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プロローグ

 幼い頃に眺めた空と変わることのない星空は、悠久の時の流れを思わせた。一人の女がその悠久の彼方に腕を差し伸べるように掲げた手に、小さなメダルがあり、月の光に照らされて六芒星の紋章が浮き上がっていた。言うまでもなく、ユダヤの民族や神を象徴する印である。
 しかし、メダルと同じく月の光に照らされた女の面立ちは、大きな目や、彫りは深いがすらりと通った鼻立ちなど、細部にユダヤの人々との違いが見て取れる。中央アジアの血筋だろうか。
「母さん」
 女にそう呼びかける人影がある。母親は振り返って息子の名を呼んだ。
「サミュール」
 それだけだった。会話は途絶え、闇の中に照らされる姿だけが二人の存在感になっていた。会話の必要はなかった。母は夜が更けるのを心配して迎えに来た息子の心情を察している。息子もまた、広大な水面の向こう岸で戦った夫の姿をメダルに求める母の心情に気づいていた。息子は持ってきた木綿の布を母の肩に掛けた。
 背景にとけ込んだ二人の姿は美しい。しかし、やや不思議なのは、その母と子の出自から連想される椰子の木がまばらに生えるオアシスではなく、水や緑豊かな土地を背景にしていることである。
 ただ、神々がこの二人に約束をした豊饒の土地であるにしては、母と子の表情にどこか悲しみが漂っていた。


一章  1

 川は流れて、人や歴史とともに変化する。大阪平野を分断して流れる淀川も、幾たびもその流れの筋を変えているという。およそ百年前、その河口近くに人の手が加わって、新淀川と名を変えて海に注ぐようになった。ただ、現在も古い淀川の流れが、大川と名を変えて残っている。川岸には桜並木が続き、大阪の花見の名所の一つである。
 自転車で走るマリアの髪を、川岸の風が涼やかに靡かせた。
(まるで、時の流れのよう)
 彼女はそう思った。ほんの一月前まで、この辺りは、満開の桜の花を通して薄紅が差すような陽の光が降り注いでいた。散り落ちる桜の花の時期を終えて、枝ばかりになっていたはずの桜が、五月中旬というこの時期には、若々しい葉を生い茂らせて、これから迎える夏を前に涼しげな木陰を作り、緑の並木道に変わっていた。そのたおやかな躍動感に満ちた、生命の流れはどうだろう。
 彼女はいつかこの生命感を描きたいと思った。彼女は童話作家になる夢を抱いて、学費を稼ぐために、曾祖父母の生まれ故郷の国にやってきた。日本人だと言えば通用しそうな顔立ちの中、その大きな目に南米の人が漂わせる楽天的な好奇心もにじませていた。

 そんな彼女を人々が見つめたり、すれ違いざま振り返ることがある。日本人の面立ちの中に混じる異国の雰囲気に、首を傾げているのである。今も、母親に手を引かれる幼い女の子が、信号待ちをしているマリアの顔を見上げた。
「ブェノス・トラディス。こんにちわ」
 彼女は自分の出自を明かすように、母国語と日本語を並べて挨拶をした。少女は自分の疑問が解けたようで、笑顔を浮かべてはにかんでいたが、母親に促されて小さな声で可愛らしく返事をした。ただ、挨拶の末尾に余計な一言がついている。
「こんにちわ、おばちゃん」
(おばちゃん? なんでやねん。私はまだ二十一よ)
 青信号。マリアはペダルを踏む足に力を込め、笑顔で背後を振り返って、手を振る少女に、心の中で抗議をした。考えてみれば、日常生活の中に、生真面目な喜劇が織り込まれてゆくというのは、この土地の風情で、ペルー生まれでペルー育ちの彼女の父も、曾祖父を通じてその気質を持っていた。
 面白かったら何でもええねん。多様性やら寛容性が好奇心によって身に染みつき、様々な人や文化が行き交い、この都市と人々は変化を続けている。ただ、変わらず続く心の芯があるらしい。

 アパートへと辿る道の半ばに、周囲を仮設のビニールの壁面に囲まれた工事現場があった。変わりゆく街の中で、取り壊されて運び出される瓦礫が、元はどんな建物だったのかという記憶は薄れ、これから建つ建築物への期待が高まる。
 唸りを上げて地を揺るがす巨大な重機群と、大型のダンプカーで頻繁に運び出される土砂で、大がかりな工事が行われている様子がうかがえた。
(いったい、いつの時代を掘り起こしているのかしら)
 マリアはすっかりファンタジー気分に染まっていた。この歴史のある土地で、あの重機はいつの時代に到達し、ダンプカーが運び出す土砂はいつの時代のものだろうと考えたのである。彼女は楽しい想像に包まれて工事現場を背にした。
 その工事で掘り起こされた土砂の中から現れて、きらりと光るメダルには誰も気づいていない。その側に何かの影。淡い影は男がメダルを拾い、懐かしむように抱きしめているように見えた。

 


