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 アパートの玄関でスリッパに履き替えるマリアは、下駄箱に並んだ入居者の靴で、在宅者を判別した。夕食の前後に、気の合う入居者たちが、階段を上がりきったところにある空間で、雑談をする日課である。マリアはそんな雑談の仲間を思い浮かべたのである。
 この時、長らく入居者の居なかった二号室から、幼児が玄関に人の気配を察して顔をのぞかせた。マリアは笑顔でその理由を尋ねた。
「偉いわね。おじいちゃんのお手伝いなの?」
「新しい人が入るんやて」
 そう答えたのは、この瓢箪荘の管理人の孫の和ちゃんである。幼くて本当に役に立っているかどうかは疑わしいが、祖父を真似て濡れぞうきんを手にしていて、祖父の掃除を手伝っているつもりなのである。契約が決まった入居者を、部屋を清掃してから迎えようという、管理人の心配りなのだろう。
「どんな人なの?」
 マリアの質問に、和ちゃんはちょっと首をかしげて考えた。
「遠くから来た人」
 幼い和ちゃんから得られる情報はその程度のものらしい。
「優しい人だと良いわね」
「うんっ」
 マリアは二階の自室へと階段を上りながら思った。
(お父さんやお母さんが生きていたら、どんなに良かったか)
 明るく無邪気で、父母が居ない暗さを感じさせる事はない子だが、同世代の子どもより、常に大人の傍らに侍っている様子がある。寂しさを口にするのを聞いた事はない。ただ、妙な人なつっこさがあり、アパートの居住者たちに父母のイメージを重ねて慕って甘えているらしいのである。マリアは振り返って言った。
「後で、二階へいらっしゃい。絵本を読んであげる」
「うんっ」
 マリアが二階へと姿を消し、和ちゃんは仕事に専念することに決めた。おじいちゃんは渡された雑巾から、和ちゃんの力で絞りきれない水分を絞り、黙って窓を拭いた。やや時間をおいて、玄関のドアの向こうから、和ちゃんの愛犬が吠える声が聞こえた。甘えるようにはしゃぐ愛犬の声で、帰ってきた人物が判別できた。いつも帰ってくると玄関で犬を撫でてやるのである。和ちゃんの予想通り、入居者の一人、トルコ人のジェスールだった。
「へぇ、お手伝いか。偉いぞ」
 彼は大きな体のわりに小さすぎるスリッパに履き替えながら、和ちゃんを褒めた。しかし、入居者の居ないはずの部屋を掃除する意図に首を傾げるジェスールに、和ちゃんが回答を与えた。
「新しい人が入るんやて」
「どんな人だい?」
 ジェスールの問いに、和ちゃん少し首をひねってから、知っている情報を披露した。
「男の人」
「そうか、女の人じゃないんだな」
「うんっ」
 ジェスールは頷く和ちゃんを残して階段を上がりながら、この子がアパートの女たちの偏った性格の影響を受けずに済むようにと祈った。素直で住人たちの仕草や言葉をいつの間にか身につけている子である。
 二号室の中では、管理人が拭き残したところが無いかと、部屋の中を見回して居た。和ちゃんもその傍らで祖父を真似て部屋をぐるりと見渡した。
 この時、玄関先に新たな帰宅者の物音が響いた。その軽やかなサンダルの足音で、和ちゃんは帰宅者が二階に住むタイ人女性チェルニーだと知った。思いもかけない部屋から顔をのぞかせた和ちゃんに、チェルニーは首を傾げて笑いかけた。同じ質問を何度受けたか分からない和ちゃんは、チェルニーから質問を投げかけられる前に返事をした。
「新しい人が入るんやて」
「そう、どんな人なの?」
「外国から来た、男の人やねん」
 チェルニーはそんな情報を受けながら二階へと足を運んだ。彼女がこのアパートにやってきて既に六年になる。彼女が日本に来る時に、この瓢箪荘を勧めたのは、日本に留学経験のある彼女の母親だった。人柄の良い管理人が居る。そういう理由である。確かに、彼女の母は、当時の瓢箪荘の管理人に、親に感じる親近感を感じ、その息子の慎一には弟のような親しみを持っていたらしい。チェルニーが来日してみると、母親が語ったとおりの夫婦だった。和久と名付けられたひ孫が生まれた喜びを、チェルニーに語って聞かせた事を覚えている。和ちゃんの誕生を伝え聞いたチェルニーの母も、まるで自分の孫が生まれたように喜んでいた。
 そのチェルニーの母が知る管理人夫婦が、孫夫婦の誘いで温泉旅行に向かった時のことである。急な仕事で参加できなかった慎一を、一人残して出かけた家族を不幸な事故が襲った。居眠り運転のトラックに衝突された乗用車は大破して、奇跡的に生き残ったのが母親の腕に大事に抱かれていた赤ちゃんのみという痛ましい事故である。
 現在の管理人の慎一は、両親と、妻と、息子夫婦を同時に失ったのである。彼は残された孫を育てるために勤めを辞め、このアパートを引き継いだ。
 幸か不幸か、事故当時に赤ちゃんだった和ちゃんには、そんな悲劇の記憶はないだろう。その和ちゃんが、来年には小学生になると言う。チェルニーはその成長ぶりを思い出して感慨深い。彼女は悲しい思い出に背を向けるように、二階の自室へと足を運んだ。
 慎一の掃除と和ちゃんのお手伝いは終わって、管理人はドアに鍵をかけた。後は、玄関の先の水道でぞうきんを洗えば終わりである。和ちゃんがバケツを下げた慎一のために玄関のドアを開けた時、アダムとヨゼフが連れ立って帰宅した。日本の文化や民俗学を学ぶポーランド人アダムと、電気工学を学ぶタンザニア人ヨゼフ。生まれも、学ぶ学問も違うのに、気があって仲が良い。ヨゼフが声をかけた。
「おじいちゃんのお手伝いかい?」
「うんっ。お掃除が終わったとこやねん」
「お掃除?」
「二号室に、外国人の、男の人が、住むねんで」
 和ちゃんとヨゼフの会話が、アダムの耳に入っていない。彼の興味は別にあり、和ちゃんに質問した。
「マリアさんは、もう帰ってるのかい?」
 アダムは目ざとく、靴箱にマリアの履き物を見つけたのである。
「うんっ。今日はアルバイトがあれへん日やねん」
 マリアは普段は仕事から帰った後、早めの夕食を摂ってから近所のコンビニでアルバイトをする事がある。和ちゃんは今日はその日ではないというのである。アダムはその返事に納得した。
「そうか」
「あらっ、お掃除は終わったのね」
 奥の部屋からヘレンが出てきて和ちゃんの頭を撫でた。今日はスポーツジムのインストラクターの仕事は早めに終えて、部屋でくつろいでいたのである。その流暢な言葉だけを聞いていると、彼女の金髪と青い目は想像しがたいが、海兵隊員の父親を持つ沖縄育ちのアメリカ人娘である。
「はいふぁいぶ」
 和ちゃんはおまじないのように唱えて、ヘレンが肩の辺りにかざした手の平に、背伸びをするようにして自分の手の平を合わせた。最近の二人の挨拶なのである。ヘレンは笑いながら応じると二階へと向かった。この時間、二階には雑談する仲間がいるはずだった。
 ヘレンが階段の半ばで振り返ってみると、和ちゃんがアダムやヨゼフに甘える様子は子どもが父親に甘える姿をイメージさせた。瓢箪荘の住人に父親のイメージを見ているのだろう。ヘレンの見るところ、父親像に力強いイメージを求めるときはジェスール、父親らしい優しさや包容力ではヨゼフ、将来を見通す理性で人生の指針を示してくれる父親像という点ではアダムというところか。

 和ちゃんがアダムの顔を見上げて、中断していた会話を再開した。
「アダムさんって、マリアさんのこと好きやのん?」
 ヨゼフが笑った。あまりに核心を突いた質問に、アダムが面くらい戸惑う様子がおかしかったのである。アダムは片膝をついて和ちゃんと視線を合わせた。
「大人って言うのはね、事情が複雑ななんだ。和ちゃんなら好きな人に素直に好きって言えるだろう」
「うんっ。ボク、マリアさん、大好き」
「でも、大人になると、なかなか言えなくなるんだ。『マリア、君が好きだ。君を見るたびにこの胸が高鳴る』ってさ」
 和ちゃんに答えるという体裁を装いながら、アダムは自分の優柔不断さを慰めてもいた。ただ、胸が高鳴るという表現が和ちゃんには難しすぎる表現だった事には気づいていない。しかし、アダムが胸に当てた手を動かして心臓の鼓動を表す仕草を見て、和ちゃんはその言葉の意味を理解したらしい。
(やはり、子どもは気まぐれだな)
 アダムがそう感じたのは、アダムの深刻な言葉をかみしめる様子もなく、和ちゃんが階段を登り始めたからである。
 その和ちゃんは、階段の中程で足を止めてアダムを振り返り、握った拳に親指を上に立てて見せた。万事了解したから任せてくれという意味らしく、ヘレンが和ちゃんに教えた仕草だろうという想像がついた。
(しかし、何を了解したんだ?)
 階段に足をかけて二階を見上げると、二階の空きスペースにいたマリアに語りかける和ちゃんの姿が見えた。アダムはごくりと唾を飲み込んだ。今まで吐き出せなかった思いを、和ちゃんが代弁して伝えてくれているらしいのである。
 突然の出来事に混乱したが、和ちゃんが無邪気で愛らしい天使にも見えた。事態を察したヨゼフが、アダムの背を叩いて目配せをしたのは、準備は和ちゃんが整えてくれた。あとは自分で最後の一押しをしてこいと言っているのである。アダムは荒くなった呼吸と動悸を押さえるように、胸に手を当てて柔らかく揉むように撫でた
 しかし、再び見上げたマリアの様子がおかしい。大きな目をもっと大きく見開いたマリアが、信じられないもののを見つめるように、胸を揉む仕草のアダムを凝視しているのである。その表情には全く好意が感じられず、マリアの傍らで、アダムが胸をもむ仕草を眺めていたらしいヘレンとチェルニーは、露骨に怒りと侮蔑の表情を向けていた。和ちゃん自身はこの事態がよく理解できずに、女たちを眺めて、胸に手を当てながらぽつりと繰り返した。
「だから、アダムさんは、マリアさんのおっぱいが大きいから好きやねんて」

