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 彼の視線が私を射貫くように薄い闇の中で煌めいた。その切れ長の美しい双眸の奥で揺らめくは欲望、それとも、恋情?
 私は唇の上で止まったままの彼の手にそっと自分の手のひらを重ねる。
「本当は今夜は祇園祭りに行くつもりでいたの。折角のお祭りだから、慶喜さんと二人で出かけてきなさいって秋成さんも言ってくれたし。でも、ここで慶喜さんの顔を見たら、何も言えなくなって。二人でいる時間がいつまで続くか判らないなら、私はお祭りを見物するよりは慶喜さんと二人だけでいたい」
 不器用な私なりに、一生懸命考えた言葉を繋いで、今の自分の気持ちを一生懸命に伝えた―つもりだった。
 私を見ていた彼の瞳がわずかに眇められた。行灯の火影に浮かび上がった彼の横顔は愕くほど整っていて。こんなときなのに、私は思わずドキリとしてしまう。
 私は無言で、彼の次の言葉を待った。彼の美しい面からはすべての感情が排除されていて、何を考えているのか判らない。元々、自分の感情を表に出さない人ではあるけれど、今夜はいつもにも増してみたいだ。彼を怒られせるようなことを言ってしまったのかと不安になり始めた私に、彼は大きな溜息をついた。
「あまり男を良い気にさせるようなことを無闇に口にするものではないよ、ゆう」
 彼がそっと私を引き寄せる。逞しい両腕にすっぽりと抱き込まれた私を彼は更に強い力で抱きしめた。
「そんな可愛いことを言われると、大抵の男は有頂天になって調子に乗って何をしでかすか判らない。飢えた狼がか弱い兎を頭からがつがつと食べるように、お前も食べられてしまうぞ?」
 私はうつむき、躊躇った末、強い意志を秘めた瞳で彼を見上げた。
「私がこんなことを言うのは慶喜さんだけですから。他の男の人にこんな思わせぶりなことは言いません」
 と、彼が形の良い口の端を笑みの形に引き上げた。
「ホウ、お前は自分が男心をくすぐる台詞を口にしていることは十分に自覚しているんだな?」
 いけない娘(こ)だ、と、彼が小さく呟いた。
「慶喜さん、そろそろ」
 言いかけて、カッと頬に血が上る。流石に女の方から、こんな台詞を言うのは気が引けた。彼に節操もない、はしたない女だと思われ嫌われるのも怖い。けれど、それ以上に、私は彼に恋していた。そう、たとえこれから先、いつ現代に帰ることになったとしても、彼とのたった一夜の想い出をよすがとしていきてゆけるように。
「ん? 何だい」
 いつものように彼が優しい笑みを向ける。私はありったけの勇気をかき集めて、ひと息に行った。
「私を慶喜さんのお嫁さんにして下さい」
 言った後で、カァーと身体中の血が沸騰して顔に集まってくるような恥ずかしさに襲われた。
 彼の端正な顔が一瞬、こわばった。時折、為政者らしい鋭い光を放つその眼(まなこ)が見開かれ、私を射るように見据えている。
「何故、急にそんなことを?」
 彼の鋭い瞳は私の真意を推し量るかのようでもあった。私は恥ずかしさに身も世もない心地で目を伏せた。
「たとえ離ればなれになったとしても、慶喜さんと過ごした夜を宝物にして生きていきたいんです、私」
 彼がハッとした様子が伝わってくる。私は泣きそうになりながら言った。
 部屋の片隅には青磁の壺に活けた大輪の百合の花束が無造作に置かれている。花はどれも大振りで、大人でもひと抱えはありそうな豪華な花束だ。


