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第二章 1

「マリア、和ちゃん、エイモス」
 目前の異変に気づいたアダムは、姿を消した三人の名を呼んで、霧の中に手を伸ばしたが、触れるものはない。存在を求めて、更に霧の奥に踏み込んだ。
「マリア、和ちゃん、エイモス」
 繰り返すアダムの叫びが、三人を求める悲鳴のように霧の中に薄れて消えた。
「私たちも行きましょう」
 状況はつかめないものの、姿を消した者たちを救うのに迷いはなく、ヘレン、ヨゼフ、チェルニーもまた、突如出現した霧の中に踏み込んだ。
 濃い霧はアダムたちの視界を奪って、伸ばした腕の指先すらぼやけて見えない。仲間の名を呼ぶ声は、分厚い毛布にくるまれながら大声を上げるように遮られ、霧に溶けてしまうように声は薄れて、仲間の声も耳に届かない。霧は視界を奪うのみではなく、様々な感情が織りなされて彼らを包み、心を乱した。記憶が遡るように蘇り、物心つく前の幼い記憶は、父や祖父や曾祖父を経て、遙か昔の祖先の記憶に行き着くかのようにも思われた。
 視界を奪われた空間で、上下の感覚すら失って、足下に不安を感じたヨゼフは、片膝を地に付けて平衡感覚を保とうと手探りした。何か、暖かく柔らかく、指先に触れるものがある。
「きゃあ!」
 聞こえた悲鳴は、チェルニーの声である。
(と、すれば、この柔らかな感触は)
 ヨゼフがそう考える間もなく、尻を撫でられて怒りの表情を浮かべるチェルニーの平手打ちが、ヨゼフの頬を襲った。もう一つ、響く声がある。
「この変態っ!」
「ぎゃっ」
 ヘレンの怒りの声の直後、蹴り倒される人体の音と共に、アダムの苦痛の声が響いた。霧の中で手探りをしていたら、何か触れるものがあった。指先を動かして感触を探っていたら、ヘレンの胸だったらしい。
 互いの声が聞こえ始めたという事実で、彼らは濃く覆われていた霧が晴れ始めたのに気づいた。表情までは見えないが、シルエットがぼんやりと見え、声と重ねて人物が明らかになる。アダムは蹴られた左の脇腹を押さえて呼吸を整えながら言った。
「普通、正体不明の人間を、いきなり蹴りつけるかぁ?」
「普通、前戯も無しで、いきなり女の胸を揉む男も居ないわよ」
 そんな会話をする二人の影に、チェルニーとヨゼフが接近した。既に、霧は薄れて互いの表情が見える。アダムが上半身を起こしてみると、蹴り倒されたときに押し倒した背丈の高い植物の間から水がにじみ出したため、彼は慌てて立ち上がった。先ほど地に膝をついていたヨゼフの片膝と手が泥にまみれていた。
(いつの間に、こんな所に)
 彼らの周囲の景色が一変していた。腰の高さほどの草原は周囲の雑木林に日が遮られていて薄暗く、太陽の光を浴びることのない地面はじっとりと濡れていた。葦が群生する湿地帯である。
「ここは?」
 チェルニーが驚きの声を漏らした以外、他の三人は周囲の景色に息をのんで黙りこくっていた。仲間を見回して尋ねるチェルニーの質問に、答えることが出来る者が居ない。理由が分からないまま、住宅地の中の神社という景色は一転したのである。
「他の三人は?」
 そう問うアダムも、仲間の答えを期待しては居ない。どうしてこんなところにいるのかという疑問と同様に、マリアと和ちゃんとエイモス、その三人が何処に姿を消したのかという疑問にも手がかりはない。三人の姿を探して彷徨って、通りかかった松林の疎らに茂る葉の間から地に光が射していた。もちろん、姿を消した三人の姿を見つけることは出来ないままだ。
「貴方は、私たちをどこに案内してきたの?」
 チェルニーはそう聞いたが、道案内をしていたアダムにも、想定外の光景に違いない。
「状況を整理してみましょうよ」
 ヘレンの提案に、アダムは頷いて記憶を辿り始めた。
「電気街から迷いながら北東に歩いていて、鳥居をくぐった後、霧が出てきたんだ」
「その前に、門がどうこうの言ってなかったかい」
 ヨゼフがアダムの記憶を補い、チェルニーが頷いた。
「ええ、エイモスも、門が、境界がって呟いてたわ」
「あの霧と何か関係があるのかな」
「電話で何か分からないかしら」
 チェルニーがポケットから携帯電話を取り出す様子に注目が集まったが、彼女は直ぐに肩をすくめた。
「ダメね、圏外」
「僕のもだ」
 アダムは妙な予感がして携帯の電源を切った。何故か、ここに長居をする予感がして、バッテリーは温存しておいた方が良いだろうと考えたのである。ヘレンは腕時計を眺めた。午後一時を回っているが、果たしてこの世界の時かどうかは分からない。この時にアダムたちの耳に聞き慣れない音が勢いよく近づいてきた。
「理由は不明。でも、ここは私たちが居た大阪では無さそうね」
「何故、そうわかるんだい?」
「あの音よ」
 ヘレンは馬の蹄の音だと判別したのである。自動車のエンジン音や警笛ならともかく、馬の蹄の音など、大阪の町中に響く音ではないだろう。ヘレンが警戒感を露わに指示した。
「隠れて!」
 チェルニーが疑問を呈した。
「どうして? 救助の人たちかも」
「騎兵隊が都合良く現れるとは限らないわ」
 背の高い草木が生い茂る草むらにしゃがんで姿を隠し、目の前の草を少しかき分けて見ると、草原がとぎれる土の地面に、乗馬の男が率いるらしい男たちが姿をみせた。見慣れない衣装である。衣服を染めると言うことを知らぬような白い麻のごわごわした袖口や裾の広い衣類、腰に下げているのは剣だろう。背負っている筒口から見えているのは矢に違いない。長い髪を左右で束ねて耳の横で結っている。見慣れない衣装と髪型だが、身につけている武器を見れば、平和的な人物ではないだろう。荒々しい雰囲気と不審者を捜し求める気配が感じられた。何故か、高所から不審者を見つけて眺めていたというイメージが伝わってきた。彼らの背後を眺めると高所になっている。あの上の雑木林の切れ目から、視界の利かない湿地帯を彷徨うヘレンたちを眺めていたのだろう。
 指揮官らしい男が馬上で剣を抜き、草むらを切り払って、歩行立ちの三人の部下に命じた。
「探せ!」
 その男の声には、この草むらに必ず探し求める不審者が居るという確信と、不審者の身元を糺すという役職上の責任感がこもっていた。そして、その短い命令の意図を正しく理解して草むらに広がって探索を始める部下の様子を見ればよほど訓練が行き届いている。
「出ましょう」
 そう提案するヘレンにチェルニーは疑問を呈した。
「どうして?」
「隠れても無駄よ」
「なるほど」
 長身のヨゼフが見回したところ、生い茂る植物は密だが、その丈は彼らを隠すほどではなく、身をかがめていても、この草むらはアダムたち四人を隠しきるには狭すぎるだろう。隠れていて発見されるより、堂々と姿を見せる方が、敵意がない事を示せるに違いない。ヘレンは立ち上がって男たちの前に身を晒した。草むらを吹き渡る風が彼女の金髪を靡かせて、木漏れ日を反射させた。
「ケハヤ様。あそこに」
「なるほど、異形の者どもよな」
 男たちの声は大きく、ヘレンたちにまで伝わってくる。ヘレンは聞き慣れない言い回しをアダムに尋ねた。
「なんて言ってるの?」
「僕らのこと、へんてこな連中だって言ってるんだよ」
「僕らが変てこなら、あの連中も」
 ヘレンたち不審者に逃げる様子がないことを見て取った指揮官は、ゆっくりと馬首を巡らせて四人の異邦人を観察するように近づいて来た。その視線の鋭さにチェルニーは思わず顔を伏せた。ヘレンは観察されている仕返しのように、接近する者たちを漂う雰囲気まで眺め回した。不審者の探索という意味では警察の仕事だが、接近する男たちの風体は警官には見えず、兵士らしくはあるが小銃を手にした近代的な兵士ではない。指揮官が振り回す剣が木漏れ日を反射して輝いた。ヘレンはこれらの光景を一言で評するほか無い。
「まったく、ここはファンタジーの世界なの?」
 指揮官らしい男が威圧感を滲ませて問うた。
「何者か?」
「私はヘレン、こちらがヨゼフ、チェルニー、アダム」
 指揮官は馬上からアダムたちを見下ろして言った。
「見慣れぬ風体に、聞き慣れぬ名だ」
「祭りの日に、稀人(まれびと)が、流れ着きおったのでございましょう」
「なんとも、異形の者どもでございますな」
 彼らの会話は、馬上から見下ろすのみではなく、権力を笠に着てヘレンたちを見下す感情が流れ込んできて彼女たちの感情を逆撫でした。ヘレンは腹立たしげに言った。
「貴方たちは? 名乗りなさい」
「不審者に名乗る名などあろうものか」
 兵士の一人が刀を抜き、脅すようにヨゼフに向けた。手入れが良く鋭く研がれた刃先がヨゼフの肌に触れ、痛みさえ感じさせないまま傷を付け、生暖かい血の滴をぬるりと流させた。その血も刃も、まがいものではなかった。
「ほぉ、異形の者の血も赤いと見える」
「何をするの」
 ヘレンはケハヤと呼ばれた指揮官が手にしていた槍を掴んで、揺さぶって抗議をした。もちろん、ケハヤは槍を奪われまいと脇に引く。何度か力を入れたり抜いたり、槍を経由してヘレンとケハヤの呼吸が一致した。ヘレンはふと感じた。この男たちは武器や腕力を誇示していても、その駆け引きを知らないのではないかという事である。ヘレンはケハヤが槍を突きだす腕が伸びきった瞬間に、槍の柄をくるりと回しながら引いた。思いもかけない方向に力がかかって、ケハヤが握りしめる寸前に、手からするりと抜けてヘレンの手に移った。ヘレンは奪い取った槍の石突きで兵士の一人のみぞおちを突き、振り回した槍で二人の兵士を叩きのめして、叫んだ。
「殺さない程度に、ヤっちゃいなさい」
 奪った槍を投げ渡されたアダムは面食らっていたが、この場では黙って見ていられる状況ではなく、みぞおちを突かれたショックから意識を回復しかけている兵士を、槍を上下に振るって槍の柄で叩いて、もう一度失神させた。
 馬上のケハヤは一瞬のうちに三人の部下が叩きのめされて失神しているのは信じられないが、腕力自慢の自分の手から槍がするりと抜け落ちるように奪い取られたのも信じがたい。
「おのれら」
 ケハヤは怒りを込めて太刀の束に手をかけたが、ヘレンが槍を手放して武器を持っていないのに気づいて、馬から下り、両腕を広げてヘレンに挑みかかった。素手の相手に武器を使うというのは、この男の誇りが許さなかったに違いない。
「いい子ね」
 ヘレンはそんな言葉でケハヤのフェアな精神を褒めた。しかし、ケハヤは格闘技に通じているヘレンにあっさりと背に回られて、彼女の腕で首筋を固められた。気管や頸動脈を締め上げられたケハヤが気を失う寸前に、彼の耳元でヘレンが優しく囁いた。
「この勝負の記念に、貴方たちの剣を頂くわ」
 ケハヤはそのまま気を失った。ヘレンは仲間に失神した兵士の剣を奪うよう指示し、彼女自身もケハヤの剣帯と下げていた剣を奪って身につけた。
「さっさとずらかるわよ」
 そんな言葉とは裏腹にヘレンの歩みは落ち着きがある。チェルニーが見るところあの兵士たちが目覚めるまであと数十分はかかるだろう。その間に身を隠せばいいのである。
「ヨゼフ。顔の傷は?」
「脅しだったんだろう、たいしたことはない」
「アレが、警察か軍隊かは分からないけど、これで私たちはこの国の公権に逆らったお尋ね者よ」
 アダムたちは人の気配を絶つように、薄暗い雑木林に入り込んだ。当てもなく歩き続けた彼らは、まもなく、眩しい陽の光を浴びた。チェルニーは目の前に広がる景色に絶句した。
「どうしてこんなところに?」
 雑木林を抜けると幅の狭い砂浜があり、その先に一面に群生する芦の緑の穂先が風に揺らめくさまは波のように見えた。潮の香りに気づいて視線を上げるにつれて、芦原の緑の波が境目も鮮やかに海の波に変わる。
 沖合の見慣れない形の帆船を数えてみると十数隻。近くに港がある気配がした。空には海鳥がのんびりと飛び交っていた。中天にある太陽で時を推し量れば昼過ぎか。その影の角度から判断すれば、彼らは南北に長く続く干潟の海岸線を北に向かって歩いていた。
 影を辿るように眺めたヘレンは仲間を叱咤した。
「足跡を残さないで。追われるわよ」
 砂浜との境目の草むらを歩いて砂浜に足跡を残すなというのである。視界が開けた西側の海岸と、視界を遮る東側の雑木林の間を三十分ばかり歩いたが追っ手の気配がない。彼らは雑木林を背に腰を下ろし、葦原が風にそよぐ波とその先のまぶしく光る海を眺めた。
「あの衣服、あの髪型、日本の神話の挿絵に似ている」
 アダムがふとそう呟いた。
「神話の世界だとでも?」
 チェルニーの問いにヘレンが応じた。
「これほどリアリティのある神話があるもんですか」
「誰か、ここがどこか分からないの?」
 チェルニーの問いかけにヨゼフが提案した。
「ボクらのいた場所と何か接点が無いかな」
 接点というヨゼフが提示したキーワードに、チェルニーが言葉を指摘した。
「あの変てこな連中、日本語を話してたわね。言葉が通じたわ」
 ただし、言葉で意志を交わしたという感覚が何故か薄く、彼女自身首を傾げている。ヘレンは手にした剣を少し抜いて、その刃を太陽に反射させて眺めた。
「私、美術館で本物の日本刀を見たことがあるんだけれど、刀身が美術品のように綺麗で魅力的だった。でもこの剣はどぉ?」
 確かに、鞘は手の込んだ作りで、職人の仕事ぶりや剣の価値が伺える。ただその鞘を払ってみた刀身はどうだろう。アダムのような刀剣の素人の目から見ても作りが荒く、刀身の脆弱さを補うように幅が広く厚みのある刃物である。
「では、ここは日本ではないか、日本刀が作られる以前の日本のどちらかと言うことだ」
「それは矛盾するわ。日本ではないなら言葉が通じるはずはないし、日本刀が作られ始める以前の古い時代でも、現代の私たちの日本語なんか通じないわよ」
「では、こんな剣を持ってる人がいるというのは、ここが日本ではないと言うこと?」
「銃刀法違反。そもそも、現代の日本で、許可もなくこんな剣を持って彷徨いてたら、ブタ箱行きだよ」
「分かったことは、ここが僕らが居た日本ではないと言うことだ。大事なことは、ここがどこで、どうやったら帰れるのかと言うこと。誰か他の情報は?」
「なにも、無いわ」

