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 全ての人を公平に包む朝の気配が、この村ではやや堅苦しさを感じるのは、村人たちの信仰心のせいだろうか。流れ聞こえる祈りの言葉に敬虔な感情を感じ取る事は出来るが、彼らの神に対する知識のない者には言葉の意味は分からない。しかし、アダムを包むように響く言葉には人々の願いが籠もっているようだった。
 サミュールの家の傍らに座り込んだアダムは手帳を取り出した。
「いいかい、整理してみよう」
 アダムは短い棒きれを拾って地に「ソガ」と「モノノベ」の文字を並べて書いた。
「十三年前、この国は、ソガとモノノベという2つの部族が争っていた」
「ソガはおそらく仏教を奉じ、モノノベはこの国の在来の神々を奉っていて、一種の宗教戦争か、宗教に名を借りた権力争いだ」
「そこにユダヤ人たちが流れ着いて、モノノベに加わったのね」
 ヘレンがモノノベの文字の傍らに六芒星の紋章を付け加え、アダムはモノノベの文字に×印を重ねてモノノベの存在を消した。更に、ソガにウマコの名を書き加え、オーミという文字を並べた。
「しかし、モノノベは戦に負けて滅んだ。権力を握ったソガの部族長のウマコが女帝スイコを表に擁立し、自分はオーミという座について裏で権力を操っている」
 アダムはそう言いながら、スイコ、ミコの名を書いた。
「ミコっていうのは?」
「スイコの代理として政治の実務を執り行っているようだね」
「オーミの権力と、スイコの命令と、ミコの実務がバラバラなら、オーミはやりにくくてしょうがないんじゃない?」
「スイコが凡庸な女帝なら、自分は政治には関わらずオーミの意向をそのままミコに実施させてるから、問題はないさ」
「もし、スイコがキレ者なら?」
「自分が盾になってオーミの権力を遮りつつ、ミコに独自の政治を行わせるだろうね」
 アダムは今まで書いていた文字を全て囲い込む円を描いた
「一番ややこしいのが、この関係者が全て、血縁関係や政略結婚で結びついてるって事だね」
「でも、それがこの村のユダヤ人たちと、どう結びつくの?」
「この世界に来る直前、鳥居をくぐるときに、僕がエイモスに言ったことを覚えてる?」
「鳥居がなんとか」
「そう。日本の神社の入り口にある鳥居が、ヘブライ語に由来するって言う説があるんだ」
「まさか……」
「土地を追われたユダヤ人の一部、失われた支族が古代の日本にやって来て、日本人と同化して文化を伝えたという説なんだ」
「あの人たちが失われた支族だと?」
「さあ。ここがはるか古代の日本だったらという、あり得ない仮定だけどね」
 手帳を閉じるアダムをヘレンは尊敬のまなざしで眺めた。この世界にやってきて触れた言葉の数々がアダムの中で整理されて、ヘレンが疑念を差し挟む余地のないほど密接に繋がっていた。
【異民族の者どもが、何の悪巧みだ?】
 突然に姿を現した男が、地面の文字を蹴り飛ばすように消した。目元と口元を腫らして顔立ちが少し変わっているが、サミュールの義兄エゾラに違いなかった。この男はまだアダムたちに対して敵意を消していない。
【エゾラ】
 背後から名を呼ばれ振り返った瞬間、サミュールは彼を右の拳で殴り倒した。
【昨日の残りだ】
 エゾラは立ち上がって拳を握ったが、新たに現れた人物に遠慮するように、ケンカの意欲を消した。
【やれやれ。全く、お前たち兄弟の仲の悪さにも困ったものだ】
 現れたのはアダムたちを見送るために現れたラビである。
【シャローム】
「おはようございます」
 挨拶をするアダムとヘレンに笑顔で応じながら、ラビはサミュールとエゾラに語った。
【この朝の静けさの心地よさ。この平和を壊してはいけない】
 そんなラビの言葉に、アダムはふと心に湧いた疑問を口にした。
「この景色は見事に調和しているように見えます。太陽も、大地も、大地に樹や花も、その花にいるミツバチでさえ、自然の一部として調和しています。私たち人間はこの調和の一部になれるんでしょうか?」
 ラビはやや考えて、ゆっくりと口を開いた。
【この美しい景色を、この国の人々は故郷の景色として、記憶の中に語り継ぐ。しかし、我々ユダヤの民は故郷を追われ、長く異国の地を彷徨って故郷の景色は記憶からも失われた。いま、この調和の一部となって、この景色を新たな故郷として記憶に留める、それが今の私たちの願いだ】
 アダムの手を包むラビの手の平が、歳を重ねて堅い、しかし、その手の平から暖かくラビの思いが伝わってきた。ラビはヘレンにも向き合った。
【また会いたいものだ】
「是非」
 ヘレンの短く力強い返事に続いて、ラビはゆっくりとサミュールと向き合って指示した。
【お客人をお送りしなさい】
【ついて来い】
 サミュールはそれだけ言うと、背を見せて歩き始め、アダムとヘレンはその後を追わざるを得ない。どうやら、昨日の桜の樹が、集落と船着き場を結ぶ草原の道の道しるべらしく、その傍らを通過した。サミュールが桜の樹を見上げ、また何かを語りかける様子を見せた。
「サミュール。それは何か神聖な樹なの?」
【うるさいっ】
 自分の行為を人に見られたのが腹立たしいのか、彼は怒りの声を上げ、ヘレンは黙って肩をすくめて見せた。
(ドルイドに関わらず、神木を信仰する宗教は世界中にあるが)
 アダムはそう考えながら、ユダヤ教と神木の関わりを考えた。しかし、サミュールが桜に語りかけたときには、神に対する敬意ではなく、愛しい人に語りかけるような雰囲気が漂っていた。アダムは何故か湖の西の対岸にあるノユリの村の桜の樹を思い出していた。
「サミュール。この国に奥さんがいるそうだね」
【それがどうかしたのか】
「異民族の奥さんを思いやって、仲間の差別を避けるために距離を置いたとか」
【そんな事を、誰から?】
「君のお母さんから」
【違うっ。お前も、母も、勘違いをしている】
 サミュールは不機嫌にそう言い放って黙りこくった。水辺には活気があり人々は勤勉に働く様子が見受けられる。引き上げる網に多量の魚がかかっていた。豊かな収穫をもたらす湖だが、人を隔てても居た。
 サミュールは左手に提げていた荷をどさりと小舟に投げ込み、黙ってアダムとヘレンを振り返って、二人に次の行動を促した。この小舟に乗れと言うのである。

「サミュール。あなた無口すぎるんじゃない」
【言葉は争いを招く】
 サミュールはそう言ったのみで、しばらく黙りこくってオールを漕いでいたが、無口な人間らしく唐突に言葉を吐いた。
【アダム、お前、子どもは?】
「残念ながら、まだ独身だよ」
【もし、お前が父親になったら、子どもに何をしてやるつもりだ?】                                                   
 突然に父親と子どもの関係を問われたアダムには、玩具屋での父親とのふれ合いの記憶が蘇った。それをどう表現すればいいだろう。アダムは心の底からにじみ出す言葉をつづった。
「子どもは、親が喜ぶ姿を見るのが望みさ。父親は、ただ、真面目に生きる姿を見せればいい」
 サミュールの問いかけに、生真面目に考え込むアダムを見て、ヘレンは笑った。女を口説けない男には、難しすぎる質問かも知れないと思ったのである。ただ、生真面目な目つきで問いかけ、生真面目に応じようとする二人の姿は、見守りたくなるような好感が持てる。ヘレンの見るところ、サミュールはユダヤ村の中で孤立している存在で、母親以外には相談できる人物もなく、たまたま出会った同じ年頃の男性に、心に秘めていた疑問をぶつけてみたのだろう。
 小舟の中の男たちはそれぞれが考え続けている。
(この自分は、父親として子どもに何が残せるんだろう)
 アダムはそう思い。時を同じくしてサミュールも自嘲的に思った。
(この俺が、誰かを思いやって、妻と子を手放したと?)

 対岸が近づいた。ヘレンはその距離感の違いを評した。
「昨日より早いわね」
【引き潮だ】
 サミュールが短く謎を解き明かした。
「引き潮? ここは湖のはず」
 海の潮の満ち引きなど関係がないはずだと考えるヘレンに、アダムが声を掛けた。
「この湖はどこかで海に続いてるんだ。潮の満ち引きで流れが出来てるんじゃないかな。ユダヤ人村の辺りには草むらが広がってたろ。対岸には西の海岸と同じ葦原が続いている。湖の両岸で植生が違うんだ」
「地質学も生物学も専門外」
 この時、サミュールは櫂を置いて立ち上がり、足下に置いてあった投網をうって言った。
【お前たちも手伝え】
 網を引くのを手伝えと言うのである。
「いきなり、何をするんだ?」
 アダムの質問にサミュールは答えず、二度目の網をうった。投網を使うには水深が深すぎ、獲物など捕れないだろう。そう感じたアダムに、ヘレンが黙ったまま顎をしゃくって見るべき方向を指示した。やや高台にある砦の見張り台にいる兵士が、この舟に気づいて不審そうな視線を向けていたのである。この舟が漁をしているらしい事に気づいた兵士は警戒を解いた。砦の岸には小さな桟橋と幾艘かの小舟が見えたが、サミュールはその桟橋を避け、時に投網をうちながら舟を浅瀬に近づけて、密に茂る芦の原に舟を乗り入れて砦の見張り台から姿を隠した。

【来たときと同じ道を辿って、オーミの兵を避けろ。奴らは野蛮で気が荒い】
「ありがとう」
 礼の意味で片手を挙げたヘレンの掌に、サミュールが掌を合わせた。
【ヘレン。はいふぁいぶだ】
「違うわ。これは、何かがうまくいった喜びを表す仕草よ」
【では、お前たちが無事に帰れる成功を祈願して】
 サミュールはアダムともハイファイブを要求し、言葉を続けた。
【これを持って行け。母からだ】
 サミュールが最初に小舟に投げ込んだ袋を出してヘレンに渡した
「パンだわ」
 ヘレンは喜んでサミュールの首筋を抱き頬にキスをした
【これもお前たちの挨拶か?】

