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 サミュールの葬儀の喪が明ける頃、降り続いた雨が小康状態を迎えて、つかの間の晴れ間を見せた。
【また、直ぐに降り出しましょうほどに】
 ラビはこの国の人々に、そんな言葉で旅立ちを告げた。晴れている間に出発したいというのである。今の季節、この土地で長く続く雨の理を知っていた。
 ラビの連絡に、アダムたちはノユリとワクウを伴って港までやって来た。
「すっかり、ワクウちゃんの玩具ね」
 チェルニーがそう言ったのは、ワクウがアダムの携帯電話を弄んでいるのを見たからである。もちろん、ワクウは携帯電話の本来の用途は知らないだろうが、携帯につけたストラップや、閉じたり開いたりする機能、ボタンに触れた時にふわふわした感触が面白いらしくいじっているのである。
 電源は切っているが、もはやバッテリーの残量はほとんど無く、しかも、二度と使う事はないだろうという思いがアダムにあった。
「これはね、遠く離れた人とお話をする道具なんだ」
「じゃあ、父さんと話、出来る?」
 ワクウの質問に、アダムは考え、言葉を選んで言った。
「ワクウちゃんのお父さんはね、今、ワクウちゃんの心の中にいる。話そうと思えば、こんなものがなくても話せるよ」
「じゃあ、要らない」
 ワクウはにこりと笑って、携帯電話をアダムに差し出した。その幼い指が電源ボタンに触れていた。アダムは返してもらった携帯電話をポケットに戻した。そんな会話の間に、アラハカ寺のところで道を西に折れると、先の急な坂の下に桟橋が見え、係留されたユダヤの人々の船は、提供された食料の積み込みも終えていた。
「あなたは、ここに残って、娘や孫と共に暮らせばいいのに」
 アダムがチュラーヤにそう言った。血のつながりのないユダヤ人たちと共に生きるより、この国で息子の血を受け継ぐ孫と共に暮らした方が幸せではないかというのである。チュラーヤは笑って、傍らにいたシャーマとエゾラを振り返った。
【私には、息子が二人いる。まだまだ子どもさ。この兄弟が一人前の男になるまで、私はこの子たちの側を離れるわけにはいかない】
 シャーマとエゾラがチュラーヤを眺める目が穏やかに笑っていた。チュラーヤは目の前にいたノユリやワクウをいとおしそうに抱いて、その暖かさを記憶にとどめた。
【和久(ワクウ)。あなたの名が、世の調和と共に、悠久の時を経て、引き継がれますように】
 彼女はそう言って、夫の形見、そして、息子の形見になった六芒星のペンダントをワクウの首にかけて、孫の暖かさを心に刻むように、もう一度、優しくゆっくりと抱きしめた。血縁関係に気づいていたかどうかは分からない。ワクウがチュラーヤの顔を眺める表情には肉親に甘える雰囲気があり、エゾラやシャーマのひげ面には、未だ珍しさを感じるようだが、自分の頭を撫でる叔父の手の暖かさを心地よさそうに受け取っていた。
 ノユリは涙が枯れて、もはやすすり泣く事もせず、ワクウに寄り添っていた。無邪気な明るさは失っていたが、どこか儚げだった弱々しさも感じられなかった。
「チュラーヤさん。今のノユリさんは貴女と似ています」
 アダムの言葉にチュラーヤは明るく笑った。
【その通りだよ。どの国の女も強いんだから】
 チュラーヤの言葉の通り、過去のノユリがまとっていた儚さを振り払ったのは、チュラーヤと同じ強さである。
「強い女性たちね。ヘレン、貴女も見習ったら」
 チェルニーの言葉の通り、女の本当の強さというのは、気丈に振る舞うチュラーヤと、亡くなった夫の思いを受け継ぐノユリかも知れない。
【すまない、ずいぶん待たせてしまった】
 ノユリは再会の時に夫が囁いた言葉を思い出した。無口で自分を飾る言葉を持たない夫だったが、その一言は、妻との再会を待ち続けていたと言うことと、妻も待っていてくれたことに対する感謝が溢れていた。