 アパートの玄関でスリッパに履き替えるマリアは、下駄箱に並んだ入居者の靴で、在宅者を判別した。夕食の前後に、気の合う入居者たちが、階段を上がりきったところにある空間で、雑談をする日課である。マリアはそんな雑談の仲間を思い浮かべたのである。
 この時、長らく入居者の居なかった二号室から、幼児が玄関に人の気配を察して顔をのぞかせた。マリアは笑顔でその理由を尋ねた。
「偉いわね。おじいちゃんのお手伝いなの?」
「新しい人が入るんやて」
 そう答えたのは、この瓢箪荘の管理人の孫の和ちゃんである。幼くて本当に役に立っているかどうかは疑わしいが、祖父を真似て濡れぞうきんを手にしていて、祖父の掃除を手伝っているつもりなのである。契約が決まった入居者を、部屋を清掃してから迎えようという、管理人の心配りなのだろう。
「どんな人なの?」
 マリアの質問に、和ちゃんはちょっと首をかしげて考えた。
「遠くから来た人」
 幼い和ちゃんから得られる情報はその程度のものらしい。
「優しい人だと良いわね」
「うんっ」
 マリアは二階の自室へと階段を上りながら思った。
(お父さんやお母さんが生きていたら、どんなに良かったか)
 明るく無邪気で、父母が居ない暗さを感じさせる事はない子だが、同世代の子どもより、常に大人の傍らに侍っている様子がある。寂しさを口にするのを聞いた事はない。ただ、妙な人なつっこさがあり、アパートの居住者たちに父母のイメージを重ねて慕って甘えているらしいのである。マリアは振り返って言った。
「後で、二階へいらっしゃい。絵本を読んであげる」
「うんっ」
 マリアが二階へと姿を消し、和ちゃんは仕事に専念することに決めた。おじいちゃんは渡された雑巾から、和ちゃんの力で絞りきれない水分を絞り、黙って窓を拭いた。やや時間をおいて、玄関のドアの向こうから、和ちゃんの愛犬が吠える声が聞こえた。甘えるようにはしゃぐ愛犬の声で、帰ってきた人物が判別できた。いつも帰ってくると玄関で犬を撫でてやるのである。和ちゃんの予想通り、入居者の一人、トルコ人のジェスールだった。
「へぇ、お手伝いか。偉いぞ」
 彼は大きな体のわりに小さすぎるスリッパに履き替えながら、和ちゃんを褒めた。しかし、入居者の居ないはずの部屋を掃除する意図に首を傾げるジェスールに、和ちゃんが回答を与えた。
「新しい人が入るんやて」
「どんな人だい?」
 ジェスールの問いに、和ちゃん少し首をひねってから、知っている情報を披露した。
「男の人」
「そうか、女の人じゃないんだな」
「うんっ」
 ジェスールは頷く和ちゃんを残して階段を上がりながら、この子がアパートの女たちの偏った性格の影響を受けずに済むようにと祈った。素直で住人たちの仕草や言葉をいつの間にか身につけている子である。
 二号室の中では、管理人が拭き残したところが無いかと、部屋の中を見回して居た。和ちゃんもその傍らで祖父を真似て部屋をぐるりと見渡した。
 この時、玄関先に新たな帰宅者の物音が響いた。その軽やかなサンダルの足音で、和ちゃんは帰宅者が二階に住むタイ人女性チェルニーだと知った。思いもかけない部屋から顔をのぞかせた和ちゃんに、チェルニーは首を傾げて笑いかけた。同じ質問を何度受けたか分からない和ちゃんは、チェルニーから質問を投げかけられる前に返事をした。
「新しい人が入るんやて」
「そう、どんな人なの?」
「外国から来た、男の人やねん」
 チェルニーはそんな情報を受けながら二階へと足を運んだ。彼女がこのアパートにやってきて既に六年になる。彼女が日本に来る時に、この瓢箪荘を勧めたのは、日本に留学経験のある彼女の母親だった。人柄の良い管理人が居る。そういう理由である。確かに、彼女の母は、当時の瓢箪荘の管理人に、親に感じる親近感を感じ、その息子の慎一には弟のような親しみを持っていたらしい。チェルニーが来日してみると、母親が語ったとおりの夫婦だった。和久と名付けられたひ孫が生まれた喜びを、チェルニーに語って聞かせた事を覚えている。和ちゃんの誕生を伝え聞いたチェルニーの母も、まるで自分の孫が生まれたように喜んでいた。
 そのチェルニーの母が知る管理人夫婦が、孫夫婦の誘いで温泉旅行に向かった時のことである。急な仕事で参加できなかった慎一を、一人残して出かけた家族を不幸な事故が襲った。居眠り運転のトラックに衝突された乗用車は大破して、奇跡的に生き残ったのが母親の腕に大事に抱かれていた赤ちゃんのみという痛ましい事故である。
 現在の管理人の慎一は、両親と、妻と、息子夫婦を同時に失ったのである。彼は残された孫を育てるために勤めを辞め、このアパートを引き継いだ。
 幸か不幸か、事故当時に赤ちゃんだった和ちゃんには、そんな悲劇の記憶はないだろう。その和ちゃんが、来年には小学生になると言う。チェルニーはその成長ぶりを思い出して感慨深い。彼女は悲しい思い出に背を向けるように、二階の自室へと足を運んだ。
 慎一の掃除と和ちゃんのお手伝いは終わって、管理人はドアに鍵をかけた。後は、玄関の先の水道でぞうきんを洗えば終わりである。和ちゃんがバケツを下げた慎一のために玄関のドアを開けた時、アダムとヨゼフが連れ立って帰宅した。日本の文化や民俗学を学ぶポーランド人アダムと、電気工学を学ぶタンザニア人ヨゼフ。生まれも、学ぶ学問も違うのに、気があって仲が良い。ヨゼフが声をかけた。
「おじいちゃんのお手伝いかい?」
「うんっ。お掃除が終わったとこやねん」
「お掃除?」
「二号室に、外国人の、男の人が、住むねんで」
 和ちゃんとヨゼフの会話が、アダムの耳に入っていない。彼の興味は別にあり、和ちゃんに質問した。
「マリアさんは、もう帰ってるのかい?」
 アダムは目ざとく、靴箱にマリアの履き物を見つけたのである。
「うんっ。今日はアルバイトがあれへん日やねん」
 マリアは普段は仕事から帰った後、早めの夕食を摂ってから近所のコンビニでアルバイトをする事がある。和ちゃんは今日はその日ではないというのである。アダムはその返事に納得した。
「そうか」
「あらっ、お掃除は終わったのね」
 奥の部屋からヘレンが出てきて和ちゃんの頭を撫でた。今日はスポーツジムのインストラクターの仕事は早めに終えて、部屋でくつろいでいたのである。その流暢な言葉だけを聞いていると、彼女の金髪と青い目は想像しがたいが、海兵隊員の父親を持つ沖縄育ちのアメリカ人娘である。
「はいふぁいぶ」
 和ちゃんはおまじないのように唱えて、ヘレンが肩の辺りにかざした手の平に、背伸びをするようにして自分の手の平を合わせた。最近の二人の挨拶なのである。ヘレンは笑いながら応じると二階へと向かった。この時間、二階には雑談する仲間がいるはずだった。
 ヘレンが階段の半ばで振り返ってみると、和ちゃんがアダムやヨゼフに甘える様子は子どもが父親に甘える姿をイメージさせた。瓢箪荘の住人に父親のイメージを見ているのだろう。ヘレンの見るところ、父親像に力強いイメージを求めるときはジェスール、父親らしい優しさや包容力ではヨゼフ、将来を見通す理性で人生の指針を示してくれる父親像という点ではアダムというところか。

