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第二章

第二章 1

「マリア、和ちゃん、エイモス」
 目前の異変に気づいたアダムは、姿を消した三人の名を呼んで、霧の中に手を伸ばしたが、触れるものはない。存在を求めて、更に霧の奥に踏み込んだ。
「マリア、和ちゃん、エイモス」
 繰り返すアダムの叫びが、三人を求める悲鳴のように霧の中に薄れて消えた。
「私たちも行きましょう」
 状況はつかめないものの、姿を消した者たちを救うのに迷いはなく、ヘレン、ヨゼフ、チェルニーもまた、突如出現した霧の中に踏み込んだ。
 濃い霧はアダムたちの視界を奪って、伸ばした腕の指先すらぼやけて見えない。仲間の名を呼ぶ声は、分厚い毛布にくるまれながら大声を上げるように遮られ、霧に溶けてしまうように声は薄れて、仲間の声も耳に届かない。霧は視界を奪うのみではなく、様々な感情が織りなされて彼らを包み、心を乱した。記憶が遡るように蘇り、物心つく前の幼い記憶は、父や祖父や曾祖父を経て、遙か昔の祖先の記憶に行き着くかのようにも思われた。
 視界を奪われた空間で、上下の感覚すら失って、足下に不安を感じたヨゼフは、片膝を地に付けて平衡感覚を保とうと手探りした。何か、暖かく柔らかく、指先に触れるものがある。
「きゃあ!」
 聞こえた悲鳴は、チェルニーの声である。
(と、すれば、この柔らかな感触は)
 ヨゼフがそう考える間もなく、尻を撫でられて怒りの表情を浮かべるチェルニーの平手打ちが、ヨゼフの頬を襲った。もう一つ、響く声がある。
「この変態っ!」
「ぎゃっ」
 ヘレンの怒りの声の直後、蹴り倒される人体の音と共に、アダムの苦痛の声が響いた。霧の中で手探りをしていたら、何か触れるものがあった。指先を動かして感触を探っていたら、ヘレンの胸だったらしい。
 互いの声が聞こえ始めたという事実で、彼らは濃く覆われていた霧が晴れ始めたのに気づいた。表情までは見えないが、シルエットがぼんやりと見え、声と重ねて人物が明らかになる。アダムは蹴られた左の脇腹を押さえて呼吸を整えながら言った。
「普通、正体不明の人間を、いきなり蹴りつけるかぁ?」
「普通、前戯も無しで、いきなり女の胸を揉む男も居ないわよ」
 そんな会話をする二人の影に、チェルニーとヨゼフが接近した。既に、霧は薄れて互いの表情が見える。アダムが上半身を起こしてみると、蹴り倒されたときに押し倒した背丈の高い植物の間から水がにじみ出したため、彼は慌てて立ち上がった。先ほど地に膝をついていたヨゼフの片膝と手が泥にまみれていた。
(いつの間に、こんな所に)
 彼らの周囲の景色が一変していた。腰の高さほどの草原は周囲の雑木林に日が遮られていて薄暗く、太陽の光を浴びることのない地面はじっとりと濡れていた。葦が群生する湿地帯である。
「ここは?」
 チェルニーが驚きの声を漏らした以外、他の三人は周囲の景色に息をのんで黙りこくっていた。仲間を見回して尋ねるチェルニーの質問に、答えることが出来る者が居ない。理由が分からないまま、住宅地の中の神社という景色は一転したのである。
「他の三人は?」
 そう問うアダムも、仲間の答えを期待しては居ない。どうしてこんなところにいるのかという疑問と同様に、マリアと和ちゃんとエイモス、その三人が何処に姿を消したのかという疑問にも手がかりはない。三人の姿を探して彷徨って、通りかかった松林の疎らに茂る葉の間から地に光が射していた。もちろん、姿を消した三人の姿を見つけることは出来ないままだ。
「貴方は、私たちをどこに案内してきたの?」
 チェルニーはそう聞いたが、道案内をしていたアダムにも、想定外の光景に違いない。
「状況を整理してみましょうよ」
 ヘレンの提案に、アダムは頷いて記憶を辿り始めた。
「電気街から迷いながら北東に歩いていて、鳥居をくぐった後、霧が出てきたんだ」
「その前に、門がどうこうの言ってなかったかい」
 ヨゼフがアダムの記憶を補い、チェルニーが頷いた。
「ええ、エイモスも、門が、境界がって呟いてたわ」
「あの霧と何か関係があるのかな」
「電話で何か分からないかしら」
 チェルニーがポケットから携帯電話を取り出す様子に注目が集まったが、彼女は直ぐに肩をすくめた。
「ダメね、圏外」
「僕のもだ」
 アダムは妙な予感がして携帯の電源を切った。何故か、ここに長居をする予感がして、バッテリーは温存しておいた方が良いだろうと考えたのである。ヘレンは腕時計を眺めた。午後一時を回っているが、果たしてこの世界の時かどうかは分からない。この時にアダムたちの耳に聞き慣れない音が勢いよく近づいてきた。
「理由は不明。でも、ここは私たちが居た大阪では無さそうね」
「何故、そうわかるんだい?」
「あの音よ」
 ヘレンは馬の蹄の音だと判別したのである。自動車のエンジン音や警笛ならともかく、馬の蹄の音など、大阪の町中に響く音ではないだろう。ヘレンが警戒感を露わに指示した。
「隠れて!」
 チェルニーが疑問を呈した。
「どうして? 救助の人たちかも」
「騎兵隊が都合良く現れるとは限らないわ」
 背の高い草木が生い茂る草むらにしゃがんで姿を隠し、目の前の草を少しかき分けて見ると、草原がとぎれる土の地面に、乗馬の男が率いるらしい男たちが姿をみせた。見慣れない衣装である。衣服を染めると言うことを知らぬような白い麻のごわごわした袖口や裾の広い衣類、腰に下げているのは剣だろう。背負っている筒口から見えているのは矢に違いない。長い髪を左右で束ねて耳の横で結っている。見慣れない衣装と髪型だが、身につけている武器を見れば、平和的な人物ではないだろう。荒々しい雰囲気と不審者を捜し求める気配が感じられた。何故か、高所から不審者を見つけて眺めていたというイメージが伝わってきた。彼らの背後を眺めると高所になっている。あの上の雑木林の切れ目から、視界の利かない湿地帯を彷徨うヘレンたちを眺めていたのだろう。
 指揮官らしい男が馬上で剣を抜き、草むらを切り払って、歩行立ちの三人の部下に命じた。
「探せ!」
 その男の声には、この草むらに必ず探し求める不審者が居るという確信と、不審者の身元を糺すという役職上の責任感がこもっていた。そして、その短い命令の意図を正しく理解して草むらに広がって探索を始める部下の様子を見ればよほど訓練が行き届いている。
「出ましょう」
 そう提案するヘレンにチェルニーは疑問を呈した。
「どうして?」
「隠れても無駄よ」
「なるほど」
 長身のヨゼフが見回したところ、生い茂る植物は密だが、その丈は彼らを隠すほどではなく、身をかがめていても、この草むらはアダムたち四人を隠しきるには狭すぎるだろう。隠れていて発見されるより、堂々と姿を見せる方が、敵意がない事を示せるに違いない。ヘレンは立ち上がって男たちの前に身を晒した。草むらを吹き渡る風が彼女の金髪を靡かせて、木漏れ日を反射させた。
「ケハヤ様。あそこに」
「なるほど、異形の者どもよな」
 男たちの声は大きく、ヘレンたちにまで伝わってくる。ヘレンは聞き慣れない言い回しをアダムに尋ねた。
「なんて言ってるの?」
「僕らのこと、へんてこな連中だって言ってるんだよ」
「僕らが変てこなら、あの連中も」
 ヘレンたち不審者に逃げる様子がないことを見て取った指揮官は、ゆっくりと馬首を巡らせて四人の異邦人を観察するように近づいて来た。その視線の鋭さにチェルニーは思わず顔を伏せた。ヘレンは観察されている仕返しのように、接近する者たちを漂う雰囲気まで眺め回した。不審者の探索という意味では警察の仕事だが、接近する男たちの風体は警官には見えず、兵士らしくはあるが小銃を手にした近代的な兵士ではない。指揮官が振り回す剣が木漏れ日を反射して輝いた。ヘレンはこれらの光景を一言で評するほか無い。
「まったく、ここはファンタジーの世界なの?」
 指揮官らしい男が威圧感を滲ませて問うた。
「何者か?」
「私はヘレン、こちらがヨゼフ、チェルニー、アダム」
 指揮官は馬上からアダムたちを見下ろして言った。
「見慣れぬ風体に、聞き慣れぬ名だ」
「祭りの日に、稀人(まれびと)が、流れ着きおったのでございましょう」
「なんとも、異形の者どもでございますな」
 彼らの会話は、馬上から見下ろすのみではなく、権力を笠に着てヘレンたちを見下す感情が流れ込んできて彼女たちの感情を逆撫でした。ヘレンは腹立たしげに言った。
「貴方たちは? 名乗りなさい」
「不審者に名乗る名などあろうものか」
 兵士の一人が刀を抜き、脅すようにヨゼフに向けた。手入れが良く鋭く研がれた刃先がヨゼフの肌に触れ、痛みさえ感じさせないまま傷を付け、生暖かい血の滴をぬるりと流させた。その血も刃も、まがいものではなかった。
「ほぉ、異形の者の血も赤いと見える」
「何をするの」
 ヘレンはケハヤと呼ばれた指揮官が手にしていた槍を掴んで、揺さぶって抗議をした。もちろん、ケハヤは槍を奪われまいと脇に引く。何度か力を入れたり抜いたり、槍を経由してヘレンとケハヤの呼吸が一致した。ヘレンはふと感じた。この男たちは武器や腕力を誇示していても、その駆け引きを知らないのではないかという事である。ヘレンはケハヤが槍を突きだす腕が伸びきった瞬間に、槍の柄をくるりと回しながら引いた。思いもかけない方向に力がかかって、ケハヤが握りしめる寸前に、手からするりと抜けてヘレンの手に移った。ヘレンは奪い取った槍の石突きで兵士の一人のみぞおちを突き、振り回した槍で二人の兵士を叩きのめして、叫んだ。
「殺さない程度に、ヤっちゃいなさい」
 奪った槍を投げ渡されたアダムは面食らっていたが、この場では黙って見ていられる状況ではなく、みぞおちを突かれたショックから意識を回復しかけている兵士を、槍を上下に振るって槍の柄で叩いて、もう一度失神させた。
 馬上のケハヤは一瞬のうちに三人の部下が叩きのめされて失神しているのは信じられないが、腕力自慢の自分の手から槍がするりと抜け落ちるように奪い取られたのも信じがたい。
「おのれら」
 ケハヤは怒りを込めて太刀の束に手をかけたが、ヘレンが槍を手放して武器を持っていないのに気づいて、馬から下り、両腕を広げてヘレンに挑みかかった。素手の相手に武器を使うというのは、この男の誇りが許さなかったに違いない。
「いい子ね」
 ヘレンはそんな言葉でケハヤのフェアな精神を褒めた。しかし、ケハヤは格闘技に通じているヘレンにあっさりと背に回られて、彼女の腕で首筋を固められた。気管や頸動脈を締め上げられたケハヤが気を失う寸前に、彼の耳元でヘレンが優しく囁いた。
「この勝負の記念に、貴方たちの剣を頂くわ」
 ケハヤはそのまま気を失った。ヘレンは仲間に失神した兵士の剣を奪うよう指示し、彼女自身もケハヤの剣帯と下げていた剣を奪って身につけた。
「さっさとずらかるわよ」
 そんな言葉とは裏腹にヘレンの歩みは落ち着きがある。チェルニーが見るところあの兵士たちが目覚めるまであと数十分はかかるだろう。その間に身を隠せばいいのである。
「ヨゼフ。顔の傷は?」
「脅しだったんだろう、たいしたことはない」
「アレが、警察か軍隊かは分からないけど、これで私たちはこの国の公権に逆らったお尋ね者よ」
 アダムたちは人の気配を絶つように、薄暗い雑木林に入り込んだ。当てもなく歩き続けた彼らは、まもなく、眩しい陽の光を浴びた。チェルニーは目の前に広がる景色に絶句した。
「どうしてこんなところに?」
 雑木林を抜けると幅の狭い砂浜があり、その先に一面に群生する芦の緑の穂先が風に揺らめくさまは波のように見えた。潮の香りに気づいて視線を上げるにつれて、芦原の緑の波が境目も鮮やかに海の波に変わる。
 沖合の見慣れない形の帆船を数えてみると十数隻。近くに港がある気配がした。空には海鳥がのんびりと飛び交っていた。中天にある太陽で時を推し量れば昼過ぎか。その影の角度から判断すれば、彼らは南北に長く続く干潟の海岸線を北に向かって歩いていた。
 影を辿るように眺めたヘレンは仲間を叱咤した。
「足跡を残さないで。追われるわよ」
 砂浜との境目の草むらを歩いて砂浜に足跡を残すなというのである。視界が開けた西側の海岸と、視界を遮る東側の雑木林の間を三十分ばかり歩いたが追っ手の気配がない。彼らは雑木林を背に腰を下ろし、葦原が風にそよぐ波とその先のまぶしく光る海を眺めた。
「あの衣服、あの髪型、日本の神話の挿絵に似ている」
 アダムがふとそう呟いた。
「神話の世界だとでも?」
 チェルニーの問いにヘレンが応じた。
「これほどリアリティのある神話があるもんですか」
「誰か、ここがどこか分からないの?」
 チェルニーの問いかけにヨゼフが提案した。
「ボクらのいた場所と何か接点が無いかな」
 接点というヨゼフが提示したキーワードに、チェルニーが言葉を指摘した。
「あの変てこな連中、日本語を話してたわね。言葉が通じたわ」
 ただし、言葉で意志を交わしたという感覚が何故か薄く、彼女自身首を傾げている。ヘレンは手にした剣を少し抜いて、その刃を太陽に反射させて眺めた。
「私、美術館で本物の日本刀を見たことがあるんだけれど、刀身が美術品のように綺麗で魅力的だった。でもこの剣はどぉ?」
 確かに、鞘は手の込んだ作りで、職人の仕事ぶりや剣の価値が伺える。ただその鞘を払ってみた刀身はどうだろう。アダムのような刀剣の素人の目から見ても作りが荒く、刀身の脆弱さを補うように幅が広く厚みのある刃物である。
「では、ここは日本ではないか、日本刀が作られる以前の日本のどちらかと言うことだ」
「それは矛盾するわ。日本ではないなら言葉が通じるはずはないし、日本刀が作られ始める以前の古い時代でも、現代の私たちの日本語なんか通じないわよ」
「では、こんな剣を持ってる人がいるというのは、ここが日本ではないと言うこと?」
「銃刀法違反。そもそも、現代の日本で、許可もなくこんな剣を持って彷徨いてたら、ブタ箱行きだよ」
「分かったことは、ここが僕らが居た日本ではないと言うことだ。大事なことは、ここがどこで、どうやったら帰れるのかと言うこと。誰か他の情報は?」
「なにも、無いわ」

 目の前の景色を説明する事は出来ず、仲間は再び立ち上がった。この場所でじっとしていても仕方がないことは皆分かっていた。歩き続けると、やがて前方に多数の白木の建築物が見えてきた。人の姿がかいま見えたため、ヘレンは仲間に注意を促した。
「林の中に隠れて様子を見ましょう」
「何の施設だろう」
「兵士じゃなさそうね」
 雑木林に身を潜めながら前進を続けると、やがて彼らはその雑木林が途絶える地点にたどり着いた。木の陰に身を潜めながら様子を窺うと、北の方は開けて見晴らしが良い。そこに多数の見慣れない衣服の人々が見えた。数多くの白木造りの建物に荷を担いで入ったり出たりを繰り返していて、アダムは何かの倉庫とそれを管理する役所だろうと見当をつけた。
「人の数は多いけど、武器を持っている様子はないわね」
「武器は持っていなくても、敵だったらどうするの。大勢に囲まれたら逃げ切れないわ」
「そうだね。今は近づかない方が良さそうだ」
「樹に隠れてこの斜面を上がってみましょう」
 雑木林がきつい斜面に沿って広がっていた、この斜面の上ならもっと別の情報が得られるだろう。その斜面を登り切った辺りで雑木林が南へ延びる街道で分断されていた。街道の左方向は西へ折れて、先ほどの倉庫群に続いているらしい。北の方向に分岐する細い道があり、街道の向かい側の草原や雑木林を縫って北へ延びているように見えた。ヨゼフが辺りを見回した。
「どちらに行く?」
「分かっているのは、ここに留まる事はできないということよ」
 ヘレンはそう言って、街道上の疎らな人影が途絶えるのを待った。彼らは街道を渡り、北に向かう小道を辿った。アダムが時計を確認すると、時間は午後四時を回っており、彼らの時が適用できるなら、この世界にやってきて三時間が経過している。
「ああっ、腹が減った」
 ヨゼフが素直に空腹を訴えたのをヘレンが叱りつけた。
「緊張感のない人ね。まず安全な場所を確保するのが先よ」
 チェルニーは空を見上げて今夜の宿を考えた。たしかに、あと三時間もすれば日が落ちる。宿を見つけなければ、この得体の知れない世界で月や星を見上げて野宿になるだろう。
「私、慣れた枕でないと眠れないタチなの」
「命を無くせば、枕無しでもぐっすり眠れるわよ。永遠にね」
 ヘレンの脅しと同時に、彼らの背後で物音がしたために四人は緊張し、ヘレンとアダムは剣の束に手をかけた。しかし、直ぐにその手の緊張を解いた。背後に姿を現したのは、危害とは無縁の幼い男の子である。
「和ちゃん」
 チェルニーがそう呼んだほど、和ちゃんに似ているが、ヨゼフは彼女を制した。その男の子から、初めて眺める珍しい人物たちに寄せる好奇心が伝わってくる。好奇心を滲ませるという雰囲気で、和ちゃんそっくりと言っても良いのだが、やや長めの髪を後頭部で結っていた。着用する衣服は膝までの丈があり、襟周りは着物のように見えるが、その袖口は大きく開いて、可愛い腕が肘の辺りまで見えている。その髪型や衣服は別人に違いない。
「脅かしちゃいけない。そっと」
「そうね」
「ねぇ、ボク。どこから来たの?」
 男の子はチェルニーに答えるように、右手の方向を指さした。やや上向きになった腕の角度が、男の子の家までの距離の長さだという雰囲気が漂っていた。男の子が素直な笑顔で尋ねた。
「オバちゃんたちは、どこから来たん?」
(おばちゃん?)
 チェルニーはその表現に眉を顰めたものの、回答を求めて仲間の顔を振り返って眺めた。なんと答えればいいだろう。ここは午前中まで彼女たちが居た大阪とは隔絶された世界らしく、「大阪」から来たと言っても男の子には通じないかも知れない。ただ、現実との接点を求めて推し量るためには、その町の名を基準にせざるを得ない。
「日本橋って、知ってる?」
 そんなヨゼフの言葉に男の子は首を横に振った。ヨゼフは質問を重ねた。
「じゃあ、ここは大阪どの辺りなんだい?」
「おおさかって何? おっちゃんは何処から来たん?」
 幼児が返す質問に、大阪を起点に位置を推し量っていたアダムたちは曖昧な返答をせざるを得ない。
「僕らは、ずっと、ずっと、遠くから来たんだ」
「ボク、知ってるねん」
 男の子の言葉に、アダムたちは顔を見合わせ、四人同時に尋ねた。
「何を?」
「今日は、あなた達が来る日やねん」
 当然のことのように男の子は言い、チェルニーが重ねて尋ねた。
「どうして知ってたの?」
「おじいちゃんがそう言うててん」
「そのおじいちゃんのところに連れていってくれる?」
 アダムの頼みに男の子は表情を輝かせて聞いた。
「来てくれるん?」
「もちろん」
 仲間の同意を取り付けるように顔を見回したアダムがそう言った。
「ボクのお名前は?」
 チェルニーの質問に男の子は無邪気な笑顔で答えた。
「ワクウ」
 アダムたちは顔を見合わせた。聞き慣れない名だと思ったのである。しかし、今はこの初対面の幼児を頼るほかない。
 ワクウは散歩する子犬のような無邪気さで、気まぐれにアダムたちの周りを回ったり、村の方向に駆けて姿を消してみたり、周囲に広がる草むらの中に隠れてアダムの背後に回ったりした。その様子はいかにも子どもらしく、見ていて微笑ましい。この子を慈しむ父母や周囲の人々の人柄までかいま見える。
「でも、見ればみるほど、和ちゃんに似てるわね」
「本当」
 触れあうほどの距離で眺めると、肩の辺りまである髪を、浅葱色の飾り紐で束ねていて、その紐の端が首の辺りでゆらゆらと揺れていて可愛らしいが、ワクウがにじみ出させる無邪気な雰囲気が、衣類や髪型の違いを覆い隠すようで、和ちゃんとの類似点のみ目立つのである。ヨゼフが囁くように言った。
「ここがどこかと言うことだけじゃなくて、行方不明の和ちゃんとマリア、エイモスも探さなきゃね」
「でも、ちゃんと道路を通って案内して欲しいわね」
 チェルニーの言葉にアダムたちも笑った。歩くに連れて、美しい変化に富んだ自然や、人の手が入った景色が入れ替わる。ワクウが背伸びをして草むらの向こうに眺める景色に畑らしき地形が見え、草むらに踏み込む一歩ごとに、この子どもに平穏を乱されたトンボが飛び交い、バッタが飛び跳ねた。
 この子は道に拘らない質のようで、思いつくまま様々な自然に踏み込んで行くのである。
「この子、どうしてこんな所に一人で居るんだい」
 アダムたちの世界に当てはめれば、幼稚園児という年齢ではあるまいか。そんな幼い子が、どうしてこんな人気のないところを彷徨いているのだろうという疑問である。この疑問が新たな女の声で晴れた。
「ワクウ」                                    
 男の子の名を呼ぶ女の声がし、長い髪を首筋で纏めた清楚な白い衣装の女が姿を見せた。名を呼ばれたワクウが寄り添い甘える様子から、ワクウの母親らしいと分かった。この子はこの母親に連れられてやって来ていたに違いない。
「マリア」
 チェルニーの呟きをアダムが否定した。
「いや、マリアじゃないよ。衣服や髪型が違う」
「じゃあ、誰?」
 化粧っ気がないという点ではマリアと同じだが、日本橋へ出かけたときのマリアの衣服は涼しげな薄手の生地の青いワンピースだった。目の前の女性は木綿らしい質素な衣類で前あわせの部分を左肩の辺りで紐で結わえて閉じていた。衣服がはだけないよう腰の辺りを括っているのはベルトではなく、ただの紐である。襟元が大きく空いていて風通しが良く涼しそうだが、その衣類の形はワンピースではない。
 四人が女と幼児に首を傾げるのと同様、女も首を傾げてワクウから何かを聞いていたが、振り返って事情を察したように言った。
「ようこそおいでくださいました。どうぞ、ご案内します」
 初対面と言うことを感じさせない言葉だった。アダムはふと気づいたように女に語りかけた。
「ミウォ ミ チェ ポズナチ(はじめまして) マム ナ イミェ アダム (私はアダムです)」
 仲間は首を傾げた。アダムが発したのは、仲間同士の会話の共通語として利用している日本語でもない。ポーランド語の意味は聞き慣れず、アダムが不可思議な呪文でも唱えたように思ったのである。一瞬、間をおいて女が挨拶を返してきたために、仲間はアダムが発した言葉が、名を名乗る挨拶だったと気づいた。
「申し遅れました。この子はワクウ、私はノユリと申します」
 女は振り返って立ち止まり、笑顔で挨拶したが、それ以上詮索する気はないらしく、再び彼らを導くように歩き始めた。ヘレンたちは名乗る機会を逸した。ノユリの態度には名前や出自など無関係に歓待するという人の良さがある。この女性はアダムの仲間さえ知らないポーランド語で発した言葉の意味を、正確に理解して返事を返してきたのである。アダムはこの世界の理の一つを確信した。
 ワクウは母親の手かごの中の草をつまみ上げて、アダムたちに掲げて見せて、教えるように言った。
「つきくさ」
 深い蒼の花びらを二枚つけ黄色い花粉をつけたおしべのコントラストが美しい植物である。ノユリは息子が植物の名を正しく記憶していたのを褒めるように、頭を撫でてアダムたちに説明をした。
「まだ、今年の春は暖かいので、もう、咲いていそうだと思ったんです」
 その説明と笑顔だけで彼女は再び歩き始めた。アダムたちがツキクサがこの世界の薬草の1つだと言うことを知るのは、数日後である。ノユリが導く行く手を遮るように川がみえ、小舟が係留された小さな船着き場に到着した。ノユリはこの川を渡るという。幅二十メートルはある川だったが、ノユリはヘレンの申し出も断って、竿を操って客人を乗せた舟を対岸に着けた。その慣れた手つきに、この人物がマリアに似ていてもマリアではなく、この土地で生きている女性だと認識を深めることになった。

 川の対岸は、更に自然豊かな場所のようで、視界を妨げる背の高い雑草の茂る草原の間を縫う道が続いた。突然に視界が開けたと思うと、不規則な土手で区切られた黒々とした土の地面が一面に広がっていた。ただ、この世界は乾期の最中でもあるのか、地面は乾燥してひび割れが広がっていた。
「芝生なの?」
 ヘレンがそんな感想を述べたのは、日当たりの良い土が露出する地面の一角で、ここだけは水気を感じさせる四角く区切られた場所で、土地を緑に染めるほど密に若草が茂っていた。人工で育てられている事が伺える。その景色の正体を突き止める間もなく、彼らの興味は流れ聞こえてきた笛の音に囚われた。
 楽しげなメロディが彼らを包んだ。笛の音に合わせて拍子を取る木を叩き合わせるような音が加わり、周囲は賑やかになってきた。
「祭りなのか」
 ヨゼフの考えを裏付けるように、仮面をかぶった者たちが踊っている姿が見えて、不可思議な世界を演出していた。集落の家の間を抜けると広場があり、古い樹木に藁で編んだ縄飾りが下げられていて、この樹木が祭りの中心だと分かった。
 突然の闖入者を眺める村人の間に、声が広がった。
「ノユリが客人を招いてきた」と、
 不可思議な者を眺める視線だが、敵意はなく敬意すら感じさせた。アダムたちは事情が飲み込めないまま、周囲の人々に愛想のいい笑顔を振りまきながら、村人たちの輪に入って行かざるを得ない。
 チェルニーは、父親の仕事をもじってヘレンを海兵隊女と呼んでいる。事実、彼女自身格闘技にも通じていて、戦闘的な雰囲気を漂わせているのである。チェルニーの見るところ、その海兵隊女がこの不可思議な場所で仲間内の誰よりも警戒心を解いてしまっていた。それほど、この村人たちの歓迎ぶりは自然に心に染みた。
 ノユリが導いてきた終着点に一人の初老の男が居た。身なりは周囲の人々と大差はなく特別な装飾品を身につけているわけではないが、祭りの中心の神木と正面から向き合った座についていることと、包容力を感じさせる人柄でこの場を仕切る人物だと知れた。ノユリはアダムたちを振り返り、初老の男に紹介した。
「お父さん、お客人をお連れしました」
「よくまぁ、来られた」
 どこから来たとか、誰かとは聞かない、まるで彼らの来訪が予定されていたかのように新たな人々を迎え入れたのである。
 地面に敷いた敷物の上に客人を迎える座が設けられ、何かのドライフルーツや液体を満たした壺が供された。
「酒だわ」
 ヘレンが壺の中の液体の香りを、くんっと嗅いで確認し、椀になみなみと満たして一口味わった。
「いきなり、大丈夫なの?」
 そう尋ねるチェルニーにヘレンが感想を述べた。
「ちょっと酸っぱいけど悪くはないわ。どう? 貴女も」
 チェルニーは、持てなしを受けてくれることを期待する村人たちの好意的な視線を浴びているのに気づいた。ヘレンから差し出された椀を飲み干さざるを得ない。ヨゼフはワクウから渡されたドライフルーツを味わって、干し柿だと確認し、アダムにも勧めた。
 笛の音と拍子木の音がやや激しくなると、神木の前にノユリが登場し、両手に持った緑の葉を茂らせた枝を手にして舞い始めた。人々は舞に合いの手を入れ、酒に酔い、舞に酔った。
「桜の樹か」
 アダムは縁に小さなぎざぎざのある小さな葉を眺め、驚きと共にその発見を口にした。薄紅色の花を満開に付けている樹木というイメージがあって、若葉を茂らせている時期の桜にそれとは気づかなかったのである。ノユリの舞がその生命感を称えているようにも思われた。ノユリの舞に教えられたように、この樹木を眺めてみると、確かに、花の時期の後、枝ばかりの姿を晒す木に、いつの間にどこから吹き出すほどの若葉が生じるのだろう。この集落の人々はその美しい生命感に触れる感性を持っていた。
 四人の頭の中が、祈りの言葉や豊穣の願いで満たされた。村人たちの思いが乱れて心の中に流れ込んでくると言う感覚である。この村の人々が桜の生命感を通じて豊穣を願う祭り。踊りに興じる人々から、秋の稲穂が豊かに実るイメージが伝わってくる。
「みんな、この世界で生きて居るんだね」
「生きていくって、どの世界でも凄いことなんだね」
「一種の生きたカレンダーなのかしら」
 チェルニーは桜の樹をそう思った。満開の花を咲かせる時期の種まき、若葉を茂らせる時期には田起こしをして水田に水を引いて稲の苗を植える。そう言う目安にしているらしい。祭祀とも祭りとも付かぬ行事は、田起こしの直前に、今年の豊穣を祈る行為なのである。宗教色が感じられず、何かに祈るというより、希望を大自然に願うようにも見えた。その願いの日に、見慣れない客人が現れたという状況だった。アダムは日本で学んだ知識の一つを思い出した。
「古代日本ではマレビトと言って、祭りに異邦人がやってくるのを歓迎する習慣があるんだ」
 酔いが回って顔が赤く心地よく酔ったチェルニーが答えた。
「さっき、あの子が『あなた達が来る日』と言ったのは、この事ね」
「雨を降らせろと言われているような気もするわね」
 ヘレンが言ったとおり、ノユリの舞を眺める人々から、長く続く日照りの不安と、異邦人の来訪に雨を期待する切実な気持ちが伝わってきた。
「この人たちの期待に応えられたら良いんだけど」
「残念ながら、私たちは魔法使いじゃないのよ」
 チェルニーの言葉に残念そうなニュアンスがあり、実際、アダムは雨の魔法が使えるなら、この人たちの願いを叶えて雨を降らせていただろうと思った。
 ノユリの舞に村人たちが加わって、桜の樹とノユリの舞を囲む村人たちの踊りの輪が出来た。ヨゼフはこの種の騒ぎには心が騒ぐ質で、笛の音に合わせて足でリズムを取っていたし、ヘレンも酒の勢いか村人たちにとけ込んで、手を叩きながらリズムを刻んでいた。ワクウが二人の手を引いて村人の踊りの輪に誘った。
 ヘレンに手を引かれたチェルニーも立ち上がり、アダムに手招きしたためにアダムも踊りの輪に加わらざるを得ない。元来、冷静さを保ちたがる性格だが、この時は村人たちの感情に心が躍らされ、村人たちの動きを真似て踊るアダムにも、笑顔が浮かんでいた。
 そこには村人たちと客人の間に垣根はなかった。この国の人々と涙や笑顔を共有する一体感がアダムたちを酔わせた。不思議なことに、アダムたちはノユリとワクウ以外の名前は知らず、村人たちの大半も客人の名を知らない。文明国では名を名乗り合うという当然の儀礼が、ここでは通用せず、むしろ人が心を通わすのに、人を区分する名など不要ではないかとさえ思わせた。
 陽が落ち、周囲がすっかりと暗くなる頃に、踊り疲れ、空腹も満たし、酔いも回ったアダムたちの宿泊に一軒の家が割り当てられた。
 土間から上がる板張りの床に、屏風のようなつい立てて仕切られて二組づつの寝具が敷かれていた。案内役のワクウが、土間の端に置かれた柄杓で水瓶から水をすくって見せて、飲み水の存在を教えてくれた。ノユリは戸口の上に巻いてあった簾を降ろして外と中を仕切るドアの代わりにし、ぺこりとお辞儀をして姿を消した。
 窓はつっかい棒を外せば、板が降りてきて視界を遮り、外を眺めためのものではなく、明かり取りや換気の役割を果たしているだけである。換気と言っても戸口に簾がかかっているだけで大きく開かれていて、戸口の簾を通して外から光が射し込んでいた。
 差し込む光を求めて戸口の簾を開けて空を眺めたチェルニーが言った。
「綺麗な月だわ」
「本当だ」
 空にくっきりと浮かんだ満月が、相づちを打つアダムの表情が判別できるほどの光を放っているだけではなく、透き通った大気は信じられないほどの数の星の輝きを見せていた。風は土や草の香りを運び、豊かな自然の姿を伝えた。赤子の泣き声が漏れ聞こえて来たが、泣き声が穏やかに薄れる様子に、子を抱く母が赤子をあやして乳を含ませる姿が想像できて微笑ましい。チェルニーが今日を締めくくる言葉を吐いた。
「明日は、なんとか、帰る手がかりを見つけなきゃあね」
「帰りたい?」
  ヨゼフの問いに返事を返すものが居ない。帰らなければいけないことは分かっていてもこの世界や人々を否定する気にはなれなかった。アダムたちが居た世界の喧噪とは無縁の平和な村だった。
「灯りを消すわよ」
 ヘレンの言葉の直後に、家の中は闇に包まれ、ヘレンが吹き消した不完全燃焼の油の香りが漂った。この家の灯りは貝殻に満たした油に灯心を浸した原始的なランプである。こんな灯り一つにしても、アダムたちが居た世界とは大きな違いがあった。
「でも、言葉は通じたよな」
 ヨゼフはせめて日本のどこかであれば、帰る手がかりも見つかるだろうという言うのである。アダムは厚い布にくるまって横になりながら、傍らのヨゼフに言った。
「ノユリさんが、ボクに名乗ったときのこと覚えてるかい?」
「俺には理解不可能な、君のあの言葉かい」
「僕らの話し言葉が、彼らに通じている訳じゃないんだ」
「なるほど」
「それに、さっきの祭り。村人たちの意識を感じなかったかい」
 ノユリと出会った時のこと。この村の祭りに出来事。アダムは確信を込めて続けた。
「僕たちが考えたことが、感情と一緒に彼らに伝わってるんだ」
「一種のテレパシー? 言葉じゃなく考えが伝わってるって」
「試してみよう」
 アダムは念を込めるように、じっと黙りこくって考え込んだ。
(確かに)とヨゼフは思った。
 アダムが想像するチェルニーとヘレンの艶めかしい姿が伝わってくる。まるで、彼女たちの肌の柔らかさや体温まで感じるようなリアルな想像だった。突然、衝立の向こうから怒りの声と共に椀が飛んできた。
「あなた達、こっちを覗かなかった?」
 女たちはまだ自分たちの便利な能力に気づいていないらしい。この世界では、アダムたちの感情や思考が、言葉を発するように伝わるのである。この世界の人々と意志を交わすことが出来るというのは、彼らがこの世界で生きる上で手助けになるだろう。
「ドブラノツ(おやすみなさい)」
 アダムは突然のヨゼフのポーランド語に驚いたが、ヨゼフは言葉の訳を明かした。
「長いつきあいだ。この程度のポーランド語は知ってるよ」
 チェルニーの寝息が、ついたて越しに聞こえる。今日一日の出来事で疲れ切っていたのだろう。物事に動じないヘレンのおしゃべりもやんでいて、くつろいで眠ったらしい。ヨゼフもだらしなく口を開けた表情で、寝息を立て始めた。その表情は警戒心を解いてこの世界に身を任せたように見えた。
「僕らがここに来たのは、どんな意味があるんだろう」
 アダムはそう呟いたが、やがて、彼もまたわき上がってきた眠気に包まれた。この村の人々の邪気のない親切は、異邦人の心を解きほぐし、この地の一員として村に迎えていたのである。

 


