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人は生まれたら泣くんだね、わけもわからずに

人は生まれたら泣くんだね、わけもわからずに

 

 

 

 

 目をひらくと、向かいあっていた顔の、ふたつの目がすばやくまばたきをした。

「……やあ?」と、緑。

「やあ」と、俺。

「起きてたの?」

「いま起きた。何時?」

 彼は身じろぎをして右手の指先で左手首をなぞり、皮膚に表示された時刻をいう。「四時近い」

 肌かけぶとんのうえには明けがたの空気が降りている。森を抜けてきた風は甘く涼しく、酒のような香気を含んでしっとりとしている。未来北海道の十勝地方では夏、窓をあけておくと眠るのにほどよい室温になると知った。

「みどすけ寝てないの」

「いや、さっき目が覚めて、それからなんとなく」

「ふうん」

「時どきおまえを見てる」

「へえ」

「おれがいつも、いったん寝たら朝まで熟睡してると思ってんでしょ」

「うん」

 夜明けのうす明かりの中で、室内のものたちは闇から浮かびあがって青い輪郭をもちはじめていた。麻の肌かけと彼のすこやかな皮膚もきょうさいしょの光に照らされている。あごのしたや鎖骨のくぼみにたまる濃い影と、頬や肩のつや。なんてこのましい現象なのだろう、彼は。

 ふたつの細い目はなにかいいたそうな、いたずらを秘めたような、新しいできごとを起こす萌芽の力で輝いている。瞳に映りこむ青い光は、眼の球面に沿って弓なりになっている窓。彼も俺の目をじっと見つめていう。

「楯の虹彩の中にはらせん階段がある」

「らせん階段」

「おれはもう深く降りすぎて引きかえせないよ」

 俺は笑った。「ロマンチック小僧め」

「おまえもロマンチックになっていいんだよ」

「ロマン……チック……」

「なんだその、ロボットがはじめて感情を知るみたいな」彼は笑って、「ロマンチックガーデンなんて名前のマンションに住んでやがったくせに」

「あはは」

「あの名前見たとき、正解だったかもって思った。会いにきて」

「緑にはぜったい響く名前だよねえ」

「あの部屋に住みながら、おれを待ってたんでしょ」

「そういうことになるね」

 唇をかみしめ、頬をきゅっとあげ、人ってこんなにうれしそうな顔になれるのかという表情でミスターロマンチックはつぶやく。

「この人、おれをすきなんだって……」

「フフ」

「はあ、この人がおれをすき」

「…………」

 俺は片手をふとんから出してピースサインをした。彼は俺の指先をつかんで、「きゃっ楯、ピースしたの? 可愛い! このピースなに?」

「ははは、なんだろう。なんだこれは」

「さいきん楯は自分でもどうしてかわからんことをしちゃうみたいだ」

「みどやだってそうだと思うけど」

「みどやってじいやみたいなもんか」

「そうかもしれない」

 みど、みど君、みどりん、ペンギン(おしゃれな、手羽先の器用な、貯金のできる、エトセトラ……)、相棒に逸材、くちばしっ子に蜜蜂っ子、ランドセルボーイに全裸男――定番の呼び名のおおさもさることながら、彼にかんしてはそのときかぎりの呼び名がいくらでも浮かぶのだった。それらは浮かんだと思うまもなくそう呼んでしまっていることもあるし、口に出されることなく忘れられていくこともある。彼の印象はこの胸の中で咲いては散り咲いては散り、つねにはじめて目にする魅力にあふれている。

「そうだ緑、野湯(のゆ)に行こう」

「野湯?」

「いまから」

「いま? えッ行く」

「散歩がてらに」

 彼はすいっとモニターを宙にあらわし、「ここから鹿遊(しかゆ)の湯まで六.一キロ。歩いて一時間半、走れば」

「走らない」

「さえぎった」と、彼は笑う。

 俺を介護しながらきかとら温泉に通っていたとき、温泉の常連たちからこのあたりの野湯のことを聞かされて、緑の中ではあこがれが募っていた。野湯デートはとうぜん彼の「恋人としたいことリスト」入りしている。