 目の前の景色を説明する事は出来ず、仲間は再び立ち上がった。この場所でじっとしていても仕方がないことは皆分かっていた。歩き続けると、やがて前方に多数の白木の建築物が見えてきた。人の姿がかいま見えたため、ヘレンは仲間に注意を促した。
「林の中に隠れて様子を見ましょう」
「何の施設だろう」
「兵士じゃなさそうね」
 雑木林に身を潜めながら前進を続けると、やがて彼らはその雑木林が途絶える地点にたどり着いた。木の陰に身を潜めながら様子を窺うと、北の方は開けて見晴らしが良い。そこに多数の見慣れない衣服の人々が見えた。数多くの白木造りの建物に荷を担いで入ったり出たりを繰り返していて、アダムは何かの倉庫とそれを管理する役所だろうと見当をつけた。
「人の数は多いけど、武器を持っている様子はないわね」
「武器は持っていなくても、敵だったらどうするの。大勢に囲まれたら逃げ切れないわ」
「そうだね。今は近づかない方が良さそうだ」
「樹に隠れてこの斜面を上がってみましょう」
 雑木林がきつい斜面に沿って広がっていた、この斜面の上ならもっと別の情報が得られるだろう。その斜面を登り切った辺りで雑木林が南へ延びる街道で分断されていた。街道の左方向は西へ折れて、先ほどの倉庫群に続いているらしい。北の方向に分岐する細い道があり、街道の向かい側の草原や雑木林を縫って北へ延びているように見えた。ヨゼフが辺りを見回した。
「どちらに行く?」
「分かっているのは、ここに留まる事はできないということよ」
 ヘレンはそう言って、街道上の疎らな人影が途絶えるのを待った。彼らは街道を渡り、北に向かう小道を辿った。アダムが時計を確認すると、時間は午後四時を回っており、彼らの時が適用できるなら、この世界にやってきて三時間が経過している。
「ああっ、腹が減った」
 ヨゼフが素直に空腹を訴えたのをヘレンが叱りつけた。
「緊張感のない人ね。まず安全な場所を確保するのが先よ」
 チェルニーは空を見上げて今夜の宿を考えた。たしかに、あと三時間もすれば日が落ちる。宿を見つけなければ、この得体の知れない世界で月や星を見上げて野宿になるだろう。
「私、慣れた枕でないと眠れないタチなの」
「命を無くせば、枕無しでもぐっすり眠れるわよ。永遠にね」
 ヘレンの脅しと同時に、彼らの背後で物音がしたために四人は緊張し、ヘレンとアダムは剣の束に手をかけた。しかし、直ぐにその手の緊張を解いた。背後に姿を現したのは、危害とは無縁の幼い男の子である。
「和ちゃん」
 チェルニーがそう呼んだほど、和ちゃんに似ているが、ヨゼフは彼女を制した。その男の子から、初めて眺める珍しい人物たちに寄せる好奇心が伝わってくる。好奇心を滲ませるという雰囲気で、和ちゃんそっくりと言っても良いのだが、やや長めの髪を後頭部で結っていた。着用する衣服は膝までの丈があり、襟周りは着物のように見えるが、その袖口は大きく開いて、可愛い腕が肘の辺りまで見えている。その髪型や衣服は別人に違いない。
「脅かしちゃいけない。そっと」
「そうね」
「ねぇ、ボク。どこから来たの?」
 男の子はチェルニーに答えるように、右手の方向を指さした。やや上向きになった腕の角度が、男の子の家までの距離の長さだという雰囲気が漂っていた。男の子が素直な笑顔で尋ねた。
「オバちゃんたちは、どこから来たん?」
(おばちゃん?)
 チェルニーはその表現に眉を顰めたものの、回答を求めて仲間の顔を振り返って眺めた。なんと答えればいいだろう。ここは午前中まで彼女たちが居た大阪とは隔絶された世界らしく、「大阪」から来たと言っても男の子には通じないかも知れない。ただ、現実との接点を求めて推し量るためには、その町の名を基準にせざるを得ない。
「日本橋って、知ってる?」
 そんなヨゼフの言葉に男の子は首を横に振った。ヨゼフは質問を重ねた。
「じゃあ、ここは大阪どの辺りなんだい?」
「おおさかって何? おっちゃんは何処から来たん?」
 幼児が返す質問に、大阪を起点に位置を推し量っていたアダムたちは曖昧な返答をせざるを得ない。
「僕らは、ずっと、ずっと、遠くから来たんだ」
「ボク、知ってるねん」
 男の子の言葉に、アダムたちは顔を見合わせ、四人同時に尋ねた。
「何を?」
「今日は、あなた達が来る日やねん」
 当然のことのように男の子は言い、チェルニーが重ねて尋ねた。
「どうして知ってたの?」
「おじいちゃんがそう言うててん」
「そのおじいちゃんのところに連れていってくれる?」
 アダムの頼みに男の子は表情を輝かせて聞いた。
「来てくれるん?」
「もちろん」
 仲間の同意を取り付けるように顔を見回したアダムがそう言った。
「ボクのお名前は?」
 チェルニーの質問に男の子は無邪気な笑顔で答えた。
「ワクウ」
 アダムたちは顔を見合わせた。聞き慣れない名だと思ったのである。しかし、今はこの初対面の幼児を頼るほかない。
 ワクウは散歩する子犬のような無邪気さで、気まぐれにアダムたちの周りを回ったり、村の方向に駆けて姿を消してみたり、周囲に広がる草むらの中に隠れてアダムの背後に回ったりした。その様子はいかにも子どもらしく、見ていて微笑ましい。この子を慈しむ父母や周囲の人々の人柄までかいま見える。
「でも、見ればみるほど、和ちゃんに似てるわね」
「本当」
 触れあうほどの距離で眺めると、肩の辺りまである髪を、浅葱色の飾り紐で束ねていて、その紐の端が首の辺りでゆらゆらと揺れていて可愛らしいが、ワクウがにじみ出させる無邪気な雰囲気が、衣類や髪型の違いを覆い隠すようで、和ちゃんとの類似点のみ目立つのである。ヨゼフが囁くように言った。
「ここがどこかと言うことだけじゃなくて、行方不明の和ちゃんとマリア、エイモスも探さなきゃね」
「でも、ちゃんと道路を通って案内して欲しいわね」
 チェルニーの言葉にアダムたちも笑った。歩くに連れて、美しい変化に富んだ自然や、人の手が入った景色が入れ替わる。ワクウが背伸びをして草むらの向こうに眺める景色に畑らしき地形が見え、草むらに踏み込む一歩ごとに、この子どもに平穏を乱されたトンボが飛び交い、バッタが飛び跳ねた。
 この子は道に拘らない質のようで、思いつくまま様々な自然に踏み込んで行くのである。
「この子、どうしてこんな所に一人で居るんだい」
 アダムたちの世界に当てはめれば、幼稚園児という年齢ではあるまいか。そんな幼い子が、どうしてこんな人気のないところを彷徨いているのだろうという疑問である。この疑問が新たな女の声で晴れた。
「ワクウ」                                    
 男の子の名を呼ぶ女の声がし、長い髪を首筋で纏めた清楚な白い衣装の女が姿を見せた。名を呼ばれたワクウが寄り添い甘える様子から、ワクウの母親らしいと分かった。この子はこの母親に連れられてやって来ていたに違いない。
「マリア」
 チェルニーの呟きをアダムが否定した。
「いや、マリアじゃないよ。衣服や髪型が違う」
「じゃあ、誰?」
 化粧っ気がないという点ではマリアと同じだが、日本橋へ出かけたときのマリアの衣服は涼しげな薄手の生地の青いワンピースだった。目の前の女性は木綿らしい質素な衣類で前あわせの部分を左肩の辺りで紐で結わえて閉じていた。衣服がはだけないよう腰の辺りを括っているのはベルトではなく、ただの紐である。襟元が大きく空いていて風通しが良く涼しそうだが、その衣類の形はワンピースではない。
 四人が女と幼児に首を傾げるのと同様、女も首を傾げてワクウから何かを聞いていたが、振り返って事情を察したように言った。
「ようこそおいでくださいました。どうぞ、ご案内します」
 初対面と言うことを感じさせない言葉だった。アダムはふと気づいたように女に語りかけた。
「ミウォ ミ チェ ポズナチ(はじめまして) マム ナ イミェ アダム (私はアダムです)」
 仲間は首を傾げた。アダムが発したのは、仲間同士の会話の共通語として利用している日本語でもない。ポーランド語の意味は聞き慣れず、アダムが不可思議な呪文でも唱えたように思ったのである。一瞬、間をおいて女が挨拶を返してきたために、仲間はアダムが発した言葉が、名を名乗る挨拶だったと気づいた。
「申し遅れました。この子はワクウ、私はノユリと申します」
 女は振り返って立ち止まり、笑顔で挨拶したが、それ以上詮索する気はないらしく、再び彼らを導くように歩き始めた。ヘレンたちは名乗る機会を逸した。ノユリの態度には名前や出自など無関係に歓待するという人の良さがある。この女性はアダムの仲間さえ知らないポーランド語で発した言葉の意味を、正確に理解して返事を返してきたのである。アダムはこの世界の理の一つを確信した。
 ワクウは母親の手かごの中の草をつまみ上げて、アダムたちに掲げて見せて、教えるように言った。
「つきくさ」
 深い蒼の花びらを二枚つけ黄色い花粉をつけたおしべのコントラストが美しい植物である。ノユリは息子が植物の名を正しく記憶していたのを褒めるように、頭を撫でてアダムたちに説明をした。
「まだ、今年の春は暖かいので、もう、咲いていそうだと思ったんです」
 その説明と笑顔だけで彼女は再び歩き始めた。アダムたちがツキクサがこの世界の薬草の1つだと言うことを知るのは、数日後である。ノユリが導く行く手を遮るように川がみえ、小舟が係留された小さな船着き場に到着した。ノユリはこの川を渡るという。幅二十メートルはある川だったが、ノユリはヘレンの申し出も断って、竿を操って客人を乗せた舟を対岸に着けた。その慣れた手つきに、この人物がマリアに似ていてもマリアではなく、この土地で生きている女性だと認識を深めることになった。

 川の対岸は、更に自然豊かな場所のようで、視界を妨げる背の高い雑草の茂る草原の間を縫う道が続いた。突然に視界が開けたと思うと、不規則な土手で区切られた黒々とした土の地面が一面に広がっていた。ただ、この世界は乾期の最中でもあるのか、地面は乾燥してひび割れが広がっていた。
「芝生なの?」
 ヘレンがそんな感想を述べたのは、日当たりの良い土が露出する地面の一角で、ここだけは水気を感じさせる四角く区切られた場所で、土地を緑に染めるほど密に若草が茂っていた。人工で育てられている事が伺える。その景色の正体を突き止める間もなく、彼らの興味は流れ聞こえてきた笛の音に囚われた。
 楽しげなメロディが彼らを包んだ。笛の音に合わせて拍子を取る木を叩き合わせるような音が加わり、周囲は賑やかになってきた。
「祭りなのか」
 ヨゼフの考えを裏付けるように、仮面をかぶった者たちが踊っている姿が見えて、不可思議な世界を演出していた。集落の家の間を抜けると広場があり、古い樹木に藁で編んだ縄飾りが下げられていて、この樹木が祭りの中心だと分かった。
 突然の闖入者を眺める村人の間に、声が広がった。
「ノユリが客人を招いてきた」と、
 不可思議な者を眺める視線だが、敵意はなく敬意すら感じさせた。アダムたちは事情が飲み込めないまま、周囲の人々に愛想のいい笑顔を振りまきながら、村人たちの輪に入って行かざるを得ない。
 チェルニーは、父親の仕事をもじってヘレンを海兵隊女と呼んでいる。事実、彼女自身格闘技にも通じていて、戦闘的な雰囲気を漂わせているのである。チェルニーの見るところ、その海兵隊女がこの不可思議な場所で仲間内の誰よりも警戒心を解いてしまっていた。それほど、この村人たちの歓迎ぶりは自然に心に染みた。
 ノユリが導いてきた終着点に一人の初老の男が居た。身なりは周囲の人々と大差はなく特別な装飾品を身につけているわけではないが、祭りの中心の神木と正面から向き合った座についていることと、包容力を感じさせる人柄でこの場を仕切る人物だと知れた。ノユリはアダムたちを振り返り、初老の男に紹介した。
「お父さん、お客人をお連れしました」
「よくまぁ、来られた」
 どこから来たとか、誰かとは聞かない、まるで彼らの来訪が予定されていたかのように新たな人々を迎え入れたのである。
 地面に敷いた敷物の上に客人を迎える座が設けられ、何かのドライフルーツや液体を満たした壺が供された。
「酒だわ」
 ヘレンが壺の中の液体の香りを、くんっと嗅いで確認し、椀になみなみと満たして一口味わった。
「いきなり、大丈夫なの?」
 そう尋ねるチェルニーにヘレンが感想を述べた。
「ちょっと酸っぱいけど悪くはないわ。どう? 貴女も」
 チェルニーは、持てなしを受けてくれることを期待する村人たちの好意的な視線を浴びているのに気づいた。ヘレンから差し出された椀を飲み干さざるを得ない。ヨゼフはワクウから渡されたドライフルーツを味わって、干し柿だと確認し、アダムにも勧めた。
 笛の音と拍子木の音がやや激しくなると、神木の前にノユリが登場し、両手に持った緑の葉を茂らせた枝を手にして舞い始めた。人々は舞に合いの手を入れ、酒に酔い、舞に酔った。
「桜の樹か」
 アダムは縁に小さなぎざぎざのある小さな葉を眺め、驚きと共にその発見を口にした。薄紅色の花を満開に付けている樹木というイメージがあって、若葉を茂らせている時期の桜にそれとは気づかなかったのである。ノユリの舞がその生命感を称えているようにも思われた。ノユリの舞に教えられたように、この樹木を眺めてみると、確かに、花の時期の後、枝ばかりの姿を晒す木に、いつの間にどこから吹き出すほどの若葉が生じるのだろう。この集落の人々はその美しい生命感に触れる感性を持っていた。
 四人の頭の中が、祈りの言葉や豊穣の願いで満たされた。村人たちの思いが乱れて心の中に流れ込んでくると言う感覚である。この村の人々が桜の生命感を通じて豊穣を願う祭り。踊りに興じる人々から、秋の稲穂が豊かに実るイメージが伝わってくる。
「みんな、この世界で生きて居るんだね」
「生きていくって、どの世界でも凄いことなんだね」
「一種の生きたカレンダーなのかしら」
 チェルニーは桜の樹をそう思った。満開の花を咲かせる時期の種まき、若葉を茂らせる時期には田起こしをして水田に水を引いて稲の苗を植える。そう言う目安にしているらしい。祭祀とも祭りとも付かぬ行事は、田起こしの直前に、今年の豊穣を祈る行為なのである。宗教色が感じられず、何かに祈るというより、希望を大自然に願うようにも見えた。その願いの日に、見慣れない客人が現れたという状況だった。アダムは日本で学んだ知識の一つを思い出した。
「古代日本ではマレビトと言って、祭りに異邦人がやってくるのを歓迎する習慣があるんだ」
 酔いが回って顔が赤く心地よく酔ったチェルニーが答えた。
「さっき、あの子が『あなた達が来る日』と言ったのは、この事ね」
「雨を降らせろと言われているような気もするわね」
 ヘレンが言ったとおり、ノユリの舞を眺める人々から、長く続く日照りの不安と、異邦人の来訪に雨を期待する切実な気持ちが伝わってきた。
「この人たちの期待に応えられたら良いんだけど」
「残念ながら、私たちは魔法使いじゃないのよ」
 チェルニーの言葉に残念そうなニュアンスがあり、実際、アダムは雨の魔法が使えるなら、この人たちの願いを叶えて雨を降らせていただろうと思った。
 ノユリの舞に村人たちが加わって、桜の樹とノユリの舞を囲む村人たちの踊りの輪が出来た。ヨゼフはこの種の騒ぎには心が騒ぐ質で、笛の音に合わせて足でリズムを取っていたし、ヘレンも酒の勢いか村人たちにとけ込んで、手を叩きながらリズムを刻んでいた。ワクウが二人の手を引いて村人の踊りの輪に誘った。
 ヘレンに手を引かれたチェルニーも立ち上がり、アダムに手招きしたためにアダムも踊りの輪に加わらざるを得ない。元来、冷静さを保ちたがる性格だが、この時は村人たちの感情に心が躍らされ、村人たちの動きを真似て踊るアダムにも、笑顔が浮かんでいた。
 そこには村人たちと客人の間に垣根はなかった。この国の人々と涙や笑顔を共有する一体感がアダムたちを酔わせた。不思議なことに、アダムたちはノユリとワクウ以外の名前は知らず、村人たちの大半も客人の名を知らない。文明国では名を名乗り合うという当然の儀礼が、ここでは通用せず、むしろ人が心を通わすのに、人を区分する名など不要ではないかとさえ思わせた。
 陽が落ち、周囲がすっかりと暗くなる頃に、踊り疲れ、空腹も満たし、酔いも回ったアダムたちの宿泊に一軒の家が割り当てられた。
 土間から上がる板張りの床に、屏風のようなつい立てて仕切られて二組づつの寝具が敷かれていた。案内役のワクウが、土間の端に置かれた柄杓で水瓶から水をすくって見せて、飲み水の存在を教えてくれた。ノユリは戸口の上に巻いてあった簾を降ろして外と中を仕切るドアの代わりにし、ぺこりとお辞儀をして姿を消した。
 窓はつっかい棒を外せば、板が降りてきて視界を遮り、外を眺めためのものではなく、明かり取りや換気の役割を果たしているだけである。換気と言っても戸口に簾がかかっているだけで大きく開かれていて、戸口の簾を通して外から光が射し込んでいた。
 差し込む光を求めて戸口の簾を開けて空を眺めたチェルニーが言った。
「綺麗な月だわ」
「本当だ」
 空にくっきりと浮かんだ満月が、相づちを打つアダムの表情が判別できるほどの光を放っているだけではなく、透き通った大気は信じられないほどの数の星の輝きを見せていた。風は土や草の香りを運び、豊かな自然の姿を伝えた。赤子の泣き声が漏れ聞こえて来たが、泣き声が穏やかに薄れる様子に、子を抱く母が赤子をあやして乳を含ませる姿が想像できて微笑ましい。チェルニーが今日を締めくくる言葉を吐いた。
「明日は、なんとか、帰る手がかりを見つけなきゃあね」
「帰りたい?」
  ヨゼフの問いに返事を返すものが居ない。帰らなければいけないことは分かっていてもこの世界や人々を否定する気にはなれなかった。アダムたちが居た世界の喧噪とは無縁の平和な村だった。
「灯りを消すわよ」
 ヘレンの言葉の直後に、家の中は闇に包まれ、ヘレンが吹き消した不完全燃焼の油の香りが漂った。この家の灯りは貝殻に満たした油に灯心を浸した原始的なランプである。こんな灯り一つにしても、アダムたちが居た世界とは大きな違いがあった。
「でも、言葉は通じたよな」
 ヨゼフはせめて日本のどこかであれば、帰る手がかりも見つかるだろうという言うのである。アダムは厚い布にくるまって横になりながら、傍らのヨゼフに言った。
「ノユリさんが、ボクに名乗ったときのこと覚えてるかい?」
「俺には理解不可能な、君のあの言葉かい」
「僕らの話し言葉が、彼らに通じている訳じゃないんだ」
「なるほど」
「それに、さっきの祭り。村人たちの意識を感じなかったかい」
 ノユリと出会った時のこと。この村の祭りに出来事。アダムは確信を込めて続けた。
「僕たちが考えたことが、感情と一緒に彼らに伝わってるんだ」
「一種のテレパシー? 言葉じゃなく考えが伝わってるって」
「試してみよう」
 アダムは念を込めるように、じっと黙りこくって考え込んだ。
(確かに)とヨゼフは思った。
 アダムが想像するチェルニーとヘレンの艶めかしい姿が伝わってくる。まるで、彼女たちの肌の柔らかさや体温まで感じるようなリアルな想像だった。突然、衝立の向こうから怒りの声と共に椀が飛んできた。
「あなた達、こっちを覗かなかった?」
 女たちはまだ自分たちの便利な能力に気づいていないらしい。この世界では、アダムたちの感情や思考が、言葉を発するように伝わるのである。この世界の人々と意志を交わすことが出来るというのは、彼らがこの世界で生きる上で手助けになるだろう。
「ドブラノツ(おやすみなさい)」
 アダムは突然のヨゼフのポーランド語に驚いたが、ヨゼフは言葉の訳を明かした。
「長いつきあいだ。この程度のポーランド語は知ってるよ」
 チェルニーの寝息が、ついたて越しに聞こえる。今日一日の出来事で疲れ切っていたのだろう。物事に動じないヘレンのおしゃべりもやんでいて、くつろいで眠ったらしい。ヨゼフもだらしなく口を開けた表情で、寝息を立て始めた。その表情は警戒心を解いてこの世界に身を任せたように見えた。
「僕らがここに来たのは、どんな意味があるんだろう」
 アダムはそう呟いたが、やがて、彼もまたわき上がってきた眠気に包まれた。この村の人々の邪気のない親切は、異邦人の心を解きほぐし、この地の一員として村に迎えていたのである。