 そんな別れの様子に見入っていたアダムの背後に人の気配がした。振り返ると、寺院のシンボルの塔を背景に、イモコとケハヤの二人の供を連れただけのミコが見えた。ユダヤ人たちの出航を見送りに来たのである。自らの権威づけのための大仰な供や政治的儀式を抜きにして、心を許せる供だけをつれてやってくるというのはミコらしい配慮に違いない。
 ミコはラビに別れの言葉を述べ、ラビは長旅の物資を提供してもらった感謝を述べた。
【住む土地に、距離を隔てられても、悠久の時を経ても、互いの心の門(トリイ)の扉は大きく開かれていますように】
 そのラビの言葉にアダムの通訳は必要なかった。片言の言葉のやりとりだが、言葉ではなくて握り合った手で、そんな敬愛や惜別を惜しむ感情が伝わっていた。
 やがて、船は港を離れた。
「でも、あの人たちは、この世のどこにあるかも分からない理想郷を追い求めるの?」
「あの人たちの祖先が故郷を旅立ったとき、いったい何人の人々が居たんだろう」
 彼らがこの国に到着した時、二艘の船が難破して失われていた。古くはなったが、残された五艘の船に老若男女合わせて三百名ばかりの人々が乗る。いまや、たった三百人と言って良い。神の国を追い求めつつ旅をして、ここもその国ではなかった。この人々が信じる国に行き着くことが出来るのだろうか。理想の土地を求める人々と、この地に理想を追い求める人々の意志は紡ぎ出されることなく離れたようにみえた。
 船が遠ざかるにつれ、アダムたち一行は少しでも高見から遠ざかる船を見送ろうと、港から急な坂を上っていった。波の静かな海に吹き渡る強い南風に吹かれて、五艘は水平線の彼方に消えた。
「我は、この国で交わり、共に生きる人々の思いと生きた証をしっかり紡いで後世に伝えることが出来るだろうか。後世の人々は今を生きる私たち全てが紡いだ糸を一反の織物にしてくれるだろうか」
 そう呟いたミコは、突然に響いた聞き慣れない音に首を傾げ、アダムを眺めた。チェルニーはその曲名に気づいて叫んだ。
「乙女の祈り。アダム、あなたの携帯よ」
 確かに、響くメロディはアダムが携帯の呼び出し曲に使っていたものである。ワクウがいじっていて、知らずに電源を入れていたらしい。
(しかし、この世界で誰から?)
 四人の思いはその点に集中する。ヘレンとチェルニー、ヨゼフの視線は、アダムにさっさと電話に出ろと言うことである。アダムはおもむろに携帯を開いて耳に当てた。
「アダム。今、何処にいる? 仕事が早く終わったんで、君たちに合流しようと思うんだ」
「ジェスール」
 漏れ聞こえてきたのはジェスールの声だが、この一ヶ月のアダムたちの苦労など興味が無さそうで、全く緊張感を感じさせない。チェルニーは携帯電話を奪うように手にして語りかけた。
「ジェスール。貴方、今、何処?」
 のんびりとした返事が返ってきた。
「さっき、夕陽丘で下車して、今、四天王寺にいる。これから動物園に行く予定だ。アダム、君は何処だ。電波の状態が悪い」
 ジェスールの言葉通りなら、彼は視界が開けた場所にいる。にもかかわらず電波か届きにくいのはどういう訳だというのである。何処だと聞かれてもジェスールが納得できる回答をするのは難しい。やむなく目に見える光景を伝えた。
「こちらは海が見えてる」
「海?」
 ジェスールが考え込むような沈黙があって、やがて呆れたような口調で返事があった。
「まさか、動物園行きの電車を乗り間違えて海遊館に着いたなんて言うんじゃないだろうな」
 ジェスールの言い分も分かる。海遊館、大阪湾の海辺にある水族館で、確かにそこに行けば海を眺めることも出来るだろう。しかし、ここには動物園や水族館、通天閣などは無い世界で、ジェスールにどう説明すればいいだろう。
「ちょっと切るぞ。そのまま、そこで待っていてくれ」
「馬鹿。ちょっと、何をするのよ」
 アダムが通話を中断するのを見たチェルニーが、激しく怒り、ヘレンもそれに同意した。せっかく、元の世界の接点が出来そうだったのに、そのつながりを断ち切ってしまったと言うのである。しかし、アダムにも言い分がある。
「電波状態が悪くて通話が切れそうだし、携帯の電池も残り少ないんだ」
 アダムが見せる携帯は確かに電波の状態が悪く電池の残量も少ない。だらだらと無駄な話をすれば、電池に蓄えられた電気はすぐに消耗し尽くすだろう。
「元の世界と通話が出来ると言うことは、この世界の何処かに、僕らが住んでいた世界との通路が開いているって事だ」
「だから、その通路は何処にあるの?」
「可能性が高いのは、僕たちがこの世界に来たのと同じ場所だ」
「この近くだけど、正確に覚えては居ないわよ」
 ミコ一行はそんなアダムたちを、坂の上から不思議そうに眺めていた。アダムが耳に当てていた物が、遠く離れた場所にいる人と話すための通話装置だとは思い至らず、この客人たちが妙な儀式でも始めたのかといぶかったのである。
「ちょっと、待って」
 ヘレンが思いついたように振り返った先にケハヤが居る。
「ケハヤ。あなた、最初に私たちと出会った場所を覚えてる?」
「出会った場所とは?」
「馬鹿ね。貴方が最初に太刀を私に奪われた場所よ」
 ケハヤにとって思い出したくない記憶だろう。あの日に、今、ヘレンが腰にしている太刀を奪われたのである。彼は不機嫌に返事をした。
「覚えている」
「そこに案内して」
「よかろう」