 お気に入りのやかんで水筒に入れる白湯を沸かしているあいだに、彼は居間で、山歩き用のグローブやら、帽子にとめる虫よけクリップやキャンディーやら、こまごましたものをリュックに詰めている。散歩のつもりがちょっとしたハイキングみたいになってきた。道路から野湯の湧く清流へと降りるとき、やぶにおおわれた斜面や岩場を歩くことになるので、トレッキングシューズを履いて出発した。

 玄関を出ると、馬と呼んでいる草色のジープには夜露が降りて、ひんやりとした金属の棺めいていた。「出かけるよ」と声をかけると、いってらっしゃいというように馬はヘッドライトを一瞬灯してみせた。

 家の周囲は朝もやがたなびき、きかとら温泉方面へ向かう道では、胸が苦しいくらいに愛らしく小鳥たちが鳴いていた。お気に入りの木にとまって思いのままに歌えることがうれしくてならないよろこびの声。複雑で先を予測しがたいフレーズを長く歌えるのもいれば、練習中のようなのも聞こえた。それらは聴いていて無条件に楽しいのと同時に、この美しい世界を歩かせてもらえることに自分もなにかをお返ししたいという焦がれる気持ちと、あらわれては失われつづける美に悲しいような愛しさがこみあげ、胸の中はさまざまな気持ちが乱れてどうしたらよいかわからなくなるのだった。

「――わっ泣いてる?」緑はこちらを二度見て、あわてた顔になる。「ど、どうした?」

 訊かれたそばから涙がひと粒ぽろっと落ちる。「ほんとだ」

「なに、なんなの」

「鳥の声がきれいすぎる」

「とりのこえがきれい?」

「うん」

「……楯はなんだか、なんというか……心だけの人になっちゃったみたいだなほんとに」

「心だけの人?」

 そのいいかたがおかしくて、彼に渡されたティッシュで笑いながら涙を拭き、鼻をかんで丸めると、よこせといわれて回収された。

「泣いてても気にしなくていいよ」

「気になるしびっくりするって」

「うれし泣きみたいなもんだから」

 はあ、と、どう返事してよいかわからぬ風情で彼はため息をついた。

「楯が幸せならいいんだけど……」

「これ以上の幸せなんて想像できないよ緑」

 水筒の白湯をひとくちずつ飲んでまた歩きだす。

 道の左右の森から、おたがいを呼ぶように鳴き交わす鳥の声が聞こえた。まず右の森から特徴あるフレーズが聞こえて、ひと呼吸おいて、左の森からその変奏が返される。はじめはそれが返事だと気づかなかったけど、何度もくり返されたのでこれは会話だとわかったのだった。

「楯!」と、緑がするどくささやいて肩をつかんできた。

「呼びあっているね」と、俺。

「すごい、鳥ってこんなふうに鳴くのかよ」

 彼の目は上空の見えないラリーを追って、声は感激にうちふるえている。

 毛づくろいしあっている二匹の動物とか、ファンシーグッズの双子のキャラクターとか、とにかく「仲よしふたつ組」のものを見ると、緑は自分と俺のすがたを重ねてたまらない気持ちになるらしい。仲よしバード・ペアの愛情表現を新たに知って、いま、彼の脳内にはよろこび物質が滝のように流れているだろう。

「楯、楯、なにもかもが愛しあってる! やっぱりそうなんだよ! すべてのものに感情があって……惹きあって、求めあって。もうおれはうれしすぎて死にてえ」

「ハハハ」

 興奮してアー、アーと声を漏らす緑の手を引いて歩くと、だれもいないものだと思って彼はさらに大きな声でアーアーとわめいた。彼の心が解放されていくのがこちらにも伝わってくる。ただ、鳥はおどろくのかすこしのあいだ鳴きやんでしまった。

 ごくごくたまに、町から温泉方面に向かう車に追い越される。歩行者はゼロ。緑がごみ袋をもってきていて、空き缶や食べものの包装など、落ちているごみが目についたら拾いながら歩く。

