閉じる


<<最初から読む

10 / 27ページ

 川面がからりと晴れた空から注ぐ朝日を浴てまぶしい。その川を横切って、一艘の船が対岸の船着き場に着いた。
「ごめんなさい」
 ノユリは荷を担ぐヨゼフに詫び、ヨゼフは笑顔で気にするなと告げた。薬草を入れた大きな麻袋を担いで、村の南にある施薬院に税として納めに行く。今日はヨゼフがその税をノユリに替わって担いでいる。アダムたちはノユリに案内されながら、南の方角を探索するつもりなのである。
 ノユリの村から川を渡った船着き場から、草むらの中に続く細道を南に抜けると、街道に合流する。街道の西に延びるその端は、アダムたちがこの世界にやってきた日に眺めた何かの倉庫群や役所らしき建物がある。ノユリはそれを租税の穀物を収める倉と役所だと語った。街道のもう一端はまっすぐに南に延びていた。役所に向かう街道に、小規模な市が見えたものの、アダムたちが歩む南の方向に人気は絶えた。やや歩くと北東に延びる分岐があり、ノユリは興味なさげに、その先には砦があるだけだと言った。その無関心な様子で、この世界で生活する人々が、軍隊とは無関係に生きる人々だと分かった。
 雑木林の中を縫って進み、たまに雑木林の切れ目があると、その隙間から西に海が見えるという光景である。
 平坦な道を一時間ばかりあるいて、その景色の単調さに飽きた頃、昨日、ヘレンたちの語ったとおり、賑やかで街道を行き交う人々の姿もちらほら見かけるようになってきた。さすがに、外見の違う異邦人は注目を浴びたが、先導するノユリの笑顔や、安心しきってアダムたちに寄り添うワクウの姿を見ただけで、彼らは警戒を解いたように見えた。
「ずいぶん温厚で寛容的な人たちなのね」
 チェルニーの好意的な評価をアダムが冷静に修正した。
「あるいは、生活が苦しくて、僕らにかまっている余裕がないかのどちらかだね」
「ずいぶん厳しい評価だね」
 ヨゼフがアダムの言葉を批判じみた口調で評した。行き交う人々が漂わせる善良さを素直に受け入れれば、温厚な性格だと考えても良い。ただ、アダムは人々から重い荷を背負うような一途な気むずかしさを感じ取ったのである。この国を満たす豊かな自然が切り開かれて、文明を誇示するように、彼らの目の前に塔がそびえていた。タイ生まれのチェルニーは、仏教建築にもやや知識があった。
「仏教建築のようにも見えるわね。あの塔は寺院のシンボル。だとしたら、塔の周囲に仏像を祀るお堂があるの。でも、私たちが見るお寺とは少し雰囲気が違うわね」
「寺院だとしても、この世界の人々とは符合しないようだね。ノユリさんは仏教徒では無さそうだ」
 ノユリの村に迎えられた日の祭りの様子を思い出せば、民俗学に興味のないヨゼフにも結論が見いだせた。
「神々を持たないか、すべてに神が宿っていると考えているのかどちらだろう」
 手にしたパズルの一片が左右は当てはまりそうだが、上下の凹凸は一片の角度を変えても当てはまらない。彼らが既に目撃した、桜の樹に豊穣の願いを託して祭りをするというのは、神への祈りでも、仏教の教えというわけでも無さそうなのである。
「いろいろな宗教があるのか、特別な教義のない原始的なアニミズムの社会に、新たに仏教が入ってきているという感じかな」
 道は他の道と合流して幅を増す。同時に行き交う人々も増えていた。アダムたちはいつの間まやら人々の喧噪の中にいた。喧噪に何かの商品の売り声が混じってくると、道の両脇には四方に人の背丈より少し高い柱を立てて屋根だけ拭いた露店が並んでいた。

 昨日ヨゼフがファンタジーと称した光景である。露店は地面に直接に筵を敷いて、様々な商品を並べている。店の並びは雑多で、鋤や鍬を並べる店の横に、布や衣服を売る店があり、その向かいには野菜を売る店や、素焼きの皿や壺を並べる店があり、景気の良い売り声で道行く人々を誘い、人々は軽い好奇心で店を覗いて、売り子をからかったりしていた。雑踏の中、天秤棒を担いだ男が人々にぶつかりもせず器用にバランスを取って魚を運んでいた。
 さすがに、肌の色や顔立ちが異なるアダムたちは、人々の好奇心を刺激したらしく視線を集めたが、その好奇心に敵意は混じってはいない。見慣れぬ姿の人々より日々の仕事の方が大事らしく、商売をおろそかにしてアダムたちに関わろうとする人は居なかった。
「ここに居れば居るほど、何もかも分からなくなるね」
 ヨゼフの言葉にチェルニーが頷いた。肌に感じるのは温帯地域の気温だが、彼らの世界のどこを思い浮かべても、目の前の人々の生活に該当する文化はなかった。彼らが生まれ育った世界との接点は見つからず、彼らが帰る手がかりもない。ワクウの村で感じた清楚な貧しさと、この市で感じる人や物流の社会の活気、状況が混沌としていて整理されない未成熟な社会。
 アダムたちが目にしていた塔の屋根が、幾重にも重なり合って層になっていた。その周囲を塀が囲んでいるのだが、塀の上に覗き見える塔や、周囲の建築物の壮大さ、塀に沿ってその外周を歩く距離の長さで、この建築物を含む施設全体の大きさが知れた。この建築物の巨大さは、強欲な権力者のイメージを持っていたこの時のアダムたちに、民を虐げる王の宮殿のようにも思われた。ただ、そのイメージは間もなく、様々な人々との出会いで跡形もなく払拭されることになった。仏教寺院を中心にした様々な施設の集合体である。
 やがて、白木造りの小屋が三棟、並んでいるのが見えると、ノユリはアダムたちを振り返って、黙ったまま笑顔で目的地だと伝えた。小屋を囲む質素な塀の門をくぐると、一人の女が姿を見せた。
「あらっ、ノユリとワクウ。待っていたわよ」
 女は気さくな笑顔でノユリ親子を迎えたが、アダムたちに気づいて、見慣れぬ風体に驚いたように首を傾げた。ノユリが笑顔で紹介した。
「先日から村に逗留している方々です。アダムさん、チェルニーさん、ヘレンさん、ヨゼフさん」
「初めまして、ヨゼフです」
 ヨゼフは自分が差し出した握手の手の意味を、相手が解しかねているのに気づいて、手を引っ込め、ぺこりと頭を下げてお辞儀に変えた。この世界では、握手を交わすという習慣は無さそうだった。女も丁寧にお辞儀を返して名乗った。
「初めてお目にかかります。ヲグツと申します」
 礼をする仕草だけではなく、言葉の柔らかさからも気品が伝わってきて、彼女の育ちの良さを感じさせた。アダムたちも自ら名乗ってお辞儀をした。さすがに、じろじろと観察するのは避けたが、さりげなくヲグツを窺ってみると、この小屋で他の女たちにてきぱきと指示を出す様子から、この施設の責任者かもしれない。アダムはこの女性が、権力者の館で使用人を束ねる女中頭のようなものかと考えた。頭の中から民を虐げる権力者の像が離れないのである。
「何の施設だろう?」
「雰囲気から見れば病院だけど」
 入り口から建屋の中をかいま見たチェルニーがそう呟いた。敷物に横たえられた多数の人々と、その傍らでかいがいしく世話をする人々を見ていると、患者と看護婦や医師をの関係が読み取れる。第一、ノユリはこの施設に薬草を届けたのである。この施設に漂う香りは薬草を煎じている匂いだろう。この施設を病院だと認めざるを得ない。にもかかわらずチェルニーが首を傾げるのは、彼女が病院に抱くイメージと比べて、信じられないほど原始的な雰囲気が漂うせいである。
(ここはガラスの注射器すら見かけない)
 彼女は原始的だと口に出すのは控えたが心の中でそう呟いた。ノユリがヲグツに言った。
「この方たちがこの辺りのことを見て回りたいと」
「どうぞご自由に。どこでも見て回っていてかまいませんよ」
 ヲグツは意外なほど気さくに応じた。ただ少し首を傾げて考えて付け加えた。
「でも、日がお悪い」
「なにかご都合が?」
 チェルニーの問いにヲグツが笑顔で答えた。
「明後日なら、ミコがお見えになると言うのに」
「ミコ?」
 アダムは新たに聞いた名を手帳に書き留めた。
「お会いになれば、ミコがお喜びになりましょうに」
「あのお方も、珍しい方に会うのがお好きですから」
 ノユリは楽しげにヲグツに相づちを打ったあと、軽く会釈を残して、アダムたちを導くように歩き始めた。寺院の建物を別にすれば、低い塀で囲まれているだけだが、アダムたちは広大な敷地の中というというイメージを抱いた。この辺りの人々に先ほどの市とは違った、役所っぽい堅苦しさと、宗教が持つ戒律臭さが漂っていた。
「あのスキンヘッドで白いマントの人たちは、仏教の僧侶なの?」
 アダムたちはヘレンの表現の面白さに笑った。彼女たちの前方を、剃髪した男たちが一列に並んで横切ったのである。たしかに、剃髪し白い僧衣をまとった人々の姿はヘレンの表現のように見えなくはない。ただ、彼らが大阪で目にする黒い衣の僧ではなく、ここが大阪や日本だという意識が遠ざかった。しかし、質朴だが凜とした信念を感じさせる彼らの一途な瞳は、アダムにアッシジの修道士フランチェスコを思い起こさせた。世の東西、宗教、時代を問わず、信仰に生きる者に共通する要素を持っているのかも知れなかった。ノユリはアダムに、このセヤクインが寺院の管轄下にあると説明した。ただ、何処なのかと考える間も、その結論もなく、彼らの前には次々に見慣れない光景が出現する。

「なるほど、ヲグツさんがいたのは公立の病院で、南にあるのは仏教寺院」
「それから、ここは?」
「ヒデンインといいます」
 ノユリはこの施設の名を挙げた。チェルニーはその言葉に思い当たるような気がしながら思い出せない。アダムは周囲に群がる子どもたちを眺めた。やや距離をおいてはいるが、見慣れない異邦人に対して警戒心より好奇心の方が強いらしい。ヨゼフはふと思いついて、ポケットから五百円硬貨を取り出した。
「私はヨゼフです。遠い国からやって来ました」
 そんな自己紹介をしながら、周囲の子どもたちに、硬貨の大きさを見せ、指先で弾いてその堅い質感を伝えた。右の手の平に握り込んで左手を添えて、得体の知れない呪文を唱えてから指を伸ばすと、硬貨は見事にヨゼフの手の平から消えていた。なにもない手の平を見せられた子どもたちや女官は、驚きの声を挙げてヨゼフの笑顔に吊られて湧いた。
 ただし、アダムやヘレンの位置からは、ヨゼフが人差し指と中指に挟んだ硬貨が手の甲の側にはみ出して見えている。ただ、種を明かせば単純な手品は、ヨゼフが尊敬を集めるのに役立ったらしい。周囲の視線が素直に尊敬と畏怖の感情が感じ取れた。疑うことを知らない素直な人々である。
 子どもたちの表情を眺めていたヘレンは断じた。
「ここは学校か幼稚園、或いは、児童養護施設というところかしら。それにしても、ヨゼフ、あなたは子どもたちの人気者ね」
 もともと気さくな上に、あっさりと大人の意識を捨て去って子どものような純な意識になれる男である。身長に差がなければ他の子どもたちと区別がつくまいと思うほど、子どもたちにとけ込んで彼自身がはしゃいでいた。子どもたちの世話をする女官たちの視線が優しく好奇心に満ちていた。
「行くわよ。私たちの目的は手品を見せる事じゃなくて、情報収集なんだから」
 ヘレンがそうヨゼフを促した。アダムは子どもたちに別れの手を振った。
「怖いオバさんがいるから、また今度ね」
 ヘレンはそのヨゼフの頬を力強くつまんで、彼の次の言葉を封じて、子どもたちに笑顔で世界に通用する真理を語った。
「みんな、覚えておいて。言葉には気をつけるのよ。女にはお姉さんって呼んでおけば間違いがないわ」
 ヘレンに頬をつままれながら遠ざかるヨゼフに、子どもたちは名を呼んで別れを惜しんだ。
「よぜふぅ、また、来る?」
 この世界の人々にとけ込むというのは悪いことではないだろう。しかし、アダムは気になったことをヨゼフに教えた。
「手品を見せるのは気を付けた方が良い。彼らの宗教は寛容的らしいが、クリスチャンやユダヤ教徒からは、魔術師は危険人物として扱われて、殺されることもある」
 この社会の宗教は、人々の好奇心を素直に受け入れるようだが、アダムの言うとおり、自分たちの教義に逢わない物を、神に敵対する悪魔の仕業として排除する思想がある。時に、悪魔の手先と見なした者の命を奪うこともいとわないのである。
 アダムは目の前に広がってきた柵に囲まれた光景を見て、チェルニーに笑いかけた。
「草むらだなんて言うなよ」
「馬鹿にしないで。さっき病院があったから、あれは、きっと薬草園よ」
「なるほど、薬草を栽培してるんだ。ノユリさんはここで栽培しきれない薬草を摘んで病院に納めていると言うことか?」
「結局、ここは僕たちが住んでいた世界とは、完全に切り離された世界だと考えても良いんじゃないだろうか」
「では、どこなの」
「どこかのファンタジーの世界」
 思考を突き放した答えだが、ほかに選択肢は無さそうだった。
「それにしても、大らかな世界だね。僕らの姿形が違っているのに気にする様子もない」
「そうでもないらしいわ」
 ヘレンが笑って、視線をやった先に、戸口や窓からこちらを伺う人々の数が数え切れない。人々はどこからともなくやって来た珍しい客人に対して、好奇心は隠せていないのである。ヘレンがこの場で意外な話題を振った。
「ねぇ、貴方たち。大阪の街を歩いていたり、電車に乗っていたりするときに、日本人たちの視線を感じること無い?」
 ヘレンにそう問われてみると、確かに、アダムにもチェルニーにも、ヨゼフにも、心当たりがある。
「じろじろと見るわけじゃないんだけど、こっそりと観察する感じね」
「そうだね。敵意は感じないけど、動物園の中の珍しい動物になった気がする」
「それがどうしたんだい」
「この人たちの視線を浴びてると、日本人と同じ視線だなって思ったの」
 衣類や髪型など外見の違いを別にすれば、この人々の本質が、日本人と似ているというのである。現代の日本という繋がりで、チェルニーは気になる言葉がある。
「そう言えば、ヒデンインってどこかで聞いたことがあるんだけど」
 その回答は見いだせないまま彼女たちは帰途についた。

 市を通る道すがら、ヘレンは一軒の露店の前に立ち止まり、背に背負っていた包みを解いて剣を取り出した。彼女がこの世界に来た時に、兵士たちから手に入れた剣の一本である。行き交う人や、露天に商品を広げる人々は一様に驚きを見せた。今まで人々は平静を装っては居たが、さすがに風体の違うアダムたちは密かに注目を浴びていたのだろう。その一人がいきなり、この平和な市で武器を取り出したのである。この場の緊張が高まるのも当然といえた。
 ヘレンは剣を鞘に収めたまま露天商に差し出し、筵の上の穀物を指さした。
「これで、その食べ物をちょうだい」
 物々交換をして欲しいというのだろう。露天商は受け取った剣を抜いて本物だと確認し、その価値に驚き慌てて、筵の上に盛り上げていた米の山を包み、麦を包み、ありったけの粟を包んで言った。
「これだけしかない」
 ヘレンにはこの世界の商品価値は理解できないが、どうやら剣の価値に見合うだけの商品はないということだろう。ヘレンはその商売の正直さを笑って受け入れた。最初の日に兵士たちから奪った剣の一振りが食料に変わったのである。彼女は腰の剣に手を当てた。下級兵士の粗末な剣がこの穀物に変わるなら、あのケハヤと呼ばれた指揮官の剣はどれほど価値があるだろう。手にいれた荷は分散して担いだが、アダムたちの背にずしりと重い。
「あんな大事なものを手放してしまって良いのですか」
 ノユリが心配そうに言った。
「かまわないわ。まだ余分にあるし、欲しければまた手に入れるだけよ」
「ヘレン」
 チェルニーがヘレンの名を呼んで叱った。必要ならというのは、兵士から奪うというニュアンスだ。これ以上、もめ事を増やすなと言いたいのである。ここでも、彼らは人々の好奇心に包まれている。遠巻きに彼らを眺める人々が、ひそひそと話を交わしていた。
「アレが噂のマレビトか?」
「今度は、海ではなくて、霧の中からやって来たそうな」
「ほんに、不思議な話じゃわ」
 そんな囁きの中で、アダムたちは大声で自分たちの出自を説明する気にもなれず、ただ黙って通り過ぎた。
「聞いた?」
 ヘレンが短く尋ね、アダムが市の人々のうわさ話を答えた。
「僕らより前に、海からやって来たマレビトが居るんだ」
 ただ、それ以外の情報はなく、話題は途絶えた。無言で歩き続ける仲間の周りをワクウは笑顔で駆け回り続けていた。

