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俺たちオルゴールみたいね

 

 

 

 

 体がビューティフルチェアーを離れ、裸足にサンダルをつっかけ、外に出た。ドアを押す肩にかかる木の重みが、いかにもこの世らしくて心地よかった。

 うちの車の音はすこし離れたところからでもわかる。玄関前に立つと白い玉砂利をきちきちいわせながら草色のジープが乗りこんできた。お盆まえの夕暮れ、空気の中には陽光のおきみやげの熱がたっぷり残っている。

 ランドセルを肩にひっかけ、運転席から降りてくるペンギン先生。

「タッティン!!」

「みどや」

「出てきてくれるなんて……どういう風の吹きまわし……」

 俺は首をかしげて「何秒かはやく会えるからかな」

 そう答えたときの、彼の顔の輝きといったら。車の中でむずかしいことを考えていたのか、眉間に険しいしわがよっていたのに。

「おっおれに何秒かはやく会えるから出てきたの?」

「なんか体がむずむずして、出てきたくて出てきちゃったんだけど、理由をつけるとすれば」

「また例の、そうしたくてそうしちゃった」

「そう」

「ただいま楯」彼はあらためてそういい、俺にキスをした。「いま、出迎えてくれたおまえ見て、ほんっとにほんっとに疲れが吹きとぶの感じた。ピラミッドドリンクの千倍も効く」

 緑の唇はいつもより硬く感じられた。輪郭がくっきりしているというか。なんだろう。俺からも彼の口にキスしてみる。

 乾燥しているというわけでもない。血色のいい健康そうな唇がそこにある。力が入っているんだろうか? もういちどキスする。

 おなじ人でもそのときによって唇の感触はぜんぜんちがう。ふるふるしてゼリーっぽいときもあれば、軟体動物めいているときもあり、中に骨があるんじゃないかというときもある。それがぜんぶ緑の唇なのだという。おまえは奇跡か。

「楯ちんきょうはどうしたんだ」口づけを受けながら、彼は日焼けした頬を赤くしてささやく。「もうこのままベッドに直行って感じ……?」

「そんなつもりじゃなかった」

「ひでえ、こんなキスしておいて」

「ハハ」

「そうしたいからしちゃったって? さいきん楯はオープンハートすぎて、天使すぎて悪魔すぎて、こっちはふりまわされっぱなし」

 緑は俺の手をとって、ベルトにつきあたっているふりまわされちんこに触れさせた。きょうの彼は腰まわりのぴったりしたスラックスをはいていて、舟形の隆起がいやにくっきりしているのだった。

「あっまた笑う」

「みどやはほんとうにおもしろい。俺なかなかこうはならない」

「馬になんて会話を聞かせるんだ……」

 彼と肩を組んで車を離れようとすると、「助手席に生ものがあります」と、「馬」が教えてくれた。

「あ、そうだった」緑は助手席のドアをひらいて、もち手のついた花柄の小箱を取る。「いいものがあるよ」

「かなりいいものの予感がする」

 いいもの、いいもの、と、いいあって家に入った。

 夕食は俺が作ったヴィーナスボーイ・ソース(おからの白ソーセージにアボカドとピンクトマトのソース)のスパゲティーを食べ、ワインを飲んで、居間に移って緑の買ってきたケーキを食べた。綺麗なもののすきな彼が、店頭で惹かれたときの心の動きが見えるような、夏のくだものがたくさんのってキラキラした花形のタルト。そして、ふたりとも甘い口をしたままソファーでにきにきした。にきにきというのは彼の造語で、横たわってお話したりグルーミングしあったり、抱擁しあったりといった仲よしタイムのこと。彼は仕事の予定が立てこんでくると「にきにきしてえ」と、うわごとをいうので、いま忙しいのだなとわかる。

 壁ぎわにボールを弱く灯しただけの部屋で、緑の髪を、彼のお気に入りのブラシで梳いてやる。念入りにブラシをすると髪がよく立って、薔薇のようなつむじがくっきりと巻く。なんて愛しい。たまらず、うずに口をつける。

「いまなにした?」

「つむじにチュッてした」

「…………」緑はそっと顔をあげ、「楯って、ほんとにおれがすきだ」

 俺はブラシの背を手のひらにぺちぺちと当てる。「うん」

「うんってかんたんにいうけど、おれの歴史上それはすごいことで、にわかに信じられない」

「信じなくていいよ、毎回ただ味わったらいい。愛されてる感じを」

「毎回ただ味わえばいい?」

「なにもむりに理解したり信じたりしなくていいよ。そんなのはあとからついてくる。いまは俺がおまえにすることを、そのつど心をひらいて味わってごらん」

「…………」緑の目の奥では思考が高速にうずまいているようだった。「いますごくうれしいことをいわれた気がするんだけど」

「じゃあ、うれしいってことだけ感じていて」

 ああ、と、緑は大きな花をこぼすようなため息をついた。

「こんな感覚おかしいのかな――」

 と、彼が俺の胸に顔を押しあてていうには。

「いつもチェックしてる星占い、乙女座のところを読むときにはおまえにも関係があることだと思って読むし、天秤座を読むときにはおれのことでもあると思って読んでると気づいた」

