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11

 同じ頃、突然、ふらりと現れた人物に、ノユリたちの村の人々は驚いた。ミコである。見覚えのあるイモコの他、二人ばかりの従者を連れただけの軽装である。
「ああっ、旨い」
 村人が差し出した水を笑顔で飲み干した。都からは日を遮るもののない川を下ってやってくるという。そしてこの辺りの街道は良く整備されていて陽当たりが良い。そこを地震の被害を確認しながらゆるゆると来ただけに喉の渇きも頷けた。ただ、都からの経路を考えればアラハカの寺やセヤクインへ向かっても良さそうなもので、ミコがこの村に配慮して立ち寄った様子がうかがえた。
「この辺りは無事なようだな」
 村の中を見回して、ほっとする口調だった。

 この人物の気さくさは、セヤクインに薬草を持参するノユリ親子とヒデンインに行くヨゼフたちに同行すると言う形をとってあらわれた。これがこの国の国政を担う最高権力者かと首を傾げたくなるほどの寛容さだった。寺に向かう道すがら、ヘレンが疑問を口にした。
「ミコ。ケハヤは?」
 あの番犬のように忠実な男が、ミコの傍らに侍っていないのが不思議だったのである。
「あの者の腕力は、我の護衛より、都の再建の方が役に立つ」
 ミコはそんな言い方をして笑った。地震で破壊された都の再建のために残してきたというのである。ヘレンとアダムは顔を見合わせた。あの男なら、命じられた仕事などほったらかして、大声でミコの名を呼びながら駆けてきそう気がしたのである。
 村人やアダムたちに乞われるまま、ミコは都の様子を語った。
「酷い有様だ。家は倒れ人々は住む場所を失っている。怪我人が救護所にあふれかえっている。ただ、なんとか立て直せるだろう」
 さりげない言葉だか、ミコの人柄を物語っているとアダムたちは思った。都の宮殿や自らの屋敷にも大きな被害を出しているはずだが、自分の事は省みず民衆の困窮に心を痛めているのである。
「しかし、人々の心はまだ治まらぬ。我が、十二の歳の頃に流行病が都を包んだことがある」
「この国にそんなことが」
 そんなヨゼフの言葉に、イモコが言った。
「神をないがしろにした祟りだとか、仏を粗末にした罰だとか、不安ばかりが渦巻いて、人の心が荒れました」
 細かな出来事は分からないものの、その苦しげで悲しげな様子は、イモコにもつらい記憶を残しているらしかった。
「今も、なにやらあの時のように、人の心が乱れている」
 そのミコの言葉はアダムたちにも理解が出来た。この村の近辺でも晴れる様子のない不安が渦巻いていた。きっかけがあれば暴走し始めるだろうという予感があった。
 突然の報告がもたらされた。
「ミコォーーー」
 地響きではないかと感じるほどの足音と、ミコの名を呼ぶ大声にヘレンたちは記憶があった。ヘレンはアダムににやりと笑ってみせた。ケハヤに違いないだろう。彼女の見込み通り姿を現したのである。駆けてきた方向を考えてみれば、セヤクインまで駆けた後、ミコがまだそこに姿を見せていない事を知って、この村に寄り道をしている事に気づいたと言うところか。しかし、響く声に緊迫感が感じ取れ、近づいてきたケハヤの表情にもその感情が読み取れる。
「ミコ」
 発した言葉はそれだけである。ケハヤはぜいぜいと喘いで呼吸を整え、ノユリが差し出す竹筒の水を一気に飲み干した。ミコは尋ねた。
「いかがした?」
「ナヌワの港の守備隊より、湖の向こうの集落のユダヤ人どもが……」
 息を継ぐケハヤにミコはその先の話を急かした
「早く言え」
「ユダヤ人ども、何をトチ狂ったか、叛乱を起こしたとの連絡でございます」
「叛乱? まさか」
 アダムが首を傾げた。先日、ユダヤ村を訪れたときに、彼らが武力蜂起するような気配は皆無だったし、子どもたちが駆け回る平和な村の印象が心に残っていた。ミコの思いも同じであったらしく、まだ呼吸が整わないケハヤに尋ねた。
「確かか、何かの誤りではないのか?」
「報告によれば、物見の兵士が発見し捕らえようとしたところ、戦いになり敵三人を倒したものの、わが方も兵士一人が殺されたとのことでございます」
「行ってみよう」
 ナヌワの港の守備隊の駐屯地まで徒歩でも一時間とかからない距離である。じっと報告を待つより出向く方が早いだろう。
「ミコ、私も同行させてください。私は彼らの言葉がわかります」
 ノユリがそう言った。
(なるほど)と、アダムは思った。
 この世界で得た不思議な能力のため、アダムたちは会話に不自由せず、気がつかなかったが、この国の人々とユダヤ人たちの言葉は違っていて当然で、言葉を交わすのに通訳が要るだろう。以前、ユダヤ人と共に過ごして、彼らの言葉を幾分か理解するノユリなら通訳に適任に違いなかった。
 ただ、ノユリの切迫した不安そうな表情を見れば、彼女の本心が通訳ではなく、殺されたユダヤ人兵士が夫のサミュールではないかと危惧し、その確認をしたいに違いない。その意図を察したのかどうか、ミコはノユリに頷いてみせて同行を許可した。彼らはケハヤが調達した馬と馬車に分乗した。
 