 岸辺で遠ざかるサミュールの舟を眺めながらアダムは尋ねた。
「はいふぁいぶ? いつ、彼にそんな仕草を教えたんだい」
「昨夜、彼と二人でエゾラたちをブチのめした後」
「戻ってくるのが遅かったのは、そう言う訳か」
 アダムはあの無口な男が、意外な無邪気さを持っている事を知った。アダムのため息にヘレンは笑った。
 二人は南に見える砦の見張り台からの視界を遮るように、草むらを縫って歩いた。野鳥のさえずりが響く豊かな自然の中で、二人はやや緊張感を解いた。
「これからどうするの?」
「帰るための手がかりも無し。あとはミコか」
「ミコ? この国の最高権力者の一人ね。簡単に会えるのかしら」
 そんな会話をしながら歩く二人の周囲は、いつの間にか密な竹林に変わっていて、上空を強い風が吹いて葉を鳴らした。砦は景色の背景に隠されていた。道のない林を抜けて南北に伸びる街道に出ると、獣道ではない雰囲気に人の気配を感じはするが、通る人は疎らでアダムとヘレンの足音が、風が揺らす木々のざわめきに溶けて消えた。考え込みながら歩く二人に声をかける者が居る。
「アダム、ヘレン」
 伏せていた顔を上げて声の方向を見ると、南にチェルニーとヨゼフがアダムとヘレンの二人見つけて手を振っているのが見えた。
「ちょっと」
 仲間に合流したチェルニーが、ふと、西に視線を転じてみると、疎らな木々の間から明るく輝く水平線が見えていた。仲間を誘って道を外れ、西に林を抜けると、確かに海の景色が広がった。ここはやや高台であるらしく見晴らしがよい。海辺までまだ二kmはあるだろう。花々の蜜を求めて飛び交う蝶がいる草原の向こうに視線をやれば、広大な海原にぽつりぽつりと浮かぶ島影。全ての景色が解け合って等しく柔らかい日差しに照らし出されていた。
 確かに、チェルニーが仲間を誘いたくなるほど心を揺さぶる景色である。海岸線は定かでは無く、いくつもの小さな入り江は干潟となって葦の原が広がっていた。チェルニーはその光景に、ふと、古代日本の女性歌人の歌を思い出して呟いた。
「難波潟 みじかき葦の 節の間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや」
「何の言葉だい?」
 アダムの疑問にチェルニーが注釈を加えた。
「十世紀頃の若い女性の詩で、心を海岸べりの干潟に茂っていた葦に喩えて、愛する男性に思いを伝えるの。『葦の節の間ほどの短い時間であっても、会わずに生きろというつもりなの』って。女性が詩で心を伝えるなんてなんてロマンチック」
「詩を送る暇があったら、さっさと会いに行くべきね」
 現実的な言葉を吐いたヘレンだが、この初夏の景色は心を穏やかにする。過去に大規模な戦乱あり、人々の間に憎しみが残っているとは信じられない。西側半分に視界が大きく開けて、雑木林の南の端に見える水田や建ち並ぶ小屋はノユリたちの村に違いない。この位置からでも生真面目に働く人々の姿が、鍬をふるって畑を耕す仕草が判別できるほどの大きさで見えていた。優しく包容力のある景色である。

 留まることもできず、歩き始めた彼らは、互いに報告することがあった。
「良いニュースがあるのよ」
 村に向けて歩き始めたチェルニーはヨゼフと顔を見合わせて嬉しげに言った。ヘレンがチェルニーの続く言葉を制した。
「じゃあ、私たちの悪いニュースが先」
 悪いことを先に語ってしまう方が気が楽だというのである。昨日の経験を語るヘレンに、チェルニーは頷いた。
「そう、帰るために有用な情報は何も無かったのね」
 チェルニーの言葉にアダムとヘレンは肩をすくめてみせて、次の話題を促した。
「じゃあ、良いニュースを聞かせて」
 チェルニーとヨゼフは顔を見合わせて笑顔を浮かべ、チェルニーが嬉しそうに言った。
「私たち、就職先が決まったの」
「就職先?」
「そう、チェルニーは施薬院の医師の待遇で、ボクは非田院の子どもたちの世話をする保父さん」
「そう言えば、子どもに懐かれていたな」
 そう言いながら、アダムにはあのユダヤ人の集落の子どもたちの姿が目に浮かんだ。あの子どもたちが、この国の子どもと交わり、遊ぶ光景である。ヘレンが眉をひそめた。
「そう言う問題じゃないわ。元の世界に帰る気はあるの?」
 そんな会話にのめり込むうちに、彼らは村の入り口にたどり着いていた。ワクウが彼らを見つけて嬉しそうに駆け寄ってきて、ヘレンが掲げる手の平に飛び上がるようにタッチした。
「ヘレン。はいふぁいぶ」
 ワクウはそうやって、帰ってきたアダムたちを迎えたのである。ヘレンが教えた仕草を素直に覚えて繰り返す無邪気さが、岸辺で分かれたサミュールの姿と重なった。

 


 女というのはしたたかな生き物で、得体の知れない世界に来て数日で、世界に馴染み生活基盤を築こうとしている。チェルニーは施薬院の医師としての地位を確保しつつあるという。施薬院の女官に手伝いを依頼され快諾したのである。外科医志望で薬草の知識には乏しい。まだ、施設の人々から薬草の知識を受け取る見習い医師と言うところかも知れない。ただし、最新の医術の心得がある彼女が、医療技術では遙かに見劣りするこの世界の医療の一部を受け入れるというのは、この世界で生きる決意の表れのように見える。
「あなた、もう帰る気が無くなったなんて言わないでね」
「そう言わないでよ。頼まれたから引き受けざるを得ないでしょ」
「みんなで行こうよ」
 アダムがそう提案し、ヘレンが首を傾げた。
「どうして?」
「日本橋での、チェルニーの買い物を思い出したんだ」
「私、日本語、ヨクワカラナイ」
 ヘレンがあの時のチェルニーの口まねをし、ヨゼフが疑問を呈した。
「それで?」
「交渉は決定権を持ったボスを相手にするのが良いって」
「決定権のあるボス?」
「先日、オグツさんがミコが来るって行ってなかったかい。どうやらこの国の権力者らしい。会って帰国の協力を求めるのも良いさ」
「うまく会えればね」
 今まで権力者というと雲の上の人物だったり、残忍強欲というイメージしか持たなかった。そんな人物が、得体の知れない異邦人と面会し協力してくれるか保証はないのである。
「賭けてみるしかないさ」
 仲間も頷いた。他に選択肢は無さそうだ。

 既にノユリの道案内は必要なかった。ノユリの村から南にある川を渡り、坂を登ってやや高台に出て歩き続ければ、南に常に寺院の塔の先端が見えくるという地形である。彼らの目的地は、その塔のある寺院そのもので、道に迷う心配はなかった。アダムはふと思いついて渡ったばかりの川のある地形を振り返った。ヘレンがそんなアダムに首を傾げた。
「どうしたの?」
「サミュールが言ってた引き潮の話を思い出したんだ。この川、自然の川にしては東西に真っ直ぐ伸びていて、川幅がずっと同じ」
「だから?」
「この川は、東側の湖と西の海を結ぶ運河なんだよ」
 地図の断片が、彼らの中で経験で繋がれて一つの地図になりかけていた。歩くにつれて、幾つもの道が合流と分岐を繰り返しながら、太く、賑やかに人の往来が激しくなる。四人の足下の草むらから一羽のスズメらしい小鳥が舞い上がった。
「空の鳥を見るがよい」
 そんな言葉を呟くヘレンに仲間の視線が集まった。彼女は記憶の底からわき上がってきた言葉を吐き出した。
「ああ、信仰の薄き者たちよ。何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと、思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである」
 アダムがヘレンの言葉の引用元を指摘した。
「マタイの福音書、第六章」
「なんとなく、私たちは異邦人かなって思ったの」
「仏教にユダヤ教。それに加えてキリスト教まで登場させるの?」
 チェルニーの見るところ、この国は仏教を取り入れているとはいえ、その歴史は浅いらしく、人々が仏教を深く理解しているかどうかは疑わしい。もちろん、ユダヤの神を信仰しているわけでもなく、キリスト教を感じさせるものはない。しかし、ヘレンの語る一節がこの場に妙に似つかわしいのはどういう訳だろう。ヨゼフが別の宗教の名を挙げた。
「ムスリムだって、この世界や人々を否定しないさ」
 更に三十分ばかり歩いたところで、歩んできた道に、東に延びる街道が合流した。その街道の幅広さ、せわしなく人が行き来する様子を見れば、噂で聞いた東に二日の距離にあるという都に続く街道に違いない。その街道をこちらに進んでくる一団がいる。いや、行列と言っても良い規模のようである。
 突然にヘレンが舌打ちをするのが聞こえ、見慣れぬ行列をまじまじと見つめようとする仲間に、ヘレンは鋭く命じた。
「みんな、顔を伏せて!」
 顔を伏せたところで、ヘレンの金髪が人目を惹かぬはずが無く、行列の先頭の男がヘレンたちに気づいた。男は酷く興奮した様子で怒りを浮かべて馬を突進させて来た。その顔にはアダムにも見覚えがあった。彼らがこの世界に来た直後、兵士を率いて襲ってきたケハヤと呼ばれた指揮官である。
 ヘレンは狼の素早さで身をかがめて周囲を窺った。道が交わる場所で、まばらに露天が並ぶのみである。広く開けた地に身を隠す場所がない。その間にも馬は速度を増しヘレンたちに接近した。その時に、ふらりと漂うように道にさまよい出た人影がある。続いて、これから起きる惨事に、悲鳴を上げながら飛び出してきた女の様子から、母親の手を離れたよちよち歩きの幼子が道に出てきたと判断が付く。母と幼子が馬蹄にかけられるという目を覆いたくなる惨事を予感した直後、ヘレンは男の目を見た。怒りが引き、後悔や決意が感じられる目だった。馬上の男はその目つきそのままに手綱を強く引いた。しかし馬の行く手を押しとどめることは出来ず、馬は方向を逸れて露店の一つに飛び込み倒れた。馬上の男はその勢いのまま地に投げ出されて動かない。
「この隙に、みんなで逃げるか」
 そう呟いた選択肢の一つをヘレンは打ち消した。罪もない母子を傷つける男ならほって置いても良い。しかし、母子をかばって負傷した男を放置するわけには行くまい。既に、チェルニーは母子の様子を確認するように駆け寄っていて、アダムとヨゼフもまた事故現場に走っている。
 行列の人々も慌てて駆け寄ってきた。
「ケハヤ。いかがした?」
 接近してきた行列の中から進み出て、倒れた男を抱え上げようとした若い男に、チェルニーが怒鳴った。
「馬鹿ね! まだ動かしてはダメ」
 勢いよく地面にたたきつけられて脳に損傷を負っているかも知れず、負傷者をみだりに動かすのは厳禁だろう。チェルニーは気を失った男のまぶたを開けて瞳孔を確認し、手首を取って脈拍を測った。その様子は行列の人々にも医療行為に見えるらしく、チェルニーに怒鳴られた若者も、彼女の手際よさに感心するように見守っていた。
「大丈夫よ。セヤクインに運んで手当てしましょう」
 見守っていた若者も、チェルニーの言葉に無事を聞いてほっとしたように息を吐き出した。行列の人たちの様子から、その若者がこの行列の指揮官だと見て取ったヘレンが怒鳴った。
「間抜け! 何をぼぉっとしてるの。この人を運ぶから、その袋と槍をちょうだい」
 けが人の運搬に、袋と槍という組み合わせを理解しかねたものの、若者は従者と兵士に命じて空にした木綿袋と槍を渡させた。その理解の鈍さに、ヘレンは海兵隊の鬼軍曹が、訓練中の新兵に言うような皮肉な表現で要求した。
「お前、頭の中まで役立たずなの? 槍がもう一本、袋ももう一枚」
 ヘレンが若者に投げかけた役立たずという言葉がアダムとヨゼフの耳にも痛い。若者のみならず、アダムやヨゼフにもヘレンの意図が分からないのである。ヘレンが大きな袋に二本の槍を通したのを見て、二人はようやくその形状から意味を察した。ヘレンは袋に槍を通して応急の担架を作ったのである。ただ、この世界の人々は担架という道具を知らないらしい。様子を見守るだけの若者にチェルニーの叱咤が響いた。
「うすのろ! 何をじっとしているの、さっさとして」
 その用途を知るアダムとヨゼフは、気を失った男をそっと担架に乗せて持ち上げた。
「ミコ、任せても大丈夫でしょうか?」
 侍従らしい男が若者に問いかけているのは、異様な風体の人々に仲間を任せても問題はないのかと問うているのである。
「イモコよ。見よ、彼らは手慣れている。今は彼らに任せるのがよかろうよ」
 若者は周囲の人々を制して、身振りで成り行きに任せるようにと指示をした。
「ミコ?」
 聞き覚えのある名に反応して耳を澄まそうとしたアダムに、チェルニーが声をかけた。
「さぁ、早く怪我人を運んで」

