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 次の日の朝。暗いうちから降り始めた小雨は、夜明けを迎えても止まず、村の人々はこれから迎える雨期の前触れではないかと笑顔で噂し合っていた。アダムたちにとっては行動を制限する嫌な雨だが、村人たちは空を見上げて手を合わせ、何かを祈る姿もある。
 考えてみれば、植物の生育に必要な水をもたらしてくれる自然現象で、今年の豊作を願っているのかも知れない。雨や風など自然現象に畏敬の念を持ち、生活に同化させている人々なのである。ヘレンはこの雨に文句を言うのを止めた。しかし、太陽が昇りきるのを待たず、村人たちの期待もむなしく雨雲は吹き払われて、透き通る青空から、肌が痛いほどの直射日光が射した。雨は乾ききってひび割れた大地の表面を僅かに湿らせただけである。
 雨上がりの戸口の辺りで、賑やかにはしゃぐ声がする。村の子どもたちがヨゼフに群がって遊びを求めているからである。
「保育園でも開くつもりか」
 アダムがそう言ったのはヨゼフが戸口に保育園の看板でも掲げるのではないかと思ったからである。
「ヒデンインの子どもたちが寂しがっているような気がするよ。これが父親の気分なのかな」
「父親と子どもか」
 アダムはヨゼフが発した言葉の中から気になる言葉を繰り返し、考えを披露した。
「ひょっとしたら、あの時のサミュールは、別れ別れになった妻と、まだ抱いた事のない息子に会いに来てたんじゃないか?」
「ユダヤ人の集落に行った時にね。あのサミュールが桜の樹に話しかけるみたいな様子をしていたわ」
「ヘレン。君も気づいてたのか」
「マリアと桜餅、ノユリさんとノユリさんが舞った桜の樹。あの脳天気な人物像が桜と切り離せないわ」
 ヘレンがそう言って笑った。ただ、この世界で、質朴な青年サミュールが、桜を撫でる時の様子は、女性に接するようだった。桜に相当する女性が居るとすれば、ノユリのイメージが当てはまる。チェルニーが頷いた。
「事情は飲み込めてきたわ。ノユリさんとサミュールさんはワクウちゃんが生まれる前に別れ別れになっちゃったという事ね」
 ヘレンが言葉を継ぐようにその後を語った。
「ノユリの村の人もサミュールの村の人も、互いに争った経緯があって、相手のことを口に出しにくいのね」
「でも、そのサミュールという男はワクウちゃんが生まれたことを知っているのかな」
「きっと、知っているわ」
「どうしてそんなことが」
「アダム。サミュールが私たちを送り返してくれたときに言ってたことを覚えてる?」
「父親になったら、子どもに何をしてやりたいかと」
「それよ」
「父親になったらという仮定は、彼が父親としての経験を持っていないと言うこと」
「子どもに何をしてやりたいかとは、子どもが出来たことを知ったと言うことか」
「その通りね」
 幼い頃にこの村で過ごしたサミュールが、ノユリと出合って、やがて結ばれたというイメージである。この村の村長の娘として、村の女性を代表して桜の神木の前で舞を奉納し、その姿はサミュールも毎年目にしていただろう。子どもを授かった。そんな知らせを耳にする前に、二人は引き離されてしまったのだろう。二人を引き離してしまったモノノベとソガの内戦がむなしく思われた。
「気になるのは南の砦ね。あそこに居るのは過去にユダヤ人と戦ったソガの兵士たちで、今でも憎しみを忘れては居ないよう」
「ミコが戦いを許すはずはないでしょ」
 そんなチェルニーの言葉にアダムが答えた。
「僕たちがこの世界に来た時にケハヤたちとトラブルを起こしたろ。都にいて遠く離れていたはずのミコも知っていた。この国では情報が素早く伝達されている。ただ、僕らの存在を知っていてもおかしくない砦の兵士たちは、僕らを探索する様子はなかった」
「どういうこと?」
「たぶん、指揮系統が違うんだ。ケハヤはミコのボディガードみたいなもので、ミコの指示で直接動く。でも、兵士たちは……」
「兵士はオーミが動かしているというのね」
 ヘレンが口を挟んだ。
「それにね。砦の位置がヘンなのよ。港を守ると言いながら、港からずいぶん北に離れた高台にあるでしょ」
「対岸のユダヤ人たちを威圧するみたいに?」
「双方にまだ憎しみが消えていないという話だったね」
 話の結論は出ないまま、続く沈黙で議論は終わった。周囲を見回すと、昼を待つまでもなく、草木に残った雨露も乾きかけていた。チェルニーは心地よさそうに伸びをした。
「晴れたわね」
 ヘレンは一人考え込む様子のアダムに声をかけた。
「何か気になる事でも?」
「あの人たちをよく見てみろよ、服装は違っても顔立ちは日本人とそっくりだろう」
「それが?」
「僕の想像だけれど、ここは遙か古代の日本じゃないかと思っただけさ」
 ヘレンが尋ねた。
「以前、ユダヤ人集落であなたが言った、古代の日本にユダヤの失われた支族がやって来たというのは?」
「その辺りはよく分からないんだが、妙に日本との関わりが気になるんだ」
「でも、人の名前や地名、聞いた事がないものばかりよ」
「そう。ミコやイモコも、大阪や日本を知らなかったわ」
「僕らが知っている古代の日本って、せいぜい、サムライの時代だろう」
「それよりずっと以前、日本が国としてまとまり始める頃?」
「地名、ヒデンイン……。思い出したわ」
 チェルニーの記憶の中で、ヒデンインという言葉が、彼女たちが元居た大阪と繋がったのである。彼女は医療関係者として、六世紀の日本に公立病院があった事を知っていた。そして、その病院と併せて、ヒデンインと呼ばれる施設があり、その名は現代の大阪の一角に町の名として残っているということも。
「あの日、私たちが行くつもりだった動物園の東に、悲田院町って場所があるの。昔、四天王寺の一角にあった施設の名残だって」
「では、あの寺院が四天王寺だって言うのかい?」
「その四天王寺に、施薬院という病院ができたのが六世紀終わりの頃。ヒデンインができたのも同じ頃だと思うわ」
「でも、ノユリさんたちは、あの寺院を四天王寺じゃなくて、アラハカの寺と呼んでいるよ。別の場所かもしれないよ」
「その辺りは良くわからないけれど、類似点があるのは事実なの」
 彼女たちの日本史の知識は断片的で、パズルのピースが組み上がることはなかった。ただヨゼフがぽつりと結論のように言った。
「でも、チェルニーが言うとおり考えれば、未発達の文化や、未成熟な国家体制についても説明がつくんじゃないかな」
「古代の日本ってこんなところだったのかな」
「日本って、こんな風に始まったのね。いろいろな人たちがいて、憎しみや喜びの中でもがきながら生きて」
「でも、世界のどこでも同じような人たちが居て、日本人も私たちと同じだったということ」
 チェルニーは落ち着きのあるため息と共に自然な判断を口にし、それに反駁する者は無かった。この世界に来て以来、ここが現代の日本どころか、現代に当たる地球上のどの地域でもないという否定的な認識を深めていたのである。しかし、何処なのかという疑問について、遙か過去ではないかと思いつつ、突飛な想像を口に出せないでいた。
「でも、それなら、時間旅行の知識のない俺たちは自力で帰る方法がないと言う事さ」
 ヨゼフはため息と共に、傍らではしゃぐ村の子どもの頭を撫でた。
「まぁ、いいお日様」
 村長の小屋から姿を見せたノユリが笑顔で姿を見せ、束ねたムシロを開いて、棚に敷き始めた。ワクウが小さな籠に薬草を入れて運んできてムシロに並べ始めた。薬草を乾かす母親の手伝いをしているのである。雨を察知した彼女は干していた薬草を家の中に取り込んでいたのである。
「雨が降ると大変ですね」
 チェルニーが薬草詰みの仕事に同情すると、ノユリは笑顔で反論した。
「でも、雨が降らないのも、大変なんです。雨の季節が遅れると村の者は田植えの時期や稲の育ち具合を心配します」
 なるほど、とアダムたちは納得した。雨が降っても降らなくても天候に左右されるのは同じ事で、自然をありのまま受け入れて生活する人々なのだろう。ふと、アダムはこの世界に来た夜に、ノユリが舞を舞う姿を思い出した、時の象徴たる桜の樹の前で、今年の豊穣を祈りつつ舞っていた姿である。彼女のイメージが桜の樹と重なり、サミュールが桜に語りかけていた姿が思い起こされた。
(彼は何を語っていたんだろう)
 そう考えたアダムだが、答えは出なかった。答えを知っているかも知れないノユリには、アダムも他の仲間も、誰もサミュールとの関係を問い詰める事はなかった。
「みなさん、ミコとお会いになったのですね。村人たちが噂しておりますよ」
 ノユリは薬草を大切に並べながら、世間話でもしているように言葉を続けた。
「ミコの御前で、落馬したケハヤ様を救ったとか」
「ノユリさん。ミコをご存じですか」
「ええ、この村にも時々、お見えになりますよ」
「ワクウ」
 ワクウが自分を指さして自分の名を主張した。
「そうそう、この子の名もミコに付けていただいたんですよ」
「ワクウ、どういう意味ですか?」
 そのアダムの問いに、ノユリが返事を返す余裕が無かった。日本には『噂をすれば影がさす』と言う諺がある。アダムが唐突にそんな諺を思い出したのは、子どもたちが笑顔でミコの名を叫ぶ、その視線の先に、一人の男の姿を見つけたからである。
 暖かな日差しを楽しむように浴びながら、ゆるゆると馬を操る人物は、昨日出合ったミコに間違いがない。見れば、傍らにイモコとケハヤが控えていた。ミコがアダムたちに気づいて片手を上げて挨拶をし馬を下りた。ノユリの父親がミコの名を聞きつけてあわてて飛び出して来た。村人たちもそろって家の中から出てきて、道の脇に伏せて迎えた。
 アダムたちにとって、初対面の時のミコがあまりに気さくであったため、この突然の光景は意外だったが、納得もさせられる。ミコはこの国の権力者で、村人たちとは身分が天と地ほど違うのである。ただ、村人たちが顔を伏せて土下座をしている姿には、目の前の権力者に対する恐れより敬愛を感じさせる。
 そして、ノユリとワクウが村長に促されて伏せたのは、セヤクインに薬草を納めにゆく二人は、素のままのミコと接して、村人に土下座を求める人物では無いと言うことを知っていたのだろう。
 村長は土下座のまま、伏せていた顔を上げて尋ねた。
「本日は何用ですか」
 ミコ主従は馬を下り、気さくに村長に歩み寄って、立つように促した。
「いや、突然の訪問で驚かせてしまったようだ。都に帰る道すがら、客人に贈り物を持参したのだ」
 ミコは都に帰る道すがらと表現したが、この村はアラハカの町の北にあって、東方の都に帰るには、やや遠回りになるはずだ。ミコの傍らにいたイモコが、アダムたちが逗留する小屋を確認すると、てきぱきと従者に命じて荷車の荷を降ろさせた。
「ミコ、これは?」
 ヘレンの質問にイモコが笑って答えた。
「米と麦、それから干し芋に干し魚です。塩と味噌が少々。不足があれば、改めて用立てますので、遠慮なく申しでてください」
 ミコは再び馬にまたがりながら笑った。
「そなたたちに食料を渡しておかぬと、兵士の剣が何本あっても足りぬと、ケハヤが申すのでな」
 ヘレンは赤面した。食糧が不足すれば、ヘレンが兵士から太刀を奪って食料に換えると言う事である。ミコの傍らのケハヤが、反論できまいと、歯を見せて笑っていた。
「ちっ」
 内心を見透かされ、その手段を封じられたヘレンは舌打ちをしたが、尊敬しあえるライバルに先手を打たれたときのような心地よい悔しさである。アダムたちにとって、この申し入れはありがたく受け取って良いだろう。
「お気遣い、ありがとうございます」
「また、ゆっくりと話をする機会が欲しいものだ」