 三人のユダヤ人の若者の遺体は、事件が起きた水辺に並べられてムシロがかけられていた。ユダヤ人村から湖を経てまっすぐ南下した位置である。ノユリはムシロをめくってみせるヨゼフの傍らで小刻みに震えながら、それでも目を離そうとせず、ムシロの下から現れた遺体の顔立ちを確認した。夫ではないことを確認し、崩れ落ちるように地に膝をついて、ワクウを抱きしめた。
「小競り合いの状況は?」
「兵どもが不審者を見つけ、身分や目的を問うたところ、手向かいいたしました故、切り捨てました」
「あなたたちの中に、彼らの言葉が分かる者が居るの」
「私たちはには言葉は解りませんが、こ奴らも私たちの言葉は理解しません」
「言葉が分からず、互いに混乱しただけじゃないの?」
「こ奴らは剣を所持しておりました。ほら、そこに」
 確かに、刃物が転がっており、遺体の腰には鞘があった。しかし、遺体の側に猪の死骸が転がって違和感を発していた。ヘレンがその点に疑問を呈した。
「この猪は?」
「存じません」
「この者たちは狩人で、獲物を何かと交換するために市に来たのではありませんか?」
 アダムが推測を交えて兵士にそう問うた。兵士に代わって指揮官ヒコネが吐き捨てるように反論した。
「ただの狩人なら、どうして剣を持っているのだ」
 遺体の傍らに無造作に置かれた三振りの刃物を順に手にしてみると、いずれも刃渡り三十センチを越え、ヘレンがケハヤから奪った剣と変わりがない大きさである。真新しい刃こぼれの跡があり、兵士たちの剣と力任せに幾合も打ち合わせた様子がかいま見え、そのうちの一振りには、まだ乾ききらない血糊が付いていた。殺されたという兵士の血に違いない。剣だという解釈に異論を唱える証拠はなかった。ミコが周囲の兵士たちを見渡して尋ねた。
「誰か、彼の者たちの言葉を聞いた者はいるのか」
 兵士の一人が答えた。
「このあたりには、あの者どもの言葉を解する者は居りません」
「では、戦いを意図したかどうか分からぬではないか」
 ここで起きた出来事が目に浮かぶようだった。油断ならない相手に、腰の刃物に手をかけ、その姿勢が互いの感情をさらに高ぶらせて剣を抜き、偶発的な戦闘に至ったのだろう。
「ミコ、いかがいたしましょう?」
 頭の切れるミコが、この時は部下のヒコネの言葉を察しかねてに首を傾げた。ヒコネは言葉を継いだ。
「この者どもの集落を討伐するならば、既に兵の準備は出来ております」
 ミコの怒号が飛んだ。
「馬鹿な。必要もない戦を起こすつもりか」
「では、この者共をいかがします?」
「とりあえず、丁重に葬ってやれ」
 アダムがミコとヒコネの会話に割り込んだ。
「それは、止めてください」 
 やや沈黙があった。中天をすぎた太陽が、雲一つ無い大気を通して、この砦にいる者たちをじりじりと焼くようだった。額や首筋に浮かんだ汗が滴になって流れた。アダムは言葉を続けた。
「あなた方と、ユダヤの人々は信じる神が違いましょう。故人を神の元に返す儀式にも違いがあるはずです」
 アダムの言葉にミコも頷いた。アダムはちらりと腕時計を眺めた。午後三時前。日没までには時間があり、日が沈む前に、遺体をユダヤ人たちに届ける事が出来るだろう。
「僕がこの遺体を彼らの村に返します」
 アダムに突然に義務感のような感情が湧いた。無惨に横たわっている遺体への憐憫の情なのか、それ以外の理由があったのか、行かねばならないという衝動に押し流されて、彼自身判然としない。
「私も行くわ」
 自然な流れのようにヘレンがそう言いった。
「私たちなら言葉も通じますし、両者に利害はありませんから、調停役になれると思います」
 間接的表現ながらチェルニーが同行する意志を示し、ヨゼフも続けて言った。
「舟を漕ぐのに俺も必要だね」
「そなたたちの身に危険が及ぶかもしれぬ」
  ミコの危惧にアダムは断言した。
「彼らが私に危害を加える事はないと信じています」
「それでは、護衛をつけよう。ヒコネ、砦の兵五十を率いてこの者たちの護衛をせよ」
 ヘレンがミコの提案がもたらす結果について察していった。
「多数の兵を同行すれば、彼らを刺激します。兵は不要です」
「しかし、そなたたちの身の安全も守らねばならない」
「では、この遺体の運搬に兵士を三名ばかり付けていただければ」
 三名というアダムの妥協案をミコはのんだ。彼らを乗せた三艘の小舟が桟橋を離れたのは午後三時を回っていた。
「いったい、何故、私たちはこんな事をしているの?」
 チェルニーがそう言った。誰かに語りかけたのか、自分の心に問うたのか分からない言葉だった。確かに、この世界の者ではない彼らは傍観者たり得た。しかし、自ら望んで当事者の立場に立ち、しかも、その先頭に立っている。
(この自分は、父親として、子供に何を残せるんだろう)
 サミュールと共に湖を渡ったときの思いがアダムに蘇った。ノユリの村とサミュールの村、民族が違う二つの村の子どもたちの姿が目に浮かぶようだった。この二つの民族を争わせてはいけない。それが彼に与えられた舞台で、彼が果たすべき役割なのかも知れなかった。遠く離れた父親の顔を思い出した時、アダムは与えられた役割を果たしたいと願った。日はまだ高く、湖面に光を投げかけていた。三艘の小舟が湖面を切り裂く波が広がって、櫂から飛び散る水滴がきらりと輝いた。見晴らしが良く対岸がずっと見えている。水辺に居る人々の影だけではなく、洗濯をする女や水に戯れる子どもたちの姿が判別できた。あの人々に伝える悲しみと、その結果が引き起こすかも知れない出来事にアダムの心は重い。
 岸で洗濯をしていた女が、手をかざして傾きつつある日差しを遮って湖面を渡ってくる船を眺めた。彼女は子どもを呼び寄せて何かを言いつけ、子どもは不安そうに振り返りながら村の方向に走り去った。異民族が乗った船が接近しているという事実以外に、この船が漂わせる不吉な雰囲気を察したようにも思われた。
  間もなく対岸に到着する。時間は午後五時を少しすぎるだろう。アダムは自嘲的に笑った。この世界に来て、時計と無関係の生活をしていたが、今、刻一刻とすぎるこの瞬間を意識していた。
 もちろん、遺体を届けたアダムたち一行は、ユダヤ人の集落に衝撃を与えた。家族や仲間の死を嘆く声が響き、恐怖や不安の叫びが充満し、その中に復讐を叫ぶ声も混じっているように思われた。既に遺体はユダヤ人たちに奪い取られるように引き渡されており、アダムは恐怖と憎しみの混じった視線を浴びながらラビのテントへ歩んでいた。
 人々の中に弓を手にする人々がいたが、生活のために獲物を射るものか、敵を迎え撃つ道具なのか、人々の悲しみと憎しみの目で見極めがつかない。刃物が触れあう音がしてヘレンは密かな仕草で周囲の危険を探ったが、身に危険が及ぶ兆候はなかった。太刀の束に添えようとしていた手が緊張で汗ばんでいた。