 セヤクインの女官たちは突然の来訪者を驚きつつも、そつなく迎えた。失神したケハヤは板の間に敷物を敷いた上に横たえられていて、チェルニーが診断に当たっている。
「頑丈な男ねぇ」
 そう評したヘレンの言葉にチェルニーは頷いた。よく鍛えられていて首筋から肩にかけて筋肉が盛り上がっている。何カ所か擦り傷があり打撲もしているようだが、落馬の後でころころと転がったせいか、体が受けた衝撃は少なく、骨折は見られず、内臓に損傷を負っている気配はなかった。何より頭部にある瘤が、男の失神の原因だろうと見当が付いた。落馬の時に頭を地面にぶつけたのだろう。
「大きな傷は無さそうだわ。擦り傷と打ち身の手当をしてあげて。気がついたら教えてちょうだい。もう一度診てみるから」
 チェルニーは女官にそう伝え、女官は頷いて打ち身に効く薬草を取りに走った。ヘレンがぽつりと言った。
「頭をぶつけたショックで、私のこと忘れていて欲しいわ」
「彼は、僕ら、特にヘレンを見つけて怒っていたようだったが」
 アダムの言葉にヘレンは肩をすくめて見せたのみである。何かよほどひどいいたずらでもしたかのような様子がうかがえた。チェルニーがそんなヘレンに笑いながらも言った。
「さて、これであの人が目を覚ますまで、ここに居なくちゃならないわね」
「じゃあ、ミコを探して面会するというのは見送りね」
 そんなヘレンの言葉に、ヨゼフがぽつりと言った。アダムだけではなくヨゼフも耳にして記憶していたらしい。
「そのミコなんだが、さっきの若者がミコと呼ばれていた。たぶん、あれはミコが都から護衛や供を連れてここを視察に来る行列だったんだ」
 チェルニーとヘレンは驚きの表情を浮かべて、叫びあった。
「ヘレン。さっき、あなたは」
「チェルニー。あなたもよ」
 女たちは自分の言葉を記憶していたらしい。彼女たちが、馬鹿、うすのろ、役立たずと暴言を吐いた相手は、この国の権力者の一人らしいのである。ヨゼフが今後の展開を予想して、手刀で自分の首筋をちょんっと打って見せた。彼女たちの行為は、公衆の面前で侮辱された権力者の逆鱗に触れ、打ち首になることも覚悟せねばならないというのである。
 人の気配を察して、四人は一斉に友好的な作り笑いを浮かべて振り向いた。姿を見せた女官はそんな彼らに驚いた様子を見せたが、それをすぐに人の良い笑顔に変えて言った。
「何か、突然の出来事に遭遇されたご様子ね」
「ヲグツさん」
 チェルニーが呼んだ名は、寺院の管理下でセヤクインの責任者を勤める女官の一人である。初めて出会った時の気さくさに加え、感謝の表情を浮かべて一礼した。
「ケハヤを助けてくれたとか。ありがとうございます」
「いいえ、人として当然のことをしたまでですわ」
 チェルニーは暴言を吐いた話題を避けて、無難で謙虚に答えた。ヲグツはそんな彼女たちの姿を見回して首を傾げた。
「ノユリやワクウは?」
「今日は、あの二人の付添ではなくて、別の用件で」
 チェルニーの言葉に、ヲグツは笑顔のまま何かを思い出すように語った。
「以前、ノユリが異邦人と一緒にやってきたと聞いた時には、湖の対岸の夫を連れて来たのではと密かに喜んだんだけど、連れてきたのはあなた方。残念なような面白いような、もっと不思議な異人さんたちだったわ」
 明るく笑うヲグツに、ヘレンが愛想笑いをしつつ言った。
「そうです、私たちは面白い人間なんです。生まれてこの方、悪意や暴言とは無縁」
「では、今日はどんなご用件で?」
「私たちは手助けを必要としています、ミっ」
 ヨゼフはミコという名を口にする寸前に、足に鋭い痛みを感じて言葉を途切れさせた。ヘレンが状況を理解できていないヨゼフを睨んでその足を蹴って、注意を促したのである。チェルニーもまた首筋に手刀を当てて斬首を示唆して、ミコという名の危険性を伝えた。彼女たちを斬首の刑に処すかも知れない男である。危険があれば直ぐにこの場から逃げ出さねばならず、迂闊に口にしていい名ではないだろう。
「私たちにに何かお手伝いが出来れば良いんですが」
 ヲグツはヨゼフの言葉を理解しかねて尋ね返したが、じっと会話を聞いてるだけだったアダムが意外な形で質問を逸らした。
「ノユリさんに異邦人の夫がいるんですか?」
「ええ」
 ヲグツが頷いた時、新たな女官が姿を見せて、新たな用件で会話を中断させた。
「ミコがみなさんにお会いしたいと……」
 ミコの名にヘレンたちはぎょっとして顔を見合わせた。女官が漂わせるいつもと変わらない様子だけが救いだった。もはや、ヘレンたちは逃げることはかなわず、ミコの呼び出しに応じるほか無さそうだ。

