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12

 長い夜が明け、両者に公平に朝が来た。待つというただ一つに見える選択肢を持ったミコはともかく、ユダヤ人集落は様々な価値観と選択肢でまとまらない。緊張感で疲労し、まとまらない議論で混乱している。
【どうして、彼らが我々にこの地を譲ったと考えてる? 我らが戦い、我々の意志と力を彼らに見せつけたからではないか】
【ただ、大勢の仲間が死んだ。そして、我々も彼らを殺しもした】
【それはやむを得ん。彼らは我々の神を受け入れると騙したたからではないか】
【私たちの憎しみや悲しみがどこまで拡大するのか、それは神の御心ではない。我々が作り出しているのではないか】
【我々は、ここに安住の地を見いだしたのではなかったのか】
【神の御心に添わなかったと言う事だ】
【この地を去るといっても容易ではない。長い航海をするための食料や医薬品をどうするのだ】
【しかし、今なら船を操れる者も残っている。しかし、あと十年もすれば船乗りだった者は皆年老いてしまうぞ】
 村人の誰がどんな発言をしたかという事は意味がなかった。この地にとどまるべきだと強硬に主張していた者が、戦の影に怯えてこの地を去る提案をした。殺された者の復讐を口にする者がおり、戒律を口にして復讐を思いとどまらせようが居るかと思えば、戒律を理由に、呪術を使う異民族は殺さねばならぬと主張する者もいた。
 考えてみれば、使者を立てる日時を指定していたわけではない。しかし、その刻限を考えねばならないほど議論は紛糾してまとまらず、ラビは人々を見回して、人々に急速と冷静さを促した。
【良いかな。皆、疲れすぎた。睡眠も取って居らぬだろう。この年寄りにも、つかの間の休息を与えてはくれまいか。さあ、笑顔を見せて女や子どもを安心させてやるがよい】
 テントに集う男たちは頷いた。不安を振り払うように議論に熱中していたが、この集落にはそんな手段も持たず、不安に震える女や子どもたちも数多いのである。ラビは細かく命じた。
【彼らも、我々が手向かわぬ限りいきなり兵を差し向けては来るまい。しかし、見張りは絶やさぬようにせよ】
 そんな中、エゾラはサミュールの姿が見えない事に気づいた。部族の存亡がかかったこの非常事態に、何も興味がなさげに議論にも加わらず、小屋に籠もっているということである。議論がまとまらない苛立ちが、サミュールへの怒りに変わった。

 エゾラは怒りを込めて小屋に踏み込み、怒鳴り散らした。
【サミュール、お前という奴は、ユダヤの風上にも置けん】
 サミュールは動じる気配のないまま、抜き身の剣を研ぎ続けた。
【何をしている】
【エゾラ。剣は何のためにあるというんだ】
【サミュール。お前は戦でも起こすつもりか?】
【俺の神は、母親を守れと命じている】
【神のご意志に従え。ラビの言葉に耳を傾けろ】
【自分勝手な事を言い散らかし、臆病者同士でまとまらぬ議論をすることが、主の御心か? そんな事をしている間にも、奴らはお前たちを殺しに来るぞ。仲間の命を守りたければ、さっさと剣と弓を手にすることだ】
 サミュールは剣を研ぐ手を止めて、エゾラを眺め回し、彼の優柔不断ぶりを皮肉った。エゾラは憎々しげにサミュールの母親に視線を向けた。
【やはり、お前はこの淫売女の】
 エゾラの言葉が止まった。サミュールの剣の刃先が彼の首筋に触れていた。サミュールは恐ろしげな行為と裏腹に穏やかに、しかし、断定的に言った。
【もし、戦が始まるなら、湖の向こうの兵士を何人斬り殺してでも母を守る。ただし、その前に、母を侮辱する者がいれば、先にカタをつけてもいい】
 彼が目に浮かべる殺意は本気で、エゾラを黙らせた。エゾラは無言のまま後ずさりをした。チュラーヤが静かに言った。
【剣を置きなさい、サミュール。エゾラ、ケンカをするなら出ておゆき】
 サミュールを憎々しげに眺めながら、エゾラは何も言わなかった。ただ、小屋を飛び出していっただけである。抜き身の剣を手にしたままのサミュールに、彼女は言葉を続けた。
【まったく、三人とも父さんの血を引いているはずなのにねぇ】
【馬鹿を言うな。俺にとって、母さんだけが肉親だ】
【サミュール、悲しい事を言わないで。父さんを通じて、エゾラもシャーマも貴方の兄弟だから】
【母さん、戦が始まるようなら、二人でどこかへ身を隠そう】
【馬鹿だね。そんな事より、食事でもおとり】
 母と子もまた緊張の中にあって、長い夜と朝を過ごし、陽は中天にあるというのにまだ食事を取ってはいなかったのである。二人は、食欲は湧かないが、平穏な日々が帰ってくる事を念じて、日常と同じ食事をする事にした。

