同士の話に入って来るんじゃないよ」
女は店主を蹴り飛ばすと、幸に言った。
「悪いねぇ、男ってのはどうしようもないよ。そうだ、メモ、貸してごらんな」
「は、はい」
「シメジにタマネギ、モヤシ、これなら、鮭の包み焼きかい」
「はい、そうです。お父さん、好きだから・・・」
女はふっと涙目になり、前掛けで鼻をかんだ。
「かー、うちのガキどもにも聞かせてやりたいね。これからも親孝行してやりなよ」
女は手早く鮭の切り身を包むと幸に手渡した。
「新鮮だ、美味しいよ」
「あの、おいくら」
「いいさ、持って帰りな」
「でも」
「なんかもう、あれなんだよ。これからもさ、女同士じゃないと相談できないことはあたしに言いな、相談に乗るよ、まかしときな」
「お姉さん、ありがとう。でも、私、少しずつでも社会復帰して、お父さんに安心して欲しい、だから、お父さんにも、ちゃんとお金、払って来たよって言いたいから」
女は幸をがしっと抱き締めた。
「良い娘だよ、なんて出来た子だい。それじゃ、五百円だけもらっておくよ」
女は手を放すと、涙交じりに言った。
付いてやってやりたいけど、忙しい時間でね、と断りを言う女に頭を下げ、幸はその先にある八百屋へ向かった。

野菜って結構多いな、二人暮らしには。
幸は五個入りのタマネギの袋を見ながら考えた。
でも、日持ちするなら、次の日の料理に使えばいいし、それなら。
幸は先程のやり取りで少しは買い物に慣れたのか、落ち着いて考えていた。
「あんたがセンセイんとこの娘さんかい」
「は、はい」
店番をしていたおばあさんが幸に話しかけて来た。
「いま、魚弦の佳奈ちゃんから電話があってね。センセイのお嬢さんが来るから声をかけてやってくれってさ」
「あ、ありがとうございます」
「あんたは生まれてからずっと入院していたのかい」
「は、はい」
「大変だったねぇ、ちょいと、手を出してごらん」
「えっ」
「手相見が趣味なのさ、見せてごらんな」
幸がそっと手を伸ばすと、おばあさんが拡大鏡を片手に幸の手相を見た。しかし、首を振り、どうも見当が付かないといったふうに顔をしかめる。
「ん・・・。ごめんよ、どう読んだもんか分からないねぇ、こんなこたぁ初めてだ。過去が見えてこない」
「私の過去、秘密ですから」
幸は笑うと、そっとおばあさんを抱き締め、その耳元で囁いた。
偽者は好きに占えば良い、でも、あんたみたいな本物はだめだ。うっかりすりゃ、相手の魂を傷物にしてしまう、気をつけなよ、な。
幸は姿勢を戻し、タマネギとしめじとモヤシを取ると、硬直したままのおばあさんに声をかけた。
「これ、くださいな」