【お客人。事情を伺おう】
 ラビは周囲の人々を制しながら、自らも心の動揺を抑えるような調子でそう言った。
「私はミコの意志を伝えるために来ました」
【お前たちは異教徒どもの手先だったのか?】
 エゾラがそう怒鳴り、ヘレンは自分たちの立場を語った。
「違うわ。争いを収めたいだけ」
【エゾラ、よさんか。この方々は三人の遺体を届けてくれたのだ】
 ラビが人々を諫めた後の一瞬の沈黙の後、アダムが語り始めた。
「人々の心の中に、疑いや迷い、憎しみが存在します。時に、それらが暴発して争いになる事があります」
【わかりきった事を、仲間を殺されて黙っていられるものか】
 怒鳴るシャーマをラビは制し、アダムに言葉を続けさせた。
「私の父親は、誇るべき家柄も学問もない人物でしたが、自分が置かれた立場で、自分の責任を果たすという事を、彼の生き方の中で教えてくれました。私も誇りを持って父の生き方を受け継ぎたい。そのために、私はここに来ました」
【俺も息子を持つ父親だったが、その息子と友人は今日殺されて今は居ない。息子に誇りを受け継ぐのが父親の生きる証だと言うなら、今の俺は証すら持たない、この世に居ないのも同じだ】
 デービットが悲しみを吐き出すように言い、多くの人々が彼に同調した。敵意に満ちた視線の中でアダムは話し続けた。
「ここに来る途中、私はこの国の子どもたちの事を考えました。それから、この集落の子どもたちの事も。更に、ある夫婦と子どもの事を思いました。人々の不安や憎しみで引き裂かれた夫と妻とその息子です。僕はこの子のために何が出来るんだろう?」
 人々の怒号は、やや下火になりはしたが続いていた。仲間の死で混乱する人々は、自分の考えをまとめる事も出来ないでいるに違いない。アダムは最後に一言付け加えた。
「湖の両岸の人々が、再び共に過ごすために、いま出来る事は何だろう。平和か憎しみか、それを考えていただきたいと思います」
 アダムの言葉が終わると共に、その言葉に呼応していた怒号もなくなり、人々の間からは囁きすら失せて沈黙が広がった。眺め回すと、民衆の人数は話を始めた時の数倍になって、アダムたちを分厚く取り囲んでいた。サミュールとチュラーヤの姿もあったが、二人は輪の中に入ることなくじっと中心部を見守っていた。
 困難する人々を見回すラビは、指導者として決断を下した。
【すまないが、我々も突然の事態に混乱している。日を改めて我々の方から、ミコに使者を立てさせていただこう】
「あなた方の意志を、ミコの元に持ち帰りたいと思ったのですが」
【これだけは約束できます。我々は神の御言葉に従います。神は我々に争いを求められていない】
 ラビはアダムの手を握ってその温かさを伝えた。アダムもその手を両手で包んだ。
「分かりました。それをお伝えします」
 ラビの合図で人々の輪は解かれて、アダムたちは村を後にした。村への目印の桜の傍らを過ぎる時、ヘレンがアダムを評した。
「今日この日、貴方は世界一、勇敢だった」

 アダムたちが湖を渡って砦に戻ったのは、日が暮れてからである。砦には月や星の輝きを打ち消すほどにかがり火が炊かれていて、明かりを目標にすれば、彼らは砦を見失う事はなかった。ただ、その灯りが、辺りに漂う憎しみを燃料に燃え上がっているようにも見えた。事実、湖を間において睨み合う両者の不安や混乱は、容易に憎しみに転化するに違いないのである。
(こちらにも)
 ヘレンがそう考えたのは、憎しみと復讐心が渦巻いていると言うことである。こちらも仲間の兵士を失っている。その憎しみは過去の戦で殺された仲間や家族の記憶も呼び起こすに違いない。
 大声で叫ばなくても、異人どもに復讐をというささやきが砦全体に広がって、肌を圧するような嫌悪感が感じられた。
 ミコはアダムたちを見送ったのと同じ位置に立ったまま、アダムたちを迎えた。
「ありがとう」
 ミコは儀礼的で難しい言い回しをせず、解りやすい言葉を一言発したのみで、アダムの報告を聞き終えた。緊張感の中で、ほっと一息を突いたような安堵感と、感謝の心情が込められていた。終わろうかとした報告に、砦の指揮官ヒコネは、アダムたちの護衛についていた兵士たちに問いかけた。
「奴らの戦の準備はどうであった?」
「武器を携えた者も多数。我らも身に危険を感じるほどでございました」
 ヒコネは満足げに、その報告に頷いて見せた。確かにアダムたちの傍らに侍り、言葉が理解できない兵士たちから見れば、そういう状況だったのかも知れなかった。ヘレンが反論した。
「彼らが手にしていたのは、狩猟や生活に使う弓やナイフだけです。武器ではありません」
「ほぉ、何故、それが解る? 仮に、狩猟や生活の道具であったとしても、戦に使わないという理はあるまい」
 この場合、ヒコネの言葉に部がある。ヒコネとヘレンを仲裁するようにミコが命を下した。
「今は、彼らからの使者を待つ」
「ミコ、待つのは、彼らに戦の準備をする時間を与えるようなものでございますぞ」
「ヒコネよ。もし、彼らに戦う意志があるならば、既に準備は整えていよう」