 気がつくと、自分はどんなときに泣くだろうという話をしていた。彼は、いまもそうだけど、よく泣く子どもだったという。

「怒り泣き、くやし泣き、自分かわいそう泣き、感情移入泣き、感動して泣くこともおおいし、この仕事始めてからは同情や義憤で泣くってのもある。人前じゃこらえるけど、ひとりのときはまあよく泣いた」

「緑は泣き虫だって、俺はかなりはやい段階でわかったけど」

「ばかたれ……」彼は低くつぶやき、ひじでわきを小突いてくる。

「俺あんまり泣かない子どもだった気がする。いまのほうがよっぽど涙が出やすい」

「泣かない子どもだったって、なんかわかる」

「ぼんやりしてるって通知表に毎年書かれてたから、鈍感だったんだろうなー」

「教師が観察力ねえんじゃねえの」

「ほんとにボーっとしてたんだと思うよ。だいたい幸福だったし、現実でなにかあってもステーション行けばすっきりするし」

「ステーションずるい」彼は笑って、ふっと真顔になる。「そういえば、いろんな理由が噴出した涙っていうのがあった」

「噴出?」

「未来東京で――仕事の移動中に父親から電話がきて、再婚した人とのあいだに子どもが生まれたって知らされたとき、頭が真っ白になって、気づいたら目的地と反対方向の電車乗ってて、あわてて降りたホームで歩きながらぼろぼろ涙が出た。あれは感情の飽和状態だったな」

「そんなことがあったのか。いつごろ?」

「おまえが失踪するまえの春か」

「気づいてやれなかった」

「感傷にひたる時間もなかったし……」

 彼は考えている顔つきで歩く。俺もだまってとなりを歩く。狭い橋を渡り、発電所をすぎた。

「おれと両親だけの世界はほんとに終ったんだなって、その電話でやっとわかった。おれどうやら、両親それぞれ再婚してるってのにいつかうちの三人家族は復活するんじゃないかって心のどこかで思ってたらしい。ようやくその可能性が断たれて、これからは前だけ見られるっていう肚が決まる感覚と、自分の知らないところで他人の物語がすすんでることのふしぎさと、取りのこされた気持ち、人がくっついたり離れたりっていう流れは無軌道で、この世界っておれが思ってるよりずっとずっとめちゃくちゃなのかもしれないって、とほうにくれる感じと」

 彼はつづける。

「おれ自分のこと、結婚がまちがいだったと感じてる夫婦のあいだに事故みたいに生まれてしまった人間だってずっと感じてたけど、父親と新しい奥さんのあいだに生まれた子は、そうじゃないってのが話から伝わってきたんだよ。人が生まれるのはどんな場合でもよろこばしいことだって思う……思いたいけど……」

「緑」俺は彼の背中に手を添えて歩く。

「あ、父親には『おめでとう』っていえたよ。お祝いも贈った」

 といって、彼は吸いがらを拾ってごみ袋に入れる。

「いま、孫みたいな齢の子どもの面倒みてんのかなあの人。想像できん」

 六時をすぎて朝もやは晴れてきつつあった。

 道ばたのやぶに草が踏みわけられた場所を見つけ、なんとなくそんな気がして俺はいう。

「みどファイヤー、ここらじゃないか」

「はいよ」

 緑が地図を起こし、ここが鹿遊の湯への入口だと確認する。

 道路わきのひっそりとした小径はマジックミラーのように、その奥の世界に気づく人を歓迎して輝いていた。むき出した土にのこる足跡が音符のように森の奥へとつづいている。トレッキンググローブをつけ、帽子に虫よけクリップをとめ、笹や木の枝を払いはらいしてペンギン隊長が先に、俺が後になって歩く。葉の厚く重なりあう森は時間がもどったと錯覚しそうに暗い。

 水の流れる音がして、木々の切れまに川が見えた。鹿湯の湯と思われる小さないで湯と脱衣場らしきものもあった。石に当たる水がくだけて八月の朝日にぴかぴかしている。緑の足がすこし速まって、「だれもいなさそう」という声がうきうきと弾んだ。六、七、八月の三か月間しか入れないという鹿遊の湯は、午前中から愛好家の来訪がとぎれない人気だと聞いていたのに。