 


13

 明くる日を迎えても、ミコは砦にとどまったままである。昼を過ぎ、間もなく日暮れを迎える時間だが、ユダヤ人たちからは何の連絡もなかった。その時間の長さが、砦の兵士たちの憎しみをかき立てていた。こうしている間にも、ユダヤ人たちは着々と戦の準備を整えていると妄想が膨らむのである。
 そんな兵士たちが、ただ黙ってたたずむミコの存在によって押さえられていた。アダムたちはミコの傍らに侍りながら、ミコとヒコネの議論を聞いた。
「ヒコネよ、何故、そう荒ぶる。」
「十三年前。私は奴らのために息子と弟を失いました。この砦には他にも身内を失った者が多数居ります」
「では、その恨みか」
「いえ、奴らが危険な存在だと申しているのです」
 平民出身のケハヤばかりではなく、出自の確かなイモコでさえ、二人の会話に割ってはいるのが恐れ多いという雰囲気があり、アダムたちにも、ヒコネという老人が持つ権力が知れた。背後にオーミが控えているばかりではなく、この老人自身も尊い血筋を持った熟練の武人なのだろう。
 アダムにはミコがここに留まる理由が理解できた。ミコを除けば、この場で最高位はこの老人であるらしく、ミコが姿を消せば、独自の判断で兵を動かすに違いない。この老人はミコによって兵を動かせず、ミコはこの老人によってこの砦に釘付けにされているようなものだった。
 日が暮れる頃、指揮官ヒコネはミコに一つの提案をした。
「ミコ。この砦の兵を、ナヌワの港まで下げとうございます」
 砦は高台にあって、この砦のかがり火と、それに照らされる兵の姿は、対岸からも見えるに違いない。南にある港なら兵士を収容し、天露をしのいで夜を過ごせる小屋もあると言うのである。港はこの砦の南西側二里ほどの位置にあり、兵を湖の東岸のユダヤ人村から遠ざけることになる。争いを避けるというミコの意志を汲んだようにも思われた。しかし、そのヒコネの従順さに、ケハヤは首を傾げた。先ほどまで、ユダヤ人討伐を強硬に主張していた男だとは思えない変身ぶりである。
 ただ、この時は、普段は気の回るミコが、夜の闇と不安や混乱で心が乱されていたらしく、子どものように疑いもせず、ヒコネの進言を受け入れて細かく指示をした。
「よかろう。砦の不要なかがり火は消し、移動する兵には松明を持たせて、対岸から兵士が移動していることが分かるようにせよ」
 暗闇で兵士の姿は見えずとも、多数の松明の炎が遠ざかって行く様子が分かれば対岸の人々も落ち着くだろうと考えたのである。ヘレンとアダムはその細かな配慮に納得した。
 砦の中に兵を集合させるかけ声が響き、かがり火が消えて広がった闇の中に、兵たちが掲げる多数の松明の光が揺れた。
「今、何時?」
 チェルニーが時を尋ねたのは、ワクウがあくびをして眠そうに目をこすったのに気づいたからである。アダムの腕時計では午後八時を回っている。この子は場違いなところに連れてこられ、大人たちは不安や憎しみで混乱しているだけで、ワクウの相手をする者もなく、すっかり周囲から取り残されてしまっているのである。ケハヤが用意した毛皮の敷物を小屋の隅に敷いて、ノユリはその配慮にぺこりとお辞儀をして、ワクウを毛皮の上に横たわらせた。この瞬間、小屋の中にいたミコやアダムたち、砦の兵士はこの子に精神を集中させた。高ぶって解けない緊張感が解きほぐされるような気がするのである。


