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15

 同じ頃、ミコは対岸でサミュールと同じ月を見上げながら首を傾げていた。
「ケハヤよ。港が静かすぎるとは思わぬか?」
 この砦は高台にあるものの、地形の高低差や森林で視界を遮られて、港が目に入る訳ではない。ただ、数百人の兵士がおり、かがり火でもたいていれば、その光は空さえ照らして、この位置からでも薄明かりが見えるはずだ。また、兵士たちを統率するのに使う太鼓や銅鑼の音が聞こえても良さそうなものだが、港の方角は静まりかえって、人の気配を感じさせないのである。ミコに促されて耳を澄まし、目を凝らしたイモコとケハヤもまた首を傾げて、ミコの言葉に頷いた。
「ひとっ走りして、見て参りましょう」
 ケハヤはそう言い終わるか否や小屋を走り出た。彼の馬の蹄の音が闇深く遠ざかっていった。
「長い夜ね」
 チェルニーの言葉に、誰も声に出して返事をせず、ただ、心の中で頷いていた。アダムが確認した腕時計では日付が変わろうとする時間だが、夜は途切れず、不安や混乱は変化することなく続いている。
「この湖の向こうに、サミュールもいるのね」
 ヘレンがノユリに語りかける言葉には、貴女の愛する夫でしょ、と念を押すニュアンスが含まれている。ノユリは感情を押し殺すように寂しげに微笑んで返事に代えたが、その仕草がヘレンの勘に障った。傍らにワクウが居たため、子の面前でノユリに苛立ちをぶつけることもできず、傍らのチェルニーに吐き捨てるように言った。
「こんな昔っから。日本の女は感情を隠すのね。筋金入りだわ」
 その苛立ちが自分に向けられたモノだと気づいたノユリは、あきらめの感情と共にぽつりと言葉を吐いた。
「この国では、台風や地震で、夫や妻を亡くす人が大勢います」
「だから貴女も同じだとでも言うの?」
「そうかもしれません」
「貴女の夫、サミュールは生きているの。この湖の向こうで」
 ヘレンの感情が激高しかけたのを見たのか、ワクウがノユリを守るように寄り添って、母を苛めるヘレンを睨んだ。
「ごめんなさい、そんなつもりじゃないのよ」
 ヘレンはそんな言葉でワクウに詫びた。この子はサミュールの名を聞いても、自分の父親とは理解すまい。しかし、その名の意味を語り聞かせるのも気が引けた。この時、ミコの侍従のイモコは、意図した涼しげな表情で空を仰いで、月を指さした。
「ほらっ、皆さん。空の月が冴え渡って美しい」
「本当、綺麗な月」
 ヘレンの言葉に仲間は頷いた。この世界にやってきてから、夜空の星や月が美しいということを呼吸するように自然に受け入れていた。ただ、改めて眺める月は、丸く静かに輝いて神々しく人々を守っていた。
「月は人の心を穏やかにもし、迷わせもします」
 イモコの言葉にアダムが問うた。
「人の心次第、と言うことでしょうか」
 ミコは頷いてアダムに同意して付け加えた。
「そして、迷っていることすら分からぬうちに、真理はの光も覆い隠されることもある」
 東の空を眺めると、星の光を遮る黒い雲があり、やがてこの月の光を遮るだろうと言ったのである。再び訪れた沈黙の中に、小魚が水面ではねる音、夜空を引き裂くような甲高い水鳥の鳴き声が時折響き、耳を澄ませば遠く、蛙の声が小さく響き続けていた。ただ、どんよりと淀んだ空気の中で、岸辺の芦原は風にそよぐこともなく静けさを保っていた。
 大人にとって辛く長い時間だが、望みもせずこの場に居合わせる事になったワクウにとって、迷惑な時間だったのかもしれない。寝かしつけてもらったものの、逆に目が冴えてしまったようでぱっちりと大きな目を開いていた。しかし、遊び相手を求めても同年齢の子どもは居らず、大人たちは皆、黙りこくってしまっている。母の手を引いてみたり、チェルニーのスカートの裾を引いて気を引いてみたり、ヨゼフに手品をねだってみたり、ヘレンにハイファイブを求めたりした。ワクウは抱きしめてもらったり優しく頭を撫でてもらっただけで、誰もワクウと心を交わさず関心を払う者は居なかった。アダムは物思いに耽りながらそんなワクウを眺めていた。
 やがて、ミコはワクウの存在に気づいて、その名を呼びながら引き寄せた。
「ワキュウ。おいで」
 人々がこの子を呼ぶワクウと、発音が少し訛っている。いや、ミコがこの子の名付け親であるだけに、ワキュウが正式な呼び名なのだろう。その名にどんな由来があるのか分からないが、村人たちはその発音を呼びやすく訛らせてワクウと呼び、今はそう呼ばれる本人もその名を受け入れているらしい。
 そのワクウは物怖じもせず、椅子に腰掛けるミコに寄り添った。ミコは過去の自分に向き合って問うように、ワクウに声をかけた。
「我は、お前の父と母を引き離した。間違えていたのだろうか? まだ争いが収まらぬ」
 黙ったままのワクウに、ミコは寂しげに自分の能力を悔いた。
「我には、人々の憎しみを消すことは出来ないのだろうか」
「違う。僕らは傍観者に過ぎなかった」
 ミコの言葉を否定するかのように響いたアダムの声は周囲の人々の注目を浴びた。しかし、アダムが手帳を破り捨てる様子で、彼の自問自答の言葉だとわかった。彼の視線はワクウにあって、破り捨てた手帳はもう不要だった。幾つもの人の名、出来事を几帳面に書きとどめ、頭の中でその情報を組み立てていたが、目の前の現実は好転するわけではなく、アダムたちも傍観者でしかなかった。
 ミコの視線が注がれているのに気づいて、アダムは語った。
「この世界にきて、二組の親子が美しいと感じました」
「以前、そなたが話してくれた母子のことか?」
「その美しさの理由を見落としていました。運命を呪わず一生懸命に生きて、子供はその生き方を受け継いでいく。そんな姿です」
「それで、人の心の憎しみが消せるのだろうか」
「でも、今の私たちは憎しみや怒りに振り回されるだけ。焦った私たちは迷い、次の行動がとれないまま、何もできずに傍観者で居ます。僕はワクウたちにどんな生き方を見せてやるかなんて考えてもいなかった」
 アダムはワクウの前にしゃがんで視線を合わせ、誰かにではなく、自分自身に問いかけた。
「僕らはこの子に何を語り継ぐんだろう」
 アダムの言葉に刺激を受けたように、ミコが即座にその言葉を継いだ。
「確かに、今の我にはこの世界の憎しみを消し去るすべはないが、消そうとする生き方を見せることができる。ワクウが我々の思いを育てて、次の世代へと継いでくれれば」
 もちろん、ミコが語るワクウとは、ワクウが代表するこの大地に生きる子どもたちのこと。倭人の子ども、ユダヤ人の子ども、次の世代を支える存在のことである。この場にいあわせた人々は、ミコとアダムの言葉に聞き入り、自らの心に問うた。ノユリはすすり泣くように跪き、顔を伏せてワクウを抱いた。
「私は、悪い母親です。この子に父親はいないんだという嘘ばかりついてきました」
 チェルニーが慌てて声をかけた。
「ノユリさん」
 ノユリが続く言葉を吐けば、彼女自身を傷つけてしまうのではないかと危惧したのである。おそらくこの場に居合わせた人々の思いは、その点で一致していたに違いない。ただ、誰もノユリの言葉を静止する理由を口に出せないまま、ノユリは続く言葉を吐いた。
「この子が父親の姿を求める度に、私もあの人のことを思い出して、悲しみが晴れません」
 愛する夫と引き裂かれた女は、夫と再び相まみえることも許されず、孤独に耐えていたのである。
 一瞬の沈黙を、馬蹄の響きが打ち破った。ケハヤが戻ってきたに違いなく、闇の中に慌ただしく急速に接近する音は、砦に残っていた人々の心の不安感をかき立てた。
 やや、間を置いて、砦に戻ったケハヤが飛び込んできた。
「ミコ、ナヌワの港にヒコネ殿と兵士の姿がありません。戦船に乗って出航したとのことです」
 ケハヤがそう報告した。普段、温厚なミコがこの時には鋭い怒気を発した。
「ヒコネの奴め、我をたばかりおったな」
 昨日、ヒコネが兵を港へ移動させたいと言った、その隠された意図を察したのである。砦に接する湖面は浅く、この桟橋に数十人の兵士を乗せる軍船を着けることが出来ない。この浅瀬から多数の兵士を対岸に渡すことは出来ないのである。しかし、ナヌワの港で軍船に乗船させ、海岸沿いに北上し、川を遡って湖に出れば、回り道のように見えるが、合理的に大軍を対岸に渡すことが出来る。ヒコネはそれを読んで予め兵を移動させたのだろう。
 ミコはまっすぐ対岸を指さした。
「ケハヤ、今から、向こう岸に渡るぞ」
 ケハヤは頷いたが、この船着き場には、小舟が三艘のみで充分な護衛を付けることは難しいだろう。
「ノユリ、言葉が解る者が必要だ。申し訳ないが、お前には同行してもらうぞ」
 ノユリはその言葉に顔を輝かせて頷いて同意したが、寄り添うワクウの姿を見て顔を曇らせた。アダムが代役を申し出た。
「ミコ、言葉なら私たちも解ります。ノユリさんの代わりに、私が同行します」
「そなたたちは客人だ。遠慮願おう。今は、この地に生きる私たちが、ワクウに語り継ぐべき姿を見せねばならぬ」
 ミコは先ほど激昂していたかとは思えないほどの落ち着きをみせて、アダムたちの提案をきっぱりと拒絶した。ミコの判断に間違いはないと思いつつ、アダムたち四人の心に疑問が湧く。自分たちが傍観者であって良いのかという感情である。
 ヘレンが別の提案をした。
「ケハヤ、貴方はミコの護衛よね。ミコの命が危険に曝されたとき、ノユリさんの命まで守りきれる?」
「それがミコのご命令なら」
「いいえ。ノユリさんとワクウちゃんは私たちが守るわ」
「私たちって?」
 チェルニーはそんな怖いところに行くメンバーに自分も含まれているのか問うたのである。ヘレンは断言した。
「そのしょぼくれた顔は何? ちゃんとタマぶら下げてる?」
「タマって何よ。言っておくけど、私は女ですからね」
 そんなチェルニーの返事を聞く気もなく、ヘレンは断言した。
「それに、危険な任務には衛生兵も必要だわ」
「勝手に衛生兵にしないで」
 何を言っても無駄だというヘレンの強引さではなく、すがるようにじっとチェルニーを見上げるワクウの視線で、チェルニーはヘレンに妥協した。
「いいわ。わたしも行く。この子をほっとくわけには行かないわ」
「貴方たちも良いわね?」
 ヘレンはアダムとヨゼフにも同意を求めた、二人も異存はなく頷いた。
「ミコ、お聞きの通りです。私たちも舟を一艘お借りします」
「では、ノユリとワクウをよろしく頼む」
「急ぎましょう」
 アダムが目にした時計は午前二時。まだまだ、夜明けは遠い。
「どこへ行くん?」
 尋ねるワクウにノユリが言った。
「お前の父さんのところ」
「ボクにも、父さんおるん?」