 細い道は川べりにいたり、野湯を管理している有志の人たちが建てた、棚のならんだ壁が一枚と屋根があるばかりの、小屋とも呼べない脱衣場にたどりつく。壁を向いて着替えれば尻はまる見えのおおらかさで、もちろん男女別になどなっていない。

「お願い」と称する看板があって、野生動物が出没するとか、シャンプー・石けんを使ってはいけないなどという利用の注意書きと、湯船のメンテナンス費用のカンパを募る文面があった。緑はワルクマンヒューマンからさっそく、ふたりぶんの入浴料だといって「鹿遊の湯保存会」に寄付をした。

「貸切だ。空いてるとは思ったけど」と、彼はいい、リュックからタオルを出す。

 俺はきゅうにそうしたくなって、彼のシャツのボタンに手をかけた。緑はびくっとしてこちらを見る。

「えっ、え、脱がせてくれるの」

「うん」

 両腕をだらりとさせ、彼は俺にされるまま、「どきどきするよ」と、うれしさと困惑の入りまじった表情でいった。それがあまりに可憐だったので、つづけてズボンも脱がせる。素直に片方ずつもちあげる足。ちんちんをすらりと上向かせながらも服をたたんで棚に収める彼はなんてプリティーなのだろう、と、横で目を細める俺だった。

 川のほとりの、大人ふたりも寝そべればいっぱいという浅いくぼみに透明な湯が湧いている。そのすこし先に、緑がかった銀色をしているといううわさの、遠目には淡いめのう色に見える湯がある。そこは定員五名といったところ。

 流れの中ほどの大きな石のうえで、からすが一羽、死んだ小動物か果実かわからないけど、なにかをつついてゆうゆうと朝餉の膳についていた。周囲には白波。雄大な食事風景に見とれながら岩場をふらふら歩いていると、先を歩いていた緑がふりむいて俺が追いつくのを待つ。だれもいやしないのに彼はタオルで前を隠していて、全開で歩く俺に向かって、指のすきまからちらちらと見てよこすそぶりをした。ふたりで笑いあう。

 見わたすかぎりの視界の中に、人工物は彼の顔の眼鏡と手にさげたタオルだけで、それは周囲からいくぶん浮いたものに見えた。それも含めて、なにもかもが愛おしい光景だった。

 彼は手前の寝湯の前にしゃがんで湯に触れ、ちょっと熱いといった。川の水を汲み入れて自分で温度を調節して入るものらしい。めのう色の湯に近づく。円形に掘った穴を石でかこんだ、手作りの湯船のまわりには湯があふれている。水面に顔が映るところまで来ると湯のにおいが濃くたちこめた。

「硫黄のような、土のような、海のにおいのような……」

 ぶつぶついいながら彼は湯に片手を浸し、おそるおそる足を入れる。座ると首までしっかりつかれる深さ。湯は熱くも冷たくもなく、全身の触感だけが空気中から水中に移行したふしぎな感覚だった。彼がいうには「不感温度帯」という人体がいちばんリラックスする水温だそうで、ここは三十五度くらいだろうとのこと。

「ついに来た」と、緑。

「来たね」と、俺。

 湯の中でいちど手をつなぎ、離した。

 晴れた空を、雲がゆっくり動いている。石に頭をあずけてせせらぎを聴いていると、まるでこの身がとめどなく流されているよう。足の裏には砂や小石や葉っぱとおぼしき堆積物が触れて、ノイズのようなそれらの感触を味わう。雲を眺め、体のまわりをめぐる流れを感じながら、足の指で砂をにぎったり離したりして遊ぶ。顔のすぐ前をよぎる虫の羽音。周囲に意識が溶けだすようで、このときの俺は、すぐそばに緑がいることも忘れていたかもしれない。