「まずは、ケハヤを救ってくれたことに礼を言わねばなるまい」
 ミコは笑顔でかるくお辞儀をした。アダムたち四人はこの人物の雰囲気に酔った。今まで知っていたどの権力者ともイメージが違う。大らかで人を包み込む人柄を漂わせ、道ばたで無邪気な遊ぶ幼児に感じるような、心を引きつける求心力がある。本当に、この人物がこの国に君臨し、国政を左右する権力者なのかという疑いが湧き、逆に、この人物なら人々の敬愛を集める統治をするだろうという確信も湧いた。
「我はウマヤト。そなたたち、名は?」
「アダム・マリノフスキー。ポーランドから来ました」
「私はヘレン・ウィリアムス。アメリカ人です」
「チェルニー・アタユックです。タイから来ました」
「ヨゼフ・アハメッド。タンザニアから」
 ミコは四人が次々と名乗るのを聞きながら、好奇心を漂わせて傍らの若者に語りかけた。
「おおっ、異国の人々だと聞いていたが、言葉が通じるぞ。イモコよ、そなたを連れてきた甲斐がなかった」
 この国は一見すると未熟な原始社会だが、もう一方では権力が行き届いた規律正しい社会だと分かった。都にマレビトの出現の情報が届き、ミコはマレビトと会話をするために語学に堪能な従者を同行させていたのである。ミコの言葉に、傍らの従者が答えた。
「いいえ、ミコ。私には充分に」
 イモコと呼ばれた若者は、通訳という役割は果たせなくとも、好奇心を満たす満足感があるというのである。勘のいい男で、彼は先ほどの四人の挨拶から握手をする習慣を学び取ったらしく、四人に握手をもとめて名を名乗った。
「私はミコに仕えるオノノイモコと申します」
(なるほど)
 四人は、この主従関係から思った。イモコから伝わるミコという言葉は、アダムらが抱く王子のイメージに近い。この若き権力者は名がウマヤトで、人々は幼い頃からの呼び名を使って、敬愛を込めて皇子という意味のミコという名で呼んでいるのだろう。
 やや続いた沈黙の後、チェルニーはミコに見つめられる視線に気づいてどきまぎした。見つめ返してみると均整な顔立ちの中に信念を感じさせる切れ長の目が印象的だった。そのミコの小首を傾げるようで好奇心むき出しの表情に、ワクウと共通する雰囲気がある。ヨゼフがミコの意図を悟った。
「チェルニー、眼鏡、眼鏡」
 ヨゼフに促されたチェルニーもミコの注視の理由を知った。ミコは彼女がかけた眼鏡に興味を示しているのである。この国の人々とは肌の色や髪や目の色が違う仲間たちだが、何よりこの眼鏡が異様な風体として目を引くらしい。チェルニーは眼鏡を外した。
(ほぉっ)
 ミコとイモコは顔を見合わせて感嘆の声を上げた。あのヘンテコな部分が顔から外れて、アクセサリーだと言うことを確信したのである。チェルニーに差し出された眼鏡を手にしたミコは、指先でレンズをなで回して驚きの声を上げた。
「冷たくなく、融けもしない」
 レンズが氷ではなく、計りがたい素材だと語っているらしい。ミコが自分を窺う様子を見せたので、チェルニーはミコの意図を悟って頷いた。ミコはチェルニーを真似て眼鏡をかけたが、すぐに眉をひそめて、外した眼鏡をイモコに渡した。眼鏡をかけたイモコもまた違和感を感じて、眉をひそめて眼鏡をチェルニーに返した。
「目がくらくらします」
 そんなイモコの感想に、ミコも同意した。
「チェルニー・アタユックよ。タイ人(びと)というのは、皆、このようなものを身につけて物を見るのか? 世界が歪んで見えはしないか」
「ミコ、私のことはチェルニーと呼んでいただければ結構です。皆ではありません。この眼鏡をかけて目がくらくらすると言うのは、ミコとイモコさんの目がおよろしいと言うことですわ」
 そのやりとりをアダムはやや冷静に眺めていた。アダムが居た世界で眼鏡を知らない権力者が居るだろうかという疑問である。ユダヤという接点がある以上、アダムたちの世界とは無関係では無かろう。と、すれば……
(やはり、ここは、時をさかのぼった古代の世界?)
 考え込むアダムをよそに、ミコの好奇心はヨゼフに移った。
「ヨゼフ・アハメッド。我はいくら陽に灼けても、そなたのような肌の色にはならぬ。漁師の中にもそなたほどの肌の者を見たことがない。タンザニア人(びと)というのは、皆、そのような肌の色をしているものか?」
 ひとつ言い方を誤れば人種差別になりかねない質問だが、ミコは子どもが素直に疑問を口にするように悪びれず、悪意や差別感を感じさせることがない。その素直さにヨゼフは好意の笑顔で応じた。
「私のことは、ヨゼフとお呼びください。私の国の人々は皆このような美しい肌の色をしております」
「ほぉ、よほど、陽の光が強く暑い国なのだろうな」
 ミコの好奇心はくるくると切り替わってヘレンに向いた。
「ヘレン・ウイリアムズ。我は、そのような美しい髪や目の人を見るのは初めてだ……。あのケハヤと何かあったのか」
 金髪や青い目について尋ねられるのかと思っていたら、いきなり質問の矛先を変えられてヘレンは説明に窮する表情をした。
「私のことはヘレンと。彼と最初に会ったのは、私たちがこの世界に来た日でした。不審者と間違われて襲われたのでやむなく。二度目は市で会って、最初の出会いのトラブルをとがめられました。不覚にも彼が率いる兵に囲まれまれて、こちらは一人で相手は多数。こういう場合の定石として指揮官に一騎打ちを挑みました」
 ミコは声をあげて笑った。
「それで、勝利の証として最初の日には剣を奪い、二度目にはケハヤの秘蔵の弓を奪ったと言うことか?」
 ようやく、部下の怒りの理由を理解したというのである。ミコの言葉に、アダムたちはヘレンが弓を持ち帰ってきたことを思い出した。何回も大事な武器を奪われたとなれば、当然、あの男は怒り心頭に達するだろう。アダムはケハヤという若者にやや同情した。
「ヘレン。アメリカ人、とりわけ、アメリカ人の女性というのは、そなたのように勇敢で強いのか?」
「その通りです。自由のためには命を惜しみません」
 ヘレンというのは軍人の家に生まれ、彼女自身、格闘技を好むという偏りがあるアメリカ人女性のはずだ。ヘレンをアメリカ人女性の代表とすれば、全アメリカ人女性がアマゾネスであるかのような偏見を生むだろう。チェルニーはアメリカ女性の名誉のために補足せざるを得ない。
「武芸ではなく、心のありようにおいて、自由と正義を大事にしてきた事を誇る人たちです」
「なるほど、」
 アダム自身もそうだが、仲間たちはこのミコという人物に酔わされている。しかし、やや冷静に眺めれば、この人物の得体の知れないほどの奥深さはどうだろう。先ほど短い挨拶の中で、ちらりと聞いただけの相手の名と出身地を正確に記憶して、それと感じさせずに普通に会話に織り込んでいるのである。アダムに向き合ったミコは、ポーランドという名を正確に記憶していた。
「アダム・マリノフスキー。ポーランド人というのは、この中で最も思慮深いようだ」
 アダムが観察している様子を読まれていたらしい。突然に、床を振動させる足音と共に、ミコの身を気遣うような男の声が接近してくる。
「ミコォー」
 あの声にはヘレンもチェルニーも記憶があった。
「頑丈な男だわ」
「記憶喪失になっている気配もないわね」
 チェルニーは響く足音で男に外科的な異常がないこと、大声を張り上げ続けているところから見て、肺を始めとする内科的な損傷はないのだろうと思った。なにより、ヘレンに対する怒りを忘れている気配もなかった。
 突入してきたという表現がふさわしい。ケハヤが部屋の入り口の簾をかき分けもせず、頭から突進してきて、ミコを守るように、アダムたちとの間に割って入った。ヘレンはこの顔見知りに挨拶せざるを得ず、笑顔で片手を上げて言った。
「Hallow」
「ミコ! この者どもは」
 怒鳴るケハヤをイモコが制した。
「ケハヤよ。この者たちが、そなたをここまで運んでくれたのだ」
 ケハヤはミコの制止に従って、怒りを飲み込むようにごくりと息をのんだ。
(ドーベルマンのような番犬)
 ヘレンは心の中でケハヤをそう評した。侮蔑の意味はない。犬のように濁りのない一途な忠誠心を持った人物だと思ったのである。ミコにたしなめられて以来、話に口を挟むことはないが、憎々しげな目つきで油断無くヘレンたちをにらみつけていた。
「ヘレン! その手を」
 アダムはヘレンの行為に気づいて注意を促した。怒りに満ちたケハヤの視線の先に、ヘレンが傍らに置いたケハヤの太刀があり、ヘレンはケハヤの悔しそうな顔を眺めながら、その太刀を指先で撫でて挑発しているのである。

