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夫は、気を失ってバタンと倒れたナオ子を見て、ワ~~と悲鳴を上げて飛び上がった。「おい、気を確かにしろ。もう、忘れるんだ。ナオ子」素早く駆けよった夫は、死んだように床でぐったりしたナオ子をしっかり抱きしめた。白目をむいたナオ子の口からは、原爆で犬死した子供たちの怨霊がとりついたかのように、助けて~、助けて~、水~、水~と今にも死に絶えそうな乾ききった声が漏れていた。「おい、気をしっかりしろ。大丈夫か?」夫は、ナオ子をお助けください、お助けください、と神に祈りながら、ナオ子を全力で抱きしめ続けた。

 

 

 

                 謎の女性

 

 

 

 美緒と付き合ったことで伊達夫妻に迷惑をかけたことを深く反省した沢富は、覚せい剤取引に関する調査を断念することに決めた。病院で急死した栗原隆治に関する情報から、何らかの手がかりがつかめると考えていたが、ひろ子に美緒との関係がばれて、結婚が破談になる恐れがあると考えると、これ以上、事件に深入りするのは賢明でないと判断した。美緒と会うのは今回が最後にすると決意した沢富は、いつものマックで美緒にその気持ちを告げることにした。

 

 

 

 5月22日(日)、午前10時40分にはマック前原店に到着した美緒は、オレンジジュースを購入すると、いつもの窓際の席に腰かけて沢富を待った。沢富もどうにか約束の11時には間に合った。沢富は、窓際の席までかけていくと、美緒が笑顔で声をかけた。「車、混んでたの?」沢富は、ハ~ハ~と息を切らせて返事した。「ちょっと、混んでたよ。今日はいい天気だし、糸島方面に行く人たちが多くて。今人気の伊都菜彩の前は、すっごい、車列」ニコッと笑顔を作っていたが、美緒の頭は、今日のドライブコースのことを考えていた。

 


 

 美緒は、一息ついた沢富の浮かない表情が気になったが、今日のドライブについて話し始めた。「ね~、今日のドライブ、三瀬方面はどう?三瀬の蕎麦は、すっごくおいしいんだってよ」沢富は、このままドライブに行ってしまうと、別れ話ができなくなるような気になった。気持ちが固まっているうちに、別れ話を切り出すことにした。「そうだな~。でも、今日は、ちょっと、大切な話があるんだ」

 

 

 

 もしかして、別れ話ではないかと直感した美緒は、少し、わがまますぎたんじゃないかと反省した。今まで機嫌よく付き合ってくれた恩返しに、今まで黙っていたことを話すことにした。「かなり、刑事さんを引っ張りまわしちゃったね。今朝起きたときに、突然思い出したんだけど」美緒は、ストローに口をつけてジュースを吸い始めた。沢富は、もしかしたら、大きな手掛かりをつかむことができるんじゃないかと興奮してきた。「え、どんなことだい。どんなに些細なことでもいいんだ、話してくれないか」

 

 

 

 巨乳に息を吸い込むように大きく深呼吸した美緒は、ニコッと笑顔を作った。何か思い出すときの表情になると、ゆっくり話し始めた。「真っ青な空に、何かが飛んでいたの。それがだんだんと近づいてきて、すぐそこまでやってきたの。一瞬、空飛ぶ円盤かと思ったんだけど、でも、よ~~く、見てみると、黄色いタクシーなの。あ、お父さんのタクシー、って叫んだ時、目が覚めたの」真剣に聞いていた沢富は、拍子抜けしてしまった。

 


 

 「それって、夢の話だろ。今朝起きたときの話を聞かせてくれないか」美緒は、また、ニコッと笑顔を作った。「そんなに、焦らせないでよ。だから~、夢から覚めた時、突然、あの時のことを思い出したの」あの時と聞いた沢富は、身を乗り出した。「え、あの時、あの時のことって、さあ」美緒はじらすように、ストローに口をつけて、チュ~っとジュースを吸い上げた。しばらく黙っていた美緒は、一度窓から通りを眺めて、小さな声で話し始めた。