「ちょっと、こちらにも」
 チェルニーが指さす先に雑木林の切れ目から背の高い葦が密に茂る原が見え、その向こうに傾きかけた日に照らされた波が、雑木林で切り取られた額縁の中に見えていた。額縁からはみ出すような広大な水面は彼女たちに海を連想させた。チェルニーは西の海の他に、東にも海が広がっていたと称したのである。アダムはその意見に反対せず、この辺りが海に長く突き出した岬のような所かと考えた。彼らは来た道を逆に辿って村の南岸の船着き場についた頃には、陽は傾いて長い影が出来ていた。ヨゼフやアダムが背負う袋はずしりと重かったが、疲労感より食糧の確保が出来た安心感が大きかった。
 村の手前で、ノユリがやおら西の夕日を眺めてぺこりとお辞儀をし、ワクウも母親の仕草をまねた。アダムたちにとって不思議にも見える仕草に、ワクウは行為の理由を説明した。
「毎日、ご先祖様に『今日一日、無事に過ごせました』って、心の中でお礼を言うねんで」
 アダムはその純朴な信仰に微笑んだ。神や仏ではなく、自分に命を繋いでくれた人々に感謝する人々なのである。村の西に村人たちの祖先を葬ってきた墓地でもあるのだろう。
「ノユリさんの旦那さんも、そこに?」
 傍らで息子の頭を撫で、自らもぺこりと頭を下げたノユリにアダムはそう尋ねた。ノユリの返事はなく、アダムの質問が理解できない混乱する感情のみが伝わってきた。アダムは慌てて質問を打ち消した。
「変な質問をしてごめんなさい。ちょっと勘違いをしていました」
 ノユリは微笑んでその訂正を受け入れ、アダムは姿を見せないノユリの夫について、心の中に疑問を吐いた。
(ノユリさんの夫は、亡くなっているわけじゃないのか?)
 そんなアダムたちを残して、ワクウは自宅に戻った嬉しさに村に向かって駆けだした。ただ直ぐにその足を止めたために、アダムたちはワクウに追いついた。ノユリは我が子の気持ちを察して、その意識を反らすように名を呼んだ。
「ワクウ」
 母の呼びかけに振り返ったワクウは、無表情だったが涙をこぼしてはいなかった。ワクウの向こうに野良仕事を終えて帰ってきた男の姿があり、その男に寄り添う子どもの姿があった。アダムはその父と子の姿をワクウと重ねてみた。この子は村の中で自分だけ父親のいない寂しさを、心に秘めているのである。

 日が落ちる前に、アダムたちは村に戻ってきた、宿舎に帰る前に一つの用件があった。彼らは荷を担いだまま村長の家を訪問した。
「この村で世話になるお礼です。村の人たちで分けてください」
 ヘレンは持ち帰ってきた穀物の袋を村長の前にどさりと置いた。アダムたち他の仲間にも異存はない、彼らも次々と担いできた荷を置いた。
「これはこれは、村の者どもも喜びましょう」
「一つ教えて欲しいことがあります」
 突然に話を切り出したヘレンに村長は首を傾げた。
「なにか?」
「あなたたちが、私たちと会ったときに、あまり驚かなかった。それはどうして?」
「祭りの日に、不可思議な方々がやってくるという言い伝えがあります。それが本当でした」
「南の市で、『今度は海ではなく、霧の中からやって来た』と聞きました」
「それが?」
「海からやってきたマレビトをご存じでは?」
「十三年前、何艘かに分乗してやって来た異人たちの船の二艘が、春の嵐の中で難破して村の西の浜に流れ着きました。私どもはそれを助けてこの村に招きました。他の船はナヌワの港にたどり着いたとの事です」
「やはり、海からやって来た人たちが居るのね」
 チェルニーの言葉に頷くように村長は話を続けた。
「やがて、無事に到着した方々も、この村で動けない仲間の世話のために村にやってきて住まわれました。この村で私たちと一緒に過ごしていたのですが」
 口ごもる村長に、ヨゼフが素直な疑問を投げた。
「その人たちは、いま、どこにいるんですか?」
 何故かその言葉に、傍らのノユリが顔を伏せた。村長は言葉を選びつつ短く言った。
「よく存じません。湖の向こう側、東の方に移ったたとか」
「その居住地はどこにあるの」
「いいえ、行かないのが賢明です」
 もう、これ以上答えるべき事はないという断定的な口調だった。村長は話題を変えた。
「そうそう、盗賊のような風体の不審者が彷徨いているとか。村でも注意をするようにと、おふれがありました」
 仲間の視線が一斉にヘレンに注がれた。彼女は兵士を襲って武器を奪った実績がある。
「何よ」
 疑いを向けられたヘレンの怒りの目に、村長は笑って言った。
「いやいや、女性ではありません。体格からみて屈強な男だろうと。兵士たちが不審者を捜して警戒しておりますよ」
 笑いにも関わらず、何故か村長にもノユリにも重い雰囲気が漂っていて、東の湖の対岸に居住地を移したマレビトについて尋ねる雰囲気ではなかった。アダムたちは村長の小屋を立ち去るしかなかった。
「ワクウ」
 ノユリが息子をたしなめる口調の声が響いた。アダムたち客人の邪魔になると言うのである。ふと気づいてみると、ワクウが小屋を立ち去るアダムたちの傍らにいる。幼児の笑顔の中に、甘えたりおねだりする雰囲気があり、遊んで欲しいのだと分かった。チェルニーが優しくワクウの髪を撫でた。他に遊ぶ大勢の子どもたちが居るのにアダムに寄り添うというのは、心の中に父親の存在を求めているのではないかと不憫に思ったからである。アダムは笑顔でワクウを引き寄せてノユリに手を振ってみせ、問題はないと伝えた。
 事実、ワクウはアダムたちにとって目障りではなかった。心許せる仲間同士、この世界で集めた情報交換の場の中でヨゼフに抱っこされたりチェルニーの傍らに座って機嫌良く理解できない話に興味深げに耳を傾けていた。自分もこの仲間に入っていることに心地よさを感じているのかと思うと、気まぐれに部屋の隅に移動して一人遊びに興じていた。その無邪気さは、心の混乱が収まらないアダムたちを癒していた。ワクウは一人遊びに興じながらも、アダムたちを窺う様子があり、一緒に遊んで欲しいという意識がかいま見える。
 ヘレンは立ち上がって、そんなワクウに手招きをした。ワクウが誘いに応じて接近して来たのを、ヘレンは右手を差し出して制して、軽く足払いをかけて倒れ込むワクウをそっと支えながら床に押しつけた。ワクウはヘレンの人差し指の先で押さえられているだけなのに身動きができない。その不思議さにこの幼児は首を傾げた。ヘレンは指を離して幼児を自由にし、上に向けた手の平の先で指を曲げてワクウを誘った。そのヘレンの笑顔で、ワクウは彼女の意図を察して挑みかかった。もちろん、ワクウがヘレンにかなうはずがない。ワクウはヘレンの右足にしがみついたり、ヘレンの腰に両手を当てて力一杯押したりしたが、その都度、柔らかく押し倒されて床に転がった。何度負けても挑みかかって行く勇敢な様子は、ワクウが男の子だなという雰囲気を感じさせた。ただ、冷静に見れば、母犬にじゃれつく子犬のように見えなくもない。ワクウがやや息を切らせ始めたのを見たヘレンは、彼の背を軽く叩いて健闘を称えて、このトレーニングを兼ねた遊びを終えた。
「私が父から格闘技の手ほどきを受け始めたのは、この子の年頃だったわ」
 ヘレンは何かを思い浮かべるようにそう言った。彼女はワクウの姿を眺めて、父親と自分の関係を思い出したに違いなかった。そして、ワクウの父に代わってワクウと遊んでやったらしい。チェルニーも思い出に耽るように言った。
「私の父は学校の教師でね、礼儀作法に厳しい人だったわ」
「なるほど。あなたの堅苦しい性格は、お父様の教育の賜ね」
「そういうヘレンの脳みそが筋肉なのは、パパの遺伝かしら」
 ヨゼフが二人に割り込んで、女たちなやりとりを静止させ、自分の思い出を語り始めた。
「俺の父は真面目な商売人だった。でも、学校を出ていないというのを気にしていて、息子の俺には学ばせようと必死だったよ。日本への留学のツテも親父が見つけてくれたんだ。でも……」
「でも?」
「俺は、学問が無くても真面目で正直に生きてる親父の生き方からいろんなコトを学んだ気がするんだ。アダム、君は?」
 突然に自分に話が回ってきたアダムは面食らった。ヘレンやチェルニー、ヨゼフが語る父親像を何処か別の世界の人間のように想像していて自分の父の具体的な姿を考えては居なかった。
「ボクの父親か、何を語り継いでくれているんだろう」そういう疑問を発したのみで傍らにいたワクウの頭を撫でた。
 ワクウが元で父親の話題になったが、この時の当の本人は、父親が居ないことなど気にする様子はなく、にこにこと笑っていた。

 


 翌朝、ヘレンたちは村はずれの森林から響く物音に、鼓膜をつつかれるような不快感を感じて目を覚ました。心地よい眠りを妨げられたヘレンが怒りの声を上げた。
「五月蠅いわねぇ。あんまり騒ぐと、焼き鳥にしてやるから」
 そう言う辺り、ヘレンはこの物音の正体を知って居るのだろう。耳を押さえて騒音を防いでいたチェルニーも知っていた。キツツキが木の幹を突いている音である。こうして、彼女たちはこの世界の新たな生物の存在を知り、この世界に深く接していく。ただ、ヨゼフはあの音にも動じる様子もなく、心地よく眠り続けていた。
「こら、こらっ」
 自分たちは起こされたのに、心地よく眠って居られるのもやや腹立たしく、チェルニーはつま先でヨゼフの尻を突いて目覚めさせた。しかし、家の中にアダムの姿がない。耳を澄ますと小口の外からアダムの呟きが聞こえた。
「アラハカの寺院……。ミコ……。海から来たマレビト……」

「何か分かった?」
 ヘレンは手帳を見ながら考え込むアダムにそう問いかけた。思考を中断されたアダムは、黙って不機嫌そうな表情を向けた。ヘレンは口を噤んで、傍らのチェルニーに肩をすくめて見せた。
 この世界にやってきて四日目になる。几帳面なアダムは、その間の出来事や聞き取った人の名を手帳に書き留めていた。散歩をしながら情報を整理し、考えをまとめるというのはこの世界に来てからも続いており、ヘレンやチェルニー、ヨゼフの三人はアダムに付き合って、豊かな自然を楽しみつつ、村の北側へ散歩を始めた。
 ただ、考えがまとまらない様子が、散歩の距離に現れていた。いつの間にか村からずいぶん離れ、周囲は草原である。
「誰か居るの?」
 ヘレンがその気配を察して振り返った。決して、風が起こした音ではない。背の高い草むらの中で何かが動く気配が響いたのである。村人なら隠れる必要はなく、ヘレンたちから身を隠していると言うことは、敵意を持った人物かも知れなかった。
「村長が兵士から聞いた不審者じゃないの」
「どうする?」
「村人たちに危害を及ぼすような連中だったら面倒だね」
「確認しましょう」
 ヘレンの行動は素早い。彼女はアダムたち三人に物音を立てながら草むらに入って、不審者を追い立てろと指示をして、彼女自身は狩り出されるはずの不審者を待って、向こうに見える草むらの切れ目に向かって、背を低くして駆けた。
 アダムたち三人は声を張り上げ、広げた腕で草むらを激しく叩きながら移動した。たしかに、ヘレンの指摘通り、人影は見えないが、誰かが草むらの中を進むように、かき分けられる草の穂先が揺れていて、ヘレンの指定通りの方向に向かっていた。
 先回りしたヘレンと、草むらを抜けた男が至近距離で鉢合わせした。
「あらっ、エイモス?」
 ヘレンは草むらから出てきた男の顔を見て、姿を消していた仲間の一人の名を叫んだ。男もまた意外なものを見たように一瞬立ち止まり、二人は一瞬見つめ合っていた。ヘレンはその直後の悲惨な出来事を予感して、顔を背けた。男はヘレンの視線を追って振り向いたが、後ろから振り下ろされた棍棒を避ける余裕はなかった。
 幸いなことにチェルニーが非力であったこと、手にした棒にそれほど重量感がなかったことで、男は頭にこぶをつくり、痛みに耐えながらうずくまる程度で済んだ。ヘレンはチェルニーに非難の言葉を浴びせた。
「暴力的な女ね」
「ヘレン。貴女に言われたくないわ」
【お前たちは何者だ?】
 ノユリたちの言葉と別の言語だったが、ノユリたちの言葉が理解できるのと同様、アダムたちには、男が話す言葉が感情に乗って伝わった。痛みに耐えながらそう尋ねる男の言葉から、目の前の四人をこの国の人々と区別していることも分かった。ただ、そう尋ねる男自身、極東アジアの人の顔立ちではない。何より、姿を消しているエイモスに、顔立ちが似ている。衣服を着替えた同一人物だと言われても信じたに違いない。
「ごめんなさい。まず頭を診せて」
 チェルニーにそう言われ、男が温和しく身をゆだねる様子をみれば、敵ではないらしく、診察という行為を通じて、アダムたちのことを受け入れてもいる。
【お前たちは何者だ? この国の者ではないな】
 男はそう繰り返した。アダムは彼自身が明確な回答を持たず、あやふやな返答をすることしかできない。
「僕らは気がついたらこの国にいた。どこから来て、どうしたら帰れるのか分からない」
「心配はいらないわ。ちょっとたんこぶが出来ているだけ」
 診察を終えたチェルニーは立ち上がり、男に友好の手を差し伸べた。男はその意味を察して両手で包むように手を握り替えした。右手で握手をする仕草ではない。顔立ちはこの国の人々と違っているが、アダムたちの共通の習慣にも馴染んでいない人物である。
「私はチェルニー、こちらはヨゼフ、アダム、ヘレン」
「あなたはエイモス?」
 尋ねるヘレンに男も名乗った。
【エイモス? 誰だ、それは? 俺の名はサミュール】
 アダムたちは顔を見合わせて、肩をすくめてため息をついた。ワクウやノユリの場合と同じだと思ったのである。彼らが知っている人物にそっくりだが、本人ではない。
「サミュール。君もこの国の人じゃないね」
 アダムの問いに、サミュールは海上を指さして言った
【十三年前に、遙か西の地からここに漂着した】
 チェルニーとヘレンが顔を見合わせて声を合わせて言った。
「海から流れ着いたマレビトね」
 二人の言葉にアダムとヨゼフも顔を見合わせた。
「サミュール。君たちが住んでいる所へ、案内してもらえないか」
【何のために?】
「いろいろと教えて欲しいことがある。」
【俺はここでしなきゃいけないことがある】
「何をするの?」
【人を探している】
「それなら今は無理ね。あなた、不審者として兵士に捜索されてるわ。兵士や村人に気づかれずに行動できると思うの?」
【しかし】
「いいわ、交換条件。私たちは貴方の集落の人たちに、いろいろと聞きたいことがある。その代わり、この村の人々を傷つけないと約束するなら、あなたのお手伝いをしてあげる」
 サミュールはやや考えていたが、頷いて立ち上がった。
【同行できるのは二人だけだ】
「どうして?」
【東の水辺から対岸に渡る。俺の舟に乗れるのは、あと、せいぜい二人だ】
「じゃあ、チェルニーとヨゼフは予定通りセヤクインへ。僕とヘレンでサミュールの村に行く」
「そうね」
「いつ帰れるの?」
 チェルニーの質問に、サミュールが口を挟んだ。
【お前たち次第だ。いま出発すれば日暮れまでには村に着ける】
 アダムは時の流れを計算して仲間に伝えた。
「ということは、帰りは明日か」
「じゃあ、急ぎましょう」
 ヘレンはサミュールを促し、アダムもその後を追った。残されたチェルニーとヨゼフは手を振りもせず三人を見送っていた。チェルニーはヨゼフに意外なことを言った。
「あの人、タイ人じゃないわね?」
 その質問の趣旨を理解しかねて首を傾げるヨゼフに、チェルニーが説明を加えた。
「タイにパープラチアットっていう腕につけるお守りがあるの。あの人、肘の上にそんな飾り紐を巻いていたでしょう」
 チェルニーは目ざとくサミュールの腕のアクセサリーを見つけていたのである。ただ、その疑問には解答がない。片付かない謎が解明されないまま、得体の知れない情報が積み重なった。ただ、もしも、この場にワクウがいれば、それが自分が髪を束ねていた紐だと気づいただろう。