「霧が晴れると、この国に居たというわけですか」
 アダムたちの話を聞いていたイモコが相づちを打ち、アダムが答えた。
「その通りです」
 イモコはケハヤを眺めて、からかうように言った。
「ケハヤよ。良かったではないか」
「何のことか?」
「お前の話が妄想ではなかったと言うことだ」
「当然のこと。夢に太刀や弓が奪われてたまるものか」
「なるほど、不思議な出来事だ」
 アダムたちの話を聞いたミコは好奇心と同情を織り交ぜてそう言った。
「この国は、いかなる国なんでしょう」
 チェルニーの問いはもちろん、この国が、世界の何処にある、何という名の国かと問うているのである。ただ、タイ人の彼女が、地球に漂着した宇宙人から、タイが何処かと問われるようなもので、説明に窮するだろうとも考えている。事実、イモコもミコも、異人に分かりやすい説明をするのに困ったらしく首を傾げていたが、ミコが言葉を選びながら語った。
「ここは、ワの国。東を見れば荒れ野の先に海が広がっていて果てしない。西を見れば海を渡って、シラギ、クダラ、カヤの国があり、その後方にコウクリの国が控えている」
「シラギやクダラの南の大海を渡れば、西の向こうにはズイの国があり、文物豊かな大国だという事です」
 イモコはまだ見ぬ国にあこがれを込めてそう言った。優れた文物に憧れるという純真な意識に、この国の若さと将来の可能性が伺える。ただ、聞き取る言葉に出てくる単語はアダムたちの記憶と一致するものがなく、アダムたちの世界との接点が見いだせない。
「大阪、あるいは、日本をご存じですか」
 アダムはアダムたちの世界との接点になりそうな地名や国名を尋ねた。しかし、ミコやイモコは首を傾げたのみである。イモコが話題を転じた。
「あなたたちも、異国の文物、学問を携えて来られたようだ。是非とも、その一部でもこの国に伝えていただきたいものです」
 ミコが通訳として連れてきたイモコという人物は、様々な学問に長じているのだろう。それでも驕り高ぶることなく好奇心を失っていない。アダムたちが居た大阪の人々が外国人に注ぐ視線とも共通する。アダムは懐かしさにとらわれるように微笑んだ。
 アダムが少し考えて口を開いた。
「私たちはこの世界に来て、二組の親子に会いました。一組はこの国の母と子で、貧しいながら私たちを分け隔てせずもてなしてくれました。もう一組は、この国にやって来たユダヤ人の母と子で、自分の血筋に誇りを持って慎ましやかに過ごしていました。共に美しい生き方だと思います。私たちは元の世界で多くのものを学んできましたが、その二組の母と子から学ぶべき事ばかりで、教える事は見あたりません」
「ほぉ、人の生き方が美しいか」
「しかし、ユダヤ人から聞きました。この国には二つの宗教があり、神々のために人々が争っていたと」
「それは違う。人々が欲望で争う。その争いのために、人が神や仏の名を利用するのだ」
「利用とは?」
「少なくとも私が信じる仏は、人に憎しみを求めることはない。それとも、あなたの神は敵を殺せと要求するのか? 人々は何故、協調できぬのだろう、何故、憎み合うのだろう」
 その通りだとアダムは頷いた。しかし、それを疑わない者も多い。神の名を唱えて剣を振りながら神の真意を考えもせず、神の名のもとに人を争いに誘う者たちが、アダムが居た世界にも数多くいた。このミコという指導者はそうではないらしい。
「人の命を弄ぶ神や仏などいないでしょうに」
 チェルニーの言葉に、ミコは意外な形で悲しみと苦渋を伴う言葉を発した。
「我は、人の死を願うたことがある」
「えっ?」
「十三年前の戦のおり、我はまだ幼く、剣や弓を扱えぬこの身が苛立たしかった。モノノベモリヤさえ死ねば、我らが大願は成就すると思うたのに、この手でそれを果たす事が出来ない。我は仏にモノノベモリヤの死を祈念した。憎いとは思わない。我らが目的のためにモリヤの命を代償にするのが必要だと考えた」
「そんなことが」
「願いは叶って、我が軍の将の矢に射られたモノノベモリヤは死に、我らは退却するモノノベの軍勢を追った。その途中、我は傷ついた兵士の中にいた。血まみれで死んだ者はまだ良い。息のある者は傷を押さえて苦痛の悲鳴を上げ、血の泡を吐いていた。命乞いが聞き入れられず、槍に突かれる兵士も居た」
 ミコは悲痛な目つきで記憶を辿った。先ほど常人とは思えぬほどの記憶力を披露した人物である。繊細な感性で拾い上げた景色の数々は、明瞭に記憶に刻まれて、この人物を苦しませているのかも知れない。ミコは言葉を続けた。
「ひょっとしたら、これは我が願った光景か? そう考えると自分自身が心底怖くなった。何という恐ろしい事を、我は仏に祈念したんだろうと」
 ミコはうつむき過去の罪を思い出すように唇をかんで、ゆっくりと言葉を続けた。
「この寺院は、我の贖罪の証だ。我は本当の仏法でこの国を治めたい。仏法の元で人々が安んじて暮らせる世を次の世代に引き継ぎたい。アダム、この国をそなたたちが出合った母と子ばかりにしたいのだ」
 チェルニーが両手の平を会わせて拝む仕草をしながら言った。
「私も仏教徒ですが、いつかミコの願いが叶うと信じています」
「ただ、人々の憎しみは容易には消えぬ。戦でユダヤ人に親や兄弟を殺された者も多い、ユダヤ人の中にも我らに肉親を殺された者も居よう」
「残念ながら、私たちの世界にも争いや人々の憎しみがあります。私たちもまだその憎しみを乗り越えられずにいます。でも、きっと乗り越えられる。それは私たちもミコも同じ」
 チェルニー言葉に、ミコは悲しげに言葉を継いだ。
「戦の後、七年を経ても憎しみが収まらなかった。我はユダヤ人に湖の北の地を与えて、住まいを分けた」
「それが、あのユダヤ人の集落なんですね。もとは、共に暮らしていたと」
 アダムの問いに答える前に、人の気配がし、一人の女官がミコを呼んだ。
 ミコは女官の用件を察したように立ち上がった。好奇心は未だにわき上がってくるようで、ミコは名残惜しそうにアダムたちを振り返った。
「また、会いたいものだな。今日は不愉快な話を聞かせてしまった。今度はもっと別の、そうだ、我々の未来の話でもしようか」
 イモコも立ち上がり、アダムたちに一礼して言った。
「もし、不自由があればなんなりとお申し出ください。この私が出来るだけご期待に応えたいと存じます」
 イモコがそう言ったのは本心である。この不思議な客人たちの正体ははっきりと分からないが、雑談をしていると心が触れあう感じがして、好奇心が満たされる。不思議な事に言葉と同時に感情そのものが伝わってきて、心の中を隠さずさらけ出すようで心を許せる相手だという気がするのである。
 おそらく、ミコも同じだったのだろう。普段はそれほどお喋りではないミコが、心に抱える悩みを吐き出すように語りかけた。近習としてミコの心の悲しみに気づいているつもりで居た。しかし、先ほどミコが口にしたほどの本心に触れたのは初めてだった。ミコの笑顔がいつもより晴れているのも、心に封じた悲しみの一端を解放したおかげかと、この客人たちに感謝しているのである。
 イモコは部屋を辞しながら、ケハヤが腕組みをしたまま動こうとしないのを眺めて苦笑いした。ミコと親しく雑談を交わす相手を傷つけるようなまねはすまいが、まだ心を許したわけでは無さそうだ。イモコは実直な同僚を愛でて笑った。
「争いさえしなければ、心ゆくまで語り合うが良かろうよ」
 チェルニーがケハヤに尋ねた。
「貴方はミコと一緒に行かないの?」
「わしか? わしはミコの護衛が役目だ」
「だから、ミコの側に控えてなくても良いの?」
「今、ここで一番得体の知れないのが、お前たちだ」
「だから、私たちを見張ってる方が効率が良い訳ね」
「ミコの命を狙う者が居るからな」
 ケハヤが意外な事を言った。
「まさか」
 アダムやヘレンは信じることが出来ない。人々がミコに接する様子から敬愛を集めていることは疑いがない。暗殺などと言うのは、任務に忠実な余り抱いた妄想ではないかと思えるのである。しかし、アダムが断言するように人物名を挙げた。
「オーミ。ソガノウマコ?」
 返答を求めて、皆の視線がケハヤに集まったが、彼は口ごもるのみで答えない。具体的に答えるには恐れ多いのだろう。
「サミュールたちが言ってた。モノノベとソガが権力争いをしてソガが勝利を収めたと」
「それで?」
「権力争いに勝利したウマコが王にならずに、女王スイコがその後で擁立されということはソガの権力が背後にあるだろ?」
「血縁関係を利用して女王を操るつもりだったという事ね」
「その女王スイコがミコを政治を任せているとするなら、スイコはソガの威勢を嫌って独自の政治をしようと言うことだ。ソガの影響力はミコによって削がれている。つまり、ソガ族の族長ウマコにとって、ミコは排除したい相手なのさ」
「表だって攻め滅ぼす訳にも行かず、影で殺害するしかないと言うことか」
「なるほど」
「そのとおりなの?」
 尋ねるチェルニーにケハヤは、この男の忠義心が苦虫を噛みつぶしたようなしかめっ面をさせて答えを物語っていた。チェルニーは質問を変えた。
「私たちは、セヤクインやヒデンインを回るけど、ついてくる?」
「当然のこと。危険な輩を野放しにしてなるものか」
 チェルニーが笑いながらヨゼフに囁いた
「危険人物? ヘレンだけにしておいて欲しいわね」
 その危険人物は、腰に太刀を下げながら、ぽんぽんと太刀を叩いて挑発した。
「私に勝てたら、いつでも返してあげるわよ」
「わしはまだお前の魔術の秘密が分からん。しかし、力ではお前なぞに負けてはおらんぞ」
「あらっ、力任せだから勝てないのよ」

 はからずも、彼らはミコと面会するという最初の目的を達していた。この後、チェルニーはセヤクイン、ヨゼフはヒデンインの手伝いという役割があるのだが、アダムとヘレンにはそれがなかった。
「このあとどうする?」
「無駄に歩き回っていても仕方がないね。考えをまとめながら、ヨゼフの手伝いでもするさ」
「せっかくだから、後ろのお兄さんにいろいろ聞いてみるのはどうかしら」
 そう言って背後を振り返ったヘレンに、ケハヤは不機嫌に断言した。
「お前に話して聞かせることなど、な・に・も、ない!」
 私は嫌われているらしいと肩をすくめて苦笑いするヘレンに代わってアダムが問いかけた。
「ケハヤさん。あなたはずっとミコに仕えてるんですか?」
「そうだ」
 ケハヤの返事は不機嫌に短い。両側に広がる薬草園を抜けて歩くと、はしゃぐ子どもたちの姿が見えた。その子どもを眺めるこの忠実な武人の目に和らいだ光がある。この施設にいるのは、親を失った子供たちだと言うが、寂しさを感じさせない。薬草園で薬草の乾燥や運搬などの雑事をしていた男女は幼く、子どもと言っても良かった。ヒデンインの小屋の周りにも数人の子どもたちが居り、赤子を背負って子守をしていた。歳を経るに従って、ここでいろいろな役割を与えられ、仕事を果たしているに違いなかった。
「よぜふ」
 やって来た人影を見た子どもの一人が嬉しそうに叫んだかと思うと、アダムたちはヨゼフを中心にわらわらと寄ってきた子どもたちの輪の中に閉じこめられた。
「ヨゼフ。すっかり、人気者ね」
 子どもたちはヨゼフに手品をねだり、ヨゼフは一つ覚えのコインを消す手品をやって見せた。その輪の外に一人の子守の少女が居た。首を傾けたり、背伸びをしたり、彼女の視界を遮る子どもたちを避けて、目を輝かせてヨゼフの手つきを追う様子は子どもだが、赤ちゃんを大切に抱く腕には母親のような優しさを感じさせた。他の子どもたちのように輪に入っていかないのは、胸に抱いた赤ちゃんが、はしゃぎ回る子どもたちの間でもみくちゃにならないようにとの配慮らしい。その優しさをケハヤはぽつりと表現した。
「不思議だ。本当の母親のような目をしている」
 もちろん、母親であるはずはなく、血のつながりがあるかどうかさえ分からない。しかし、少女の持つ包容力は母親のように美しいのである。ケハヤは少女を赤ちゃんごと抱き上げて、他の子どもたちの頭越しにヨゼフの手品を見せてやった。
「もし、僕たちがここで何かを成し遂げるとすれば、この子どもたちのためになる事であって欲しいね」
 アダムがそう言い、傍らのケハヤも頷いた。
「それにしても、見た目に寄らず優しいのね」
 そのヘレンの言葉に反論もせず、ケハヤは言った。
「俺はこの子たちと同じだった」
 言葉の意味は計りかねたが、言葉と共に伝わってきた寂しさで、父親や母親が居なかったという意味がくみ取れた。
「ひょっとして、貴方はこのヒデンインの出身なのか」
「いいや、しかし、十数年前、戦に巻き込まれて、父や母が亡くなった。一人で彷徨っていた俺を見つけたミコが拾ってくれた」
「そうだったの」
「北にある砦にも兵士が大勢いたが」
「港を守備するヒコネ様の兵のことか。あれは、俺のような護衛じゃない。戦で戦う兵士たちだ。十三年前の戦で戦った勇者のヒコネ様が指揮を執っている」
「ヒコネ、砦の指揮官」
 アダムは新たな情報を手帳に書き込んだ。
「ヒコネというのは、どんな人物ですか」
「オーミに忠義を尽くし信任も厚い。戦では弟君とご子息を亡くされて、ユダヤ人どもをひどく憎んでおられる」
「あそこに砦を築けと命じたのはオーミなの?」
「一年前、オーミは我が国にとって重要なナヌワの港を守る三百の兵士が必要だと上奏されただけだ」
 ケハヤの言葉からアダムが結果を導いた。
「それで、上奏が受け入れられて、砦が作られたんだ」
「でも、港を守るにしては、砦はずいぶん北東にあるのね」
 ヘレンはケハヤの表情を観察しつつ言葉を継いだ。
「ミコが争いを避けるためにユダヤ人たちを移住させたのよね。そのユダヤ人たちに睨みをきかせるみたいね」
「難しい事は、オーミやヒコネ様に聞け。俺には分からん」
「オーミ、派兵を上奏。港北東部に砦建設、一年前」
 アダムはそう呟きながら情報を書き留めた。ケハヤは首を傾げアダムの行為に興味を示した。
「何だ、それは」
 アダムはユダヤ人集落と同様、ここでも手帳とボールペンの説明をせざるを得ない。
「文字か、俺には読めん」
 ケハヤは手帳の中身を見て急に興味を失ったようだが、子どもたちの好奇心は薄れない。
「もっと、もっと」
 子どもたちはアダムに他にも何かを書いてくれと要求するのである。アダムは戸惑いつつ子どもが喜びそうな鳥や花の絵を描いて見せた。子どもたちに溶け込んで共に遊ぶヨゼフ、戸惑いつつ生真面目に子どもたちの相手をするアダム、そんな異人の姿にケハヤは警戒を解いた。既に日は傾きかけて、人々を赤く染めて、長い影を作り、もう帰る時間だと教えた。
「ケハヤ。今日は楽しかったわ」
 ヘレンが笑顔でそう言って、握手の手を差し伸べた。戸惑うケハヤに、ヘレンはその意味を教えた。
「私たちの挨拶では、手を握り合うのよ」
「そうか」
 ヘレンはケハヤが差し出す右手の親指を握って、くぃっと捻り上げて、そのままケハヤの腕を獲って背に回した。背後から腕を固められてケハヤは身動きが取れない。
「ほらっ、また私の勝ち。油断しちゃダメね」
 ケハヤの耳元で、ヘレンは笑顔でそう囁いた。ケハヤは怒りを露わにして言った。
「ヨゼフ、アダム、チェルニー。やはり、この女だけは信用ならぬ」
 こういう言葉をヘレン以外に向けた辺り、ケハヤはどうやら、三人に対しては警戒感を解いたらしい。しかし、ヘレンに対して心を許すのはまだ先だろう。
(それにしても)
 アダムは心の中に呟いた。湖の向こうのユダヤの子どもたち、湖のこちらの子どもたち、その二つの姿が、何故かワクウに象徴されるような気がしたのである。