 和ちゃんがアダムの顔を見上げて、中断していた会話を再開した。
「アダムさんって、マリアさんのこと好きやのん?」
 ヨゼフが笑った。あまりに核心を突いた質問に、アダムが面くらい戸惑う様子がおかしかったのである。アダムは片膝をついて和ちゃんと視線を合わせた。
「大人って言うのはね、事情が複雑ななんだ。和ちゃんなら好きな人に素直に好きって言えるだろう」
「うんっ。ボク、マリアさん、大好き」
「でも、大人になると、なかなか言えなくなるんだ。『マリア、君が好きだ。君を見るたびにこの胸が高鳴る』ってさ」
 和ちゃんに答えるという体裁を装いながら、アダムは自分の優柔不断さを慰めてもいた。ただ、胸が高鳴るという表現が和ちゃんには難しすぎる表現だった事には気づいていない。しかし、アダムが胸に当てた手を動かして心臓の鼓動を表す仕草を見て、和ちゃんはその言葉の意味を理解したらしい。
(やはり、子どもは気まぐれだな)
 アダムがそう感じたのは、アダムの深刻な言葉をかみしめる様子もなく、和ちゃんが階段を登り始めたからである。
 その和ちゃんは、階段の中程で足を止めてアダムを振り返り、握った拳に親指を上に立てて見せた。万事了解したから任せてくれという意味らしく、ヘレンが和ちゃんに教えた仕草だろうという想像がついた。
(しかし、何を了解したんだ?)
 階段に足をかけて二階を見上げると、二階の空きスペースにいたマリアに語りかける和ちゃんの姿が見えた。アダムはごくりと唾を飲み込んだ。今まで吐き出せなかった思いを、和ちゃんが代弁して伝えてくれているらしいのである。
 突然の出来事に混乱したが、和ちゃんが無邪気で愛らしい天使にも見えた。事態を察したヨゼフが、アダムの背を叩いて目配せをしたのは、準備は和ちゃんが整えてくれた。あとは自分で最後の一押しをしてこいと言っているのである。アダムは荒くなった呼吸と動悸を押さえるように、胸に手を当てて柔らかく揉むように撫でた
 しかし、再び見上げたマリアの様子がおかしい。大きな目をもっと大きく見開いたマリアが、信じられないもののを見つめるように、胸を揉む仕草のアダムを凝視しているのである。その表情には全く好意が感じられず、マリアの傍らで、アダムが胸をもむ仕草を眺めていたらしいヘレンとチェルニーは、露骨に怒りと侮蔑の表情を向けていた。和ちゃん自身はこの事態がよく理解できずに、女たちを眺めて、胸に手を当てながらぽつりと繰り返した。
「だから、アダムさんは、マリアさんのおっぱいが大きいから好きやねんて」