 一方、サミュールに同行する二人も首を傾げていた。
「どうみても、私たちと同じ世界から来たとは思えないわね」
「彼の服装のことか?」
「そう。私たちと違う。何かの古い民族衣装のよう」
 彼の衣装は膝の下まである長い衣類で、サミュールが肩から脇腹にかけて下げていた荷で、ローブのように羽織って前を重ねて居るように見えたが、よく見れば頭と袖口の穴が開いた衣類を頭からかぶるという形らしく、ノユリの村の人々のように腰を紐やベルトで括ってはいない。その形状は、アダムたちの衣類とも、ノユリの村の人々とも共通点がない。アダムは肩をすくめて見せた。
「そうとも限らないさ。ぼくらだって、ここから帰れなければ、今、着ている衣服もすり切れて、この世界の衣服を身につけざるを得なくなるんだから」
 二人の会話にサミュールが割り込んだ
【異人たち、何をこそこそと話してるんだ?】
「ぼくらの運命のことを」
【そんなことは、神の御心に任せることだ】
 サミュールは雑木林の中に姿を隠して北から東へと進路を取った。木々の影や草むらを姿勢を低く保って辿るという道のりで、なかなか距離が進まない。必然的に日陰を選んで歩くという具合だが、風が無く、暑く熱せられた空気に包まれて、首周りがじっとり汗ばんだ。
「いったい何処まで行くつもり?」
「さあ、地形が全く分からないね」
【余計なおしゃべりを止めて、身を隠せ】
 そう叱咤するサミュールの言葉で、彼が進む方向を転じた理由が知れた。竹林を抜けて視界が開けた右前方に高台の地が見え、柵で囲まれていた。柵を通して見える人々は、槍を抱えたり、腰に剣を帯びていて、明らかに兵士である。
「あれは?」
【この国の兵士たちだ。ナヌワの港を守っている】
「港を守るというのは分かるけれど、ずいぶん大仰な人数ね」
 ちらりと見える兵士の数だけでも数十人を越えている。あの砦の規模なら数百人近い兵士が駐屯しているかも知れない。港が重要とはいえ、平和に見えるこの国で、治安を守るには多すぎる兵力ではないかと思ったのである。
 ヘレンの言葉と共に、彼女の意識がサミュールに伝わったらしく、サミュールは吐き捨てるように言った。
【大方、オーミは俺たちが港を襲うとでも思ってるんだろう】
「オーミとは?」
【事情は村に着いてから聞け。今は、兵士どもに見つかるなよ】
(オーミか)
 アダムは気になる言葉を反芻してみた。サミュールが発したオーミという言葉には、権力者というニュアンスが感じ取れ、政治的な権力を持った大臣か枢機卿、宗教組織に君臨して権力をふるう中世の法王のようなものかと考えた。
「また」
 ヘレンがそう言ったのは、開けた視界の前方に水面が広がっていて、彼女は海だと思ったのである。ノユリの村からアラハカの寺へ向かう途上、雑木林の間から、東側に広大な水面が見えることがある。その海をいよいよ間近に眺めると言うことである。
 西の海を背に、進む方向を転じてから十五分。アダムたちの目の前に、遮る物が無く広大な水面が広がった。
「ああっ」
 思わず驚きの声を漏らすほどの数のトンボがアダムたちの頭の高さを飛び交っていた。鮮やかな黄緑の胸の後ろが水色という配色で、草原や水辺の色に染まったかのようである。足がずぶりと地面にめり込む感覚と、その足がじっとり濡れる感覚があった。目の前に広がっていた水面が近づくにつれて、その畔を厚く覆う一面の芦に視界遮られてしまった。湿原地帯に踏み込んでしまったらしい。
「ここは?」
 そんなアダムの疑問に答えもせず、サミュールは言った。
【ちょっと、ここで待っていろ】
「間近に見たのは初めてだけど、東側の海じゃない?」
 ヘレンがそう語る視線の先に、芦をかき分けて進むサミュールの下半身が、つま先からくるぶし、踝から膝、やがて下半身まで水面下に浸かったところで、密に茂る芦の影に姿を消した。やがて、再び姿を現したサミュールは。小舟の船首に結びつけた綱を曳いていた。彼はこの芦の茂みに小舟を隠していたのである。
【お前も漕げ】
 サミュールはそう言って櫂の一本をアダムに渡した。
「波が静かすぎるわね」
 ヘレンはそう言って水面を撫でるようにかき混ぜて、指先についた水の香りを嗅ぎ、やや首を傾げてぺろりと嘗めた。
「海じゃない。ここは湖なの?」
 波が静かで、潮の香りがせず、嘗めてみると塩気も感じないというのである。見回してみると、周囲は陸地に取り囲まれていて、湖だと言うことが分かった。つい一時間前まで白波の立つ海面を眺め、潮の香りに包まれるような位置に居たことが信じられない。
「海と湖。よく分からない世界だわ」
 不機嫌なのか無口なのかよくわからない。サミュールは黙ったまま櫂を動かし続けていた。アダムが腕の筋肉に張りを訴えるような表情を見せたために、ヘレンが櫂を受け取ったが、そのヘレンもまた、使い慣れない筋肉に疲れを感じている。サミュールが黙々とこぎ続けているのは、よほど舟の扱いに熟練しているのである。
「ひょっとして、いや、きっと」
「どうしたの」
「以前、ノユリさんのお父さんが、海から来たマレビトが湖の対岸に移り住んだと言ってたろ」
「これが、その湖だったのね。この大きさ、今まで海だとばかり思ってた」
 やがて、三人を乗せた舟は対岸に着いた。漁の後、使い終わった網を乾す者や、網の破れを繕う者が居た。この浜にいる十数人の人々は漁師であり、サミュールもまた漁を生業にしているらしいと見当がついた。
【相談がある】
 サミュールが短く言った。
「何?」
【お前たちが湖の対岸に居て、漁をしていた俺と出合ったと言うことにしてくれ】
「どうして?」
【深い詮索はするな】
 どうやら、対岸のノユリの村の近くに出かけていたことを、仲間に知られたくないらしい。アダムとヘレンは、サミュールの心情をそう察して顔を見合わせて頷き、ヘレンが短く返事をした。
「わかったわ」
 サミュールはそれ以上何も語らず、三人の先頭に立って草むらの中の獣道を歩いた。突然に甲高い鳴き声が草原に響き渡った。ヘレンは周囲を見回して言った。
「あの声、聞き覚えがあるわ」
 確かに特徴のある騒がしい声で、声の発生源を容易に辿る事が出来る。声の先の木の枝に灰色で頬に紅をさしたような赤い色をした、くちばしの長い野鳥がいた。アダムはヒヨドリという名は知らなかったが、あの目立つ声の主が日本とその周辺の狭い地域に生息する鳥だという知識は持っていた。もちろん、アダムたちが居た大阪でもその声を聞く事が出来た。ファンタジーのような世界、ただ、どこか日本とのつながりを感じさせるのである。
「瓢箪荘の部屋で聞いたのを思い出すよ」
 ヘレンがアダムの小脇を肘で突いて注意を促した。話をしていて遅れた二人を待つようにサミュールも木陰で立ち止まっていたのだが、幹に手を添えて何かを語りかけているように見えたのである。
「何の樹なの?」
 サミュールに追いついたヘレンの質問に、サミュールは眉をぴくりと動かしたが答えず、再び歩き始めた。葉の一枚をちぎり取って眺めたアダムが代わって答えた。
「桜の樹だね。塩漬けにしたこの葉で菓子を包んで食べるんだ」
「でも、私、桜餅が一番好き」
 数日前に聞いたマリアの言葉をのほほんとした口調まで真似て言った。帰れる見込みのない不安の中で、あの時の事が懐かしくさえ感じられた。
「でも、どうしてこんな所に一本だけ?」
「ノユリさんの村にも一本だけよ」
 ヘレンの言葉にアダムも頷いた。アメリカのワシントンのポトマック川や、彼らが住んでいた桜之宮では、桜の樹が川沿いに生い茂っているというイメージがある。この桜は草原の中にただ一本、大地にどっしりと、しかし、寂しげに根を張って枝葉を茂らせていた。
「おいっ、お前たち。着いたぞ」
 桜の樹から東に、建ち並ぶ小屋やテントが見えた。おそらく仕事に出た男たちの帰りを待つ女や子どもの姿が、そこかしこに見える。

(確かに)とアダムは思った。
 海の向こうからやって来たマレビト。フードから顔を出す女の彫りの深い顔立ち、豊かな髭を蓄えた男たち、この国で目にしていた他の人々に比べて、確かに違う血筋の人だった。ただ、ワクウの村やセヤクインで感じた人々の視線は、好奇心を感じこそすれ、拒絶感はなかった。しかし、今のアダムとヘレンは敵意と言わないまでも、不審感や不安に満ちた視線を浴びていて、人々のアダムとヘレンへ向ける緊張感が伺えた。
【ラビのところへ】
 サミュールが口にしたラビという言葉に、人々の指導者というニュアンスを感じ取れる。アダムとヘレンは、この集落の村長に引き合わされるのかと考えた。鍛冶屋の槌の音が響き、子どもたちのはしゃぐ声が響いていた。活気のある集落である。ただ、ノユリたちの集落に比べれば、戒律に従って生きる人々特有の生真面目な雰囲気が漂っていた。サミュールの言うラビという指導者の人徳を反映しているのかもしれない。ヘレンは前方からやってくる若者を指してサミュールに尋ねた。
「あれは?」
【鹿の罠にかかった猪だ。我々は食べない。湖の向こうの市で布や薬草に換えている。オーミの兵士たちに奪われなければな】
「奪う?」
【奴らは我々の敵だ】
「あなたは、その敵の網をかいくぐって、やって来ていたわけね。どうしてそんな危険を冒したの」
 サミュールは黙ったまま答えない。そこに、怒鳴り声が響いた。
【サミュール】
 声の方向を見ると、サミュールとさほど年齢の変わらぬ男で、視線の中の怒りを隠そうとはしない。背後に他の若者を十人ばかり従えていて、その集団を率いるリーダーだろうと想像が付く。
【サミュール。お前は、また揉め事を持ち込むつもりか】
 サミュールは男たちに答えず、アダムとヘレンにはそのまま付いてこいと合図をした。ヘレンがアダムに小声で囁いた。
「揉め事って、私たちのこと?」
「どうやら、ぼくらは歓迎されていないらしいな」
 アダムは若者たちの敵意のある視線にそんな感想を漏らし、剣の束に手を掛けようとしているヘレンの指先を握って動きを制した。ヘレンもアダムの意図を察して言った。
「わかってる」
 怒鳴った男たちはサミュールの行く手を遮るばかりではなく、サミュール、アダム、ヘレンの三人をぐるりと取り囲んだ。
【サミュール、こいつらは誰だ。何故、こいつらを連れてきた】
 男はサミュールに怒鳴り散らした。サミュールが無言を保ったため、アダムが彼らに応じて口を開いた。
「ぼくらは話を聞きに来ただけだ。敵対するつもりはないよ」
 サミュールがアダムを制した。言っても無駄だという意識が伝わってくる。
【エゾラ。この者たちは私の客人だ。戒律に従ってもてなせ】
【サミュール。異民族の女の息子に、戒律を口にする資格などあるものか】
【母を敬え】
【異民族の淫売女が、我らの部族の血筋を汚したんだ。アレが母であるものか】
【何?】
 母親を侮辱されたサミュールがエゾラに殴りかかろうとしたとき、広場に声が響いた。
【よさぬか。平和を尊べ。客人の前で醜態は避けよ】
 一言で周囲を制してしまう声に威厳があるものの、声の方向に目をやってみると、声の主は意外にも温厚そうな老人である。荒れ狂っていた若者たちもこの老人には逆らいがたいらしく、アダムたちに敵意のある視線を向けながらも黙りこくった。老人はアダムとヘレンに親しげな笑顔を浮かべて言った。
【さて、お客人。我らにどんなご用かな】

 ヘレンは老人に会釈で応じながら、視線をちらりとエゾラに転じて、アダムに囁いた。
「異民族の淫売女ですって?」
「君の事じゃないよ」
「誰でも良い。あのエゾラという男。女を侮辱すると、首の骨をへし折ってやるわよ」
「ヘレン、それは笑顔で言うセリフじゃない」
 二人は老人に導かれるようにテントに入り、老人と向き合って敷物の上に座った。
【それでは、お話を伺いましょうか】
「私たちは、どこか別の世界から来ました」
 ラビは静かに笑った。アダムたちの髪の色や顔立ちを見れば、この国の人々ではないことが分かる。わかりきったことを言うと思ったのである。
【それは、私たちも同じだ】
「それでは、貴方たちも白い霧に包まれて、霧が晴れたら知らない世界にいたと言うことですか」
【白い霧に包まれて?】
「そうです。私たちはオオサカという場所にいて、霧に包まれ、霧が晴れるとこの国にいました。」
【お話を伺うと、何か不思議な経験をなさったようだ。我々は違う。幾世代も遙か西の地を旅して、十三年前に海を渡ってこの地にきた】
 若者の一人が言った。
【あなた方が霧に包まれた後ここにいたと言うなら、私たちは嵐に包まれた後、この国にいる】
「船が難破したと言うことですか」
【でなければ、望んでこんな所にいるものか】
 先ほどエゾラと呼ばれていた男が、吐き捨てるようにそう言った。アダムは重ねて尋ねた。
「私たちと同じ経験をした人がいるのかと考えていたのですが、違うのですね」
 ヘレンが質問の趣旨を変えた。
「あなた方は、どこから来られたのですか?」
【はるか西の地から海を越えて、この東の土地に着いたのは十三年前のことだ。その前は、更に西の地に居たという。我々は幾世代、旅を続けてきたのだろう。それはもう誰も覚えては居ない】
 言葉が彼らの言い伝えで終わったことから、彼らの先祖代々、長い旅を続けてきたことがうかがい知れた。彼らが先祖から受け継いできたという飾り物のひなびた色調が、彼らの長い旅を物語っていた。ラビは話を続け、人々は先祖伝来の話に聞き入った。
 アダムは話を聞き漏らすまいと、胸のポケットから手帳とボールペンを取り出し、話を記録する許可を求めるようにちらりと掲げてみせた。
【それは何だ!】
 シャーマが怒鳴った。危険なものとでも勘違いしたかのような仕草である。ラビはそんなシャーマを制した。
【よさぬか、この客人には我らへの害意はない】
 アダムは思わぬ反応にヘレンと顔を見合わせ、周囲の人々にボールペンと手帳の用途を説明せざるを得ない。
【なんと、妙な道具だ】
【なるほど、文字が書ける】
 周囲の人々の驚きの反応に向き合って、アダムとヘレンは同時に思った。
(いったい、手帳やボールペンを不思議がる人々など、現代の地球で考えられるだろうか)という疑問である。そして、二人は心の中に確信を深めた。
(ここは、自分たちが居た世界ではない)ということである。
 周囲の人々はアダムの説明に警戒を解いて、記録を受け入れた。アダムは質問した。
「あなた方は、この国とはどういう関係があるのですか」
【この国の人々から、我らについて何か聞いたか】
「いいえ、皆、口を閉じるように」
【さもあろう。我らは彼らと争うた】
「争い?」
【我々は先祖から、遙かな時と距離を経た旅をして、この地にたどり着いた。この地の豊かな緑を見た時に、主が我々に約束してくださった地だと思った】
 ラビが語る思いはアダムにも理解できた。霧が晴れ得体の知れない場所を彷徨って、視界が開けた場所に出たときのこと、目前に広がった透明度の高い海と、背後ら広がっている豊かな緑の世界である。ラビは思い出を紡ぎ出した。
【我々がこの土地に着いたとき、この国は二つに分かれて戦っていた。モノノベとソガという部族だ】
「モノノベとソガ?」
【奴らは我々を裏切った】
 輪を囲む若者の一人が義憤に耐えぬと言う表情で、そんな怒りの声を上げた。
【シャーマ、客人の前だ。よさぬか】
 ラビはそう言って若者の非礼を制して話を続けた。
【モノノベという部族の長モリヤが、我々が最初に住まいを構えた村の辺りの土地を治めていた。互いの言葉はよく分からなかったが、モリヤは我々に敵か味方かと問うたのだと思う。神の御心のままに従うと答えると、モリヤは我々の神を受け入れると約束したために、我らはモノノベの部族に加わってソガと戦った】
 ヘレンの見るところ、この国の兵士たちは真面目だが、決して近代的な訓練を受けているとは言えず、戦闘にしても個々の兵士の連携はなく戦慣れしていない。この集落の人々は、先ほどシャーマと呼ばれた若者が感情にまかせて抜きかけた剣の輝き、矢筒から出して眺めた矢の鏃の鋭さなど、平和であっても武器の手入れに余念がない人々である。
 このような人々が、いきなり領地に現れたとなれば、権力者は彼らを戦力として欲するだろうし、敵に回った場合のことを考えれば恐怖するだろうと思った。モノノベという権力者は異邦人に対してきわめて適切な処遇をしたと言うことだろう。
 ラビの話は続いた。
【しかし、モノノベは戦に敗れて、我らは後ろ盾を失った。ソガの族長ウマコは、オーミの座についてこの国を操っている】
 サミュールの言葉に出てきたオーミという言葉の意味が知れた。勢力争いをして勝利を収めた一方の部族ソガの長が、この国を牛耳ることが出来る座についた。その座についた人物をオーミと称しているのである。
 しかし、オーミから見てこの海から来たマレビトたちは、ひょっとすれば権力者に反抗するかもしれず、戦によって身を守るすべにも慣れた集団の存在は、この国の新たな権力者オーミにとって目障りな存在なのではあるまいか。そんなアダムの推測を裏付けるようにラビは言葉を継いだ。
【負けたものの、戦は終わり、平和が訪れた。ただ、新たな土地の支配者、戦いの勝利者との軋轢が続いて、小競り合いが収まらなかった】
「それで、湖の対岸に移り住んだの」
【我らはミコから新たにこの地を与えられて移り住んだが、ミコの後ろ盾のオーミが、いつ気を変えないとは限らない】
「ミコ?」
  先日、セヤクインでも耳にした名である。シャーマが吐き捨てるように言った。
【所詮はオーミの手先さ】
【この土地で生きる以上、誰かを頼らねばならない。何かを信用せねばならない】
 ラビの言葉にヘレンが疑問を呈した。
「ミコとは、この国の王ではないの?」
【ここから東に二日の土地に、この国の都がある。女帝がこの国を統治し、ミコはその女帝を補佐している】
「ソガというのは?」
【この国の支配者たちは血縁関係や家族関係が強い。いろいろと裏で繋がって居るのさ。我らが頼ったモノノベでさえ、女帝やミコと深く繋がっている】
「それで、ソガは血縁関係を利用して、権力に食い入っているという事ね」
【そうだ】