12

 長い夜が明け、両者に公平に朝が来た。待つというただ一つに見える選択肢を持ったミコはともかく、ユダヤ人集落は様々な価値観と選択肢でまとまらない。緊張感で疲労し、まとまらない議論で混乱している。
【どうして、彼らが我々にこの地を譲ったと考えてる? 我らが戦い、我々の意志と力を彼らに見せつけたからではないか】
【ただ、大勢の仲間が死んだ。そして、我々も彼らを殺しもした】
【それはやむを得ん。彼らは我々の神を受け入れると騙したたからではないか】
【私たちの憎しみや悲しみがどこまで拡大するのか、それは神の御心ではない。我々が作り出しているのではないか】
【我々は、ここに安住の地を見いだしたのではなかったのか】
【神の御心に添わなかったと言う事だ】
【この地を去るといっても容易ではない。長い航海をするための食料や医薬品をどうするのだ】
【しかし、今なら船を操れる者も残っている。しかし、あと十年もすれば船乗りだった者は皆年老いてしまうぞ】
 村人の誰がどんな発言をしたかという事は意味がなかった。この地にとどまるべきだと強硬に主張していた者が、戦の影に怯えてこの地を去る提案をした。殺された者の復讐を口にする者がおり、戒律を口にして復讐を思いとどまらせようが居るかと思えば、戒律を理由に、呪術を使う異民族は殺さねばならぬと主張する者もいた。
 考えてみれば、使者を立てる日時を指定していたわけではない。しかし、その刻限を考えねばならないほど議論は紛糾してまとまらず、ラビは人々を見回して、人々に急速と冷静さを促した。
【良いかな。皆、疲れすぎた。睡眠も取って居らぬだろう。この年寄りにも、つかの間の休息を与えてはくれまいか。さあ、笑顔を見せて女や子どもを安心させてやるがよい】
 テントに集う男たちは頷いた。不安を振り払うように議論に熱中していたが、この集落にはそんな手段も持たず、不安に震える女や子どもたちも数多いのである。ラビは細かく命じた。
【彼らも、我々が手向かわぬ限りいきなり兵を差し向けては来るまい。しかし、見張りは絶やさぬようにせよ】
 そんな中、エゾラはサミュールの姿が見えない事に気づいた。部族の存亡がかかったこの非常事態に、何も興味がなさげに議論にも加わらず、小屋に籠もっているということである。議論がまとまらない苛立ちが、サミュールへの怒りに変わった。

 エゾラは怒りを込めて小屋に踏み込み、怒鳴り散らした。
【サミュール、お前という奴は、ユダヤの風上にも置けん】
 サミュールは動じる気配のないまま、抜き身の剣を研ぎ続けた。
【何をしている】
【エゾラ。剣は何のためにあるというんだ】
【サミュール。お前は戦でも起こすつもりか?】
【俺の神は、母親を守れと命じている】
【神のご意志に従え。ラビの言葉に耳を傾けろ】
【自分勝手な事を言い散らかし、臆病者同士でまとまらぬ議論をすることが、主の御心か? そんな事をしている間にも、奴らはお前たちを殺しに来るぞ。仲間の命を守りたければ、さっさと剣と弓を手にすることだ】
 サミュールは剣を研ぐ手を止めて、エゾラを眺め回し、彼の優柔不断ぶりを皮肉った。エゾラは憎々しげにサミュールの母親に視線を向けた。
【やはり、お前はこの淫売女の】
 エゾラの言葉が止まった。サミュールの剣の刃先が彼の首筋に触れていた。サミュールは恐ろしげな行為と裏腹に穏やかに、しかし、断定的に言った。
【もし、戦が始まるなら、湖の向こうの兵士を何人斬り殺してでも母を守る。ただし、その前に、母を侮辱する者がいれば、先にカタをつけてもいい】
 彼が目に浮かべる殺意は本気で、エゾラを黙らせた。エゾラは無言のまま後ずさりをした。チュラーヤが静かに言った。
【剣を置きなさい、サミュール。エゾラ、ケンカをするなら出ておゆき】
 サミュールを憎々しげに眺めながら、エゾラは何も言わなかった。ただ、小屋を飛び出していっただけである。抜き身の剣を手にしたままのサミュールに、彼女は言葉を続けた。
【まったく、三人とも父さんの血を引いているはずなのにねぇ】
【馬鹿を言うな。俺にとって、母さんだけが肉親だ】
【サミュール、悲しい事を言わないで。父さんを通じて、エゾラもシャーマも貴方の兄弟だから】
【母さん、戦が始まるようなら、二人でどこかへ身を隠そう】
【馬鹿だね。そんな事より、食事でもおとり】
 母と子もまた緊張の中にあって、長い夜と朝を過ごし、陽は中天にあるというのにまだ食事を取ってはいなかったのである。二人は、食欲は湧かないが、平穏な日々が帰ってくる事を念じて、日常と同じ食事をする事にした。

 


