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 その白百合の花の色が涙の幕でぼんやりと滲んだ。
「私が言っているのは何も未来の時代に帰るということだけじゃありません。慶喜さんはいずれは将軍になる人だから。私なんかがいつまでも独り占めできる人じゃないし、しちゃいけないことは判ってます。だから、せめて、慶喜さん、あなたとの想い出が欲しいの」
「ゆう―」
 感に堪えたような彼の声が聞こえた。
「俺は、俺は」
 彼は何度か言おうとして躊躇うということを繰り返した後、漸く言葉にした。
「今まで敢えて自制していたんだ。それはもちろん、初めて男に抱かれるお前が怖がっているということもあった。けれど、それだけじゃない。一度お前をこの手に抱いてしまったら、俺自身が二度と後戻りできなくなる。お前なしでは生きていけなくなると判っていたからだ」
 永遠に思える静寂の後、彼がポツリと言った。
「俺はお前に何の約束もしてやれない。夫婦(めおと)になるとも、一緒に暮らせる日が来るとも、何一つ約束できない。そんな男でも本当に良いのか?」
 考える必要もない。私は即座に頷いた。彼を好きになったときから、覚悟はしていた。それが、生きる時代が違う―百五十年近くも前に生きた男を好きになるということ、いずれ江戸幕府最後の将軍という重責を背負うことになる男に惚れた代償だと判っていた。
 彼が私を見つめる。
 私も彼を見つめる。
 私たちの間に、もう言葉は要らなかった。私たちは淡い闇の中でしばらく見つめ合っていたが、やがて、彼が私をやわらかくその場に押し倒した。
「ゆう、ゆう」
 彼がうわ言のように私の名を呼ぶ。
「慶喜さん、慶喜さん」
 私も彼の名を呼んだ。
 白百合の花の匂いが急に辺りに立ちこめ、私たちを取り巻く宵闇が密度を増したようだった。
 チントンシャン、チントンシャン。
 祇園囃子が遠くなってゆく。私は最愛の彼に身を任せて、ゆっくりと眼を閉じた。


 


 

    【了】


第二話 永遠~最後の将軍に愛された女~

 突如として鋭い鳥の声がしんとした静寂を破った。
 私はその音にわずかに眼をまたたかせ、彼の背中を見やる。だが、彼は身じろぎ一つせず、庭を眺めているだけだ。
 だから、彼が唐突に言葉を発したときは、正直、かなり驚いてしまった。
「緑がきれいだ」
「―」
 私はわずかな空白の後、ゆっくりと頷いた。
「そうですね。緑も、空も」
 彼が振り向いて微笑む。
「そうだ、ここでは、すべてが美しい。そして、穏やかだ」
 私は彼に倣って空に視線を投げた。湖のようにどこまでも涯(はて)なく澄み渡る空、したたるような眩しい緑。ここは本当に世間から隔絶された場所だ。こうして二人だけで静かな空間にいると、あたかも世界は私たちだけしか存在しないような錯覚さえ憶えてしまう。
 彼を愛している私にとっては、それはとても嬉しいことだ。と同時に、今の彼にとってもまた望ましいことではないかと思う。
 もう、彼の―大好きな男が苦しむのは見たくない。
 それでなくても、彼の心は大切な人を失って傷ついているというのに。いや、優しい人だから、秋斉さんだけではない。罪なき大勢の民が幕府の兵士たちが傷つき血を流して死んでいったことで、彼はどれだけ自分を責めていることか。
 彼はもう、十分に傷つき、苦しんだはずだ。誰もが彼を「無能な将軍」、「自分のために戦う幕府軍を見捨てて一人だけ逃げた卑怯者」とあしざまに言う。
 けれど、私だけは知っている。
 これ以上、無用な血を流したくないから、大切な民を戦に巻き込みたくないからこそ、彼が敢えて「卑怯者」の汚名を被って逃げたことを。
―お前だけは生きてくれ。お前が生きながらえることだけが俺の望みだ。
 彼を暗殺しようとした幕府の兵士の前に身を投げだし、彼の身代わりになって死んでいった秋斉さんの遺言を守るために、彼は「退く」という選択肢を選んだ。だが、世間の人々は彼の本心も知らずに彼を腰抜け呼ばわりする。


 私は叫びたかった。
―あなたたちに何が判るの? 
 時代が音を立てて逆巻く激動の時代に、彼はあまりにも重すぎる荷をその背に負うことになった。たとえ、誰が将軍位に就いたとしても、その時代の流れを止めることはできなかっただろう。
 知らず、熱い涙の雫が溢れた。
「何故、慶喜さんばかりを責めるの?」
 溢れてこぼれたのは涙だけではなかった。私の呟きに、慶喜さんはゆっくりと笑んだ。花がゆっくりとほころんでゆくような優しい笑み、私の大好きな笑顔だ。
「ゆう、大切なものを守るためには、時には耐えなければならないこともあるんだよ」
 私は涙を流しながら、だだっ子のように首を振った。
「それでも! 世間の人はあんまりです。まるで、慶喜さんだけが悪者のような言い方をして」
 彼はふわりと、また笑った。
「仕方がないんだよ。俺は現実として、まだ戦っている幕府の兵士たちを大坂に残して、一人で逃げてきた。俺のしたことは確かに卑怯だ。それは間違ってない」
「でも、それは秋斉さんの遺言だったから―」
 彼が覆い被せるように言った。
「それだけじゃない。もちろん、秋斉との約束を守るためでもあるけど、この国を―引いては大切な民を守るためでもあった」
 慶喜さんは静かだけれど、はっきりとした強い意思を感じさせる口調で言う。
「その大切な民の中には、ゆうも含まれているんだよ」
「慶喜さん―」
 私は涙ながらに大好きな男の名を呼んだ。彼の大きな男らしい手のひらがゆっくりと伸ばされ、私の頬をつたう涙を優しくぬぐった。
「戦いに勝つというのは、何も武器を持って相手に挑んでいくことだけではない。わざと引いて相手に勝ちを譲れば、味方の払う犠牲は最小限で済む。そういう穏やかな戦い方もあるということさ」
「それで、本当に良いんですか?」
 私は彼に問いかけた。
 すべての責任と汚名を背負い、たった一人で茨の道を歩こうとしている彼が愛おしかった。
 彼は晴れやかな笑顔で頷いた。
「ああ、俺は本望だ。後世の者は俺のことを何と呼ぶだろうな。不運な時代に生まれた悲劇の将軍、または連綿と続いた幕府を崩壊させた無能な男」
 だが、と、彼は私を真っすぐに見つめた。そのまなざしはどこまでも澄んでいる。かつて幕府軍が朝廷と戦っているときに彼が見せた陰りはもう、微塵も残ってはいなかった。
「だが、それで良いんだ」
「―」
 私は物も言えず、彼を見つめるしかない。彼は穏やかなままざしで私を見つめていた。
「誰かが終わらせなければならなかった。列強諸国は今や、我が国とは比べようもなほど文明が発達している。そんな時代に、幕府など存在する方がおかしいんだ。ただ一人の人間が権力を持っている世の中は矛盾している。俺はそういう矛盾を終わらせたかった。そして、そんな俺の本当の気持ちを知ってくれているのはお前だけで良い」



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