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 エイモスが、これから住居になる部屋を眺め回してみると、六畳の広さに、押し入れと流しがついただけの、こじんまりとした部屋である。荷物は手に提げてきたバッグに入っているものだけ。仕事に必要な物は、別に借りた事務所に送ってある。このアパートで生活に必要なものはこれから買いそろえるつもりだった。もともと贅沢を好む性格ではなく、半年の予定の在住にこの環境で満足している。なにより、ホテルに比べれば、この日本らしい部屋は日本人を理解する手助けになるだろう。仕事にも何かメリットをもたらすかもしれないという予感がした。
 カーテンを開けてみれば、手入れの行き届いた庭木が植わった小さな庭から、よく手入れされた土の香りがガラス越しに漂ってきそうな雰囲気だった。古い建物だが、きしみもせずにスライドする窓を開けてみると、若々しい緑の香りを乗せた風が入ってくる。これから迎えるはずの、梅雨という名の雨期はまだ先のようで、からりと晴れた五月の風だった。
 ざらりっと、土の感触がした左手を見て、先ほどの落とし物を握りしめたままだったことを思い出した。既に表面の土が乾燥していて畳にこぼれた。エイモスは水道の蛇口を捻ってそれを洗った。直径三センチばかりの手の平に収まるほどの小さなメダルである。一部に紐を通したような穴が空いているが、その穴に通されていただろう紐は、長年土の中に埋もれて腐り果てていて、どんな用途に使われていたのか判然とはしない。表面は錆びてはいるが一部に鋭く光を反射する光沢が残っていて、僅かに残る光沢を辿ればダビデの星の紋章にも見えた。ただ、不思議なことに、先ほどマリアがメダルからその印を読み取ったときの輝きは無くなっていた。
 エイモスはこの日本で見つけた意外な母国の紋章を、今日この日の記念に胸のポケットにしまった。
 この部屋は狭いが他に荷が無く、外の風も入ってくると、いかにも空虚に感じられて孤独感が煽られた。足下の畳の上の素足の感触にも慣れない。思い出すのは先ほどのマリアの顔である。孤独から逃れるように部屋から出ようとしたときに、先ほどの幼児が管理人室から顔を出したのに気づいた。なるほど、管理人の身内だったのかと納得しつつも、彼は男の子の名を忘れてしまっていた。エイモスはバックの中にキャンデーがあったのを思い出した。
 大阪という地域の年配の女性によって、キャンデーが「アメちゃん」という名称で、友好の証として利用されると聞いたことがある。それを試してみようと思ったのである。
「アメちゃん、食べますか?」
 和ちゃんは笑顔でエイモスの提案に乗ってきた。
(うまくいった)
 そう思いながらこの男の子にミルク味のキャンデーを一つ与えた。日本人はアメちゃん一つで和む人々らしく、この男の子は一切の警戒心を解いて質問した。
「おっちゃん、どっから来たん?」
「イスラエル」
「タイより遠い?」
「もっとずっと西の方」
「トルコより遠い?」
「少し遠いかな」
「ポーランドより遠い?」
 和ちゃんがこのアパートの居住者の出身国を基準に、エイモスの出身地を推し量っていることに気づいて、彼は気になる人物の母国を尋ねた。
「マリアさんは、どこから?」
「ペルー。このアパートの中で、一番遠くから来た人やねんで」
 ペルーと言えば確かにその通りだろう。この日本から見れば地球の裏側に当たる。和ちゃんは、ちょっと気を利かせて尋ねた。
「マリアさんに会いたいん?」
「えっ?」
「今、マリアさんたちが、階段の上に居るで」
 和ちゃんが言うのは、いまは入居者たちが雑談している時間だというのである。エイモスは和ちゃんの提案を受け入れ、和ちゃんに手を引かれながら二階へと昇った。もちろん、バッグの中のアメちゃんを忘れてはいない。
「エイモスさんやねんて」
 和ちゃんは手を引いて連れてきた男の名を紹介し、次いで、二階の雑談場に顔をそろえていたメンバーを、順に紹介した。
「ヘレンさんとチェルニーさん、こっちが、アダムさん、ヨゼフさん、ジェスールさん」
「よろしく」
 エイモスは入居者たちと握手を交わし、友好の証としてキャンデーを差し出した。
「アメちゃん、食べますか?」
 チェルニーが豪快に笑った。
「まさか、貴方。大阪のオバちゃんの飴の話を信じこんでるの?」
「えっ?」
 もちろん、噂の火種は存在するし、大阪という土地に住む人々の大らかな人柄を表すのに、絶好の逸話に違いはない。が、決して一般的な風習ではない。場は笑いに包まれたたが、悪意は感じられない。見ず知らずの土地で誰もが経験して笑い話になる誤解だろう。エイモスはこの誤解で共感を呼んで仲間にとけ込んだ。

「スウィーティー?」
 聞き慣れない果物の名にヨゼフが首を傾げた。エイモスは来日の目的を語った。
「うん。果実や果汁が売り込めればと思って」
  彼の母国で取れる果実の市場調査をしたいというのである。ここで、彼は唐突に話題を転じた。本人もその唐突さに気づいてはいるが、質問せざるを得ない意識がわくのである。
「マリア、君とは初めて会った気がしない。ずっと、心に君の面影を抱いていたような気がするんだ」
 アダムがエイモスの言葉に驚いてぷっと吹き出した。彼は瓢箪荘に住み始めて二年間、まだマリアに愛の言葉を告白できずにいる。しかし、初対面の日にいきなりこんな言葉を吐くなんて、なんという手の早い男だろう。周囲の仲間は、そんなアダムの様子が面白い。ただ、ヘレンもチェルニーもその点には触れず、日本在住の先輩としてアドバイスした。最近のチェルニーはこの国に伝わる詩に興味があった。
「こひすてふ わがなはまだき たちにけり ひとしれずこそ おもひそめしか」
 チェルニーが発したよく分からない言葉の羅列に、エイモスは首を傾げて聞いた。
「なんだい、それは」
「恋は始まったばかりなのに、もう人に知られちゃったってこと」
「恋だって?」
 やや激しく問うアダムにチェルニーは説明を加えた。
「まぁ、この国なら和歌かしら。古から和歌で思いを伝えるのよ」
「とりあえず、今日から本格的に日本での生活が始まるという事ね。日本風の女の子の扱いを覚えてもいいわよ」
 ヘレンは女にもう少し考える時間を与えろと言うのである。エイモスは二人には答えず、マリアに向き合った。
「マリア、君に頼みがあるんだけど」
「なあに?」
「明日、日本橋へ案内してくれないか。帰りに食事を奢るから」
 ヘレンがにやりと笑った。
「あらっ、手が早いこと。いきなりデートの誘いなの」
 何故、マリアに声をかけたのか、心の中が乱れていて、自分でも明快な答えは分からず、エイモスはしどろもどろに答えた。
「いや、テレビやパソコン、電気スタンドなんか、部屋の電気製品を買いそろえたいんだ」
 アダムがヨゼフの足を軽く蹴って促した。この場合、マリアに代わる案内者を提供するなら、電気関係の勉強をしているヨゼフが適任だろう。ヨゼフはアダムの意図を察して言った。
「俺で良ければ案内するよ」
「いや好意は嬉しいが、マリアと」
「ふぅん」
 チェルニーは興味深げにマリアとアダムの顔を見比べて続けた。
「しのぶれど いろにいでにけり わがこひは ものやおもふと ひとのとふまで」
「今度は、何の和歌?」
「隠していたはずの恋心が、思いが高まって表情に出ちゃったって……」
 アダムも正直な男で、突然に形作られた三角関係にやきもきする様子が隠せないのである。一方の当事者のマリアは日本橋と聞いてひらめく考えがある。近くに動物園があるはずだ。彼女は傍らの和ちゃんに提案した。
「和ちゃん。動物園に行こうか」
「うんっ」
「いや、だから、電気製品を……」
 そう言いかけるエイモスを制して、マリアは同行の条件を付けた。
「日本橋の後、動物園に寄るならいいわよ」
 アダムがマリアの言葉に割り込んで提案をした。
「マリア、ボクも行こう。あの近所には真田幸村戦死の碑のある安居神社とか、六世紀に建立された仏教寺院とか、古い史跡が多いんだ。君も興味があるだろう?」
 ところが、アダムの提案に当事者のマリアはさほど興味を示さず、ヘレンが目を輝かせた。
「サナダ・ユキムラ? 知ってるわ。大阪城のプリンスとプリンセスを守って戦ったサムライね。私も行きたい」
「いいわね。気晴らしに仏教寺院を散策するのも、心が落ち着くかもしれないわね」
 そんな表現でチェルニーまで参加するという事態にエイモスは驚いた。
「だから、ボクはマリアと」
「気にしなくて良いのよ。大勢の方が何かと楽しいじゃない?」
 ヘレンの提案にエイモスは物理的な制限を口にした。
「車に乗れるのは五人までだから、」
 そんな言葉をチェルニーは軽く笑って、先輩として大阪の交通網の状況を教えた。
「あらっ、車で行くつもりだったの? 覚えておきなさい。電車よ電車。大阪市内じゃ、その方が便利に決まってるのよ」
 エイモスがいくら否定しようとしてもヘレンとチェルニーには通用しない。最期にマリアがのほほんと夢見るように結論を下した。
「素敵ね。じゃあ、決まりよ。仲良く一緒に行きましょう」
 彼女が笑顔でこういうと、もう何人も彼女の決定を覆せない。ふと、マリアはこの会話に加わっていないジェスールに尋ねた。
「あらっ、ジェスール。貴方は?」
「俺は、君たちほど暇じゃない」
 アダムとエイモス、マリアの人間関係をおもしろがる仲間の中で唯一同情を示したのがジェスールかもしれない。その視線の中に、もっとしっかりとマリアを捕まえておけという非難じみた感情もこもっている。ただ、一方の当事者であるマリアは、和ちゃんから恋愛とは無関係の期待に籠もった質問を受けていた。
「動物園って、象さん、おる?」
「いるわよ」
「ライオンは?」
「ライオンもトラもいるわ」
「他には?」
 和ちゃんの質問に、マリアは期待感に胸を躍らせるようにスカートの裾をつまんでひらひらさせ、ダンスのステップを踏んだ。内からわき上がる高揚感を押さえきれず、本人さえ気づかないうちに体でリズムを取っている。マリアの幼い頃からの癖である。
「私たちが知らないものがいっぱいあるの。きっと、私たちが知らない世界が広がっていたりするのよ」
「ふぅん」
「明日、晴れると良いわね」
 チェルニーは和ちゃんとマリアの会話に割り込んで、無難な天候の話題に変えた。この二人の夢見るような想像が、周囲の人々を得体の知れない世界に誘い込む不安がよぎったのである。
 ただ、マイペース派のマリアのこと、和ちゃんを連れて動物園に行くという思いつきに夢中になり、チェルニーの不安など気づく様子もない。マリアは管理人に和ちゃんを連れて行くという許可を求めに、和ちゃんの手を引いて階段を下りていった。その後ろ姿は仲の良い母子に見える。

 


 翌朝。窓を開ければ、昨夜のチェルニーの願いが叶ったように、雲一つ無く晴れ上がって、五月の心地よい風が吹き渡っていた。
 彼らのアパートから日本橋まで、一時間足らずの距離である。ヨゼフは環状線と地下鉄を乗り継いで、仲間をこの町に案内した。地下鉄のホームから改札を抜けて歩く地下道で、エイモスは見回して仲間の数を数えた。マリアだけを誘うつもりだったのに、幼児も入れて六人もいる。管理人も幼児の保護者として同伴するかと考えていたがアパートに残った。もちろん管理人としての仕事があるからだろう。
(なるほど)
 エイモスは納得した。目の前をマリアと幼児が仲良く手をつないでいる姿は、母と子に見える。管理人が大切な孫をマリアを信頼して預けたのが分かる光景だった。
 地上の景色は彼らの住む町と一変した。行き交う自動車の排気ガスが漂い、道路の両側に立ち並ぶビルディングで、細長く切り取られた空が眩しかった。
 エイモスはマリアの後姿を眺めていた。彼女は長い髪を後頭部で結っていて、うなじから青いワンピースの襟を通って肩から腕に至る体の線が美しい。風の加減で僅かに漂う香りで彼女が身だしなみ程度の化粧をしていることが知れた。マリアが虚飾を取り払って、遙か昔から、変わらぬ姿で居たような印象に囚われるのである。そして、マリアの傍らで背後を振り返って、エイモスが迷わず付いて来るのを、うかがう幼児が、マリアとエイモスの二人をつなぎ止めているようにも思えた。
「ここが、ニッポンバシなの?」
 マリアの言葉に、仲間も首を傾げた。西日本を代表する巨大電気街として、その地名を耳にしたことはある。しかし、ヨゼフを除けばこの街に来るのは、皆初めてだった。左右見渡す限り商店が並び、車が勢いよく行き交う車道の向かい側にも、大小の商店が密に詰め込まれて、それぞれが店頭からはみ出した看板や陳列商品で競い合って客を呼び込んでいた。
「恵美須町駅から北へ、日本橋駅付近まで続いてるよ。途中から西へ難波駅に向かう道筋にも電気屋が並んでる」
 ヨゼフの説明に、仲間の視線が和ちゃんに集中した。ヨゼフが語る隣の駅まで続くという長い距離を、この幼児を連れ回す事に不安が湧いたのである。その視線を振り払うように、和ちゃんはマリアに寄り添ったまま、大人たちを笑顔で見回した。
「ぼく、平気やで」
 その言葉を褒めて、ヘレンが和ちゃんの髪を撫でて提案した。
「そうね。散歩を兼ねたトレーニングだと思えばいいのよ」
「時間はあるから、ゆっくりと周りましょう」
「とりあえず、家電製品を扱う店を順に覗いてみよう」
 案内役のヨゼフに先導されるように、彼らは歩道を北に歩き始めた。家電製品全般から、電子部品に特化した商品を並べたり、間口の広い店があるかと思うと、狭い入り口に奥行きだけを感じさせて商品の迷宮に人を誘う店もある。その雑多な様子をチェルニーがヘレンに評してみせた。
「黒魔術の道具が売られてたって、不思議じゃないわね」
「カラシニコフが売られていそうな雰囲気まで漂ってる」
「ほらっ、カラシニコフかどうか知らないけど、自動小銃が」
 チェルニーが指さすウインドーの中に、自動小銃や拳銃、大型ナイフが並んで見えた。ヘレンの目から見れば、本物に似せたエアーガンだと分かるが、それでも、日本という国に不釣り合いな商品に苦笑いせざるを得ない。
「あらっ、ここは玩具屋さんじゃない?」
 和ちゃんの手を引いていたマリアが、一軒の店の前で立ち止まって店内の商品を指さした。その言葉の通り、大きなショーウィンドウに玩具が並び、のぞき見える店内も数々の玩具で溢れていた。彼らはこの電気街に玩具店があると言うことに気づいたのである。マリアは和ちゃんの傍らにしゃがみ込んで、思いつきを口にした。
「和ちゃん。私たちの買い物している間、ここで玩具を見て時間を潰してなさい」
「賛成だわ。でも、一人で放っておくわけにはいかないよわよ」
 ヘレンの言葉にマリアは少し考えて応じた。
「アダムが和ちゃんのお守りをしていればいいのよ」
「何故、僕が?」
 アダムの疑問にマリアは微笑んで答えに変えた。マリアの言葉は短いが、ちゃんと裏付けがある。エイモスの誘いを受けた自分は、エイモスの付き添いをせねばならない。ヨゼフは彼の知識からみて同行してもらう必要がある。すると、残るチェルニーとヘレンが適役に見えるが、チェルニーは和ちゃんが男の子だと言うことを忘れて人形や縫いぐるみに興味を示しかねず、ヘレンに任せればモデルガンのコーナーで和ちゃんに戦闘的な講習を行いかねない。一番無難な人選がアダムと言うことである。
 マリアの天真爛漫な性格で指名されると、アダムも悪意無く思いやりのある提案に逆らいがたいのである。仲間たちは和ちゃんとアダムを玩具店に残して立ち去った。