「ボクは……、ここが、大阪だってことを忘れていたよ」
 真面目な人生が突如として喜劇になると言うことを、アダムはそんな表現で言った。女たちの誤解が解けてみると、アダムが言った「胸が高鳴る」という言い回しを正しく理解できず、また、聞き慣れない言葉を正しく伝えられなかった和ちゃんが「おっぱいが大きい」と分かりやすい表現に変質させたことがわかった。
 アダムの人柄は誠実で、和ちゃんの親切には感謝しつつ、自分の表現が足りていなかったと自身を省みる冷静さがあった。思わぬ事態を子どもの責任に転嫁して怒りを向ける事はなかった。その点、傍らで見ていたチェルニーやヘレンには、アダムという男は好感が持てる。
「告白なら、ストレートに自分自身で伝えることね」
 チェルニーはアダムの耳元で、姉のように優しく励ましの言葉を囁いた。意を決したようにアダムはマリアに歩み寄った。チェルニーとヘレンはそんなアダムを興味深く面白そうに見守った。いよいよ、この優柔不断な男が自分の思いを告白するのである。
「マリア」
 アダムがそう声をかけた瞬間、ポケットの携帯電話が着信メロディを奏でた。決意を遮られ、受話器を耳に当てたアダムは、電話の向こうの相手を知るや不機嫌そうに一言言って接続を切った。
「いま、ボクの人生にとって、一番大事なときだ。邪魔をするな」
 たしかに、チェルニーやヘレンから見て、わくわくとするほどの告白シーンを途切れさせた電話だった。ヘレンがこの場を興味深く盛り上げる質問をした。
「恋人から?」
「とんでもない」
「デートの誘いなの?」
「どうでもいい雑用さ」
 アダムの顔を眺める仲間たちに、電話の用件を明かして、再びマリアに向き合った。しかし、マリアの素直な好奇心が放たれた。
「可愛い曲ね」
 アダムの携帯の着信曲について尋ねているのである。アダムは告白を切り替えて音楽の説明をせざるを得ない。
「日本語で『乙女の祈り』って曲なんだ。でも、日本に来るまで、ポーランドにこんな曲があるなんて知らなかったよ」
「ポーランドの作曲家の作品なのね」
「百年ほど前に楽譜が伝わって、ポーランド人もよく知らない曲が、日本人に広く定着したらしいんだ」
「世界中の人が、いろいろな文化を日本に伝えてきたのね」
 チェルニーがそう言い、マリアが夢見るような目つきで言葉を継いだ。
「カステラはね、ポルトガル人たちが伝えたの。革命で国を追われたロシア人たちは日本でチョコレート菓子を作って、第一次世界大戦で捕虜として日本に来たドイツ人たちはバームクーヘンを伝えたのよ。日本に住み続けてる中国人は神戸や横浜の中華街で月餅を売ってるの。いまの日本で世界中のお菓子が食べられるのはそんな人たちのおかげ。でも、私は日本の桜餅が一番好きよ」
「フライドチキンやハンバーガーも忘れて欲しくないわね」
 アメリカ人が伝えた味を主張するヘレンの脇をチェルニーが突ついて、アダムの気持ちを察してやれと促した。アダムは無言でうつむいていた。せっかくの機会だったが、桜餅が一番好きだと告白された後で、愛を告白する気にはなれないだろう。ヘレンは同情で話題を切り替えた。
「それにしても、明日はどんな人が入居するのかしらね」
 そんな言葉が慰めになるはずもなく、アダムは部屋に戻るマリアの背を虚ろに見送り、更にヘレンとチェルニーは、愛の告白のチャンスを逃した男が、侘びしく部屋に消えるのを見送ってため息をついた。
 部屋に戻ったアダムは、上着の胸ポケットから手帳を出して机に置き、パソコンのスイッチを入れた。几帳面な彼は日々の出来事を手帳に書き留めていた。毎夜、パソコンと向き合って、その情報に経験を交えて整理するのが日課なのである。普段着に着替えてパソコンに向き合おうとする時に、開けっ放しにしているドアの所に、うつむき加減の和ちゃんが居るのに気づいた。和ちゃんがもじもじしながら口を開いた。
「アダムさん、ごめん」
 その謝罪に理由が続かない。自分がアダムに不都合なことをしでかしたと言うことは分かるらしいが、その不都合の理由が良く理解できないのである。アダムは笑って、和ちゃんを部屋に招き入れた。
 ピンッ
 立ち上げたパソコンから短い警告音が響いて新たなメールを受信したことを知らせた。開いて見れば、息子の日常生活と健康を問う平凡な内容である。メールを確認するアダムに、和ちゃんは見慣れない文字の並びに首を傾げて問うた。
「なあに?」
 アダムはディスプレイの中のメールの差出人の名を指さして言った。
「ヤツェック・マリノフスキー。僕の父さんからの手紙だ」
 アダムは時間を確認した。時差を考えれば、朝食を終えた父親が、不慣れなパソコンに向き合ってキーを打ち、遠く離れた息子に手紙を送ったと言うイメージが湧いた。さらに、送信ボタンをクリックしたものの、本当に送信できたかどうか不安になり、娘を呼びつけて送信手順に間違いはなかったかどうかの確認をし、娘は笑いながら父親の記憶の正しさを褒めているという光景に繋がった。ほのぼのした想像を和ちゃんの疑問がかき消した。
「へぇ、アダムさんって、お父さんおるん?」
「そりゃ、居るよ。父さんも、母さんも、妹もね」
 アダムは目の前の幼児が父母を失っていると言うことに気づいて、そこで言葉を途切れさせた。目の前でにこにこと素直に笑っている幼児の顔を眺めてみれば、アダムはたった一人でこのアパートに落ち着いた事を思い出さざるを得ない。アダムと和ちゃんの間に、アダムの家族は介在せず、和ちゃんの心には、遠く離れたアダムの家族の姿など思いもよらなかったのだろう。アダムはそれほど家族と距離を置いていた。
 その距離感で、彼は日本に留学するといった時の母の顔を思い出した。
「シベリアより遠いんでしょ?」
 母親は僅かな知識で日本をそう評したのである。ポーランドの歴史上、政治犯が送られた流刑の地域より、更に東へ海を隔てた島という認識だったらしい。息子がそれほど距離を置くと言うことで、不幸のどん底に突き落とされたように嘆いたのである。
 アダムの母は、数世代を遡った貴族の血筋を誇る人間だった。考えれば、馬鹿馬鹿しい。ポーランドに貴族という身分制度があったのはずいぶん昔のことである。そして、没落貴族にありがちなことで、母の家系は、祖父の代には経済的に困窮する状態だった。
 アダムの父は真面目だけが取り柄の人間で、家族のために働き抜いて地位を得たが、語るべき血筋はない。そんな父は、温厚な笑顔で妻に従うのが常だった。父の笑顔が母の血筋に屈するように見え、アダムは侮蔑の感情を感じることがある。そして、父にそんな感情を抱く事実が、彼を自己嫌悪に陥らせることがあった。
「兄さんは、日本へ逃げるのね」
 普段は母の陰に隠れているような妹が、アダムの日本留学にそんな言葉を投げたことがある。核心を突く言葉だった。アダムは自然科学にも興味があり、将来の選択肢を挙げれば、極東の地で民俗学を学ぶ以外に、母国の自然を学ぶことも出来たはずだった。家族、何より父親の姿に背を向けると言うことが後ろめたい。
 ただ、その父親が息子の留学に対して家族の中で唯一、息子の決断を支持した。
「俺には誇るべき血筋はない。しかし、頑固だが真面目に生き抜いた父がいる。その父親もまた、そういう男だった。お前が自分の生き方を貫きたいというなら、お前も俺を通してそんな血筋を受け継いでいると言うことだ」
 実直な父親は慎重に言葉を選びながらそう言った。アダムは父親の言葉を口に出してみた。
「どこに居ても、誇りを汚すことがない生き方だけを心がけて、息子にその姿を見せてやればいい」
 傍らで呟きを耳にした和ちゃんが、アダムの矛盾に突っ込んだ。
「アダムさん。子ども、おれへんやん」
「これから、結婚してつくるの」
「マリアさんと?」
 和ちゃんの質問にアダムは言葉を逸らせた。
「たぶん、父親って、子どもに生き方を引き継いで行くものなんだ」
 和ちゃんは子どもらしく、明日、出合うはずの人物について言葉を飛躍させた。
「じゃあ、明日来る人にも、お父さんとか、奥さんとか、子どもとか、家族がおるんやね」
「さあね」
「アダムさんは、そう思えへんの?」
 アダムは明確な回答を避けて、何かを考えるよう黙りこくった。平凡な日が終わった。

 


 エイモスは手にしたメモを眺めた。目的地までの目印を、道を表す線で結んだだけの荒っぽい地図である。三日前に不動産屋と訪問した後、今度は入居者として、帰宅途上だった。目的地は真新しい住宅で構成された迷路の突き当たり、というイメージがあり、周囲の真新しい住宅に比べて、ひときわ古風な風格を感じさせるアパートという光景が目に焼き付いていた。
 これからの住居になるアパートに向かう道すがら、大規模な工事現場の傍らを通過した。青いシートのフェンスで囲まれた内部は見えないが、フェンスの上から大型のショベルカーやボーリング機械のアームが覗いて見えた。変わりつつある町というイメージが湧く。フェンスの一部が開放されていて、入り口に立つ警備員が、エイモスにぺこりとお辞儀をして行く手を遮った。ダンプカーが土砂を運び出しているのである。
 ダンプカーのタイヤが歩道と車道の段差に軋んで、荷台に溢れそうになった土砂から何かがこぼれ落ちた。日差しを鋭く反射して、エイモスの目を射た物が彼の足下に転がってきた。
 エイモスは身を屈めてそれを拾い上げた。警備員がエイモスが拾い上げた物を気にする様子もなく、再びぺこりとお辞儀をし、赤い誘導棒を振って、もう通っても大丈夫だと合図をした。
(どうして、俺はこんな物を拾い上げたんだろう)
 エイモスにちらりと疑問が湧いたが、手放す気にもなれず、指が泥で汚れるのも気にせず、そのまま左手の拳で握りしめた。
(どうして……)
 不思議だとすれば、今、ここに居ると言うことである。子どもの頃は、日本という国を知っていても、遠い国の一つに過ぎなかった。雑誌でヘブライ語と日本語の類似性を語る記事をちらりと目にした時に、何故か衝動的にこの言葉を理解したいと思ったのが、日本語を学ぶきっかけだった。しかし、学び始めてみると類似性などほとんど感じられなかった。
 大阪という都市を知ったのも成人してからである。日本語会話の練習相手を務めてくれた日本人商社マン夫婦が大阪出身で、『天下の台所』という異名で、日本の西部を代表する都市を紹介してくれたのである。
 軍を除隊後に偶然に就いた仕事を三年間務めたときに、上司の突然の栄転で開いたポストに転がり込んだ。新しいポストは農産物の輸出拡大というという任務を背負っていて、有力な拡大先リストに日本が挙がっており、日本語が出来るという能力を見込まれて、市場調査や販路拡大のために日本にやってきた。「天下の台所」という異名で、食を司っていたというこの町に数ヶ月間滞在する。自分で切り開いた人生ではなく、偶然の流れに乗って、彼は今ここにいたのである。
 不動産屋から駅から徒歩十分と案内されたアパートにたどり着いたのは、まだ街に慣れず、何処も同じように見える町並みの中を彷徨って、二十分後だった。

 エイモスは門の内側に繋がれている人懐っこい老犬を見つけて、目的地に着いたことを確認した。ただ、その傍らにしゃがんで犬の背を撫でてやっている幼児には見覚えがない。そう感じた瞬間、老犬が尾を振りながら吠えて、幼児にエイモスの存在を知らせた。幼児は顔を上げ、不思議なモノを眺めるように小首をひねってエイモスに視線を注いだ。エイモスも心の底からわき上がる感情を整理しきれないまま幼児を眺めていた。その興味の対象が、互いの存在そのものに絞られているようだった。
 この時、手に握っていた物の伝える暖かさが、エイモスの心をほぐした。初対面という堅苦しさが何故か溶け去り、懐かしささえ感じさせる。どこかで、こうやって見つめ合ったという意識だが、初対面のはずである。
 突如、幼児は表情を明るく輝かせた。その視線はエイモスの背後に移動しており、その視線に沿って、エイモスの傍らを、甘い香りを乗せた自転車が通り過ぎた。自転車に乗る髪の長い女は、ブレーキハンドルを強く握って、門の直前で停止し、屈託のない笑顔を浮かべて振り返った。彼女はエイモスとの十メートルの距離を埋める大きな声で質問を発した。
「ひょっとして、貴方が、新しく入る人?」
 幼児が自転車に駆け寄って、女の腰にまとわりつくように寄り添った。改めて、二人そろってエイモスを眺めていた。エイモスは視線を返しながら、二人と距離を詰めるのも忘れて、声を張り上げて応じた。
「エイモス・アデル。今日から二号室の住人です。あなたは?」
「私は、マリア・パルマ。八号室の住人よ」
 マリアの返事が聞こえたのかどうか、エイモス本人にも自覚はなかった。ただ、目の前の女性と彼女に寄り添う幼児の姿に、心の底をかき混ぜられてわき上がった古い記憶の懐かしさに浸っていた。母国を遠く離れたこの土地で、どうして胸を締め付けられるほどの懐かしさを感じるのか、疑問に感じる間もなく、今ここで生きているという存在感が、マリアの笑顔から発せられてエイモスを覆った。暖かな笑顔というイメージの女性に歩み寄ると、顔立ちがはっきり見えてきた。アジア的な雰囲気を漂わせつつ南米の人々の陽気さをにじみ出させていた。
「この子は?」
 エイモスは幼児に視線を落とした。マリアに寄り添う様子は、母に甘える子どもだが、この子の顔立ちは明らかに日本人である。
「ボク、かずひさ」
「かずひさ……、かずひさ?」
 幼児の名を繰り返して味わうエイモスに、マリアが説明を加えた。
「調和の『和』、平和の『和』、ヘブライ語でシャロームかしらね。その和が長く続くようにと言う意味ね」
(なるほど)とエイモスは思った。
 この国の人々の名を表す文字は、文字自身が意味をもって中国から伝わり、言霊という日本の信仰によれば、言葉に願いが込められているともされる。
「でも、どうしてヘブライ語を?」
「違うの? メダルが見えてるわ」
 マリアの位置から、エイモスが手にしたメダルに六芒星の印が光って見えたのである。マリアは想像力豊かで、なおかつ独り合点をするタイプの女性だった。メダルの印からエイモスがユダヤ人だと決めつけたのである。この場合その推測は的中している。
「でも、このメダルは……」
 偶然に拾ったと言いかけたエイモスだが、そう言い切るには何故かこの左手に握ったメダルの存在感を重々しく感じられ、ただ黙ってマリアに歩み寄った。
 マリアは挨拶の握手の手をさしのべるエイモスに応じたが、エイモスが手を握ったまま振る気配がないのに気づいて、その意図を探るように彼の表情をまじまじと見つめた。このとき、マリアに寄り添う和ちゃんは、不審そうに男を眺めるアダムの存在に気づいた。いつも通り帰ってきたら、見知らぬ男が妙に親しげにマリアの手を握っているという光景である。和ちゃんはアダムの感情を察して二人を見上げた。僅かな距離を置いて微笑んだまま、手を握り合って見つめ合っている。初対面の挨拶にしては親しすぎる行為だろう。和ちゃんもやや不快げに二人の手を引き離し、マリアをこの男から守るように二人の間に割って入った。母親として甘えるマリアを他の男に取られる気はなかった。アダム電柱の影で頷いてみせて、和ちゃんの行為を支持した。
 番犬が尾を振って吠える声で、管理人は来客に気づいて庭木の剪定の手を止めて振り返った。
「ああ、アデルさんか。部屋の鍵を渡しとこか」
 管理人の言葉に、エイモスは軽く会釈をしてマリアと和ちゃんに別れを告げた。彼は額に浮かんだ汗を拭って、管理人に日本という土地の感想を吐いた。
「日本。暑いですね」
「湿気が高いからなぁ、そやけど、梅雨が明けたらもっと暑なるで。あんた荷物は?」
 手にしたバッグだけかと問う管理人にエイモスは頷いた。
「ええ、寝具はあるときいたので」
「ああ、押し入れの中の布団は勝手に使てくれたらええわ」
「これ以外の物は日曜日に買いそろえるつもりですから」 
「それは?」
 管理人が気づいたのは、こぎれいな風体のエイモスが左手に泥をつけていることである。
「ここに来る途中、工事現場で拾いました」
 古いメダルを見せられた管理人は笑った。
「大阪は古墳が多いとこやから、その辺りも掘り返したら歴史の遺物が出てくるかもしれへんわ」
 アパートの中に姿を消す管理人とエイモスの背を見送りながら、マリアは和ちゃんに新たな入居者の感想を述べた。
「優しそうな人で良かったね」
「うんっ」
「仲良しになれそうな気がするわ」
「うんっ。ボクも」
 二人は短い会話を途切れさせ、互いに相手の記憶でも探るように、不思議な心持ちで見つめ合った。新たな入居者は、二人に甘く暖かい雰囲気を残していた。