 ケハヤはミコを振り返って同意を得ると、ヘレンの依頼に応じた。アダムたちが案内されたのは港から坂を登り切った場所から北にわずか五十メートルほどの場所である。ケハヤは坂の下を指さして言った。
「あの辺りだ」
「あそこだったの」
 そう言ったチェルニーは視界を遮る松林と遠浅の海辺に広がる芦原に記憶があった。この一ヶ月間、アラハカの寺との往復をしつつ、このあたりだと見当はつけては居たが、ピンポイントで場所を特定したのは初めてだった。指さされた場所は急な坂を下った場所で、寺院や寺院の塔が見えなかったことにも納得がいく。あの日、見たものと見えなかった物が、この高所から眺めると記憶とぴたりと一致した。あの日、彷徨う方向が少し違えば、ケハヤに目撃されることもなく、港を見つけていたはずだ。アダムたちは足早に指さされた場所に下った。
「ほらっ、見ろ。携帯の電波が強くなっている」
「本当。でも、何処にも元の世界は見えないわね」
「近くにあるというのは間違いないわ」
 チェルニーの言葉に、ヘレンは坂の上のケハヤたちに声を張り上げて頼んだ。
「ケハヤ。もっと詳しく教えて」
「最初に霧のようなものが見えて大きく広がった。霧が晴れたときにお前たちが居た。霧が広がり始めたのは、この坂を降りたあの松林の向こうの芦原の辺りだ」
 ケハヤが言葉で伝えきれない微妙な位置を伝えるために馬を降り、歩いて坂を下って近づいてきた。
「俺の馬からこの太い松を眺める方向に歩いて、人の背丈ほどの近さのところだ」
 ケハヤが立つ位置に四人も集まった。ヨゼフが失望のため息をもらした。
「何もない。何も起きないね」
「いや、電波は強くなっている」
 アダムは残る期待感を込めてそう言ったが、ヘレンは断定した。
「でも、帰れないのね」
 チェルニーが左右の手の平を目の前で併せ、祈りの仕草で恨みの矛先をアダムの携帯電話に向けた。
「着信が『乙女の祈り』ですって? 私がこんなに祈ってるのに願いが叶わないなんて」
 ヘレンは苛立ちをチェルニーの言葉に向けて皮肉を言った。
「乙女? 貴女みたいな年増が祈ってるからダメなのよ」
「精神年齢ではね、貴女よりずっと若いつもりよ」
 チェルニーとヘレンは、その言葉に含まれる精神的に若い女という言葉に気づいて坂の上を見上げてノユリの姿を目にした。精神的に若いと言えば、無邪気さを残したマリア、この世界では夫を思うノユリの清純さがそれに当たるのではないかと思ったのである。
 ケハヤはそんなマレビトどもの会話を聞き流しながら、ふとヘレンの腰に目をやった。彼が奪われた太刀である。勝負に負けたと言う事実は受け入れていて、所有権にケチを付ける気はない。ただし、彼女に負けっ放しだという事実で、自尊心を傷つけられてもいる。そのヘレンが手を伸ばせば届く位置に居た。目の前にボールを転がされた子犬の心情と似ていたかも知れない。
「ヘレン、組もう」
 ケハヤはそう言ってヘレンの腕を取って地面に転がった。ヘレンはケハヤの言葉から伝わってくる組み討ちを挑むニュアンスに答えて言った。
「私に勝てるとでも?」
 しかし、過去にヘレンが勝利したのは、いずれもケハヤと距離を置いて、ケハヤの攻撃を受け流しつつ、ケハヤに打撃を与えたもので、今回のように先に腕を捕まれてしまうと、ケハヤの攻撃を避ける術が無く、彼の太い腕で背後から首筋を固められると反撃どころか身動きすら出来ない。
「どうだ? 負けたと言え」
 ヘレンはその敗北の意思表示に、空いた手でケハヤの太ももをぽんぽんと叩いた。ケハヤも意図を察してヘレンの体を離した。
「俺の勝ちだな?」
 ケハヤが念を押す、その笑顔の無邪気さにつられてヘレンも笑い、頷いてケハヤの主張を受け入れた。
「その太刀を所望」
 勝った証拠にヘレンが腰に着けた太刀を寄越せというのである。もともと勝利の証としてケハヤからぶんどった太刀だったし、欲しければ取り戻せば良いだけで、ヘレンに異存はない。ヘレンは腰の太刀をケハヤに渡した。
「ヘレン」
 そう叫ぶヨゼフの声が響いた。彼女が太刀を手放すのとほぼ同時に淡い霧が現れたのである。
「どういう事だ?」
「ヘレンが太刀を手放したとたんに、霧が現れた」
「でも、来たときほど濃くなりそうはないわね」
「来たときの状態を再現しなきゃいけないんじゃ無いだろうか」
「この世界の物を身につけていてはいけないということね?」
 チェルニーが市で手に入れていた首飾りを外し、ヨゼフは腕に巻き付けていた飾り紐を解いて投げ捨てた。すると、確かに霧が濃くなる。
「まだダメだ。来た時と何かが違うのよ」
「来たとき? ぼくらが来たときに、ぼくら以外に、」
「マリアと和ちゃん、それにエイモスが居たんだ」
 坂の上にそのマリアに該当するノユリ、和ちゃんに当たるワクウが居た。しかし……、彼らは気づいた。
「ここには、エイモスが居ないんだ」
 悲痛な声が響いた。居て欲しいと考えても、エイモスに相当するサミュールは亡くなってしまっている。四人は坂の上のノユリとワクウの姿を眺め、この場に欠けている人物の事を考えた。この時、ワクウはくすぐった気に、しかし、何か心地よさそうにその原因を首筋にかかったものに求めて、衣服の下に身につけていた物を取り出した。陽に照らして確認するように掲げた物は、チュラーヤによってサミュールの父からサミュールに、サミュールからワクウに、思いを込めて託されたペンダントである。太陽の光を反射したのか、きらりと輝いた光が、大切な思いを伝えるようにアダムたちに降り注いだ。