 僅かな再会だったが、穏やかで細やかな心遣いが感じられ、アダムたちは遠ざかって行くミコ主従の後ろ姿に頭を下げた。考えてみれば、ミコはこのワの国の指導者の地位にあるわけで、混乱する政治の中枢で目が回るほど忙しいはずだ、この場にゆっくりととどまる暇などないのである。
「良かったじゃないか、ヘレン」
 首を傾げるヘレンにアダムが言った。
「君が兵士から剣を奪った事は、不問に付すという事だ」
「しかし、俺たちはこうやってこの国に深入りしていくんだな」
 ヨゼフの言葉に他の仲間も考え込んだ。朝、彼らが話しながら結論を避けた話題である。
「僕たちは、どこまでこの世界に介入して良いんだろう」
 悪事を見逃したり荷担する気はないが、宗教や政治や歴史が絡んで対立を深める人々の間に割り込んで、アダムたちの正義の基準を振り回して良いのかという事である。ワクウがアダムたちの判断を伺うかのように寄り添って、彼らの顔を黙って見上げていた。
「ワクウちゃん。ミコはどんな意図があってあなたをそう名付けたのかしらね」
 チェルニーはワクウにそう語りかけたが、もちろんワクウが物心つかない頃の出来事で、この子はその訳など知るまい。そのワクウの素直な笑顔に誘われて、ヘレンはノユリに唐突な質問をした。
「ノユリさん。ひょっとしたら、この子の父親はサミュールという男じゃない?」
 ノユリはその名にぴくりと反応して、手にしていた薬草をぽとりと落とした。彼女は大きな目を見開いてヘレンの目を眺めたが、質問には答えず口をつぐんだ。ヘレンは答えを確信し、更に質問を重ねた。
「もう愛してはいないということ? それとも、別の理由でも?」
「いいえ」
 そう言ったきりノユリはいつもの微笑を消し、寂しげに顔を伏せて口を閉ざした。チェルニーは眉を顰め、肘で密かにヘレンの脇を突いた。彼女が触れてはいけない他人のプライベートに踏み込んでいると注意しているのである。
「なぜ、人を愛してはいけないの?」
 アダムは立ち去っていくノユリ親子を見送りながらヘレンが漏らす言葉を聞いた。ノユリの背が儚く見える。