 


 次の日の朝。暗いうちから降り始めた小雨は、夜明けを迎えても止まず、村の人々はこれから迎える雨期の前触れではないかと笑顔で噂し合っていた。アダムたちにとっては行動を制限する嫌な雨だが、村人たちは空を見上げて手を合わせ、何かを祈る姿もある。
 考えてみれば、植物の生育に必要な水をもたらしてくれる自然現象で、今年の豊作を願っているのかも知れない。雨や風など自然現象に畏敬の念を持ち、生活に同化させている人々なのである。ヘレンはこの雨に文句を言うのを止めた。しかし、太陽が昇りきるのを待たず、村人たちの期待もむなしく雨雲は吹き払われて、透き通る青空から、肌が痛いほどの直射日光が射した。雨は乾ききってひび割れた大地の表面を僅かに湿らせただけである。
 雨上がりの戸口の辺りで、賑やかにはしゃぐ声がする。村の子どもたちがヨゼフに群がって遊びを求めているからである。
「保育園でも開くつもりか」
 アダムがそう言ったのはヨゼフが戸口に保育園の看板でも掲げるのではないかと思ったからである。
「ヒデンインの子どもたちが寂しがっているような気がするよ。これが父親の気分なのかな」
「父親と子どもか」
 アダムはヨゼフが発した言葉の中から気になる言葉を繰り返し、考えを披露した。
「ひょっとしたら、あの時のサミュールは、別れ別れになった妻と、まだ抱いた事のない息子に会いに来てたんじゃないか?」
「ユダヤ人の集落に行った時にね。あのサミュールが桜の樹に話しかけるみたいな様子をしていたわ」
「ヘレン。君も気づいてたのか」
「マリアと桜餅、ノユリさんとノユリさんが舞った桜の樹。あの脳天気な人物像が桜と切り離せないわ」
 ヘレンがそう言って笑った。ただ、この世界で、質朴な青年サミュールが、桜を撫でる時の様子は、女性に接するようだった。桜に相当する女性が居るとすれば、ノユリのイメージが当てはまる。チェルニーが頷いた。
「事情は飲み込めてきたわ。ノユリさんとサミュールさんはワクウちゃんが生まれる前に別れ別れになっちゃったという事ね」
 ヘレンが言葉を継ぐようにその後を語った。
「ノユリの村の人もサミュールの村の人も、互いに争った経緯があって、相手のことを口に出しにくいのね」
「でも、そのサミュールという男はワクウちゃんが生まれたことを知っているのかな」
「きっと、知っているわ」
「どうしてそんなことが」
「アダム。サミュールが私たちを送り返してくれたときに言ってたことを覚えてる?」
「父親になったら、子どもに何をしてやりたいかと」
「それよ」
「父親になったらという仮定は、彼が父親としての経験を持っていないと言うこと」
「子どもに何をしてやりたいかとは、子どもが出来たことを知ったと言うことか」
「その通りね」
 幼い頃にこの村で過ごしたサミュールが、ノユリと出合って、やがて結ばれたというイメージである。この村の村長の娘として、村の女性を代表して桜の神木の前で舞を奉納し、その姿はサミュールも毎年目にしていただろう。子どもを授かった。そんな知らせを耳にする前に、二人は引き離されてしまったのだろう。二人を引き離してしまったモノノベとソガの内戦がむなしく思われた。
「気になるのは南の砦ね。あそこに居るのは過去にユダヤ人と戦ったソガの兵士たちで、今でも憎しみを忘れては居ないよう」
「ミコが戦いを許すはずはないでしょ」
 そんなチェルニーの言葉にアダムが答えた。
「僕たちがこの世界に来た時にケハヤたちとトラブルを起こしたろ。都にいて遠く離れていたはずのミコも知っていた。この国では情報が素早く伝達されている。ただ、僕らの存在を知っていてもおかしくない砦の兵士たちは、僕らを探索する様子はなかった」
「どういうこと?」
「たぶん、指揮系統が違うんだ。ケハヤはミコのボディガードみたいなもので、ミコの指示で直接動く。でも、兵士たちは……」
「兵士はオーミが動かしているというのね」
 ヘレンが口を挟んだ。
「それにね。砦の位置がヘンなのよ。港を守ると言いながら、港からずいぶん北に離れた高台にあるでしょ」
「対岸のユダヤ人たちを威圧するみたいに?」
「双方にまだ憎しみが消えていないという話だったね」
 話の結論は出ないまま、続く沈黙で議論は終わった。周囲を見回すと、昼を待つまでもなく、草木に残った雨露も乾きかけていた。チェルニーは心地よさそうに伸びをした。
「晴れたわね」
 ヘレンは一人考え込む様子のアダムに声をかけた。
「何か気になる事でも?」
「あの人たちをよく見てみろよ、服装は違っても顔立ちは日本人とそっくりだろう」
「それが?」
「僕の想像だけれど、ここは遙か古代の日本じゃないかと思っただけさ」
 ヘレンが尋ねた。
「以前、ユダヤ人集落であなたが言った、古代の日本にユダヤの失われた支族がやって来たというのは?」
「その辺りはよく分からないんだが、妙に日本との関わりが気になるんだ」
「でも、人の名前や地名、聞いた事がないものばかりよ」
「そう。ミコやイモコも、大阪や日本を知らなかったわ」
「僕らが知っている古代の日本って、せいぜい、サムライの時代だろう」
「それよりずっと以前、日本が国としてまとまり始める頃?」
「地名、ヒデンイン……。思い出したわ」
 チェルニーの記憶の中で、ヒデンインという言葉が、彼女たちが元居た大阪と繋がったのである。彼女は医療関係者として、六世紀の日本に公立病院があった事を知っていた。そして、その病院と併せて、ヒデンインと呼ばれる施設があり、その名は現代の大阪の一角に町の名として残っているということも。
「あの日、私たちが行くつもりだった動物園の東に、悲田院町って場所があるの。昔、四天王寺の一角にあった施設の名残だって」
「では、あの寺院が四天王寺だって言うのかい?」
「その四天王寺に、施薬院という病院ができたのが六世紀終わりの頃。ヒデンインができたのも同じ頃だと思うわ」
「でも、ノユリさんたちは、あの寺院を四天王寺じゃなくて、アラハカの寺と呼んでいるよ。別の場所かもしれないよ」
「その辺りは良くわからないけれど、類似点があるのは事実なの」
 彼女たちの日本史の知識は断片的で、パズルのピースが組み上がることはなかった。ただヨゼフがぽつりと結論のように言った。
「でも、チェルニーが言うとおり考えれば、未発達の文化や、未成熟な国家体制についても説明がつくんじゃないかな」
「古代の日本ってこんなところだったのかな」
「日本って、こんな風に始まったのね。いろいろな人たちがいて、憎しみや喜びの中でもがきながら生きて」
「でも、世界のどこでも同じような人たちが居て、日本人も私たちと同じだったということ」
 チェルニーは落ち着きのあるため息と共に自然な判断を口にし、それに反駁する者は無かった。この世界に来て以来、ここが現代の日本どころか、現代に当たる地球上のどの地域でもないという否定的な認識を深めていたのである。しかし、何処なのかという疑問について、遙か過去ではないかと思いつつ、突飛な想像を口に出せないでいた。
「でも、それなら、時間旅行の知識のない俺たちは自力で帰る方法がないと言う事さ」
 ヨゼフはため息と共に、傍らではしゃぐ村の子どもの頭を撫でた。
「まぁ、いいお日様」
 村長の小屋から姿を見せたノユリが笑顔で姿を見せ、束ねたムシロを開いて、棚に敷き始めた。ワクウが小さな籠に薬草を入れて運んできてムシロに並べ始めた。薬草を乾かす母親の手伝いをしているのである。雨を察知した彼女は干していた薬草を家の中に取り込んでいたのである。
「雨が降ると大変ですね」
 チェルニーが薬草詰みの仕事に同情すると、ノユリは笑顔で反論した。
「でも、雨が降らないのも、大変なんです。雨の季節が遅れると村の者は田植えの時期や稲の育ち具合を心配します」
 なるほど、とアダムたちは納得した。雨が降っても降らなくても天候に左右されるのは同じ事で、自然をありのまま受け入れて生活する人々なのだろう。ふと、アダムはこの世界に来た夜に、ノユリが舞を舞う姿を思い出した、時の象徴たる桜の樹の前で、今年の豊穣を祈りつつ舞っていた姿である。彼女のイメージが桜の樹と重なり、サミュールが桜に語りかけていた姿が思い起こされた。
(彼は何を語っていたんだろう)
 そう考えたアダムだが、答えは出なかった。答えを知っているかも知れないノユリには、アダムも他の仲間も、誰もサミュールとの関係を問い詰める事はなかった。
「みなさん、ミコとお会いになったのですね。村人たちが噂しておりますよ」
 ノユリは薬草を大切に並べながら、世間話でもしているように言葉を続けた。
「ミコの御前で、落馬したケハヤ様を救ったとか」
「ノユリさん。ミコをご存じですか」
「ええ、この村にも時々、お見えになりますよ」
「ワクウ」
 ワクウが自分を指さして自分の名を主張した。
「そうそう、この子の名もミコに付けていただいたんですよ」
「ワクウ、どういう意味ですか?」
 そのアダムの問いに、ノユリが返事を返す余裕が無かった。日本には『噂をすれば影がさす』と言う諺がある。アダムが唐突にそんな諺を思い出したのは、子どもたちが笑顔でミコの名を叫ぶ、その視線の先に、一人の男の姿を見つけたからである。
 暖かな日差しを楽しむように浴びながら、ゆるゆると馬を操る人物は、昨日出合ったミコに間違いがない。見れば、傍らにイモコとケハヤが控えていた。ミコがアダムたちに気づいて片手を上げて挨拶をし馬を下りた。ノユリの父親がミコの名を聞きつけてあわてて飛び出して来た。村人たちもそろって家の中から出てきて、道の脇に伏せて迎えた。
 アダムたちにとって、初対面の時のミコがあまりに気さくであったため、この突然の光景は意外だったが、納得もさせられる。ミコはこの国の権力者で、村人たちとは身分が天と地ほど違うのである。ただ、村人たちが顔を伏せて土下座をしている姿には、目の前の権力者に対する恐れより敬愛を感じさせる。
 そして、ノユリとワクウが村長に促されて伏せたのは、セヤクインに薬草を納めにゆく二人は、素のままのミコと接して、村人に土下座を求める人物では無いと言うことを知っていたのだろう。
 村長は土下座のまま、伏せていた顔を上げて尋ねた。
「本日は何用ですか」
 ミコ主従は馬を下り、気さくに村長に歩み寄って、立つように促した。
「いや、突然の訪問で驚かせてしまったようだ。都に帰る道すがら、客人に贈り物を持参したのだ」
 ミコは都に帰る道すがらと表現したが、この村はアラハカの町の北にあって、東方の都に帰るには、やや遠回りになるはずだ。ミコの傍らにいたイモコが、アダムたちが逗留する小屋を確認すると、てきぱきと従者に命じて荷車の荷を降ろさせた。
「ミコ、これは?」
 ヘレンの質問にイモコが笑って答えた。
「米と麦、それから干し芋に干し魚です。塩と味噌が少々。不足があれば、改めて用立てますので、遠慮なく申しでてください」
 ミコは再び馬にまたがりながら笑った。
「そなたたちに食料を渡しておかぬと、兵士の剣が何本あっても足りぬと、ケハヤが申すのでな」
 ヘレンは赤面した。食糧が不足すれば、ヘレンが兵士から太刀を奪って食料に換えると言う事である。ミコの傍らのケハヤが、反論できまいと、歯を見せて笑っていた。
「ちっ」
 内心を見透かされ、その手段を封じられたヘレンは舌打ちをしたが、尊敬しあえるライバルに先手を打たれたときのような心地よい悔しさである。アダムたちにとって、この申し入れはありがたく受け取って良いだろう。
「お気遣い、ありがとうございます」
「また、ゆっくりと話をする機会が欲しいものだ」