13

 明くる日を迎えても、ミコは砦にとどまったままである。昼を過ぎ、間もなく日暮れを迎える時間だが、ユダヤ人たちからは何の連絡もなかった。その時間の長さが、砦の兵士たちの憎しみをかき立てていた。こうしている間にも、ユダヤ人たちは着々と戦の準備を整えていると妄想が膨らむのである。
 そんな兵士たちが、ただ黙ってたたずむミコの存在によって押さえられていた。アダムたちはミコの傍らに侍りながら、ミコとヒコネの議論を聞いた。
「ヒコネよ、何故、そう荒ぶる。」
「十三年前。私は奴らのために息子と弟を失いました。この砦には他にも身内を失った者が多数居ります」
「では、その恨みか」
「いえ、奴らが危険な存在だと申しているのです」
 平民出身のケハヤばかりではなく、出自の確かなイモコでさえ、二人の会話に割ってはいるのが恐れ多いという雰囲気があり、アダムたちにも、ヒコネという老人が持つ権力が知れた。背後にオーミが控えているばかりではなく、この老人自身も尊い血筋を持った熟練の武人なのだろう。
 アダムにはミコがここに留まる理由が理解できた。ミコを除けば、この場で最高位はこの老人であるらしく、ミコが姿を消せば、独自の判断で兵を動かすに違いない。この老人はミコによって兵を動かせず、ミコはこの老人によってこの砦に釘付けにされているようなものだった。
 日が暮れる頃、指揮官ヒコネはミコに一つの提案をした。
「ミコ。この砦の兵を、ナヌワの港まで下げとうございます」
 砦は高台にあって、この砦のかがり火と、それに照らされる兵の姿は、対岸からも見えるに違いない。南にある港なら兵士を収容し、天露をしのいで夜を過ごせる小屋もあると言うのである。港はこの砦の南西側二里ほどの位置にあり、兵を湖の東岸のユダヤ人村から遠ざけることになる。争いを避けるというミコの意志を汲んだようにも思われた。しかし、そのヒコネの従順さに、ケハヤは首を傾げた。先ほどまで、ユダヤ人討伐を強硬に主張していた男だとは思えない変身ぶりである。
 ただ、この時は、普段は気の回るミコが、夜の闇と不安や混乱で心が乱されていたらしく、子どものように疑いもせず、ヒコネの進言を受け入れて細かく指示をした。
「よかろう。砦の不要なかがり火は消し、移動する兵には松明を持たせて、対岸から兵士が移動していることが分かるようにせよ」
 暗闇で兵士の姿は見えずとも、多数の松明の炎が遠ざかって行く様子が分かれば対岸の人々も落ち着くだろうと考えたのである。ヘレンとアダムはその細かな配慮に納得した。
 砦の中に兵を集合させるかけ声が響き、かがり火が消えて広がった闇の中に、兵たちが掲げる多数の松明の光が揺れた。
「今、何時?」
 チェルニーが時を尋ねたのは、ワクウがあくびをして眠そうに目をこすったのに気づいたからである。アダムの腕時計では午後八時を回っている。この子は場違いなところに連れてこられ、大人たちは不安や憎しみで混乱しているだけで、ワクウの相手をする者もなく、すっかり周囲から取り残されてしまっているのである。ケハヤが用意した毛皮の敷物を小屋の隅に敷いて、ノユリはその配慮にぺこりとお辞儀をして、ワクウを毛皮の上に横たわらせた。この瞬間、小屋の中にいたミコやアダムたち、砦の兵士はこの子に精神を集中させた。高ぶって解けない緊張感が解きほぐされるような気がするのである。


14

【この地にとどまり続けることなど理解できない】
【今は逃げても無駄だ。私は育った地を去れない】
【彼らと共に生きる術がないなら、この地を去ろう】
【我々の生活は祈りの中にある。平和と無抵抗を貫くのだ】
【仲間を殺されても?】
【この国に来て、大勢の仲間が死んだ。そして、今もまた。我々は何故生きている?】
【神にのご意志に背を向けるのですか。私は逃げたくない】
【では、この地を去るのか。この地はミコから与えられた我々の土地。我々の国を築く礎でもありましょう】
【神の御心のままに】
【今朝、私は食事を作りながら祈りました。これかもずっと、私の食事を笑顔で食べてくれる家族がいますように】
 人々の言葉は切実ではあるが、様々な思いが交錯して脈絡が無い。彼らはこの国を征服するなどと言う選択はあり得ない。この国の人々と共にこの地で生きるか、この地を去るか、いずれかである。共に生きるために戦に加わったが、思いは果たせず、この国で生きるために、この地の人々と住み分けるという条件を飲んでいたが、今回の争いを見ればそれも難しいのかも知れない。使者に託して伝える意志がまとまらない。
 この時、テントの端にいた女が立ち上がった。女の凜と響く声が響いた。
【今こそ、神のご意志と、私たちの信仰を伝えねばなりません】
 立ち上がったのはチュラーヤである。人々は一様に不快な表情を浮かべた。異民族の女ごときが、何を説教を垂れるのかという感情である。更に、自分たちの仲間シャーウールをこの女がたぶらかして取り入ったばかりではなく、この国の戦に加わらせて、部族に多数の戦死者を出させたという噂が、女に対する嫌悪感を生んでいる。シャーウールの前妻の遠縁に当たる者などは、この女がシャーウールの妻になるために、前妻を呪術でのろい殺したと噂してもいる。そんな憎しみの籠もった怒号が幾つも響いた。
【異民族の女ごときが出しゃばるな】
【今度は誰をたぶらかすつもりだ】
 ラビは手を掲げて人々の声を制止して言った。
【チュラーヤの話を聞こう】
【十三年前、貴方たちはこの地を約束の地と思い定めたからこそ、この地の戦に加わってシャーウールたちを戦に送ったのでしょう。私は戦に行くというシャーウールにすがりついて泣きました。『貴方が死んだら、私はこの集落でたった一人になってしまう』と】
 涙を見せなかった気丈な女の意外な言葉だった。
【ただ、あの人は言いました。『三人の息子に、この大地で生きる足がかりを築いてやりたい。もし、俺が死んでも、この国の人々が我々の信仰を受け入れてくれるなら、お前と三人の息子にとって、ここがカナンの地となる』と。シャーウールにとって、この国の人々は憎むべき敵ではありませんでした。共に生きるはずだった地です。今は祈りましょう、子どもたちのために、友と敵のために】
 彼女は言葉を途切れさせて、この場にいる人々を静かに眺め回して言葉を続けた。彼女と視線を合わせ続ける事が出来る者は居なかった。
【私たちにとって、ここが約束の地ならば、主は私たちに、互いに赦し合いつつ生きよと仰っているのでは? もし、この場に主のご意志を伝える使者がいなければ、私が使者に立ちましょう。この地で憎しみや誤解を越えて生きよ、と言う主のご意志に従うと】
【しかし、奴らは我々の神を受け入れるまい】
【私はこうして皆さんに心を打ち明けるのは、初めて】
【それがどうした】
【私たちは異民族を見下すだけ。私たちはこの十三年の間、幾つもの誤解と憎しみを積み重ね、昨日は三人の仲間を失いました。でも、今まで私たちはこの国の人々に、憎しみを越えて平和を求めるという、私たちの望みを伝えた事があったでしょうか】
 彼女の話を聞きながら沈黙を保っていたラビに、神の啓示があったかどうかは分からない。しかし、ラビは静かに力強く言った。
【この一日の間、私は自分自身に問うていた。『十三年前に、我々がたどり着いたこの地は、神に約束された地ではなかったのか』と。それは皆も等しく感じ取っていたのではないか。我々は主の御心をおざなりにし、この地に安穏としすぎたのやもしれん】
 サミュールが母親の傍らで立ち上がった。
【あなたたちは自分たちの事ばかり考えているようだな。奴らもまた、仲間を殺されていきりたって居るぞ。そんな危険なところに母を行かせるわけには行かない。俺が行く】
【サミュール】
 声をかけた母にサミュールは笑って見せた。
【大丈夫さ、母さん】
 そしてこの場に集う人々を眺めて語りかけた。
【俺は今思った。俺の妻のノユリは、浜に流れ着いた俺を見つけて助け、俺を介抱して励ますために、俺たちの言葉を覚えた。しかし、この俺は彼女の言葉を理解しようとはしなかった。俺は後悔している。もしも、もう一度会う機会があれば、彼女が話す言葉で言ってやりたい。愛していると】
【主は、我々の意志を試されているのか】
 ラビがぽつりとそう言って、サミュールに向き直って続けた。
【サミュール。もしも、お前がこの地で共に平和に暮らそうと伝え、無事に帰ってきたら、それが主の御心だろう。この地に留まろう。しかし、それがかなわず、お前が帰らぬ事があれば、この地は主が我々に約束された地ではなく、この地に安穏とせずに正しい道を歩めということやもしれない】
【ラビよ。主の言葉の証を貸してくれ、俺が彼らにその言葉を届けよう。アダムたちも砦にいるだろう。彼らに言葉の仲介を頼む】
 サミュールの言葉にラビはやや考えて、小さな箱を取り出し、中を改めた。主の御言葉を記した羊皮紙が入っていた。ラビは大切に蓋を閉じて厚い布で来るんでサミュールに渡した。
【サミュール。私は祈ろう。お前が主の意志を伝えられるように】