 この地は日常生活を取り戻した。ミコが都への帰途について既に二日になる。ミコが姿を消すと、この町の雰囲気には目に見えて明るさが失せた。ミコという人物の大きさや、人々がミコに寄せる信頼や敬愛がうかがい知れた。
 この日、普段通り薬草の薬効を学び、患者たちに与えているチェルニーは、女官たちの密かな注目を浴びているのに気づいていた。この世界の人々は慎み深いのか、それとも、冗談を平然と受け入れる人々なのかどちらだろう。彼女は自分の髪型について、女官たちから批判や侮蔑の言葉は聞いていない。
 アダムはそんな人々を観察しながら、チェルニーに声をかけた。
「チェルニー、その髪型は……」
 チェルニーは彼女の長い髪を耳元で束ねてミズラに結っているのである。ミコの髪型を真似ているに違いなかった。
「どんな髪型も君の自由だが、たぶん、それはこの国の男性の髪型だぜ」
「えぇ」
 彼女は少し考えて髪を解きながら、アダムとヨゼフを眺めて言った。
「それにしても」
 思わせぶりに呟くチェルニーに、アダムとヨゼフはも顔を見合わせてチェルニーを眺めた。彼女は二人をまじまじと眺めて言葉を継いだ。
「歳は同じぐらいでも、気品や人望があって」
 チェルニーの言いかけた言葉に、アダムとヨゼフは自分たちがミコと比べられている事を察した。チェルニーは結論を下した。
「なにより、ほれぼれするほどイケメンだったわ」
 ヘレンが笑って聞いた。
「惚れたの?」
 チェルニーは頬を赤らめて恥じらいの表情を見せたのみで答えない。ヘレンが更に尋ねた。
「でも、あの人が独身だという保証は?」
「大変だわ! それを聞き忘れたわ」
「ダメね。ちゃんと見てなかったの。彼、結婚指輪をしていたわよ」
「えぇぇぇ」
 冗談に決まっている。この世界の人々に、アダムらの習慣が通用するわけではない。
 そのアダムたちの笑い声が途絶えた。足から体にゆらりと震える伝わり、次の瞬間、棚が倒れ、立っていられず、床に膝をつくほどの揺れに見舞われた。
「地震だ」
 人々の悲鳴が飛び交った。人知を越えた天変地異を素直に畏怖する恐怖の叫びである。
「落ち着いて、家の中にいて」
 幸い、倒れた棚の薬草が散乱したのみで、家屋に大きな被害はなく患者たちも無事だった。
「怪我は無い? 揺れは収まったから安心なさい」
 チェルニーは患者たちにそう声をかけた。確かに、揺れは収まったが、人々の悲鳴や不安な表情は消えていない。
「ボクはヒデンインの子どもたちの様子を見てくる」
 ヨゼフはそう言い置いて小屋を飛び出していった。
「私は寺の周囲の様子を見回ってくるわ」
 ヘレンもまた姿を消した。その後、二度の余震があり、じっとしていなければ分からないほどの軽微な余震で締めくくられた。戻ってきたヘレンとヨゼフも胸をなで下ろすような笑みを浮かべていた。この辺りはたいした被害はなく終わったように見えた。
「このまま、何事もなく終わってくれたらいいけれど」

 ただ、収まるかと思われた地震騒動が、意外に長引いた。アダムたちにとって地震というのは地質学的な現象であって、余震も感じなくなると平穏を取り戻す。しかし、この世界の人々は妙に迷信深く、不可思議な出来事としてとらえているらしい。不可思議なことの原因が分からないうちは不安が収まらないのだろう。
「これも雨の季節が遅れている事と関係があるのでしょうか、凶事は続くと言いますから、これで終わると良いんですが」
 ヲグツが不安げにそう言った。ヘレンが人々の勇気を奮い起こすように言った。
「でも、散らかった部屋の片付けさえ済めば、すべて元通りよ」
「お強い人たちですね」
「僕たちも片付けを手伝いましょう」
 アダムの提案に、感謝しつつもヲグツは言った。
「でも、ここの片付けは私たちがやります。ノユリたちの村も心配です、早めに戻ってあげてください」
 ヲグツの提案にチェルニーたちは異存はなかった。

 もともと、周囲に配慮して遠慮して、本心を隠して笑顔を浮かべているような人々である。後片付けに夢中になっている様子で、それ以上の混乱はないようだが、後片付けに専念する事で、心の奥底にたまった不安を振り払っているようにも見えた。
 不安を抱えたまま夜を迎えた。空には消え入りそうな円弧だけの月が浮かんでいたが、あと数日でその月も消え、星以外に光のない夜を迎える事になる。
 村人は同じ時間に食事をし、努めて不安は口にせず、同じ時間に就寝するという日常を装う夜を過ごした。この点ではアダムたちも変わりがない、アダムたちは地震そのものに加えて、地震が人々にもたらす、予想できない意識の変化への不安を抱えていた。