 ミコやワクウのいた位置、急な坂の上から眺めると、四人のマレビトは目眩にでも襲われたように地に身をかがめたかと思うと、その周囲を視界を遮る濃い霧が覆い、霧は濃くなって彼らの姿を隠した。間もなく晴れた霧に四人の姿はない。突然に姿を消した者たちを探して辺りを見回すケハヤの姿のみ残っていた。
「無事に帰ったと言うことでしょうか。もっとあの者たちが語る話が聞きとうございました」
 そう尋ねるイモコにミコが言った。
「彼の者たちに、一つ聞き忘れてしまった」
「何を?」
「『和をもって尊しとなし、さからうこと無きをむねとせよ』 彼らが我の考えにどういう感慨を抱くものか尋ねてみたかった」
「では、ミコの決まり事がまとまるのは、まだまだまだ先の話でございますな」
「この国と、子どもたちと共に歩みたいものだ」
 ミコはワクウの頭を撫でた。
  この時、ノユリは何か思いついたようにワクウの傍らにしゃがんで語りかけた。
「ワクウ。母さん、思ったの」
 ワクウは首を傾げた。ノユリは心の中を整理するようにゆっくり語った。
「あなたの首飾りは、ユダヤの人たちがこの国に残した大切なもの。ワクウと同じよ。それから、あの桜の樹は母さんと同じ。この首飾りは父さんのお墓の側の桜の樹の根本に飾りましょう。父さんと、ワクウと、母さんがずっと一緒に居られるように願いを込めて。それから、毎年、花の季節には二人で父さんの事を思い出すの」
 ワクウは黙ったまま母の言葉を聞いていたが、やがて涙がひとしずく流れ出して頬を伝い、手にしたメダルに落ちた。
「ぼくの父さん?」
 ようやく、あの桜の樹の傍らに埋葬された男が、自分の父親だと悟った瞬間だったのかもしれない。 