 


 朝日が昇るまでには未だ間がある。しかし、空は既に白んで、子どもたちの姿は衣服の色や黒髪の一筋に至るまで、その姿を明瞭に現していた。まだ、大地の下の太陽は、東の空を朝焼けに染めていて、間もなく現れる眩しい光を予感させていた。
 七人の子どもたちのグループを率いるのは年長の少年で、彼らの期待通りなら、湖の畔に仕掛けた罠に魚がかかっているはずだった。そして、年長の子どもたちは幼い仲間から尊敬を勝ち得るのだろう。こうやって、魚を獲る方法が年長者から、幼い者へと引き継がれている。ワクウがこの仲間に加えてもらったのは、今回が初めてである。彼が期待で胸を膨らませているのは、漁の獲物と少しばかり大人の世界に入った嬉しさのせいである。ワクウに与えられた役割は、獲物を持ち帰るための籠を運ぶ事だった。
 その微笑ましい雰囲気が荒々しく塗り替えられた。兵士たちの一団が現れたのである。兵士たちは獲物を追い立てるように大声を上げ、手にした剣で草を薙いだ。荒々しい行為に、千切れ、踏みしだかれた草の香りが野に満ちた。兵士たちの殺気だった様子が、子どもたちを緊張させた。
「わっぱども、この辺りで異人を見なかったか」
 兵士の一人が怒鳴るほどの激しさで聞いた。子どもたちは一瞬、昨夜、ワクウと共にやって来たマレビトを思い浮かべたのだが、別の兵士の言葉がその記憶を否定した。
「お前たちも聞いたことがあろう。あの湖の向こうには恐ろしい化け物共がおる」
「時々、そやつらが湖を越えて、女やお前たちのようなわっぱを掠いに来おる」
「お前たちも、化け物に捕まらないようにした方が身のためだぞ」
 子どもたちは恐ろしさに身を縮めて兵士の脅しに聞き入った。女子どもを掠うというのはともかく、湖の対岸に異人が住んでいるという噂は、村の大人たちから聞き知っていて信憑性がある。別の兵士が子どもの恐怖を楽しむように、話しを付け加えた。
「背の高さは、そら、その木の枝の辺り。見上げるほどの恐ろしさじゃ」
「耳は尖って、耳の辺りまで裂けた大きな口からは、狼のような牙がのぞいておるわ」
「気をつけよ、お前たちわっぱなど一口に飲み込んで、骨ごとぼりぼりと囓りつくしてしまうだろうよ」
 兵士の言葉に、子供たちは昨夜のマレビトを思い出した。髪や肌の色、目鼻立ちも子供たちと違う特徴がある。しかし、彼らは南の方からやって来たし、どこか間の抜けた雰囲気が漂っていて、子どもをむさぼり食うようには思えないのである。子どもたちは兵士が探す異人が、昨日のマレビトではないことを確信した。
 異人の所在を問われた子どもたちは、そろって兵士の問いに首を横に振った。
「もしも、どこかで見かければ、我らに申し出よ」
「異人に出合ったことを、わしら以外の者に先に話してみよ、異人の祟りは、お前たちの目玉や口を腐らせてしまうに違いない」
「そうとも、奴らはお前たちの頭や腕を引きちぎって、大鍋でくたくたと煮込んで、喰ろうてしまうとも言うぞ」
 そんな言葉で、子どもたちが恐怖する様子を楽しんで気が晴れたに違いない。兵士たちは剣を鞘に収め、笑いながら立ち去った。
 子どもたちは顔を見合わせた。魚の罠を回収に行く予定だったが、兵士が語るような危険な化け物が彷徨いているなら、考え直さねばならない。
 がさりっ。
 子どもたちの背後で、何かの生き物が身動きする音と荒い呼吸音がして、子どもたちをびくりとさせた。外の背丈ほどもある草むらをかき分けて姿を現したのは、一人の若者である。ただ、肌は浅黒く豊かな顎髭を蓄えた面構えは、兵士の言葉で脅されていたされた子どもたちには獣のようにも見えた。その大きな目がぎょろりと輝いて子どもたちを眺め回した。
「逃げろっ」
 一つに聞こえた言葉も、子供たちは恐怖と共に一斉に叫んでいたのだろう。少年たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。ただ、事情が良く飲み込めないワクウのみ、取り残されて、きょとんと篭を抱えて立ちつくしていた。ワクウの目の前に現れた男。もし、この場にアダムたちがいれば、エイモスの名を呼んだに違いない。それほど、この男の顔立ちと漂わせる雰囲気はエイモスに似ている。ただ、ワクウにとって初対面の男である。
「おっちゃん、怪我してるん?」
 ワクウの言葉に男の返事はなかった。男は草むらの中にしゃがみ込んだ。草木の背丈は男の身を隠すのにちょうど良い。男は左肘の辺の痛みを感じて右手で押さえ、その指先に血がついているのを確認した。ワクウが指摘した擦り傷である。争いを避けて兵士から身を隠そうとした時に、側の松の木の樹皮に酷くぶつけて傷つけてしまったのである。
【お前は逃げないでいいのか?】
「おっちゃん、大丈夫?」
【奴らは俺たちを目の敵にして追い回している】
「ちょっと、待っときや」
 二人は年齢や顔立ちばかりではなく、話す言葉も違った。それぞれの民族の言葉が交わらずにすれ違う。やや、何かを考えていた幼児が生い茂る草の向こうに姿を消したため、男は他の少年たちの跡を追って逃げ出したのかと考えた。男はその場に身を横たえて、幼児が草をかき分ける音が遠ざかって行くのを聞いた。ここは身を隠すには良い草むらだが、兵士たちはまだ、見晴らしの利く高台にいて辺りを警戒しているかも知れない。しばらくはここで耳を澄ませて敵の存在を探りつつ、そっと身を潜めているのがよかろう。
 しかし、間もなく男の耳は接近する物音を捕らえた。兵士の荒々しさは無く、緊張感も感じさせない物音だが、男の存在を知っているように接近を続け、やがて、再びワクウが姿を現した。手にしていた籠に植物の葉が入っていたため、この植物を取りに行ったのだと知れた。
【どうした、何か忘れ物でもしたか】
「これ、つわぶき」
 ワクウは籠の中の葉の名前を口にし、何枚か手に取り、幼い手の平の中で葉の汁が出るほど揉んだ。そして潰した葉を別の葉に乗せて男に差し出した。
【コレを喰えとでも言うのか?】
 ワクウは男の物わかりの悪さに、少し眉をひそめて肘を指さしてみせ、その傷にあてがえという仕草をした。この植物には記憶がある。湿った日陰の地面によく生えている植物である。男には薬草の知識はなかったが、これがこの国の者たちが使う薬草だと分かった。この幼児は男の傷を見て、この薬草を採取して戻ってきたに違いない。
【なるほど、これをあてがえと言うのか】
 むろん、ただの迷信であって、薬効など期待できないかも知れない。しかし、この子の善意は信じて受け入れても良い。男は差し出された物を傷口にあてがった。冷たい感触が心地よい。ワクウがにこりと笑ったので、その意図するとおりになったことが伝わった。
 そして、ワクウはやや首を傾げて考え込むと、髪を束ねていた紐を解いた。今度は何をするつもりかと興味深くいぶかる男に、ワクウはその紐を差し出した。意図を計りかねる男の理解の悪さに、ワクウは男の傍らに寄って、肘に当てた葉の上から紐で縛った。男はこの子が薬草を傷口に固定したことを理解した。
【俺が怖くないのか。勇敢な子だな】
 男はワクウをそう褒めたが、もちろん言葉の意味は伝わってはいないだろう。ただ、乱れた髪を撫でつけてもらうのが心地よいらしく、にこにこと笑顔を浮かべていた。
「おっちゃんって、やさしいなぁ」
【俺の父は部族一番の勇者だった】
「おっちゃん、どこから来たん?」
【俺は自分の妻も守れない臆病者だ。子どもにさえ会えない】
「おっちゃんは、何しに来たん?」
【お前のような息子がいれば、俺は誇り高い父親として振る舞えるだろうか】
「おっちゃんの名前は?」
【お前の名は?】
 この時、偶然に同じ質問を投げかけていた。互いの言葉の意味が分からないまま交差する。ただ、互いに寄り添うことに心が安らぎ、相手の言葉が心地よく耳に響く。しかし、いつまでも寄り添っているわけにも行くまい、男は決心して、子どもたちが逃げていった斜面の上の方を指さしてワクウに語った。
【さあ、行け】
 ワクウは男の言葉が理解できないまま不思議そうに、しかし、一方では心地よさそうに男の顔を眺めていた。
【今度は機会を変えて、いつか、仲良く共に過ごせるように力を尽くすことを約束しよう】
「おっちゃん、ヘンな人やなぁ。やさしい気持ちがするわ」
 ワクウは立ち去るどころか、いよいよ男に懐く様子で、男の傍らにしゃがみ込んだ。男は苦笑いをして言葉を継いだ。
【私たちの民族は長い道のりを彷徨い、数多くの人々との出会いや別れを繰り返したが、本当の別れはない。一度できた絆はいつか人を導き、再び出合わせる。俺は父の言葉を信じている。だからお前も信じろ。さぁ、】
 男がかけ声をかけ、ワクウに立ち去る方向を指さした時、その方向に新たな声が響いてきた。言葉の意味はよく分からないが、その荒々しい声音に、子どもの声が混じっていて、先ほど逃げ去った子どもたちが兵士を連れて戻ってきたのだと知れた。男は緊張した。戦闘さえ覚悟するように腰につけたナイフに手を伸ばした。
【あっ】
 男が声を上げかけたのは、突然にワクウが立ち上がって、斜面を駆け登り始めたからである。男はワクウが自分の存在を兵士に知らせるのではないかと感じたのである。ワクウはぴょんぴょんとウサギのように飛び跳ねるような駆け方で、やって来る少年と兵士に姿を晒した。
「ワクウ。大丈夫やったか?」
 年長の少年がそう尋ねて、ワクウは黙って頷いた。兵士が駆け寄ってきてたずねた。
「わっぱ。異人を見たか」
「異人はどちらに逃げた?」
 兵士のたたみかけるような質問に、ワクウは男に背を向けて西の方角を指さした。
「港の方角か。者ども、異人を追うぞ」
 斜面の下で草むらに伏せて様子を窺う男には、聞こえてくる兵士の激しい言葉の意味は理解できなかったが、指揮官らしい兵士の指示で三人の兵士たちが、ワクウが指さす方向に駆け出して姿を消したのがかいま見えた。男はワクウの意図を察した。あの幼児は男が兵士に見つからないように、別の方向に誘導したのである。男はあの幼児の笑顔を思い出して、疑ったことを詫びるように薬草を腕に固定した飾り紐を撫でた。少年たちが立ち去るまで、彼らを驚かさないようにじっとしていようと心に決めた。しかし、あの幼児との短い出会いと別れは男の心に刻まれた。

 一方、斜面の上では、兵士に取り残された子どもたちの興奮が冷め切らない。少年たちはワクウの安否を気にするように体中を眺め回して質問した。
「ほんまに大丈夫か」
「うんっ」
「怖わなかったか」
「うんっ」
「どこか、喰われへんかったか」
「うんっ」
 年長の少年たちには、恐ろしげな異人というイメージにとりつかれているようで、村に帰る道すがら、ワクウは何度も同じ質問を受け、同じ返事をすることになった。
 子どもたちはこの朝の罠の確認は断念したが、失望感はない。今朝の分は明日の朝回収すればよいのである。思いもかけない冒険が出来たことと、幼い仲間の勇気を称える雰囲気で心地よかった。既に朝日は姿を見せて、雲一つ無い空が高く青い。高台から東を眺めれば湖に光が映えてきらきらと眩しかった。
「そやけど、今のこと、大人には黙っとけよ」
 年長のリーダーの言葉に他の子どもたちは頷いた。子どもたちの知恵である。余計な心配をかけたくはないし、大人に話せば、子どもたちだけで魚の罠を確認に行くのを止められたりするかも知れない。そして何より恐ろしい事を口にした。
「あの兵たちが言うことがホンマやったら、あの事を話したら異人の祟りがあるで」
 子どもたちはまた頷いたが、ワクウのみ、その言葉に少し首を傾げていた。田畑を抜けて村に入ると、既に村は賑やかで、大人たちは朝の仕事に取りかかっていた。
 息子を見つけたノユリが声をかけた。
「ワクウ。母さんを手伝ってちょうだい、お客様に食事を運ぶの」


 朝露のしっとりした湿り気が、入り口の筵の隙間を通して入ってきて肌が心地よい。野鳥のさえずりに包まれて、アダムたちは優しい目覚めを迎えた。薄い敷物から草の香りがし、自然に身を任せる心地よさがあった。
「ここは何処なのよ」
 チェルニーの声で彼らは我に返った。信じられない状況から現実逃避するように、夢の余韻の中を彷徨っていたが、確かに、ここは昨日の朝まで彼女たちがいた場所ではなかった。木槌の音や男たちのかけ声が響いてきた。窓を開けて外を覗けば、人々が昨日までの祭りの後片付けをしているのである。彼らが身につける衣類や髪型は、質素で着古した衣類だが、丁寧に繕ったり洗ったりしてあるようで、人々の生真面目な気質が伝わってきた。
「質素だけど、満足感があって幸せそう。東洋にエデンの園があったとしたら、こんな所かしら」
「そうだね。いい笑顔をしている」
 アダムたちは小屋を出て、目の前の景色に、理想郷を思い描いてため息を付き合った。
「お目覚め?」
 ノユリが姿を見せた。ほかほかと湯気の立つ円筒形の木製容器を抱えていた。ワクウが入り口の簾をかき分けその隙間からノユリが家に入り、木の床に布を敷き、ワクウは母親を手伝って、部屋の隅に積み重ねられていた敷物を、客人の数だけ並べて置いた。
 アダムたちはその意味を理解した。これがこの世界の食卓らしい。四人は敷物に座って感謝を表すように笑顔を浮かべた。
「あらっ、ワクウちゃん、今日は髪型が違うのね」
 チェルニーの問いにノユリが笑った。
「そうなんです。よく物を無くす子なんですけど、髪を結う紐まで無くすなんて」
 敷物に輪になって座る四人の来客の傍らに、膝をついて湯気の立つ容器を置いた。蜆や山菜を混ぜて柔らかく蒸した何かの穀物である。ワクウが肩に提げてきた袋から椀を出し、ノユリが湯気の立つ粟飯をよそって木の匙を添えて差し出した。もてなす側の優しさを感じ取ることはできても、貧しさを隠すことはできない。これがこの世界の人々の朝食メニューらしい。
 ヨゼフは食べ物だと言うことを確認するように、くんっと香りを嗅ぎ、一口味わってから食べ始めた。他の仲間に頷いてみせて食べてみろと促した。椀を口元に寄せたチェルニーはこの香りに記憶があった。卵から生まれて間もない幼鳥にお湯でふやかした粟を食べさせたときにかいだ香りである。口に運んでみたが、ヨゼフがぺろりと食べたほど旨いものではない。さすがに吐き出すことははばかられて、細かな粒が口の中でざらざらするのを水で喉の奥に流し込んだ。二口目以降は口にするのも気が引けた。
「お口に合いませんか?」
 客人の食が進まないのを見たノユリが詫びるようにそう言った。
「何か別の食べ物は?」
「今はこれしか無いんです」
 ヘレンのそんな催促に、ノユリは考え込んでぽつりと言った。その傍らで客人の笑顔を期待していたワクウも、しょげかえるようで哀れに見えた。
 ノユリが姿を消すのを見て、ヘレンがヨゼフに文句を付けた。
「あなた、よくこんな鳥の餌が食べられるわね」
「まさか、ここでハンバーガーが食べられるとでも? この土地に来た以上、ここに合わせなきゃ」
 ヨゼフの言葉に、チェルニーがヘレンを支持して意見を吐いた。
「昨夜はあれほど食べたじゃない? この村が食料に困っているようには見えないけれど、昨日より待遇が悪くなったみたい」
 アダムやチェルニーはつい先ほどまでこの世界をエデンの園にも喩え、そこに住まうのは思いやり深い人々だと考えていた。しかし、アダムたちに与えられた食事の粗末さを見れば、考え直さざるを得ないと感じるのである。
「たとえ、犬や小鳥の餌でも食べておけよ。今日は一日中忙しくなるはずだから」
「アダム、言い過ぎだ」
 アダムの言葉にヨゼフが不快感を表し、その怒りを他の仲間にも向けた。
「不味いとか、犬の餌だとか。お前たちが不満なら、俺が一人で食うぞ」
 そう言われると、嫌々ながらでも食事を口にせざるを得ない。
「さて、今日はどうする?」
「決まってるわ。ロールプレイングゲームではこういう場合、村の有力者から情報を得ることになってるのよ」
「まず、この村の村長に会ってみよう」
「村長というと、ノユリさんのお父さんだね」
 昨夜、暗がりで見た村が隅々まで朝日に照らされていた。村人たちが賑やかに集まっていた桜の樹の周りには今は人影すら見えず、まばらに見える小屋の側にある畑を耕す人々が見えた。
「質素な村だね」
「ヨゼフ、それは何?」
「何に見える?」
 ヨゼフが手にしている藁細工を掲げて見せた。
「馬かしら」
 ヘレンはそう推測した。形は長い頭部と長い足、尾はピンと後方に伸びていて、たしかに馬に見える。
「何かの呪術の道具、あるいは、子どもの玩具。もし、子どもの玩具なら……」
 そう言うヨゼフにアダムが尋ねた。
「それが?」
「小屋の隅にあった。この小屋の先住者について、ちょっと気になってね」
 貧しさを感じる光景である。隣の小屋から顔を覗かせたワクウが招き入れてくれなければ、村長の小屋を見つけることは出来なかったかもしれない。ヨゼフは手にした藁細工の馬を、飛び跳ねるように動かして見せた。ワクウはヨゼフの笑顔に吊られるように寄ってきて、差し出された馬の玩具を受け取った。
「ワクウ、忘れ物をしていたの」
 入り口から顔をだしたノユリがそう言って、息子の頭を撫で、忘れ物を届けてくれたヨゼフにお辞儀をした。
「ワクウのためにありがとうございます。どうぞ、中へ。父母はまだ食事中ですが」
 アダムとチェルニー、ヘレンの三人は顔を見合わせた。彼らが一夜を過ごしたのはノユリとワクウの住居だと言うことである。二人はアダムたちに家を明け渡して、父親の小屋の一角に間借りしているのである。眺め回せば、複数の来客を迎え入れる余裕は、この村に無さそうだった。ただ、旅人に気遣いをさせずに受け入れる様子は、村が貧しいという表現ではなく、清楚と表現して良いだろう。
 小屋の中には単純な香りがした。蒸した粟飯、そのものの香りである。ノユリは父母のために粟飯をよそって盆に乗せた。
 ヘレンが隣のアダムの脇腹を肘で突いて椀の中を見るように促した。ほかほかと湯気の立つ粟飯は粟ばかりで何の具材も入っていなかった。小振りな椀に一杯の粟飯と小魚の干物。先ほどヘレンたちに供した食事に比べてなんとみすぼらしい食事だろう。アダムたちは食事に文句を言ったことを恥じた。彼らの貧しさと、貧しさの中で、精一杯に客をもてなす優しさが伺えた。
「ノユリさんたちは?」
「私たちはすぐに薬草摘みに出かけます。だから、父と母より早めに朝食を終えました」
 小屋の奥から、無口な夫に代わって村長の妻が立ち上がり、ノユリから朝食の盆を受け取りながら尋ねた。
「何かご用でしょうか」
「お話を伺いたいと思ったのですが、お食事のようですから出直してきます」
「かまいません。今、伺いましょう」
 村長はその一言のみで、にこにこと笑っているだけで後の言葉がない。戸惑い、尻込みを仕掛けるアダムに代わってヨゼフが遠慮もなく靴を脱いで板を張った床に足をかけた。
「では、お邪魔します」
 ヨゼフは村長の招きに応じたが、住居や食事で文句を言っていたアダムやヘレンは後ろめたさを感じて躊躇した。薬草摘みに出かけると言ったノユリが、アダムたちに声をかけてから父親の傍らに座った。自分も何か役に立てればと仕事を後回しにした気配が感じ取れた。ヨゼフはその仲間に手招きして呼び寄せて、昨日からの事情を語った。
 村長と妻はアダムたちに同情を示した。
「それは難渋して居られることでしょう」
 村長の妻が人の良さそうな笑顔で頷いた。
「本当に」
 しかし、地名や歴史や人名に関わる話題は、ことごとくすれ違った。一致する話題は天候や季節に関わる事柄だけで、それすら、昨日までアダムたちがいた日本の「梅雨」という言葉はなく、ただの長雨の季節と言うことにすぎない。彼らは帰るための手がかりを何も得ることは出来なかった。
「お役に立てないで済みません」
 そう言うノユリやその傍らで残念そうな表情のワクウを眺めると、こちらが恐縮させられる。彼らはこの場を辞した。
「心ゆくまで逗留なさるがよろしかろう」
 村長はアダムたちにどこから来たのかと問いもせずそう言って、出て行く客人を見送った。