 緑は九月二十二日の乙女座最終日生まれで、俺はその翌日の天秤座初日生まれ。彼はむかしから占いがすきでよく読んでいる。

「おれに起こることやおれがすることはかならず楯の生活にも影響するわけだし、その逆もしかり」

「うん」

「おれ、おまえのことも自分だと思ってるみたいだ」

「うん」

「おれはおまえと『ふたり』じゃなくて、より大きな『ひとり』になったのかも、って。この感覚、自分としてはすごくしっくりくるんだけど」

「より大きなひとり。なるほど。もうそんな感じだよね」

「ほんとに?」

「緑とのあいだに境界がなにもない。俺おまえに話してないことっていうのはあるかもしれないけど、秘密はないし」

「秘密はないっていいきれるのすげえ」

「こんなにいつもいっしょにいたら、ほんとに俺たち宇宙から見てひとかたまりみたいなもんだろうね」

「ひとかたまり」緑はうっとりとつぶやいた。「うれしいな」

「こんなふうに生きられるんだなー」

「楯は優しくて、いいよいいよってなんでも受け入れてくれるけど、そのじつだれのことも心の中に入れてない気がしてた」

「むかしの自分がそんなふうだったことは知ってる」

 かつてはかなりの個人主義を自負していて、表面上はどんなに他人に協調し、あるいは入りこまれているように見えても、緑のいうようにここからはだれとも共有しないエリアというのを厳然と維持していた。ステーションやその上下にひろがる広大無辺な階層の数かず。一日のうち数時間はそこをひとりで歩いて自分を開放しリフレッシュしなければ、現実を生きられなかった。

 俺はこの春「俺」を喪失してしまって――ある夜、緑とテレビを観ながらクッキーを食べた拍子に、ハプニングのように自意識が消え去った。物心ついたときから慣れ親しんだ、自分は「荻原楯」であるという感覚が消えてしまったのだった。荻原楯という名で生まれ育った記憶はあるし、人はこのすがたを見て「楯だ」と認識することもわかる。でもそれはそれとして、自分は何者でもないことがいきなりはっきりしてしまったのだった。

 荻原楯という名前や過去が自分なのではなく、年齢や性別が自分なのでもない。自分というのはどうやら、目の前で起こることを感じて受けとめ、あれこれ想ったり考えたりしているこの働きのことをいうらしい。この働きは自然や星ぼしやいくつもの宇宙を生みだしたみなもとの力である、生命によって営まれている。

 緑を愛しいと思うときに、この感情を言葉や身体で伝えられればそれでよく、俺は自分がだれであるかなんてそのさなかに意識もしない。男であることも忘れていて、自分に可能な愛しかたをしているだけだった。そうやって何者でもなくなってからは、彼と愛しあうときに感じるものは彼との愛だけではなく、生命全体とつながっていることの、自分はひとりではなく、なにひとつ切り離されたりなどしていないという安心感、安らぎだった。

 ブラッシングしていた手がくたびれた。俺は彼と顔の高さをあわせて体をずらし、彼と抱擁しあう。

 彼はワルクマンヒューマンでふたりのお気に入り曲集をかける。未来東京の部屋でふたりで踊っていた曲が、居間にしずかに流れだす。

 幼少からの未来東京の日々、緑と出会ったころのこと、同居を始めたときのことが、優しく胸を締めつける感覚をもたらす。いつもは忘れている記憶たちがぷかぷかと浮かんでは、甘い気泡がはじける。十代の緑の顔や声。いつもいっしょうけんめいな彼の表情や言葉は、しらぬまに俺を変容させていたのかもしれない。すきだ、愛していると百万回もいわれれば、それに応じたものに変わっていくのかもしれない。

 かもしれないし、そうではないのかもしれない。

 真実はわからないまま世界はすすむ。

 わかるのは――目の前に緑の顔があるということは、いまの俺にとって世界は彼の顔をしているということ。なんて愛しい、なんて納得のいく、なんて完璧な現実だろうか。

「みどや踊ろう」

 俺が立ちあがると彼も目を輝かせて立ちあがる。夏の宵の風がカーテンをふくらませて、ふたりのまわりをめぐる。

「愛してるよ楯」

「俺も」

 おたがいの体に腕をまわして揺れる。タンゴのステップを踏んでみたり、汗をかくような踊りをすることもあるけど、しずかな音楽にあわせて胸と胸をぴったりとつけ、見つめあったり、頬を重ねたりしてゆらゆらしているだけで楽しく、満たされる夜もある。