 丸みを取り戻しつつある半分の月が、透明な大気を通して明るい光で湖面の波を照らし、遮るもののない湖面を吹き渡る風は、音もなくサミュールを包んだ。ただ、どんより濁る雲が空を覆う様子もあり、不吉な予感すら感じさせた。
 眼前に黒く広がって、全てを飲み込むのではないかという恐怖感さえ感じる湖面に、自分が乗る小舟が一艘浮かんでいるというのが、実に不思議な気がした。が、船は一艘ではなかった。櫂が湖面を叩く音が混じってきたのである。湖面を遠く見渡せば月の光を浴びて幾艘もの船のシルエットが見えた。乾弦が高く、帆は畳んでいるようだが太い帆柱も見えた。ここいらの漁師が使う釣り船ではあり得なかった。巨大な戦船に違いないのだが、かがり火もなく一切の灯りを点さず、ただ、不気味に息づくかのように幾本もの櫂がそろって湖面を叩く音が響いていた。サミュールはその音に隠れて身を隠すように、櫂を握る手を止めて目をこらした。
(全部で六隻か)
 サミュールが湖面の影の数を数えたとき、先頭の船に兵士がかざす松明の灯りが点り、湖面を照らした。明るい月の光に映えて、サミュールの小舟が見え、その姿を確認するかのようだった。
 次の瞬間、押し殺すような低い命令の声と共に、サミュールの小舟をめがけて数本の矢が飛んできた。幸い船に身を隠したサミュールの体に命中した矢は無かったが、いずれの矢もこの暗闇の中でサミュールの小舟を的確に捉え、よほど熟練した射手が発したものと思われた。
(やはり、兵士だ)と、サミュールは決断を下した。
 しかし、いきなり矢を射かけてくるというのはどういう事だろう。船足はサミュールの小舟の方が速いとみえ、彼は進路をくるりと変え、戦船を引き離して元の岸に帰り始めた。サミュールの小舟を見失った戦船は、再び灯りを消してその気配を絶った。
(村の者に知らせなければ)
 戦意旺盛な兵士たちが、気配を消しつつ接近してくるというのは、何をさておいても村人たちに知らさねばならないだろう。

 見張りの者が向こう岸で揺らめく灯りに気づいて以来、砦の灯りが減り、ユダヤ村の人々は、危険が遠のいたと考えた。情報は人々の間に広がり、夫と妻は寄り添ってくつろぎ、母親は安堵の思いで子どもを抱きしめた。死すら覚悟する緊張感がとけていたが、人々はまだ油断無く対岸を見張っている。
 その男たちに岸に近づく小舟が見えたため、船の漕ぎ手を確認するために、小声で名を呼んだ。
【サミュールか?】
【平和は途絶えた。間もなく兵士がここへやってくる】
 サミュールの言葉だけではなく、彼の小舟に深々と刺さった幾本かの矢が、事態を物語っていて緊張が走った。子を持つ母親は恐れおののいて、子どもの名を呼んで家に駆け戻り、男たちは村を守る決意を固めて剣の束に手をかけていた。
 連絡のために村に走った男の到着と共に、村は再び死の恐怖にさらされるだろう。悲痛な連絡を告げる使者が走り、月の光が男の背を照らした。サミュールはその月をちらりと見上げた後、男の跡を追って村に向かった。
(平和の夢は破れた)
 サミュールはラビから預かった小箱を抱えてそう思った。妻に愛しているという事を伝える機会が失われた。その思いがサミュールの心を重くした。村に戻ってきたサミュールを眺める人々に失望感が深く、更にサミュールが平和の証として託された小箱を、倭人に見せることなくラビに返したという情報が広がり、村の大人の中には平和が破れたという絶望感が漂って、子どもたちをも包んだ。