 エイモスが、これから住居になる部屋を眺め回してみると、六畳の広さに、押し入れと流しがついただけの、こじんまりとした部屋である。荷物は手に提げてきたバッグに入っているものだけ。仕事に必要な物は、別に借りた事務所に送ってある。このアパートで生活に必要なものはこれから買いそろえるつもりだった。もともと贅沢を好む性格ではなく、半年の予定の在住にこの環境で満足している。なにより、ホテルに比べれば、この日本らしい部屋は日本人を理解する手助けになるだろう。仕事にも何かメリットをもたらすかもしれないという予感がした。
 カーテンを開けてみれば、手入れの行き届いた庭木が植わった小さな庭から、よく手入れされた土の香りがガラス越しに漂ってきそうな雰囲気だった。古い建物だが、きしみもせずにスライドする窓を開けてみると、若々しい緑の香りを乗せた風が入ってくる。これから迎えるはずの、梅雨という名の雨期はまだ先のようで、からりと晴れた五月の風だった。
 ざらりっと、土の感触がした左手を見て、先ほどの落とし物を握りしめたままだったことを思い出した。既に表面の土が乾燥していて畳にこぼれた。エイモスは水道の蛇口を捻ってそれを洗った。直径三センチばかりの手の平に収まるほどの小さなメダルである。一部に紐を通したような穴が空いているが、その穴に通されていただろう紐は、長年土の中に埋もれて腐り果てていて、どんな用途に使われていたのか判然とはしない。表面は錆びてはいるが一部に鋭く光を反射する光沢が残っていて、僅かに残る光沢を辿ればダビデの星の紋章にも見えた。ただ、不思議なことに、先ほどマリアがメダルからその印を読み取ったときの輝きは無くなっていた。
 エイモスはこの日本で見つけた意外な母国の紋章を、今日この日の記念に胸のポケットにしまった。
 この部屋は狭いが他に荷が無く、外の風も入ってくると、いかにも空虚に感じられて孤独感が煽られた。足下の畳の上の素足の感触にも慣れない。思い出すのは先ほどのマリアの顔である。孤独から逃れるように部屋から出ようとしたときに、先ほどの幼児が管理人室から顔を出したのに気づいた。なるほど、管理人の身内だったのかと納得しつつも、彼は男の子の名を忘れてしまっていた。エイモスはバックの中にキャンデーがあったのを思い出した。
 大阪という地域の年配の女性によって、キャンデーが「アメちゃん」という名称で、友好の証として利用されると聞いたことがある。それを試してみようと思ったのである。
「アメちゃん、食べますか?」
 和ちゃんは笑顔でエイモスの提案に乗ってきた。
(うまくいった)
 そう思いながらこの男の子にミルク味のキャンデーを一つ与えた。日本人はアメちゃん一つで和む人々らしく、この男の子は一切の警戒心を解いて質問した。
「おっちゃん、どっから来たん?」
「イスラエル」
「タイより遠い?」
「もっとずっと西の方」
「トルコより遠い?」
「少し遠いかな」
「ポーランドより遠い?」
 和ちゃんがこのアパートの居住者の出身国を基準に、エイモスの出身地を推し量っていることに気づいて、彼は気になる人物の母国を尋ねた。
「マリアさんは、どこから?」
「ペルー。このアパートの中で、一番遠くから来た人やねんで」
 ペルーと言えば確かにその通りだろう。この日本から見れば地球の裏側に当たる。和ちゃんは、ちょっと気を利かせて尋ねた。
「マリアさんに会いたいん?」
「えっ?」
「今、マリアさんたちが、階段の上に居るで」
 和ちゃんが言うのは、いまは入居者たちが雑談している時間だというのである。エイモスは和ちゃんの提案を受け入れ、和ちゃんに手を引かれながら二階へと昇った。もちろん、バッグの中のアメちゃんを忘れてはいない。
「エイモスさんやねんて」
 和ちゃんは手を引いて連れてきた男の名を紹介し、次いで、二階の雑談場に顔をそろえていたメンバーを、順に紹介した。
「ヘレンさんとチェルニーさん、こっちが、アダムさん、ヨゼフさん、ジェスールさん」
「よろしく」
 エイモスは入居者たちと握手を交わし、友好の証としてキャンデーを差し出した。
「アメちゃん、食べますか?」
 チェルニーが豪快に笑った。
「まさか、貴方。大阪のオバちゃんの飴の話を信じこんでるの?」
「えっ?」
 もちろん、噂の火種は存在するし、大阪という土地に住む人々の大らかな人柄を表すのに、絶好の逸話に違いはない。が、決して一般的な風習ではない。場は笑いに包まれたたが、悪意は感じられない。見ず知らずの土地で誰もが経験して笑い話になる誤解だろう。エイモスはこの誤解で共感を呼んで仲間にとけ込んだ。

「スウィーティー?」
 聞き慣れない果物の名にヨゼフが首を傾げた。エイモスは来日の目的を語った。
「うん。果実や果汁が売り込めればと思って」
  彼の母国で取れる果実の市場調査をしたいというのである。ここで、彼は唐突に話題を転じた。本人もその唐突さに気づいてはいるが、質問せざるを得ない意識がわくのである。
「マリア、君とは初めて会った気がしない。ずっと、心に君の面影を抱いていたような気がするんだ」
 アダムがエイモスの言葉に驚いてぷっと吹き出した。彼は瓢箪荘に住み始めて二年間、まだマリアに愛の言葉を告白できずにいる。しかし、初対面の日にいきなりこんな言葉を吐くなんて、なんという手の早い男だろう。周囲の仲間は、そんなアダムの様子が面白い。ただ、ヘレンもチェルニーもその点には触れず、日本在住の先輩としてアドバイスした。最近のチェルニーはこの国に伝わる詩に興味があった。
「こひすてふ わがなはまだき たちにけり ひとしれずこそ おもひそめしか」
 チェルニーが発したよく分からない言葉の羅列に、エイモスは首を傾げて聞いた。
「なんだい、それは」
「恋は始まったばかりなのに、もう人に知られちゃったってこと」
「恋だって?」
 やや激しく問うアダムにチェルニーは説明を加えた。
「まぁ、この国なら和歌かしら。古から和歌で思いを伝えるのよ」
「とりあえず、今日から本格的に日本での生活が始まるという事ね。日本風の女の子の扱いを覚えてもいいわよ」
 ヘレンは女にもう少し考える時間を与えろと言うのである。エイモスは二人には答えず、マリアに向き合った。
「マリア、君に頼みがあるんだけど」
「なあに?」
「明日、日本橋へ案内してくれないか。帰りに食事を奢るから」
 ヘレンがにやりと笑った。
「あらっ、手が早いこと。いきなりデートの誘いなの」
 何故、マリアに声をかけたのか、心の中が乱れていて、自分でも明快な答えは分からず、エイモスはしどろもどろに答えた。
「いや、テレビやパソコン、電気スタンドなんか、部屋の電気製品を買いそろえたいんだ」
 アダムがヨゼフの足を軽く蹴って促した。この場合、マリアに代わる案内者を提供するなら、電気関係の勉強をしているヨゼフが適任だろう。ヨゼフはアダムの意図を察して言った。
「俺で良ければ案内するよ」
「いや好意は嬉しいが、マリアと」
「ふぅん」
 チェルニーは興味深げにマリアとアダムの顔を見比べて続けた。
「しのぶれど いろにいでにけり わがこひは ものやおもふと ひとのとふまで」
「今度は、何の和歌?」
「隠していたはずの恋心が、思いが高まって表情に出ちゃったって……」
 アダムも正直な男で、突然に形作られた三角関係にやきもきする様子が隠せないのである。一方の当事者のマリアは日本橋と聞いてひらめく考えがある。近くに動物園があるはずだ。彼女は傍らの和ちゃんに提案した。
「和ちゃん。動物園に行こうか」
「うんっ」
「いや、だから、電気製品を……」
 そう言いかけるエイモスを制して、マリアは同行の条件を付けた。
「日本橋の後、動物園に寄るならいいわよ」
 アダムがマリアの言葉に割り込んで提案をした。
「マリア、ボクも行こう。あの近所には真田幸村戦死の碑のある安居神社とか、六世紀に建立された仏教寺院とか、古い史跡が多いんだ。君も興味があるだろう?」
 ところが、アダムの提案に当事者のマリアはさほど興味を示さず、ヘレンが目を輝かせた。
「サナダ・ユキムラ? 知ってるわ。大阪城のプリンスとプリンセスを守って戦ったサムライね。私も行きたい」
「いいわね。気晴らしに仏教寺院を散策するのも、心が落ち着くかもしれないわね」
 そんな表現でチェルニーまで参加するという事態にエイモスは驚いた。
「だから、ボクはマリアと」
「気にしなくて良いのよ。大勢の方が何かと楽しいじゃない?」
 ヘレンの提案にエイモスは物理的な制限を口にした。
「車に乗れるのは五人までだから、」
 そんな言葉をチェルニーは軽く笑って、先輩として大阪の交通網の状況を教えた。
「あらっ、車で行くつもりだったの? 覚えておきなさい。電車よ電車。大阪市内じゃ、その方が便利に決まってるのよ」
 エイモスがいくら否定しようとしてもヘレンとチェルニーには通用しない。最期にマリアがのほほんと夢見るように結論を下した。
「素敵ね。じゃあ、決まりよ。仲良く一緒に行きましょう」
 彼女が笑顔でこういうと、もう何人も彼女の決定を覆せない。ふと、マリアはこの会話に加わっていないジェスールに尋ねた。
「あらっ、ジェスール。貴方は?」
「俺は、君たちほど暇じゃない」
 アダムとエイモス、マリアの人間関係をおもしろがる仲間の中で唯一同情を示したのがジェスールかもしれない。その視線の中に、もっとしっかりとマリアを捕まえておけという非難じみた感情もこもっている。ただ、一方の当事者であるマリアは、和ちゃんから恋愛とは無関係の期待に籠もった質問を受けていた。
「動物園って、象さん、おる?」
「いるわよ」
「ライオンは?」
「ライオンもトラもいるわ」
「他には?」
 和ちゃんの質問に、マリアは期待感に胸を躍らせるようにスカートの裾をつまんでひらひらさせ、ダンスのステップを踏んだ。内からわき上がる高揚感を押さえきれず、本人さえ気づかないうちに体でリズムを取っている。マリアの幼い頃からの癖である。
「私たちが知らないものがいっぱいあるの。きっと、私たちが知らない世界が広がっていたりするのよ」
「ふぅん」
「明日、晴れると良いわね」
 チェルニーは和ちゃんとマリアの会話に割り込んで、無難な天候の話題に変えた。この二人の夢見るような想像が、周囲の人々を得体の知れない世界に誘い込む不安がよぎったのである。
 ただ、マイペース派のマリアのこと、和ちゃんを連れて動物園に行くという思いつきに夢中になり、チェルニーの不安など気づく様子もない。マリアは管理人に和ちゃんを連れて行くという許可を求めに、和ちゃんの手を引いて階段を下りていった。その後ろ姿は仲の良い母子に見える。