 村長の家から外に出た四人は、小屋の前で話し合いの輪を作った。これからの予定を相談せねばならない。
「それにしても、ヨゼフって大胆というか、厚かましいわね」
「私も、食事を中断させたのは気が引けたわ」
 ヘレンやチェルニーの非難の言葉にヨゼフは心情を明かした。
「あの人たちの善良さを素直に受け入れろよ。俺たちが辞退したって、あの人たちは俺たちとの話を優先させるぞ。それならさっさと話を済ませて、暖かい食事をしてもらう方が良いさ」
「そういうものなの」
「遠慮は無用だよ。この人たちの善意は素直に受け取ればいいさ」
「私、考え直したわ。今朝、この世界の満ち足りた様子を見て理想郷じゃないかと思ったんだけど、今は違う。貧しいなかで心豊かなことが理想郷なのね」
 物思いに耽るようなチェルニーにヘレンが現実的な判断を下して言った。
「でも、ここにじっとしているわけにはいかないわ」
「僕たちが探すしかないという事だな」
「わすれないで、私たちはこの世界ではお尋ね者だから」
「ヘレン。それは貴女があの男たちをぶちのめしたからよ」
「和ちゃん」
 アダムはそう言いかけて、勘違いに気づき、背後に手招きをして正しく名を呼びなおした。
「ワクウちゃん」
 ワクウが村長の家の入り口に立って彼らを見守っていたのである。遊びの輪に入れてもらいたいのに、面識が浅くて甘えるのを遠慮している感じ。そういう無邪気な感情がワクウから伝わってきて、誰もワクウを話の輪に入れるのに異存はなかった。チェルニーがワクウの髪を撫でながら肩をすくめた。
「この村の人たちは親切だけど、話を聞いても何も分からないわね。大阪はどっちにあるのかしら」
「僕らと生まれ育った環境が違いすぎるんだね」
 ヨゼフはそう言い、意見を促すようにアダムの顔を眺めた。アダムは話を切り出した。
「まず、調べなくてはいけないのは、ここがどこかと言うことだ」「幸いこの村の人たちは信じて良さそうだ。この村をベースキャンプに調査を進めよう」
「それも出来るだけ早く」
「重点的に調べるさ」
「それじゃあ、昨日私たちが現れた辺り」
「目的は、帰るための情報と、行方不明になってるマリア、和ちゃん、エイモスの三人を探す事」
「ワクウ。ここにいたの」
 突然に会話割り込んだのは、息子の姿を探していたノユリの声だった。昨日の薬草を入れる籠を手にしたノユリの姿に、アダムは思いついたように仲間に言った。
「ごめん。僕はノユリさんと出かけてみるよ。この世界の人から話を聞くのも、何かの手がかりになるかもしれない」
「薬草を摘むのね。私も一緒に行って良い?」
 医学を学ぶ者として、チェルニーは薬草という言葉に興味を示し、ノユリは笑顔で頷いて同行を許可した。ヘレンにも異存はなかった。
「それが良いかもしれないわ」
 未知の危険を秘めた行動である。ヘレンが予想する危険を考えれば、ヘレンが他の仲間を守ってやらなくてはならないこともあるはずだ。のほほんとした性格だが、ヨゼフの身体能力は、不意の危機を避けることが出来るだろう。ただ、他の二人は戦闘では足手まといに違いない。彼女の偵察に同行する者はヨゼフで充分である。
「では、私とヨゼフは、昨日来た辺りを探索しましょう」
 そんなヘレンの言葉に、戦闘的な考えを読み取ったチェルニーが念を押した。
「ヘレン。平和的に、友好的に、笑顔で行動するのよ」
「それは、相手の出方次第よ」
 ヘレンの言葉に反論も出来ずチェルニーは不安げに肩をすくめた。ヘレンはそんな仲間を尻目に宣言した。
「さぁ、マリアたちを探索に行くわよ。海兵隊は仲間を見捨てない!」
 ヘレンの言葉に不安を隠せないアダムに、ヨゼフは決意したように頷いて見せて、なんとかヘレンの好戦的な行為を押さえる努力をするつもりだという意図を伝えた。
 賑やかなマレビトたちはこの村の人々の注目を集めていた。村の人々に見送られるように、ヘレンに率いられたヨゼフは村を発って南に向かおうとした。予定通りなら戻ってくるのは夕刻前だろう。
「あのぉ」
 ノユリがヘレンとヨゼフの背に声をかけて引き留めた。
「なぁに?」
「舟が必要では?」
 ノユリの言葉に、ヘレンは沈黙し照れ笑いを浮かべた。確かに、南の土地とは川で隔てられていて、向こう岸に渡るには舟が必要である。ヘレンは思考より行動が先走る質だった。ノユリは言葉を続けた。
「昨日の舟をお使いください」
 ノユリの言葉に、ヘレンたちは照れ笑いを浮かべたまま立ち去った。見送るノユリは、心配そうに眉をひそめてアダムを振り返って尋ねた。
「大丈夫でしょうか」
 そのノユリの表情と様子に、アダムは思わず微笑んだ。
「何か?」
「失礼。貴女が知り合いに似ていたもので」
 アダムは戸惑いを隠せないまま、そんな返事をした。大丈夫でしょうかと問う善意は信じて良い。ただ、その言葉をのほほんとした雰囲気で口にする様子が、マリアに似ていたのである。昨夜、桜の木の下で舞っていたノユリの姿も、感情をダンスのステップに乗せて躍るマリアの姿に重なった。
「さぁ」
 彼女は籠を掲げてみせた。出かける準備が整ったことを示したのみで、そのままアダムに背を向けて歩き出した。ついてこいとは言わないが、ついて来るだろうと信じて疑わない行動である。この妙なリーダーシップもまた、マリアを連想させた。ワクウが小走りに母親の背を追い、アダムとチェルニーもその後に続いた。

「ほぉっ」
「へぇ……」
 アダムとチェルニーはそろってため息をついた。のどかな自然の風景である。村から北に林を通り抜けて、景色を遠目に眺めると、空と地を隔てるなだらかな山の稜線が北から東へと続いていた、ここが山に囲まれた土地だと分かった。あちこちで乱れ咲く黄色い花の周囲で幾匹もの白いチョウが静かに舞っていた。大きく深呼吸をしてみると、排気ガスなど無縁の草木の芳香が肺を満たした。
「あの黒い地面は何だろう」
 アダムの興味を引いたのは、視界が開けた辺り一帯に広がる、細い道で分けられた土地である。昨日も同じような地形を眺めていた。アダムの意外な言葉にチェルニーが首を傾げた。
「黒い地面? 貴方、そんな風に見ているの」
「君は知っているのかい?」
 普段は博学だと尊敬もしているアダムの質問に、チェルニーは得意げな笑みを浮かべた。チェルニーはアダムが知らないことを常識として知っていた。彼女の母国でもよく見かける稲を育てる田園風景である。
「稲を育てるのよ。あそこを耕して、水を引き入れて水田を作るの。そこに稲の苗を植えるのよ。昨日、ヘレンが芝生って呼んでたのを覚えてない?」
「なるほど、あれが稲の苗なんだ。そしてこの田園が、稲が実った景色に変わるんだ」
 アダムは実りをつけた稲の穂がそよぐ田園風景を眺めたことはあるが、水田を作る前の田を眺めたのは初めてだった。昨日の踊りの最中、人々から伝わってきた豊かな収穫の期待は、この景色から始まるのである。そして、日照りを心配する村人たちの心情も理解できた。水田を作り稲を栽培するためには豊富な水が要る。
 新しい知識と経験に、アダムは少年のような無垢な好奇心を満足させた。ただ、目の前に広がる広大な田園で稲を栽培しているという人々が、米ではなく粟を常食としているのはどういうわけか。アダムはこの人々の収穫を簒奪する強欲な権力者の存在を想像した。
「田植えが始まると、私たちも忙しくなります」
 ノユリがそう言って笑った。チェルニーはアダムに頷いた。
「なるほど。薬草摘みは、農閑期のお仕事なのね」
 アダムも長老の家の片隅に鋤や鍬があったのを思い出した。ここがどこなのかは分からないが、耕耘機などの機械は無いらしい。この田の表面を鋤や鍬で掘り起こし、田に水を入れて水面の下の土を平す。体力と人数が必要な作業である。村の人々の明るさはそんな重労働を苦にする様子はなかった。ただ、ノユリは少し表情を曇らせて、右手をかざして太陽を仰ぎ見た。
「でも、今年は雨が少なくて、苗を植える日を選ぶのが大変です」
 ノユリは小首を傾げて付け加えた。
「遠くからお客様がいらして、雨をもたらせてくれると願ってたんですが」
 ノユリの言葉に、チェルニーがアダムに問いかけた。
「それが、私たちが村に歓迎された理由なのね」
「マレビトが幸運をもたらしてくれると信じてるんだ」
 ただ、晴れ上がった天候はその期待が裏切られたと言うことだが、ノユリたち村人は、その恨みをアダムたちに向けることもなく、運命を受け入れているようだった。
 ノユリはアダムとチェルニーを導くように歩き続け、水田が広がる景色を抜けた。目の前に草原が広がった。ここが目的の場所だった。ワクウはしゃがみ込んで産毛に覆われた柔らかい緑の葉を指さして彼が覚えた薬草の名を挙げた。
「よもぎ」
「それはもっと先、暑い夏が終わって、秋になってから採るのよ」
 息子にそう教えるノユリの後ろ姿は穏やかで、母親としての包容力を感じさせた。アダムはふとマリアのことを思い出した。マリアとノユリの二人は似ている。違いがあるとすれば、この包容力の大きさという点で、それを生み出しているのはこのワクウという子どもの存在に違いない。ただ、疑問も感じさせる。このノユリの夫の姿を見かけないのである。しかし、それを尋ねるのは、やや気が引けた。会話の中に夏や秋という言葉が出てきて、この土地に四季があることが分かった。アダムは聞き取った情報を胸のポケットから出した手帳に書き留めた。
 アダムは周囲を見回した。おそらくこれから夏を迎えようかという、春の残り香を残す光景である。この自然豊かな光景が春から夏へ、夏から秋へと変貌する。どれほど美しい光景だろう。そして、その後迎えるのは冬の景色だが、この人々の背景となれば穏やかで落ち着いた優しさを生むに違いない。足下の草むらから、二匹の野ねずみが姿を現して、追いかけっこでもするように走り去った。人の背丈ほどの高さの空をトンボが舞い、抜けるような空を見上げれば鷹が飛んでいた。自然のみならず生き物も豊かな土地である。
「おおばこ」
 息子が指し示す植物に、母親は笑って首を振り、誤りを教えた。
「ふぁこべら」
 今度は白い花をつけた植物を指したワクウにノユリは息子の頭を撫でて、その知識を褒めた。ワクウが口にして名は違っていたが、ノユリが探す薬草の一つを見つけたのである。
「ふぁこべら? この白い花をつけた草かい?」
 背丈の低い植物で、アダムは屈まないと地面に手が届かない。
「傷や腫れ物、痛み止め、何にでも利くんですよ」
 ノユリがそんな説明を加えながら草を摘み、かごに入れた。しゃがんで薬草を摘む姿勢になると、顔が接近して見える。
(なるほど)とアダムが思ったのは、至近距離で見るノユリの顔立ちは、マリアと微妙に異なっていたからである。楽天的な雰囲気は共通していても、マリアのような夢を見る無邪気さはなく、落ち着きがあり、思慮深さを感じさせる。母親という立場が落ち着きを醸し出すのかもしれないが、その落ち着きの中にどこか寂しさを漂わせている。その寂しさがアダムに質問する決心をさせた。
「貴女たちはお二人だけ?」
「えっ?」
「失礼だけど、ワクウちゃんにお父さんは?」
 アダムはノユリの表情が曇るのに気づいて、尋ねてはならないことに触れてしまったことに気づいた。ノユリはすぐに笑みを取り戻して、寂しい笑顔で言った。
「ワクウ、あの子に父親はいません」
 ノユリは言葉を詰まらせて、それ以上の会話を拒絶するように顔を伏せた。彼女の言葉と同時に感情が伝わって来るのだが、居ませんという言葉に、死を予感させる絶望の感情はなく、あきらめに似た意識が伝わってきたのみである。アダムは単純にノユリの夫、ワクウの父親の死を想像した。時と共に悲しみも薄れ、ノユリにとって夫の死があきらめになったと言うことか。アダムはそう解釈した。二人を隔てる距離は僅かだが、互いの視線はすれ違う。やや気まずい沈黙をワクウの声が救った。
「母さん、これ」
 ワクウがチェルニーと一緒に摘んだ薬草を両手一杯に抱えてきて母親に見せた。母親がその植物を眺めて、息子がちゃんと薬草のみ選別して摘んだことを確認して頷いて、笑顔で頭を撫でた。ほどなく、籠は一杯になり、アダムやチェルニーはそれ以上深く詮索することなく、ノユリとワクウの後に続いて帰途についた。