 


16

【女と子どもを北の山へ逃がそう】
 ラビの指示に人々が頷いていたときに、一人の若者がラビの住居に飛び込んで来て叫んだ。
【大変だ。兵士が村の東にも現れた】
 人々の間に衝撃が走った。
(なるほど)とサミュールは興味深く考えた。
 暗闇の中とはいえ、村の西に展開した兵士たちの人数は、彼が目撃した戦船の数に比べると少ない。彼らは兵力の一部を上陸させた後、舟を集落の東南部の岸に進めて、残りの兵力を上陸させたということだろう。間もなく、村は兵士に包囲される。
【サミュール。お前はどうするつもりだ】
 他の若者を従えたエゾラがそう聞いた。彼は臆病な男ではないが、緊張の最中にあり、剣の束にかけた手が小刻みに震えていた。
【神の御心のままに】
 落ち着き払って答える弟に、兄のエゾラは激昂した。
【女や子どもを危険に曝すというのか】
【それなら、その剣と盾で守ってやれ】
 サミュールは武器を手にする若者たちに皮肉を込めてそう言った。
【臆病者め! 父の血筋に目覚めたかと思ったが、やはり、お前は異民族の女の血筋か】
 エゾラはそう言い放って去った。
(父親の血筋だと?)
 自分たちの民族のために戦った者を、持ち上げたり貶めたり訳の分からない事をと、サミュールは自嘲的に笑った。十三年前、この集落の人々は戦の影にのみ怯えて、神の御心も忘れてサミュールの父親たちを戦場に送った。負け戦に終わるや、戦で亡くなった若者たちを貶め、素知らぬ顔で勝者につけいっているような気がするのである。あの愚か者たちは、主の御心に従うわけでもなく不安に駆られて誰かを戦わせる。そんなことをするより、自ら神の意志に殉じて死ぬか、剣を取ってみろと考えるのである。

 ユダヤ人集落を包囲する兵士たちは、今やその姿を露わにしていて、集落と一町ほどの距離を置いている。勢いよく炊き上げるかがり火の光を辿ってみれば、集落を隙間無く包囲している様子が見て取れた。集落の人々に脱出する意欲を削がせる光景である。今は雲に厚く覆われてしまった空からは、星も月も姿を消し、地上の猛々しい光のみ輝いていた。アダムが松明の火にかざす腕時計は、午前三時前を示している、まだまだ夜明けには遠い。
 ミコはその光の中から最も大きな明かりを目指して舟を岸辺に着けさせた。
「誰が兵を出せと命じたか」
 ミコが兵の指揮官ヒコネに問う言葉は険しかった。ヒコネはミコの言葉にひるむことなく答えた。
「前々より、ユダヤ人が蜂起する様子があれば、これを鎮圧せよとオーミの命を受けております」
「そなたの主は、オーミか、我か?」
 ヒコネはそれに答えず、反論した。
「我が国に害意を抱く者共を平らげるのが、私の責務です」
「害意を抱くかどうか、誰が判じるというのか?」
 激高しかねない二人の関係をおもんばかって、ミコに侍るイモコが二人に割り込むように聞いた。
「これから、いかがしましょう」
「まもなく夜が明けよう。兵士には、それまで静かにその場で待つよう伝えよ」
 ミコはそう言ったが、ヒコネの顔をじっと眺めた。イモコはその意図を察した、この緊急の場で、この男がミコに服するかどうか疑いが晴れないに違いない。イモコは申し出た。
「ミコ、あのかがり火を辿ればよいのです。私が一回りしてミコの命を伝えて参りましょう」
 兵士は暗闇の中に分散しているが、かがり火を目標にして探せば、兵士たちに新たな命令を伝えて回れるというのである。
「行ってくれるか。では、これを我の代わりに持参せよ」
 イモコはミコが差し出した曲玉の首輪を大事に懐にしまい、暗闇に姿を消した。ミコ自身も自らの命令を実行するように、黙ったままその場に立ちつくした。
「どうして、今すぐに引き上げないのかしら?」
 チェルニーの疑問にヘレンが答えた。
「兵が広範囲に分散していて、ミコの意志も徹底できない。暗闇の中で下手に兵を動かすと、知らずにユダヤ人たちに接触して混乱し、無用な戦闘も起こりえる。一端、戦闘が始まれば拡大するわよ。ミコの考え通り、夜が明けて命令が正確に行き届くようになるまで、このままそっとしておく方が良いわね」
 ヒコネが納得しかねるように問うた。
「しかし、奴らから仕掛けてきたときにはいかがいたしましょう」
「その時は、我が決め、我が命を出す」
 ミコが思い悩む様子を見かねるようにケハヤが言った。
「ミコ、試しに、私が使者に立ちましょう」
 こういう場合、ミコにとってケハヤほど信頼できる使いは無かろう。常に側近として身辺に控え、ミコの意に沿わない行動はしない男である。
「行ってくれるか。しかし、危険があれば、すぐに引き返して参れ」
 ケハヤは頷くと、傍らの兵士から盾を借り、身を低くして歩き始めた。右手には剣の代わりに松明を持っていて、その炎は夜目にも明らかで弓の的になりかねない。その勇敢さにヘレンは感心した。ヘレンも傍らの兵士の盾を拝借した。