「ボクは……、ここが、大阪だってことを忘れていたよ」
 真面目な人生が突如として喜劇になると言うことを、アダムはそんな表現で言った。女たちの誤解が解けてみると、アダムが言った「胸が高鳴る」という言い回しを正しく理解できず、また、聞き慣れない言葉を正しく伝えられなかった和ちゃんが「おっぱいが大きい」と分かりやすい表現に変質させたことがわかった。
 アダムの人柄は誠実で、和ちゃんの親切には感謝しつつ、自分の表現が足りていなかったと自身を省みる冷静さがあった。思わぬ事態を子どもの責任に転嫁して怒りを向ける事はなかった。その点、傍らで見ていたチェルニーやヘレンには、アダムという男は好感が持てる。
「告白なら、ストレートに自分自身で伝えることね」
 チェルニーはアダムの耳元で、姉のように優しく励ましの言葉を囁いた。意を決したようにアダムはマリアに歩み寄った。チェルニーとヘレンはそんなアダムを興味深く面白そうに見守った。いよいよ、この優柔不断な男が自分の思いを告白するのである。
「マリア」
 アダムがそう声をかけた瞬間、ポケットの携帯電話が着信メロディを奏でた。決意を遮られ、受話器を耳に当てたアダムは、電話の向こうの相手を知るや不機嫌そうに一言言って接続を切った。
「いま、ボクの人生にとって、一番大事なときだ。邪魔をするな」
 たしかに、チェルニーやヘレンから見て、わくわくとするほどの告白シーンを途切れさせた電話だった。ヘレンがこの場を興味深く盛り上げる質問をした。
「恋人から?」
「とんでもない」
「デートの誘いなの?」
「どうでもいい雑用さ」
 アダムの顔を眺める仲間たちに、電話の用件を明かして、再びマリアに向き合った。しかし、マリアの素直な好奇心が放たれた。
「可愛い曲ね」
 アダムの携帯の着信曲について尋ねているのである。アダムは告白を切り替えて音楽の説明をせざるを得ない。
「日本語で『乙女の祈り』って曲なんだ。でも、日本に来るまで、ポーランドにこんな曲があるなんて知らなかったよ」
「ポーランドの作曲家の作品なのね」
「百年ほど前に楽譜が伝わって、ポーランド人もよく知らない曲が、日本人に広く定着したらしいんだ」
「世界中の人が、いろいろな文化を日本に伝えてきたのね」
 チェルニーがそう言い、マリアが夢見るような目つきで言葉を継いだ。
「カステラはね、ポルトガル人たちが伝えたの。革命で国を追われたロシア人たちは日本でチョコレート菓子を作って、第一次世界大戦で捕虜として日本に来たドイツ人たちはバームクーヘンを伝えたのよ。日本に住み続けてる中国人は神戸や横浜の中華街で月餅を売ってるの。いまの日本で世界中のお菓子が食べられるのはそんな人たちのおかげ。でも、私は日本の桜餅が一番好きよ」
「フライドチキンやハンバーガーも忘れて欲しくないわね」
 アメリカ人が伝えた味を主張するヘレンの脇をチェルニーが突ついて、アダムの気持ちを察してやれと促した。アダムは無言でうつむいていた。せっかくの機会だったが、桜餅が一番好きだと告白された後で、愛を告白する気にはなれないだろう。ヘレンは同情で話題を切り替えた。
「それにしても、明日はどんな人が入居するのかしらね」
 そんな言葉が慰めになるはずもなく、アダムは部屋に戻るマリアの背を虚ろに見送り、更にヘレンとチェルニーは、愛の告白のチャンスを逃した男が、侘びしく部屋に消えるのを見送ってため息をついた。
 部屋に戻ったアダムは、上着の胸ポケットから手帳を出して机に置き、パソコンのスイッチを入れた。几帳面な彼は日々の出来事を手帳に書き留めていた。毎夜、パソコンと向き合って、その情報に経験を交えて整理するのが日課なのである。普段着に着替えてパソコンに向き合おうとする時に、開けっ放しにしているドアの所に、うつむき加減の和ちゃんが居るのに気づいた。和ちゃんがもじもじしながら口を開いた。
「アダムさん、ごめん」
 その謝罪に理由が続かない。自分がアダムに不都合なことをしでかしたと言うことは分かるらしいが、その不都合の理由が良く理解できないのである。アダムは笑って、和ちゃんを部屋に招き入れた。
 ピンッ
 立ち上げたパソコンから短い警告音が響いて新たなメールを受信したことを知らせた。開いて見れば、息子の日常生活と健康を問う平凡な内容である。メールを確認するアダムに、和ちゃんは見慣れない文字の並びに首を傾げて問うた。
「なあに?」
 アダムはディスプレイの中のメールの差出人の名を指さして言った。
「ヤツェック・マリノフスキー。僕の父さんからの手紙だ」
 アダムは時間を確認した。時差を考えれば、朝食を終えた父親が、不慣れなパソコンに向き合ってキーを打ち、遠く離れた息子に手紙を送ったと言うイメージが湧いた。さらに、送信ボタンをクリックしたものの、本当に送信できたかどうか不安になり、娘を呼びつけて送信手順に間違いはなかったかどうかの確認をし、娘は笑いながら父親の記憶の正しさを褒めているという光景に繋がった。ほのぼのした想像を和ちゃんの疑問がかき消した。
「へぇ、アダムさんって、お父さんおるん?」
「そりゃ、居るよ。父さんも、母さんも、妹もね」
 アダムは目の前の幼児が父母を失っていると言うことに気づいて、そこで言葉を途切れさせた。目の前でにこにこと素直に笑っている幼児の顔を眺めてみれば、アダムはたった一人でこのアパートに落ち着いた事を思い出さざるを得ない。アダムと和ちゃんの間に、アダムの家族は介在せず、和ちゃんの心には、遠く離れたアダムの家族の姿など思いもよらなかったのだろう。アダムはそれほど家族と距離を置いていた。
 その距離感で、彼は日本に留学するといった時の母の顔を思い出した。
「シベリアより遠いんでしょ?」
 母親は僅かな知識で日本をそう評したのである。ポーランドの歴史上、政治犯が送られた流刑の地域より、更に東へ海を隔てた島という認識だったらしい。息子がそれほど距離を置くと言うことで、不幸のどん底に突き落とされたように嘆いたのである。
 アダムの母は、数世代を遡った貴族の血筋を誇る人間だった。考えれば、馬鹿馬鹿しい。ポーランドに貴族という身分制度があったのはずいぶん昔のことである。そして、没落貴族にありがちなことで、母の家系は、祖父の代には経済的に困窮する状態だった。
 アダムの父は真面目だけが取り柄の人間で、家族のために働き抜いて地位を得たが、語るべき血筋はない。そんな父は、温厚な笑顔で妻に従うのが常だった。父の笑顔が母の血筋に屈するように見え、アダムは侮蔑の感情を感じることがある。そして、父にそんな感情を抱く事実が、彼を自己嫌悪に陥らせることがあった。
「兄さんは、日本へ逃げるのね」
 普段は母の陰に隠れているような妹が、アダムの日本留学にそんな言葉を投げたことがある。核心を突く言葉だった。アダムは自然科学にも興味があり、将来の選択肢を挙げれば、極東の地で民俗学を学ぶ以外に、母国の自然を学ぶことも出来たはずだった。家族、何より父親の姿に背を向けると言うことが後ろめたい。
 ただ、その父親が息子の留学に対して家族の中で唯一、息子の決断を支持した。
「俺には誇るべき血筋はない。しかし、頑固だが真面目に生き抜いた父がいる。その父親もまた、そういう男だった。お前が自分の生き方を貫きたいというなら、お前も俺を通してそんな血筋を受け継いでいると言うことだ」
 実直な父親は慎重に言葉を選びながらそう言った。アダムは父親の言葉を口に出してみた。
「どこに居ても、誇りを汚すことがない生き方だけを心がけて、息子にその姿を見せてやればいい」
 傍らで呟きを耳にした和ちゃんが、アダムの矛盾に突っ込んだ。
「アダムさん。子ども、おれへんやん」
「これから、結婚してつくるの」
「マリアさんと?」
 和ちゃんの質問にアダムは言葉を逸らせた。
「たぶん、父親って、子どもに生き方を引き継いで行くものなんだ」
 和ちゃんは子どもらしく、明日、出合うはずの人物について言葉を飛躍させた。
「じゃあ、明日来る人にも、お父さんとか、奥さんとか、子どもとか、家族がおるんやね」
「さあね」
「アダムさんは、そう思えへんの?」
 アダムは明確な回答を避けて、何かを考えるよう黙りこくった。平凡な日が終わった。