 アダムは話題を変えた。壁に掛けられた織物に気になる印があり、ラビの傍らの祭祀の道具らしい飾りにも同じ印がついていた。ダビデの星の紋ではないかと考えたのである。
「ところで、その紋章はあなた方の部族を表しているのですか」
【その通りだ。我々が居る限り引き継がれる。我々の血脈を表す紋章だ】
 ラビの言葉にヘレンは納得した。ラビというのはユダヤ教の指導者のことで、この集落に属する人々の出自が知れた。
(この人たちはユダヤ人なんだ。でも……)
 ようやく、自分たちの世界と接点になる人々を見つけた。しかしヘレンに新たな疑問が湧いた。ユダヤ人がどうしてこの土地にいるのかということである。
「約束の地を求めてこられたの?」
【遡ること、父はヤコブ、母はラバンの娘レアの下女ジルバに至る。幾世代をへて約束の地を求めて長い旅をし、この地にたどり着いた】
 年老いたラビは、彼の人生より遙か長い時の流れを遡って使命を語ったが、その言葉に怒りを交える若者たちが居る。
【しかし、この地は神の約束の地ではない】
【主の御心に従って早くこの地を旅立つべきなのだ】
 そんな若者たちの言葉に、ラビは諭すように言った。
【詮なきこと。過去に尽くされた議論ではないか。我々の血は衰えた。旅立つ時には数え切れなかった我が部族も、今やこの集落にいる者のみ。ここは豊かな大地だ、ここで生まれ育った子どもも多い。しかし、再び流離って我れらが血を絶やすのか?】
 会話は途絶えた。ラビの人柄に触れるというのは感慨深い経験はしたが、有用な情報は得られなかったのである。

 サミュールは、ラビのテントから二人を案内しながら言った。
【今夜は俺の家に泊まればいい】
 人々の態度は一変した。身辺を脅かす者ではないと言うことが知れたらしく、アダムたちに警戒を解くとともに、柔和な雰囲気が漂い、まるで昔から仲間の一員であったかのように触れた。もともとは、こういう善良な人々なのだろう。ただ、その人々がサミュールに注ぐ視線はやや冷たいようだが、その理由をサミュール自身に尋ねるのは気が引けた。
【ヨゼフが居ないのが残念だね】 
 アダムが言った意味をヘレンは理解した。建ち並ぶ小屋のあちこちから、いろいろな年齢の子どもたちが、好奇心をむき出しにしてアダムたちを伺っているのである。その子どもたちが居る光景は、ノユリの村やヒデンインという名の養護施設にいるこの国の子どもたちの光景と変わりがない。ヨゼフがいれば、子どもたちを集めてその中心にいるだろう。残念なことに、アダムもヘレンも、ヨゼフのような才能はなかった。

 案内された村はずれの小屋の中に、一人の女性が竈の側にしゃがみ込んで火の番をしていた。サミュールは女性の名を紹介した。
【チュラーヤ。俺の母だ。母さん、こちらはヘレンとアダムだ】
(サミュールのお母さん?)
 アダムとヘレンにとって意外だったのは、サミュールの母として紹介された女性が中東アジア風の顔立ちをしていることである。しかし、エゾラと呼ばれた男が発した言葉を思い出して納得した。異民族の女というのはこの人物のことかと思い至ったのである。そして、この村における、異民族の母子として、チュラーヤとサミュールの立場を理解した。
【ようこそ。おふたりとも、お食事は?】
 アダムとヘレンに代わってサミュールが答えた。
【出してやってくれ】
 サミュールの言葉を待つまでもなく、チュラーヤは被せてあった布を取り、籠の中から平らなパンを取りだして来客に配り、鍋の中の煮物を木の椀にすくって入れた。
「きゃぁ、肉よ、パンよ」
 ヘレンは小躍りするほど喜んだ。いつまで居るか分からないこの世界に、なじみのある食べ物があると言うことはヘレンの心をくつろがせた。味わってみると、やや堅いが、間違いなく小麦粉を練って焼いたパンであり、煮物の具として入っていたのは肉である。
【こんなに喜んでもらったのは初めてだわ】
 チュラーヤはそう言った。笑顔に包まれた食事が始まった。アダムが気になっていた事柄を尋ねた。
「さっきの話だけれど、裏切られたとは?」
【エゾラやシャーマの勘違いさ。さっき、ラビが我々がモノノベに付いて戦ったと言ったろ。モノノベは我々の神を受け入れると約束した。だから、我々はモノノベに加わって戦おうと決意し、俺の父も戦に加わった。しかし、モノノベにとって、この世界に数え切れないほどの神が居る。我々の神(ヤーベ)は唯一の存在だということを彼らに理解させられない】
「モノノベはいくつも神がいるから、一つぐらい増えてもかまわないって思ったのね」
 そんな感想を述べるヘレンにサミュールが聞いた。
【君たちは、信じる神をもっていないのか?】
「私は……」
 ヘレンは口ごもった。子どもの頃に洗礼を受けているし、胸に十字を切って祈ることもある。ただ戒律に従って生きるこの集落の人々に比べると信仰心は緩やかで、自分がクリスチャンとして戒律を守っているかどうか考えた事はなかった。ただ、サミュールから戦の話を聞いたとき、戦に参加して剣を振り回す事が、神の意志に逆らうことにになりはしないかとも感じるのである。
 ヘレンは戸惑いつつサミュールにぽつりと尋ねた。
「貴方たちの神は、戦いを許す神なの?」
【俺の父は、異民族の神を信じる者を排除して、我々が生きるための地を確保するのだと主張した。しかし、神はその主張に答えを示してくださらなかった】
 やや腹もふくれ、会話が途切れた。サミュールは何かを思い出したようにアダムとヘレンに言った。
【くつろいでいろ。俺は用を思い出した】
 出て行くサミュールの背を眺め、やや考え込んでいたヘレンも立ち上がり、自分の存在を悟られないよう、そっと彼の後を追った。
「ごめんなさい。ちょっと、私も外で風に当たってくるわ」

 小屋の中にアダムとチュラーヤの二人が残された。二人とも口数の多い質ではなく、自然な沈黙が続いた。チュラーヤが食事の後片付けをするのを眺めながら、アダムは考え続けている。出会った瞬間に感じた気の強そうな雰囲気も、今は包容力を伴って感じられ、しつけに厳しい母親というイメージに変わっていた。
「チュラーヤさんは、この国の方ですか」
【いいえ、この村の者たちと一緒に、遙か西の地から海を渡って来たのよ】
「何故、この国に?」
【この国の海の沖合で私たちの船の二艘が難破して、海に投げ出された私たちは浜辺の村の人に助けられて、しばらくそこで過ごしたの】
「失礼ながら、お顔立ちが他の方と違うようですが」
【確かに、私はタングットですから、ユダヤの人たちとは違います。アダム、あなたは?】
 タングットという聞き慣れない言葉は、彼女の部族の名だというイメージが伝わってきた。部族の名を聞き返されてみると、アダムは首を傾げざるを得ない。ポーランドという国家に所属しているという意識はあっても、民族という血のつながりで、自分自身を考えたことはなかった。
「僕は……」
 口ごもるアダムを諭すように、チュラーヤが言った。
【あら、大事な事よ。遠い遠い祖先から、祖父や父を通じて今の自分があるの。血筋や思いが伝えられて、自分が何をしなければならないか、子どもに何を伝えるのかが決まるの】
 アダムは感嘆のため息をついて、チュラーヤを褒めた。
「チュラーヤさん。どんな難解な書物より、あなたの言葉は胸に響きます」
【ありがとう】
「でも、血筋の違うあなたが、どうしてユダヤの人々の中に居るんですか」
【サミュールの父親が私を愛してくれたの。私も彼を愛しているわ。今でも……】
「今でも?」
【十三年前の戦で亡くなったわ。でも、彼の心は今でも私と一緒に】
 チュラーヤは胸に手を当てた。
「十三年前の戦というと、ソガとモノノベの戦のこと?」
【ええ、彼は三人の息子を残して戦に出て、ソガの兵士と戦って亡くなりました】
「サミュール以外に、お子さんが居られるのですか?」
【サミュールには、シャーマとエゾラ、二人の兄が】
 アダムはその二人の名に記憶があった。この集落に着いたときに出会った、若者を率いるリーダーである。しかし、あの二人がサミュールの母に示した感情は、愛情といえるものではなく、酷い侮蔑の言葉と共に吐き出した嫌悪感だった。チュラーヤは沈黙するアダムの疑問を察したように言った。
【シャーマとエゾラは先妻の子です。サミュールの父親が妻を亡くした後、私は彼と出会って結ばれてサミュールを授かったの】
「あの二人は貴女を快く思っていないようですね」
【いいえ、シャーマもエゾラも私の大事な息子です。あの子の亡くなった母親と父親から預かって、立派な大人に育てるのが私の仕事だわ】
「大変ですね」
【いえ、これがタングットの血筋だから】
 彼女は朗らかに笑った、かまどの火が揺らめいて、彼女の表情に複雑な陰影を与え、微妙に変化する表情が、血のつながりのない集団の中で、たった一人過ごしてきた彼女の人生の長さを表しているように思われた。
「ずいぶん、長い大変な旅をされたんですね」
 アダムは彼女の人生を旅に例えて彼女の人生を称えたのだが、彼女は深い意図には触れずに苦笑いをした。
【確かにね。初めて海を見たときには、神さまはこんな綺麗なものをお作りになったのかって感心したわ。でも、海を渡るときは反対。どうしてこんな苦しいものをお作りになったのかって】
 アダムは何も言わず、彼女の人生を愛でて微笑んだ。おそらく、アジアの内陸で生まれ育った彼女にとって、海は感動と驚愕を伴う景色に違いなく、その海を渡るときの船酔いも想像もつかなかったのだろう。
「この国に着いて大地を踏んだ時には、ほっとされたでしょう」
【いえ、それが覚えていないの】
 チュラーヤはそう笑って、理由を付け加えた。
【難破して浜に流れ着いていたらしいわ。気がついた時にはこの国の人々に助けられて家の中】
「なるほど、そんなことが」
【気がついて、外に出てみると、桜の樹から舞い散る花びらが月の光に照らされて、私の周りに降り注いできたの。ここは天上世界かと思ったわ】
「それでサミュールも、桜に特別な思いを持って居るんですね。」
【いいえ、あの子はもっと現実的。桜の樹にあの村娘の面影を重ねているようだわ】
「桜の樹と村娘、どういう事ですか」
【あの子には、この国で結ばれた妻が居るの】
「サミュールが結婚を」
 考えてみれば意外な話でもあるまい。ここは閉鎖的なコミュニティだが、彼らがこの国に流れ着いた当初は、この国の人々と同じ村で生活を共にして交わりがあったのである。
「サミュールが妻を愛しているなら、どうして迎えに行ってやらないんですか?」
【それは、たぶん、私が原因だわ】
「貴女のせいですって」
【異民族の私が、この村でどんな暮らしをしているかご存じ? 私の血を引いたあの子もこの村では白い目で見られがち】
「異民族の血を嫌がるんですか」
【あの子は、自分の妻が私と同じように扱われるのが嫌だったのかも知れない】
「そういう事情があったんですか」
【争いって嫌ね。でも、私は父母から受け継いだ血を大切にしたい】
 彼女は断言するように話を締めくくったため、アダムは続く質問の機会を逸した。チュラーヤの言う争いが、ユダヤ人の内部での不協和音なのか、ユダヤ人とこの国の人々との争いなのか、戦争といった権力者の争いのことか、それとも、身近な男女の諍いか。アダムはその言葉の意味を考えた。
 チュラーヤは竈の中で燃え尽きかけていた薪を眺めて、思い出話を語っていた時間の長さを察した。アダムもまた、彼女と同じ事を考えた。すぐに戻って来るかと思われたサミュールとヘレンの帰りが遅いのである。彼女は新しい薪を竈に入れて加えて湯を沸かしながら呟いた。
【全く、また何処をほっついているのやら】

【母さん、】
 帰ってきたサミュールとヘレンは、妙に陽気で仲が良い。
【サミュール! 母さんに心配をかけるんじゃないよ。お前たちは父さんから預かった大事な息子なんだから】
 ヘレンは息子を叱るチュラーヤの言葉を、サミュールと並んで自分も叱られているように素直に聞いていた。チュラーヤは普遍的な母性というようなイメージを感じさせ、息子を叱る言葉が自分にも当てはまるようにも感じられるのだろう。
【全く、困った子どもたちだよ】
 チュラーヤはそうぼやきながら、客人のために今夜の寝床を用意した。

 