 朝日が昇るまでには未だ間がある。しかし、空は既に白んで、子どもたちの姿は衣服の色や黒髪の一筋に至るまで、その姿を明瞭に現していた。まだ、大地の下の太陽は、東の空を朝焼けに染めていて、間もなく現れる眩しい光を予感させていた。
 七人の子どもたちのグループを率いるのは年長の少年で、彼らの期待通りなら、湖の畔に仕掛けた罠に魚がかかっているはずだった。そして、年長の子どもたちは幼い仲間から尊敬を勝ち得るのだろう。こうやって、魚を獲る方法が年長者から、幼い者へと引き継がれている。ワクウがこの仲間に加えてもらったのは、今回が初めてである。彼が期待で胸を膨らませているのは、漁の獲物と少しばかり大人の世界に入った嬉しさのせいである。ワクウに与えられた役割は、獲物を持ち帰るための籠を運ぶ事だった。
 その微笑ましい雰囲気が荒々しく塗り替えられた。兵士たちの一団が現れたのである。兵士たちは獲物を追い立てるように大声を上げ、手にした剣で草を薙いだ。荒々しい行為に、千切れ、踏みしだかれた草の香りが野に満ちた。兵士たちの殺気だった様子が、子どもたちを緊張させた。
「わっぱども、この辺りで異人を見なかったか」
 兵士の一人が怒鳴るほどの激しさで聞いた。子どもたちは一瞬、昨夜、ワクウと共にやって来たマレビトを思い浮かべたのだが、別の兵士の言葉がその記憶を否定した。
「お前たちも聞いたことがあろう。あの湖の向こうには恐ろしい化け物共がおる」
「時々、そやつらが湖を越えて、女やお前たちのようなわっぱを掠いに来おる」
「お前たちも、化け物に捕まらないようにした方が身のためだぞ」
 子どもたちは恐ろしさに身を縮めて兵士の脅しに聞き入った。女子どもを掠うというのはともかく、湖の対岸に異人が住んでいるという噂は、村の大人たちから聞き知っていて信憑性がある。別の兵士が子どもの恐怖を楽しむように、話しを付け加えた。
「背の高さは、そら、その木の枝の辺り。見上げるほどの恐ろしさじゃ」
「耳は尖って、耳の辺りまで裂けた大きな口からは、狼のような牙がのぞいておるわ」
「気をつけよ、お前たちわっぱなど一口に飲み込んで、骨ごとぼりぼりと囓りつくしてしまうだろうよ」
 兵士の言葉に、子供たちは昨夜のマレビトを思い出した。髪や肌の色、目鼻立ちも子供たちと違う特徴がある。しかし、彼らは南の方からやって来たし、どこか間の抜けた雰囲気が漂っていて、子どもをむさぼり食うようには思えないのである。子どもたちは兵士が探す異人が、昨日のマレビトではないことを確信した。
 異人の所在を問われた子どもたちは、そろって兵士の問いに首を横に振った。
「もしも、どこかで見かければ、我らに申し出よ」
「異人に出合ったことを、わしら以外の者に先に話してみよ、異人の祟りは、お前たちの目玉や口を腐らせてしまうに違いない」
「そうとも、奴らはお前たちの頭や腕を引きちぎって、大鍋でくたくたと煮込んで、喰ろうてしまうとも言うぞ」
 そんな言葉で、子どもたちが恐怖する様子を楽しんで気が晴れたに違いない。兵士たちは剣を鞘に収め、笑いながら立ち去った。
 子どもたちは顔を見合わせた。魚の罠を回収に行く予定だったが、兵士が語るような危険な化け物が彷徨いているなら、考え直さねばならない。
 がさりっ。
 子どもたちの背後で、何かの生き物が身動きする音と荒い呼吸音がして、子どもたちをびくりとさせた。外の背丈ほどもある草むらをかき分けて姿を現したのは、一人の若者である。ただ、肌は浅黒く豊かな顎髭を蓄えた面構えは、兵士の言葉で脅されていたされた子どもたちには獣のようにも見えた。その大きな目がぎょろりと輝いて子どもたちを眺め回した。
「逃げろっ」
 一つに聞こえた言葉も、子供たちは恐怖と共に一斉に叫んでいたのだろう。少年たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。ただ、事情が良く飲み込めないワクウのみ、取り残されて、きょとんと篭を抱えて立ちつくしていた。ワクウの目の前に現れた男。もし、この場にアダムたちがいれば、エイモスの名を呼んだに違いない。それほど、この男の顔立ちと漂わせる雰囲気はエイモスに似ている。ただ、ワクウにとって初対面の男である。
「おっちゃん、怪我してるん?」
 ワクウの言葉に男の返事はなかった。男は草むらの中にしゃがみ込んだ。草木の背丈は男の身を隠すのにちょうど良い。男は左肘の辺の痛みを感じて右手で押さえ、その指先に血がついているのを確認した。ワクウが指摘した擦り傷である。争いを避けて兵士から身を隠そうとした時に、側の松の木の樹皮に酷くぶつけて傷つけてしまったのである。
【お前は逃げないでいいのか?】
「おっちゃん、大丈夫?」
【奴らは俺たちを目の敵にして追い回している】
「ちょっと、待っときや」
 二人は年齢や顔立ちばかりではなく、話す言葉も違った。それぞれの民族の言葉が交わらずにすれ違う。やや、何かを考えていた幼児が生い茂る草の向こうに姿を消したため、男は他の少年たちの跡を追って逃げ出したのかと考えた。男はその場に身を横たえて、幼児が草をかき分ける音が遠ざかって行くのを聞いた。ここは身を隠すには良い草むらだが、兵士たちはまだ、見晴らしの利く高台にいて辺りを警戒しているかも知れない。しばらくはここで耳を澄ませて敵の存在を探りつつ、そっと身を潜めているのがよかろう。
 しかし、間もなく男の耳は接近する物音を捕らえた。兵士の荒々しさは無く、緊張感も感じさせない物音だが、男の存在を知っているように接近を続け、やがて、再びワクウが姿を現した。手にしていた籠に植物の葉が入っていたため、この植物を取りに行ったのだと知れた。
【どうした、何か忘れ物でもしたか】
「これ、つわぶき」
 ワクウは籠の中の葉の名前を口にし、何枚か手に取り、幼い手の平の中で葉の汁が出るほど揉んだ。そして潰した葉を別の葉に乗せて男に差し出した。
【コレを喰えとでも言うのか?】
 ワクウは男の物わかりの悪さに、少し眉をひそめて肘を指さしてみせ、その傷にあてがえという仕草をした。この植物には記憶がある。湿った日陰の地面によく生えている植物である。男には薬草の知識はなかったが、これがこの国の者たちが使う薬草だと分かった。この幼児は男の傷を見て、この薬草を採取して戻ってきたに違いない。
【なるほど、これをあてがえと言うのか】
 むろん、ただの迷信であって、薬効など期待できないかも知れない。しかし、この子の善意は信じて受け入れても良い。男は差し出された物を傷口にあてがった。冷たい感触が心地よい。ワクウがにこりと笑ったので、その意図するとおりになったことが伝わった。
 そして、ワクウはやや首を傾げて考え込むと、髪を束ねていた紐を解いた。今度は何をするつもりかと興味深くいぶかる男に、ワクウはその紐を差し出した。意図を計りかねる男の理解の悪さに、ワクウは男の傍らに寄って、肘に当てた葉の上から紐で縛った。男はこの子が薬草を傷口に固定したことを理解した。
【俺が怖くないのか。勇敢な子だな】
 男はワクウをそう褒めたが、もちろん言葉の意味は伝わってはいないだろう。ただ、乱れた髪を撫でつけてもらうのが心地よいらしく、にこにこと笑顔を浮かべていた。
「おっちゃんって、やさしいなぁ」
【俺の父は部族一番の勇者だった】
「おっちゃん、どこから来たん?」
【俺は自分の妻も守れない臆病者だ。子どもにさえ会えない】
「おっちゃんは、何しに来たん?」
【お前のような息子がいれば、俺は誇り高い父親として振る舞えるだろうか】
「おっちゃんの名前は?」
【お前の名は?】
 この時、偶然に同じ質問を投げかけていた。互いの言葉の意味が分からないまま交差する。ただ、互いに寄り添うことに心が安らぎ、相手の言葉が心地よく耳に響く。しかし、いつまでも寄り添っているわけにも行くまい、男は決心して、子どもたちが逃げていった斜面の上の方を指さしてワクウに語った。
【さあ、行け】
 ワクウは男の言葉が理解できないまま不思議そうに、しかし、一方では心地よさそうに男の顔を眺めていた。
【今度は機会を変えて、いつか、仲良く共に過ごせるように力を尽くすことを約束しよう】
「おっちゃん、ヘンな人やなぁ。やさしい気持ちがするわ」
 ワクウは立ち去るどころか、いよいよ男に懐く様子で、男の傍らにしゃがみ込んだ。男は苦笑いをして言葉を継いだ。
【私たちの民族は長い道のりを彷徨い、数多くの人々との出会いや別れを繰り返したが、本当の別れはない。一度できた絆はいつか人を導き、再び出合わせる。俺は父の言葉を信じている。だからお前も信じろ。さぁ、】
 男がかけ声をかけ、ワクウに立ち去る方向を指さした時、その方向に新たな声が響いてきた。言葉の意味はよく分からないが、その荒々しい声音に、子どもの声が混じっていて、先ほど逃げ去った子どもたちが兵士を連れて戻ってきたのだと知れた。男は緊張した。戦闘さえ覚悟するように腰につけたナイフに手を伸ばした。
【あっ】
 男が声を上げかけたのは、突然にワクウが立ち上がって、斜面を駆け登り始めたからである。男はワクウが自分の存在を兵士に知らせるのではないかと感じたのである。ワクウはぴょんぴょんとウサギのように飛び跳ねるような駆け方で、やって来る少年と兵士に姿を晒した。
「ワクウ。大丈夫やったか?」
 年長の少年がそう尋ねて、ワクウは黙って頷いた。兵士が駆け寄ってきてたずねた。
「わっぱ。異人を見たか」
「異人はどちらに逃げた?」
 兵士のたたみかけるような質問に、ワクウは男に背を向けて西の方角を指さした。
「港の方角か。者ども、異人を追うぞ」
 斜面の下で草むらに伏せて様子を窺う男には、聞こえてくる兵士の激しい言葉の意味は理解できなかったが、指揮官らしい兵士の指示で三人の兵士たちが、ワクウが指さす方向に駆け出して姿を消したのがかいま見えた。男はワクウの意図を察した。あの幼児は男が兵士に見つからないように、別の方向に誘導したのである。男はあの幼児の笑顔を思い出して、疑ったことを詫びるように薬草を腕に固定した飾り紐を撫でた。少年たちが立ち去るまで、彼らを驚かさないようにじっとしていようと心に決めた。しかし、あの幼児との短い出会いと別れは男の心に刻まれた。

 一方、斜面の上では、兵士に取り残された子どもたちの興奮が冷め切らない。少年たちはワクウの安否を気にするように体中を眺め回して質問した。
「ほんまに大丈夫か」
「うんっ」
「怖わなかったか」
「うんっ」
「どこか、喰われへんかったか」
「うんっ」
 年長の少年たちには、恐ろしげな異人というイメージにとりつかれているようで、村に帰る道すがら、ワクウは何度も同じ質問を受け、同じ返事をすることになった。
 子どもたちはこの朝の罠の確認は断念したが、失望感はない。今朝の分は明日の朝回収すればよいのである。思いもかけない冒険が出来たことと、幼い仲間の勇気を称える雰囲気で心地よかった。既に朝日は姿を見せて、雲一つ無い空が高く青い。高台から東を眺めれば湖に光が映えてきらきらと眩しかった。
「そやけど、今のこと、大人には黙っとけよ」
 年長のリーダーの言葉に他の子どもたちは頷いた。子どもたちの知恵である。余計な心配をかけたくはないし、大人に話せば、子どもたちだけで魚の罠を確認に行くのを止められたりするかも知れない。そして何より恐ろしい事を口にした。
「あの兵たちが言うことがホンマやったら、あの事を話したら異人の祟りがあるで」
 子どもたちはまた頷いたが、ワクウのみ、その言葉に少し首を傾げていた。田畑を抜けて村に入ると、既に村は賑やかで、大人たちは朝の仕事に取りかかっていた。
 息子を見つけたノユリが声をかけた。
「ワクウ。母さんを手伝ってちょうだい、お客様に食事を運ぶの」


 朝露のしっとりした湿り気が、入り口の筵の隙間を通して入ってきて肌が心地よい。野鳥のさえずりに包まれて、アダムたちは優しい目覚めを迎えた。薄い敷物から草の香りがし、自然に身を任せる心地よさがあった。
「ここは何処なのよ」
 チェルニーの声で彼らは我に返った。信じられない状況から現実逃避するように、夢の余韻の中を彷徨っていたが、確かに、ここは昨日の朝まで彼女たちがいた場所ではなかった。木槌の音や男たちのかけ声が響いてきた。窓を開けて外を覗けば、人々が昨日までの祭りの後片付けをしているのである。彼らが身につける衣類や髪型は、質素で着古した衣類だが、丁寧に繕ったり洗ったりしてあるようで、人々の生真面目な気質が伝わってきた。
「質素だけど、満足感があって幸せそう。東洋にエデンの園があったとしたら、こんな所かしら」
「そうだね。いい笑顔をしている」
 アダムたちは小屋を出て、目の前の景色に、理想郷を思い描いてため息を付き合った。
「お目覚め?」
 ノユリが姿を見せた。ほかほかと湯気の立つ円筒形の木製容器を抱えていた。ワクウが入り口の簾をかき分けその隙間からノユリが家に入り、木の床に布を敷き、ワクウは母親を手伝って、部屋の隅に積み重ねられていた敷物を、客人の数だけ並べて置いた。
 アダムたちはその意味を理解した。これがこの世界の食卓らしい。四人は敷物に座って感謝を表すように笑顔を浮かべた。
「あらっ、ワクウちゃん、今日は髪型が違うのね」
 チェルニーの問いにノユリが笑った。
「そうなんです。よく物を無くす子なんですけど、髪を結う紐まで無くすなんて」
 敷物に輪になって座る四人の来客の傍らに、膝をついて湯気の立つ容器を置いた。蜆や山菜を混ぜて柔らかく蒸した何かの穀物である。ワクウが肩に提げてきた袋から椀を出し、ノユリが湯気の立つ粟飯をよそって木の匙を添えて差し出した。もてなす側の優しさを感じ取ることはできても、貧しさを隠すことはできない。これがこの世界の人々の朝食メニューらしい。
 ヨゼフは食べ物だと言うことを確認するように、くんっと香りを嗅ぎ、一口味わってから食べ始めた。他の仲間に頷いてみせて食べてみろと促した。椀を口元に寄せたチェルニーはこの香りに記憶があった。卵から生まれて間もない幼鳥にお湯でふやかした粟を食べさせたときにかいだ香りである。口に運んでみたが、ヨゼフがぺろりと食べたほど旨いものではない。さすがに吐き出すことははばかられて、細かな粒が口の中でざらざらするのを水で喉の奥に流し込んだ。二口目以降は口にするのも気が引けた。
「お口に合いませんか?」
 客人の食が進まないのを見たノユリが詫びるようにそう言った。
「何か別の食べ物は?」
「今はこれしか無いんです」
 ヘレンのそんな催促に、ノユリは考え込んでぽつりと言った。その傍らで客人の笑顔を期待していたワクウも、しょげかえるようで哀れに見えた。
 ノユリが姿を消すのを見て、ヘレンがヨゼフに文句を付けた。
「あなた、よくこんな鳥の餌が食べられるわね」
「まさか、ここでハンバーガーが食べられるとでも? この土地に来た以上、ここに合わせなきゃ」
 ヨゼフの言葉に、チェルニーがヘレンを支持して意見を吐いた。
「昨夜はあれほど食べたじゃない? この村が食料に困っているようには見えないけれど、昨日より待遇が悪くなったみたい」
 アダムやチェルニーはつい先ほどまでこの世界をエデンの園にも喩え、そこに住まうのは思いやり深い人々だと考えていた。しかし、アダムたちに与えられた食事の粗末さを見れば、考え直さざるを得ないと感じるのである。
「たとえ、犬や小鳥の餌でも食べておけよ。今日は一日中忙しくなるはずだから」
「アダム、言い過ぎだ」
 アダムの言葉にヨゼフが不快感を表し、その怒りを他の仲間にも向けた。
「不味いとか、犬の餌だとか。お前たちが不満なら、俺が一人で食うぞ」
 そう言われると、嫌々ながらでも食事を口にせざるを得ない。
「さて、今日はどうする?」
「決まってるわ。ロールプレイングゲームではこういう場合、村の有力者から情報を得ることになってるのよ」
「まず、この村の村長に会ってみよう」
「村長というと、ノユリさんのお父さんだね」
 昨夜、暗がりで見た村が隅々まで朝日に照らされていた。村人たちが賑やかに集まっていた桜の樹の周りには今は人影すら見えず、まばらに見える小屋の側にある畑を耕す人々が見えた。
「質素な村だね」
「ヨゼフ、それは何?」
「何に見える?」
 ヨゼフが手にしている藁細工を掲げて見せた。
「馬かしら」
 ヘレンはそう推測した。形は長い頭部と長い足、尾はピンと後方に伸びていて、たしかに馬に見える。
「何かの呪術の道具、あるいは、子どもの玩具。もし、子どもの玩具なら……」
 そう言うヨゼフにアダムが尋ねた。
「それが?」
「小屋の隅にあった。この小屋の先住者について、ちょっと気になってね」
 貧しさを感じる光景である。隣の小屋から顔を覗かせたワクウが招き入れてくれなければ、村長の小屋を見つけることは出来なかったかもしれない。ヨゼフは手にした藁細工の馬を、飛び跳ねるように動かして見せた。ワクウはヨゼフの笑顔に吊られるように寄ってきて、差し出された馬の玩具を受け取った。
「ワクウ、忘れ物をしていたの」
 入り口から顔をだしたノユリがそう言って、息子の頭を撫で、忘れ物を届けてくれたヨゼフにお辞儀をした。
「ワクウのためにありがとうございます。どうぞ、中へ。父母はまだ食事中ですが」
 アダムとチェルニー、ヘレンの三人は顔を見合わせた。彼らが一夜を過ごしたのはノユリとワクウの住居だと言うことである。二人はアダムたちに家を明け渡して、父親の小屋の一角に間借りしているのである。眺め回せば、複数の来客を迎え入れる余裕は、この村に無さそうだった。ただ、旅人に気遣いをさせずに受け入れる様子は、村が貧しいという表現ではなく、清楚と表現して良いだろう。
 小屋の中には単純な香りがした。蒸した粟飯、そのものの香りである。ノユリは父母のために粟飯をよそって盆に乗せた。
 ヘレンが隣のアダムの脇腹を肘で突いて椀の中を見るように促した。ほかほかと湯気の立つ粟飯は粟ばかりで何の具材も入っていなかった。小振りな椀に一杯の粟飯と小魚の干物。先ほどヘレンたちに供した食事に比べてなんとみすぼらしい食事だろう。アダムたちは食事に文句を言ったことを恥じた。彼らの貧しさと、貧しさの中で、精一杯に客をもてなす優しさが伺えた。
「ノユリさんたちは?」
「私たちはすぐに薬草摘みに出かけます。だから、父と母より早めに朝食を終えました」
 小屋の奥から、無口な夫に代わって村長の妻が立ち上がり、ノユリから朝食の盆を受け取りながら尋ねた。
「何かご用でしょうか」
「お話を伺いたいと思ったのですが、お食事のようですから出直してきます」
「かまいません。今、伺いましょう」
 村長はその一言のみで、にこにこと笑っているだけで後の言葉がない。戸惑い、尻込みを仕掛けるアダムに代わってヨゼフが遠慮もなく靴を脱いで板を張った床に足をかけた。
「では、お邪魔します」
 ヨゼフは村長の招きに応じたが、住居や食事で文句を言っていたアダムやヘレンは後ろめたさを感じて躊躇した。薬草摘みに出かけると言ったノユリが、アダムたちに声をかけてから父親の傍らに座った。自分も何か役に立てればと仕事を後回しにした気配が感じ取れた。ヨゼフはその仲間に手招きして呼び寄せて、昨日からの事情を語った。
 村長と妻はアダムたちに同情を示した。
「それは難渋して居られることでしょう」
 村長の妻が人の良さそうな笑顔で頷いた。
「本当に」
 しかし、地名や歴史や人名に関わる話題は、ことごとくすれ違った。一致する話題は天候や季節に関わる事柄だけで、それすら、昨日までアダムたちがいた日本の「梅雨」という言葉はなく、ただの長雨の季節と言うことにすぎない。彼らは帰るための手がかりを何も得ることは出来なかった。
「お役に立てないで済みません」
 そう言うノユリやその傍らで残念そうな表情のワクウを眺めると、こちらが恐縮させられる。彼らはこの場を辞した。
「心ゆくまで逗留なさるがよろしかろう」
 村長はアダムたちにどこから来たのかと問いもせずそう言って、出て行く客人を見送った。

 村長の家から外に出た四人は、小屋の前で話し合いの輪を作った。これからの予定を相談せねばならない。
「それにしても、ヨゼフって大胆というか、厚かましいわね」
「私も、食事を中断させたのは気が引けたわ」
 ヘレンやチェルニーの非難の言葉にヨゼフは心情を明かした。
「あの人たちの善良さを素直に受け入れろよ。俺たちが辞退したって、あの人たちは俺たちとの話を優先させるぞ。それならさっさと話を済ませて、暖かい食事をしてもらう方が良いさ」
「そういうものなの」
「遠慮は無用だよ。この人たちの善意は素直に受け取ればいいさ」
「私、考え直したわ。今朝、この世界の満ち足りた様子を見て理想郷じゃないかと思ったんだけど、今は違う。貧しいなかで心豊かなことが理想郷なのね」
 物思いに耽るようなチェルニーにヘレンが現実的な判断を下して言った。
「でも、ここにじっとしているわけにはいかないわ」
「僕たちが探すしかないという事だな」
「わすれないで、私たちはこの世界ではお尋ね者だから」
「ヘレン。それは貴女があの男たちをぶちのめしたからよ」
「和ちゃん」
 アダムはそう言いかけて、勘違いに気づき、背後に手招きをして正しく名を呼びなおした。
「ワクウちゃん」
 ワクウが村長の家の入り口に立って彼らを見守っていたのである。遊びの輪に入れてもらいたいのに、面識が浅くて甘えるのを遠慮している感じ。そういう無邪気な感情がワクウから伝わってきて、誰もワクウを話の輪に入れるのに異存はなかった。チェルニーがワクウの髪を撫でながら肩をすくめた。
「この村の人たちは親切だけど、話を聞いても何も分からないわね。大阪はどっちにあるのかしら」
「僕らと生まれ育った環境が違いすぎるんだね」
 ヨゼフはそう言い、意見を促すようにアダムの顔を眺めた。アダムは話を切り出した。
「まず、調べなくてはいけないのは、ここがどこかと言うことだ」「幸いこの村の人たちは信じて良さそうだ。この村をベースキャンプに調査を進めよう」
「それも出来るだけ早く」
「重点的に調べるさ」
「それじゃあ、昨日私たちが現れた辺り」
「目的は、帰るための情報と、行方不明になってるマリア、和ちゃん、エイモスの三人を探す事」
「ワクウ。ここにいたの」
 突然に会話割り込んだのは、息子の姿を探していたノユリの声だった。昨日の薬草を入れる籠を手にしたノユリの姿に、アダムは思いついたように仲間に言った。
「ごめん。僕はノユリさんと出かけてみるよ。この世界の人から話を聞くのも、何かの手がかりになるかもしれない」
「薬草を摘むのね。私も一緒に行って良い?」
 医学を学ぶ者として、チェルニーは薬草という言葉に興味を示し、ノユリは笑顔で頷いて同行を許可した。ヘレンにも異存はなかった。
「それが良いかもしれないわ」
 未知の危険を秘めた行動である。ヘレンが予想する危険を考えれば、ヘレンが他の仲間を守ってやらなくてはならないこともあるはずだ。のほほんとした性格だが、ヨゼフの身体能力は、不意の危機を避けることが出来るだろう。ただ、他の二人は戦闘では足手まといに違いない。彼女の偵察に同行する者はヨゼフで充分である。
「では、私とヨゼフは、昨日来た辺りを探索しましょう」
 そんなヘレンの言葉に、戦闘的な考えを読み取ったチェルニーが念を押した。
「ヘレン。平和的に、友好的に、笑顔で行動するのよ」
「それは、相手の出方次第よ」
 ヘレンの言葉に反論も出来ずチェルニーは不安げに肩をすくめた。ヘレンはそんな仲間を尻目に宣言した。
「さぁ、マリアたちを探索に行くわよ。海兵隊は仲間を見捨てない!」
 ヘレンの言葉に不安を隠せないアダムに、ヨゼフは決意したように頷いて見せて、なんとかヘレンの好戦的な行為を押さえる努力をするつもりだという意図を伝えた。
 賑やかなマレビトたちはこの村の人々の注目を集めていた。村の人々に見送られるように、ヘレンに率いられたヨゼフは村を発って南に向かおうとした。予定通りなら戻ってくるのは夕刻前だろう。
「あのぉ」
 ノユリがヘレンとヨゼフの背に声をかけて引き留めた。
「なぁに?」
「舟が必要では?」
 ノユリの言葉に、ヘレンは沈黙し照れ笑いを浮かべた。確かに、南の土地とは川で隔てられていて、向こう岸に渡るには舟が必要である。ヘレンは思考より行動が先走る質だった。ノユリは言葉を続けた。
「昨日の舟をお使いください」
 ノユリの言葉に、ヘレンたちは照れ笑いを浮かべたまま立ち去った。見送るノユリは、心配そうに眉をひそめてアダムを振り返って尋ねた。
「大丈夫でしょうか」
 そのノユリの表情と様子に、アダムは思わず微笑んだ。
「何か?」
「失礼。貴女が知り合いに似ていたもので」
 アダムは戸惑いを隠せないまま、そんな返事をした。大丈夫でしょうかと問う善意は信じて良い。ただ、その言葉をのほほんとした雰囲気で口にする様子が、マリアに似ていたのである。昨夜、桜の木の下で舞っていたノユリの姿も、感情をダンスのステップに乗せて躍るマリアの姿に重なった。
「さぁ」
 彼女は籠を掲げてみせた。出かける準備が整ったことを示したのみで、そのままアダムに背を向けて歩き出した。ついてこいとは言わないが、ついて来るだろうと信じて疑わない行動である。この妙なリーダーシップもまた、マリアを連想させた。ワクウが小走りに母親の背を追い、アダムとチェルニーもその後に続いた。

「ほぉっ」
「へぇ……」
 アダムとチェルニーはそろってため息をついた。のどかな自然の風景である。村から北に林を通り抜けて、景色を遠目に眺めると、空と地を隔てるなだらかな山の稜線が北から東へと続いていた、ここが山に囲まれた土地だと分かった。あちこちで乱れ咲く黄色い花の周囲で幾匹もの白いチョウが静かに舞っていた。大きく深呼吸をしてみると、排気ガスなど無縁の草木の芳香が肺を満たした。
「あの黒い地面は何だろう」
 アダムの興味を引いたのは、視界が開けた辺り一帯に広がる、細い道で分けられた土地である。昨日も同じような地形を眺めていた。アダムの意外な言葉にチェルニーが首を傾げた。
「黒い地面? 貴方、そんな風に見ているの」
「君は知っているのかい?」
 普段は博学だと尊敬もしているアダムの質問に、チェルニーは得意げな笑みを浮かべた。チェルニーはアダムが知らないことを常識として知っていた。彼女の母国でもよく見かける稲を育てる田園風景である。
「稲を育てるのよ。あそこを耕して、水を引き入れて水田を作るの。そこに稲の苗を植えるのよ。昨日、ヘレンが芝生って呼んでたのを覚えてない?」
「なるほど、あれが稲の苗なんだ。そしてこの田園が、稲が実った景色に変わるんだ」
 アダムは実りをつけた稲の穂がそよぐ田園風景を眺めたことはあるが、水田を作る前の田を眺めたのは初めてだった。昨日の踊りの最中、人々から伝わってきた豊かな収穫の期待は、この景色から始まるのである。そして、日照りを心配する村人たちの心情も理解できた。水田を作り稲を栽培するためには豊富な水が要る。
 新しい知識と経験に、アダムは少年のような無垢な好奇心を満足させた。ただ、目の前に広がる広大な田園で稲を栽培しているという人々が、米ではなく粟を常食としているのはどういうわけか。アダムはこの人々の収穫を簒奪する強欲な権力者の存在を想像した。
「田植えが始まると、私たちも忙しくなります」
 ノユリがそう言って笑った。チェルニーはアダムに頷いた。
「なるほど。薬草摘みは、農閑期のお仕事なのね」
 アダムも長老の家の片隅に鋤や鍬があったのを思い出した。ここがどこなのかは分からないが、耕耘機などの機械は無いらしい。この田の表面を鋤や鍬で掘り起こし、田に水を入れて水面の下の土を平す。体力と人数が必要な作業である。村の人々の明るさはそんな重労働を苦にする様子はなかった。ただ、ノユリは少し表情を曇らせて、右手をかざして太陽を仰ぎ見た。
「でも、今年は雨が少なくて、苗を植える日を選ぶのが大変です」
 ノユリは小首を傾げて付け加えた。
「遠くからお客様がいらして、雨をもたらせてくれると願ってたんですが」
 ノユリの言葉に、チェルニーがアダムに問いかけた。
「それが、私たちが村に歓迎された理由なのね」
「マレビトが幸運をもたらしてくれると信じてるんだ」
 ただ、晴れ上がった天候はその期待が裏切られたと言うことだが、ノユリたち村人は、その恨みをアダムたちに向けることもなく、運命を受け入れているようだった。
 ノユリはアダムとチェルニーを導くように歩き続け、水田が広がる景色を抜けた。目の前に草原が広がった。ここが目的の場所だった。ワクウはしゃがみ込んで産毛に覆われた柔らかい緑の葉を指さして彼が覚えた薬草の名を挙げた。
「よもぎ」
「それはもっと先、暑い夏が終わって、秋になってから採るのよ」
 息子にそう教えるノユリの後ろ姿は穏やかで、母親としての包容力を感じさせた。アダムはふとマリアのことを思い出した。マリアとノユリの二人は似ている。違いがあるとすれば、この包容力の大きさという点で、それを生み出しているのはこのワクウという子どもの存在に違いない。ただ、疑問も感じさせる。このノユリの夫の姿を見かけないのである。しかし、それを尋ねるのは、やや気が引けた。会話の中に夏や秋という言葉が出てきて、この土地に四季があることが分かった。アダムは聞き取った情報を胸のポケットから出した手帳に書き留めた。
 アダムは周囲を見回した。おそらくこれから夏を迎えようかという、春の残り香を残す光景である。この自然豊かな光景が春から夏へ、夏から秋へと変貌する。どれほど美しい光景だろう。そして、その後迎えるのは冬の景色だが、この人々の背景となれば穏やかで落ち着いた優しさを生むに違いない。足下の草むらから、二匹の野ねずみが姿を現して、追いかけっこでもするように走り去った。人の背丈ほどの高さの空をトンボが舞い、抜けるような空を見上げれば鷹が飛んでいた。自然のみならず生き物も豊かな土地である。
「おおばこ」
 息子が指し示す植物に、母親は笑って首を振り、誤りを教えた。
「ふぁこべら」
 今度は白い花をつけた植物を指したワクウにノユリは息子の頭を撫でて、その知識を褒めた。ワクウが口にして名は違っていたが、ノユリが探す薬草の一つを見つけたのである。
「ふぁこべら? この白い花をつけた草かい?」
 背丈の低い植物で、アダムは屈まないと地面に手が届かない。
「傷や腫れ物、痛み止め、何にでも利くんですよ」
 ノユリがそんな説明を加えながら草を摘み、かごに入れた。しゃがんで薬草を摘む姿勢になると、顔が接近して見える。
(なるほど)とアダムが思ったのは、至近距離で見るノユリの顔立ちは、マリアと微妙に異なっていたからである。楽天的な雰囲気は共通していても、マリアのような夢を見る無邪気さはなく、落ち着きがあり、思慮深さを感じさせる。母親という立場が落ち着きを醸し出すのかもしれないが、その落ち着きの中にどこか寂しさを漂わせている。その寂しさがアダムに質問する決心をさせた。
「貴女たちはお二人だけ?」
「えっ?」
「失礼だけど、ワクウちゃんにお父さんは?」
 アダムはノユリの表情が曇るのに気づいて、尋ねてはならないことに触れてしまったことに気づいた。ノユリはすぐに笑みを取り戻して、寂しい笑顔で言った。
「ワクウ、あの子に父親はいません」
 ノユリは言葉を詰まらせて、それ以上の会話を拒絶するように顔を伏せた。彼女の言葉と同時に感情が伝わって来るのだが、居ませんという言葉に、死を予感させる絶望の感情はなく、あきらめに似た意識が伝わってきたのみである。アダムは単純にノユリの夫、ワクウの父親の死を想像した。時と共に悲しみも薄れ、ノユリにとって夫の死があきらめになったと言うことか。アダムはそう解釈した。二人を隔てる距離は僅かだが、互いの視線はすれ違う。やや気まずい沈黙をワクウの声が救った。
「母さん、これ」
 ワクウがチェルニーと一緒に摘んだ薬草を両手一杯に抱えてきて母親に見せた。母親がその植物を眺めて、息子がちゃんと薬草のみ選別して摘んだことを確認して頷いて、笑顔で頭を撫でた。ほどなく、籠は一杯になり、アダムやチェルニーはそれ以上深く詮索することなく、ノユリとワクウの後に続いて帰途についた。

 青空に輝く恒星。それがアダムたちが住んでいた世界の太陽と同じ星なら、既に中天をすぎて、この土地は昼を迎えている。しかし、人々は働き者で午前午後を労働に費やしているのか、貧しくて食事を取ることが出来ないのか、ノユリもワクウも昼食を取る様子がない。むろん、田や畑で働く人々休息を取るのは見かけても、食事をしている姿はなかった。村に戻ったアダムは、家の脇に枝を組んで広げた筵の上の枯れ草の正体を知った。ノユリは枯れ草を大切に麻の布袋にしまい、先ほど摘んできたまだ生命感のある植物を代わりに並べた。この日当たりが良く、風通しの良い場所で、摘んだ薬草を乾燥させていたのである。
 干し終わった薬草の入った袋を示してノユリが言った。
「明日、この薬草をアラハカのセヤクインに納めに行きます。ご一緒されますか?」
 ノユリが今まで無言を保っていた。何か不都合なことを聞いてノユリに嫌われてしまったのかと考えていたのだが、突然の申し出にアダムは面食らった。
「もちろん。ただ」
「ただ?」
「ご迷惑では?」
「いいえ、この子も喜びますわ」
 ワクウが遠慮がちにアダムにまとわりついた。会ったことがない父のイメージをアダムに重ねて、甘えるようにも見える。
「では、お願いします」
 同行するというアダムの受諾をノユリは笑顔で受け入れた。セヤクインというのは聞き慣れない響きを持った言葉だが、病院に近いイメージをもって伝わってきた。そして、ノユリが発したアラハカという言葉は、地名であり、町の名であり、様々な施設の集合体というイメージを伴っていた。この国の行政に関わる組織というイメージがアダムの心に焼き付けられた。ノユリから政治や行政に関わるイメージが伝わってきたのは初めてだった。アダムは試しに問うてみた。
「貴女は、この国の政治をどう思いますか?」
「政(まつりごと)ですか?」
 ノユリは笑顔で首を傾げるのみである。隠し立てをする様子はなく混乱する意識のみが伝わってきた。彼女は政治や国家体制という仕組みを理解していないばかりか、そんな思想は頭の片隅にも無いらしいのである。民主主義とか社会主義など、政治体制には無縁の、この土地で生まれ、一生懸命に生きて、時が来れば命が尽きて土に帰る。ノユリ母子はそういう自然の摂理に身を任せる人々なのだろう。そんな人々が会釈を交わしながら行き交う景色を、傾きかけた陽の光が照らしていた。この人々は一日を無事に懸命に生きたのである。
 この時に、村に戻ってきたヨゼフの姿が見えた。背後に弓を手にしたヘレンの姿が確認できるが、姿を消してしまった仲間の姿はない。ヨゼフが肩をすくめる様子で、姿を消している三名は見つからなかったことが分かった。
 
 ヘレンの言葉を借りれば作戦会議である。彼らに与えられて宿舎の中で、今日一日の情報交換が始めた。ヘレンが口を開いた。
「昨日、川を渡る前に、まっすぐに南へ延びる街道があったでしょ?私たちは昨日の雑木林に隠れながら南へ向かったの」
「何か見つかったかい」
「だめね。西には昨日見た海辺。東は草むらや林が続いていて、途切れたところには至る所に畑があった。それだけ。貴方たちは?」
 ヘレンが報告を終え、アダムに問いかけた。チェルニーが答えた。
「村の北には、田植え前の田が広がっていて、遠くに山が続いて見えただけ」
 チェルニーの言葉に、アダムが新たな疑問を重ねた。
「稲の栽培、水田。そこからこの地域が特定できないかい」
「水田で稲を栽培するのには、温暖な気候で、雨が多いことかな」
「地域で言うと?」
「東南アジア、中国東南部、朝鮮半島、日本」
「その中で、五月から六月に田植えをする地域は?」
「私はそこまでくわしくないわ」
 場所を示す情報はここで途絶えた。ヨゼフが報告を引き継いだ。
「街道を進むと、商店が並んでるんだけど」
 商店が並ぶという言葉に、アダムは彼らがいたニッポンバシの雑然とした商店街を思い浮かべたのだが、ヨゼフは続く言葉でそれを打ち消した。
「ファンタジーみたいな気がするんだ。店というか、地面に商品を並べて売ってるんだ。映画で観た大昔の市場の様子に見えたよ」
 ヨゼフの言葉にアダムが応じた。
「こちらも一緒だ。村人たちに国や政治という感覚が無いんだ。大昔の人たちのように」
「では、ここは大昔のどこかなの?」
 チェルニーの疑問に答える者がなく、ヨゼフは言葉を続けた。
「街道の突き当たりに、大きな建物があって、何かの塔が建ってた」
 ヨゼフがそこで言葉を途切れさせたために、アダムは彼の表情を眺めて続きを督促したが、彼は言いにくそうにヘレンの持つ弓に視線を移した。ヘレンの手に見慣れない弓がある。弓に視線が集まるのに気づいたヘレンが、へへへと照れるように笑って言った。
「戦利品。その塔を確認しようと接近したら、昨日のあの人と出くわしたのよ」
 彼女は昨日のケハヤという男と戦って、今度は手にした弓を勝ち取ったというのである。文句の一つも言われるだろうと肩をすくめるヘレンに、アダムは予想外のことを言った。
「塔? それだ。その場所、その塔がアラハカじゃないだろうか」
「どうしたの、何かの塔なら、確かに見えたわよ」
「ノユリさんが薬草をアラハカの施設に納めに行くと言ってた。たぶん、ヨゼフが見た施設じゃないか。明日、ノユリさんと一緒に行ってみるよ」
 ヨゼフが提案した。
「では、俺たちも一緒に」
 この時にノユリが現れた。夕餉の膳を運んできたのである。朝食に比べれば品数も多く、目立って豪華になっている。この世界の人々は朝食を粗食で済ませ、豪華な夕食を食べると言うことだろうか。傍らに侍るワクウの目を見れば、特別な日のご馳走を眺める珍しいものを見る目つきで、ノユリが客人のために特別なご馳走をそろえたことが想像できた。
「ご一緒に食べませんか。私が取り分けますから」
 ヘレンが蒸した粟の上に乗った具材をかき分けて、粟の部分だけを仲間の椀によそった。
「この連中は、ダイエットが必要ですから贅沢は避けてるんです」
 そして、残った粟に蜆や海草など贅沢な具材加えてノユリやワクウの椀に盛りつけた。チェルニーは自分の椀を手にして言った。
「みんなで食べると美味しいわ」
「明日の朝も、この村の皆さんと同じもので結構です。みなさんと同じ食事を提供していただいていることを心から感謝しています」
 ヘレンの言葉を受け入れてノユリが提案した。
「では、明日の朝食は母屋で父を交えて食事をしてはいかがでしょう。父も賑やかで喜びます」
 ノユリとワクウを交えた食事が始まった。
「食べなさい」
 チェルニーは小皿に盛りつけてあったドライフルーツの1つを手にして半分にちぎりワクウに与えた。彼女はふと思った。貧しくは見えるけれど、同じものを分け合って食べるというのは心を分け合う心地よさがある。
 食事が終わり、ノユリはあくびをする息子に、空になった食器の一部を持たせて父親の村長が待つ小屋に去った。その仲の良い母子の後ろ姿を眺めながらアダムがぽつりと言った。
「豊かな田や畑があるように見えるけれど、全てが農民のものではないんだね」
「きっと重い税にあえいで居るんだ」
「強欲な支配者が居ると言うこと?」
 豊かな田園地帯と、粟を常食とする貧しい食生活。巨大な建築物群と、清楚だがすきま風のはいる家のギャップが、彼らの意識の中に、この善良な人々に貧困を強いて、私腹を肥やす悪逆非道な独裁的権力者のイメージが湧いていた。

 