 


 ワクウが手にしたペンダントを掲げる仕草を見せたとき、方向を見失ってくらくらと目眩がするほどの濃い霧が、アダムたち視界を遮った。香りも湿り気もなく煙にしては咳き込む感じもない。ただ、視界を遮るのみではない。空間の広がりや上下の感覚も失せて、広大な空間の中で、体さえ失って意志と記憶だけが入り乱れた。
 その霧が薄れたとき、ワクウがペンダントを掲げた仕草そのままで、手を上げる子どもが見えた。元の世界に戻ることが出来ず、薄れた霧を通して再びワクウが見えたのかと思ったがそうではなかった。目の前に神社の石段があり、登って行く先に人物の姿が見えるのである。
 和ちゃんが右手を伸ばしてエイモスと手を繋いでいる姿だった。左の傍らには二人に寄り添うようにマリアの姿があった。
「サミュール。あなた、死んだんじゃなかったの?」
 そういう声を上げたのはヘレンである。気がつけばアダムの傍らにはヘレンたちの姿があった。突然に妙な言葉を投げかけられたエイモスだけではなく、傍らのマリアまでヘレンの言葉の意図を計りかねて首を傾げていた。
 変だと言えば、エイモスは先ほどまで手にしていたメダルの感触が無くなったのに気づいて地面を眺め回した。落としてしまったのかと、現実的な判断をしたのである。しかし、地面に落ちているメダルは見あたらず、まるで手の中で溶けて蒸発したかのように暖かな感触のみ残していた。不思議ではあったが、偶然に拾っただけのメダルである。今、手を繋いでいる和ちゃんの生命感がいとおしく感じられ、メダルを失った事に後悔はなかった。

「ちょっと先に」
 アダムは先を行くエイモスらに手を振って先に行ってくれと合図をし、傍らの三人に手招きをして、囁きが届きそうな距離に呼び寄せた。階段の上の三人は何が起きたのか理解する事も出来ず、首を傾げて背を向けた。マリアが笑顔で何か見つけた物を指さしたので、あの三人はしばらく神社の境内の散策に時間を潰すだろう。アダムは何故か声を押し殺してそっと言った。
「ヘレン、よく見たか。あれはサミュールじゃない、エイモスだ」
 アダムの声の大きさに誘われて、ヘレンも声を潜めた。
「たしかに、彼の横にいたのはノユリさんやワクウちゃんじゃなくて、マリアと和ちゃんよね」
「私たちは元の世界に帰ってきたという事ね」
 チェルニーの喜びの声にヨゼフも同意した。
「そうさ。やっと、帰れたんだ」
 浮かれる仲間の中で、アダムだけが冷静で生真面目な表情を崩していない。
「君たちは、何を馬鹿な事を言ってるんだ?」
 思いもかけないアダムの言葉に、三人は彼の意図を計りかねて黙りこくった。アダムは言葉を続けた。
「まさか、君たちは、今までどこか別の世界にいた、なんて勘違いしてないかい?」
「勘違いなんかしてないわ。このスカートの汚れを見てよ」
 チェルニーは一月以上もの間、別の世界にいて、洗濯しても落ちない汚れがあると主張したのだが、アダムはそんな事実には見向きもせず、額を指さして妙な事を言った。
「私は宇宙人に拉致されて、頭の中に不思議な装置を埋め込まれました」
「いきなり何を」
「いや、そんな事を言った連中が、世間からどんな目で見られてるか知ってるかい」
「今の俺たちも同じと言うことか」
「そう、今の僕らは、宇宙人に拉致されたって言ってる連中と同じようなもんさ。俺たちの経験を証明する証拠なんか何もない、俺たちが何を言っても信じてくれる人は居ない」
「ましてや、ここは大阪よ。人生とコメディの区別がつかない、しかも好奇心だけは豊かな連中がわんさといるの」
「妄想家として動画で世界に広がって笑いものだ」
「でも、黙ってるなんて」
「ほぉっ、チェルニー。君は医師志望だろう?」
「それが?」
「患者との信頼関係が一番大事だ」
「それだからどうしたの?」
「私は異世界を旅しましたなんて、頭が逝っちゃってる医師に、患者の信頼が得られるとでも?」
 そんなアダムの言葉に、自らの未来を予見したヘレンが言った。
「私やヨゼフも同じようなものね」
「そう、動画サイトに投稿された君たちの姿は、日本ばかりじゃなく、アメリカやタンザニアにまで広まって、一躍、君たちは有名人」
「じゃあ、どうする?」
 ヨゼフの言葉に、チェルニーは唯一残された選択肢を口にした。
「私は、何も見なかったわ」
「そうだ、そう言うことで」
 四人の意見はぶれることなく一致して頷き合った。