 


15

 同じ頃、ミコは対岸でサミュールと同じ月を見上げながら首を傾げていた。
「ケハヤよ。港が静かすぎるとは思わぬか?」
 この砦は高台にあるものの、地形の高低差や森林で視界を遮られて、港が目に入る訳ではない。ただ、数百人の兵士がおり、かがり火でもたいていれば、その光は空さえ照らして、この位置からでも薄明かりが見えるはずだ。また、兵士たちを統率するのに使う太鼓や銅鑼の音が聞こえても良さそうなものだが、港の方角は静まりかえって、人の気配を感じさせないのである。ミコに促されて耳を澄まし、目を凝らしたイモコとケハヤもまた首を傾げて、ミコの言葉に頷いた。
「ひとっ走りして、見て参りましょう」
 ケハヤはそう言い終わるか否や小屋を走り出た。彼の馬の蹄の音が闇深く遠ざかっていった。
「長い夜ね」
 チェルニーの言葉に、誰も声に出して返事をせず、ただ、心の中で頷いていた。アダムが確認した腕時計では日付が変わろうとする時間だが、夜は途切れず、不安や混乱は変化することなく続いている。
「この湖の向こうに、サミュールもいるのね」
 ヘレンがノユリに語りかける言葉には、貴女の愛する夫でしょ、と念を押すニュアンスが含まれている。ノユリは感情を押し殺すように寂しげに微笑んで返事に代えたが、その仕草がヘレンの勘に障った。傍らにワクウが居たため、子の面前でノユリに苛立ちをぶつけることもできず、傍らのチェルニーに吐き捨てるように言った。
「こんな昔っから。日本の女は感情を隠すのね。筋金入りだわ」
 その苛立ちが自分に向けられたモノだと気づいたノユリは、あきらめの感情と共にぽつりと言葉を吐いた。
「この国では、台風や地震で、夫や妻を亡くす人が大勢います」
「だから貴女も同じだとでも言うの?」
「そうかもしれません」
「貴女の夫、サミュールは生きているの。この湖の向こうで」
 ヘレンの感情が激高しかけたのを見たのか、ワクウがノユリを守るように寄り添って、母を苛めるヘレンを睨んだ。
「ごめんなさい、そんなつもりじゃないのよ」
 ヘレンはそんな言葉でワクウに詫びた。この子はサミュールの名を聞いても、自分の父親とは理解すまい。しかし、その名の意味を語り聞かせるのも気が引けた。この時、ミコの侍従のイモコは、意図した涼しげな表情で空を仰いで、月を指さした。
「ほらっ、皆さん。空の月が冴え渡って美しい」
「本当、綺麗な月」
 ヘレンの言葉に仲間は頷いた。この世界にやってきてから、夜空の星や月が美しいということを呼吸するように自然に受け入れていた。ただ、改めて眺める月は、丸く静かに輝いて神々しく人々を守っていた。
「月は人の心を穏やかにもし、迷わせもします」
 イモコの言葉にアダムが問うた。
「人の心次第、と言うことでしょうか」
 ミコは頷いてアダムに同意して付け加えた。
「そして、迷っていることすら分からぬうちに、真理はの光も覆い隠されることもある」
 東の空を眺めると、星の光を遮る黒い雲があり、やがてこの月の光を遮るだろうと言ったのである。再び訪れた沈黙の中に、小魚が水面ではねる音、夜空を引き裂くような甲高い水鳥の鳴き声が時折響き、耳を澄ませば遠く、蛙の声が小さく響き続けていた。ただ、どんよりと淀んだ空気の中で、岸辺の芦原は風にそよぐこともなく静けさを保っていた。
 大人にとって辛く長い時間だが、望みもせずこの場に居合わせる事になったワクウにとって、迷惑な時間だったのかもしれない。寝かしつけてもらったものの、逆に目が冴えてしまったようでぱっちりと大きな目を開いていた。しかし、遊び相手を求めても同年齢の子どもは居らず、大人たちは皆、黙りこくってしまっている。母の手を引いてみたり、チェルニーのスカートの裾を引いて気を引いてみたり、ヨゼフに手品をねだってみたり、ヘレンにハイファイブを求めたりした。ワクウは抱きしめてもらったり優しく頭を撫でてもらっただけで、誰もワクウと心を交わさず関心を払う者は居なかった。アダムは物思いに耽りながらそんなワクウを眺めていた。
 やがて、ミコはワクウの存在に気づいて、その名を呼びながら引き寄せた。
「ワキュウ。おいで」
 人々がこの子を呼ぶワクウと、発音が少し訛っている。いや、ミコがこの子の名付け親であるだけに、ワキュウが正式な呼び名なのだろう。その名にどんな由来があるのか分からないが、村人たちはその発音を呼びやすく訛らせてワクウと呼び、今はそう呼ばれる本人もその名を受け入れているらしい。
 そのワクウは物怖じもせず、椅子に腰掛けるミコに寄り添った。ミコは過去の自分に向き合って問うように、ワクウに声をかけた。
「我は、お前の父と母を引き離した。間違えていたのだろうか? まだ争いが収まらぬ」
 黙ったままのワクウに、ミコは寂しげに自分の能力を悔いた。
「我には、人々の憎しみを消すことは出来ないのだろうか」
「違う。僕らは傍観者に過ぎなかった」
 ミコの言葉を否定するかのように響いたアダムの声は周囲の人々の注目を浴びた。しかし、アダムが手帳を破り捨てる様子で、彼の自問自答の言葉だとわかった。彼の視線はワクウにあって、破り捨てた手帳はもう不要だった。幾つもの人の名、出来事を几帳面に書きとどめ、頭の中でその情報を組み立てていたが、目の前の現実は好転するわけではなく、アダムたちも傍観者でしかなかった。
 ミコの視線が注がれているのに気づいて、アダムは語った。