 川面がからりと晴れた空から注ぐ朝日を浴てまぶしい。その川を横切って、一艘の船が対岸の船着き場に着いた。
「ごめんなさい」
 ノユリは荷を担ぐヨゼフに詫び、ヨゼフは笑顔で気にするなと告げた。薬草を入れた大きな麻袋を担いで、村の南にある施薬院に税として納めに行く。今日はヨゼフがその税をノユリに替わって担いでいる。アダムたちはノユリに案内されながら、南の方角を探索するつもりなのである。
 ノユリの村から川を渡った船着き場から、草むらの中に続く細道を南に抜けると、街道に合流する。街道の西に延びるその端は、アダムたちがこの世界にやってきた日に眺めた何かの倉庫群や役所らしき建物がある。ノユリはそれを租税の穀物を収める倉と役所だと語った。街道のもう一端はまっすぐに南に延びていた。役所に向かう街道に、小規模な市が見えたものの、アダムたちが歩む南の方向に人気は絶えた。やや歩くと北東に延びる分岐があり、ノユリは興味なさげに、その先には砦があるだけだと言った。その無関心な様子で、この世界で生活する人々が、軍隊とは無関係に生きる人々だと分かった。
 雑木林の中を縫って進み、たまに雑木林の切れ目があると、その隙間から西に海が見えるという光景である。
 平坦な道を一時間ばかりあるいて、その景色の単調さに飽きた頃、昨日、ヘレンたちの語ったとおり、賑やかで街道を行き交う人々の姿もちらほら見かけるようになってきた。さすがに、外見の違う異邦人は注目を浴びたが、先導するノユリの笑顔や、安心しきってアダムたちに寄り添うワクウの姿を見ただけで、彼らは警戒を解いたように見えた。
「ずいぶん温厚で寛容的な人たちなのね」
 チェルニーの好意的な評価をアダムが冷静に修正した。
「あるいは、生活が苦しくて、僕らにかまっている余裕がないかのどちらかだね」
「ずいぶん厳しい評価だね」
 ヨゼフがアダムの言葉を批判じみた口調で評した。行き交う人々が漂わせる善良さを素直に受け入れれば、温厚な性格だと考えても良い。ただ、アダムは人々から重い荷を背負うような一途な気むずかしさを感じ取ったのである。この国を満たす豊かな自然が切り開かれて、文明を誇示するように、彼らの目の前に塔がそびえていた。タイ生まれのチェルニーは、仏教建築にもやや知識があった。
「仏教建築のようにも見えるわね。あの塔は寺院のシンボル。だとしたら、塔の周囲に仏像を祀るお堂があるの。でも、私たちが見るお寺とは少し雰囲気が違うわね」
「寺院だとしても、この世界の人々とは符合しないようだね。ノユリさんは仏教徒では無さそうだ」
 ノユリの村に迎えられた日の祭りの様子を思い出せば、民俗学に興味のないヨゼフにも結論が見いだせた。
「神々を持たないか、すべてに神が宿っていると考えているのかどちらだろう」
 手にしたパズルの一片が左右は当てはまりそうだが、上下の凹凸は一片の角度を変えても当てはまらない。彼らが既に目撃した、桜の樹に豊穣の願いを託して祭りをするというのは、神への祈りでも、仏教の教えというわけでも無さそうなのである。
「いろいろな宗教があるのか、特別な教義のない原始的なアニミズムの社会に、新たに仏教が入ってきているという感じかな」
 道は他の道と合流して幅を増す。同時に行き交う人々も増えていた。アダムたちはいつの間まやら人々の喧噪の中にいた。喧噪に何かの商品の売り声が混じってくると、道の両脇には四方に人の背丈より少し高い柱を立てて屋根だけ拭いた露店が並んでいた。

 昨日ヨゼフがファンタジーと称した光景である。露店は地面に直接に筵を敷いて、様々な商品を並べている。店の並びは雑多で、鋤や鍬を並べる店の横に、布や衣服を売る店があり、その向かいには野菜を売る店や、素焼きの皿や壺を並べる店があり、景気の良い売り声で道行く人々を誘い、人々は軽い好奇心で店を覗いて、売り子をからかったりしていた。雑踏の中、天秤棒を担いだ男が人々にぶつかりもせず器用にバランスを取って魚を運んでいた。
 さすがに、肌の色や顔立ちが異なるアダムたちは、人々の好奇心を刺激したらしく視線を集めたが、その好奇心に敵意は混じってはいない。見慣れぬ姿の人々より日々の仕事の方が大事らしく、商売をおろそかにしてアダムたちに関わろうとする人は居なかった。
「ここに居れば居るほど、何もかも分からなくなるね」
 ヨゼフの言葉にチェルニーが頷いた。肌に感じるのは温帯地域の気温だが、彼らの世界のどこを思い浮かべても、目の前の人々の生活に該当する文化はなかった。彼らが生まれ育った世界との接点は見つからず、彼らが帰る手がかりもない。ワクウの村で感じた清楚な貧しさと、この市で感じる人や物流の社会の活気、状況が混沌としていて整理されない未成熟な社会。
 アダムたちが目にしていた塔の屋根が、幾重にも重なり合って層になっていた。その周囲を塀が囲んでいるのだが、塀の上に覗き見える塔や、周囲の建築物の壮大さ、塀に沿ってその外周を歩く距離の長さで、この建築物を含む施設全体の大きさが知れた。この建築物の巨大さは、強欲な権力者のイメージを持っていたこの時のアダムたちに、民を虐げる王の宮殿のようにも思われた。ただ、そのイメージは間もなく、様々な人々との出会いで跡形もなく払拭されることになった。仏教寺院を中心にした様々な施設の集合体である。
 やがて、白木造りの小屋が三棟、並んでいるのが見えると、ノユリはアダムたちを振り返って、黙ったまま笑顔で目的地だと伝えた。小屋を囲む質素な塀の門をくぐると、一人の女が姿を見せた。
「あらっ、ノユリとワクウ。待っていたわよ」
 女は気さくな笑顔でノユリ親子を迎えたが、アダムたちに気づいて、見慣れぬ風体に驚いたように首を傾げた。ノユリが笑顔で紹介した。
「先日から村に逗留している方々です。アダムさん、チェルニーさん、ヘレンさん、ヨゼフさん」
「初めまして、ヨゼフです」
 ヨゼフは自分が差し出した握手の手の意味を、相手が解しかねているのに気づいて、手を引っ込め、ぺこりと頭を下げてお辞儀に変えた。この世界では、握手を交わすという習慣は無さそうだった。女も丁寧にお辞儀を返して名乗った。
「初めてお目にかかります。ヲグツと申します」
 礼をする仕草だけではなく、言葉の柔らかさからも気品が伝わってきて、彼女の育ちの良さを感じさせた。アダムたちも自ら名乗ってお辞儀をした。さすがに、じろじろと観察するのは避けたが、さりげなくヲグツを窺ってみると、この小屋で他の女たちにてきぱきと指示を出す様子から、この施設の責任者かもしれない。アダムはこの女性が、権力者の館で使用人を束ねる女中頭のようなものかと考えた。頭の中から民を虐げる権力者の像が離れないのである。
「何の施設だろう?」
「雰囲気から見れば病院だけど」
 入り口から建屋の中をかいま見たチェルニーがそう呟いた。敷物に横たえられた多数の人々と、その傍らでかいがいしく世話をする人々を見ていると、患者と看護婦や医師をの関係が読み取れる。第一、ノユリはこの施設に薬草を届けたのである。この施設に漂う香りは薬草を煎じている匂いだろう。この施設を病院だと認めざるを得ない。にもかかわらずチェルニーが首を傾げるのは、彼女が病院に抱くイメージと比べて、信じられないほど原始的な雰囲気が漂うせいである。
(ここはガラスの注射器すら見かけない)
 彼女は原始的だと口に出すのは控えたが心の中でそう呟いた。ノユリがヲグツに言った。
「この方たちがこの辺りのことを見て回りたいと」
「どうぞご自由に。どこでも見て回っていてかまいませんよ」
 ヲグツは意外なほど気さくに応じた。ただ少し首を傾げて考えて付け加えた。
「でも、日がお悪い」
「なにかご都合が?」
 チェルニーの問いにヲグツが笑顔で答えた。
「明後日なら、ミコがお見えになると言うのに」
「ミコ?」
 アダムは新たに聞いた名を手帳に書き留めた。
「お会いになれば、ミコがお喜びになりましょうに」
「あのお方も、珍しい方に会うのがお好きですから」
 ノユリは楽しげにヲグツに相づちを打ったあと、軽く会釈を残して、アダムたちを導くように歩き始めた。寺院の建物を別にすれば、低い塀で囲まれているだけだが、アダムたちは広大な敷地の中というというイメージを抱いた。この辺りの人々に先ほどの市とは違った、役所っぽい堅苦しさと、宗教が持つ戒律臭さが漂っていた。
「あのスキンヘッドで白いマントの人たちは、仏教の僧侶なの?」
 アダムたちはヘレンの表現の面白さに笑った。彼女たちの前方を、剃髪した男たちが一列に並んで横切ったのである。たしかに、剃髪し白い僧衣をまとった人々の姿はヘレンの表現のように見えなくはない。ただ、彼らが大阪で目にする黒い衣の僧ではなく、ここが大阪や日本だという意識が遠ざかった。しかし、質朴だが凜とした信念を感じさせる彼らの一途な瞳は、アダムにアッシジの修道士フランチェスコを思い起こさせた。世の東西、宗教、時代を問わず、信仰に生きる者に共通する要素を持っているのかも知れなかった。ノユリはアダムに、このセヤクインが寺院の管轄下にあると説明した。ただ、何処なのかと考える間も、その結論もなく、彼らの前には次々に見慣れない光景が出現する。

「なるほど、ヲグツさんがいたのは公立の病院で、南にあるのは仏教寺院」
「それから、ここは?」
「ヒデンインといいます」
 ノユリはこの施設の名を挙げた。チェルニーはその言葉に思い当たるような気がしながら思い出せない。アダムは周囲に群がる子どもたちを眺めた。やや距離をおいてはいるが、見慣れない異邦人に対して警戒心より好奇心の方が強いらしい。ヨゼフはふと思いついて、ポケットから五百円硬貨を取り出した。
「私はヨゼフです。遠い国からやって来ました」
 そんな自己紹介をしながら、周囲の子どもたちに、硬貨の大きさを見せ、指先で弾いてその堅い質感を伝えた。右の手の平に握り込んで左手を添えて、得体の知れない呪文を唱えてから指を伸ばすと、硬貨は見事にヨゼフの手の平から消えていた。なにもない手の平を見せられた子どもたちや女官は、驚きの声を挙げてヨゼフの笑顔に吊られて湧いた。
 ただし、アダムやヘレンの位置からは、ヨゼフが人差し指と中指に挟んだ硬貨が手の甲の側にはみ出して見えている。ただ、種を明かせば単純な手品は、ヨゼフが尊敬を集めるのに役立ったらしい。周囲の視線が素直に尊敬と畏怖の感情が感じ取れた。疑うことを知らない素直な人々である。
 子どもたちの表情を眺めていたヘレンは断じた。
「ここは学校か幼稚園、或いは、児童養護施設というところかしら。それにしても、ヨゼフ、あなたは子どもたちの人気者ね」
 もともと気さくな上に、あっさりと大人の意識を捨て去って子どものような純な意識になれる男である。身長に差がなければ他の子どもたちと区別がつくまいと思うほど、子どもたちにとけ込んで彼自身がはしゃいでいた。子どもたちの世話をする女官たちの視線が優しく好奇心に満ちていた。
「行くわよ。私たちの目的は手品を見せる事じゃなくて、情報収集なんだから」
 ヘレンがそうヨゼフを促した。アダムは子どもたちに別れの手を振った。
「怖いオバさんがいるから、また今度ね」
 ヘレンはそのヨゼフの頬を力強くつまんで、彼の次の言葉を封じて、子どもたちに笑顔で世界に通用する真理を語った。
「みんな、覚えておいて。言葉には気をつけるのよ。女にはお姉さんって呼んでおけば間違いがないわ」
 ヘレンに頬をつままれながら遠ざかるヨゼフに、子どもたちは名を呼んで別れを惜しんだ。
「よぜふぅ、また、来る?」
 この世界の人々にとけ込むというのは悪いことではないだろう。しかし、アダムは気になったことをヨゼフに教えた。
「手品を見せるのは気を付けた方が良い。彼らの宗教は寛容的らしいが、クリスチャンやユダヤ教徒からは、魔術師は危険人物として扱われて、殺されることもある」
 この社会の宗教は、人々の好奇心を素直に受け入れるようだが、アダムの言うとおり、自分たちの教義に逢わない物を、神に敵対する悪魔の仕業として排除する思想がある。時に、悪魔の手先と見なした者の命を奪うこともいとわないのである。
 アダムは目の前に広がってきた柵に囲まれた光景を見て、チェルニーに笑いかけた。
「草むらだなんて言うなよ」
「馬鹿にしないで。さっき病院があったから、あれは、きっと薬草園よ」
「なるほど、薬草を栽培してるんだ。ノユリさんはここで栽培しきれない薬草を摘んで病院に納めていると言うことか?」
「結局、ここは僕たちが住んでいた世界とは、完全に切り離された世界だと考えても良いんじゃないだろうか」
「では、どこなの」
「どこかのファンタジーの世界」
 思考を突き放した答えだが、ほかに選択肢は無さそうだった。
「それにしても、大らかな世界だね。僕らの姿形が違っているのに気にする様子もない」
「そうでもないらしいわ」
 ヘレンが笑って、視線をやった先に、戸口や窓からこちらを伺う人々の数が数え切れない。人々はどこからともなくやって来た珍しい客人に対して、好奇心は隠せていないのである。ヘレンがこの場で意外な話題を振った。
「ねぇ、貴方たち。大阪の街を歩いていたり、電車に乗っていたりするときに、日本人たちの視線を感じること無い?」
 ヘレンにそう問われてみると、確かに、アダムにもチェルニーにも、ヨゼフにも、心当たりがある。
「じろじろと見るわけじゃないんだけど、こっそりと観察する感じね」
「そうだね。敵意は感じないけど、動物園の中の珍しい動物になった気がする」
「それがどうしたんだい」
「この人たちの視線を浴びてると、日本人と同じ視線だなって思ったの」
 衣類や髪型など外見の違いを別にすれば、この人々の本質が、日本人と似ているというのである。現代の日本という繋がりで、チェルニーは気になる言葉がある。
「そう言えば、ヒデンインってどこかで聞いたことがあるんだけど」
 その回答は見いだせないまま彼女たちは帰途についた。

 市を通る道すがら、ヘレンは一軒の露店の前に立ち止まり、背に背負っていた包みを解いて剣を取り出した。彼女がこの世界に来た時に、兵士たちから手に入れた剣の一本である。行き交う人や、露天に商品を広げる人々は一様に驚きを見せた。今まで人々は平静を装っては居たが、さすがに風体の違うアダムたちは密かに注目を浴びていたのだろう。その一人がいきなり、この平和な市で武器を取り出したのである。この場の緊張が高まるのも当然といえた。
 ヘレンは剣を鞘に収めたまま露天商に差し出し、筵の上の穀物を指さした。
「これで、その食べ物をちょうだい」
 物々交換をして欲しいというのだろう。露天商は受け取った剣を抜いて本物だと確認し、その価値に驚き慌てて、筵の上に盛り上げていた米の山を包み、麦を包み、ありったけの粟を包んで言った。
「これだけしかない」
 ヘレンにはこの世界の商品価値は理解できないが、どうやら剣の価値に見合うだけの商品はないということだろう。ヘレンはその商売の正直さを笑って受け入れた。最初の日に兵士たちから奪った剣の一振りが食料に変わったのである。彼女は腰の剣に手を当てた。下級兵士の粗末な剣がこの穀物に変わるなら、あのケハヤと呼ばれた指揮官の剣はどれほど価値があるだろう。手にいれた荷は分散して担いだが、アダムたちの背にずしりと重い。
「あんな大事なものを手放してしまって良いのですか」
 ノユリが心配そうに言った。
「かまわないわ。まだ余分にあるし、欲しければまた手に入れるだけよ」
「ヘレン」
 チェルニーがヘレンの名を呼んで叱った。必要ならというのは、兵士から奪うというニュアンスだ。これ以上、もめ事を増やすなと言いたいのである。ここでも、彼らは人々の好奇心に包まれている。遠巻きに彼らを眺める人々が、ひそひそと話を交わしていた。
「アレが噂のマレビトか?」
「今度は、海ではなくて、霧の中からやって来たそうな」
「ほんに、不思議な話じゃわ」
 そんな囁きの中で、アダムたちは大声で自分たちの出自を説明する気にもなれず、ただ黙って通り過ぎた。
「聞いた?」
 ヘレンが短く尋ね、アダムが市の人々のうわさ話を答えた。
「僕らより前に、海からやって来たマレビトが居るんだ」
 ただ、それ以外の情報はなく、話題は途絶えた。無言で歩き続ける仲間の周りをワクウは笑顔で駆け回り続けていた。

「ちょっと、こちらにも」
 チェルニーが指さす先に雑木林の切れ目から背の高い葦が密に茂る原が見え、その向こうに傾きかけた日に照らされた波が、雑木林で切り取られた額縁の中に見えていた。額縁からはみ出すような広大な水面は彼女たちに海を連想させた。チェルニーは西の海の他に、東にも海が広がっていたと称したのである。アダムはその意見に反対せず、この辺りが海に長く突き出した岬のような所かと考えた。彼らは来た道を逆に辿って村の南岸の船着き場についた頃には、陽は傾いて長い影が出来ていた。ヨゼフやアダムが背負う袋はずしりと重かったが、疲労感より食糧の確保が出来た安心感が大きかった。
 村の手前で、ノユリがやおら西の夕日を眺めてぺこりとお辞儀をし、ワクウも母親の仕草をまねた。アダムたちにとって不思議にも見える仕草に、ワクウは行為の理由を説明した。
「毎日、ご先祖様に『今日一日、無事に過ごせました』って、心の中でお礼を言うねんで」
 アダムはその純朴な信仰に微笑んだ。神や仏ではなく、自分に命を繋いでくれた人々に感謝する人々なのである。村の西に村人たちの祖先を葬ってきた墓地でもあるのだろう。
「ノユリさんの旦那さんも、そこに?」
 傍らで息子の頭を撫で、自らもぺこりと頭を下げたノユリにアダムはそう尋ねた。ノユリの返事はなく、アダムの質問が理解できない混乱する感情のみが伝わってきた。アダムは慌てて質問を打ち消した。
「変な質問をしてごめんなさい。ちょっと勘違いをしていました」
 ノユリは微笑んでその訂正を受け入れ、アダムは姿を見せないノユリの夫について、心の中に疑問を吐いた。
(ノユリさんの夫は、亡くなっているわけじゃないのか?)
 そんなアダムたちを残して、ワクウは自宅に戻った嬉しさに村に向かって駆けだした。ただ直ぐにその足を止めたために、アダムたちはワクウに追いついた。ノユリは我が子の気持ちを察して、その意識を反らすように名を呼んだ。
「ワクウ」
 母の呼びかけに振り返ったワクウは、無表情だったが涙をこぼしてはいなかった。ワクウの向こうに野良仕事を終えて帰ってきた男の姿があり、その男に寄り添う子どもの姿があった。アダムはその父と子の姿をワクウと重ねてみた。この子は村の中で自分だけ父親のいない寂しさを、心に秘めているのである。

 日が落ちる前に、アダムたちは村に戻ってきた、宿舎に帰る前に一つの用件があった。彼らは荷を担いだまま村長の家を訪問した。
「この村で世話になるお礼です。村の人たちで分けてください」
 ヘレンは持ち帰ってきた穀物の袋を村長の前にどさりと置いた。アダムたち他の仲間にも異存はない、彼らも次々と担いできた荷を置いた。
「これはこれは、村の者どもも喜びましょう」
「一つ教えて欲しいことがあります」
 突然に話を切り出したヘレンに村長は首を傾げた。
「なにか?」
「あなたたちが、私たちと会ったときに、あまり驚かなかった。それはどうして?」
「祭りの日に、不可思議な方々がやってくるという言い伝えがあります。それが本当でした」
「南の市で、『今度は海ではなく、霧の中からやって来た』と聞きました」
「それが?」
「海からやってきたマレビトをご存じでは?」
「十三年前、何艘かに分乗してやって来た異人たちの船の二艘が、春の嵐の中で難破して村の西の浜に流れ着きました。私どもはそれを助けてこの村に招きました。他の船はナヌワの港にたどり着いたとの事です」
「やはり、海からやって来た人たちが居るのね」
 チェルニーの言葉に頷くように村長は話を続けた。
「やがて、無事に到着した方々も、この村で動けない仲間の世話のために村にやってきて住まわれました。この村で私たちと一緒に過ごしていたのですが」
 口ごもる村長に、ヨゼフが素直な疑問を投げた。
「その人たちは、いま、どこにいるんですか?」
 何故かその言葉に、傍らのノユリが顔を伏せた。村長は言葉を選びつつ短く言った。
「よく存じません。湖の向こう側、東の方に移ったたとか」
「その居住地はどこにあるの」
「いいえ、行かないのが賢明です」
 もう、これ以上答えるべき事はないという断定的な口調だった。村長は話題を変えた。
「そうそう、盗賊のような風体の不審者が彷徨いているとか。村でも注意をするようにと、おふれがありました」
 仲間の視線が一斉にヘレンに注がれた。彼女は兵士を襲って武器を奪った実績がある。
「何よ」
 疑いを向けられたヘレンの怒りの目に、村長は笑って言った。
「いやいや、女性ではありません。体格からみて屈強な男だろうと。兵士たちが不審者を捜して警戒しておりますよ」
 笑いにも関わらず、何故か村長にもノユリにも重い雰囲気が漂っていて、東の湖の対岸に居住地を移したマレビトについて尋ねる雰囲気ではなかった。アダムたちは村長の小屋を立ち去るしかなかった。
「ワクウ」
 ノユリが息子をたしなめる口調の声が響いた。アダムたち客人の邪魔になると言うのである。ふと気づいてみると、ワクウが小屋を立ち去るアダムたちの傍らにいる。幼児の笑顔の中に、甘えたりおねだりする雰囲気があり、遊んで欲しいのだと分かった。チェルニーが優しくワクウの髪を撫でた。他に遊ぶ大勢の子どもたちが居るのにアダムに寄り添うというのは、心の中に父親の存在を求めているのではないかと不憫に思ったからである。アダムは笑顔でワクウを引き寄せてノユリに手を振ってみせ、問題はないと伝えた。
 事実、ワクウはアダムたちにとって目障りではなかった。心許せる仲間同士、この世界で集めた情報交換の場の中でヨゼフに抱っこされたりチェルニーの傍らに座って機嫌良く理解できない話に興味深げに耳を傾けていた。自分もこの仲間に入っていることに心地よさを感じているのかと思うと、気まぐれに部屋の隅に移動して一人遊びに興じていた。その無邪気さは、心の混乱が収まらないアダムたちを癒していた。ワクウは一人遊びに興じながらも、アダムたちを窺う様子があり、一緒に遊んで欲しいという意識がかいま見える。
 ヘレンは立ち上がって、そんなワクウに手招きをした。ワクウが誘いに応じて接近して来たのを、ヘレンは右手を差し出して制して、軽く足払いをかけて倒れ込むワクウをそっと支えながら床に押しつけた。ワクウはヘレンの人差し指の先で押さえられているだけなのに身動きができない。その不思議さにこの幼児は首を傾げた。ヘレンは指を離して幼児を自由にし、上に向けた手の平の先で指を曲げてワクウを誘った。そのヘレンの笑顔で、ワクウは彼女の意図を察して挑みかかった。もちろん、ワクウがヘレンにかなうはずがない。ワクウはヘレンの右足にしがみついたり、ヘレンの腰に両手を当てて力一杯押したりしたが、その都度、柔らかく押し倒されて床に転がった。何度負けても挑みかかって行く勇敢な様子は、ワクウが男の子だなという雰囲気を感じさせた。ただ、冷静に見れば、母犬にじゃれつく子犬のように見えなくもない。ワクウがやや息を切らせ始めたのを見たヘレンは、彼の背を軽く叩いて健闘を称えて、このトレーニングを兼ねた遊びを終えた。
「私が父から格闘技の手ほどきを受け始めたのは、この子の年頃だったわ」
 ヘレンは何かを思い浮かべるようにそう言った。彼女はワクウの姿を眺めて、父親と自分の関係を思い出したに違いなかった。そして、ワクウの父に代わってワクウと遊んでやったらしい。チェルニーも思い出に耽るように言った。
「私の父は学校の教師でね、礼儀作法に厳しい人だったわ」
「なるほど。あなたの堅苦しい性格は、お父様の教育の賜ね」
「そういうヘレンの脳みそが筋肉なのは、パパの遺伝かしら」
 ヨゼフが二人に割り込んで、女たちなやりとりを静止させ、自分の思い出を語り始めた。
「俺の父は真面目な商売人だった。でも、学校を出ていないというのを気にしていて、息子の俺には学ばせようと必死だったよ。日本への留学のツテも親父が見つけてくれたんだ。でも……」
「でも?」
「俺は、学問が無くても真面目で正直に生きてる親父の生き方からいろんなコトを学んだ気がするんだ。アダム、君は?」
 突然に自分に話が回ってきたアダムは面食らった。ヘレンやチェルニー、ヨゼフが語る父親像を何処か別の世界の人間のように想像していて自分の父の具体的な姿を考えては居なかった。
「ボクの父親か、何を語り継いでくれているんだろう」そういう疑問を発したのみで傍らにいたワクウの頭を撫でた。
 ワクウが元で父親の話題になったが、この時の当の本人は、父親が居ないことなど気にする様子はなく、にこにこと笑っていた。

 


 翌朝、ヘレンたちは村はずれの森林から響く物音に、鼓膜をつつかれるような不快感を感じて目を覚ました。心地よい眠りを妨げられたヘレンが怒りの声を上げた。
「五月蠅いわねぇ。あんまり騒ぐと、焼き鳥にしてやるから」
 そう言う辺り、ヘレンはこの物音の正体を知って居るのだろう。耳を押さえて騒音を防いでいたチェルニーも知っていた。キツツキが木の幹を突いている音である。こうして、彼女たちはこの世界の新たな生物の存在を知り、この世界に深く接していく。ただ、ヨゼフはあの音にも動じる様子もなく、心地よく眠り続けていた。
「こら、こらっ」
 自分たちは起こされたのに、心地よく眠って居られるのもやや腹立たしく、チェルニーはつま先でヨゼフの尻を突いて目覚めさせた。しかし、家の中にアダムの姿がない。耳を澄ますと小口の外からアダムの呟きが聞こえた。
「アラハカの寺院……。ミコ……。海から来たマレビト……」

「何か分かった?」
 ヘレンは手帳を見ながら考え込むアダムにそう問いかけた。思考を中断されたアダムは、黙って不機嫌そうな表情を向けた。ヘレンは口を噤んで、傍らのチェルニーに肩をすくめて見せた。
 この世界にやってきて四日目になる。几帳面なアダムは、その間の出来事や聞き取った人の名を手帳に書き留めていた。散歩をしながら情報を整理し、考えをまとめるというのはこの世界に来てからも続いており、ヘレンやチェルニー、ヨゼフの三人はアダムに付き合って、豊かな自然を楽しみつつ、村の北側へ散歩を始めた。
 ただ、考えがまとまらない様子が、散歩の距離に現れていた。いつの間にか村からずいぶん離れ、周囲は草原である。
「誰か居るの?」
 ヘレンがその気配を察して振り返った。決して、風が起こした音ではない。背の高い草むらの中で何かが動く気配が響いたのである。村人なら隠れる必要はなく、ヘレンたちから身を隠していると言うことは、敵意を持った人物かも知れなかった。
「村長が兵士から聞いた不審者じゃないの」
「どうする?」
「村人たちに危害を及ぼすような連中だったら面倒だね」
「確認しましょう」
 ヘレンの行動は素早い。彼女はアダムたち三人に物音を立てながら草むらに入って、不審者を追い立てろと指示をして、彼女自身は狩り出されるはずの不審者を待って、向こうに見える草むらの切れ目に向かって、背を低くして駆けた。
 アダムたち三人は声を張り上げ、広げた腕で草むらを激しく叩きながら移動した。たしかに、ヘレンの指摘通り、人影は見えないが、誰かが草むらの中を進むように、かき分けられる草の穂先が揺れていて、ヘレンの指定通りの方向に向かっていた。
 先回りしたヘレンと、草むらを抜けた男が至近距離で鉢合わせした。
「あらっ、エイモス?」
 ヘレンは草むらから出てきた男の顔を見て、姿を消していた仲間の一人の名を叫んだ。男もまた意外なものを見たように一瞬立ち止まり、二人は一瞬見つめ合っていた。ヘレンはその直後の悲惨な出来事を予感して、顔を背けた。男はヘレンの視線を追って振り向いたが、後ろから振り下ろされた棍棒を避ける余裕はなかった。
 幸いなことにチェルニーが非力であったこと、手にした棒にそれほど重量感がなかったことで、男は頭にこぶをつくり、痛みに耐えながらうずくまる程度で済んだ。ヘレンはチェルニーに非難の言葉を浴びせた。
「暴力的な女ね」
「ヘレン。貴女に言われたくないわ」
【お前たちは何者だ?】
 ノユリたちの言葉と別の言語だったが、ノユリたちの言葉が理解できるのと同様、アダムたちには、男が話す言葉が感情に乗って伝わった。痛みに耐えながらそう尋ねる男の言葉から、目の前の四人をこの国の人々と区別していることも分かった。ただ、そう尋ねる男自身、極東アジアの人の顔立ちではない。何より、姿を消しているエイモスに、顔立ちが似ている。衣服を着替えた同一人物だと言われても信じたに違いない。
「ごめんなさい。まず頭を診せて」
 チェルニーにそう言われ、男が温和しく身をゆだねる様子をみれば、敵ではないらしく、診察という行為を通じて、アダムたちのことを受け入れてもいる。
【お前たちは何者だ? この国の者ではないな】
 男はそう繰り返した。アダムは彼自身が明確な回答を持たず、あやふやな返答をすることしかできない。
「僕らは気がついたらこの国にいた。どこから来て、どうしたら帰れるのか分からない」
「心配はいらないわ。ちょっとたんこぶが出来ているだけ」
 診察を終えたチェルニーは立ち上がり、男に友好の手を差し伸べた。男はその意味を察して両手で包むように手を握り替えした。右手で握手をする仕草ではない。顔立ちはこの国の人々と違っているが、アダムたちの共通の習慣にも馴染んでいない人物である。
「私はチェルニー、こちらはヨゼフ、アダム、ヘレン」
「あなたはエイモス?」
 尋ねるヘレンに男も名乗った。
【エイモス? 誰だ、それは? 俺の名はサミュール】
 アダムたちは顔を見合わせて、肩をすくめてため息をついた。ワクウやノユリの場合と同じだと思ったのである。彼らが知っている人物にそっくりだが、本人ではない。
「サミュール。君もこの国の人じゃないね」
 アダムの問いに、サミュールは海上を指さして言った
【十三年前に、遙か西の地からここに漂着した】
 チェルニーとヘレンが顔を見合わせて声を合わせて言った。
「海から流れ着いたマレビトね」
 二人の言葉にアダムとヨゼフも顔を見合わせた。
「サミュール。君たちが住んでいる所へ、案内してもらえないか」
【何のために?】
「いろいろと教えて欲しいことがある。」
【俺はここでしなきゃいけないことがある】
「何をするの?」
【人を探している】
「それなら今は無理ね。あなた、不審者として兵士に捜索されてるわ。兵士や村人に気づかれずに行動できると思うの?」
【しかし】
「いいわ、交換条件。私たちは貴方の集落の人たちに、いろいろと聞きたいことがある。その代わり、この村の人々を傷つけないと約束するなら、あなたのお手伝いをしてあげる」
 サミュールはやや考えていたが、頷いて立ち上がった。
【同行できるのは二人だけだ】
「どうして?」
【東の水辺から対岸に渡る。俺の舟に乗れるのは、あと、せいぜい二人だ】
「じゃあ、チェルニーとヨゼフは予定通りセヤクインへ。僕とヘレンでサミュールの村に行く」
「そうね」
「いつ帰れるの?」
 チェルニーの質問に、サミュールが口を挟んだ。
【お前たち次第だ。いま出発すれば日暮れまでには村に着ける】
 アダムは時の流れを計算して仲間に伝えた。
「ということは、帰りは明日か」
「じゃあ、急ぎましょう」
 ヘレンはサミュールを促し、アダムもその後を追った。残されたチェルニーとヨゼフは手を振りもせず三人を見送っていた。チェルニーはヨゼフに意外なことを言った。
「あの人、タイ人じゃないわね?」
 その質問の趣旨を理解しかねて首を傾げるヨゼフに、チェルニーが説明を加えた。
「タイにパープラチアットっていう腕につけるお守りがあるの。あの人、肘の上にそんな飾り紐を巻いていたでしょう」
 チェルニーは目ざとくサミュールの腕のアクセサリーを見つけていたのである。ただ、その疑問には解答がない。片付かない謎が解明されないまま、得体の知れない情報が積み重なった。ただ、もしも、この場にワクウがいれば、それが自分が髪を束ねていた紐だと気づいただろう。

 一方、サミュールに同行する二人も首を傾げていた。
「どうみても、私たちと同じ世界から来たとは思えないわね」
「彼の服装のことか?」
「そう。私たちと違う。何かの古い民族衣装のよう」
 彼の衣装は膝の下まである長い衣類で、サミュールが肩から脇腹にかけて下げていた荷で、ローブのように羽織って前を重ねて居るように見えたが、よく見れば頭と袖口の穴が開いた衣類を頭からかぶるという形らしく、ノユリの村の人々のように腰を紐やベルトで括ってはいない。その形状は、アダムたちの衣類とも、ノユリの村の人々とも共通点がない。アダムは肩をすくめて見せた。
「そうとも限らないさ。ぼくらだって、ここから帰れなければ、今、着ている衣服もすり切れて、この世界の衣服を身につけざるを得なくなるんだから」
 二人の会話にサミュールが割り込んだ
【異人たち、何をこそこそと話してるんだ?】
「ぼくらの運命のことを」
【そんなことは、神の御心に任せることだ】
 サミュールは雑木林の中に姿を隠して北から東へと進路を取った。木々の影や草むらを姿勢を低く保って辿るという道のりで、なかなか距離が進まない。必然的に日陰を選んで歩くという具合だが、風が無く、暑く熱せられた空気に包まれて、首周りがじっとり汗ばんだ。
「いったい何処まで行くつもり?」
「さあ、地形が全く分からないね」
【余計なおしゃべりを止めて、身を隠せ】
 そう叱咤するサミュールの言葉で、彼が進む方向を転じた理由が知れた。竹林を抜けて視界が開けた右前方に高台の地が見え、柵で囲まれていた。柵を通して見える人々は、槍を抱えたり、腰に剣を帯びていて、明らかに兵士である。
「あれは?」
【この国の兵士たちだ。ナヌワの港を守っている】
「港を守るというのは分かるけれど、ずいぶん大仰な人数ね」
 ちらりと見える兵士の数だけでも数十人を越えている。あの砦の規模なら数百人近い兵士が駐屯しているかも知れない。港が重要とはいえ、平和に見えるこの国で、治安を守るには多すぎる兵力ではないかと思ったのである。
 ヘレンの言葉と共に、彼女の意識がサミュールに伝わったらしく、サミュールは吐き捨てるように言った。
【大方、オーミは俺たちが港を襲うとでも思ってるんだろう】
「オーミとは?」
【事情は村に着いてから聞け。今は、兵士どもに見つかるなよ】
(オーミか)
 アダムは気になる言葉を反芻してみた。サミュールが発したオーミという言葉には、権力者というニュアンスが感じ取れ、政治的な権力を持った大臣か枢機卿、宗教組織に君臨して権力をふるう中世の法王のようなものかと考えた。
「また」
 ヘレンがそう言ったのは、開けた視界の前方に水面が広がっていて、彼女は海だと思ったのである。ノユリの村からアラハカの寺へ向かう途上、雑木林の間から、東側に広大な水面が見えることがある。その海をいよいよ間近に眺めると言うことである。
 西の海を背に、進む方向を転じてから十五分。アダムたちの目の前に、遮る物が無く広大な水面が広がった。
「ああっ」
 思わず驚きの声を漏らすほどの数のトンボがアダムたちの頭の高さを飛び交っていた。鮮やかな黄緑の胸の後ろが水色という配色で、草原や水辺の色に染まったかのようである。足がずぶりと地面にめり込む感覚と、その足がじっとり濡れる感覚があった。目の前に広がっていた水面が近づくにつれて、その畔を厚く覆う一面の芦に視界遮られてしまった。湿原地帯に踏み込んでしまったらしい。
「ここは?」
 そんなアダムの疑問に答えもせず、サミュールは言った。
【ちょっと、ここで待っていろ】
「間近に見たのは初めてだけど、東側の海じゃない?」
 ヘレンがそう語る視線の先に、芦をかき分けて進むサミュールの下半身が、つま先からくるぶし、踝から膝、やがて下半身まで水面下に浸かったところで、密に茂る芦の影に姿を消した。やがて、再び姿を現したサミュールは。小舟の船首に結びつけた綱を曳いていた。彼はこの芦の茂みに小舟を隠していたのである。
【お前も漕げ】
 サミュールはそう言って櫂の一本をアダムに渡した。
「波が静かすぎるわね」
 ヘレンはそう言って水面を撫でるようにかき混ぜて、指先についた水の香りを嗅ぎ、やや首を傾げてぺろりと嘗めた。
「海じゃない。ここは湖なの?」
 波が静かで、潮の香りがせず、嘗めてみると塩気も感じないというのである。見回してみると、周囲は陸地に取り囲まれていて、湖だと言うことが分かった。つい一時間前まで白波の立つ海面を眺め、潮の香りに包まれるような位置に居たことが信じられない。
「海と湖。よく分からない世界だわ」
 不機嫌なのか無口なのかよくわからない。サミュールは黙ったまま櫂を動かし続けていた。アダムが腕の筋肉に張りを訴えるような表情を見せたために、ヘレンが櫂を受け取ったが、そのヘレンもまた、使い慣れない筋肉に疲れを感じている。サミュールが黙々とこぎ続けているのは、よほど舟の扱いに熟練しているのである。
「ひょっとして、いや、きっと」
「どうしたの」
「以前、ノユリさんのお父さんが、海から来たマレビトが湖の対岸に移り住んだと言ってたろ」
「これが、その湖だったのね。この大きさ、今まで海だとばかり思ってた」
 やがて、三人を乗せた舟は対岸に着いた。漁の後、使い終わった網を乾す者や、網の破れを繕う者が居た。この浜にいる十数人の人々は漁師であり、サミュールもまた漁を生業にしているらしいと見当がついた。
【相談がある】
 サミュールが短く言った。
「何?」
【お前たちが湖の対岸に居て、漁をしていた俺と出合ったと言うことにしてくれ】
「どうして?」
【深い詮索はするな】
 どうやら、対岸のノユリの村の近くに出かけていたことを、仲間に知られたくないらしい。アダムとヘレンは、サミュールの心情をそう察して顔を見合わせて頷き、ヘレンが短く返事をした。
「わかったわ」
 サミュールはそれ以上何も語らず、三人の先頭に立って草むらの中の獣道を歩いた。突然に甲高い鳴き声が草原に響き渡った。ヘレンは周囲を見回して言った。
「あの声、聞き覚えがあるわ」
 確かに特徴のある騒がしい声で、声の発生源を容易に辿る事が出来る。声の先の木の枝に灰色で頬に紅をさしたような赤い色をした、くちばしの長い野鳥がいた。アダムはヒヨドリという名は知らなかったが、あの目立つ声の主が日本とその周辺の狭い地域に生息する鳥だという知識は持っていた。もちろん、アダムたちが居た大阪でもその声を聞く事が出来た。ファンタジーのような世界、ただ、どこか日本とのつながりを感じさせるのである。
「瓢箪荘の部屋で聞いたのを思い出すよ」
 ヘレンがアダムの小脇を肘で突いて注意を促した。話をしていて遅れた二人を待つようにサミュールも木陰で立ち止まっていたのだが、幹に手を添えて何かを語りかけているように見えたのである。
「何の樹なの?」
 サミュールに追いついたヘレンの質問に、サミュールは眉をぴくりと動かしたが答えず、再び歩き始めた。葉の一枚をちぎり取って眺めたアダムが代わって答えた。
「桜の樹だね。塩漬けにしたこの葉で菓子を包んで食べるんだ」
「でも、私、桜餅が一番好き」
 数日前に聞いたマリアの言葉をのほほんとした口調まで真似て言った。帰れる見込みのない不安の中で、あの時の事が懐かしくさえ感じられた。
「でも、どうしてこんな所に一本だけ?」
「ノユリさんの村にも一本だけよ」
 ヘレンの言葉にアダムも頷いた。アメリカのワシントンのポトマック川や、彼らが住んでいた桜之宮では、桜の樹が川沿いに生い茂っているというイメージがある。この桜は草原の中にただ一本、大地にどっしりと、しかし、寂しげに根を張って枝葉を茂らせていた。
「おいっ、お前たち。着いたぞ」
 桜の樹から東に、建ち並ぶ小屋やテントが見えた。おそらく仕事に出た男たちの帰りを待つ女や子どもの姿が、そこかしこに見える。