14

【この地にとどまり続けることなど理解できない】
【今は逃げても無駄だ。私は育った地を去れない】
【彼らと共に生きる術がないなら、この地を去ろう】
【我々の生活は祈りの中にある。平和と無抵抗を貫くのだ】
【仲間を殺されても?】
【この国に来て、大勢の仲間が死んだ。そして、今もまた。我々は何故生きている?】
【神にのご意志に背を向けるのですか。私は逃げたくない】
【では、この地を去るのか。この地はミコから与えられた我々の土地。我々の国を築く礎でもありましょう】
【神の御心のままに】
【今朝、私は食事を作りながら祈りました。これかもずっと、私の食事を笑顔で食べてくれる家族がいますように】
 人々の言葉は切実ではあるが、様々な思いが交錯して脈絡が無い。彼らはこの国を征服するなどと言う選択はあり得ない。この国の人々と共にこの地で生きるか、この地を去るか、いずれかである。共に生きるために戦に加わったが、思いは果たせず、この国で生きるために、この地の人々と住み分けるという条件を飲んでいたが、今回の争いを見ればそれも難しいのかも知れない。使者に託して伝える意志がまとまらない。
 この時、テントの端にいた女が立ち上がった。女の凜と響く声が響いた。
【今こそ、神のご意志と、私たちの信仰を伝えねばなりません】
 立ち上がったのはチュラーヤである。人々は一様に不快な表情を浮かべた。異民族の女ごときが、何を説教を垂れるのかという感情である。更に、自分たちの仲間シャーウールをこの女がたぶらかして取り入ったばかりではなく、この国の戦に加わらせて、部族に多数の戦死者を出させたという噂が、女に対する嫌悪感を生んでいる。シャーウールの前妻の遠縁に当たる者などは、この女がシャーウールの妻になるために、前妻を呪術でのろい殺したと噂してもいる。そんな憎しみの籠もった怒号が幾つも響いた。
【異民族の女ごときが出しゃばるな】
【今度は誰をたぶらかすつもりだ】
 ラビは手を掲げて人々の声を制止して言った。
【チュラーヤの話を聞こう】
【十三年前、貴方たちはこの地を約束の地と思い定めたからこそ、この地の戦に加わってシャーウールたちを戦に送ったのでしょう。私は戦に行くというシャーウールにすがりついて泣きました。『貴方が死んだら、私はこの集落でたった一人になってしまう』と】
 涙を見せなかった気丈な女の意外な言葉だった。
【ただ、あの人は言いました。『三人の息子に、この大地で生きる足がかりを築いてやりたい。もし、俺が死んでも、この国の人々が我々の信仰を受け入れてくれるなら、お前と三人の息子にとって、ここがカナンの地となる』と。シャーウールにとって、この国の人々は憎むべき敵ではありませんでした。共に生きるはずだった地です。今は祈りましょう、子どもたちのために、友と敵のために】
 彼女は言葉を途切れさせて、この場にいる人々を静かに眺め回して言葉を続けた。彼女と視線を合わせ続ける事が出来る者は居なかった。
【私たちにとって、ここが約束の地ならば、主は私たちに、互いに赦し合いつつ生きよと仰っているのでは? もし、この場に主のご意志を伝える使者がいなければ、私が使者に立ちましょう。この地で憎しみや誤解を越えて生きよ、と言う主のご意志に従うと】
【しかし、奴らは我々の神を受け入れるまい】
【私はこうして皆さんに心を打ち明けるのは、初めて】
【それがどうした】
【私たちは異民族を見下すだけ。私たちはこの十三年の間、幾つもの誤解と憎しみを積み重ね、昨日は三人の仲間を失いました。でも、今まで私たちはこの国の人々に、憎しみを越えて平和を求めるという、私たちの望みを伝えた事があったでしょうか】
 彼女の話を聞きながら沈黙を保っていたラビに、神の啓示があったかどうかは分からない。しかし、ラビは静かに力強く言った。
【この一日の間、私は自分自身に問うていた。『十三年前に、我々がたどり着いたこの地は、神に約束された地ではなかったのか』と。それは皆も等しく感じ取っていたのではないか。我々は主の御心をおざなりにし、この地に安穏としすぎたのやもしれん】
 サミュールが母親の傍らで立ち上がった。
【あなたたちは自分たちの事ばかり考えているようだな。奴らもまた、仲間を殺されていきりたって居るぞ。そんな危険なところに母を行かせるわけには行かない。俺が行く】
【サミュール】
 声をかけた母にサミュールは笑って見せた。
【大丈夫さ、母さん】
 そしてこの場に集う人々を眺めて語りかけた。
【俺は今思った。俺の妻のノユリは、浜に流れ着いた俺を見つけて助け、俺を介抱して励ますために、俺たちの言葉を覚えた。しかし、この俺は彼女の言葉を理解しようとはしなかった。俺は後悔している。もしも、もう一度会う機会があれば、彼女が話す言葉で言ってやりたい。愛していると】
【主は、我々の意志を試されているのか】
 ラビがぽつりとそう言って、サミュールに向き直って続けた。
【サミュール。もしも、お前がこの地で共に平和に暮らそうと伝え、無事に帰ってきたら、それが主の御心だろう。この地に留まろう。しかし、それがかなわず、お前が帰らぬ事があれば、この地は主が我々に約束された地ではなく、この地に安穏とせずに正しい道を歩めということやもしれない】
【ラビよ。主の言葉の証を貸してくれ、俺が彼らにその言葉を届けよう。アダムたちも砦にいるだろう。彼らに言葉の仲介を頼む】
 サミュールの言葉にラビはやや考えて、小さな箱を取り出し、中を改めた。主の御言葉を記した羊皮紙が入っていた。ラビは大切に蓋を閉じて厚い布で来るんでサミュールに渡した。
【サミュール。私は祈ろう。お前が主の意志を伝えられるように】