 マリアとエイモスが並んで歩き、それを先導するようにヨゼフが居る。その三人を眺める後方にチェルニートヘレンが続いていた。ヘレンが興味深げに前方の二人を眺めてチェルニーに問うた。
「彼の顔を見た?」
「アダムのこと?」
「そう、おあずけを食らった犬みたいだった」
 ヘレンは置いてきぼりを食ったアダムをそう表現した。
「アダムの優柔不断に、マリアの鈍さ。もう少し刺激があった方が良いんじゃない?」
「私たちも協力してやらなきゃ」
「わぉっ」
 チェルニーが期待感を込めた声を挙げて、ヘレンにエイモスを指さした。仲間を誘導するという立場でヨゼフが先頭を歩き、その後ろをエイモスがマリアと仲良く寄り添って歩いている。ヘレンもまた面白くなりそうな展開に、期待を込めてチェルニーに聞いた。
「ねぇ、貴女はどちらを応援するつもり?」
「もちろん、面白くなりそうな方よ」
 チェルニーの返事にヘレンも満足げに頷いた。どうやらマリアを頂点に、エイモスとアダムの間に三角関係が形成されつつあるらしい。ただ、面識という点でアダムに分があり、今は歪な三角である。ここはエイモスを突いてマリアにもっと接近させれば、事態は面白くなるかも知れない。
「エイモス」
 ヘレンは背後から男の名を呼び、振り返った男に、やや眉を顰めながら右手をブラブラさせて、貴方の右手は無駄についているのかと問い、更に右にいたチェルニーの肩に手を回して見せて、エイモスの右手の用途を示唆した。意図を察したエイモスが戸惑う様子に眉を顰めたチェルニーが、その偶然の行為を褒めた。
「good job!」
 エイモスに対してではない、狭い歩道を向こうからやって来た家族連れに対してである。彼らがマリアとぶつかりそうになった。それを避けようとエイモスがマリアを引き寄せるという自然な形が出来上がって、エイモスはマリアの首に手を回して抱き寄せたのである。マリアは突然の出来事に驚いたようだが、エイモスを見る目に拒絶はなく、不思議そうな笑みをたたえて言った。
「不思議だわ。以前にも、同じ事があったような気がするの」
 マリアはエイモスに肩を抱かれたことをそう表現した。面識の浅い異性をかき抱いたという気恥ずかしさに、エイモスはヨゼフに目を移してこの場を凌ぐ言葉を口にした。
「すまない。ずいぶん待たせてしまった」
 行為に不快感を感じたかも知れないマリアへの謝罪に続いて、一軒の電気店の前で彼らをじっと待っているヨゼフの存在を表したのである。ヨゼフは店頭に掲げられチラシで、エイモスが求める商品を見つけたと、手招きを続けているのである。
「気の利かない男ねぇ」
 ヘレンが舌打ちをするような思いでヨゼフを表し、チェルニーも頷いて同意して言った。
「買い物はさっさと終わらして、あの二人を次のステップに進めましょう」
 ヘレンとチェルニーの会話の最中、マリアは未だ首を傾げたままでいた。心情を正確に表現することも出来ずに思った。
(『すまない。ずいぶん待たせてしまった』、不思議、この言葉もどこかで聞いたことがあるような気がするわ)
 四月がこの国の一年の区切りの時期で、学生や会社員など様々な人々がこの都市に集い去って行く。その区切りの時期に、エイモスと同じく家電製品をまとめて求める客が多いために、セットにして価格を下げて客を誘う店がある。ただ、五月末というこの時期はその区切りの時期からずれていて、売れ残った商品が扇風機やエアコンなど夏場の商品の片隅で、価格を下げて売られていることがある。ヨゼフが見つけたのは、テレビや電子レンジなど、大阪で新しい生活を始める学生たちが買いそろえる商品に、型落ちのパソコンをセットにしてお得感を演出したセットである。
「あれなんか良いんじゃないかな? あとは扇風機だね」
 ヨゼフの提案に、エイモスはそれで満足だと同意をして頷いた。ここからチェルニーの出番である。
「任せてよ」
 チェルニーは髪のピンを抜き、後頭部に堅くまとめていた髪を下ろした。眼鏡を外して胸のポケットにしまって見ると、彼女の愛くるしい大きな目が強調され、近眼で焦点の合わない目が潤んで見える。ぶるんっと首を振って首筋に流れる髪に膨らみを持たせ、指先で前髪を整えた彼女は、五歳ばかり若返って見えた。
「店員サン、店員サン」
 彼女は少女のように微笑んで、片言の日本語で、年配の店員に手招きをした。
「何か、お入り用ですか」
「店員サン、私、コレ、欲シイ。ナンボ?」
 価格を聞かずとも、店頭に展示してある。
「これは、新しい生活を始める人のためのお徳用セットで、テレビ、冷蔵庫、電子レンジにパソコン合わせて79800円になっています。別々に買われるよりお得ですよ」
 チェルニーは首を傾げて、店員の言葉に無かった扇風機を指さした。
「私、日本語、ヨク ワカラナイ。テレビ、冷蔵庫、パソコン、扇風機?」
「だから、これはテレビ、冷蔵庫、パソコンの三点セットで、あちらの扇風機をつけると……」
 電卓を手に計算を始める店員に、チェルニーはポップに書かれた価格を指さして念を押した。
「79800円ネ?」
「じゃあ、扇風機はオマケと言う事で」
 妥協した店員にチェルニーは首を傾げた。
「デモ、ドウスル?」
「何が?」
「私、8万円シカ持ッテナイヨ。オ金ハラウト、帰リノ、電車ノレナイネ」
 その後、彼女は店員にもヘレンたちによく分からない母国語で何かをまくし立てた。この商品が手に入らなければ、酷く困るような印象のみが伝わってくる。店員は、価格で妥協するという以外の選択肢が無く、彼女の示す条件で折れた。彼女は店の優しさにちゃんとお礼を言った。
「アリガトウ。私、トテモ、ウレシイデス」
 彼女は最後にアパートへの送料もオマケさせてお礼の笑顔を浮かべた。五人は店を出たが、チェルニーの手際よさに驚いている。ただ、ヨゼフが呆れたような苦言を呈した。
「あまり店員を苛めるなよ」
「あらっ、ちゃんと価格の決定権を持ったボスを相手にしているわよ」
 チェルニーは流暢な日本語でそう言った。値引きを要求されて困る若い店員ではなく、価格決定の判断が出来る店長クラスを相手にするのが、価格交渉のコツだというのである。ヘレンが笑いながら言った。
「あなた、もしも突然に言葉が通じない世界に飛ばされても生きていけるわね」
「他に何か買うものは?」
 チェルニーがそう確認し、エイモスが礼を言った。
「いや、今ので、全部そろった。ありがとう」
 この好奇心むき出しの連中を見ていると、そう言う言葉でこの場を締めくくって、次の予定に進めるのが良かろうと判断したのである。何か足らない物があればまた買いに来ればいい。マリアが微笑んだ。
「じゃあ、あとは和ちゃんたちと合流して、動物園ね」
「動物園の前に、ユキムラの像を見るのよ」
 ヘレンは動物園の途中の神社にあるという真田幸村の座像に想像を膨らませた。彼女の想像では、わずかな手兵で魔王の軍の厚い前衛を打ち破って、魔王の本陣に突入した猛将である。彼女の中で筋骨隆々とした威厳を漂わせる英雄像が膨らんでいた。

  一方、玩具屋に残され、和ちゃんのお守りを任されたアダムだが、お守りより店内の商品に夢中になった。考えてみれば、玩具屋に入ることなど十年ぶりである。十年という時の長さや、彼の母国とこの東洋の端の国という距離を、懐かしい記憶が埋めた。
 白や赤や黄色の小さなプラスチックのブロックが城や飛行機の形に組まれて展示されていたのである。アダムは幼い頃、ポーランドでこの玩具を目にしたことがある。

 真面目に働いて家族を養う父親が、妻の冷たい視線に抗いもせず生きていた。そんな父親の本当の笑顔を見たのは、手を引かれて玩具屋に行ったときのことである。理由ははっきりと覚えていない。子どもの身の回りのものは、全て母親が買い与えていたが、初めて父親が自分の判断で息子にプレゼントを買い与えた時だった。
 普段、仕事漬けで子どもとの触れあいが少なく、子どもに何を買い与えて良いのか分からない父親が、楽しげに迷ったあげく買い与えてくれたのが、あのプラスチックのブロックだった。アダムは列車の玩具が欲しいとは言い出せないまま、プレゼントを受け取ったのを覚えている。
(父親とは何だろう)と、アダムは過去に何回も考えたことを思った。
 父親にまとわりついて玩具をねだる子ども、父親に手を引かれて店内の商品を見て回る子ども、父親が指さす商品に首を横に振って別の商品を指さしている子ども。電気街の中の玩具屋には、父親と子どもが溢れていた。
 そして、日本橋で玩具に夢中になる外人男性と、日本人の子ども、バラバラなら別に珍しくはない光景だが、二人が寄り添っているために、その関係に好奇心が湧く。アダムと和ちゃんは店員や他の客の視線を浴びていた。一方、和ちゃんも心密かな思いを込めて、周囲に視線を配っていた。父と子の光景を、棚に並べられた玩具越しに眺めていたのである。父親が子どもに注ぐ視線が珍しいことのようだが、その子どもと視線が合うと、その子が漂わす優越感から目を反らすように、視線を別の父と子に移していた。アダムと同じく父親について思いめぐらせていたのかもしれない。そんな和ちゃんの様子を眺めたアダムが問いかけた。
「何か、欲しいの?」
 アダムの問いに、和ちゃんが期待感を込めて、にこりと笑ったので、アダムは言葉を継いだ。
「また今度ね」
 和ちゃんはため息をついた。
「ボク、知ってるねん。大人の人が『また、今度』って言うときは、絶対にあれへんっていてうことやねん」
「よく分かってるね」
 和ちゃんは玩具を撫でつつ、背後にいたアダムに声をかけた。
「アダムさん」
「何?」
「ボク、思うねん」
「だから、何?」
「マリアさんのこと好きやったら、好きやて言うた方がええわ。このままやったら、マリアさんをエイモスさんに取られるで」
 和ちゃんの突然の言葉にアダムは絶句して返す言葉がない。和ちゃんは言葉を続けた。
「みんな、アダムさんのこと、応援してるねんで」
「ありがとう」
「男って、押しが強ないとあかんねん」
「そんなこと、誰に教えてもらったんだい」
「チェルニーさんと、ヘレンさん」
(なるほど)と、アダムは思った。
 あの二人ならこの子におませな思想を吹き込みかねない。
「和ちゃん。大人の世界ってもっと複雑なものなんだ」
 アダムはそう語って聞かせているが、その和ちゃんの興味は別にあるらしく、そっぽを向いていた。気まぐれな子だと苦笑いしつつ、その視線を辿ると一人の小学生らしい男の子がおり、やや距離を置いて和ちゃんと同じ年頃の幼女が居た。アダムが目撃したのは、少年が駕籠の中に山積みになっていた小さな人形を鷲掴みにして、左手に提げたバッグに忍ばせようとした光景である。その手の平に収まるほどの大きさの人形は、男の子が欲するような物ではない。男の子があの幼女の為に盗みを計っているという様子が見て取れる。そして、その幼女の目を見れば、何かを手に入れる喜びはなく、ただ兄が罪を犯す罪悪感と悲しさを感じさせる。和ちゃんはそんな幼女の目から、兄と妹を包む事態を察したらしい。貧しく幼い兄が、妹のために万引きをしようとする光景である。僅か二百円足らずの商品だが、二人の心に残す疵は深く大きすぎるだろう。
 裕福だと思われがちな日本で、アダムはこんな悲しげな盗みの場面に遭遇するとは考えても居なかった。
「和ちゃん。ちょっと、あの男の子に手を振って見せて」
 アダムは笑顔で傍らの和ちゃんに言った。その意図が理解できず首を傾げながらも、和ちゃんはその言いつけを守った。自分に向かって手を振る和ちゃんに、きわどい瞬間を目撃されたことを知った少年が和ちゃんに注意を向けた時、その傍らに移動していたアダムが居た。店の入り口に近い位置で少年には逃げ場がない。アダムは少年の頭に手を置いてしゃがみ込み、少年と同じ視線の高さの笑顔で語った。
「ボクが生まれたポーランドではね、今日、五月十六日は大人の人が、子どもに玩具を買ってあげる日なんだ」
 黙ったままアダムを凝視する少年に、アダムは未だ少年の手にあった人形を掴んで語り続けた。
「キミの代わりに、君の妹にこの人形を買ってあげても良い?」
 アダムは少年を伴ってレジに行き、ラッピングしてもらって仕上げにリボンをつけてもらった。兄と妹は初対面の外国人に驚きながらも、その傍らにいる和ちゃんの存在で安心したかのように付き従った。店の外に出て少年はアダムに促されて人形を少女に渡した。
「二人の名前は?」
 そう問うアダムに二人が答えた。
「たけし」
「さちえ」
 アダムは胸のポケットから手帳を出して、少年にも理解できるよう声に出して読みながら文を綴った。
『この人形は、今日の記念に、たけしに託します。ポーランド人、アダム・マリノフスキー』
 お金を持っていない子どもたちが人形を持ち帰った時に、両親に不審がられないようにとの配慮である。和ちゃんはそんなアダムを誇りに満ちた父を見守る視線で眺めていた。アダムはそんな視線を背景に兄と妹に言った。
「大人は子どもにプレゼントをあげるんだけど、子どももしなきゃいけないことがあるんだ」
「なに?」
「いい大人になるって約束するんだ。できるね?」
 兄妹は頷いて振り返りつつ去っていった。和ちゃんは二人に手を振って見送った後、アダムの顔を見上げて試すように言った。
「ぼくも約束するわ。大人になったらええ人になる」
「それは良かった」
 アダムの返事に和ちゃんは首をかしげて甘えた。
「玩具は?」
「玩具がどうしたのかな」
「約束したら、玩具買うてくれるんとちゃうの?」
「あんなのは口からでまかせ。ポーランドにそんな習慣はないよ」
 アダムの言葉に和ちゃんは首を傾げたものの、すぐに事態を察したように笑顔を浮かべた。
「アダムさんって、ええとこあるやん」
 そんな和ちゃんの目が眩しい。アダムは微笑んで誇らしげな喜びを返した。アダムがあの二人に人形を渡した指先を、和ちゃんは両手で大事に包んだ。この一瞬、二人は父と息子だった。アダムの脳裏に十数年前の父親の笑顔がよみがえった。
 この時に、聞き慣れた声が店内に響いた。
「アダム、和ちゃん」
 ガラス張りのドアの所から顔を覗かせたマリアが二人に手招きをしたのである。次の目的地の動物園に行こうというのである。マリアの呼びかけに、和ちゃんはあっさりと尊敬するアダムを捨てた。父親の傍らより母親の傍ら。子どもというのはこういうものか。アダムは新たな父親の気分を自嘲的に味わった。