「お前は、何故ついてきた」
 ケハヤが背後の気配を察して、ヘレンを振り返ってそう言った。
「お馬鹿。貴方は彼らの言葉が解るの? 言葉が解らないのに一人で出かけても無駄よ」
「なるほど。では、とりあえずあの樹の所まで」
 ユダヤ人集落から見える灯りで揺らめくような影に見えるのは、サミュールがささやきかけていた桜の樹に違いない。その幹は細く身を隠すには不足だが、この視界の開けた場所では他に頼るべき影がなかった。ユダヤ人集落からも、ミコのいる陣からも五十メートルばかりの距離で、慣れた射手なら確認した目標を射ることができるだろう。
 そんなケハヤの想像通り、カンッ、カンッと二度ばかり、手にした盾に矢を受ける衝撃があった。盾を外れた矢の何本かは、ケハヤとヘレンの傍らを勢よく飛び去った。
「彼らの意志を問うのに、言葉は必要なかったようだ。下がるぞ」
 ケハヤはヘレンの持つ松明を奪い、自分の松明と共に捨てた。さらに飛んできた矢が松明の炎をかすめているようだったが、その炎から離れてケハヤとヘレンは闇の中を後退している。
 ユダヤ人たちに戦う意志がある。ヘレンはケハヤがそういう報告をするだろうと考えたが、違った。
「彼らも怯えているのでございましょう。彼らに戦いの意志はございません。ほらっ、その証左に、盾に刺さった矢に勢いはございません。慣れた射手の矢はことごとく逸れております。我らを脅し接近させぬことだけが目的」
 松明を掲げて行動していたから、暗闇でケハヤの姿が見えなくても、射手はその光の下を狙って矢を放てば、ケハヤを射殺すことも出来ただろう。矢の幾本かは盾に命中したが、その勢いは弱く、不慣れな射手が発した矢である。本当に慣れた射手が発した矢は、二人に警告を与えるように、勢いのいい音と共に傍らを過ぎてケハヤとヘレンを傷つけてはいない。しかし、戦闘を続ける意志を持続し続けるように、時折、矢は放たれ続けていた。
「今、何時?」
 ヨゼフがアダムにそう尋ねたのは、早く明るい日差しがこの人々を照らし出し、混乱から目覚めるように祈ったからである。しかし、確認する時計に、夜明けには時間があった。ワクウのみ、他の人々との思いは違うようでこの状況とは異質な質問をした。
「ボクの父さんって、どんな人?」
 ノユリは返答に窮してただワクウを抱きしめ、周囲の人々もワクウに納得のゆく回答を与える事が出来ないで居る。

 


17

 同じ頃、サミュールはナイフを研いでいた。彼は優柔不断な仲間に腹を立てていた。女や子どもを守ろうとするなら、さっさと戦って包囲を破れと言いたいのである。神や勇ましい言葉のみを振りかざして威張っている連中が嫌いだった。そんな連中と行動を共にするのにも嫌気がさしていた。
【母さん、俺と一緒に逃げよう】
 サミュールが母親にそんな提案したのは、村が兵士に包囲されたという知らせを受けた直後である。包囲されたと言っても湖畔の方向が空いている。幸いに今は厚い雲が月の光も隠して地表は暗い。地のくぼみや草むらに身を隠しながら湖畔の小舟まで行き着けば、湖を封鎖するほどの戦船はなく、戦船の間を縫って発見されずに脱出できると考えたのである。ただ、そのためには、兵士の注目をこの村に釘付けにしておかねばならず、気づかれないようにするために、脱出する人数は少ないほど都合が良い。
【この村の人たちを残しては行けないよ。エゾラもシャーマも大事な私の息子だわ】
 チュラーヤは言葉に決意を込めて、意外なほど大きな声でそう言いきった。サミュールは母の声の大きさではなく、この時に戸口に感じた人の気配に舌打ちする思いで考えた。
(しまった。逃げようと言ったことを聞かれてしまったか)
 姿を見せたのは兄のシャーマとエゾラである。事実、二人は戸口でサミュールとチュラーヤの言葉を聞いていた。怒鳴り出すかと思った二人は、意外にも温和しく静かにサミュールに言った。
【サミュール、お前も見張りに立て】
 シャーマの言い分は分かる。わずか三百人ばかりの村で、女子どもを除いて戦える村人は六十人にも満たない。一人でも男手が必要だろう。
【では、私も見張りぐらいやれるかねぇ】
 チュラーヤがそう言って立ち上がったため、サミュールはシャーマの言葉に反駁せずに従わざるを得ない。しかし、シャーマとエゾラがチュラーヤに注ぐ視線はいつもの侮蔑的な色はなく、過去の自分に罪悪感を感じているようだった。二人の兄はチュラーヤと視線を合わせるのを避け、チュラーヤもそんな息子の気持ちを汲んで二人に語りかける事はなかった。
【エゾラもシャーマも大事な私の息子】
 シャーマが戸口から漏れ聞こえてきたチュラーヤの思いを繰り返すように小さく呟き、エゾラがそれに答えるように言った。
【母さんか】
 雲が厚く空を覆って、月も星も見えず、時間が止まるように状況が静止した。大人たちの緊張に耐えかねたように、一人の幼い少女がすすり泣き始め、その感情が伝わり広がって、他の子どもたちも泣き始めた。集落は子どもたちの悲痛な感情で覆われた。
 父親にすがりつく幼子の姿が、まだ腕に抱いたことのない我が子の存在をサミュールに思い起こさせた。会うこともなくこの場で果てるのかと考えると、父親として何も出来なかったことが悔やまれた。
(アダムと言ったか)
 先日出会った同じ年頃の青年の言葉が思い起こされた。
「子どもは、親が喜ぶ姿を見るのが望みさ。ただ、真面目に生きる姿を見せればいい」
 サミュールがふと右手の指先に何かの感触を感じて眺めてみると、左の肘に巻いた飾り紐である。サミュールにこの紐をくれた幼児の面影が浮かんだ。その子どもの面影が、混沌とした心から、一つの思いを拾い上げた。
(俺に何が出来るだろう。どんな生き様を子どもに伝えてやればいいだろう)
 続いて思い起こしたのは母が語った父の言葉である。『三人の息子に、この大地で生きる足がかりを築いてやりたい。もし、俺が死んでも、この国の人々が我々の信仰を受け入れてくれるなら、お前と三人の息子にとってここがカナンの地となる』
(俺も父を引き継がねばならない)そんな連なる思いが、サミュールを決断させた。
【母さん】
【何だい?】
【俺は卑怯者だ】
【いきなり何を言い出すんだい】
【本当さ。母さんはあのアダムという男に、ノユリをこの村に引き取らなかった理由を話したね】
【ノユリが私のような扱いを受けないようにと】
【違う。俺は仲間のみんなから、異民族の娘を娶った男だと言われるのが嫌だったし、事実、怖かった。俺はその怖さに負けた。俺はノユリと母さんを傷つけてしまった村一番の臆病者だ】
【そんなことが、】
【さっき母さんは村人たちの前で、父さんの事を話した。今の俺は何が出来るんだろう】
【あなたはシャーウールの息子よ。あなたはあなたの息子の事を考えなさい。息子のために出来る事】
【母さん。もう一度、奴らに俺たちの意志を伝えてくる】
 命がけになることを理解しつつ、母親もサミュールの意志を尊重した。
【そうかい。気をつけて行っておいで。それからこれを】
【これは?】
【父さんの形見さ。お前の父さんもこれを持って行ったんだ。これを見る度に三人の息子を思い出すと言ってね。帰ってきたのはこのペンダントだけだったけれど】
 チュラーヤは夫の遺品の六芒星の紋を刻んだペンダントを息子の首にかけた。
【ありがとう】
 その言葉を最後に、サミュールは母に背を向けて走り出した。倭人に平和の言葉を伝えるためである。

 ミコの側から、集落を囲む柵を越える人影が見え、その影がゆっくりと接近してきた。暗闇の中、時に兵士たちが炊き上げるかがり火の光を浴び、時に背後のユダヤ人たちの灯りで影になりながら無言のままこちらにやってくるのである。
「ミコ、試しに矢を放ってみましょうか」
 弓を手にして警告してみようと提案するケハヤに、ミコは即座に否決した。
「いかん、様子を見る」
 そう言った瞬間、矢が放たれる音が響いた。兵たちもまた緊張の極地にあって、不審者に対して構えた弓から命令を待たずに矢を放ってしまったらしい。
「矢を放ってはならんぞ」
 ミコの叱責が飛んだ。

 人物は集落の柵と兵の間まで進み出て、何かを大声で叫び始めた。年若い男の声だった。もちろん、この国の者どもが理解しないユダヤの言葉で、兵たちは不審そうに眺めるのみである。それでも男は身を矢の危険に曝したまま叫び続けた。
 間もなく夜が明けるのではないかという期待がしながらも、夜は明けてはいない。その暗闇の中に男の声が響き続けた。同じ言葉を繰り返すようで、何かの祈りが籠もっているようにも思え、特定の人ではなく、天と地と、この世界の万物に語りかけるようにも思われた。
「ノユリはどこだ」
 ミコは言葉の意味が知りたく、ノユリの姿を求めた。彼女はヘレンの傍らで小さく震えるように、響いてくる男の声を聞いていた。
「あれは、あなたの父さんよ」
「ボクにも、父さんおるん?」
「あなたは、ここで父さんの言葉を聞いていなさい」
 ノユリはワクウにそう言って、ワクウの身柄をチェルニーに託した。彼女は陣を離れて走った。ユダヤの人々にもミコたちにも、叫び続ける男に走り寄る女の影が見えた。
「これは、彼らの神が、彼らに与えた言葉。彼ら生きる指針です。彼はユダヤ人の意志を伝えようとしているのでしょう」
 響き続ける男の声を、ノユリに代わってアダムが訳してミコに伝えた。彼らの神の言葉、彼らの戒律である。