 そういうタイミングで、この地域は流民を受け入れた。都で被災した人々が食料や住居を求めて、都から二日の距離にあるこの町にたどり着き始めたのである。都は震源地に近かったらしく、数多くの家屋が倒れるほどの被害を受けたらしい。そんな断片的情報が小さな不安を伴いながら積み重なって渦巻いた。
 寺の炊き出しに避難民の行列が出来た。僧侶たちによって門前に備え付けた大鍋で炊いた粥が振る舞われたのだが、多数の難民のため、数日で寺の備蓄米が尽きた。寺の管理下にあるセヤクインやヒデンインでも食糧が不足し、町の北の倉庫に保管されていた穀物が兵士たちによって運ばれて、荒々しい雰囲気が広がった。
「この地震も、湖の向こうのユダヤ人の呪術のせいだと言うぞ」
「そうだ。奴らは俺たちを呪い殺す気だ」
「この先、奴らのせいでまだまだ悪い事が起きるだろう。今度は疫病に違いない」
 兵士は口々にこんな事を言いふらし、それを聞く民衆らも同調する者が居る。
「いや、長く続く日照りも奴らのせいだ。このままでは雨も降らず稲も枯れてしまうだろう」
 アダムたちはそんな様子をセヤクインの中から見守っていた。
「ばかげた事を」
 普通なら一笑に付すべき所だが、兵士たちの中には十三年前の戦の憎しみが強く残っていて消えそうにない。ぶすぶすとくすぶる火種が消えそうに見えながら、気づいてみると灰の中で火勢を増しているように、憎しみが悪い想像を煽り広がっているのである。
 チェルニーが解決策の一つであるかのように言った。
「私たちも、都に行ってみた方が良いんじゃない?」
 大きな被害を被ったという都の様子を確認したいのと同時に、ミコに救いを求めたいと思ったのかも知れない。普段は言葉の短いヨゼフが、自分の考えをまとめるように言った。
「いや、ミコやイモコも地震の後処理で忙しいはずだよ。大勢の怪我人や病人がでているわけではないから、俺たちが行っても邪魔になるだけさ。俺たちはここで避難民の人たちの世話をしようよ」
「でも、気にかかるわね。ミコは大丈夫かしら」
「便りがないのが元気な証拠だよ」
 アダムたちは祈りを込めて頷きあった。
「この異様な雰囲気が、早く収まってくれたらいいのに」
 何度繰り返したか分からない願いを呟いたチェルニーだが、以前、ミコが口にした言葉を覚えていた。
『ただ、人々の憎しみは容易には消えぬ。モノノベモリヤに加勢したユダヤ人に親や兄弟を殺された者も多い』
(不安が恨みや憎しみに転化しないように気をつけなくては)
 アダムたちに共通する思いだが、考えれば考えるほど心が重く、身にまとわりつくような憎しみに憑依されそうになる。表情は互いに暗くなり、口数も減るような気がした。この時、くいっ、くいっとアダムの上着の裾を引く者がいた。
「一緒に、帰えろ」
「ワクウちゃん」
 アダムは声をかけてきた男の子の名を呼んで思わず微笑んだ。視線を転じてみると、空の籠を手にしたノユリがおり、いつものようにワクウを伴って薬草を納めに来たのだと分かった。陽は傾いていて、確かに、チェルニーたちも村に帰る時間である。ノユリが自然体で浮かべる包容力のある笑顔と、ワクウの無邪気な笑顔、二つの笑顔がアダムたちの心を解きほぐすようだった。チェルニーが二人の笑顔が教えてくれた事を確認するように言葉にした。
「そうね。笑顔を失っちゃダメなのね。私たちも笑顔で人々に接しましょう」
 村に帰る道すがら、街道沿いの市の様子を眺めていると、避難民の流入は日を追う毎に目立って減少しているようだった。都の再建が順調に進んで被災者の住居が確保されているという事に違いなかった。ただ、回復するかと思われた人々の心の混乱は悪化している。限られた宿泊施設を巡って争いが起き、施設をはみ出した物乞いが増え、盗みが横行して治安が悪化した。あれほど落ち着きと笑顔があった町だと思えないほど、怒号が飛び交っていた。
 からりと晴れ上がっていて、空に雨の季節の気配がない。アダムの手帳によれば、地震の日から数えて間もなく十六日になる。満月になりそうな月が夜空を明るく照らしていた。人々の中には稲の生育と秋の実りを心配する声が高まっていた。
 地震と、遅れている雨期が、人々の心に作用して不安をあおっていた。既に村の男たちの手によって田起こしと代かきが済んでいて、川から導かれた水が張られた水田は、月と星が輝く夜空を背景に人の心の濁りを象徴するように渦巻く雲を映し出していた。

 