「どうしたの? 先へいくわよ」
 マリアの声が降ってきた。神社の中をぐるりと一周して、興味を引く物は見終わったというのである。石段の半ばにいた四人は慌てて駆け上がった。
 大都会の一角で、ここだけは別世界であるかのように、木々に囲まれて切り取られた空間に、安居天神の社殿がそびえていた。社殿の傍らにヘレンが期待した真田幸村の座像がある。この人物が数倍の敵軍を蹴散らしながら、手勢を率いて敵の本陣に突入したという経歴はヘレンの好みに合う。

(あらっ?)
 ヘレンが失望と好奇心をにじませてそう呟いた。この人物の功績から期待した、勇猛果敢さを感じ取ることは出来ないからである。光の加減でその表情は微笑んでいるようにも見えるが、内に込めた感情は喜びではないかもしれない。外国の人々から見て感情を押し隠すという日本人らしい姿の像だろう。この像の微笑は喜びであると言うより、世に生を受けてなすべき事を尽くすことが出来たという満足感というところか。像の表情に、アダムたちは再び記憶を呼び戻される思いがした。
(それにしてもあれは)
 忘れようと語りあったものの、忘れることが出来ない世界と人々、そして彼らが出合って伝えてくれたもの。
「さぁ、孤立している友軍に合流後、目的地へ前進! 動物園は間近よ」
 孤立する友軍とは今も四天王寺で彼女たちを待っているはずのジェスールのことであるらしい。ヘレンは先頭に立って歩き始めた。
 アダムは唐突に笑った。その笑いの理由を仲間に説明しづらい。勝ち気でリーダーシップを握りたがるヘレンの姿が、ふと、母の姿に重なったのである。貴族の血筋を唯一の誇りとして威張る女、そんな者が現代のポーランドにいるものか。アダムの妄想と母への偏見が溶けた瞬間である。しっかり者の妻が、時に祖先から受け継いだものを誇りながらも夫をリードし、今を一生懸命に生き抜く姿。そして、父は決して屈辱的ではなく、勝ち気な妻を受け入れながら家族を作り上げる包容力を持っていた。
(僕はいい父と母に恵まれた)
 故郷から遙か離れたこの地で、アダムは懐かしくそう思った。もし、このヘレンを妻に迎えたら、自分もまた父と同じ生涯をたどるだろうという気さえした。

 彼らは車が盛んに行き交う道路にぶつかった。ヘレンに続いて神社から路地を抜けた仲間は、明るい日の光を浴びた。正面は片側二車線の広い道路で交通量が多い。
 ここにも安居天神の縁起を記した高札が立てられていた。ふと、チェルニーが十メートルばかり離れた歩道脇にも小さな高札があるのに気づいた。そこにも何かの歴史的縁起が書かれているのだろう。チェルニーは高札に歩み寄り石碑の文字を読み取った。

「ここが逢坂なんだわ。文字通り、出会いの坂という事ね」
 この道路がアダムが移動の目印にしていた坂であるらしい。ただ坂という名に似つかわしくなく、高低差はほとんど感じられない。古くは急な坂であったらしいが、人々が上り下りに難渋する様子に、土地の寺の住職が寄付を募って坂を切り崩して、このなだらかな坂になったという。
「通天閣も見えてるわ。これが逢坂なら動物園はこの坂道を渡ったところにあるはずね」
 ヘレンの言葉に地図に目を移したアダムが応じた。
「ジェスールが居るのが四天王寺なら、この坂を登り切った所だね」
「えっ?」
 逢坂の石碑から足早にアダムたちの傍らに戻ってきたチェルニーが、前方に見える景色を仲間に促すように指さした。
 緩やかだが確かに坂であるらしい。坂を登り切った辺りが彼らの視線の高さにあり、地面と空に分かれて見える。チェルニーが指さすのはその短い地平線ではない。両脇の建築物で狭められた幅の狭い地平線の上に、寺院の塔の上部が見えたのである。 あの日、あの世界で見た塔と姿は違っているが、仏教寺院の塔に間違いはない。あの時、寺院の塔を背景に眺めたもの。アダムが仲間に示した地図によれば、正面が四天王寺である。そして、四人が一斉に振り返ったのは、坂の下の方にユダヤの人々が船出した広大な海が広がって見えるような気がしたからである。