 


 エイモスは手にしたメモを眺めた。目的地までの目印を、道を表す線で結んだだけの荒っぽい地図である。三日前に不動産屋と訪問した後、今度は入居者として、帰宅途上だった。目的地は真新しい住宅で構成された迷路の突き当たり、というイメージがあり、周囲の真新しい住宅に比べて、ひときわ古風な風格を感じさせるアパートという光景が目に焼き付いていた。
 これからの住居になるアパートに向かう道すがら、大規模な工事現場の傍らを通過した。青いシートのフェンスで囲まれた内部は見えないが、フェンスの上から大型のショベルカーやボーリング機械のアームが覗いて見えた。変わりつつある町というイメージが湧く。フェンスの一部が開放されていて、入り口に立つ警備員が、エイモスにぺこりとお辞儀をして行く手を遮った。ダンプカーが土砂を運び出しているのである。
 ダンプカーのタイヤが歩道と車道の段差に軋んで、荷台に溢れそうになった土砂から何かがこぼれ落ちた。日差しを鋭く反射して、エイモスの目を射た物が彼の足下に転がってきた。
 エイモスは身を屈めてそれを拾い上げた。警備員がエイモスが拾い上げた物を気にする様子もなく、再びぺこりとお辞儀をし、赤い誘導棒を振って、もう通っても大丈夫だと合図をした。
(どうして、俺はこんな物を拾い上げたんだろう)
 エイモスにちらりと疑問が湧いたが、手放す気にもなれず、指が泥で汚れるのも気にせず、そのまま左手の拳で握りしめた。
(どうして……)
 不思議だとすれば、今、ここに居ると言うことである。子どもの頃は、日本という国を知っていても、遠い国の一つに過ぎなかった。雑誌でヘブライ語と日本語の類似性を語る記事をちらりと目にした時に、何故か衝動的にこの言葉を理解したいと思ったのが、日本語を学ぶきっかけだった。しかし、学び始めてみると類似性などほとんど感じられなかった。
 大阪という都市を知ったのも成人してからである。日本語会話の練習相手を務めてくれた日本人商社マン夫婦が大阪出身で、『天下の台所』という異名で、日本の西部を代表する都市を紹介してくれたのである。
 軍を除隊後に偶然に就いた仕事を三年間務めたときに、上司の突然の栄転で開いたポストに転がり込んだ。新しいポストは農産物の輸出拡大というという任務を背負っていて、有力な拡大先リストに日本が挙がっており、日本語が出来るという能力を見込まれて、市場調査や販路拡大のために日本にやってきた。「天下の台所」という異名で、食を司っていたというこの町に数ヶ月間滞在する。自分で切り開いた人生ではなく、偶然の流れに乗って、彼は今ここにいたのである。
 不動産屋から駅から徒歩十分と案内されたアパートにたどり着いたのは、まだ街に慣れず、何処も同じように見える町並みの中を彷徨って、二十分後だった。