「あなたの父母を敬いなさい」
「殺してはなりません」
「姦淫してはなりません」
「盗んではなりません」
 
 男の声がぱたりと止んだ。接近する二つの影が一つに重なった。いや、今はもう瞬くかがり火に作られる影ではなかった。夜明けを予感させる薄明るい光に、サミュールがノユリを抱きしめ、ささやきかける姿が見えた。
 少し間をおいて、サミュールの声が響き始めた。信念に支えられているが、悲壮感が籠もっていた男の声音が変わっている。傍らに支える者が居るという自信だろうか。
 男の声から少し間をおいてノユリの声が響いてきた。
【神は仰いました。わたしはあなたの主なる神だと】
 サミュールの叫びに続いてノユリの声が響いた。
「わたしではない神は偽物です」
「神の名を何回も唱えてはなりません」
「神の日を忘れず、神の日を大事にしなさい」
「貴方たちは父母を敬わなくてはなりません」
「殺してはいけません」
「女を犯してはいけません」
「盗みはいけません」
「他の人を嘘で貶めてはいけません」
「隣の妻を求めてはなりません」
「隣の財産を欲しがってはいけません」

 無学で特定の神を持たない女の言葉はたどたどしい。時に言葉の理解と訳を誤り、夫への愛情に基づいて言葉を伝えようとする。ただ、言葉が持つ真理に誤りはなく、夫婦のひたむきさか兵士の心を包んだ。二人の声が聞こえ続ける間、二人の周りで争いの時が静止するようにも思われた。同じ言葉が二人によって何度繰り返されただろう。
 この朝、眩しく輝く夜明けはなかった。重くたれ込めた雲がぼんやりと明るさを増しただけである。ユダヤ人の集落からもサミュールに寄り添うノユリの姿が見えた。
【あの女が】
 憎々しげな呟きと共に、兵士に子を殺されたデービットが弓に矢をつがえた。
【呪術を使う女を生かしておいてはならない】
 デービッドの憎しみの心は、サミュールが唱え続ける言葉を、異国の女が呪文の言葉で封じているように見せたのである。
【止めろぉ】
 デービッドが矢をつがえるのに気づいたエゾラの静止も間に合わず、集落第一の弓の使い手の矢は放たれた。
 飛んできた矢を察知したサミュールは、妻をかばうように身を投げ出した。矢が人体を貫く鈍い音がし、夫の声が途切れたためにノユリは起きたことを理解した。サミュールはそんな妻に言葉をかけたが、妻の腕の中でがくりと頭を垂れた。ノユリは夫の言いつけを守るように叫び続けた。

「神の日を忘れず、神の日を敬いなさい」
「貴方たちは父母を敬わなくてはなりません」
「殺してはいけません」
「女を犯してはいけません」
「盗みはいけません」
「他の人を嘘で貶めてはいけません」
 その声は涙混じりになり、途絶えがちになる。しかし、続いた。この時にユダヤ人の集落から新たな人影が飛び出した。女の姿。アダムとヘレンは、そのチュラーヤの姿に記憶があった。
 ミコは片手を挙げて新たな人影に反応する兵士たちを制し、彼自身もゆっくりとノユリの方へ歩み始めた。すでに世界は色を取り戻しかけて、彼らをつつむ緑の草原や、兵士の足下で荒々しく踏みしだかれているツキクサの青い花びらの色が鮮やかに見えた。
 白い衣装でひときわ長身のミコの姿は、ユダヤ人集落から眺めることが出来た。今もう少し接近すればあの無防備な男を射殺す事が出来るだろうし、本人もそれは解っているだろう。しかし、その静かな姿に、ユダヤ人は弓と矢を捨てた。
 ラビがミコに応じるように立ち上がり、柵の外に進み出た。ミコに寄り添うように前進する兵士たちも、剣の束から手を離し、ただ、ユダヤ人との間にいた二人を眺めるように歩んだ。ユダヤ人たちの中からも柵を越える者が現れた。
 ノユリとサミュールに駆け寄った母親のチュラーヤは、既に息子が事切れていることを知った。
「殺してはいけません。殺してはいけません。殺さないで」
 夫を抱いて、いまはその戒律だけを繰り返して叫ぶノユリとサミュールを、チュラーヤは静かに歩み寄ってくる人々を見渡した後、二人を抱きしめて言った。
「ノユリ、もう終わったわ。後はサミュールのことだけ考えてやって」
 二人は立派に役割を果たしたから、後は夫婦として振る舞えと言うのである。ノユリは義母の言葉に頷いて、六年ぶりに出合った夫の胸に顔を埋めて泣いた。チェルニーの手を離れて駆け寄ってくる幼子の足音に、ノユリは目覚めたよう振り返った。彼女は飛びついてきたワクウを抱いた。
「これが、あなたの父さん」
 その母の言葉を理解できないように、ワクウは不思議そうにサミュールの亡骸を眺めていた。もちろん、ワクウはこの顔に記憶があった。何より亡骸が左腕につけた飾り紐はワクウの髪を結っていた紐である。
 ふと、頬に感じた冷たさに気づいてみると、衣服を湿らせるだけだった雨が、露出した肌を覆っていた。乾ききった地を黒々と濡らし、今はその表面に雨粒の波紋がみえている。霧雨が人々と大地と自然を包んでいた。やがて雨脚は強くなり、人々の髪からしたたり落ちた。頬を伝う涙と雨が混じり合って区別がつかなかった。
 この国の大地に豊穣をもたらす雨の季節の到来だった。全身はずぶ濡れで、重く水を吸った衣服から雨がしたたり落ちたが、惨めさはなく、憎悪が流し去られて、素の人間に戻るような心地よさがあった。

 ラビがミコに何かを語りかけようとしたが伝わらず、残念そうな微笑みでその意思を表した。アダムが間に入って、ラビの言葉を聞きミコに伝えた。
「この土地に、こんなにも長く逗留したのに、意志を伝えるのが難しいようです」
 ミコもラビに語りかけ、アダムたちが持つ言葉に含まれる感情を感じ取り、感情を言葉に乗せて発する能力によって、言葉と共にミコの言葉がラビに伝わった。
「私も同じです。でも、友を失う悲しみや、和解の笑顔を伝えることは出来るようだ」
【平和のうちにこの国を去れますように。いつかどこかで共に暮らせる時代を迎えますように】
 そんなラビの願いの言葉をアダムはミコに伝えた。ミコは残念そうな意識で答えた。
「この地では共に暮らせぬと?」
 ラビはミコが心に秘めた願いに感謝を込めながら、深い信仰心を露わにして言った。
【私たちは幾世代にも渡る旅を厭い、この地に安住する意志を固めたつもりでした。しかし、ここが神が我々に約束なさった土地なのかという心の迷いもありました】
 ラビはサミュールの遺体に顔を向けて続けた。
【私はこの若者に、神のご意志を占うつもりでした。生きて帰ってくれば、ここを神の土地だと信じようと】
「ここはあなた方が信じる土地ではなかったと?」
 アダムによって訳されたラビの言葉を聞いたミコは残念そうにそう言った。ラビはそれには答えず言葉を続けた。
【この若者は亡くなりましたが、この夫婦は立派に役割を果たして、今はこの通り、我々から憎しみを消し去ってくれました。これも神のご意志でありましょう。ただ、この若者の死と引き替えに、我々に旅立てという主のご意志にも従わねばなりません】
 互いの心を味わうような沈黙があり、ミコの迷う思いを断ち切る感情が、アダムを経由してレビに伝えられた。
「分かりました。望み通り、友として旅立ちの準備をお手伝いいたしましょう」
 そんな短いやりとりの後、ミコとラビは夫の遺体を抱きながらすすり泣くノユリの傍らに跪いた。すすり泣き続けるノユリの背を撫でながら、ミコは最大限の感謝を一言に込めた。
「そなたたちのおかげだ」
 もう一人の年配の女は、亡くなった若者に寄り添う様子から、ミコにはこの女性が若者の母だと察しがついた。ミコはチュラーヤに聞いた。
「何か私に出来る事はないか」
 そんなミコの言葉にチュラーヤ首を傾げたのに気づいて、アダムが通訳をし、チュラーヤの返事をミコに伝えた。
【もし、願いが叶いますれば、この子の体は、ノユリの村の桜の樹の元に葬ってやりたいと思います】
 ミコは頷いて了解したと意志を伝え、アダムはミコの意志を言葉に変える必要がなかった。