 全ての人を公平に包む朝の気配が、この村ではやや堅苦しさを感じるのは、村人たちの信仰心のせいだろうか。流れ聞こえる祈りの言葉に敬虔な感情を感じ取る事は出来るが、彼らの神に対する知識のない者には言葉の意味は分からない。しかし、アダムを包むように響く言葉には人々の願いが籠もっているようだった。
 サミュールの家の傍らに座り込んだアダムは手帳を取り出した。
「いいかい、整理してみよう」
 アダムは短い棒きれを拾って地に「ソガ」と「モノノベ」の文字を並べて書いた。
「十三年前、この国は、ソガとモノノベという2つの部族が争っていた」
「ソガはおそらく仏教を奉じ、モノノベはこの国の在来の神々を奉っていて、一種の宗教戦争か、宗教に名を借りた権力争いだ」
「そこにユダヤ人たちが流れ着いて、モノノベに加わったのね」
 ヘレンがモノノベの文字の傍らに六芒星の紋章を付け加え、アダムはモノノベの文字に×印を重ねてモノノベの存在を消した。更に、ソガにウマコの名を書き加え、オーミという文字を並べた。
「しかし、モノノベは戦に負けて滅んだ。権力を握ったソガの部族長のウマコが女帝スイコを表に擁立し、自分はオーミという座について裏で権力を操っている」
 アダムはそう言いながら、スイコ、ミコの名を書いた。
「ミコっていうのは?」
「スイコの代理として政治の実務を執り行っているようだね」
「オーミの権力と、スイコの命令と、ミコの実務がバラバラなら、オーミはやりにくくてしょうがないんじゃない?」
「スイコが凡庸な女帝なら、自分は政治には関わらずオーミの意向をそのままミコに実施させてるから、問題はないさ」
「もし、スイコがキレ者なら?」
「自分が盾になってオーミの権力を遮りつつ、ミコに独自の政治を行わせるだろうね」
 アダムは今まで書いていた文字を全て囲い込む円を描いた
「一番ややこしいのが、この関係者が全て、血縁関係や政略結婚で結びついてるって事だね」
「でも、それがこの村のユダヤ人たちと、どう結びつくの?」
「この世界に来る直前、鳥居をくぐるときに、僕がエイモスに言ったことを覚えてる?」
「鳥居がなんとか」
「そう。日本の神社の入り口にある鳥居が、ヘブライ語に由来するって言う説があるんだ」
「まさか……」
「土地を追われたユダヤ人の一部、失われた支族が古代の日本にやって来て、日本人と同化して文化を伝えたという説なんだ」
「あの人たちが失われた支族だと?」
「さあ。ここがはるか古代の日本だったらという、あり得ない仮定だけどね」
 手帳を閉じるアダムをヘレンは尊敬のまなざしで眺めた。この世界にやってきて触れた言葉の数々がアダムの中で整理されて、ヘレンが疑念を差し挟む余地のないほど密接に繋がっていた。
【異民族の者どもが、何の悪巧みだ?】
 突然に姿を現した男が、地面の文字を蹴り飛ばすように消した。目元と口元を腫らして顔立ちが少し変わっているが、サミュールの義兄エゾラに違いなかった。この男はまだアダムたちに対して敵意を消していない。
【エゾラ】
 背後から名を呼ばれ振り返った瞬間、サミュールは彼を右の拳で殴り倒した。
【昨日の残りだ】
 エゾラは立ち上がって拳を握ったが、新たに現れた人物に遠慮するように、ケンカの意欲を消した。
【やれやれ。全く、お前たち兄弟の仲の悪さにも困ったものだ】
 現れたのはアダムたちを見送るために現れたラビである。
【シャローム】
「おはようございます」
 挨拶をするアダムとヘレンに笑顔で応じながら、ラビはサミュールとエゾラに語った。
【この朝の静けさの心地よさ。この平和を壊してはいけない】
 そんなラビの言葉に、アダムはふと心に湧いた疑問を口にした。
「この景色は見事に調和しているように見えます。太陽も、大地も、大地に樹や花も、その花にいるミツバチでさえ、自然の一部として調和しています。私たち人間はこの調和の一部になれるんでしょうか?」
 ラビはやや考えて、ゆっくりと口を開いた。
【この美しい景色を、この国の人々は故郷の景色として、記憶の中に語り継ぐ。しかし、我々ユダヤの民は故郷を追われ、長く異国の地を彷徨って故郷の景色は記憶からも失われた。いま、この調和の一部となって、この景色を新たな故郷として記憶に留める、それが今の私たちの願いだ】
 アダムの手を包むラビの手の平が、歳を重ねて堅い、しかし、その手の平から暖かくラビの思いが伝わってきた。ラビはヘレンにも向き合った。
【また会いたいものだ】
「是非」
 ヘレンの短く力強い返事に続いて、ラビはゆっくりとサミュールと向き合って指示した。
【お客人をお送りしなさい】
【ついて来い】
 サミュールはそれだけ言うと、背を見せて歩き始め、アダムとヘレンはその後を追わざるを得ない。どうやら、昨日の桜の樹が、集落と船着き場を結ぶ草原の道の道しるべらしく、その傍らを通過した。サミュールが桜の樹を見上げ、また何かを語りかける様子を見せた。
「サミュール。それは何か神聖な樹なの?」
【うるさいっ】
 自分の行為を人に見られたのが腹立たしいのか、彼は怒りの声を上げ、ヘレンは黙って肩をすくめて見せた。
(ドルイドに関わらず、神木を信仰する宗教は世界中にあるが)
 アダムはそう考えながら、ユダヤ教と神木の関わりを考えた。しかし、サミュールが桜に語りかけたときには、神に対する敬意ではなく、愛しい人に語りかけるような雰囲気が漂っていた。アダムは何故か湖の西の対岸にあるノユリの村の桜の樹を思い出していた。
「サミュール。この国に奥さんがいるそうだね」
【それがどうかしたのか】
「異民族の奥さんを思いやって、仲間の差別を避けるために距離を置いたとか」
【そんな事を、誰から?】
「君のお母さんから」
【違うっ。お前も、母も、勘違いをしている】
 サミュールは不機嫌にそう言い放って黙りこくった。水辺には活気があり人々は勤勉に働く様子が見受けられる。引き上げる網に多量の魚がかかっていた。豊かな収穫をもたらす湖だが、人を隔てても居た。
 サミュールは左手に提げていた荷をどさりと小舟に投げ込み、黙ってアダムとヘレンを振り返って、二人に次の行動を促した。この小舟に乗れと言うのである。

「サミュール。あなた無口すぎるんじゃない」
【言葉は争いを招く】
 サミュールはそう言ったのみで、しばらく黙りこくってオールを漕いでいたが、無口な人間らしく唐突に言葉を吐いた。
【アダム、お前、子どもは?】
「残念ながら、まだ独身だよ」
【もし、お前が父親になったら、子どもに何をしてやるつもりだ?】                                                   
 突然に父親と子どもの関係を問われたアダムには、玩具屋での父親とのふれ合いの記憶が蘇った。それをどう表現すればいいだろう。アダムは心の底からにじみ出す言葉をつづった。
「子どもは、親が喜ぶ姿を見るのが望みさ。父親は、ただ、真面目に生きる姿を見せればいい」
 サミュールの問いかけに、生真面目に考え込むアダムを見て、ヘレンは笑った。女を口説けない男には、難しすぎる質問かも知れないと思ったのである。ただ、生真面目な目つきで問いかけ、生真面目に応じようとする二人の姿は、見守りたくなるような好感が持てる。ヘレンの見るところ、サミュールはユダヤ村の中で孤立している存在で、母親以外には相談できる人物もなく、たまたま出会った同じ年頃の男性に、心に秘めていた疑問をぶつけてみたのだろう。
 小舟の中の男たちはそれぞれが考え続けている。
(この自分は、父親として子どもに何が残せるんだろう)
 アダムはそう思い。時を同じくしてサミュールも自嘲的に思った。
(この俺が、誰かを思いやって、妻と子を手放したと?)

 対岸が近づいた。ヘレンはその距離感の違いを評した。
「昨日より早いわね」
【引き潮だ】
 サミュールが短く謎を解き明かした。
「引き潮? ここは湖のはず」
 海の潮の満ち引きなど関係がないはずだと考えるヘレンに、アダムが声を掛けた。
「この湖はどこかで海に続いてるんだ。潮の満ち引きで流れが出来てるんじゃないかな。ユダヤ人村の辺りには草むらが広がってたろ。対岸には西の海岸と同じ葦原が続いている。湖の両岸で植生が違うんだ」
「地質学も生物学も専門外」
 この時、サミュールは櫂を置いて立ち上がり、足下に置いてあった投網をうって言った。
【お前たちも手伝え】
 網を引くのを手伝えと言うのである。
「いきなり、何をするんだ?」
 アダムの質問にサミュールは答えず、二度目の網をうった。投網を使うには水深が深すぎ、獲物など捕れないだろう。そう感じたアダムに、ヘレンが黙ったまま顎をしゃくって見るべき方向を指示した。やや高台にある砦の見張り台にいる兵士が、この舟に気づいて不審そうな視線を向けていたのである。この舟が漁をしているらしい事に気づいた兵士は警戒を解いた。砦の岸には小さな桟橋と幾艘かの小舟が見えたが、サミュールはその桟橋を避け、時に投網をうちながら舟を浅瀬に近づけて、密に茂る芦の原に舟を乗り入れて砦の見張り台から姿を隠した。

【来たときと同じ道を辿って、オーミの兵を避けろ。奴らは野蛮で気が荒い】
「ありがとう」
 礼の意味で片手を挙げたヘレンの掌に、サミュールが掌を合わせた。
【ヘレン。はいふぁいぶだ】
「違うわ。これは、何かがうまくいった喜びを表す仕草よ」
【では、お前たちが無事に帰れる成功を祈願して】
 サミュールはアダムともハイファイブを要求し、言葉を続けた。
【これを持って行け。母からだ】
 サミュールが最初に小舟に投げ込んだ袋を出してヘレンに渡した
「パンだわ」
 ヘレンは喜んでサミュールの首筋を抱き頬にキスをした
【これもお前たちの挨拶か?】

 岸辺で遠ざかるサミュールの舟を眺めながらアダムは尋ねた。
「はいふぁいぶ? いつ、彼にそんな仕草を教えたんだい」
「昨夜、彼と二人でエゾラたちをブチのめした後」
「戻ってくるのが遅かったのは、そう言う訳か」
 アダムはあの無口な男が、意外な無邪気さを持っている事を知った。アダムのため息にヘレンは笑った。
 二人は南に見える砦の見張り台からの視界を遮るように、草むらを縫って歩いた。野鳥のさえずりが響く豊かな自然の中で、二人はやや緊張感を解いた。
「これからどうするの?」
「帰るための手がかりも無し。あとはミコか」
「ミコ? この国の最高権力者の一人ね。簡単に会えるのかしら」
 そんな会話をしながら歩く二人の周囲は、いつの間にか密な竹林に変わっていて、上空を強い風が吹いて葉を鳴らした。砦は景色の背景に隠されていた。道のない林を抜けて南北に伸びる街道に出ると、獣道ではない雰囲気に人の気配を感じはするが、通る人は疎らでアダムとヘレンの足音が、風が揺らす木々のざわめきに溶けて消えた。考え込みながら歩く二人に声をかける者が居る。
「アダム、ヘレン」
 伏せていた顔を上げて声の方向を見ると、南にチェルニーとヨゼフがアダムとヘレンの二人見つけて手を振っているのが見えた。
「ちょっと」
 仲間に合流したチェルニーが、ふと、西に視線を転じてみると、疎らな木々の間から明るく輝く水平線が見えていた。仲間を誘って道を外れ、西に林を抜けると、確かに海の景色が広がった。ここはやや高台であるらしく見晴らしがよい。海辺までまだ二kmはあるだろう。花々の蜜を求めて飛び交う蝶がいる草原の向こうに視線をやれば、広大な海原にぽつりぽつりと浮かぶ島影。全ての景色が解け合って等しく柔らかい日差しに照らし出されていた。
 確かに、チェルニーが仲間を誘いたくなるほど心を揺さぶる景色である。海岸線は定かでは無く、いくつもの小さな入り江は干潟となって葦の原が広がっていた。チェルニーはその光景に、ふと、古代日本の女性歌人の歌を思い出して呟いた。
「難波潟 みじかき葦の 節の間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや」
「何の言葉だい?」
 アダムの疑問にチェルニーが注釈を加えた。
「十世紀頃の若い女性の詩で、心を海岸べりの干潟に茂っていた葦に喩えて、愛する男性に思いを伝えるの。『葦の節の間ほどの短い時間であっても、会わずに生きろというつもりなの』って。女性が詩で心を伝えるなんてなんてロマンチック」
「詩を送る暇があったら、さっさと会いに行くべきね」
 現実的な言葉を吐いたヘレンだが、この初夏の景色は心を穏やかにする。過去に大規模な戦乱あり、人々の間に憎しみが残っているとは信じられない。西側半分に視界が大きく開けて、雑木林の南の端に見える水田や建ち並ぶ小屋はノユリたちの村に違いない。この位置からでも生真面目に働く人々の姿が、鍬をふるって畑を耕す仕草が判別できるほどの大きさで見えていた。優しく包容力のある景色である。

 留まることもできず、歩き始めた彼らは、互いに報告することがあった。
「良いニュースがあるのよ」
 村に向けて歩き始めたチェルニーはヨゼフと顔を見合わせて嬉しげに言った。ヘレンがチェルニーの続く言葉を制した。
「じゃあ、私たちの悪いニュースが先」
 悪いことを先に語ってしまう方が気が楽だというのである。昨日の経験を語るヘレンに、チェルニーは頷いた。
「そう、帰るために有用な情報は何も無かったのね」
 チェルニーの言葉にアダムとヘレンは肩をすくめてみせて、次の話題を促した。
「じゃあ、良いニュースを聞かせて」
 チェルニーとヨゼフは顔を見合わせて笑顔を浮かべ、チェルニーが嬉しそうに言った。
「私たち、就職先が決まったの」
「就職先?」
「そう、チェルニーは施薬院の医師の待遇で、ボクは非田院の子どもたちの世話をする保父さん」
「そう言えば、子どもに懐かれていたな」
 そう言いながら、アダムにはあのユダヤ人の集落の子どもたちの姿が目に浮かんだ。あの子どもたちが、この国の子どもと交わり、遊ぶ光景である。ヘレンが眉をひそめた。
「そう言う問題じゃないわ。元の世界に帰る気はあるの?」
 そんな会話にのめり込むうちに、彼らは村の入り口にたどり着いていた。ワクウが彼らを見つけて嬉しそうに駆け寄ってきて、ヘレンが掲げる手の平に飛び上がるようにタッチした。
「ヘレン。はいふぁいぶ」
 ワクウはそうやって、帰ってきたアダムたちを迎えたのである。ヘレンが教えた仕草を素直に覚えて繰り返す無邪気さが、岸辺で分かれたサミュールの姿と重なった。

 


 女というのはしたたかな生き物で、得体の知れない世界に来て数日で、世界に馴染み生活基盤を築こうとしている。チェルニーは施薬院の医師としての地位を確保しつつあるという。施薬院の女官に手伝いを依頼され快諾したのである。外科医志望で薬草の知識には乏しい。まだ、施設の人々から薬草の知識を受け取る見習い医師と言うところかも知れない。ただし、最新の医術の心得がある彼女が、医療技術では遙かに見劣りするこの世界の医療の一部を受け入れるというのは、この世界で生きる決意の表れのように見える。
「あなた、もう帰る気が無くなったなんて言わないでね」
「そう言わないでよ。頼まれたから引き受けざるを得ないでしょ」
「みんなで行こうよ」
 アダムがそう提案し、ヘレンが首を傾げた。
「どうして?」
「日本橋での、チェルニーの買い物を思い出したんだ」
「私、日本語、ヨクワカラナイ」
 ヘレンがあの時のチェルニーの口まねをし、ヨゼフが疑問を呈した。
「それで?」
「交渉は決定権を持ったボスを相手にするのが良いって」
「決定権のあるボス?」
「先日、オグツさんがミコが来るって行ってなかったかい。どうやらこの国の権力者らしい。会って帰国の協力を求めるのも良いさ」
「うまく会えればね」
 今まで権力者というと雲の上の人物だったり、残忍強欲というイメージしか持たなかった。そんな人物が、得体の知れない異邦人と面会し協力してくれるか保証はないのである。
「賭けてみるしかないさ」
 仲間も頷いた。他に選択肢は無さそうだ。