 

 

 

 「確かに、あの時、言ったのよ。電話の相手は、職場の女性、って」沢富は、いったいどういうことだかさっぱりわからなかった。「どういうことだ。もう少し、僕にもわかるように話してくれないか。もっと、しっかり思い出して、どんなに些細なことでもいいから、さあ」美緒は、一瞬のフラッシュバックで、なんといって説明していいか、戸惑ったが、とにかく、思い出せることを順序立てて話すことにした。

 

 

 

「う~~、なんといっていいか、いつだったかは思い出せないけど、とにかく、食事中に、父の携帯が鳴ったのね。そして、父がこそこそと話をしたの。分かった、分かった、とか言ってたような。はっきりしないんだけど。会社の人から、って聞いたら、ああ、って言ったの。一瞬、女性のような声が聞こえたので、女の人?って聞いたの。そしたら、ああ、って言ったの。それだけ」

 


 

沢富は、ある時、ある女性から、栗原隆治に電話があったという事実をつかんだ。そして、女性タクシードライバー、女性タクシードライバー、と心でつぶやいた時、ふと、ひろ子の顔が頭に浮かんだ。YESタクシーの女性ドライバーは、二人しかいない。ひろ子ともう一人の50歳ぐらいの女性。突然、マジになった沢富は、美緒を睨み付けるような目つきで質問した。「その女性って、若い声じゃなかったか?」

 

 

 

美緒は、はっきりしないような表情で、曖昧な返事をした。「それが、ほんの一瞬、女性のような声を耳にしたってだけで、若いかどうかは・・でも、なんだか、女っぽく、きれいな声だったような、そんな気がする。なんとなくよ」沢富は、確信した。電話の相手は、ひろ子だと。もしそうであれば、ひろ子も、覚せい剤取引のグループの一人と考えてもおかしくない。

 

 

 

あくまでも、単なる邪推に違いないが、刑事は疑ってかかるのが仕事だ。たとえ、プロポーズの相手でも、私情を挟んではいけない。沢富は、左手を顎に当て、どうやって、ひろ子の素性を確かめればいいか、しばらく考え込んでしまった。突然考え込んでしまった沢富にいったい何が起きたのだろう、と美緒は思った。何か悪いことでも言ったのではないかと少し不安になった。

 


 

美緒は、恐る恐るいつものかわいいニックネームで沢富に声をかけた。「サワピ~、どうかした?」考え込んでしまった沢富の耳には、美緒の声が届いていなかった。突然、沢富の脳裏には、真っ暗なトンネルの細い道を小さな懐中電灯で足元を照らし、寂しそうな後ろ姿で歩いている自分が映し出されていた。勇気を振り絞って、どんな手を使ってでも、徹底的に調査すべきではないか。沢富は心でつぶやいた。

 

 

 

 トンネルの中に甲高い音が響いたと思った時、ふと、我に返った。「サワピ~、サワピ~ったら」美緒は、沢富の左肩をゆすっていた。沢富は、顔を持ち上げ美緒の顔を見つめた。「え、何か?」呆れた顔で美緒は答えた。「何か、じゃないでしょ。これから、どこに行くのよ。お昼は、おそばを食べたいな~。実は、おいしい蕎麦屋を知っているんだ。行こうよ~。さあ~、早く~」

 

 

 

 我に返った沢富は、別れ話を切り出す前にもう少し謎の女性について聞き出すことにした。「もうこんな時間か、おなかがすくはずだ。食事に行く前に、もうちょっと話を聞かせてくれないか。その女性についてもうちょっと知りたいんだ。お父さんは、女性と会ったりしてなかったんだろうか?いや、とにかく、お父さんとの会話で、思い出せることだったらなんでもいいんだ。厄介なお客だったとか、愉快なお客だったとか、独り言でもいい、何か思い出せないか?」

 



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