 ヒコネに率いられた兵士は、ミコの護衛の十数人を残して去った。荒々しい雰囲気は雨と共に流し去られていた。
 サミュールの遺体はユダヤの村に運ばれて、入れ替わりに訪れる弔問客との面会を果たした後、真新しい白い布に包まれて輿に載せられた。ノユリは異国の葬儀の様式に戸惑いながらも、チュラーヤの傍らで夫の遺体を見守り付き添っていた。
 ユダヤの村に招き入れられたイモコが、ユダヤ人たちの文化に目を輝かせて言った。
「興味深い。異国の雰囲気がします」
 アダムはそんなイモコが微笑ましい。もし、世界の人々が、このイモコのような敬愛が籠もった好奇心で触れあう事が出来たらと、暖かな世界を想像したのである。
 ミコたちはラビのテントに招き入れられた。
 座ろうとしたチェルニーは、腰の辺りにこつんと堅い感触を感じてポケットに手を入れた。取り出した物は彼女の携帯電話である。彼女は苦笑いをして言った。
「見て、私はまだこんな物を持っている。もうバッテリーも切れてるのに」
 帰る見込みのないまま、前の世界の遺物を手放せない未練がましい自分の愚かさを笑ったのである。アダムやヘレンも似たようなものだった。アダムやヘレンは未だに腕時計で時間を確認する習慣を失っていない。
 傍らにいたワクウが携帯電話に興味を示して手を伸ばした。無邪気な目だが、いつもの笑顔がなかった。今日、出会った男が自分の父親だという事、その男が死んだ事を理解して受け入れる事が出来ないのだろう。心の整理がつかないまま泣く事もせず、ただ目の前の物珍しい物に興味を向けたのである。この子が今日の出来事を理解するのは、まだ先の話かも知れない。チェルニーはワクウを優しく抱いた。
 そんなワクウを眺めながら、アダムも自分のポケットから携帯電話を取り出した。彼もまた前の世界とのつながりを手放せないで居た。慎重な彼は電源を切っている。しかし、再びこの電源を入れる日が来るだろうかという思いがわき上がってきた。
 小雨は降り続いていて、太陽によって時を計る事が出来なかった。アダムの時計によれば午後一時半に、見送りを受けながら埋葬に関わる関わる人々は、十数隻の小舟に分乗した。ノユリとワクウは遺体と共に居たが、ワクウは黙ったまま泣きもしなかった。父の死を理解できない幼い子どもの姿が、周囲の人々の涙を誘うようだった。

 西の対岸ではノユリの村の人々が彼らを出迎えた。湖の対岸に移り住むまでは共に過ごした人々である。再会を懐かしむ姿も、今は悲しげに見えた。
 ラビは懐かしい村長の顔を見つけ、ノユリの父の村長もまた笑顔で歩み寄って、意外な言葉で挨拶をした。
「しゃろーむ」
 アダムはその言葉が、ヘブライ語の挨拶だという程度の知識は持っていた。抱き合って再会を喜ぶ仕草も、この村の人々のもともとの習慣ではない。数年間、生活を共にするうちに、この村の人々も経験した挨拶を身につけていたのだろう。
 村の桜の樹を眺めたとき、ラビが村長に何かを語り始めたが、村長はその言葉の意味を理解しかねて首を傾げた。挨拶程度は理解できても、意志を伝え合うほどには言葉を理解していないのである。アダムがそれに気づいて通訳を買って出た。
「ラビはこう仰っています。以前、この村を去るときに、この樹を眺めて、「シャローム」、さきほどの挨拶の言葉に込められた意味を考えました。健康や繁栄、そして何より平和。湖を渡った地で、これと似た樹を見つけたとき、ここが神が示してくださった場所かと考えて、その樹のそばに村を作ることにしました」
 その言葉に村長は頷き、語り始めた言葉を、アダムは今度はラビに伝えた。
「この村の桜と、あなたがたユダヤの集落の桜。二つの樹はノユリとサミュールのようです。ノユリはこの桜の樹にサミュールの姿を重ねているようでした」

 兄のシャーマとエゾラが沈痛な面持ちで墓穴を掘った。サミュールの遺体はラビが詠唱する聖典の言葉と共に穴に降ろされて、すすり泣く人々は最後のお別れをした。ミコが傍らにいたワクウの髪を撫でた。
「ワキュウ。今日、この日の事を記憶にとどめよう。我はこの桜のように枝葉を伸ばして人々を守る事を誓おう。お前はこの樹の青々と茂った葉を眺め、やがて舞い散る葉を眺め、雪や風の中で静かにつぼみを膨らませる枝を眺め、そして満開になる花を眺める。この樹を眺めるたびに、勇敢な父の姿を思い出すが良い」
 ミコは傍らに生えていたツキクサを摘んでワクウに渡し、父親の遺体に載せさせた。ツキクサの二枚の花弁の青い色が霧雨の中で映えた。アダムたちがこの世界に来た後、ノユリと共に薬草摘みに出かけた時に摘んだ植物である。あの頃は珍しかった花が、四週間の間に本格的な開花期を迎え。今は周囲で盛んに清楚な青い花をつけていた。これがこの地の習慣かと考えたユダヤの人々も、手近な花を手折り、祈りと共に墓穴に投げ入れた。遺体は花で包まれた。アダム、ヨゼフ、ヘレン、チェルニーも花を手向けた。葬儀の後、ユダヤの人々は元来た道を辿って帰った。遺族は一週間ばかり喪に服すのである。
 霧雨は降り続いていたが、悲しみを洗い流し、これから何かが生まれ出すという期待感で心地よかった。イモコが興味深げにアダムに尋ねた。
「そなたたちは、何の神に祈りましたか?」
 今まで、万物に宿る八百万の神、仏教の神々に包まれていたが、新たにユダヤの神にも触れた。この事件を眺めていたイモコにとって、不可思議な世界から来たマレビトの信仰は最大の関心事であったかも知れなかった。
「神に、ではなくて、ただ、人として、人の未来に。彼の存在を、我々が誇りと共に語り継げるようにと」
 アダムの返答にミコが頷いて同意した。
「いかなる神や仏も、そなたたちの祈りを愛でられるだろうよ」


18

 サミュールの葬儀の喪が明ける頃、降り続いた雨が小康状態を迎えて、つかの間の晴れ間を見せた。
【また、直ぐに降り出しましょうほどに】
 ラビはこの国の人々に、そんな言葉で旅立ちを告げた。晴れている間に出発したいというのである。今の季節、この土地で長く続く雨の理を知っていた。
 ラビの連絡に、アダムたちはノユリとワクウを伴って港までやって来た。
「すっかり、ワクウちゃんの玩具ね」
 チェルニーがそう言ったのは、ワクウがアダムの携帯電話を弄んでいるのを見たからである。もちろん、ワクウは携帯電話の本来の用途は知らないだろうが、携帯につけたストラップや、閉じたり開いたりする機能、ボタンに触れた時にふわふわした感触が面白いらしくいじっているのである。
 電源は切っているが、もはやバッテリーの残量はほとんど無く、しかも、二度と使う事はないだろうという思いがアダムにあった。
「これはね、遠く離れた人とお話をする道具なんだ」
「じゃあ、父さんと話、出来る?」
 ワクウの質問に、アダムは考え、言葉を選んで言った。
「ワクウちゃんのお父さんはね、今、ワクウちゃんの心の中にいる。話そうと思えば、こんなものがなくても話せるよ」
「じゃあ、要らない」
 ワクウはにこりと笑って、携帯電話をアダムに差し出した。その幼い指が電源ボタンに触れていた。アダムは返してもらった携帯電話をポケットに戻した。そんな会話の間に、アラハカ寺のところで道を西に折れると、先の急な坂の下に桟橋が見え、係留されたユダヤの人々の船は、提供された食料の積み込みも終えていた。
「あなたは、ここに残って、娘や孫と共に暮らせばいいのに」
 アダムがチュラーヤにそう言った。血のつながりのないユダヤ人たちと共に生きるより、この国で息子の血を受け継ぐ孫と共に暮らした方が幸せではないかというのである。チュラーヤは笑って、傍らにいたシャーマとエゾラを振り返った。
【私には、息子が二人いる。まだまだ子どもさ。この兄弟が一人前の男になるまで、私はこの子たちの側を離れるわけにはいかない】
 シャーマとエゾラがチュラーヤを眺める目が穏やかに笑っていた。チュラーヤは目の前にいたノユリやワクウをいとおしそうに抱いて、その暖かさを記憶にとどめた。
【和久(ワクウ)。あなたの名が、世の調和と共に、悠久の時を経て、引き継がれますように】
 彼女はそう言って、夫の形見、そして、息子の形見になった六芒星のペンダントをワクウの首にかけて、孫の暖かさを心に刻むように、もう一度、優しくゆっくりと抱きしめた。血縁関係に気づいていたかどうかは分からない。ワクウがチュラーヤの顔を眺める表情には肉親に甘える雰囲気があり、エゾラやシャーマのひげ面には、未だ珍しさを感じるようだが、自分の頭を撫でる叔父の手の暖かさを心地よさそうに受け取っていた。
 ノユリは涙が枯れて、もはやすすり泣く事もせず、ワクウに寄り添っていた。無邪気な明るさは失っていたが、どこか儚げだった弱々しさも感じられなかった。
「チュラーヤさん。今のノユリさんは貴女と似ています」
 アダムの言葉にチュラーヤは明るく笑った。
【その通りだよ。どの国の女も強いんだから】
 チュラーヤの言葉の通り、過去のノユリがまとっていた儚さを振り払ったのは、チュラーヤと同じ強さである。
「強い女性たちね。ヘレン、貴女も見習ったら」
 チェルニーの言葉の通り、女の本当の強さというのは、気丈に振る舞うチュラーヤと、亡くなった夫の思いを受け継ぐノユリかも知れない。
【すまない、ずいぶん待たせてしまった】
 ノユリは再会の時に夫が囁いた言葉を思い出した。無口で自分を飾る言葉を持たない夫だったが、その一言は、妻との再会を待ち続けていたと言うことと、妻も待っていてくれたことに対する感謝が溢れていた。