 


 翌朝。窓を開ければ、昨夜のチェルニーの願いが叶ったように、雲一つ無く晴れ上がって、五月の心地よい風が吹き渡っていた。
 彼らのアパートから日本橋まで、一時間足らずの距離である。ヨゼフは環状線と地下鉄を乗り継いで、仲間をこの町に案内した。地下鉄のホームから改札を抜けて歩く地下道で、エイモスは見回して仲間の数を数えた。マリアだけを誘うつもりだったのに、幼児も入れて六人もいる。管理人も幼児の保護者として同伴するかと考えていたがアパートに残った。もちろん管理人としての仕事があるからだろう。
(なるほど)
 エイモスは納得した。目の前をマリアと幼児が仲良く手をつないでいる姿は、母と子に見える。管理人が大切な孫をマリアを信頼して預けたのが分かる光景だった。
 地上の景色は彼らの住む町と一変した。行き交う自動車の排気ガスが漂い、道路の両側に立ち並ぶビルディングで、細長く切り取られた空が眩しかった。
 エイモスはマリアの後姿を眺めていた。彼女は長い髪を後頭部で結っていて、うなじから青いワンピースの襟を通って肩から腕に至る体の線が美しい。風の加減で僅かに漂う香りで彼女が身だしなみ程度の化粧をしていることが知れた。マリアが虚飾を取り払って、遙か昔から、変わらぬ姿で居たような印象に囚われるのである。そして、マリアの傍らで背後を振り返って、エイモスが迷わず付いて来るのを、うかがう幼児が、マリアとエイモスの二人をつなぎ止めているようにも思えた。
「ここが、ニッポンバシなの?」
 マリアの言葉に、仲間も首を傾げた。西日本を代表する巨大電気街として、その地名を耳にしたことはある。しかし、ヨゼフを除けばこの街に来るのは、皆初めてだった。左右見渡す限り商店が並び、車が勢いよく行き交う車道の向かい側にも、大小の商店が密に詰め込まれて、それぞれが店頭からはみ出した看板や陳列商品で競い合って客を呼び込んでいた。
「恵美須町駅から北へ、日本橋駅付近まで続いてるよ。途中から西へ難波駅に向かう道筋にも電気屋が並んでる」
 ヨゼフの説明に、仲間の視線が和ちゃんに集中した。ヨゼフが語る隣の駅まで続くという長い距離を、この幼児を連れ回す事に不安が湧いたのである。その視線を振り払うように、和ちゃんはマリアに寄り添ったまま、大人たちを笑顔で見回した。
「ぼく、平気やで」
 その言葉を褒めて、ヘレンが和ちゃんの髪を撫でて提案した。
「そうね。散歩を兼ねたトレーニングだと思えばいいのよ」
「時間はあるから、ゆっくりと周りましょう」
「とりあえず、家電製品を扱う店を順に覗いてみよう」
 案内役のヨゼフに先導されるように、彼らは歩道を北に歩き始めた。家電製品全般から、電子部品に特化した商品を並べたり、間口の広い店があるかと思うと、狭い入り口に奥行きだけを感じさせて商品の迷宮に人を誘う店もある。その雑多な様子をチェルニーがヘレンに評してみせた。
「黒魔術の道具が売られてたって、不思議じゃないわね」
「カラシニコフが売られていそうな雰囲気まで漂ってる」
「ほらっ、カラシニコフかどうか知らないけど、自動小銃が」
 チェルニーが指さすウインドーの中に、自動小銃や拳銃、大型ナイフが並んで見えた。ヘレンの目から見れば、本物に似せたエアーガンだと分かるが、それでも、日本という国に不釣り合いな商品に苦笑いせざるを得ない。
「あらっ、ここは玩具屋さんじゃない?」
 和ちゃんの手を引いていたマリアが、一軒の店の前で立ち止まって店内の商品を指さした。その言葉の通り、大きなショーウィンドウに玩具が並び、のぞき見える店内も数々の玩具で溢れていた。彼らはこの電気街に玩具店があると言うことに気づいたのである。マリアは和ちゃんの傍らにしゃがみ込んで、思いつきを口にした。
「和ちゃん。私たちの買い物している間、ここで玩具を見て時間を潰してなさい」
「賛成だわ。でも、一人で放っておくわけにはいかないよわよ」
 ヘレンの言葉にマリアは少し考えて応じた。
「アダムが和ちゃんのお守りをしていればいいのよ」
「何故、僕が?」
 アダムの疑問にマリアは微笑んで答えに変えた。マリアの言葉は短いが、ちゃんと裏付けがある。エイモスの誘いを受けた自分は、エイモスの付き添いをせねばならない。ヨゼフは彼の知識からみて同行してもらう必要がある。すると、残るチェルニーとヘレンが適役に見えるが、チェルニーは和ちゃんが男の子だと言うことを忘れて人形や縫いぐるみに興味を示しかねず、ヘレンに任せればモデルガンのコーナーで和ちゃんに戦闘的な講習を行いかねない。一番無難な人選がアダムと言うことである。
 マリアの天真爛漫な性格で指名されると、アダムも悪意無く思いやりのある提案に逆らいがたいのである。仲間たちは和ちゃんとアダムを玩具店に残して立ち去った。

 マリアとエイモスが並んで歩き、それを先導するようにヨゼフが居る。その三人を眺める後方にチェルニートヘレンが続いていた。ヘレンが興味深げに前方の二人を眺めてチェルニーに問うた。
「彼の顔を見た?」
「アダムのこと?」
「そう、おあずけを食らった犬みたいだった」
 ヘレンは置いてきぼりを食ったアダムをそう表現した。
「アダムの優柔不断に、マリアの鈍さ。もう少し刺激があった方が良いんじゃない?」
「私たちも協力してやらなきゃ」
「わぉっ」
 チェルニーが期待感を込めた声を挙げて、ヘレンにエイモスを指さした。仲間を誘導するという立場でヨゼフが先頭を歩き、その後ろをエイモスがマリアと仲良く寄り添って歩いている。ヘレンもまた面白くなりそうな展開に、期待を込めてチェルニーに聞いた。
「ねぇ、貴女はどちらを応援するつもり?」
「もちろん、面白くなりそうな方よ」
 チェルニーの返事にヘレンも満足げに頷いた。どうやらマリアを頂点に、エイモスとアダムの間に三角関係が形成されつつあるらしい。ただ、面識という点でアダムに分があり、今は歪な三角である。ここはエイモスを突いてマリアにもっと接近させれば、事態は面白くなるかも知れない。
「エイモス」
 ヘレンは背後から男の名を呼び、振り返った男に、やや眉を顰めながら右手をブラブラさせて、貴方の右手は無駄についているのかと問い、更に右にいたチェルニーの肩に手を回して見せて、エイモスの右手の用途を示唆した。意図を察したエイモスが戸惑う様子に眉を顰めたチェルニーが、その偶然の行為を褒めた。
「good job!」
 エイモスに対してではない、狭い歩道を向こうからやって来た家族連れに対してである。彼らがマリアとぶつかりそうになった。それを避けようとエイモスがマリアを引き寄せるという自然な形が出来上がって、エイモスはマリアの首に手を回して抱き寄せたのである。マリアは突然の出来事に驚いたようだが、エイモスを見る目に拒絶はなく、不思議そうな笑みをたたえて言った。
「不思議だわ。以前にも、同じ事があったような気がするの」
 マリアはエイモスに肩を抱かれたことをそう表現した。面識の浅い異性をかき抱いたという気恥ずかしさに、エイモスはヨゼフに目を移してこの場を凌ぐ言葉を口にした。
「すまない。ずいぶん待たせてしまった」
 行為に不快感を感じたかも知れないマリアへの謝罪に続いて、一軒の電気店の前で彼らをじっと待っているヨゼフの存在を表したのである。ヨゼフは店頭に掲げられチラシで、エイモスが求める商品を見つけたと、手招きを続けているのである。
「気の利かない男ねぇ」
 ヘレンが舌打ちをするような思いでヨゼフを表し、チェルニーも頷いて同意して言った。
「買い物はさっさと終わらして、あの二人を次のステップに進めましょう」
 ヘレンとチェルニーの会話の最中、マリアは未だ首を傾げたままでいた。心情を正確に表現することも出来ずに思った。
(『すまない。ずいぶん待たせてしまった』、不思議、この言葉もどこかで聞いたことがあるような気がするわ)
 四月がこの国の一年の区切りの時期で、学生や会社員など様々な人々がこの都市に集い去って行く。その区切りの時期に、エイモスと同じく家電製品をまとめて求める客が多いために、セットにして価格を下げて客を誘う店がある。ただ、五月末というこの時期はその区切りの時期からずれていて、売れ残った商品が扇風機やエアコンなど夏場の商品の片隅で、価格を下げて売られていることがある。ヨゼフが見つけたのは、テレビや電子レンジなど、大阪で新しい生活を始める学生たちが買いそろえる商品に、型落ちのパソコンをセットにしてお得感を演出したセットである。
「あれなんか良いんじゃないかな? あとは扇風機だね」
 ヨゼフの提案に、エイモスはそれで満足だと同意をして頷いた。ここからチェルニーの出番である。
「任せてよ」
 チェルニーは髪のピンを抜き、後頭部に堅くまとめていた髪を下ろした。眼鏡を外して胸のポケットにしまって見ると、彼女の愛くるしい大きな目が強調され、近眼で焦点の合わない目が潤んで見える。ぶるんっと首を振って首筋に流れる髪に膨らみを持たせ、指先で前髪を整えた彼女は、五歳ばかり若返って見えた。
「店員サン、店員サン」
 彼女は少女のように微笑んで、片言の日本語で、年配の店員に手招きをした。
「何か、お入り用ですか」
「店員サン、私、コレ、欲シイ。ナンボ?」
 価格を聞かずとも、店頭に展示してある。
「これは、新しい生活を始める人のためのお徳用セットで、テレビ、冷蔵庫、電子レンジにパソコン合わせて79800円になっています。別々に買われるよりお得ですよ」
 チェルニーは首を傾げて、店員の言葉に無かった扇風機を指さした。
「私、日本語、ヨク ワカラナイ。テレビ、冷蔵庫、パソコン、扇風機?」
「だから、これはテレビ、冷蔵庫、パソコンの三点セットで、あちらの扇風機をつけると……」
 電卓を手に計算を始める店員に、チェルニーはポップに書かれた価格を指さして念を押した。
「79800円ネ?」
「じゃあ、扇風機はオマケと言う事で」
 妥協した店員にチェルニーは首を傾げた。
「デモ、ドウスル?」
「何が?」
「私、8万円シカ持ッテナイヨ。オ金ハラウト、帰リノ、電車ノレナイネ」
 その後、彼女は店員にもヘレンたちによく分からない母国語で何かをまくし立てた。この商品が手に入らなければ、酷く困るような印象のみが伝わってくる。店員は、価格で妥協するという以外の選択肢が無く、彼女の示す条件で折れた。彼女は店の優しさにちゃんとお礼を言った。
「アリガトウ。私、トテモ、ウレシイデス」
 彼女は最後にアパートへの送料もオマケさせてお礼の笑顔を浮かべた。五人は店を出たが、チェルニーの手際よさに驚いている。ただ、ヨゼフが呆れたような苦言を呈した。
「あまり店員を苛めるなよ」
「あらっ、ちゃんと価格の決定権を持ったボスを相手にしているわよ」
 チェルニーは流暢な日本語でそう言った。値引きを要求されて困る若い店員ではなく、価格決定の判断が出来る店長クラスを相手にするのが、価格交渉のコツだというのである。ヘレンが笑いながら言った。
「あなた、もしも突然に言葉が通じない世界に飛ばされても生きていけるわね」
「他に何か買うものは?」
 チェルニーがそう確認し、エイモスが礼を言った。
「いや、今ので、全部そろった。ありがとう」
 この好奇心むき出しの連中を見ていると、そう言う言葉でこの場を締めくくって、次の予定に進めるのが良かろうと判断したのである。何か足らない物があればまた買いに来ればいい。マリアが微笑んだ。
「じゃあ、あとは和ちゃんたちと合流して、動物園ね」
「動物園の前に、ユキムラの像を見るのよ」
 ヘレンは動物園の途中の神社にあるという真田幸村の座像に想像を膨らませた。彼女の想像では、わずかな手兵で魔王の軍の厚い前衛を打ち破って、魔王の本陣に突入した猛将である。彼女の中で筋骨隆々とした威厳を漂わせる英雄像が膨らんでいた。