 丸みを取り戻しつつある半分の月が、透明な大気を通して明るい光で湖面の波を照らし、遮るもののない湖面を吹き渡る風は、音もなくサミュールを包んだ。ただ、どんより濁る雲が空を覆う様子もあり、不吉な予感すら感じさせた。
 眼前に黒く広がって、全てを飲み込むのではないかという恐怖感さえ感じる湖面に、自分が乗る小舟が一艘浮かんでいるというのが、実に不思議な気がした。が、船は一艘ではなかった。櫂が湖面を叩く音が混じってきたのである。湖面を遠く見渡せば月の光を浴びて幾艘もの船のシルエットが見えた。乾弦が高く、帆は畳んでいるようだが太い帆柱も見えた。ここいらの漁師が使う釣り船ではあり得なかった。巨大な戦船に違いないのだが、かがり火もなく一切の灯りを点さず、ただ、不気味に息づくかのように幾本もの櫂がそろって湖面を叩く音が響いていた。サミュールはその音に隠れて身を隠すように、櫂を握る手を止めて目をこらした。
(全部で六隻か)
 サミュールが湖面の影の数を数えたとき、先頭の船に兵士がかざす松明の灯りが点り、湖面を照らした。明るい月の光に映えて、サミュールの小舟が見え、その姿を確認するかのようだった。
 次の瞬間、押し殺すような低い命令の声と共に、サミュールの小舟をめがけて数本の矢が飛んできた。幸い船に身を隠したサミュールの体に命中した矢は無かったが、いずれの矢もこの暗闇の中でサミュールの小舟を的確に捉え、よほど熟練した射手が発したものと思われた。
(やはり、兵士だ)と、サミュールは決断を下した。
 しかし、いきなり矢を射かけてくるというのはどういう事だろう。船足はサミュールの小舟の方が速いとみえ、彼は進路をくるりと変え、戦船を引き離して元の岸に帰り始めた。サミュールの小舟を見失った戦船は、再び灯りを消してその気配を絶った。
(村の者に知らせなければ)
 戦意旺盛な兵士たちが、気配を消しつつ接近してくるというのは、何をさておいても村人たちに知らさねばならないだろう。

 見張りの者が向こう岸で揺らめく灯りに気づいて以来、砦の灯りが減り、ユダヤ村の人々は、危険が遠のいたと考えた。情報は人々の間に広がり、夫と妻は寄り添ってくつろぎ、母親は安堵の思いで子どもを抱きしめた。死すら覚悟する緊張感がとけていたが、人々はまだ油断無く対岸を見張っている。
 その男たちに岸に近づく小舟が見えたため、船の漕ぎ手を確認するために、小声で名を呼んだ。
【サミュールか?】
【平和は途絶えた。間もなく兵士がここへやってくる】
 サミュールの言葉だけではなく、彼の小舟に深々と刺さった幾本かの矢が、事態を物語っていて緊張が走った。子を持つ母親は恐れおののいて、子どもの名を呼んで家に駆け戻り、男たちは村を守る決意を固めて剣の束に手をかけていた。
 連絡のために村に走った男の到着と共に、村は再び死の恐怖にさらされるだろう。悲痛な連絡を告げる使者が走り、月の光が男の背を照らした。サミュールはその月をちらりと見上げた後、男の跡を追って村に向かった。
(平和の夢は破れた)
 サミュールはラビから預かった小箱を抱えてそう思った。妻に愛しているという事を伝える機会が失われた。その思いがサミュールの心を重くした。村に戻ってきたサミュールを眺める人々に失望感が深く、更にサミュールが平和の証として託された小箱を、倭人に見せることなくラビに返したという情報が広がり、村の大人の中には平和が破れたという絶望感が漂って、子どもたちをも包んだ。

 