「この後は、ボクが案内しよう」
 他の仲間と合流したアダムは、マリアに寄り添うエイモスをちらりと眺めた。チェルニーが観察した所、リーダーシップを取り戻すという決意がこもった眼差しである。事実、昨夜、アダムは地図とこの地にまつわる昔話について調べていた。
「動物園はここから南東の方角だ。途中にヘレンが見たいと言った安居神社がある」
 アダムは幹線道路を捨てて幾つも分岐する路地に入った。最短距離で目的地に着けばマリアの賞賛を得ることが出来るはずだった。アダムは始めて見る町並みに解説を加えつつ歩いている。
「これから通る安居天神にはスクナビコナという神が祀られている。海から来訪したとの記述があって、海外から日本に来た異邦人じゃないかという説もある神なんだ」
 そう語りながら先導するアダムが、妙にきょろきょろと辺りを確認する様子がある。アダムは歩みながら語り続けた
「神社を抜けると坂がある。その坂道を「おうさか」と言ってね、漢字の意味を解釈すると出会いの坂ということさ。この大阪の地名の由来だという説があるんだ」
 チェルニーは首を傾げた。
「で、大阪が出会いの地だとして、その逢坂はどこにあるの」
「だから、その……」
 アダムが頭の中に描いた景色で言えば、日本橋から南東に向かえば長い坂があるはずで、その坂を横断すれば動物園、坂を登ってゆけば四天王寺という地形のはずだ。そして何より、その付近には通天閣という塔があり、塔を目指して歩けばいいはずだった。
 しかし、交通量の多い幹線道路の交差点が幾つもあり、似たような町並みが続く。ビルディングが建ち並んで、目標にすべき通天閣が見えない。アダムは方位を見失った。アダムが目印にした険しい坂はなく、更に、地図上では平面に同時に存在すべき道路の一つが、十数メートルも上の高架を走って立体に交差しているのである。そして、その高架はこの付近で大きく曲がって方向を変えている。五分前には前方に見えていた高架が、今は右手の方向に見えていて、アダムの方向感覚を狂わせた。
「素直に、道に迷ったって、言ったら?」
 やや非難の視線を浴びるアダムに代わって、ヘレンが太陽の位置と時計を見比べて判断した。
「こちらが北ね。迷っていたのはせいぜい十分だから、電気街から離れては居ないわ。動物園の方向はあっちね」
 仲間はヘレンの指さす方向に向けて道路を進んだ。
「ほらっ、あれが安居天神よ。ユキムラの像があるところよね?」
 彼女が指さす道路に小さな鳥居が見えた。近づいてみると、その鳥居の前の掲示板に安居神社の縁起が記載されていたのである。ヘレンが大阪城のプリンスとプリンセスを守って戦ったと記憶しているサムライの戦死の地とも伝えられている。幸村の碑や像があるはずだ。自分たちの位置を見つけた安心感で、アダムたちは鳥居をくぐった。参道というには賑やかさのない幅二メートルばかりの路地を進むと、二つ目の鳥居があり、鳥居の先が石段になって左右に木々が生い茂って見えた。彼らの位置から社殿は見えないが、石段を登った高台に神社があるに間違いはなかった。ふと、アダムは鳥居とエイモスの故郷とのつながりを思い出した。
「鳥居、トリイ、門? エイモス、君は知ってるかい。トリイという日本語の語源は、門を意味するヘブライ語に由来しているという説がある」
「門? 境界」
 エイモスは振り返って呟いた。そう言えば、自分が日本語を学ぶきっかけも、古いユダヤと日本の類似点だった。
 胸元に妙にくすぐったく暖かな感触がありポケットを探ると、入れたままになっていたメダルが指先に触れた。取り出して眺めると、断片的だった輝きが今は明瞭に線を作って六芒星の形に輝いていた。好奇心を示した和ちゃんがメダルに手を伸ばし、指先が触れた直後に異変が起きた。
 懐かしさや胸騒ぎ、期待感と不安、様々な感情がエイモスを駆けめぐった。その感情のほとばしりが具象化するように霧が渦巻いて彼の姿を隠した。その霧は、薄く、濃く、淡い緑や青が混じって均一に同化せず、時に血を思わせるほどの不安な赤が出現しては色を変えた。エイモスの混乱に同調するように色を変えつつ、霧は広がって傍らのマリアと和ちゃんの姿を覆った。

 