少し脅し過ぎてしまったろうかと、幸は反省しつつ、洋服店へ向かった。
通路ぎりぎりまで女物のブラウスなどが吊り下げられている。年齢層の高い品揃えだ。
幸はそっと覗き込むと女がいた、電話をしている言葉から店主だろうとわかる。電話が終わったのを見計らい、声をかけた。
「あ、あの・・・」
「いらっしゃい」
「あの、取り寄せてもらっていた・・・」
「電話あったよ、センセイとこのお嬢さんだね。この前、来てくれた時はセンセイの後ろにへばり付いて顔が見えなかったけど、今日は一人だ」
にかっと笑う、店主の口の悪さを思い出した。でも、裏がない快活な話し方で、却って好感を持つことが出来る。
「一人で行ってきなさいって・・・」
「センセイも大変だ、今頃、心配して、いてもたってもいられないだろうさ」
幸がくすぐったそうに笑うのを見て、店主が満足そうに頷いた。
「お入りな、お茶をしよう。この時間、うちは暇でね」
店の奥にある三畳程の小さな部屋、ちょっとした食器棚と小さな丸いテーブルと古びたラジオがあり、衣類など、商品は置いていない。
店主は幸をテーブルに座らせ、インスタントコーヒーの瓶を出す。手慣れた手つきで珈琲を二つ用意すると、一つを幸の前に置いた。
「砂糖とクリームは適当にね」
「はい」
幸は少しクリームを入れ、一口飲む。
「美味くもなんともないだろう」
「あの、いいえ」
「まずいなぁ、って思いながら、癖だね、あたしも飲んでいるのさ」
店主は幸の前に座ると興味深そうに幸を見つめた。
「名前はなんて言うんだい」
「幸、幸です。幸福の、幸という字です」
「親の愛情の詰まった名前だねぇ」
店主は笑うと、一口、珈琲を啜る。
「あのセンセイ、あれでロマンティストだからさぁ。でも、なんていうんだい、センセイも随分変わった、丸くなったよ。幸ちゃんのおかげさ」
「お父さん、以前は」
「あぁ、そうか。何年も入院していたわけだし、そうだねぇ。うちはセンセイに帳簿お願いしているわけだけどね、正確できっちりした仕事をしてくれているんだけど、愛想がなかった、ほんと。えらそうにしているんじゃない。ただ、本当に愛想の「あ」の字もなかったのが、この前の二人で来てくれたときさ、少年みたいな真っ赤な顔して照れ臭そうに、娘の下着や服を一式揃えていただけませんか、ってもう、あたしゃ、吹き出して笑いそうになるの、こらえるの大変だったよ。ほんと、幸ちゃん、大切にされているんだねぇ」
幸は恥ずかしそうに笑みを浮かべると俯いてしまった。
「やっと帰ってこれたんだ、幸ちゃんもこれから親孝行しなよ」
「はい、私もお父さんが好きだから」
幸がそっと珈琲カップを両手で包み込む。
「いいねぇ、うちの娘や息子も幸ちゃんみたいに素直だったらね、いいんだけどさ。うん・・・」
「幸ちゃんは水仕事もしているのかい、洗濯とかさ」
「お父さんと交替でしています。本当は私の仕事だけど」
「うーん、手が少し荒れているじゃないか、寝る前にハンドクリームとか付けないのかい」
「え・・・」
「あぁ、男親一人じゃしょうがないねぇ」
店主は戸棚を開け、ハンドクリームを一つ取り出した。
「まだ、使っていないからさ、あげるよ」
「あ、でも」
「こんな別嬪さんなのに手荒れなんてもったいないよ。寝る前にね、クリーム、ちょっと取って、まんべんなく手に擦り込んで、そしたら手荒れしないですむよ」
「あ、ありがとうございます」
「いいよ、なんでも相談にきな、金のこと以外なら、話聴いてやるよ」
店主は笑うと珈琲を飲み干した。
「なんか、甘い物なかったかねぇ」
「私、そろそろ。お父さん、心配してそうだし」
「あ、そうだね、それじゃ、あの紙袋に下着や靴下、普段着みたいなもの入ってるからね、袋、二重にしておいたから破れないだろう」
「ありがとうございます」
「いいよ、今回はあたしの見繕いだけど、幸ちゃんも、この生活に慣れたら、自分の好きなもの選ぶと良いよ」
幸は笑みを浮かべると、会釈をし、店を出た。

「ちょ、ちょいと」
声を掛けられ、幸が振り返ると、八百屋のおばあさんが幸を手まねいていた。
「さっきはごめんなさい」
にっと幸が笑う。
「あ、あんた・・・」
幸に駆け寄り、おばあさんが言った。
「あんた、神様かい」
「私に手を合わせていただいても、何の御利益もありませんよ」
幸は笑みを浮かべ離れる、後ろでおばあさんがありがたいありがたいと手を合わせていた。