 僅かな再会だったが、穏やかで細やかな心遣いが感じられ、アダムたちは遠ざかって行くミコ主従の後ろ姿に頭を下げた。考えてみれば、ミコはこのワの国の指導者の地位にあるわけで、混乱する政治の中枢で目が回るほど忙しいはずだ、この場にゆっくりととどまる暇などないのである。
「良かったじゃないか、ヘレン」
 首を傾げるヘレンにアダムが言った。
「君が兵士から剣を奪った事は、不問に付すという事だ」
「しかし、俺たちはこうやってこの国に深入りしていくんだな」
 ヨゼフの言葉に他の仲間も考え込んだ。朝、彼らが話しながら結論を避けた話題である。
「僕たちは、どこまでこの世界に介入して良いんだろう」
 悪事を見逃したり荷担する気はないが、宗教や政治や歴史が絡んで対立を深める人々の間に割り込んで、アダムたちの正義の基準を振り回して良いのかという事である。ワクウがアダムたちの判断を伺うかのように寄り添って、彼らの顔を黙って見上げていた。
「ワクウちゃん。ミコはどんな意図があってあなたをそう名付けたのかしらね」
 チェルニーはワクウにそう語りかけたが、もちろんワクウが物心つかない頃の出来事で、この子はその訳など知るまい。そのワクウの素直な笑顔に誘われて、ヘレンはノユリに唐突な質問をした。
「ノユリさん。ひょっとしたら、この子の父親はサミュールという男じゃない?」
 ノユリはその名にぴくりと反応して、手にしていた薬草をぽとりと落とした。彼女は大きな目を見開いてヘレンの目を眺めたが、質問には答えず口をつぐんだ。ヘレンは答えを確信し、更に質問を重ねた。
「もう愛してはいないということ? それとも、別の理由でも?」
「いいえ」
 そう言ったきりノユリはいつもの微笑を消し、寂しげに顔を伏せて口を閉ざした。チェルニーは眉を顰め、肘で密かにヘレンの脇を突いた。彼女が触れてはいけない他人のプライベートに踏み込んでいると注意しているのである。
「なぜ、人を愛してはいけないの?」
 アダムは立ち去っていくノユリ親子を見送りながらヘレンが漏らす言葉を聞いた。ノユリの背が儚く見える。


 この地は日常生活を取り戻した。ミコが都への帰途について既に二日になる。ミコが姿を消すと、この町の雰囲気には目に見えて明るさが失せた。ミコという人物の大きさや、人々がミコに寄せる信頼や敬愛がうかがい知れた。
 この日、普段通り薬草の薬効を学び、患者たちに与えているチェルニーは、女官たちの密かな注目を浴びているのに気づいていた。この世界の人々は慎み深いのか、それとも、冗談を平然と受け入れる人々なのかどちらだろう。彼女は自分の髪型について、女官たちから批判や侮蔑の言葉は聞いていない。
 アダムはそんな人々を観察しながら、チェルニーに声をかけた。
「チェルニー、その髪型は……」
 チェルニーは彼女の長い髪を耳元で束ねてミズラに結っているのである。ミコの髪型を真似ているに違いなかった。
「どんな髪型も君の自由だが、たぶん、それはこの国の男性の髪型だぜ」
「えぇ」
 彼女は少し考えて髪を解きながら、アダムとヨゼフを眺めて言った。
「それにしても」
 思わせぶりに呟くチェルニーに、アダムとヨゼフはも顔を見合わせてチェルニーを眺めた。彼女は二人をまじまじと眺めて言葉を継いだ。
「歳は同じぐらいでも、気品や人望があって」
 チェルニーの言いかけた言葉に、アダムとヨゼフは自分たちがミコと比べられている事を察した。チェルニーは結論を下した。
「なにより、ほれぼれするほどイケメンだったわ」
 ヘレンが笑って聞いた。
「惚れたの?」
 チェルニーは頬を赤らめて恥じらいの表情を見せたのみで答えない。ヘレンが更に尋ねた。
「でも、あの人が独身だという保証は?」
「大変だわ! それを聞き忘れたわ」
「ダメね。ちゃんと見てなかったの。彼、結婚指輪をしていたわよ」
「えぇぇぇ」
 冗談に決まっている。この世界の人々に、アダムらの習慣が通用するわけではない。
 そのアダムたちの笑い声が途絶えた。足から体にゆらりと震える伝わり、次の瞬間、棚が倒れ、立っていられず、床に膝をつくほどの揺れに見舞われた。
「地震だ」
 人々の悲鳴が飛び交った。人知を越えた天変地異を素直に畏怖する恐怖の叫びである。
「落ち着いて、家の中にいて」
 幸い、倒れた棚の薬草が散乱したのみで、家屋に大きな被害はなく患者たちも無事だった。
「怪我は無い? 揺れは収まったから安心なさい」
 チェルニーは患者たちにそう声をかけた。確かに、揺れは収まったが、人々の悲鳴や不安な表情は消えていない。
「ボクはヒデンインの子どもたちの様子を見てくる」
 ヨゼフはそう言い置いて小屋を飛び出していった。
「私は寺の周囲の様子を見回ってくるわ」
 ヘレンもまた姿を消した。その後、二度の余震があり、じっとしていなければ分からないほどの軽微な余震で締めくくられた。戻ってきたヘレンとヨゼフも胸をなで下ろすような笑みを浮かべていた。この辺りはたいした被害はなく終わったように見えた。
「このまま、何事もなく終わってくれたらいいけれど」