(確かに)とアダムは思った。
 海の向こうからやって来たマレビト。フードから顔を出す女の彫りの深い顔立ち、豊かな髭を蓄えた男たち、この国で目にしていた他の人々に比べて、確かに違う血筋の人だった。ただ、ワクウの村やセヤクインで感じた人々の視線は、好奇心を感じこそすれ、拒絶感はなかった。しかし、今のアダムとヘレンは敵意と言わないまでも、不審感や不安に満ちた視線を浴びていて、人々のアダムとヘレンへ向ける緊張感が伺えた。
【ラビのところへ】
 サミュールが口にしたラビという言葉に、人々の指導者というニュアンスを感じ取れる。アダムとヘレンは、この集落の村長に引き合わされるのかと考えた。鍛冶屋の槌の音が響き、子どもたちのはしゃぐ声が響いていた。活気のある集落である。ただ、ノユリたちの集落に比べれば、戒律に従って生きる人々特有の生真面目な雰囲気が漂っていた。サミュールの言うラビという指導者の人徳を反映しているのかもしれない。ヘレンは前方からやってくる若者を指してサミュールに尋ねた。
「あれは?」
【鹿の罠にかかった猪だ。我々は食べない。湖の向こうの市で布や薬草に換えている。オーミの兵士たちに奪われなければな】
「奪う?」
【奴らは我々の敵だ】
「あなたは、その敵の網をかいくぐって、やって来ていたわけね。どうしてそんな危険を冒したの」
 サミュールは黙ったまま答えない。そこに、怒鳴り声が響いた。
【サミュール】
 声の方向を見ると、サミュールとさほど年齢の変わらぬ男で、視線の中の怒りを隠そうとはしない。背後に他の若者を十人ばかり従えていて、その集団を率いるリーダーだろうと想像が付く。
【サミュール。お前は、また揉め事を持ち込むつもりか】
 サミュールは男たちに答えず、アダムとヘレンにはそのまま付いてこいと合図をした。ヘレンがアダムに小声で囁いた。
「揉め事って、私たちのこと?」
「どうやら、ぼくらは歓迎されていないらしいな」
 アダムは若者たちの敵意のある視線にそんな感想を漏らし、剣の束に手を掛けようとしているヘレンの指先を握って動きを制した。ヘレンもアダムの意図を察して言った。
「わかってる」
 怒鳴った男たちはサミュールの行く手を遮るばかりではなく、サミュール、アダム、ヘレンの三人をぐるりと取り囲んだ。
【サミュール、こいつらは誰だ。何故、こいつらを連れてきた】
 男はサミュールに怒鳴り散らした。サミュールが無言を保ったため、アダムが彼らに応じて口を開いた。
「ぼくらは話を聞きに来ただけだ。敵対するつもりはないよ」
 サミュールがアダムを制した。言っても無駄だという意識が伝わってくる。
【エゾラ。この者たちは私の客人だ。戒律に従ってもてなせ】
【サミュール。異民族の女の息子に、戒律を口にする資格などあるものか】
【母を敬え】
【異民族の淫売女が、我らの部族の血筋を汚したんだ。アレが母であるものか】
【何?】
 母親を侮辱されたサミュールがエゾラに殴りかかろうとしたとき、広場に声が響いた。
【よさぬか。平和を尊べ。客人の前で醜態は避けよ】
 一言で周囲を制してしまう声に威厳があるものの、声の方向に目をやってみると、声の主は意外にも温厚そうな老人である。荒れ狂っていた若者たちもこの老人には逆らいがたいらしく、アダムたちに敵意のある視線を向けながらも黙りこくった。老人はアダムとヘレンに親しげな笑顔を浮かべて言った。
【さて、お客人。我らにどんなご用かな】

 ヘレンは老人に会釈で応じながら、視線をちらりとエゾラに転じて、アダムに囁いた。
「異民族の淫売女ですって?」
「君の事じゃないよ」
「誰でも良い。あのエゾラという男。女を侮辱すると、首の骨をへし折ってやるわよ」
「ヘレン、それは笑顔で言うセリフじゃない」
 二人は老人に導かれるようにテントに入り、老人と向き合って敷物の上に座った。
【それでは、お話を伺いましょうか】
「私たちは、どこか別の世界から来ました」
 ラビは静かに笑った。アダムたちの髪の色や顔立ちを見れば、この国の人々ではないことが分かる。わかりきったことを言うと思ったのである。
【それは、私たちも同じだ】
「それでは、貴方たちも白い霧に包まれて、霧が晴れたら知らない世界にいたと言うことですか」
【白い霧に包まれて?】
「そうです。私たちはオオサカという場所にいて、霧に包まれ、霧が晴れるとこの国にいました。」
【お話を伺うと、何か不思議な経験をなさったようだ。我々は違う。幾世代も遙か西の地を旅して、十三年前に海を渡ってこの地にきた】
 若者の一人が言った。
【あなた方が霧に包まれた後ここにいたと言うなら、私たちは嵐に包まれた後、この国にいる】
「船が難破したと言うことですか」
【でなければ、望んでこんな所にいるものか】
 先ほどエゾラと呼ばれていた男が、吐き捨てるようにそう言った。アダムは重ねて尋ねた。
「私たちと同じ経験をした人がいるのかと考えていたのですが、違うのですね」
 ヘレンが質問の趣旨を変えた。
「あなた方は、どこから来られたのですか?」
【はるか西の地から海を越えて、この東の土地に着いたのは十三年前のことだ。その前は、更に西の地に居たという。我々は幾世代、旅を続けてきたのだろう。それはもう誰も覚えては居ない】
 言葉が彼らの言い伝えで終わったことから、彼らの先祖代々、長い旅を続けてきたことがうかがい知れた。彼らが先祖から受け継いできたという飾り物のひなびた色調が、彼らの長い旅を物語っていた。ラビは話を続け、人々は先祖伝来の話に聞き入った。
 アダムは話を聞き漏らすまいと、胸のポケットから手帳とボールペンを取り出し、話を記録する許可を求めるようにちらりと掲げてみせた。
【それは何だ!】
 シャーマが怒鳴った。危険なものとでも勘違いしたかのような仕草である。ラビはそんなシャーマを制した。
【よさぬか、この客人には我らへの害意はない】
 アダムは思わぬ反応にヘレンと顔を見合わせ、周囲の人々にボールペンと手帳の用途を説明せざるを得ない。
【なんと、妙な道具だ】
【なるほど、文字が書ける】
 周囲の人々の驚きの反応に向き合って、アダムとヘレンは同時に思った。
(いったい、手帳やボールペンを不思議がる人々など、現代の地球で考えられるだろうか)という疑問である。そして、二人は心の中に確信を深めた。
(ここは、自分たちが居た世界ではない)ということである。
 周囲の人々はアダムの説明に警戒を解いて、記録を受け入れた。アダムは質問した。
「あなた方は、この国とはどういう関係があるのですか」
【この国の人々から、我らについて何か聞いたか】
「いいえ、皆、口を閉じるように」
【さもあろう。我らは彼らと争うた】
「争い?」
【我々は先祖から、遙かな時と距離を経た旅をして、この地にたどり着いた。この地の豊かな緑を見た時に、主が我々に約束してくださった地だと思った】
 ラビが語る思いはアダムにも理解できた。霧が晴れ得体の知れない場所を彷徨って、視界が開けた場所に出たときのこと、目前に広がった透明度の高い海と、背後ら広がっている豊かな緑の世界である。ラビは思い出を紡ぎ出した。
【我々がこの土地に着いたとき、この国は二つに分かれて戦っていた。モノノベとソガという部族だ】
「モノノベとソガ?」
【奴らは我々を裏切った】
 輪を囲む若者の一人が義憤に耐えぬと言う表情で、そんな怒りの声を上げた。
【シャーマ、客人の前だ。よさぬか】
 ラビはそう言って若者の非礼を制して話を続けた。
【モノノベという部族の長モリヤが、我々が最初に住まいを構えた村の辺りの土地を治めていた。互いの言葉はよく分からなかったが、モリヤは我々に敵か味方かと問うたのだと思う。神の御心のままに従うと答えると、モリヤは我々の神を受け入れると約束したために、我らはモノノベの部族に加わってソガと戦った】
 ヘレンの見るところ、この国の兵士たちは真面目だが、決して近代的な訓練を受けているとは言えず、戦闘にしても個々の兵士の連携はなく戦慣れしていない。この集落の人々は、先ほどシャーマと呼ばれた若者が感情にまかせて抜きかけた剣の輝き、矢筒から出して眺めた矢の鏃の鋭さなど、平和であっても武器の手入れに余念がない人々である。
 このような人々が、いきなり領地に現れたとなれば、権力者は彼らを戦力として欲するだろうし、敵に回った場合のことを考えれば恐怖するだろうと思った。モノノベという権力者は異邦人に対してきわめて適切な処遇をしたと言うことだろう。
 ラビの話は続いた。
【しかし、モノノベは戦に敗れて、我らは後ろ盾を失った。ソガの族長ウマコは、オーミの座についてこの国を操っている】
 サミュールの言葉に出てきたオーミという言葉の意味が知れた。勢力争いをして勝利を収めた一方の部族ソガの長が、この国を牛耳ることが出来る座についた。その座についた人物をオーミと称しているのである。
 しかし、オーミから見てこの海から来たマレビトたちは、ひょっとすれば権力者に反抗するかもしれず、戦によって身を守るすべにも慣れた集団の存在は、この国の新たな権力者オーミにとって目障りな存在なのではあるまいか。そんなアダムの推測を裏付けるようにラビは言葉を継いだ。
【負けたものの、戦は終わり、平和が訪れた。ただ、新たな土地の支配者、戦いの勝利者との軋轢が続いて、小競り合いが収まらなかった】
「それで、湖の対岸に移り住んだの」
【我らはミコから新たにこの地を与えられて移り住んだが、ミコの後ろ盾のオーミが、いつ気を変えないとは限らない】
「ミコ?」
  先日、セヤクインでも耳にした名である。シャーマが吐き捨てるように言った。
【所詮はオーミの手先さ】
【この土地で生きる以上、誰かを頼らねばならない。何かを信用せねばならない】
 ラビの言葉にヘレンが疑問を呈した。
「ミコとは、この国の王ではないの?」
【ここから東に二日の土地に、この国の都がある。女帝がこの国を統治し、ミコはその女帝を補佐している】
「ソガというのは?」
【この国の支配者たちは血縁関係や家族関係が強い。いろいろと裏で繋がって居るのさ。我らが頼ったモノノベでさえ、女帝やミコと深く繋がっている】
「それで、ソガは血縁関係を利用して、権力に食い入っているという事ね」
【そうだ】

 アダムは話題を変えた。壁に掛けられた織物に気になる印があり、ラビの傍らの祭祀の道具らしい飾りにも同じ印がついていた。ダビデの星の紋ではないかと考えたのである。
「ところで、その紋章はあなた方の部族を表しているのですか」
【その通りだ。我々が居る限り引き継がれる。我々の血脈を表す紋章だ】
 ラビの言葉にヘレンは納得した。ラビというのはユダヤ教の指導者のことで、この集落に属する人々の出自が知れた。
(この人たちはユダヤ人なんだ。でも……)
 ようやく、自分たちの世界と接点になる人々を見つけた。しかしヘレンに新たな疑問が湧いた。ユダヤ人がどうしてこの土地にいるのかということである。
「約束の地を求めてこられたの?」
【遡ること、父はヤコブ、母はラバンの娘レアの下女ジルバに至る。幾世代をへて約束の地を求めて長い旅をし、この地にたどり着いた】
 年老いたラビは、彼の人生より遙か長い時の流れを遡って使命を語ったが、その言葉に怒りを交える若者たちが居る。
【しかし、この地は神の約束の地ではない】
【主の御心に従って早くこの地を旅立つべきなのだ】
 そんな若者たちの言葉に、ラビは諭すように言った。
【詮なきこと。過去に尽くされた議論ではないか。我々の血は衰えた。旅立つ時には数え切れなかった我が部族も、今やこの集落にいる者のみ。ここは豊かな大地だ、ここで生まれ育った子どもも多い。しかし、再び流離って我れらが血を絶やすのか?】
 会話は途絶えた。ラビの人柄に触れるというのは感慨深い経験はしたが、有用な情報は得られなかったのである。

 サミュールは、ラビのテントから二人を案内しながら言った。
【今夜は俺の家に泊まればいい】
 人々の態度は一変した。身辺を脅かす者ではないと言うことが知れたらしく、アダムたちに警戒を解くとともに、柔和な雰囲気が漂い、まるで昔から仲間の一員であったかのように触れた。もともとは、こういう善良な人々なのだろう。ただ、その人々がサミュールに注ぐ視線はやや冷たいようだが、その理由をサミュール自身に尋ねるのは気が引けた。
【ヨゼフが居ないのが残念だね】 
 アダムが言った意味をヘレンは理解した。建ち並ぶ小屋のあちこちから、いろいろな年齢の子どもたちが、好奇心をむき出しにしてアダムたちを伺っているのである。その子どもたちが居る光景は、ノユリの村やヒデンインという名の養護施設にいるこの国の子どもたちの光景と変わりがない。ヨゼフがいれば、子どもたちを集めてその中心にいるだろう。残念なことに、アダムもヘレンも、ヨゼフのような才能はなかった。

 案内された村はずれの小屋の中に、一人の女性が竈の側にしゃがみ込んで火の番をしていた。サミュールは女性の名を紹介した。
【チュラーヤ。俺の母だ。母さん、こちらはヘレンとアダムだ】
(サミュールのお母さん?)
 アダムとヘレンにとって意外だったのは、サミュールの母として紹介された女性が中東アジア風の顔立ちをしていることである。しかし、エゾラと呼ばれた男が発した言葉を思い出して納得した。異民族の女というのはこの人物のことかと思い至ったのである。そして、この村における、異民族の母子として、チュラーヤとサミュールの立場を理解した。
【ようこそ。おふたりとも、お食事は?】
 アダムとヘレンに代わってサミュールが答えた。
【出してやってくれ】
 サミュールの言葉を待つまでもなく、チュラーヤは被せてあった布を取り、籠の中から平らなパンを取りだして来客に配り、鍋の中の煮物を木の椀にすくって入れた。
「きゃぁ、肉よ、パンよ」
 ヘレンは小躍りするほど喜んだ。いつまで居るか分からないこの世界に、なじみのある食べ物があると言うことはヘレンの心をくつろがせた。味わってみると、やや堅いが、間違いなく小麦粉を練って焼いたパンであり、煮物の具として入っていたのは肉である。
【こんなに喜んでもらったのは初めてだわ】
 チュラーヤはそう言った。笑顔に包まれた食事が始まった。アダムが気になっていた事柄を尋ねた。
「さっきの話だけれど、裏切られたとは?」
【エゾラやシャーマの勘違いさ。さっき、ラビが我々がモノノベに付いて戦ったと言ったろ。モノノベは我々の神を受け入れると約束した。だから、我々はモノノベに加わって戦おうと決意し、俺の父も戦に加わった。しかし、モノノベにとって、この世界に数え切れないほどの神が居る。我々の神(ヤーベ)は唯一の存在だということを彼らに理解させられない】
「モノノベはいくつも神がいるから、一つぐらい増えてもかまわないって思ったのね」
 そんな感想を述べるヘレンにサミュールが聞いた。
【君たちは、信じる神をもっていないのか?】
「私は……」
 ヘレンは口ごもった。子どもの頃に洗礼を受けているし、胸に十字を切って祈ることもある。ただ戒律に従って生きるこの集落の人々に比べると信仰心は緩やかで、自分がクリスチャンとして戒律を守っているかどうか考えた事はなかった。ただ、サミュールから戦の話を聞いたとき、戦に参加して剣を振り回す事が、神の意志に逆らうことにになりはしないかとも感じるのである。
 ヘレンは戸惑いつつサミュールにぽつりと尋ねた。
「貴方たちの神は、戦いを許す神なの?」
【俺の父は、異民族の神を信じる者を排除して、我々が生きるための地を確保するのだと主張した。しかし、神はその主張に答えを示してくださらなかった】
 やや腹もふくれ、会話が途切れた。サミュールは何かを思い出したようにアダムとヘレンに言った。
【くつろいでいろ。俺は用を思い出した】
 出て行くサミュールの背を眺め、やや考え込んでいたヘレンも立ち上がり、自分の存在を悟られないよう、そっと彼の後を追った。
「ごめんなさい。ちょっと、私も外で風に当たってくるわ」

 小屋の中にアダムとチュラーヤの二人が残された。二人とも口数の多い質ではなく、自然な沈黙が続いた。チュラーヤが食事の後片付けをするのを眺めながら、アダムは考え続けている。出会った瞬間に感じた気の強そうな雰囲気も、今は包容力を伴って感じられ、しつけに厳しい母親というイメージに変わっていた。
「チュラーヤさんは、この国の方ですか」
【いいえ、この村の者たちと一緒に、遙か西の地から海を渡って来たのよ】
「何故、この国に?」
【この国の海の沖合で私たちの船の二艘が難破して、海に投げ出された私たちは浜辺の村の人に助けられて、しばらくそこで過ごしたの】
「失礼ながら、お顔立ちが他の方と違うようですが」
【確かに、私はタングットですから、ユダヤの人たちとは違います。アダム、あなたは?】
 タングットという聞き慣れない言葉は、彼女の部族の名だというイメージが伝わってきた。部族の名を聞き返されてみると、アダムは首を傾げざるを得ない。ポーランドという国家に所属しているという意識はあっても、民族という血のつながりで、自分自身を考えたことはなかった。
「僕は……」
 口ごもるアダムを諭すように、チュラーヤが言った。
【あら、大事な事よ。遠い遠い祖先から、祖父や父を通じて今の自分があるの。血筋や思いが伝えられて、自分が何をしなければならないか、子どもに何を伝えるのかが決まるの】
 アダムは感嘆のため息をついて、チュラーヤを褒めた。
「チュラーヤさん。どんな難解な書物より、あなたの言葉は胸に響きます」
【ありがとう】
「でも、血筋の違うあなたが、どうしてユダヤの人々の中に居るんですか」
【サミュールの父親が私を愛してくれたの。私も彼を愛しているわ。今でも……】
「今でも?」
【十三年前の戦で亡くなったわ。でも、彼の心は今でも私と一緒に】
 チュラーヤは胸に手を当てた。
「十三年前の戦というと、ソガとモノノベの戦のこと?」
【ええ、彼は三人の息子を残して戦に出て、ソガの兵士と戦って亡くなりました】
「サミュール以外に、お子さんが居られるのですか?」
【サミュールには、シャーマとエゾラ、二人の兄が】
 アダムはその二人の名に記憶があった。この集落に着いたときに出会った、若者を率いるリーダーである。しかし、あの二人がサミュールの母に示した感情は、愛情といえるものではなく、酷い侮蔑の言葉と共に吐き出した嫌悪感だった。チュラーヤは沈黙するアダムの疑問を察したように言った。
【シャーマとエゾラは先妻の子です。サミュールの父親が妻を亡くした後、私は彼と出会って結ばれてサミュールを授かったの】
「あの二人は貴女を快く思っていないようですね」
【いいえ、シャーマもエゾラも私の大事な息子です。あの子の亡くなった母親と父親から預かって、立派な大人に育てるのが私の仕事だわ】
「大変ですね」
【いえ、これがタングットの血筋だから】
 彼女は朗らかに笑った、かまどの火が揺らめいて、彼女の表情に複雑な陰影を与え、微妙に変化する表情が、血のつながりのない集団の中で、たった一人過ごしてきた彼女の人生の長さを表しているように思われた。
「ずいぶん、長い大変な旅をされたんですね」
 アダムは彼女の人生を旅に例えて彼女の人生を称えたのだが、彼女は深い意図には触れずに苦笑いをした。
【確かにね。初めて海を見たときには、神さまはこんな綺麗なものをお作りになったのかって感心したわ。でも、海を渡るときは反対。どうしてこんな苦しいものをお作りになったのかって】
 アダムは何も言わず、彼女の人生を愛でて微笑んだ。おそらく、アジアの内陸で生まれ育った彼女にとって、海は感動と驚愕を伴う景色に違いなく、その海を渡るときの船酔いも想像もつかなかったのだろう。
「この国に着いて大地を踏んだ時には、ほっとされたでしょう」
【いえ、それが覚えていないの】
 チュラーヤはそう笑って、理由を付け加えた。
【難破して浜に流れ着いていたらしいわ。気がついた時にはこの国の人々に助けられて家の中】
「なるほど、そんなことが」
【気がついて、外に出てみると、桜の樹から舞い散る花びらが月の光に照らされて、私の周りに降り注いできたの。ここは天上世界かと思ったわ】
「それでサミュールも、桜に特別な思いを持って居るんですね。」
【いいえ、あの子はもっと現実的。桜の樹にあの村娘の面影を重ねているようだわ】
「桜の樹と村娘、どういう事ですか」
【あの子には、この国で結ばれた妻が居るの】
「サミュールが結婚を」
 考えてみれば意外な話でもあるまい。ここは閉鎖的なコミュニティだが、彼らがこの国に流れ着いた当初は、この国の人々と同じ村で生活を共にして交わりがあったのである。
「サミュールが妻を愛しているなら、どうして迎えに行ってやらないんですか?」
【それは、たぶん、私が原因だわ】
「貴女のせいですって」
【異民族の私が、この村でどんな暮らしをしているかご存じ? 私の血を引いたあの子もこの村では白い目で見られがち】
「異民族の血を嫌がるんですか」
【あの子は、自分の妻が私と同じように扱われるのが嫌だったのかも知れない】
「そういう事情があったんですか」
【争いって嫌ね。でも、私は父母から受け継いだ血を大切にしたい】
 彼女は断言するように話を締めくくったため、アダムは続く質問の機会を逸した。チュラーヤの言う争いが、ユダヤ人の内部での不協和音なのか、ユダヤ人とこの国の人々との争いなのか、戦争といった権力者の争いのことか、それとも、身近な男女の諍いか。アダムはその言葉の意味を考えた。
 チュラーヤは竈の中で燃え尽きかけていた薪を眺めて、思い出話を語っていた時間の長さを察した。アダムもまた、彼女と同じ事を考えた。すぐに戻って来るかと思われたサミュールとヘレンの帰りが遅いのである。彼女は新しい薪を竈に入れて加えて湯を沸かしながら呟いた。
【全く、また何処をほっついているのやら】

【母さん、】
 帰ってきたサミュールとヘレンは、妙に陽気で仲が良い。
【サミュール! 母さんに心配をかけるんじゃないよ。お前たちは父さんから預かった大事な息子なんだから】
 ヘレンは息子を叱るチュラーヤの言葉を、サミュールと並んで自分も叱られているように素直に聞いていた。チュラーヤは普遍的な母性というようなイメージを感じさせ、息子を叱る言葉が自分にも当てはまるようにも感じられるのだろう。
【全く、困った子どもたちだよ】
 チュラーヤはそうぼやきながら、客人のために今夜の寝床を用意した。

 


 全ての人を公平に包む朝の気配が、この村ではやや堅苦しさを感じるのは、村人たちの信仰心のせいだろうか。流れ聞こえる祈りの言葉に敬虔な感情を感じ取る事は出来るが、彼らの神に対する知識のない者には言葉の意味は分からない。しかし、アダムを包むように響く言葉には人々の願いが籠もっているようだった。
 サミュールの家の傍らに座り込んだアダムは手帳を取り出した。
「いいかい、整理してみよう」
 アダムは短い棒きれを拾って地に「ソガ」と「モノノベ」の文字を並べて書いた。
「十三年前、この国は、ソガとモノノベという2つの部族が争っていた」
「ソガはおそらく仏教を奉じ、モノノベはこの国の在来の神々を奉っていて、一種の宗教戦争か、宗教に名を借りた権力争いだ」
「そこにユダヤ人たちが流れ着いて、モノノベに加わったのね」
 ヘレンがモノノベの文字の傍らに六芒星の紋章を付け加え、アダムはモノノベの文字に×印を重ねてモノノベの存在を消した。更に、ソガにウマコの名を書き加え、オーミという文字を並べた。
「しかし、モノノベは戦に負けて滅んだ。権力を握ったソガの部族長のウマコが女帝スイコを表に擁立し、自分はオーミという座について裏で権力を操っている」
 アダムはそう言いながら、スイコ、ミコの名を書いた。
「ミコっていうのは?」
「スイコの代理として政治の実務を執り行っているようだね」
「オーミの権力と、スイコの命令と、ミコの実務がバラバラなら、オーミはやりにくくてしょうがないんじゃない?」
「スイコが凡庸な女帝なら、自分は政治には関わらずオーミの意向をそのままミコに実施させてるから、問題はないさ」
「もし、スイコがキレ者なら?」
「自分が盾になってオーミの権力を遮りつつ、ミコに独自の政治を行わせるだろうね」
 アダムは今まで書いていた文字を全て囲い込む円を描いた
「一番ややこしいのが、この関係者が全て、血縁関係や政略結婚で結びついてるって事だね」
「でも、それがこの村のユダヤ人たちと、どう結びつくの?」
「この世界に来る直前、鳥居をくぐるときに、僕がエイモスに言ったことを覚えてる?」
「鳥居がなんとか」
「そう。日本の神社の入り口にある鳥居が、ヘブライ語に由来するって言う説があるんだ」
「まさか……」
「土地を追われたユダヤ人の一部、失われた支族が古代の日本にやって来て、日本人と同化して文化を伝えたという説なんだ」
「あの人たちが失われた支族だと?」
「さあ。ここがはるか古代の日本だったらという、あり得ない仮定だけどね」
 手帳を閉じるアダムをヘレンは尊敬のまなざしで眺めた。この世界にやってきて触れた言葉の数々がアダムの中で整理されて、ヘレンが疑念を差し挟む余地のないほど密接に繋がっていた。
【異民族の者どもが、何の悪巧みだ?】
 突然に姿を現した男が、地面の文字を蹴り飛ばすように消した。目元と口元を腫らして顔立ちが少し変わっているが、サミュールの義兄エゾラに違いなかった。この男はまだアダムたちに対して敵意を消していない。
【エゾラ】
 背後から名を呼ばれ振り返った瞬間、サミュールは彼を右の拳で殴り倒した。
【昨日の残りだ】
 エゾラは立ち上がって拳を握ったが、新たに現れた人物に遠慮するように、ケンカの意欲を消した。
【やれやれ。全く、お前たち兄弟の仲の悪さにも困ったものだ】
 現れたのはアダムたちを見送るために現れたラビである。
【シャローム】
「おはようございます」
 挨拶をするアダムとヘレンに笑顔で応じながら、ラビはサミュールとエゾラに語った。
【この朝の静けさの心地よさ。この平和を壊してはいけない】
 そんなラビの言葉に、アダムはふと心に湧いた疑問を口にした。
「この景色は見事に調和しているように見えます。太陽も、大地も、大地に樹や花も、その花にいるミツバチでさえ、自然の一部として調和しています。私たち人間はこの調和の一部になれるんでしょうか?」
 ラビはやや考えて、ゆっくりと口を開いた。
【この美しい景色を、この国の人々は故郷の景色として、記憶の中に語り継ぐ。しかし、我々ユダヤの民は故郷を追われ、長く異国の地を彷徨って故郷の景色は記憶からも失われた。いま、この調和の一部となって、この景色を新たな故郷として記憶に留める、それが今の私たちの願いだ】
 アダムの手を包むラビの手の平が、歳を重ねて堅い、しかし、その手の平から暖かくラビの思いが伝わってきた。ラビはヘレンにも向き合った。
【また会いたいものだ】
「是非」
 ヘレンの短く力強い返事に続いて、ラビはゆっくりとサミュールと向き合って指示した。
【お客人をお送りしなさい】
【ついて来い】
 サミュールはそれだけ言うと、背を見せて歩き始め、アダムとヘレンはその後を追わざるを得ない。どうやら、昨日の桜の樹が、集落と船着き場を結ぶ草原の道の道しるべらしく、その傍らを通過した。サミュールが桜の樹を見上げ、また何かを語りかける様子を見せた。
「サミュール。それは何か神聖な樹なの?」
【うるさいっ】
 自分の行為を人に見られたのが腹立たしいのか、彼は怒りの声を上げ、ヘレンは黙って肩をすくめて見せた。
(ドルイドに関わらず、神木を信仰する宗教は世界中にあるが)
 アダムはそう考えながら、ユダヤ教と神木の関わりを考えた。しかし、サミュールが桜に語りかけたときには、神に対する敬意ではなく、愛しい人に語りかけるような雰囲気が漂っていた。アダムは何故か湖の西の対岸にあるノユリの村の桜の樹を思い出していた。
「サミュール。この国に奥さんがいるそうだね」
【それがどうかしたのか】
「異民族の奥さんを思いやって、仲間の差別を避けるために距離を置いたとか」
【そんな事を、誰から?】
「君のお母さんから」
【違うっ。お前も、母も、勘違いをしている】
 サミュールは不機嫌にそう言い放って黙りこくった。水辺には活気があり人々は勤勉に働く様子が見受けられる。引き上げる網に多量の魚がかかっていた。豊かな収穫をもたらす湖だが、人を隔てても居た。
 サミュールは左手に提げていた荷をどさりと小舟に投げ込み、黙ってアダムとヘレンを振り返って、二人に次の行動を促した。この小舟に乗れと言うのである。

「サミュール。あなた無口すぎるんじゃない」
【言葉は争いを招く】
 サミュールはそう言ったのみで、しばらく黙りこくってオールを漕いでいたが、無口な人間らしく唐突に言葉を吐いた。
【アダム、お前、子どもは?】
「残念ながら、まだ独身だよ」
【もし、お前が父親になったら、子どもに何をしてやるつもりだ?】                                                   
 突然に父親と子どもの関係を問われたアダムには、玩具屋での父親とのふれ合いの記憶が蘇った。それをどう表現すればいいだろう。アダムは心の底からにじみ出す言葉をつづった。
「子どもは、親が喜ぶ姿を見るのが望みさ。父親は、ただ、真面目に生きる姿を見せればいい」
 サミュールの問いかけに、生真面目に考え込むアダムを見て、ヘレンは笑った。女を口説けない男には、難しすぎる質問かも知れないと思ったのである。ただ、生真面目な目つきで問いかけ、生真面目に応じようとする二人の姿は、見守りたくなるような好感が持てる。ヘレンの見るところ、サミュールはユダヤ村の中で孤立している存在で、母親以外には相談できる人物もなく、たまたま出会った同じ年頃の男性に、心に秘めていた疑問をぶつけてみたのだろう。
 小舟の中の男たちはそれぞれが考え続けている。
(この自分は、父親として子どもに何が残せるんだろう)
 アダムはそう思い。時を同じくしてサミュールも自嘲的に思った。
(この俺が、誰かを思いやって、妻と子を手放したと?)

 対岸が近づいた。ヘレンはその距離感の違いを評した。
「昨日より早いわね」
【引き潮だ】
 サミュールが短く謎を解き明かした。
「引き潮? ここは湖のはず」
 海の潮の満ち引きなど関係がないはずだと考えるヘレンに、アダムが声を掛けた。
「この湖はどこかで海に続いてるんだ。潮の満ち引きで流れが出来てるんじゃないかな。ユダヤ人村の辺りには草むらが広がってたろ。対岸には西の海岸と同じ葦原が続いている。湖の両岸で植生が違うんだ」
「地質学も生物学も専門外」
 この時、サミュールは櫂を置いて立ち上がり、足下に置いてあった投網をうって言った。
【お前たちも手伝え】
 網を引くのを手伝えと言うのである。
「いきなり、何をするんだ?」
 アダムの質問にサミュールは答えず、二度目の網をうった。投網を使うには水深が深すぎ、獲物など捕れないだろう。そう感じたアダムに、ヘレンが黙ったまま顎をしゃくって見るべき方向を指示した。やや高台にある砦の見張り台にいる兵士が、この舟に気づいて不審そうな視線を向けていたのである。この舟が漁をしているらしい事に気づいた兵士は警戒を解いた。砦の岸には小さな桟橋と幾艘かの小舟が見えたが、サミュールはその桟橋を避け、時に投網をうちながら舟を浅瀬に近づけて、密に茂る芦の原に舟を乗り入れて砦の見張り台から姿を隠した。

【来たときと同じ道を辿って、オーミの兵を避けろ。奴らは野蛮で気が荒い】
「ありがとう」
 礼の意味で片手を挙げたヘレンの掌に、サミュールが掌を合わせた。
【ヘレン。はいふぁいぶだ】
「違うわ。これは、何かがうまくいった喜びを表す仕草よ」
【では、お前たちが無事に帰れる成功を祈願して】
 サミュールはアダムともハイファイブを要求し、言葉を続けた。
【これを持って行け。母からだ】
 サミュールが最初に小舟に投げ込んだ袋を出してヘレンに渡した
「パンだわ」
 ヘレンは喜んでサミュールの首筋を抱き頬にキスをした
【これもお前たちの挨拶か?】

 岸辺で遠ざかるサミュールの舟を眺めながらアダムは尋ねた。
「はいふぁいぶ? いつ、彼にそんな仕草を教えたんだい」
「昨夜、彼と二人でエゾラたちをブチのめした後」
「戻ってくるのが遅かったのは、そう言う訳か」
 アダムはあの無口な男が、意外な無邪気さを持っている事を知った。アダムのため息にヘレンは笑った。
 二人は南に見える砦の見張り台からの視界を遮るように、草むらを縫って歩いた。野鳥のさえずりが響く豊かな自然の中で、二人はやや緊張感を解いた。
「これからどうするの?」
「帰るための手がかりも無し。あとはミコか」
「ミコ? この国の最高権力者の一人ね。簡単に会えるのかしら」
 そんな会話をしながら歩く二人の周囲は、いつの間にか密な竹林に変わっていて、上空を強い風が吹いて葉を鳴らした。砦は景色の背景に隠されていた。道のない林を抜けて南北に伸びる街道に出ると、獣道ではない雰囲気に人の気配を感じはするが、通る人は疎らでアダムとヘレンの足音が、風が揺らす木々のざわめきに溶けて消えた。考え込みながら歩く二人に声をかける者が居る。
「アダム、ヘレン」
 伏せていた顔を上げて声の方向を見ると、南にチェルニーとヨゼフがアダムとヘレンの二人見つけて手を振っているのが見えた。
「ちょっと」
 仲間に合流したチェルニーが、ふと、西に視線を転じてみると、疎らな木々の間から明るく輝く水平線が見えていた。仲間を誘って道を外れ、西に林を抜けると、確かに海の景色が広がった。ここはやや高台であるらしく見晴らしがよい。海辺までまだ二kmはあるだろう。花々の蜜を求めて飛び交う蝶がいる草原の向こうに視線をやれば、広大な海原にぽつりぽつりと浮かぶ島影。全ての景色が解け合って等しく柔らかい日差しに照らし出されていた。
 確かに、チェルニーが仲間を誘いたくなるほど心を揺さぶる景色である。海岸線は定かでは無く、いくつもの小さな入り江は干潟となって葦の原が広がっていた。チェルニーはその光景に、ふと、古代日本の女性歌人の歌を思い出して呟いた。
「難波潟 みじかき葦の 節の間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや」
「何の言葉だい?」
 アダムの疑問にチェルニーが注釈を加えた。
「十世紀頃の若い女性の詩で、心を海岸べりの干潟に茂っていた葦に喩えて、愛する男性に思いを伝えるの。『葦の節の間ほどの短い時間であっても、会わずに生きろというつもりなの』って。女性が詩で心を伝えるなんてなんてロマンチック」
「詩を送る暇があったら、さっさと会いに行くべきね」
 現実的な言葉を吐いたヘレンだが、この初夏の景色は心を穏やかにする。過去に大規模な戦乱あり、人々の間に憎しみが残っているとは信じられない。西側半分に視界が大きく開けて、雑木林の南の端に見える水田や建ち並ぶ小屋はノユリたちの村に違いない。この位置からでも生真面目に働く人々の姿が、鍬をふるって畑を耕す仕草が判別できるほどの大きさで見えていた。優しく包容力のある景色である。

 留まることもできず、歩き始めた彼らは、互いに報告することがあった。
「良いニュースがあるのよ」
 村に向けて歩き始めたチェルニーはヨゼフと顔を見合わせて嬉しげに言った。ヘレンがチェルニーの続く言葉を制した。
「じゃあ、私たちの悪いニュースが先」
 悪いことを先に語ってしまう方が気が楽だというのである。昨日の経験を語るヘレンに、チェルニーは頷いた。
「そう、帰るために有用な情報は何も無かったのね」
 チェルニーの言葉にアダムとヘレンは肩をすくめてみせて、次の話題を促した。
「じゃあ、良いニュースを聞かせて」
 チェルニーとヨゼフは顔を見合わせて笑顔を浮かべ、チェルニーが嬉しそうに言った。
「私たち、就職先が決まったの」
「就職先?」
「そう、チェルニーは施薬院の医師の待遇で、ボクは非田院の子どもたちの世話をする保父さん」
「そう言えば、子どもに懐かれていたな」
 そう言いながら、アダムにはあのユダヤ人の集落の子どもたちの姿が目に浮かんだ。あの子どもたちが、この国の子どもと交わり、遊ぶ光景である。ヘレンが眉をひそめた。
「そう言う問題じゃないわ。元の世界に帰る気はあるの?」
 そんな会話にのめり込むうちに、彼らは村の入り口にたどり着いていた。ワクウが彼らを見つけて嬉しそうに駆け寄ってきて、ヘレンが掲げる手の平に飛び上がるようにタッチした。
「ヘレン。はいふぁいぶ」
 ワクウはそうやって、帰ってきたアダムたちを迎えたのである。ヘレンが教えた仕草を素直に覚えて繰り返す無邪気さが、岸辺で分かれたサミュールの姿と重なった。

 