 そんな別れの様子に見入っていたアダムの背後に人の気配がした。振り返ると、寺院のシンボルの塔を背景に、イモコとケハヤの二人の供を連れただけのミコが見えた。ユダヤ人たちの出航を見送りに来たのである。自らの権威づけのための大仰な供や政治的儀式を抜きにして、心を許せる供だけをつれてやってくるというのはミコらしい配慮に違いない。
 ミコはラビに別れの言葉を述べ、ラビは長旅の物資を提供してもらった感謝を述べた。
【住む土地に、距離を隔てられても、悠久の時を経ても、互いの心の門(トリイ)の扉は大きく開かれていますように】
 そのラビの言葉にアダムの通訳は必要なかった。片言の言葉のやりとりだが、言葉ではなくて握り合った手で、そんな敬愛や惜別を惜しむ感情が伝わっていた。
 やがて、船は港を離れた。
「でも、あの人たちは、この世のどこにあるかも分からない理想郷を追い求めるの?」
「あの人たちの祖先が故郷を旅立ったとき、いったい何人の人々が居たんだろう」
 彼らがこの国に到着した時、二艘の船が難破して失われていた。古くはなったが、残された五艘の船に老若男女合わせて三百名ばかりの人々が乗る。いまや、たった三百人と言って良い。神の国を追い求めつつ旅をして、ここもその国ではなかった。この人々が信じる国に行き着くことが出来るのだろうか。理想の土地を求める人々と、この地に理想を追い求める人々の意志は紡ぎ出されることなく離れたようにみえた。
 船が遠ざかるにつれ、アダムたち一行は少しでも高見から遠ざかる船を見送ろうと、港から急な坂を上っていった。波の静かな海に吹き渡る強い南風に吹かれて、五艘は水平線の彼方に消えた。
「我は、この国で交わり、共に生きる人々の思いと生きた証をしっかり紡いで後世に伝えることが出来るだろうか。後世の人々は今を生きる私たち全てが紡いだ糸を一反の織物にしてくれるだろうか」
 そう呟いたミコは、突然に響いた聞き慣れない音に首を傾げ、アダムを眺めた。チェルニーはその曲名に気づいて叫んだ。
「乙女の祈り。アダム、あなたの携帯よ」
 確かに、響くメロディはアダムが携帯の呼び出し曲に使っていたものである。ワクウがいじっていて、知らずに電源を入れていたらしい。
(しかし、この世界で誰から?)
 四人の思いはその点に集中する。ヘレンとチェルニー、ヨゼフの視線は、アダムにさっさと電話に出ろと言うことである。アダムはおもむろに携帯を開いて耳に当てた。
「アダム。今、何処にいる? 仕事が早く終わったんで、君たちに合流しようと思うんだ」
「ジェスール」
 漏れ聞こえてきたのはジェスールの声だが、この一ヶ月のアダムたちの苦労など興味が無さそうで、全く緊張感を感じさせない。チェルニーは携帯電話を奪うように手にして語りかけた。
「ジェスール。貴方、今、何処?」
 のんびりとした返事が返ってきた。
「さっき、夕陽丘で下車して、今、四天王寺にいる。これから動物園に行く予定だ。アダム、君は何処だ。電波の状態が悪い」
 ジェスールの言葉通りなら、彼は視界が開けた場所にいる。にもかかわらず電波か届きにくいのはどういう訳だというのである。何処だと聞かれてもジェスールが納得できる回答をするのは難しい。やむなく目に見える光景を伝えた。
「こちらは海が見えてる」
「海?」
 ジェスールが考え込むような沈黙があって、やがて呆れたような口調で返事があった。
「まさか、動物園行きの電車を乗り間違えて海遊館に着いたなんて言うんじゃないだろうな」
 ジェスールの言い分も分かる。海遊館、大阪湾の海辺にある水族館で、確かにそこに行けば海を眺めることも出来るだろう。しかし、ここには動物園や水族館、通天閣などは無い世界で、ジェスールにどう説明すればいいだろう。
「ちょっと切るぞ。そのまま、そこで待っていてくれ」
「馬鹿。ちょっと、何をするのよ」
 アダムが通話を中断するのを見たチェルニーが、激しく怒り、ヘレンもそれに同意した。せっかく、元の世界の接点が出来そうだったのに、そのつながりを断ち切ってしまったと言うのである。しかし、アダムにも言い分がある。
「電波状態が悪くて通話が切れそうだし、携帯の電池も残り少ないんだ」
 アダムが見せる携帯は確かに電波の状態が悪く電池の残量も少ない。だらだらと無駄な話をすれば、電池に蓄えられた電気はすぐに消耗し尽くすだろう。
「元の世界と通話が出来ると言うことは、この世界の何処かに、僕らが住んでいた世界との通路が開いているって事だ」
「だから、その通路は何処にあるの?」
「可能性が高いのは、僕たちがこの世界に来たのと同じ場所だ」
「この近くだけど、正確に覚えては居ないわよ」
 ミコ一行はそんなアダムたちを、坂の上から不思議そうに眺めていた。アダムが耳に当てていた物が、遠く離れた場所にいる人と話すための通話装置だとは思い至らず、この客人たちが妙な儀式でも始めたのかといぶかったのである。
「ちょっと、待って」
 ヘレンが思いついたように振り返った先にケハヤが居る。
「ケハヤ。あなた、最初に私たちと出会った場所を覚えてる?」
「出会った場所とは?」
「馬鹿ね。貴方が最初に太刀を私に奪われた場所よ」
 ケハヤにとって思い出したくない記憶だろう。あの日に、今、ヘレンが腰にしている太刀を奪われたのである。彼は不機嫌に返事をした。
「覚えている」
「そこに案内して」
「よかろう」
 ケハヤはミコを振り返って同意を得ると、ヘレンの依頼に応じた。アダムたちが案内されたのは港から坂を登り切った場所から北にわずか五十メートルほどの場所である。ケハヤは坂の下を指さして言った。
「あの辺りだ」
「あそこだったの」
 そう言ったチェルニーは視界を遮る松林と遠浅の海辺に広がる芦原に記憶があった。この一ヶ月間、アラハカの寺との往復をしつつ、このあたりだと見当はつけては居たが、ピンポイントで場所を特定したのは初めてだった。指さされた場所は急な坂を下った場所で、寺院や寺院の塔が見えなかったことにも納得がいく。あの日、見たものと見えなかった物が、この高所から眺めると記憶とぴたりと一致した。あの日、彷徨う方向が少し違えば、ケハヤに目撃されることもなく、港を見つけていたはずだ。アダムたちは足早に指さされた場所に下った。
「ほらっ、見ろ。携帯の電波が強くなっている」
「本当。でも、何処にも元の世界は見えないわね」
「近くにあるというのは間違いないわ」
 チェルニーの言葉に、ヘレンは坂の上のケハヤたちに声を張り上げて頼んだ。
「ケハヤ。もっと詳しく教えて」
「最初に霧のようなものが見えて大きく広がった。霧が晴れたときにお前たちが居た。霧が広がり始めたのは、この坂を降りたあの松林の向こうの芦原の辺りだ」
 ケハヤが言葉で伝えきれない微妙な位置を伝えるために馬を降り、歩いて坂を下って近づいてきた。
「俺の馬からこの太い松を眺める方向に歩いて、人の背丈ほどの近さのところだ」
 ケハヤが立つ位置に四人も集まった。ヨゼフが失望のため息をもらした。
「何もない。何も起きないね」
「いや、電波は強くなっている」
 アダムは残る期待感を込めてそう言ったが、ヘレンは断定した。
「でも、帰れないのね」
 チェルニーが左右の手の平を目の前で併せ、祈りの仕草で恨みの矛先をアダムの携帯電話に向けた。
「着信が『乙女の祈り』ですって? 私がこんなに祈ってるのに願いが叶わないなんて」
 ヘレンは苛立ちをチェルニーの言葉に向けて皮肉を言った。
「乙女? 貴女みたいな年増が祈ってるからダメなのよ」
「精神年齢ではね、貴女よりずっと若いつもりよ」
 チェルニーとヘレンは、その言葉に含まれる精神的に若い女という言葉に気づいて坂の上を見上げてノユリの姿を目にした。精神的に若いと言えば、無邪気さを残したマリア、この世界では夫を思うノユリの清純さがそれに当たるのではないかと思ったのである。
 ケハヤはそんなマレビトどもの会話を聞き流しながら、ふとヘレンの腰に目をやった。彼が奪われた太刀である。勝負に負けたと言う事実は受け入れていて、所有権にケチを付ける気はない。ただし、彼女に負けっ放しだという事実で、自尊心を傷つけられてもいる。そのヘレンが手を伸ばせば届く位置に居た。目の前にボールを転がされた子犬の心情と似ていたかも知れない。
「ヘレン、組もう」
 ケハヤはそう言ってヘレンの腕を取って地面に転がった。ヘレンはケハヤの言葉から伝わってくる組み討ちを挑むニュアンスに答えて言った。
「私に勝てるとでも?」
 しかし、過去にヘレンが勝利したのは、いずれもケハヤと距離を置いて、ケハヤの攻撃を受け流しつつ、ケハヤに打撃を与えたもので、今回のように先に腕を捕まれてしまうと、ケハヤの攻撃を避ける術が無く、彼の太い腕で背後から首筋を固められると反撃どころか身動きすら出来ない。
「どうだ? 負けたと言え」
 ヘレンはその敗北の意思表示に、空いた手でケハヤの太ももをぽんぽんと叩いた。ケハヤも意図を察してヘレンの体を離した。
「俺の勝ちだな?」
 ケハヤが念を押す、その笑顔の無邪気さにつられてヘレンも笑い、頷いてケハヤの主張を受け入れた。
「その太刀を所望」
 勝った証拠にヘレンが腰に着けた太刀を寄越せというのである。もともと勝利の証としてケハヤからぶんどった太刀だったし、欲しければ取り戻せば良いだけで、ヘレンに異存はない。ヘレンは腰の太刀をケハヤに渡した。
「ヘレン」
 そう叫ぶヨゼフの声が響いた。彼女が太刀を手放すのとほぼ同時に淡い霧が現れたのである。
「どういう事だ?」
「ヘレンが太刀を手放したとたんに、霧が現れた」
「でも、来たときほど濃くなりそうはないわね」
「来たときの状態を再現しなきゃいけないんじゃ無いだろうか」
「この世界の物を身につけていてはいけないということね?」
 チェルニーが市で手に入れていた首飾りを外し、ヨゼフは腕に巻き付けていた飾り紐を解いて投げ捨てた。すると、確かに霧が濃くなる。
「まだダメだ。来た時と何かが違うのよ」
「来たとき? ぼくらが来たときに、ぼくら以外に、」
「マリアと和ちゃん、それにエイモスが居たんだ」
 坂の上にそのマリアに該当するノユリ、和ちゃんに当たるワクウが居た。しかし……、彼らは気づいた。
「ここには、エイモスが居ないんだ」
 悲痛な声が響いた。居て欲しいと考えても、エイモスに相当するサミュールは亡くなってしまっている。四人は坂の上のノユリとワクウの姿を眺め、この場に欠けている人物の事を考えた。この時、ワクウはくすぐった気に、しかし、何か心地よさそうにその原因を首筋にかかったものに求めて、衣服の下に身につけていた物を取り出した。陽に照らして確認するように掲げた物は、チュラーヤによってサミュールの父からサミュールに、サミュールからワクウに、思いを込めて託されたペンダントである。太陽の光を反射したのか、きらりと輝いた光が、大切な思いを伝えるようにアダムたちに降り注いだ。