 青空に輝く恒星。それがアダムたちが住んでいた世界の太陽と同じ星なら、既に中天をすぎて、この土地は昼を迎えている。しかし、人々は働き者で午前午後を労働に費やしているのか、貧しくて食事を取ることが出来ないのか、ノユリもワクウも昼食を取る様子がない。むろん、田や畑で働く人々休息を取るのは見かけても、食事をしている姿はなかった。村に戻ったアダムは、家の脇に枝を組んで広げた筵の上の枯れ草の正体を知った。ノユリは枯れ草を大切に麻の布袋にしまい、先ほど摘んできたまだ生命感のある植物を代わりに並べた。この日当たりが良く、風通しの良い場所で、摘んだ薬草を乾燥させていたのである。
 干し終わった薬草の入った袋を示してノユリが言った。
「明日、この薬草をアラハカのセヤクインに納めに行きます。ご一緒されますか?」
 ノユリが今まで無言を保っていた。何か不都合なことを聞いてノユリに嫌われてしまったのかと考えていたのだが、突然の申し出にアダムは面食らった。
「もちろん。ただ」
「ただ?」
「ご迷惑では?」
「いいえ、この子も喜びますわ」
 ワクウが遠慮がちにアダムにまとわりついた。会ったことがない父のイメージをアダムに重ねて、甘えるようにも見える。
「では、お願いします」
 同行するというアダムの受諾をノユリは笑顔で受け入れた。セヤクインというのは聞き慣れない響きを持った言葉だが、病院に近いイメージをもって伝わってきた。そして、ノユリが発したアラハカという言葉は、地名であり、町の名であり、様々な施設の集合体というイメージを伴っていた。この国の行政に関わる組織というイメージがアダムの心に焼き付けられた。ノユリから政治や行政に関わるイメージが伝わってきたのは初めてだった。アダムは試しに問うてみた。
「貴女は、この国の政治をどう思いますか?」
「政(まつりごと)ですか?」
 ノユリは笑顔で首を傾げるのみである。隠し立てをする様子はなく混乱する意識のみが伝わってきた。彼女は政治や国家体制という仕組みを理解していないばかりか、そんな思想は頭の片隅にも無いらしいのである。民主主義とか社会主義など、政治体制には無縁の、この土地で生まれ、一生懸命に生きて、時が来れば命が尽きて土に帰る。ノユリ母子はそういう自然の摂理に身を任せる人々なのだろう。そんな人々が会釈を交わしながら行き交う景色を、傾きかけた陽の光が照らしていた。この人々は一日を無事に懸命に生きたのである。
 この時に、村に戻ってきたヨゼフの姿が見えた。背後に弓を手にしたヘレンの姿が確認できるが、姿を消してしまった仲間の姿はない。ヨゼフが肩をすくめる様子で、姿を消している三名は見つからなかったことが分かった。
 
 ヘレンの言葉を借りれば作戦会議である。彼らに与えられて宿舎の中で、今日一日の情報交換が始めた。ヘレンが口を開いた。
「昨日、川を渡る前に、まっすぐに南へ延びる街道があったでしょ?私たちは昨日の雑木林に隠れながら南へ向かったの」
「何か見つかったかい」
「だめね。西には昨日見た海辺。東は草むらや林が続いていて、途切れたところには至る所に畑があった。それだけ。貴方たちは?」
 ヘレンが報告を終え、アダムに問いかけた。チェルニーが答えた。
「村の北には、田植え前の田が広がっていて、遠くに山が続いて見えただけ」
 チェルニーの言葉に、アダムが新たな疑問を重ねた。
「稲の栽培、水田。そこからこの地域が特定できないかい」
「水田で稲を栽培するのには、温暖な気候で、雨が多いことかな」
「地域で言うと?」
「東南アジア、中国東南部、朝鮮半島、日本」
「その中で、五月から六月に田植えをする地域は?」
「私はそこまでくわしくないわ」
 場所を示す情報はここで途絶えた。ヨゼフが報告を引き継いだ。
「街道を進むと、商店が並んでるんだけど」
 商店が並ぶという言葉に、アダムは彼らがいたニッポンバシの雑然とした商店街を思い浮かべたのだが、ヨゼフは続く言葉でそれを打ち消した。
「ファンタジーみたいな気がするんだ。店というか、地面に商品を並べて売ってるんだ。映画で観た大昔の市場の様子に見えたよ」
 ヨゼフの言葉にアダムが応じた。
「こちらも一緒だ。村人たちに国や政治という感覚が無いんだ。大昔の人たちのように」
「では、ここは大昔のどこかなの?」
 チェルニーの疑問に答える者がなく、ヨゼフは言葉を続けた。
「街道の突き当たりに、大きな建物があって、何かの塔が建ってた」
 ヨゼフがそこで言葉を途切れさせたために、アダムは彼の表情を眺めて続きを督促したが、彼は言いにくそうにヘレンの持つ弓に視線を移した。ヘレンの手に見慣れない弓がある。弓に視線が集まるのに気づいたヘレンが、へへへと照れるように笑って言った。
「戦利品。その塔を確認しようと接近したら、昨日のあの人と出くわしたのよ」
 彼女は昨日のケハヤという男と戦って、今度は手にした弓を勝ち取ったというのである。文句の一つも言われるだろうと肩をすくめるヘレンに、アダムは予想外のことを言った。
「塔? それだ。その場所、その塔がアラハカじゃないだろうか」
「どうしたの、何かの塔なら、確かに見えたわよ」
「ノユリさんが薬草をアラハカの施設に納めに行くと言ってた。たぶん、ヨゼフが見た施設じゃないか。明日、ノユリさんと一緒に行ってみるよ」
 ヨゼフが提案した。
「では、俺たちも一緒に」
 この時にノユリが現れた。夕餉の膳を運んできたのである。朝食に比べれば品数も多く、目立って豪華になっている。この世界の人々は朝食を粗食で済ませ、豪華な夕食を食べると言うことだろうか。傍らに侍るワクウの目を見れば、特別な日のご馳走を眺める珍しいものを見る目つきで、ノユリが客人のために特別なご馳走をそろえたことが想像できた。
「ご一緒に食べませんか。私が取り分けますから」
 ヘレンが蒸した粟の上に乗った具材をかき分けて、粟の部分だけを仲間の椀によそった。
「この連中は、ダイエットが必要ですから贅沢は避けてるんです」
 そして、残った粟に蜆や海草など贅沢な具材加えてノユリやワクウの椀に盛りつけた。チェルニーは自分の椀を手にして言った。
「みんなで食べると美味しいわ」
「明日の朝も、この村の皆さんと同じもので結構です。みなさんと同じ食事を提供していただいていることを心から感謝しています」
 ヘレンの言葉を受け入れてノユリが提案した。
「では、明日の朝食は母屋で父を交えて食事をしてはいかがでしょう。父も賑やかで喜びます」
 ノユリとワクウを交えた食事が始まった。
「食べなさい」
 チェルニーは小皿に盛りつけてあったドライフルーツの1つを手にして半分にちぎりワクウに与えた。彼女はふと思った。貧しくは見えるけれど、同じものを分け合って食べるというのは心を分け合う心地よさがある。
 食事が終わり、ノユリはあくびをする息子に、空になった食器の一部を持たせて父親の村長が待つ小屋に去った。その仲の良い母子の後ろ姿を眺めながらアダムがぽつりと言った。
「豊かな田や畑があるように見えるけれど、全てが農民のものではないんだね」
「きっと重い税にあえいで居るんだ」
「強欲な支配者が居ると言うこと?」
 豊かな田園地帯と、粟を常食とする貧しい食生活。巨大な建築物群と、清楚だがすきま風のはいる家のギャップが、彼らの意識の中に、この善良な人々に貧困を強いて、私腹を肥やす悪逆非道な独裁的権力者のイメージが湧いていた。

 


 川面がからりと晴れた空から注ぐ朝日を浴てまぶしい。その川を横切って、一艘の船が対岸の船着き場に着いた。
「ごめんなさい」
 ノユリは荷を担ぐヨゼフに詫び、ヨゼフは笑顔で気にするなと告げた。薬草を入れた大きな麻袋を担いで、村の南にある施薬院に税として納めに行く。今日はヨゼフがその税をノユリに替わって担いでいる。アダムたちはノユリに案内されながら、南の方角を探索するつもりなのである。
 ノユリの村から川を渡った船着き場から、草むらの中に続く細道を南に抜けると、街道に合流する。街道の西に延びるその端は、アダムたちがこの世界にやってきた日に眺めた何かの倉庫群や役所らしき建物がある。ノユリはそれを租税の穀物を収める倉と役所だと語った。街道のもう一端はまっすぐに南に延びていた。役所に向かう街道に、小規模な市が見えたものの、アダムたちが歩む南の方向に人気は絶えた。やや歩くと北東に延びる分岐があり、ノユリは興味なさげに、その先には砦があるだけだと言った。その無関心な様子で、この世界で生活する人々が、軍隊とは無関係に生きる人々だと分かった。
 雑木林の中を縫って進み、たまに雑木林の切れ目があると、その隙間から西に海が見えるという光景である。
 平坦な道を一時間ばかりあるいて、その景色の単調さに飽きた頃、昨日、ヘレンたちの語ったとおり、賑やかで街道を行き交う人々の姿もちらほら見かけるようになってきた。さすがに、外見の違う異邦人は注目を浴びたが、先導するノユリの笑顔や、安心しきってアダムたちに寄り添うワクウの姿を見ただけで、彼らは警戒を解いたように見えた。
「ずいぶん温厚で寛容的な人たちなのね」
 チェルニーの好意的な評価をアダムが冷静に修正した。
「あるいは、生活が苦しくて、僕らにかまっている余裕がないかのどちらかだね」
「ずいぶん厳しい評価だね」
 ヨゼフがアダムの言葉を批判じみた口調で評した。行き交う人々が漂わせる善良さを素直に受け入れれば、温厚な性格だと考えても良い。ただ、アダムは人々から重い荷を背負うような一途な気むずかしさを感じ取ったのである。この国を満たす豊かな自然が切り開かれて、文明を誇示するように、彼らの目の前に塔がそびえていた。タイ生まれのチェルニーは、仏教建築にもやや知識があった。
「仏教建築のようにも見えるわね。あの塔は寺院のシンボル。だとしたら、塔の周囲に仏像を祀るお堂があるの。でも、私たちが見るお寺とは少し雰囲気が違うわね」
「寺院だとしても、この世界の人々とは符合しないようだね。ノユリさんは仏教徒では無さそうだ」
 ノユリの村に迎えられた日の祭りの様子を思い出せば、民俗学に興味のないヨゼフにも結論が見いだせた。
「神々を持たないか、すべてに神が宿っていると考えているのかどちらだろう」
 手にしたパズルの一片が左右は当てはまりそうだが、上下の凹凸は一片の角度を変えても当てはまらない。彼らが既に目撃した、桜の樹に豊穣の願いを託して祭りをするというのは、神への祈りでも、仏教の教えというわけでも無さそうなのである。
「いろいろな宗教があるのか、特別な教義のない原始的なアニミズムの社会に、新たに仏教が入ってきているという感じかな」
 道は他の道と合流して幅を増す。同時に行き交う人々も増えていた。アダムたちはいつの間まやら人々の喧噪の中にいた。喧噪に何かの商品の売り声が混じってくると、道の両脇には四方に人の背丈より少し高い柱を立てて屋根だけ拭いた露店が並んでいた。

 昨日ヨゼフがファンタジーと称した光景である。露店は地面に直接に筵を敷いて、様々な商品を並べている。店の並びは雑多で、鋤や鍬を並べる店の横に、布や衣服を売る店があり、その向かいには野菜を売る店や、素焼きの皿や壺を並べる店があり、景気の良い売り声で道行く人々を誘い、人々は軽い好奇心で店を覗いて、売り子をからかったりしていた。雑踏の中、天秤棒を担いだ男が人々にぶつかりもせず器用にバランスを取って魚を運んでいた。
 さすがに、肌の色や顔立ちが異なるアダムたちは、人々の好奇心を刺激したらしく視線を集めたが、その好奇心に敵意は混じってはいない。見慣れぬ姿の人々より日々の仕事の方が大事らしく、商売をおろそかにしてアダムたちに関わろうとする人は居なかった。
「ここに居れば居るほど、何もかも分からなくなるね」
 ヨゼフの言葉にチェルニーが頷いた。肌に感じるのは温帯地域の気温だが、彼らの世界のどこを思い浮かべても、目の前の人々の生活に該当する文化はなかった。彼らが生まれ育った世界との接点は見つからず、彼らが帰る手がかりもない。ワクウの村で感じた清楚な貧しさと、この市で感じる人や物流の社会の活気、状況が混沌としていて整理されない未成熟な社会。
 アダムたちが目にしていた塔の屋根が、幾重にも重なり合って層になっていた。その周囲を塀が囲んでいるのだが、塀の上に覗き見える塔や、周囲の建築物の壮大さ、塀に沿ってその外周を歩く距離の長さで、この建築物を含む施設全体の大きさが知れた。この建築物の巨大さは、強欲な権力者のイメージを持っていたこの時のアダムたちに、民を虐げる王の宮殿のようにも思われた。ただ、そのイメージは間もなく、様々な人々との出会いで跡形もなく払拭されることになった。仏教寺院を中心にした様々な施設の集合体である。
 やがて、白木造りの小屋が三棟、並んでいるのが見えると、ノユリはアダムたちを振り返って、黙ったまま笑顔で目的地だと伝えた。小屋を囲む質素な塀の門をくぐると、一人の女が姿を見せた。
「あらっ、ノユリとワクウ。待っていたわよ」
 女は気さくな笑顔でノユリ親子を迎えたが、アダムたちに気づいて、見慣れぬ風体に驚いたように首を傾げた。ノユリが笑顔で紹介した。
「先日から村に逗留している方々です。アダムさん、チェルニーさん、ヘレンさん、ヨゼフさん」
「初めまして、ヨゼフです」
 ヨゼフは自分が差し出した握手の手の意味を、相手が解しかねているのに気づいて、手を引っ込め、ぺこりと頭を下げてお辞儀に変えた。この世界では、握手を交わすという習慣は無さそうだった。女も丁寧にお辞儀を返して名乗った。
「初めてお目にかかります。ヲグツと申します」
 礼をする仕草だけではなく、言葉の柔らかさからも気品が伝わってきて、彼女の育ちの良さを感じさせた。アダムたちも自ら名乗ってお辞儀をした。さすがに、じろじろと観察するのは避けたが、さりげなくヲグツを窺ってみると、この小屋で他の女たちにてきぱきと指示を出す様子から、この施設の責任者かもしれない。アダムはこの女性が、権力者の館で使用人を束ねる女中頭のようなものかと考えた。頭の中から民を虐げる権力者の像が離れないのである。
「何の施設だろう?」
「雰囲気から見れば病院だけど」
 入り口から建屋の中をかいま見たチェルニーがそう呟いた。敷物に横たえられた多数の人々と、その傍らでかいがいしく世話をする人々を見ていると、患者と看護婦や医師をの関係が読み取れる。第一、ノユリはこの施設に薬草を届けたのである。この施設に漂う香りは薬草を煎じている匂いだろう。この施設を病院だと認めざるを得ない。にもかかわらずチェルニーが首を傾げるのは、彼女が病院に抱くイメージと比べて、信じられないほど原始的な雰囲気が漂うせいである。
(ここはガラスの注射器すら見かけない)
 彼女は原始的だと口に出すのは控えたが心の中でそう呟いた。ノユリがヲグツに言った。
「この方たちがこの辺りのことを見て回りたいと」
「どうぞご自由に。どこでも見て回っていてかまいませんよ」
 ヲグツは意外なほど気さくに応じた。ただ少し首を傾げて考えて付け加えた。
「でも、日がお悪い」
「なにかご都合が?」
 チェルニーの問いにヲグツが笑顔で答えた。
「明後日なら、ミコがお見えになると言うのに」
「ミコ?」
 アダムは新たに聞いた名を手帳に書き留めた。
「お会いになれば、ミコがお喜びになりましょうに」
「あのお方も、珍しい方に会うのがお好きですから」
 ノユリは楽しげにヲグツに相づちを打ったあと、軽く会釈を残して、アダムたちを導くように歩き始めた。寺院の建物を別にすれば、低い塀で囲まれているだけだが、アダムたちは広大な敷地の中というというイメージを抱いた。この辺りの人々に先ほどの市とは違った、役所っぽい堅苦しさと、宗教が持つ戒律臭さが漂っていた。
「あのスキンヘッドで白いマントの人たちは、仏教の僧侶なの?」
 アダムたちはヘレンの表現の面白さに笑った。彼女たちの前方を、剃髪した男たちが一列に並んで横切ったのである。たしかに、剃髪し白い僧衣をまとった人々の姿はヘレンの表現のように見えなくはない。ただ、彼らが大阪で目にする黒い衣の僧ではなく、ここが大阪や日本だという意識が遠ざかった。しかし、質朴だが凜とした信念を感じさせる彼らの一途な瞳は、アダムにアッシジの修道士フランチェスコを思い起こさせた。世の東西、宗教、時代を問わず、信仰に生きる者に共通する要素を持っているのかも知れなかった。ノユリはアダムに、このセヤクインが寺院の管轄下にあると説明した。ただ、何処なのかと考える間も、その結論もなく、彼らの前には次々に見慣れない光景が出現する。