 女というのはしたたかな生き物で、得体の知れない世界に来て数日で、世界に馴染み生活基盤を築こうとしている。チェルニーは施薬院の医師としての地位を確保しつつあるという。施薬院の女官に手伝いを依頼され快諾したのである。外科医志望で薬草の知識には乏しい。まだ、施設の人々から薬草の知識を受け取る見習い医師と言うところかも知れない。ただし、最新の医術の心得がある彼女が、医療技術では遙かに見劣りするこの世界の医療の一部を受け入れるというのは、この世界で生きる決意の表れのように見える。
「あなた、もう帰る気が無くなったなんて言わないでね」
「そう言わないでよ。頼まれたから引き受けざるを得ないでしょ」
「みんなで行こうよ」
 アダムがそう提案し、ヘレンが首を傾げた。
「どうして?」
「日本橋での、チェルニーの買い物を思い出したんだ」
「私、日本語、ヨクワカラナイ」
 ヘレンがあの時のチェルニーの口まねをし、ヨゼフが疑問を呈した。
「それで?」
「交渉は決定権を持ったボスを相手にするのが良いって」
「決定権のあるボス?」
「先日、オグツさんがミコが来るって行ってなかったかい。どうやらこの国の権力者らしい。会って帰国の協力を求めるのも良いさ」
「うまく会えればね」
 今まで権力者というと雲の上の人物だったり、残忍強欲というイメージしか持たなかった。そんな人物が、得体の知れない異邦人と面会し協力してくれるか保証はないのである。
「賭けてみるしかないさ」
 仲間も頷いた。他に選択肢は無さそうだ。

 既にノユリの道案内は必要なかった。ノユリの村から南にある川を渡り、坂を登ってやや高台に出て歩き続ければ、南に常に寺院の塔の先端が見えくるという地形である。彼らの目的地は、その塔のある寺院そのもので、道に迷う心配はなかった。アダムはふと思いついて渡ったばかりの川のある地形を振り返った。ヘレンがそんなアダムに首を傾げた。
「どうしたの?」
「サミュールが言ってた引き潮の話を思い出したんだ。この川、自然の川にしては東西に真っ直ぐ伸びていて、川幅がずっと同じ」
「だから?」
「この川は、東側の湖と西の海を結ぶ運河なんだよ」
 地図の断片が、彼らの中で経験で繋がれて一つの地図になりかけていた。歩くにつれて、幾つもの道が合流と分岐を繰り返しながら、太く、賑やかに人の往来が激しくなる。四人の足下の草むらから一羽のスズメらしい小鳥が舞い上がった。
「空の鳥を見るがよい」
 そんな言葉を呟くヘレンに仲間の視線が集まった。彼女は記憶の底からわき上がってきた言葉を吐き出した。
「ああ、信仰の薄き者たちよ。何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと、思いわずらうな。これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである」
 アダムがヘレンの言葉の引用元を指摘した。
「マタイの福音書、第六章」
「なんとなく、私たちは異邦人かなって思ったの」
「仏教にユダヤ教。それに加えてキリスト教まで登場させるの?」
 チェルニーの見るところ、この国は仏教を取り入れているとはいえ、その歴史は浅いらしく、人々が仏教を深く理解しているかどうかは疑わしい。もちろん、ユダヤの神を信仰しているわけでもなく、キリスト教を感じさせるものはない。しかし、ヘレンの語る一節がこの場に妙に似つかわしいのはどういう訳だろう。ヨゼフが別の宗教の名を挙げた。
「ムスリムだって、この世界や人々を否定しないさ」
 更に三十分ばかり歩いたところで、歩んできた道に、東に延びる街道が合流した。その街道の幅広さ、せわしなく人が行き来する様子を見れば、噂で聞いた東に二日の距離にあるという都に続く街道に違いない。その街道をこちらに進んでくる一団がいる。いや、行列と言っても良い規模のようである。
 突然にヘレンが舌打ちをするのが聞こえ、見慣れぬ行列をまじまじと見つめようとする仲間に、ヘレンは鋭く命じた。
「みんな、顔を伏せて!」
 顔を伏せたところで、ヘレンの金髪が人目を惹かぬはずが無く、行列の先頭の男がヘレンたちに気づいた。男は酷く興奮した様子で怒りを浮かべて馬を突進させて来た。その顔にはアダムにも見覚えがあった。彼らがこの世界に来た直後、兵士を率いて襲ってきたケハヤと呼ばれた指揮官である。
 ヘレンは狼の素早さで身をかがめて周囲を窺った。道が交わる場所で、まばらに露天が並ぶのみである。広く開けた地に身を隠す場所がない。その間にも馬は速度を増しヘレンたちに接近した。その時に、ふらりと漂うように道にさまよい出た人影がある。続いて、これから起きる惨事に、悲鳴を上げながら飛び出してきた女の様子から、母親の手を離れたよちよち歩きの幼子が道に出てきたと判断が付く。母と幼子が馬蹄にかけられるという目を覆いたくなる惨事を予感した直後、ヘレンは男の目を見た。怒りが引き、後悔や決意が感じられる目だった。馬上の男はその目つきそのままに手綱を強く引いた。しかし馬の行く手を押しとどめることは出来ず、馬は方向を逸れて露店の一つに飛び込み倒れた。馬上の男はその勢いのまま地に投げ出されて動かない。
「この隙に、みんなで逃げるか」
 そう呟いた選択肢の一つをヘレンは打ち消した。罪もない母子を傷つける男ならほって置いても良い。しかし、母子をかばって負傷した男を放置するわけには行くまい。既に、チェルニーは母子の様子を確認するように駆け寄っていて、アダムとヨゼフもまた事故現場に走っている。
 行列の人々も慌てて駆け寄ってきた。
「ケハヤ。いかがした?」
 接近してきた行列の中から進み出て、倒れた男を抱え上げようとした若い男に、チェルニーが怒鳴った。
「馬鹿ね! まだ動かしてはダメ」
 勢いよく地面にたたきつけられて脳に損傷を負っているかも知れず、負傷者をみだりに動かすのは厳禁だろう。チェルニーは気を失った男のまぶたを開けて瞳孔を確認し、手首を取って脈拍を測った。その様子は行列の人々にも医療行為に見えるらしく、チェルニーに怒鳴られた若者も、彼女の手際よさに感心するように見守っていた。
「大丈夫よ。セヤクインに運んで手当てしましょう」
 見守っていた若者も、チェルニーの言葉に無事を聞いてほっとしたように息を吐き出した。行列の人たちの様子から、その若者がこの行列の指揮官だと見て取ったヘレンが怒鳴った。
「間抜け! 何をぼぉっとしてるの。この人を運ぶから、その袋と槍をちょうだい」
 けが人の運搬に、袋と槍という組み合わせを理解しかねたものの、若者は従者と兵士に命じて空にした木綿袋と槍を渡させた。その理解の鈍さに、ヘレンは海兵隊の鬼軍曹が、訓練中の新兵に言うような皮肉な表現で要求した。
「お前、頭の中まで役立たずなの? 槍がもう一本、袋ももう一枚」
 ヘレンが若者に投げかけた役立たずという言葉がアダムとヨゼフの耳にも痛い。若者のみならず、アダムやヨゼフにもヘレンの意図が分からないのである。ヘレンが大きな袋に二本の槍を通したのを見て、二人はようやくその形状から意味を察した。ヘレンは袋に槍を通して応急の担架を作ったのである。ただ、この世界の人々は担架という道具を知らないらしい。様子を見守るだけの若者にチェルニーの叱咤が響いた。
「うすのろ! 何をじっとしているの、さっさとして」
 その用途を知るアダムとヨゼフは、気を失った男をそっと担架に乗せて持ち上げた。
「ミコ、任せても大丈夫でしょうか?」
 侍従らしい男が若者に問いかけているのは、異様な風体の人々に仲間を任せても問題はないのかと問うているのである。
「イモコよ。見よ、彼らは手慣れている。今は彼らに任せるのがよかろうよ」
 若者は周囲の人々を制して、身振りで成り行きに任せるようにと指示をした。
「ミコ?」
 聞き覚えのある名に反応して耳を澄まそうとしたアダムに、チェルニーが声をかけた。
「さぁ、早く怪我人を運んで」

 セヤクインの女官たちは突然の来訪者を驚きつつも、そつなく迎えた。失神したケハヤは板の間に敷物を敷いた上に横たえられていて、チェルニーが診断に当たっている。
「頑丈な男ねぇ」
 そう評したヘレンの言葉にチェルニーは頷いた。よく鍛えられていて首筋から肩にかけて筋肉が盛り上がっている。何カ所か擦り傷があり打撲もしているようだが、落馬の後でころころと転がったせいか、体が受けた衝撃は少なく、骨折は見られず、内臓に損傷を負っている気配はなかった。何より頭部にある瘤が、男の失神の原因だろうと見当が付いた。落馬の時に頭を地面にぶつけたのだろう。
「大きな傷は無さそうだわ。擦り傷と打ち身の手当をしてあげて。気がついたら教えてちょうだい。もう一度診てみるから」
 チェルニーは女官にそう伝え、女官は頷いて打ち身に効く薬草を取りに走った。ヘレンがぽつりと言った。
「頭をぶつけたショックで、私のこと忘れていて欲しいわ」
「彼は、僕ら、特にヘレンを見つけて怒っていたようだったが」
 アダムの言葉にヘレンは肩をすくめて見せたのみである。何かよほどひどいいたずらでもしたかのような様子がうかがえた。チェルニーがそんなヘレンに笑いながらも言った。
「さて、これであの人が目を覚ますまで、ここに居なくちゃならないわね」
「じゃあ、ミコを探して面会するというのは見送りね」
 そんなヘレンの言葉に、ヨゼフがぽつりと言った。アダムだけではなくヨゼフも耳にして記憶していたらしい。
「そのミコなんだが、さっきの若者がミコと呼ばれていた。たぶん、あれはミコが都から護衛や供を連れてここを視察に来る行列だったんだ」
 チェルニーとヘレンは驚きの表情を浮かべて、叫びあった。
「ヘレン。さっき、あなたは」
「チェルニー。あなたもよ」
 女たちは自分の言葉を記憶していたらしい。彼女たちが、馬鹿、うすのろ、役立たずと暴言を吐いた相手は、この国の権力者の一人らしいのである。ヨゼフが今後の展開を予想して、手刀で自分の首筋をちょんっと打って見せた。彼女たちの行為は、公衆の面前で侮辱された権力者の逆鱗に触れ、打ち首になることも覚悟せねばならないというのである。
 人の気配を察して、四人は一斉に友好的な作り笑いを浮かべて振り向いた。姿を見せた女官はそんな彼らに驚いた様子を見せたが、それをすぐに人の良い笑顔に変えて言った。
「何か、突然の出来事に遭遇されたご様子ね」
「ヲグツさん」
 チェルニーが呼んだ名は、寺院の管理下でセヤクインの責任者を勤める女官の一人である。初めて出会った時の気さくさに加え、感謝の表情を浮かべて一礼した。
「ケハヤを助けてくれたとか。ありがとうございます」
「いいえ、人として当然のことをしたまでですわ」
 チェルニーは暴言を吐いた話題を避けて、無難で謙虚に答えた。ヲグツはそんな彼女たちの姿を見回して首を傾げた。
「ノユリやワクウは?」
「今日は、あの二人の付添ではなくて、別の用件で」
 チェルニーの言葉に、ヲグツは笑顔のまま何かを思い出すように語った。
「以前、ノユリが異邦人と一緒にやってきたと聞いた時には、湖の対岸の夫を連れて来たのではと密かに喜んだんだけど、連れてきたのはあなた方。残念なような面白いような、もっと不思議な異人さんたちだったわ」
 明るく笑うヲグツに、ヘレンが愛想笑いをしつつ言った。
「そうです、私たちは面白い人間なんです。生まれてこの方、悪意や暴言とは無縁」
「では、今日はどんなご用件で?」
「私たちは手助けを必要としています、ミっ」
 ヨゼフはミコという名を口にする寸前に、足に鋭い痛みを感じて言葉を途切れさせた。ヘレンが状況を理解できていないヨゼフを睨んでその足を蹴って、注意を促したのである。チェルニーもまた首筋に手刀を当てて斬首を示唆して、ミコという名の危険性を伝えた。彼女たちを斬首の刑に処すかも知れない男である。危険があれば直ぐにこの場から逃げ出さねばならず、迂闊に口にしていい名ではないだろう。
「私たちにに何かお手伝いが出来れば良いんですが」
 ヲグツはヨゼフの言葉を理解しかねて尋ね返したが、じっと会話を聞いてるだけだったアダムが意外な形で質問を逸らした。
「ノユリさんに異邦人の夫がいるんですか?」
「ええ」
 ヲグツが頷いた時、新たな女官が姿を見せて、新たな用件で会話を中断させた。
「ミコがみなさんにお会いしたいと……」
 ミコの名にヘレンたちはぎょっとして顔を見合わせた。女官が漂わせるいつもと変わらない様子だけが救いだった。もはや、ヘレンたちは逃げることはかなわず、ミコの呼び出しに応じるほか無さそうだ。

「まずは、ケハヤを救ってくれたことに礼を言わねばなるまい」
 ミコは笑顔でかるくお辞儀をした。アダムたち四人はこの人物の雰囲気に酔った。今まで知っていたどの権力者ともイメージが違う。大らかで人を包み込む人柄を漂わせ、道ばたで無邪気な遊ぶ幼児に感じるような、心を引きつける求心力がある。本当に、この人物がこの国に君臨し、国政を左右する権力者なのかという疑いが湧き、逆に、この人物なら人々の敬愛を集める統治をするだろうという確信も湧いた。
「我はウマヤト。そなたたち、名は?」
「アダム・マリノフスキー。ポーランドから来ました」
「私はヘレン・ウィリアムス。アメリカ人です」
「チェルニー・アタユックです。タイから来ました」
「ヨゼフ・アハメッド。タンザニアから」
 ミコは四人が次々と名乗るのを聞きながら、好奇心を漂わせて傍らの若者に語りかけた。
「おおっ、異国の人々だと聞いていたが、言葉が通じるぞ。イモコよ、そなたを連れてきた甲斐がなかった」
 この国は一見すると未熟な原始社会だが、もう一方では権力が行き届いた規律正しい社会だと分かった。都にマレビトの出現の情報が届き、ミコはマレビトと会話をするために語学に堪能な従者を同行させていたのである。ミコの言葉に、傍らの従者が答えた。
「いいえ、ミコ。私には充分に」
 イモコと呼ばれた若者は、通訳という役割は果たせなくとも、好奇心を満たす満足感があるというのである。勘のいい男で、彼は先ほどの四人の挨拶から握手をする習慣を学び取ったらしく、四人に握手をもとめて名を名乗った。
「私はミコに仕えるオノノイモコと申します」
(なるほど)
 四人は、この主従関係から思った。イモコから伝わるミコという言葉は、アダムらが抱く王子のイメージに近い。この若き権力者は名がウマヤトで、人々は幼い頃からの呼び名を使って、敬愛を込めて皇子という意味のミコという名で呼んでいるのだろう。
 やや続いた沈黙の後、チェルニーはミコに見つめられる視線に気づいてどきまぎした。見つめ返してみると均整な顔立ちの中に信念を感じさせる切れ長の目が印象的だった。そのミコの小首を傾げるようで好奇心むき出しの表情に、ワクウと共通する雰囲気がある。ヨゼフがミコの意図を悟った。
「チェルニー、眼鏡、眼鏡」
 ヨゼフに促されたチェルニーもミコの注視の理由を知った。ミコは彼女がかけた眼鏡に興味を示しているのである。この国の人々とは肌の色や髪や目の色が違う仲間たちだが、何よりこの眼鏡が異様な風体として目を引くらしい。チェルニーは眼鏡を外した。
(ほぉっ)
 ミコとイモコは顔を見合わせて感嘆の声を上げた。あのヘンテコな部分が顔から外れて、アクセサリーだと言うことを確信したのである。チェルニーに差し出された眼鏡を手にしたミコは、指先でレンズをなで回して驚きの声を上げた。
「冷たくなく、融けもしない」
 レンズが氷ではなく、計りがたい素材だと語っているらしい。ミコが自分を窺う様子を見せたので、チェルニーはミコの意図を悟って頷いた。ミコはチェルニーを真似て眼鏡をかけたが、すぐに眉をひそめて、外した眼鏡をイモコに渡した。眼鏡をかけたイモコもまた違和感を感じて、眉をひそめて眼鏡をチェルニーに返した。
「目がくらくらします」
 そんなイモコの感想に、ミコも同意した。
「チェルニー・アタユックよ。タイ人(びと)というのは、皆、このようなものを身につけて物を見るのか? 世界が歪んで見えはしないか」
「ミコ、私のことはチェルニーと呼んでいただければ結構です。皆ではありません。この眼鏡をかけて目がくらくらすると言うのは、ミコとイモコさんの目がおよろしいと言うことですわ」
 そのやりとりをアダムはやや冷静に眺めていた。アダムが居た世界で眼鏡を知らない権力者が居るだろうかという疑問である。ユダヤという接点がある以上、アダムたちの世界とは無関係では無かろう。と、すれば……
(やはり、ここは、時をさかのぼった古代の世界?)
 考え込むアダムをよそに、ミコの好奇心はヨゼフに移った。
「ヨゼフ・アハメッド。我はいくら陽に灼けても、そなたのような肌の色にはならぬ。漁師の中にもそなたほどの肌の者を見たことがない。タンザニア人(びと)というのは、皆、そのような肌の色をしているものか?」
 ひとつ言い方を誤れば人種差別になりかねない質問だが、ミコは子どもが素直に疑問を口にするように悪びれず、悪意や差別感を感じさせることがない。その素直さにヨゼフは好意の笑顔で応じた。
「私のことは、ヨゼフとお呼びください。私の国の人々は皆このような美しい肌の色をしております」
「ほぉ、よほど、陽の光が強く暑い国なのだろうな」
 ミコの好奇心はくるくると切り替わってヘレンに向いた。
「ヘレン・ウイリアムズ。我は、そのような美しい髪や目の人を見るのは初めてだ……。あのケハヤと何かあったのか」
 金髪や青い目について尋ねられるのかと思っていたら、いきなり質問の矛先を変えられてヘレンは説明に窮する表情をした。
「私のことはヘレンと。彼と最初に会ったのは、私たちがこの世界に来た日でした。不審者と間違われて襲われたのでやむなく。二度目は市で会って、最初の出会いのトラブルをとがめられました。不覚にも彼が率いる兵に囲まれまれて、こちらは一人で相手は多数。こういう場合の定石として指揮官に一騎打ちを挑みました」
 ミコは声をあげて笑った。
「それで、勝利の証として最初の日には剣を奪い、二度目にはケハヤの秘蔵の弓を奪ったと言うことか?」
 ようやく、部下の怒りの理由を理解したというのである。ミコの言葉に、アダムたちはヘレンが弓を持ち帰ってきたことを思い出した。何回も大事な武器を奪われたとなれば、当然、あの男は怒り心頭に達するだろう。アダムはケハヤという若者にやや同情した。
「ヘレン。アメリカ人、とりわけ、アメリカ人の女性というのは、そなたのように勇敢で強いのか?」
「その通りです。自由のためには命を惜しみません」
 ヘレンというのは軍人の家に生まれ、彼女自身、格闘技を好むという偏りがあるアメリカ人女性のはずだ。ヘレンをアメリカ人女性の代表とすれば、全アメリカ人女性がアマゾネスであるかのような偏見を生むだろう。チェルニーはアメリカ女性の名誉のために補足せざるを得ない。
「武芸ではなく、心のありようにおいて、自由と正義を大事にしてきた事を誇る人たちです」
「なるほど、」
 アダム自身もそうだが、仲間たちはこのミコという人物に酔わされている。しかし、やや冷静に眺めれば、この人物の得体の知れないほどの奥深さはどうだろう。先ほど短い挨拶の中で、ちらりと聞いただけの相手の名と出身地を正確に記憶して、それと感じさせずに普通に会話に織り込んでいるのである。アダムに向き合ったミコは、ポーランドという名を正確に記憶していた。
「アダム・マリノフスキー。ポーランド人というのは、この中で最も思慮深いようだ」
 アダムが観察している様子を読まれていたらしい。突然に、床を振動させる足音と共に、ミコの身を気遣うような男の声が接近してくる。
「ミコォー」
 あの声にはヘレンもチェルニーも記憶があった。
「頑丈な男だわ」
「記憶喪失になっている気配もないわね」
 チェルニーは響く足音で男に外科的な異常がないこと、大声を張り上げ続けているところから見て、肺を始めとする内科的な損傷はないのだろうと思った。なにより、ヘレンに対する怒りを忘れている気配もなかった。
 突入してきたという表現がふさわしい。ケハヤが部屋の入り口の簾をかき分けもせず、頭から突進してきて、ミコを守るように、アダムたちとの間に割って入った。ヘレンはこの顔見知りに挨拶せざるを得ず、笑顔で片手を上げて言った。
「Hallow」
「ミコ! この者どもは」
 怒鳴るケハヤをイモコが制した。
「ケハヤよ。この者たちが、そなたをここまで運んでくれたのだ」
 ケハヤはミコの制止に従って、怒りを飲み込むようにごくりと息をのんだ。
(ドーベルマンのような番犬)
 ヘレンは心の中でケハヤをそう評した。侮蔑の意味はない。犬のように濁りのない一途な忠誠心を持った人物だと思ったのである。ミコにたしなめられて以来、話に口を挟むことはないが、憎々しげな目つきで油断無くヘレンたちをにらみつけていた。
「ヘレン! その手を」
 アダムはヘレンの行為に気づいて注意を促した。怒りに満ちたケハヤの視線の先に、ヘレンが傍らに置いたケハヤの太刀があり、ヘレンはケハヤの悔しそうな顔を眺めながら、その太刀を指先で撫でて挑発しているのである。

「霧が晴れると、この国に居たというわけですか」
 アダムたちの話を聞いていたイモコが相づちを打ち、アダムが答えた。
「その通りです」
 イモコはケハヤを眺めて、からかうように言った。
「ケハヤよ。良かったではないか」
「何のことか?」
「お前の話が妄想ではなかったと言うことだ」
「当然のこと。夢に太刀や弓が奪われてたまるものか」
「なるほど、不思議な出来事だ」
 アダムたちの話を聞いたミコは好奇心と同情を織り交ぜてそう言った。
「この国は、いかなる国なんでしょう」
 チェルニーの問いはもちろん、この国が、世界の何処にある、何という名の国かと問うているのである。ただ、タイ人の彼女が、地球に漂着した宇宙人から、タイが何処かと問われるようなもので、説明に窮するだろうとも考えている。事実、イモコもミコも、異人に分かりやすい説明をするのに困ったらしく首を傾げていたが、ミコが言葉を選びながら語った。
「ここは、ワの国。東を見れば荒れ野の先に海が広がっていて果てしない。西を見れば海を渡って、シラギ、クダラ、カヤの国があり、その後方にコウクリの国が控えている」
「シラギやクダラの南の大海を渡れば、西の向こうにはズイの国があり、文物豊かな大国だという事です」
 イモコはまだ見ぬ国にあこがれを込めてそう言った。優れた文物に憧れるという純真な意識に、この国の若さと将来の可能性が伺える。ただ、聞き取る言葉に出てくる単語はアダムたちの記憶と一致するものがなく、アダムたちの世界との接点が見いだせない。
「大阪、あるいは、日本をご存じですか」
 アダムはアダムたちの世界との接点になりそうな地名や国名を尋ねた。しかし、ミコやイモコは首を傾げたのみである。イモコが話題を転じた。
「あなたたちも、異国の文物、学問を携えて来られたようだ。是非とも、その一部でもこの国に伝えていただきたいものです」
 ミコが通訳として連れてきたイモコという人物は、様々な学問に長じているのだろう。それでも驕り高ぶることなく好奇心を失っていない。アダムたちが居た大阪の人々が外国人に注ぐ視線とも共通する。アダムは懐かしさにとらわれるように微笑んだ。
 アダムが少し考えて口を開いた。
「私たちはこの世界に来て、二組の親子に会いました。一組はこの国の母と子で、貧しいながら私たちを分け隔てせずもてなしてくれました。もう一組は、この国にやって来たユダヤ人の母と子で、自分の血筋に誇りを持って慎ましやかに過ごしていました。共に美しい生き方だと思います。私たちは元の世界で多くのものを学んできましたが、その二組の母と子から学ぶべき事ばかりで、教える事は見あたりません」
「ほぉ、人の生き方が美しいか」
「しかし、ユダヤ人から聞きました。この国には二つの宗教があり、神々のために人々が争っていたと」
「それは違う。人々が欲望で争う。その争いのために、人が神や仏の名を利用するのだ」
「利用とは?」
「少なくとも私が信じる仏は、人に憎しみを求めることはない。それとも、あなたの神は敵を殺せと要求するのか? 人々は何故、協調できぬのだろう、何故、憎み合うのだろう」
 その通りだとアダムは頷いた。しかし、それを疑わない者も多い。神の名を唱えて剣を振りながら神の真意を考えもせず、神の名のもとに人を争いに誘う者たちが、アダムが居た世界にも数多くいた。このミコという指導者はそうではないらしい。
「人の命を弄ぶ神や仏などいないでしょうに」
 チェルニーの言葉に、ミコは意外な形で悲しみと苦渋を伴う言葉を発した。
「我は、人の死を願うたことがある」
「えっ?」
「十三年前の戦のおり、我はまだ幼く、剣や弓を扱えぬこの身が苛立たしかった。モノノベモリヤさえ死ねば、我らが大願は成就すると思うたのに、この手でそれを果たす事が出来ない。我は仏にモノノベモリヤの死を祈念した。憎いとは思わない。我らが目的のためにモリヤの命を代償にするのが必要だと考えた」
「そんなことが」
「願いは叶って、我が軍の将の矢に射られたモノノベモリヤは死に、我らは退却するモノノベの軍勢を追った。その途中、我は傷ついた兵士の中にいた。血まみれで死んだ者はまだ良い。息のある者は傷を押さえて苦痛の悲鳴を上げ、血の泡を吐いていた。命乞いが聞き入れられず、槍に突かれる兵士も居た」
 ミコは悲痛な目つきで記憶を辿った。先ほど常人とは思えぬほどの記憶力を披露した人物である。繊細な感性で拾い上げた景色の数々は、明瞭に記憶に刻まれて、この人物を苦しませているのかも知れない。ミコは言葉を続けた。
「ひょっとしたら、これは我が願った光景か? そう考えると自分自身が心底怖くなった。何という恐ろしい事を、我は仏に祈念したんだろうと」
 ミコはうつむき過去の罪を思い出すように唇をかんで、ゆっくりと言葉を続けた。
「この寺院は、我の贖罪の証だ。我は本当の仏法でこの国を治めたい。仏法の元で人々が安んじて暮らせる世を次の世代に引き継ぎたい。アダム、この国をそなたたちが出合った母と子ばかりにしたいのだ」
 チェルニーが両手の平を会わせて拝む仕草をしながら言った。
「私も仏教徒ですが、いつかミコの願いが叶うと信じています」
「ただ、人々の憎しみは容易には消えぬ。戦でユダヤ人に親や兄弟を殺された者も多い、ユダヤ人の中にも我らに肉親を殺された者も居よう」
「残念ながら、私たちの世界にも争いや人々の憎しみがあります。私たちもまだその憎しみを乗り越えられずにいます。でも、きっと乗り越えられる。それは私たちもミコも同じ」
 チェルニー言葉に、ミコは悲しげに言葉を継いだ。
「戦の後、七年を経ても憎しみが収まらなかった。我はユダヤ人に湖の北の地を与えて、住まいを分けた」
「それが、あのユダヤ人の集落なんですね。もとは、共に暮らしていたと」
 アダムの問いに答える前に、人の気配がし、一人の女官がミコを呼んだ。
 ミコは女官の用件を察したように立ち上がった。好奇心は未だにわき上がってくるようで、ミコは名残惜しそうにアダムたちを振り返った。
「また、会いたいものだな。今日は不愉快な話を聞かせてしまった。今度はもっと別の、そうだ、我々の未来の話でもしようか」
 イモコも立ち上がり、アダムたちに一礼して言った。
「もし、不自由があればなんなりとお申し出ください。この私が出来るだけご期待に応えたいと存じます」
 イモコがそう言ったのは本心である。この不思議な客人たちの正体ははっきりと分からないが、雑談をしていると心が触れあう感じがして、好奇心が満たされる。不思議な事に言葉と同時に感情そのものが伝わってきて、心の中を隠さずさらけ出すようで心を許せる相手だという気がするのである。
 おそらく、ミコも同じだったのだろう。普段はそれほどお喋りではないミコが、心に抱える悩みを吐き出すように語りかけた。近習としてミコの心の悲しみに気づいているつもりで居た。しかし、先ほどミコが口にしたほどの本心に触れたのは初めてだった。ミコの笑顔がいつもより晴れているのも、心に封じた悲しみの一端を解放したおかげかと、この客人たちに感謝しているのである。
 イモコは部屋を辞しながら、ケハヤが腕組みをしたまま動こうとしないのを眺めて苦笑いした。ミコと親しく雑談を交わす相手を傷つけるようなまねはすまいが、まだ心を許したわけでは無さそうだ。イモコは実直な同僚を愛でて笑った。
「争いさえしなければ、心ゆくまで語り合うが良かろうよ」
 チェルニーがケハヤに尋ねた。
「貴方はミコと一緒に行かないの?」
「わしか? わしはミコの護衛が役目だ」
「だから、ミコの側に控えてなくても良いの?」
「今、ここで一番得体の知れないのが、お前たちだ」
「だから、私たちを見張ってる方が効率が良い訳ね」
「ミコの命を狙う者が居るからな」
 ケハヤが意外な事を言った。
「まさか」
 アダムやヘレンは信じることが出来ない。人々がミコに接する様子から敬愛を集めていることは疑いがない。暗殺などと言うのは、任務に忠実な余り抱いた妄想ではないかと思えるのである。しかし、アダムが断言するように人物名を挙げた。
「オーミ。ソガノウマコ?」
 返答を求めて、皆の視線がケハヤに集まったが、彼は口ごもるのみで答えない。具体的に答えるには恐れ多いのだろう。
「サミュールたちが言ってた。モノノベとソガが権力争いをしてソガが勝利を収めたと」
「それで?」
「権力争いに勝利したウマコが王にならずに、女王スイコがその後で擁立されということはソガの権力が背後にあるだろ?」
「血縁関係を利用して女王を操るつもりだったという事ね」
「その女王スイコがミコを政治を任せているとするなら、スイコはソガの威勢を嫌って独自の政治をしようと言うことだ。ソガの影響力はミコによって削がれている。つまり、ソガ族の族長ウマコにとって、ミコは排除したい相手なのさ」
「表だって攻め滅ぼす訳にも行かず、影で殺害するしかないと言うことか」
「なるほど」
「そのとおりなの?」
 尋ねるチェルニーにケハヤは、この男の忠義心が苦虫を噛みつぶしたようなしかめっ面をさせて答えを物語っていた。チェルニーは質問を変えた。
「私たちは、セヤクインやヒデンインを回るけど、ついてくる?」
「当然のこと。危険な輩を野放しにしてなるものか」
 チェルニーが笑いながらヨゼフに囁いた
「危険人物? ヘレンだけにしておいて欲しいわね」
 その危険人物は、腰に太刀を下げながら、ぽんぽんと太刀を叩いて挑発した。
「私に勝てたら、いつでも返してあげるわよ」
「わしはまだお前の魔術の秘密が分からん。しかし、力ではお前なぞに負けてはおらんぞ」
「あらっ、力任せだから勝てないのよ」

 はからずも、彼らはミコと面会するという最初の目的を達していた。この後、チェルニーはセヤクイン、ヨゼフはヒデンインの手伝いという役割があるのだが、アダムとヘレンにはそれがなかった。
「このあとどうする?」
「無駄に歩き回っていても仕方がないね。考えをまとめながら、ヨゼフの手伝いでもするさ」
「せっかくだから、後ろのお兄さんにいろいろ聞いてみるのはどうかしら」
 そう言って背後を振り返ったヘレンに、ケハヤは不機嫌に断言した。
「お前に話して聞かせることなど、な・に・も、ない!」
 私は嫌われているらしいと肩をすくめて苦笑いするヘレンに代わってアダムが問いかけた。
「ケハヤさん。あなたはずっとミコに仕えてるんですか?」
「そうだ」
 ケハヤの返事は不機嫌に短い。両側に広がる薬草園を抜けて歩くと、はしゃぐ子どもたちの姿が見えた。その子どもを眺めるこの忠実な武人の目に和らいだ光がある。この施設にいるのは、親を失った子供たちだと言うが、寂しさを感じさせない。薬草園で薬草の乾燥や運搬などの雑事をしていた男女は幼く、子どもと言っても良かった。ヒデンインの小屋の周りにも数人の子どもたちが居り、赤子を背負って子守をしていた。歳を経るに従って、ここでいろいろな役割を与えられ、仕事を果たしているに違いなかった。
「よぜふ」
 やって来た人影を見た子どもの一人が嬉しそうに叫んだかと思うと、アダムたちはヨゼフを中心にわらわらと寄ってきた子どもたちの輪の中に閉じこめられた。
「ヨゼフ。すっかり、人気者ね」
 子どもたちはヨゼフに手品をねだり、ヨゼフは一つ覚えのコインを消す手品をやって見せた。その輪の外に一人の子守の少女が居た。首を傾けたり、背伸びをしたり、彼女の視界を遮る子どもたちを避けて、目を輝かせてヨゼフの手つきを追う様子は子どもだが、赤ちゃんを大切に抱く腕には母親のような優しさを感じさせた。他の子どもたちのように輪に入っていかないのは、胸に抱いた赤ちゃんが、はしゃぎ回る子どもたちの間でもみくちゃにならないようにとの配慮らしい。その優しさをケハヤはぽつりと表現した。
「不思議だ。本当の母親のような目をしている」
 もちろん、母親であるはずはなく、血のつながりがあるかどうかさえ分からない。しかし、少女の持つ包容力は母親のように美しいのである。ケハヤは少女を赤ちゃんごと抱き上げて、他の子どもたちの頭越しにヨゼフの手品を見せてやった。
「もし、僕たちがここで何かを成し遂げるとすれば、この子どもたちのためになる事であって欲しいね」
 アダムがそう言い、傍らのケハヤも頷いた。
「それにしても、見た目に寄らず優しいのね」
 そのヘレンの言葉に反論もせず、ケハヤは言った。
「俺はこの子たちと同じだった」
 言葉の意味は計りかねたが、言葉と共に伝わってきた寂しさで、父親や母親が居なかったという意味がくみ取れた。
「ひょっとして、貴方はこのヒデンインの出身なのか」
「いいや、しかし、十数年前、戦に巻き込まれて、父や母が亡くなった。一人で彷徨っていた俺を見つけたミコが拾ってくれた」
「そうだったの」
「北にある砦にも兵士が大勢いたが」
「港を守備するヒコネ様の兵のことか。あれは、俺のような護衛じゃない。戦で戦う兵士たちだ。十三年前の戦で戦った勇者のヒコネ様が指揮を執っている」
「ヒコネ、砦の指揮官」
 アダムは新たな情報を手帳に書き込んだ。
「ヒコネというのは、どんな人物ですか」
「オーミに忠義を尽くし信任も厚い。戦では弟君とご子息を亡くされて、ユダヤ人どもをひどく憎んでおられる」
「あそこに砦を築けと命じたのはオーミなの?」
「一年前、オーミは我が国にとって重要なナヌワの港を守る三百の兵士が必要だと上奏されただけだ」
 ケハヤの言葉からアダムが結果を導いた。
「それで、上奏が受け入れられて、砦が作られたんだ」
「でも、港を守るにしては、砦はずいぶん北東にあるのね」
 ヘレンはケハヤの表情を観察しつつ言葉を継いだ。
「ミコが争いを避けるためにユダヤ人たちを移住させたのよね。そのユダヤ人たちに睨みをきかせるみたいね」
「難しい事は、オーミやヒコネ様に聞け。俺には分からん」
「オーミ、派兵を上奏。港北東部に砦建設、一年前」
 アダムはそう呟きながら情報を書き留めた。ケハヤは首を傾げアダムの行為に興味を示した。
「何だ、それは」
 アダムはユダヤ人集落と同様、ここでも手帳とボールペンの説明をせざるを得ない。
「文字か、俺には読めん」
 ケハヤは手帳の中身を見て急に興味を失ったようだが、子どもたちの好奇心は薄れない。
「もっと、もっと」
 子どもたちはアダムに他にも何かを書いてくれと要求するのである。アダムは戸惑いつつ子どもが喜びそうな鳥や花の絵を描いて見せた。子どもたちに溶け込んで共に遊ぶヨゼフ、戸惑いつつ生真面目に子どもたちの相手をするアダム、そんな異人の姿にケハヤは警戒を解いた。既に日は傾きかけて、人々を赤く染めて、長い影を作り、もう帰る時間だと教えた。
「ケハヤ。今日は楽しかったわ」
 ヘレンが笑顔でそう言って、握手の手を差し伸べた。戸惑うケハヤに、ヘレンはその意味を教えた。
「私たちの挨拶では、手を握り合うのよ」
「そうか」
 ヘレンはケハヤが差し出す右手の親指を握って、くぃっと捻り上げて、そのままケハヤの腕を獲って背に回した。背後から腕を固められてケハヤは身動きが取れない。
「ほらっ、また私の勝ち。油断しちゃダメね」
 ケハヤの耳元で、ヘレンは笑顔でそう囁いた。ケハヤは怒りを露わにして言った。
「ヨゼフ、アダム、チェルニー。やはり、この女だけは信用ならぬ」
 こういう言葉をヘレン以外に向けた辺り、ケハヤはどうやら、三人に対しては警戒感を解いたらしい。しかし、ヘレンに対して心を許すのはまだ先だろう。
(それにしても)
 アダムは心の中に呟いた。湖の向こうのユダヤの子どもたち、湖のこちらの子どもたち、その二つの姿が、何故かワクウに象徴されるような気がしたのである。

 