第二章 1

「マリア、和ちゃん、エイモス」
 目前の異変に気づいたアダムは、姿を消した三人の名を呼んで、霧の中に手を伸ばしたが、触れるものはない。存在を求めて、更に霧の奥に踏み込んだ。
「マリア、和ちゃん、エイモス」
 繰り返すアダムの叫びが、三人を求める悲鳴のように霧の中に薄れて消えた。
「私たちも行きましょう」
 状況はつかめないものの、姿を消した者たちを救うのに迷いはなく、ヘレン、ヨゼフ、チェルニーもまた、突如出現した霧の中に踏み込んだ。
 濃い霧はアダムたちの視界を奪って、伸ばした腕の指先すらぼやけて見えない。仲間の名を呼ぶ声は、分厚い毛布にくるまれながら大声を上げるように遮られ、霧に溶けてしまうように声は薄れて、仲間の声も耳に届かない。霧は視界を奪うのみではなく、様々な感情が織りなされて彼らを包み、心を乱した。記憶が遡るように蘇り、物心つく前の幼い記憶は、父や祖父や曾祖父を経て、遙か昔の祖先の記憶に行き着くかのようにも思われた。
 視界を奪われた空間で、上下の感覚すら失って、足下に不安を感じたヨゼフは、片膝を地に付けて平衡感覚を保とうと手探りした。何か、暖かく柔らかく、指先に触れるものがある。
「きゃあ!」
 聞こえた悲鳴は、チェルニーの声である。
(と、すれば、この柔らかな感触は)
 ヨゼフがそう考える間もなく、尻を撫でられて怒りの表情を浮かべるチェルニーの平手打ちが、ヨゼフの頬を襲った。もう一つ、響く声がある。
「この変態っ!」
「ぎゃっ」
 ヘレンの怒りの声の直後、蹴り倒される人体の音と共に、アダムの苦痛の声が響いた。霧の中で手探りをしていたら、何か触れるものがあった。指先を動かして感触を探っていたら、ヘレンの胸だったらしい。
 互いの声が聞こえ始めたという事実で、彼らは濃く覆われていた霧が晴れ始めたのに気づいた。表情までは見えないが、シルエットがぼんやりと見え、声と重ねて人物が明らかになる。アダムは蹴られた左の脇腹を押さえて呼吸を整えながら言った。
「普通、正体不明の人間を、いきなり蹴りつけるかぁ?」
「普通、前戯も無しで、いきなり女の胸を揉む男も居ないわよ」
 そんな会話をする二人の影に、チェルニーとヨゼフが接近した。既に、霧は薄れて互いの表情が見える。アダムが上半身を起こしてみると、蹴り倒されたときに押し倒した背丈の高い植物の間から水がにじみ出したため、彼は慌てて立ち上がった。先ほど地に膝をついていたヨゼフの片膝と手が泥にまみれていた。
(いつの間に、こんな所に)
 彼らの周囲の景色が一変していた。腰の高さほどの草原は周囲の雑木林に日が遮られていて薄暗く、太陽の光を浴びることのない地面はじっとりと濡れていた。葦が群生する湿地帯である。
「ここは?」
 チェルニーが驚きの声を漏らした以外、他の三人は周囲の景色に息をのんで黙りこくっていた。仲間を見回して尋ねるチェルニーの質問に、答えることが出来る者が居ない。理由が分からないまま、住宅地の中の神社という景色は一転したのである。
「他の三人は?」
 そう問うアダムも、仲間の答えを期待しては居ない。どうしてこんなところにいるのかという疑問と同様に、マリアと和ちゃんとエイモス、その三人が何処に姿を消したのかという疑問にも手がかりはない。三人の姿を探して彷徨って、通りかかった松林の疎らに茂る葉の間から地に光が射していた。もちろん、姿を消した三人の姿を見つけることは出来ないままだ。
「貴方は、私たちをどこに案内してきたの?」
 チェルニーはそう聞いたが、道案内をしていたアダムにも、想定外の光景に違いない。
「状況を整理してみましょうよ」
 ヘレンの提案に、アダムは頷いて記憶を辿り始めた。
「電気街から迷いながら北東に歩いていて、鳥居をくぐった後、霧が出てきたんだ」
「その前に、門がどうこうの言ってなかったかい」
 ヨゼフがアダムの記憶を補い、チェルニーが頷いた。
「ええ、エイモスも、門が、境界がって呟いてたわ」
「あの霧と何か関係があるのかな」
「電話で何か分からないかしら」
 チェルニーがポケットから携帯電話を取り出す様子に注目が集まったが、彼女は直ぐに肩をすくめた。
「ダメね、圏外」
「僕のもだ」
 アダムは妙な予感がして携帯の電源を切った。何故か、ここに長居をする予感がして、バッテリーは温存しておいた方が良いだろうと考えたのである。ヘレンは腕時計を眺めた。午後一時を回っているが、果たしてこの世界の時かどうかは分からない。この時にアダムたちの耳に聞き慣れない音が勢いよく近づいてきた。
「理由は不明。でも、ここは私たちが居た大阪では無さそうね」
「何故、そうわかるんだい?」
「あの音よ」
 ヘレンは馬の蹄の音だと判別したのである。自動車のエンジン音や警笛ならともかく、馬の蹄の音など、大阪の町中に響く音ではないだろう。ヘレンが警戒感を露わに指示した。
「隠れて!」
 チェルニーが疑問を呈した。
「どうして? 救助の人たちかも」
「騎兵隊が都合良く現れるとは限らないわ」
 背の高い草木が生い茂る草むらにしゃがんで姿を隠し、目の前の草を少しかき分けて見ると、草原がとぎれる土の地面に、乗馬の男が率いるらしい男たちが姿をみせた。見慣れない衣装である。衣服を染めると言うことを知らぬような白い麻のごわごわした袖口や裾の広い衣類、腰に下げているのは剣だろう。背負っている筒口から見えているのは矢に違いない。長い髪を左右で束ねて耳の横で結っている。見慣れない衣装と髪型だが、身につけている武器を見れば、平和的な人物ではないだろう。荒々しい雰囲気と不審者を捜し求める気配が感じられた。何故か、高所から不審者を見つけて眺めていたというイメージが伝わってきた。彼らの背後を眺めると高所になっている。あの上の雑木林の切れ目から、視界の利かない湿地帯を彷徨うヘレンたちを眺めていたのだろう。
 指揮官らしい男が馬上で剣を抜き、草むらを切り払って、歩行立ちの三人の部下に命じた。
「探せ!」
 その男の声には、この草むらに必ず探し求める不審者が居るという確信と、不審者の身元を糺すという役職上の責任感がこもっていた。そして、その短い命令の意図を正しく理解して草むらに広がって探索を始める部下の様子を見ればよほど訓練が行き届いている。
「出ましょう」
 そう提案するヘレンにチェルニーは疑問を呈した。
「どうして?」
「隠れても無駄よ」
「なるほど」
 長身のヨゼフが見回したところ、生い茂る植物は密だが、その丈は彼らを隠すほどではなく、身をかがめていても、この草むらはアダムたち四人を隠しきるには狭すぎるだろう。隠れていて発見されるより、堂々と姿を見せる方が、敵意がない事を示せるに違いない。ヘレンは立ち上がって男たちの前に身を晒した。草むらを吹き渡る風が彼女の金髪を靡かせて、木漏れ日を反射させた。
「ケハヤ様。あそこに」
「なるほど、異形の者どもよな」
 男たちの声は大きく、ヘレンたちにまで伝わってくる。ヘレンは聞き慣れない言い回しをアダムに尋ねた。
「なんて言ってるの?」
「僕らのこと、へんてこな連中だって言ってるんだよ」
「僕らが変てこなら、あの連中も」
 ヘレンたち不審者に逃げる様子がないことを見て取った指揮官は、ゆっくりと馬首を巡らせて四人の異邦人を観察するように近づいて来た。その視線の鋭さにチェルニーは思わず顔を伏せた。ヘレンは観察されている仕返しのように、接近する者たちを漂う雰囲気まで眺め回した。不審者の探索という意味では警察の仕事だが、接近する男たちの風体は警官には見えず、兵士らしくはあるが小銃を手にした近代的な兵士ではない。指揮官が振り回す剣が木漏れ日を反射して輝いた。ヘレンはこれらの光景を一言で評するほか無い。
「まったく、ここはファンタジーの世界なの?」
 指揮官らしい男が威圧感を滲ませて問うた。
「何者か?」
「私はヘレン、こちらがヨゼフ、チェルニー、アダム」
 指揮官は馬上からアダムたちを見下ろして言った。
「見慣れぬ風体に、聞き慣れぬ名だ」
「祭りの日に、稀人(まれびと)が、流れ着きおったのでございましょう」
「なんとも、異形の者どもでございますな」
 彼らの会話は、馬上から見下ろすのみではなく、権力を笠に着てヘレンたちを見下す感情が流れ込んできて彼女たちの感情を逆撫でした。ヘレンは腹立たしげに言った。
「貴方たちは? 名乗りなさい」
「不審者に名乗る名などあろうものか」
 兵士の一人が刀を抜き、脅すようにヨゼフに向けた。手入れが良く鋭く研がれた刃先がヨゼフの肌に触れ、痛みさえ感じさせないまま傷を付け、生暖かい血の滴をぬるりと流させた。その血も刃も、まがいものではなかった。
「ほぉ、異形の者の血も赤いと見える」
「何をするの」
 ヘレンはケハヤと呼ばれた指揮官が手にしていた槍を掴んで、揺さぶって抗議をした。もちろん、ケハヤは槍を奪われまいと脇に引く。何度か力を入れたり抜いたり、槍を経由してヘレンとケハヤの呼吸が一致した。ヘレンはふと感じた。この男たちは武器や腕力を誇示していても、その駆け引きを知らないのではないかという事である。ヘレンはケハヤが槍を突きだす腕が伸びきった瞬間に、槍の柄をくるりと回しながら引いた。思いもかけない方向に力がかかって、ケハヤが握りしめる寸前に、手からするりと抜けてヘレンの手に移った。ヘレンは奪い取った槍の石突きで兵士の一人のみぞおちを突き、振り回した槍で二人の兵士を叩きのめして、叫んだ。
「殺さない程度に、ヤっちゃいなさい」
 奪った槍を投げ渡されたアダムは面食らっていたが、この場では黙って見ていられる状況ではなく、みぞおちを突かれたショックから意識を回復しかけている兵士を、槍を上下に振るって槍の柄で叩いて、もう一度失神させた。
 馬上のケハヤは一瞬のうちに三人の部下が叩きのめされて失神しているのは信じられないが、腕力自慢の自分の手から槍がするりと抜け落ちるように奪い取られたのも信じがたい。
「おのれら」
 ケハヤは怒りを込めて太刀の束に手をかけたが、ヘレンが槍を手放して武器を持っていないのに気づいて、馬から下り、両腕を広げてヘレンに挑みかかった。素手の相手に武器を使うというのは、この男の誇りが許さなかったに違いない。
「いい子ね」
 ヘレンはそんな言葉でケハヤのフェアな精神を褒めた。しかし、ケハヤは格闘技に通じているヘレンにあっさりと背に回られて、彼女の腕で首筋を固められた。気管や頸動脈を締め上げられたケハヤが気を失う寸前に、彼の耳元でヘレンが優しく囁いた。
「この勝負の記念に、貴方たちの剣を頂くわ」
 ケハヤはそのまま気を失った。ヘレンは仲間に失神した兵士の剣を奪うよう指示し、彼女自身もケハヤの剣帯と下げていた剣を奪って身につけた。
「さっさとずらかるわよ」
 そんな言葉とは裏腹にヘレンの歩みは落ち着きがある。チェルニーが見るところあの兵士たちが目覚めるまであと数十分はかかるだろう。その間に身を隠せばいいのである。
「ヨゼフ。顔の傷は?」
「脅しだったんだろう、たいしたことはない」
「アレが、警察か軍隊かは分からないけど、これで私たちはこの国の公権に逆らったお尋ね者よ」
 アダムたちは人の気配を絶つように、薄暗い雑木林に入り込んだ。当てもなく歩き続けた彼らは、まもなく、眩しい陽の光を浴びた。チェルニーは目の前に広がる景色に絶句した。
「どうしてこんなところに?」
 雑木林を抜けると幅の狭い砂浜があり、その先に一面に群生する芦の緑の穂先が風に揺らめくさまは波のように見えた。潮の香りに気づいて視線を上げるにつれて、芦原の緑の波が境目も鮮やかに海の波に変わる。
 沖合の見慣れない形の帆船を数えてみると十数隻。近くに港がある気配がした。空には海鳥がのんびりと飛び交っていた。中天にある太陽で時を推し量れば昼過ぎか。その影の角度から判断すれば、彼らは南北に長く続く干潟の海岸線を北に向かって歩いていた。
 影を辿るように眺めたヘレンは仲間を叱咤した。
「足跡を残さないで。追われるわよ」
 砂浜との境目の草むらを歩いて砂浜に足跡を残すなというのである。視界が開けた西側の海岸と、視界を遮る東側の雑木林の間を三十分ばかり歩いたが追っ手の気配がない。彼らは雑木林を背に腰を下ろし、葦原が風にそよぐ波とその先のまぶしく光る海を眺めた。
「あの衣服、あの髪型、日本の神話の挿絵に似ている」
 アダムがふとそう呟いた。
「神話の世界だとでも?」
 チェルニーの問いにヘレンが応じた。
「これほどリアリティのある神話があるもんですか」
「誰か、ここがどこか分からないの?」
 チェルニーの問いかけにヨゼフが提案した。
「ボクらのいた場所と何か接点が無いかな」
 接点というヨゼフが提示したキーワードに、チェルニーが言葉を指摘した。
「あの変てこな連中、日本語を話してたわね。言葉が通じたわ」
 ただし、言葉で意志を交わしたという感覚が何故か薄く、彼女自身首を傾げている。ヘレンは手にした剣を少し抜いて、その刃を太陽に反射させて眺めた。
「私、美術館で本物の日本刀を見たことがあるんだけれど、刀身が美術品のように綺麗で魅力的だった。でもこの剣はどぉ?」
 確かに、鞘は手の込んだ作りで、職人の仕事ぶりや剣の価値が伺える。ただその鞘を払ってみた刀身はどうだろう。アダムのような刀剣の素人の目から見ても作りが荒く、刀身の脆弱さを補うように幅が広く厚みのある刃物である。
「では、ここは日本ではないか、日本刀が作られる以前の日本のどちらかと言うことだ」
「それは矛盾するわ。日本ではないなら言葉が通じるはずはないし、日本刀が作られ始める以前の古い時代でも、現代の私たちの日本語なんか通じないわよ」
「では、こんな剣を持ってる人がいるというのは、ここが日本ではないと言うこと?」
「銃刀法違反。そもそも、現代の日本で、許可もなくこんな剣を持って彷徨いてたら、ブタ箱行きだよ」
「分かったことは、ここが僕らが居た日本ではないと言うことだ。大事なことは、ここがどこで、どうやったら帰れるのかと言うこと。誰か他の情報は?」
「なにも、無いわ」

 目の前の景色を説明する事は出来ず、仲間は再び立ち上がった。この場所でじっとしていても仕方がないことは皆分かっていた。歩き続けると、やがて前方に多数の白木の建築物が見えてきた。人の姿がかいま見えたため、ヘレンは仲間に注意を促した。
「林の中に隠れて様子を見ましょう」
「何の施設だろう」
「兵士じゃなさそうね」
 雑木林に身を潜めながら前進を続けると、やがて彼らはその雑木林が途絶える地点にたどり着いた。木の陰に身を潜めながら様子を窺うと、北の方は開けて見晴らしが良い。そこに多数の見慣れない衣服の人々が見えた。数多くの白木造りの建物に荷を担いで入ったり出たりを繰り返していて、アダムは何かの倉庫とそれを管理する役所だろうと見当をつけた。
「人の数は多いけど、武器を持っている様子はないわね」
「武器は持っていなくても、敵だったらどうするの。大勢に囲まれたら逃げ切れないわ」
「そうだね。今は近づかない方が良さそうだ」
「樹に隠れてこの斜面を上がってみましょう」
 雑木林がきつい斜面に沿って広がっていた、この斜面の上ならもっと別の情報が得られるだろう。その斜面を登り切った辺りで雑木林が南へ延びる街道で分断されていた。街道の左方向は西へ折れて、先ほどの倉庫群に続いているらしい。北の方向に分岐する細い道があり、街道の向かい側の草原や雑木林を縫って北へ延びているように見えた。ヨゼフが辺りを見回した。
「どちらに行く?」
「分かっているのは、ここに留まる事はできないということよ」
 ヘレンはそう言って、街道上の疎らな人影が途絶えるのを待った。彼らは街道を渡り、北に向かう小道を辿った。アダムが時計を確認すると、時間は午後四時を回っており、彼らの時が適用できるなら、この世界にやってきて三時間が経過している。
「ああっ、腹が減った」
 ヨゼフが素直に空腹を訴えたのをヘレンが叱りつけた。
「緊張感のない人ね。まず安全な場所を確保するのが先よ」
 チェルニーは空を見上げて今夜の宿を考えた。たしかに、あと三時間もすれば日が落ちる。宿を見つけなければ、この得体の知れない世界で月や星を見上げて野宿になるだろう。
「私、慣れた枕でないと眠れないタチなの」
「命を無くせば、枕無しでもぐっすり眠れるわよ。永遠にね」
 ヘレンの脅しと同時に、彼らの背後で物音がしたために四人は緊張し、ヘレンとアダムは剣の束に手をかけた。しかし、直ぐにその手の緊張を解いた。背後に姿を現したのは、危害とは無縁の幼い男の子である。
「和ちゃん」
 チェルニーがそう呼んだほど、和ちゃんに似ているが、ヨゼフは彼女を制した。その男の子から、初めて眺める珍しい人物たちに寄せる好奇心が伝わってくる。好奇心を滲ませるという雰囲気で、和ちゃんそっくりと言っても良いのだが、やや長めの髪を後頭部で結っていた。着用する衣服は膝までの丈があり、襟周りは着物のように見えるが、その袖口は大きく開いて、可愛い腕が肘の辺りまで見えている。その髪型や衣服は別人に違いない。
「脅かしちゃいけない。そっと」
「そうね」
「ねぇ、ボク。どこから来たの?」
 男の子はチェルニーに答えるように、右手の方向を指さした。やや上向きになった腕の角度が、男の子の家までの距離の長さだという雰囲気が漂っていた。男の子が素直な笑顔で尋ねた。
「オバちゃんたちは、どこから来たん?」
(おばちゃん?)
 チェルニーはその表現に眉を顰めたものの、回答を求めて仲間の顔を振り返って眺めた。なんと答えればいいだろう。ここは午前中まで彼女たちが居た大阪とは隔絶された世界らしく、「大阪」から来たと言っても男の子には通じないかも知れない。ただ、現実との接点を求めて推し量るためには、その町の名を基準にせざるを得ない。
「日本橋って、知ってる?」
 そんなヨゼフの言葉に男の子は首を横に振った。ヨゼフは質問を重ねた。
「じゃあ、ここは大阪どの辺りなんだい?」
「おおさかって何? おっちゃんは何処から来たん?」
 幼児が返す質問に、大阪を起点に位置を推し量っていたアダムたちは曖昧な返答をせざるを得ない。
「僕らは、ずっと、ずっと、遠くから来たんだ」
「ボク、知ってるねん」
 男の子の言葉に、アダムたちは顔を見合わせ、四人同時に尋ねた。
「何を?」
「今日は、あなた達が来る日やねん」
 当然のことのように男の子は言い、チェルニーが重ねて尋ねた。
「どうして知ってたの?」
「おじいちゃんがそう言うててん」
「そのおじいちゃんのところに連れていってくれる?」
 アダムの頼みに男の子は表情を輝かせて聞いた。
「来てくれるん?」
「もちろん」
 仲間の同意を取り付けるように顔を見回したアダムがそう言った。
「ボクのお名前は?」
 チェルニーの質問に男の子は無邪気な笑顔で答えた。
「ワクウ」
 アダムたちは顔を見合わせた。聞き慣れない名だと思ったのである。しかし、今はこの初対面の幼児を頼るほかない。
 ワクウは散歩する子犬のような無邪気さで、気まぐれにアダムたちの周りを回ったり、村の方向に駆けて姿を消してみたり、周囲に広がる草むらの中に隠れてアダムの背後に回ったりした。その様子はいかにも子どもらしく、見ていて微笑ましい。この子を慈しむ父母や周囲の人々の人柄までかいま見える。
「でも、見ればみるほど、和ちゃんに似てるわね」
「本当」
 触れあうほどの距離で眺めると、肩の辺りまである髪を、浅葱色の飾り紐で束ねていて、その紐の端が首の辺りでゆらゆらと揺れていて可愛らしいが、ワクウがにじみ出させる無邪気な雰囲気が、衣類や髪型の違いを覆い隠すようで、和ちゃんとの類似点のみ目立つのである。ヨゼフが囁くように言った。
「ここがどこかと言うことだけじゃなくて、行方不明の和ちゃんとマリア、エイモスも探さなきゃね」
「でも、ちゃんと道路を通って案内して欲しいわね」
 チェルニーの言葉にアダムたちも笑った。歩くに連れて、美しい変化に富んだ自然や、人の手が入った景色が入れ替わる。ワクウが背伸びをして草むらの向こうに眺める景色に畑らしき地形が見え、草むらに踏み込む一歩ごとに、この子どもに平穏を乱されたトンボが飛び交い、バッタが飛び跳ねた。
 この子は道に拘らない質のようで、思いつくまま様々な自然に踏み込んで行くのである。
「この子、どうしてこんな所に一人で居るんだい」
 アダムたちの世界に当てはめれば、幼稚園児という年齢ではあるまいか。そんな幼い子が、どうしてこんな人気のないところを彷徨いているのだろうという疑問である。この疑問が新たな女の声で晴れた。
「ワクウ」                                    
 男の子の名を呼ぶ女の声がし、長い髪を首筋で纏めた清楚な白い衣装の女が姿を見せた。名を呼ばれたワクウが寄り添い甘える様子から、ワクウの母親らしいと分かった。この子はこの母親に連れられてやって来ていたに違いない。
「マリア」
 チェルニーの呟きをアダムが否定した。
「いや、マリアじゃないよ。衣服や髪型が違う」
「じゃあ、誰?」
 化粧っ気がないという点ではマリアと同じだが、日本橋へ出かけたときのマリアの衣服は涼しげな薄手の生地の青いワンピースだった。目の前の女性は木綿らしい質素な衣類で前あわせの部分を左肩の辺りで紐で結わえて閉じていた。衣服がはだけないよう腰の辺りを括っているのはベルトではなく、ただの紐である。襟元が大きく空いていて風通しが良く涼しそうだが、その衣類の形はワンピースではない。
 四人が女と幼児に首を傾げるのと同様、女も首を傾げてワクウから何かを聞いていたが、振り返って事情を察したように言った。
「ようこそおいでくださいました。どうぞ、ご案内します」
 初対面と言うことを感じさせない言葉だった。アダムはふと気づいたように女に語りかけた。
「ミウォ ミ チェ ポズナチ(はじめまして) マム ナ イミェ アダム (私はアダムです)」
 仲間は首を傾げた。アダムが発したのは、仲間同士の会話の共通語として利用している日本語でもない。ポーランド語の意味は聞き慣れず、アダムが不可思議な呪文でも唱えたように思ったのである。一瞬、間をおいて女が挨拶を返してきたために、仲間はアダムが発した言葉が、名を名乗る挨拶だったと気づいた。
「申し遅れました。この子はワクウ、私はノユリと申します」
 女は振り返って立ち止まり、笑顔で挨拶したが、それ以上詮索する気はないらしく、再び彼らを導くように歩き始めた。ヘレンたちは名乗る機会を逸した。ノユリの態度には名前や出自など無関係に歓待するという人の良さがある。この女性はアダムの仲間さえ知らないポーランド語で発した言葉の意味を、正確に理解して返事を返してきたのである。アダムはこの世界の理の一つを確信した。
 ワクウは母親の手かごの中の草をつまみ上げて、アダムたちに掲げて見せて、教えるように言った。
「つきくさ」
 深い蒼の花びらを二枚つけ黄色い花粉をつけたおしべのコントラストが美しい植物である。ノユリは息子が植物の名を正しく記憶していたのを褒めるように、頭を撫でてアダムたちに説明をした。
「まだ、今年の春は暖かいので、もう、咲いていそうだと思ったんです」
 その説明と笑顔だけで彼女は再び歩き始めた。アダムたちがツキクサがこの世界の薬草の1つだと言うことを知るのは、数日後である。ノユリが導く行く手を遮るように川がみえ、小舟が係留された小さな船着き場に到着した。ノユリはこの川を渡るという。幅二十メートルはある川だったが、ノユリはヘレンの申し出も断って、竿を操って客人を乗せた舟を対岸に着けた。その慣れた手つきに、この人物がマリアに似ていてもマリアではなく、この土地で生きている女性だと認識を深めることになった。