 ミコやワクウのいた位置、急な坂の上から眺めると、四人のマレビトは目眩にでも襲われたように地に身をかがめたかと思うと、その周囲を視界を遮る濃い霧が覆い、霧は濃くなって彼らの姿を隠した。間もなく晴れた霧に四人の姿はない。突然に姿を消した者たちを探して辺りを見回すケハヤの姿のみ残っていた。
「無事に帰ったと言うことでしょうか。もっとあの者たちが語る話が聞きとうございました」
 そう尋ねるイモコにミコが言った。
「彼の者たちに、一つ聞き忘れてしまった」
「何を?」
「『和をもって尊しとなし、さからうこと無きをむねとせよ』 彼らが我の考えにどういう感慨を抱くものか尋ねてみたかった」
「では、ミコの決まり事がまとまるのは、まだまだまだ先の話でございますな」
「この国と、子どもたちと共に歩みたいものだ」
 ミコはワクウの頭を撫でた。
  この時、ノユリは何か思いついたようにワクウの傍らにしゃがんで語りかけた。
「ワクウ。母さん、思ったの」
 ワクウは首を傾げた。ノユリは心の中を整理するようにゆっくり語った。
「あなたの首飾りは、ユダヤの人たちがこの国に残した大切なもの。ワクウと同じよ。それから、あの桜の樹は母さんと同じ。この首飾りは父さんのお墓の側の桜の樹の根本に飾りましょう。父さんと、ワクウと、母さんがずっと一緒に居られるように願いを込めて。それから、毎年、花の季節には二人で父さんの事を思い出すの」
 ワクウは黙ったまま母の言葉を聞いていたが、やがて涙がひとしずく流れ出して頬を伝い、手にしたメダルに落ちた。
「ぼくの父さん?」
 ようやく、あの桜の樹の傍らに埋葬された男が、自分の父親だと悟った瞬間だったのかもしれない。 

 


 ワクウが手にしたペンダントを掲げる仕草を見せたとき、方向を見失ってくらくらと目眩がするほどの濃い霧が、アダムたち視界を遮った。香りも湿り気もなく煙にしては咳き込む感じもない。ただ、視界を遮るのみではない。空間の広がりや上下の感覚も失せて、広大な空間の中で、体さえ失って意志と記憶だけが入り乱れた。
 その霧が薄れたとき、ワクウがペンダントを掲げた仕草そのままで、手を上げる子どもが見えた。元の世界に戻ることが出来ず、薄れた霧を通して再びワクウが見えたのかと思ったがそうではなかった。目の前に神社の石段があり、登って行く先に人物の姿が見えるのである。
 和ちゃんが右手を伸ばしてエイモスと手を繋いでいる姿だった。左の傍らには二人に寄り添うようにマリアの姿があった。
「サミュール。あなた、死んだんじゃなかったの?」
 そういう声を上げたのはヘレンである。気がつけばアダムの傍らにはヘレンたちの姿があった。突然に妙な言葉を投げかけられたエイモスだけではなく、傍らのマリアまでヘレンの言葉の意図を計りかねて首を傾げていた。
 変だと言えば、エイモスは先ほどまで手にしていたメダルの感触が無くなったのに気づいて地面を眺め回した。落としてしまったのかと、現実的な判断をしたのである。しかし、地面に落ちているメダルは見あたらず、まるで手の中で溶けて蒸発したかのように暖かな感触のみ残していた。不思議ではあったが、偶然に拾っただけのメダルである。今、手を繋いでいる和ちゃんの生命感がいとおしく感じられ、メダルを失った事に後悔はなかった。

「ちょっと先に」
 アダムは先を行くエイモスらに手を振って先に行ってくれと合図をし、傍らの三人に手招きをして、囁きが届きそうな距離に呼び寄せた。階段の上の三人は何が起きたのか理解する事も出来ず、首を傾げて背を向けた。マリアが笑顔で何か見つけた物を指さしたので、あの三人はしばらく神社の境内の散策に時間を潰すだろう。アダムは何故か声を押し殺してそっと言った。
「ヘレン、よく見たか。あれはサミュールじゃない、エイモスだ」
 アダムの声の大きさに誘われて、ヘレンも声を潜めた。
「たしかに、彼の横にいたのはノユリさんやワクウちゃんじゃなくて、マリアと和ちゃんよね」
「私たちは元の世界に帰ってきたという事ね」
 チェルニーの喜びの声にヨゼフも同意した。
「そうさ。やっと、帰れたんだ」
 浮かれる仲間の中で、アダムだけが冷静で生真面目な表情を崩していない。
「君たちは、何を馬鹿な事を言ってるんだ?」
 思いもかけないアダムの言葉に、三人は彼の意図を計りかねて黙りこくった。アダムは言葉を続けた。
「まさか、君たちは、今までどこか別の世界にいた、なんて勘違いしてないかい?」
「勘違いなんかしてないわ。このスカートの汚れを見てよ」
 チェルニーは一月以上もの間、別の世界にいて、洗濯しても落ちない汚れがあると主張したのだが、アダムはそんな事実には見向きもせず、額を指さして妙な事を言った。
「私は宇宙人に拉致されて、頭の中に不思議な装置を埋め込まれました」
「いきなり何を」
「いや、そんな事を言った連中が、世間からどんな目で見られてるか知ってるかい」
「今の俺たちも同じと言うことか」
「そう、今の僕らは、宇宙人に拉致されたって言ってる連中と同じようなもんさ。俺たちの経験を証明する証拠なんか何もない、俺たちが何を言っても信じてくれる人は居ない」
「ましてや、ここは大阪よ。人生とコメディの区別がつかない、しかも好奇心だけは豊かな連中がわんさといるの」
「妄想家として動画で世界に広がって笑いものだ」
「でも、黙ってるなんて」
「ほぉっ、チェルニー。君は医師志望だろう?」
「それが?」
「患者との信頼関係が一番大事だ」
「それだからどうしたの?」
「私は異世界を旅しましたなんて、頭が逝っちゃってる医師に、患者の信頼が得られるとでも?」
 そんなアダムの言葉に、自らの未来を予見したヘレンが言った。
「私やヨゼフも同じようなものね」
「そう、動画サイトに投稿された君たちの姿は、日本ばかりじゃなく、アメリカやタンザニアにまで広まって、一躍、君たちは有名人」
「じゃあ、どうする?」
 ヨゼフの言葉に、チェルニーは唯一残された選択肢を口にした。
「私は、何も見なかったわ」
「そうだ、そう言うことで」
 四人の意見はぶれることなく一致して頷き合った。