  一方、玩具屋に残され、和ちゃんのお守りを任されたアダムだが、お守りより店内の商品に夢中になった。考えてみれば、玩具屋に入ることなど十年ぶりである。十年という時の長さや、彼の母国とこの東洋の端の国という距離を、懐かしい記憶が埋めた。
 白や赤や黄色の小さなプラスチックのブロックが城や飛行機の形に組まれて展示されていたのである。アダムは幼い頃、ポーランドでこの玩具を目にしたことがある。

 真面目に働いて家族を養う父親が、妻の冷たい視線に抗いもせず生きていた。そんな父親の本当の笑顔を見たのは、手を引かれて玩具屋に行ったときのことである。理由ははっきりと覚えていない。子どもの身の回りのものは、全て母親が買い与えていたが、初めて父親が自分の判断で息子にプレゼントを買い与えた時だった。
 普段、仕事漬けで子どもとの触れあいが少なく、子どもに何を買い与えて良いのか分からない父親が、楽しげに迷ったあげく買い与えてくれたのが、あのプラスチックのブロックだった。アダムは列車の玩具が欲しいとは言い出せないまま、プレゼントを受け取ったのを覚えている。
(父親とは何だろう)と、アダムは過去に何回も考えたことを思った。
 父親にまとわりついて玩具をねだる子ども、父親に手を引かれて店内の商品を見て回る子ども、父親が指さす商品に首を横に振って別の商品を指さしている子ども。電気街の中の玩具屋には、父親と子どもが溢れていた。
 そして、日本橋で玩具に夢中になる外人男性と、日本人の子ども、バラバラなら別に珍しくはない光景だが、二人が寄り添っているために、その関係に好奇心が湧く。アダムと和ちゃんは店員や他の客の視線を浴びていた。一方、和ちゃんも心密かな思いを込めて、周囲に視線を配っていた。父と子の光景を、棚に並べられた玩具越しに眺めていたのである。父親が子どもに注ぐ視線が珍しいことのようだが、その子どもと視線が合うと、その子が漂わす優越感から目を反らすように、視線を別の父と子に移していた。アダムと同じく父親について思いめぐらせていたのかもしれない。そんな和ちゃんの様子を眺めたアダムが問いかけた。
「何か、欲しいの?」
 アダムの問いに、和ちゃんが期待感を込めて、にこりと笑ったので、アダムは言葉を継いだ。
「また今度ね」
 和ちゃんはため息をついた。
「ボク、知ってるねん。大人の人が『また、今度』って言うときは、絶対にあれへんっていてうことやねん」
「よく分かってるね」
 和ちゃんは玩具を撫でつつ、背後にいたアダムに声をかけた。
「アダムさん」
「何?」
「ボク、思うねん」
「だから、何?」
「マリアさんのこと好きやったら、好きやて言うた方がええわ。このままやったら、マリアさんをエイモスさんに取られるで」
 和ちゃんの突然の言葉にアダムは絶句して返す言葉がない。和ちゃんは言葉を続けた。
「みんな、アダムさんのこと、応援してるねんで」
「ありがとう」
「男って、押しが強ないとあかんねん」
「そんなこと、誰に教えてもらったんだい」
「チェルニーさんと、ヘレンさん」
(なるほど)と、アダムは思った。
 あの二人ならこの子におませな思想を吹き込みかねない。
「和ちゃん。大人の世界ってもっと複雑なものなんだ」
 アダムはそう語って聞かせているが、その和ちゃんの興味は別にあるらしく、そっぽを向いていた。気まぐれな子だと苦笑いしつつ、その視線を辿ると一人の小学生らしい男の子がおり、やや距離を置いて和ちゃんと同じ年頃の幼女が居た。アダムが目撃したのは、少年が駕籠の中に山積みになっていた小さな人形を鷲掴みにして、左手に提げたバッグに忍ばせようとした光景である。その手の平に収まるほどの大きさの人形は、男の子が欲するような物ではない。男の子があの幼女の為に盗みを計っているという様子が見て取れる。そして、その幼女の目を見れば、何かを手に入れる喜びはなく、ただ兄が罪を犯す罪悪感と悲しさを感じさせる。和ちゃんはそんな幼女の目から、兄と妹を包む事態を察したらしい。貧しく幼い兄が、妹のために万引きをしようとする光景である。僅か二百円足らずの商品だが、二人の心に残す疵は深く大きすぎるだろう。
 裕福だと思われがちな日本で、アダムはこんな悲しげな盗みの場面に遭遇するとは考えても居なかった。
「和ちゃん。ちょっと、あの男の子に手を振って見せて」
 アダムは笑顔で傍らの和ちゃんに言った。その意図が理解できず首を傾げながらも、和ちゃんはその言いつけを守った。自分に向かって手を振る和ちゃんに、きわどい瞬間を目撃されたことを知った少年が和ちゃんに注意を向けた時、その傍らに移動していたアダムが居た。店の入り口に近い位置で少年には逃げ場がない。アダムは少年の頭に手を置いてしゃがみ込み、少年と同じ視線の高さの笑顔で語った。
「ボクが生まれたポーランドではね、今日、五月十六日は大人の人が、子どもに玩具を買ってあげる日なんだ」
 黙ったままアダムを凝視する少年に、アダムは未だ少年の手にあった人形を掴んで語り続けた。
「キミの代わりに、君の妹にこの人形を買ってあげても良い?」
 アダムは少年を伴ってレジに行き、ラッピングしてもらって仕上げにリボンをつけてもらった。兄と妹は初対面の外国人に驚きながらも、その傍らにいる和ちゃんの存在で安心したかのように付き従った。店の外に出て少年はアダムに促されて人形を少女に渡した。
「二人の名前は?」
 そう問うアダムに二人が答えた。
「たけし」
「さちえ」
 アダムは胸のポケットから手帳を出して、少年にも理解できるよう声に出して読みながら文を綴った。
『この人形は、今日の記念に、たけしに託します。ポーランド人、アダム・マリノフスキー』
 お金を持っていない子どもたちが人形を持ち帰った時に、両親に不審がられないようにとの配慮である。和ちゃんはそんなアダムを誇りに満ちた父を見守る視線で眺めていた。アダムはそんな視線を背景に兄と妹に言った。
「大人は子どもにプレゼントをあげるんだけど、子どももしなきゃいけないことがあるんだ」
「なに?」
「いい大人になるって約束するんだ。できるね?」
 兄妹は頷いて振り返りつつ去っていった。和ちゃんは二人に手を振って見送った後、アダムの顔を見上げて試すように言った。
「ぼくも約束するわ。大人になったらええ人になる」
「それは良かった」
 アダムの返事に和ちゃんは首をかしげて甘えた。
「玩具は?」
「玩具がどうしたのかな」
「約束したら、玩具買うてくれるんとちゃうの?」
「あんなのは口からでまかせ。ポーランドにそんな習慣はないよ」
 アダムの言葉に和ちゃんは首を傾げたものの、すぐに事態を察したように笑顔を浮かべた。
「アダムさんって、ええとこあるやん」
 そんな和ちゃんの目が眩しい。アダムは微笑んで誇らしげな喜びを返した。アダムがあの二人に人形を渡した指先を、和ちゃんは両手で大事に包んだ。この一瞬、二人は父と息子だった。アダムの脳裏に十数年前の父親の笑顔がよみがえった。
 この時に、聞き慣れた声が店内に響いた。
「アダム、和ちゃん」
 ガラス張りのドアの所から顔を覗かせたマリアが二人に手招きをしたのである。次の目的地の動物園に行こうというのである。マリアの呼びかけに、和ちゃんはあっさりと尊敬するアダムを捨てた。父親の傍らより母親の傍ら。子どもというのはこういうものか。アダムは新たな父親の気分を自嘲的に味わった。

「この後は、ボクが案内しよう」
 他の仲間と合流したアダムは、マリアに寄り添うエイモスをちらりと眺めた。チェルニーが観察した所、リーダーシップを取り戻すという決意がこもった眼差しである。事実、昨夜、アダムは地図とこの地にまつわる昔話について調べていた。
「動物園はここから南東の方角だ。途中にヘレンが見たいと言った安居神社がある」
 アダムは幹線道路を捨てて幾つも分岐する路地に入った。最短距離で目的地に着けばマリアの賞賛を得ることが出来るはずだった。アダムは始めて見る町並みに解説を加えつつ歩いている。
「これから通る安居天神にはスクナビコナという神が祀られている。海から来訪したとの記述があって、海外から日本に来た異邦人じゃないかという説もある神なんだ」
 そう語りながら先導するアダムが、妙にきょろきょろと辺りを確認する様子がある。アダムは歩みながら語り続けた
「神社を抜けると坂がある。その坂道を「おうさか」と言ってね、漢字の意味を解釈すると出会いの坂ということさ。この大阪の地名の由来だという説があるんだ」
 チェルニーは首を傾げた。
「で、大阪が出会いの地だとして、その逢坂はどこにあるの」
「だから、その……」
 アダムが頭の中に描いた景色で言えば、日本橋から南東に向かえば長い坂があるはずで、その坂を横断すれば動物園、坂を登ってゆけば四天王寺という地形のはずだ。そして何より、その付近には通天閣という塔があり、塔を目指して歩けばいいはずだった。
 しかし、交通量の多い幹線道路の交差点が幾つもあり、似たような町並みが続く。ビルディングが建ち並んで、目標にすべき通天閣が見えない。アダムは方位を見失った。アダムが目印にした険しい坂はなく、更に、地図上では平面に同時に存在すべき道路の一つが、十数メートルも上の高架を走って立体に交差しているのである。そして、その高架はこの付近で大きく曲がって方向を変えている。五分前には前方に見えていた高架が、今は右手の方向に見えていて、アダムの方向感覚を狂わせた。
「素直に、道に迷ったって、言ったら?」
 やや非難の視線を浴びるアダムに代わって、ヘレンが太陽の位置と時計を見比べて判断した。
「こちらが北ね。迷っていたのはせいぜい十分だから、電気街から離れては居ないわ。動物園の方向はあっちね」
 仲間はヘレンの指さす方向に向けて道路を進んだ。
「ほらっ、あれが安居天神よ。ユキムラの像があるところよね?」
 彼女が指さす道路に小さな鳥居が見えた。近づいてみると、その鳥居の前の掲示板に安居神社の縁起が記載されていたのである。ヘレンが大阪城のプリンスとプリンセスを守って戦ったと記憶しているサムライの戦死の地とも伝えられている。幸村の碑や像があるはずだ。自分たちの位置を見つけた安心感で、アダムたちは鳥居をくぐった。参道というには賑やかさのない幅二メートルばかりの路地を進むと、二つ目の鳥居があり、鳥居の先が石段になって左右に木々が生い茂って見えた。彼らの位置から社殿は見えないが、石段を登った高台に神社があるに間違いはなかった。ふと、アダムは鳥居とエイモスの故郷とのつながりを思い出した。
「鳥居、トリイ、門? エイモス、君は知ってるかい。トリイという日本語の語源は、門を意味するヘブライ語に由来しているという説がある」
「門? 境界」
 エイモスは振り返って呟いた。そう言えば、自分が日本語を学ぶきっかけも、古いユダヤと日本の類似点だった。
 胸元に妙にくすぐったく暖かな感触がありポケットを探ると、入れたままになっていたメダルが指先に触れた。取り出して眺めると、断片的だった輝きが今は明瞭に線を作って六芒星の形に輝いていた。好奇心を示した和ちゃんがメダルに手を伸ばし、指先が触れた直後に異変が起きた。
 懐かしさや胸騒ぎ、期待感と不安、様々な感情がエイモスを駆けめぐった。その感情のほとばしりが具象化するように霧が渦巻いて彼の姿を隠した。その霧は、薄く、濃く、淡い緑や青が混じって均一に同化せず、時に血を思わせるほどの不安な赤が出現しては色を変えた。エイモスの混乱に同調するように色を変えつつ、霧は広がって傍らのマリアと和ちゃんの姿を覆った。