 既にノユリの道案内は必要なかった。ノユリの村から南にある川を渡り、坂を登ってやや高台に出て歩き続ければ、南に常に寺院の塔の先端が見えくるという地形である。彼らの目的地は、その塔のある寺院そのもので、道に迷う心配はなかった。アダムはふと思いついて渡ったばかりの川のある地形を振り返った。ヘレンがそんなアダムに首を傾げた。
「どうしたの?」
「サミュールが言ってた引き潮の話を思い出したんだ。この川、自然の川にしては東西に真っ直ぐ伸びていて、川幅がずっと同じ」
「だから?」
「この川は、東側の湖と西の海を結ぶ運河なんだよ」
 地図の断片が、彼らの中で経験で繋がれて一つの地図になりかけていた。歩くにつれて、幾つもの道が合流と分岐を繰り返しながら、太く、賑やかに人の往来が激しくなる。四人の足下の草むらから一羽のスズメらしい小鳥が舞い上がった。
「空の鳥を見るがよい」
 そんな言葉を呟くヘレンに仲間の視線が集まった。彼女は記憶の底からわき上がってきた言葉を吐き出した。
「ああ、信仰の薄き者たちよ。何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと、思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである」
 アダムがヘレンの言葉の引用元を指摘した。
「マタイの福音書、第六章」
「なんとなく、私たちは異邦人かなって思ったの」
「仏教にユダヤ教。それに加えてキリスト教まで登場させるの?」
 チェルニーの見るところ、この国は仏教を取り入れているとはいえ、その歴史は浅いらしく、人々が仏教を深く理解しているかどうかは疑わしい。もちろん、ユダヤの神を信仰しているわけでもなく、キリスト教を感じさせるものはない。しかし、ヘレンの語る一節がこの場に妙に似つかわしいのはどういう訳だろう。ヨゼフが別の宗教の名を挙げた。
「ムスリムだって、この世界や人々を否定しないさ」
 更に三十分ばかり歩いたところで、歩んできた道に、東に延びる街道が合流した。その街道の幅広さ、せわしなく人が行き来する様子を見れば、噂で聞いた東に二日の距離にあるという都に続く街道に違いない。その街道をこちらに進んでくる一団がいる。いや、行列と言っても良い規模のようである。
 突然にヘレンが舌打ちをするのが聞こえ、見慣れぬ行列をまじまじと見つめようとする仲間に、ヘレンは鋭く命じた。
「みんな、顔を伏せて!」
 顔を伏せたところで、ヘレンの金髪が人目を惹かぬはずが無く、行列の先頭の男がヘレンたちに気づいた。男は酷く興奮した様子で怒りを浮かべて馬を突進させて来た。その顔にはアダムにも見覚えがあった。彼らがこの世界に来た直後、兵士を率いて襲ってきたケハヤと呼ばれた指揮官である。
 ヘレンは狼の素早さで身をかがめて周囲を窺った。道が交わる場所で、まばらに露天が並ぶのみである。広く開けた地に身を隠す場所がない。その間にも馬は速度を増しヘレンたちに接近した。その時に、ふらりと漂うように道にさまよい出た人影がある。続いて、これから起きる惨事に、悲鳴を上げながら飛び出してきた女の様子から、母親の手を離れたよちよち歩きの幼子が道に出てきたと判断が付く。母と幼子が馬蹄にかけられるという目を覆いたくなる惨事を予感した直後、ヘレンは男の目を見た。怒りが引き、後悔や決意が感じられる目だった。馬上の男はその目つきそのままに手綱を強く引いた。しかし馬の行く手を押しとどめることは出来ず、馬は方向を逸れて露店の一つに飛び込み倒れた。馬上の男はその勢いのまま地に投げ出されて動かない。
「この隙に、みんなで逃げるか」
 そう呟いた選択肢の一つをヘレンは打ち消した。罪もない母子を傷つける男ならほって置いても良い。しかし、母子をかばって負傷した男を放置するわけには行くまい。既に、チェルニーは母子の様子を確認するように駆け寄っていて、アダムとヨゼフもまた事故現場に走っている。
 行列の人々も慌てて駆け寄ってきた。
「ケハヤ。いかがした?」
 接近してきた行列の中から進み出て、倒れた男を抱え上げようとした若い男に、チェルニーが怒鳴った。
「馬鹿ね! まだ動かしてはダメ」
 勢いよく地面にたたきつけられて脳に損傷を負っているかも知れず、負傷者をみだりに動かすのは厳禁だろう。チェルニーは気を失った男のまぶたを開けて瞳孔を確認し、手首を取って脈拍を測った。その様子は行列の人々にも医療行為に見えるらしく、チェルニーに怒鳴られた若者も、彼女の手際よさに感心するように見守っていた。
「大丈夫よ。セヤクインに運んで手当てしましょう」
 見守っていた若者も、チェルニーの言葉に無事を聞いてほっとしたように息を吐き出した。行列の人たちの様子から、その若者がこの行列の指揮官だと見て取ったヘレンが怒鳴った。
「間抜け! 何をぼぉっとしてるの。この人を運ぶから、その袋と槍をちょうだい」
 けが人の運搬に、袋と槍という組み合わせを理解しかねたものの、若者は従者と兵士に命じて空にした木綿袋と槍を渡させた。その理解の鈍さに、ヘレンは海兵隊の鬼軍曹が、訓練中の新兵に言うような皮肉な表現で要求した。
「お前、頭の中まで役立たずなの? 槍がもう一本、袋ももう一枚」
 ヘレンが若者に投げかけた役立たずという言葉がアダムとヨゼフの耳にも痛い。若者のみならず、アダムやヨゼフにもヘレンの意図が分からないのである。ヘレンが大きな袋に二本の槍を通したのを見て、二人はようやくその形状から意味を察した。ヘレンは袋に槍を通して応急の担架を作ったのである。ただ、この世界の人々は担架という道具を知らないらしい。様子を見守るだけの若者にチェルニーの叱咤が響いた。
「うすのろ! 何をじっとしているの、さっさとして」
 その用途を知るアダムとヨゼフは、気を失った男をそっと担架に乗せて持ち上げた。
「ミコ、任せても大丈夫でしょうか?」
 侍従らしい男が若者に問いかけているのは、異様な風体の人々に仲間を任せても問題はないのかと問うているのである。
「イモコよ。見よ、彼らは手慣れている。今は彼らに任せるのがよかろうよ」
 若者は周囲の人々を制して、身振りで成り行きに任せるようにと指示をした。
「ミコ?」
 聞き覚えのある名に反応して耳を澄まそうとしたアダムに、チェルニーが声をかけた。
「さぁ、早く怪我人を運んで」

 セヤクインの女官たちは突然の来訪者を驚きつつも、そつなく迎えた。失神したケハヤは板の間に敷物を敷いた上に横たえられていて、チェルニーが診断に当たっている。
「頑丈な男ねぇ」
 そう評したヘレンの言葉にチェルニーは頷いた。よく鍛えられていて首筋から肩にかけて筋肉が盛り上がっている。何カ所か擦り傷があり打撲もしているようだが、落馬の後でころころと転がったせいか、体が受けた衝撃は少なく、骨折は見られず、内臓に損傷を負っている気配はなかった。何より頭部にある瘤が、男の失神の原因だろうと見当が付いた。落馬の時に頭を地面にぶつけたのだろう。
「大きな傷は無さそうだわ。擦り傷と打ち身の手当をしてあげて。気がついたら教えてちょうだい。もう一度診てみるから」
 チェルニーは女官にそう伝え、女官は頷いて打ち身に効く薬草を取りに走った。ヘレンがぽつりと言った。
「頭をぶつけたショックで、私のこと忘れていて欲しいわ」
「彼は、僕ら、特にヘレンを見つけて怒っていたようだったが」
 アダムの言葉にヘレンは肩をすくめて見せたのみである。何かよほどひどいいたずらでもしたかのような様子がうかがえた。チェルニーがそんなヘレンに笑いながらも言った。
「さて、これであの人が目を覚ますまで、ここに居なくちゃならないわね」
「じゃあ、ミコを探して面会するというのは見送りね」
 そんなヘレンの言葉に、ヨゼフがぽつりと言った。アダムだけではなくヨゼフも耳にして記憶していたらしい。
「そのミコなんだが、さっきの若者がミコと呼ばれていた。たぶん、あれはミコが都から護衛や供を連れてここを視察に来る行列だったんだ」
 チェルニーとヘレンは驚きの表情を浮かべて、叫びあった。
「ヘレン。さっき、あなたは」
「チェルニー。あなたもよ」
 女たちは自分の言葉を記憶していたらしい。彼女たちが、馬鹿、うすのろ、役立たずと暴言を吐いた相手は、この国の権力者の一人らしいのである。ヨゼフが今後の展開を予想して、手刀で自分の首筋をちょんっと打って見せた。彼女たちの行為は、公衆の面前で侮辱された権力者の逆鱗に触れ、打ち首になることも覚悟せねばならないというのである。
 人の気配を察して、四人は一斉に友好的な作り笑いを浮かべて振り向いた。姿を見せた女官はそんな彼らに驚いた様子を見せたが、それをすぐに人の良い笑顔に変えて言った。
「何か、突然の出来事に遭遇されたご様子ね」
「ヲグツさん」
 チェルニーが呼んだ名は、寺院の管理下でセヤクインの責任者を勤める女官の一人である。初めて出会った時の気さくさに加え、感謝の表情を浮かべて一礼した。
「ケハヤを助けてくれたとか。ありがとうございます」
「いいえ、人として当然のことをしたまでですわ」
 チェルニーは暴言を吐いた話題を避けて、無難で謙虚に答えた。ヲグツはそんな彼女たちの姿を見回して首を傾げた。
「ノユリやワクウは?」
「今日は、あの二人の付添ではなくて、別の用件で」
 チェルニーの言葉に、ヲグツは笑顔のまま何かを思い出すように語った。
「以前、ノユリが異邦人と一緒にやってきたと聞いた時には、湖の対岸の夫を連れて来たのではと密かに喜んだんだけど、連れてきたのはあなた方。残念なような面白いような、もっと不思議な異人さんたちだったわ」
 明るく笑うヲグツに、ヘレンが愛想笑いをしつつ言った。
「そうです、私たちは面白い人間なんです。生まれてこの方、悪意や暴言とは無縁」
「では、今日はどんなご用件で?」
「私たちは手助けを必要としています、ミっ」
 ヨゼフはミコという名を口にする寸前に、足に鋭い痛みを感じて言葉を途切れさせた。ヘレンが状況を理解できていないヨゼフを睨んでその足を蹴って、注意を促したのである。チェルニーもまた首筋に手刀を当てて斬首を示唆して、ミコという名の危険性を伝えた。彼女たちを斬首の刑に処すかも知れない男である。危険があれば直ぐにこの場から逃げ出さねばならず、迂闊に口にしていい名ではないだろう。
「私たちにに何かお手伝いが出来れば良いんですが」
 ヲグツはヨゼフの言葉を理解しかねて尋ね返したが、じっと会話を聞いてるだけだったアダムが意外な形で質問を逸らした。
「ノユリさんに異邦人の夫がいるんですか?」
「ええ」
 ヲグツが頷いた時、新たな女官が姿を見せて、新たな用件で会話を中断させた。
「ミコがみなさんにお会いしたいと……」
 ミコの名にヘレンたちはぎょっとして顔を見合わせた。女官が漂わせるいつもと変わらない様子だけが救いだった。もはや、ヘレンたちは逃げることはかなわず、ミコの呼び出しに応じるほか無さそうだ。

「まずは、ケハヤを救ってくれたことに礼を言わねばなるまい」
 ミコは笑顔でかるくお辞儀をした。アダムたち四人はこの人物の雰囲気に酔った。今まで知っていたどの権力者ともイメージが違う。大らかで人を包み込む人柄を漂わせ、道ばたで無邪気な遊ぶ幼児に感じるような、心を引きつける求心力がある。本当に、この人物がこの国に君臨し、国政を左右する権力者なのかという疑いが湧き、逆に、この人物なら人々の敬愛を集める統治をするだろうという確信も湧いた。
「我はウマヤト。そなたたち、名は?」
「アダム・マリノフスキー。ポーランドから来ました」
「私はヘレン・ウィリアムス。アメリカ人です」
「チェルニー・アタユックです。タイから来ました」
「ヨゼフ・アハメッド。タンザニアから」
 ミコは四人が次々と名乗るのを聞きながら、好奇心を漂わせて傍らの若者に語りかけた。
「おおっ、異国の人々だと聞いていたが、言葉が通じるぞ。イモコよ、そなたを連れてきた甲斐がなかった」
 この国は一見すると未熟な原始社会だが、もう一方では権力が行き届いた規律正しい社会だと分かった。都にマレビトの出現の情報が届き、ミコはマレビトと会話をするために語学に堪能な従者を同行させていたのである。ミコの言葉に、傍らの従者が答えた。
「いいえ、ミコ。私には充分に」
 イモコと呼ばれた若者は、通訳という役割は果たせなくとも、好奇心を満たす満足感があるというのである。勘のいい男で、彼は先ほどの四人の挨拶から握手をする習慣を学び取ったらしく、四人に握手をもとめて名を名乗った。
「私はミコに仕えるオノノイモコと申します」
(なるほど)
 四人は、この主従関係から思った。イモコから伝わるミコという言葉は、アダムらが抱く王子のイメージに近い。この若き権力者は名がウマヤトで、人々は幼い頃からの呼び名を使って、敬愛を込めて皇子という意味のミコという名で呼んでいるのだろう。
 やや続いた沈黙の後、チェルニーはミコに見つめられる視線に気づいてどきまぎした。見つめ返してみると均整な顔立ちの中に信念を感じさせる切れ長の目が印象的だった。そのミコの小首を傾げるようで好奇心むき出しの表情に、ワクウと共通する雰囲気がある。ヨゼフがミコの意図を悟った。
「チェルニー、眼鏡、眼鏡」
 ヨゼフに促されたチェルニーもミコの注視の理由を知った。ミコは彼女がかけた眼鏡に興味を示しているのである。この国の人々とは肌の色や髪や目の色が違う仲間たちだが、何よりこの眼鏡が異様な風体として目を引くらしい。チェルニーは眼鏡を外した。
(ほぉっ)
 ミコとイモコは顔を見合わせて感嘆の声を上げた。あのヘンテコな部分が顔から外れて、アクセサリーだと言うことを確信したのである。チェルニーに差し出された眼鏡を手にしたミコは、指先でレンズをなで回して驚きの声を上げた。
「冷たくなく、融けもしない」
 レンズが氷ではなく、計りがたい素材だと語っているらしい。ミコが自分を窺う様子を見せたので、チェルニーはミコの意図を悟って頷いた。ミコはチェルニーを真似て眼鏡をかけたが、すぐに眉をひそめて、外した眼鏡をイモコに渡した。眼鏡をかけたイモコもまた違和感を感じて、眉をひそめて眼鏡をチェルニーに返した。
「目がくらくらします」
 そんなイモコの感想に、ミコも同意した。
「チェルニー・アタユックよ。タイ人(びと)というのは、皆、このようなものを身につけて物を見るのか? 世界が歪んで見えはしないか」
「ミコ、私のことはチェルニーと呼んでいただければ結構です。皆ではありません。この眼鏡をかけて目がくらくらすると言うのは、ミコとイモコさんの目がおよろしいと言うことですわ」
 そのやりとりをアダムはやや冷静に眺めていた。アダムが居た世界で眼鏡を知らない権力者が居るだろうかという疑問である。ユダヤという接点がある以上、アダムたちの世界とは無関係では無かろう。と、すれば……
(やはり、ここは、時をさかのぼった古代の世界?)
 考え込むアダムをよそに、ミコの好奇心はヨゼフに移った。
「ヨゼフ・アハメッド。我はいくら陽に灼けても、そなたのような肌の色にはならぬ。漁師の中にもそなたほどの肌の者を見たことがない。タンザニア人(びと)というのは、皆、そのような肌の色をしているものか?」
 ひとつ言い方を誤れば人種差別になりかねない質問だが、ミコは子どもが素直に疑問を口にするように悪びれず、悪意や差別感を感じさせることがない。その素直さにヨゼフは好意の笑顔で応じた。
「私のことは、ヨゼフとお呼びください。私の国の人々は皆このような美しい肌の色をしております」
「ほぉ、よほど、陽の光が強く暑い国なのだろうな」
 ミコの好奇心はくるくると切り替わってヘレンに向いた。
「ヘレン・ウイリアムズ。我は、そのような美しい髪や目の人を見るのは初めてだ……。あのケハヤと何かあったのか」
 金髪や青い目について尋ねられるのかと思っていたら、いきなり質問の矛先を変えられてヘレンは説明に窮する表情をした。
「私のことはヘレンと。彼と最初に会ったのは、私たちがこの世界に来た日でした。不審者と間違われて襲われたのでやむなく。二度目は市で会って、最初の出会いのトラブルをとがめられました。不覚にも彼が率いる兵に囲まれまれて、こちらは一人で相手は多数。こういう場合の定石として指揮官に一騎打ちを挑みました」
 ミコは声をあげて笑った。
「それで、勝利の証として最初の日には剣を奪い、二度目にはケハヤの秘蔵の弓を奪ったと言うことか?」
 ようやく、部下の怒りの理由を理解したというのである。ミコの言葉に、アダムたちはヘレンが弓を持ち帰ってきたことを思い出した。何回も大事な武器を奪われたとなれば、当然、あの男は怒り心頭に達するだろう。アダムはケハヤという若者にやや同情した。
「ヘレン。アメリカ人、とりわけ、アメリカ人の女性というのは、そなたのように勇敢で強いのか?」
「その通りです。自由のためには命を惜しみません」
 ヘレンというのは軍人の家に生まれ、彼女自身、格闘技を好むという偏りがあるアメリカ人女性のはずだ。ヘレンをアメリカ人女性の代表とすれば、全アメリカ人女性がアマゾネスであるかのような偏見を生むだろう。チェルニーはアメリカ女性の名誉のために補足せざるを得ない。
「武芸ではなく、心のありようにおいて、自由と正義を大事にしてきた事を誇る人たちです」
「なるほど、」
 アダム自身もそうだが、仲間たちはこのミコという人物に酔わされている。しかし、やや冷静に眺めれば、この人物の得体の知れないほどの奥深さはどうだろう。先ほど短い挨拶の中で、ちらりと聞いただけの相手の名と出身地を正確に記憶して、それと感じさせずに普通に会話に織り込んでいるのである。アダムに向き合ったミコは、ポーランドという名を正確に記憶していた。
「アダム・マリノフスキー。ポーランド人というのは、この中で最も思慮深いようだ」
 アダムが観察している様子を読まれていたらしい。突然に、床を振動させる足音と共に、ミコの身を気遣うような男の声が接近してくる。
「ミコォー」
 あの声にはヘレンもチェルニーも記憶があった。
「頑丈な男だわ」
「記憶喪失になっている気配もないわね」
 チェルニーは響く足音で男に外科的な異常がないこと、大声を張り上げ続けているところから見て、肺を始めとする内科的な損傷はないのだろうと思った。なにより、ヘレンに対する怒りを忘れている気配もなかった。
 突入してきたという表現がふさわしい。ケハヤが部屋の入り口の簾をかき分けもせず、頭から突進してきて、ミコを守るように、アダムたちとの間に割って入った。ヘレンはこの顔見知りに挨拶せざるを得ず、笑顔で片手を上げて言った。
「Hallow」
「ミコ! この者どもは」
 怒鳴るケハヤをイモコが制した。
「ケハヤよ。この者たちが、そなたをここまで運んでくれたのだ」
 ケハヤはミコの制止に従って、怒りを飲み込むようにごくりと息をのんだ。
(ドーベルマンのような番犬)
 ヘレンは心の中でケハヤをそう評した。侮蔑の意味はない。犬のように濁りのない一途な忠誠心を持った人物だと思ったのである。ミコにたしなめられて以来、話に口を挟むことはないが、憎々しげな目つきで油断無くヘレンたちをにらみつけていた。
「ヘレン! その手を」
 アダムはヘレンの行為に気づいて注意を促した。怒りに満ちたケハヤの視線の先に、ヘレンが傍らに置いたケハヤの太刀があり、ヘレンはケハヤの悔しそうな顔を眺めながら、その太刀を指先で撫でて挑発しているのである。