 手首がつかまれる感触にふりむくと、となりで石に頭をもたれている彼がこちらを見ていた。

「やべえもん溶けてねえかこの湯」

「え?」

「成分が……」

 俺は体を起こし、「気分わるくなった?」

「体がきゅうに、なんていうか、ほどけた、ほどけすぎた感じになって」

 ろれつが回らないというほどじゃないにしろ、彼はしゃべるのが大儀そうに見える。

「なんこれ。力入らん。楯は?」

「なんともない」

「千手観音に、マッサージ、された感じ」

 彼は力なく笑って、ゆっくりと、長く、深いところから浮上したようなため息をついた。

「眠い。まわりぜんぶ遠い。はあ。川の音も聞こえんくなって」

 俺の手をつかむ手に力を入れようとするも、うまくいかないみたいだった。

「もうあがろうか? 緑」

「ああ、おれ」半眼になりながら彼はいう。「やっぱり、いやだったのかも。怒ってたし、虚しかったし、うらぎられたって……」

 おだやかな水面にいちどパシャンと波が立ったのは、彼が反対側の手を――こぶしをふりあげて、叩きつけるようなしぐさをしたんだろう。

「いまさら、妹がいるなんて、いわれても」

 俺も石に頭をならべて空を見る。

「ああ……」彼は石のうえでごろごろと首を振り、「なんだこの、頭、うしろ引っぱられる」

「眠かったら寝ていいよ」

「…………」

「手をにぎっててやろう」

 その目にはさいごまで意識があがいているような光が揺れていたけど、ついに重たげなまぶたがとじた。よわよわと離れていった彼の手を俺はつかみなおす。

 正義や公平さを求める気持ちがとても強かった緑、彼は家庭では、両親のいさかいの裁判官役だったといっていた。母親は利発な息子が彼女をかばう審判をくだすことをよろこんで、幼い彼に大人を裁くまねをずっとさせてきた。怒りと寂しさの想い出ばかりだという、子ども時代の彼を見たことはないけど、ともに暮らしていればその片鱗はいくらでもうかがうことができた。

 たとえば――彼がいらいらしたり腹を立てたりというときの表情や声音には、ひじょうに年季の入ったものがあった。ふだんから眉間には縦じわが寄っているし、ペンギンだなんてあだ名がついたのも、不満や怒りの内容をまくし立てるときにとがらせる口もとが、いかにも硬そうでくちばしっぽいからなのだった。この人いつもこういう険のある表情、しゃべりかたをしているのかなと、俺も彼のことを思っていた。十年もむかしは。

 うっすらと汗がにじんでいた。前髪が額にはりついてかゆく、わしゃわしゃっと両手でかきあげたとき、つぶやき声がした。

「手えにぎってるっていったのに……」

 湯あたりペンギンは身じろぎし、背筋を伸ばしてあくびをする。

「大丈夫、おまえが沈んだら水を飲むまえには助けられる距離」

「頼りねえなあ」

 彼の表情は明るいものの、まばたきせずにじっと空を見あげるその顔は、汗ともちがう感じで濡れていた。

「しょっぱいお湯に入っても体は腫れないのに、涙だと顔が腫れるのはなぜだ」

 緑はのろのろと片手をあげ、目もとをぬぐった。

「よくわからん涙が出る」

 俺は彼に近づいて、その目に湧きたての水をなめた。

「ひゃ、なめた。うれしいな」緑はにやけながら泣いて、「夢見てた、いま。覚えてないけど」

「うん」

「そうか、おれはおれで幸せでいていいんだって、思いながら目が覚めた。こんどこそだれにも気がねなく。いま会ってない人たち皆、それぞれ、幸せになる力があるって信じていいんだって」

「うん」

「それはおれの両親や新しい家族の人たちにかぎらなくて、おれがいままで出会ってきた、後味のよくない別れかたをした人たちや、仕事で、力不足で助けてあげられなかった人たちも。自分自身を幸せにする力があるんだよ。心配いらない」