「なるほど、ヲグツさんがいたのは公立の病院で、南にあるのは仏教寺院」
「それから、ここは?」
「ヒデンインといいます」
 ノユリはこの施設の名を挙げた。チェルニーはその言葉に思い当たるような気がしながら思い出せない。アダムは周囲に群がる子どもたちを眺めた。やや距離をおいてはいるが、見慣れない異邦人に対して警戒心より好奇心の方が強いらしい。ヨゼフはふと思いついて、ポケットから五百円硬貨を取り出した。
「私はヨゼフです。遠い国からやって来ました」
 そんな自己紹介をしながら、周囲の子どもたちに、硬貨の大きさを見せ、指先で弾いてその堅い質感を伝えた。右の手の平に握り込んで左手を添えて、得体の知れない呪文を唱えてから指を伸ばすと、硬貨は見事にヨゼフの手の平から消えていた。なにもない手の平を見せられた子どもたちや女官は、驚きの声を挙げてヨゼフの笑顔に吊られて湧いた。
 ただし、アダムやヘレンの位置からは、ヨゼフが人差し指と中指に挟んだ硬貨が手の甲の側にはみ出して見えている。ただ、種を明かせば単純な手品は、ヨゼフが尊敬を集めるのに役立ったらしい。周囲の視線が素直に尊敬と畏怖の感情が感じ取れた。疑うことを知らない素直な人々である。
 子どもたちの表情を眺めていたヘレンは断じた。
「ここは学校か幼稚園、或いは、児童養護施設というところかしら。それにしても、ヨゼフ、あなたは子どもたちの人気者ね」
 もともと気さくな上に、あっさりと大人の意識を捨て去って子どものような純な意識になれる男である。身長に差がなければ他の子どもたちと区別がつくまいと思うほど、子どもたちにとけ込んで彼自身がはしゃいでいた。子どもたちの世話をする女官たちの視線が優しく好奇心に満ちていた。
「行くわよ。私たちの目的は手品を見せる事じゃなくて、情報収集なんだから」
 ヘレンがそうヨゼフを促した。アダムは子どもたちに別れの手を振った。
「怖いオバさんがいるから、また今度ね」
 ヘレンはそのヨゼフの頬を力強くつまんで、彼の次の言葉を封じて、子どもたちに笑顔で世界に通用する真理を語った。
「みんな、覚えておいて。言葉には気をつけるのよ。女にはお姉さんって呼んでおけば間違いがないわ」
 ヘレンに頬をつままれながら遠ざかるヨゼフに、子どもたちは名を呼んで別れを惜しんだ。
「よぜふぅ、また、来る?」
 この世界の人々にとけ込むというのは悪いことではないだろう。しかし、アダムは気になったことをヨゼフに教えた。
「手品を見せるのは気を付けた方が良い。彼らの宗教は寛容的らしいが、クリスチャンやユダヤ教徒からは、魔術師は危険人物として扱われて、殺されることもある」
 この社会の宗教は、人々の好奇心を素直に受け入れるようだが、アダムの言うとおり、自分たちの教義に逢わない物を、神に敵対する悪魔の仕業として排除する思想がある。時に、悪魔の手先と見なした者の命を奪うこともいとわないのである。
 アダムは目の前に広がってきた柵に囲まれた光景を見て、チェルニーに笑いかけた。
「草むらだなんて言うなよ」
「馬鹿にしないで。さっき病院があったから、あれは、きっと薬草園よ」
「なるほど、薬草を栽培してるんだ。ノユリさんはここで栽培しきれない薬草を摘んで病院に納めていると言うことか?」
「結局、ここは僕たちが住んでいた世界とは、完全に切り離された世界だと考えても良いんじゃないだろうか」
「では、どこなの」
「どこかのファンタジーの世界」
 思考を突き放した答えだが、ほかに選択肢は無さそうだった。
「それにしても、大らかな世界だね。僕らの姿形が違っているのに気にする様子もない」
「そうでもないらしいわ」
 ヘレンが笑って、視線をやった先に、戸口や窓からこちらを伺う人々の数が数え切れない。人々はどこからともなくやって来た珍しい客人に対して、好奇心は隠せていないのである。ヘレンがこの場で意外な話題を振った。
「ねぇ、貴方たち。大阪の街を歩いていたり、電車に乗っていたりするときに、日本人たちの視線を感じること無い?」
 ヘレンにそう問われてみると、確かに、アダムにもチェルニーにも、ヨゼフにも、心当たりがある。
「じろじろと見るわけじゃないんだけど、こっそりと観察する感じね」
「そうだね。敵意は感じないけど、動物園の中の珍しい動物になった気がする」
「それがどうしたんだい」
「この人たちの視線を浴びてると、日本人と同じ視線だなって思ったの」
 衣類や髪型など外見の違いを別にすれば、この人々の本質が、日本人と似ているというのである。現代の日本という繋がりで、チェルニーは気になる言葉がある。
「そう言えば、ヒデンインってどこかで聞いたことがあるんだけど」
 その回答は見いだせないまま彼女たちは帰途についた。

 市を通る道すがら、ヘレンは一軒の露店の前に立ち止まり、背に背負っていた包みを解いて剣を取り出した。彼女がこの世界に来た時に、兵士たちから手に入れた剣の一本である。行き交う人や、露天に商品を広げる人々は一様に驚きを見せた。今まで人々は平静を装っては居たが、さすがに風体の違うアダムたちは密かに注目を浴びていたのだろう。その一人がいきなり、この平和な市で武器を取り出したのである。この場の緊張が高まるのも当然といえた。
 ヘレンは剣を鞘に収めたまま露天商に差し出し、筵の上の穀物を指さした。
「これで、その食べ物をちょうだい」
 物々交換をして欲しいというのだろう。露天商は受け取った剣を抜いて本物だと確認し、その価値に驚き慌てて、筵の上に盛り上げていた米の山を包み、麦を包み、ありったけの粟を包んで言った。
「これだけしかない」
 ヘレンにはこの世界の商品価値は理解できないが、どうやら剣の価値に見合うだけの商品はないということだろう。ヘレンはその商売の正直さを笑って受け入れた。最初の日に兵士たちから奪った剣の一振りが食料に変わったのである。彼女は腰の剣に手を当てた。下級兵士の粗末な剣がこの穀物に変わるなら、あのケハヤと呼ばれた指揮官の剣はどれほど価値があるだろう。手にいれた荷は分散して担いだが、アダムたちの背にずしりと重い。
「あんな大事なものを手放してしまって良いのですか」
 ノユリが心配そうに言った。
「かまわないわ。まだ余分にあるし、欲しければまた手に入れるだけよ」
「ヘレン」
 チェルニーがヘレンの名を呼んで叱った。必要ならというのは、兵士から奪うというニュアンスだ。これ以上、もめ事を増やすなと言いたいのである。ここでも、彼らは人々の好奇心に包まれている。遠巻きに彼らを眺める人々が、ひそひそと話を交わしていた。
「アレが噂のマレビトか?」
「今度は、海ではなくて、霧の中からやって来たそうな」
「ほんに、不思議な話じゃわ」
 そんな囁きの中で、アダムたちは大声で自分たちの出自を説明する気にもなれず、ただ黙って通り過ぎた。
「聞いた?」
 ヘレンが短く尋ね、アダムが市の人々のうわさ話を答えた。
「僕らより前に、海からやって来たマレビトが居るんだ」
 ただ、それ以外の情報はなく、話題は途絶えた。無言で歩き続ける仲間の周りをワクウは笑顔で駆け回り続けていた。

「ちょっと、こちらにも」
 チェルニーが指さす先に雑木林の切れ目から背の高い葦が密に茂る原が見え、その向こうに傾きかけた日に照らされた波が、雑木林で切り取られた額縁の中に見えていた。額縁からはみ出すような広大な水面は彼女たちに海を連想させた。チェルニーは西の海の他に、東にも海が広がっていたと称したのである。アダムはその意見に反対せず、この辺りが海に長く突き出した岬のような所かと考えた。彼らは来た道を逆に辿って村の南岸の船着き場についた頃には、陽は傾いて長い影が出来ていた。ヨゼフやアダムが背負う袋はずしりと重かったが、疲労感より食糧の確保が出来た安心感が大きかった。
 村の手前で、ノユリがやおら西の夕日を眺めてぺこりとお辞儀をし、ワクウも母親の仕草をまねた。アダムたちにとって不思議にも見える仕草に、ワクウは行為の理由を説明した。
「毎日、ご先祖様に『今日一日、無事に過ごせました』って、心の中でお礼を言うねんで」
 アダムはその純朴な信仰に微笑んだ。神や仏ではなく、自分に命を繋いでくれた人々に感謝する人々なのである。村の西に村人たちの祖先を葬ってきた墓地でもあるのだろう。
「ノユリさんの旦那さんも、そこに?」
 傍らで息子の頭を撫で、自らもぺこりと頭を下げたノユリにアダムはそう尋ねた。ノユリの返事はなく、アダムの質問が理解できない混乱する感情のみが伝わってきた。アダムは慌てて質問を打ち消した。
「変な質問をしてごめんなさい。ちょっと勘違いをしていました」
 ノユリは微笑んでその訂正を受け入れ、アダムは姿を見せないノユリの夫について、心の中に疑問を吐いた。
(ノユリさんの夫は、亡くなっているわけじゃないのか?)
 そんなアダムたちを残して、ワクウは自宅に戻った嬉しさに村に向かって駆けだした。ただ直ぐにその足を止めたために、アダムたちはワクウに追いついた。ノユリは我が子の気持ちを察して、その意識を反らすように名を呼んだ。
「ワクウ」
 母の呼びかけに振り返ったワクウは、無表情だったが涙をこぼしてはいなかった。ワクウの向こうに野良仕事を終えて帰ってきた男の姿があり、その男に寄り添う子どもの姿があった。アダムはその父と子の姿をワクウと重ねてみた。この子は村の中で自分だけ父親のいない寂しさを、心に秘めているのである。

 日が落ちる前に、アダムたちは村に戻ってきた、宿舎に帰る前に一つの用件があった。彼らは荷を担いだまま村長の家を訪問した。
「この村で世話になるお礼です。村の人たちで分けてください」
 ヘレンは持ち帰ってきた穀物の袋を村長の前にどさりと置いた。アダムたち他の仲間にも異存はない、彼らも次々と担いできた荷を置いた。
「これはこれは、村の者どもも喜びましょう」
「一つ教えて欲しいことがあります」
 突然に話を切り出したヘレンに村長は首を傾げた。
「なにか?」
「あなたたちが、私たちと会ったときに、あまり驚かなかった。それはどうして?」
「祭りの日に、不可思議な方々がやってくるという言い伝えがあります。それが本当でした」
「南の市で、『今度は海ではなく、霧の中からやって来た』と聞きました」
「それが?」
「海からやってきたマレビトをご存じでは?」
「十三年前、何艘かに分乗してやって来た異人たちの船の二艘が、春の嵐の中で難破して村の西の浜に流れ着きました。私どもはそれを助けてこの村に招きました。他の船はナヌワの港にたどり着いたとの事です」
「やはり、海からやって来た人たちが居るのね」
 チェルニーの言葉に頷くように村長は話を続けた。
「やがて、無事に到着した方々も、この村で動けない仲間の世話のために村にやってきて住まわれました。この村で私たちと一緒に過ごしていたのですが」
 口ごもる村長に、ヨゼフが素直な疑問を投げた。
「その人たちは、いま、どこにいるんですか?」
 何故かその言葉に、傍らのノユリが顔を伏せた。村長は言葉を選びつつ短く言った。
「よく存じません。湖の向こう側、東の方に移ったたとか」
「その居住地はどこにあるの」
「いいえ、行かないのが賢明です」
 もう、これ以上答えるべき事はないという断定的な口調だった。村長は話題を変えた。
「そうそう、盗賊のような風体の不審者が彷徨いているとか。村でも注意をするようにと、おふれがありました」
 仲間の視線が一斉にヘレンに注がれた。彼女は兵士を襲って武器を奪った実績がある。
「何よ」
 疑いを向けられたヘレンの怒りの目に、村長は笑って言った。
「いやいや、女性ではありません。体格からみて屈強な男だろうと。兵士たちが不審者を捜して警戒しておりますよ」
 笑いにも関わらず、何故か村長にもノユリにも重い雰囲気が漂っていて、東の湖の対岸に居住地を移したマレビトについて尋ねる雰囲気ではなかった。アダムたちは村長の小屋を立ち去るしかなかった。
「ワクウ」
 ノユリが息子をたしなめる口調の声が響いた。アダムたち客人の邪魔になると言うのである。ふと気づいてみると、ワクウが小屋を立ち去るアダムたちの傍らにいる。幼児の笑顔の中に、甘えたりおねだりする雰囲気があり、遊んで欲しいのだと分かった。チェルニーが優しくワクウの髪を撫でた。他に遊ぶ大勢の子どもたちが居るのにアダムに寄り添うというのは、心の中に父親の存在を求めているのではないかと不憫に思ったからである。アダムは笑顔でワクウを引き寄せてノユリに手を振ってみせ、問題はないと伝えた。
 事実、ワクウはアダムたちにとって目障りではなかった。心許せる仲間同士、この世界で集めた情報交換の場の中でヨゼフに抱っこされたりチェルニーの傍らに座って機嫌良く理解できない話に興味深げに耳を傾けていた。自分もこの仲間に入っていることに心地よさを感じているのかと思うと、気まぐれに部屋の隅に移動して一人遊びに興じていた。その無邪気さは、心の混乱が収まらないアダムたちを癒していた。ワクウは一人遊びに興じながらも、アダムたちを窺う様子があり、一緒に遊んで欲しいという意識がかいま見える。
 ヘレンは立ち上がって、そんなワクウに手招きをした。ワクウが誘いに応じて接近して来たのを、ヘレンは右手を差し出して制して、軽く足払いをかけて倒れ込むワクウをそっと支えながら床に押しつけた。ワクウはヘレンの人差し指の先で押さえられているだけなのに身動きができない。その不思議さにこの幼児は首を傾げた。ヘレンは指を離して幼児を自由にし、上に向けた手の平の先で指を曲げてワクウを誘った。そのヘレンの笑顔で、ワクウは彼女の意図を察して挑みかかった。もちろん、ワクウがヘレンにかなうはずがない。ワクウはヘレンの右足にしがみついたり、ヘレンの腰に両手を当てて力一杯押したりしたが、その都度、柔らかく押し倒されて床に転がった。何度負けても挑みかかって行く勇敢な様子は、ワクウが男の子だなという雰囲気を感じさせた。ただ、冷静に見れば、母犬にじゃれつく子犬のように見えなくもない。ワクウがやや息を切らせ始めたのを見たヘレンは、彼の背を軽く叩いて健闘を称えて、このトレーニングを兼ねた遊びを終えた。
「私が父から格闘技の手ほどきを受け始めたのは、この子の年頃だったわ」
 ヘレンは何かを思い浮かべるようにそう言った。彼女はワクウの姿を眺めて、父親と自分の関係を思い出したに違いなかった。そして、ワクウの父に代わってワクウと遊んでやったらしい。チェルニーも思い出に耽るように言った。
「私の父は学校の教師でね、礼儀作法に厳しい人だったわ」
「なるほど。あなたの堅苦しい性格は、お父様の教育の賜ね」
「そういうヘレンの脳みそが筋肉なのは、パパの遺伝かしら」
 ヨゼフが二人に割り込んで、女たちなやりとりを静止させ、自分の思い出を語り始めた。
「俺の父は真面目な商売人だった。でも、学校を出ていないというのを気にしていて、息子の俺には学ばせようと必死だったよ。日本への留学のツテも親父が見つけてくれたんだ。でも……」
「でも?」
「俺は、学問が無くても真面目で正直に生きてる親父の生き方からいろんなコトを学んだ気がするんだ。アダム、君は?」
 突然に自分に話が回ってきたアダムは面食らった。ヘレンやチェルニー、ヨゼフが語る父親像を何処か別の世界の人間のように想像していて自分の父の具体的な姿を考えては居なかった。
「ボクの父親か、何を語り継いでくれているんだろう」そういう疑問を発したのみで傍らにいたワクウの頭を撫でた。
 ワクウが元で父親の話題になったが、この時の当の本人は、父親が居ないことなど気にする様子はなく、にこにこと笑っていた。

 


 翌朝、ヘレンたちは村はずれの森林から響く物音に、鼓膜をつつかれるような不快感を感じて目を覚ました。心地よい眠りを妨げられたヘレンが怒りの声を上げた。
「五月蠅いわねぇ。あんまり騒ぐと、焼き鳥にしてやるから」
 そう言う辺り、ヘレンはこの物音の正体を知って居るのだろう。耳を押さえて騒音を防いでいたチェルニーも知っていた。キツツキが木の幹を突いている音である。こうして、彼女たちはこの世界の新たな生物の存在を知り、この世界に深く接していく。ただ、ヨゼフはあの音にも動じる様子もなく、心地よく眠り続けていた。
「こら、こらっ」
 自分たちは起こされたのに、心地よく眠って居られるのもやや腹立たしく、チェルニーはつま先でヨゼフの尻を突いて目覚めさせた。しかし、家の中にアダムの姿がない。耳を澄ますと小口の外からアダムの呟きが聞こえた。
「アラハカの寺院……。ミコ……。海から来たマレビト……」