10

 湖面は朝日を照り返してまぶしい。サミュールは目を細めながら網を上げ、網の中の豊かな収穫を神に感謝した。網の中から魚を掴み出して籠に入れ、食用にならない海老は湖に投げ返した。母親のチュラーヤは息子の傍らで手際よく魚の腹をさばき、内蔵を取り除いて洗った。これから持ち帰って干物や塩漬けにする。
【サミュール。前から不思議だったんだけど、その腕の紐は?】
 ここの所、息子がずっと腕に紐を巻いている。その理由を問うたのである。肘の傷は癒えているが、何故かこの紐を捨てることができずに腕に巻いていた。湖の対岸で兵士に追われている時に知り合った幼児にもらったとは言えず、サミュールは答えをはぐらかした。
【綺麗だろう? ただの飾りだよ】
【そうかね、私は何かのお守りかと】
 サミュールは更に話題を逸らした。
【母さん、大漁だ】
 普段はそんな息子の言葉に大喜びする母親が、最近は不安を口にする。
【何か悪い予感がするの。私は不安でたまらない】
【地が揺れたのは、もう十日も以上も前のことだ。いい加減に忘れろよ】
 サミュールは母親の不安を笑い飛ばした。
 母と息子は籠を肩に担いで帰ろうとしたところで、連れだってやって来た村の若者とすれ違った。
【お前たち、何処へ行くつもりだ】
 サミュールが若者たちに短く問いかけた。問わずとも分かる。猟師の風体の男たちが、三人掛かりで猪の死体を運んでいるのである。鹿を獲るために仕掛けた罠だが、猪がかかることがある。信仰上、猪を食べない彼らにとって不要と言っていい獲物なのである。
 男たちの意図も知れた。湖の対岸の異人たちの市で、猪を麻布や薬草や塩と交換するのである。
【サミュール、お前などの知ったことか】
【異民族の市へ行くのなら、止めておけ】
【お前に指図されるいわれはない】
【ここ数日、向こう岸のかがり火が派手に炊きあげられていて騒がしい。兵士どもが物騒な雰囲気になっているようだ】
【余計なお世話だ】
【では、その腰の剣は隠して行け。戦いかと誤解を招く】
 生活の中に刃物が存在する。猟師ともなれば必需品である。ただ、若者たちの間に流行するかのように身につける刃物が大型化し、その刃物を誇示して自分の力強さの証明にするかのように腰に下げている。武器を身につけねば自らを誇れぬのか。サミュールが若者たちの所持する刃物を剣と称したのは、そんな皮肉である。
【臆病者め、ただのナイフが怖いのか】
 あざける口調を隠そうともせず若者たちはそう言い、親子に侮蔑の視線を注いだ。
【好きにしろ】
 おそらく、サミュールはこの村で一番鋭敏な感覚を持っていた。湖を隔てた向こう岸にいる兵士の憎悪を感じ取っているのである。ただ、村人たちはサミュールを無視し、サミュールもまた深く関わり合いになる気はなく、その場を後にした。
【大丈夫かねぇ】
 チュラーヤが心配そうに若者たちの背を見送った。
【ほっとけばいいさ】
 村への道を辿る母と子は足早にやってくる男の姿を見つけた。顔が明らかになる距離になる前に、その足を引きずる独特の歩き方で二人は男を判別した。十三年前の戦でサミュールの父とともに戦い、足に傷を負った男である。チュラーヤはぺこりと頭を下げて挨拶をしたが、男は傲慢な態度を隠しては居ない。名をデービットと言い、チュラーヤを部族の血を堕落させる異民族の女と蔑む人物の一人だった。
【息子たちを見なかったか?】
 デービッドが横柄な態度で尋ね、その態度に反感を滲ませつつサミュールが答えた。
【今頃は、湖の上だ】
【ここの所、向こう岸の兵どもが騒がしい。刺激せぬようにと言って置いたはずだが】
【あんたが手にしている弓のように、奴らは腰の剣を誇示していたぞ。危ない、危ない。近寄るだけで殺されるかと思った】
【お前は、引き留めなかったのか】
【知った事か】
 母と子はこの場を去った。デービットは黙って湖の向こう岸を眺め、地に唾を吐いてチュラーヤとサミュールの後ろ姿に視線を移して、侮蔑の言葉を吐き捨てた。
【所詮、魔女とその息子か】
 神の教えを受け入れない異端者を排除しなければならない。デービッドは熱心な信仰者にありがちな歪んだ憎しみを持っていた。


11

 同じ頃、突然、ふらりと現れた人物に、ノユリたちの村の人々は驚いた。ミコである。見覚えのあるイモコの他、二人ばかりの従者を連れただけの軽装である。
「ああっ、旨い」
 村人が差し出した水を笑顔で飲み干した。都からは日を遮るもののない川を下ってやってくるという。そしてこの辺りの街道は良く整備されていて陽当たりが良い。そこを地震の被害を確認しながらゆるゆると来ただけに喉の渇きも頷けた。ただ、都からの経路を考えればアラハカの寺やセヤクインへ向かっても良さそうなもので、ミコがこの村に配慮して立ち寄った様子がうかがえた。
「この辺りは無事なようだな」
 村の中を見回して、ほっとする口調だった。

 この人物の気さくさは、セヤクインに薬草を持参するノユリ親子とヒデンインに行くヨゼフたちに同行すると言う形をとってあらわれた。これがこの国の国政を担う最高権力者かと首を傾げたくなるほどの寛容さだった。寺に向かう道すがら、ヘレンが疑問を口にした。
「ミコ。ケハヤは?」
 あの番犬のように忠実な男が、ミコの傍らに侍っていないのが不思議だったのである。
「あの者の腕力は、我の護衛より、都の再建の方が役に立つ」
 ミコはそんな言い方をして笑った。地震で破壊された都の再建のために残してきたというのである。ヘレンとアダムは顔を見合わせた。あの男なら、命じられた仕事などほったらかして、大声でミコの名を呼びながら駆けてきそう気がしたのである。
 村人やアダムたちに乞われるまま、ミコは都の様子を語った。
「酷い有様だ。家は倒れ人々は住む場所を失っている。怪我人が救護所にあふれかえっている。ただ、なんとか立て直せるだろう」
 さりげない言葉だか、ミコの人柄を物語っているとアダムたちは思った。都の宮殿や自らの屋敷にも大きな被害を出しているはずだが、自分の事は省みず民衆の困窮に心を痛めているのである。
「しかし、人々の心はまだ治まらぬ。我が、十二の歳の頃に流行病が都を包んだことがある」
「この国にそんなことが」
 そんなヨゼフの言葉に、イモコが言った。
「神をないがしろにした祟りだとか、仏を粗末にした罰だとか、不安ばかりが渦巻いて、人の心が荒れました」
 細かな出来事は分からないものの、その苦しげで悲しげな様子は、イモコにもつらい記憶を残しているらしかった。
「今も、なにやらあの時のように、人の心が乱れている」
 そのミコの言葉はアダムたちにも理解が出来た。この村の近辺でも晴れる様子のない不安が渦巻いていた。きっかけがあれば暴走し始めるだろうという予感があった。
 突然の報告がもたらされた。
「ミコォーーー」
 地響きではないかと感じるほどの足音と、ミコの名を呼ぶ大声にヘレンたちは記憶があった。ヘレンはアダムににやりと笑ってみせた。ケハヤに違いないだろう。彼女の見込み通り姿を現したのである。駆けてきた方向を考えてみれば、セヤクインまで駆けた後、ミコがまだそこに姿を見せていない事を知って、この村に寄り道をしている事に気づいたと言うところか。しかし、響く声に緊迫感が感じ取れ、近づいてきたケハヤの表情にもその感情が読み取れる。
「ミコ」
 発した言葉はそれだけである。ケハヤはぜいぜいと喘いで呼吸を整え、ノユリが差し出す竹筒の水を一気に飲み干した。ミコは尋ねた。
「いかがした?」
「ナヌワの港の守備隊より、湖の向こうの集落のユダヤ人どもが……」
 息を継ぐケハヤにミコはその先の話を急かした
「早く言え」
「ユダヤ人ども、何をトチ狂ったか、叛乱を起こしたとの連絡でございます」
「叛乱? まさか」
 アダムが首を傾げた。先日、ユダヤ村を訪れたときに、彼らが武力蜂起するような気配は皆無だったし、子どもたちが駆け回る平和な村の印象が心に残っていた。ミコの思いも同じであったらしく、まだ呼吸が整わないケハヤに尋ねた。
「確かか、何かの誤りではないのか?」
「報告によれば、物見の兵士が発見し捕らえようとしたところ、戦いになり敵三人を倒したものの、わが方も兵士一人が殺されたとのことでございます」
「行ってみよう」
 ナヌワの港の守備隊の駐屯地まで徒歩でも一時間とかからない距離である。じっと報告を待つより出向く方が早いだろう。
「ミコ、私も同行させてください。私は彼らの言葉がわかります」
 ノユリがそう言った。
(なるほど)と、アダムは思った。
 この世界で得た不思議な能力のため、アダムたちは会話に不自由せず、気がつかなかったが、この国の人々とユダヤ人たちの言葉は違っていて当然で、言葉を交わすのに通訳が要るだろう。以前、ユダヤ人と共に過ごして、彼らの言葉を幾分か理解するノユリなら通訳に適任に違いなかった。
 ただ、ノユリの切迫した不安そうな表情を見れば、彼女の本心が通訳ではなく、殺されたユダヤ人兵士が夫のサミュールではないかと危惧し、その確認をしたいに違いない。その意図を察したのかどうか、ミコはノユリに頷いてみせて同行を許可した。彼らはケハヤが調達した馬と馬車に分乗した。
 