「霧が晴れると、この国に居たというわけですか」
 アダムたちの話を聞いていたイモコが相づちを打ち、アダムが答えた。
「その通りです」
 イモコはケハヤを眺めて、からかうように言った。
「ケハヤよ。良かったではないか」
「何のことか?」
「お前の話が妄想ではなかったと言うことだ」
「当然のこと。夢に太刀や弓が奪われてたまるものか」
「なるほど、不思議な出来事だ」
 アダムたちの話を聞いたミコは好奇心と同情を織り交ぜてそう言った。
「この国は、いかなる国なんでしょう」
 チェルニーの問いはもちろん、この国が、世界の何処にある、何という名の国かと問うているのである。ただ、タイ人の彼女が、地球に漂着した宇宙人から、タイが何処かと問われるようなもので、説明に窮するだろうとも考えている。事実、イモコもミコも、異人に分かりやすい説明をするのに困ったらしく首を傾げていたが、ミコが言葉を選びながら語った。
「ここは、ワの国。東を見れば荒れ野の先に海が広がっていて果てしない。西を見れば海を渡って、シラギ、クダラ、カヤの国があり、その後方にコウクリの国が控えている」
「シラギやクダラの南の大海を渡れば、西の向こうにはズイの国があり、文物豊かな大国だという事です」
 イモコはまだ見ぬ国にあこがれを込めてそう言った。優れた文物に憧れるという純真な意識に、この国の若さと将来の可能性が伺える。ただ、聞き取る言葉に出てくる単語はアダムたちの記憶と一致するものがなく、アダムたちの世界との接点が見いだせない。
「大阪、あるいは、日本をご存じですか」
 アダムはアダムたちの世界との接点になりそうな地名や国名を尋ねた。しかし、ミコやイモコは首を傾げたのみである。イモコが話題を転じた。
「あなたたちも、異国の文物、学問を携えて来られたようだ。是非とも、その一部でもこの国に伝えていただきたいものです」
 ミコが通訳として連れてきたイモコという人物は、様々な学問に長じているのだろう。それでも驕り高ぶることなく好奇心を失っていない。アダムたちが居た大阪の人々が外国人に注ぐ視線とも共通する。アダムは懐かしさにとらわれるように微笑んだ。
 アダムが少し考えて口を開いた。
「私たちはこの世界に来て、二組の親子に会いました。一組はこの国の母と子で、貧しいながら私たちを分け隔てせずもてなしてくれました。もう一組は、この国にやって来たユダヤ人の母と子で、自分の血筋に誇りを持って慎ましやかに過ごしていました。共に美しい生き方だと思います。私たちは元の世界で多くのものを学んできましたが、その二組の母と子から学ぶべき事ばかりで、教える事は見あたりません」
「ほぉ、人の生き方が美しいか」
「しかし、ユダヤ人から聞きました。この国には二つの宗教があり、神々のために人々が争っていたと」
「それは違う。人々が欲望で争う。その争いのために、人が神や仏の名を利用するのだ」
「利用とは?」
「少なくとも私が信じる仏は、人に憎しみを求めることはない。それとも、あなたの神は敵を殺せと要求するのか? 人々は何故、協調できぬのだろう、何故、憎み合うのだろう」
 その通りだとアダムは頷いた。しかし、それを疑わない者も多い。神の名を唱えて剣を振りながら神の真意を考えもせず、神の名のもとに人を争いに誘う者たちが、アダムが居た世界にも数多くいた。このミコという指導者はそうではないらしい。
「人の命を弄ぶ神や仏などいないでしょうに」
 チェルニーの言葉に、ミコは意外な形で悲しみと苦渋を伴う言葉を発した。
「我は、人の死を願うたことがある」
「えっ?」
「十三年前の戦のおり、我はまだ幼く、剣や弓を扱えぬこの身が苛立たしかった。モノノベモリヤさえ死ねば、我らが大願は成就すると思うたのに、この手でそれを果たす事が出来ない。我は仏にモノノベモリヤの死を祈念した。憎いとは思わない。我らが目的のためにモリヤの命を代償にするのが必要だと考えた」
「そんなことが」
「願いは叶って、我が軍の将の矢に射られたモノノベモリヤは死に、我らは退却するモノノベの軍勢を追った。その途中、我は傷ついた兵士の中にいた。血まみれで死んだ者はまだ良い。息のある者は傷を押さえて苦痛の悲鳴を上げ、血の泡を吐いていた。命乞いが聞き入れられず、槍に突かれる兵士も居た」
 ミコは悲痛な目つきで記憶を辿った。先ほど常人とは思えぬほどの記憶力を披露した人物である。繊細な感性で拾い上げた景色の数々は、明瞭に記憶に刻まれて、この人物を苦しませているのかも知れない。ミコは言葉を続けた。
「ひょっとしたら、これは我が願った光景か? そう考えると自分自身が心底怖くなった。何という恐ろしい事を、我は仏に祈念したんだろうと」
 ミコはうつむき過去の罪を思い出すように唇をかんで、ゆっくりと言葉を続けた。
「この寺院は、我の贖罪の証だ。我は本当の仏法でこの国を治めたい。仏法の元で人々が安んじて暮らせる世を次の世代に引き継ぎたい。アダム、この国をそなたたちが出合った母と子ばかりにしたいのだ」
 チェルニーが両手の平を会わせて拝む仕草をしながら言った。
「私も仏教徒ですが、いつかミコの願いが叶うと信じています」
「ただ、人々の憎しみは容易には消えぬ。戦でユダヤ人に親や兄弟を殺された者も多い、ユダヤ人の中にも我らに肉親を殺された者も居よう」
「残念ながら、私たちの世界にも争いや人々の憎しみがあります。私たちもまだその憎しみを乗り越えられずにいます。でも、きっと乗り越えられる。それは私たちもミコも同じ」
 チェルニー言葉に、ミコは悲しげに言葉を継いだ。
「戦の後、七年を経ても憎しみが収まらなかった。我はユダヤ人に湖の北の地を与えて、住まいを分けた」
「それが、あのユダヤ人の集落なんですね。もとは、共に暮らしていたと」
 アダムの問いに答える前に、人の気配がし、一人の女官がミコを呼んだ。
 ミコは女官の用件を察したように立ち上がった。好奇心は未だにわき上がってくるようで、ミコは名残惜しそうにアダムたちを振り返った。
「また、会いたいものだな。今日は不愉快な話を聞かせてしまった。今度はもっと別の、そうだ、我々の未来の話でもしようか」
 イモコも立ち上がり、アダムたちに一礼して言った。
「もし、不自由があればなんなりとお申し出ください。この私が出来るだけご期待に応えたいと存じます」
 イモコがそう言ったのは本心である。この不思議な客人たちの正体ははっきりと分からないが、雑談をしていると心が触れあう感じがして、好奇心が満たされる。不思議な事に言葉と同時に感情そのものが伝わってきて、心の中を隠さずさらけ出すようで心を許せる相手だという気がするのである。
 おそらく、ミコも同じだったのだろう。普段はそれほどお喋りではないミコが、心に抱える悩みを吐き出すように語りかけた。近習としてミコの心の悲しみに気づいているつもりで居た。しかし、先ほどミコが口にしたほどの本心に触れたのは初めてだった。ミコの笑顔がいつもより晴れているのも、心に封じた悲しみの一端を解放したおかげかと、この客人たちに感謝しているのである。
 イモコは部屋を辞しながら、ケハヤが腕組みをしたまま動こうとしないのを眺めて苦笑いした。ミコと親しく雑談を交わす相手を傷つけるようなまねはすまいが、まだ心を許したわけでは無さそうだ。イモコは実直な同僚を愛でて笑った。
「争いさえしなければ、心ゆくまで語り合うが良かろうよ」
 チェルニーがケハヤに尋ねた。
「貴方はミコと一緒に行かないの?」
「わしか? わしはミコの護衛が役目だ」
「だから、ミコの側に控えてなくても良いの?」
「今、ここで一番得体の知れないのが、お前たちだ」
「だから、私たちを見張ってる方が効率が良い訳ね」
「ミコの命を狙う者が居るからな」
 ケハヤが意外な事を言った。
「まさか」
 アダムやヘレンは信じることが出来ない。人々がミコに接する様子から敬愛を集めていることは疑いがない。暗殺などと言うのは、任務に忠実な余り抱いた妄想ではないかと思えるのである。しかし、アダムが断言するように人物名を挙げた。
「オーミ。ソガノウマコ?」
 返答を求めて、皆の視線がケハヤに集まったが、彼は口ごもるのみで答えない。具体的に答えるには恐れ多いのだろう。
「サミュールたちが言ってた。モノノベとソガが権力争いをしてソガが勝利を収めたと」
「それで?」
「権力争いに勝利したウマコが王にならずに、女王スイコがその後で擁立されということはソガの権力が背後にあるだろ?」
「血縁関係を利用して女王を操るつもりだったという事ね」
「その女王スイコがミコを政治を任せているとするなら、スイコはソガの威勢を嫌って独自の政治をしようと言うことだ。ソガの影響力はミコによって削がれている。つまり、ソガ族の族長ウマコにとって、ミコは排除したい相手なのさ」
「表だって攻め滅ぼす訳にも行かず、影で殺害するしかないと言うことか」
「なるほど」
「そのとおりなの?」
 尋ねるチェルニーにケハヤは、この男の忠義心が苦虫を噛みつぶしたようなしかめっ面をさせて答えを物語っていた。チェルニーは質問を変えた。
「私たちは、セヤクインやヒデンインを回るけど、ついてくる?」
「当然のこと。危険な輩を野放しにしてなるものか」
 チェルニーが笑いながらヨゼフに囁いた
「危険人物? ヘレンだけにしておいて欲しいわね」
 その危険人物は、腰に太刀を下げながら、ぽんぽんと太刀を叩いて挑発した。
「私に勝てたら、いつでも返してあげるわよ」
「わしはまだお前の魔術の秘密が分からん。しかし、力ではお前なぞに負けてはおらんぞ」
「あらっ、力任せだから勝てないのよ」

 はからずも、彼らはミコと面会するという最初の目的を達していた。この後、チェルニーはセヤクイン、ヨゼフはヒデンインの手伝いという役割があるのだが、アダムとヘレンにはそれがなかった。
「このあとどうする?」
「無駄に歩き回っていても仕方がないね。考えをまとめながら、ヨゼフの手伝いでもするさ」
「せっかくだから、後ろのお兄さんにいろいろ聞いてみるのはどうかしら」
 そう言って背後を振り返ったヘレンに、ケハヤは不機嫌に断言した。
「お前に話して聞かせることなど、な・に・も、ない!」
 私は嫌われているらしいと肩をすくめて苦笑いするヘレンに代わってアダムが問いかけた。
「ケハヤさん。あなたはずっとミコに仕えてるんですか?」
「そうだ」
 ケハヤの返事は不機嫌に短い。両側に広がる薬草園を抜けて歩くと、はしゃぐ子どもたちの姿が見えた。その子どもを眺めるこの忠実な武人の目に和らいだ光がある。この施設にいるのは、親を失った子供たちだと言うが、寂しさを感じさせない。薬草園で薬草の乾燥や運搬などの雑事をしていた男女は幼く、子どもと言っても良かった。ヒデンインの小屋の周りにも数人の子どもたちが居り、赤子を背負って子守をしていた。歳を経るに従って、ここでいろいろな役割を与えられ、仕事を果たしているに違いなかった。
「よぜふ」
 やって来た人影を見た子どもの一人が嬉しそうに叫んだかと思うと、アダムたちはヨゼフを中心にわらわらと寄ってきた子どもたちの輪の中に閉じこめられた。
「ヨゼフ。すっかり、人気者ね」
 子どもたちはヨゼフに手品をねだり、ヨゼフは一つ覚えのコインを消す手品をやって見せた。その輪の外に一人の子守の少女が居た。首を傾けたり、背伸びをしたり、彼女の視界を遮る子どもたちを避けて、目を輝かせてヨゼフの手つきを追う様子は子どもだが、赤ちゃんを大切に抱く腕には母親のような優しさを感じさせた。他の子どもたちのように輪に入っていかないのは、胸に抱いた赤ちゃんが、はしゃぎ回る子どもたちの間でもみくちゃにならないようにとの配慮らしい。その優しさをケハヤはぽつりと表現した。
「不思議だ。本当の母親のような目をしている」
 もちろん、母親であるはずはなく、血のつながりがあるかどうかさえ分からない。しかし、少女の持つ包容力は母親のように美しいのである。ケハヤは少女を赤ちゃんごと抱き上げて、他の子どもたちの頭越しにヨゼフの手品を見せてやった。
「もし、僕たちがここで何かを成し遂げるとすれば、この子どもたちのためになる事であって欲しいね」
 アダムがそう言い、傍らのケハヤも頷いた。
「それにしても、見た目に寄らず優しいのね」
 そのヘレンの言葉に反論もせず、ケハヤは言った。
「俺はこの子たちと同じだった」
 言葉の意味は計りかねたが、言葉と共に伝わってきた寂しさで、父親や母親が居なかったという意味がくみ取れた。
「ひょっとして、貴方はこのヒデンインの出身なのか」
「いいや、しかし、十数年前、戦に巻き込まれて、父や母が亡くなった。一人で彷徨っていた俺を見つけたミコが拾ってくれた」
「そうだったの」
「北にある砦にも兵士が大勢いたが」
「港を守備するヒコネ様の兵のことか。あれは、俺のような護衛じゃない。戦で戦う兵士たちだ。十三年前の戦で戦った勇者のヒコネ様が指揮を執っている」
「ヒコネ、砦の指揮官」
 アダムは新たな情報を手帳に書き込んだ。
「ヒコネというのは、どんな人物ですか」
「オーミに忠義を尽くし信任も厚い。戦では弟君とご子息を亡くされて、ユダヤ人どもをひどく憎んでおられる」
「あそこに砦を築けと命じたのはオーミなの?」
「一年前、オーミは我が国にとって重要なナヌワの港を守る三百の兵士が必要だと上奏されただけだ」
 ケハヤの言葉からアダムが結果を導いた。
「それで、上奏が受け入れられて、砦が作られたんだ」
「でも、港を守るにしては、砦はずいぶん北東にあるのね」
 ヘレンはケハヤの表情を観察しつつ言葉を継いだ。
「ミコが争いを避けるためにユダヤ人たちを移住させたのよね。そのユダヤ人たちに睨みをきかせるみたいね」
「難しい事は、オーミやヒコネ様に聞け。俺には分からん」
「オーミ、派兵を上奏。港北東部に砦建設、一年前」
 アダムはそう呟きながら情報を書き留めた。ケハヤは首を傾げアダムの行為に興味を示した。
「何だ、それは」
 アダムはユダヤ人集落と同様、ここでも手帳とボールペンの説明をせざるを得ない。
「文字か、俺には読めん」
 ケハヤは手帳の中身を見て急に興味を失ったようだが、子どもたちの好奇心は薄れない。
「もっと、もっと」
 子どもたちはアダムに他にも何かを書いてくれと要求するのである。アダムは戸惑いつつ子どもが喜びそうな鳥や花の絵を描いて見せた。子どもたちに溶け込んで共に遊ぶヨゼフ、戸惑いつつ生真面目に子どもたちの相手をするアダム、そんな異人の姿にケハヤは警戒を解いた。既に日は傾きかけて、人々を赤く染めて、長い影を作り、もう帰る時間だと教えた。
「ケハヤ。今日は楽しかったわ」
 ヘレンが笑顔でそう言って、握手の手を差し伸べた。戸惑うケハヤに、ヘレンはその意味を教えた。
「私たちの挨拶では、手を握り合うのよ」
「そうか」
 ヘレンはケハヤが差し出す右手の親指を握って、くぃっと捻り上げて、そのままケハヤの腕を獲って背に回した。背後から腕を固められてケハヤは身動きが取れない。
「ほらっ、また私の勝ち。油断しちゃダメね」
 ケハヤの耳元で、ヘレンは笑顔でそう囁いた。ケハヤは怒りを露わにして言った。
「ヨゼフ、アダム、チェルニー。やはり、この女だけは信用ならぬ」
 こういう言葉をヘレン以外に向けた辺り、ケハヤはどうやら、三人に対しては警戒感を解いたらしい。しかし、ヘレンに対して心を許すのはまだ先だろう。
(それにしても)
 アダムは心の中に呟いた。湖の向こうのユダヤの子どもたち、湖のこちらの子どもたち、その二つの姿が、何故かワクウに象徴されるような気がしたのである。