 次の日の朝。暗いうちから降り始めた小雨は、夜明けを迎えても止まず、村の人々はこれから迎える雨期の前触れではないかと笑顔で噂し合っていた。アダムたちにとっては行動を制限する嫌な雨だが、村人たちは空を見上げて手を合わせ、何かを祈る姿もある。
 考えてみれば、植物の生育に必要な水をもたらしてくれる自然現象で、今年の豊作を願っているのかも知れない。雨や風など自然現象に畏敬の念を持ち、生活に同化させている人々なのである。ヘレンはこの雨に文句を言うのを止めた。しかし、太陽が昇りきるのを待たず、村人たちの期待もむなしく雨雲は吹き払われて、透き通る青空から、肌が痛いほどの直射日光が射した。雨は乾ききってひび割れた大地の表面を僅かに湿らせただけである。
 雨上がりの戸口の辺りで、賑やかにはしゃぐ声がする。村の子どもたちがヨゼフに群がって遊びを求めているからである。
「保育園でも開くつもりか」
 アダムがそう言ったのはヨゼフが戸口に保育園の看板でも掲げるのではないかと思ったからである。
「ヒデンインの子どもたちが寂しがっているような気がするよ。これが父親の気分なのかな」
「父親と子どもか」
 アダムはヨゼフが発した言葉の中から気になる言葉を繰り返し、考えを披露した。
「ひょっとしたら、あの時のサミュールは、別れ別れになった妻と、まだ抱いた事のない息子に会いに来てたんじゃないか?」
「ユダヤ人の集落に行った時にね。あのサミュールが桜の樹に話しかけるみたいな様子をしていたわ」
「ヘレン。君も気づいてたのか」
「マリアと桜餅、ノユリさんとノユリさんが舞った桜の樹。あの脳天気な人物像が桜と切り離せないわ」
 ヘレンがそう言って笑った。ただ、この世界で、質朴な青年サミュールが、桜を撫でる時の様子は、女性に接するようだった。桜に相当する女性が居るとすれば、ノユリのイメージが当てはまる。チェルニーが頷いた。
「事情は飲み込めてきたわ。ノユリさんとサミュールさんはワクウちゃんが生まれる前に別れ別れになっちゃったという事ね」
 ヘレンが言葉を継ぐようにその後を語った。
「ノユリの村の人もサミュールの村の人も、互いに争った経緯があって、相手のことを口に出しにくいのね」
「でも、そのサミュールという男はワクウちゃんが生まれたことを知っているのかな」
「きっと、知っているわ」
「どうしてそんなことが」
「アダム。サミュールが私たちを送り返してくれたときに言ってたことを覚えてる?」
「父親になったら、子どもに何をしてやりたいかと」
「それよ」
「父親になったらという仮定は、彼が父親としての経験を持っていないと言うこと」
「子どもに何をしてやりたいかとは、子どもが出来たことを知ったと言うことか」
「その通りね」
 幼い頃にこの村で過ごしたサミュールが、ノユリと出合って、やがて結ばれたというイメージである。この村の村長の娘として、村の女性を代表して桜の神木の前で舞を奉納し、その姿はサミュールも毎年目にしていただろう。子どもを授かった。そんな知らせを耳にする前に、二人は引き離されてしまったのだろう。二人を引き離してしまったモノノベとソガの内戦がむなしく思われた。
「気になるのは南の砦ね。あそこに居るのは過去にユダヤ人と戦ったソガの兵士たちで、今でも憎しみを忘れては居ないよう」
「ミコが戦いを許すはずはないでしょ」
 そんなチェルニーの言葉にアダムが答えた。
「僕たちがこの世界に来た時にケハヤたちとトラブルを起こしたろ。都にいて遠く離れていたはずのミコも知っていた。この国では情報が素早く伝達されている。ただ、僕らの存在を知っていてもおかしくない砦の兵士たちは、僕らを探索する様子はなかった」
「どういうこと?」
「たぶん、指揮系統が違うんだ。ケハヤはミコのボディガードみたいなもので、ミコの指示で直接動く。でも、兵士たちは……」
「兵士はオーミが動かしているというのね」
 ヘレンが口を挟んだ。
「それにね。砦の位置がヘンなのよ。港を守ると言いながら、港からずいぶん北に離れた高台にあるでしょ」
「対岸のユダヤ人たちを威圧するみたいに?」
「双方にまだ憎しみが消えていないという話だったね」
 話の結論は出ないまま、続く沈黙で議論は終わった。周囲を見回すと、昼を待つまでもなく、草木に残った雨露も乾きかけていた。チェルニーは心地よさそうに伸びをした。
「晴れたわね」
 ヘレンは一人考え込む様子のアダムに声をかけた。
「何か気になる事でも?」
「あの人たちをよく見てみろよ、服装は違っても顔立ちは日本人とそっくりだろう」
「それが?」
「僕の想像だけれど、ここは遙か古代の日本じゃないかと思っただけさ」
 ヘレンが尋ねた。
「以前、ユダヤ人集落であなたが言った、古代の日本にユダヤの失われた支族がやって来たというのは?」
「その辺りはよく分からないんだが、妙に日本との関わりが気になるんだ」
「でも、人の名前や地名、聞いた事がないものばかりよ」
「そう。ミコやイモコも、大阪や日本を知らなかったわ」
「僕らが知っている古代の日本って、せいぜい、サムライの時代だろう」
「それよりずっと以前、日本が国としてまとまり始める頃?」
「地名、ヒデンイン……。思い出したわ」
 チェルニーの記憶の中で、ヒデンインという言葉が、彼女たちが元居た大阪と繋がったのである。彼女は医療関係者として、六世紀の日本に公立病院があった事を知っていた。そして、その病院と併せて、ヒデンインと呼ばれる施設があり、その名は現代の大阪の一角に町の名として残っているということも。
「あの日、私たちが行くつもりだった動物園の東に、悲田院町って場所があるの。昔、四天王寺の一角にあった施設の名残だって」
「では、あの寺院が四天王寺だって言うのかい?」
「その四天王寺に、施薬院という病院ができたのが六世紀終わりの頃。ヒデンインができたのも同じ頃だと思うわ」
「でも、ノユリさんたちは、あの寺院を四天王寺じゃなくて、アラハカの寺と呼んでいるよ。別の場所かもしれないよ」
「その辺りは良くわからないけれど、類似点があるのは事実なの」
 彼女たちの日本史の知識は断片的で、パズルのピースが組み上がることはなかった。ただヨゼフがぽつりと結論のように言った。
「でも、チェルニーが言うとおり考えれば、未発達の文化や、未成熟な国家体制についても説明がつくんじゃないかな」
「古代の日本ってこんなところだったのかな」
「日本って、こんな風に始まったのね。いろいろな人たちがいて、憎しみや喜びの中でもがきながら生きて」
「でも、世界のどこでも同じような人たちが居て、日本人も私たちと同じだったということ」
 チェルニーは落ち着きのあるため息と共に自然な判断を口にし、それに反駁する者は無かった。この世界に来て以来、ここが現代の日本どころか、現代に当たる地球上のどの地域でもないという否定的な認識を深めていたのである。しかし、何処なのかという疑問について、遙か過去ではないかと思いつつ、突飛な想像を口に出せないでいた。
「でも、それなら、時間旅行の知識のない俺たちは自力で帰る方法がないと言う事さ」
 ヨゼフはため息と共に、傍らではしゃぐ村の子どもの頭を撫でた。
「まぁ、いいお日様」
 村長の小屋から姿を見せたノユリが笑顔で姿を見せ、束ねたムシロを開いて、棚に敷き始めた。ワクウが小さな籠に薬草を入れて運んできてムシロに並べ始めた。薬草を乾かす母親の手伝いをしているのである。雨を察知した彼女は干していた薬草を家の中に取り込んでいたのである。
「雨が降ると大変ですね」
 チェルニーが薬草詰みの仕事に同情すると、ノユリは笑顔で反論した。
「でも、雨が降らないのも、大変なんです。雨の季節が遅れると村の者は田植えの時期や稲の育ち具合を心配します」
 なるほど、とアダムたちは納得した。雨が降っても降らなくても天候に左右されるのは同じ事で、自然をありのまま受け入れて生活する人々なのだろう。ふと、アダムはこの世界に来た夜に、ノユリが舞を舞う姿を思い出した、時の象徴たる桜の樹の前で、今年の豊穣を祈りつつ舞っていた姿である。彼女のイメージが桜の樹と重なり、サミュールが桜に語りかけていた姿が思い起こされた。
(彼は何を語っていたんだろう)
 そう考えたアダムだが、答えは出なかった。答えを知っているかも知れないノユリには、アダムも他の仲間も、誰もサミュールとの関係を問い詰める事はなかった。
「みなさん、ミコとお会いになったのですね。村人たちが噂しておりますよ」
 ノユリは薬草を大切に並べながら、世間話でもしているように言葉を続けた。
「ミコの御前で、落馬したケハヤ様を救ったとか」
「ノユリさん。ミコをご存じですか」
「ええ、この村にも時々、お見えになりますよ」
「ワクウ」
 ワクウが自分を指さして自分の名を主張した。
「そうそう、この子の名もミコに付けていただいたんですよ」
「ワクウ、どういう意味ですか?」
 そのアダムの問いに、ノユリが返事を返す余裕が無かった。日本には『噂をすれば影がさす』と言う諺がある。アダムが唐突にそんな諺を思い出したのは、子どもたちが笑顔でミコの名を叫ぶ、その視線の先に、一人の男の姿を見つけたからである。
 暖かな日差しを楽しむように浴びながら、ゆるゆると馬を操る人物は、昨日出合ったミコに間違いがない。見れば、傍らにイモコとケハヤが控えていた。ミコがアダムたちに気づいて片手を上げて挨拶をし馬を下りた。ノユリの父親がミコの名を聞きつけてあわてて飛び出して来た。村人たちもそろって家の中から出てきて、道の脇に伏せて迎えた。
 アダムたちにとって、初対面の時のミコがあまりに気さくであったため、この突然の光景は意外だったが、納得もさせられる。ミコはこの国の権力者で、村人たちとは身分が天と地ほど違うのである。ただ、村人たちが顔を伏せて土下座をしている姿には、目の前の権力者に対する恐れより敬愛を感じさせる。
 そして、ノユリとワクウが村長に促されて伏せたのは、セヤクインに薬草を納めにゆく二人は、素のままのミコと接して、村人に土下座を求める人物では無いと言うことを知っていたのだろう。
 村長は土下座のまま、伏せていた顔を上げて尋ねた。
「本日は何用ですか」
 ミコ主従は馬を下り、気さくに村長に歩み寄って、立つように促した。
「いや、突然の訪問で驚かせてしまったようだ。都に帰る道すがら、客人に贈り物を持参したのだ」
 ミコは都に帰る道すがらと表現したが、この村はアラハカの町の北にあって、東方の都に帰るには、やや遠回りになるはずだ。ミコの傍らにいたイモコが、アダムたちが逗留する小屋を確認すると、てきぱきと従者に命じて荷車の荷を降ろさせた。
「ミコ、これは?」
 ヘレンの質問にイモコが笑って答えた。
「米と麦、それから干し芋に干し魚です。塩と味噌が少々。不足があれば、改めて用立てますので、遠慮なく申しでてください」
 ミコは再び馬にまたがりながら笑った。
「そなたたちに食料を渡しておかぬと、兵士の剣が何本あっても足りぬと、ケハヤが申すのでな」
 ヘレンは赤面した。食糧が不足すれば、ヘレンが兵士から太刀を奪って食料に換えると言う事である。ミコの傍らのケハヤが、反論できまいと、歯を見せて笑っていた。
「ちっ」
 内心を見透かされ、その手段を封じられたヘレンは舌打ちをしたが、尊敬しあえるライバルに先手を打たれたときのような心地よい悔しさである。アダムたちにとって、この申し入れはありがたく受け取って良いだろう。
「お気遣い、ありがとうございます」
「また、ゆっくりと話をする機会が欲しいものだ」

 僅かな再会だったが、穏やかで細やかな心遣いが感じられ、アダムたちは遠ざかって行くミコ主従の後ろ姿に頭を下げた。考えてみれば、ミコはこのワの国の指導者の地位にあるわけで、混乱する政治の中枢で目が回るほど忙しいはずだ、この場にゆっくりととどまる暇などないのである。
「良かったじゃないか、ヘレン」
 首を傾げるヘレンにアダムが言った。
「君が兵士から剣を奪った事は、不問に付すという事だ」
「しかし、俺たちはこうやってこの国に深入りしていくんだな」
 ヨゼフの言葉に他の仲間も考え込んだ。朝、彼らが話しながら結論を避けた話題である。
「僕たちは、どこまでこの世界に介入して良いんだろう」
 悪事を見逃したり荷担する気はないが、宗教や政治や歴史が絡んで対立を深める人々の間に割り込んで、アダムたちの正義の基準を振り回して良いのかという事である。ワクウがアダムたちの判断を伺うかのように寄り添って、彼らの顔を黙って見上げていた。
「ワクウちゃん。ミコはどんな意図があってあなたをそう名付けたのかしらね」
 チェルニーはワクウにそう語りかけたが、もちろんワクウが物心つかない頃の出来事で、この子はその訳など知るまい。そのワクウの素直な笑顔に誘われて、ヘレンはノユリに唐突な質問をした。
「ノユリさん。ひょっとしたら、この子の父親はサミュールという男じゃない?」
 ノユリはその名にぴくりと反応して、手にしていた薬草をぽとりと落とした。彼女は大きな目を見開いてヘレンの目を眺めたが、質問には答えず口をつぐんだ。ヘレンは答えを確信し、更に質問を重ねた。
「もう愛してはいないということ? それとも、別の理由でも?」
「いいえ」
 そう言ったきりノユリはいつもの微笑を消し、寂しげに顔を伏せて口を閉ざした。チェルニーは眉を顰め、肘で密かにヘレンの脇を突いた。彼女が触れてはいけない他人のプライベートに踏み込んでいると注意しているのである。
「なぜ、人を愛してはいけないの?」
 アダムは立ち去っていくノユリ親子を見送りながらヘレンが漏らす言葉を聞いた。ノユリの背が儚く見える。


 この地は日常生活を取り戻した。ミコが都への帰途について既に二日になる。ミコが姿を消すと、この町の雰囲気には目に見えて明るさが失せた。ミコという人物の大きさや、人々がミコに寄せる信頼や敬愛がうかがい知れた。
 この日、普段通り薬草の薬効を学び、患者たちに与えているチェルニーは、女官たちの密かな注目を浴びているのに気づいていた。この世界の人々は慎み深いのか、それとも、冗談を平然と受け入れる人々なのかどちらだろう。彼女は自分の髪型について、女官たちから批判や侮蔑の言葉は聞いていない。
 アダムはそんな人々を観察しながら、チェルニーに声をかけた。
「チェルニー、その髪型は……」
 チェルニーは彼女の長い髪を耳元で束ねてミズラに結っているのである。ミコの髪型を真似ているに違いなかった。
「どんな髪型も君の自由だが、たぶん、それはこの国の男性の髪型だぜ」
「えぇ」
 彼女は少し考えて髪を解きながら、アダムとヨゼフを眺めて言った。
「それにしても」
 思わせぶりに呟くチェルニーに、アダムとヨゼフはも顔を見合わせてチェルニーを眺めた。彼女は二人をまじまじと眺めて言葉を継いだ。
「歳は同じぐらいでも、気品や人望があって」
 チェルニーの言いかけた言葉に、アダムとヨゼフは自分たちがミコと比べられている事を察した。チェルニーは結論を下した。
「なにより、ほれぼれするほどイケメンだったわ」
 ヘレンが笑って聞いた。
「惚れたの?」
 チェルニーは頬を赤らめて恥じらいの表情を見せたのみで答えない。ヘレンが更に尋ねた。
「でも、あの人が独身だという保証は?」
「大変だわ! それを聞き忘れたわ」
「ダメね。ちゃんと見てなかったの。彼、結婚指輪をしていたわよ」
「えぇぇぇ」
 冗談に決まっている。この世界の人々に、アダムらの習慣が通用するわけではない。
 そのアダムたちの笑い声が途絶えた。足から体にゆらりと震える伝わり、次の瞬間、棚が倒れ、立っていられず、床に膝をつくほどの揺れに見舞われた。
「地震だ」
 人々の悲鳴が飛び交った。人知を越えた天変地異を素直に畏怖する恐怖の叫びである。
「落ち着いて、家の中にいて」
 幸い、倒れた棚の薬草が散乱したのみで、家屋に大きな被害はなく患者たちも無事だった。
「怪我は無い? 揺れは収まったから安心なさい」
 チェルニーは患者たちにそう声をかけた。確かに、揺れは収まったが、人々の悲鳴や不安な表情は消えていない。
「ボクはヒデンインの子どもたちの様子を見てくる」
 ヨゼフはそう言い置いて小屋を飛び出していった。
「私は寺の周囲の様子を見回ってくるわ」
 ヘレンもまた姿を消した。その後、二度の余震があり、じっとしていなければ分からないほどの軽微な余震で締めくくられた。戻ってきたヘレンとヨゼフも胸をなで下ろすような笑みを浮かべていた。この辺りはたいした被害はなく終わったように見えた。
「このまま、何事もなく終わってくれたらいいけれど」

 ただ、収まるかと思われた地震騒動が、意外に長引いた。アダムたちにとって地震というのは地質学的な現象であって、余震も感じなくなると平穏を取り戻す。しかし、この世界の人々は妙に迷信深く、不可思議な出来事としてとらえているらしい。不可思議なことの原因が分からないうちは不安が収まらないのだろう。
「これも雨の季節が遅れている事と関係があるのでしょうか、凶事は続くと言いますから、これで終わると良いんですが」
 ヲグツが不安げにそう言った。ヘレンが人々の勇気を奮い起こすように言った。
「でも、散らかった部屋の片付けさえ済めば、すべて元通りよ」
「お強い人たちですね」
「僕たちも片付けを手伝いましょう」
 アダムの提案に、感謝しつつもヲグツは言った。
「でも、ここの片付けは私たちがやります。ノユリたちの村も心配です、早めに戻ってあげてください」
 ヲグツの提案にチェルニーたちは異存はなかった。

 もともと、周囲に配慮して遠慮して、本心を隠して笑顔を浮かべているような人々である。後片付けに夢中になっている様子で、それ以上の混乱はないようだが、後片付けに専念する事で、心の奥底にたまった不安を振り払っているようにも見えた。
 不安を抱えたまま夜を迎えた。空には消え入りそうな円弧だけの月が浮かんでいたが、あと数日でその月も消え、星以外に光のない夜を迎える事になる。
 村人は同じ時間に食事をし、努めて不安は口にせず、同じ時間に就寝するという日常を装う夜を過ごした。この点ではアダムたちも変わりがない、アダムたちは地震そのものに加えて、地震が人々にもたらす、予想できない意識の変化への不安を抱えていた。

 そういうタイミングで、この地域は流民を受け入れた。都で被災した人々が食料や住居を求めて、都から二日の距離にあるこの町にたどり着き始めたのである。都は震源地に近かったらしく、数多くの家屋が倒れるほどの被害を受けたらしい。そんな断片的情報が小さな不安を伴いながら積み重なって渦巻いた。
 寺の炊き出しに避難民の行列が出来た。僧侶たちによって門前に備え付けた大鍋で炊いた粥が振る舞われたのだが、多数の難民のため、数日で寺の備蓄米が尽きた。寺の管理下にあるセヤクインやヒデンインでも食糧が不足し、町の北の倉庫に保管されていた穀物が兵士たちによって運ばれて、荒々しい雰囲気が広がった。
「この地震も、湖の向こうのユダヤ人の呪術のせいだと言うぞ」
「そうだ。奴らは俺たちを呪い殺す気だ」
「この先、奴らのせいでまだまだ悪い事が起きるだろう。今度は疫病に違いない」
 兵士は口々にこんな事を言いふらし、それを聞く民衆らも同調する者が居る。
「いや、長く続く日照りも奴らのせいだ。このままでは雨も降らず稲も枯れてしまうだろう」
 アダムたちはそんな様子をセヤクインの中から見守っていた。
「ばかげた事を」
 普通なら一笑に付すべき所だが、兵士たちの中には十三年前の戦の憎しみが強く残っていて消えそうにない。ぶすぶすとくすぶる火種が消えそうに見えながら、気づいてみると灰の中で火勢を増しているように、憎しみが悪い想像を煽り広がっているのである。
 チェルニーが解決策の一つであるかのように言った。
「私たちも、都に行ってみた方が良いんじゃない?」
 大きな被害を被ったという都の様子を確認したいのと同時に、ミコに救いを求めたいと思ったのかも知れない。普段は言葉の短いヨゼフが、自分の考えをまとめるように言った。
「いや、ミコやイモコも地震の後処理で忙しいはずだよ。大勢の怪我人や病人がでているわけではないから、俺たちが行っても邪魔になるだけさ。俺たちはここで避難民の人たちの世話をしようよ」
「でも、気にかかるわね。ミコは大丈夫かしら」
「便りがないのが元気な証拠だよ」
 アダムたちは祈りを込めて頷きあった。
「この異様な雰囲気が、早く収まってくれたらいいのに」
 何度繰り返したか分からない願いを呟いたチェルニーだが、以前、ミコが口にした言葉を覚えていた。
『ただ、人々の憎しみは容易には消えぬ。モノノベモリヤに加勢したユダヤ人に親や兄弟を殺された者も多い』
(不安が恨みや憎しみに転化しないように気をつけなくては)
 アダムたちに共通する思いだが、考えれば考えるほど心が重く、身にまとわりつくような憎しみに憑依されそうになる。表情は互いに暗くなり、口数も減るような気がした。この時、くいっ、くいっとアダムの上着の裾を引く者がいた。
「一緒に、帰えろ」
「ワクウちゃん」
 アダムは声をかけてきた男の子の名を呼んで思わず微笑んだ。視線を転じてみると、空の籠を手にしたノユリがおり、いつものようにワクウを伴って薬草を納めに来たのだと分かった。陽は傾いていて、確かに、チェルニーたちも村に帰る時間である。ノユリが自然体で浮かべる包容力のある笑顔と、ワクウの無邪気な笑顔、二つの笑顔がアダムたちの心を解きほぐすようだった。チェルニーが二人の笑顔が教えてくれた事を確認するように言葉にした。
「そうね。笑顔を失っちゃダメなのね。私たちも笑顔で人々に接しましょう」
 村に帰る道すがら、街道沿いの市の様子を眺めていると、避難民の流入は日を追う毎に目立って減少しているようだった。都の再建が順調に進んで被災者の住居が確保されているという事に違いなかった。ただ、回復するかと思われた人々の心の混乱は悪化している。限られた宿泊施設を巡って争いが起き、施設をはみ出した物乞いが増え、盗みが横行して治安が悪化した。あれほど落ち着きと笑顔があった町だと思えないほど、怒号が飛び交っていた。
 からりと晴れ上がっていて、空に雨の季節の気配がない。アダムの手帳によれば、地震の日から数えて間もなく十六日になる。満月になりそうな月が夜空を明るく照らしていた。人々の中には稲の生育と秋の実りを心配する声が高まっていた。
 地震と、遅れている雨期が、人々の心に作用して不安をあおっていた。既に村の男たちの手によって田起こしと代かきが済んでいて、川から導かれた水が張られた水田は、月と星が輝く夜空を背景に人の心の濁りを象徴するように渦巻く雲を映し出していた。

 


10

 湖面は朝日を照り返してまぶしい。サミュールは目を細めながら網を上げ、網の中の豊かな収穫を神に感謝した。網の中から魚を掴み出して籠に入れ、食用にならない海老は湖に投げ返した。母親のチュラーヤは息子の傍らで手際よく魚の腹をさばき、内蔵を取り除いて洗った。これから持ち帰って干物や塩漬けにする。
【サミュール。前から不思議だったんだけど、その腕の紐は?】
 ここの所、息子がずっと腕に紐を巻いている。その理由を問うたのである。肘の傷は癒えているが、何故かこの紐を捨てることができずに腕に巻いていた。湖の対岸で兵士に追われている時に知り合った幼児にもらったとは言えず、サミュールは答えをはぐらかした。
【綺麗だろう? ただの飾りだよ】
【そうかね、私は何かのお守りかと】
 サミュールは更に話題を逸らした。
【母さん、大漁だ】
 普段はそんな息子の言葉に大喜びする母親が、最近は不安を口にする。
【何か悪い予感がするの。私は不安でたまらない】
【地が揺れたのは、もう十日も以上も前のことだ。いい加減に忘れろよ】
 サミュールは母親の不安を笑い飛ばした。
 母と息子は籠を肩に担いで帰ろうとしたところで、連れだってやって来た村の若者とすれ違った。
【お前たち、何処へ行くつもりだ】
 サミュールが若者たちに短く問いかけた。問わずとも分かる。猟師の風体の男たちが、三人掛かりで猪の死体を運んでいるのである。鹿を獲るために仕掛けた罠だが、猪がかかることがある。信仰上、猪を食べない彼らにとって不要と言っていい獲物なのである。
 男たちの意図も知れた。湖の対岸の異人たちの市で、猪を麻布や薬草や塩と交換するのである。
【サミュール、お前などの知ったことか】
【異民族の市へ行くのなら、止めておけ】
【お前に指図されるいわれはない】
【ここ数日、向こう岸のかがり火が派手に炊きあげられていて騒がしい。兵士どもが物騒な雰囲気になっているようだ】
【余計なお世話だ】
【では、その腰の剣は隠して行け。戦いかと誤解を招く】
 生活の中に刃物が存在する。猟師ともなれば必需品である。ただ、若者たちの間に流行するかのように身につける刃物が大型化し、その刃物を誇示して自分の力強さの証明にするかのように腰に下げている。武器を身につけねば自らを誇れぬのか。サミュールが若者たちの所持する刃物を剣と称したのは、そんな皮肉である。
【臆病者め、ただのナイフが怖いのか】
 あざける口調を隠そうともせず若者たちはそう言い、親子に侮蔑の視線を注いだ。
【好きにしろ】
 おそらく、サミュールはこの村で一番鋭敏な感覚を持っていた。湖を隔てた向こう岸にいる兵士の憎悪を感じ取っているのである。ただ、村人たちはサミュールを無視し、サミュールもまた深く関わり合いになる気はなく、その場を後にした。
【大丈夫かねぇ】
 チュラーヤが心配そうに若者たちの背を見送った。
【ほっとけばいいさ】
 村への道を辿る母と子は足早にやってくる男の姿を見つけた。顔が明らかになる距離になる前に、その足を引きずる独特の歩き方で二人は男を判別した。十三年前の戦でサミュールの父とともに戦い、足に傷を負った男である。チュラーヤはぺこりと頭を下げて挨拶をしたが、男は傲慢な態度を隠しては居ない。名をデービットと言い、チュラーヤを部族の血を堕落させる異民族の女と蔑む人物の一人だった。
【息子たちを見なかったか?】
 デービッドが横柄な態度で尋ね、その態度に反感を滲ませつつサミュールが答えた。
【今頃は、湖の上だ】
【ここの所、向こう岸の兵どもが騒がしい。刺激せぬようにと言って置いたはずだが】
【あんたが手にしている弓のように、奴らは腰の剣を誇示していたぞ。危ない、危ない。近寄るだけで殺されるかと思った】
【お前は、引き留めなかったのか】
【知った事か】
 母と子はこの場を去った。デービットは黙って湖の向こう岸を眺め、地に唾を吐いてチュラーヤとサミュールの後ろ姿に視線を移して、侮蔑の言葉を吐き捨てた。
【所詮、魔女とその息子か】
 神の教えを受け入れない異端者を排除しなければならない。デービッドは熱心な信仰者にありがちな歪んだ憎しみを持っていた。


11

 同じ頃、突然、ふらりと現れた人物に、ノユリたちの村の人々は驚いた。ミコである。見覚えのあるイモコの他、二人ばかりの従者を連れただけの軽装である。
「ああっ、旨い」
 村人が差し出した水を笑顔で飲み干した。都からは日を遮るもののない川を下ってやってくるという。そしてこの辺りの街道は良く整備されていて陽当たりが良い。そこを地震の被害を確認しながらゆるゆると来ただけに喉の渇きも頷けた。ただ、都からの経路を考えればアラハカの寺やセヤクインへ向かっても良さそうなもので、ミコがこの村に配慮して立ち寄った様子がうかがえた。
「この辺りは無事なようだな」
 村の中を見回して、ほっとする口調だった。

 この人物の気さくさは、セヤクインに薬草を持参するノユリ親子とヒデンインに行くヨゼフたちに同行すると言う形をとってあらわれた。これがこの国の国政を担う最高権力者かと首を傾げたくなるほどの寛容さだった。寺に向かう道すがら、ヘレンが疑問を口にした。
「ミコ。ケハヤは?」
 あの番犬のように忠実な男が、ミコの傍らに侍っていないのが不思議だったのである。
「あの者の腕力は、我の護衛より、都の再建の方が役に立つ」
 ミコはそんな言い方をして笑った。地震で破壊された都の再建のために残してきたというのである。ヘレンとアダムは顔を見合わせた。あの男なら、命じられた仕事などほったらかして、大声でミコの名を呼びながら駆けてきそう気がしたのである。
 村人やアダムたちに乞われるまま、ミコは都の様子を語った。
「酷い有様だ。家は倒れ人々は住む場所を失っている。怪我人が救護所にあふれかえっている。ただ、なんとか立て直せるだろう」
 さりげない言葉だか、ミコの人柄を物語っているとアダムたちは思った。都の宮殿や自らの屋敷にも大きな被害を出しているはずだが、自分の事は省みず民衆の困窮に心を痛めているのである。
「しかし、人々の心はまだ治まらぬ。我が、十二の歳の頃に流行病が都を包んだことがある」
「この国にそんなことが」
 そんなヨゼフの言葉に、イモコが言った。
「神をないがしろにした祟りだとか、仏を粗末にした罰だとか、不安ばかりが渦巻いて、人の心が荒れました」
 細かな出来事は分からないものの、その苦しげで悲しげな様子は、イモコにもつらい記憶を残しているらしかった。
「今も、なにやらあの時のように、人の心が乱れている」
 そのミコの言葉はアダムたちにも理解が出来た。この村の近辺でも晴れる様子のない不安が渦巻いていた。きっかけがあれば暴走し始めるだろうという予感があった。
 突然の報告がもたらされた。
「ミコォーーー」
 地響きではないかと感じるほどの足音と、ミコの名を呼ぶ大声にヘレンたちは記憶があった。ヘレンはアダムににやりと笑ってみせた。ケハヤに違いないだろう。彼女の見込み通り姿を現したのである。駆けてきた方向を考えてみれば、セヤクインまで駆けた後、ミコがまだそこに姿を見せていない事を知って、この村に寄り道をしている事に気づいたと言うところか。しかし、響く声に緊迫感が感じ取れ、近づいてきたケハヤの表情にもその感情が読み取れる。
「ミコ」
 発した言葉はそれだけである。ケハヤはぜいぜいと喘いで呼吸を整え、ノユリが差し出す竹筒の水を一気に飲み干した。ミコは尋ねた。
「いかがした?」
「ナヌワの港の守備隊より、湖の向こうの集落のユダヤ人どもが……」
 息を継ぐケハヤにミコはその先の話を急かした
「早く言え」
「ユダヤ人ども、何をトチ狂ったか、叛乱を起こしたとの連絡でございます」
「叛乱? まさか」
 アダムが首を傾げた。先日、ユダヤ村を訪れたときに、彼らが武力蜂起するような気配は皆無だったし、子どもたちが駆け回る平和な村の印象が心に残っていた。ミコの思いも同じであったらしく、まだ呼吸が整わないケハヤに尋ねた。
「確かか、何かの誤りではないのか?」
「報告によれば、物見の兵士が発見し捕らえようとしたところ、戦いになり敵三人を倒したものの、わが方も兵士一人が殺されたとのことでございます」
「行ってみよう」
 ナヌワの港の守備隊の駐屯地まで徒歩でも一時間とかからない距離である。じっと報告を待つより出向く方が早いだろう。
「ミコ、私も同行させてください。私は彼らの言葉がわかります」
 ノユリがそう言った。
(なるほど)と、アダムは思った。
 この世界で得た不思議な能力のため、アダムたちは会話に不自由せず、気がつかなかったが、この国の人々とユダヤ人たちの言葉は違っていて当然で、言葉を交わすのに通訳が要るだろう。以前、ユダヤ人と共に過ごして、彼らの言葉を幾分か理解するノユリなら通訳に適任に違いなかった。
 ただ、ノユリの切迫した不安そうな表情を見れば、彼女の本心が通訳ではなく、殺されたユダヤ人兵士が夫のサミュールではないかと危惧し、その確認をしたいに違いない。その意図を察したのかどうか、ミコはノユリに頷いてみせて同行を許可した。彼らはケハヤが調達した馬と馬車に分乗した。
 
 三人のユダヤ人の若者の遺体は、事件が起きた水辺に並べられてムシロがかけられていた。ユダヤ人村から湖を経てまっすぐ南下した位置である。ノユリはムシロをめくってみせるヨゼフの傍らで小刻みに震えながら、それでも目を離そうとせず、ムシロの下から現れた遺体の顔立ちを確認した。夫ではないことを確認し、崩れ落ちるように地に膝をついて、ワクウを抱きしめた。
「小競り合いの状況は?」
「兵どもが不審者を見つけ、身分や目的を問うたところ、手向かいいたしました故、切り捨てました」
「あなたたちの中に、彼らの言葉が分かる者が居るの」
「私たちはには言葉は解りませんが、こ奴らも私たちの言葉は理解しません」
「言葉が分からず、互いに混乱しただけじゃないの?」
「こ奴らは剣を所持しておりました。ほら、そこに」
 確かに、刃物が転がっており、遺体の腰には鞘があった。しかし、遺体の側に猪の死骸が転がって違和感を発していた。ヘレンがその点に疑問を呈した。
「この猪は?」
「存じません」
「この者たちは狩人で、獲物を何かと交換するために市に来たのではありませんか?」
 アダムが推測を交えて兵士にそう問うた。兵士に代わって指揮官ヒコネが吐き捨てるように反論した。
「ただの狩人なら、どうして剣を持っているのだ」
 遺体の傍らに無造作に置かれた三振りの刃物を順に手にしてみると、いずれも刃渡り三十センチを越え、ヘレンがケハヤから奪った剣と変わりがない大きさである。真新しい刃こぼれの跡があり、兵士たちの剣と力任せに幾合も打ち合わせた様子がかいま見え、そのうちの一振りには、まだ乾ききらない血糊が付いていた。殺されたという兵士の血に違いない。剣だという解釈に異論を唱える証拠はなかった。ミコが周囲の兵士たちを見渡して尋ねた。
「誰か、彼の者たちの言葉を聞いた者はいるのか」
 兵士の一人が答えた。
「このあたりには、あの者どもの言葉を解する者は居りません」
「では、戦いを意図したかどうか分からぬではないか」
 ここで起きた出来事が目に浮かぶようだった。油断ならない相手に、腰の刃物に手をかけ、その姿勢が互いの感情をさらに高ぶらせて剣を抜き、偶発的な戦闘に至ったのだろう。
「ミコ、いかがいたしましょう?」
 頭の切れるミコが、この時は部下のヒコネの言葉を察しかねてに首を傾げた。ヒコネは言葉を継いだ。
「この者どもの集落を討伐するならば、既に兵の準備は出来ております」
 ミコの怒号が飛んだ。
「馬鹿な。必要もない戦を起こすつもりか」
「では、この者共をいかがします?」
「とりあえず、丁重に葬ってやれ」
 アダムがミコとヒコネの会話に割り込んだ。
「それは、止めてください」 
 やや沈黙があった。中天をすぎた太陽が、雲一つ無い大気を通して、この砦にいる者たちをじりじりと焼くようだった。額や首筋に浮かんだ汗が滴になって流れた。アダムは言葉を続けた。
「あなた方と、ユダヤの人々は信じる神が違いましょう。故人を神の元に返す儀式にも違いがあるはずです」
 アダムの言葉にミコも頷いた。アダムはちらりと腕時計を眺めた。午後三時前。日没までには時間があり、日が沈む前に、遺体をユダヤ人たちに届ける事が出来るだろう。
「僕がこの遺体を彼らの村に返します」
 アダムに突然に義務感のような感情が湧いた。無惨に横たわっている遺体への憐憫の情なのか、それ以外の理由があったのか、行かねばならないという衝動に押し流されて、彼自身判然としない。
「私も行くわ」
 自然な流れのようにヘレンがそう言いった。
「私たちなら言葉も通じますし、両者に利害はありませんから、調停役になれると思います」
 間接的表現ながらチェルニーが同行する意志を示し、ヨゼフも続けて言った。
「舟を漕ぐのに俺も必要だね」
「そなたたちの身に危険が及ぶかもしれぬ」
  ミコの危惧にアダムは断言した。
「彼らが私に危害を加える事はないと信じています」
「それでは、護衛をつけよう。ヒコネ、砦の兵五十を率いてこの者たちの護衛をせよ」
 ヘレンがミコの提案がもたらす結果について察していった。
「多数の兵を同行すれば、彼らを刺激します。兵は不要です」
「しかし、そなたたちの身の安全も守らねばならない」
「では、この遺体の運搬に兵士を三名ばかり付けていただければ」
 三名というアダムの妥協案をミコはのんだ。彼らを乗せた三艘の小舟が桟橋を離れたのは午後三時を回っていた。
「いったい、何故、私たちはこんな事をしているの?」
 チェルニーがそう言った。誰かに語りかけたのか、自分の心に問うたのか分からない言葉だった。確かに、この世界の者ではない彼らは傍観者たり得た。しかし、自ら望んで当事者の立場に立ち、しかも、その先頭に立っている。
(この自分は、父親として、子供に何を残せるんだろう)
 サミュールと共に湖を渡ったときの思いがアダムに蘇った。ノユリの村とサミュールの村、民族が違う二つの村の子どもたちの姿が目に浮かぶようだった。この二つの民族を争わせてはいけない。それが彼に与えられた舞台で、彼が果たすべき役割なのかも知れなかった。遠く離れた父親の顔を思い出した時、アダムは与えられた役割を果たしたいと願った。日はまだ高く、湖面に光を投げかけていた。三艘の小舟が湖面を切り裂く波が広がって、櫂から飛び散る水滴がきらりと輝いた。見晴らしが良く対岸がずっと見えている。水辺に居る人々の影だけではなく、洗濯をする女や水に戯れる子どもたちの姿が判別できた。あの人々に伝える悲しみと、その結果が引き起こすかも知れない出来事にアダムの心は重い。
 岸で洗濯をしていた女が、手をかざして傾きつつある日差しを遮って湖面を渡ってくる船を眺めた。彼女は子どもを呼び寄せて何かを言いつけ、子どもは不安そうに振り返りながら村の方向に走り去った。異民族が乗った船が接近しているという事実以外に、この船が漂わせる不吉な雰囲気を察したようにも思われた。
  間もなく対岸に到着する。時間は午後五時を少しすぎるだろう。アダムは自嘲的に笑った。この世界に来て、時計と無関係の生活をしていたが、今、刻一刻とすぎるこの瞬間を意識していた。
 もちろん、遺体を届けたアダムたち一行は、ユダヤ人の集落に衝撃を与えた。家族や仲間の死を嘆く声が響き、恐怖や不安の叫びが充満し、その中に復讐を叫ぶ声も混じっているように思われた。既に遺体はユダヤ人たちに奪い取られるように引き渡されており、アダムは恐怖と憎しみの混じった視線を浴びながらラビのテントへ歩んでいた。
 人々の中に弓を手にする人々がいたが、生活のために獲物を射るものか、敵を迎え撃つ道具なのか、人々の悲しみと憎しみの目で見極めがつかない。刃物が触れあう音がしてヘレンは密かな仕草で周囲の危険を探ったが、身に危険が及ぶ兆候はなかった。太刀の束に添えようとしていた手が緊張で汗ばんでいた。