 


第二章 1

「マリア、和ちゃん、エイモス」
 目前の異変に気づいたアダムは、姿を消した三人の名を呼んで、霧の中に手を伸ばしたが、触れるものはない。存在を求めて、更に霧の奥に踏み込んだ。
「マリア、和ちゃん、エイモス」
 繰り返すアダムの叫びが、三人を求める悲鳴のように霧の中に薄れて消えた。
「私たちも行きましょう」
 状況はつかめないものの、姿を消した者たちを救うのに迷いはなく、ヘレン、ヨゼフ、チェルニーもまた、突如出現した霧の中に踏み込んだ。
 濃い霧はアダムたちの視界を奪って、伸ばした腕の指先すらぼやけて見えない。仲間の名を呼ぶ声は、分厚い毛布にくるまれながら大声を上げるように遮られ、霧に溶けてしまうように声は薄れて、仲間の声も耳に届かない。霧は視界を奪うのみではなく、様々な感情が織りなされて彼らを包み、心を乱した。記憶が遡るように蘇り、物心つく前の幼い記憶は、父や祖父や曾祖父を経て、遙か昔の祖先の記憶に行き着くかのようにも思われた。
 視界を奪われた空間で、上下の感覚すら失って、足下に不安を感じたヨゼフは、片膝を地に付けて平衡感覚を保とうと手探りした。何か、暖かく柔らかく、指先に触れるものがある。
「きゃあ!」
 聞こえた悲鳴は、チェルニーの声である。
(と、すれば、この柔らかな感触は)
 ヨゼフがそう考える間もなく、尻を撫でられて怒りの表情を浮かべるチェルニーの平手打ちが、ヨゼフの頬を襲った。もう一つ、響く声がある。
「この変態っ!」
「ぎゃっ」
 ヘレンの怒りの声の直後、蹴り倒される人体の音と共に、アダムの苦痛の声が響いた。霧の中で手探りをしていたら、何か触れるものがあった。指先を動かして感触を探っていたら、ヘレンの胸だったらしい。
 互いの声が聞こえ始めたという事実で、彼らは濃く覆われていた霧が晴れ始めたのに気づいた。表情までは見えないが、シルエットがぼんやりと見え、声と重ねて人物が明らかになる。アダムは蹴られた左の脇腹を押さえて呼吸を整えながら言った。
「普通、正体不明の人間を、いきなり蹴りつけるかぁ?」
「普通、前戯も無しで、いきなり女の胸を揉む男も居ないわよ」
 そんな会話をする二人の影に、チェルニーとヨゼフが接近した。既に、霧は薄れて互いの表情が見える。アダムが上半身を起こしてみると、蹴り倒されたときに押し倒した背丈の高い植物の間から水がにじみ出したため、彼は慌てて立ち上がった。先ほど地に膝をついていたヨゼフの片膝と手が泥にまみれていた。
(いつの間に、こんな所に)
 彼らの周囲の景色が一変していた。腰の高さほどの草原は周囲の雑木林に日が遮られていて薄暗く、太陽の光を浴びることのない地面はじっとりと濡れていた。葦が群生する湿地帯である。
「ここは?」
 チェルニーが驚きの声を漏らした以外、他の三人は周囲の景色に息をのんで黙りこくっていた。仲間を見回して尋ねるチェルニーの質問に、答えることが出来る者が居ない。理由が分からないまま、住宅地の中の神社という景色は一転したのである。
「他の三人は?」
 そう問うアダムも、仲間の答えを期待しては居ない。どうしてこんなところにいるのかという疑問と同様に、マリアと和ちゃんとエイモス、その三人が何処に姿を消したのかという疑問にも手がかりはない。三人の姿を探して彷徨って、通りかかった松林の疎らに茂る葉の間から地に光が射していた。もちろん、姿を消した三人の姿を見つけることは出来ないままだ。
「貴方は、私たちをどこに案内してきたの?」
 チェルニーはそう聞いたが、道案内をしていたアダムにも、想定外の光景に違いない。
「状況を整理してみましょうよ」
 ヘレンの提案に、アダムは頷いて記憶を辿り始めた。
「電気街から迷いながら北東に歩いていて、鳥居をくぐった後、霧が出てきたんだ」
「その前に、門がどうこうの言ってなかったかい」
 ヨゼフがアダムの記憶を補い、チェルニーが頷いた。
「ええ、エイモスも、門が、境界がって呟いてたわ」
「あの霧と何か関係があるのかな」
「電話で何か分からないかしら」
 チェルニーがポケットから携帯電話を取り出す様子に注目が集まったが、彼女は直ぐに肩をすくめた。
「ダメね、圏外」
「僕のもだ」
 アダムは妙な予感がして携帯の電源を切った。何故か、ここに長居をする予感がして、バッテリーは温存しておいた方が良いだろうと考えたのである。ヘレンは腕時計を眺めた。午後一時を回っているが、果たしてこの世界の時かどうかは分からない。この時にアダムたちの耳に聞き慣れない音が勢いよく近づいてきた。
「理由は不明。でも、ここは私たちが居た大阪では無さそうね」
「何故、そうわかるんだい?」
「あの音よ」
 ヘレンは馬の蹄の音だと判別したのである。自動車のエンジン音や警笛ならともかく、馬の蹄の音など、大阪の町中に響く音ではないだろう。ヘレンが警戒感を露わに指示した。
「隠れて!」
 チェルニーが疑問を呈した。
「どうして? 救助の人たちかも」
「騎兵隊が都合良く現れるとは限らないわ」
 背の高い草木が生い茂る草むらにしゃがんで姿を隠し、目の前の草を少しかき分けて見ると、草原がとぎれる土の地面に、乗馬の男が率いるらしい男たちが姿をみせた。見慣れない衣装である。衣服を染めると言うことを知らぬような白い麻のごわごわした袖口や裾の広い衣類、腰に下げているのは剣だろう。背負っている筒口から見えているのは矢に違いない。長い髪を左右で束ねて耳の横で結っている。見慣れない衣装と髪型だが、身につけている武器を見れば、平和的な人物ではないだろう。荒々しい雰囲気と不審者を捜し求める気配が感じられた。何故か、高所から不審者を見つけて眺めていたというイメージが伝わってきた。彼らの背後を眺めると高所になっている。あの上の雑木林の切れ目から、視界の利かない湿地帯を彷徨うヘレンたちを眺めていたのだろう。
 指揮官らしい男が馬上で剣を抜き、草むらを切り払って、歩行立ちの三人の部下に命じた。
「探せ!」
 その男の声には、この草むらに必ず探し求める不審者が居るという確信と、不審者の身元を糺すという役職上の責任感がこもっていた。そして、その短い命令の意図を正しく理解して草むらに広がって探索を始める部下の様子を見ればよほど訓練が行き届いている。
「出ましょう」
 そう提案するヘレンにチェルニーは疑問を呈した。
「どうして?」
「隠れても無駄よ」
「なるほど」
 長身のヨゼフが見回したところ、生い茂る植物は密だが、その丈は彼らを隠すほどではなく、身をかがめていても、この草むらはアダムたち四人を隠しきるには狭すぎるだろう。隠れていて発見されるより、堂々と姿を見せる方が、敵意がない事を示せるに違いない。ヘレンは立ち上がって男たちの前に身を晒した。草むらを吹き渡る風が彼女の金髪を靡かせて、木漏れ日を反射させた。
「ケハヤ様。あそこに」
「なるほど、異形の者どもよな」
 男たちの声は大きく、ヘレンたちにまで伝わってくる。ヘレンは聞き慣れない言い回しをアダムに尋ねた。
「なんて言ってるの?」
「僕らのこと、へんてこな連中だって言ってるんだよ」
「僕らが変てこなら、あの連中も」
 ヘレンたち不審者に逃げる様子がないことを見て取った指揮官は、ゆっくりと馬首を巡らせて四人の異邦人を観察するように近づいて来た。その視線の鋭さにチェルニーは思わず顔を伏せた。ヘレンは観察されている仕返しのように、接近する者たちを漂う雰囲気まで眺め回した。不審者の探索という意味では警察の仕事だが、接近する男たちの風体は警官には見えず、兵士らしくはあるが小銃を手にした近代的な兵士ではない。指揮官が振り回す剣が木漏れ日を反射して輝いた。ヘレンはこれらの光景を一言で評するほか無い。
「まったく、ここはファンタジーの世界なの?」
 指揮官らしい男が威圧感を滲ませて問うた。
「何者か?」
「私はヘレン、こちらがヨゼフ、チェルニー、アダム」
 指揮官は馬上からアダムたちを見下ろして言った。
「見慣れぬ風体に、聞き慣れぬ名だ」
「祭りの日に、稀人(まれびと)が、流れ着きおったのでございましょう」
「なんとも、異形の者どもでございますな」
 彼らの会話は、馬上から見下ろすのみではなく、権力を笠に着てヘレンたちを見下す感情が流れ込んできて彼女たちの感情を逆撫でした。ヘレンは腹立たしげに言った。
「貴方たちは? 名乗りなさい」
「不審者に名乗る名などあろうものか」
 兵士の一人が刀を抜き、脅すようにヨゼフに向けた。手入れが良く鋭く研がれた刃先がヨゼフの肌に触れ、痛みさえ感じさせないまま傷を付け、生暖かい血の滴をぬるりと流させた。その血も刃も、まがいものではなかった。
「ほぉ、異形の者の血も赤いと見える」
「何をするの」
 ヘレンはケハヤと呼ばれた指揮官が手にしていた槍を掴んで、揺さぶって抗議をした。もちろん、ケハヤは槍を奪われまいと脇に引く。何度か力を入れたり抜いたり、槍を経由してヘレンとケハヤの呼吸が一致した。ヘレンはふと感じた。この男たちは武器や腕力を誇示していても、その駆け引きを知らないのではないかという事である。ヘレンはケハヤが槍を突きだす腕が伸びきった瞬間に、槍の柄をくるりと回しながら引いた。思いもかけない方向に力がかかって、ケハヤが握りしめる寸前に、手からするりと抜けてヘレンの手に移った。ヘレンは奪い取った槍の石突きで兵士の一人のみぞおちを突き、振り回した槍で二人の兵士を叩きのめして、叫んだ。
「殺さない程度に、ヤっちゃいなさい」
 奪った槍を投げ渡されたアダムは面食らっていたが、この場では黙って見ていられる状況ではなく、みぞおちを突かれたショックから意識を回復しかけている兵士を、槍を上下に振るって槍の柄で叩いて、もう一度失神させた。
 馬上のケハヤは一瞬のうちに三人の部下が叩きのめされて失神しているのは信じられないが、腕力自慢の自分の手から槍がするりと抜け落ちるように奪い取られたのも信じがたい。
「おのれら」
 ケハヤは怒りを込めて太刀の束に手をかけたが、ヘレンが槍を手放して武器を持っていないのに気づいて、馬から下り、両腕を広げてヘレンに挑みかかった。素手の相手に武器を使うというのは、この男の誇りが許さなかったに違いない。
「いい子ね」
 ヘレンはそんな言葉でケハヤのフェアな精神を褒めた。しかし、ケハヤは格闘技に通じているヘレンにあっさりと背に回られて、彼女の腕で首筋を固められた。気管や頸動脈を締め上げられたケハヤが気を失う寸前に、彼の耳元でヘレンが優しく囁いた。
「この勝負の記念に、貴方たちの剣を頂くわ」
 ケハヤはそのまま気を失った。ヘレンは仲間に失神した兵士の剣を奪うよう指示し、彼女自身もケハヤの剣帯と下げていた剣を奪って身につけた。
「さっさとずらかるわよ」
 そんな言葉とは裏腹にヘレンの歩みは落ち着きがある。チェルニーが見るところあの兵士たちが目覚めるまであと数十分はかかるだろう。その間に身を隠せばいいのである。
「ヨゼフ。顔の傷は?」
「脅しだったんだろう、たいしたことはない」
「アレが、警察か軍隊かは分からないけど、これで私たちはこの国の公権に逆らったお尋ね者よ」
 アダムたちは人の気配を絶つように、薄暗い雑木林に入り込んだ。当てもなく歩き続けた彼らは、まもなく、眩しい陽の光を浴びた。チェルニーは目の前に広がる景色に絶句した。
「どうしてこんなところに?」
 雑木林を抜けると幅の狭い砂浜があり、その先に一面に群生する芦の緑の穂先が風に揺らめくさまは波のように見えた。潮の香りに気づいて視線を上げるにつれて、芦原の緑の波が境目も鮮やかに海の波に変わる。
 沖合の見慣れない形の帆船を数えてみると十数隻。近くに港がある気配がした。空には海鳥がのんびりと飛び交っていた。中天にある太陽で時を推し量れば昼過ぎか。その影の角度から判断すれば、彼らは南北に長く続く干潟の海岸線を北に向かって歩いていた。
 影を辿るように眺めたヘレンは仲間を叱咤した。
「足跡を残さないで。追われるわよ」
 砂浜との境目の草むらを歩いて砂浜に足跡を残すなというのである。視界が開けた西側の海岸と、視界を遮る東側の雑木林の間を三十分ばかり歩いたが追っ手の気配がない。彼らは雑木林を背に腰を下ろし、葦原が風にそよぐ波とその先のまぶしく光る海を眺めた。
「あの衣服、あの髪型、日本の神話の挿絵に似ている」
 アダムがふとそう呟いた。
「神話の世界だとでも?」
 チェルニーの問いにヘレンが応じた。
「これほどリアリティのある神話があるもんですか」
「誰か、ここがどこか分からないの?」
 チェルニーの問いかけにヨゼフが提案した。
「ボクらのいた場所と何か接点が無いかな」
 接点というヨゼフが提示したキーワードに、チェルニーが言葉を指摘した。
「あの変てこな連中、日本語を話してたわね。言葉が通じたわ」
 ただし、言葉で意志を交わしたという感覚が何故か薄く、彼女自身首を傾げている。ヘレンは手にした剣を少し抜いて、その刃を太陽に反射させて眺めた。
「私、美術館で本物の日本刀を見たことがあるんだけれど、刀身が美術品のように綺麗で魅力的だった。でもこの剣はどぉ?」
 確かに、鞘は手の込んだ作りで、職人の仕事ぶりや剣の価値が伺える。ただその鞘を払ってみた刀身はどうだろう。アダムのような刀剣の素人の目から見ても作りが荒く、刀身の脆弱さを補うように幅が広く厚みのある刃物である。
「では、ここは日本ではないか、日本刀が作られる以前の日本のどちらかと言うことだ」
「それは矛盾するわ。日本ではないなら言葉が通じるはずはないし、日本刀が作られ始める以前の古い時代でも、現代の私たちの日本語なんか通じないわよ」
「では、こんな剣を持ってる人がいるというのは、ここが日本ではないと言うこと?」
「銃刀法違反。そもそも、現代の日本で、許可もなくこんな剣を持って彷徨いてたら、ブタ箱行きだよ」
「分かったことは、ここが僕らが居た日本ではないと言うことだ。大事なことは、ここがどこで、どうやったら帰れるのかと言うこと。誰か他の情報は?」
「なにも、無いわ」