 エイモスは門の内側に繋がれている人懐っこい老犬を見つけて、目的地に着いたことを確認した。ただ、その傍らにしゃがんで犬の背を撫でてやっている幼児には見覚えがない。そう感じた瞬間、老犬が尾を振りながら吠えて、幼児にエイモスの存在を知らせた。幼児は顔を上げ、不思議なモノを眺めるように小首をひねってエイモスに視線を注いだ。エイモスも心の底からわき上がる感情を整理しきれないまま幼児を眺めていた。その興味の対象が、互いの存在そのものに絞られているようだった。
 この時、手に握っていた物の伝える暖かさが、エイモスの心をほぐした。初対面という堅苦しさが何故か溶け去り、懐かしささえ感じさせる。どこかで、こうやって見つめ合ったという意識だが、初対面のはずである。
 突如、幼児は表情を明るく輝かせた。その視線はエイモスの背後に移動しており、その視線に沿って、エイモスの傍らを、甘い香りを乗せた自転車が通り過ぎた。自転車に乗る髪の長い女は、ブレーキハンドルを強く握って、門の直前で停止し、屈託のない笑顔を浮かべて振り返った。彼女はエイモスとの十メートルの距離を埋める大きな声で質問を発した。
「ひょっとして、貴方が、新しく入る人?」
 幼児が自転車に駆け寄って、女の腰にまとわりつくように寄り添った。改めて、二人そろってエイモスを眺めていた。エイモスは視線を返しながら、二人と距離を詰めるのも忘れて、声を張り上げて応じた。
「エイモス・アデル。今日から二号室の住人です。あなたは?」
「私は、マリア・パルマ。八号室の住人よ」
 マリアの返事が聞こえたのかどうか、エイモス本人にも自覚はなかった。ただ、目の前の女性と彼女に寄り添う幼児の姿に、心の底をかき混ぜられてわき上がった古い記憶の懐かしさに浸っていた。母国を遠く離れたこの土地で、どうして胸を締め付けられるほどの懐かしさを感じるのか、疑問に感じる間もなく、今ここで生きているという存在感が、マリアの笑顔から発せられてエイモスを覆った。暖かな笑顔というイメージの女性に歩み寄ると、顔立ちがはっきり見えてきた。アジア的な雰囲気を漂わせつつ南米の人々の陽気さをにじみ出させていた。
「この子は?」
 エイモスは幼児に視線を落とした。マリアに寄り添う様子は、母に甘える子どもだが、この子の顔立ちは明らかに日本人である。
「ボク、かずひさ」
「かずひさ……、かずひさ?」
 幼児の名を繰り返して味わうエイモスに、マリアが説明を加えた。
「調和の『和』、平和の『和』、ヘブライ語でシャロームかしらね。その和が長く続くようにと言う意味ね」
(なるほど)とエイモスは思った。
 この国の人々の名を表す文字は、文字自身が意味をもって中国から伝わり、言霊という日本の信仰によれば、言葉に願いが込められているともされる。
「でも、どうしてヘブライ語を?」
「違うの? メダルが見えてるわ」
 マリアの位置から、エイモスが手にしたメダルに六芒星の印が光って見えたのである。マリアは想像力豊かで、なおかつ独り合点をするタイプの女性だった。メダルの印からエイモスがユダヤ人だと決めつけたのである。この場合その推測は的中している。
「でも、このメダルは……」
 偶然に拾ったと言いかけたエイモスだが、そう言い切るには何故かこの左手に握ったメダルの存在感を重々しく感じられ、ただ黙ってマリアに歩み寄った。
 マリアは挨拶の握手の手をさしのべるエイモスに応じたが、エイモスが手を握ったまま振る気配がないのに気づいて、その意図を探るように彼の表情をまじまじと見つめた。このとき、マリアに寄り添う和ちゃんは、不審そうに男を眺めるアダムの存在に気づいた。いつも通り帰ってきたら、見知らぬ男が妙に親しげにマリアの手を握っているという光景である。和ちゃんはアダムの感情を察して二人を見上げた。僅かな距離を置いて微笑んだまま、手を握り合って見つめ合っている。初対面の挨拶にしては親しすぎる行為だろう。和ちゃんもやや不快げに二人の手を引き離し、マリアをこの男から守るように二人の間に割って入った。母親として甘えるマリアを他の男に取られる気はなかった。アダム電柱の影で頷いてみせて、和ちゃんの行為を支持した。
 番犬が尾を振って吠える声で、管理人は来客に気づいて庭木の剪定の手を止めて振り返った。
「ああ、アデルさんか。部屋の鍵を渡しとこか」
 管理人の言葉に、エイモスは軽く会釈をしてマリアと和ちゃんに別れを告げた。彼は額に浮かんだ汗を拭って、管理人に日本という土地の感想を吐いた。
「日本。暑いですね」
「湿気が高いからなぁ、そやけど、梅雨が明けたらもっと暑なるで。あんた荷物は?」
 手にしたバッグだけかと問う管理人にエイモスは頷いた。
「ええ、寝具はあるときいたので」
「ああ、押し入れの中の布団は勝手に使てくれたらええわ」
「これ以外の物は日曜日に買いそろえるつもりですから」 
「それは?」
 管理人が気づいたのは、こぎれいな風体のエイモスが左手に泥をつけていることである。
「ここに来る途中、工事現場で拾いました」
 古いメダルを見せられた管理人は笑った。
「大阪は古墳が多いとこやから、その辺りも掘り返したら歴史の遺物が出てくるかもしれへんわ」
 アパートの中に姿を消す管理人とエイモスの背を見送りながら、マリアは和ちゃんに新たな入居者の感想を述べた。
「優しそうな人で良かったね」
「うんっ」
「仲良しになれそうな気がするわ」
「うんっ。ボクも」
 二人は短い会話を途切れさせ、互いに相手の記憶でも探るように、不思議な心持ちで見つめ合った。新たな入居者は、二人に甘く暖かい雰囲気を残していた。