 川の対岸は、更に自然豊かな場所のようで、視界を妨げる背の高い雑草の茂る草原の間を縫う道が続いた。突然に視界が開けたと思うと、不規則な土手で区切られた黒々とした土の地面が一面に広がっていた。ただ、この世界は乾期の最中でもあるのか、地面は乾燥してひび割れが広がっていた。
「芝生なの?」
 ヘレンがそんな感想を述べたのは、日当たりの良い土が露出する地面の一角で、ここだけは水気を感じさせる四角く区切られた場所で、土地を緑に染めるほど密に若草が茂っていた。人工で育てられている事が伺える。その景色の正体を突き止める間もなく、彼らの興味は流れ聞こえてきた笛の音に囚われた。
 楽しげなメロディが彼らを包んだ。笛の音に合わせて拍子を取る木を叩き合わせるような音が加わり、周囲は賑やかになってきた。
「祭りなのか」
 ヨゼフの考えを裏付けるように、仮面をかぶった者たちが踊っている姿が見えて、不可思議な世界を演出していた。集落の家の間を抜けると広場があり、古い樹木に藁で編んだ縄飾りが下げられていて、この樹木が祭りの中心だと分かった。
 突然の闖入者を眺める村人の間に、声が広がった。
「ノユリが客人を招いてきた」と、
 不可思議な者を眺める視線だが、敵意はなく敬意すら感じさせた。アダムたちは事情が飲み込めないまま、周囲の人々に愛想のいい笑顔を振りまきながら、村人たちの輪に入って行かざるを得ない。
 チェルニーは、父親の仕事をもじってヘレンを海兵隊女と呼んでいる。事実、彼女自身格闘技にも通じていて、戦闘的な雰囲気を漂わせているのである。チェルニーの見るところ、その海兵隊女がこの不可思議な場所で仲間内の誰よりも警戒心を解いてしまっていた。それほど、この村人たちの歓迎ぶりは自然に心に染みた。
 ノユリが導いてきた終着点に一人の初老の男が居た。身なりは周囲の人々と大差はなく特別な装飾品を身につけているわけではないが、祭りの中心の神木と正面から向き合った座についていることと、包容力を感じさせる人柄でこの場を仕切る人物だと知れた。ノユリはアダムたちを振り返り、初老の男に紹介した。
「お父さん、お客人をお連れしました」
「よくまぁ、来られた」
 どこから来たとか、誰かとは聞かない、まるで彼らの来訪が予定されていたかのように新たな人々を迎え入れたのである。
 地面に敷いた敷物の上に客人を迎える座が設けられ、何かのドライフルーツや液体を満たした壺が供された。
「酒だわ」
 ヘレンが壺の中の液体の香りを、くんっと嗅いで確認し、椀になみなみと満たして一口味わった。
「いきなり、大丈夫なの?」
 そう尋ねるチェルニーにヘレンが感想を述べた。
「ちょっと酸っぱいけど悪くはないわ。どう? 貴女も」
 チェルニーは、持てなしを受けてくれることを期待する村人たちの好意的な視線を浴びているのに気づいた。ヘレンから差し出された椀を飲み干さざるを得ない。ヨゼフはワクウから渡されたドライフルーツを味わって、干し柿だと確認し、アダムにも勧めた。
 笛の音と拍子木の音がやや激しくなると、神木の前にノユリが登場し、両手に持った緑の葉を茂らせた枝を手にして舞い始めた。人々は舞に合いの手を入れ、酒に酔い、舞に酔った。
「桜の樹か」
 アダムは縁に小さなぎざぎざのある小さな葉を眺め、驚きと共にその発見を口にした。薄紅色の花を満開に付けている樹木というイメージがあって、若葉を茂らせている時期の桜にそれとは気づかなかったのである。ノユリの舞がその生命感を称えているようにも思われた。ノユリの舞に教えられたように、この樹木を眺めてみると、確かに、花の時期の後、枝ばかりの姿を晒す木に、いつの間にどこから吹き出すほどの若葉が生じるのだろう。この集落の人々はその美しい生命感に触れる感性を持っていた。
 四人の頭の中が、祈りの言葉や豊穣の願いで満たされた。村人たちの思いが乱れて心の中に流れ込んでくると言う感覚である。この村の人々が桜の生命感を通じて豊穣を願う祭り。踊りに興じる人々から、秋の稲穂が豊かに実るイメージが伝わってくる。
「みんな、この世界で生きて居るんだね」
「生きていくって、どの世界でも凄いことなんだね」
「一種の生きたカレンダーなのかしら」
 チェルニーは桜の樹をそう思った。満開の花を咲かせる時期の種まき、若葉を茂らせる時期には田起こしをして水田に水を引いて稲の苗を植える。そう言う目安にしているらしい。祭祀とも祭りとも付かぬ行事は、田起こしの直前に、今年の豊穣を祈る行為なのである。宗教色が感じられず、何かに祈るというより、希望を大自然に願うようにも見えた。その願いの日に、見慣れない客人が現れたという状況だった。アダムは日本で学んだ知識の一つを思い出した。
「古代日本ではマレビトと言って、祭りに異邦人がやってくるのを歓迎する習慣があるんだ」
 酔いが回って顔が赤く心地よく酔ったチェルニーが答えた。
「さっき、あの子が『あなた達が来る日』と言ったのは、この事ね」
「雨を降らせろと言われているような気もするわね」
 ヘレンが言ったとおり、ノユリの舞を眺める人々から、長く続く日照りの不安と、異邦人の来訪に雨を期待する切実な気持ちが伝わってきた。
「この人たちの期待に応えられたら良いんだけど」
「残念ながら、私たちは魔法使いじゃないのよ」
 チェルニーの言葉に残念そうなニュアンスがあり、実際、アダムは雨の魔法が使えるなら、この人たちの願いを叶えて雨を降らせていただろうと思った。
 ノユリの舞に村人たちが加わって、桜の樹とノユリの舞を囲む村人たちの踊りの輪が出来た。ヨゼフはこの種の騒ぎには心が騒ぐ質で、笛の音に合わせて足でリズムを取っていたし、ヘレンも酒の勢いか村人たちにとけ込んで、手を叩きながらリズムを刻んでいた。ワクウが二人の手を引いて村人の踊りの輪に誘った。
 ヘレンに手を引かれたチェルニーも立ち上がり、アダムに手招きしたためにアダムも踊りの輪に加わらざるを得ない。元来、冷静さを保ちたがる性格だが、この時は村人たちの感情に心が躍らされ、村人たちの動きを真似て踊るアダムにも、笑顔が浮かんでいた。
 そこには村人たちと客人の間に垣根はなかった。この国の人々と涙や笑顔を共有する一体感がアダムたちを酔わせた。不思議なことに、アダムたちはノユリとワクウ以外の名前は知らず、村人たちの大半も客人の名を知らない。文明国では名を名乗り合うという当然の儀礼が、ここでは通用せず、むしろ人が心を通わすのに、人を区分する名など不要ではないかとさえ思わせた。
 陽が落ち、周囲がすっかりと暗くなる頃に、踊り疲れ、空腹も満たし、酔いも回ったアダムたちの宿泊に一軒の家が割り当てられた。
 土間から上がる板張りの床に、屏風のようなつい立てて仕切られて二組づつの寝具が敷かれていた。案内役のワクウが、土間の端に置かれた柄杓で水瓶から水をすくって見せて、飲み水の存在を教えてくれた。ノユリは戸口の上に巻いてあった簾を降ろして外と中を仕切るドアの代わりにし、ぺこりとお辞儀をして姿を消した。
 窓はつっかい棒を外せば、板が降りてきて視界を遮り、外を眺めためのものではなく、明かり取りや換気の役割を果たしているだけである。換気と言っても戸口に簾がかかっているだけで大きく開かれていて、戸口の簾を通して外から光が射し込んでいた。
 差し込む光を求めて戸口の簾を開けて空を眺めたチェルニーが言った。
「綺麗な月だわ」
「本当だ」
 空にくっきりと浮かんだ満月が、相づちを打つアダムの表情が判別できるほどの光を放っているだけではなく、透き通った大気は信じられないほどの数の星の輝きを見せていた。風は土や草の香りを運び、豊かな自然の姿を伝えた。赤子の泣き声が漏れ聞こえて来たが、泣き声が穏やかに薄れる様子に、子を抱く母が赤子をあやして乳を含ませる姿が想像できて微笑ましい。チェルニーが今日を締めくくる言葉を吐いた。
「明日は、なんとか、帰る手がかりを見つけなきゃあね」
「帰りたい?」
  ヨゼフの問いに返事を返すものが居ない。帰らなければいけないことは分かっていてもこの世界や人々を否定する気にはなれなかった。アダムたちが居た世界の喧噪とは無縁の平和な村だった。
「灯りを消すわよ」
 ヘレンの言葉の直後に、家の中は闇に包まれ、ヘレンが吹き消した不完全燃焼の油の香りが漂った。この家の灯りは貝殻に満たした油に灯心を浸した原始的なランプである。こんな灯り一つにしても、アダムたちが居た世界とは大きな違いがあった。
「でも、言葉は通じたよな」
 ヨゼフはせめて日本のどこかであれば、帰る手がかりも見つかるだろうという言うのである。アダムは厚い布にくるまって横になりながら、傍らのヨゼフに言った。
「ノユリさんが、ボクに名乗ったときのこと覚えてるかい?」
「俺には理解不可能な、君のあの言葉かい」
「僕らの話し言葉が、彼らに通じている訳じゃないんだ」
「なるほど」
「それに、さっきの祭り。村人たちの意識を感じなかったかい」
 ノユリと出会った時のこと。この村の祭りに出来事。アダムは確信を込めて続けた。
「僕たちが考えたことが、感情と一緒に彼らに伝わってるんだ」
「一種のテレパシー? 言葉じゃなく考えが伝わってるって」
「試してみよう」
 アダムは念を込めるように、じっと黙りこくって考え込んだ。
(確かに)とヨゼフは思った。
 アダムが想像するチェルニーとヘレンの艶めかしい姿が伝わってくる。まるで、彼女たちの肌の柔らかさや体温まで感じるようなリアルな想像だった。突然、衝立の向こうから怒りの声と共に椀が飛んできた。
「あなた達、こっちを覗かなかった?」
 女たちはまだ自分たちの便利な能力に気づいていないらしい。この世界では、アダムたちの感情や思考が、言葉を発するように伝わるのである。この世界の人々と意志を交わすことが出来るというのは、彼らがこの世界で生きる上で手助けになるだろう。
「ドブラノツ(おやすみなさい)」
 アダムは突然のヨゼフのポーランド語に驚いたが、ヨゼフは言葉の訳を明かした。
「長いつきあいだ。この程度のポーランド語は知ってるよ」
 チェルニーの寝息が、ついたて越しに聞こえる。今日一日の出来事で疲れ切っていたのだろう。物事に動じないヘレンのおしゃべりもやんでいて、くつろいで眠ったらしい。ヨゼフもだらしなく口を開けた表情で、寝息を立て始めた。その表情は警戒心を解いてこの世界に身を任せたように見えた。
「僕らがここに来たのは、どんな意味があるんだろう」
 アダムはそう呟いたが、やがて、彼もまたわき上がってきた眠気に包まれた。この村の人々の邪気のない親切は、異邦人の心を解きほぐし、この地の一員として村に迎えていたのである。