「何か分かった?」
 ヘレンは手帳を見ながら考え込むアダムにそう問いかけた。思考を中断されたアダムは、黙って不機嫌そうな表情を向けた。ヘレンは口を噤んで、傍らのチェルニーに肩をすくめて見せた。
 この世界にやってきて四日目になる。几帳面なアダムは、その間の出来事や聞き取った人の名を手帳に書き留めていた。散歩をしながら情報を整理し、考えをまとめるというのはこの世界に来てからも続いており、ヘレンやチェルニー、ヨゼフの三人はアダムに付き合って、豊かな自然を楽しみつつ、村の北側へ散歩を始めた。
 ただ、考えがまとまらない様子が、散歩の距離に現れていた。いつの間にか村からずいぶん離れ、周囲は草原である。
「誰か居るの?」
 ヘレンがその気配を察して振り返った。決して、風が起こした音ではない。背の高い草むらの中で何かが動く気配が響いたのである。村人なら隠れる必要はなく、ヘレンたちから身を隠していると言うことは、敵意を持った人物かも知れなかった。
「村長が兵士から聞いた不審者じゃないの」
「どうする?」
「村人たちに危害を及ぼすような連中だったら面倒だね」
「確認しましょう」
 ヘレンの行動は素早い。彼女はアダムたち三人に物音を立てながら草むらに入って、不審者を追い立てろと指示をして、彼女自身は狩り出されるはずの不審者を待って、向こうに見える草むらの切れ目に向かって、背を低くして駆けた。
 アダムたち三人は声を張り上げ、広げた腕で草むらを激しく叩きながら移動した。たしかに、ヘレンの指摘通り、人影は見えないが、誰かが草むらの中を進むように、かき分けられる草の穂先が揺れていて、ヘレンの指定通りの方向に向かっていた。
 先回りしたヘレンと、草むらを抜けた男が至近距離で鉢合わせした。
「あらっ、エイモス?」
 ヘレンは草むらから出てきた男の顔を見て、姿を消していた仲間の一人の名を叫んだ。男もまた意外なものを見たように一瞬立ち止まり、二人は一瞬見つめ合っていた。ヘレンはその直後の悲惨な出来事を予感して、顔を背けた。男はヘレンの視線を追って振り向いたが、後ろから振り下ろされた棍棒を避ける余裕はなかった。
 幸いなことにチェルニーが非力であったこと、手にした棒にそれほど重量感がなかったことで、男は頭にこぶをつくり、痛みに耐えながらうずくまる程度で済んだ。ヘレンはチェルニーに非難の言葉を浴びせた。
「暴力的な女ね」
「ヘレン。貴女に言われたくないわ」
【お前たちは何者だ?】
 ノユリたちの言葉と別の言語だったが、ノユリたちの言葉が理解できるのと同様、アダムたちには、男が話す言葉が感情に乗って伝わった。痛みに耐えながらそう尋ねる男の言葉から、目の前の四人をこの国の人々と区別していることも分かった。ただ、そう尋ねる男自身、極東アジアの人の顔立ちではない。何より、姿を消しているエイモスに、顔立ちが似ている。衣服を着替えた同一人物だと言われても信じたに違いない。
「ごめんなさい。まず頭を診せて」
 チェルニーにそう言われ、男が温和しく身をゆだねる様子をみれば、敵ではないらしく、診察という行為を通じて、アダムたちのことを受け入れてもいる。
【お前たちは何者だ? この国の者ではないな】
 男はそう繰り返した。アダムは彼自身が明確な回答を持たず、あやふやな返答をすることしかできない。
「僕らは気がついたらこの国にいた。どこから来て、どうしたら帰れるのか分からない」
「心配はいらないわ。ちょっとたんこぶが出来ているだけ」
 診察を終えたチェルニーは立ち上がり、男に友好の手を差し伸べた。男はその意味を察して両手で包むように手を握り替えした。右手で握手をする仕草ではない。顔立ちはこの国の人々と違っているが、アダムたちの共通の習慣にも馴染んでいない人物である。
「私はチェルニー、こちらはヨゼフ、アダム、ヘレン」
「あなたはエイモス?」
 尋ねるヘレンに男も名乗った。
【エイモス? 誰だ、それは? 俺の名はサミュール】
 アダムたちは顔を見合わせて、肩をすくめてため息をついた。ワクウやノユリの場合と同じだと思ったのである。彼らが知っている人物にそっくりだが、本人ではない。
「サミュール。君もこの国の人じゃないね」
 アダムの問いに、サミュールは海上を指さして言った
【十三年前に、遙か西の地からここに漂着した】
 チェルニーとヘレンが顔を見合わせて声を合わせて言った。
「海から流れ着いたマレビトね」
 二人の言葉にアダムとヨゼフも顔を見合わせた。
「サミュール。君たちが住んでいる所へ、案内してもらえないか」
【何のために?】
「いろいろと教えて欲しいことがある。」
【俺はここでしなきゃいけないことがある】
「何をするの?」
【人を探している】
「それなら今は無理ね。あなた、不審者として兵士に捜索されてるわ。兵士や村人に気づかれずに行動できると思うの?」
【しかし】
「いいわ、交換条件。私たちは貴方の集落の人たちに、いろいろと聞きたいことがある。その代わり、この村の人々を傷つけないと約束するなら、あなたのお手伝いをしてあげる」
 サミュールはやや考えていたが、頷いて立ち上がった。
【同行できるのは二人だけだ】
「どうして?」
【東の水辺から対岸に渡る。俺の舟に乗れるのは、あと、せいぜい二人だ】
「じゃあ、チェルニーとヨゼフは予定通りセヤクインへ。僕とヘレンでサミュールの村に行く」
「そうね」
「いつ帰れるの?」
 チェルニーの質問に、サミュールが口を挟んだ。
【お前たち次第だ。いま出発すれば日暮れまでには村に着ける】
 アダムは時の流れを計算して仲間に伝えた。
「ということは、帰りは明日か」
「じゃあ、急ぎましょう」
 ヘレンはサミュールを促し、アダムもその後を追った。残されたチェルニーとヨゼフは手を振りもせず三人を見送っていた。チェルニーはヨゼフに意外なことを言った。
「あの人、タイ人じゃないわね?」
 その質問の趣旨を理解しかねて首を傾げるヨゼフに、チェルニーが説明を加えた。
「タイにパープラチアットっていう腕につけるお守りがあるの。あの人、肘の上にそんな飾り紐を巻いていたでしょう」
 チェルニーは目ざとくサミュールの腕のアクセサリーを見つけていたのである。ただ、その疑問には解答がない。片付かない謎が解明されないまま、得体の知れない情報が積み重なった。ただ、もしも、この場にワクウがいれば、それが自分が髪を束ねていた紐だと気づいただろう。

 一方、サミュールに同行する二人も首を傾げていた。
「どうみても、私たちと同じ世界から来たとは思えないわね」
「彼の服装のことか?」
「そう。私たちと違う。何かの古い民族衣装のよう」
 彼の衣装は膝の下まである長い衣類で、サミュールが肩から脇腹にかけて下げていた荷で、ローブのように羽織って前を重ねて居るように見えたが、よく見れば頭と袖口の穴が開いた衣類を頭からかぶるという形らしく、ノユリの村の人々のように腰を紐やベルトで括ってはいない。その形状は、アダムたちの衣類とも、ノユリの村の人々とも共通点がない。アダムは肩をすくめて見せた。
「そうとも限らないさ。ぼくらだって、ここから帰れなければ、今、着ている衣服もすり切れて、この世界の衣服を身につけざるを得なくなるんだから」
 二人の会話にサミュールが割り込んだ
【異人たち、何をこそこそと話してるんだ?】
「ぼくらの運命のことを」
【そんなことは、神の御心に任せることだ】
 サミュールは雑木林の中に姿を隠して北から東へと進路を取った。木々の影や草むらを姿勢を低く保って辿るという道のりで、なかなか距離が進まない。必然的に日陰を選んで歩くという具合だが、風が無く、暑く熱せられた空気に包まれて、首周りがじっとり汗ばんだ。
「いったい何処まで行くつもり?」
「さあ、地形が全く分からないね」
【余計なおしゃべりを止めて、身を隠せ】
 そう叱咤するサミュールの言葉で、彼が進む方向を転じた理由が知れた。竹林を抜けて視界が開けた右前方に高台の地が見え、柵で囲まれていた。柵を通して見える人々は、槍を抱えたり、腰に剣を帯びていて、明らかに兵士である。
「あれは?」
【この国の兵士たちだ。ナヌワの港を守っている】
「港を守るというのは分かるけれど、ずいぶん大仰な人数ね」
 ちらりと見える兵士の数だけでも数十人を越えている。あの砦の規模なら数百人近い兵士が駐屯しているかも知れない。港が重要とはいえ、平和に見えるこの国で、治安を守るには多すぎる兵力ではないかと思ったのである。
 ヘレンの言葉と共に、彼女の意識がサミュールに伝わったらしく、サミュールは吐き捨てるように言った。
【大方、オーミは俺たちが港を襲うとでも思ってるんだろう】
「オーミとは?」
【事情は村に着いてから聞け。今は、兵士どもに見つかるなよ】
(オーミか)
 アダムは気になる言葉を反芻してみた。サミュールが発したオーミという言葉には、権力者というニュアンスが感じ取れ、政治的な権力を持った大臣か枢機卿、宗教組織に君臨して権力をふるう中世の法王のようなものかと考えた。
「また」
 ヘレンがそう言ったのは、開けた視界の前方に水面が広がっていて、彼女は海だと思ったのである。ノユリの村からアラハカの寺へ向かう途上、雑木林の間から、東側に広大な水面が見えることがある。その海をいよいよ間近に眺めると言うことである。
 西の海を背に、進む方向を転じてから十五分。アダムたちの目の前に、遮る物が無く広大な水面が広がった。
「ああっ」
 思わず驚きの声を漏らすほどの数のトンボがアダムたちの頭の高さを飛び交っていた。鮮やかな黄緑の胸の後ろが水色という配色で、草原や水辺の色に染まったかのようである。足がずぶりと地面にめり込む感覚と、その足がじっとり濡れる感覚があった。目の前に広がっていた水面が近づくにつれて、その畔を厚く覆う一面の芦に視界遮られてしまった。湿原地帯に踏み込んでしまったらしい。
「ここは?」
 そんなアダムの疑問に答えもせず、サミュールは言った。
【ちょっと、ここで待っていろ】
「間近に見たのは初めてだけど、東側の海じゃない?」
 ヘレンがそう語る視線の先に、芦をかき分けて進むサミュールの下半身が、つま先からくるぶし、踝から膝、やがて下半身まで水面下に浸かったところで、密に茂る芦の影に姿を消した。やがて、再び姿を現したサミュールは。小舟の船首に結びつけた綱を曳いていた。彼はこの芦の茂みに小舟を隠していたのである。
【お前も漕げ】
 サミュールはそう言って櫂の一本をアダムに渡した。
「波が静かすぎるわね」
 ヘレンはそう言って水面を撫でるようにかき混ぜて、指先についた水の香りを嗅ぎ、やや首を傾げてぺろりと嘗めた。
「海じゃない。ここは湖なの?」
 波が静かで、潮の香りがせず、嘗めてみると塩気も感じないというのである。見回してみると、周囲は陸地に取り囲まれていて、湖だと言うことが分かった。つい一時間前まで白波の立つ海面を眺め、潮の香りに包まれるような位置に居たことが信じられない。
「海と湖。よく分からない世界だわ」
 不機嫌なのか無口なのかよくわからない。サミュールは黙ったまま櫂を動かし続けていた。アダムが腕の筋肉に張りを訴えるような表情を見せたために、ヘレンが櫂を受け取ったが、そのヘレンもまた、使い慣れない筋肉に疲れを感じている。サミュールが黙々とこぎ続けているのは、よほど舟の扱いに熟練しているのである。
「ひょっとして、いや、きっと」
「どうしたの」
「以前、ノユリさんのお父さんが、海から来たマレビトが湖の対岸に移り住んだと言ってたろ」
「これが、その湖だったのね。この大きさ、今まで海だとばかり思ってた」
 やがて、三人を乗せた舟は対岸に着いた。漁の後、使い終わった網を乾す者や、網の破れを繕う者が居た。この浜にいる十数人の人々は漁師であり、サミュールもまた漁を生業にしているらしいと見当がついた。
【相談がある】
 サミュールが短く言った。
「何?」
【お前たちが湖の対岸に居て、漁をしていた俺と出合ったと言うことにしてくれ】
「どうして?」
【深い詮索はするな】
 どうやら、対岸のノユリの村の近くに出かけていたことを、仲間に知られたくないらしい。アダムとヘレンは、サミュールの心情をそう察して顔を見合わせて頷き、ヘレンが短く返事をした。
「わかったわ」
 サミュールはそれ以上何も語らず、三人の先頭に立って草むらの中の獣道を歩いた。突然に甲高い鳴き声が草原に響き渡った。ヘレンは周囲を見回して言った。
「あの声、聞き覚えがあるわ」
 確かに特徴のある騒がしい声で、声の発生源を容易に辿る事が出来る。声の先の木の枝に灰色で頬に紅をさしたような赤い色をした、くちばしの長い野鳥がいた。アダムはヒヨドリという名は知らなかったが、あの目立つ声の主が日本とその周辺の狭い地域に生息する鳥だという知識は持っていた。もちろん、アダムたちが居た大阪でもその声を聞く事が出来た。ファンタジーのような世界、ただ、どこか日本とのつながりを感じさせるのである。
「瓢箪荘の部屋で聞いたのを思い出すよ」
 ヘレンがアダムの小脇を肘で突いて注意を促した。話をしていて遅れた二人を待つようにサミュールも木陰で立ち止まっていたのだが、幹に手を添えて何かを語りかけているように見えたのである。
「何の樹なの?」
 サミュールに追いついたヘレンの質問に、サミュールは眉をぴくりと動かしたが答えず、再び歩き始めた。葉の一枚をちぎり取って眺めたアダムが代わって答えた。
「桜の樹だね。塩漬けにしたこの葉で菓子を包んで食べるんだ」
「でも、私、桜餅が一番好き」
 数日前に聞いたマリアの言葉をのほほんとした口調まで真似て言った。帰れる見込みのない不安の中で、あの時の事が懐かしくさえ感じられた。
「でも、どうしてこんな所に一本だけ?」
「ノユリさんの村にも一本だけよ」
 ヘレンの言葉にアダムも頷いた。アメリカのワシントンのポトマック川や、彼らが住んでいた桜之宮では、桜の樹が川沿いに生い茂っているというイメージがある。この桜は草原の中にただ一本、大地にどっしりと、しかし、寂しげに根を張って枝葉を茂らせていた。
「おいっ、お前たち。着いたぞ」
 桜の樹から東に、建ち並ぶ小屋やテントが見えた。おそらく仕事に出た男たちの帰りを待つ女や子どもの姿が、そこかしこに見える。

(確かに)とアダムは思った。
 海の向こうからやって来たマレビト。フードから顔を出す女の彫りの深い顔立ち、豊かな髭を蓄えた男たち、この国で目にしていた他の人々に比べて、確かに違う血筋の人だった。ただ、ワクウの村やセヤクインで感じた人々の視線は、好奇心を感じこそすれ、拒絶感はなかった。しかし、今のアダムとヘレンは敵意と言わないまでも、不審感や不安に満ちた視線を浴びていて、人々のアダムとヘレンへ向ける緊張感が伺えた。
【ラビのところへ】
 サミュールが口にしたラビという言葉に、人々の指導者というニュアンスを感じ取れる。アダムとヘレンは、この集落の村長に引き合わされるのかと考えた。鍛冶屋の槌の音が響き、子どもたちのはしゃぐ声が響いていた。活気のある集落である。ただ、ノユリたちの集落に比べれば、戒律に従って生きる人々特有の生真面目な雰囲気が漂っていた。サミュールの言うラビという指導者の人徳を反映しているのかもしれない。ヘレンは前方からやってくる若者を指してサミュールに尋ねた。
「あれは?」
【鹿の罠にかかった猪だ。我々は食べない。湖の向こうの市で布や薬草に換えている。オーミの兵士たちに奪われなければな】
「奪う?」
【奴らは我々の敵だ】
「あなたは、その敵の網をかいくぐって、やって来ていたわけね。どうしてそんな危険を冒したの」
 サミュールは黙ったまま答えない。そこに、怒鳴り声が響いた。
【サミュール】
 声の方向を見ると、サミュールとさほど年齢の変わらぬ男で、視線の中の怒りを隠そうとはしない。背後に他の若者を十人ばかり従えていて、その集団を率いるリーダーだろうと想像が付く。
【サミュール。お前は、また揉め事を持ち込むつもりか】
 サミュールは男たちに答えず、アダムとヘレンにはそのまま付いてこいと合図をした。ヘレンがアダムに小声で囁いた。
「揉め事って、私たちのこと?」
「どうやら、ぼくらは歓迎されていないらしいな」
 アダムは若者たちの敵意のある視線にそんな感想を漏らし、剣の束に手を掛けようとしているヘレンの指先を握って動きを制した。ヘレンもアダムの意図を察して言った。
「わかってる」
 怒鳴った男たちはサミュールの行く手を遮るばかりではなく、サミュール、アダム、ヘレンの三人をぐるりと取り囲んだ。
【サミュール、こいつらは誰だ。何故、こいつらを連れてきた】
 男はサミュールに怒鳴り散らした。サミュールが無言を保ったため、アダムが彼らに応じて口を開いた。
「ぼくらは話を聞きに来ただけだ。敵対するつもりはないよ」
 サミュールがアダムを制した。言っても無駄だという意識が伝わってくる。
【エゾラ。この者たちは私の客人だ。戒律に従ってもてなせ】
【サミュール。異民族の女の息子に、戒律を口にする資格などあるものか】
【母を敬え】
【異民族の淫売女が、我らの部族の血筋を汚したんだ。アレが母であるものか】
【何?】
 母親を侮辱されたサミュールがエゾラに殴りかかろうとしたとき、広場に声が響いた。
【よさぬか。平和を尊べ。客人の前で醜態は避けよ】
 一言で周囲を制してしまう声に威厳があるものの、声の方向に目をやってみると、声の主は意外にも温厚そうな老人である。荒れ狂っていた若者たちもこの老人には逆らいがたいらしく、アダムたちに敵意のある視線を向けながらも黙りこくった。老人はアダムとヘレンに親しげな笑顔を浮かべて言った。
【さて、お客人。我らにどんなご用かな】