 三人のユダヤ人の若者の遺体は、事件が起きた水辺に並べられてムシロがかけられていた。ユダヤ人村から湖を経てまっすぐ南下した位置である。ノユリはムシロをめくってみせるヨゼフの傍らで小刻みに震えながら、それでも目を離そうとせず、ムシロの下から現れた遺体の顔立ちを確認した。夫ではないことを確認し、崩れ落ちるように地に膝をついて、ワクウを抱きしめた。
「小競り合いの状況は?」
「兵どもが不審者を見つけ、身分や目的を問うたところ、手向かいいたしました故、切り捨てました」
「あなたたちの中に、彼らの言葉が分かる者が居るの」
「私たちはには言葉は解りませんが、こ奴らも私たちの言葉は理解しません」
「言葉が分からず、互いに混乱しただけじゃないの?」
「こ奴らは剣を所持しておりました。ほら、そこに」
 確かに、刃物が転がっており、遺体の腰には鞘があった。しかし、遺体の側に猪の死骸が転がって違和感を発していた。ヘレンがその点に疑問を呈した。
「この猪は?」
「存じません」
「この者たちは狩人で、獲物を何かと交換するために市に来たのではありませんか?」
 アダムが推測を交えて兵士にそう問うた。兵士に代わって指揮官ヒコネが吐き捨てるように反論した。
「ただの狩人なら、どうして剣を持っているのだ」
 遺体の傍らに無造作に置かれた三振りの刃物を順に手にしてみると、いずれも刃渡り三十センチを越え、ヘレンがケハヤから奪った剣と変わりがない大きさである。真新しい刃こぼれの跡があり、兵士たちの剣と力任せに幾合も打ち合わせた様子がかいま見え、そのうちの一振りには、まだ乾ききらない血糊が付いていた。殺されたという兵士の血に違いない。剣だという解釈に異論を唱える証拠はなかった。ミコが周囲の兵士たちを見渡して尋ねた。
「誰か、彼の者たちの言葉を聞いた者はいるのか」
 兵士の一人が答えた。
「このあたりには、あの者どもの言葉を解する者は居りません」
「では、戦いを意図したかどうか分からぬではないか」
 ここで起きた出来事が目に浮かぶようだった。油断ならない相手に、腰の刃物に手をかけ、その姿勢が互いの感情をさらに高ぶらせて剣を抜き、偶発的な戦闘に至ったのだろう。
「ミコ、いかがいたしましょう?」
 頭の切れるミコが、この時は部下のヒコネの言葉を察しかねてに首を傾げた。ヒコネは言葉を継いだ。
「この者どもの集落を討伐するならば、既に兵の準備は出来ております」
 ミコの怒号が飛んだ。
「馬鹿な。必要もない戦を起こすつもりか」
「では、この者共をいかがします?」
「とりあえず、丁重に葬ってやれ」
 アダムがミコとヒコネの会話に割り込んだ。
「それは、止めてください」 
 やや沈黙があった。中天をすぎた太陽が、雲一つ無い大気を通して、この砦にいる者たちをじりじりと焼くようだった。額や首筋に浮かんだ汗が滴になって流れた。アダムは言葉を続けた。
「あなた方と、ユダヤの人々は信じる神が違いましょう。故人を神の元に返す儀式にも違いがあるはずです」
 アダムの言葉にミコも頷いた。アダムはちらりと腕時計を眺めた。午後三時前。日没までには時間があり、日が沈む前に、遺体をユダヤ人たちに届ける事が出来るだろう。
「僕がこの遺体を彼らの村に返します」
 アダムに突然に義務感のような感情が湧いた。無惨に横たわっている遺体への憐憫の情なのか、それ以外の理由があったのか、行かねばならないという衝動に押し流されて、彼自身判然としない。
「私も行くわ」
 自然な流れのようにヘレンがそう言いった。
「私たちなら言葉も通じますし、両者に利害はありませんから、調停役になれると思います」
 間接的表現ながらチェルニーが同行する意志を示し、ヨゼフも続けて言った。
「舟を漕ぐのに俺も必要だね」
「そなたたちの身に危険が及ぶかもしれぬ」
  ミコの危惧にアダムは断言した。
「彼らが私に危害を加える事はないと信じています」
「それでは、護衛をつけよう。ヒコネ、砦の兵五十を率いてこの者たちの護衛をせよ」
 ヘレンがミコの提案がもたらす結果について察していった。
「多数の兵を同行すれば、彼らを刺激します。兵は不要です」
「しかし、そなたたちの身の安全も守らねばならない」
「では、この遺体の運搬に兵士を三名ばかり付けていただければ」
 三名というアダムの妥協案をミコはのんだ。彼らを乗せた三艘の小舟が桟橋を離れたのは午後三時を回っていた。
「いったい、何故、私たちはこんな事をしているの?」
 チェルニーがそう言った。誰かに語りかけたのか、自分の心に問うたのか分からない言葉だった。確かに、この世界の者ではない彼らは傍観者たり得た。しかし、自ら望んで当事者の立場に立ち、しかも、その先頭に立っている。
(この自分は、父親として、子供に何を残せるんだろう)
 サミュールと共に湖を渡ったときの思いがアダムに蘇った。ノユリの村とサミュールの村、民族が違う二つの村の子どもたちの姿が目に浮かぶようだった。この二つの民族を争わせてはいけない。それが彼に与えられた舞台で、彼が果たすべき役割なのかも知れなかった。遠く離れた父親の顔を思い出した時、アダムは与えられた役割を果たしたいと願った。日はまだ高く、湖面に光を投げかけていた。三艘の小舟が湖面を切り裂く波が広がって、櫂から飛び散る水滴がきらりと輝いた。見晴らしが良く対岸がずっと見えている。水辺に居る人々の影だけではなく、洗濯をする女や水に戯れる子どもたちの姿が判別できた。あの人々に伝える悲しみと、その結果が引き起こすかも知れない出来事にアダムの心は重い。
 岸で洗濯をしていた女が、手をかざして傾きつつある日差しを遮って湖面を渡ってくる船を眺めた。彼女は子どもを呼び寄せて何かを言いつけ、子どもは不安そうに振り返りながら村の方向に走り去った。異民族が乗った船が接近しているという事実以外に、この船が漂わせる不吉な雰囲気を察したようにも思われた。
  間もなく対岸に到着する。時間は午後五時を少しすぎるだろう。アダムは自嘲的に笑った。この世界に来て、時計と無関係の生活をしていたが、今、刻一刻とすぎるこの瞬間を意識していた。
 もちろん、遺体を届けたアダムたち一行は、ユダヤ人の集落に衝撃を与えた。家族や仲間の死を嘆く声が響き、恐怖や不安の叫びが充満し、その中に復讐を叫ぶ声も混じっているように思われた。既に遺体はユダヤ人たちに奪い取られるように引き渡されており、アダムは恐怖と憎しみの混じった視線を浴びながらラビのテントへ歩んでいた。
 人々の中に弓を手にする人々がいたが、生活のために獲物を射るものか、敵を迎え撃つ道具なのか、人々の悲しみと憎しみの目で見極めがつかない。刃物が触れあう音がしてヘレンは密かな仕草で周囲の危険を探ったが、身に危険が及ぶ兆候はなかった。太刀の束に添えようとしていた手が緊張で汗ばんでいた。