 


 朝日が昇るまでには未だ間がある。しかし、空は既に白んで、子どもたちの姿は衣服の色や黒髪の一筋に至るまで、その姿を明瞭に現していた。まだ、大地の下の太陽は、東の空を朝焼けに染めていて、間もなく現れる眩しい光を予感させていた。
 七人の子どもたちのグループを率いるのは年長の少年で、彼らの期待通りなら、湖の畔に仕掛けた罠に魚がかかっているはずだった。そして、年長の子どもたちは幼い仲間から尊敬を勝ち得るのだろう。こうやって、魚を獲る方法が年長者から、幼い者へと引き継がれている。ワクウがこの仲間に加えてもらったのは、今回が初めてである。彼が期待で胸を膨らませているのは、漁の獲物と少しばかり大人の世界に入った嬉しさのせいである。ワクウに与えられた役割は、獲物を持ち帰るための籠を運ぶ事だった。
 その微笑ましい雰囲気が荒々しく塗り替えられた。兵士たちの一団が現れたのである。兵士たちは獲物を追い立てるように大声を上げ、手にした剣で草を薙いだ。荒々しい行為に、千切れ、踏みしだかれた草の香りが野に満ちた。兵士たちの殺気だった様子が、子どもたちを緊張させた。
「わっぱども、この辺りで異人を見なかったか」
 兵士の一人が怒鳴るほどの激しさで聞いた。子どもたちは一瞬、昨夜、ワクウと共にやって来たマレビトを思い浮かべたのだが、別の兵士の言葉がその記憶を否定した。
「お前たちも聞いたことがあろう。あの湖の向こうには恐ろしい化け物共がおる」
「時々、そやつらが湖を越えて、女やお前たちのようなわっぱを掠いに来おる」
「お前たちも、化け物に捕まらないようにした方が身のためだぞ」
 子どもたちは恐ろしさに身を縮めて兵士の脅しに聞き入った。女子どもを掠うというのはともかく、湖の対岸に異人が住んでいるという噂は、村の大人たちから聞き知っていて信憑性がある。別の兵士が子どもの恐怖を楽しむように、話しを付け加えた。
「背の高さは、そら、その木の枝の辺り。見上げるほどの恐ろしさじゃ」
「耳は尖って、耳の辺りまで裂けた大きな口からは、狼のような牙がのぞいておるわ」
「気をつけよ、お前たちわっぱなど一口に飲み込んで、骨ごとぼりぼりと囓りつくしてしまうだろうよ」
 兵士の言葉に、子供たちは昨夜のマレビトを思い出した。髪や肌の色、目鼻立ちも子供たちと違う特徴がある。しかし、彼らは南の方からやって来たし、どこか間の抜けた雰囲気が漂っていて、子どもをむさぼり食うようには思えないのである。子どもたちは兵士が探す異人が、昨日のマレビトではないことを確信した。
 異人の所在を問われた子どもたちは、そろって兵士の問いに首を横に振った。
「もしも、どこかで見かければ、我らに申し出よ」
「異人に出合ったことを、わしら以外の者に先に話してみよ、異人の祟りは、お前たちの目玉や口を腐らせてしまうに違いない」
「そうとも、奴らはお前たちの頭や腕を引きちぎって、大鍋でくたくたと煮込んで、喰ろうてしまうとも言うぞ」
 そんな言葉で、子どもたちが恐怖する様子を楽しんで気が晴れたに違いない。兵士たちは剣を鞘に収め、笑いながら立ち去った。
 子どもたちは顔を見合わせた。魚の罠を回収に行く予定だったが、兵士が語るような危険な化け物が彷徨いているなら、考え直さねばならない。
 がさりっ。
 子どもたちの背後で、何かの生き物が身動きする音と荒い呼吸音がして、子どもたちをびくりとさせた。外の背丈ほどもある草むらをかき分けて姿を現したのは、一人の若者である。ただ、肌は浅黒く豊かな顎髭を蓄えた面構えは、兵士の言葉で脅されていたされた子どもたちには獣のようにも見えた。その大きな目がぎょろりと輝いて子どもたちを眺め回した。
「逃げろっ」
 一つに聞こえた言葉も、子供たちは恐怖と共に一斉に叫んでいたのだろう。少年たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。ただ、事情が良く飲み込めないワクウのみ、取り残されて、きょとんと篭を抱えて立ちつくしていた。ワクウの目の前に現れた男。もし、この場にアダムたちがいれば、エイモスの名を呼んだに違いない。それほど、この男の顔立ちと漂わせる雰囲気はエイモスに似ている。ただ、ワクウにとって初対面の男である。
「おっちゃん、怪我してるん?」
 ワクウの言葉に男の返事はなかった。男は草むらの中にしゃがみ込んだ。草木の背丈は男の身を隠すのにちょうど良い。男は左肘の辺の痛みを感じて右手で押さえ、その指先に血がついているのを確認した。ワクウが指摘した擦り傷である。争いを避けて兵士から身を隠そうとした時に、側の松の木の樹皮に酷くぶつけて傷つけてしまったのである。
【お前は逃げないでいいのか?】
「おっちゃん、大丈夫?」
【奴らは俺たちを目の敵にして追い回している】
「ちょっと、待っときや」
 二人は年齢や顔立ちばかりではなく、話す言葉も違った。それぞれの民族の言葉が交わらずにすれ違う。やや、何かを考えていた幼児が生い茂る草の向こうに姿を消したため、男は他の少年たちの跡を追って逃げ出したのかと考えた。男はその場に身を横たえて、幼児が草をかき分ける音が遠ざかって行くのを聞いた。ここは身を隠すには良い草むらだが、兵士たちはまだ、見晴らしの利く高台にいて辺りを警戒しているかも知れない。しばらくはここで耳を澄ませて敵の存在を探りつつ、そっと身を潜めているのがよかろう。
 しかし、間もなく男の耳は接近する物音を捕らえた。兵士の荒々しさは無く、緊張感も感じさせない物音だが、男の存在を知っているように接近を続け、やがて、再びワクウが姿を現した。手にしていた籠に植物の葉が入っていたため、この植物を取りに行ったのだと知れた。
【どうした、何か忘れ物でもしたか】
「これ、つわぶき」
 ワクウは籠の中の葉の名前を口にし、何枚か手に取り、幼い手の平の中で葉の汁が出るほど揉んだ。そして潰した葉を別の葉に乗せて男に差し出した。
【コレを喰えとでも言うのか?】
 ワクウは男の物わかりの悪さに、少し眉をひそめて肘を指さしてみせ、その傷にあてがえという仕草をした。この植物には記憶がある。湿った日陰の地面によく生えている植物である。男には薬草の知識はなかったが、これがこの国の者たちが使う薬草だと分かった。この幼児は男の傷を見て、この薬草を採取して戻ってきたに違いない。
【なるほど、これをあてがえと言うのか】
 むろん、ただの迷信であって、薬効など期待できないかも知れない。しかし、この子の善意は信じて受け入れても良い。男は差し出された物を傷口にあてがった。冷たい感触が心地よい。ワクウがにこりと笑ったので、その意図するとおりになったことが伝わった。
 そして、ワクウはやや首を傾げて考え込むと、髪を束ねていた紐を解いた。今度は何をするつもりかと興味深くいぶかる男に、ワクウはその紐を差し出した。意図を計りかねる男の理解の悪さに、ワクウは男の傍らに寄って、肘に当てた葉の上から紐で縛った。男はこの子が薬草を傷口に固定したことを理解した。
【俺が怖くないのか。勇敢な子だな】
 男はワクウをそう褒めたが、もちろん言葉の意味は伝わってはいないだろう。ただ、乱れた髪を撫でつけてもらうのが心地よいらしく、にこにこと笑顔を浮かべていた。
「おっちゃんって、やさしいなぁ」
【俺の父は部族一番の勇者だった】
「おっちゃん、どこから来たん?」
【俺は自分の妻も守れない臆病者だ。子どもにさえ会えない】
「おっちゃんは、何しに来たん?」
【お前のような息子がいれば、俺は誇り高い父親として振る舞えるだろうか】
「おっちゃんの名前は?」
【お前の名は?】
 この時、偶然に同じ質問を投げかけていた。互いの言葉の意味が分からないまま交差する。ただ、互いに寄り添うことに心が安らぎ、相手の言葉が心地よく耳に響く。しかし、いつまでも寄り添っているわけにも行くまい、男は決心して、子どもたちが逃げていった斜面の上の方を指さしてワクウに語った。
【さあ、行け】
 ワクウは男の言葉が理解できないまま不思議そうに、しかし、一方では心地よさそうに男の顔を眺めていた。
【今度は機会を変えて、いつか、仲良く共に過ごせるように力を尽くすことを約束しよう】
「おっちゃん、ヘンな人やなぁ。やさしい気持ちがするわ」
 ワクウは立ち去るどころか、いよいよ男に懐く様子で、男の傍らにしゃがみ込んだ。男は苦笑いをして言葉を継いだ。
【私たちの民族は長い道のりを彷徨い、数多くの人々との出会いや別れを繰り返したが、本当の別れはない。一度できた絆はいつか人を導き、再び出合わせる。俺は父の言葉を信じている。だからお前も信じろ。さぁ、】
 男がかけ声をかけ、ワクウに立ち去る方向を指さした時、その方向に新たな声が響いてきた。言葉の意味はよく分からないが、その荒々しい声音に、子どもの声が混じっていて、先ほど逃げ去った子どもたちが兵士を連れて戻ってきたのだと知れた。男は緊張した。戦闘さえ覚悟するように腰につけたナイフに手を伸ばした。
【あっ】
 男が声を上げかけたのは、突然にワクウが立ち上がって、斜面を駆け登り始めたからである。男はワクウが自分の存在を兵士に知らせるのではないかと感じたのである。ワクウはぴょんぴょんとウサギのように飛び跳ねるような駆け方で、やって来る少年と兵士に姿を晒した。
「ワクウ。大丈夫やったか?」
 年長の少年がそう尋ねて、ワクウは黙って頷いた。兵士が駆け寄ってきてたずねた。
「わっぱ。異人を見たか」
「異人はどちらに逃げた?」
 兵士のたたみかけるような質問に、ワクウは男に背を向けて西の方角を指さした。
「港の方角か。者ども、異人を追うぞ」
 斜面の下で草むらに伏せて様子を窺う男には、聞こえてくる兵士の激しい言葉の意味は理解できなかったが、指揮官らしい兵士の指示で三人の兵士たちが、ワクウが指さす方向に駆け出して姿を消したのがかいま見えた。男はワクウの意図を察した。あの幼児は男が兵士に見つからないように、別の方向に誘導したのである。男はあの幼児の笑顔を思い出して、疑ったことを詫びるように薬草を腕に固定した飾り紐を撫でた。少年たちが立ち去るまで、彼らを驚かさないようにじっとしていようと心に決めた。しかし、あの幼児との短い出会いと別れは男の心に刻まれた。

 一方、斜面の上では、兵士に取り残された子どもたちの興奮が冷め切らない。少年たちはワクウの安否を気にするように体中を眺め回して質問した。
「ほんまに大丈夫か」
「うんっ」
「怖わなかったか」
「うんっ」
「どこか、喰われへんかったか」
「うんっ」
 年長の少年たちには、恐ろしげな異人というイメージにとりつかれているようで、村に帰る道すがら、ワクウは何度も同じ質問を受け、同じ返事をすることになった。
 子どもたちはこの朝の罠の確認は断念したが、失望感はない。今朝の分は明日の朝回収すればよいのである。思いもかけない冒険が出来たことと、幼い仲間の勇気を称える雰囲気で心地よかった。既に朝日は姿を見せて、雲一つ無い空が高く青い。高台から東を眺めれば湖に光が映えてきらきらと眩しかった。
「そやけど、今のこと、大人には黙っとけよ」
 年長のリーダーの言葉に他の子どもたちは頷いた。子どもたちの知恵である。余計な心配をかけたくはないし、大人に話せば、子どもたちだけで魚の罠を確認に行くのを止められたりするかも知れない。そして何より恐ろしい事を口にした。
「あの兵たちが言うことがホンマやったら、あの事を話したら異人の祟りがあるで」
 子どもたちはまた頷いたが、ワクウのみ、その言葉に少し首を傾げていた。田畑を抜けて村に入ると、既に村は賑やかで、大人たちは朝の仕事に取りかかっていた。
 息子を見つけたノユリが声をかけた。
「ワクウ。母さんを手伝ってちょうだい、お客様に食事を運ぶの」