 エイモスが、これから住居になる部屋を眺め回してみると、六畳の広さに、押し入れと流しがついただけの、こじんまりとした部屋である。荷物は手に提げてきたバッグに入っているものだけ。仕事に必要な物は、別に借りた事務所に送ってある。このアパートで生活に必要なものはこれから買いそろえるつもりだった。もともと贅沢を好む性格ではなく、半年の予定の在住にこの環境で満足している。なにより、ホテルに比べれば、この日本らしい部屋は日本人を理解する手助けになるだろう。仕事にも何かメリットをもたらすかもしれないという予感がした。
 カーテンを開けてみれば、手入れの行き届いた庭木が植わった小さな庭から、よく手入れされた土の香りがガラス越しに漂ってきそうな雰囲気だった。古い建物だが、きしみもせずにスライドする窓を開けてみると、若々しい緑の香りを乗せた風が入ってくる。これから迎えるはずの、梅雨という名の雨期はまだ先のようで、からりと晴れた五月の風だった。
 ざらりっと、土の感触がした左手を見て、先ほどの落とし物を握りしめたままだったことを思い出した。既に表面の土が乾燥していて畳にこぼれた。エイモスは水道の蛇口を捻ってそれを洗った。直径三センチばかりの手の平に収まるほどの小さなメダルである。一部に紐を通したような穴が空いているが、その穴に通されていただろう紐は、長年土の中に埋もれて腐り果てていて、どんな用途に使われていたのか判然とはしない。表面は錆びてはいるが一部に鋭く光を反射する光沢が残っていて、僅かに残る光沢を辿ればダビデの星の紋章にも見えた。ただ、不思議なことに、先ほどマリアがメダルからその印を読み取ったときの輝きは無くなっていた。
 エイモスはこの日本で見つけた意外な母国の紋章を、今日この日の記念に胸のポケットにしまった。
 この部屋は狭いが他に荷が無く、外の風も入ってくると、いかにも空虚に感じられて孤独感が煽られた。足下の畳の上の素足の感触にも慣れない。思い出すのは先ほどのマリアの顔である。孤独から逃れるように部屋から出ようとしたときに、先ほどの幼児が管理人室から顔を出したのに気づいた。なるほど、管理人の身内だったのかと納得しつつも、彼は男の子の名を忘れてしまっていた。エイモスはバックの中にキャンデーがあったのを思い出した。
 大阪という地域の年配の女性によって、キャンデーが「アメちゃん」という名称で、友好の証として利用されると聞いたことがある。それを試してみようと思ったのである。
「アメちゃん、食べますか?」
 和ちゃんは笑顔でエイモスの提案に乗ってきた。
(うまくいった)
 そう思いながらこの男の子にミルク味のキャンデーを一つ与えた。日本人はアメちゃん一つで和む人々らしく、この男の子は一切の警戒心を解いて質問した。
「おっちゃん、どっから来たん?」
「イスラエル」
「タイより遠い?」
「もっとずっと西の方」
「トルコより遠い?」
「少し遠いかな」
「ポーランドより遠い?」
 和ちゃんがこのアパートの居住者の出身国を基準に、エイモスの出身地を推し量っていることに気づいて、彼は気になる人物の母国を尋ねた。
「マリアさんは、どこから?」
「ペルー。このアパートの中で、一番遠くから来た人やねんで」
 ペルーと言えば確かにその通りだろう。この日本から見れば地球の裏側に当たる。和ちゃんは、ちょっと気を利かせて尋ねた。
「マリアさんに会いたいん?」
「えっ?」
「今、マリアさんたちが、階段の上に居るで」
 和ちゃんが言うのは、いまは入居者たちが雑談している時間だというのである。エイモスは和ちゃんの提案を受け入れ、和ちゃんに手を引かれながら二階へと昇った。もちろん、バッグの中のアメちゃんを忘れてはいない。
「エイモスさんやねんて」
 和ちゃんは手を引いて連れてきた男の名を紹介し、次いで、二階の雑談場に顔をそろえていたメンバーを、順に紹介した。
「ヘレンさんとチェルニーさん、こっちが、アダムさん、ヨゼフさん、ジェスールさん」
「よろしく」
 エイモスは入居者たちと握手を交わし、友好の証としてキャンデーを差し出した。
「アメちゃん、食べますか?」
 チェルニーが豪快に笑った。
「まさか、貴方。大阪のオバちゃんの飴の話を信じこんでるの?」
「えっ?」
 もちろん、噂の火種は存在するし、大阪という土地に住む人々の大らかな人柄を表すのに、絶好の逸話に違いはない。が、決して一般的な風習ではない。場は笑いに包まれたたが、悪意は感じられない。見ず知らずの土地で誰もが経験して笑い話になる誤解だろう。エイモスはこの誤解で共感を呼んで仲間にとけ込んだ。