 ただ、収まるかと思われた地震騒動が、意外に長引いた。アダムたちにとって地震というのは地質学的な現象であって、余震も感じなくなると平穏を取り戻す。しかし、この世界の人々は妙に迷信深く、不可思議な出来事としてとらえているらしい。不可思議なことの原因が分からないうちは不安が収まらないのだろう。
「これも雨の季節が遅れている事と関係があるのでしょうか、凶事は続くと言いますから、これで終わると良いんですが」
 ヲグツが不安げにそう言った。ヘレンが人々の勇気を奮い起こすように言った。
「でも、散らかった部屋の片付けさえ済めば、すべて元通りよ」
「お強い人たちですね」
「僕たちも片付けを手伝いましょう」
 アダムの提案に、感謝しつつもヲグツは言った。
「でも、ここの片付けは私たちがやります。ノユリたちの村も心配です、早めに戻ってあげてください」
 ヲグツの提案にチェルニーたちは異存はなかった。

 もともと、周囲に配慮して遠慮して、本心を隠して笑顔を浮かべているような人々である。後片付けに夢中になっている様子で、それ以上の混乱はないようだが、後片付けに専念する事で、心の奥底にたまった不安を振り払っているようにも見えた。
 不安を抱えたまま夜を迎えた。空には消え入りそうな円弧だけの月が浮かんでいたが、あと数日でその月も消え、星以外に光のない夜を迎える事になる。
 村人は同じ時間に食事をし、努めて不安は口にせず、同じ時間に就寝するという日常を装う夜を過ごした。この点ではアダムたちも変わりがない、アダムたちは地震そのものに加えて、地震が人々にもたらす、予想できない意識の変化への不安を抱えていた。

 そういうタイミングで、この地域は流民を受け入れた。都で被災した人々が食料や住居を求めて、都から二日の距離にあるこの町にたどり着き始めたのである。都は震源地に近かったらしく、数多くの家屋が倒れるほどの被害を受けたらしい。そんな断片的情報が小さな不安を伴いながら積み重なって渦巻いた。
 寺の炊き出しに避難民の行列が出来た。僧侶たちによって門前に備え付けた大鍋で炊いた粥が振る舞われたのだが、多数の難民のため、数日で寺の備蓄米が尽きた。寺の管理下にあるセヤクインやヒデンインでも食糧が不足し、町の北の倉庫に保管されていた穀物が兵士たちによって運ばれて、荒々しい雰囲気が広がった。
「この地震も、湖の向こうのユダヤ人の呪術のせいだと言うぞ」
「そうだ。奴らは俺たちを呪い殺す気だ」
「この先、奴らのせいでまだまだ悪い事が起きるだろう。今度は疫病に違いない」
 兵士は口々にこんな事を言いふらし、それを聞く民衆らも同調する者が居る。
「いや、長く続く日照りも奴らのせいだ。このままでは雨も降らず稲も枯れてしまうだろう」
 アダムたちはそんな様子をセヤクインの中から見守っていた。
「ばかげた事を」
 普通なら一笑に付すべき所だが、兵士たちの中には十三年前の戦の憎しみが強く残っていて消えそうにない。ぶすぶすとくすぶる火種が消えそうに見えながら、気づいてみると灰の中で火勢を増しているように、憎しみが悪い想像を煽り広がっているのである。
 チェルニーが解決策の一つであるかのように言った。
「私たちも、都に行ってみた方が良いんじゃない?」
 大きな被害を被ったという都の様子を確認したいのと同時に、ミコに救いを求めたいと思ったのかも知れない。普段は言葉の短いヨゼフが、自分の考えをまとめるように言った。
「いや、ミコやイモコも地震の後処理で忙しいはずだよ。大勢の怪我人や病人がでているわけではないから、俺たちが行っても邪魔になるだけさ。俺たちはここで避難民の人たちの世話をしようよ」
「でも、気にかかるわね。ミコは大丈夫かしら」
「便りがないのが元気な証拠だよ」
 アダムたちは祈りを込めて頷きあった。
「この異様な雰囲気が、早く収まってくれたらいいのに」
 何度繰り返したか分からない願いを呟いたチェルニーだが、以前、ミコが口にした言葉を覚えていた。
『ただ、人々の憎しみは容易には消えぬ。モノノベモリヤに加勢したユダヤ人に親や兄弟を殺された者も多い』
(不安が恨みや憎しみに転化しないように気をつけなくては)
 アダムたちに共通する思いだが、考えれば考えるほど心が重く、身にまとわりつくような憎しみに憑依されそうになる。表情は互いに暗くなり、口数も減るような気がした。この時、くいっ、くいっとアダムの上着の裾を引く者がいた。
「一緒に、帰えろ」
「ワクウちゃん」
 アダムは声をかけてきた男の子の名を呼んで思わず微笑んだ。視線を転じてみると、空の籠を手にしたノユリがおり、いつものようにワクウを伴って薬草を納めに来たのだと分かった。陽は傾いていて、確かに、チェルニーたちも村に帰る時間である。ノユリが自然体で浮かべる包容力のある笑顔と、ワクウの無邪気な笑顔、二つの笑顔がアダムたちの心を解きほぐすようだった。チェルニーが二人の笑顔が教えてくれた事を確認するように言葉にした。
「そうね。笑顔を失っちゃダメなのね。私たちも笑顔で人々に接しましょう」
 村に帰る道すがら、街道沿いの市の様子を眺めていると、避難民の流入は日を追う毎に目立って減少しているようだった。都の再建が順調に進んで被災者の住居が確保されているという事に違いなかった。ただ、回復するかと思われた人々の心の混乱は悪化している。限られた宿泊施設を巡って争いが起き、施設をはみ出した物乞いが増え、盗みが横行して治安が悪化した。あれほど落ち着きと笑顔があった町だと思えないほど、怒号が飛び交っていた。
 からりと晴れ上がっていて、空に雨の季節の気配がない。アダムの手帳によれば、地震の日から数えて間もなく十六日になる。満月になりそうな月が夜空を明るく照らしていた。人々の中には稲の生育と秋の実りを心配する声が高まっていた。
 地震と、遅れている雨期が、人々の心に作用して不安をあおっていた。既に村の男たちの手によって田起こしと代かきが済んでいて、川から導かれた水が張られた水田は、月と星が輝く夜空を背景に人の心の濁りを象徴するように渦巻く雲を映し出していた。

 


10

 湖面は朝日を照り返してまぶしい。サミュールは目を細めながら網を上げ、網の中の豊かな収穫を神に感謝した。網の中から魚を掴み出して籠に入れ、食用にならない海老は湖に投げ返した。母親のチュラーヤは息子の傍らで手際よく魚の腹をさばき、内蔵を取り除いて洗った。これから持ち帰って干物や塩漬けにする。
【サミュール。前から不思議だったんだけど、その腕の紐は?】
 ここの所、息子がずっと腕に紐を巻いている。その理由を問うたのである。肘の傷は癒えているが、何故かこの紐を捨てることができずに腕に巻いていた。湖の対岸で兵士に追われている時に知り合った幼児にもらったとは言えず、サミュールは答えをはぐらかした。
【綺麗だろう? ただの飾りだよ】
【そうかね、私は何かのお守りかと】
 サミュールは更に話題を逸らした。
【母さん、大漁だ】
 普段はそんな息子の言葉に大喜びする母親が、最近は不安を口にする。
【何か悪い予感がするの。私は不安でたまらない】
【地が揺れたのは、もう十日も以上も前のことだ。いい加減に忘れろよ】
 サミュールは母親の不安を笑い飛ばした。
 母と息子は籠を肩に担いで帰ろうとしたところで、連れだってやって来た村の若者とすれ違った。
【お前たち、何処へ行くつもりだ】
 サミュールが若者たちに短く問いかけた。問わずとも分かる。猟師の風体の男たちが、三人掛かりで猪の死体を運んでいるのである。鹿を獲るために仕掛けた罠だが、猪がかかることがある。信仰上、猪を食べない彼らにとって不要と言っていい獲物なのである。
 男たちの意図も知れた。湖の対岸の異人たちの市で、猪を麻布や薬草や塩と交換するのである。
【サミュール、お前などの知ったことか】
【異民族の市へ行くのなら、止めておけ】
【お前に指図されるいわれはない】
【ここ数日、向こう岸のかがり火が派手に炊きあげられていて騒がしい。兵士どもが物騒な雰囲気になっているようだ】
【余計なお世話だ】
【では、その腰の剣は隠して行け。戦いかと誤解を招く】
 生活の中に刃物が存在する。猟師ともなれば必需品である。ただ、若者たちの間に流行するかのように身につける刃物が大型化し、その刃物を誇示して自分の力強さの証明にするかのように腰に下げている。武器を身につけねば自らを誇れぬのか。サミュールが若者たちの所持する刃物を剣と称したのは、そんな皮肉である。
【臆病者め、ただのナイフが怖いのか】
 あざける口調を隠そうともせず若者たちはそう言い、親子に侮蔑の視線を注いだ。
【好きにしろ】
 おそらく、サミュールはこの村で一番鋭敏な感覚を持っていた。湖を隔てた向こう岸にいる兵士の憎悪を感じ取っているのである。ただ、村人たちはサミュールを無視し、サミュールもまた深く関わり合いになる気はなく、その場を後にした。
【大丈夫かねぇ】
 チュラーヤが心配そうに若者たちの背を見送った。
【ほっとけばいいさ】
 村への道を辿る母と子は足早にやってくる男の姿を見つけた。顔が明らかになる距離になる前に、その足を引きずる独特の歩き方で二人は男を判別した。十三年前の戦でサミュールの父とともに戦い、足に傷を負った男である。チュラーヤはぺこりと頭を下げて挨拶をしたが、男は傲慢な態度を隠しては居ない。名をデービットと言い、チュラーヤを部族の血を堕落させる異民族の女と蔑む人物の一人だった。
【息子たちを見なかったか?】
 デービッドが横柄な態度で尋ね、その態度に反感を滲ませつつサミュールが答えた。
【今頃は、湖の上だ】
【ここの所、向こう岸の兵どもが騒がしい。刺激せぬようにと言って置いたはずだが】
【あんたが手にしている弓のように、奴らは腰の剣を誇示していたぞ。危ない、危ない。近寄るだけで殺されるかと思った】
【お前は、引き留めなかったのか】
【知った事か】
 母と子はこの場を去った。デービットは黙って湖の向こう岸を眺め、地に唾を吐いてチュラーヤとサミュールの後ろ姿に視線を移して、侮蔑の言葉を吐き捨てた。
【所詮、魔女とその息子か】
 神の教えを受け入れない異端者を排除しなければならない。デービッドは熱心な信仰者にありがちな歪んだ憎しみを持っていた。



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