 俺はうなずく。ほんの数分の眠りでも、彼は深い夢を見たんだろう。

「お誕生おめでとう緑」

「え?」

「まるでいまのうたた寝で、生まれなおしたみたいじゃないか」

 彼はきょとんとして目をしばたたかせる。そしてじわじわと、納得した顔つきになる。

「なるほど……ほんとそんな感じだ」

「人は生まれたら泣くんだね、わけもわからずに。ようこそ緑、これからもよろしく」

「よろしく」

 そうかおれ生まれたのか、いままた生まれたのか、と、緑は感じ入ったように何度もつぶやく。

「すげえ。ふしぎなんだけど。おれいま、いつか会ってもいいかなとさえ思ってるよ、あの人の新しい家族に」

「おお!」

「この世って、最高のことから最低のことまで、あらゆることが起こりうるめちゃくちゃな場所だ」

「うん」

「何十億って人間が毎日、自分の想いや願いと、なんでもありな現実のギャップに傷つくことをくりかえしてる」

「うん」

「おれきっと、あの人たちがおれを選ばなかったことを心の片すみで後悔しつづけて、ちょっと不幸でいてほしいと願ってたんだと思う。だから父親の幸福な現実をつきつけられてショックだった。なんだよあんた、家族を愛せるんじゃねえかって」

「ああ」

 彼は噛みしめるようにいう。「不幸でいてなんて、叶わなくてよかった」

 俺はうなずく。「そうだね」

「ぜんぶの人間を、すべてを乗せて、どんな最高で最低な想いも願いもできごとも飲みこんで、世界はごんごんと、ブルドーザーみたいにすすんでいくだけなんだよ。ここってそういう場所だ。おれたちがいるのはそういう場所なんだ」

「うん」

「二十六年生きてきて、やっと目があいた気がする」

「おめでとう」

「なんか世界がよく見えるぞ。心なしか視力もあがってる気が」彼は枕がわりにしていた石においていた眼鏡をひろってかけ、「そりゃねえか」

「ハハ」

「なあこれ、頭ははっきりしたけど体は弛緩しきってる。歩いて帰れる自信ねえ」

「背負ってやろう」

 彼はふふんと笑って、「八時になれば温泉から町ゆきのバスがあるはず」

「脱衣場に時刻表あったかも」

 

 俺は生まれたてのひよこに手を貸して風呂をあがり、肩を組んで脱衣所まで歩いた。来たときは人目を気にしていた彼も、いまは、タオルをぶらぶらさせたまま。

 

 

 

 

 

 

 


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あとがき

 

バリエーションは愛!

気づけば『バージンパンケーキ国分寺』以来の、

登場人物のニックネームの数多い物語となっております、彼らのシリーズ。

 

今回は、例のごとく惰眠をむさぼっていたある日に、「そうだ、野湯に行きたいんだった」(スターが)と思い出し、

彼らの夢叶え小説のつもりで、ショートショートのつもりで書き始めたのですけど

緑が未来東京の家族について語りたいようだったので、流れにまかせて書いてみました。

妹が生まれていたんですね。

 

50歳近くなって若い女性と再婚し、子どもが生まれた芸能人のことを、先日、星氏と話していて。

その芸能人は若いころに結婚していた妻とのあいだにも子どもがいて

「ふつうの(?)子どもと、孫みたいな子どもの両方がいるんだねえ、芸能界にはよくあることかもしれないけど

わが身に振りかえて想像するとすごすぎるな~」と平凡な感慨を抱いたのですけど

そのとき、ピカッと後頭部に光るものを感じまして。

 

あ、緑っていまこれなんだ、この前妻の子の立場なんだ、と、ひらめいたというか、知ったというか。

そうかいつか緑と半分血のつながった人のことを書くのかもしれないなと思ってたら

今回、彼が語りだしたのでした。

 

 

お読みいただけてうれしいです! 皆さまに愛を。

 

2016年5月16日 とても風の強い夕方に 

雪舟えま

 

 


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奥付

人は生まれたら泣くんだね、わけもわからずに

  

著者    雪舟えま emma YUKIFUNE

http://yukifuneemma.com/

装画    雪舟えま 「フォーミュラ一発」 紙、ボールペン

発行日  2016年5月17日

発行所  たとる出版 電子書籍部

http://shop.tatorubooks.com/

 

 

 定価  100炎 


  

電子書籍プラットフォーム : ブクログのパブー(http://p.booklog.jp/)

運営会社:株式会社ブクログ


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販売価格100円(税込)

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