15

 同じ頃、ミコは対岸でサミュールと同じ月を見上げながら首を傾げていた。
「ケハヤよ。港が静かすぎるとは思わぬか?」
 この砦は高台にあるものの、地形の高低差や森林で視界を遮られて、港が目に入る訳ではない。ただ、数百人の兵士がおり、かがり火でもたいていれば、その光は空さえ照らして、この位置からでも薄明かりが見えるはずだ。また、兵士たちを統率するのに使う太鼓や銅鑼の音が聞こえても良さそうなものだが、港の方角は静まりかえって、人の気配を感じさせないのである。ミコに促されて耳を澄まし、目を凝らしたイモコとケハヤもまた首を傾げて、ミコの言葉に頷いた。
「ひとっ走りして、見て参りましょう」
 ケハヤはそう言い終わるか否や小屋を走り出た。彼の馬の蹄の音が闇深く遠ざかっていった。
「長い夜ね」
 チェルニーの言葉に、誰も声に出して返事をせず、ただ、心の中で頷いていた。アダムが確認した腕時計では日付が変わろうとする時間だが、夜は途切れず、不安や混乱は変化することなく続いている。
「この湖の向こうに、サミュールもいるのね」
 ヘレンがノユリに語りかける言葉には、貴女の愛する夫でしょ、と念を押すニュアンスが含まれている。ノユリは感情を押し殺すように寂しげに微笑んで返事に代えたが、その仕草がヘレンの勘に障った。傍らにワクウが居たため、子の面前でノユリに苛立ちをぶつけることもできず、傍らのチェルニーに吐き捨てるように言った。
「こんな昔っから。日本の女は感情を隠すのね。筋金入りだわ」
 その苛立ちが自分に向けられたモノだと気づいたノユリは、あきらめの感情と共にぽつりと言葉を吐いた。
「この国では、台風や地震で、夫や妻を亡くす人が大勢います」
「だから貴女も同じだとでも言うの?」
「そうかもしれません」
「貴女の夫、サミュールは生きているの。この湖の向こうで」
 ヘレンの感情が激高しかけたのを見たのか、ワクウがノユリを守るように寄り添って、母を苛めるヘレンを睨んだ。
「ごめんなさい、そんなつもりじゃないのよ」
 ヘレンはそんな言葉でワクウに詫びた。この子はサミュールの名を聞いても、自分の父親とは理解すまい。しかし、その名の意味を語り聞かせるのも気が引けた。この時、ミコの侍従のイモコは、意図した涼しげな表情で空を仰いで、月を指さした。
「ほらっ、皆さん。空の月が冴え渡って美しい」
「本当、綺麗な月」
 ヘレンの言葉に仲間は頷いた。この世界にやってきてから、夜空の星や月が美しいということを呼吸するように自然に受け入れていた。ただ、改めて眺める月は、丸く静かに輝いて神々しく人々を守っていた。
「月は人の心を穏やかにもし、迷わせもします」
 イモコの言葉にアダムが問うた。
「人の心次第、と言うことでしょうか」
 ミコは頷いてアダムに同意して付け加えた。
「そして、迷っていることすら分からぬうちに、真理はの光も覆い隠されることもある」
 東の空を眺めると、星の光を遮る黒い雲があり、やがてこの月の光を遮るだろうと言ったのである。再び訪れた沈黙の中に、小魚が水面ではねる音、夜空を引き裂くような甲高い水鳥の鳴き声が時折響き、耳を澄ませば遠く、蛙の声が小さく響き続けていた。ただ、どんよりと淀んだ空気の中で、岸辺の芦原は風にそよぐこともなく静けさを保っていた。
 大人にとって辛く長い時間だが、望みもせずこの場に居合わせる事になったワクウにとって、迷惑な時間だったのかもしれない。寝かしつけてもらったものの、逆に目が冴えてしまったようでぱっちりと大きな目を開いていた。しかし、遊び相手を求めても同年齢の子どもは居らず、大人たちは皆、黙りこくってしまっている。母の手を引いてみたり、チェルニーのスカートの裾を引いて気を引いてみたり、ヨゼフに手品をねだってみたり、ヘレンにハイファイブを求めたりした。ワクウは抱きしめてもらったり優しく頭を撫でてもらっただけで、誰もワクウと心を交わさず関心を払う者は居なかった。アダムは物思いに耽りながらそんなワクウを眺めていた。
 やがて、ミコはワクウの存在に気づいて、その名を呼びながら引き寄せた。
「ワキュウ。おいで」
 人々がこの子を呼ぶワクウと、発音が少し訛っている。いや、ミコがこの子の名付け親であるだけに、ワキュウが正式な呼び名なのだろう。その名にどんな由来があるのか分からないが、村人たちはその発音を呼びやすく訛らせてワクウと呼び、今はそう呼ばれる本人もその名を受け入れているらしい。
 そのワクウは物怖じもせず、椅子に腰掛けるミコに寄り添った。ミコは過去の自分に向き合って問うように、ワクウに声をかけた。
「我は、お前の父と母を引き離した。間違えていたのだろうか? まだ争いが収まらぬ」
 黙ったままのワクウに、ミコは寂しげに自分の能力を悔いた。
「我には、人々の憎しみを消すことは出来ないのだろうか」
「違う。僕らは傍観者に過ぎなかった」
 ミコの言葉を否定するかのように響いたアダムの声は周囲の人々の注目を浴びた。しかし、アダムが手帳を破り捨てる様子で、彼の自問自答の言葉だとわかった。彼の視線はワクウにあって、破り捨てた手帳はもう不要だった。幾つもの人の名、出来事を几帳面に書きとどめ、頭の中でその情報を組み立てていたが、目の前の現実は好転するわけではなく、アダムたちも傍観者でしかなかった。