【お客人。事情を伺おう】
 ラビは周囲の人々を制しながら、自らも心の動揺を抑えるような調子でそう言った。
「私はミコの意志を伝えるために来ました」
【お前たちは異教徒どもの手先だったのか?】
 エゾラがそう怒鳴り、ヘレンは自分たちの立場を語った。
「違うわ。争いを収めたいだけ」
【エゾラ、よさんか。この方々は三人の遺体を届けてくれたのだ】
 ラビが人々を諫めた後の一瞬の沈黙の後、アダムが語り始めた。
「人々の心の中に、疑いや迷い、憎しみが存在します。時に、それらが暴発して争いになる事があります」
【わかりきった事を、仲間を殺されて黙っていられるものか】
 怒鳴るシャーマをラビは制し、アダムに言葉を続けさせた。
「私の父親は、誇るべき家柄も学問もない人物でしたが、自分が置かれた立場で、自分の責任を果たすという事を、彼の生き方の中で教えてくれました。私も誇りを持って父の生き方を受け継ぎたい。そのために、私はここに来ました」
【俺も息子を持つ父親だったが、その息子と友人は今日殺されて今は居ない。息子に誇りを受け継ぐのが父親の生きる証だと言うなら、今の俺は証すら持たない、この世に居ないのも同じだ】
 デービットが悲しみを吐き出すように言い、多くの人々が彼に同調した。敵意に満ちた視線の中でアダムは話し続けた。
「ここに来る途中、私はこの国の子どもたちの事を考えました。それから、この集落の子どもたちの事も。更に、ある夫婦と子どもの事を思いました。人々の不安や憎しみで引き裂かれた夫と妻とその息子です。僕はこの子のために何が出来るんだろう?」
 人々の怒号は、やや下火になりはしたが続いていた。仲間の死で混乱する人々は、自分の考えをまとめる事も出来ないでいるに違いない。アダムは最後に一言付け加えた。
「湖の両岸の人々が、再び共に過ごすために、いま出来る事は何だろう。平和か憎しみか、それを考えていただきたいと思います」
 アダムの言葉が終わると共に、その言葉に呼応していた怒号もなくなり、人々の間からは囁きすら失せて沈黙が広がった。眺め回すと、民衆の人数は話を始めた時の数倍になって、アダムたちを分厚く取り囲んでいた。サミュールとチュラーヤの姿もあったが、二人は輪の中に入ることなくじっと中心部を見守っていた。
 困難する人々を見回すラビは、指導者として決断を下した。
【すまないが、我々も突然の事態に混乱している。日を改めて我々の方から、ミコに使者を立てさせていただこう】
「あなた方の意志を、ミコの元に持ち帰りたいと思ったのですが」
【これだけは約束できます。我々は神の御言葉に従います。神は我々に争いを求められていない】
 ラビはアダムの手を握ってその温かさを伝えた。アダムもその手を両手で包んだ。
「分かりました。それをお伝えします」
 ラビの合図で人々の輪は解かれて、アダムたちは村を後にした。村への目印の桜の傍らを過ぎる時、ヘレンがアダムを評した。
「今日この日、貴方は世界一、勇敢だった」