 ヘレンは老人に会釈で応じながら、視線をちらりとエゾラに転じて、アダムに囁いた。
「異民族の淫売女ですって?」
「君の事じゃないよ」
「誰でも良い。あのエゾラという男。女を侮辱すると、首の骨をへし折ってやるわよ」
「ヘレン、それは笑顔で言うセリフじゃない」
 二人は老人に導かれるようにテントに入り、老人と向き合って敷物の上に座った。
【それでは、お話を伺いましょうか】
「私たちは、どこか別の世界から来ました」
 ラビは静かに笑った。アダムたちの髪の色や顔立ちを見れば、この国の人々ではないことが分かる。わかりきったことを言うと思ったのである。
【それは、私たちも同じだ】
「それでは、貴方たちも白い霧に包まれて、霧が晴れたら知らない世界にいたと言うことですか」
【白い霧に包まれて?】
「そうです。私たちはオオサカという場所にいて、霧に包まれ、霧が晴れるとこの国にいました。」
【お話を伺うと、何か不思議な経験をなさったようだ。我々は違う。幾世代も遙か西の地を旅して、十三年前に海を渡ってこの地にきた】
 若者の一人が言った。
【あなた方が霧に包まれた後ここにいたと言うなら、私たちは嵐に包まれた後、この国にいる】
「船が難破したと言うことですか」
【でなければ、望んでこんな所にいるものか】
 先ほどエゾラと呼ばれていた男が、吐き捨てるようにそう言った。アダムは重ねて尋ねた。
「私たちと同じ経験をした人がいるのかと考えていたのですが、違うのですね」
 ヘレンが質問の趣旨を変えた。
「あなた方は、どこから来られたのですか?」
【はるか西の地から海を越えて、この東の土地に着いたのは十三年前のことだ。その前は、更に西の地に居たという。我々は幾世代、旅を続けてきたのだろう。それはもう誰も覚えては居ない】
 言葉が彼らの言い伝えで終わったことから、彼らの先祖代々、長い旅を続けてきたことがうかがい知れた。彼らが先祖から受け継いできたという飾り物のひなびた色調が、彼らの長い旅を物語っていた。ラビは話を続け、人々は先祖伝来の話に聞き入った。
 アダムは話を聞き漏らすまいと、胸のポケットから手帳とボールペンを取り出し、話を記録する許可を求めるようにちらりと掲げてみせた。
【それは何だ!】
 シャーマが怒鳴った。危険なものとでも勘違いしたかのような仕草である。ラビはそんなシャーマを制した。
【よさぬか、この客人には我らへの害意はない】
 アダムは思わぬ反応にヘレンと顔を見合わせ、周囲の人々にボールペンと手帳の用途を説明せざるを得ない。
【なんと、妙な道具だ】
【なるほど、文字が書ける】
 周囲の人々の驚きの反応に向き合って、アダムとヘレンは同時に思った。
(いったい、手帳やボールペンを不思議がる人々など、現代の地球で考えられるだろうか)という疑問である。そして、二人は心の中に確信を深めた。
(ここは、自分たちが居た世界ではない)ということである。
 周囲の人々はアダムの説明に警戒を解いて、記録を受け入れた。アダムは質問した。
「あなた方は、この国とはどういう関係があるのですか」
【この国の人々から、我らについて何か聞いたか】
「いいえ、皆、口を閉じるように」
【さもあろう。我らは彼らと争うた】
「争い?」
【我々は先祖から、遙かな時と距離を経た旅をして、この地にたどり着いた。この地の豊かな緑を見た時に、主が我々に約束してくださった地だと思った】
 ラビが語る思いはアダムにも理解できた。霧が晴れ得体の知れない場所を彷徨って、視界が開けた場所に出たときのこと、目前に広がった透明度の高い海と、背後ら広がっている豊かな緑の世界である。ラビは思い出を紡ぎ出した。
【我々がこの土地に着いたとき、この国は二つに分かれて戦っていた。モノノベとソガという部族だ】
「モノノベとソガ?」
【奴らは我々を裏切った】
 輪を囲む若者の一人が義憤に耐えぬと言う表情で、そんな怒りの声を上げた。
【シャーマ、客人の前だ。よさぬか】
 ラビはそう言って若者の非礼を制して話を続けた。
【モノノベという部族の長モリヤが、我々が最初に住まいを構えた村の辺りの土地を治めていた。互いの言葉はよく分からなかったが、モリヤは我々に敵か味方かと問うたのだと思う。神の御心のままに従うと答えると、モリヤは我々の神を受け入れると約束したために、我らはモノノベの部族に加わってソガと戦った】
 ヘレンの見るところ、この国の兵士たちは真面目だが、決して近代的な訓練を受けているとは言えず、戦闘にしても個々の兵士の連携はなく戦慣れしていない。この集落の人々は、先ほどシャーマと呼ばれた若者が感情にまかせて抜きかけた剣の輝き、矢筒から出して眺めた矢の鏃の鋭さなど、平和であっても武器の手入れに余念がない人々である。
 このような人々が、いきなり領地に現れたとなれば、権力者は彼らを戦力として欲するだろうし、敵に回った場合のことを考えれば恐怖するだろうと思った。モノノベという権力者は異邦人に対してきわめて適切な処遇をしたと言うことだろう。
 ラビの話は続いた。
【しかし、モノノベは戦に敗れて、我らは後ろ盾を失った。ソガの族長ウマコは、オーミの座についてこの国を操っている】
 サミュールの言葉に出てきたオーミという言葉の意味が知れた。勢力争いをして勝利を収めた一方の部族ソガの長が、この国を牛耳ることが出来る座についた。その座についた人物をオーミと称しているのである。
 しかし、オーミから見てこの海から来たマレビトたちは、ひょっとすれば権力者に反抗するかもしれず、戦によって身を守るすべにも慣れた集団の存在は、この国の新たな権力者オーミにとって目障りな存在なのではあるまいか。そんなアダムの推測を裏付けるようにラビは言葉を継いだ。
【負けたものの、戦は終わり、平和が訪れた。ただ、新たな土地の支配者、戦いの勝利者との軋轢が続いて、小競り合いが収まらなかった】
「それで、湖の対岸に移り住んだの」
【我らはミコから新たにこの地を与えられて移り住んだが、ミコの後ろ盾のオーミが、いつ気を変えないとは限らない】
「ミコ?」
  先日、セヤクインでも耳にした名である。シャーマが吐き捨てるように言った。
【所詮はオーミの手先さ】
【この土地で生きる以上、誰かを頼らねばならない。何かを信用せねばならない】
 ラビの言葉にヘレンが疑問を呈した。
「ミコとは、この国の王ではないの?」
【ここから東に二日の土地に、この国の都がある。女帝がこの国を統治し、ミコはその女帝を補佐している】
「ソガというのは?」
【この国の支配者たちは血縁関係や家族関係が強い。いろいろと裏で繋がって居るのさ。我らが頼ったモノノベでさえ、女帝やミコと深く繋がっている】
「それで、ソガは血縁関係を利用して、権力に食い入っているという事ね」
【そうだ】

 アダムは話題を変えた。壁に掛けられた織物に気になる印があり、ラビの傍らの祭祀の道具らしい飾りにも同じ印がついていた。ダビデの星の紋ではないかと考えたのである。
「ところで、その紋章はあなた方の部族を表しているのですか」
【その通りだ。我々が居る限り引き継がれる。我々の血脈を表す紋章だ】
 ラビの言葉にヘレンは納得した。ラビというのはユダヤ教の指導者のことで、この集落に属する人々の出自が知れた。
(この人たちはユダヤ人なんだ。でも……)
 ようやく、自分たちの世界と接点になる人々を見つけた。しかしヘレンに新たな疑問が湧いた。ユダヤ人がどうしてこの土地にいるのかということである。
「約束の地を求めてこられたの?」
【遡ること、父はヤコブ、母はラバンの娘レアの下女ジルバに至る。幾世代をへて約束の地を求めて長い旅をし、この地にたどり着いた】
 年老いたラビは、彼の人生より遙か長い時の流れを遡って使命を語ったが、その言葉に怒りを交える若者たちが居る。
【しかし、この地は神の約束の地ではない】
【主の御心に従って早くこの地を旅立つべきなのだ】
 そんな若者たちの言葉に、ラビは諭すように言った。
【詮なきこと。過去に尽くされた議論ではないか。我々の血は衰えた。旅立つ時には数え切れなかった我が部族も、今やこの集落にいる者のみ。ここは豊かな大地だ、ここで生まれ育った子どもも多い。しかし、再び流離って我れらが血を絶やすのか?】
 会話は途絶えた。ラビの人柄に触れるというのは感慨深い経験はしたが、有用な情報は得られなかったのである。

 サミュールは、ラビのテントから二人を案内しながら言った。
【今夜は俺の家に泊まればいい】
 人々の態度は一変した。身辺を脅かす者ではないと言うことが知れたらしく、アダムたちに警戒を解くとともに、柔和な雰囲気が漂い、まるで昔から仲間の一員であったかのように触れた。もともとは、こういう善良な人々なのだろう。ただ、その人々がサミュールに注ぐ視線はやや冷たいようだが、その理由をサミュール自身に尋ねるのは気が引けた。
【ヨゼフが居ないのが残念だね】 
 アダムが言った意味をヘレンは理解した。建ち並ぶ小屋のあちこちから、いろいろな年齢の子どもたちが、好奇心をむき出しにしてアダムたちを伺っているのである。その子どもたちが居る光景は、ノユリの村やヒデンインという名の養護施設にいるこの国の子どもたちの光景と変わりがない。ヨゼフがいれば、子どもたちを集めてその中心にいるだろう。残念なことに、アダムもヘレンも、ヨゼフのような才能はなかった。

 案内された村はずれの小屋の中に、一人の女性が竈の側にしゃがみ込んで火の番をしていた。サミュールは女性の名を紹介した。
【チュラーヤ。俺の母だ。母さん、こちらはヘレンとアダムだ】
(サミュールのお母さん?)
 アダムとヘレンにとって意外だったのは、サミュールの母として紹介された女性が中東アジア風の顔立ちをしていることである。しかし、エゾラと呼ばれた男が発した言葉を思い出して納得した。異民族の女というのはこの人物のことかと思い至ったのである。そして、この村における、異民族の母子として、チュラーヤとサミュールの立場を理解した。
【ようこそ。おふたりとも、お食事は?】
 アダムとヘレンに代わってサミュールが答えた。
【出してやってくれ】
 サミュールの言葉を待つまでもなく、チュラーヤは被せてあった布を取り、籠の中から平らなパンを取りだして来客に配り、鍋の中の煮物を木の椀にすくって入れた。
「きゃぁ、肉よ、パンよ」
 ヘレンは小躍りするほど喜んだ。いつまで居るか分からないこの世界に、なじみのある食べ物があると言うことはヘレンの心をくつろがせた。味わってみると、やや堅いが、間違いなく小麦粉を練って焼いたパンであり、煮物の具として入っていたのは肉である。
【こんなに喜んでもらったのは初めてだわ】
 チュラーヤはそう言った。笑顔に包まれた食事が始まった。アダムが気になっていた事柄を尋ねた。
「さっきの話だけれど、裏切られたとは?」
【エゾラやシャーマの勘違いさ。さっき、ラビが我々がモノノベに付いて戦ったと言ったろ。モノノベは我々の神を受け入れると約束した。だから、我々はモノノベに加わって戦おうと決意し、俺の父も戦に加わった。しかし、モノノベにとって、この世界に数え切れないほどの神が居る。我々の神(ヤーベ)は唯一の存在だということを彼らに理解させられない】
「モノノベはいくつも神がいるから、一つぐらい増えてもかまわないって思ったのね」
 そんな感想を述べるヘレンにサミュールが聞いた。
【君たちは、信じる神をもっていないのか?】
「私は……」
 ヘレンは口ごもった。子どもの頃に洗礼を受けているし、胸に十字を切って祈ることもある。ただ戒律に従って生きるこの集落の人々に比べると信仰心は緩やかで、自分がクリスチャンとして戒律を守っているかどうか考えた事はなかった。ただ、サミュールから戦の話を聞いたとき、戦に参加して剣を振り回す事が、神の意志に逆らうことにになりはしないかとも感じるのである。
 ヘレンは戸惑いつつサミュールにぽつりと尋ねた。
「貴方たちの神は、戦いを許す神なの?」
【俺の父は、異民族の神を信じる者を排除して、我々が生きるための地を確保するのだと主張した。しかし、神はその主張に答えを示してくださらなかった】
 やや腹もふくれ、会話が途切れた。サミュールは何かを思い出したようにアダムとヘレンに言った。
【くつろいでいろ。俺は用を思い出した】
 出て行くサミュールの背を眺め、やや考え込んでいたヘレンも立ち上がり、自分の存在を悟られないよう、そっと彼の後を追った。
「ごめんなさい。ちょっと、私も外で風に当たってくるわ」

 小屋の中にアダムとチュラーヤの二人が残された。二人とも口数の多い質ではなく、自然な沈黙が続いた。チュラーヤが食事の後片付けをするのを眺めながら、アダムは考え続けている。出会った瞬間に感じた気の強そうな雰囲気も、今は包容力を伴って感じられ、しつけに厳しい母親というイメージに変わっていた。
「チュラーヤさんは、この国の方ですか」
【いいえ、この村の者たちと一緒に、遙か西の地から海を渡って来たのよ】
「何故、この国に?」
【この国の海の沖合で私たちの船の二艘が難破して、海に投げ出された私たちは浜辺の村の人に助けられて、しばらくそこで過ごしたの】
「失礼ながら、お顔立ちが他の方と違うようですが」
【確かに、私はタングットですから、ユダヤの人たちとは違います。アダム、あなたは?】
 タングットという聞き慣れない言葉は、彼女の部族の名だというイメージが伝わってきた。部族の名を聞き返されてみると、アダムは首を傾げざるを得ない。ポーランドという国家に所属しているという意識はあっても、民族という血のつながりで、自分自身を考えたことはなかった。
「僕は……」
 口ごもるアダムを諭すように、チュラーヤが言った。
【あら、大事な事よ。遠い遠い祖先から、祖父や父を通じて今の自分があるの。血筋や思いが伝えられて、自分が何をしなければならないか、子どもに何を伝えるのかが決まるの】
 アダムは感嘆のため息をついて、チュラーヤを褒めた。
「チュラーヤさん。どんな難解な書物より、あなたの言葉は胸に響きます」
【ありがとう】
「でも、血筋の違うあなたが、どうしてユダヤの人々の中に居るんですか」
【サミュールの父親が私を愛してくれたの。私も彼を愛しているわ。今でも……】
「今でも?」
【十三年前の戦で亡くなったわ。でも、彼の心は今でも私と一緒に】
 チュラーヤは胸に手を当てた。
「十三年前の戦というと、ソガとモノノベの戦のこと?」
【ええ、彼は三人の息子を残して戦に出て、ソガの兵士と戦って亡くなりました】
「サミュール以外に、お子さんが居られるのですか?」
【サミュールには、シャーマとエゾラ、二人の兄が】
 アダムはその二人の名に記憶があった。この集落に着いたときに出会った、若者を率いるリーダーである。しかし、あの二人がサミュールの母に示した感情は、愛情といえるものではなく、酷い侮蔑の言葉と共に吐き出した嫌悪感だった。チュラーヤは沈黙するアダムの疑問を察したように言った。
【シャーマとエゾラは先妻の子です。サミュールの父親が妻を亡くした後、私は彼と出会って結ばれてサミュールを授かったの】
「あの二人は貴女を快く思っていないようですね」
【いいえ、シャーマもエゾラも私の大事な息子です。あの子の亡くなった母親と父親から預かって、立派な大人に育てるのが私の仕事だわ】
「大変ですね」
【いえ、これがタングットの血筋だから】
 彼女は朗らかに笑った、かまどの火が揺らめいて、彼女の表情に複雑な陰影を与え、微妙に変化する表情が、血のつながりのない集団の中で、たった一人過ごしてきた彼女の人生の長さを表しているように思われた。
「ずいぶん、長い大変な旅をされたんですね」
 アダムは彼女の人生を旅に例えて彼女の人生を称えたのだが、彼女は深い意図には触れずに苦笑いをした。
【確かにね。初めて海を見たときには、神さまはこんな綺麗なものをお作りになったのかって感心したわ。でも、海を渡るときは反対。どうしてこんな苦しいものをお作りになったのかって】
 アダムは何も言わず、彼女の人生を愛でて微笑んだ。おそらく、アジアの内陸で生まれ育った彼女にとって、海は感動と驚愕を伴う景色に違いなく、その海を渡るときの船酔いも想像もつかなかったのだろう。
「この国に着いて大地を踏んだ時には、ほっとされたでしょう」
【いえ、それが覚えていないの】
 チュラーヤはそう笑って、理由を付け加えた。
【難破して浜に流れ着いていたらしいわ。気がついた時にはこの国の人々に助けられて家の中】
「なるほど、そんなことが」
【気がついて、外に出てみると、桜の樹から舞い散る花びらが月の光に照らされて、私の周りに降り注いできたの。ここは天上世界かと思ったわ】
「それでサミュールも、桜に特別な思いを持って居るんですね。」
【いいえ、あの子はもっと現実的。桜の樹にあの村娘の面影を重ねているようだわ】
「桜の樹と村娘、どういう事ですか」
【あの子には、この国で結ばれた妻が居るの】
「サミュールが結婚を」
 考えてみれば意外な話でもあるまい。ここは閉鎖的なコミュニティだが、彼らがこの国に流れ着いた当初は、この国の人々と同じ村で生活を共にして交わりがあったのである。
「サミュールが妻を愛しているなら、どうして迎えに行ってやらないんですか?」
【それは、たぶん、私が原因だわ】
「貴女のせいですって」
【異民族の私が、この村でどんな暮らしをしているかご存じ? 私の血を引いたあの子もこの村では白い目で見られがち】
「異民族の血を嫌がるんですか」
【あの子は、自分の妻が私と同じように扱われるのが嫌だったのかも知れない】
「そういう事情があったんですか」
【争いって嫌ね。でも、私は父母から受け継いだ血を大切にしたい】
 彼女は断言するように話を締めくくったため、アダムは続く質問の機会を逸した。チュラーヤの言う争いが、ユダヤ人の内部での不協和音なのか、ユダヤ人とこの国の人々との争いなのか、戦争といった権力者の争いのことか、それとも、身近な男女の諍いか。アダムはその言葉の意味を考えた。
 チュラーヤは竈の中で燃え尽きかけていた薪を眺めて、思い出話を語っていた時間の長さを察した。アダムもまた、彼女と同じ事を考えた。すぐに戻って来るかと思われたサミュールとヘレンの帰りが遅いのである。彼女は新しい薪を竈に入れて加えて湯を沸かしながら呟いた。
【全く、また何処をほっついているのやら】

【母さん、】
 帰ってきたサミュールとヘレンは、妙に陽気で仲が良い。
【サミュール! 母さんに心配をかけるんじゃないよ。お前たちは父さんから預かった大事な息子なんだから】
 ヘレンは息子を叱るチュラーヤの言葉を、サミュールと並んで自分も叱られているように素直に聞いていた。チュラーヤは普遍的な母性というようなイメージを感じさせ、息子を叱る言葉が自分にも当てはまるようにも感じられるのだろう。
【全く、困った子どもたちだよ】
 チュラーヤはそうぼやきながら、客人のために今夜の寝床を用意した。

 



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