 


 次の日の朝。暗いうちから降り始めた小雨は、夜明けを迎えても止まず、村の人々はこれから迎える雨期の前触れではないかと笑顔で噂し合っていた。アダムたちにとっては行動を制限する嫌な雨だが、村人たちは空を見上げて手を合わせ、何かを祈る姿もある。
 考えてみれば、植物の生育に必要な水をもたらしてくれる自然現象で、今年の豊作を願っているのかも知れない。雨や風など自然現象に畏敬の念を持ち、生活に同化させている人々なのである。ヘレンはこの雨に文句を言うのを止めた。しかし、太陽が昇りきるのを待たず、村人たちの期待もむなしく雨雲は吹き払われて、透き通る青空から、肌が痛いほどの直射日光が射した。雨は乾ききってひび割れた大地の表面を僅かに湿らせただけである。
 雨上がりの戸口の辺りで、賑やかにはしゃぐ声がする。村の子どもたちがヨゼフに群がって遊びを求めているからである。
「保育園でも開くつもりか」
 アダムがそう言ったのはヨゼフが戸口に保育園の看板でも掲げるのではないかと思ったからである。
「ヒデンインの子どもたちが寂しがっているような気がするよ。これが父親の気分なのかな」
「父親と子どもか」
 アダムはヨゼフが発した言葉の中から気になる言葉を繰り返し、考えを披露した。
「ひょっとしたら、あの時のサミュールは、別れ別れになった妻と、まだ抱いた事のない息子に会いに来てたんじゃないか?」
「ユダヤ人の集落に行った時にね。あのサミュールが桜の樹に話しかけるみたいな様子をしていたわ」
「ヘレン。君も気づいてたのか」
「マリアと桜餅、ノユリさんとノユリさんが舞った桜の樹。あの脳天気な人物像が桜と切り離せないわ」
 ヘレンがそう言って笑った。ただ、この世界で、質朴な青年サミュールが、桜を撫でる時の様子は、女性に接するようだった。桜に相当する女性が居るとすれば、ノユリのイメージが当てはまる。チェルニーが頷いた。
「事情は飲み込めてきたわ。ノユリさんとサミュールさんはワクウちゃんが生まれる前に別れ別れになっちゃったという事ね」
 ヘレンが言葉を継ぐようにその後を語った。
「ノユリの村の人もサミュールの村の人も、互いに争った経緯があって、相手のことを口に出しにくいのね」
「でも、そのサミュールという男はワクウちゃんが生まれたことを知っているのかな」
「きっと、知っているわ」
「どうしてそんなことが」
「アダム。サミュールが私たちを送り返してくれたときに言ってたことを覚えてる?」
「父親になったら、子どもに何をしてやりたいかと」
「それよ」
「父親になったらという仮定は、彼が父親としての経験を持っていないと言うこと」
「子どもに何をしてやりたいかとは、子どもが出来たことを知ったと言うことか」
「その通りね」
 幼い頃にこの村で過ごしたサミュールが、ノユリと出合って、やがて結ばれたというイメージである。この村の村長の娘として、村の女性を代表して桜の神木の前で舞を奉納し、その姿はサミュールも毎年目にしていただろう。子どもを授かった。そんな知らせを耳にする前に、二人は引き離されてしまったのだろう。二人を引き離してしまったモノノベとソガの内戦がむなしく思われた。
「気になるのは南の砦ね。あそこに居るのは過去にユダヤ人と戦ったソガの兵士たちで、今でも憎しみを忘れては居ないよう」
「ミコが戦いを許すはずはないでしょ」
 そんなチェルニーの言葉にアダムが答えた。
「僕たちがこの世界に来た時にケハヤたちとトラブルを起こしたろ。都にいて遠く離れていたはずのミコも知っていた。この国では情報が素早く伝達されている。ただ、僕らの存在を知っていてもおかしくない砦の兵士たちは、僕らを探索する様子はなかった」
「どういうこと?」
「たぶん、指揮系統が違うんだ。ケハヤはミコのボディガードみたいなもので、ミコの指示で直接動く。でも、兵士たちは……」
「兵士はオーミが動かしているというのね」
 ヘレンが口を挟んだ。
「それにね。砦の位置がヘンなのよ。港を守ると言いながら、港からずいぶん北に離れた高台にあるでしょ」
「対岸のユダヤ人たちを威圧するみたいに?」
「双方にまだ憎しみが消えていないという話だったね」
 話の結論は出ないまま、続く沈黙で議論は終わった。周囲を見回すと、昼を待つまでもなく、草木に残った雨露も乾きかけていた。チェルニーは心地よさそうに伸びをした。
「晴れたわね」
 ヘレンは一人考え込む様子のアダムに声をかけた。
「何か気になる事でも?」
「あの人たちをよく見てみろよ、服装は違っても顔立ちは日本人とそっくりだろう」
「それが?」
「僕の想像だけれど、ここは遙か古代の日本じゃないかと思っただけさ」
 ヘレンが尋ねた。
「以前、ユダヤ人集落であなたが言った、古代の日本にユダヤの失われた支族がやって来たというのは?」
「その辺りはよく分からないんだが、妙に日本との関わりが気になるんだ」
「でも、人の名前や地名、聞いた事がないものばかりよ」
「そう。ミコやイモコも、大阪や日本を知らなかったわ」
「僕らが知っている古代の日本って、せいぜい、サムライの時代だろう」
「それよりずっと以前、日本が国としてまとまり始める頃?」
「地名、ヒデンイン……。思い出したわ」
 チェルニーの記憶の中で、ヒデンインという言葉が、彼女たちが元居た大阪と繋がったのである。彼女は医療関係者として、六世紀の日本に公立病院があった事を知っていた。そして、その病院と併せて、ヒデンインと呼ばれる施設があり、その名は現代の大阪の一角に町の名として残っているということも。
「あの日、私たちが行くつもりだった動物園の東に、悲田院町って場所があるの。昔、四天王寺の一角にあった施設の名残だって」
「では、あの寺院が四天王寺だって言うのかい?」
「その四天王寺に、施薬院という病院ができたのが六世紀終わりの頃。ヒデンインができたのも同じ頃だと思うわ」
「でも、ノユリさんたちは、あの寺院を四天王寺じゃなくて、アラハカの寺と呼んでいるよ。別の場所かもしれないよ」
「その辺りは良くわからないけれど、類似点があるのは事実なの」
 彼女たちの日本史の知識は断片的で、パズルのピースが組み上がることはなかった。ただヨゼフがぽつりと結論のように言った。
「でも、チェルニーが言うとおり考えれば、未発達の文化や、未成熟な国家体制についても説明がつくんじゃないかな」
「古代の日本ってこんなところだったのかな」
「日本って、こんな風に始まったのね。いろいろな人たちがいて、憎しみや喜びの中でもがきながら生きて」
「でも、世界のどこでも同じような人たちが居て、日本人も私たちと同じだったということ」
 チェルニーは落ち着きのあるため息と共に自然な判断を口にし、それに反駁する者は無かった。この世界に来て以来、ここが現代の日本どころか、現代に当たる地球上のどの地域でもないという否定的な認識を深めていたのである。しかし、何処なのかという疑問について、遙か過去ではないかと思いつつ、突飛な想像を口に出せないでいた。
「でも、それなら、時間旅行の知識のない俺たちは自力で帰る方法がないと言う事さ」
 ヨゼフはため息と共に、傍らではしゃぐ村の子どもの頭を撫でた。
「まぁ、いいお日様」
 村長の小屋から姿を見せたノユリが笑顔で姿を見せ、束ねたムシロを開いて、棚に敷き始めた。ワクウが小さな籠に薬草を入れて運んできてムシロに並べ始めた。薬草を乾かす母親の手伝いをしているのである。雨を察知した彼女は干していた薬草を家の中に取り込んでいたのである。
「雨が降ると大変ですね」
 チェルニーが薬草詰みの仕事に同情すると、ノユリは笑顔で反論した。
「でも、雨が降らないのも、大変なんです。雨の季節が遅れると村の者は田植えの時期や稲の育ち具合を心配します」
 なるほど、とアダムたちは納得した。雨が降っても降らなくても天候に左右されるのは同じ事で、自然をありのまま受け入れて生活する人々なのだろう。ふと、アダムはこの世界に来た夜に、ノユリが舞を舞う姿を思い出した、時の象徴たる桜の樹の前で、今年の豊穣を祈りつつ舞っていた姿である。彼女のイメージが桜の樹と重なり、サミュールが桜に語りかけていた姿が思い起こされた。
(彼は何を語っていたんだろう)
 そう考えたアダムだが、答えは出なかった。答えを知っているかも知れないノユリには、アダムも他の仲間も、誰もサミュールとの関係を問い詰める事はなかった。
「みなさん、ミコとお会いになったのですね。村人たちが噂しておりますよ」
 ノユリは薬草を大切に並べながら、世間話でもしているように言葉を続けた。
「ミコの御前で、落馬したケハヤ様を救ったとか」
「ノユリさん。ミコをご存じですか」
「ええ、この村にも時々、お見えになりますよ」
「ワクウ」
 ワクウが自分を指さして自分の名を主張した。
「そうそう、この子の名もミコに付けていただいたんですよ」
「ワクウ、どういう意味ですか?」
 そのアダムの問いに、ノユリが返事を返す余裕が無かった。日本には『噂をすれば影がさす』と言う諺がある。アダムが唐突にそんな諺を思い出したのは、子どもたちが笑顔でミコの名を叫ぶ、その視線の先に、一人の男の姿を見つけたからである。
 暖かな日差しを楽しむように浴びながら、ゆるゆると馬を操る人物は、昨日出合ったミコに間違いがない。見れば、傍らにイモコとケハヤが控えていた。ミコがアダムたちに気づいて片手を上げて挨拶をし馬を下りた。ノユリの父親がミコの名を聞きつけてあわてて飛び出して来た。村人たちもそろって家の中から出てきて、道の脇に伏せて迎えた。
 アダムたちにとって、初対面の時のミコがあまりに気さくであったため、この突然の光景は意外だったが、納得もさせられる。ミコはこの国の権力者で、村人たちとは身分が天と地ほど違うのである。ただ、村人たちが顔を伏せて土下座をしている姿には、目の前の権力者に対する恐れより敬愛を感じさせる。
 そして、ノユリとワクウが村長に促されて伏せたのは、セヤクインに薬草を納めにゆく二人は、素のままのミコと接して、村人に土下座を求める人物では無いと言うことを知っていたのだろう。
 村長は土下座のまま、伏せていた顔を上げて尋ねた。
「本日は何用ですか」
 ミコ主従は馬を下り、気さくに村長に歩み寄って、立つように促した。
「いや、突然の訪問で驚かせてしまったようだ。都に帰る道すがら、客人に贈り物を持参したのだ」
 ミコは都に帰る道すがらと表現したが、この村はアラハカの町の北にあって、東方の都に帰るには、やや遠回りになるはずだ。ミコの傍らにいたイモコが、アダムたちが逗留する小屋を確認すると、てきぱきと従者に命じて荷車の荷を降ろさせた。
「ミコ、これは?」
 ヘレンの質問にイモコが笑って答えた。
「米と麦、それから干し芋に干し魚です。塩と味噌が少々。不足があれば、改めて用立てますので、遠慮なく申しでてください」
 ミコは再び馬にまたがりながら笑った。
「そなたたちに食料を渡しておかぬと、兵士の剣が何本あっても足りぬと、ケハヤが申すのでな」
 ヘレンは赤面した。食糧が不足すれば、ヘレンが兵士から太刀を奪って食料に換えると言う事である。ミコの傍らのケハヤが、反論できまいと、歯を見せて笑っていた。
「ちっ」
 内心を見透かされ、その手段を封じられたヘレンは舌打ちをしたが、尊敬しあえるライバルに先手を打たれたときのような心地よい悔しさである。アダムたちにとって、この申し入れはありがたく受け取って良いだろう。
「お気遣い、ありがとうございます」
「また、ゆっくりと話をする機会が欲しいものだ」

 僅かな再会だったが、穏やかで細やかな心遣いが感じられ、アダムたちは遠ざかって行くミコ主従の後ろ姿に頭を下げた。考えてみれば、ミコはこのワの国の指導者の地位にあるわけで、混乱する政治の中枢で目が回るほど忙しいはずだ、この場にゆっくりととどまる暇などないのである。
「良かったじゃないか、ヘレン」
 首を傾げるヘレンにアダムが言った。
「君が兵士から剣を奪った事は、不問に付すという事だ」
「しかし、俺たちはこうやってこの国に深入りしていくんだな」
 ヨゼフの言葉に他の仲間も考え込んだ。朝、彼らが話しながら結論を避けた話題である。
「僕たちは、どこまでこの世界に介入して良いんだろう」
 悪事を見逃したり荷担する気はないが、宗教や政治や歴史が絡んで対立を深める人々の間に割り込んで、アダムたちの正義の基準を振り回して良いのかという事である。ワクウがアダムたちの判断を伺うかのように寄り添って、彼らの顔を黙って見上げていた。
「ワクウちゃん。ミコはどんな意図があってあなたをそう名付けたのかしらね」
 チェルニーはワクウにそう語りかけたが、もちろんワクウが物心つかない頃の出来事で、この子はその訳など知るまい。そのワクウの素直な笑顔に誘われて、ヘレンはノユリに唐突な質問をした。
「ノユリさん。ひょっとしたら、この子の父親はサミュールという男じゃない?」
 ノユリはその名にぴくりと反応して、手にしていた薬草をぽとりと落とした。彼女は大きな目を見開いてヘレンの目を眺めたが、質問には答えず口をつぐんだ。ヘレンは答えを確信し、更に質問を重ねた。
「もう愛してはいないということ? それとも、別の理由でも?」
「いいえ」
 そう言ったきりノユリはいつもの微笑を消し、寂しげに顔を伏せて口を閉ざした。チェルニーは眉を顰め、肘で密かにヘレンの脇を突いた。彼女が触れてはいけない他人のプライベートに踏み込んでいると注意しているのである。
「なぜ、人を愛してはいけないの?」
 アダムは立ち去っていくノユリ親子を見送りながらヘレンが漏らす言葉を聞いた。ノユリの背が儚く見える。



読者登録

塚越広治さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について