 アダムたちが湖を渡って砦に戻ったのは、日が暮れてからである。砦には月や星の輝きを打ち消すほどにかがり火が炊かれていて、明かりを目標にすれば、彼らは砦を見失う事はなかった。ただ、その灯りが、辺りに漂う憎しみを燃料に燃え上がっているようにも見えた。事実、湖を間において睨み合う両者の不安や混乱は、容易に憎しみに転化するに違いないのである。
(こちらにも)
 ヘレンがそう考えたのは、憎しみと復讐心が渦巻いていると言うことである。こちらも仲間の兵士を失っている。その憎しみは過去の戦で殺された仲間や家族の記憶も呼び起こすに違いない。
 大声で叫ばなくても、異人どもに復讐をというささやきが砦全体に広がって、肌を圧するような嫌悪感が感じられた。
 ミコはアダムたちを見送ったのと同じ位置に立ったまま、アダムたちを迎えた。
「ありがとう」
 ミコは儀礼的で難しい言い回しをせず、解りやすい言葉を一言発したのみで、アダムの報告を聞き終えた。緊張感の中で、ほっと一息を突いたような安堵感と、感謝の心情が込められていた。終わろうかとした報告に、砦の指揮官ヒコネは、アダムたちの護衛についていた兵士たちに問いかけた。
「奴らの戦の準備はどうであった?」
「武器を携えた者も多数。我らも身に危険を感じるほどでございました」
 ヒコネは満足げに、その報告に頷いて見せた。確かにアダムたちの傍らに侍り、言葉が理解できない兵士たちから見れば、そういう状況だったのかも知れなかった。ヘレンが反論した。
「彼らが手にしていたのは、狩猟や生活に使う弓やナイフだけです。武器ではありません」
「ほぉ、何故、それが解る? 仮に、狩猟や生活の道具であったとしても、戦に使わないという理はあるまい」
 この場合、ヒコネの言葉に部がある。ヒコネとヘレンを仲裁するようにミコが命を下した。
「今は、彼らからの使者を待つ」
「ミコ、待つのは、彼らに戦の準備をする時間を与えるようなものでございますぞ」
「ヒコネよ。もし、彼らに戦う意志があるならば、既に準備は整えていよう」


12

 長い夜が明け、両者に公平に朝が来た。待つというただ一つに見える選択肢を持ったミコはともかく、ユダヤ人集落は様々な価値観と選択肢でまとまらない。緊張感で疲労し、まとまらない議論で混乱している。
【どうして、彼らが我々にこの地を譲ったと考えてる? 我らが戦い、我々の意志と力を彼らに見せつけたからではないか】
【ただ、大勢の仲間が死んだ。そして、我々も彼らを殺しもした】
【それはやむを得ん。彼らは我々の神を受け入れると騙したたからではないか】
【私たちの憎しみや悲しみがどこまで拡大するのか、それは神の御心ではない。我々が作り出しているのではないか】
【我々は、ここに安住の地を見いだしたのではなかったのか】
【神の御心に添わなかったと言う事だ】
【この地を去るといっても容易ではない。長い航海をするための食料や医薬品をどうするのだ】
【しかし、今なら船を操れる者も残っている。しかし、あと十年もすれば船乗りだった者は皆年老いてしまうぞ】
 村人の誰がどんな発言をしたかという事は意味がなかった。この地にとどまるべきだと強硬に主張していた者が、戦の影に怯えてこの地を去る提案をした。殺された者の復讐を口にする者がおり、戒律を口にして復讐を思いとどまらせようが居るかと思えば、戒律を理由に、呪術を使う異民族は殺さねばならぬと主張する者もいた。
 考えてみれば、使者を立てる日時を指定していたわけではない。しかし、その刻限を考えねばならないほど議論は紛糾してまとまらず、ラビは人々を見回して、人々に急速と冷静さを促した。
【良いかな。皆、疲れすぎた。睡眠も取って居らぬだろう。この年寄りにも、つかの間の休息を与えてはくれまいか。さあ、笑顔を見せて女や子どもを安心させてやるがよい】
 テントに集う男たちは頷いた。不安を振り払うように議論に熱中していたが、この集落にはそんな手段も持たず、不安に震える女や子どもたちも数多いのである。ラビは細かく命じた。
【彼らも、我々が手向かわぬ限りいきなり兵を差し向けては来るまい。しかし、見張りは絶やさぬようにせよ】
 そんな中、エゾラはサミュールの姿が見えない事に気づいた。部族の存亡がかかったこの非常事態に、何も興味がなさげに議論にも加わらず、小屋に籠もっているということである。議論がまとまらない苛立ちが、サミュールへの怒りに変わった。

 エゾラは怒りを込めて小屋に踏み込み、怒鳴り散らした。
【サミュール、お前という奴は、ユダヤの風上にも置けん】
 サミュールは動じる気配のないまま、抜き身の剣を研ぎ続けた。
【何をしている】
【エゾラ。剣は何のためにあるというんだ】
【サミュール。お前は戦でも起こすつもりか?】
【俺の神は、母親を守れと命じている】
【神のご意志に従え。ラビの言葉に耳を傾けろ】
【自分勝手な事を言い散らかし、臆病者同士でまとまらぬ議論をすることが、主の御心か? そんな事をしている間にも、奴らはお前たちを殺しに来るぞ。仲間の命を守りたければ、さっさと剣と弓を手にすることだ】
 サミュールは剣を研ぐ手を止めて、エゾラを眺め回し、彼の優柔不断ぶりを皮肉った。エゾラは憎々しげにサミュールの母親に視線を向けた。
【やはり、お前はこの淫売女の】
 エゾラの言葉が止まった。サミュールの剣の刃先が彼の首筋に触れていた。サミュールは恐ろしげな行為と裏腹に穏やかに、しかし、断定的に言った。
【もし、戦が始まるなら、湖の向こうの兵士を何人斬り殺してでも母を守る。ただし、その前に、母を侮辱する者がいれば、先にカタをつけてもいい】
 彼が目に浮かべる殺意は本気で、エゾラを黙らせた。エゾラは無言のまま後ずさりをした。チュラーヤが静かに言った。
【剣を置きなさい、サミュール。エゾラ、ケンカをするなら出ておゆき】
 サミュールを憎々しげに眺めながら、エゾラは何も言わなかった。ただ、小屋を飛び出していっただけである。抜き身の剣を手にしたままのサミュールに、彼女は言葉を続けた。
【まったく、三人とも父さんの血を引いているはずなのにねぇ】
【馬鹿を言うな。俺にとって、母さんだけが肉親だ】
【サミュール、悲しい事を言わないで。父さんを通じて、エゾラもシャーマも貴方の兄弟だから】
【母さん、戦が始まるようなら、二人でどこかへ身を隠そう】
【馬鹿だね。そんな事より、食事でもおとり】
 母と子もまた緊張の中にあって、長い夜と朝を過ごし、陽は中天にあるというのにまだ食事を取ってはいなかったのである。二人は、食欲は湧かないが、平穏な日々が帰ってくる事を念じて、日常と同じ食事をする事にした。

 



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