「どうしたの? 先へいくわよ」
 マリアの声が降ってきた。神社の中をぐるりと一周して、興味を引く物は見終わったというのである。石段の半ばにいた四人は慌てて駆け上がった。
 大都会の一角で、ここだけは別世界であるかのように、木々に囲まれて切り取られた空間に、安居天神の社殿がそびえていた。社殿の傍らにヘレンが期待した真田幸村の座像がある。この人物が数倍の敵軍を蹴散らしながら、手勢を率いて敵の本陣に突入したという経歴はヘレンの好みに合う。

(あらっ?)
 ヘレンが失望と好奇心をにじませてそう呟いた。この人物の功績から期待した、勇猛果敢さを感じ取ることは出来ないからである。光の加減でその表情は微笑んでいるようにも見えるが、内に込めた感情は喜びではないかもしれない。外国の人々から見て感情を押し隠すという日本人らしい姿の像だろう。この像の微笑は喜びであると言うより、世に生を受けてなすべき事を尽くすことが出来たという満足感というところか。像の表情に、アダムたちは再び記憶を呼び戻される思いがした。
(それにしてもあれは)
 忘れようと語りあったものの、忘れることが出来ない世界と人々、そして彼らが出合って伝えてくれたもの。
「さぁ、孤立している友軍に合流後、目的地へ前進! 動物園は間近よ」
 孤立する友軍とは今も四天王寺で彼女たちを待っているはずのジェスールのことであるらしい。ヘレンは先頭に立って歩き始めた。
 アダムは唐突に笑った。その笑いの理由を仲間に説明しづらい。勝ち気でリーダーシップを握りたがるヘレンの姿が、ふと、母の姿に重なったのである。貴族の血筋を唯一の誇りとして威張る女、そんな者が現代のポーランドにいるものか。アダムの妄想と母への偏見が溶けた瞬間である。しっかり者の妻が、時に祖先から受け継いだものを誇りながらも夫をリードし、今を一生懸命に生き抜く姿。そして、父は決して屈辱的ではなく、勝ち気な妻を受け入れながら家族を作り上げる包容力を持っていた。
(僕はいい父と母に恵まれた)
 故郷から遙か離れたこの地で、アダムは懐かしくそう思った。もし、このヘレンを妻に迎えたら、自分もまた父と同じ生涯をたどるだろうという気さえした。

 彼らは車が盛んに行き交う道路にぶつかった。ヘレンに続いて神社から路地を抜けた仲間は、明るい日の光を浴びた。正面は片側二車線の広い道路で交通量が多い。
 ここにも安居天神の縁起を記した高札が立てられていた。ふと、チェルニーが十メートルばかり離れた歩道脇にも小さな高札があるのに気づいた。そこにも何かの歴史的縁起が書かれているのだろう。チェルニーは高札に歩み寄り石碑の文字を読み取った。

「ここが逢坂なんだわ。文字通り、出会いの坂という事ね」
 この道路がアダムが移動の目印にしていた坂であるらしい。ただ坂という名に似つかわしくなく、高低差はほとんど感じられない。古くは急な坂であったらしいが、人々が上り下りに難渋する様子に、土地の寺の住職が寄付を募って坂を切り崩して、このなだらかな坂になったという。
「通天閣も見えてるわ。これが逢坂なら動物園はこの坂道を渡ったところにあるはずね」
 ヘレンの言葉に地図に目を移したアダムが応じた。
「ジェスールが居るのが四天王寺なら、この坂を登り切った所だね」
「えっ?」
 逢坂の石碑から足早にアダムたちの傍らに戻ってきたチェルニーが、前方に見える景色を仲間に促すように指さした。
 緩やかだが確かに坂であるらしい。坂を登り切った辺りが彼らの視線の高さにあり、地面と空に分かれて見える。チェルニーが指さすのはその短い地平線ではない。両脇の建築物で狭められた幅の狭い地平線の上に、寺院の塔の上部が見えたのである。 あの日、あの世界で見た塔と姿は違っているが、仏教寺院の塔に間違いはない。あの時、寺院の塔を背景に眺めたもの。アダムが仲間に示した地図によれば、正面が四天王寺である。そして、四人が一斉に振り返ったのは、坂の下の方にユダヤの人々が船出した広大な海が広がって見えるような気がしたからである。

 今を遡ること、千四百年前、彼らが振り返る先には、たしかに、海が広がっていたという。坂の下には港があり、後世に飛鳥と名付けられた時代の日本の海外との窓口だった。この坂は当時の日本の異世界への出入り口とも言える。この辺りから南北に延びる遠浅の干潟の海岸線は、時代を経て難波潟(なにわがた)と呼ばれ、その情緒的な美しい景色を万葉集の和歌にとどめている。もちろん、目をこすって景色を眺めなおした彼らの目の前に広がるのは、海も港も姿を消して、大都市の一角にすぎない。
 再び、坂の上を振り仰いで前方の四天王寺の塔を目にすれば、言うまでもない。聖徳太子のゆかりの寺院の建築物である。古くはアラハカの寺と称した。その北東部に満々と水をたたえてノユリとサミュールを隔てていた巨大な湖は、流れ込む川の上流から運ばれた土砂や、河川の付け替えによって縮小し、わずかに形跡をとどめた湖沼と湿地帯も三百年ばかり前に干拓によって失われた。現代では河内湖という名を地質学の文献にとどめるのみである。
「あれは、ここだったの?」
 ヘレンがそう呟いた。彼女たちが一月を過ごしたあの世界が、古代の大阪の姿なのかと問うのである。
「いや、もう忘れよう」
 学究肌のアダムは何故か満足げにそう語り、チェルニーもため息をつくように同意して言った。
「そう、この大阪そのものがファンタジーだって事よ」
 ヘレンとヨゼフも頷いて同意した。あの出来事は四人の心にしっかり焼き付けられているが、今は口に出して誰かの好奇心でいじられるのは避けたいと思ったのである。胸にしまいながら歳を重ねるうちに、思い出は想像と混じって、本人ですら経験なのか夢なのか区別が付かなくなる。やがて、あの経験はほど良く熟して、芳香を放って記憶の中からにじみ出てくることもあるだろう。その時には、彼らがこの地で経験したファンタジーを、子どもや孫に語って聞かせても良い。しかし、たぶん、その時には、物語の舞台は彼らの故郷に変質しているだろう。彼らが経験した父から子へ伝わる思いは世界のどの地でも同じはずだから。
 律儀に彼らを待っているはずのジェスールと合流するために、彼らは坂を登り切った。交差点の向こうには、その奥に参道が続くと思われる真新しい石の鳥居が見えた。トリイ、それがヘブライ語が意味する門だとするなら、その先の彼らにはどんな未来が待ち受けているのだろう。
「えっ、ワクウ?」
 アダムは目の前の和ちゃんの名、和久の音読みがワキュウ、発音が少し訛ればあの世界の幼児の名と同じ響きだと思ったのである
 古来、日本には様々な文化が伝わっていて、「漢字」は中国から伝えられた文化の一つである。漢字の音読みという発音に、僅かながら中国に連なる音の響きを残している。ミコが自らの願いを込めて「和久」という漢字を当ててあの幼児を「わきゅう」と名付け、あの世界の人々の思いが、現代の和ちゃんの名に引き継がれたものなら興味深い。

 しかし、とアダムは続く思いを、マリアとエイモスの後ろ姿と重ねて、言葉にして吐き出した。
「あの二人の関係だけは、認めないからな。絶対に」
 チェルニーとヘレンがアダムの言葉を察した。
「過去はともかく、現代のマリアはボクのものだって言いたいわけね」
「まぁ、頑張りなさい。応援してあげるわ」
 彼ら四人の前方にマリアと寄り添って歩くエイモスの姿がある。真ん中の和ちゃんを経て手を繋ぐ三人の姿は、ようやく平穏を取り戻した親子の情景に見えた。

 

 

                                 了



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