幸は魚屋の佳奈を見つけると、たたっと駆け寄った。佳奈もパイプ椅子に座り、一息ついたところだった。
「やぁ、どうだった」
佳奈は幸を見つけると笑い掛けた。
「ありがとうございます、電話していただいて。皆さんに優しくしていただきました」
「そりゃ良かった」
幸は座る佳奈の前に立つと、そっと佳奈の手を取って笑顔を浮かべた。
そして顔を寄せ、耳元に囁く。
佳奈さん、悩まなくてもいいよ。人の考えてることが、自分のと同じようにわかるんだろう
びくんと加奈が震えた。
父さんは電話で娘がと言った、あたしの名前言ってなかったろう。幸という名前は、あたしが表に置いている記憶が見えてしまったからだろう。ねぇ、あたしの心、奥底まで見えるかい、見えないだろう、お父さん以外には見せないと決めているからさ、似たもの同士、きっと、あたし達、良い友達になること、できるよ
幸が佳奈から顔を離す、佳奈はぎゅっと幸の手を握った。
「寂しかった」
佳奈が掠れる声で囁いた。
「今はどう」
幸が囁いた。
「心の底から元気が出ている、一人じゃないのは嬉しいもんだね」
「私もずっと一人だった、でも、お父さんと出会えて、今はとっても幸せ、幸せすぎるくらいです。それに、今日は佳奈さんにも出会うことが出来た、とっても嬉しい」
はははっと佳奈は快活に笑うと、いつものように元気を取り戻した。
「いつでも遊びにおいで。わるがき、二人いるけどね」
幸はにっと満遍の笑みを浮かべた。
「それじゃ、お父さん、家で心配しているから帰ります」
「いや、あれ・・・」
佳奈の指さす商店街の入り口辺りを男が行きつ戻りつしていた。
「お父さんだ」
「気づかれていないと思ってるんだろうねぇ」
「お父さん、可愛いなぁ」
「え、あれがかい」
幸はもちろんと頷くと、男へと掛けて行った。


男はここまで来たことを悔いていた。
大丈夫だ、佳奈さんは姐御肌で面白い能力も持っているから幸のこと、気遣ってくれるだろう、こんなところで幸に見つかったら、親としての威厳というか、なんというか。とにかく、家に戻って、平気な顔をしていないと。

幸がいきなり男を後ろから抱き締めた。
「不審者発見、不審者発見、至急、応援請う」
「あ、幸」
「あはは、お父さん、どうしたの、こんなところで、動物園の熊さんみたいに、うろうろしてた」
「いや、ちょっと買い物に」
「本当のこと、言いなさい」
「ん・・・、幸が心配でじっとしていられなかった」
「よく正直に言った、解放してあげよう」
幸は男の前に立つと、にっと笑った、
「メモの通り買ったよ、タコ焼きは買うのやめたけど」
「え、どうして」
「ほら、お父さん、見てごらんよ。たくさんの人が歩いている」
「まだ、そうだな。人どおりが多い」
「こんな中で一時間、生き別れになっていた親子がやっと出会えたんだよ、途中の喫茶店で巡り会えたこと、ケーキで祝福するのもありだよ、そして、心くばりの出来る幸は喫茶店に匂いの強いタコ焼きを持って入るのは悪いかなと思うのですよ、お父様」
「なんだか、しっかりしたなぁ」
「えへへ・・・。照れますぅ」
「もう一人で買い物も大丈夫か」
「それはだめ、幸はお父さんと離れると悪い女の子になってしまう、幸はお父さんと一緒じゃないとね、素敵な女の子でいられないのさ」
「なんかそれ、いろいろ、しでかしたのではと気になるけれど、まぁ、そうだな、立ち話より喫茶店で聞けばいいか」
男は溜息混じりに幸から荷物を受け取る。幸は当たり前のように、男の腕に自分の腕をからめた。
「楽しかったよ、お父さん」



読者登録

朽身揺歯(くちみゆるは)さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について