「俺たちオルゴールみたいね」と、俺。

「おまえとオルゴールになれる人生だったなんて」と、緑。

 こんやは新月だそうで、庭は星明かりでぼんやりしている。照明ボールをオフにすると床には海のように闇がひろがり、彼と俺は同時に「わあ」と感嘆の声を漏らした。

「そうだ。ゆいいつむに飯屋のマスターに誘われたんだった」

 緑はなにか思い出したらしい。

「十月の未来鹿嘗町収穫祭――ペロシカフェストっていったかな? その町民ダンス大会に出場しないかって」

「ダンス大会?」

「マスターたちは和太鼓舞踊チームで出場するんだと。あとは、幼児のお遊戯や小中高生のダンスクラブ、主婦のフラダンスや日舞、社交ダンスのサークルなんかが出るらしい」

「なんで俺たちに声がかかったの?」

「さあ……だれにでも声かけてるってわけでもなさそうだったから、なにかおれたちを見こんでのことなんだろう」

「なにを見こまれたんだ」俺は笑う。ゆいいつむに飯屋での俺たちといえば、いちゃいちゃしながら飯を食ってるだけなんだけど。

「どうする? 出る? 断る?」

「ひまだし出ようか」

「大丈夫? 恥ずかしくねえ?」

「ちっとも」

 首を横にふる俺を、緑はいがいそうに見つめる。「いやがるかと思った」

「この町にもいつまでいるかわからない。いるあいだに、ここの人らと遊んでみるのもいい」

「商品が豪華らしい。新米一年ぶん、サーモンエクスプレスの週末パスと食堂車ディナー券、うによしフェリーの北方領土クルーズ券、きらきらマルシェお買物券などなど」

「もらおうじゃない」

「祭りまであと二か月だけど」

「やれるところまでやろう」

 やれやれというように緑は笑い、「おまえといると人生に思いがけないことが起こる」

「なにも予定してないからね。すべてが思いがけない」

 のどが乾いてキッチンに向かう。背後で緑の「ひえー、人前で踊る……ひえー」という我にかえったような声が聞こえておかしい。でも彼だってほんとうはきらいではないはずだった。未来浅草で、サンバカーニバルの個人参加申込書つきチラシを、仕事の書類にまぎらせて長いこともち歩いていたのを俺は知っている。

 

 

 

 

 

 

 


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あとがき

 

先日こんなツイートばしましたら、

 

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 雪舟えま! ‎@mamix

(б_б) ゆうべ、「日常のひとコマとしての勃起をさりげなく描いていきたい」といったら、星氏に「日常のひとコマとしての勃起をさりげなく描いていきたい?」と、そのまま訊きかえされた。

2016年5月22日 22:15

2件のリツイート    いいね12件 

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(イイネ♡してるのは全員女性ではないかと推測しているのですが…)

 

そういえば雪舟、近ごろさりげなく勃起シーン挿入してるな? とお気づきの読者さんがおられたようで、ありがとうございます!

 

耳や頭皮が独立して動かせるとか、関節をポキポキ鳴らせるとか、指を手の甲側にぐにゃっと曲げれるとか、眉間をギュッとつまんで数秒だけ二重まぶたになれるとか(これらはぜんぶ星氏の特技です)、そういうことの延長のようなものだと思うんです、勃起って…。アッ体でそんなことできるの? すごい!? みたいな。それが、自分の意思でコントロールしきれないものであることや、性てきなときめきが加わるので、現象としてとても味わい深い……(思い浮かべてうっとり)。

 

これまでも、小説内で、描写していないだけで緑は頻繁に勃起していましたが、こんごは書いていく機会を増やそうと思いました。応援よろしくお願いします!!

 

表紙画のタイトルは「この手を離さないぞ!」です。

リポビタン某の古いCMより、クリフハンガーなシーンを参考にしました。

 

 

2016年5月25日 星氏のバイトの給料日に

雪舟えま

 

 


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奥付

 

俺たちオルゴールみたいね

  

著者    雪舟えま emma YUKIFUNE

http://yukifuneemma.com/

装画    雪舟えま 「この手を離さないぞ!」 紙、ボールペン

発行日  2016年5月25日

発行所  たとる出版 電子書籍部

http://shop.tatorubooks.com/

 

 

 定価  100炎 


  

電子書籍プラットフォーム : ブクログのパブー(http://p.booklog.jp/)

運営会社:株式会社ブクログ


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販売価格100円(税込)

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