 その白百合の花の色が涙の幕でぼんやりと滲んだ。
「私が言っているのは何も未来の時代に帰るということだけじゃありません。慶喜さんはいずれは将軍になる人だから。私なんかがいつまでも独り占めできる人じゃないし、しちゃいけないことは判ってます。だから、せめて、慶喜さん、あなたとの想い出が欲しいの」
「ゆう―」
 感に堪えたような彼の声が聞こえた。
「俺は、俺は」
 彼は何度か言おうとして躊躇うということを繰り返した後、漸く言葉にした。
「今まで敢えて自制していたんだ。それはもちろん、初めて男に抱かれるお前が怖がっているということもあった。けれど、それだけじゃない。一度お前をこの手に抱いてしまったら、俺自身が二度と後戻りできなくなる。お前なしでは生きていけなくなると判っていたからだ」
 永遠に思える静寂の後、彼がポツリと言った。
「俺はお前に何の約束もしてやれない。夫婦(めおと)になるとも、一緒に暮らせる日が来るとも、何一つ約束できない。そんな男でも本当に良いのか?」
 考える必要もない。私は即座に頷いた。彼を好きになったときから、覚悟はしていた。それが、生きる時代が違う―百五十年近くも前に生きた男を好きになるということ、いずれ江戸幕府最後の将軍という重責を背負うことになる男に惚れた代償だと判っていた。
 彼が私を見つめる。
 私も彼を見つめる。
 私たちの間に、もう言葉は要らなかった。私たちは淡い闇の中でしばらく見つめ合っていたが、やがて、彼が私をやわらかくその場に押し倒した。
「ゆう、ゆう」
 彼がうわ言のように私の名を呼ぶ。
「慶喜さん、慶喜さん」
 私も彼の名を呼んだ。
 白百合の花の匂いが急に辺りに立ちこめ、私たちを取り巻く宵闇が密度を増したようだった。
 チントンシャン、チントンシャン。
 祇園囃子が遠くなってゆく。私は最愛の彼に身を任せて、ゆっくりと眼を閉じた。


 


 

    【了】


第二話 永遠~最後の将軍に愛された女~

 突如として鋭い鳥の声がしんとした静寂を破った。
 私はその音にわずかに眼をまたたかせ、彼の背中を見やる。だが、彼は身じろぎ一つせず、庭を眺めているだけだ。
 だから、彼が唐突に言葉を発したときは、正直、かなり驚いてしまった。
「緑がきれいだ」
「―」
 私はわずかな空白の後、ゆっくりと頷いた。
「そうですね。緑も、空も」
 彼が振り向いて微笑む。
「そうだ、ここでは、すべてが美しい。そして、穏やかだ」
 私は彼に倣って空に視線を投げた。湖のようにどこまでも涯(はて)なく澄み渡る空、したたるような眩しい緑。ここは本当に世間から隔絶された場所だ。こうして二人だけで静かな空間にいると、あたかも世界は私たちだけしか存在しないような錯覚さえ憶えてしまう。
 彼を愛している私にとっては、それはとても嬉しいことだ。と同時に、今の彼にとってもまた望ましいことではないかと思う。
 もう、彼の―大好きな男が苦しむのは見たくない。
 それでなくても、彼の心は大切な人を失って傷ついているというのに。いや、優しい人だから、秋斉さんだけではない。罪なき大勢の民が幕府の兵士たちが傷つき血を流して死んでいったことで、彼はどれだけ自分を責めていることか。
 彼はもう、十分に傷つき、苦しんだはずだ。誰もが彼を「無能な将軍」、「自分のために戦う幕府軍を見捨てて一人だけ逃げた卑怯者」とあしざまに言う。
 けれど、私だけは知っている。
 これ以上、無用な血を流したくないから、大切な民を戦に巻き込みたくないからこそ、彼が敢えて「卑怯者」の汚名を被って逃げたことを。
―お前だけは生きてくれ。お前が生きながらえることだけが俺の望みだ。
 彼を暗殺しようとした幕府の兵士の前に身を投げだし、彼の身代わりになって死んでいった秋斉さんの遺言を守るために、彼は「退く」という選択肢を選んだ。だが、世間の人々は彼の本心も知らずに彼を腰抜け呼ばわりする。



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