 ミコの視線が注がれているのに気づいて、アダムは語った。
「この世界にきて、二組の親子が美しいと感じました」
「以前、そなたが話してくれた母子のことか?」
「その美しさの理由を見落としていました。運命を呪わず一生懸命に生きて、子供はその生き方を受け継いでいく。そんな姿です」
「それで、人の心の憎しみが消せるのだろうか」
「でも、今の私たちは憎しみや怒りに振り回されるだけ。焦った私たちは迷い、次の行動がとれないまま、何もできずに傍観者で居ます。僕はワクウたちにどんな生き方を見せてやるかなんて考えてもいなかった」
 アダムはワクウの前にしゃがんで視線を合わせ、誰かにではなく、自分自身に問いかけた。
「僕らはこの子に何を語り継ぐんだろう」
 アダムの言葉に刺激を受けたように、ミコが即座にその言葉を継いだ。
「確かに、今の我にはこの世界の憎しみを消し去るすべはないが、消そうとする生き方を見せることができる。ワクウが我々の思いを育てて、次の世代へと継いでくれれば」
 もちろん、ミコが語るワクウとは、ワクウが代表するこの大地に生きる子どもたちのこと。倭人の子ども、ユダヤ人の子ども、次の世代を支える存在のことである。この場にいあわせた人々は、ミコとアダムの言葉に聞き入り、自らの心に問うた。ノユリはすすり泣くように跪き、顔を伏せてワクウを抱いた。
「私は、悪い母親です。この子に父親はいないんだという嘘ばかりついてきました」
 チェルニーが慌てて声をかけた。
「ノユリさん」
 ノユリが続く言葉を吐けば、彼女自身を傷つけてしまうのではないかと危惧したのである。おそらくこの場に居合わせた人々の思いは、その点で一致していたに違いない。ただ、誰もノユリの言葉を静止する理由を口に出せないまま、ノユリは続く言葉を吐いた。
「この子が父親の姿を求める度に、私もあの人のことを思い出して、悲しみが晴れません」
 愛する夫と引き裂かれた女は、夫と再び相まみえることも許されず、孤独に耐えていたのである。
 一瞬の沈黙を、馬蹄の響きが打ち破った。ケハヤが戻ってきたに違いなく、闇の中に慌ただしく急速に接近する音は、砦に残っていた人々の心の不安感をかき立てた。
 やや、間を置いて、砦に戻ったケハヤが飛び込んできた。
「ミコ、ナヌワの港にヒコネ殿と兵士の姿がありません。戦船に乗って出航したとのことです」
 ケハヤがそう報告した。普段、温厚なミコがこの時には鋭い怒気を発した。
「ヒコネの奴め、我をたばかりおったな」
 昨日、ヒコネが兵を港へ移動させたいと言った、その隠された意図を察したのである。砦に接する湖面は浅く、この桟橋に数十人の兵士を乗せる軍船を着けることが出来ない。この浅瀬から多数の兵士を対岸に渡すことは出来ないのである。しかし、ナヌワの港で軍船に乗船させ、海岸沿いに北上し、川を遡って湖に出れば、回り道のように見えるが、合理的に大軍を対岸に渡すことが出来る。ヒコネはそれを読んで予め兵を移動させたのだろう。
 ミコはまっすぐ対岸を指さした。
「ケハヤ、今から、向こう岸に渡るぞ」
 ケハヤは頷いたが、この船着き場には、小舟が三艘のみで充分な護衛を付けることは難しいだろう。
「ノユリ、言葉が解る者が必要だ。申し訳ないが、お前には同行してもらうぞ」
 ノユリはその言葉に顔を輝かせて頷いて同意したが、寄り添うワクウの姿を見て顔を曇らせた。アダムが代役を申し出た。
「ミコ、言葉なら私たちも解ります。ノユリさんの代わりに、私が同行します」
「そなたたちは客人だ。遠慮願おう。今は、この地に生きる私たちが、ワクウに語り継ぐべき姿を見せねばならぬ」
 ミコは先ほど激昂していたかとは思えないほどの落ち着きをみせて、アダムたちの提案をきっぱりと拒絶した。ミコの判断に間違いはないと思いつつ、アダムたち四人の心に疑問が湧く。自分たちが傍観者であって良いのかという感情である。
 ヘレンが別の提案をした。
「ケハヤ、貴方はミコの護衛よね。ミコの命が危険に曝されたとき、ノユリさんの命まで守りきれる?」
「それがミコのご命令なら」
「いいえ。ノユリさんとワクウちゃんは私たちが守るわ」
「私たちって?」
 チェルニーはそんな怖いところに行くメンバーに自分も含まれているのか問うたのである。ヘレンは断言した。
「そのしょぼくれた顔は何? ちゃんとタマぶら下げてる?」
「タマって何よ。言っておくけど、私は女ですからね」
 そんなチェルニーの返事を聞く気もなく、ヘレンは断言した。
「それに、危険な任務には衛生兵も必要だわ」
「勝手に衛生兵にしないで」
 何を言っても無駄だというヘレンの強引さではなく、すがるようにじっとチェルニーを見上げるワクウの視線で、チェルニーはヘレンに妥協した。
「いいわ。わたしも行く。この子をほっとくわけには行かないわ」
「貴方たちも良いわね?」
 ヘレンはアダムとヨゼフにも同意を求めた、二人も異存はなく頷いた。
「ミコ、お聞きの通りです。私たちも舟を一艘お借りします」
「では、ノユリとワクウをよろしく頼む」
「急ぎましょう」
 アダムが目にした時計は午前二時。まだまだ、夜明けは遠い。
「どこへ行くん?」
 尋ねるワクウにノユリが言った。
「お前の父さんのところ」
「ボクにも、父さんおるん?」