 目の前の景色を説明する事は出来ず、仲間は再び立ち上がった。この場所でじっとしていても仕方がないことは皆分かっていた。歩き続けると、やがて前方に多数の白木の建築物が見えてきた。人の姿がかいま見えたため、ヘレンは仲間に注意を促した。
「林の中に隠れて様子を見ましょう」
「何の施設だろう」
「兵士じゃなさそうね」
 雑木林に身を潜めながら前進を続けると、やがて彼らはその雑木林が途絶える地点にたどり着いた。木の陰に身を潜めながら様子を窺うと、北の方は開けて見晴らしが良い。そこに多数の見慣れない衣服の人々が見えた。数多くの白木造りの建物に荷を担いで入ったり出たりを繰り返していて、アダムは何かの倉庫とそれを管理する役所だろうと見当をつけた。
「人の数は多いけど、武器を持っている様子はないわね」
「武器は持っていなくても、敵だったらどうするの。大勢に囲まれたら逃げ切れないわ」
「そうだね。今は近づかない方が良さそうだ」
「樹に隠れてこの斜面を上がってみましょう」
 雑木林がきつい斜面に沿って広がっていた、この斜面の上ならもっと別の情報が得られるだろう。その斜面を登り切った辺りで雑木林が南へ延びる街道で分断されていた。街道の左方向は西へ折れて、先ほどの倉庫群に続いているらしい。北の方向に分岐する細い道があり、街道の向かい側の草原や雑木林を縫って北へ延びているように見えた。ヨゼフが辺りを見回した。
「どちらに行く?」
「分かっているのは、ここに留まる事はできないということよ」
 ヘレンはそう言って、街道上の疎らな人影が途絶えるのを待った。彼らは街道を渡り、北に向かう小道を辿った。アダムが時計を確認すると、時間は午後四時を回っており、彼らの時が適用できるなら、この世界にやってきて三時間が経過している。
「ああっ、腹が減った」
 ヨゼフが素直に空腹を訴えたのをヘレンが叱りつけた。
「緊張感のない人ね。まず安全な場所を確保するのが先よ」
 チェルニーは空を見上げて今夜の宿を考えた。たしかに、あと三時間もすれば日が落ちる。宿を見つけなければ、この得体の知れない世界で月や星を見上げて野宿になるだろう。
「私、慣れた枕でないと眠れないタチなの」
「命を無くせば、枕無しでもぐっすり眠れるわよ。永遠にね」
 ヘレンの脅しと同時に、彼らの背後で物音がしたために四人は緊張し、ヘレンとアダムは剣の束に手をかけた。しかし、直ぐにその手の緊張を解いた。背後に姿を現したのは、危害とは無縁の幼い男の子である。
「和ちゃん」
 チェルニーがそう呼んだほど、和ちゃんに似ているが、ヨゼフは彼女を制した。その男の子から、初めて眺める珍しい人物たちに寄せる好奇心が伝わってくる。好奇心を滲ませるという雰囲気で、和ちゃんそっくりと言っても良いのだが、やや長めの髪を後頭部で結っていた。着用する衣服は膝までの丈があり、襟周りは着物のように見えるが、その袖口は大きく開いて、可愛い腕が肘の辺りまで見えている。その髪型や衣服は別人に違いない。
「脅かしちゃいけない。そっと」
「そうね」
「ねぇ、ボク。どこから来たの?」
 男の子はチェルニーに答えるように、右手の方向を指さした。やや上向きになった腕の角度が、男の子の家までの距離の長さだという雰囲気が漂っていた。男の子が素直な笑顔で尋ねた。
「オバちゃんたちは、どこから来たん?」
(おばちゃん?)
 チェルニーはその表現に眉を顰めたものの、回答を求めて仲間の顔を振り返って眺めた。なんと答えればいいだろう。ここは午前中まで彼女たちが居た大阪とは隔絶された世界らしく、「大阪」から来たと言っても男の子には通じないかも知れない。ただ、現実との接点を求めて推し量るためには、その町の名を基準にせざるを得ない。
「日本橋って、知ってる?」
 そんなヨゼフの言葉に男の子は首を横に振った。ヨゼフは質問を重ねた。
「じゃあ、ここは大阪どの辺りなんだい?」
「おおさかって何? おっちゃんは何処から来たん?」
 幼児が返す質問に、大阪を起点に位置を推し量っていたアダムたちは曖昧な返答をせざるを得ない。
「僕らは、ずっと、ずっと、遠くから来たんだ」
「ボク、知ってるねん」
 男の子の言葉に、アダムたちは顔を見合わせ、四人同時に尋ねた。
「何を?」
「今日は、あなた達が来る日やねん」
 当然のことのように男の子は言い、チェルニーが重ねて尋ねた。
「どうして知ってたの?」
「おじいちゃんがそう言うててん」
「そのおじいちゃんのところに連れていってくれる?」
 アダムの頼みに男の子は表情を輝かせて聞いた。
「来てくれるん?」
「もちろん」
 仲間の同意を取り付けるように顔を見回したアダムがそう言った。
「ボクのお名前は?」
 チェルニーの質問に男の子は無邪気な笑顔で答えた。
「ワクウ」
 アダムたちは顔を見合わせた。聞き慣れない名だと思ったのである。しかし、今はこの初対面の幼児を頼るほかない。
 ワクウは散歩する子犬のような無邪気さで、気まぐれにアダムたちの周りを回ったり、村の方向に駆けて姿を消してみたり、周囲に広がる草むらの中に隠れてアダムの背後に回ったりした。その様子はいかにも子どもらしく、見ていて微笑ましい。この子を慈しむ父母や周囲の人々の人柄までかいま見える。
「でも、見ればみるほど、和ちゃんに似てるわね」
「本当」
 触れあうほどの距離で眺めると、肩の辺りまである髪を、浅葱色の飾り紐で束ねていて、その紐の端が首の辺りでゆらゆらと揺れていて可愛らしいが、ワクウがにじみ出させる無邪気な雰囲気が、衣類や髪型の違いを覆い隠すようで、和ちゃんとの類似点のみ目立つのである。ヨゼフが囁くように言った。
「ここがどこかと言うことだけじゃなくて、行方不明の和ちゃんとマリア、エイモスも探さなきゃね」
「でも、ちゃんと道路を通って案内して欲しいわね」
 チェルニーの言葉にアダムたちも笑った。歩くに連れて、美しい変化に富んだ自然や、人の手が入った景色が入れ替わる。ワクウが背伸びをして草むらの向こうに眺める景色に畑らしき地形が見え、草むらに踏み込む一歩ごとに、この子どもに平穏を乱されたトンボが飛び交い、バッタが飛び跳ねた。
 この子は道に拘らない質のようで、思いつくまま様々な自然に踏み込んで行くのである。
「この子、どうしてこんな所に一人で居るんだい」
 アダムたちの世界に当てはめれば、幼稚園児という年齢ではあるまいか。そんな幼い子が、どうしてこんな人気のないところを彷徨いているのだろうという疑問である。この疑問が新たな女の声で晴れた。
「ワクウ」                                    
 男の子の名を呼ぶ女の声がし、長い髪を首筋で纏めた清楚な白い衣装の女が姿を見せた。名を呼ばれたワクウが寄り添い甘える様子から、ワクウの母親らしいと分かった。この子はこの母親に連れられてやって来ていたに違いない。
「マリア」
 チェルニーの呟きをアダムが否定した。
「いや、マリアじゃないよ。衣服や髪型が違う」
「じゃあ、誰?」
 化粧っ気がないという点ではマリアと同じだが、日本橋へ出かけたときのマリアの衣服は涼しげな薄手の生地の青いワンピースだった。目の前の女性は木綿らしい質素な衣類で前あわせの部分を左肩の辺りで紐で結わえて閉じていた。衣服がはだけないよう腰の辺りを括っているのはベルトではなく、ただの紐である。襟元が大きく空いていて風通しが良く涼しそうだが、その衣類の形はワンピースではない。
 四人が女と幼児に首を傾げるのと同様、女も首を傾げてワクウから何かを聞いていたが、振り返って事情を察したように言った。
「ようこそおいでくださいました。どうぞ、ご案内します」
 初対面と言うことを感じさせない言葉だった。アダムはふと気づいたように女に語りかけた。
「ミウォ ミ チェ ポズナチ(はじめまして) マム ナ イミェ アダム (私はアダムです)」
 仲間は首を傾げた。アダムが発したのは、仲間同士の会話の共通語として利用している日本語でもない。ポーランド語の意味は聞き慣れず、アダムが不可思議な呪文でも唱えたように思ったのである。一瞬、間をおいて女が挨拶を返してきたために、仲間はアダムが発した言葉が、名を名乗る挨拶だったと気づいた。
「申し遅れました。この子はワクウ、私はノユリと申します」
 女は振り返って立ち止まり、笑顔で挨拶したが、それ以上詮索する気はないらしく、再び彼らを導くように歩き始めた。ヘレンたちは名乗る機会を逸した。ノユリの態度には名前や出自など無関係に歓待するという人の良さがある。この女性はアダムの仲間さえ知らないポーランド語で発した言葉の意味を、正確に理解して返事を返してきたのである。アダムはこの世界の理の一つを確信した。
 ワクウは母親の手かごの中の草をつまみ上げて、アダムたちに掲げて見せて、教えるように言った。
「つきくさ」
 深い蒼の花びらを二枚つけ黄色い花粉をつけたおしべのコントラストが美しい植物である。ノユリは息子が植物の名を正しく記憶していたのを褒めるように、頭を撫でてアダムたちに説明をした。
「まだ、今年の春は暖かいので、もう、咲いていそうだと思ったんです」
 その説明と笑顔だけで彼女は再び歩き始めた。アダムたちがツキクサがこの世界の薬草の1つだと言うことを知るのは、数日後である。ノユリが導く行く手を遮るように川がみえ、小舟が係留された小さな船着き場に到着した。ノユリはこの川を渡るという。幅二十メートルはある川だったが、ノユリはヘレンの申し出も断って、竿を操って客人を乗せた舟を対岸に着けた。その慣れた手つきに、この人物がマリアに似ていてもマリアではなく、この土地で生きている女性だと認識を深めることになった。