【お客人。事情を伺おう】
 ラビは周囲の人々を制しながら、自らも心の動揺を抑えるような調子でそう言った。
「私はミコの意志を伝えるために来ました」
【お前たちは異教徒どもの手先だったのか?】
 エゾラがそう怒鳴り、ヘレンは自分たちの立場を語った。
「違うわ。争いを収めたいだけ」
【エゾラ、よさんか。この方々は三人の遺体を届けてくれたのだ】
 ラビが人々を諫めた後の一瞬の沈黙の後、アダムが語り始めた。
「人々の心の中に、疑いや迷い、憎しみが存在します。時に、それらが暴発して争いになる事があります」
【わかりきった事を、仲間を殺されて黙っていられるものか】
 怒鳴るシャーマをラビは制し、アダムに言葉を続けさせた。
「私の父親は、誇るべき家柄も学問もない人物でしたが、自分が置かれた立場で、自分の責任を果たすという事を、彼の生き方の中で教えてくれました。私も誇りを持って父の生き方を受け継ぎたい。そのために、私はここに来ました」
【俺も息子を持つ父親だったが、その息子と友人は今日殺されて今は居ない。息子に誇りを受け継ぐのが父親の生きる証だと言うなら、今の俺は証すら持たない、この世に居ないのも同じだ】
 デービットが悲しみを吐き出すように言い、多くの人々が彼に同調した。敵意に満ちた視線の中でアダムは話し続けた。
「ここに来る途中、私はこの国の子どもたちの事を考えました。それから、この集落の子どもたちの事も。更に、ある夫婦と子どもの事を思いました。人々の不安や憎しみで引き裂かれた夫と妻とその息子です。僕はこの子のために何が出来るんだろう?」
 人々の怒号は、やや下火になりはしたが続いていた。仲間の死で混乱する人々は、自分の考えをまとめる事も出来ないでいるに違いない。アダムは最後に一言付け加えた。
「湖の両岸の人々が、再び共に過ごすために、いま出来る事は何だろう。平和か憎しみか、それを考えていただきたいと思います」
 アダムの言葉が終わると共に、その言葉に呼応していた怒号もなくなり、人々の間からは囁きすら失せて沈黙が広がった。眺め回すと、民衆の人数は話を始めた時の数倍になって、アダムたちを分厚く取り囲んでいた。サミュールとチュラーヤの姿もあったが、二人は輪の中に入ることなくじっと中心部を見守っていた。
 困難する人々を見回すラビは、指導者として決断を下した。
【すまないが、我々も突然の事態に混乱している。日を改めて我々の方から、ミコに使者を立てさせていただこう】
「あなた方の意志を、ミコの元に持ち帰りたいと思ったのですが」
【これだけは約束できます。我々は神の御言葉に従います。神は我々に争いを求められていない】
 ラビはアダムの手を握ってその温かさを伝えた。アダムもその手を両手で包んだ。
「分かりました。それをお伝えします」
 ラビの合図で人々の輪は解かれて、アダムたちは村を後にした。村への目印の桜の傍らを過ぎる時、ヘレンがアダムを評した。
「今日この日、貴方は世界一、勇敢だった」

 アダムたちが湖を渡って砦に戻ったのは、日が暮れてからである。砦には月や星の輝きを打ち消すほどにかがり火が炊かれていて、明かりを目標にすれば、彼らは砦を見失う事はなかった。ただ、その灯りが、辺りに漂う憎しみを燃料に燃え上がっているようにも見えた。事実、湖を間において睨み合う両者の不安や混乱は、容易に憎しみに転化するに違いないのである。
(こちらにも)
 ヘレンがそう考えたのは、憎しみと復讐心が渦巻いていると言うことである。こちらも仲間の兵士を失っている。その憎しみは過去の戦で殺された仲間や家族の記憶も呼び起こすに違いない。
 大声で叫ばなくても、異人どもに復讐をというささやきが砦全体に広がって、肌を圧するような嫌悪感が感じられた。
 ミコはアダムたちを見送ったのと同じ位置に立ったまま、アダムたちを迎えた。
「ありがとう」
 ミコは儀礼的で難しい言い回しをせず、解りやすい言葉を一言発したのみで、アダムの報告を聞き終えた。緊張感の中で、ほっと一息を突いたような安堵感と、感謝の心情が込められていた。終わろうかとした報告に、砦の指揮官ヒコネは、アダムたちの護衛についていた兵士たちに問いかけた。
「奴らの戦の準備はどうであった?」
「武器を携えた者も多数。我らも身に危険を感じるほどでございました」
 ヒコネは満足げに、その報告に頷いて見せた。確かにアダムたちの傍らに侍り、言葉が理解できない兵士たちから見れば、そういう状況だったのかも知れなかった。ヘレンが反論した。
「彼らが手にしていたのは、狩猟や生活に使う弓やナイフだけです。武器ではありません」
「ほぉ、何故、それが解る? 仮に、狩猟や生活の道具であったとしても、戦に使わないという理はあるまい」
 この場合、ヒコネの言葉に部がある。ヒコネとヘレンを仲裁するようにミコが命を下した。
「今は、彼らからの使者を待つ」
「ミコ、待つのは、彼らに戦の準備をする時間を与えるようなものでございますぞ」
「ヒコネよ。もし、彼らに戦う意志があるならば、既に準備は整えていよう」


12

 長い夜が明け、両者に公平に朝が来た。待つというただ一つに見える選択肢を持ったミコはともかく、ユダヤ人集落は様々な価値観と選択肢でまとまらない。緊張感で疲労し、まとまらない議論で混乱している。
【どうして、彼らが我々にこの地を譲ったと考えてる? 我らが戦い、我々の意志と力を彼らに見せつけたからではないか】
【ただ、大勢の仲間が死んだ。そして、我々も彼らを殺しもした】
【それはやむを得ん。彼らは我々の神を受け入れると騙したたからではないか】
【私たちの憎しみや悲しみがどこまで拡大するのか、それは神の御心ではない。我々が作り出しているのではないか】
【我々は、ここに安住の地を見いだしたのではなかったのか】
【神の御心に添わなかったと言う事だ】
【この地を去るといっても容易ではない。長い航海をするための食料や医薬品をどうするのだ】
【しかし、今なら船を操れる者も残っている。しかし、あと十年もすれば船乗りだった者は皆年老いてしまうぞ】
 村人の誰がどんな発言をしたかという事は意味がなかった。この地にとどまるべきだと強硬に主張していた者が、戦の影に怯えてこの地を去る提案をした。殺された者の復讐を口にする者がおり、戒律を口にして復讐を思いとどまらせようが居るかと思えば、戒律を理由に、呪術を使う異民族は殺さねばならぬと主張する者もいた。
 考えてみれば、使者を立てる日時を指定していたわけではない。しかし、その刻限を考えねばならないほど議論は紛糾してまとまらず、ラビは人々を見回して、人々に急速と冷静さを促した。
【良いかな。皆、疲れすぎた。睡眠も取って居らぬだろう。この年寄りにも、つかの間の休息を与えてはくれまいか。さあ、笑顔を見せて女や子どもを安心させてやるがよい】
 テントに集う男たちは頷いた。不安を振り払うように議論に熱中していたが、この集落にはそんな手段も持たず、不安に震える女や子どもたちも数多いのである。ラビは細かく命じた。
【彼らも、我々が手向かわぬ限りいきなり兵を差し向けては来るまい。しかし、見張りは絶やさぬようにせよ】
 そんな中、エゾラはサミュールの姿が見えない事に気づいた。部族の存亡がかかったこの非常事態に、何も興味がなさげに議論にも加わらず、小屋に籠もっているということである。議論がまとまらない苛立ちが、サミュールへの怒りに変わった。

 エゾラは怒りを込めて小屋に踏み込み、怒鳴り散らした。
【サミュール、お前という奴は、ユダヤの風上にも置けん】
 サミュールは動じる気配のないまま、抜き身の剣を研ぎ続けた。
【何をしている】
【エゾラ。剣は何のためにあるというんだ】
【サミュール。お前は戦でも起こすつもりか?】
【俺の神は、母親を守れと命じている】
【神のご意志に従え。ラビの言葉に耳を傾けろ】
【自分勝手な事を言い散らかし、臆病者同士でまとまらぬ議論をすることが、主の御心か? そんな事をしている間にも、奴らはお前たちを殺しに来るぞ。仲間の命を守りたければ、さっさと剣と弓を手にすることだ】
 サミュールは剣を研ぐ手を止めて、エゾラを眺め回し、彼の優柔不断ぶりを皮肉った。エゾラは憎々しげにサミュールの母親に視線を向けた。
【やはり、お前はこの淫売女の】
 エゾラの言葉が止まった。サミュールの剣の刃先が彼の首筋に触れていた。サミュールは恐ろしげな行為と裏腹に穏やかに、しかし、断定的に言った。
【もし、戦が始まるなら、湖の向こうの兵士を何人斬り殺してでも母を守る。ただし、その前に、母を侮辱する者がいれば、先にカタをつけてもいい】
 彼が目に浮かべる殺意は本気で、エゾラを黙らせた。エゾラは無言のまま後ずさりをした。チュラーヤが静かに言った。
【剣を置きなさい、サミュール。エゾラ、ケンカをするなら出ておゆき】
 サミュールを憎々しげに眺めながら、エゾラは何も言わなかった。ただ、小屋を飛び出していっただけである。抜き身の剣を手にしたままのサミュールに、彼女は言葉を続けた。
【まったく、三人とも父さんの血を引いているはずなのにねぇ】
【馬鹿を言うな。俺にとって、母さんだけが肉親だ】
【サミュール、悲しい事を言わないで。父さんを通じて、エゾラもシャーマも貴方の兄弟だから】
【母さん、戦が始まるようなら、二人でどこかへ身を隠そう】
【馬鹿だね。そんな事より、食事でもおとり】
 母と子もまた緊張の中にあって、長い夜と朝を過ごし、陽は中天にあるというのにまだ食事を取ってはいなかったのである。二人は、食欲は湧かないが、平穏な日々が帰ってくる事を念じて、日常と同じ食事をする事にした。

 


13

 明くる日を迎えても、ミコは砦にとどまったままである。昼を過ぎ、間もなく日暮れを迎える時間だが、ユダヤ人たちからは何の連絡もなかった。その時間の長さが、砦の兵士たちの憎しみをかき立てていた。こうしている間にも、ユダヤ人たちは着々と戦の準備を整えていると妄想が膨らむのである。
 そんな兵士たちが、ただ黙ってたたずむミコの存在によって押さえられていた。アダムたちはミコの傍らに侍りながら、ミコとヒコネの議論を聞いた。
「ヒコネよ、何故、そう荒ぶる。」
「十三年前。私は奴らのために息子と弟を失いました。この砦には他にも身内を失った者が多数居ります」
「では、その恨みか」
「いえ、奴らが危険な存在だと申しているのです」
 平民出身のケハヤばかりではなく、出自の確かなイモコでさえ、二人の会話に割ってはいるのが恐れ多いという雰囲気があり、アダムたちにも、ヒコネという老人が持つ権力が知れた。背後にオーミが控えているばかりではなく、この老人自身も尊い血筋を持った熟練の武人なのだろう。
 アダムにはミコがここに留まる理由が理解できた。ミコを除けば、この場で最高位はこの老人であるらしく、ミコが姿を消せば、独自の判断で兵を動かすに違いない。この老人はミコによって兵を動かせず、ミコはこの老人によってこの砦に釘付けにされているようなものだった。
 日が暮れる頃、指揮官ヒコネはミコに一つの提案をした。
「ミコ。この砦の兵を、ナヌワの港まで下げとうございます」
 砦は高台にあって、この砦のかがり火と、それに照らされる兵の姿は、対岸からも見えるに違いない。南にある港なら兵士を収容し、天露をしのいで夜を過ごせる小屋もあると言うのである。港はこの砦の南西側二里ほどの位置にあり、兵を湖の東岸のユダヤ人村から遠ざけることになる。争いを避けるというミコの意志を汲んだようにも思われた。しかし、そのヒコネの従順さに、ケハヤは首を傾げた。先ほどまで、ユダヤ人討伐を強硬に主張していた男だとは思えない変身ぶりである。
 ただ、この時は、普段は気の回るミコが、夜の闇と不安や混乱で心が乱されていたらしく、子どものように疑いもせず、ヒコネの進言を受け入れて細かく指示をした。
「よかろう。砦の不要なかがり火は消し、移動する兵には松明を持たせて、対岸から兵士が移動していることが分かるようにせよ」
 暗闇で兵士の姿は見えずとも、多数の松明の炎が遠ざかって行く様子が分かれば対岸の人々も落ち着くだろうと考えたのである。ヘレンとアダムはその細かな配慮に納得した。
 砦の中に兵を集合させるかけ声が響き、かがり火が消えて広がった闇の中に、兵たちが掲げる多数の松明の光が揺れた。
「今、何時?」
 チェルニーが時を尋ねたのは、ワクウがあくびをして眠そうに目をこすったのに気づいたからである。アダムの腕時計では午後八時を回っている。この子は場違いなところに連れてこられ、大人たちは不安や憎しみで混乱しているだけで、ワクウの相手をする者もなく、すっかり周囲から取り残されてしまっているのである。ケハヤが用意した毛皮の敷物を小屋の隅に敷いて、ノユリはその配慮にぺこりとお辞儀をして、ワクウを毛皮の上に横たわらせた。この瞬間、小屋の中にいたミコやアダムたち、砦の兵士はこの子に精神を集中させた。高ぶって解けない緊張感が解きほぐされるような気がするのである。


14

【この地にとどまり続けることなど理解できない】
【今は逃げても無駄だ。私は育った地を去れない】
【彼らと共に生きる術がないなら、この地を去ろう】
【我々の生活は祈りの中にある。平和と無抵抗を貫くのだ】
【仲間を殺されても?】
【この国に来て、大勢の仲間が死んだ。そして、今もまた。我々は何故生きている?】
【神にのご意志に背を向けるのですか。私は逃げたくない】
【では、この地を去るのか。この地はミコから与えられた我々の土地。我々の国を築く礎でもありましょう】
【神の御心のままに】
【今朝、私は食事を作りながら祈りました。これかもずっと、私の食事を笑顔で食べてくれる家族がいますように】
 人々の言葉は切実ではあるが、様々な思いが交錯して脈絡が無い。彼らはこの国を征服するなどと言う選択はあり得ない。この国の人々と共にこの地で生きるか、この地を去るか、いずれかである。共に生きるために戦に加わったが、思いは果たせず、この国で生きるために、この地の人々と住み分けるという条件を飲んでいたが、今回の争いを見ればそれも難しいのかも知れない。使者に託して伝える意志がまとまらない。
 この時、テントの端にいた女が立ち上がった。女の凜と響く声が響いた。
【今こそ、神のご意志と、私たちの信仰を伝えねばなりません】
 立ち上がったのはチュラーヤである。人々は一様に不快な表情を浮かべた。異民族の女ごときが、何を説教を垂れるのかという感情である。更に、自分たちの仲間シャーウールをこの女がたぶらかして取り入ったばかりではなく、この国の戦に加わらせて、部族に多数の戦死者を出させたという噂が、女に対する嫌悪感を生んでいる。シャーウールの前妻の遠縁に当たる者などは、この女がシャーウールの妻になるために、前妻を呪術でのろい殺したと噂してもいる。そんな憎しみの籠もった怒号が幾つも響いた。
【異民族の女ごときが出しゃばるな】
【今度は誰をたぶらかすつもりだ】
 ラビは手を掲げて人々の声を制止して言った。
【チュラーヤの話を聞こう】
【十三年前、貴方たちはこの地を約束の地と思い定めたからこそ、この地の戦に加わってシャーウールたちを戦に送ったのでしょう。私は戦に行くというシャーウールにすがりついて泣きました。『貴方が死んだら、私はこの集落でたった一人になってしまう』と】
 涙を見せなかった気丈な女の意外な言葉だった。
【ただ、あの人は言いました。『三人の息子に、この大地で生きる足がかりを築いてやりたい。もし、俺が死んでも、この国の人々が我々の信仰を受け入れてくれるなら、お前と三人の息子にとって、ここがカナンの地となる』と。シャーウールにとって、この国の人々は憎むべき敵ではありませんでした。共に生きるはずだった地です。今は祈りましょう、子どもたちのために、友と敵のために】
 彼女は言葉を途切れさせて、この場にいる人々を静かに眺め回して言葉を続けた。彼女と視線を合わせ続ける事が出来る者は居なかった。
【私たちにとって、ここが約束の地ならば、主は私たちに、互いに赦し合いつつ生きよと仰っているのでは? もし、この場に主のご意志を伝える使者がいなければ、私が使者に立ちましょう。この地で憎しみや誤解を越えて生きよ、と言う主のご意志に従うと】
【しかし、奴らは我々の神を受け入れるまい】
【私はこうして皆さんに心を打ち明けるのは、初めて】
【それがどうした】
【私たちは異民族を見下すだけ。私たちはこの十三年の間、幾つもの誤解と憎しみを積み重ね、昨日は三人の仲間を失いました。でも、今まで私たちはこの国の人々に、憎しみを越えて平和を求めるという、私たちの望みを伝えた事があったでしょうか】
 彼女の話を聞きながら沈黙を保っていたラビに、神の啓示があったかどうかは分からない。しかし、ラビは静かに力強く言った。
【この一日の間、私は自分自身に問うていた。『十三年前に、我々がたどり着いたこの地は、神に約束された地ではなかったのか』と。それは皆も等しく感じ取っていたのではないか。我々は主の御心をおざなりにし、この地に安穏としすぎたのやもしれん】
 サミュールが母親の傍らで立ち上がった。
【あなたたちは自分たちの事ばかり考えているようだな。奴らもまた、仲間を殺されていきりたって居るぞ。そんな危険なところに母を行かせるわけには行かない。俺が行く】
【サミュール】
 声をかけた母にサミュールは笑って見せた。
【大丈夫さ、母さん】
 そしてこの場に集う人々を眺めて語りかけた。
【俺は今思った。俺の妻のノユリは、浜に流れ着いた俺を見つけて助け、俺を介抱して励ますために、俺たちの言葉を覚えた。しかし、この俺は彼女の言葉を理解しようとはしなかった。俺は後悔している。もしも、もう一度会う機会があれば、彼女が話す言葉で言ってやりたい。愛していると】
【主は、我々の意志を試されているのか】
 ラビがぽつりとそう言って、サミュールに向き直って続けた。
【サミュール。もしも、お前がこの地で共に平和に暮らそうと伝え、無事に帰ってきたら、それが主の御心だろう。この地に留まろう。しかし、それがかなわず、お前が帰らぬ事があれば、この地は主が我々に約束された地ではなく、この地に安穏とせずに正しい道を歩めということやもしれない】
【ラビよ。主の言葉の証を貸してくれ、俺が彼らにその言葉を届けよう。アダムたちも砦にいるだろう。彼らに言葉の仲介を頼む】
 サミュールの言葉にラビはやや考えて、小さな箱を取り出し、中を改めた。主の御言葉を記した羊皮紙が入っていた。ラビは大切に蓋を閉じて厚い布で来るんでサミュールに渡した。
【サミュール。私は祈ろう。お前が主の意志を伝えられるように】

 丸みを取り戻しつつある半分の月が、透明な大気を通して明るい光で湖面の波を照らし、遮るもののない湖面を吹き渡る風は、音もなくサミュールを包んだ。ただ、どんより濁る雲が空を覆う様子もあり、不吉な予感すら感じさせた。
 眼前に黒く広がって、全てを飲み込むのではないかという恐怖感さえ感じる湖面に、自分が乗る小舟が一艘浮かんでいるというのが、実に不思議な気がした。が、船は一艘ではなかった。櫂が湖面を叩く音が混じってきたのである。湖面を遠く見渡せば月の光を浴びて幾艘もの船のシルエットが見えた。乾弦が高く、帆は畳んでいるようだが太い帆柱も見えた。ここいらの漁師が使う釣り船ではあり得なかった。巨大な戦船に違いないのだが、かがり火もなく一切の灯りを点さず、ただ、不気味に息づくかのように幾本もの櫂がそろって湖面を叩く音が響いていた。サミュールはその音に隠れて身を隠すように、櫂を握る手を止めて目をこらした。
(全部で六隻か)
 サミュールが湖面の影の数を数えたとき、先頭の船に兵士がかざす松明の灯りが点り、湖面を照らした。明るい月の光に映えて、サミュールの小舟が見え、その姿を確認するかのようだった。
 次の瞬間、押し殺すような低い命令の声と共に、サミュールの小舟をめがけて数本の矢が飛んできた。幸い船に身を隠したサミュールの体に命中した矢は無かったが、いずれの矢もこの暗闇の中でサミュールの小舟を的確に捉え、よほど熟練した射手が発したものと思われた。
(やはり、兵士だ)と、サミュールは決断を下した。
 しかし、いきなり矢を射かけてくるというのはどういう事だろう。船足はサミュールの小舟の方が速いとみえ、彼は進路をくるりと変え、戦船を引き離して元の岸に帰り始めた。サミュールの小舟を見失った戦船は、再び灯りを消してその気配を絶った。
(村の者に知らせなければ)
 戦意旺盛な兵士たちが、気配を消しつつ接近してくるというのは、何をさておいても村人たちに知らさねばならないだろう。

 見張りの者が向こう岸で揺らめく灯りに気づいて以来、砦の灯りが減り、ユダヤ村の人々は、危険が遠のいたと考えた。情報は人々の間に広がり、夫と妻は寄り添ってくつろぎ、母親は安堵の思いで子どもを抱きしめた。死すら覚悟する緊張感がとけていたが、人々はまだ油断無く対岸を見張っている。
 その男たちに岸に近づく小舟が見えたため、船の漕ぎ手を確認するために、小声で名を呼んだ。
【サミュールか?】
【平和は途絶えた。間もなく兵士がここへやってくる】
 サミュールの言葉だけではなく、彼の小舟に深々と刺さった幾本かの矢が、事態を物語っていて緊張が走った。子を持つ母親は恐れおののいて、子どもの名を呼んで家に駆け戻り、男たちは村を守る決意を固めて剣の束に手をかけていた。
 連絡のために村に走った男の到着と共に、村は再び死の恐怖にさらされるだろう。悲痛な連絡を告げる使者が走り、月の光が男の背を照らした。サミュールはその月をちらりと見上げた後、男の跡を追って村に向かった。
(平和の夢は破れた)
 サミュールはラビから預かった小箱を抱えてそう思った。妻に愛しているという事を伝える機会が失われた。その思いがサミュールの心を重くした。村に戻ってきたサミュールを眺める人々に失望感が深く、更にサミュールが平和の証として託された小箱を、倭人に見せることなくラビに返したという情報が広がり、村の大人の中には平和が破れたという絶望感が漂って、子どもたちをも包んだ。

 


15

 同じ頃、ミコは対岸でサミュールと同じ月を見上げながら首を傾げていた。
「ケハヤよ。港が静かすぎるとは思わぬか?」
 この砦は高台にあるものの、地形の高低差や森林で視界を遮られて、港が目に入る訳ではない。ただ、数百人の兵士がおり、かがり火でもたいていれば、その光は空さえ照らして、この位置からでも薄明かりが見えるはずだ。また、兵士たちを統率するのに使う太鼓や銅鑼の音が聞こえても良さそうなものだが、港の方角は静まりかえって、人の気配を感じさせないのである。ミコに促されて耳を澄まし、目を凝らしたイモコとケハヤもまた首を傾げて、ミコの言葉に頷いた。
「ひとっ走りして、見て参りましょう」
 ケハヤはそう言い終わるか否や小屋を走り出た。彼の馬の蹄の音が闇深く遠ざかっていった。
「長い夜ね」
 チェルニーの言葉に、誰も声に出して返事をせず、ただ、心の中で頷いていた。アダムが確認した腕時計では日付が変わろうとする時間だが、夜は途切れず、不安や混乱は変化することなく続いている。
「この湖の向こうに、サミュールもいるのね」
 ヘレンがノユリに語りかける言葉には、貴女の愛する夫でしょ、と念を押すニュアンスが含まれている。ノユリは感情を押し殺すように寂しげに微笑んで返事に代えたが、その仕草がヘレンの勘に障った。傍らにワクウが居たため、子の面前でノユリに苛立ちをぶつけることもできず、傍らのチェルニーに吐き捨てるように言った。
「こんな昔っから。日本の女は感情を隠すのね。筋金入りだわ」
 その苛立ちが自分に向けられたモノだと気づいたノユリは、あきらめの感情と共にぽつりと言葉を吐いた。
「この国では、台風や地震で、夫や妻を亡くす人が大勢います」
「だから貴女も同じだとでも言うの?」
「そうかもしれません」
「貴女の夫、サミュールは生きているの。この湖の向こうで」
 ヘレンの感情が激高しかけたのを見たのか、ワクウがノユリを守るように寄り添って、母を苛めるヘレンを睨んだ。
「ごめんなさい、そんなつもりじゃないのよ」
 ヘレンはそんな言葉でワクウに詫びた。この子はサミュールの名を聞いても、自分の父親とは理解すまい。しかし、その名の意味を語り聞かせるのも気が引けた。この時、ミコの侍従のイモコは、意図した涼しげな表情で空を仰いで、月を指さした。
「ほらっ、皆さん。空の月が冴え渡って美しい」
「本当、綺麗な月」
 ヘレンの言葉に仲間は頷いた。この世界にやってきてから、夜空の星や月が美しいということを呼吸するように自然に受け入れていた。ただ、改めて眺める月は、丸く静かに輝いて神々しく人々を守っていた。
「月は人の心を穏やかにもし、迷わせもします」
 イモコの言葉にアダムが問うた。
「人の心次第、と言うことでしょうか」
 ミコは頷いてアダムに同意して付け加えた。
「そして、迷っていることすら分からぬうちに、真理はの光も覆い隠されることもある」
 東の空を眺めると、星の光を遮る黒い雲があり、やがてこの月の光を遮るだろうと言ったのである。再び訪れた沈黙の中に、小魚が水面ではねる音、夜空を引き裂くような甲高い水鳥の鳴き声が時折響き、耳を澄ませば遠く、蛙の声が小さく響き続けていた。ただ、どんよりと淀んだ空気の中で、岸辺の芦原は風にそよぐこともなく静けさを保っていた。
 大人にとって辛く長い時間だが、望みもせずこの場に居合わせる事になったワクウにとって、迷惑な時間だったのかもしれない。寝かしつけてもらったものの、逆に目が冴えてしまったようでぱっちりと大きな目を開いていた。しかし、遊び相手を求めても同年齢の子どもは居らず、大人たちは皆、黙りこくってしまっている。母の手を引いてみたり、チェルニーのスカートの裾を引いて気を引いてみたり、ヨゼフに手品をねだってみたり、ヘレンにハイファイブを求めたりした。ワクウは抱きしめてもらったり優しく頭を撫でてもらっただけで、誰もワクウと心を交わさず関心を払う者は居なかった。アダムは物思いに耽りながらそんなワクウを眺めていた。
 やがて、ミコはワクウの存在に気づいて、その名を呼びながら引き寄せた。
「ワキュウ。おいで」
 人々がこの子を呼ぶワクウと、発音が少し訛っている。いや、ミコがこの子の名付け親であるだけに、ワキュウが正式な呼び名なのだろう。その名にどんな由来があるのか分からないが、村人たちはその発音を呼びやすく訛らせてワクウと呼び、今はそう呼ばれる本人もその名を受け入れているらしい。
 そのワクウは物怖じもせず、椅子に腰掛けるミコに寄り添った。ミコは過去の自分に向き合って問うように、ワクウに声をかけた。
「我は、お前の父と母を引き離した。間違えていたのだろうか? まだ争いが収まらぬ」
 黙ったままのワクウに、ミコは寂しげに自分の能力を悔いた。
「我には、人々の憎しみを消すことは出来ないのだろうか」
「違う。僕らは傍観者に過ぎなかった」
 ミコの言葉を否定するかのように響いたアダムの声は周囲の人々の注目を浴びた。しかし、アダムが手帳を破り捨てる様子で、彼の自問自答の言葉だとわかった。彼の視線はワクウにあって、破り捨てた手帳はもう不要だった。幾つもの人の名、出来事を几帳面に書きとどめ、頭の中でその情報を組み立てていたが、目の前の現実は好転するわけではなく、アダムたちも傍観者でしかなかった。
 ミコの視線が注がれているのに気づいて、アダムは語った。
「この世界にきて、二組の親子が美しいと感じました」
「以前、そなたが話してくれた母子のことか?」
「その美しさの理由を見落としていました。運命を呪わず一生懸命に生きて、子供はその生き方を受け継いでいく。そんな姿です」
「それで、人の心の憎しみが消せるのだろうか」
「でも、今の私たちは憎しみや怒りに振り回されるだけ。焦った私たちは迷い、次の行動がとれないまま、何もできずに傍観者で居ます。僕はワクウたちにどんな生き方を見せてやるかなんて考えてもいなかった」
 アダムはワクウの前にしゃがんで視線を合わせ、誰かにではなく、自分自身に問いかけた。
「僕らはこの子に何を語り継ぐんだろう」
 アダムの言葉に刺激を受けたように、ミコが即座にその言葉を継いだ。
「確かに、今の我にはこの世界の憎しみを消し去るすべはないが、消そうとする生き方を見せることができる。ワクウが我々の思いを育てて、次の世代へと継いでくれれば」
 もちろん、ミコが語るワクウとは、ワクウが代表するこの大地に生きる子どもたちのこと。倭人の子ども、ユダヤ人の子ども、次の世代を支える存在のことである。この場にいあわせた人々は、ミコとアダムの言葉に聞き入り、自らの心に問うた。ノユリはすすり泣くように跪き、顔を伏せてワクウを抱いた。
「私は、悪い母親です。この子に父親はいないんだという嘘ばかりついてきました」
 チェルニーが慌てて声をかけた。
「ノユリさん」
 ノユリが続く言葉を吐けば、彼女自身を傷つけてしまうのではないかと危惧したのである。おそらくこの場に居合わせた人々の思いは、その点で一致していたに違いない。ただ、誰もノユリの言葉を静止する理由を口に出せないまま、ノユリは続く言葉を吐いた。
「この子が父親の姿を求める度に、私もあの人のことを思い出して、悲しみが晴れません」
 愛する夫と引き裂かれた女は、夫と再び相まみえることも許されず、孤独に耐えていたのである。
 一瞬の沈黙を、馬蹄の響きが打ち破った。ケハヤが戻ってきたに違いなく、闇の中に慌ただしく急速に接近する音は、砦に残っていた人々の心の不安感をかき立てた。
 やや、間を置いて、砦に戻ったケハヤが飛び込んできた。
「ミコ、ナヌワの港にヒコネ殿と兵士の姿がありません。戦船に乗って出航したとのことです」
 ケハヤがそう報告した。普段、温厚なミコがこの時には鋭い怒気を発した。
「ヒコネの奴め、我をたばかりおったな」
 昨日、ヒコネが兵を港へ移動させたいと言った、その隠された意図を察したのである。砦に接する湖面は浅く、この桟橋に数十人の兵士を乗せる軍船を着けることが出来ない。この浅瀬から多数の兵士を対岸に渡すことは出来ないのである。しかし、ナヌワの港で軍船に乗船させ、海岸沿いに北上し、川を遡って湖に出れば、回り道のように見えるが、合理的に大軍を対岸に渡すことが出来る。ヒコネはそれを読んで予め兵を移動させたのだろう。
 ミコはまっすぐ対岸を指さした。
「ケハヤ、今から、向こう岸に渡るぞ」
 ケハヤは頷いたが、この船着き場には、小舟が三艘のみで充分な護衛を付けることは難しいだろう。
「ノユリ、言葉が解る者が必要だ。申し訳ないが、お前には同行してもらうぞ」
 ノユリはその言葉に顔を輝かせて頷いて同意したが、寄り添うワクウの姿を見て顔を曇らせた。アダムが代役を申し出た。
「ミコ、言葉なら私たちも解ります。ノユリさんの代わりに、私が同行します」
「そなたたちは客人だ。遠慮願おう。今は、この地に生きる私たちが、ワクウに語り継ぐべき姿を見せねばならぬ」
 ミコは先ほど激昂していたかとは思えないほどの落ち着きをみせて、アダムたちの提案をきっぱりと拒絶した。ミコの判断に間違いはないと思いつつ、アダムたち四人の心に疑問が湧く。自分たちが傍観者であって良いのかという感情である。
 ヘレンが別の提案をした。
「ケハヤ、貴方はミコの護衛よね。ミコの命が危険に曝されたとき、ノユリさんの命まで守りきれる?」
「それがミコのご命令なら」
「いいえ。ノユリさんとワクウちゃんは私たちが守るわ」
「私たちって?」
 チェルニーはそんな怖いところに行くメンバーに自分も含まれているのか問うたのである。ヘレンは断言した。
「そのしょぼくれた顔は何? ちゃんとタマぶら下げてる?」
「タマって何よ。言っておくけど、私は女ですからね」
 そんなチェルニーの返事を聞く気もなく、ヘレンは断言した。
「それに、危険な任務には衛生兵も必要だわ」
「勝手に衛生兵にしないで」
 何を言っても無駄だというヘレンの強引さではなく、すがるようにじっとチェルニーを見上げるワクウの視線で、チェルニーはヘレンに妥協した。
「いいわ。わたしも行く。この子をほっとくわけには行かないわ」
「貴方たちも良いわね?」
 ヘレンはアダムとヨゼフにも同意を求めた、二人も異存はなく頷いた。
「ミコ、お聞きの通りです。私たちも舟を一艘お借りします」
「では、ノユリとワクウをよろしく頼む」
「急ぎましょう」
 アダムが目にした時計は午前二時。まだまだ、夜明けは遠い。
「どこへ行くん?」
 尋ねるワクウにノユリが言った。
「お前の父さんのところ」
「ボクにも、父さんおるん?」

 


16

【女と子どもを北の山へ逃がそう】
 ラビの指示に人々が頷いていたときに、一人の若者がラビの住居に飛び込んで来て叫んだ。
【大変だ。兵士が村の東にも現れた】
 人々の間に衝撃が走った。
(なるほど)とサミュールは興味深く考えた。
 暗闇の中とはいえ、村の西に展開した兵士たちの人数は、彼が目撃した戦船の数に比べると少ない。彼らは兵力の一部を上陸させた後、舟を集落の東南部の岸に進めて、残りの兵力を上陸させたということだろう。間もなく、村は兵士に包囲される。
【サミュール。お前はどうするつもりだ】
 他の若者を従えたエゾラがそう聞いた。彼は臆病な男ではないが、緊張の最中にあり、剣の束にかけた手が小刻みに震えていた。
【神の御心のままに】
 落ち着き払って答える弟に、兄のエゾラは激昂した。
【女や子どもを危険に曝すというのか】
【それなら、その剣と盾で守ってやれ】
 サミュールは武器を手にする若者たちに皮肉を込めてそう言った。
【臆病者め! 父の血筋に目覚めたかと思ったが、やはり、お前は異民族の女の血筋か】
 エゾラはそう言い放って去った。
(父親の血筋だと?)
 自分たちの民族のために戦った者を、持ち上げたり貶めたり訳の分からない事をと、サミュールは自嘲的に笑った。十三年前、この集落の人々は戦の影にのみ怯えて、神の御心も忘れてサミュールの父親たちを戦場に送った。負け戦に終わるや、戦で亡くなった若者たちを貶め、素知らぬ顔で勝者につけいっているような気がするのである。あの愚か者たちは、主の御心に従うわけでもなく不安に駆られて誰かを戦わせる。そんなことをするより、自ら神の意志に殉じて死ぬか、剣を取ってみろと考えるのである。

 ユダヤ人集落を包囲する兵士たちは、今やその姿を露わにしていて、集落と一町ほどの距離を置いている。勢いよく炊き上げるかがり火の光を辿ってみれば、集落を隙間無く包囲している様子が見て取れた。集落の人々に脱出する意欲を削がせる光景である。今は雲に厚く覆われてしまった空からは、星も月も姿を消し、地上の猛々しい光のみ輝いていた。アダムが松明の火にかざす腕時計は、午前三時前を示している、まだまだ夜明けには遠い。
 ミコはその光の中から最も大きな明かりを目指して舟を岸辺に着けさせた。
「誰が兵を出せと命じたか」
 ミコが兵の指揮官ヒコネに問う言葉は険しかった。ヒコネはミコの言葉にひるむことなく答えた。
「前々より、ユダヤ人が蜂起する様子があれば、これを鎮圧せよとオーミの命を受けております」
「そなたの主は、オーミか、我か?」
 ヒコネはそれに答えず、反論した。
「我が国に害意を抱く者共を平らげるのが、私の責務です」
「害意を抱くかどうか、誰が判じるというのか?」
 激高しかねない二人の関係をおもんばかって、ミコに侍るイモコが二人に割り込むように聞いた。
「これから、いかがしましょう」
「まもなく夜が明けよう。兵士には、それまで静かにその場で待つよう伝えよ」
 ミコはそう言ったが、ヒコネの顔をじっと眺めた。イモコはその意図を察した、この緊急の場で、この男がミコに服するかどうか疑いが晴れないに違いない。イモコは申し出た。
「ミコ、あのかがり火を辿ればよいのです。私が一回りしてミコの命を伝えて参りましょう」
 兵士は暗闇の中に分散しているが、かがり火を目標にして探せば、兵士たちに新たな命令を伝えて回れるというのである。
「行ってくれるか。では、これを我の代わりに持参せよ」
 イモコはミコが差し出した曲玉の首輪を大事に懐にしまい、暗闇に姿を消した。ミコ自身も自らの命令を実行するように、黙ったままその場に立ちつくした。
「どうして、今すぐに引き上げないのかしら?」
 チェルニーの疑問にヘレンが答えた。
「兵が広範囲に分散していて、ミコの意志も徹底できない。暗闇の中で下手に兵を動かすと、知らずにユダヤ人たちに接触して混乱し、無用な戦闘も起こりえる。一端、戦闘が始まれば拡大するわよ。ミコの考え通り、夜が明けて命令が正確に行き届くようになるまで、このままそっとしておく方が良いわね」
 ヒコネが納得しかねるように問うた。
「しかし、奴らから仕掛けてきたときにはいかがいたしましょう」
「その時は、我が決め、我が命を出す」
 ミコが思い悩む様子を見かねるようにケハヤが言った。
「ミコ、試しに、私が使者に立ちましょう」
 こういう場合、ミコにとってケハヤほど信頼できる使いは無かろう。常に側近として身辺に控え、ミコの意に沿わない行動はしない男である。
「行ってくれるか。しかし、危険があれば、すぐに引き返して参れ」
 ケハヤは頷くと、傍らの兵士から盾を借り、身を低くして歩き始めた。右手には剣の代わりに松明を持っていて、その炎は夜目にも明らかで弓の的になりかねない。その勇敢さにヘレンは感心した。ヘレンも傍らの兵士の盾を拝借した。

「お前は、何故ついてきた」
 ケハヤが背後の気配を察して、ヘレンを振り返ってそう言った。
「お馬鹿。貴方は彼らの言葉が解るの? 言葉が解らないのに一人で出かけても無駄よ」
「なるほど。では、とりあえずあの樹の所まで」
 ユダヤ人集落から見える灯りで揺らめくような影に見えるのは、サミュールがささやきかけていた桜の樹に違いない。その幹は細く身を隠すには不足だが、この視界の開けた場所では他に頼るべき影がなかった。ユダヤ人集落からも、ミコのいる陣からも五十メートルばかりの距離で、慣れた射手なら確認した目標を射ることができるだろう。
 そんなケハヤの想像通り、カンッ、カンッと二度ばかり、手にした盾に矢を受ける衝撃があった。盾を外れた矢の何本かは、ケハヤとヘレンの傍らを勢よく飛び去った。
「彼らの意志を問うのに、言葉は必要なかったようだ。下がるぞ」
 ケハヤはヘレンの持つ松明を奪い、自分の松明と共に捨てた。さらに飛んできた矢が松明の炎をかすめているようだったが、その炎から離れてケハヤとヘレンは闇の中を後退している。
 ユダヤ人たちに戦う意志がある。ヘレンはケハヤがそういう報告をするだろうと考えたが、違った。
「彼らも怯えているのでございましょう。彼らに戦いの意志はございません。ほらっ、その証左に、盾に刺さった矢に勢いはございません。慣れた射手の矢はことごとく逸れております。我らを脅し接近させぬことだけが目的」
 松明を掲げて行動していたから、暗闇でケハヤの姿が見えなくても、射手はその光の下を狙って矢を放てば、ケハヤを射殺すことも出来ただろう。矢の幾本かは盾に命中したが、その勢いは弱く、不慣れな射手が発した矢である。本当に慣れた射手が発した矢は、二人に警告を与えるように、勢いのいい音と共に傍らを過ぎてケハヤとヘレンを傷つけてはいない。しかし、戦闘を続ける意志を持続し続けるように、時折、矢は放たれ続けていた。
「今、何時?」
 ヨゼフがアダムにそう尋ねたのは、早く明るい日差しがこの人々を照らし出し、混乱から目覚めるように祈ったからである。しかし、確認する時計に、夜明けには時間があった。ワクウのみ、他の人々との思いは違うようでこの状況とは異質な質問をした。
「ボクの父さんって、どんな人?」
 ノユリは返答に窮してただワクウを抱きしめ、周囲の人々もワクウに納得のゆく回答を与える事が出来ないで居る。