「この世界にきて、二組の親子が美しいと感じました」
「以前、そなたが話してくれた母子のことか?」
「その美しさの理由を見落としていました。運命を呪わず一生懸命に生きて、子供はその生き方を受け継いでいく。そんな姿です」
「それで、人の心の憎しみが消せるのだろうか」
「でも、今の私たちは憎しみや怒りに振り回されるだけ。焦った私たちは迷い、次の行動がとれないまま、何もできずに傍観者で居ます。僕はワクウたちにどんな生き方を見せてやるかなんて考えてもいなかった」
 アダムはワクウの前にしゃがんで視線を合わせ、誰かにではなく、自分自身に問いかけた。
「僕らはこの子に何を語り継ぐんだろう」
 アダムの言葉に刺激を受けたように、ミコが即座にその言葉を継いだ。
「確かに、今の我にはこの世界の憎しみを消し去るすべはないが、消そうとする生き方を見せることができる。ワクウが我々の思いを育てて、次の世代へと継いでくれれば」
 もちろん、ミコが語るワクウとは、ワクウが代表するこの大地に生きる子どもたちのこと。倭人の子ども、ユダヤ人の子ども、次の世代を支える存在のことである。この場にいあわせた人々は、ミコとアダムの言葉に聞き入り、自らの心に問うた。ノユリはすすり泣くように跪き、顔を伏せてワクウを抱いた。
「私は、悪い母親です。この子に父親はいないんだという嘘ばかりついてきました」
 チェルニーが慌てて声をかけた。
「ノユリさん」
 ノユリが続く言葉を吐けば、彼女自身を傷つけてしまうのではないかと危惧したのである。おそらくこの場に居合わせた人々の思いは、その点で一致していたに違いない。ただ、誰もノユリの言葉を静止する理由を口に出せないまま、ノユリは続く言葉を吐いた。
「この子が父親の姿を求める度に、私もあの人のことを思い出して、悲しみが晴れません」
 愛する夫と引き裂かれた女は、夫と再び相まみえることも許されず、孤独に耐えていたのである。
 一瞬の沈黙を、馬蹄の響きが打ち破った。ケハヤが戻ってきたに違いなく、闇の中に慌ただしく急速に接近する音は、砦に残っていた人々の心の不安感をかき立てた。
 やや、間を置いて、砦に戻ったケハヤが飛び込んできた。
「ミコ、ナヌワの港にヒコネ殿と兵士の姿がありません。戦船に乗って出航したとのことです」
 ケハヤがそう報告した。普段、温厚なミコがこの時には鋭い怒気を発した。
「ヒコネの奴め、我をたばかりおったな」
 昨日、ヒコネが兵を港へ移動させたいと言った、その隠された意図を察したのである。砦に接する湖面は浅く、この桟橋に数十人の兵士を乗せる軍船を着けることが出来ない。この浅瀬から多数の兵士を対岸に渡すことは出来ないのである。しかし、ナヌワの港で軍船に乗船させ、海岸沿いに北上し、川を遡って湖に出れば、回り道のように見えるが、合理的に大軍を対岸に渡すことが出来る。ヒコネはそれを読んで予め兵を移動させたのだろう。
 ミコはまっすぐ対岸を指さした。
「ケハヤ、今から、向こう岸に渡るぞ」
 ケハヤは頷いたが、この船着き場には、小舟が三艘のみで充分な護衛を付けることは難しいだろう。
「ノユリ、言葉が解る者が必要だ。申し訳ないが、お前には同行してもらうぞ」
 ノユリはその言葉に顔を輝かせて頷いて同意したが、寄り添うワクウの姿を見て顔を曇らせた。アダムが代役を申し出た。
「ミコ、言葉なら私たちも解ります。ノユリさんの代わりに、私が同行します」
「そなたたちは客人だ。遠慮願おう。今は、この地に生きる私たちが、ワクウに語り継ぐべき姿を見せねばならぬ」
 ミコは先ほど激昂していたかとは思えないほどの落ち着きをみせて、アダムたちの提案をきっぱりと拒絶した。ミコの判断に間違いはないと思いつつ、アダムたち四人の心に疑問が湧く。自分たちが傍観者であって良いのかという感情である。
 ヘレンが別の提案をした。
「ケハヤ、貴方はミコの護衛よね。ミコの命が危険に曝されたとき、ノユリさんの命まで守りきれる?」
「それがミコのご命令なら」
「いいえ。ノユリさんとワクウちゃんは私たちが守るわ」
「私たちって?」
 チェルニーはそんな怖いところに行くメンバーに自分も含まれているのか問うたのである。ヘレンは断言した。
「そのしょぼくれた顔は何? ちゃんとタマぶら下げてる?」
「タマって何よ。言っておくけど、私は女ですからね」
 そんなチェルニーの返事を聞く気もなく、ヘレンは断言した。
「それに、危険な任務には衛生兵も必要だわ」
「勝手に衛生兵にしないで」
 何を言っても無駄だというヘレンの強引さではなく、すがるようにじっとチェルニーを見上げるワクウの視線で、チェルニーはヘレンに妥協した。
「いいわ。わたしも行く。この子をほっとくわけには行かないわ」
「貴方たちも良いわね?」
 ヘレンはアダムとヨゼフにも同意を求めた、二人も異存はなく頷いた。
「ミコ、お聞きの通りです。私たちも舟を一艘お借りします」
「では、ノユリとワクウをよろしく頼む」
「急ぎましょう」
 アダムが目にした時計は午前二時。まだまだ、夜明けは遠い。
「どこへ行くん?」
 尋ねるワクウにノユリが言った。
「お前の父さんのところ」
「ボクにも、父さんおるん?」

 



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