 


16

【女と子どもを北の山へ逃がそう】
 ラビの指示に人々が頷いていたときに、一人の若者がラビの住居に飛び込んで来て叫んだ。
【大変だ。兵士が村の東にも現れた】
 人々の間に衝撃が走った。
(なるほど)とサミュールは興味深く考えた。
 暗闇の中とはいえ、村の西に展開した兵士たちの人数は、彼が目撃した戦船の数に比べると少ない。彼らは兵力の一部を上陸させた後、舟を集落の東南部の岸に進めて、残りの兵力を上陸させたということだろう。間もなく、村は兵士に包囲される。
【サミュール。お前はどうするつもりだ】
 他の若者を従えたエゾラがそう聞いた。彼は臆病な男ではないが、緊張の最中にあり、剣の束にかけた手が小刻みに震えていた。
【神の御心のままに】
 落ち着き払って答える弟に、兄のエゾラは激昂した。
【女や子どもを危険に曝すというのか】
【それなら、その剣と盾で守ってやれ】
 サミュールは武器を手にする若者たちに皮肉を込めてそう言った。
【臆病者め! 父の血筋に目覚めたかと思ったが、やはり、お前は異民族の女の血筋か】
 エゾラはそう言い放って去った。
(父親の血筋だと?)
 自分たちの民族のために戦った者を、持ち上げたり貶めたり訳の分からない事をと、サミュールは自嘲的に笑った。十三年前、この集落の人々は戦の影にのみ怯えて、神の御心も忘れてサミュールの父親たちを戦場に送った。負け戦に終わるや、戦で亡くなった若者たちを貶め、素知らぬ顔で勝者につけいっているような気がするのである。あの愚か者たちは、主の御心に従うわけでもなく不安に駆られて誰かを戦わせる。そんなことをするより、自ら神の意志に殉じて死ぬか、剣を取ってみろと考えるのである。