 


17

 同じ頃、サミュールはナイフを研いでいた。彼は優柔不断な仲間に腹を立てていた。女や子どもを守ろうとするなら、さっさと戦って包囲を破れと言いたいのである。神や勇ましい言葉のみを振りかざして威張っている連中が嫌いだった。そんな連中と行動を共にするのにも嫌気がさしていた。
【母さん、俺と一緒に逃げよう】
 サミュールが母親にそんな提案したのは、村が兵士に包囲されたという知らせを受けた直後である。包囲されたと言っても湖畔の方向が空いている。幸いに今は厚い雲が月の光も隠して地表は暗い。地のくぼみや草むらに身を隠しながら湖畔の小舟まで行き着けば、湖を封鎖するほどの戦船はなく、戦船の間を縫って発見されずに脱出できると考えたのである。ただ、そのためには、兵士の注目をこの村に釘付けにしておかねばならず、気づかれないようにするために、脱出する人数は少ないほど都合が良い。
【この村の人たちを残しては行けないよ。エゾラもシャーマも大事な私の息子だわ】
 チュラーヤは言葉に決意を込めて、意外なほど大きな声でそう言いきった。サミュールは母の声の大きさではなく、この時に戸口に感じた人の気配に舌打ちする思いで考えた。
(しまった。逃げようと言ったことを聞かれてしまったか)
 姿を見せたのは兄のシャーマとエゾラである。事実、二人は戸口でサミュールとチュラーヤの言葉を聞いていた。怒鳴り出すかと思った二人は、意外にも温和しく静かにサミュールに言った。
【サミュール、お前も見張りに立て】
 シャーマの言い分は分かる。わずか三百人ばかりの村で、女子どもを除いて戦える村人は六十人にも満たない。一人でも男手が必要だろう。
【では、私も見張りぐらいやれるかねぇ】
 チュラーヤがそう言って立ち上がったため、サミュールはシャーマの言葉に反駁せずに従わざるを得ない。しかし、シャーマとエゾラがチュラーヤに注ぐ視線はいつもの侮蔑的な色はなく、過去の自分に罪悪感を感じているようだった。二人の兄はチュラーヤと視線を合わせるのを避け、チュラーヤもそんな息子の気持ちを汲んで二人に語りかける事はなかった。
【エゾラもシャーマも大事な私の息子】
 シャーマが戸口から漏れ聞こえてきたチュラーヤの思いを繰り返すように小さく呟き、エゾラがそれに答えるように言った。
【母さんか】
 雲が厚く空を覆って、月も星も見えず、時間が止まるように状況が静止した。大人たちの緊張に耐えかねたように、一人の幼い少女がすすり泣き始め、その感情が伝わり広がって、他の子どもたちも泣き始めた。集落は子どもたちの悲痛な感情で覆われた。
 父親にすがりつく幼子の姿が、まだ腕に抱いたことのない我が子の存在をサミュールに思い起こさせた。会うこともなくこの場で果てるのかと考えると、父親として何も出来なかったことが悔やまれた。
(アダムと言ったか)
 先日出会った同じ年頃の青年の言葉が思い起こされた。
「子どもは、親が喜ぶ姿を見るのが望みさ。ただ、真面目に生きる姿を見せればいい」
 サミュールがふと右手の指先に何かの感触を感じて眺めてみると、左の肘に巻いた飾り紐である。サミュールにこの紐をくれた幼児の面影が浮かんだ。その子どもの面影が、混沌とした心から、一つの思いを拾い上げた。
(俺に何が出来るだろう。どんな生き様を子どもに伝えてやればいいだろう)
 続いて思い起こしたのは母が語った父の言葉である。『三人の息子に、この大地で生きる足がかりを築いてやりたい。もし、俺が死んでも、この国の人々が我々の信仰を受け入れてくれるなら、お前と三人の息子にとってここがカナンの地となる』
(俺も父を引き継がねばならない)そんな連なる思いが、サミュールを決断させた。
【母さん】
【何だい?】
【俺は卑怯者だ】
【いきなり何を言い出すんだい】
【本当さ。母さんはあのアダムという男に、ノユリをこの村に引き取らなかった理由を話したね】
【ノユリが私のような扱いを受けないようにと】
【違う。俺は仲間のみんなから、異民族の娘を娶った男だと言われるのが嫌だったし、事実、怖かった。俺はその怖さに負けた。俺はノユリと母さんを傷つけてしまった村一番の臆病者だ】
【そんなことが、】
【さっき母さんは村人たちの前で、父さんの事を話した。今の俺は何が出来るんだろう】
【あなたはシャーウールの息子よ。あなたはあなたの息子の事を考えなさい。息子のために出来る事】
【母さん。もう一度、奴らに俺たちの意志を伝えてくる】
 命がけになることを理解しつつ、母親もサミュールの意志を尊重した。
【そうかい。気をつけて行っておいで。それからこれを】
【これは?】
【父さんの形見さ。お前の父さんもこれを持って行ったんだ。これを見る度に三人の息子を思い出すと言ってね。帰ってきたのはこのペンダントだけだったけれど】
 チュラーヤは夫の遺品の六芒星の紋を刻んだペンダントを息子の首にかけた。
【ありがとう】
 その言葉を最後に、サミュールは母に背を向けて走り出した。倭人に平和の言葉を伝えるためである。

 ミコの側から、集落を囲む柵を越える人影が見え、その影がゆっくりと接近してきた。暗闇の中、時に兵士たちが炊き上げるかがり火の光を浴び、時に背後のユダヤ人たちの灯りで影になりながら無言のままこちらにやってくるのである。
「ミコ、試しに矢を放ってみましょうか」
 弓を手にして警告してみようと提案するケハヤに、ミコは即座に否決した。
「いかん、様子を見る」
 そう言った瞬間、矢が放たれる音が響いた。兵たちもまた緊張の極地にあって、不審者に対して構えた弓から命令を待たずに矢を放ってしまったらしい。
「矢を放ってはならんぞ」
 ミコの叱責が飛んだ。

 人物は集落の柵と兵の間まで進み出て、何かを大声で叫び始めた。年若い男の声だった。もちろん、この国の者どもが理解しないユダヤの言葉で、兵たちは不審そうに眺めるのみである。それでも男は身を矢の危険に曝したまま叫び続けた。
 間もなく夜が明けるのではないかという期待がしながらも、夜は明けてはいない。その暗闇の中に男の声が響き続けた。同じ言葉を繰り返すようで、何かの祈りが籠もっているようにも思え、特定の人ではなく、天と地と、この世界の万物に語りかけるようにも思われた。
「ノユリはどこだ」
 ミコは言葉の意味が知りたく、ノユリの姿を求めた。彼女はヘレンの傍らで小さく震えるように、響いてくる男の声を聞いていた。
「あれは、あなたの父さんよ」
「ボクにも、父さんおるん?」
「あなたは、ここで父さんの言葉を聞いていなさい」
 ノユリはワクウにそう言って、ワクウの身柄をチェルニーに託した。彼女は陣を離れて走った。ユダヤの人々にもミコたちにも、叫び続ける男に走り寄る女の影が見えた。
「これは、彼らの神が、彼らに与えた言葉。彼ら生きる指針です。彼はユダヤ人の意志を伝えようとしているのでしょう」
 響き続ける男の声を、ノユリに代わってアダムが訳してミコに伝えた。彼らの神の言葉、彼らの戒律である。

「あなたの父母を敬いなさい」
「殺してはなりません」
「姦淫してはなりません」
「盗んではなりません」
 
 男の声がぱたりと止んだ。接近する二つの影が一つに重なった。いや、今はもう瞬くかがり火に作られる影ではなかった。夜明けを予感させる薄明るい光に、サミュールがノユリを抱きしめ、ささやきかける姿が見えた。
 少し間をおいて、サミュールの声が響き始めた。信念に支えられているが、悲壮感が籠もっていた男の声音が変わっている。傍らに支える者が居るという自信だろうか。
 男の声から少し間をおいてノユリの声が響いてきた。
【神は仰いました。わたしはあなたの主なる神だと】
 サミュールの叫びに続いてノユリの声が響いた。
「わたしではない神は偽物です」
「神の名を何回も唱えてはなりません」
「神の日を忘れず、神の日を大事にしなさい」
「貴方たちは父母を敬わなくてはなりません」
「殺してはいけません」
「女を犯してはいけません」
「盗みはいけません」
「他の人を嘘で貶めてはいけません」
「隣の妻を求めてはなりません」
「隣の財産を欲しがってはいけません」

 無学で特定の神を持たない女の言葉はたどたどしい。時に言葉の理解と訳を誤り、夫への愛情に基づいて言葉を伝えようとする。ただ、言葉が持つ真理に誤りはなく、夫婦のひたむきさか兵士の心を包んだ。二人の声が聞こえ続ける間、二人の周りで争いの時が静止するようにも思われた。同じ言葉が二人によって何度繰り返されただろう。
 この朝、眩しく輝く夜明けはなかった。重くたれ込めた雲がぼんやりと明るさを増しただけである。ユダヤ人の集落からもサミュールに寄り添うノユリの姿が見えた。
【あの女が】
 憎々しげな呟きと共に、兵士に子を殺されたデービットが弓に矢をつがえた。
【呪術を使う女を生かしておいてはならない】
 デービッドの憎しみの心は、サミュールが唱え続ける言葉を、異国の女が呪文の言葉で封じているように見せたのである。
【止めろぉ】
 デービッドが矢をつがえるのに気づいたエゾラの静止も間に合わず、集落第一の弓の使い手の矢は放たれた。
 飛んできた矢を察知したサミュールは、妻をかばうように身を投げ出した。矢が人体を貫く鈍い音がし、夫の声が途切れたためにノユリは起きたことを理解した。サミュールはそんな妻に言葉をかけたが、妻の腕の中でがくりと頭を垂れた。ノユリは夫の言いつけを守るように叫び続けた。

「神の日を忘れず、神の日を敬いなさい」
「貴方たちは父母を敬わなくてはなりません」
「殺してはいけません」
「女を犯してはいけません」
「盗みはいけません」
「他の人を嘘で貶めてはいけません」
 その声は涙混じりになり、途絶えがちになる。しかし、続いた。この時にユダヤ人の集落から新たな人影が飛び出した。女の姿。アダムとヘレンは、そのチュラーヤの姿に記憶があった。
 ミコは片手を挙げて新たな人影に反応する兵士たちを制し、彼自身もゆっくりとノユリの方へ歩み始めた。すでに世界は色を取り戻しかけて、彼らをつつむ緑の草原や、兵士の足下で荒々しく踏みしだかれているツキクサの青い花びらの色が鮮やかに見えた。
 白い衣装でひときわ長身のミコの姿は、ユダヤ人集落から眺めることが出来た。今もう少し接近すればあの無防備な男を射殺す事が出来るだろうし、本人もそれは解っているだろう。しかし、その静かな姿に、ユダヤ人は弓と矢を捨てた。
 ラビがミコに応じるように立ち上がり、柵の外に進み出た。ミコに寄り添うように前進する兵士たちも、剣の束から手を離し、ただ、ユダヤ人との間にいた二人を眺めるように歩んだ。ユダヤ人たちの中からも柵を越える者が現れた。
 ノユリとサミュールに駆け寄った母親のチュラーヤは、既に息子が事切れていることを知った。
「殺してはいけません。殺してはいけません。殺さないで」
 夫を抱いて、いまはその戒律だけを繰り返して叫ぶノユリとサミュールを、チュラーヤは静かに歩み寄ってくる人々を見渡した後、二人を抱きしめて言った。
「ノユリ、もう終わったわ。後はサミュールのことだけ考えてやって」
 二人は立派に役割を果たしたから、後は夫婦として振る舞えと言うのである。ノユリは義母の言葉に頷いて、六年ぶりに出合った夫の胸に顔を埋めて泣いた。チェルニーの手を離れて駆け寄ってくる幼子の足音に、ノユリは目覚めたよう振り返った。彼女は飛びついてきたワクウを抱いた。
「これが、あなたの父さん」
 その母の言葉を理解できないように、ワクウは不思議そうにサミュールの亡骸を眺めていた。もちろん、ワクウはこの顔に記憶があった。何より亡骸が左腕につけた飾り紐はワクウの髪を結っていた紐である。
 ふと、頬に感じた冷たさに気づいてみると、衣服を湿らせるだけだった雨が、露出した肌を覆っていた。乾ききった地を黒々と濡らし、今はその表面に雨粒の波紋がみえている。霧雨が人々と大地と自然を包んでいた。やがて雨脚は強くなり、人々の髪からしたたり落ちた。頬を伝う涙と雨が混じり合って区別がつかなかった。
 この国の大地に豊穣をもたらす雨の季節の到来だった。全身はずぶ濡れで、重く水を吸った衣服から雨がしたたり落ちたが、惨めさはなく、憎悪が流し去られて、素の人間に戻るような心地よさがあった。

 ラビがミコに何かを語りかけようとしたが伝わらず、残念そうな微笑みでその意思を表した。アダムが間に入って、ラビの言葉を聞きミコに伝えた。
「この土地に、こんなにも長く逗留したのに、意志を伝えるのが難しいようです」
 ミコもラビに語りかけ、アダムたちが持つ言葉に含まれる感情を感じ取り、感情を言葉に乗せて発する能力によって、言葉と共にミコの言葉がラビに伝わった。
「私も同じです。でも、友を失う悲しみや、和解の笑顔を伝えることは出来るようだ」
【平和のうちにこの国を去れますように。いつかどこかで共に暮らせる時代を迎えますように】
 そんなラビの願いの言葉をアダムはミコに伝えた。ミコは残念そうな意識で答えた。
「この地では共に暮らせぬと?」
 ラビはミコが心に秘めた願いに感謝を込めながら、深い信仰心を露わにして言った。
【私たちは幾世代にも渡る旅を厭い、この地に安住する意志を固めたつもりでした。しかし、ここが神が我々に約束なさった土地なのかという心の迷いもありました】
 ラビはサミュールの遺体に顔を向けて続けた。
【私はこの若者に、神のご意志を占うつもりでした。生きて帰ってくれば、ここを神の土地だと信じようと】
「ここはあなた方が信じる土地ではなかったと?」
 アダムによって訳されたラビの言葉を聞いたミコは残念そうにそう言った。ラビはそれには答えず言葉を続けた。
【この若者は亡くなりましたが、この夫婦は立派に役割を果たして、今はこの通り、我々から憎しみを消し去ってくれました。これも神のご意志でありましょう。ただ、この若者の死と引き替えに、我々に旅立てという主のご意志にも従わねばなりません】
 互いの心を味わうような沈黙があり、ミコの迷う思いを断ち切る感情が、アダムを経由してレビに伝えられた。
「分かりました。望み通り、友として旅立ちの準備をお手伝いいたしましょう」
 そんな短いやりとりの後、ミコとラビは夫の遺体を抱きながらすすり泣くノユリの傍らに跪いた。すすり泣き続けるノユリの背を撫でながら、ミコは最大限の感謝を一言に込めた。
「そなたたちのおかげだ」
 もう一人の年配の女は、亡くなった若者に寄り添う様子から、ミコにはこの女性が若者の母だと察しがついた。ミコはチュラーヤに聞いた。
「何か私に出来る事はないか」
 そんなミコの言葉にチュラーヤ首を傾げたのに気づいて、アダムが通訳をし、チュラーヤの返事をミコに伝えた。
【もし、願いが叶いますれば、この子の体は、ノユリの村の桜の樹の元に葬ってやりたいと思います】
 ミコは頷いて了解したと意志を伝え、アダムはミコの意志を言葉に変える必要がなかった。

 ヒコネに率いられた兵士は、ミコの護衛の十数人を残して去った。荒々しい雰囲気は雨と共に流し去られていた。
 サミュールの遺体はユダヤの村に運ばれて、入れ替わりに訪れる弔問客との面会を果たした後、真新しい白い布に包まれて輿に載せられた。ノユリは異国の葬儀の様式に戸惑いながらも、チュラーヤの傍らで夫の遺体を見守り付き添っていた。
 ユダヤの村に招き入れられたイモコが、ユダヤ人たちの文化に目を輝かせて言った。
「興味深い。異国の雰囲気がします」
 アダムはそんなイモコが微笑ましい。もし、世界の人々が、このイモコのような敬愛が籠もった好奇心で触れあう事が出来たらと、暖かな世界を想像したのである。
 ミコたちはラビのテントに招き入れられた。
 座ろうとしたチェルニーは、腰の辺りにこつんと堅い感触を感じてポケットに手を入れた。取り出した物は彼女の携帯電話である。彼女は苦笑いをして言った。
「見て、私はまだこんな物を持っている。もうバッテリーも切れてるのに」
 帰る見込みのないまま、前の世界の遺物を手放せない未練がましい自分の愚かさを笑ったのである。アダムやヘレンも似たようなものだった。アダムやヘレンは未だに腕時計で時間を確認する習慣を失っていない。
 傍らにいたワクウが携帯電話に興味を示して手を伸ばした。無邪気な目だが、いつもの笑顔がなかった。今日、出会った男が自分の父親だという事、その男が死んだ事を理解して受け入れる事が出来ないのだろう。心の整理がつかないまま泣く事もせず、ただ目の前の物珍しい物に興味を向けたのである。この子が今日の出来事を理解するのは、まだ先の話かも知れない。チェルニーはワクウを優しく抱いた。
 そんなワクウを眺めながら、アダムも自分のポケットから携帯電話を取り出した。彼もまた前の世界とのつながりを手放せないで居た。慎重な彼は電源を切っている。しかし、再びこの電源を入れる日が来るだろうかという思いがわき上がってきた。
 小雨は降り続いていて、太陽によって時を計る事が出来なかった。アダムの時計によれば午後一時半に、見送りを受けながら埋葬に関わる関わる人々は、十数隻の小舟に分乗した。ノユリとワクウは遺体と共に居たが、ワクウは黙ったまま泣きもしなかった。父の死を理解できない幼い子どもの姿が、周囲の人々の涙を誘うようだった。

 西の対岸ではノユリの村の人々が彼らを出迎えた。湖の対岸に移り住むまでは共に過ごした人々である。再会を懐かしむ姿も、今は悲しげに見えた。
 ラビは懐かしい村長の顔を見つけ、ノユリの父の村長もまた笑顔で歩み寄って、意外な言葉で挨拶をした。
「しゃろーむ」
 アダムはその言葉が、ヘブライ語の挨拶だという程度の知識は持っていた。抱き合って再会を喜ぶ仕草も、この村の人々のもともとの習慣ではない。数年間、生活を共にするうちに、この村の人々も経験した挨拶を身につけていたのだろう。
 村の桜の樹を眺めたとき、ラビが村長に何かを語り始めたが、村長はその言葉の意味を理解しかねて首を傾げた。挨拶程度は理解できても、意志を伝え合うほどには言葉を理解していないのである。アダムがそれに気づいて通訳を買って出た。
「ラビはこう仰っています。以前、この村を去るときに、この樹を眺めて、「シャローム」、さきほどの挨拶の言葉に込められた意味を考えました。健康や繁栄、そして何より平和。湖を渡った地で、これと似た樹を見つけたとき、ここが神が示してくださった場所かと考えて、その樹のそばに村を作ることにしました」
 その言葉に村長は頷き、語り始めた言葉を、アダムは今度はラビに伝えた。
「この村の桜と、あなたがたユダヤの集落の桜。二つの樹はノユリとサミュールのようです。ノユリはこの桜の樹にサミュールの姿を重ねているようでした」

 兄のシャーマとエゾラが沈痛な面持ちで墓穴を掘った。サミュールの遺体はラビが詠唱する聖典の言葉と共に穴に降ろされて、すすり泣く人々は最後のお別れをした。ミコが傍らにいたワクウの髪を撫でた。
「ワキュウ。今日、この日の事を記憶にとどめよう。我はこの桜のように枝葉を伸ばして人々を守る事を誓おう。お前はこの樹の青々と茂った葉を眺め、やがて舞い散る葉を眺め、雪や風の中で静かにつぼみを膨らませる枝を眺め、そして満開になる花を眺める。この樹を眺めるたびに、勇敢な父の姿を思い出すが良い」
 ミコは傍らに生えていたツキクサを摘んでワクウに渡し、父親の遺体に載せさせた。ツキクサの二枚の花弁の青い色が霧雨の中で映えた。アダムたちがこの世界に来た後、ノユリと共に薬草摘みに出かけた時に摘んだ植物である。あの頃は珍しかった花が、四週間の間に本格的な開花期を迎え。今は周囲で盛んに清楚な青い花をつけていた。これがこの地の習慣かと考えたユダヤの人々も、手近な花を手折り、祈りと共に墓穴に投げ入れた。遺体は花で包まれた。アダム、ヨゼフ、ヘレン、チェルニーも花を手向けた。葬儀の後、ユダヤの人々は元来た道を辿って帰った。遺族は一週間ばかり喪に服すのである。
 霧雨は降り続いていたが、悲しみを洗い流し、これから何かが生まれ出すという期待感で心地よかった。イモコが興味深げにアダムに尋ねた。
「そなたたちは、何の神に祈りましたか?」
 今まで、万物に宿る八百万の神、仏教の神々に包まれていたが、新たにユダヤの神にも触れた。この事件を眺めていたイモコにとって、不可思議な世界から来たマレビトの信仰は最大の関心事であったかも知れなかった。
「神に、ではなくて、ただ、人として、人の未来に。彼の存在を、我々が誇りと共に語り継げるようにと」
 アダムの返答にミコが頷いて同意した。
「いかなる神や仏も、そなたたちの祈りを愛でられるだろうよ」


18

 サミュールの葬儀の喪が明ける頃、降り続いた雨が小康状態を迎えて、つかの間の晴れ間を見せた。
【また、直ぐに降り出しましょうほどに】
 ラビはこの国の人々に、そんな言葉で旅立ちを告げた。晴れている間に出発したいというのである。今の季節、この土地で長く続く雨の理を知っていた。
 ラビの連絡に、アダムたちはノユリとワクウを伴って港までやって来た。
「すっかり、ワクウちゃんの玩具ね」
 チェルニーがそう言ったのは、ワクウがアダムの携帯電話を弄んでいるのを見たからである。もちろん、ワクウは携帯電話の本来の用途は知らないだろうが、携帯につけたストラップや、閉じたり開いたりする機能、ボタンに触れた時にふわふわした感触が面白いらしくいじっているのである。
 電源は切っているが、もはやバッテリーの残量はほとんど無く、しかも、二度と使う事はないだろうという思いがアダムにあった。
「これはね、遠く離れた人とお話をする道具なんだ」
「じゃあ、父さんと話、出来る?」
 ワクウの質問に、アダムは考え、言葉を選んで言った。
「ワクウちゃんのお父さんはね、今、ワクウちゃんの心の中にいる。話そうと思えば、こんなものがなくても話せるよ」
「じゃあ、要らない」
 ワクウはにこりと笑って、携帯電話をアダムに差し出した。その幼い指が電源ボタンに触れていた。アダムは返してもらった携帯電話をポケットに戻した。そんな会話の間に、アラハカ寺のところで道を西に折れると、先の急な坂の下に桟橋が見え、係留されたユダヤの人々の船は、提供された食料の積み込みも終えていた。
「あなたは、ここに残って、娘や孫と共に暮らせばいいのに」
 アダムがチュラーヤにそう言った。血のつながりのないユダヤ人たちと共に生きるより、この国で息子の血を受け継ぐ孫と共に暮らした方が幸せではないかというのである。チュラーヤは笑って、傍らにいたシャーマとエゾラを振り返った。
【私には、息子が二人いる。まだまだ子どもさ。この兄弟が一人前の男になるまで、私はこの子たちの側を離れるわけにはいかない】
 シャーマとエゾラがチュラーヤを眺める目が穏やかに笑っていた。チュラーヤは目の前にいたノユリやワクウをいとおしそうに抱いて、その暖かさを記憶にとどめた。
【和久(ワクウ)。あなたの名が、世の調和と共に、悠久の時を経て、引き継がれますように】
 彼女はそう言って、夫の形見、そして、息子の形見になった六芒星のペンダントをワクウの首にかけて、孫の暖かさを心に刻むように、もう一度、優しくゆっくりと抱きしめた。血縁関係に気づいていたかどうかは分からない。ワクウがチュラーヤの顔を眺める表情には肉親に甘える雰囲気があり、エゾラやシャーマのひげ面には、未だ珍しさを感じるようだが、自分の頭を撫でる叔父の手の暖かさを心地よさそうに受け取っていた。
 ノユリは涙が枯れて、もはやすすり泣く事もせず、ワクウに寄り添っていた。無邪気な明るさは失っていたが、どこか儚げだった弱々しさも感じられなかった。
「チュラーヤさん。今のノユリさんは貴女と似ています」
 アダムの言葉にチュラーヤは明るく笑った。
【その通りだよ。どの国の女も強いんだから】
 チュラーヤの言葉の通り、過去のノユリがまとっていた儚さを振り払ったのは、チュラーヤと同じ強さである。
「強い女性たちね。ヘレン、貴女も見習ったら」
 チェルニーの言葉の通り、女の本当の強さというのは、気丈に振る舞うチュラーヤと、亡くなった夫の思いを受け継ぐノユリかも知れない。
【すまない、ずいぶん待たせてしまった】
 ノユリは再会の時に夫が囁いた言葉を思い出した。無口で自分を飾る言葉を持たない夫だったが、その一言は、妻との再会を待ち続けていたと言うことと、妻も待っていてくれたことに対する感謝が溢れていた。

 そんな別れの様子に見入っていたアダムの背後に人の気配がした。振り返ると、寺院のシンボルの塔を背景に、イモコとケハヤの二人の供を連れただけのミコが見えた。ユダヤ人たちの出航を見送りに来たのである。自らの権威づけのための大仰な供や政治的儀式を抜きにして、心を許せる供だけをつれてやってくるというのはミコらしい配慮に違いない。
 ミコはラビに別れの言葉を述べ、ラビは長旅の物資を提供してもらった感謝を述べた。
【住む土地に、距離を隔てられても、悠久の時を経ても、互いの心の門(トリイ)の扉は大きく開かれていますように】
 そのラビの言葉にアダムの通訳は必要なかった。片言の言葉のやりとりだが、言葉ではなくて握り合った手で、そんな敬愛や惜別を惜しむ感情が伝わっていた。
 やがて、船は港を離れた。
「でも、あの人たちは、この世のどこにあるかも分からない理想郷を追い求めるの?」
「あの人たちの祖先が故郷を旅立ったとき、いったい何人の人々が居たんだろう」
 彼らがこの国に到着した時、二艘の船が難破して失われていた。古くはなったが、残された五艘の船に老若男女合わせて三百名ばかりの人々が乗る。いまや、たった三百人と言って良い。神の国を追い求めつつ旅をして、ここもその国ではなかった。この人々が信じる国に行き着くことが出来るのだろうか。理想の土地を求める人々と、この地に理想を追い求める人々の意志は紡ぎ出されることなく離れたようにみえた。
 船が遠ざかるにつれ、アダムたち一行は少しでも高見から遠ざかる船を見送ろうと、港から急な坂を上っていった。波の静かな海に吹き渡る強い南風に吹かれて、五艘は水平線の彼方に消えた。
「我は、この国で交わり、共に生きる人々の思いと生きた証をしっかり紡いで後世に伝えることが出来るだろうか。後世の人々は今を生きる私たち全てが紡いだ糸を一反の織物にしてくれるだろうか」
 そう呟いたミコは、突然に響いた聞き慣れない音に首を傾げ、アダムを眺めた。チェルニーはその曲名に気づいて叫んだ。
「乙女の祈り。アダム、あなたの携帯よ」
 確かに、響くメロディはアダムが携帯の呼び出し曲に使っていたものである。ワクウがいじっていて、知らずに電源を入れていたらしい。
(しかし、この世界で誰から?)
 四人の思いはその点に集中する。ヘレンとチェルニー、ヨゼフの視線は、アダムにさっさと電話に出ろと言うことである。アダムはおもむろに携帯を開いて耳に当てた。
「アダム。今、何処にいる? 仕事が早く終わったんで、君たちに合流しようと思うんだ」
「ジェスール」
 漏れ聞こえてきたのはジェスールの声だが、この一ヶ月のアダムたちの苦労など興味が無さそうで、全く緊張感を感じさせない。チェルニーは携帯電話を奪うように手にして語りかけた。
「ジェスール。貴方、今、何処?」
 のんびりとした返事が返ってきた。
「さっき、夕陽丘で下車して、今、四天王寺にいる。これから動物園に行く予定だ。アダム、君は何処だ。電波の状態が悪い」
 ジェスールの言葉通りなら、彼は視界が開けた場所にいる。にもかかわらず電波か届きにくいのはどういう訳だというのである。何処だと聞かれてもジェスールが納得できる回答をするのは難しい。やむなく目に見える光景を伝えた。
「こちらは海が見えてる」
「海?」
 ジェスールが考え込むような沈黙があって、やがて呆れたような口調で返事があった。
「まさか、動物園行きの電車を乗り間違えて海遊館に着いたなんて言うんじゃないだろうな」
 ジェスールの言い分も分かる。海遊館、大阪湾の海辺にある水族館で、確かにそこに行けば海を眺めることも出来るだろう。しかし、ここには動物園や水族館、通天閣などは無い世界で、ジェスールにどう説明すればいいだろう。
「ちょっと切るぞ。そのまま、そこで待っていてくれ」
「馬鹿。ちょっと、何をするのよ」
 アダムが通話を中断するのを見たチェルニーが、激しく怒り、ヘレンもそれに同意した。せっかく、元の世界の接点が出来そうだったのに、そのつながりを断ち切ってしまったと言うのである。しかし、アダムにも言い分がある。
「電波状態が悪くて通話が切れそうだし、携帯の電池も残り少ないんだ」
 アダムが見せる携帯は確かに電波の状態が悪く電池の残量も少ない。だらだらと無駄な話をすれば、電池に蓄えられた電気はすぐに消耗し尽くすだろう。
「元の世界と通話が出来ると言うことは、この世界の何処かに、僕らが住んでいた世界との通路が開いているって事だ」
「だから、その通路は何処にあるの?」
「可能性が高いのは、僕たちがこの世界に来たのと同じ場所だ」
「この近くだけど、正確に覚えては居ないわよ」
 ミコ一行はそんなアダムたちを、坂の上から不思議そうに眺めていた。アダムが耳に当てていた物が、遠く離れた場所にいる人と話すための通話装置だとは思い至らず、この客人たちが妙な儀式でも始めたのかといぶかったのである。
「ちょっと、待って」
 ヘレンが思いついたように振り返った先にケハヤが居る。
「ケハヤ。あなた、最初に私たちと出会った場所を覚えてる?」
「出会った場所とは?」
「馬鹿ね。貴方が最初に太刀を私に奪われた場所よ」
 ケハヤにとって思い出したくない記憶だろう。あの日に、今、ヘレンが腰にしている太刀を奪われたのである。彼は不機嫌に返事をした。
「覚えている」
「そこに案内して」
「よかろう」
 ケハヤはミコを振り返って同意を得ると、ヘレンの依頼に応じた。アダムたちが案内されたのは港から坂を登り切った場所から北にわずか五十メートルほどの場所である。ケハヤは坂の下を指さして言った。
「あの辺りだ」
「あそこだったの」
 そう言ったチェルニーは視界を遮る松林と遠浅の海辺に広がる芦原に記憶があった。この一ヶ月間、アラハカの寺との往復をしつつ、このあたりだと見当はつけては居たが、ピンポイントで場所を特定したのは初めてだった。指さされた場所は急な坂を下った場所で、寺院や寺院の塔が見えなかったことにも納得がいく。あの日、見たものと見えなかった物が、この高所から眺めると記憶とぴたりと一致した。あの日、彷徨う方向が少し違えば、ケハヤに目撃されることもなく、港を見つけていたはずだ。アダムたちは足早に指さされた場所に下った。
「ほらっ、見ろ。携帯の電波が強くなっている」
「本当。でも、何処にも元の世界は見えないわね」
「近くにあるというのは間違いないわ」
 チェルニーの言葉に、ヘレンは坂の上のケハヤたちに声を張り上げて頼んだ。
「ケハヤ。もっと詳しく教えて」
「最初に霧のようなものが見えて大きく広がった。霧が晴れたときにお前たちが居た。霧が広がり始めたのは、この坂を降りたあの松林の向こうの芦原の辺りだ」
 ケハヤが言葉で伝えきれない微妙な位置を伝えるために馬を降り、歩いて坂を下って近づいてきた。
「俺の馬からこの太い松を眺める方向に歩いて、人の背丈ほどの近さのところだ」
 ケハヤが立つ位置に四人も集まった。ヨゼフが失望のため息をもらした。
「何もない。何も起きないね」
「いや、電波は強くなっている」
 アダムは残る期待感を込めてそう言ったが、ヘレンは断定した。
「でも、帰れないのね」
 チェルニーが左右の手の平を目の前で併せ、祈りの仕草で恨みの矛先をアダムの携帯電話に向けた。
「着信が『乙女の祈り』ですって? 私がこんなに祈ってるのに願いが叶わないなんて」
 ヘレンは苛立ちをチェルニーの言葉に向けて皮肉を言った。
「乙女? 貴女みたいな年増が祈ってるからダメなのよ」
「精神年齢ではね、貴女よりずっと若いつもりよ」
 チェルニーとヘレンは、その言葉に含まれる精神的に若い女という言葉に気づいて坂の上を見上げてノユリの姿を目にした。精神的に若いと言えば、無邪気さを残したマリア、この世界では夫を思うノユリの清純さがそれに当たるのではないかと思ったのである。
 ケハヤはそんなマレビトどもの会話を聞き流しながら、ふとヘレンの腰に目をやった。彼が奪われた太刀である。勝負に負けたと言う事実は受け入れていて、所有権にケチを付ける気はない。ただし、彼女に負けっ放しだという事実で、自尊心を傷つけられてもいる。そのヘレンが手を伸ばせば届く位置に居た。目の前にボールを転がされた子犬の心情と似ていたかも知れない。
「ヘレン、組もう」
 ケハヤはそう言ってヘレンの腕を取って地面に転がった。ヘレンはケハヤの言葉から伝わってくる組み討ちを挑むニュアンスに答えて言った。
「私に勝てるとでも?」
 しかし、過去にヘレンが勝利したのは、いずれもケハヤと距離を置いて、ケハヤの攻撃を受け流しつつ、ケハヤに打撃を与えたもので、今回のように先に腕を捕まれてしまうと、ケハヤの攻撃を避ける術が無く、彼の太い腕で背後から首筋を固められると反撃どころか身動きすら出来ない。
「どうだ? 負けたと言え」
 ヘレンはその敗北の意思表示に、空いた手でケハヤの太ももをぽんぽんと叩いた。ケハヤも意図を察してヘレンの体を離した。
「俺の勝ちだな?」
 ケハヤが念を押す、その笑顔の無邪気さにつられてヘレンも笑い、頷いてケハヤの主張を受け入れた。
「その太刀を所望」
 勝った証拠にヘレンが腰に着けた太刀を寄越せというのである。もともと勝利の証としてケハヤからぶんどった太刀だったし、欲しければ取り戻せば良いだけで、ヘレンに異存はない。ヘレンは腰の太刀をケハヤに渡した。
「ヘレン」
 そう叫ぶヨゼフの声が響いた。彼女が太刀を手放すのとほぼ同時に淡い霧が現れたのである。
「どういう事だ?」
「ヘレンが太刀を手放したとたんに、霧が現れた」
「でも、来たときほど濃くなりそうはないわね」
「来たときの状態を再現しなきゃいけないんじゃ無いだろうか」
「この世界の物を身につけていてはいけないということね?」
 チェルニーが市で手に入れていた首飾りを外し、ヨゼフは腕に巻き付けていた飾り紐を解いて投げ捨てた。すると、確かに霧が濃くなる。
「まだダメだ。来た時と何かが違うのよ」
「来たとき? ぼくらが来たときに、ぼくら以外に、」
「マリアと和ちゃん、それにエイモスが居たんだ」
 坂の上にそのマリアに該当するノユリ、和ちゃんに当たるワクウが居た。しかし……、彼らは気づいた。
「ここには、エイモスが居ないんだ」
 悲痛な声が響いた。居て欲しいと考えても、エイモスに相当するサミュールは亡くなってしまっている。四人は坂の上のノユリとワクウの姿を眺め、この場に欠けている人物の事を考えた。この時、ワクウはくすぐった気に、しかし、何か心地よさそうにその原因を首筋にかかったものに求めて、衣服の下に身につけていた物を取り出した。陽に照らして確認するように掲げた物は、チュラーヤによってサミュールの父からサミュールに、サミュールからワクウに、思いを込めて託されたペンダントである。太陽の光を反射したのか、きらりと輝いた光が、大切な思いを伝えるようにアダムたちに降り注いだ。

 ミコやワクウのいた位置、急な坂の上から眺めると、四人のマレビトは目眩にでも襲われたように地に身をかがめたかと思うと、その周囲を視界を遮る濃い霧が覆い、霧は濃くなって彼らの姿を隠した。間もなく晴れた霧に四人の姿はない。突然に姿を消した者たちを探して辺りを見回すケハヤの姿のみ残っていた。
「無事に帰ったと言うことでしょうか。もっとあの者たちが語る話が聞きとうございました」
 そう尋ねるイモコにミコが言った。
「彼の者たちに、一つ聞き忘れてしまった」
「何を?」
「『和をもって尊しとなし、さからうこと無きをむねとせよ』 彼らが我の考えにどういう感慨を抱くものか尋ねてみたかった」
「では、ミコの決まり事がまとまるのは、まだまだまだ先の話でございますな」
「この国と、子どもたちと共に歩みたいものだ」
 ミコはワクウの頭を撫でた。
  この時、ノユリは何か思いついたようにワクウの傍らにしゃがんで語りかけた。
「ワクウ。母さん、思ったの」
 ワクウは首を傾げた。ノユリは心の中を整理するようにゆっくり語った。
「あなたの首飾りは、ユダヤの人たちがこの国に残した大切なもの。ワクウと同じよ。それから、あの桜の樹は母さんと同じ。この首飾りは父さんのお墓の側の桜の樹の根本に飾りましょう。父さんと、ワクウと、母さんがずっと一緒に居られるように願いを込めて。それから、毎年、花の季節には二人で父さんの事を思い出すの」
 ワクウは黙ったまま母の言葉を聞いていたが、やがて涙がひとしずく流れ出して頬を伝い、手にしたメダルに落ちた。
「ぼくの父さん?」
 ようやく、あの桜の樹の傍らに埋葬された男が、自分の父親だと悟った瞬間だったのかもしれない。