 朝露のしっとりした湿り気が、入り口の筵の隙間を通して入ってきて肌が心地よい。野鳥のさえずりに包まれて、アダムたちは優しい目覚めを迎えた。薄い敷物から草の香りがし、自然に身を任せる心地よさがあった。
「ここは何処なのよ」
 チェルニーの声で彼らは我に返った。信じられない状況から現実逃避するように、夢の余韻の中を彷徨っていたが、確かに、ここは昨日の朝まで彼女たちがいた場所ではなかった。木槌の音や男たちのかけ声が響いてきた。窓を開けて外を覗けば、人々が昨日までの祭りの後片付けをしているのである。彼らが身につける衣類や髪型は、質素で着古した衣類だが、丁寧に繕ったり洗ったりしてあるようで、人々の生真面目な気質が伝わってきた。
「質素だけど、満足感があって幸せそう。東洋にエデンの園があったとしたら、こんな所かしら」
「そうだね。いい笑顔をしている」
 アダムたちは小屋を出て、目の前の景色に、理想郷を思い描いてため息を付き合った。
「お目覚め?」
 ノユリが姿を見せた。ほかほかと湯気の立つ円筒形の木製容器を抱えていた。ワクウが入り口の簾をかき分けその隙間からノユリが家に入り、木の床に布を敷き、ワクウは母親を手伝って、部屋の隅に積み重ねられていた敷物を、客人の数だけ並べて置いた。
 アダムたちはその意味を理解した。これがこの世界の食卓らしい。四人は敷物に座って感謝を表すように笑顔を浮かべた。
「あらっ、ワクウちゃん、今日は髪型が違うのね」
 チェルニーの問いにノユリが笑った。
「そうなんです。よく物を無くす子なんですけど、髪を結う紐まで無くすなんて」
 敷物に輪になって座る四人の来客の傍らに、膝をついて湯気の立つ容器を置いた。蜆や山菜を混ぜて柔らかく蒸した何かの穀物である。ワクウが肩に提げてきた袋から椀を出し、ノユリが湯気の立つ粟飯をよそって木の匙を添えて差し出した。もてなす側の優しさを感じ取ることはできても、貧しさを隠すことはできない。これがこの世界の人々の朝食メニューらしい。
 ヨゼフは食べ物だと言うことを確認するように、くんっと香りを嗅ぎ、一口味わってから食べ始めた。他の仲間に頷いてみせて食べてみろと促した。椀を口元に寄せたチェルニーはこの香りに記憶があった。卵から生まれて間もない幼鳥にお湯でふやかした粟を食べさせたときにかいだ香りである。口に運んでみたが、ヨゼフがぺろりと食べたほど旨いものではない。さすがに吐き出すことははばかられて、細かな粒が口の中でざらざらするのを水で喉の奥に流し込んだ。二口目以降は口にするのも気が引けた。
「お口に合いませんか?」
 客人の食が進まないのを見たノユリが詫びるようにそう言った。
「何か別の食べ物は?」
「今はこれしか無いんです」
 ヘレンのそんな催促に、ノユリは考え込んでぽつりと言った。その傍らで客人の笑顔を期待していたワクウも、しょげかえるようで哀れに見えた。
 ノユリが姿を消すのを見て、ヘレンがヨゼフに文句を付けた。
「あなた、よくこんな鳥の餌が食べられるわね」
「まさか、ここでハンバーガーが食べられるとでも? この土地に来た以上、ここに合わせなきゃ」
 ヨゼフの言葉に、チェルニーがヘレンを支持して意見を吐いた。
「昨夜はあれほど食べたじゃない? この村が食料に困っているようには見えないけれど、昨日より待遇が悪くなったみたい」
 アダムやチェルニーはつい先ほどまでこの世界をエデンの園にも喩え、そこに住まうのは思いやり深い人々だと考えていた。しかし、アダムたちに与えられた食事の粗末さを見れば、考え直さざるを得ないと感じるのである。
「たとえ、犬や小鳥の餌でも食べておけよ。今日は一日中忙しくなるはずだから」
「アダム、言い過ぎだ」
 アダムの言葉にヨゼフが不快感を表し、その怒りを他の仲間にも向けた。
「不味いとか、犬の餌だとか。お前たちが不満なら、俺が一人で食うぞ」
 そう言われると、嫌々ながらでも食事を口にせざるを得ない。
「さて、今日はどうする?」
「決まってるわ。ロールプレイングゲームではこういう場合、村の有力者から情報を得ることになってるのよ」
「まず、この村の村長に会ってみよう」
「村長というと、ノユリさんのお父さんだね」
 昨夜、暗がりで見た村が隅々まで朝日に照らされていた。村人たちが賑やかに集まっていた桜の樹の周りには今は人影すら見えず、まばらに見える小屋の側にある畑を耕す人々が見えた。
「質素な村だね」
「ヨゼフ、それは何?」
「何に見える?」
 ヨゼフが手にしている藁細工を掲げて見せた。
「馬かしら」
 ヘレンはそう推測した。形は長い頭部と長い足、尾はピンと後方に伸びていて、たしかに馬に見える。
「何かの呪術の道具、あるいは、子どもの玩具。もし、子どもの玩具なら……」
 そう言うヨゼフにアダムが尋ねた。
「それが?」
「小屋の隅にあった。この小屋の先住者について、ちょっと気になってね」
 貧しさを感じる光景である。隣の小屋から顔を覗かせたワクウが招き入れてくれなければ、村長の小屋を見つけることは出来なかったかもしれない。ヨゼフは手にした藁細工の馬を、飛び跳ねるように動かして見せた。ワクウはヨゼフの笑顔に吊られるように寄ってきて、差し出された馬の玩具を受け取った。
「ワクウ、忘れ物をしていたの」
 入り口から顔をだしたノユリがそう言って、息子の頭を撫で、忘れ物を届けてくれたヨゼフにお辞儀をした。
「ワクウのためにありがとうございます。どうぞ、中へ。父母はまだ食事中ですが」
 アダムとチェルニー、ヘレンの三人は顔を見合わせた。彼らが一夜を過ごしたのはノユリとワクウの住居だと言うことである。二人はアダムたちに家を明け渡して、父親の小屋の一角に間借りしているのである。眺め回せば、複数の来客を迎え入れる余裕は、この村に無さそうだった。ただ、旅人に気遣いをさせずに受け入れる様子は、村が貧しいという表現ではなく、清楚と表現して良いだろう。
 小屋の中には単純な香りがした。蒸した粟飯、そのものの香りである。ノユリは父母のために粟飯をよそって盆に乗せた。
 ヘレンが隣のアダムの脇腹を肘で突いて椀の中を見るように促した。ほかほかと湯気の立つ粟飯は粟ばかりで何の具材も入っていなかった。小振りな椀に一杯の粟飯と小魚の干物。先ほどヘレンたちに供した食事に比べてなんとみすぼらしい食事だろう。アダムたちは食事に文句を言ったことを恥じた。彼らの貧しさと、貧しさの中で、精一杯に客をもてなす優しさが伺えた。
「ノユリさんたちは?」
「私たちはすぐに薬草摘みに出かけます。だから、父と母より早めに朝食を終えました」
 小屋の奥から、無口な夫に代わって村長の妻が立ち上がり、ノユリから朝食の盆を受け取りながら尋ねた。
「何かご用でしょうか」
「お話を伺いたいと思ったのですが、お食事のようですから出直してきます」
「かまいません。今、伺いましょう」
 村長はその一言のみで、にこにこと笑っているだけで後の言葉がない。戸惑い、尻込みを仕掛けるアダムに代わってヨゼフが遠慮もなく靴を脱いで板を張った床に足をかけた。
「では、お邪魔します」
 ヨゼフは村長の招きに応じたが、住居や食事で文句を言っていたアダムやヘレンは後ろめたさを感じて躊躇した。薬草摘みに出かけると言ったノユリが、アダムたちに声をかけてから父親の傍らに座った。自分も何か役に立てればと仕事を後回しにした気配が感じ取れた。ヨゼフはその仲間に手招きして呼び寄せて、昨日からの事情を語った。
 村長と妻はアダムたちに同情を示した。
「それは難渋して居られることでしょう」
 村長の妻が人の良さそうな笑顔で頷いた。
「本当に」
 しかし、地名や歴史や人名に関わる話題は、ことごとくすれ違った。一致する話題は天候や季節に関わる事柄だけで、それすら、昨日までアダムたちがいた日本の「梅雨」という言葉はなく、ただの長雨の季節と言うことにすぎない。彼らは帰るための手がかりを何も得ることは出来なかった。
「お役に立てないで済みません」
 そう言うノユリやその傍らで残念そうな表情のワクウを眺めると、こちらが恐縮させられる。彼らはこの場を辞した。
「心ゆくまで逗留なさるがよろしかろう」
 村長はアダムたちにどこから来たのかと問いもせずそう言って、出て行く客人を見送った。

 村長の家から外に出た四人は、小屋の前で話し合いの輪を作った。これからの予定を相談せねばならない。
「それにしても、ヨゼフって大胆というか、厚かましいわね」
「私も、食事を中断させたのは気が引けたわ」
 ヘレンやチェルニーの非難の言葉にヨゼフは心情を明かした。
「あの人たちの善良さを素直に受け入れろよ。俺たちが辞退したって、あの人たちは俺たちとの話を優先させるぞ。それならさっさと話を済ませて、暖かい食事をしてもらう方が良いさ」
「そういうものなの」
「遠慮は無用だよ。この人たちの善意は素直に受け取ればいいさ」
「私、考え直したわ。今朝、この世界の満ち足りた様子を見て理想郷じゃないかと思ったんだけど、今は違う。貧しいなかで心豊かなことが理想郷なのね」
 物思いに耽るようなチェルニーにヘレンが現実的な判断を下して言った。
「でも、ここにじっとしているわけにはいかないわ」
「僕たちが探すしかないという事だな」
「わすれないで、私たちはこの世界ではお尋ね者だから」
「ヘレン。それは貴女があの男たちをぶちのめしたからよ」
「和ちゃん」
 アダムはそう言いかけて、勘違いに気づき、背後に手招きをして正しく名を呼びなおした。
「ワクウちゃん」
 ワクウが村長の家の入り口に立って彼らを見守っていたのである。遊びの輪に入れてもらいたいのに、面識が浅くて甘えるのを遠慮している感じ。そういう無邪気な感情がワクウから伝わってきて、誰もワクウを話の輪に入れるのに異存はなかった。チェルニーがワクウの髪を撫でながら肩をすくめた。
「この村の人たちは親切だけど、話を聞いても何も分からないわね。大阪はどっちにあるのかしら」
「僕らと生まれ育った環境が違いすぎるんだね」
 ヨゼフはそう言い、意見を促すようにアダムの顔を眺めた。アダムは話を切り出した。
「まず、調べなくてはいけないのは、ここがどこかと言うことだ」「幸いこの村の人たちは信じて良さそうだ。この村をベースキャンプに調査を進めよう」
「それも出来るだけ早く」
「重点的に調べるさ」
「それじゃあ、昨日私たちが現れた辺り」
「目的は、帰るための情報と、行方不明になってるマリア、和ちゃん、エイモスの三人を探す事」
「ワクウ。ここにいたの」
 突然に会話割り込んだのは、息子の姿を探していたノユリの声だった。昨日の薬草を入れる籠を手にしたノユリの姿に、アダムは思いついたように仲間に言った。
「ごめん。僕はノユリさんと出かけてみるよ。この世界の人から話を聞くのも、何かの手がかりになるかもしれない」
「薬草を摘むのね。私も一緒に行って良い?」
 医学を学ぶ者として、チェルニーは薬草という言葉に興味を示し、ノユリは笑顔で頷いて同行を許可した。ヘレンにも異存はなかった。
「それが良いかもしれないわ」
 未知の危険を秘めた行動である。ヘレンが予想する危険を考えれば、ヘレンが他の仲間を守ってやらなくてはならないこともあるはずだ。のほほんとした性格だが、ヨゼフの身体能力は、不意の危機を避けることが出来るだろう。ただ、他の二人は戦闘では足手まといに違いない。彼女の偵察に同行する者はヨゼフで充分である。
「では、私とヨゼフは、昨日来た辺りを探索しましょう」
 そんなヘレンの言葉に、戦闘的な考えを読み取ったチェルニーが念を押した。
「ヘレン。平和的に、友好的に、笑顔で行動するのよ」
「それは、相手の出方次第よ」
 ヘレンの言葉に反論も出来ずチェルニーは不安げに肩をすくめた。ヘレンはそんな仲間を尻目に宣言した。
「さぁ、マリアたちを探索に行くわよ。海兵隊は仲間を見捨てない!」
 ヘレンの言葉に不安を隠せないアダムに、ヨゼフは決意したように頷いて見せて、なんとかヘレンの好戦的な行為を押さえる努力をするつもりだという意図を伝えた。
 賑やかなマレビトたちはこの村の人々の注目を集めていた。村の人々に見送られるように、ヘレンに率いられたヨゼフは村を発って南に向かおうとした。予定通りなら戻ってくるのは夕刻前だろう。
「あのぉ」
 ノユリがヘレンとヨゼフの背に声をかけて引き留めた。
「なぁに?」
「舟が必要では?」
 ノユリの言葉に、ヘレンは沈黙し照れ笑いを浮かべた。確かに、南の土地とは川で隔てられていて、向こう岸に渡るには舟が必要である。ヘレンは思考より行動が先走る質だった。ノユリは言葉を続けた。
「昨日の舟をお使いください」
 ノユリの言葉に、ヘレンたちは照れ笑いを浮かべたまま立ち去った。見送るノユリは、心配そうに眉をひそめてアダムを振り返って尋ねた。
「大丈夫でしょうか」
 そのノユリの表情と様子に、アダムは思わず微笑んだ。
「何か?」
「失礼。貴女が知り合いに似ていたもので」
 アダムは戸惑いを隠せないまま、そんな返事をした。大丈夫でしょうかと問う善意は信じて良い。ただ、その言葉をのほほんとした雰囲気で口にする様子が、マリアに似ていたのである。昨夜、桜の木の下で舞っていたノユリの姿も、感情をダンスのステップに乗せて躍るマリアの姿に重なった。
「さぁ」
 彼女は籠を掲げてみせた。出かける準備が整ったことを示したのみで、そのままアダムに背を向けて歩き出した。ついてこいとは言わないが、ついて来るだろうと信じて疑わない行動である。この妙なリーダーシップもまた、マリアを連想させた。ワクウが小走りに母親の背を追い、アダムとチェルニーもその後に続いた。