 川の対岸は、更に自然豊かな場所のようで、視界を妨げる背の高い雑草の茂る草原の間を縫う道が続いた。突然に視界が開けたと思うと、不規則な土手で区切られた黒々とした土の地面が一面に広がっていた。ただ、この世界は乾期の最中でもあるのか、地面は乾燥してひび割れが広がっていた。
「芝生なの?」
 ヘレンがそんな感想を述べたのは、日当たりの良い土が露出する地面の一角で、ここだけは水気を感じさせる四角く区切られた場所で、土地を緑に染めるほど密に若草が茂っていた。人工で育てられている事が伺える。その景色の正体を突き止める間もなく、彼らの興味は流れ聞こえてきた笛の音に囚われた。
 楽しげなメロディが彼らを包んだ。笛の音に合わせて拍子を取る木を叩き合わせるような音が加わり、周囲は賑やかになってきた。
「祭りなのか」
 ヨゼフの考えを裏付けるように、仮面をかぶった者たちが踊っている姿が見えて、不可思議な世界を演出していた。集落の家の間を抜けると広場があり、古い樹木に藁で編んだ縄飾りが下げられていて、この樹木が祭りの中心だと分かった。
 突然の闖入者を眺める村人の間に、声が広がった。
「ノユリが客人を招いてきた」と、
 不可思議な者を眺める視線だが、敵意はなく敬意すら感じさせた。アダムたちは事情が飲み込めないまま、周囲の人々に愛想のいい笑顔を振りまきながら、村人たちの輪に入って行かざるを得ない。
 チェルニーは、父親の仕事をもじってヘレンを海兵隊女と呼んでいる。事実、彼女自身格闘技にも通じていて、戦闘的な雰囲気を漂わせているのである。チェルニーの見るところ、その海兵隊女がこの不可思議な場所で仲間内の誰よりも警戒心を解いてしまっていた。それほど、この村人たちの歓迎ぶりは自然に心に染みた。
 ノユリが導いてきた終着点に一人の初老の男が居た。身なりは周囲の人々と大差はなく特別な装飾品を身につけているわけではないが、祭りの中心の神木と正面から向き合った座についていることと、包容力を感じさせる人柄でこの場を仕切る人物だと知れた。ノユリはアダムたちを振り返り、初老の男に紹介した。
「お父さん、お客人をお連れしました」
「よくまぁ、来られた」
 どこから来たとか、誰かとは聞かない、まるで彼らの来訪が予定されていたかのように新たな人々を迎え入れたのである。
 地面に敷いた敷物の上に客人を迎える座が設けられ、何かのドライフルーツや液体を満たした壺が供された。
「酒だわ」
 ヘレンが壺の中の液体の香りを、くんっと嗅いで確認し、椀になみなみと満たして一口味わった。
「いきなり、大丈夫なの?」
 そう尋ねるチェルニーにヘレンが感想を述べた。
「ちょっと酸っぱいけど悪くはないわ。どう? 貴女も」
 チェルニーは、持てなしを受けてくれることを期待する村人たちの好意的な視線を浴びているのに気づいた。ヘレンから差し出された椀を飲み干さざるを得ない。ヨゼフはワクウから渡されたドライフルーツを味わって、干し柿だと確認し、アダムにも勧めた。
 笛の音と拍子木の音がやや激しくなると、神木の前にノユリが登場し、両手に持った緑の葉を茂らせた枝を手にして舞い始めた。人々は舞に合いの手を入れ、酒に酔い、舞に酔った。
「桜の樹か」
 アダムは縁に小さなぎざぎざのある小さな葉を眺め、驚きと共にその発見を口にした。薄紅色の花を満開に付けている樹木というイメージがあって、若葉を茂らせている時期の桜にそれとは気づかなかったのである。ノユリの舞がその生命感を称えているようにも思われた。ノユリの舞に教えられたように、この樹木を眺めてみると、確かに、花の時期の後、枝ばかりの姿を晒す木に、いつの間にどこから吹き出すほどの若葉が生じるのだろう。この集落の人々はその美しい生命感に触れる感性を持っていた。
 四人の頭の中が、祈りの言葉や豊穣の願いで満たされた。村人たちの思いが乱れて心の中に流れ込んでくると言う感覚である。この村の人々が桜の生命感を通じて豊穣を願う祭り。踊りに興じる人々から、秋の稲穂が豊かに実るイメージが伝わってくる。
「みんな、この世界で生きて居るんだね」
「生きていくって、どの世界でも凄いことなんだね」
「一種の生きたカレンダーなのかしら」
 チェルニーは桜の樹をそう思った。満開の花を咲かせる時期の種まき、若葉を茂らせる時期には田起こしをして水田に水を引いて稲の苗を植える。そう言う目安にしているらしい。祭祀とも祭りとも付かぬ行事は、田起こしの直前に、今年の豊穣を祈る行為なのである。宗教色が感じられず、何かに祈るというより、希望を大自然に願うようにも見えた。その願いの日に、見慣れない客人が現れたという状況だった。アダムは日本で学んだ知識の一つを思い出した。
「古代日本ではマレビトと言って、祭りに異邦人がやってくるのを歓迎する習慣があるんだ」
 酔いが回って顔が赤く心地よく酔ったチェルニーが答えた。
「さっき、あの子が『あなた達が来る日』と言ったのは、この事ね」
「雨を降らせろと言われているような気もするわね」
 ヘレンが言ったとおり、ノユリの舞を眺める人々から、長く続く日照りの不安と、異邦人の来訪に雨を期待する切実な気持ちが伝わってきた。
「この人たちの期待に応えられたら良いんだけど」
「残念ながら、私たちは魔法使いじゃないのよ」
 チェルニーの言葉に残念そうなニュアンスがあり、実際、アダムは雨の魔法が使えるなら、この人たちの願いを叶えて雨を降らせていただろうと思った。
 ノユリの舞に村人たちが加わって、桜の樹とノユリの舞を囲む村人たちの踊りの輪が出来た。ヨゼフはこの種の騒ぎには心が騒ぐ質で、笛の音に合わせて足でリズムを取っていたし、ヘレンも酒の勢いか村人たちにとけ込んで、手を叩きながらリズムを刻んでいた。ワクウが二人の手を引いて村人の踊りの輪に誘った。
 ヘレンに手を引かれたチェルニーも立ち上がり、アダムに手招きしたためにアダムも踊りの輪に加わらざるを得ない。元来、冷静さを保ちたがる性格だが、この時は村人たちの感情に心が躍らされ、村人たちの動きを真似て踊るアダムにも、笑顔が浮かんでいた。
 そこには村人たちと客人の間に垣根はなかった。この国の人々と涙や笑顔を共有する一体感がアダムたちを酔わせた。不思議なことに、アダムたちはノユリとワクウ以外の名前は知らず、村人たちの大半も客人の名を知らない。文明国では名を名乗り合うという当然の儀礼が、ここでは通用せず、むしろ人が心を通わすのに、人を区分する名など不要ではないかとさえ思わせた。
 陽が落ち、周囲がすっかりと暗くなる頃に、踊り疲れ、空腹も満たし、酔いも回ったアダムたちの宿泊に一軒の家が割り当てられた。
 土間から上がる板張りの床に、屏風のようなつい立てて仕切られて二組づつの寝具が敷かれていた。案内役のワクウが、土間の端に置かれた柄杓で水瓶から水をすくって見せて、飲み水の存在を教えてくれた。ノユリは戸口の上に巻いてあった簾を降ろして外と中を仕切るドアの代わりにし、ぺこりとお辞儀をして姿を消した。
 窓はつっかい棒を外せば、板が降りてきて視界を遮り、外を眺めためのものではなく、明かり取りや換気の役割を果たしているだけである。換気と言っても戸口に簾がかかっているだけで大きく開かれていて、戸口の簾を通して外から光が射し込んでいた。
 差し込む光を求めて戸口の簾を開けて空を眺めたチェルニーが言った。
「綺麗な月だわ」
「本当だ」
 空にくっきりと浮かんだ満月が、相づちを打つアダムの表情が判別できるほどの光を放っているだけではなく、透き通った大気は信じられないほどの数の星の輝きを見せていた。風は土や草の香りを運び、豊かな自然の姿を伝えた。赤子の泣き声が漏れ聞こえて来たが、泣き声が穏やかに薄れる様子に、子を抱く母が赤子をあやして乳を含ませる姿が想像できて微笑ましい。チェルニーが今日を締めくくる言葉を吐いた。
「明日は、なんとか、帰る手がかりを見つけなきゃあね」
「帰りたい?」
  ヨゼフの問いに返事を返すものが居ない。帰らなければいけないことは分かっていてもこの世界や人々を否定する気にはなれなかった。アダムたちが居た世界の喧噪とは無縁の平和な村だった。
「灯りを消すわよ」
 ヘレンの言葉の直後に、家の中は闇に包まれ、ヘレンが吹き消した不完全燃焼の油の香りが漂った。この家の灯りは貝殻に満たした油に灯心を浸した原始的なランプである。こんな灯り一つにしても、アダムたちが居た世界とは大きな違いがあった。
「でも、言葉は通じたよな」
 ヨゼフはせめて日本のどこかであれば、帰る手がかりも見つかるだろうという言うのである。アダムは厚い布にくるまって横になりながら、傍らのヨゼフに言った。
「ノユリさんが、ボクに名乗ったときのこと覚えてるかい?」
「俺には理解不可能な、君のあの言葉かい」
「僕らの話し言葉が、彼らに通じている訳じゃないんだ」
「なるほど」
「それに、さっきの祭り。村人たちの意識を感じなかったかい」
 ノユリと出会った時のこと。この村の祭りに出来事。アダムは確信を込めて続けた。
「僕たちが考えたことが、感情と一緒に彼らに伝わってるんだ」
「一種のテレパシー? 言葉じゃなく考えが伝わってるって」
「試してみよう」
 アダムは念を込めるように、じっと黙りこくって考え込んだ。
(確かに)とヨゼフは思った。
 アダムが想像するチェルニーとヘレンの艶めかしい姿が伝わってくる。まるで、彼女たちの肌の柔らかさや体温まで感じるようなリアルな想像だった。突然、衝立の向こうから怒りの声と共に椀が飛んできた。
「あなた達、こっちを覗かなかった?」
 女たちはまだ自分たちの便利な能力に気づいていないらしい。この世界では、アダムたちの感情や思考が、言葉を発するように伝わるのである。この世界の人々と意志を交わすことが出来るというのは、彼らがこの世界で生きる上で手助けになるだろう。
「ドブラノツ(おやすみなさい)」
 アダムは突然のヨゼフのポーランド語に驚いたが、ヨゼフは言葉の訳を明かした。
「長いつきあいだ。この程度のポーランド語は知ってるよ」
 チェルニーの寝息が、ついたて越しに聞こえる。今日一日の出来事で疲れ切っていたのだろう。物事に動じないヘレンのおしゃべりもやんでいて、くつろいで眠ったらしい。ヨゼフもだらしなく口を開けた表情で、寝息を立て始めた。その表情は警戒心を解いてこの世界に身を任せたように見えた。
「僕らがここに来たのは、どんな意味があるんだろう」
 アダムはそう呟いたが、やがて、彼もまたわき上がってきた眠気に包まれた。この村の人々の邪気のない親切は、異邦人の心を解きほぐし、この地の一員として村に迎えていたのである。

 



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