 ユダヤ人集落を包囲する兵士たちは、今やその姿を露わにしていて、集落と一町ほどの距離を置いている。勢いよく炊き上げるかがり火の光を辿ってみれば、集落を隙間無く包囲している様子が見て取れた。集落の人々に脱出する意欲を削がせる光景である。今は雲に厚く覆われてしまった空からは、星も月も姿を消し、地上の猛々しい光のみ輝いていた。アダムが松明の火にかざす腕時計は、午前三時前を示している、まだまだ夜明けには遠い。
 ミコはその光の中から最も大きな明かりを目指して舟を岸辺に着けさせた。
「誰が兵を出せと命じたか」
 ミコが兵の指揮官ヒコネに問う言葉は険しかった。ヒコネはミコの言葉にひるむことなく答えた。
「前々より、ユダヤ人が蜂起する様子があれば、これを鎮圧せよとオーミの命を受けております」
「そなたの主は、オーミか、我か?」
 ヒコネはそれに答えず、反論した。
「我が国に害意を抱く者共を平らげるのが、私の責務です」
「害意を抱くかどうか、誰が判じるというのか?」
 激高しかねない二人の関係をおもんばかって、ミコに侍るイモコが二人に割り込むように聞いた。
「これから、いかがしましょう」
「まもなく夜が明けよう。兵士には、それまで静かにその場で待つよう伝えよ」
 ミコはそう言ったが、ヒコネの顔をじっと眺めた。イモコはその意図を察した、この緊急の場で、この男がミコに服するかどうか疑いが晴れないに違いない。イモコは申し出た。
「ミコ、あのかがり火を辿ればよいのです。私が一回りしてミコの命を伝えて参りましょう」
 兵士は暗闇の中に分散しているが、かがり火を目標にして探せば、兵士たちに新たな命令を伝えて回れるというのである。
「行ってくれるか。では、これを我の代わりに持参せよ」
 イモコはミコが差し出した曲玉の首輪を大事に懐にしまい、暗闇に姿を消した。ミコ自身も自らの命令を実行するように、黙ったままその場に立ちつくした。
「どうして、今すぐに引き上げないのかしら?」
 チェルニーの疑問にヘレンが答えた。
「兵が広範囲に分散していて、ミコの意志も徹底できない。暗闇の中で下手に兵を動かすと、知らずにユダヤ人たちに接触して混乱し、無用な戦闘も起こりえる。一端、戦闘が始まれば拡大するわよ。ミコの考え通り、夜が明けて命令が正確に行き届くようになるまで、このままそっとしておく方が良いわね」
 ヒコネが納得しかねるように問うた。
「しかし、奴らから仕掛けてきたときにはいかがいたしましょう」
「その時は、我が決め、我が命を出す」
 ミコが思い悩む様子を見かねるようにケハヤが言った。
「ミコ、試しに、私が使者に立ちましょう」
 こういう場合、ミコにとってケハヤほど信頼できる使いは無かろう。常に側近として身辺に控え、ミコの意に沿わない行動はしない男である。
「行ってくれるか。しかし、危険があれば、すぐに引き返して参れ」
 ケハヤは頷くと、傍らの兵士から盾を借り、身を低くして歩き始めた。右手には剣の代わりに松明を持っていて、その炎は夜目にも明らかで弓の的になりかねない。その勇敢さにヘレンは感心した。ヘレンも傍らの兵士の盾を拝借した。

「お前は、何故ついてきた」
 ケハヤが背後の気配を察して、ヘレンを振り返ってそう言った。
「お馬鹿。貴方は彼らの言葉が解るの? 言葉が解らないのに一人で出かけても無駄よ」
「なるほど。では、とりあえずあの樹の所まで」
 ユダヤ人集落から見える灯りで揺らめくような影に見えるのは、サミュールがささやきかけていた桜の樹に違いない。その幹は細く身を隠すには不足だが、この視界の開けた場所では他に頼るべき影がなかった。ユダヤ人集落からも、ミコのいる陣からも五十メートルばかりの距離で、慣れた射手なら確認した目標を射ることができるだろう。
 そんなケハヤの想像通り、カンッ、カンッと二度ばかり、手にした盾に矢を受ける衝撃があった。盾を外れた矢の何本かは、ケハヤとヘレンの傍らを勢よく飛び去った。
「彼らの意志を問うのに、言葉は必要なかったようだ。下がるぞ」
 ケハヤはヘレンの持つ松明を奪い、自分の松明と共に捨てた。さらに飛んできた矢が松明の炎をかすめているようだったが、その炎から離れてケハヤとヘレンは闇の中を後退している。
 ユダヤ人たちに戦う意志がある。ヘレンはケハヤがそういう報告をするだろうと考えたが、違った。
「彼らも怯えているのでございましょう。彼らに戦いの意志はございません。ほらっ、その証左に、盾に刺さった矢に勢いはございません。慣れた射手の矢はことごとく逸れております。我らを脅し接近させぬことだけが目的」
 松明を掲げて行動していたから、暗闇でケハヤの姿が見えなくても、射手はその光の下を狙って矢を放てば、ケハヤを射殺すことも出来ただろう。矢の幾本かは盾に命中したが、その勢いは弱く、不慣れな射手が発した矢である。本当に慣れた射手が発した矢は、二人に警告を与えるように、勢いのいい音と共に傍らを過ぎてケハヤとヘレンを傷つけてはいない。しかし、戦闘を続ける意志を持続し続けるように、時折、矢は放たれ続けていた。
「今、何時?」
 ヨゼフがアダムにそう尋ねたのは、早く明るい日差しがこの人々を照らし出し、混乱から目覚めるように祈ったからである。しかし、確認する時計に、夜明けには時間があった。ワクウのみ、他の人々との思いは違うようでこの状況とは異質な質問をした。
「ボクの父さんって、どんな人?」
 ノユリは返答に窮してただワクウを抱きしめ、周囲の人々もワクウに納得のゆく回答を与える事が出来ないで居る。

 



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