 今を遡ること、千四百年前、彼らが振り返る先には、たしかに、海が広がっていたという。坂の下には港があり、後世に飛鳥と名付けられた時代の日本の海外との窓口だった。この坂は当時の日本の異世界への出入り口とも言える。この辺りから南北に延びる遠浅の干潟の海岸線は、時代を経て難波潟(なにわがた)と呼ばれ、その情緒的な美しい景色を万葉集の和歌にとどめている。もちろん、目をこすって景色を眺めなおした彼らの目の前に広がるのは、海も港も姿を消して、大都市の一角にすぎない。
 再び、坂の上を振り仰いで前方の四天王寺の塔を目にすれば、言うまでもない。聖徳太子のゆかりの寺院の建築物である。古くはアラハカの寺と称した。その北東部に満々と水をたたえてノユリとサミュールを隔てていた巨大な湖は、流れ込む川の上流から運ばれた土砂や、河川の付け替えによって縮小し、わずかに形跡をとどめた湖沼と湿地帯も三百年ばかり前に干拓によって失われた。現代では河内湖という名を地質学の文献にとどめるのみである。
「あれは、ここだったの?」
 ヘレンがそう呟いた。彼女たちが一月を過ごしたあの世界が、古代の大阪の姿なのかと問うのである。
「いや、もう忘れよう」
 学究肌のアダムは何故か満足げにそう語り、チェルニーもため息をつくように同意して言った。
「そう、この大阪そのものがファンタジーだって事よ」
 ヘレンとヨゼフも頷いて同意した。あの出来事は四人の心にしっかり焼き付けられているが、今は口に出して誰かの好奇心でいじられるのは避けたいと思ったのである。胸にしまいながら歳を重ねるうちに、思い出は想像と混じって、本人ですら経験なのか夢なのか区別が付かなくなる。やがて、あの経験はほど良く熟して、芳香を放って記憶の中からにじみ出てくることもあるだろう。その時には、彼らがこの地で経験したファンタジーを、子どもや孫に語って聞かせても良い。しかし、たぶん、その時には、物語の舞台は彼らの故郷に変質しているだろう。彼らが経験した父から子へ伝わる思いは世界のどの地でも同じはずだから。
 律儀に彼らを待っているはずのジェスールと合流するために、彼らは坂を登り切った。交差点の向こうには、その奥に参道が続くと思われる真新しい石の鳥居が見えた。トリイ、それがヘブライ語が意味する門だとするなら、その先の彼らにはどんな未来が待ち受けているのだろう。
「えっ、ワクウ?」
 アダムは目の前の和ちゃんの名、和久の音読みがワキュウ、発音が少し訛ればあの世界の幼児の名と同じ響きだと思ったのである
 古来、日本には様々な文化が伝わっていて、「漢字」は中国から伝えられた文化の一つである。漢字の音読みという発音に、僅かながら中国に連なる音の響きを残している。ミコが自らの願いを込めて「和久」という漢字を当ててあの幼児を「わきゅう」と名付け、あの世界の人々の思いが、現代の和ちゃんの名に引き継がれたものなら興味深い。

 しかし、とアダムは続く思いを、マリアとエイモスの後ろ姿と重ねて、言葉にして吐き出した。
「あの二人の関係だけは、認めないからな。絶対に」
 チェルニーとヘレンがアダムの言葉を察した。
「過去はともかく、現代のマリアはボクのものだって言いたいわけね」
「まぁ、頑張りなさい。応援してあげるわ」
 彼ら四人の前方にマリアと寄り添って歩くエイモスの姿がある。真ん中の和ちゃんを経て手を繋ぐ三人の姿は、ようやく平穏を取り戻した親子の情景に見えた。

 

 

                                 了


あとがき

  1.