「ほぉっ」
「へぇ……」
 アダムとチェルニーはそろってため息をついた。のどかな自然の風景である。村から北に林を通り抜けて、景色を遠目に眺めると、空と地を隔てるなだらかな山の稜線が北から東へと続いていた、ここが山に囲まれた土地だと分かった。あちこちで乱れ咲く黄色い花の周囲で幾匹もの白いチョウが静かに舞っていた。大きく深呼吸をしてみると、排気ガスなど無縁の草木の芳香が肺を満たした。
「あの黒い地面は何だろう」
 アダムの興味を引いたのは、視界が開けた辺り一帯に広がる、細い道で分けられた土地である。昨日も同じような地形を眺めていた。アダムの意外な言葉にチェルニーが首を傾げた。
「黒い地面? 貴方、そんな風に見ているの」
「君は知っているのかい?」
 普段は博学だと尊敬もしているアダムの質問に、チェルニーは得意げな笑みを浮かべた。チェルニーはアダムが知らないことを常識として知っていた。彼女の母国でもよく見かける稲を育てる田園風景である。
「稲を育てるのよ。あそこを耕して、水を引き入れて水田を作るの。そこに稲の苗を植えるのよ。昨日、ヘレンが芝生って呼んでたのを覚えてない?」
「なるほど、あれが稲の苗なんだ。そしてこの田園が、稲が実った景色に変わるんだ」
 アダムは実りをつけた稲の穂がそよぐ田園風景を眺めたことはあるが、水田を作る前の田を眺めたのは初めてだった。昨日の踊りの最中、人々から伝わってきた豊かな収穫の期待は、この景色から始まるのである。そして、日照りを心配する村人たちの心情も理解できた。水田を作り稲を栽培するためには豊富な水が要る。
 新しい知識と経験に、アダムは少年のような無垢な好奇心を満足させた。ただ、目の前に広がる広大な田園で稲を栽培しているという人々が、米ではなく粟を常食としているのはどういうわけか。アダムはこの人々の収穫を簒奪する強欲な権力者の存在を想像した。
「田植えが始まると、私たちも忙しくなります」
 ノユリがそう言って笑った。チェルニーはアダムに頷いた。
「なるほど。薬草摘みは、農閑期のお仕事なのね」
 アダムも長老の家の片隅に鋤や鍬があったのを思い出した。ここがどこなのかは分からないが、耕耘機などの機械は無いらしい。この田の表面を鋤や鍬で掘り起こし、田に水を入れて水面の下の土を平す。体力と人数が必要な作業である。村の人々の明るさはそんな重労働を苦にする様子はなかった。ただ、ノユリは少し表情を曇らせて、右手をかざして太陽を仰ぎ見た。
「でも、今年は雨が少なくて、苗を植える日を選ぶのが大変です」
 ノユリは小首を傾げて付け加えた。
「遠くからお客様がいらして、雨をもたらせてくれると願ってたんですが」
 ノユリの言葉に、チェルニーがアダムに問いかけた。
「それが、私たちが村に歓迎された理由なのね」
「マレビトが幸運をもたらしてくれると信じてるんだ」
 ただ、晴れ上がった天候はその期待が裏切られたと言うことだが、ノユリたち村人は、その恨みをアダムたちに向けることもなく、運命を受け入れているようだった。
 ノユリはアダムとチェルニーを導くように歩き続け、水田が広がる景色を抜けた。目の前に草原が広がった。ここが目的の場所だった。ワクウはしゃがみ込んで産毛に覆われた柔らかい緑の葉を指さして彼が覚えた薬草の名を挙げた。
「よもぎ」
「それはもっと先、暑い夏が終わって、秋になってから採るのよ」
 息子にそう教えるノユリの後ろ姿は穏やかで、母親としての包容力を感じさせた。アダムはふとマリアのことを思い出した。マリアとノユリの二人は似ている。違いがあるとすれば、この包容力の大きさという点で、それを生み出しているのはこのワクウという子どもの存在に違いない。ただ、疑問も感じさせる。このノユリの夫の姿を見かけないのである。しかし、それを尋ねるのは、やや気が引けた。会話の中に夏や秋という言葉が出てきて、この土地に四季があることが分かった。アダムは聞き取った情報を胸のポケットから出した手帳に書き留めた。
 アダムは周囲を見回した。おそらくこれから夏を迎えようかという、春の残り香を残す光景である。この自然豊かな光景が春から夏へ、夏から秋へと変貌する。どれほど美しい光景だろう。そして、その後迎えるのは冬の景色だが、この人々の背景となれば穏やかで落ち着いた優しさを生むに違いない。足下の草むらから、二匹の野ねずみが姿を現して、追いかけっこでもするように走り去った。人の背丈ほどの高さの空をトンボが舞い、抜けるような空を見上げれば鷹が飛んでいた。自然のみならず生き物も豊かな土地である。
「おおばこ」
 息子が指し示す植物に、母親は笑って首を振り、誤りを教えた。
「ふぁこべら」
 今度は白い花をつけた植物を指したワクウにノユリは息子の頭を撫でて、その知識を褒めた。ワクウが口にして名は違っていたが、ノユリが探す薬草の一つを見つけたのである。
「ふぁこべら? この白い花をつけた草かい?」
 背丈の低い植物で、アダムは屈まないと地面に手が届かない。
「傷や腫れ物、痛み止め、何にでも利くんですよ」
 ノユリがそんな説明を加えながら草を摘み、かごに入れた。しゃがんで薬草を摘む姿勢になると、顔が接近して見える。
(なるほど)とアダムが思ったのは、至近距離で見るノユリの顔立ちは、マリアと微妙に異なっていたからである。楽天的な雰囲気は共通していても、マリアのような夢を見る無邪気さはなく、落ち着きがあり、思慮深さを感じさせる。母親という立場が落ち着きを醸し出すのかもしれないが、その落ち着きの中にどこか寂しさを漂わせている。その寂しさがアダムに質問する決心をさせた。
「貴女たちはお二人だけ?」
「えっ?」
「失礼だけど、ワクウちゃんにお父さんは?」
 アダムはノユリの表情が曇るのに気づいて、尋ねてはならないことに触れてしまったことに気づいた。ノユリはすぐに笑みを取り戻して、寂しい笑顔で言った。
「ワクウ、あの子に父親はいません」
 ノユリは言葉を詰まらせて、それ以上の会話を拒絶するように顔を伏せた。彼女の言葉と同時に感情が伝わって来るのだが、居ませんという言葉に、死を予感させる絶望の感情はなく、あきらめに似た意識が伝わってきたのみである。アダムは単純にノユリの夫、ワクウの父親の死を想像した。時と共に悲しみも薄れ、ノユリにとって夫の死があきらめになったと言うことか。アダムはそう解釈した。二人を隔てる距離は僅かだが、互いの視線はすれ違う。やや気まずい沈黙をワクウの声が救った。
「母さん、これ」
 ワクウがチェルニーと一緒に摘んだ薬草を両手一杯に抱えてきて母親に見せた。母親がその植物を眺めて、息子がちゃんと薬草のみ選別して摘んだことを確認して頷いて、笑顔で頭を撫でた。ほどなく、籠は一杯になり、アダムやチェルニーはそれ以上深く詮索することなく、ノユリとワクウの後に続いて帰途についた。

 青空に輝く恒星。それがアダムたちが住んでいた世界の太陽と同じ星なら、既に中天をすぎて、この土地は昼を迎えている。しかし、人々は働き者で午前午後を労働に費やしているのか、貧しくて食事を取ることが出来ないのか、ノユリもワクウも昼食を取る様子がない。むろん、田や畑で働く人々休息を取るのは見かけても、食事をしている姿はなかった。村に戻ったアダムは、家の脇に枝を組んで広げた筵の上の枯れ草の正体を知った。ノユリは枯れ草を大切に麻の布袋にしまい、先ほど摘んできたまだ生命感のある植物を代わりに並べた。この日当たりが良く、風通しの良い場所で、摘んだ薬草を乾燥させていたのである。
 干し終わった薬草の入った袋を示してノユリが言った。
「明日、この薬草をアラハカのセヤクインに納めに行きます。ご一緒されますか?」
 ノユリが今まで無言を保っていた。何か不都合なことを聞いてノユリに嫌われてしまったのかと考えていたのだが、突然の申し出にアダムは面食らった。
「もちろん。ただ」
「ただ?」
「ご迷惑では?」
「いいえ、この子も喜びますわ」
 ワクウが遠慮がちにアダムにまとわりついた。会ったことがない父のイメージをアダムに重ねて、甘えるようにも見える。
「では、お願いします」
 同行するというアダムの受諾をノユリは笑顔で受け入れた。セヤクインというのは聞き慣れない響きを持った言葉だが、病院に近いイメージをもって伝わってきた。そして、ノユリが発したアラハカという言葉は、地名であり、町の名であり、様々な施設の集合体というイメージを伴っていた。この国の行政に関わる組織というイメージがアダムの心に焼き付けられた。ノユリから政治や行政に関わるイメージが伝わってきたのは初めてだった。アダムは試しに問うてみた。
「貴女は、この国の政治をどう思いますか?」
「政(まつりごと)ですか?」
 ノユリは笑顔で首を傾げるのみである。隠し立てをする様子はなく混乱する意識のみが伝わってきた。彼女は政治や国家体制という仕組みを理解していないばかりか、そんな思想は頭の片隅にも無いらしいのである。民主主義とか社会主義など、政治体制には無縁の、この土地で生まれ、一生懸命に生きて、時が来れば命が尽きて土に帰る。ノユリ母子はそういう自然の摂理に身を任せる人々なのだろう。そんな人々が会釈を交わしながら行き交う景色を、傾きかけた陽の光が照らしていた。この人々は一日を無事に懸命に生きたのである。
 この時に、村に戻ってきたヨゼフの姿が見えた。背後に弓を手にしたヘレンの姿が確認できるが、姿を消してしまった仲間の姿はない。ヨゼフが肩をすくめる様子で、姿を消している三名は見つからなかったことが分かった。
 
 ヘレンの言葉を借りれば作戦会議である。彼らに与えられて宿舎の中で、今日一日の情報交換が始めた。ヘレンが口を開いた。
「昨日、川を渡る前に、まっすぐに南へ延びる街道があったでしょ?私たちは昨日の雑木林に隠れながら南へ向かったの」
「何か見つかったかい」
「だめね。西には昨日見た海辺。東は草むらや林が続いていて、途切れたところには至る所に畑があった。それだけ。貴方たちは?」
 ヘレンが報告を終え、アダムに問いかけた。チェルニーが答えた。
「村の北には、田植え前の田が広がっていて、遠くに山が続いて見えただけ」
 チェルニーの言葉に、アダムが新たな疑問を重ねた。
「稲の栽培、水田。そこからこの地域が特定できないかい」
「水田で稲を栽培するのには、温暖な気候で、雨が多いことかな」
「地域で言うと?」
「東南アジア、中国東南部、朝鮮半島、日本」
「その中で、五月から六月に田植えをする地域は?」
「私はそこまでくわしくないわ」
 場所を示す情報はここで途絶えた。ヨゼフが報告を引き継いだ。
「街道を進むと、商店が並んでるんだけど」
 商店が並ぶという言葉に、アダムは彼らがいたニッポンバシの雑然とした商店街を思い浮かべたのだが、ヨゼフは続く言葉でそれを打ち消した。
「ファンタジーみたいな気がするんだ。店というか、地面に商品を並べて売ってるんだ。映画で観た大昔の市場の様子に見えたよ」
 ヨゼフの言葉にアダムが応じた。
「こちらも一緒だ。村人たちに国や政治という感覚が無いんだ。大昔の人たちのように」
「では、ここは大昔のどこかなの?」
 チェルニーの疑問に答える者がなく、ヨゼフは言葉を続けた。
「街道の突き当たりに、大きな建物があって、何かの塔が建ってた」
 ヨゼフがそこで言葉を途切れさせたために、アダムは彼の表情を眺めて続きを督促したが、彼は言いにくそうにヘレンの持つ弓に視線を移した。ヘレンの手に見慣れない弓がある。弓に視線が集まるのに気づいたヘレンが、へへへと照れるように笑って言った。
「戦利品。その塔を確認しようと接近したら、昨日のあの人と出くわしたのよ」
 彼女は昨日のケハヤという男と戦って、今度は手にした弓を勝ち取ったというのである。文句の一つも言われるだろうと肩をすくめるヘレンに、アダムは予想外のことを言った。
「塔? それだ。その場所、その塔がアラハカじゃないだろうか」
「どうしたの、何かの塔なら、確かに見えたわよ」
「ノユリさんが薬草をアラハカの施設に納めに行くと言ってた。たぶん、ヨゼフが見た施設じゃないか。明日、ノユリさんと一緒に行ってみるよ」
 ヨゼフが提案した。
「では、俺たちも一緒に」
 この時にノユリが現れた。夕餉の膳を運んできたのである。朝食に比べれば品数も多く、目立って豪華になっている。この世界の人々は朝食を粗食で済ませ、豪華な夕食を食べると言うことだろうか。傍らに侍るワクウの目を見れば、特別な日のご馳走を眺める珍しいものを見る目つきで、ノユリが客人のために特別なご馳走をそろえたことが想像できた。
「ご一緒に食べませんか。私が取り分けますから」
 ヘレンが蒸した粟の上に乗った具材をかき分けて、粟の部分だけを仲間の椀によそった。
「この連中は、ダイエットが必要ですから贅沢は避けてるんです」
 そして、残った粟に蜆や海草など贅沢な具材加えてノユリやワクウの椀に盛りつけた。チェルニーは自分の椀を手にして言った。
「みんなで食べると美味しいわ」
「明日の朝も、この村の皆さんと同じもので結構です。みなさんと同じ食事を提供していただいていることを心から感謝しています」
 ヘレンの言葉を受け入れてノユリが提案した。
「では、明日の朝食は母屋で父を交えて食事をしてはいかがでしょう。父も賑やかで喜びます」
 ノユリとワクウを交えた食事が始まった。
「食べなさい」
 チェルニーは小皿に盛りつけてあったドライフルーツの1つを手にして半分にちぎりワクウに与えた。彼女はふと思った。貧しくは見えるけれど、同じものを分け合って食べるというのは心を分け合う心地よさがある。
 食事が終わり、ノユリはあくびをする息子に、空になった食器の一部を持たせて父親の村長が待つ小屋に去った。その仲の良い母子の後ろ姿を眺めながらアダムがぽつりと言った。
「豊かな田や畑があるように見えるけれど、全てが農民のものではないんだね」
「きっと重い税にあえいで居るんだ」
「強欲な支配者が居ると言うこと?」
 豊かな田園地帯と、粟を常食とする貧しい食生活。巨大な建築物群と、清楚だがすきま風のはいる家のギャップが、彼らの意識の中に、この善良な人々に貧困を強いて、私腹を肥やす悪逆非道な独裁的権力者のイメージが湧いていた。

 



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