「スウィーティー?」
 聞き慣れない果物の名にヨゼフが首を傾げた。エイモスは来日の目的を語った。
「うん。果実や果汁が売り込めればと思って」
  彼の母国で取れる果実の市場調査をしたいというのである。ここで、彼は唐突に話題を転じた。本人もその唐突さに気づいてはいるが、質問せざるを得ない意識がわくのである。
「マリア、君とは初めて会った気がしない。ずっと、心に君の面影を抱いていたような気がするんだ」
 アダムがエイモスの言葉に驚いてぷっと吹き出した。彼は瓢箪荘に住み始めて二年間、まだマリアに愛の言葉を告白できずにいる。しかし、初対面の日にいきなりこんな言葉を吐くなんて、なんという手の早い男だろう。周囲の仲間は、そんなアダムの様子が面白い。ただ、ヘレンもチェルニーもその点には触れず、日本在住の先輩としてアドバイスした。最近のチェルニーはこの国に伝わる詩に興味があった。
「こひすてふ わがなはまだき たちにけり ひとしれずこそ おもひそめしか」
 チェルニーが発したよく分からない言葉の羅列に、エイモスは首を傾げて聞いた。
「なんだい、それは」
「恋は始まったばかりなのに、もう人に知られちゃったってこと」
「恋だって?」
 やや激しく問うアダムにチェルニーは説明を加えた。
「まぁ、この国なら和歌かしら。古から和歌で思いを伝えるのよ」
「とりあえず、今日から本格的に日本での生活が始まるという事ね。日本風の女の子の扱いを覚えてもいいわよ」
 ヘレンは女にもう少し考える時間を与えろと言うのである。エイモスは二人には答えず、マリアに向き合った。
「マリア、君に頼みがあるんだけど」
「なあに?」
「明日、日本橋へ案内してくれないか。帰りに食事を奢るから」
 ヘレンがにやりと笑った。
「あらっ、手が早いこと。いきなりデートの誘いなの」
 何故、マリアに声をかけたのか、心の中が乱れていて、自分でも明快な答えは分からず、エイモスはしどろもどろに答えた。
「いや、テレビやパソコン、電気スタンドなんか、部屋の電気製品を買いそろえたいんだ」
 アダムがヨゼフの足を軽く蹴って促した。この場合、マリアに代わる案内者を提供するなら、電気関係の勉強をしているヨゼフが適任だろう。ヨゼフはアダムの意図を察して言った。
「俺で良ければ案内するよ」
「いや好意は嬉しいが、マリアと」
「ふぅん」
 チェルニーは興味深げにマリアとアダムの顔を見比べて続けた。
「しのぶれど いろにいでにけり わがこひは ものやおもふと ひとのとふまで」
「今度は、何の和歌?」
「隠していたはずの恋心が、思いが高まって表情に出ちゃったって……」
 アダムも正直な男で、突然に形作られた三角関係にやきもきする様子が隠せないのである。一方の当事者のマリアは日本橋と聞いてひらめく考えがある。近くに動物園があるはずだ。彼女は傍らの和ちゃんに提案した。
「和ちゃん。動物園に行こうか」
「うんっ」
「いや、だから、電気製品を……」
 そう言いかけるエイモスを制して、マリアは同行の条件を付けた。
「日本橋の後、動物園に寄るならいいわよ」
 アダムがマリアの言葉に割り込んで提案をした。
「マリア、ボクも行こう。あの近所には真田幸村戦死の碑のある安居神社とか、六世紀に建立された仏教寺院とか、古い史跡が多いんだ。君も興味があるだろう?」
 ところが、アダムの提案に当事者のマリアはさほど興味を示さず、ヘレンが目を輝かせた。
「サナダ・ユキムラ? 知ってるわ。大阪城のプリンスとプリンセスを守って戦ったサムライね。私も行きたい」
「いいわね。気晴らしに仏教寺院を散策するのも、心が落ち着くかもしれないわね」
 そんな表現でチェルニーまで参加するという事態にエイモスは驚いた。
「だから、ボクはマリアと」
「気にしなくて良いのよ。大勢の方が何かと楽しいじゃない?」
 ヘレンの提案にエイモスは物理的な制限を口にした。
「車に乗れるのは五人までだから、」
 そんな言葉をチェルニーは軽く笑って、先輩として大阪の交通網の状況を教えた。
「あらっ、車で行くつもりだったの? 覚えておきなさい。電車よ電車。大阪市内じゃ、その方が便利に決まってるのよ」
 エイモスがいくら否定しようとしてもヘレンとチェルニーには通用しない。最期にマリアがのほほんと夢見るように結論を下した。
「素敵ね。じゃあ、決まりよ。仲良く一緒に行きましょう」
 彼女が笑顔でこういうと、もう何人も彼女の決定を覆せない。ふと、マリアはこの会話に加わっていないジェスールに尋ねた。
「あらっ、ジェスール。貴方は?」
「俺は、君たちほど暇じゃない」
 アダムとエイモス、マリアの人間関係をおもしろがる仲間の中で唯一同情を示したのがジェスールかもしれない。その視線の中に、もっとしっかりとマリアを捕まえておけという非難じみた感情もこもっている。ただ、一方の当事者であるマリアは、和ちゃんから恋愛とは無関係の期待に籠もった質問を受けていた。
「動物園って、象さん、おる?」
「いるわよ」
「ライオンは?」
「ライオンもトラもいるわ」
「他には?」
 和ちゃんの質問に、マリアは期待感に胸を躍らせるようにスカートの裾をつまんでひらひらさせ、ダンスのステップを踏んだ。内からわき上がる高揚感を押さえきれず、本人さえ気づかないうちに体でリズムを取っている。マリアの幼い頃からの癖である。
「私たちが知らないものがいっぱいあるの。きっと、私たちが知らない世界が広がっていたりするのよ」
「ふぅん」
「明日、晴れると良いわね」
 チェルニーは和ちゃんとマリアの会話に割り込んで、無難な天候の話題に変えた。この二人の夢見るような想像が、周囲の人々を得体の知れない世界に誘い込む不安がよぎったのである。
 ただ、マイペース派のマリアのこと、和ちゃんを連れて動物園に行くという思いつきに夢中になり、チェルニーの不安など気づく様子もない。マリアは管理人に和ちゃんを連れて行くという許可を求めに、和ちゃんの手を引いて階段を下りていった。その後ろ姿は仲の良い母子に見える。

 



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