 長い作品を最後まで読んでいただいて本当にありがとうございました。登場人物達の思いが伝わっていれば幸いです。この物語は、「父親が世代を超えて語り継ぐこと」をテーマにしています。同じ瓢箪から駒シリーズで「悲翔」では母の変わらぬ愛をテーマに、在日外国人仲間が人類に普遍的な出来事と出会います。

よろしければ、「悲翔」もお読みいただければ嬉しいです。

  2.

 この「瓢箪から駒」は、世界でも特異的なという目で見られがちな日本の歴史や文化や人が、実は人類の普遍的なものではないだろうかという思いから、様々な理由で来日した外国の人たちが、日本で目撃し体験する出来事の中に、自分たちの民族の中にある物と共通の物を見いだしてゆく話です。それを通じて、日本人の読者にも、自分たちの文化が思想が世界の人々とつながってるんだと言うことを見せてくれるのではないでしょうか。

 第三話はアメリカ人女性ヘレンを主人公に、迷いの多い彼女の人生で、彼女の出自、日本にいる理由など、ヘレンを中心に、瓢箪荘に住む人たちが自分の存在を見つめ直してゆきます。日本に住んでいても故郷とつながっている・・・・・・そんな話です。

 第四話は、彼らが好意的に捕らえがちな日本で、出会った無戸籍の女性によって、日本にも世界と変わらない貧困などの問題が存在している様子を描く予定です。またアダムとヘレンの恋が育ってゆくのもこのはなし。

 第五話は、和ちゃんとマリアが主人公。入居者の人たちに両親のイメージを抱いて慕っていた和ちゃんですが、その入居者達も自分の存在理由を見いだして日本を離れてゆきます。そんな中で、和ちゃんの自立を描く予定です。

 

と、厚かましくも、まだまだ長い話を考えている作者塚越広治ですが、最後まで書ききれるよう見守ってくださいね。

 

 3.「約束の土地」の歴史改変について

 この物語は言うまでもなくファンタジーですが、作者として物語を楽しんでいただきたいのと同時に、読者の方々に史実に歪んだイメージを抱かせてしまうことを危惧しています。この物語を書く上で史実を無視した箇所について列記しておきます。

・登場人物について:小野妹子は言うまでもなく実在の人物です。聖徳太子(廏戸豊聡耳皇子)も実在したと考えて良いのではないかと思います。それ以外のノユリ、ケハヤ、オグツ、ヒコネなどのはこの物語のオリジナルの人物です。

・難波津の位置:作者は子どもの頃に異国からの使節が壮麗な四天王寺を眺めながら難波津に入港する様子が描かれている本を読んだ記憶があり、この物語でも四天王寺のすぐ西側に設定しています。ただし、現代の考古学的な観点では、もっと北側にあったという説が有力です。確かに地形や河内湖を利用した水運を考慮すると四天王寺の西というのは可能性か低いと思います。ただ、物語のラストを盛り上げる上では敢えて四天王寺の西にあったという設定にしています。

・四天王寺の位置:歴史的に何渡か焼失して再建されてるんですが、聖徳太子の時代は現在と別に位置にあったという説もあります。

・言葉:物語の勝手な都合ですが、アダムたちが自分たちが居るのが古代大阪だと気づくまでの時間稼ぎをしたかったので、大阪を意味する「難波(ナニワ)」を、当時の人々は訛って「なぬわ」と読んでいた設定にしています。もちろん大阪の呼び名がこのように訛っていた記録はありません。ワクウとノユりが摘んでいるツキクサは現代ではツユクサと一般的に呼ばれます。ファコベラは古代日本語の訛りで、現代ではハコベラと発音されます。ともに、古代の日本の雰囲気を出したかったので、意図的に現代と違う言葉を使いました。イメージが湧きにくかったらごめんなさい。

・その他、物語に登場する動植物は現代の大阪の自然を参考にしています。キツツキが出てきますが6世紀末の日本にいたかどうかの確認は取れませんでした。また、白い蝶が舞う描写は、おなじみのモンシロチョウではなく、スジグロチョウの設定です。その他、自然の描写で史実と会わない点は、ファンタジーだからと笑ってご容赦ください。

 

最後に史実を一つ、

もし、大阪を訪れて、通天閣や難波を観光する機会があったら、物語の最初の部分でアダム達が歩いた電気街を少し歩いてみてください。日本橋筋は、物語の昔、遠浅の海、いわゆる難波潟でした。信じられますか?


奥付



瓢箪から駒 ~約束の土地: 語り継ぐ父の姿~


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著者 : 塚越広治
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